経済学及び課税の諸原理

PRINCIPLES OF POLITICAL ECONOMY AND TAXATION

デイヴィド・リカアドウ David Ricardo

吉田秀夫訳




        訳序

 本書はデイヴィド・リカアドウ David Ricardo の主著『経済学及び課税の諸原理』"Principles of Political Economy and Taxation." の全訳である。
 リカアドウはユダヤ系の英国人である。彼は、一七七三年、富裕な株式仲買人エイブラハム・リカアドウの第三子として生まれ、幼少にして実際的教育をうけた後、勉学のためアムステルダムに送られ二年の後帰英し、ロンドンで一年間学校教育をうけて、よわいわずかに十四才にして父をたすけて実業界に入った。二十一才の時クエイカア教徒の女と結婚し、自らもクリスト教徒に改宗したために、父との間は不和になり、ために彼は父から独立して、一時苦難の時を送ったが、まもなく彼も物質的成功を得ることが出来た。そしてこのことは彼に勉学の余裕を与えることとなった。勉学の対象は初めは自然科学に限られていたが、たまたま妻の病中、バアスにおいて巡囘文庫中のアダム・スミスの『諸国民の富』を見るに及んで、ここに経済学に対する興味を覚えることとなったのである。
 かくて彼れの富が次第に増加し、実業界における彼れの地位がますます重きをなすに至るとともに、また彼れの経済学研究が進むにつれ、彼はまず通貨及び銀行に関する諸論文をもって論壇に登場し、次いでナポレオン戦争にともなう穀物関税に関する論争には一八一五年に『低い穀物価格』を書いて参加し、穀物保護貿易論者たるマルサスの所見を痛烈に批判した。一八一七年の『経済学及び課税の諸原理』の第一版は、以上の諸論の総決算たるものである。
 一八一九年には彼はポオトアーリントンから代議士に選出された。それ以後彼れの諸論文は主として彼れの議会生活と関係あるものであるが、一八二二年の『農業保護について』だけは他と趣を異にし、彼に他の一切の著作なくともこれのみにても彼は一流の経済学者たり得るとマカロックが評したほどの、傑出した独立論文である。
 リカアドウは、一言もっていうならば、古典派経済学の完成者である。古典派経済学は、ブルジョア的埒内において最高の発展をとげた経済学であり、ウィリアム・ペティ及びボアギュイベールにはじまって、リカアドウ及びシスモンディをもって終るものである。この派の経済学は二つの段階を経て発展している。すなわちその前期はマニュファクチュア期のそれであり、その後期は機械工場制期のそれであって前者を代表するものがアダム・スミスであり、後者を代表するものがリカアドウである。かくの如くにリカアドウは、古典派経済学の最後の最高の総括的発展者であるため、この派経済学の根本的基礎理論たる労働価値論は、彼においてそのブルジョア的埒内において許される限りの発展をしたのであるが、同時にまたブルジョア的生産の矛盾はこの学派の固有の歴史的限界に制限されて、生産方法そのものの矛盾としてではなく、理論的構造内部における解決しがたい矛盾として顕現していることが、彼れの体系にとって特徴的となっている。このことは、例えば本書巻頭における労働価値論における平均利潤の問題――またはいわゆる価値と生産価格との矛盾の問題――に最もよく露呈している。しかもそれにかかわらず、彼がこの問題を黙殺して進まずこれが解決に正面から取組んだこと、更にまた本書の第三版に至って改めて『機械について』の諸問題を真剣に取りあげたことは、その歴史的限界性にもかかわらず、彼れの偉大さをよく物語るものといわなければならない。彼れの全理論が後にマルクスによって最も正しい意味において発展的に止揚されたことは、人のよく知るところである。
 本訳書は、底本をその第三版にとり、更にゴナア教授の傍註をもたぶんにとり入れ、その上にかなりの訳者註を加えて、出来上ったものである。私はかつて昭和七年に本書を同じく春秋社から出版したことがある。当時すでに本書については、堀經夫博士及び小泉信三博士による二種の訳本が行われていた。前者は正確、後者は流暢、いずれも好個の訳本である。それにもかかわらず私が当時本書を更に訳出したのは、それが『世界大思想全集』の一巻として包含されており、従って先覚二著の学者的訳書に比して学生用として普及の機会が多かろうと考えたからである。従って飜訳の態度は、どこまでも学生用参考書を作るということを第一義とした。今度再建春秋社が改めて古典経済書の一つとして本書の出版を企図されたについて、私はやはり学生用参考書としての本書の必要を感じ、同じく学生大衆用普及版を作る目的をもって、改めて全巻に亙って厳密に改訳の筆をとると共に、また戦後の傾向として用語の現代化をはかることとした。その結果意外の労を払わなければならなかったが、かくしてとにかく出来上ったのが本書である。
 かくて本書は普及を中心とする大衆版であるが、さればといって本書は過度の読み易さを追求すべき性質の内容のものではない。もともと内容は経済学の理論であるから読物的な軽さを欠いているのであるが、これに加えてリカアドウは決していわゆる名文家ではない。この意味では彼は論敵マルサスの闊達な文調にまさに百歩を譲るものである。時に彼は英語にそれほど練達ではなかったとさえ評されているくらいである。更に、こうした理由よりもよりいっそう、訳者の不敏にして、本書はなお大衆的普及版としては排除すべき生硬さが多々あることと思われる。これらの点は、読者諸賢の叱正を得て、適当な機会に訂正をしたいと思う。
 なお本書のなるについて春秋社の瀬藤及び鷲尾の両氏、ならびに高橋君の配慮と助力とを得たこと多大なるものがある。記して感謝の語としたい。
   一九四八年二月
大久保にて
訳者
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      原著者序言

 土地の生産物――すなわち地表から、労働、機械、及び資本の結合使用によって、得られるすべてのものは、社会の三階級の間に、すなわち土地の所有者、その耕作に必要な蓄財すなわち資本の所有者、及びその勤労によってこれを耕作する労働者の間に、分たれる。
 しかし、社会の異なる諸階級においては、地代、利潤、及び労賃の名の下に、これらの諸階級の各々に割当てられるであろう所の土地の全生産物の比例は、全く異るであろうが、それは主として、土壌の現実の肥沃度に、資本の蓄積や人口に、そして農業において用いられる熟練や創意や器具に、依存するのである。
 この分配を左右する諸法則を決定することが、経済学における主要問題である。この科学は、テュルゴオ、スチュワアト、スミス、セイ、シスモンディ、及び他の人々の著作によって、大いに進歩してはきているけれども、それらは、地代、利潤、及び労賃の自然的径路に関する満足なる叙述は、ほとんど与えていないのである。
 一八一五年に、マルサス氏は、その『地代の性質及び増進に関する研究』において、またオクスフォド・ユニヴァシティ・カレヂ一校友は、その『土地への資本投下に関する試論』において、ほとんど同時に、地代に関する真実の学説を世に提供したが、この知識なくしては、富の増進が利潤及び労賃に及ぼす結果を理解し、または租税が社会の種々なる階級に及ぼす影響を十分に追究することは、不可能である。それは、課税された貨物が、地表から直接に得られた生産物である場合には、特にそうである。アダム・スミス、その他前述の有能な学者は、地代に関する諸原理を正しく観察しなかったため、思うに、地代の問題が徹底的に理解された後においてのみ発見され得る所の、多くの重要な真理を、看過してしまったようである。
 この欠陥を補うには、本著者の有するよりも遥かに優れた諸能力が必要である。しかしながら、この問題に対しその全力を費した後に、――上記の優れた諸学者の著作から援助を得て後に、――そして、豊富な事実を有つ最近の数年が現代人に与えた価値多き経験を得て後に、利潤及び労賃の諸法則、並びに租税の作用に関する、著者の意見を述べることは、思うに彼において僣越であるとは考えられないであろう。もし著者が正しいと考える諸原理が、事実正しいものであることが見出されるならば、それを追究してあらゆるその重要な帰結を明かならしめることは、著者自身よりもより有能な他の人々のなすべきことであろう。
 著者は、一般に受容されている所見を反駁するに当って、著者がその理由あって所見を異にする所のアダム・スミスの著書中の章句により詳細に論及するの必要なることを、見出した。しかし著者は、その故をもって、経済学なる科学の重要なるを認めるすべての人と共通に、この有名な学者の深遠な著作が正当に喚起する賞讃に参与するものではない、と疑われないであろうことを、希望する。
 同じことが、セイ氏の優秀な著作に当てはめ得ようが、彼はただに、大陸の諸学者中で、スミスの諸原理を正当に評価しかつこれを適用した最初の人、または最初の人々の一人であり、かつその啓蒙的にして有益な体系の諸原理を、ヨオロッパ諸国民に推奨するに、他の大陸の諸学者を全部合せたよりもなす所多かったのみならず、更にまたこの学問をより論理的なかつより教導的な順序に置くことに成功し、そして、独創的な正確なかつ深遠な二三の討論によって、斯学を富ましめたのである(註)。しかしながら、著者がこの紳士の著作に対して懐く尊敬は、著者が学問の利益のために必要であると考える自由をもって、著者自身の見解と異る所の『経済学』中の諸章句に対し批評を加えることを妨げなかったのである。
(註)第十五章、第一部、『市場論』は、特に、この優れた学者によってはじめて説明されたものと信ずる所の、二三の極めて重要な諸原理を含んでいる。

      第三版に対する原著者の注意

 本版においては、私は前版におけるよりも、価値に関する困難な題目についての私の所見を、いっそう十分に説明せんと努力し、そしてその目的のために、第一章に二三の附加をなした。私はまた、機械の問題につき、またその改良が国家の各種の階級の利害に及ぼす諸結果についての、新しい一章を挿入した。価値と富との特性に関する章においては、私はこの重大な問題に関するセイ氏の学説――その著書の最終第四版において修正されたもの――を検討した。最終の章において私は、その農法の改良により、国内においてその穀物を生産するに必要な労働量が減少するか、または、その製造貨物の輸出により、外国からより低廉な価格でその穀物の一部分を取得するかの結果として、たとえその貨物総量の全貨幣価値は下落するとしても、一国は附加的貨幣租税を支払う能力があるという学説をいっそう有力なる見地からして、打ち立てようと努力した。この考察は極めて重要であるが、それはけだしこの考察は、特に、莫大な国債の結果たる、重い固定貨幣租税を負担している国において、外国穀物の輸入を無制限のままに放置する政策の問題に、関係するからである。私は、租税支払能力は、大量の貨物の総貨幣価値にも、また資本家及び地主の収入の総貨幣価値にも、依存するものではなくして、各人が通常消費する貨物の貨幣価値と比較しての彼れの収入の貨幣価値に依存するものであることを、示さんと努めたのである。
     一八二一年三月二十六日
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        目次

 訳序
 原著者序言
 第三版に対する原著者の注意
第一章 価値について
第一節
(一)価値なる語の曖昧さ。使用上の価値と交換上の価値
(二)価値を有する物品における効用の必然的存在
(三)分量上の価値の原因。稀少性従って大抵の場合において労働
(四)稀少性
(五)(六)生産費及び交換価値の根拠としての労働。このことはスミスによって裏書きさる
(七)しかしながら彼は後に、穀物及びそれ自身交換される物品たる労働その他の価値標準を樹立している
(八)穀物に関しての誤謬。それはそれ自身多くの原因よりして可変的である
(九)労働もまた可変的である
(一〇)それに関するスミスの誤謬
(一一)このことを更に例証す
(一二)あらゆる物の真実価値は、その生産に、または労働それ自身の場合にはその維持に、必要な労働量によって評価さるべきである
第二節
(一三)労働は疑いもなく種類を異にするけれども、かかる種類の相違はまもなく調整され引続き永久的なものとなるから、前掲の法則はくつがえされない
第三節
(一四)更にすべての企業においては資本が必要であり、従って貨物に直接に適用される労働がその価値に影響を及ぼすのみならず、更に最終工程を便ならしめるための為めの器具を準備するために用いられる労働もまたかする
(一五)このことは、貨物はその生産に投ぜられた各々の労働量によって交換されるという法則に、影響を及ぼさない。労働とは直接的なものと間接的なものとであると考えなければならない
(一六)このことは、不変的価値標準があるならばそれによって証明されるであろう
第四節
(一七)貨物はその生産に費された各々の労働量によって交換されるという法則は、次によって修正される
(一八)イ、かかる労働が直接でありまたは間接である相対的程度、すなわち機械その他の耐久的資本の比例的分量の相違、若干の貨物はそれによって、労働の価値の騰落により、他のもの以上に影響を蒙るから
第五節
(一九)ロ、資本の耐久力の不等
    ハ、生産に用いられる時間の比較的不等
(二〇)以上の要約
第六節
(二一)不変的価値尺度。その存在とその使用に必要な条件
第七節
(二二)貨幣はかかる不変的標準ではない
(二三)その価値の変動より起る相違
第二章 地代について
(二四)地代の性質及び定義。それに対し地代が支払われるもの
(二五)歴史的起源。存在原因、それは種々なる耕地によって産出される収穫の相違から生ずる
(二六)またはむしろ種々なる資本投下分に対しなされる収穫の相違から生ずる
(二七)交換価値は、存在する事情の内最も有利なそれの下において費された労働量によってではなく、最も不利なそれの下において費された労働量によって、決定される
(二八)地代の存在は農業の有利なことを証明するものではない
(二九)地代は富の増加の結果であって原因ではない
(三〇)地代全額は生産物に対する需要の減少によって減少する
(三一)同じことは、土壌の肥沃度の増加、またはその耕作様式の改良、によってもたらされる
第三章 鉱山の地代について
(三二)鉱山の経済的地代は、土地の地代を支配すると同一の法則によって決定される。従って貴金属の価値は地代の存在によって影響を蒙らない
第四章 自然価格及び市場価格について
(三三)市場価格はしばしば貨物の自然価格から変動する。かかる変動は資本の投資を左右する
(三四)異る職業における率のある相違はこれらの各々の職業における真実のまたは想像上の便益の存在によって説明される
第五章 労賃について
(三五)労働の自然(名目)価格は必要貨物の価格に依存する
(三六)労働の市場価格
(三七)市場価格は資本の蓄積によって自然価格以上に騰貴し、自然価格自身は必要貨物の価格騰貴または愉楽の標準の変動によって騰貴する
(三八)資本の増加と労働の増加との関係
(三九)資本の増加率の減少は、貨物によって現わされる労賃の市場率の下落を惹起ひきおこさないであろう、もっとも貨幣労賃は、耕作の進行につれて必要貨物の価格が騰貴しなければならぬから、騰貴しなければならないが
(四〇)このことは金が外国から輸入されるという事実によって影響を蒙らない。労賃の騰貴は価格の騰貴を惹起さない
(四一)救貧法の悪影響
第六章 利潤について
(四二)必要品の価格の変動は製造業者の利潤に影響を及ぼすが、製造品の価格には影響を及ぼさないであろう
(四三)その結果をかくの如く考えれば、その永久的結果は
(四四)利潤下落の傾向。ある最低限が蓄積を奨励するに必要である
(四五)より以上の考察
第七章 外国貿易について
(四六)外国貿易による市場の拡張は、価値を増加せしめず、「利潤率」に影響を及ぼさない
(四七)しかしながら異る国において生産された貨物は、一国から他国へ生産要素を移動せしめ得ないために、生産費によっては交換されない。各国は最大の便益を有つ貨物を生産している
(四八)このことは貨幣の介入によって変更を受けない。外国貿易によって貨幣は種々なる国の間にその必要に応じて分配される
(四九)手形の使用
(五〇)交換に参加する二国中の一国における産業の進歩の結果
(五一)種々なる国における貨幣価値の変動を惹起している他の原因
(五二)貨幣の価格及び価値のかかる変化は利潤には何らの影響をも及ぼさないであろう
    価格の地方的変化の二つの主たる原因――鉱山からの距離及び産業上の地位
(五三)為替相場の変化
第八章 租税について
(五四)租税は資本か収入かから支払われねばならぬ
(五五)後者からのその徴収を奨励するのが正しい政策である。このことは、一、死亡に関する税において、二、財産の移転に対する租税において、無視されている。しかのみならず、この後者は最も有利な産業の分配を害する
第九章 粗生生産物に対する租税
(五六)粗生生産物に対する租税は消費者の負担する所となる、けだしそれは土地の場合において耕作の限界に影響を及ぼすから
(五七)それに加うるにまたその結果として、問題の粗生生産物は労働者の消費に入り込むものと仮定されているから、それは労働の労賃を騰貴せしめかつ利潤を下落せしめる傾向がある。このことの結果として四つの反対論がかかる租税に対して主張されている
(五八)イ、固定的所得を享受している者は影響を受けない。これを反駁す
(五九)ロ、労賃は必要品の価格騰貴に単に徐々として随伴するに過ぎない。その結果として貧窮。このことを、価格騰貴が、一、供給の不足、二、需要の増加、三、貨幣価値の下落、四、必要品に対する租税、によって惹起されるものとして考察す
(六〇)ハ、蓄積が阻害される
(六一)ニ、外国の競争の場合における不利益
第十章 地代に対する租税
(六二)地代に対する租税は地代と同様に価格に影響を及ぼさない
(六三)しかし地代として支払われているものは二つの部分、すなわち地代そのものと支出に対する利潤とからなる。従って地代として支払われているものは価格に影響を及ぼし得よう
第十一章 十分一税
(六四)十分一税は消費者の負担する所となる
(六五)しかしそれは、外国からの輸入に対する奨励金の性質を有っているから、地主にとって不利である
第十二章 地租
(六六)地代と共に変動する地租は地代に対する租税であり、従って価格に影響を及ぼさない
(六七)しかし固定的地租は価格に影響を及ぼし、かつ最悪の土地を耕作している者にとり不公平であり、そして結局消費者の負担する所となる。従ってそれは労賃利潤間の関係に影響を及ぼし得よう。
(六八)しかしながら土地及び生産物に対するすべての租税は、供給需要間の関係を変更するから、生産を阻害する。アダム・スミス及びジー・ベー・セイの意見
第十三章 金に対する租税
(六九)金はそれに租税が課せられたからといって価格において急速に騰貴する傾きはない、けだし第一に、金の存在量は単に徐々として減少され得るに過ぎぬから
(七〇)第二に、金に対する需要は、ある確定量に対するというよりはむしろある交換能力に対するのであるから
(七一)従ってある事情の下においては租税が金に課せられてしかも何人によっても支払われないことがあり得よう。スペインの場合
第十四章 家屋に対する租税
(七二)同様に家屋に対する租税は、家屋数が急速に減少され得ないために、地主の負担する傾向となる
(七三)建築物家賃と敷地地代としての地代の分別
第十五章 利潤に対する租税
(七四)利潤に対する租税は、価格に影響を及ぼして、消費者の負担する所となるであろう。従って利潤に対する一般的租税は、貨幣価値が変動しない限り、価格の一般的騰貴を意味するであろう
(七五)しかしながらこの騰貴は、固定資本または流動資本への資本の分割され方の相違によって、すべての場合においては同一ででないであろう。英蘭イングランド銀行兌換停止条例に関する、このことからしての結論
(七六)利潤に対する租税が地主階級に与える格別の影響
(七七)消費者としての株主に対するそれ
(七八)利潤に対する租税による物価の影響され方
第十六章 労賃に対する租税
(七九)労賃に対する租税は、労賃の「名目」率の存在する故に、利潤の負担する所となるであろう。この率はアダム・スミスによって主張されたが、ビウキャナンによって反対された、後者は次のことを否定する
(八〇)第一、貨幣労賃は食物の価格によって左右されるということ
(八一)第二、租税は労働の価格を騰貴せしめるであろうということ
(八二)かかる租税は結局、アダム・スミスの考えるが如くに消費者の負担する所とはならず、利潤の負担する所とならなければならぬ
(八三)彼れの結論が正確であるとしても、それは彼れの想像している如くに外国貿易におけるその国の力を破壊しはしないであろう
(八四)必要品及び労賃の課税に関する彼れの見解を更に検討す
(八五)課税の一般的影響
第十七章 粗生生産物以外の貨物に対する租税
(八六)貨物に対する租税はかかる貨物の価格を騰貴せしめる。もしすべての貨物が課税されるなら、貨幣が依然課税されずかつその供給が変動しないというだけの条件で、すべての価格は騰貴するであろう
(八七)生産的企業に対する課税の影響に関する枝話。債務の利子に対し課せられた課税は、一人から他のもう一人へのある富の移転に過ぎない
(八八)貨物が独占価格にある時には、それに課せられた課税は、価格に影響を及ぼさず地代に影響を及ぼすであろう
(八九)しかしながら粗生生産物に関しては事情はこれと異る。スミス、ビウキャナン、及びセイのこの点に関する理論を、特に麦芽に対する租税の問題に関聯して考察す
第十八章 救貧税
(九〇)救貧税の負担は異るであろう。すべての利潤に対する租税の場合には労働の雇傭者によって負担される。特別に農業利潤に対する租税である場合には消費者によって負担される。地代に対する場合には地主によって負担される
(九一)かかる救貧税は通常製造業よりも農業のより重く負担する所となるという事実によって、それは全部労働の雇傭者によって支払われることなく、一部分価格騰貴を通じて消費者によって支払われるであろう
第十九章 貿易路の急変について
(九二)急変が特定産業に及ぼす影響
(九三)国民の繁栄について。二つの結果の相違。国民は常に結局利得する。産業は永久的にすら害されるかもしれぬ
(九四)戦争終結時の英国におけるが如き、農業の特殊の場合
第二十章 価値及び富、両者の特性
(九五) 価値と富との本質的相違、前者は生産の困難な点に依存し、後者はその便宜に依存す
(九六) 従って価値の標準は富の標準ではない。かくて富は価値に依存しない
(九七) 一国の富は二つの方法で増加され得よう、一、国の労働能力の増加により、従って生産された貨物の量と共にその全価値の増加によって、二、新しい生産の便宜によって、従ってこれは必ずしも価値の増加を伴わない
(九八) 不幸にして価値と富との区別は余りにもしばしば無視されている。特にセイによって
第二十一章 利潤及び利子に及ぼす蓄積の影響
(九九)労賃騰貴のある永久的原因がない限り、いかなる資本蓄積も永久的に利潤を下落せしめないであろう
(一〇〇)生産とは需要の物質的表現である
(一〇一)外国貿易への資本の利用は、国内で用いられて利潤を齎し得る資本額に絶対的限界のあることを示すものではない。しかしながらかかる使用は利潤がより大であると期待されるから起るのである
(一〇二)利潤と利子との関係
(一〇三)利子率は、他の原因による一時的変動を蒙るとはいえ、終局的かつ永久的には、利潤の作用によって支配される
第二十二章 輸出奨励金及び輸入禁止
(一〇四)輸出奨励金は国内市場において必ずしも価格を(永久的に)変動せしめるものではない。生産の増加の結果より不利な条件の下に耕作をなすに至る時を除けば、穀物に対する奨励金についてはこれは事実である
(一〇五)アダム・スミスの第一の誤謬、穀物の貨幣価格の騰貴は生産の増加に導くものと信じている
(一〇六)第二の誤謬、穀物の貨幣価格がすべての他の貨物の価格を左右するという命題
(一〇七)第三の誤謬、奨励金の結果は貨幣価値の永久的低落を惹起すとす
(一〇八)第四の誤謬、農業者及び地方紳士は穀物の輸出奨励金によって利益は受けず他方製造業者はその生産品の輸出奨励金によって利益を受けるとす。さて製造業者及び農業者は同一の地位にありかつ利益を受けない。地方紳士は地代が存在するために利益を受けるであろう
(一〇九)問題全部をビウキャナン及びセイの意見に関聯して更に論ず
第二十三章 生産奨励金について
(一一〇)孤立国における穀物の生産奨励金を支払うべき基金が製造貨物に対し課せられた課税によって徴収される時における、その奨励金の影響。かかる事情の下においては資本の分配には何らの直接的変動も起らないであろう
(一一一)労働の労賃及び雇傭資本家に対する影響
(一一二)その生産に必要な労働量の変化を通じての穀物の価値の変動によって資本家の地位に齎される影響と、課税または奨励金の理由によるその価値の変動によるそれとの相違
(一一三)穀物等に対する租税によって賄われた基金より支払われる所の製造業に対する奨励金の影響――第一の場合の反対
第二十四章 土地の地代に関するアダム・スミスの学説
(一一四)穀物を生産している土地は常に地代を産出しなければならぬというアダム・スミスの見解を批判し否定す
(一一五)これと反対に穀物を生産している土地の地代はスミスが鉱山地代が決定されるとなしている仕方で決定されることが主張されている、もっとも双方の場合においてリカアドウは、価格は用いられている最も肥沃ならざる資源よりの生産によって左右されるという事実に注意を惹いているが
(一一六)従って地主の利益は、スミスの見解とは反対に、土地の生産力の増加によって害され得よう
(一一七)地主の利益は常に消費者のそれと対立す。スミスは低い貨幣価値と高い穀物価値とを弁別していない
第二十五章 植民地貿易について
(一一八)アダム・スミスのなしたる如くに自由貿易の不変的利益を主張するのは正しい
(一一九)しかし植民地に課せられた禁止は母国を大いに利するであろう
(一二〇)相互に貿易しているある二国の貿易に課せられた禁止というより一般的な場合によってこのことを例証す
(一二一)高い利潤は価格に影響を及ぼさないということ
第二十六章 総収入及び純収入について
(一二二)一国の力は、その力が富またはそれから租税が支払われる基金に依存する限り、純所得に依存し総所得には依存しない。アダム・スミスはこのことを理解しない
(一二三)内国商業及び外国貿易の各々の利益についてスミスに更に誤れる点。一方が他方より有利であるということはない
第二十七章 通貨及び銀行について
(一二四)貨幣鋳造を左右すべき諸原則。量に依存する価値
(一二五)紙幣
(一二六)発行過剰を妨げる必要
(一二七)紙幣を一定の条件の下に金と兌換し得るものたらしめることによって、金属貨幣に代えて紙幣を用いる利益
(一二八)それは政府によって発行せらるべし
(一二九)これに関する種々なる意見
(一三〇)単本位または複本位の使用
第二十八章 富国及び貧国における、金、穀物及び労働の比較価値について
(一三一)アダム・スミスの主張する如くに、穀物で測られた金は、富国においては、高い価値よりはむしろ低い価値を有つ
(一三二)繁栄せる国が衰える時には、穀物で測られた金等の価値はその結果として騰貴するものではない
(一三三)金は必ずしも鉱山を所有する国において価値がより低いわけではない
第二十九章 生産者によって支払われる租税
(一三四)製造業における後期よりもむしろ初期の租税の支払に関する二つの誤謬の訂正
     イ、消費者は、彼れの租税支払期を遅延せしめ得ることによって、前払に対する利子の支払を補償される
(一三五)ロ、もし一〇%が課せられるならば、それは一年につき一〇%であり、各転嫁につきそうであるのではないであろう
第三十章 需要及び供給の価格に及ぼす影響について
(一三六)需要及び供給は価格を決定するとは言い得ない、次のことが顧慮されざる限り
(一三七)イ、貨幣の変動
(一三八)ロ、生産費の規制的影響
第三十一章 機械について
(一三九)一見したところ機械の導入は、生産に従事する種々なる階級に、単にそれが産業路に変化を惹起す限りにおいてのみ、影響を及ぼすように思われる
(一四〇)しかし労働に対する直接の需要は、流動資本より固定資本への資本の変化によって、著しく減少するであろう
(一四一)この減少はおそらく救治されるであろう、もっともそれは必ずしも直ちにではない
(一四二)労働の利益は、更に、流動資本の用い方の相違によって、著しく影響を被るであろう
(一四三)しかしながら機械の導入は一般に徐々として起るであろうから、有害な結果は予見する必要はない
第三十二章 地代についてのマルサス氏の意見
(一四四)地代を取扱うにあたってのマルサスの誤謬。第一の誤謬、地代をもって富の創造なりと考う
(一四五)マルサス氏の地代の三原則
(一四六)第二の誤謬、地代は土地の肥沃度によるとす
(一四七)第三の誤謬、労賃の下落は地代の一原因なりとす
(一四八)第四の誤謬、肥沃度の増加は地代の増加に導き、その反対も真なり、とす
(一四九)穀物と関聯しての「真実価格」なる語のマルサスによる矛盾せる使用
(一五〇)穀価の下落は必ずしもすべての他の貨物の価格の下落を齎すものではないこと
(一五一)公債所有者の地位を取扱うにあたって、マルサスは前述の如くこの原理を無視している

(訳者註)項への分類、及びその名称は、ゴナア教授のほどこせるものである。

〔目次―完〕
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    第一章 価値について

第一節 一貨物の価値、すなわちそれと交換されるある他の貨物の分量は、その生産に必要な労働の相対的分量に依存し、その労働に対して支払われる報酬の多少に依存しない。

(一)アダム・スミスは次の如く述べている、『価値という言葉は、二つの異った意味をっており、ある時にはある特定物の効用を言い表わし、またある時にはその物の所有がもたらす所の他の財貨を購買する力を言い表わす。前者は使用上の価値、後者は交換上の価値と呼ばれ得るであろう。』彼は続けて言う、『最大の使用上の価値を有つ物が、しばしば、ほとんどまたは全く交換上の価値を有たず、また反対に、最大の交換上の価値を有つものが、ほとんどまたは全く使用上の価値を有たない。』(訳者註)水や空気は極めて有用であり、それらは実に生存に不可欠のものであるが、しかも普通の事情の下では、これらと交換して何物も得ることは出来ない。反対に金は、空気や水と比較すればいくらも有用ではないが、多量の他の財貨と交換されるであろう。
(訳者註)アダム・スミス著『諸国民の富』キャナン版、第一巻、三〇頁。
(二)しからば効用は、交換価値にとって絶対的に不可欠ではあるが、その尺度ではない。もし一貨物がどうしても役に立たないならば、――換言すれば、もしそれがどうしても吾々の満足に貢献し得ないならば、――いかにそれが稀少であろうとも、またどれだけの労働の分量がそれを獲得するに必要であろうとも、それは交換価値を欠くであろう。
(三)効用を有つならば、諸貨物は、次の二つの源泉からその交換価値を得る、すなわちその稀少性からと、それを獲得するに必要な労働の分量からとである。
(四)その価値がその稀少性のみによって決定される若干の貨物がある。いかなる労働もかかる財貨の分量を増加することを得ず、従ってその価値は供給の増加によって低下せしめられ得ない。珍しいある彫像や絵画、稀少な書籍や貨幣、極めて狭い範囲の、特別な土壌で栽培される葡萄からのみ造られ得るに過ぎない、特殊な性質を有つ葡萄酒の如きは、すべてこの種のものである。それらのものの価値は、それを生産するに最初必要とした労働の分量とは全く無関係であり、そしてそれを所有せんと欲する者の富と嗜好との変化するにつれて変化するのである。
 しかしながらこれらの貨物は、市場において日々交換される貨物の総量の中、極めて小なる部分をなすにすぎない。欲望の対象物たる財貨の遥かに最大の部分は、労働によって得られるのであり、そして、もし吾々が、それを獲得するに必要な労働を投ずる気になりさえするならば、ただに一国においてのみならず更にまた多くの国において、ほとんど限りなく増加せられ得よう。
(五)しからば、貨物について、その交換価値について、かつその相対価格を左右する所の法則について、語る際には、吾々は常に、人間の勤労の発揮によって分量を増加することが出来、かつその生産には競争が制限なく働く如き貨物のみを意味するのである。
(六)社会の初期においては、これらの貨物の交換価値、すなわち一貨物のどれだけが他の貨物と交換せられるであろうかを決定する規則は、ほとんど全く、各貨物に費された比較的労働量に依存するのである。
 アダム・スミスは曰く、『あらゆる物の真実価格、すなわちあらゆる物がそれを獲得せんと欲する者に真に値するのは、それを獲得するの骨折と煩苦とである。あらゆる物が、それを獲得し、かつそれを処分せんと、すなわちそれを他の何物かと交換せんと欲している者に、真に値する所は、それが彼自身をしてこれから免れしめることが出来、かつこれを他人に課することが出来る所の、骨折と煩苦とである。』(訳者註)『労働は、すべてのものに対して支払われた所の、最初の価格――本来的の購買貨幣であった。』(訳者註)また曰く、『資本の蓄積及び土地の占有の両者に先だつ所の、社会初期の未開状態においては、種々なる物を獲得するに必要な労働の分量の比例が、それらを相互に交換するための何らかの規則を与えることの出来る唯一の事情であるように思われる。例えば、もし狩猟民族の間で通例一匹の海狸を殺すには、一匹の鹿を殺す労働の二倍を要するとすれば、一匹の海狸は当然に二匹の鹿と交換せらるべきであり、換言すれば、二匹に等しい価がある。通例二日の、または二時間の労働の生産物たるものは、通例一日の、または一時間の労働の生産物たるものの二倍に価する、というのは当然である。』(註)
(訳者註)『諸国民の富』キャナン版、第一巻、三二頁。
(註)第一篇、第五章(これは誤りである。正しくは第六章。この句は、キャナン版、同上、四九頁――訳者註)。
 人間の勤労によって増加し得ないものを除けば、これが真にすべての物の交換価値の基礎であるということは、経済学における最も重要な一学説である、けだし、価値なる語に附せられた曖昧な観念から生ずるほどの、かくも多くの誤謬と、かくも多くの所見の相違が起る源泉は、他にないからである。
 もし、貨物に実現された労働の分量が、その交換価値を左右するとするならば、労働の分量のあらゆる増加は、それに労働が加えられる貨物の価値を増加せしめなければならず、またそのあらゆる減少はそれを下落せしめなければならない。
(七)かくも正確に交換価値の源泉を定義し、そして論理を一貫させるためには、すべての物はその生産に投ぜられた労働の多いか少いかに比例してその価値が多くなるか少くなると主張すべきであったアダム・スミスは、彼自身もう一つの価値の標準尺度を立て、そして物は、この標準尺度の多くまたは少くと交換されるに比例して、価値が多くまたは少いと言っている。時に彼は標準尺度として穀物を挙げ、また他の時には労働を挙げている。そしてここに労働というのは、ある物の生産に投ぜられた労働の分量ではなくて、市場においてそれが支配し得る労働の分量なのである。すなわちこれらは同一事の異る二つの表現であるかの如くに、そして、人の労働の能率が二倍になり、従って一貨物の二倍の分量を生産し得るの故をもって、必然的にそれと交換して以前の分量の二倍を受取るであろう、というように言っている。
 もしこれが実際真実であり、すなわちもし労働者の報酬が常に彼の生産した所に比例するならば、一貨物に投ぜられた労働の分量と、その貨物が購買する労働の分量とは等しく、そしてそのいずれも他の物の変動を正確に測るであろう、しかしこの両者は等しくない、前者は多くの事情の下において、他の物の変動を正確に示す不変の尺度であるが、後者はそれと比較される貨物と同じく多くの変動を被るものである。アダム・スミスは最も巧妙に、他の物の価値の変動を決定するためには、金や銀の如き可変的媒介物が不十分なことを、示した後に、彼自身穀物または労働に定めることによって、それらにも劣らず可変的な媒介物を選んだのである。
(八)金や銀は、疑いもなく、新しいかつより豊富な鉱山の発見によって変動を被る。しかし、かかる発見は稀であり、かつその結果は、有力ではあるが、比較的短い期間に限られている。それもまた、鉱山採掘の熟練及び機械の進歩からも変動を被るが、それはけだしかかる進歩の結果、同一労働でより多くの分量が得られるであろうからである。それはまた更にそれが長年の間世界に供給をなした後に、鉱山の生産額が減少しつつあるということからも変動を被る。しかしこれらの変動の諸原因中のいずれから穀物は免れているであろうか? 一方において、それは農業の進歩により、耕作に使用される機械器具の進歩により、並びに、他国において耕作せらるべく、かつ輸入の自由なすべての市場における穀物の価値に影響を及ぼすべき所の肥沃な新地の発見によって、変動しないであろうか? 他方において、それは輸入禁止により、人口と富との増加により、及び劣等地の耕作が必要とする労働量増加によっての供給増加の困難の増大によって、価値の騰貴を被らないであろうか?
(九)労働の価値も等しく可変的ではないか、啻に他のすべての物と同じく、社会の状態のあらゆる変化につれて必ず変動する所の、需要と供給との間の比例によって影響を受けるばかりでなく、更にまた労働の労賃がそれに費される所の、食物その他の必要品の価格の変動によって、影響を受けて?
 同一国において、ある時に、食物及び必要品の一定量を生産するために、他の離れた時に必要なそれの二倍の労働量が必要とされるかもしれない、しかも労働者の報酬は、おそらくほとんど減少しないであろう。もし以前の労働の労賃が食物及び必要品の一定量であるとすれば、彼はおそらくその分量が減少されたならば、生存し得なかったであろう。食物及び必要品はこの場合、その生産に必要な労働の分量によって評価するならば、一〇〇%騰貴しているはずであるが、しかるにこれらの物と交換される労働の分量によって測るならば、それはほとんど価値が増加していないはずである。
 同じことが二つ以上の国についても言い得よう。アメリカやポウランドにおいては、最後に耕作された土地において、一定数の人間の一年の労働は、英国において同じ事情の下に在る土地におけるよりも、遥かにより多くの穀物を生産するであろう。さて、すべての他の必要品が、それらの三国において同様に低廉であると想像するならば、労働者に報酬として与えられる穀物の分量は、各国において生産の難易に比例するであろうと結論するのは、大なる誤りではないであろうか?
 もし労働者の靴や衣服が、機械の進歩によって、今日その生産に必要な労働の四分の一で生産され得るに至るならば、それはおそらく七五%下落するであろう。しかし、労働者がそれによって、一着または一足の代りに永久に四着の上衣または四足の靴を消費し得るに至るであろう、ということは決して真実でないから、おそらく、彼の労働は近いうちに、競争の及び人口に対する刺戟の結果によって、その労賃の費される必要品の新価値に適合せしめられるであろう。もしかかる改良が労働者の消費するすべての物にまで及ぶならば、吾々は、それらの貨物の交換価値が、その製造においてかかる改良が行われなかったあらゆる他の貨物に比較して、極めて著しい低落を受けたにもかかわらず、またそれが極めて著しく減少した労働量の生産物であるにもかかわらず、おそらく数年ならずして労働者は、たとえ増加したとしてもわずかしか増加しなかった享楽品を所有しているに過ぎないことを、見出すであろう。
(一〇)しからばアダム・[#「・」は底本では欠落]スミスと共に、『労働は時により多くの、また時により少い財貨を、購買し得るであろうから、変化するのは財貨の価値であり、財貨を購買する所の労働の価値ではない、』(訳者註)したがって『それのみがそれ自身の価値において決して変化しないものである所の労働が、それによってすべての貨物の価値が、すべての時及び処において評価されかつ比較され得る所の、窮極のかつ真実の標準である。』(訳者註)と言うのは、正しくない、――しかし、アダム・スミスが前に言った如くに、『種々なる物を獲得するに必要な労働の分量の比例が、それらを相互に交換するための何らかの規則を与えることが出来る唯一の事情であるように思われる、』換言すれば、貨物の現在または過去の相対価値を決定するものは、労働が生産するであろう所の貨物の比較的分量であって、労働者にその労働と交換して与えられる貨物の比較的分量でないと言うのは、正しいのである。
(訳者註)『諸国民の富』キャナン版、同上、三五頁。
(一一)(編者註)もし現在及びあらゆる時においてそれを生産するために正確に同一の労働を必要とするある一貨物が見出され得るならば、その貨物は不変的価値を有つものであり、そして他の物の変動を測り得る標準として極めて有用であろう。かかる財貨については吾々は何ら知る所なく、従ってある価値標準を定めることは出来ない。しかしながら、吾々が貨物の相対価値の変動の諸原因を知り得るために、またそれらの原因が作用する如く思われる程度を算定し得るに至らんがために、価値標準の本質は何であるかを確かめるのは、正しい理論を得るために、極めて有用なことである。
(編者註)第一版及び第二版にあったこの章句は、第三版から除かれた。ここではそれを旧に復しておく。
(一二)二つの貨物が相対価値において変動する、そして吾々は、そのいずれに変動が実際起ったのであるか、を知りたいと思う。もし吾々がその一方の現在の価値を、靴、靴下、帽子、鉄、砂糖、その他すべての貨物と比較するならば、吾々は、それがすべてのこれらの物の正確に以前と同一の分量と交換されるであろうことを見出す。もし吾々がその他方を同一の諸貨物と比較するならば、吾々は、それがこれらのすべての財貨に対する関係において変動しているのを見出す、かくて吾々は、たぶんの蓋然性をもって、変化はこの後の貨物にあったのであり、それと吾々が比較した諸貨物にあったのではないということを、推断し得るであろう。もしこれらの種々なる貨物の生産に関連せるすべての事情をより詳細に検討して、靴、靴下、帽子、鉄、砂糖等の生産は正確に同一量の労働及び資本が必要であるが、しかしその相対価値が変動した一個の貨物の生産には、以前と同一量の労働が必要ではないことを吾々が見出すならば、蓋然性は確実性に変じ、そして吾々は変動はこの一個の貨物にあることを確知し、かくてその変化の原因をもまた発見するのである。
 もし私が、一オンスの金が、上掲のすべての貨物及びその他の多くの貨物のより少い分量と交換されることを見出し、更にもし私が、新しいより肥沃な鉱山の発見により、または機械の極めて有利な使用によって、一定量の金がより少い労働量によって獲得され得ることを、見出すならば、他の貨物に比較して金の価値の変動の原因は、その生産がより便利となったこと、すなわちそれを獲得するに必要な労働の分量の減少である、と正当に言い得るはずである。同様に、もし労働があらゆる他の物に比較して価値において大いに下落し、そしてもしその下落が、労働者の穀物及びその他の必要品の生産が大いに便利になったことによって助勢された豊富な供給の結果であることを見出すならば、思うに私が、穀物及び必要品はその生産に必要な労働の分量が減少した結果価値において下落したのであり、かつかくの如く労働者を養うための資料の供給が容易になったことが、続いて労働の価値における下落を伴ったのであると言うのは、私としては正確であろう。否、とアダム・スミスやマルサス氏は言う、金の場合にはその変動をその価値の下落と呼ぶのは正当であったろう、けだしこの際穀物及び労働は変動しなかったからである。そして金は、これらのもの並びにすべての他の物の以前よりもより少い分量を支配するであろうから、すべての物は静止しており、金のみが変動したというのも正しかった。しかし吾々が価値の標準尺度たるものとして選んだ所の穀物及び労働が下落した時は、それらが蒙ることを吾々が認める所のすべての変動にもかかわらず、かくの如く言うのは極めて不当である。正しい言葉としては、穀物及び労働は静止しており、そして他のすべてのものは価値において騰貴したと、言うべきであろう、と。
 さて、私が抗議するのはこの言葉に対してである。金の場合におけるが如く、穀物と他の物との間の変動の原因は、正しく、穀物を生産するに必要な労働の分量の減少であることを、私は発見する、従ってあらゆる正当な推理によって、私は、穀物及び労働の変動をもってそれらの価値における下落と呼び、そしてそれらが比較される物の価値における騰貴ではないと言わざるを得ない。もし私が一週間の間、一人の労働者を雇わねばならず、そして私が彼に十シリングではなく八シリング支払うとしても、貨幣の価値に何らの変動も起らなければ、この労働はおそらくその八シリングをもって彼が前に十シリングで得たよりもより多くの食物及び必要品を獲得し得よう。しかしこれは、アダム・スミスによって述べられ、更に近くはマルサス氏によって述べられた如く、彼れの労賃の真実価値における騰貴によるものではなく、彼れの労賃が費される物の価値における下落によるのであり、この二つは全く異なるのである。しかもなお私がこれをもって労賃の真実価値の下落と呼ぶのに対し、経済学の真実の原理と相容れない所の新しいかつ異常の言葉を用いるものといわれている。私にとっては異常なそして実に矛盾した言葉とは、私の反対論者によって使用されているものこそそれであるように思われる。
 穀物が一クヲタア八〇シリングの時、一労働者が一週間の仕事に対し穀物一ブッシェルの支払を受け、かつ価格が四〇シリングに下落した時、彼が一ブッシェル四分の一の支払を受けるとせよ。更に、彼は、彼自身の家庭内において一週間に半ブッシェルの穀物を消費し、その残りを、燃料、石鹸、蝋燭、茶、砂糖、塩、等々のごとき他の物と交換するとせよ。もし後の場合に彼れの手許に残るべき四分の三ブッシェルが、前の場合に半ブッシェルが彼に齎したと同じだけの上記の貨物を齎し得なければ、――それは実際齎さないであろうが――労働は価値において騰貴したのであろうか、または下落したのであろうか? 騰貴した、とアダム・スミスは言わなければならぬ、けだし彼れの標準は穀物であり、そして労働は一週間の労働に対してより多くの穀物を受取るからである。下落した、とこの同じアダム・スミスは言わなければならぬ、『けだし一物の価値は、その物の所有が齎す所の、他の財貨を購買する力に依存し、』そして労働はかかる他の財貨を購買するよりわずかな力しか有っていないからである。

第二節 異る質の労働は異った報酬を受ける。このことは貨物の相対価値における変動の原因ではない。

(一三)しかしながら労働をもってすべての価値の基礎であると論じ、かつ労働の相対的分量をもってほとんど全く貨物の相対価値を決定するものであると論ずるに当って、私は、労働の異る質を、また一つの事業における一時間または一日の労働を他の事業における同時間の労働と比較する困難を、考慮に入れぬものと考えられてはならない。異る質の労働の評価は、すべての実際的目的のためには十分正確に、市場において速かに調整され、そして労働者の比較的熟練、及びなされたる労働の強度に依存するものである。この準尺は、一度形成されれば、ほとんど変化を蒙らない。もし宝石工の一日の労働が、普通労働者の一日の労働よりも価値がより大であるならば、それは久しい以前から調整されているのであり、価値の準尺における適当の位置に置かれているのである(註)。
(註)『しかし、労働がすべての貨物の交換価値の真実の尺度であるとはいえ、それらの貨物の価値が普通これによって測られるのではない。二つの異る労働量の間の比例を確めることはしばしば困難である。二つの異る種類の仕事に費された時間は、単独では、常にこの比例を決定するものとはきまらないであろう。忍ばれた困難や発揮された才能の異れる諸程度が、同様に斟酌されなければならない。二時間の容易な仕事によりも、一時間の困難な仕事に、より多くの労働があるかもしれない。あるいは通常の誰も知っている事業における一月の勤労に従事するよりも、それを習得するに十年の労働を要する職業に一時間従事する方に、より多くの労働があるかもしれない。しかし、困難にしろ才能にしろ、それの正確な尺度を見出すことは容易ではない。実際異る種類の労働の異る生産物を相互に交換する際には、ある酌量が普通両者に対してなされている。しかしながらそれは正確な尺度によって調整されているのではなくて、正確ではないが、日常生活の仕事を行うに十分であるという種類の、大ざっぱな平等に従って、市場の駈引によって調節されているのである。』――『諸国民の富』第一篇、第十章(これは誤りである。正しくは第五章である。――訳者註)
 従って、異る時期に同一の貨物の価値を比較する際には、その特定貨物の生産に要した労働の比較的熟練及び強度についての考慮は、ほとんど必要がない、けだし労働は両方の時期において同様に作用しているからである。ある時におけるある種類の労働が、他の時における同じ種類の労働に比較されているのである。もし十分の一、五分の一、または四分の一が附加されまたは減少されたならば、この原因に比例せる結果がその貨物の相対価値の上に生み出されるであろう。
 もし今毛織布一片がリンネル二片の価値に等しく、そしてもし十年後に毛織布一片の通常の価値がリンネル四片に等しくなるとするならば、吾々は毛織布を作るにより多くの労働が必要であるか、またはリンネルを作るに労働がより少くて足るか、または両方の原因が作用した、のいずれかである、と安全に結論し得るであろう。
 私が読者の注意をひこうと欲する研究は、貨物の相対価値における変動の結果に関するものであって、その絶対価値におけるそれに関するものではないから、種々なる種類の人間労働の評価されるその比較的程度を検討することはさして重要ではないであろう。吾々は、種々なる種類の労働の間に本来いかなる不平等があろうと、またある種の手先の技術を習得するに必要な才能、熟練、または時間が、他の種のもの以上にどれだけであろうと、それは一時代より次の時代に引続きほとんど同様であるか、または少くともその変動は、年々に亙って、極めて小なるものであり、従って短期間内では、貨物の相対価値に対しほとんど影響を及ぼし得ないものであると、正当に結論し得るであろう。『労働及び資本の種々なる用途における労賃及び利潤の両者の種々なる率の比例は、既に述べた如くに、社会の貧富、社会の進歩的、停止的、または退歩的状態によって、多くの影響を蒙るものではないように思われる。公共の福祉のかかる変革は、労賃及び利潤の両者の一般率には影響を及ぼすけれども、結局はすべての異れる職業において両者の率に一様に影響しなければならない。従ってそれらの間の比例は引続き同一でなければならず、そして少くともあるかなりの長期間に亙ってかかる変革によってよく変更され得ないものである。』(註)
(註)『諸国民の富』第一篇、第十章(キャナン版、一四四頁――訳者註)

第三節 啻に貨物に直接に加えられた労働がその価値に影響を及ぼすばかりでなく、かかる労働を補助する所の、器具、道具、及び建物に投ぜられた労働もまた、そうである。

(一四)アダム・スミスが述べている初期の状態においてすら、狩猟者をしてその鳥獣を殺すことを得しめるためには、おそらく彼自身によって作られかつ蓄積されたものであろうとはいえ、ある資本が必要であろう。ある武器がなければ、海狸も鹿も殺され得なかったであろう、従ってこれらの動物の価値は、それを殺すに必要な時間と労働とだけによってではなく、狩猟者の資本、すなわちその助力によってそれを殺す所の武器を、作るに必要な時間と労働とによってもまた、左右されるであろう。
 海狸を殺すに必要な武器は、それに近づくことが鹿に近づくよりもより困難であり、従って標準がより正確であることが必要であるために、鹿を殺すに必要な武器よりも遥かにより多くの労働をもって作られたと仮定せよ。一匹の海狸は当然に二頭の鹿よりも価値がより多いであろう。そしてそれはまさに全体としてより以上の労働がそれを殺すために必要であるという理由の故である。または両方の武器を作るに同一の分量の労働が必要であるが、しかし両者は非常に耐久力が異ると仮定せよ。耐久的な器具からはその価値のわずか一小部分が貨物に移転されるであろうが、より耐久的ならざる器具からは、それがその生産に寄与する所の貨物に、その価値の遥かにより大なる一部分が実現されるであろう。
 海狸及び鹿を殺すに必要なすべての器具は一階級の人々に属し、そしてそれを殺すために用いられる労働は他の階級によって提供されることもあろう。しかも両者の比較価格は、資本の形成と動物の捕殺との両者に投ぜられた現実の労働に比例するであろう。資本が労働に比して豊富でありまたは稀少であるという、事情の異る場合においては、人間の生活に欠くべからざる食物及び必要品が豊富でありまたは稀少であるという事情の異れる場合においては、同一の価値の資本を一つのまたは他の事業に提供した者は、取得された生産物の半分、四分の一、または八分の一を得、残りは労賃として労働を提供した者に支払われるであろう、しかしこの分割は、これらの貨物の相対価値には少しも影響を及ぼし得ないであろうが、それはけだし資本の利潤が多かろうと少かろうと、それが五〇%であろうと、二〇%であろうと、一〇%であろうと、または労働の労賃が高かろうと低かろうと、これらは両方の事業に一様に作用するであろうからである。
(一五)もし吾々が、社会の職業の範囲が拡張し、ある者は漁撈に必要な独木舟及び船具を作り、また他の者は種子及び始めて農業に用いられる粗末な機械を作ると仮定しても、しかもなお生産された貨物の交換価値は、その生産に――啻にその直接の生産にばかりではなく、更に器具または機械がそれに用いられる特定労働を有効ならしめるに必要なすべての器具または機械の生産に――投ぜられた労働に比例するであろう、という同一の原理は依然真実であろう。
 たとえ吾々が、より以上の進歩がなされ、かつ技術と商業の繁栄せる社会状態を見ても、吾々はなお、貨物がこの原理に従って価値において変動するのを見出すであろう。すなわち例えば、靴下の交換価値を測るに当って、吾々は、他の物と比較してのその価値が、それを製造しかつそれを市場に齎すに必要な全労働量に依存することを見出すであろう。第一に、原棉が栽培される土地の耕作に必要な労働がある。第二に、靴下が製造されるべき国に綿を運搬する労働があるが、それは綿を運搬する船舶の建造に投ぜられた労働の一部分を含み、そしてそれはこの財の運賃に算入されている。第三に、紡績工及び機械工の労働がある。第四に、その生産を助ける建物及び機械を作った所の機械工、鍛冶屋、及び大工の労働の一部分がある。第五に、小売商人その他これ以上特記する必要のない多くの者の労働がある。これら種々なる種類の労働の総額が、これらの靴下と交換せらるべき他の物の分量を決定するのである。他方投ぜられた種々なる分量の労働に関する同一の考察が、同様に、靴下に対し与えらるべきそれらのものの分量を支配するであろう。
 これが交換価値の真の基礎であることを確信するために、製造された靴下が他の物と交換されるために市場に来るまでに、原棉が通過しなければならぬ種々なる行程のいずれか一つにおいて、労働を節約する手段中においてある改良がなされたと仮定し、そしてそれに随伴する諸結果を観察しよう。もし原棉を栽培するに必要な人間が減少するか、または航海に従事する船員、または原棉をわが国に運搬する船舶を建造する造船工が減少するならば、またもし建物及び機械を作るに人手が減少するか、またはそれが作られた時に能率を増加せしめられたならば、靴下は必然的に価値において下落し、従ってより少量の他の物を支配するであろう。それが下落するのは、けだしより少量の労働がその生産に必要であり、従ってかかる労働の節約のなされなかった物のより少い分量と交換されるからである。
 労働の使用を節約すれば、その節約が貨物そのものの製造に必要な労働で行われようと、またはその生産を援助する資本の形成に必要な労働で行われようと、必ず貨物の相対価値は下落する。いずれの場合においても靴下の製造に直接必要な人々たる漂白工、紡績工及び機械工として用いられる者が減少したにしろ、またはより間接に関係している人々たる船員、運搬夫、機械工、及び鍛冶工として用いられるものが減少したにしろ、靴下の価格は下落するであろう。一方の場合には一部分のみに靴下が帰属し、残りはその生産のために建物、機械、及び車輛が役立つ所の、すべての他の貨物に帰するであろう。
 社会の初期の段階において、狩猟者の弓及び矢と漁夫の独木舟及び器具は共に同一の分量の労働の生産物であって、等しい価値を有ち等しい耐久力を有つものと仮定せよ。かかる事情の下においては、狩猟者の一日の労働の生産物たる鹿の価値は、漁夫の一日の労働の生産物たる魚の価値と、正確に等しいであろう。魚と獣との比較価値は、生産物の量がどれだけであろうと、または一般的労賃または利潤が高かろうと低かろうと、全然その各々に実現された労働の分量によって左右されるのである。もし例えば、漁夫の独木舟及び器具は一〇〇ポンドの価値があり、そして十年間保つと計算され、かつ彼は十名の人を雇い、これらの人々の一年間の労働は一〇〇ポンドであり、また彼らは一日にその労働によって二十匹の鮭を得るとすれば、またもし狩猟家が使用する武器もまた一〇〇ポンドの価値があり、そして十年間保つと計算され、かつ彼もまた十名の人を雇い、これらの人々の一年間の労働は一〇〇ポンドであり、また彼らは一日に彼に十頭の鹿を獲得するとすれば、一頭の鹿の自然価格は、全生産物がそれを獲得した人々に与えられる比例は大であろうと小であろうと、それには関係なく、二匹の鮭であろう。労賃として支払われる比例は利潤の問題においては最も重要なものである、けだし労賃が低いか高いかに比例して、利潤は高くまたは低いであろうということは、直ちに判るべきことであるからである。しかし労賃は同時に高くも低くもあるであろうから、それは決して魚及び獣の相対価値に影響を及ぼし得ないであろう。もし狩猟者が労賃として、彼れの獲物の大部分をまたはその大部分の価値[#「価値」は底本では「値値」]を、支払うという口実をもって、彼れの獲物と交換してより多くの魚を与えるように漁夫に誘うならば、漁夫は、彼も等しく同一の原因によって影響を蒙ったと述べるであろう。従って労賃及び利潤の変動がどうあろうと、資本蓄積の結果がどうあろうと、彼ら各々一日の労働によって同一量の魚と同一量の獣を捕獲し続けている限り、自然的交換率は、鹿一頭対鮭二匹である。
 もし同一量の労働をもってより少い分量の魚またはより多い分量の獣が捕獲されるならば、魚の価値は獣のそれに比較して騰貴するであろう。もし反対に、同一量の労働をもってより少い分量の獣またはより多い分量の魚が捕獲されるならば、獣は魚に比較して騰貴するであろう。
(一六)もしその価値が不変なある他の貨物があるとするならば、吾々は、魚及び獣の価値をこの貨物と比較することによって、この変動のうちどれだけが魚の価値に影響を及ぼせる原因に帰せらるべく、またそのうちどれだけが獣の価値に影響を及ぼせる原因に帰せらるべきかを、確かめ得るであろう。
 貨幣がかかる貨物であると仮定しよう。もし一匹の鮭が一ポンドに値し、一頭の鹿が二ポンドに値するならば、一頭の鹿は二匹の鮭に値するであろう。しかし鹿を捕獲するにより多くの労働が必要になり、または鮭を得るにより少い労働が必要になり、あるいはまたこれらの原因が同時に作用したために、一頭の鹿が三匹の鮭の価値を有つようになることもあろう。もし吾々がこの不変的標準を有つならば、吾々は容易に、これの諸原因のいずれがいかなる程度に作用したかを確め得るであろう。もし鹿が三ポンドに騰貴したのに鮭が引続き一ポンドで売れるならば、吾々は、鹿を捕獲するのにより多くの労働が必要になったのである、と結論し得よう。もし鹿は二ポンドという同一の価格を続け、そして鮭は十三シリング四ペンスで売れたならば、吾々は、鮭を得るのにより少い労働で足るものと確信し得よう。またもし鹿は二ポンド一〇シリングに騰貴し、鮭は一六シリング八ペンスに下落したならば、吾々は、これらの貨物の相対価値の変動を生ずるに両方の原因が働いたものと信ずるであろう。
 労働の労賃におけるいかなる変動も、これらの貨物の相対価値の変動を生み出し得ないであろう、けだし、それが騰貴したと仮定しても、これらの職業のいずれにおいてもより大なる労働量が必要になったのではなく、労働がより高い価格で支払を受けるのに過ぎず、そして狩猟者及び漁夫をしてその獣及び魚の価値を引上げんと努力せしめると同一の理由が、鉱山の所有者をしてその金の価値を引上げようとさせるであろうから。かかる誘引はすべてのこれら三つの職業において同一の力をもって働き、そしてそれに従事する者の相対的地位は、労賃の騰貴の前と後とで同一であるから獣と魚と金との相対価値は引続き変らないであろう。労賃は二〇%騰貴し、利潤はその結果それ以上または以下の割合で下落するであろうが、これらの貨物の相対価値には少しも変動が起らないのである。
 さて、同一の労働と固定資本とをもって生産し得る魚は増加するが、しかし金または獣は増加しないと仮定するならば、魚の相対価値は金または獣に比較して下落するであろう。もし、二十匹の鮭ではなく二十五匹が一日の労働の生産物であるならば、一匹の鮭の価格は一ポンドではなく十六シリングとなり、そして、二匹の鮭ではなくて二匹半の鮭が一頭の鹿と交換して与えられるであろうが、しかし鹿の価格は以前と同様に引続き二ポンドであろう。同様に同一の資本及び労働をもって獲得し得る魚が減少するならば、魚は比較価値において騰貴するであろう。かくて魚は、その一定量を得るのにより多くのまたはより少い労働が必要とされるという理由のみによって、交換価値において騰落するであろう。そしてそれは、必要な労働量の増加または減少の比例以上には決して騰落し得ないであろう。
 かくてもし吾々がそれによって他の貨物における変動を測り得る不変の標準を有っているとするならば、貨物が、仮定にあるような事情の下において生産されるとした時に、それらの貨物が永続的に騰貴し得る最高限度は、その生産に必要とされる附加的労働量に比例し、かつより以上の労働がその生産に必要とされない限り、それはいかなる程度にも騰貴し得ないことを、見出すであろう。労賃の騰貴は、貨物を、貨幣価値においても、またその生産に何らの附加的労働量を必要とせず、かつ同一比例の固定資本及び流動資本を、また同一耐久力の固定資本を、使用した所の、ある他の貨物との比較においても、その価値を騰貴せしめないであろう。もし他の貨物の生産により多くのまたはより少い労働が必要とされるならば、吾々の既に述べた如く、このことは直ちにその相対価値に変動を惹起すであろうが、しかしかかる変動は必要労働量の変動によるものであって、労賃の騰貴によるものではないのである。

第四節 貨物の生産に投ぜられた労働の分量がその相対価値を左右するという原理は、機械その他の固定的かつ耐久的な資本の使用によって著しく修正される。

(一七)前節においては、吾々は、鹿及び鮭を殺すに必要な器具及び武器の耐久力は等しく、かつ同一労働量の結果であると仮定し、そして鹿及び鮭の相対価値における変動は、一にそれを獲得するに必要な労働量の変動に依存するものであることを見た、――しかし社会のあらゆる状態においては、種々なる事業に用いられる道具や器具や建物や機械は、耐久力の程度を異にし、そしてそれを生産するに種々異った労働量を必要とするであろう。労働を支持すべき資本と、道具や機械や建物に投下される資本との比例もまた、種々異って組合わされるであろう。固定資本の耐久度におけるかかる相違、及び二種類の資本が組合わされる比例のこの差異は、貨物の生産に必要な労働量の大小ということの他に、その相対価値を変動せしめる他の一原因を導入する、――この原因とは[#「は」は底本では欠落]労働の価値における騰貴及び下落である。
 労働者によって消費される食物及び衣服、その中で彼が働く建物、彼れの労働を助ける器具は、すべて、消耗すべき性質を有っている。しかしながらこれらの種々なる資本がもちこたえる時間には莫大な差異がある、すなわち蒸気機関は船舶よりも、船舶は労働者の衣服よりも、労働者の衣服は彼が消費する食物よりも、より長く保つであろう。
 資本が速かに消耗ししばしば再生産される必要があるか、またはゆっくりと消費されるものであるかによって、それは流動資本または固定資本の部類に種別される(註)。高価な耐久的な建物や機械を有つ醸造業者は多量の固定資本を使用するといわれる。反対に、その資本が主として労賃の支払に用いられ、その労賃は建物及び機械よりもより消耗的な貨物たる食物及び衣服に費される所の、製靴業者は、その資本の大部分を流動資本として使用するといわれている。
(註)本質的ではなく、かつ境界線を正確に引き得ない所の、区別である。
 流動資本は、極めて時を異にして循環すること、すなわちその使用者に囘収されるということもまた、観察されるべきである。播種のために農業者が購入した小麦は、パンを焼くためにパン焼業者が買い入れた小麦に対しては、比較的に固定資本である。一方はそれを地中に遺し、一年の間は何らの報酬も獲得し得ないが、他方は麦粉に挽かせパンとしてそれをその顧客に売り、そして彼は一週間の後には、同一の事を繰返すか、またはある他の仕事を始めるために、彼の資本を解放し得るのである。
 かくて、二つの事業が同一量の資本を使用するかもしれぬが、しかし固定した部分と流動する部分とについては極めて種々に異って分割されもしよう。
 一つの事業においては極めてわずかな資本が流動資本として、換言すれば労働を支持するために、用いられるにすぎず――すなわち資本は主として機械、器具、建物等に、すなわち比較的に固定的かつ耐久的な性質の資本に投ぜられるであろう。他の事業においては、同一量の資本が用いられるであろうが、しかしそれは主として労働の支持に用いられ、そして極めてわずかが、器具、機械、及び建物に投ぜられるであろう。労働の労賃の騰貴がかかる異った事情の下において生産される貨物に対して及ぼす影響は、異らざるを得ない。
 更に、二人の製造業者が同一量の固定資本と同一量の流動資本とを用いるが、しかし彼らの固定資本の耐久力は極めて不等であることがあろう。一方は一〇、〇〇〇ポンドの価値の蒸気機関を有ち、他方は同じ価値の船舶を有つこともあろう。
 もし人々が生産に何ら機械を用いずただ労働のみを用い、そしてその貨物を市場に齎すまでにすべて同一時間を要するとすれば、彼らの財貨の交換価値は用いられた労働の分量に正確に比例するであろう。
 もし彼らが同一の価値を有ちかつ同一の耐久力を有つ固定資本を使用するならば、その時にもまた、生産された貨物の価値は同一であり、そしてそれはその生産に使用された労働量の大小に応じて変動するであろう。
(一八)しかしたとえ、同様の事情の下において生産された貨物は、その一または他を生産するに必要な労働の分量の増加または減少を除くいかなる原因によっても、相互に対して変動しないであろうとはいえ、しかも同一の比例の量の固定資本をもって生産されない所の他のものに比較するならば、たとえそのいずれの貨物の生産に必要な労働量には増減がなくとも、私が先きに述べた他の原因、すなわち労働の価値の騰貴によってもまた変動するであろう。大麦及び燕麦は労賃がいかに変動するとも、相互に引続き同一の関係を維持するであろう。綿製品及び毛織布も、それがもし相互に正確に同様な事情の下において生産されるならば、前の場合と同様であろう、しかしながら労賃の騰貴または下落と共に、大麦は綿製品に比較して、また燕麦は毛織布に比較して、価値がより多くもまたはより少くもなるであろう。
 二人の人が各々百名の人間を二台の機械の建造に一年間用い、そしてもう一人の人が同一数の人間を穀物の耕作に用いると仮定すれば、各々の機械は、その年の終りに、穀物と同一の価値を有つであろうが、それは、それらが各々同一の労働量によって生産されるであろうからである。この機械の一つの所有者が、翌年、百名の人間の助力によって、それを毛織布の製造に使用し、そしてもう一つの機械を所有する人もまた、同様に百名の人間の助力によって、彼れの機械を綿製品の製造に使用し、他方農業者は引続き以前と同様に百名の人間を穀物の耕作に雇っていると仮定せよ。第二年目中に、彼らはすべて同一の分量の労働を使用するであろう。しかし、毛織物業者並びにまた綿織物業者の有する財貨と機械との合計は、二百名の人間を一年間使用した労働の結果であり、またはむしろ百名の人々の二年間の労働の結果であろう。しかるに穀物は百名の人間の一年間の労働によって生産されるであろう、従ってもし穀物が五〇〇ポンドの価値であるとすれば、毛織物業者の機械と毛織布との合計は一、〇〇〇ポンドの価値でなければならず、そして綿織物業者の機械と綿製品もまた、穀物の価値の二倍でなければならない。しかしながらこれらのものは穀物の価値の二倍以上であろう、何故なれば、第一年目の毛織物業者及び綿織物業者の資本に対する利潤がその資本に附加されているが、しかるに農業者の利潤は費消されかつ享楽されてしまっているからである。かくして彼らの資本の耐久力の程度の異るがために、または同じことであるが、一群の貨物が市場に齎され得るまでに経過すべき時間のために、それらの価値は、正確にそれに投ぜられた労働の分量に比例しないであろう――すなわちそれらは二対一ではなく、最も価値の多いものが市場に齎され得るまでに経過しなければならぬより長い時間を償うために、幾らかそれよりもより多くなるであろう。
 各労働者の労働に対し一年に五〇ポンドが支払われ、または五、〇〇〇ポンドの資本が使用され、そして利潤は一〇%であるとすれば、機械の各々並びに穀物の価値は、第一年目の終りに、五、五〇〇ポンドであろう。第二年目には、製造業者及び農業者は再び各々労働を支持するために五、〇〇〇ポンドを用い、従って再び彼らの財貨を五、五〇〇ポンドで売るであろうが、しかし機械を用いる者は、農業者と均衡を保つためには、啻に労働に使用された五、〇〇〇ポンドなる同額の資本に対して五、五〇〇ポンドを得なければならぬばかりでなく、更に機械に投ぜられた五、五〇〇ポンドに対する利潤として、より以上に五五〇ポンドの額を得なければならず、従って彼らの財貨は六、〇五〇ポンドで売れなければならない。しからばここに、年々彼らの貨物の生産に正確に同一の分量の労働を使用する資本家達があるが、しかも彼らの生産する財貨の価値は、その各々によって用いられる固定資本すなわち蓄積労働の分量の異るために、異っているのである。毛織布と綿製品との価値は同一であるが、それはこれらが同一の分量の労働と同一の分量の固定資本との生産物であるからである。しかし穀物の価値はこれらの貨物と同一ではないが、それは固定資本に関する限りにおいて、異る事情の下で生産されるからである。
 しかし、それらの相対価値は、いかにして労働の価値における騰貴によって影響を蒙るであろうか? 毛織布及び綿製品の相対価値が何らの変化をも蒙らないであろうことは明かである、けだし仮定された事情の下においては、一方に影響を及ぼすものは他方にも等しく影響を及ぼさなければならぬからである。小麦及び大麦の相対価値もまた何らの変化も蒙らないであろう、けだしそれらは、固定資本及び流動資本の関係する限りにおいて同一の事情の下で生産されるからである。しかし毛織布または綿製品に対するその相対価値は、労働の騰貴によって変更されなければならない。
 利潤の下落なくしては、労働の価値における騰貴はあり得ない。もし穀物が農業者と労働者との間に分たるべきであるとするならば、後者に与えられる割合が大きければ大きいほど、前者に残る所はわずかであろう。同様に、もし毛織布または綿製品が労働者とその雇傭者との間に分たれるとするならば、前者に与えられる比例が大きければ大きいほど、後者に残る所はわずかである。そこで労賃の騰貴により利潤が一〇%から九%に下落すると仮定すれば、製造業者は、その固定資本に対する利潤として、その財貨の共通の価格に(すなわち五、五〇〇ポンドに)五五ポンドを附加せずに、その額に九%すなわち四九五ポンドしか附加せず、従って価格は六、〇五〇ポンドではなくて五、九九五ポンドとなるであろう。穀物は引続き五、五〇〇ポンドで売れるであろうから、より以上の固定資本が使用された製造財貨は、穀物またはその他のより少い分量の固定資本が入込んでいる財貨に比較して、下落するであろう。労働の騰落による財貨の相対価値の変動の程度は、固定資本が使用された全資本に対して有つ比例に依存するであろう。極めて高価な機械により、または極めて高価な建物の中で、生産される所の、またはそれが市場に齎され得るまでに長い時間を必要とする所の、すべての貨物は、相対価値において下落するであろうが、しかるに、主として労働によって生産され、または速かに市場に齎されるであろう所の、すべてのものは、相対価値において騰貴するであろう。
 しかしながら、読者は、貨物のこの変動原因は、その結果において比較的軽微であることを注意すべきである。利潤において一%の下落を惹起す如き労賃の騰貴があれば、私が仮定した事情の下で生産された財貨の相対価値は、わずか一%だけ変動する。それは利潤のかかる大下落があるのに、六、〇五〇ポンドから五、九九五ポンドに下落するに止る。労賃の騰貴によりこれらの財貨の相対価値に対し生み出され得る最大の影響といえども、六%または七%を超過し得ないであろう。けだし利潤はおそらくいかなる事情の下においてもかかる額以上の一般的なかつ永続的な下落を許し得ないであろうからである。
 貨物の価値の変動の他の大原因、すなわちそれを生産するに必要な労働の分量の増減は、これと異る。もし穀物を生産するに百名ではなく八十名が必要とされるならば、穀物の価値は二〇%、すなわち五、五〇〇ポンドから四、四〇〇ポンドに下落するであろう。もし毛織布を生産するに、百名ではなく八十名の労働で十分であるならば、毛織布は六、〇五〇ポンドから四、九五〇ポンドに下落するであろう。大なる程度における永久的利潤率の変動は、多年の間においてのみ作用する原因の結果である。しかるに貨物を生産するに必要な労働の分量の変動は、日々起るものである。機械や道具や建物や原料の生産に[#「生産に」は底本では「生産やに」]おけるあらゆる改良は、労働を節約し、吾々をしてかかる改良の加えられた貨物をより容易に生産することを得せしめ、従ってその価値が変更するのである。しからば貨物の価値の変動の原因を測定するに当って、労働の騰落によって生み出される結果を全く度外視するのは正しくないであろうが、それに多くの重要さを附するのも同等に正しくないであろう。従って本書の以下の部分においては、時に私はこの変化の原因にも触れはしようが、私は、貨物の相対価値に起るすべての大なる変化をもって、その時にそれを生産するために必要とされる労働の分量の大小によって生み出されたものと、考えるであろう。
 その生産に投ぜられた労働の同一な諸貨物は、もしそれらが同一の時間で市場に齎され得ないならば、交換価値において異るであろうということは、ほとんどいうをまたない所である。
 私が一貨物の生産に一年間一、〇〇〇ポンドの費用で二十名を雇い、そしてその年の終りに、再び翌年度のために更に一、〇〇〇ポンドの費用を出して、同じ貨物の仕上または完成に、二十名を雇い、そして私はそれを二年の終りに市場に齎すと仮定すれば、もし利潤が一〇%であるならば、私の貨物は二、三一〇ポンドで売れなければならない、けだし私は一年間一、〇〇〇ポンドの資本を用い、更に一年間二、一〇〇ポンドの資本を使用したからである。もう一人の人は、正確に同一の分量の労働を雇うけれども、しかし彼はそれをすべて第一年目に雇うのであり、すなわち彼は二、〇〇〇ポンドの費用で四十名を雇うのであって、第一年目の終りには彼はそれを一〇%の利潤を得て、すなわち二、二〇〇ポンドで売るのである。しからばここに、正確に同一の分量の労働が投ぜられていて、その一つは二、三一〇ポンドに売れ――他は二、二〇〇ポンドに売れる所の、二つの貨物があるわけである。
 この場合は前の場合と異るようであるが、実際は同一である。双方の場合において、一方の貨物の価格がより高いのは、それが市場に齎され得るまでに経過しなければならない時がより長いのによる。前の場合においては、機械及び毛織布は、それらにわずか二倍の労働量が投ぜられているに過ぎないにもかかわらず、穀物の価値の二倍以上であった。第二の場合においては、一方の貨物はその生産により以上の労働が用いられていないにもかかわらず、他方よりも価値がより多い。この価値の相違は、双方の場合において、利潤が資本として蓄積されるのによるのであり、そして単に、利潤が留保された時間に対する正当な報償に過ぎないものである。
 しからば、異る事業に用いられる資本が、固定資本と流動資本との種々な割合に分たれることは、労働がほとんどもっぱら生産に使用される際に普遍的に適用される所の法則、すなわち貨物は、その生産に投ぜられる労働の分量の増減がなければ、決して価値において変動しない、という法則に、かなりの修正を齎すように思われる。それは本節において、労働の分量に何らの変動なくとも、単にその価値の騰貴は、それらの生産に固定資本が用いられる所の財貨の交換価値の下落を惹起すであろうし、固定資本の量が多ければ多いほど、下落は大である、ということが示されているからである。

第五節 価値は労賃の騰落と共に変動しないという原理は、資本の不等な耐久力、及び資本がその使用者に囘収される速度の不等なこと、によってもまた修正される。

(一九)前節において吾々は、二つの異れる職業における二つの相等しい資本について、固定資本及び流動資本の比例を不等なものと仮定したが、今度はそれらは同一の比例にあるが耐久力が不等である、と仮定しよう。固定資本の耐久力がより小となるに比例して、それは流動資本の性質に接近する。製造業者の資本を維持するためには、それはより短時間に消費され、かつその価値は再生産されるであろう。吾々はいま、一製造業において固定資本が重きをなすに比例して、労賃が騰貴する時には、その製造業において生産される貨物の価値は、流動資本が重きをなす製造業において生産される貨物の価値よりも、相対的により低い、ということを見た。固定資本の耐久力がより小となり、流動資本の性質に接近するに比例して、同一の結果が同一の原因によって生み出されるであろう。
 もし固定資本が耐久的性質のものでないならば、それをその本来の能率状態を維持するためには、年々多量の労働を必要とするであろう、しかしそのために投ぜられた労働は、かかる労働に比例して一つの価値を有たねばならぬ製造物に真に費されたものと考え得るであろう。もし私が二〇、〇〇〇ポンドに値する一台の機械を有ち、それは極めてわずかの労働で貨物の生産をなし得るとし、かつもしかかる機械の損耗磨滅は僅少量であり、一般的利潤率は一〇%であるとするならば、私はその機械を使用したという理由で、遥かに二、〇〇〇ポンド以上の財貨の価格に附加されるべきことを、要求しないであろう。しかしもし機械の損耗磨滅が大きく、それを有効の状態に保っておくに必要な労働の分量が年々に五十名の労働に当るとすれば、私は、他の財貨の生産に五十名を使用し、かつ機械を全然使用しない所の、他の製造業者によって得られると等しい附加的価格を、私の財貨に対して要求するであろう。
 しかし労働の労賃の騰貴は、急速に消費される機械によって生産される貨物と、遅々として消費される機械によって生産される貨物とに、等しくは影響を及ぼさないであろう。一方の生産においては、生産された貨物に多量の労働が引続き移転されるであろう。――他方においては、極めてわずかがかく移転されるに過ぎないであろう。労賃のあらゆる騰貴、または同じことであるが、利潤のあらゆる下落は、耐久的性質を有つ資本をもって生産された貨物の相対価値を下落せしめ、そして消耗的な資本をもって生産された貨物の相対価値を比例的に高めるであろう。
 私は既に、固定資本は種々なる程度の耐久力を有つことを述べた、――今、ある特定の事業において用いられ得る一台の機械は一年間に百名の人間の仕事をなし、かつ一年間だけ持続するものと仮定せよ。また機械は、五、〇〇〇ポンドに値し、かつ年々百名の人間に支払われる労賃は五、〇〇〇ポンドであると仮定すれば、製造業者にとってはこの機械を買うか人間を雇い入れるかは無関心事であろうことは、明かである。しかし労働が騰貴し従って一年間百人の労賃が五、五〇〇ポンドに上ると仮定すれば、製造業者は今や躊躇しないであろうことは明かである。機械を買いそして彼れの仕事を五、〇〇〇ポンドで済ませるのが彼れの利益であろう。しかし、労働が騰貴せる結果、機械は価格において騰貴し、すなわちそれもまた五、五〇〇ポンドに値しないであろうか? それは、もしいかなる資本もその製造に使用されず、そしてその製造者に支払われるべきいかなる利潤も無いならば、価格において騰貴するであろう。例えばもしこの機械が、各々五〇ポンドの労賃で一年間その製造に働く所の百名の人間の労働の生産物であり、従ってその価格は五、〇〇〇ポンドであると仮定すれば、それらの労賃が五五ポンドに騰貴するならば、その価格は五、五〇〇ポンドになるであろうが、しかしこれはあり得ないことである。用いられるのは百名以下の人間である、しからざれば、五、〇〇〇ポンドの中から人間を雇傭した資本の利潤が支払われなければならぬから、それは五、〇〇〇ポンドで売れないはずである。そこで単に八十五名の人間が各々五〇ポンドすなわち一年につき、四、二五〇ポンドの費用で雇われ、そしてこの機械を売ったためにこれらの人々に前払された労賃以上に生ずる七五〇ポンドが、機械製造者の資本の利潤を構成していると仮定せよ。労賃が一〇%騰貴した時には、彼は四二五ポンドの附加的資本を用いるを余儀なくされ、従って彼は四、二五〇ポンドではなく四、六七五ポンドを用いるであろう。この資本に対して彼は、もし引続き彼れの機械を五、〇〇〇ポンドで売るならば、単に三二五ポンドの利潤を得るに過ぎないであろう。しかしこれがまさに、すべての製造業者及び資本家にとって事実である。労賃の騰貴は彼らすべてに影響を及ぼすのである。従ってもし機械の製造者が労賃の騰貴せる結果機械の価格を引上げるならば、異常な分量の資本がかかる機械の製造に用いられることとなり、ついにその価格は単に普通の利潤率を与えるに過ぎなくなるであろう(註)。かくて吾々は、労賃の騰貴せる結果、機械は価格において騰貴しないであろうということを、知るのである。
(註)吾々はここになぜ旧国は機械の使用を常に余儀なくされ、かつ新国は労働の使用を余儀なくされているかの理由を、知るのである。人間の生活資料を供給することが困難になるごとに労働は必然的に騰貴し、そして、労働の価格が騰貴するごとに機械の使用への新しい誘因が与えられる。人間の生活資料を供給することのこの困難は旧国においては常に作用しているが、新国においては、労賃が少しも騰貴せずに人口の極めて大なる増加が起り得よう。七百万、八百万、及び九百万の人間に食物を供給することは、二百万、三百万、及び四百万に食物を供給するのと同様に容易であろう。
 しかしながら労賃の一般的騰貴の際に、彼れの貨物の生産費を増加せざるべき機械に頼り得る製造業者は、もし彼れが引続きその財貨に対して同一の価格を要求することが出来るならば、特殊の利益を享受するであろう。しかし吾々の既にみた如くに、彼はその貨物の価格を低下するを余儀なくされるであろう、しからざれば資本が彼れの事業に流入して来、ついに彼れの利潤は一般水準にまで下落するであろう。しからばかくの如くして公衆は機械によって利益を受けるのである、けだしこの沈黙せる作業者は、それが代位する労働と同一の貨幣価値を有っている時ですら、常にそれよりも遥かにより少い労働の生産物である。機械のはたらきによって、労賃を騰貴せしめる食料品の価格の騰貴は、より少数の人々にしか影響を及ぼさないであろう。それは、上例におけるが如く、百名ではなく八十五名に及び、そしてその結果たる節約は製造貨物の価格低減となって現われる。彼らによって製造された機械も貨物も真実価値において騰貴することはないが、しかし機械によって製造されるあらゆる貨物は下落し、そして機械の耐久力に比例して下落するのである。
(二〇)しからば、次の如くわかるであろう、すなわち、未だ多くの機械や耐久的資本が用いられない社会の初期においては、等しい資本によって生産される貨物はほとんど等しい価値を有ち、そしてその生産に必要とされる労働の増減によってのみ、貨物は相互に相対的に騰落するであろう。しかしこれらの高価なかつ耐久的な器具が導入されて後は、等しい資本の使用によって生産された貨物は極めて不等な価値を有つであろう。そしてその生産に必要な労働の増減に従って、それらはなお相互に騰落を蒙るであろうけれども、それらは労賃及び利潤の騰落によってもまた、一つの他の変動――小さな変動ではあるが、――を蒙るであろう。五、〇〇〇ポンドに売れる財貨が、一〇、〇〇〇ポンドに売れる他の財貨が生産される所の資本と同一量の資本の、生産物であることもあろうから、その製造に対する利潤は同一であろう。しかしもし利潤率の騰落と共に財貨の価格が変動しなかったならば、それらの利潤は不等であろう。
 次のこともまた明かであろう、すなわちある種の生産に用いられる資本の耐久力に比例して、その生産にかかる耐久的資本が用いられる貨物の相対価格は労賃と反比例して変動するであろう。労賃の騰貴する時にはそれは下落し、そして労賃の下落する時には騰貴するであろう。これに反し価格を測る媒介物よりも少い固定資本をもって、またはそれよりも耐久力の少い固定資本をもって、主として労働により生産されるものは、労賃の騰貴する時には騰貴し、そして労賃の下落する時に下落するであろう。

第六節 価値の不変的尺度について

(二一)貨物が相対価値において変動した時には、そのいずれが真実価値において下落しまたいずれが騰貴したのかを確かめる手段を有つことが、望ましいであろう。そしてこのことは、それを順次に、それ自身他の貨物が蒙る変動を全く蒙らざるべきある不変的の価値の標準尺度に比較することによってのみなされ得るものである。かかる尺度を有つことは不可能であるが、それはけだし、それ自身、その価値を確かめようとする物と同一の変化を蒙らない貨物は、ないからである、換言すれば、その生産に要する労働の増減しないものはないからである。しかしこの媒介物の価値の変動の原因が除去されたとしても、――例えば吾々の貨幣の生産において、同一量の労働があらゆる時に必要とせらるべきであるということが、可能であるとしても、それはなお価値の完全な標準または不変的尺度ではないであろう、けだし私が既に説明せんと努めた如くに、貨幣を生産するに必要であろう所の固定資本と、その価値の変動を吾々が確かめようとする貨物を生産するに必要な固定資本との比例が異るがために、貨幣は労賃の騰落による相対的変動を蒙るであろうからである。それはまたその生産に用いられる固定資本と、それと比較さるべき貨物の生産に用いられる固定資本との耐久力の程度が異るがために、――すなわち一方を市場に齎すに必要な時間がその変動を決定しようとする他の貨物を市場に齎すに必要な時間よりも、より長くまたはより短いがために、労賃の騰落という同一の原因によって変動を蒙るであろう。あらゆるかかる事情は、考え得られるいかなる貨物をも、完全に正確な価値の尺度たるの資格を喪失せしめるのである。
 例えばもし吾々が金を一標準と定めるとしても、それがあらゆる他の貨物と同一の事情の下で獲得され、従ってそれを生産するに労働と固定資本とを必要とする所の、一貨物たるに過ぎないことは、明かである。あらゆる他の貨物と同様に、労働の節約における改良はその生産に適用され、従って、その生産がいっそう増せるがためのみによって、それは他の物に対する相対価値において下落するであろう。
 もし吾々がこの変動原因が除去されそして同一の分量の金を獲得するに同一の分量の労働が常に必要とせられるとしても、しかもなお金は、それによって吾々が正確にあらゆる他の物の変動を確め得る完全な価値の尺度では、あり得ないであろう。けだしそれはあらゆる他の物と正確に同一の固定資本及び流動資本の組合せをもってしても、または同一の耐久力を有つ固定資本をもってしても、生産されないであろうし、またそれが市場に齎され得るまでに、正確に同一の時間を必要としないであろうからである。それは、それ自身と正確に同一の事情の下で生産されるすべての物に対しては完全な価値尺度であろうが、しかしその他の物に対してはそうではない。例えばもし、吾々が毛織布及び綿製品を生産するに必要であると仮定したと同一の事情の下でそれが生産せられるならば、それはこれらの物に対しては完全な価値尺度であろうが、しかしより少いかより多いかの比例の固定資本をもって生産された穀物や石炭やその他の貨物に対してはそうではない、けだし吾々が示した如くに、永久的利潤率のあらゆる変動は、その生産に用いられる労働の分量の変動とは無関係に、あらゆるこれらの財貨の相対価値に、幾らかの影響を及ぼすであろうからである。もし金が穀物と同一の事情の下で生産されるとしても、その事情は決して変化しなくとも、それは、同一の理由によって、あらゆる時において毛織布及び綿製品の価値の完全な尺度ではないであろう。しからば、金にしても他のいかなる貨物にしても、あらゆる物に対する完全な価値尺度では決してあり得ない、しかし私は既に、利潤の変動による物の相対価格への影響は比較的軽微であり、最も重要な影響は生産に必要とされた労働の分量の変動によって生み出されることを、述べた。従ってもし吾々が、この重要な変動原因が金の生産から除去されたと仮定するならば、吾々はおそらく、理論上考え得る価値の標準尺度に最も近いものを所有することになろう。金は、大部分の貨物の生産に用いられる平均的分量に最も近接せる如き二種の資本の比例をもって生産された所の貨物と、考えられ得ないであろうか? これらの比例は、一はほとんど固定資本が用いられず、他はほとんど労働の用いられないという、二つの極端からほぼ等しい距離にあって、これらのものの正しい中項をなしてはいないであろうか?
 しからばもし私自身が、不変的標準にかくも近い一標準を有つとするならば、その利益は、それで価格及び価値が測定される所の媒介物の価値におけるあり得べき変動を考えてあらゆる場合に当惑することなしに、他の物の変動について語り得るであろう、という点である。
 しからば、本研究の目的を容易ならしめんがために、金で作られた貨幣は他の物の変動の大部分を同じく蒙ることは十分に認めはするけれども、――私は、それは不変であり、従って価格のすべての変動は、それにつき私が論じている貨物の価値のある変動によって惹起されたものと、仮定するであろう。
 この問題を終る前に、アダム・スミス及び彼を祖述せるすべての学者は、私の知る所では一人の例外もなく、労働の価格の騰貴は一様にあらゆる貨物の価格の騰貴を随伴するであろうと主張したことを、述べるのが正当であろう。私は、かかる意見には何らの根拠もなく、労賃が騰貴する時には、単にそれによって価格が測られる媒介物よりも少い固定資本をその生産に用いた貨物のみが騰貴し、またそれ以上の固定資本を用いたものはすべて確実に価格が下落するであろう、ということを、示すに成功したと考える。これに反し、もし労賃が下落すれば、単にそれによって価格が測られる媒介物よりも少い比例の固定資本をその生産に用いた貨物のみは下落し、それ以上の固定資本を用いたものはすべて確実に価格が騰貴するであろう。
 私にとってまた、一貨物はそれに一、〇〇〇ポンドに値するであろうだけの労働が投ぜられ、そして他の貨物はそれに二、〇〇〇ポンドに値するであろうだけの労働が投ぜられているという故をもって、従って一方は一、〇〇〇ポンドの価値を有ち、他方は二、〇〇〇ポンドの価値を有つであろう、と私は言ったのではなく、それらの価値は、相互に一に対する二であり、そしてかかる比例でそれは交換されるであろう、と言ったのであることも、注意しておく必要がある。これらの貨物の一方が一、一〇〇ポンドに売れ、そして他方が二、二〇〇ポンドに売れようと、または一方が一、五〇〇ポンドに売れ、そして他方が三、〇〇〇ポンドに売れようと、それはこの学説の真理に対しては少しも重要ではない。この問題は今これを研究しない。私は単に、それらの相対価値は、その生産に投ぜられた労働の相対的分量によって支配されるであろうということを、注意するだけである(註)。
(註)マルサス氏はこの学説について次の如く述べている、『実際吾々は勝手に、一貨物に用いられた労働をその真実価値と呼ぶことが出来る。しかしかくすることによって、吾々は、この言葉を、それが慣習的に用いられると異った意味に用いていることになる。吾々は、直ちに費用価値という極めて重要な区別を混同することになり、そして実際上この区別に依存する所の富の生産に対する主たる刺戟を明かに説明することを、ほとんど不可能ならしめている。』(『経済学の諸原理』、一八二〇年、第二章第二節、六一頁――編者註)
 マルサス氏は、一物の費用と価値とは同一でなければならぬというのが、私の学説の一部であると考えているように思われる――もしも彼が費用というのが、利潤を含む『生産費』の意味であるならば、その通りである。しかし右の章句においては、これは彼れの意味しない所であり、従って彼は明かには私を理解していないのである。

第七節 それによって価格が常に表現される媒介物たる貨幣の価値における変動による、または貨幣が購買する貨物の価値における変動による、種々なる結果。

(二二)既に述べた如くに、他の物の価値の相対的変化の原因をより明かに指摘せんがために、私は、貨幣は価値において不変であると考える場合があろうけれども、財貨の価格が、私の既に言及した原因、すなわちそれを生産するに必要な労働の分量の異るによって変動することに伴う結果と、それが貨幣そのものの価値の変動によって変動することに伴う結果との相違を、注意することは有用であろう。
 貨幣は、一つの可変的貨物であるから、貨幣労賃の騰貴はしばしば、貨幣価値の下落によって惹起されるであろう。この原因による労賃の騰貴はあまねく、貨幣の貨物の価格の騰貴を伴うであろう、しかしかかる場合には、労働とすべての貨物とが相互の関係において変動しておらず、かつ変動が貨幣に限られていたことが、見出されるであろう。
 貨幣は、外国から取得される貨物であり、あらゆる文明諸国間の交換の一般的媒介物であり、更に商業と機械とのあらゆる進歩と共に、また増加しつつある人口に対して食物及び必要品を獲得することがますます困難となるごとに、これらの諸国の間に分配される割合が絶えず変ることからして、不断の変化を蒙るのである。交換価値及び価格を左右する諸原理を述べるに当り、吾々は貨物自身に属する変動と、それによって価値が測られまたは価格が表現される所の媒介物の変動によって齎される変動とを、注意して区別しなければならぬ。
(二三)貨幣の価値の変動による労賃の騰貴は、価格の上に一般的影響を生み出し、かつその理由によって、利潤の上には何らの真実の影響をも生み出さない。これに反し、労働者の報酬がより豊かになったとか、または労賃がそれに費される必要品の獲得が困難になったとかによる所の、労賃の騰貴は、若干の場合を除けば、価格を騰貴せしめるという結果は生じないが、利潤を低めるという大きな結果を有っている。一方の場合には、その国の年々の労働のより多くの部分が労働者の支持に向けられるのではないが、他方の場合にはより多くの部分がそれに向けられるのである。
 吾々が地代、利潤、及び労賃の騰落について判断するのは、ある特定農場の土地の全生産物の、地主、資本家、及び労働者の三階級への分割によるべきであって、明かに可変的な媒介物で測られた生産物の価値によるべきではない。
 吾々が正確に利潤、地代、及び労賃の率について判断し得るのは、各階級の獲得する生産物の絶対的分量によるのではなく、その生産物を獲得するに必要な労働量によるのである。機械や農業における諸改良によって全生産物は倍加されるかもしれないが、しかしもし労賃、地代、及び利潤もまた倍加されるならば、これらの三つは相互に以前と同一の比例を保ち、そのいずれも相対的に変化したとは言い得ないであろう。しかしもし労賃がこの増加の全部に与らず、それが倍加されずして単に半分増加されるに過ぎず、地代は倍加されずして単に四分の三増加されるに過ぎず、そして残りの増加が利潤に帰属したとすれば、思うに、地代と労賃とは下落したが利潤は騰貴したと言うのは私にとって正しいであろう。けだし、もし吾々が、それによってこの生産物の価値を測る所の不変的標準を有つとするならば、吾々は以前に与えられていたよりもより少い価値が労働者と地主との階級に帰属しより多くの価値が資本家階級に帰属したことを見出すべきであろうからである。例えば吾々は、貨物の絶対量は倍加したにもかかわらず、それが正確に以前と同一量の労働の生産物であることを見出すであろう。生産された百オンスの帽子、上衣、及び百クヲタアの穀物のうち、
労働者が以前に得た所は…………………………二五
地主は………………………………………………二五
そして資本家は……………………………………五〇
                 ――――――
                    一〇〇
であり、そしてもしこれらの貨物の分量が二倍となった後に、各一〇〇のうち、
労働者の得る所はわずかに………………………二二
地主は………………………………………………二二
そして資本家は……………………………………五六
                 ――――――
                    一〇〇
であるとすれば、その場合に私は、貨物が豊富な結果労働者及び地主に支払われる分量は二五対四四の比例で増加したであろうけれども、労賃及び地代は下落し利潤は騰貴したと言うべきである。労賃は、その真実価値によって、すなわちその生産に用いられる労働及び資本の分量によって、測られるべきであり、上衣か帽子か貨幣か穀物かの形におけるその名目価値によって測られるべきではない。私が今仮定した事情の下においては、貨物はその以前の価値の半分に下落したであろうし、そしてもし貨幣が変動しなかったならば、その以前の価格の半分にも下落したであろう。しからばもし、価値において変化しなかったこの媒介物で労働者の労賃が下落したことが見出されるならば、彼れの以前の労賃よりもより多くの廉価な貨物を与えるであろうからといって、それはやはり真実の下落であろう。
 貨幣の価値の変動は、いかにそれが大であろうとも、利潤の率には何らの異動も生じない、けだし製造業者の財が一、〇〇〇ポンドポンドから二、〇〇〇ポンドに、すなわち一〇〇%騰貴すると仮定しても、もし彼れの資本、――貨幣の変動は生産物の価値に及ぼすと同じだけの影響をそれに及ぼすが、――すなわち彼れの機械、建物、及び在庫品もまた一〇〇%騰貴するならば彼れの利潤率は同一であり、彼はその国の労働の生産物の同一の分量を支配し得べく、それ以上は支配し得ないであろう。
 もし一定の価値の資本をもって、彼が、労働の節約によって、生産物の分量を倍加し得、そしてそれがその以前の価格の半分に下落しても、それは、それを生産した資本に対し以前と同一の比例を保ち、従って利潤は依然同一率にあるであろう。
 もし、彼が同一の資本を用いて生産物の分量を倍加すると同時に、貨幣の価値が何らかの出来事によって半分に下落するならば、生産物は以前の二倍で売れるであろう。しかしその生産に用いられる資本もまた、その以前の貨幣価値の二倍となるであろう。従ってこの場合においてもまた、生産物の価値は、資本の価値に対し以前と同一の比例を保つであろう。そして生産物が倍加されたにもかかわらず、地代、労賃及び利潤はただ、この二倍の生産物がこれを分つ三階級の間に分割される比例が変動するにつれて、変動するに過ぎないであろう。
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    第二章 地代について

(二四)しかしながら、土地の占有とその結果たる地代の発生とが、生産に必要な労働量とは無関係に、貨物の相対価値に変動を惹起すか否か、の問題が残っている。問題のこの部分を理解せんがためには、吾々は、地代の性質、及びその騰落を左右する法則を、研究しなければならない。
 地代とは、土地の生産物の中、土壌の本来的なかつ不可壊的な力の使用に対して地主に支払われる所の部分である。
 しかしながら、それはしばしば資本の利子及び利潤と混同されている。そして、通俗の用語では、この言葉は、農業者によってその地主に年々支払われるものには、その何たるを問わず適用されている。もし、同一の面積を有ちかつ同一の自然的肥沃度を有つ二つの相隣れる農場のうち、一方は、農耕用建物について一切の利便を有ち、更にその上に適当に灌漑され、施肥され、そして都合よくまがきや柵や壁で区分されているが、しかるに他方は、これらの利便は何も有たないとすれば、一方の使用に対しては、他方の使用に対してよりも、より多くの報酬が当然支払われるであろう。しかも双方の場合にこの報酬は地代と呼ばれるであろう。しかし次のことは明かである、すなわち改良された農場に対して年々支払わるべき貨幣の一部分のみが、土壌の本来的なかつ不可壊的な力に対して与えられたものであり、その他の部分は、地質の改良のためにまた生産物を保全し貯蔵するに必要な建物の建造のために用いられた資本の使用に対して支払われたものであろう。アダム・スミスは時に私がそれに限定せんと欲する厳格な意味における地代について論じているが、しかしこの言葉が通常使用されている通俗の意味におけるそれを論ずることがより多い。彼は吾々に、ヨオロッパの南方諸国における木材に対する需要とその結果たる高き価格が、以前には地代を生じ得なかったノルウェイにおける森林に対して支払わるべき地代を齎した、と語っている。しかしながら、彼がかくの如く地代と呼ぶ所のものを支払った人は、その時地上に生長しているこの価値多い貨物を考慮してそれを支払ったのであり、そして彼は木材の売却によって、現実に利潤と共にそれを囘収したことは、明白ではないか? もし実際木材が伐り去られた後に、未来の需要を考えて木材またはその他の生産物を栽培する目的をもって、土地の使用に対してある報償が地主に支払われるならば、かかる報償は、土地の生産力に対して支払われるのであるから、正当に地代と呼ばれ得よう。しかし、アダム・スミスによって述べられている場合においては、報償は木材を伐り去りかつ売却する自由に対して支払われたのであって、それを栽培するの自由に対して支払われたのではない。彼は炭鉱の地代及び採石場の地代についても論じているが、これに対しても同一の議論が当てはまる、――すなわち鉱山または採石場に対し与えられる報償は、それから採掘され得る石炭または石材の価値に対して支払われるのであって、土地の本来的なかつ不可壊的な力とは何らの関係もない。これは、地代及び利潤に関する研究において極めて重要な区別である。けだし地代の増進を左右する所の法則は、利潤の増進を左右する法則とは大いに異っており、同一の方向に作用することは稀であることが、見出されるからである。あらゆる進歩せる国においては、地主に年々支払われるものは、地代及び利潤という両性質を兼ね有しているから、時には対立する原因の結果によって静止しており、また他の時には、これらの原因の一方または他方が優勢を占めるに従って増進または減退する。かくて本書の以下において、私が土地の地代を論ずる時は常に、土地の本来的なかつ不可壊的な力の使用に対して土地の所有者に支払われる報償について論じているものと、了解されんことを希望する。
(二五)そこには豊饒にして肥沃な土地が豊富にあり、現実の人口を支えるためにはその極めて小部分が耕作される必要があるに過ぎぬか、または実にそれがその人口の自由にし得る資本で耕作され得るという所の、一国の最初の植民の際には、地代は無いであろう。けだし未だ占有されておらず、従って、それを耕さんと欲する何人もこれを自由に処分し得る所の、土地が豊富な量にある時には、土地の使用に対して何人も支払をしないであろうからである。
 供給及び需要の普通の原理によって、空気や水の使用に対し、または無限に存在するある他の自然の賜物に対し、何物も支払われない訳を説明したと同一の理由で、かかる土地に対しては地代は支払われ得ないであろう。一定量の原料と、気圧や蒸気の伸縮力の助けによって、機関は仕事をし、そして極めて大きな程度に人間の労働を節約するであろう。しかしこれらの自然的補助物の使用に対してはいかなる料金も課せられない、それはけだしそれらが無尽蔵でありかつ万人の自由に為し得る所であるからである。同様に、醸造家や蒸酒家や染物屋は、彼らの貨物の生産のために、空気や水を不断に使用している。しかしその供給が無限であるから、それらのものは何らの価格も有たない(註)。もしすべての土地が同一の性質を有つならば、もしその量が無限であり、地質が一様であるならば、それが特殊な位置の利便を有たない限り、その使用に対しては、何らの料金も課せられ得ないであろう。しからば、地代がその使用に対し常に支払われるのは、ただ、土地の量が無限でなくそして地質が一様でないからであり、そして人口の増加につれて劣等の質または利便のより少い土地が耕作されるようになるからに他ならない。社会の進歩につれて、第二等の肥沃度の土地が耕作されるに至る時は、地代は直ちに第一等地に発生し、そしてその地代の額は、これら二つの土地部分の質の差違に依存するであろう。
(註)『土地は、吾々の既に見た如く、生産力を有つ唯一の自然的因子ではない。しかしそれは一群の人が他人を排して我が物とすることが出来、その結果として、彼らがその利益を占有することが出来る、唯一のまたはほとんど唯一の、自然的因子である。川や海の水もまた、吾々の機械を運転せしめ、吾々の船舶を浮べ、吾々の魚を養う力によって、生産力を有っている。吾々の風車を廻転させる風やまた太陽の熱でさえ、吾々のために働くものである。しかし幸にして、何人も「風と太陽とは私の物であり、従ってそれらが与える仕事に対して支払を得なければならない、」と言い得る者は未だなかった。』――ジー・セイ著、経済学、第二巻、一二四頁。
 第三等地が耕作されるに至る時には、地代は直ちに第二等地に発生し、そしてそれは以前の如くにそれらの生産力によって左右される。同時に第一等地の地代は騰貴するであろう、けだしそれは常に、一定量の資本及び労働をもって両者が産出する生産物の差違だけ、第二等地の地代よりもより多くなければならぬからである。人口が増加するごとに、――これは一国をして、その食物の供給を増加し得しめるためにより劣等の土地に頼らざるを得ざらしめるであろうが、――地代はすべてのより肥沃な土地において騰貴するであろう。
 かくて、土地――第一等地、第二等地、第三等地――が、等しい資本及び労働を用いて、小麦一〇〇、九〇、及び八〇クヲタアの純生産物を生産すると仮定せよ。人口に比較して肥沃な土地が豊富にあり、従って、第一等地の耕作を必要とするのみで足る所の、新しい国においては、総純生産物は耕作者に帰属し、そしてそれは彼が前払した資本の利潤たるものであろう。人口が、第二等地――それからは、労働者を支持した後に九〇クヲタアが獲得され得るに過ぎぬ、――の耕作を必要ならしめるほどに大いに増加するや否や、地代は第一等地に発生するであろう。けだしそうならなければ農業資本に対し二つの利潤率がなければならぬことになるか、あるいはある他の目的のために十クヲタアがまたは十クヲタアの価値が、第一等地の生産物から引去られなければならぬことになるからである。第一等地を、土地所有者が耕作しようとまたはある他の人が耕作しようと、この十クヲタアは等しく地代を形造るであろう。けだし第二等地の耕作者は地代として十クヲタアを支払って第一等地を耕作しようと、または何ら地代を支払わず引続き第二等地を耕作しようと、その資本をもって同一の結果を得るであろうからである。同様にして第三等地が耕作されるに至る時には第二等地の地代は十クヲタアで、または十クヲタアの価値で、なければならないが、しかるに第一等地の地代は二十クヲタアに騰貴するであろう、ということが証明され得よう。けだし第三等地のの耕作者は、第一等地の地代として二十クヲタアを支払おうと、第二等地の地代として十クヲタアを支払おうと、または全く地代を支払わずに第三等地を耕作しようと、同一の利潤を得るであろうからである。
(二六)第二等地、第三等地、第四等地、または第五等地、または更に劣等な土地が耕作されるに先だって、資本が既に耕作されている土地の上により生産的に用いられ得るということは、しばしば、そして実に通常、起ることである。第一等地に用いられる最初の資本を倍加することにより、生産物は倍加されず、すなわち一〇〇クヲタアだけは増加されないであろうが、それは八十五クヲタアだけ増加され得、そしてこの量は同一の資本を第三等地に用いて獲得され得る量を超過することが、おそらく見出されるであろう。
 かかる場合には資本はむしろ旧地に用いられ、そして等しく地代を作り出すであろう。けだし地代は常に、等量の二つの資本及び労働の使用によって得られた生産物の差額であるからである。もし一、〇〇〇ポンドの資本をもって一借地人が一〇〇クヲタアの小麦をその土地から得、そして第二の一、〇〇〇ポンドの資本の使用によって更に八十五クヲタアを、またはそれと等しい価値を、支払わしめる力を有つであろうが、それはけだし二つの利潤率は有り得ないからである。もしこの借地人が彼れの第二の一、〇〇〇ポンドに対する報酬における十五クヲタアの減少に満足するとするならば、それはより有利な用途がそれに対し見出され得ないからである。通常の利潤率はその比例にあるのであり、そして元の借地人が、この利潤率を超過するすべてを、彼がそれからそのものを得た所の土地の所有者に与えることを拒むとしても、ある他の者がこれを喜んで与えることが、見出されるであろう。
 この場合にも他の場合にも、最後に用いられたる資本は何らの地代も支払わない。第一の一、〇〇〇ポンドより大なる生産力に対しては、十五クヲタアが地代として支払われ、第二の一、〇〇〇ポンドの使用に対してはいかなる地代も全く支払われない。もし第三の一、〇〇〇ポンドが同一の土地に用いられ、七十五クヲタアの報酬を齎すならば、地代は第二の一、〇〇〇ポンドに対して支払われ、そしてそれはこれら両者の生産物の差違に、すなわち十クヲタアに等しいであろう。そして同時に、第一の一、〇〇〇ポンドに対する地代は十五クヲタアから二十五クヲタアに騰貴するであろう。しかるに最後の一、〇〇〇ポンドはいかなる地代も全く支払わないであろう。
 しからば、もし良い土地が、増加しつつある人口に対する食物の生産が必要とするよりも遥かにより豊富な量において存在するならば、またはもし資本が報酬の減少を齎すことなくしてして旧地に無限に用いられ得るならば、地代の騰貴はあり得ないであろう。けだし、地代はあまねく、比例的な報酬の減少を伴う附加的労働量の使用から発生するものであるからである。
(二七)最も肥沃にしてかつ最も位置の便利の良い土地が、第一に耕作されるであろう。そしてその生産物の交換価値は、あらゆる他の貨物の交換価値と同様に、それを生産し、それを市場に齎すに必要な、最初から最後までに種々なる形をとる所の、労働の全量によって、調整されるであろう。劣等の質の土地が耕作されるに至る時には、粗生生産物の交換価値は、それを生産するためにより多くの労働が必要であるために、騰貴するであろう。
 すべての貨物の交換価値は、それが製造品であろうと、または鉱山の生産物であろうと、または土地の生産物であろうとに論なく、常に、極めて有利な、かつ生産の特殊便益を有つ者が独占的に享受している所の事情の下において、その生産に足りるであろう所の、比較的少量の、労働によって左右されるのではなく、かかる便益を有たず、引続き最も不利な事情――ここに最も不利な事情とは、必要とされる生産物量を供給するためにその下でなお生産を行うことの必要な、その最も不利な事情を意味する――の下においてそれを生産する者によって、その生産に対し必然的に投下される所の比較的多量の労働によって左右されるのである。
 かくて、貧民が慈善家の基金で仕事に従事させられている慈善的施設においても、かかる仕事の生産物たる貨物の一般的価格は、これらの労働者に与えられた特殊便益によっては支配されずに、あらゆる他の製造業者が遭遇しなければならぬ一般的の通常のかつ自然的の困難によって支配されるであろう。もしこれらのめぐまれた労働者によってなされる供給が社会のすべての欲求する所と等しいならば、これらの便益を一つも享有しない製造業者は実際、全然市場から駆逐されるであろう。しかしもし彼が事業を継続するとするならば、それは、彼がそれから資本に対する通常のかつ一般的の利潤率を取得する、という条件の下においてのみであろう。そしてこのことは、彼れの貨物がその生産に投ぜられた労働量に比例する価格で売られる時にのみ、起り得ることであろう(註)。
(註)セイ氏は次の章句において、終局的に価格を左右する所のものは生産費であることを、忘れていないであろうか? 『土地に用いられる労働の生産物はこういう特性を有っている、すなわち、それはより稀少になったからとて、より高価にはならない、けだし人口は常に食物が減少すると同時に減少するからである。しかのみならず、穀物は、完全に耕作されている国よりも、未耕地の多い地方において、より高価であるとは、されていない。英国及びフランスは、現在よりも中世の方がより不完全に耕作されていた。両国は遥かにより少い粗生生産物を生産していた。それにもかかわらず、吾々が他の諸物の価値との比較によって判断し得るすべてから推せば、穀物はより高い価格では売られていなかった。生産物がより少なかったとしても、人口もまたそうであった。需要の弱小が供給の微弱を償っていた。』第二巻、三三八頁(編者註一)。セイ氏は、貨物の価格は労働の価格によって左右されるという意見に感銘し、そして正当に、すべての種類の慈善的施設は、人口をしからざればそうあるべき以上に増加せしめ、従って、労賃を低下せしめる所の、傾向を有つと推測しつつ、次の如く言う、『私は、英国から来る財貨の低廉なのは、一部分は、その国に存在する多くの慈善的施設に起因するものではないかと考える。』第二巻、二七七頁(編者註二)、これは、労賃が価格を左右すると主張する者にあっては、論理一貫せる意見である。
(編者註一)正確には、三三七頁、註二。
(編者註二)同頁、註一。
 なるほど、最良の土地では、以前と同一の労働をもってなお以前と同一の生産物が得られるであろうが、しかしその価値は、肥沃度のより劣る土地に新しい労働及び資本を用いた者の得る報酬が減少した結果、高められるであろう。しからば、肥沃度が劣等地以上に有つ利益は決して失われず、単に耕作者または消費者から地主に移転されるに過ぎぬにもかかわらず、しかも劣等地にはより多くの労働が必要であり、そして吾々が粗生生産物の附加的供給を得ることが出来るのはただかかる土地からのみであるために、その生産物の比較価値は引続き永久的にその以前の水準以上にあり、かつそれをして、その生産にかかる附加的労働量を必要としない所の帽子、毛織布、靴、等々の、より多くと、交換せしめるであろう。
 しからば粗生生産物が比較価値において騰貴する理由は、より多くの労働が、獲得される最後の部分の生産に用いられるからであって、地代が地主に支払われるからではない。穀物の価値は、何ら地代を支払わない所の、その等級の土地の上で、またはその部分の資本をもって、その生産に投ぜられた労働量によって左右されるのである。地代が支払われるから穀物が高いのではなくて、穀物が高いから地代が支払われるのである。従って、地主が彼らの地代の全部を抛棄しても穀価には何らの下落も起らないであろうと云われているのは、正当である。かかる方策は単にある農業者をして紳士の様な生活をすることを得しめるに過ぎず、最も生産力の少い耕作地で粗生生産物を生産するに必要な労働量を減少せしめないであろう。
(二八)地代の形で土地が剰余を産出するという故をもってする、有用なる生産物のあらゆる他の源泉以上に、土地が有つ所の、得点ほど、普通に耳にするものはない。しかも土地が最も豊富であり、最も生産的であり、かつ最も肥沃である時には、それは何らの地代も生み出さない。そしてより肥沃な部分の本来的生産物の一部分が地代として分離されるのは、その力が衰え、そして労働に対する報酬としてより少ししか産出しなくなった時においてのみである。製造業者がそれによって援助される自然力に比較すれば欠点と云わるべき所の、土地のこの性質が、その特殊なる優越をなすものとして指摘され来っているのは、奇妙なことである。もし空気や水や蒸気の弾力性や気圧が種々なる品質を有っているならば、もしそれらは占有され得、かつ各品質は単に相当の分量に存在するに過ぎないならば、それらは、土地と同じく、逐次劣等の品質のものが使用されるに至るにつれて、賃料を与えるであろう。より劣れる品質のものが用いられるごとに、その製造にそれらが用いられた貨物の価値は、等量の労働の生産力がより小になるから、騰貴するであろう。人間は額に汗してより多くをなし、自然はより少ししかなさないであろう。そして土地は、その力が限られているという点について他に優越しはしなくなるであろう。
 もし土地が地代という形で与える所の剰余生産物が一長所であるならば、年々、新しく造られた機械が旧いものよりも能率がより小になることが望ましい訳である。けだし、それは疑いもなく、啻にその機械のみならず更に王国内のあらゆる他の機械によって製造される財貨に、より大なる交換価値を与え、そして最も生産的な機械を所有するすべての者に賃料レントが支払われるであろうからである(註)。
(註)アダム・スミスは曰く、『農業においてもまた自然は人間と共に労働する。そしてその労働は何らの出費を要しないけれども、しかしその生産物は最も高価な労働者の生産物と同様にその価値を有つものである。』自然の労働が支払を受けるのはそれが多くをなすからではなく、それが少ししかしないからである。自然がその賜物を惜しむに比例して、それはその仕事に対してより大なる価格を要求する。それが寛大に多くを与える場合には、それは常に無償で働く。『農業において使用される労働家畜は、啻に、製造業における労働者の如く、彼ら自身の消費する所に、または彼らを用いる資本に、等しい価値を、その所有者の利潤と共に、再生産するのみならず、更に遥かにより大なる価値を再生産する。農業者の資本とそのすべての利潤以上に、彼らは規則正しく地主の地代の再生産を齎す。この地代は、その使用を地主が農業者に貸与する所の自然の力の生産物と考えられ得よう。その大小は、かかる力の想定された大いさにより、または土地の想定された自然のまたは改良された肥沃度による。人間のなせる所と看做され得るすべての物を控除または補償した後に残るものが、自然のなせる所である。それは総生産物の四分の一以下であることは稀でありしばしばその三分の一以上である。製造業において用いられる等量の生産的労働は、決してかくも大なる再生産を齎すことは出来ない。製造業においては自然は何事もなさず人間がすべてをなす。そして再生産は常に、それを齎す因子の力に比例しなければならない。従って農業において用いられる資本は啻に製造業において用いられるいかなる等量の資本よりもより大なる生産的労働の分量を動かすのみならず、更にまたそれが用いる生産的労働の分量に比例して、それはその国の土地及び労働の年々の生産物に、その住民の真実の富及び収入に、遥かにより大なる価値を附加する。資本が使用され得るすべての方法の中で、それは社会にとり遥かに最も有利なものである。』第二編、第五頁。(訳者註――キャナン版、第一巻、三四三――三四四頁、傍点はリカアドウの施せるもの。)
 自然は製造業においては人間に対して何事もなさないであろうか? 吾々の機械を動かし、かつ航海を助ける所の風や水の力は、何物でもないか? 吾々をして最も巨大な機関を動かし得せしめる気圧や蒸気の弾力性――それは自然の賜物ではないか? 金属を軟かにしまた熔解する際の可燃焼物の有つ諸結果や、染色及び醗酵の過程における大気の分解力の有つ諸結果については言わぬとしても。製造業において自然が人間にその補助を与えず、かつまたそれを寛大に無償で与えないという製造業は、これを挙げることが出来ない。
 私が右にアダム・スミスから写し取った章句を論評するに当って、ビウキャナン氏は次の如く云う、『私は、第四巻に含まれている生産的労働及び不生産的労働に関する諸観察において、農業は他のいかなる種類の産業よりも国民的貯財に対し附加する所より大なるものではないことを、証明せんと努力した。地代の再生産をもって社会に対する極めて大なる利益であると論ずるに当って、スミス博士は、地代は高き価格の結果であり、かつ地主がかくの如くして利得する所は彼が社会全体を犠牲にして利得しているのであることを、考えていない。地代の再生産によって社会が絶対的に利得する所は何もない。一階級が他の階級を犠牲にして利得しているに過ぎない。自然は耕作過程において人間の勤労と協力する故に、農業は生産物を、従って地代を、生むという提議は、単なる空想である。地代が得られるのは、生産物からではなくて、その生産物が売られる価格からである。そしてこの価格が得られるのは、自然が生産において援助するからではなく、それが消費を生産に適合せしめる所の価格であるからである。』(編者註――ビウキャナン版『諸国民の富』第二巻、五五頁。)

(二九)地代の騰貴は常に、増加しつつある国富の結果であり、その増加せる人口に対する食物供給の困難の結果である。それは富の徴候ではあるが、しかし決してその原因ではない。けだし富はしばしば、地代が静止的であるかまたは低下しつつある間にも、最も速かに増加するからである。地代は、自由に処分し得る土地の生産力が減退する際に、最も速かに増加する。富は、自由に処分し得る土地が最も肥沃であり、輸入が制限されること最も少く、かつ農業上の改良によって労働量の比較的増加なくして生産物が増加され得、従って地代の増進が遅々たる所の、国において、最も速かに増加するのである。
 もし穀物の高き価格が、地代の結果であって原因でないとするならば、価格は地代の高低に従って比例的に影響され、そして地代は価格の一構成部分となるであろう。しかし、最大量の労働をもって生産された穀物が穀物の価格の支配者であり、そして地代は、毫もその価格の一構成部分として入り込まず、また入り込み得ないのである(註)。従ってアダム・スミスが、貨物の交換価値を左右した本来的規則、すなわち、それによって貨物が生産された比較的労働量が、土地の占有と地代の支払とによって、いやしくも変更され得る、と想像したのは、正確であり得ない。粗生原料品は大抵の貨物の構成に参加するが、しかし、その粗生原料品の価値は、穀物と同様に、最後に土地に使用されかつ地代を支払わない所の資本部分の生産性によって、左右され、従って地代は貨物の価格の一構成部分ではないのである。
(註)この原理を明瞭に理解することは、私の信ずる所によれば、経済学にとって最も重要なことである。
(三〇)吾々は今まで、その土地が種々なる生産力を有っている国において、富及び人口の自然的増進が地代に及ぼす結果を、考察し来った。そして吾々は、より少い生産上の報酬をもって土地上に用いられることが必要となる所の、附加的資本部分が投ぜられるごとに、地代は騰貴するであろうということを見た。同一の原理よりして、土地に同一額の資本を用いることを不必要ならしめるべき、従って最後に用いられる部分をより生産的ならしめるべき、社会における何らかの事情は、地代を低めるであろう、ということになる。労働の支持に向けられた基金を大いに減少すべき一国の資本の大減少は、当然この結果を有つであろう。人口は、それを雇うべき基金によって自らを調整し、従って常に資本の増減と共に増減する。従って資本のあらゆる減少は必然的に、穀物に対する有効需要の減少、価格の下落、及び耕作の減少を伴う。資本の蓄積が地代を引上げるのとは反対の順序において、その減少は地代を低めるであろう。より生産的ならざる質の土地は順次に抛棄され、生産物の交換価値は下落し、そしてより優良な質の土地が最後に耕作される土地となり、かつ地代を支払わない土地となるであろう。
(三一)しかしながら、一国の富及び人口が増加される時にも、もしその増加が、より痩せた土地を耕作するの必要を減少するか、またはより肥沃な部分の耕作に同一量の資本を投下する必要を減少するという、前と同一の結果を齎す如き、かかる顕著な農業上の進歩を伴うならば、同一の結果が生み出されるであろう。
 もし一定の人口を支持するに一百万クヲタアの穀物が必要であり、そしてそれは第一等地、第二等地、第三等地において得られるとし、またもし後に一改良が発見され、それによってそれが、第三等地を用いずに第一等地及び第二等地で得られ得るに至ったとすれば、その直接の結果が地代の下落でなければならぬことは明かである。けだしこの際には、第三等地ではなく第二等地が、何らの地代をも支払わずに耕作されるであろうし、そして第一等地の地代は、第三等地と第一等地との生産物の差違ではなくして、単に第二等地と第一等地との差違に過ぎないであろうからである。人口が同一でありそしてそれが増加しなければ、より以上の穀物量に対する需要はあり得ない。第三等地に用いられていた資本及び労働は、社会にとり好ましい他の貨物の生産に向けられるであろうし、そして他の貨物を造る粗生原料品が、資本を地上により不利に用いるにあらざれば獲得され得ない場合の他は、――この場合には、第三等地が再び耕作されなければならぬ――地代を引上げるという結果を有ち得ないのである。
 農業上の改良の結果、またはむしろその生産により少い労働が投ぜられるに至った結果たる、粗生生産物の相対価格における下落は、当然に蓄積の増加に導くべきことは、疑いもなく真実である、けだし資本の利潤は大いに増加されるであろうから。この蓄積は、労働に対する需要の増加に、労賃の騰貴に、人口の増加に、粗生生産物に対する需要の増大に、そして耕作の拡張に、導くであろう。しかしながら、地代が以前の高さになるのは、人口の増加の後のことであり、換言すれば第三等地が耕作されるに至って後のことである。それまでには、地代の積極的減少を伴う所の長い時期が経過していることであろう。
 しかし、農業上の改良には二種ある、すなわち、土地の生産力を増加するものと、吾々をして機械の改良によってより少い労働でその生産物を獲得し得しめるものとである。これら両者は、共に粗生生産物の価格の下落に導く、これら両者は共に地代に影響を及ぼさない。もしそれらが粗生生産物の価格の下落を惹起さないならばそれは改良ではないであろう、けだし、以前に一貨物を生産するに要した労働量を減少することが、改良の本質であり、そしてこの減少はその価格または相対価値の下落なくしては起り得ないからである。
 土地の生産力を増加した改良とは、より巧妙な輪作、あるいは肥料のより良き選択というが如きものである。これらの改良は、絶対的に吾々をして、より少量の土地から同一の生産物を獲得し得せしめる。もし蕪菁かぶらの栽培法の導入によって、私が、私の穀物の生産と並んで私の羊を飼い得るならば、羊が以前に飼われていた土地は不要に帰し、そして同一量の粗生生産物がより少量の土地を用いて得られることになる。もし私が、それによって私が一片の土地をして二〇%だけより多くの穀物を生産せしめ得るようにさせる所の、肥料を発見するならば、私は資本の少くとも一部分を、私の農場の最も不生産的な部分から引去り得よう。しかし私が前に観察したるが如くに、この際地代を低減するために土地の耕作を止める必要はない。この結果を齎すためには、同一の土地に、その齎す所の異る資本の諸部分が、逐次投ぜられており、そしてその齎す所の最小なる部分が引去られるだけで、十分である。もし蕪菁耕作の導入により、またはより有効な肥料の使用によって、私が、より少量の資本をもって、また逐次投ぜられる資本の諸部分の生産力の間の差違をみだすことなくして、同一の生産物を獲得し得るならば、私は地代を低めるであろう。けだし別のより生産的な部分が、その点からあらゆる他の部分が計算されるであろう所の、標準たるべき部分となるであろうからである。もし例えば、逐次投下される資本が、一〇〇、九〇、八〇、七〇を生産するならば、私がこれらの四部分を用いる間は、私の地代は六〇であり、すなわち、
七〇と一〇〇との差===三〇
七〇と九〇との差 ===二〇
七〇と八〇との差 ===一〇
         ―――――
            六〇
}に等しく、[#「}に等しく、」は前の5行にわたる]
 他方生産物は三四〇、すなわち、
 一〇〇
  九〇
  八〇
  七〇
――――
 三四〇
}であろう、[#「}であろう、」は前の6行にわたる」]
そして私がこれらの部分を用いている間は、その各部分の生産物が等しい増加をなしても、地代は依然として同一であろう。もし生産物が、一〇〇、九〇、八〇、七〇ではなく、一二五、一一五、一〇五、九五に増加されたとしても、地代は依然として六〇であり、すなわち、
九五と一二五との差===三〇
九五と一一五との差===二〇
九五と一〇五との差===一〇
         ―――――
            六〇
}に等しく、[#「}に等しく、」は前の5行にわたる]
 他方生産物は四四〇に、すなわち、
 一二五
 一一五
 一〇五
  九五
――――
 四四〇
}に増加されるであろう。[#「}に増加されるであろう。」は前の6行にわたる]
しかし、生産物のかかる増加があっても、需要の増加がなければ(註)、これだけの資本を土地に用いる動機は存在し得ないであろう。一部分は引去られ、従って資本の最後の部分は、九五ではなく一〇五を生産し、そして地代は三〇に、すなわち、
一〇五と一二五との差===二〇
一〇五と一一五との差===一〇
          ―――――
             三〇
}に下落するであろう、[#「}に下落するであろう」は前の4行にわたる]
他方生産物はなお人口の欲求する所を満たすに足るであろう、けだし需要は単に三四〇クヲタアに過ぎないのに、それは三四五クヲタア、すなわち、
 一二五
 一一五
 一〇五
――――
 三四五
}であろうから。[#「}であろうから。」は前の5行にわたる]
しかし、土地の貨幣地代は低めるであろうが、穀物地代は低めることなくして、生産物の相対価値を低める所の改良がある。かかる改良は土地の生産力を増加しないが、しかしそれは吾々をしてより少ない労働をもってその生産物を獲得し得せしめるものである。それは土地自身の耕作に向けられるよりはむしろ、土地に充用される資本の構成に向けられる。鍬や打穀機の如き農業器具の改良、耕作に用いられる馬の使用上の節約、及び獣医術の知識の進歩は、かかる性質のものである。より少い資本――それはより少い労働と同じことであるが――が土地に用いられるであろう。しかし同一の生産物を得るためには、より少い土地が耕作されるのでは足りない。しかしながら、この種の改良が穀物地代に影響を及ぼすか否かは、資本の種々なる部分の使用によって得られる生産物の差違が、増加したか、停止的であるか、または減少したかの問題に、依存しなければならない。もし同一の結果を各々与える所の五〇、六〇、七〇、八〇という資本の四部分が土地に使用され、そしてかかる資本の構成におけるある改良が私をして、その各々から、五を引去ることを得しめ、それがためにそれらが四五、五五、六五、及び七五となるならば、穀物地代には何らの変動も起らないであろう。しかしもしその改良が私をして、最も不生産的に使用されている資本部分の全部の節約をなし得せしめるというが如きものであるならば、穀物地代は直ちに下落するであろうが、それはけだし最も生産的な資本と最も不生産的な資本との差違が減少せしめられるからであり、そして地代を形造るものはこの差違であるからである。
(註)私は、農業におけるあらゆる種類の改良が地主に対して有する重要性を過少評価するものと、理解されざらんことを希望する、――その直接の結果は地代を低めることである。しかしそれは人口に対して大なる刺戟を与え、かつそれと同時に吾々をしてより少い労働でより貧弱な土地を耕作し得せしめるから、それは終局的には地主に対し大いに有利なものである。しかしながらそれまでには、この改良が彼に対し積極的に不利な時期が経過しなければならない。
 これ以上例を列挙しなくとも、私は、同一のまたは新しい土地に、逐次用いられる資本部分から得られる生産物の不平等を減少せしめるものは何でも、地代を低下せしめる傾向があり、そしてこの不平等を増加せしめるものは何でも、必然的に反対の結果を生み、そして地代を引上げる傾向があることを、証明するに足るだけのことを、述べたと考える。
 地主の地代について論ずるに当り、吾々はむしろそれを、ある一定の農場に投ぜられた一定の資本によって得られた生産物の一部分と看做し、その交換価値には少しも触れなかった。しかし生産の困難という同一の原因が、粗生生産物の交換価値を引上げ、かつまた地主に地代として支払われる粗生生産物のその部分をも引上げるのであるから、地主は生産の困難によって二重に利益を受けることは明かである。第一に、彼はより大なる分け前を得、そして第二にそれによって彼が支払を受ける貨物の価値が騰貴するのである(註)。
(註)このことを明瞭ならしめ、かつ穀物地代と貨幣地代とが変動する程度を示すために、次の如く仮定しよう。すなわち十名の人間の労働が一定の地質の土地において一八〇クヲタアの小麦を得、そしてその価値は一クヲタアにつき四ポンドすなわち七二〇ポンドであり、そして十名の附加された人間の労働は同一のまたは異る土地において、単に一七〇クヲタアしか余計に生産するに過ぎないとしよう。小麦は四ポンドから四ポンド四シリング八ペンスに、騰貴するであろう、けだし、170:180::£4:£4 4s. 8d. であるから、または一七〇クヲタアの生産において、一方の場合には十名の人間の労働が必要であり、他方の場合には単に九・四四名の労働が必要であるに過ぎぬのであるから、その騰貴は九・四四から一〇に、すなわち四ポンドから四ポンド四シリング八ペンスになるであろう。もし十名の人間が更に用いられ、そして収穫が
一六〇であるならば、価格は四ポンド一〇シリング〇ペンスに騰貴し、
一五〇であるならば、価格は四ポンド一六シリング〇ペンス、
一四〇であるならば、価格は五ポンド二シリング〇ペンスに騰貴するであろう。
 さてもし、穀物が一クヲタアにつき四ポンドである時に、一八〇クヲタアを産出する土地に対し何らの地代も支払われないならば、単に一七〇が得られるに過ぎない時には、一〇クヲタアの価値が支払われるであろうが、それは四ポンド四シリング八ペンスならば四二ポンド七シリング六ペンスであろう。
一六〇が生産される時には、二〇クヲタア、すなわち四ポンド一〇シリングならば九〇ポンド
一五〇が生産される時には、三〇クヲタア、すなわち四ポンド一六シリングならば一四四ポンド
一四〇が生産される時には、四〇クヲタア、すなわち五ポンド二シリング一〇ペンスならば二〇五ポンド一三シリング四ペンス。
 穀物地代は{一〇〇/二〇〇/三〇〇/四〇〇}の比例において、かつ貨幣地代は{一〇〇/二一二/三四〇/四八五}の比例において増加するであろう。[#この行「{}」に挟まれ「/」で区切られた要素は、底本では真横に並ぶ]
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    第三章 鉱山の地代について

(三二)金属は、他の物と同様に、労働によって得られる。もちろん、自然がそれを生産するのではあるが、しかしそれを地球の内部から採掘し、そして吾々の使用に備えるのは、人間の労働である。
 土地と同じく鉱山も一般にその所有者に地代を支払う、そして土地の地代と同じく、この地代は、その生産物の高き価格の結果であって決してその原因ではない。
 もし、何人も占有し得る所の、等しく肥沃な鉱山が豊富にあるとすれば、それは地代を生じ得ないであろう。その生産物の価値は、鉱山から金属を採掘しそれを市場に齎すに必要な労働の分量に依存するであろう。
 しかし等しい分量の労働をもって極めて異れる産物を与える所の、種々なる等級の鉱山がある。採掘されている最劣等の鉱山から生産された金属も、少くとも、啻にそれを採掘しその生産物を市場に齎すことに従事する者によって消費される所のあらゆる衣服、食物、その他の必要品を取得するに足るばかりではなく、更にまたこの企業を経営するに必要な資本を前貸する人に、一般通常の利潤を与えるに足る所の、交換価値を有たなければならぬ。何ら地代を支払わない最劣等の鉱山からの資本への報酬が、他のより生産的なすべての鉱山の地代を左右するであろう。この鉱山は通常の資本の利潤を生むものと仮定されている。この鉱山以上に他の鉱山が生産する所のすべては必然的に地代として所有者に支払われるであろう。この原理は、吾々が土地について既に述べた所と正確に同一であるから、それを更に敷衍する必要はなかろう。
 粗生生産物及び製造貨物の価値を、左右すると同一の一般的規則が、金属にもまた適用され得るものであり、その価値は、利潤率にも労賃率にも、また鉱山に対して支払われる地代にも依存せず、金属を獲得し、それを市場に齎らすに必要な労働の全量によって定まるのであることを、注意すれば足るであろう。
 あらゆる他の貨物と同様に、金属の価値は変化を蒙る。採鉱に用いられる器具及び機械に、改良がなされ、これによって等しく労働が節約されるかもしれず、新しいより生産的な鉱山が発見され、そこでは同一の労働をもって、より多くの金属が得られるかもしれず、またはそれを市場に齎す利便が増すかもしれない。これらの場合のいずれにおいても、金属は価値において下落し、従って他のより少い分量と交換されるであろう。他方において鉱山が採掘されなければならぬ深度の増大や、溜水や、その他の出来事によって惹起される所の、金属獲得の困難の増大のために、他の物と比較してその価値は、著しく騰貴することもあろう。
 従って、いかに正直に一国の鋳貨がその本位に一致していようとも、金及び銀で造られた貨幣はなお価値における変動を蒙り、他の貨物と同様に、啻に偶然的な一時的な変動のみならず、更にまた永続的な自然的な変動をも蒙る、といわれているが、それは正当である。
 アメリカの発見と、そこに多くある豊富な鉱山の発見によって、貴金属の自然価格に対し、極めて大きな影響が生み出された。この影響は、多くの者によって、未だ終っていないと想像されている。しかしながらおそらく、アメリカ発見の結果生じた所の、金属の価値に対するあらゆる影響は、うに終ってしまっているであろう。そしてもし近年その価値において下落が起ったとすれば、それは鉱山採掘法における諸改良に帰せらるべきものである。
 いかなる原因からそれが起ったにしろ、その影響は極めて緩慢でかつ徐々たるものであったために、金及び銀がすべての他の物の価値を評価する一般的媒介物であることには、ほとんど実際上の不便は感ぜられなかった。それは疑いもなく価値の可変的尺度ではあるが、おそらくこれよりも変動を蒙ることの少い貨物はないであろう。これらの金属が有つこの得点、及びその他の例えばその硬性、その展性、その可分性、その他多くの得点の故に、それは正当にも文明国の貨幣の標準として到る処で使用され来ったのである。
 もし等しい分量の労働が、相等しい分量の固定資本をもって、あらゆる時において、地代を支払わない鉱山から等しい分量の金を取得し得るならば、金は事の性質上吾々が有ち得る限りでのほとんど不変的な価値尺度であろう。分量は実際需要につれて増加するであろうがしかしその価値は不変であろう。そしてそれはあらゆる他の物の価値の変動を測定するに、優れて良く適するであろう。私は既に本書の前の部分において、金はこの不変性を有つものと仮定したが、次の章においても私はこの仮定を続けるであろう。従って価格の変動について論ずる際には、その変動は常に貨物にあるものであり、決してそれが評価される所の媒介物には無いものであると、看做されるであろう。
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    第四章 自然価格及び市場価格について

(三三)労働をもって貨物の価値の基礎となし、かつその生産に必要な労働の比較的分量をもって、相互の交換において与えらるべき財貨の各々の分量を決定する規則となすに際して、吾々は、貨物の実際価格、すなわち市場価格が、この、それらのものの第一次的かつ自然価格から、偶然的なかつ一時的な偏倚をすることを否定するものと、想像されてはならない。
 通常の事態においては、かなり久しく、人類の欲望及び願望が要求する正確にその程度に、豊富に、引続き供給される貨物はなく、従って偶然的なかつ一時的な価格の変動を蒙らないものはない。
 資本が、たまたま需要されている種々なる貨物の生産に対し、過不足なきちょうどその必要な分量において、正確に割当てられるのは、ただかかる変動の結果たるに過ぎない。価格の騰落と共に、利潤はその一般的水準以上に騰貴しまたはそれ以下に下落する、そして資本は、そこで変動が起った所の特定の職業に入り込むように刺戟されるか、またはそれから退去するように警告されるのである。
 あらゆる者がその資本をその好む所に自由に用い得る間は、彼は当然に最も有利な職業をそのために求めるであろう。彼は当然に、彼れの資本を移せば一五%の利潤を獲得し得るならば、一〇%の利潤をもって満足しないであろう。より有利な事業に向わんがためにより不利益なものを棄てんとする、あらゆる資本使用者の側のこの不断の願望は、すべてのものの利潤率を均等ならしめ、もしくは、一人が他人に優れて有つべき、または有つと思わるべき所の、得点に対し、当事者の評価の上で補償するが如き比例に、利潤率を固定する、強い傾向を有っている。この変化が行われる過程を辿ることはおそらく極めて困難であろう。それはおそらく製造業者がその職業を絶対的には変更しないがただその職業に彼が投じている資本の分量を減少するということによって、行われるであろう。すべての富める国においては、金持階級と呼ばれるものを構成しているある数の人がいる。これらの人はいかなる事業にも従事せず、手形の割引や、または社会のより勤勉な部分に対する貸金に用いられている所の、彼らの貨幣の利子で生活している。銀行業者もまた同一の目的物に大資本を用いている。かくの如く用いられた資本は多額の流動資本を形造り、そしてその比例には大小があるが、一国のあらゆる種々なる事業によって用いられている。おそらくいかに富んでいても、その事業を彼自身の資本だけでなし得る範囲内にのみ限る製造業者はないであろう、彼は常にこの流動資本のある部分を有し、それは彼れの貨物に対する需要の活溌かっぱつ性に応じ増減しつつある。絹布に対する需要が増加し、毛織布に対するそれが減少する時には、毛織布業者は、彼れの資本と共に絹織業には移らずに、彼れの労働者の若干を解雇し、銀行業者や金持からの貸金に対する需要を止める。他方絹布製造業者の場合は反対である。彼はより多くの労働者を使用せんと欲し、かくて借入に対する彼れの動機は増加する。彼はより多くを借入れ、かくて資本は、一製造業者がその常職業を止める必要なしに、一職業から他のそれに移転される。吾々が大都市の市場に注目し、そしていかに規則正しく、それが、趣味の変遷や人口数の変化から起るあらゆる事情の下において、国内のまたは外国の貨物の必要な分量の供給を受け、しかも余りに豊富な供給による滞貨や供給が需要に等しくないことから起る著しく高い価格という諸結果をしばしば生ずることのないのを観察する時には、吾々は、資本を事業に、そのまさに必要とする分量において割当てる所の原理が、一般に想像されているよりもより活溌に働いていることを、認めなければならないのである。
(三四)一資本家は、その資金に対して有利な用途を探し求めるに当り、一つの職業が他の職業以上に有つ所のすべての得点を、当然考慮に入れるであろう。従って彼は、一つの職業が他の職業以上に有つ所の、安固や清潔や容易やその他の実際のまたは想像上の得点を考慮して、その貨幣利潤の一部分を喜んで抛棄することもあろう。
 もし、かかる事情についての考慮によって、資本の利潤が調整され、その結果一つの事業においては利潤は二〇%、ある他の事業においては二五%、またある他の事業においては三〇%となるならば、これらはおそらく引続き永久的に、この相対的差異を、そしてこの差異のみを、維持するであろう。けだしもし何らかの原因がこれらの事業の一つにおける利潤を一〇%だけ引上げたとしても、しかもかかる利潤は一時的であってまもなく再びその通常の地位に復帰するか、または他の職業の利潤が同一の比例において引上げられるであろうからである。
 現在はこの記述の正当性に対する例外の一つであるように思われる。戦争の終結が、以前に存在したヨオロッパにおける職業の分割を大いに狂わしたために、あらゆる資本家は、なお未だ、現在必要になっている新しい分割において占むべき彼れの地位を発見していないのである。
 すべての貨物がその自然価格にあり、従ってすべての職業における資本の利潤が正確に同一の率にあり、または当事者が所有しあるいは抛棄するある真実のまたは想像上の得点に、彼らの評価において、等しい額だけ、異なるに過ぎない、と仮定しよう。今、流行の変化が、絹布に対する需要を増加し、そして毛織物に対するそれを減少した、と仮定せよ。それらの自然価格すなわちその生産に必要な労働量は引続き不変であろうが、しかし絹布の市場価格は騰貴し、毛織物のそれは下落するであろう。従って絹布製造業者の利潤は一般的のかつ調整された利潤以上に、他方毛織物製造業者のそれはそれ以下に、なるであろう。啻に利潤のみならず労働者の労賃もまた、これらの職業において、影響を蒙るであろう。しかしながら、絹布に対するこの需要増加は、毛織物製造から絹布製造へ資本と労働とが移転することによって、直ちに供給されるであろう。その時には絹布及び毛織物の市場価格は再びその市場価格に接近し、かくて通常の利潤がこれらの貨物の各々の製造業者によって取得されるであろう。
 かくして、貨物の市場価格が引続きある期間に亙ってその自然価格の遥か上または遥か下にあることを妨げるものは、あらゆる資本家がその資金をより不利な職業からより有利なそれに転じようとする願望である。貨物の生産に必要な労働に対する労賃と、用いられた資本をその本来的能率状態に置くために必要なすべての他の費用とを、支払った後に、残余の価値すなわち余剰があらゆる事業において使用された資本の価値に比例するように、貨物の可変的価値を調整するのは、この競争である。
『諸国民の富』の第七章(編者註一)において、この問題に関するすべてが最も巧みに取扱われている。資本の特定の用途において、偶発的原因によって、諸貨物の価格、並びに労働の労賃及び資本の利潤、の上に生み出されるが、貨物の一般的価格、一般的労賃、または一般的利潤には、――社会のあらゆる段階において平等に作用するから、――影響することのない、一時的諸結果を十分認めたのであるから、吾々は、これらの偶発的原因とは全然無関係な諸結果たる、自然価格、自然労賃及び自然利潤を左右する法則を取扱う間は、それを全然度外視するであろう(編者註二)。しからば貨物の交換価値すなわちある一貨物が有つ購買力について論ずるに当っては、私は常に、ある一時的なまたは偶発的な原因によって妨げられないならばそれが有するであろう所のその力を意味するのであり、そしてそれはその自然価格である。
(編者註一)第一巻。
(編者註二)『あなたは常に特定の変化の直接のかつ一時的の諸結果を心にえがいているが、しかるに私はこれらの直接のかつ一時的の諸結果を全然度外視し、そして私の全注意を、それから結果するであろう所の永久的な事物の状態に固着させている。おそらくあなたはこれらの一時的諸結果を余りに高く評価し過ぎているが、しかるに私は余りにそれらを過少評価せんとする気になっているのである。』――マルサスへのリカアドウの書簡、一八一七年一月二十四日。書簡集、一二七頁。
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    第五章 労賃について

(三五)労働は、売買され、かつ量において増減され得るすべての他の物と同じく、その自然価格とその市場価格とを有っている。労働の自然価格とは、労働者をして共に生存しかつその種族を増加も減少もせずに永続し得せしめるに必要な価格である。
 労働者が、彼自身、及び労働者の数を維持するに必要であろう所の家族を、支持する力は、彼が労賃として受取る貨幣量には依存するものではなくて、その貨幣が購買するであろう所の、慣習により彼に不可欠となってなっている食物、必要品、及び便利品の量に依存するものである。従って労働の自然価格は、労働者及び彼れの家族の支持に必要とされる食物、必要品、及び便利品の価格に依存する。食物及び必要品の価格の騰貴と共に労働の自然価格は騰貴し、その価格の下落と共に、労働の自然価格は下落するであろう。
 社会の進歩と共に、労働の自然価格は常に騰貴する傾向を有っているが、けだしそれによってその自然価格が左右される主たる貨物の一つが、その生産の困難の増大によって、より高くなる傾向を有つからである。しかしながら、農業における改良そこから食物が輸入される新市場の発見は、必要品の価格の騰貴への傾向を一時妨げ、そしてその自然価格を下落せしめることさえあるから、この同一の原因は労働の自然価格の上にそれに相応ずる結果を生み出すであろう。
 粗生生産物及び労働を除くすべての貨物の自然価格は、富と人口との増進につれて、下落する傾向を有っている、けだし、一方においてそれは、それをもって造られる所の粗生原料の自然価格の騰貴によって、真実価格が騰貴しはするけれども、これは、機械の改良により、労働のより良き分割及び分配により、及び生産者の知識と技術と両者における熟練の増加によって、相殺されて余りあるからである。
(三六)労働の市場価格とは、需要に対する供給の比例の自然的作用によって、労働に対して実際支払われる価格である。労働はそれが稀少な時に高く、そしてそれが豊富な時に低廉である。労働の市場価格がその自然価格からいかに離れようとも、それは、諸貨物と同様に、これに一致せんとする傾向を有っているのである。
 労働者の境遇が繁栄なかつ幸福なものであり、彼が生活の必要品及び享楽品のより多くの分量をその力の中に支配し、従って健康なかつ数多き家族を養う力を有つのは、労働の市場価格がその自然価格に超過している時においてである。しかしながら、高き労賃が人口の増加に対し与える奨励によって、労働者数が増加される時には、労賃は再びその自然価格にまで下落し、そして事実反動によって、時にはそれ以下に下落するのである。
(三七)労働の市場価格がその自然価格以下にある時には、労働者の境遇は最も悲惨である。その時には、貧困が彼らから、慣習が絶対必要品たらしめている慰楽物を奪ってしまう。労働の市場価格がその自然価格にまで騰貴し、そして労働者が労賃の自然率の与える相当の慰楽品を手に入れるようになるのは、彼らの窮乏が彼らの数を減じ、または労働に対する需要が増加した後のことでしかない。
 その自然率に一致せんとする労賃の傾向にもかかわらず、その市場率は、進歩しつつある社会においては、不定の時期の間、絶えずそれ以上にあるであろう。けだし、増加資本が労働に対する新しい需要に与える刺戟が満たされるや否や、直ちに他の資本増加が同一の結果を生み出すからである。かくて資本の増加が漸次かつ不断であるならば、労働に対する需要は、人口の増加に対して連続的の刺戟を与えるであろう。
 資本はその価値の騰貴と同時に分量において増加し得よう。以前よりもより多くの労働が附加的分量を生産するに必要とされると同じ時に、一国の食物及び衣服に附加がなされ得よう。その場合には啻に資本の分量のみならず更にその価値もまた増大するであろう。
 または資本は、その価値が増加することなしに、、かつその価値が実際減少しつつある間にすら、増加し得よう。啻に一国の食物及び衣服に附加がなされ得るのみならず、更にその附加は、機械の援助によって、それを生産するに必要な労働の比例的分量の増加なくして、かつその絶対的の減少をすら伴って、なされ得よう。資本の量は増加するであろうが、しかるに、その全部の合計にしろ、またはその一部分単独にしろ、以前よりもより大なる価値を有たず、実際により少い価値を有つであろう。
 第一の場合においては、常に食物、衣服、その他の必要品の価格に依存する労働の自然価格は、騰貴するであろう。第二の場合においては、それは引続き静止的であるかまたは下落するであろう。しかし双方の場合において、資本の増加に比例して労働に対する需要の増加があるであろうし、なさるべき仕事に比例してそれをなすべき人々に対する需要があるであろうから、労賃の市場率は騰貴するであろう。
 双方の場合においてまた、労働の市場価格はその自然価格以上に騰貴するであろう。そして双方の場合において、それはその自然価格に一致せんとする傾向を有つであろうが、しかしそれは多くは改善されないであろう。けだし食物及び必要品の価格の騰貴は、彼れの労賃の騰貴の大部分を吸収してしまうであろうから。従って、労働の少しの供給は、または人口の僅少の増加は、市場価格をその時の騰貴した労働の自然価格にまでまもなく低下せしめるであろう。
 第二の場合においては、労働者の境遇は極めて著しく改善せられるであろう。彼は、自分とその家族とが消費する貨物に対して、騰貴せる価格を支払うの必要なくして、かつおそらく下落せる価格をさえ支払って、騰貴せる貨幣労賃をば受取るであろう。そして労働の市場価格が再びその時の低きかつ下落せるその自然価格にまで下落するのは、人口に大なる増加が起って後のことであろう。
 かくてしからば、社会の進歩ごとに、その資本の増加ごとに、労働の市場労賃は騰貴するであろう。しかしその騰貴が永続するか否かは、労働の自然価格もまた騰貴したか否かの問題に依存するであろう。そしてこの問題はまたも、それに労働の労賃が費される所の必要品の自然価格の騰貴に依存するであろう。
 労働の自然価格は、食物及び必要品でもって測られた時ですら、絶対的に固定的であり恒久的であると考えてはならない。それは、同一国においても異なる時には変動し、そして異なる国においては極めて著しく異なっている(註)。それは本質的に人民の習癖及び慣習に依存する。英国の労働者は、もしその労賃が彼をして、馬鈴薯以外の食物を購買し得しめず、また土小屋よりも良い住宅に住み得しめないならば、それはその自然率以下にあり、そして少きに過ぎて家族を支持し得ない、と考えるであろう。しかもこれは、しばしば、十分であると看做されているのである。英国の小屋で今日享受されている便利品の多くは、吾々の歴史の初期においては贅沢品と考えられたことであろう(編者註)。
(註)『一国において不可欠な家屋及び衣服も、他の国においては決して必要ではないこともあろう。そしてヒンドスタンの労働者は、彼れの自然労賃として、ロシアの労働者を死から免れしめるに足らぬような被服の供給を受けているに過ぎぬとはいえ、元気一杯に働き続け得よう。同一の気候に位置する国においてさえ、異る生活習慣は、しばしば、自然的原因によって生み出されるものと同様に顕著な労働の自然価格における変動を惹起するであろう。』――アール・トランズ殿著『外国穀物貿易に関する一論』、六八頁。
 この問題の全体はカアネル・トランズによって最もよく例証されている。
(編者註)この章句及びこれに類する他の章句は、常にまたはほとんど常に、彼らがリカアドウの労賃鉄則と名づけているものと嫌忌をもって語る人々によっては、忘れられている。しかしながらそれは最も重要なものである。
 社会の進歩につれて、製造貨物は常に下落しそして粗生生産物は常に騰貴することによって、富める国においては、労働者は彼れの食物のわずかに少量を犠牲にすれば、彼れのすべての他の欲する所を豊富に備えることが出来る、というような、両者の価値の不釣合が遂に作られるのである。
 貨幣価値の変動――それは必然的に貨幣労賃に影響を及ぼすが、しかし吾々は、貨幣は常に同一の価値を有つものと考えて来たから、ここでは何らの作用もないものと仮定して来た――を別とすれば、労賃は二つの原因によって騰落を蒙るように思われる、すなわち、
 第一、労働者の供給及び需要。
 第二、それに労働の労賃が費される貨物の価格。
(三八)社会の異る段階においては、資本または労働を雇傭する手段の蓄積は、その速度の速いことも遅いこともあり、そしてそれはあらゆる場合において労働の生産力に依存しなければならない。労働の生産力は、肥沃な土地が豊富にある時に、一般に最大である。かかる時期においては蓄積はしばしば極めて速かであるために、労働者は資本と同一の速度で供給され得ないのである。
 好都合な事情の下においては人口は二十五年で倍加し得ると計算されている。しかし、同様の好都合な事情の下においては、一国の全資本はおそらくより短い時期に倍加され得よう。その場合には、労賃は全期を通じて、騰貴する傾向を有つであろうが、けだし労働に対する需要が供給よりもなおより速かに増加するであろうからである。
 遥かに文明の進んだ国の技術及び知識が導入された新植民地においては、資本はおそらく人間よりもより速かに増加する傾向を有つであろう。そしてもし労働者の欠乏がより人口稠密な国によって供給されないならば、この傾向は極めて著しく労働の価格を騰貴せしめるであろう。これらの国が人口稠密となり、そしてより悪い質の土地が耕作されるに至るに比例して、資本の増加への傾向は減少する、けだし現存の人口の欲望を満した後に残る剰余生産物は、必然的に、生産の容易さに、すなわち生産に使用される人数のより小なるに、比例しなければならぬからである。しからば、たとえ最も有利な事情の下においてはおそらく生産力は人口の増加力よりもなおより大であろうとはいえ、それは久しくそうではないであろう。けだし土地はその量が限られておりかつその質が異っているから、その上に用いられる資本全部が増加するごとに、生産率は減少するであろうが、しかし人口増加力は常に引続き同一であるからである。
 肥沃な土地は豊富であるが、しかし、住民の無智、怠惰、及び野蛮のために彼らが欠乏及び饑饉のあらゆる害悪に曝されており、かつ人口が生活資料を圧迫しているといわれている所の国においては、粗生生産物の供給率が逓減するために過剰人口のあらゆる害悪が経験されている旧開国において必要なそれとは、極めて異る救治策が用いられなければならない。一方の場合においては、悪政、財産の不安固、及び人民のあらゆる階級における教育の欠乏から、害悪が発生するのである。より幸福にされんがためには、人口増加以上の資本の増加が不可避な結果であろうから、人民はただ、より良く統治されかつ教育される必要があるのみである。いかなる人口増加も多過ぎることは有り得ないが、それは生産力が更により大であるからである。他方の場合においては、人口はその支持に必要とされる基金よりもより速かに増加する。あらゆる勤労の努力も、人口増加率の減少を伴わぬ限り、生産が人口と歩調を共にし得ないから害悪を増加するであろう。
 人口が生活資料を圧迫している時には、唯一の救治策は、人口の減少かまたは資本のより速かな蓄積かである。すべての肥沃な土地が既に耕作されている富める国においては、後者の救治策は極めて行いやすいわけでもなくまた極めて望ましいわけでもない、けだしその結果は、それが行われ過ぎるならば、すべての階級を等しく貧しくすることであろうからである。しかし肥沃な土地がなお未だ耕作されていないために豊富な生産手段が貯えられてある貧しい国においては、特にその結果は人民のすべての階級を向上せしめることにあるから、それは唯一の安全なかつ有効な害悪除去の方法である。
 人道の友は、すべての国において、労働階級が愉楽品及び享楽品に対して嗜好を有ち、かつ彼らが、あらゆる法律上の手段によって、それらを獲得せんと努力するのを奨励されることを、希望せざるを得ない。これ以上の保証は過剰人口に対して有り得ない。労働階級が最少の欲望を有ちかつ最も低廉な食物で満足している国においては、人民は最大の不安と窮乏とに曝されている。彼らは災害から逃れる避難所を有たない。彼らはより低い地位に安全を求めることは出来ない。彼らの地位は既に極めて低いのでより低く落ちることもできない。彼らの主たる生存資料が少しでも欠乏する場合には、彼らが手にし得る代用品はほとんどなく、そしてその欠除は饑饉の害悪のほとんどすべてを伴うのである。
(三九)社会の自然的進歩につれて、労働の労賃は、それが供給と需要とによって左右される限り、下落する傾向を有つであろう。けだし、労働者の供給は引続き同一率で増加するであろうが、他方彼らに対する需要はより遅い率で増加するであろうからである。例えばもし労賃が、二%の率における資本の年々の増加によって左右されているとするならば、それが単に一・二分の一%の率において蓄積されるに過ぎない時には、労賃は下落するであろう。それが単に一%または二分の一%の率において増加するに過ぎない時には労賃はより低く下落し、そして資本が停止的になるまで引続き下落するであろうが、その時には労賃もまた停止的となり、そしてわずかに現実の人口数を維持するに足るに過ぎないであろう。かかる事情の下においては、もし労賃が単に労働者の供給及び需要によって左右されるに過ぎなければ、それは下落するであろう、と私はいう。しかし吾々は、労賃は、それに労賃が費される貨物の価格によってもまた左右されることを忘れてはならない。
 人口が増加するにつれて、かかる必要品はその生産により多くの労働が必要となるから、絶えず価格において騰貴しつつあるであろう。しからば、もし労働の貨幣労賃が下落し、他方それに労働の労賃が費されるあらゆる貨物が騰貴するならば、労働者は二重に影響を蒙り、そしてまもなく全然生存を奪われるであろう。従って労働の貨幣労賃は下落せずして騰貴するであろう、しかしそれは、労働者をして、慰楽品及び必要品の価格騰貴の前に彼が購入したと同一のそれらの貨物をば買い得しめるほど十分には騰貴しないであろう。もし彼れの年々の労賃が、以前には、二四ポンド、すなわち価格が一クヲタアにつき四ポンドの時に六クヲタアの穀物であったならば、穀物が一クヲタアにつき五ポンドに騰貴した時には、彼はおそらく単に五クヲタアの価値を受取るに過ぎないであろう。しかし五クヲタアは二五ポンドを要費するであろうし、従って彼は、その貨幣労賃においてある附加を受取るであろう。もっともこの附加をもってしても、彼は以前にその家庭において消費していたと同一量の穀物その他の貨物を手に入れることは出来ないであろうが。
 しからば労働者は実際により悪い支払を受けるであろうにもかかわらず、しかも彼れの労賃のこの増加は必然的に製造業者の利潤を減少せしめるであろう。けだし彼れの財貨は決してより高い価格で売れはしないであろうが、しかもなおそれを生産する費用は増加されるであろうからである。しかしながら、このことは、吾々が利潤を左右する諸原理を検討する際に、考察するであろう。
 しからば、地代を高めると同一の原因すなわち食物の同一量を同一比例の労働量をもって供給する困難の増加がまた、労賃をも高めることがわかる。従って、もし貨幣が不変的価値を有つならば、地代と労賃との両者は、富と人口との増進につれて騰貴する傾向を持つであろう。
 しかし地代の騰貴と労賃の騰貴との間には、こういう本質的の差異がある。地代の貨幣価値における騰貴は生産物の分前の増加を伴う。啻に地主の貨幣地代がより大となるばかりでなく、更に彼れの穀物地代もまたより大となる。彼はより多くの穀物を得、かつその穀物の各一定分量は、価値が騰貴しなかったすべての他の財のより大なる分量と、交換されるであろう。労働者の運命は地主よりも不幸であろう。なるほど彼はより多くの貨幣労賃を受取るであろうが、しかし、彼れの穀物労賃は減少するであろ[#「ろ」は底本では欠落]う。そして啻に穀物に対する彼れの支配が減ずるばかりでなく、更に彼れの一般的境遇も、労賃の市場率をその自然率以上に支持することのより困難なことを見出すであろうから、また悪化するであろう。穀物の価格が一〇%騰貴するとしても、労賃は常に一〇%以下しか騰貴しないであろうが、しかし地代は常により以上騰貴するであろう。労働者の境遇は一般的に下落し、そして地主のそれは常に改善されるであろう。
 小麦が一クヲタアについて四ポンドの時、労働者の労賃は一年二四ポンドまたは小麦六クヲタアの価値であると仮定し、また彼れの労賃の半ばは小麦に費され、そして他の半ば、すなわち一二ポンドは他の物に費されると仮定しよう。彼は、
 小麦が{四ポンド四シリング/四ポンド一〇シリング/四ポンド一六シリング/五ポンド二シリング一〇ペンス}の時に{二四ポンド一四シリング/二五ポンド一〇シリング/二六ポンド八シリング/二七ポンド八シリング六ペンス}を、または{五・八三クヲタア/五・六六クヲタア/五・五〇クヲタア/五・三三クヲタア}の価値を、受取るであろう。[#この行「{}」に挟まれ「/」で区切られた要素は、底本では真横に並ぶ]
彼はこれらの労賃を得ても、以前とちょうど同じに生活することは出来るが、より良くは生活し得ないであろう。けだし穀物が一クヲタアにつき四ポンドの時には、彼は穀物三クヲタアに対して、一クヲタアにつき四ポンド
…………一二ポンド
そして他の物に
…………一二ポンド
―――
二四ポンド
を費すであろう。
小麦が四ポンド四シリング八ペンスの時には、彼と彼れの家族とが消費する三クヲタアは、彼に
…………一二ポンド一四シリング
価格の変動しない他の物は
…………一二ポンド〇シリング
―――――――――
二四ポンド一四シリング
費さしめるであろう。
ポンド一〇シリングの時には、三クヲタアの小麦は
…………一三ポンド一〇シリング
そして他の物は
…………一二ポンド〇シリング
―――――――――
二五ポンド一〇シリング
費さしめるであろう。
ポンド一六シリングの時には、三クヲタアの小麦は
…………一四ポンド八シリング
そして他の物は
…………一二ポンド〇シリング
――――――――
二六ポンド八シリング
ポンド二シリング一〇ペンスの時には、三クヲタアの小麦は
…………一五ポンド八シリング六ペンス
そして他の物は
…………一二ポンド〇シリング〇ペンス
――――――――――――
二七ポンド八シリング六ペンス
費さしめるであろう。
 穀物が高くなるに比例して、彼はより少い穀物労賃を受取るであろうが、しかし彼れの貨幣労賃は常に増加するであろう。他方彼れの享楽品は上の仮定によれば正確に同一であろう。しかし、粗生生産物が他の貨物の構成に参加するに比例してそれは価格において引上げられるであろうから、彼はそのあるものに対しより多くを支払わなければならぬであろう。彼れの茶や砂糖や石鹸や蝋燭や家賃はおそらく決してより高くはならないであろうけれども、彼はそのベイコンやチイズやバタや亜麻布や靴や毛織布に対して、より多くを支払うであろう。従って右の如き労賃の騰貴をもってしても、彼れの境遇は比較的にはより悪くなるであろう。
(四〇)しかし私は、金すなわち貨幣の材料たる金属は労賃の変動した国の生産物である、という仮定の上で、価格に及ぼす労賃の影響を考察しつつあったし、また金は外国で生産された金属であるから、私が演繹した結論は事物の実情とほとんど一致しない、といわれるかもしれない。しかしながら、金が外国の生産物であるという事情は、議論の真理を無効ならしめることはないであろう、けだしそれが国内において見出されようともまた外国から輸入されようとも、結果は窮極的にしかも実に直接的にも同一であろうということが、証明され得ようからである。
 労賃が騰貴する時には、それは一般に、富及び資本の増加が確実に貨物の生産増加を伴うべき労働に対する新需要を齎したからなのである。これらの増加せる貨物を流通させるためには、以前と同一の価格においてですら、より多くの貨幣が貨幣の材料であり、そして輸入によってのみ取得され得る所のこの外国貨物のより多くが、必要とされる。一貨物が以前よりもより多くの分量において必要とされる時には常に、その相対価値は、それでこの貨物の購買がなされる他の貨物に比較して騰貴する。もしより多くの帽子が求められる時には、その価格は騰貴し、そしてより多くの金が、それに対して与えられるであろう。もしより多くの金が必要とされるならば、金は価格において騰貴し、そして帽子は下落するであろうが、それは、その時には、帽子及び他のすべての物のより大なる分量が同一量の金を購買するために必要であろうからである。しかし仮定された場合において、労賃が騰貴するから貨物が騰貴するであろうというのは、明かな矛盾を肯定することになる。けだし吾々は第一に、金は需要の結果相対価値において騰貴するであろうと言い、そして第二に、それは物価が騰貴するから相対価値において下落するであろうと言っているが、これは互に全然両立し得ない二つの結果であるからである。価格において貨物が騰貴すると言うのは、相対価値において貨幣が下落すると言うのと同一である。けだし金の相対価値が測られるのは貨物によってであるから。しからばもしすべての貨物が価格において騰貴するならば、金は、これらの高価なる貨物を購買するために、外国から来ることは出来ないが、しかしそれは比較的により低廉な外国貨物の購買に用いるのが有利であるから、それに用いるために国内から出て行くであろう。しからば労賃の騰貴は、貨幣の材料たる金属が国内で生産されようとまたは外国で生産されようと、貨物の価格を引上げはしないであろうと思われる。すべての貨物は、貨幣の分量の附加なくしては同時に騰貴し得ない。この附加は、既に示した如くに、内国においても取得され得ず、また外国からも輸入され得ない。金のある附加量を外国から購買するためには、内国の貨物が高価でなく低廉でなければならぬ。金の輸入と、それで金が購買されまたは支払われるあらゆる国産貨物の価格騰貴とは、絶対的に両立し得ない二結果である。紙幣の広汎なる使用もこの問題を変更しはしない、けだし、紙幣は金の価値に一致するかまたは一致すべきであり、従ってその価値はこの金属の価値に影響する原因によってのみ影響されるからである。
 しからばかかるものが、労賃を左右し、かつあらゆる社会の最大部分の幸福を支配する所の、法則である。あらゆる他の契約と同様に、労賃は市場の公正なかつ自由な競争に委ねらるべく、決して立法の干渉によって支配されてはならない。
(四一)救貧法の明白なかつ直接的な傾向は、かかる明白な諸原理に全く反するものである。それは、立法者が慈悲深くも意図したが如くに、貧民の境遇を改善すべきものではなくして、富者と貧者との双方の境遇を悪化せしむべきものである。貧民を富ましめることはなくして、それは富者を貧しくせんとするものである。そして現在の法律の施行中は、貧民を維持するための基金は逓増的に増加して、ついにそれは国の純収入のすべてを、または少くとも公共の支出に対する国家自身の欠くべからざる必要を満たした後に国家が吾々に残す純収入のすべてを、吸収するのは、全く事理の当然である(註)。
(註)次のビウキャナン氏の章句に、私は、もしそれが窮乏の一時的状態を指すものであるならば、その限りにおいて同意する、すなわち、『労働者の境遇の大なる害悪は、食物の不足かまたは仕事の不足から起る貧困である。そしてあらゆる国において無数の法律が彼れの救済のために施行され来った。しかし立法が救済し得ない窮乏が社会状態にある。従って、行い得ないことを目指すがために真に吾々がなし得る善を見失わないために、その限界を知ることが有用である。』ビウキャナン、六一頁。
 かかる法律の有害なる傾向は、マルサス氏の有為な手によって十分に展開されているから、もはや神秘ではない(編者註)。そしてあらゆる貧民の友は熱心にその廃止を希望しなければならない。しかしながら不幸にして、それは極めて古くから行われ来っており、かつ貧民の慣習はその作用に基いて形造られ来っているから、吾々の政治組織から安全にそれを取除くことは、最も注意深くかつ巧妙な処理を必要とする。この法律の廃止に最も賛成な人々は、その利益のためにこの法律が誤って設けられた所の者に対する、最も恐るべき惨苦を妨げるのが望ましいならば、その廃止は最も徐々たる順序によってなさるべきであることに、すべて一致している。
(編者註)『人口論』第三篇、第五、六、七章、第四篇、第八章。
 貧民の慰楽と福祉とは、彼らの数の増加を規制し、かつ早婚や不用意な結婚を彼らの間で減少せしめるために、彼らの側での幾らかの注意か、立法者の側での幾らかの努力がなければ、永久に確保され得ないことは、疑を容れない真理である。救貧法の制度の作用はこれに正反対であった。それは抑制を余計のものとし、そして慎慮と勤労とによって得た労賃の一部分をそれに与えることによって、不慎慮を招いたのである(註)。
(註)この題目に関し、一七九六年以来下院において表明された知識の進歩は、救貧法に関する委員会の最近の報告と、一七九六年におけるピット氏の次の如き意見とを、対照することによって見られる如く、幸にして少からざるものがあった。
 彼は曰く、『恥辱と軽蔑との理由ではなくして、正義と名誉との事柄たる、子だくさんの場合に、救済をしよう。このことは、大家族を呪詛たらしめずして祝福たらしめるであろう。そしてこのことは、自らの労働によって自らを養いうる人々と、多くの子供でその国を富ましめた後に生活維持に対する国家の援助を請求し得る人々との間に、適当な分界線を劃するであろう。』ハンサアド議会史、第三二巻、七一〇頁。
 この害悪の性質が救治法を指示している。救貧法の範囲を漸次に縮小することによって、貧民に独立なる者の価値を印象づけることによって、彼らに、生活のためには組織的のまたは偶然の慈善に頼らずに彼ら自身の努力に頼らねばならぬこと、また慎慮と先見とは不必要な徳性でもなければ不利益な徳性でもないことを、教えることによって、吾々は順次により健全なより健康的な状態に接近するであろう。
 救貧法の廃止をその終極目的としない救貧法修正案は、全然注意に値しない。そしていかにしてこの目的が最も安全にかつ同時に最少の暴力をもって達せられ得るかを指示し得る者こそが、貧民に対しかつ人道に対する最良の友である。害悪が軽減され得るのは、現在と異る方法で貧民が支持される基金を、徴収することによってではない。それは、啻に改良ではないのみならず、もしこの基金の額が増加せしめられるかまたはある最近の提議によってこの国全般から一般基金として賦課されるならば、吾々が除去されんことを望む所の災害の加重であろう。現在のその徴収方法及び使用方法は、その有害な結果を軽減するに役立って来た。各教区はそれ自身の貧民の支持のために別々の基金を徴収している。従って一般基金が全王国の貧民救済のために徴収される場合よりも、税金を低くしておくことがより有利でありかつより行いやすいこととなっている。一教区は、数百の他の教区がそれに参加している場合よりもはるかに、この税金の経済的な徴収をより利益あることとし、かつ節約の全部がそれ自身の利益になるであろうから救助を少ししか分配しないことをより利益あることとしているのである。
 吾々は、救貧法が未だこの国の全純収入を吸収してしまっていないという事実を、この原因に帰しなければならぬ。それが驚くべく圧制的になっていないことの理由は、その適用が厳正であることにある。もし法律によって、生計に困っているあらゆる者に確実に生計を得しめ、しかも生活を相当に愉楽ならしめる程度に生計を得しめることが出来るならば、理論は吾々を導いて、他の租税を全部合せてもこの救貧税という単一の租税と比較して軽微なものであろうと、期待せしめるであろう。かかる法律が、富と力とを貧と弱とに変え、労働の努力を単なる生活資料供給の目的以外のあらゆる目的から引離し、すべての知的優越を無にし、精神を絶えず肉体的欲求物の供給に忙殺せしめ、ついに一切の階級を一般的貧困という悪疫にかからせる、という傾向のあることは、重力の原理と同様に確実である。幸にしてかかる法律は、労働維持のための基金が規則正しく増加し、かつ人口の増加が自然的に必要とされた所の、進歩的繁栄期に、行われ来った。しかしもし吾々の進歩がより遅くなるならば、もし吾々が静止的状態――吾々はかかる状態からはなお未だ遠く隔っていると私は信ずるが――に達するならば、その時にこの法律の有害な性質はより明かにかつ脅威的になり、またその時にはこの法律の廃止は多くのより以上の困難によって妨害されるであろう。
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    第六章 利潤について

(四二)資本の利潤は、種々なる職業において、相互に一つの比例を保ち、かつすべて同一の程度にかつ同一の方向に変動する傾向を有つことが、説明されたから、利潤率の永続的変動、及びそれに従って起る利子率における永続的変動の原因は何であるか、を考察することが、吾々にとって残っていることになる。
 吾々は、穀物の価格(註)が資本のうち地代を何ら支払わない部分をもってそれを生産するに必要な労働量、によって左右されることを、見た。吾々はまた、すべての製造貨物は、その生産に必要となる労働の大小に比例して、価格において騰落することも、見た。価格を左右する質(訳者註)の土地を耕作する農業者も財貨を製造する製造業者も、生産物の何らの部分をも地代として犠牲にしない。彼らの貨物の全価値は単に二つの部分に分たれるに過ぎない、すなわちその一は資本の利潤を成し、他は労働の労賃を成すのである。
(註)読者は、この主題をより明かならしめんがために、私が、貨幣をもって価値において不変なものと看做し、従って価格のあらゆる変動は貨物の価値における変動に帰せらるべきものと看做していることを、記憶せられんことを乞う。
(訳者註)『地質なる語は、原本第一版及び第二版の quality の訳語であるが、原本第三版には、これが quantity となっている。』――堀經夫博士訳書、一一〇頁。
 穀物及び製造財貨が常に同一の価格で売れると仮定すれば、利潤は、労賃が低いか高いかに比例して高くあるいは低いであろう。しかし穀物が、それを生産するにより多くの労働が必要であるために、価格において騰貴したと仮定せよ。この原因は、その生産において何ら附加的労働量も必要とされない所の製造財貨の価格を騰貴せしめないであろう。しからば、もし労賃が引続き同一であるならば、製造業者の利潤は依然として同一であろう。しかし、もし労賃が穀物の騰貴と共に騰貴するならば、――このことは絶対に確実であるが――彼らの利潤は必然的に下落するであろう。
 もし、製造業者が常に彼れの財貨を同一の貨幣額、例えば一、〇〇〇ポンドに対して、売るとするならば、彼れの利潤はそれらの財貨を製造するに必要な労働の価格に依存するであろう。彼が六〇〇ポンドを支払うに過ぎなかった時よりも、労賃が八〇〇ポンドに達した時の方が、彼れの利潤はより少いであろう。かくて労賃が騰貴するに比例して、利潤は下落するであろう。しかしもし粗生生産物の価格が騰貴するならば、農業者は労賃として追加額を支払わなければならなくとも、少くとも同一の利潤率を得ないであろうか? と問われるかもしれない。確かにそれは得られない、けだし彼は啻に製造業者と共に、彼が雇傭する各労働者に労賃の増加を支払わなければならないであろうのみならず、更に彼は地代を支払うか、または同一生産物を獲得するために労働者の附加数を雇傭するのいずれかを余儀なくされるであろうし、また粗生生産物の価格における騰貴は、この地代またはこの附加数に比例するに過ぎぬものであって、従って労賃の騰貴に対して彼に償いをしないであろうからである。
 もし製造業者及び農業者の両者が十名の人間を用いるとすれば、労賃が一人当り一年間二四ポンドから二五ポンドに騰貴する場合には、その各々によって支払われる全額は二四〇ポンドではなく二五〇ポンドであろう。しかしながら、これが製造業者が同一分量の貨物を得るために支払うであろう所の附加の全部である。しかし新しい土地における農業者はおそらく、一名の附加的労働者を使用し、従って労賃として二五ポンドの附加額を支払うを余儀なくされるであろう。そして旧い土地における農業者は地代として二五ポンドという正確に同一の附加額の支払を余儀なくされるであろう。この附加的労働がなければ、穀物も騰貴しなかったであろうし、また地代も増加しなかったであろう。従って一方は労賃のためのみに二七五ポンドを支払わなければならず、他方は労賃と地代との合計のためにこの額を支払わなければならないであろう。各々は製造業者よりも二五ポンドだけより多く支払わなければならない。この後の二五ポンドを、農業者は粗生生産物の価格の附加によって償われ、従って彼れの利潤はなお製造業者の利潤と一致する。この命題は重要であるから、私はなお更に、その説明に努めるであろう。
 吾々は既に、社会の初期においては、土地生産物の価値に対する地主及び労働者の両方の分前は僅少に過ぎないであろうし、かつそれは富の増進及び食物獲得の困難に比例して増加するであろうということを、証明した。吾々はまた、労働者の収得する価値は食物の高い価値によって増加されるであろうけれども、彼れの真実の分前は減少するであろうが、しかるに地主のそれは啻に価値において増加されるばかりでなく、更に分量においても増加されるであろう、ということを証明した。
 地主及び労働者が支払を受けた後に残る土地の生産物の残りの分量は、必然的に農業者に帰属し、そして彼れの資本の利潤をなすものである。しかし、社会が進歩するにつれ全生産物に対する彼れの分前は減少するであろうけれども、しかもそれは価値において騰貴するであろうから、地主及び労働者と同様に彼もまた、それにもかかわらず、より多くの価値を受けるであろう、と主張されるかもしれない。
 例えば、穀物が四ポンドから一〇ポンドに騰貴した時には、最良の土地から得られる一八〇クヲタアは七二〇ポンドではなく、一、八〇〇ポンドで売れ、従って地主及び労働者は地代及び労賃としてより多くの価値を得るということが証明されたとしても、しかも農業者の利潤の価値もまた増大されるであろう、といわれるかもしれない。しかしながらかかることは、私がいま次に説明を試みる如く、不可能なことである。
 第一に、穀物の価格はただ、より劣等な品質の土地においてそれを栽培する困難の増加に比例して騰貴するに過ぎないであろう。
 次のことは既に述べた所である、すなわち、もし十名の人間の労働が、一定の品質の土地において、一八〇クヲタアの小麦を獲得し、その価値が一クヲタアにつき四ポンド、すなわち七二〇ポンドであるとし、かつもし十名の附加された人間の労働が同一のまたはある他の土地において、更に加うるに一七〇クヲタアを生産するに過ぎないならば、170:180:£4:£4 4s. 8d. であるから小麦は四ポンドから四ポンド四シリング八ペンス(編者註)に騰貴するであろう。換言すれば、一七〇クヲタアの生産に対して、一方の場合には十名の人間の労働が必要であり、そして他方の場合には九・四四名のそれが必要であるに過ぎないから、騰貴は九・四四対一〇であり、または四ポンド対四ポンド四シリング八ペンスであろう。同様にして、もし十名の附加された人間の労働が一六〇クヲタアを生産するに過ぎなければ、価格は更に四ポンド一〇シリングに騰貴するであろうし、一五〇クヲタアならば、四ポンド一六シリングに騰貴するであろう、等々、ということが証明され得よう。
(編者註)概算すれば四ポンド四シリング八ペンス[#「ペンス」は底本では「ペニス」]二分の一により近い。
しかし、地代を支払わない土地において一八〇クヲタアが生産され、かつその価格が一クヲタアについて四ポンドの時には、それは次の価格で売られる、
…………七二〇ポンド
そして地代を支払わない土地において一七〇クヲタアが生産され、かつ価格が四ポンド四シリング八ペンスに騰貴した時には、それはなお次の価格で売られる、
…………七二〇ポンド
かくて四ポンド一〇シリングで一六〇クヲタアは次を生む、
…………七二〇ポンド
そして四ポンド一六シリングで一五〇クヲタアは同一の額を生む、
…………七二〇ポンド
 さて、もしこれらの相等しい価値から、農業者がある時には四ポンドの小麦の価格によって左右される労賃を支払うを余儀なくされ、そして他の時にはより高い価格によって左右される労賃を支払うを余儀なくされるならば、彼れの利潤率は穀価の騰貴に比例して減少するであろう、ということは明かである。
 従ってこの場合において、労働者の貨幣労賃を騰貴せしめる穀価の騰貴は農業者の利潤の貨幣価値を減少する、ということが明かに証明されている、と私は考えるのである。
 しかし旧いかつより良い土地の農業者の場合も決してこれと少しも異る所はないであろう。彼もまた騰貴した労賃を支払わなければならず、かつ、その労賃はいかに高くとも、彼自身及び常に同数なる彼れの労働者の間に分割されるべき生産物の価値は、七二〇ポンド以上を保有しないであろう。従って彼らがより多くを得るに比例して彼はより少しを保有しなければならぬのである。
 穀価が四ポンドであった時には全一八〇クヲタアは耕作者に帰属し、そして彼はそれを七二〇ポンドで売った。穀物が四ポンド四シリング八ペンスに騰貴した時には、彼は地代としてその一八〇クヲタアから一〇クヲタアの価値を支払うを余儀なくされ、従って残りの一七〇クヲタアは彼に七二〇ポンドを与えるに過ぎなかった。それが更に四ポンド一〇シリングに騰貴した時には、彼は地代として二〇クヲタアを、あるいはその価値を支払い、従って一六〇クヲタアを保有したに過ぎず、それは七二〇ポンドという同一の額を与えたのである。
 しからば次のことがわかるであろう、すなわち生産物の一定の附加量を得るためにより以上の労働と資本とを用いることが必要である結果として穀価がいかに騰貴しようとも、かかる騰貴は、附加的地代により、あるいは用いられる附加的労働により、価値において常に相殺されてしまうであろうから、従って、穀物が四ポンドに売れても四ポンド一〇シリングに売れてもまたは五ポンド二シリング一〇ペンスに売れても、農業者は、地代を支払った後彼れの手に残るものとしては、同一の真実価値を得るであろう。かくて吾々は、農業者に帰属する生産物が一八〇クヲタアであっても一七〇クヲタアであっても一六〇クヲタアであってもまたは一五〇クヲタアであっても、彼はそれに対し常に七二〇ポンドという同一額を得ることを知るが、それは価格が分量に反比例して騰貴するからである。
 かくて地代は、思うに、常に消費者の負担となり決して農業者の負担にはならない、けだしもし彼れの農場の生産物が一様に一八〇クヲタアであるならば、価格の騰貴と共に、彼は自分自身に対しより少い分量の価値を保有し、彼れの地主にはより大なる分量の価値を与えるけれども、しかしこの控除は彼に常に七二〇ポンドという同一額を残すように行われるからである。
 すべての場合において、七二〇ポンドという同一額が労賃と利潤とに分割されなければならぬこともまた、わかるであろう。もし土地からの粗生生産物の価値がこの価値を超過するならば、その額が幾何いくばくであろうと、それは地代に属する。もし何ら超過がないならば、地代はないであろう。労賃または利潤が騰貴しようと下落しようと、この両者が与えられなければならない原本はこの七二〇ポンドという額である。一方において利潤は労働者に絶対必要品を与えるに十分な額が残されないくらいにこの七二〇ポンドの中の多くを吸収してしまうほど騰貴することは出来ない。他方において労賃は、この額のうち利潤には何物も残さないというほどに騰貴することは出来ない。
 かくて、あらゆる場合において、農業利潤並びに製造業利潤は、粗生生産物の価格の騰貴――もしそれが労賃の騰貴を伴うならば、――によって低下せしめられる(註)。もし農業者が、地代を支払った後彼れの手に残る穀物に対し何らの附加的価値をも得ず、もし製造業者が、彼が製造する財貨に対して何らの附加的価値をも得ず、またもし両者が労賃により大なる価値を支払うを余儀なくされるならば、労賃の騰貴と共に利潤は下落しなければならぬということ以上に明瞭に確証され得る事柄があろうか?
(註)読者は、季節の良否から、または人口の状態に対する突然の影響のために起る需要の増減から、発生する所の、偶然の変動は、吾々はこれを考慮外に置いていることを知っている。吾々は、穀物の自然的な恒常的な価格について論じているのであって、その偶然的な動揺的な価格について論じているのではない。
 かくて農業者は、その地主の地代――それは常に生産物の価格によって左右され、そして常に消費者の負担に帰するものであるが――のいかなる部分をも支払いはしないけれども、しかも地代を低く保つことに、またはむしろ生産物の自然価格を低く保つことに、極めて明かな利害を有っているものである。粗生生産物の、及び粗生生産物が一構成部分として入り込んでいる物の、消費者として、彼は、あらゆる他の消費者と共通に価格を低く保つことに利害を有つであろう。しかし彼は、穀物の高い価格は労賃に影響を及ぼすが故に、それに最も重大な関係を有っているのである。穀価のあらゆる騰貴と共に、彼は、七二〇ポンドという等しくかつ変動しない額から、附加的額を労賃として、彼が常に用いるものと仮定されている十名の人間に支払わねばならぬであろう。吾々は労賃を論ずる際に、それは常に粗生生産物の価格の騰貴と共に騰貴することを見た。一一三頁において、計算のために仮定された基礎によれば、もし小麦が一クヲタアにつき四ポンドである時に、労賃が一年につき二四ポンドであるならば、次のことがわかるであろう。
 小麦が{四ポンド四シリング八ペンス/四ポンド一〇シリング〇ペンス/四ポンド一六シリング〇ペンス/五ポンド二シリング一〇ペンス}の時には、労賃は{二四ポンド一四シリング〇ペンス/二五ポンド一〇シリング〇ペンス/二六ポンド八シリング〇ペンス/二七ポンド八シリング六ペンス}であろう。[#この行「{}」に挟まれ「/」で区切られた要素は、底本では真横に並ぶ]
 さて労働者と農業者との間に分配せらるべき七二〇ポンドなる不変の基金のうち、
 小麦の価格が{四ポンド〇シリング〇ペンス/四ポンド四シリング八ペンス/四ポンド一〇シリング〇ペンス/四ポンド一六シリング〇ペンス/五ポンド二シリング一〇ペンス}の時には、労働者は{二四〇ポンド〇シリング/二四七ポンド〇シリング/二五五ポンド〇シリング/二六四ポンド〇シリング/二七四ポンド五シリング}農業者は{四八〇ポンド〇シリング〇ペンス/四七三ポンド〇シリング〇ペンス/四六五ポンド〇シリング〇ペンス/四五六ポンド〇シリング〇ペンス/四四五ポンド一五シリング〇ペンス}を受取るであろう(註)。[#この行「{}」に挟まれ「/」で区切られた要素は、底本では真横に並ぶ]
 そして農業者の最初の資本が三、〇〇〇ポンドであると仮定すれば、彼れの資本の利潤は第一の場合には四八〇ポンドであるから、一六%の率にあろう。彼れの利潤が四七三ポンドに下落した時にはそれは一五・七%の率(編者註一)。
四六五ポンド………………………………………………一五・五%
四五六ポンド………………………………………………一五・二%
四五五ポンド………………………………………………一四・八%
であろう。
(註)一八〇クヲタアの穀物は、上記の価格の変動と共に、次の比例において、地主、農業者、及び労働者の間に分たれるであろう。
 一クヲタアの価格/地代小麦で/利潤小麦で/労賃小麦で/合計
ポンド〇シリング〇ペンス/無し/一二〇クヲタア/六〇クヲタア}一八〇[#「}一八〇」はこの後の5行にわたる]
ポンド四シリング八ペンス/一〇クヲタア/一一一・七/五八・三
ポンド一〇シリング〇ペンス/二〇/一〇三・四/五六・六
ポンド一六シリング〇ペンス/三〇/九五/五五
ポンド二シリング一〇ペンス/四〇/八六・七/五三・三
そして同一の事情の下において、貨幣地代、貨幣労賃、及び貨幣利潤は次の如くであろう。
 一クヲタアの価格/地代/利潤/労賃/合計
ポンド〇シリング〇ペンス/無し/四八〇ポンド〇シリング〇ペンス/二四〇ポンド〇シリング〇ペンス/七二〇ポンド〇シリング〇ペンス
ポンド四シリング八ペンス/四二ポンド七シリング六ペンス/四七三ポンド〇シリング〇ペンス/二四七ポンド〇シリング〇ペンス/七六二ポンド七シリング六ペンス
ポンド一〇シリング〇ペンス/九〇ポンド〇シリング〇ペンス/四六五ポンド〇シリング〇ペンス/二五五ポンド〇シリング〇ペンス/八一〇ポンド〇シリング〇ペンス
ポンド一六シリング〇ペンス/一四四ポンド〇シリング〇ペンス/四五六ポンド〇シリング〇ペンス/二六四ポンド〇シリング〇ペンス/八六四ポンド〇シリング〇ペンス
ポンド二シリング一〇ペンス/二〇五ポンド一三シリング四ペンス/四四五ポンド一五シリング〇ペンス/二七四ポンド五シリング〇ペンス/九二五ポンド一三シリング四ペンス(編者註二)
(編者註一)これは一五・八%であるべきである。それは正確には一五・七六である。
(編者註二)以上の表は一見そう見えるほど精密に正確なわけではない。与えられた二表の中の第二表では、合計は第二行と第五行とで不正確である。一クヲタアにつき四ポンド四シリング八ペンスでの一〇クヲタアの価格は、四二ポンド七シリング六ペンスではなく、四二ポンド六シリング八ペンスである。更に、クヲタア当り同価格で一八〇クヲタアは七六二ポンド七シリング六ペンスでは売れず、七六二ポンドに売れる。また、五ポンド二シリング一〇ペンスでの一八〇は九二五ポンド一〇シリングであって、九二五ポンド一三シリング四ペンスではない。修正し概数で現わせば表は次の如くである。――
 一クヲタアの価格/小麦地代/小麦利潤/小麦労賃/合計
ポンド〇シリング〇ペンス/無し/一二〇/六〇/一八〇
ポンド四シリング八ペンス/九・九二/一一一・七三/五八・三五/一八〇
ポンド一〇シリング〇ペンス/二〇/一〇三・四/五六・六/一八〇
ポンド一六シリング〇ペンス/三〇/九五/五五/一八〇
ポンド二シリング一〇ペンス/一〇/三九・九七/八六・六九/五三・三四/一八〇
そしてもし貨幣で測られるならば。――
 一クヲタアの価格/地代/利潤/労賃/合計
ポンド〇シリング〇ペンス/無し/四八〇ポンド〇シリング〇ペンス/二四〇ポンド〇シリング〇ペンス/七二〇ポンド〇シリング〇ペンス
ポンド四シリング八ペンス/四二ポンド〇シリング〇ペンス/四七三ポンド〇シリング〇ペンス/二四七ポンド〇シリング〇ペンス/七六二ポンド〇シリング〇ペンス
ポンド一〇シリング〇ペンス/九〇ポンド〇シリング〇ペンス/四六五ポンド〇シリング〇ペンス/二五五ポンド〇シリング〇ペンス/八一〇ポンド〇シリング〇ペンス
ポンド一六シリング〇ペンス/一四四ポンド〇シリング〇ペンス/四五六ポンド〇シリング〇ペンス/二六四ポンド〇シリング〇ペンス/八六四ポンド〇シリング〇ペンス
ポンド二シリング一〇ペンス/二〇五ポンド一〇シリング〇ペンス/四四五ポンド一四シリング〇ペンス/二七四ポンド五シリング〇ペンス/九二五ポンド一〇シリング〇ペンス
 しかし、利潤のはなおより以上下落するであろうが、けだし農業者の資本は、――想起さるべきであるが――生産物の騰貴の結果すべて価格が騰貴するであろう所の、彼れの穀物や乾草堆、彼れの打穀しない小麦や大麦、彼れの馬や牛の如き粗生生産物から、大部分成っているからである。彼れの絶対利潤は、四八〇ポンドから四四五ポンド一五シリングに下落するであろう。しかしもし私が今述べた原因によって彼れの資本が三、〇〇〇ポンドから三、二〇〇に騰貴するならば、彼れの利潤の率は、穀物が五ポンド二シリング一〇ペンスである時には、一四%以下になるであろう。
 もし製造業者もまたその業務に三、〇〇〇ポンドを使用していたとすれば、彼は、労賃の騰貴の結果、同一の業務を営んで行くことが出来るためには、その資本を増加するを余儀なくされるであろう。もし彼れの貨物が以前には七二〇ポンドで売れたとすれば、それは引続き同一の価格で売れるであろうが、しかし以前には二四〇ポンドであった労働の労賃は、穀物が五ポンド二シリング一〇ペンスの時には二七四ポンド五シリングに騰貴するであろう。第一の場合には、彼は、三〇〇〇ポンドに対する利潤として四八〇ポンドの残額を得るであろうが、第二の場合には、彼は、増加された資本に対し単に四四五ポンド一五シリングの利潤を得るに過ぎず、従って彼れの利潤は、農業者の変更された利潤率に一致するであろう。
 粗生生産物の騰貴によってその価格が多かれ少かれ影響を蒙らない貨物はほとんどない、けだし土地からのある粗生原料品が大部分の貨物の構成に入り込むからである。綿製品や亜麻布や毛織布は、すべて小麦の騰貴と共に価格において騰貴するであろう。しかしそれらが騰貴したのは、それでそれらの物が作られる粗生原料品により多くの労働量が投ぜられたためであって、製造業者がこれらの貨物の製造に用いた労働者に対して彼がより多くを支払ったためではない。
 あらゆる場合において、貨物が騰貴するのはそれにより多くの労働が投ぜられるからであって、それに投ぜられる労働がより高い価値にあるからではない。宝石や鉄や銀や銅の品物は、地表から得られる粗生生産物が何らその構成に入り込まないから騰貴しないであろう。
(四三)私は貨幣労賃は粗生生産物の価格の騰貴と共に騰貴すべきことを異論のないことと認めているが、しかし、労働者はより少い享楽物で満足するかもしれないから、これは決して必然的帰結ではない、と言われるかもしれない。なるほど労賃は以前には高い水準にあったが、それは若干の低減に耐えることもあろう。もしそうであるならば利潤の下落は妨げられるであろう。しかし必要品の価格が徐々と騰貴しているのに労賃の貨幣価格は下落しまたは静止している、と考えることは不可能である。従って通常の事情の下においては、労賃の騰貴を惹起さずに、またはそれに先行されずに、必要品の価格が永久的に騰貴することはないということを、異論のないことと認め得よう。
 もし、それに労働の労賃が費される所の、食物以外の他の必要品の価格に、騰貴が起ったとすれば、利潤の上に生み出される影響は、同一であるかまたはほとんど同一であったであろう。かかる必要品に対し騰貴せる価格を支払わねばならぬという労働者の必要は、彼をしてより多くの労賃を要求するを余儀なからしめるであろう。そして労賃を騰貴せしめるものはいかなるものも必然的に利潤を低減する。しかし、労働者が必要としない所の絹や天鵞絨ビロードや什器やその他の貨物が、それにより多くの労働が投ぜられる結果騰貴すると仮定すれば、このことは利潤に影響を及ぼさないであろうか? 確かに及ぼさない。けだし労賃の騰貴以外に何物も利潤に影響を及ぼし得ないが、絹や天鵞絨ビロードは労働者によって消費されず、従って労賃を騰貴せしめ得ないからである。
 私は利潤に関し一般的に論じているのであることを了解してもらいたい。私は既に、貨物の市場価格は、その貨物に対する新しい需要が要求するよりもより少い分量において生産されることがあろうから、その自然価格または必要価格を超過することがあろう、と述べた、しかしながら、このことは単に一時的結果に過ぎない。その貨物の生産に用いられる資本に対する高い利潤は当然に資本をその事業に吸引するであろう。そして必要な資金が供給され、かつその貨物の分量が適当に増加されるや否や、その価格は下落し、そしてその事業の利潤は一般水準に一致するであろう。一般利潤率の下落は、特定職業の利潤の部分的騰貴と決して両立し得ないものではない。資本が一職業から他の職業に移転されるのは、利潤の不平等によってである。かくて、一般利潤が、労賃の騰貴と増加しつつある人口に必要品を供給する困難の増加との結果として、下落しつつあり、そして徐々により低い水準に落着きつつある間は、農業者の利潤は、ある短い時期の間、前の水準以上にあり得よう。外国貿易及び植民地貿易の特定の部門にもまた、ある時期の間、異常の奨励が与えられ得よう。しかしこの事実の認容は決して、利潤は労賃の高低に依存し、労賃は必要品の価格に、そして必要品の価格は主として食物の価格に依存する――けだしすべての他の必要品はほとんど限り無く増加され得ようから――という理論を、無効ならしめるものではない。
 価格は常に、市場において変化し、そして第一に、需要と供給との比較的状態によって変動することを、想起せらるべきである。たとえ毛織布が一ヤアルにつき四〇シリングで供給され、かつ資本の日常利潤を与えることが出来るとしても、流行の一般的変化によりまたは突然に予想外にその需要を増加しまたはその供給を減少するある他の原因によって、それは六〇シリングまたは八〇シリングに騰貴するであろう。毛織布の製造者は一時の間異常の利潤を得るであろうが、しかし、資本は当然にその製造業に流入し、ついに供給と需要とは再びその正当な水準にあるようになり、その時には毛織布の価格は再びその自然価格または必要価格たる四〇シリングに下落するであろう。同様にして、穀物に対する需要の増加するごとに、それは農業者に一般利潤よりより以上を与えるほどに騰貴するであろう。もし豊富な沃土があるならば、必要な資本量がその生産に用いられた後は、穀物の価格は再びその以前の標準に下落し、そして利潤は依然の如くなるであろうが、しかしもし、豊富な沃土がなく、もしこの附加的分量を生産するに普通の分量以上の資本と労働とが必要とされるならば、穀物はその以前の水準にまで下落しないであろう。その自然価値は騰貴するであろう。そして農業者は、永続的により大なる利潤を取得することなく、必要品の騰貴により齎される労賃の騰貴の不可避的結果たる、減少せる率に満足するの余儀なき立場に立つであろう。
(四四)しからば、利潤の自然的傾向は下落することである。けだし、社会及び富の進歩につれて、必要とされる食物の附加的分量はますますより多くの労働の犠牲によって得られるからである。利潤のこの傾向、すなわちいわばこの重力は、幸にして、しばしば、必要品の生産と関連せる機械の改良により、並びに吾々をして以前に必要とされた労働の一部分を不要にし得しめ、従って労働者の第一次的必要品の価格を引下げ得せしめる農学上の発見によって、妨げられている。しかしながら、必要品の価格と労働の労賃との騰貴は限られている。けだし労賃が(前に述べた場合における如く)農業者の全受取額たる七二〇ポンドに等しくなるや否や、蓄積は終らねばならず、またけだしいかなる資本もかかる時には何らの利潤をも生出し得ず、そして何らの附加的労働も需要され得ず、従って人口はその頂点に到達しているであろうからである。実際この時期の遥か以前に極めて低い利潤率がすべての蓄積を制止しているであろう、そして一国のほとんど全部の生産物は、労働者に支払った後に、土地の所有者及び十分の一税と租税との受取人の財産となるであろう。
 かくて、前の極めて不完全な基礎を私の計算の根拠とするならば、次のことがわかるであろう。すなわち穀物が一クヲタアにつき二〇ポンドの時には国の全純所得は地主に帰属するであろうが、それはけだしその時には、本来一八〇クヲタアを生産するために必要であったと同一量の労働が三六クヲタアを生産するために必要となるであろう、何となれば、£20:£4::180:36 であるから。しからば一八〇クヲタアを生産する農業者は(もしかかる者がいるといると仮定すれば――というわけは、土地に用いられる旧資本と新資本とは、決して区別され得ないように混合されるであろうから)、
一八〇クヲタアを一クヲタア二〇ポンドで売るであろう、すなわち……三、六〇〇ポンド
一四四クヲタアの価値を地代として地主に、これは三六クヲタアと
      一八〇クヲタアとの差である……………………………二、八八〇
――――――                        ―――――
三六クヲタア                          七二〇
三六クヲタアの価値を十名の労働者に、……………………………………七二〇
                              ―――――
 かくて利潤としては何物も残さないであろう。
私はこの二ポンドなる価格において労働者は引続き毎年三クヲタアを消費すると仮定し……六〇ポンド
かつ他の貨物に彼らは次を費すと仮定した、…………………………………………………………………一二
                                      ―――――――――
                                      各労働者に対し七二
従って十名の労働者は一年につき七二〇ポンドに値するであろう。
 すべてのこれらの計算において、私は、単に原理を闡明せんめいしようと希望しているのであって、私の全基礎が勝手に仮定されているのであり、しかも単に例証のために過ぎないことを述べる必要はほとんどない。増加しつつある人口によって必要とされる穀物逐次の分量を獲得するに必要な労働者数の差違を説明する際に、労働者の家族が消費する分量、等々を、述べることで、私がいかに正確に叙述を始めようとも、その結果は、程度こそ異ろうが、原理においては同一であったであろう。私の目的は問題を簡単にすることであった、だから私は、労働者の食物以外の他の必要品の価格騰貴を考慮に入れなかったが、この増加は、それによってそれらが造られる粗生原料品の価値騰貴の結果であり、またもちろん労賃を更に騰貴せしめ利潤を低下せしめるものであろう。
 私は既に、この価格の状態が永久的ならしめられる遥か前に、蓄積に対する動因はなくなるであろうが、それはけだし何人も、彼れの蓄積を生産的ならしめんと考えることなくして蓄積する者はなく、また蓄積が利潤に影響を及ぼすのは、それが生産的に用いられる時に限るからである、と述べた。動因がなければ蓄積はあり得ず、従ってかかる価格の状態は決して起り得ないであろう。農業者も、製造業者も、労働者が労賃なくしては生活し得ないと同様に、利潤なくしては生活し得ない。彼らの蓄積に対する動因は利潤が減ずるごとに減少し、そして、彼らの利潤が、彼らの労苦と彼らがその資本を生産的に用いるに当って必然的に遭遇しなければならぬ危険とに対して、彼らに適当な報償を与えない時には、全然止んでしまうであろう。
 私は再び、私の計算において測ったよりも利潤率は遥かにより速かに下落するであろうが、それはけだし、生産物の価値が、仮定された事情の下において、私の述べた如くであるとするならば、農業者の資本の価値は、それが必然的に価値において騰貴した貨物の多くから成っていることによって、大いに増加せしめられているであろうからである、ということを、述べなければならない。穀物が四ポンドから一二ポンドに騰貴し得る前に、彼れの資本はおそらく交換価値において倍加され、そして、三、〇〇〇ポンドではなく六、〇〇〇ポンドに値するであろう。かくてもし彼れの利潤が、一八〇ポンド、または彼れの元の資本に対し六%であるならば、利潤はその時には実際三%よりもより高いにはないであろう。けだし、六、〇〇〇ポンドに対する三%は一八〇ポンドであるから。そしてかかる条件においてのみ六、〇〇〇ポンドの貨幣をその懐中に有っている新農業者は農業に入り得るであろう。
 多くの事業は同じ源泉から多かれ少かれある利益を得るであろう。醸造業者、酒類蒸溜業者、毛織物業者、亜麻布製造業者は、粗生原料品及び精製原料品の貯財の価値騰貴によって、その利潤の減少を一部分償われるであろう。しかし、金物や宝石やその他多くの貨物の製造業者、並びにその資本が一様に貨幣から成る者は、何らの補償もなくして、利潤率の全下落を蒙るであろう。
 吾々はまた、土地に対する資本の蓄積と労賃の騰貴との結果、いかに資本の利潤率が減少しても、しかも利潤の総額は増加するであろうと、期待しなければならぬ。かくて、一〇〇、〇〇〇ポンドの蓄積が繰返されるたびに、利潤率は、二〇%から一九%に、一八%に、一七%にと、絶えず逓減する率で、下落すると仮定するならば、吾々は、かかる逐次の資本所有者が受取る利潤の全額は常に逓増して行き、すなわちそれは、資本が一〇〇、〇〇〇ポンドの時よりも二〇〇、〇〇〇ポンドの時の方がより大であり、三〇〇、〇〇〇ポンドの時は更により大である、等々、資本が増加するごとに、逓減的率においてではあるが、しかも増加して行くことと、期待しなければならぬ。しかしながら、この逓増は一定の期間だけ真実であるに過ぎぬ。かくて二〇〇、〇〇〇ポンドに対する一九%は、一〇〇、〇〇〇ポンドに対する一九%よりもより大である。しかし資本が多額にまで蓄積され、そして利潤が下落して後はより以上の蓄積は利潤の総額を減少する。かくて蓄積が一、〇〇〇、〇〇〇ポンドであり、そして利潤が七%であると仮定すれば、利潤の全量は七〇、〇〇〇ポンドであろう。さてもし一〇〇、〇〇〇ポンドの資本の附加がこの一百万に対してなされ、そして利潤が六%に下落するならば、資本の全額は一、〇〇〇、〇〇〇ポンドから一、一〇〇、〇〇〇ポンドに増加されるであろうけれども、資本の所有者は、六六、〇〇〇ポンドすなわち四、〇〇〇ポンドだけ減少せるものを受取るであろう。
(四五)しかしながら、資本がいやしくも何らかの利潤を生む限り、資本の蓄積があり得るからには、必ずそれは啻に生産物の増加のみならず価値の増加をも生むものである。一〇〇、〇〇〇ポンドの附加的資本を用いることによって、以前の資本のいかなる部分もより不生産的にはせしめられないであろう。国の土地と労働との生産物は増加しなければならず、そしてその価値は、以前の生産物量に対してなされた附加の価値だけ引上げられるのみならず、更にその最後の部分を生産する困難の増大によって土地の全生産物に与えられる新しい価値だけ引上げられるであろう。しかしながら、資本の蓄積が極めて大になる時には、この価値の騰貴にもかかわらず、それは、それは、以前よりも小なる価値が利潤に当てられ、他方地代及び労賃に向けられるものは増加されるというように、分配されるであろう。かくて資本に対して一〇〇、〇〇〇ポンドの附加がなされるごとに、二〇%から一九%に、一八%に、一七%に、一六%に、等と利潤率が下落するにつれて、年々得られた生産物は、量において増加し、それは二〇、〇〇〇ポンドから三九、〇〇〇ポンド以上に騰貴し、そして更に五七、〇〇〇ポンド以上に騰貴するであろう。そして、吾々が前に仮定した如くに、用いられる資本が一百万ポンドの時に、もし更に一〇〇、〇〇〇ポンドがそれに附加されかつ利潤の総額は以前よりも実際より低いとしても、それにもかかわらず六、〇〇〇以上が国の収入に附加されるであろうが、しかしそれが附加されるのは地主及び労働者の収入に対してであろう。彼らは附加的生産物よりもより多くを取得しそして彼らの地位によって、資本家の以前の利得をさえ侵し得るであろう。かくて、穀物の価格が一クヲタアにつき四ポンドであり、従って吾々の以前に計算した如くに、農業者が地代を支払った後彼れの手に残る七二〇ポンドごとにつき四八〇ポンドが彼れの手に留まり、そして二四〇ポンドが彼れの労働者に支払われるとせよ。価格が一クヲタアにつき六ポンドに騰貴する時には、彼はその労働者に三〇〇ポンドを支払いそして利潤としては単に四二〇ポンドをその手に留めるを余儀なくされるであろう。すなわち彼は、彼らをして以前とまさに同一量の必要品を消費し得せしめるために、彼らに三〇〇ポンドを支払うのを余儀なくされるであろう。さてもし用いられる資本が七二〇ポンドの十万倍七二、〇〇〇、〇〇〇ポンドを生むほど大であるならば、小麦が一クヲタアにつき四ポンドである時は、利潤の総額は四八、〇〇〇、〇〇〇ポンドであろう。そしてもしより大なる資本を用いることによって、小麦が六ポンドである時に、七二〇ポンドの一〇五、〇〇〇倍すなわち七五、六〇〇、〇〇〇ポンドが獲得されるならば、利潤は四八、〇〇〇、〇〇〇ポンドから四四、一〇〇、〇〇〇すなわち四二〇ポンドの一〇五、〇〇〇倍に下落し、そして労賃は二四、〇〇〇、〇〇〇ポンドから三一、五〇〇、〇〇〇ポンドに騰貴するであろう。労賃は資本に比例してより多くの労働者が用いられるであろうから騰貴するであろう。そして各労働者はより多くの貨幣労賃を受取るであろう。しかし労働者の境遇は、吾々の既に示した如くに、国の生産物のより少い分量しか彼が支配しない限り、より悪くなるであろう。唯一の真実の利得者は地主であろう。彼らはより高い地代を受取るであろうが、それはけだし第一に、生産物がより高い価値を有つであろうからであり、また第二に、彼らはその生産物の大いに増加された比例を得るであろうからである。
 たとえより大なる価値が生産されたとしても、その価値の中から地代を支払って後に残るもののより大なる割合が生産者によって消費され、そして利潤を左右するものは、これでありかつこれのみである。土地が豊富に産出する間は、労賃は一時的に騰貴し、そして生産者は彼らの習慣となっている比例以上のものを消費し得よう。しかしかくて人口に対し与えらるべき刺戟は、急速に労働者を彼らの日常の消費にまで引下げるであろう。しかし貧弱な土地が耕作されるに至った時には、またはより以上の資本と労働とが旧い土地の上に投ぜられ、より少い生産物の報酬を齎す時には、その結果は永続的でなければならない。地代を支払った後に資本の所有者と労働者との間に分割されるべく残っている生産物部分のより大なる比例は後者に割当てられるであろう。各人はより少い絶対量を得るかもしれず、またおそらく得るであろう。しかし農業者の手に残る全生産物に比例してより多くの労働者が雇傭されるのであるから、全生産物のうちでより大なる部分の価値が労賃に吸収され、従ってより小なる部分の価値が利潤に向けられるであろう。このことは必然的に、土地の生産力を制限した自然の法則によって、永続的たらしめられるであろう。
 かくて吾々はまたも、以前に吾々が樹立せんと企てたと同一の結論に到達する、――すなわち、すべての国及びすべての時において、利潤は、地代を生まないその土地においてまたはその資本をもって労働者に必要品を供給するに必要な労働量に依存する、ということこれである。しからば蓄積の結果は異る国においては異り、かつ主として土地の肥沃度に依存するであろう。その土地が貧しい質でありかつそこでは食物の輸入が禁止されている国が、いかに広大な面積を有とうとも、資本の最も適度な蓄積でさえ、利潤率の著しい減退と地代の急速な増加とを伴うであろう。そして反対に、小国ではあるが肥沃な国は、殊にもしそれが食物の輸入を自由に許すならば、利潤率の著しい減少も土地の著しい増加をも伴わずして、大なる資本を蓄積し得よう。労賃に関する章において吾々は、貨幣の本位たる金が我国の生産物であると仮定しても、またはそれが外国から輸入されると仮定しても、貨物の貨幣価格は労賃の騰貴によって騰貴せしめられないことを示さんと努めた。しかしもしそれがそうでないとしても、もし貨物の価格が永続的に高い労賃によって騰貴せしめられるとしても、高い労賃は常に、労働の雇傭者からその真実利潤の一部分を奪うことによって、彼らに影響を及ぼすと主張するこの命題は、その真実なることを害されないであろう。帽子製造業者と靴下製造業者と靴製造業者とが、彼らの貨物の特定分量の製造において各々一〇ポンドだけより多くの労賃を支払い、また帽子と靴下と靴との価格がこの製造業者に一〇ポンドを償うに足る額だけ騰貴したと仮定しても、彼らの境遇はかかる騰貴が何ら起らなかった場合よりもよりよいことは少しもないであろう。もしこの靴下製造業者が、彼れの靴下を一〇〇ポンドではなく一一〇ポンドで売ったとしても彼れの利潤は以前と正確に同一の貨幣額であろう。しかしながら彼はこの等しい額と交換に帽子や靴やその他のあらゆる貨物の十分の一だけより少い量を得、そして彼れの以前の貯蓄額をもっては騰貴せる労賃でより少い労働者しか用い得ずまた騰貴せる価格でより少い粗生原料品しか購買し得ないのであるから、彼はその貨幣利潤が実際額において減少し、そしてあらゆる物がその以前に留まっている場合よりもよりよい境遇にはいないであろう。かくて私は、第一に労賃の騰貴は貨物の価格を騰貴せしめないであろうが、しかし常に利潤を下落せしめるであろうということ、及び第二に、もしすべての貨物の価格が騰貴せしめられ得るとしても、しかも利潤に対する影響は同一であろうし、そして事実上、価格及び利潤を測定する媒介物の価値のみが下落せしめられるであろう、ということを、示さんと努めたのである。
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    第七章 外国貿易について

(四六)いかなる外国貿易の拡張も、それは極めて有力に貨物量従って享楽品の数量を増加するに寄与するとはいえ、直ちに一国の価値額を増加することはないであろう(編者註)。すべての外国財貨の価値は、それと交換に与えられる我国の土地と労働との生産量の分量によって測られるのであるから、もし新市場の発見によって吾々が我国の財貨の一定量と交換して外国財貨の二倍の量を獲得するとしても、吾々は決してより大なる価値を有たないであろう。もし一、〇〇〇ポンドに当る英国財貨の販売によって、一商人が、英国市場において一、二〇〇ポンドで売ることが出来る外国財貨のある分量を獲得することが出来たとするならば、彼はその資本をかくの如く用いることによって二〇%の利潤を得るであろう。しかし彼れの利得にしろまたは輸入貨物の価値にしろ、取得される外国財貨の量が大なるか小なるかによって増減はされはしないであろう。例えば彼が二十五樽の葡萄酒を輸入しようとまたは五十樽を輸入しようと、もしある時には二十五樽が、また他の時には五十樽が、等しく一、二〇〇ポンドで売れるとしても、彼れの利益は何らの影響も蒙り得ないであろう。そのいずれの場合においても、同一の価値が英国に輸入されるであろう。もし五十樽が一、二〇〇ポンド以上に売れるならば、この商人個人の利潤は一般利潤率を超過するであろう、そして資本は当然にこの有利な事業に流入し、ついに葡萄酒の価格の下落が万事を以前の水準にまで齎すことであろう。
(編者註)この区別を十分に理解するためには、第二十章を参照せよ。
 実に、外国貿易において特定商人が時に上げる大なる利潤は、その国における一般利潤率を高め、そして新しいかつ有利な外国貿易に携わるために資本を他の職業から引去ることは、一般に価格を高めかつそれによって利潤を増加するであろう、と主張され来っている。有力な権威者によって、より少い資本が、穀物の栽培に、毛織布、帽子、靴、等の製造に、必然的に向けられているならば、需要が引続き同一である間は、これらの貨物の価格は、農業者、帽子製造業者、織布業者、及び靴製造業者が外国商人と同様に利潤の増加を受けるに至るように、増加されるであろう、と云われている(註)。
(註)アダム・スミス、第一篇、第九章を見よ(訳者註――キャナン版第一巻九五頁)。
 この議論を主張している者は、種々なる職業の利潤は相互に一致せんとする傾向があり、相共に増減する傾向がある、ということでは、私の云う所に一致する。吾々の相違点は次の一点に存する、すなわち彼らは、利潤の平等は利潤の一般的騰貴によって齎されるであろうと主張し、そして私は、有利な事業の利潤は急速に一般的水準に下降するであろうという意見なのである。
 けだし第一に、私は、穀物の栽培に、毛織布、帽子、靴等の製造に、それらの貨物に対する需要が減少しない限り――そしてもし減少するならばその価格は騰貴しないであろう、――より少い資本が必然的に向けられるに至るべきことを、否定するからである。外国貨物の購買において、英国の土地及び労働の生産物の、同一の、より大なる、またはより小なる部分が、用いられるであろう。もし同一の分量がそれに用いられるならば、毛織布や靴や穀物や帽子に対しては以前と同一の需要が存在し、そして同一の資本部分がその生産に向けられるであろう。もし、外国貨物の価格がより低廉である結果として、英国の土地及び労働の年々の生産物より小なる部分が外国貨物の購買に当って用いられるならば、他の物の購買に対してはより多くが残るであろう。もし帽子、靴、穀物、等に対して以前よりもより大なる需要があるならば、――これは、外国貨物の消費者は彼らの自由に処分し得る収入の附加的部分を有つのであるから、あり得ることであろう、――それをもってより大なる価値の外国貨物が以前購買された所の資本もまた自由に処分し得ることとなる。従って穀物、靴、等に対する需要の増加と共に、供給の増加を達する手段もまた存在し、従って価格も利潤も永続的に騰貴することは出来ない。もし英国の土地及び労働の生産物のより多くが外国貨物の購買に用いられるならば、より少い額が他の物の購買に用いられ得るに過ぎず、従ってより少い帽子、靴、等が必要とされるであろう。資本が靴、帽子、等の生産から解放されると同時に、より多くが、それで外国貨物が購買される貨物の製造に用いられなければならない。従ってあらゆる場合において、外国及び内国の貨物に対する需要の合計は、価値に関する限りにおいて、国の収入及び資本によって限定される。もし一方が増加すれば他方は減少しなければならぬ。もし英国貨物の同一量と交換して輸入される葡萄酒の量が倍加されるならば、英国人は、彼らが以前に消費した二倍の量の葡萄酒を消費し得るか、または葡萄酒の同一量と英国貨物のより大なる分量とを消費し得る。もし私の収入が一、〇〇〇ポンドであり、それをもって私が年々一〇〇ポンドで葡萄酒一樽を、そして九〇〇ポンドで一定量の英国貨物を購買していたとするならば、葡萄酒が一樽につき五〇ポンドに下落した時には、私は支出しなかった五〇ポンドを、もう一樽の葡萄酒の購買に支出するかまたはより多くの英国貨物の購買に支出するであろう。もし私がより多くの葡萄酒を購買し、かつあらゆる葡萄酒飲用者が同様にしたならば、外国貿易は少しも乱されないであろう。英国貨物の同一分量が葡萄酒と交換に輸出され、そして吾々は葡萄酒の二倍の価値ではないが二倍の分量を受取るであろう。しかしもし私と他の者とが、以前と同一量の葡萄酒で満足するならば、より少い英国貨物が輸出され、そして葡萄酒飲用者は、以前に輸出されていた貨物を消費するか、または彼らが嗜好を有つある他のものを消費するであろう。その生産に必要とされる資本は、外国貿易から解放された資本によって供給されるであろう。
 資本が蓄積される方法には、二つある、すなわち、それは収入の増加の結果として、または消費の減少の結果として貯蓄され得よう。もし私の利潤が一、〇〇〇ポンドから一、二〇〇ポンドに引上げられたが、私の支出は引続き同一であるならば、私は以前になしたよりも年々二〇〇ポンドだけより多く蓄積する、もし私が二〇〇ポンドを私の支出から節約するが、私の利潤は引続き同一であるならば、同一の結果が生み出され、すなわち一年につき二〇〇ポンドが私の資本に附加されるであろう。利潤が二〇%から四〇%に騰貴した後に葡萄酒を輸入した商人は、一、〇〇〇ポンドで彼れの英国財貨を購買せずして八五七ポンド二シリング一〇ペンスで購買しなければならぬが、これらの財貨と交換に輸入する葡萄酒は依然一、二〇〇ポンドで売っているのである。またはもし彼が引続きその英国財貨を一、〇〇〇ポンドで購買するならば彼れの葡萄酒の価格を一、四〇〇ポンドに引上げなければならない。彼はかくてその資本に対して二〇%ではなく四〇%の利潤を取得するであろう。もし、それに彼れの収入が費されるすべての貨物が低廉である結果、彼及びすべての他の消費者が、以前に費した一、〇〇〇ポンドごとに二〇〇ポンドの価値を節約し得るならば、彼らは国の真実の富をより有効に増加するであろう。一方の場合においては貯蓄は収入の増加の結果なされたものであり、他方の場合において支出の減少の結果なされたものであろう。
 もし機械の導入により、収入がそれに費される貨物の大部分が価値において二〇%下落するならば、私は、私の収入が二〇%だけ増加したと同様に有効に貯蓄し得るであろう。しかし一方の場合においては利潤率は静止的であり、他方の場合においてはそれは二〇%騰貴せしめられているのである――もし低廉な外国財貨の導入により、私が二〇%だけ私の支出から節約し得るならば、その結果は、機会がその生産費を引下げた場合と正確に同一であろうが、しかし利潤は騰貴しないであろう。
 従って、利潤率が騰貴するのは市場の拡張の結果ではない、たとえかかる拡張は貨物量を増加するには等しく有効であり、かつそれによって、吾々をして、労働の維持に向けられる基金、及びそれに労働が用いられる原料を増加し得しめるであろうとはいえ。吾々の享楽品が、労働のより良き分配により、また各国がその位置やその気候やその他の自然的なまたは人工的な利便のためにその生産に適当する貨物を生産することにより、かつそれを各国が他国の貨物と交換することにより、増加されることは、この享楽品が利潤率の騰貴によって増加されるのと同様に、人類の幸福にとり重要なことである。
 利潤率は労賃の下落によってにあらずんば決して騰貴し得ず、かつそれに労賃が費される必要品の下落の結果としてにあらずんば労賃の永続的下落はあり得ないということを、本書全巻を通じて証明しようというのが、私の努力であった。従ってもし、外国貿易の拡張によりまたは機械の改良によって、労働者の食物及び必要品が低減せる価格で市場に齎され得るならば、利潤は騰貴するであろう。もし、吾々自身の穀物を栽培しまたは労働者の衣服その他の必要品を製造する代りに、吾々が、そこからより低廉な価格でそれを得ることの出来る新市場を発見するならば、労賃は下落しそして利潤は騰貴するであろう。しかしもし、外国商業の拡張によりまたは機械の改良によって、より低廉な率で取得される貨物が、もっぱら富者によって消費される貨物であるならば、利潤率には何らの変動も起らないであろう。葡萄酒や天鵞絨ビロードや絹やその他の高価な貨物が五〇%下落しても、労賃率は影響を受けず、従って利潤は引続き変動しないであろう。
 かくて外国貿易は、それに収入が費される物の分量と種類とを増加し、そして貨物の豊富と低廉とによって、節約並びに資本の蓄積に対して刺戟を与えるから、一国にとり極めて有利ではあるが、輸入貨物がそれに労働の労賃が費される種類のものでない限り、資本の利潤を引上げる傾向を有たないであろう。
 外国貿易についてなされた叙述は内国商業にも同様に妥当する。利潤率は、労働のより良き分配により、機械の発明により、道路及び運河の建設により、または財貨の製造か運搬かにおける労働を節約する手段によっては、決して増加されない。これらのものは価格に作用を及ぼす原因ではあり、そして必ずや消費者に極めて有利なものである、けだしそれは彼らをして、同一の労働をもって、または同一の労働の生産物の価値をもって、それに改良が加えられた貨物のより大なる分量を交換して取得し得せしめるからである。しかしそれは利潤に対しては何らの影響も及ぼさない。他方において、労働の労賃のあらゆる減少は利潤を高めるが、しかし貨物の価格に対しては何らの影響をも生み出さない。一方はすべての階級にとり有利であるが、それはすべての階級は消費者であるからである。他方は生産者にとり有利であるのみである。彼らはより多く利得する、しかしあらゆる物は引続きその以前の価格にあるのである。第一の場合においては彼らは以前と同じものを得る、しかしそれに彼らの利得が費されるあらゆる物は、交換価値において減少しているのである。
(四七)一国における貨物の相対価値を左右すると同一の規則は、二つまたはそれ以上の国の間に交換される貨物の相対価値を左右しはしない。
 完全な自由貿易の制度の下においては、各国は当然にその資本及び労働を各々にとり最も有利な職業に向ける。この個人的利益の追求は全体の普遍的幸福と驚嘆すべきほどに結びついている。勤労を刺戟し、器用さに報酬を与え、かつ自然の与える力を最も有効に使用することによって、それは最も有効にかつ最も経済的に労働を分配し、他方、生産物総量を増加することによって、それは一般的便益を公布し、そして利益と交通という一つの共通の紐帯によって、文明世界を通じて諸国民の普遍的社会を結成する。葡萄酒はフランス及びポルトガルにおいて造らるべく、穀物はアメリカ及びポウランドにおいて栽培さるべく、かつ金物その他の財貨は英国において製造せらるべきである、ということを決定する所のものは、この原理である。
 同一国内においては、利潤は、一般的に言えば、常に同一の水準にあり、または資本の用途の安固と快適との大小に従って異るのみである。異れる国の間ではそうではない。
 もしヨオクシアにおいて用いられている資本の利潤が、ロンドンにおいて用いられている資本のそれを超過するならば、資本は急速にロンドンからヨオクシアに移動し、そして利潤の平等が達せられるであろう。しかしもし資本及び人口の増加によって英国の土地における生産率の減少せる結果、労賃が騰貴しそして利潤が下落しても、資本及び人口が必然的に英国から、利潤のより高いオランダやスペインやロシアへ移動するということには、ならないであろう。
 もしポルトガルが他国と何らの商業関係をも有たないならば、この国は、その資本及び勤労の大部分を、葡萄酒――それをもってこの国は他国の毛織布や金物を自国自身の使用のために購買するのであるが、――の生産に用いずに、その資本の一部をかかる貨物のの製造に向けざるを得ないであろうが、かくてこの国はおそらく質並びに量において劣れるものを取得することになろう。
 この国が英国の毛織布と交換に与えるであろう葡萄酒の分量は、もし双方の貨物が英国において製造されるかまたは双方がポルトガルにおいて製造される場合の、その各々の生産に投ぜられる労働の各分量によっては、決定されない。
 英国は、毛織布を生産するに一年間に一〇〇名の人間の労働を必要とする状態にあるであろう。そしてもしこの国が葡萄酒を造ろうと企てるならば、同一期間に一二〇名の人間の労働を必要とするであろう。英国は従って、葡萄酒を輸入し、そしてそれを毛織布の輸出によって購買するのが、その利益であることを見出すであろう。
 ポルトガルにおいて葡萄酒を生産するには一年間に単に八〇名の労働を必要とするのに過ぎぬであろうし、また同一国において毛織布を生産するには、同一期間に九〇名の労働を必要とするであろう。従ってこの国にとっては、毛織布と交換に、葡萄酒を輸出するのが有利であろう。ポルトガルが輸入する貨物が、英国におけるよりそこでより少い労働をもって生産され得るにもかかわらず、この交換はなお行われるであろう。この国が九〇名の労働をもって毛織布を製造し得ても、この国はそれを生産するに一〇〇名の労働を必要とする国から、それを輸入するであろう、けだしこの国にとって、その資本の一部分を葡萄の栽培から毛織布の製造に移すことによって生産し得るよりもより多くの毛織布を英国から取得するであろうところの、葡萄酒の生産に、その資本を用いる方が、むしろ有利であるからである。
 かくて英国は、八〇名の労働の生産物に対して、一〇〇名の労働の生産物を与えるであろう。かかる交換は同一国の個人の間では起り得ないであろう。一〇〇名の英国人の労働は、八〇名の英国人のそれに対して与えられ得ない、しかし一〇〇名の英国人の労働の生産物は、八〇名のポルトガル人の、六〇名のロシア人の、または一二〇名の東印度人の労働の生産物に対して、与えられ得よう。一国と多くの国との間のこの点に関する相違は、資本がより有利な職業を求めて一国から他国に移動する困難と、同一国において資本が常に一つの地方から他の地方に移る敏速さとを考慮すれば、容易に説明されるのである(註)。
(註)しからば、機械及び技術に極めて著しい便益を有し、従ってその隣国よりも極めてより少い労働をもって貨物を製造し得る国は、たとえその土地がより肥沃であり、そしてそこから穀物を輸入する国におけるよりも、より少い労働をもって穀物が栽培され得るとしても、その消費のために必要とされる穀物の一部分を製造貨物と引換に輸入するであろう。二名の人が共に靴と帽子とを造ることが出来、そして一方はこの両職業において他方に優越しているとし、ただし帽子を造る上では、彼はその競争者に単に五分の一すなわち二〇%優れているに過ぎず、そして靴を造る上では、彼は競争者に三三%優れているとする、――優越せる人はもっぱら靴の製造に従事し、そして劣れる人は帽子の製造に従事するというのが、双方の利益ではないであろうか?
 英国の資本家と両国の消費者にとっては、かかる事情の下においては、葡萄酒と毛織布との双方がポルトガルにおいて造られ、従って毛織布の製造に用いられている英国の資本と労働とがその目的のためにポルトガルへ移されるのが、疑いもなく有利であろう。その場合には、これらの貨物の相対価値は、一方がヨオクシアの産物であり他方がロンドンの産物である場合と、同一の原理によって左右されるであろう。そしてあらゆる他の場合において、もし資本が最も有利に用いられ得る国へ自由に流入するならば、利潤率の差違はあり得ず、また貨物が売却されるべき種々なる市場へそれを運搬するに必要な労働量の附加以外の、貨物の真実価格すなわち労働価格の差違はあり得ないであろう。
 しかしながら経験は、その所有者の直接的統制下にない時の資本の想像上のまたは真実の不安固と、並びにあらゆる人が自ら生れかつ諸関係を有っている国を棄てて彼れの固定せる習慣の一切を持ちながら異る政府と新しい法律とに身を委ねることを嫌う自然的性情は、資本の移出を妨げるものであることを、示している。かかる感情は、私はそれが弱められるのは遺憾なことと思うが大部分の財産家をして、外国民の間で彼らの富に対するより有利な用途を求めるよりもむしろ、自国内で低い利潤率に満足せしめるのである。
(四八)金と銀は流通の一般的媒介物に選ばれているから、それらは商業上の競争によって、もしかかる金属が存在せずかつ諸国間の貿易が純粋に物々交換である場合に発生すべき自然的交易に適応する如き比例において、世界の種々なる国々の間に分配されている。
 かくて毛織布は、ポルトガルにおいてはその輸出国において値するよりもより多くの金に対して売れない限り、ポルトガルに輸入され得ない。そして葡萄酒は、英国においてはそれがポルトガルにおいて値するよりもより多くに対して売れない限り、英国には輸入され得ない。もし貿易が純粋に物々交換であるならば、英国が葡萄を栽培するよりも毛織布を製造することによって、一定量の労働をもってより大なる分量の葡萄酒を取得するほどに毛織布を低廉に製造し得る間だけ、そしてまたポルトガルの産業が反対の結果を伴う間だけ、それは継続し得るであろう。さて英国が葡萄酒製造の一行程を発見し、そのためにそれを輸入するよりもそれを造った方がその利益となったと仮定しよう。この国は当然その資本の一部分を外国貿易から内国商業に移すであろう。この国は輸出のための毛織布の製造を止め、自ら葡萄酒を造るであろう。これらの貨物の貨幣価格はこれにつれて左右されるであろう。我国においては葡萄酒は下落するであろうが、毛織布はその以前の価格に止っているであろうし、またポルトガルにおいてはいずれの貨物の価格にも何らの変動も起らないであろう。毛織布は引続きある時期の間我国から輸出されるであろうが、それはけだしその価格が、我国よりもポルトガルにおいて引続きより高いからである。しかし葡萄酒の代りに貨幣がそれと交換に与えられついに我国における貨幣の蓄積と外国におけるその減少とが、両国における毛織布の相対価値に影響を及ぼし、ためにその輸出がもはや有利ではなくなるに至るであろう。もしも葡萄酒製造上の改良が極めて重要なる種類のものであるならば、両国にとり職業を交換することが有利となり、英国にとっては両国が消費するすべての葡萄酒を、ポルトガルにとっては両国が消費するすべての毛織布を、製造することが有利となるであろう。しかしこのことは、英国においては毛織布の価格を引上げポルトガルにおいてはそれを引下げるべき貴金属の新たな分配、によってのみなされるであろう。葡萄酒の相対価格はその製造上の改良から起る真実の利益の結果として英国において下落するであろう。換言すればその自然価格は下落するであろう。毛織布の相対価格は貨幣の蓄積により英国において騰貴するであろう。
 かくて、英国における葡萄酒製造の改良の前に、葡萄酒の価格が我国において一樽につき五〇ポンドであり、そして一定分量の毛織布の価格が四五ポンドであり、他方ポルトガルにおいては、同一量の葡萄酒の価格は四五ポンドであり、そして同一量の毛織布のそれは五〇ポンドであると仮定すれば、葡萄酒は五ポンドの利潤をもってポルトガルから輸出され、そして毛織布は同一額の利潤をもって英国から輸出されるであろう。
(四九)改良の後に、葡萄酒は英国において四五ポンドに下落し、毛織布は引続き同一の価格にあると仮定せよ。商業におけるあらゆる取引は独立の取引である。一商人が英国において毛織布を四五ポンドで買いかつポルトガルにおいてそれを通常の利潤をもって売ることが出来る間は、彼れは引続き英国からそれを輸出するであろう。彼れの営業は単に、英国の毛織布を購買し、そして彼がポルトガルの貨幣をもって買入れる為替手形でそれに対し支払をなすことである。彼れの取引は疑いもなく、彼がそれによってこの手形を取得し得る条件によって左右されるが、しかしその条件はその時彼に判っている。そして手形の市場価格、すなわち為替相場に影響を及ぼすべき原因は、彼れの関せぬ所である。
 もし市場がポルトガルから英国への葡萄酒の輸出にとり有利であるならば、葡萄酒の輸出業者は手形の売手となり、その手形は毛織布の輸入業者かまたは、彼にその手形を売った人かによって、買われるであろう。かくして貨幣がそのいずれの国からも移動する必要なしに、各国の輸出業者はその財貨に対して支払を受けるであろう。相互に何らの直接的取引関係をも有たないのに、毛織布の輸入業者がポルトガルにおいて支払う貨幣は、ポルトガルの葡萄酒輸出業者に支払われるであろう。そして英国においては同一の手形の授受によって、毛織布の輸出業者は葡萄酒の輸入業者からその価値を受取る権限を与えられるであろう。
 しかしもし葡萄酒の価格が、葡萄酒が全然英国に輸出され得ないという程度であっても、毛織布の輸入業者は等しく手形を買うであろう。しかしその手形の売手が、それによって彼が終局的に二国間の取引を決済し得る所の出合手形が市場に無いことを知っているから、その手形の価格はより高くなるであろう。彼は、英国の取引先をして自己が彼に権能を与えた支払の要求に対し支払し得せしめるために、取引先に実際に輸出しなければならないことを、知っているであろう、従って彼は、彼れの手形の価格の中に、彼れの正当にして普通なる利潤と共に、一切の諸掛を請求するであろう。
 かくてもし英国宛手形に対するこの打歩が毛織布の輸入に対する利潤に等しいならば、この輸入はもちろん止むであろう。しかしもしこの手形に対する打歩が二%に過ぎず、英国における一〇〇ポンドの債務を支払い得るためにポルトガルにおいて一〇二ポンドを支払わなければならぬけれども、四五ポンドを費した毛織布が五〇ポンドで売れるならば、毛織布は輸入され、手形は買われ、そして貨幣は輸出され、ついにポルトガルにおける貨幣の減少と英国におけるその蓄積とがかかる取引を続けるのがもはや有利でなくなるような価格の状態を生み出すに至るであろう。
 しかし一国における貨幣の減少と及び他国におけるその増加とは、一貨物の価格に影響するばかりでなく、すべての貨物の価格に影響を及ぼし、従って、葡萄酒と毛織布との双方の価格は英国において高められ、そして双方はポルトガルにおいて低下せしめられるであろう。毛織布の価格は、一方の国においては四五ポンド他方の国においては五〇ポンドであるのが、おそらくポルトガルにおいては四九ポンドまたは四八ポンドに下落し、また英国においては四六ポンドまたは四七ポンドに騰貴し、そして手形に対する打歩を支払った後にはその貨物の輸入を商人に誘うに足るほどの利潤を与えないであろう。
 各国の貨幣が、有利な物々貿易を左右するに必要である如きかかる分量においてのみ、それに割当てられるのはかくの如くにしてである。英国は葡萄酒と交換に毛織布を輸出したが、それはかくすることによってその産業が英国にとりより生産的にされたからである。そしてポルトガルは毛織布を輸入し、そして葡萄酒を輸出したが、それはポルトガルの産業は葡萄酒を生産することによって両国にとってより有利に用いられ得たからである。
(五〇)英国において毛織布を生産するに、またはポルトガルにおいて葡萄酒を生産するに、より多くの困難があるとせよ、あるいは英国において葡萄酒を生産するに、またはポルトガルにおいて毛織布を生産するに、より多くの利便があるとせよ、しかる時は貿易は直ちに止むであろう。
 ポルトガルの事情には何らの変化も起らないが、しかし英国は、葡萄酒の製造にその労働をより生産的に用い得ることを見出したとすれば、直ちに二国間の物々貿易は変化する。啻にポルトガルからの葡萄酒の輸出が停止されるばかりでなく、更に貴金属の新しい分配が起り、そして英国の毛織布の輸入もまた妨げられる。
 両国はおそらく、それ自身の葡萄酒とそれ自身の毛織布とを造るのが彼らの利益であることを見出すであろう、だが次の奇妙な結果が起ることであろう、すなわち英国においては、葡萄酒はより低廉になるであろうが毛織布は価格騰貴し、それに対し消費者はより多くを支払うであろう、しかるにポルトガルにおいては、毛織布と葡萄酒との両者の消費者はそれらの貨物をより低廉に購買し得るであろう。改良のなされた国においては価格は騰貴するであろう。何らの変化も起らなかったがしかし外国貿易の有利な部門を奪われた国においては価格は下落するであろう。
 しかしながらこのことはポルトガルにとり単に見かけの上での利益に過ぎない、けだしその国において生産される毛織布と葡萄酒との分量の合計は減少されるであろうが、英国において生産される分量は増加されるであろうからである。貨幣は二国においてある程度においてその価値を変化するであろう。それは英国においては低められ、ポルトガルにおいては高められるであろう。貨幣で測ればポルトガルの全収入は減少し、同じ媒介物で測れば英国の全収入は増加するであろう。
 かくて、ある国における製造業の改良は、世界の諸国民間の貴金属の分配を変更する傾向があるように思われる。それは、改良が行われる国における一般物価を引上げると同時に、貨物の分量を増加する傾向があるのである。
(五一)問題を簡単にするために、私は、二国間の貿易は二つの貨物――葡萄酒と毛織布――に限られるものと仮定して来た。しかし多くのかつ種々なる財貨が輸出入品表にあることは、人の知る所である。一国から貨幣を引去りそれを他国において蓄積することによって、あらゆる貨物は価格において影響を蒙り、従って貨幣の他の遥かにより多くの貨物の輸出に奨励が与えられ、従ってこのことは、しからざれば起るものと期待すべきほどの大なる結果が二国における貨幣価値に起るのを、妨げるであろう。
 技術及び機械における改良の他に、貿易の自然的通路に常に作用しており、かつ均衡及び貨幣の相対価値を乱す所の、種々なる他の原因がある。輸出奨励金または輸入奨励金、貨物に対する新しい租税は、時にはその直接のまた他の時にはその間接の作用によって、自然的物々貿易をみだし、かつその結果として、物価を商業の自然的通路に適応させるために貨幣を輸入しまたは輸出することを必要ならしめる。そしてこの結果は、啻に混乱原因が起った国においてのみならず、更にまたその程度は多かれ少かれ、商業界のあらゆる国においても、生み出されるのである。
 このことはある程度において、異れる国において貨幣価値の異ることを説明するであろう。それは、内国貨物及び比較的小なる価値を有つものではあるが嵩高かさだかの貨物の価格が、他の原因とは無関係に、製造業の栄えている国においてより高い理由を吾々に説明するであろう。正確に同一の人口と等しい肥沃度の耕地の同一量とを有ち、また同一の農業知識を有つ、二国の中で、輸出貨物の製造により大なる熟練とより良い機械とが用いられている国においては粗生生産物の価格が最高であろう。利潤率はおそらくほとんど異らないであろう。けだし労働者の労賃または真実の報酬は両国において同一であろうからである。しかしこの労賃は粗生生産物と同様に、その技術と機械とに伴う利益によって豊富な貨幣がその財貨と交換して輸入される国においては、貨幣においてはより高く測られるであろう。
 これら二国の中、もし一方はある質の財貨の製造に得点を有ち、そして他方はある他の質の財貨の製造に得点を有つとすれば、そのいずれにも多くの貴金属流入はないであろう。しかしもしそのいずれかの有つ得点が他方に甚しく優越するならば、この結果は避け得ないであろう。
 本書の前の部分において吾々は、議論の便宜上、貨幣は常に引続き同一の価値を有つものと仮定した。吾々は今や貨幣の価値の通常の変動と全商業界に共通な変動との以外に、貨幣が特定の国において蒙る部分的変動もあることを説明しそして実際(編者註)、貨幣価値はそれが現在しかるが如くに、相対的課税に製造上の熟練に、気候や自然的産物やその他多くの原因に関する利便に、依存するものであるから、ある二国において決して同一ではないことを、説明しようと努めているのである。
(編者註)原書に to fact とあるのは in fact の誤植であろう。
(五二)しかしながら、貨幣はかかる不断の変動を蒙り、従って大部分の国に共通な貨物の価格もまたかなりの相違を免れないであろうけれども、しかも貨幣の流入によっても流出によっても、利潤率には何らの結果も生み出されないであろう。資本は、流通の媒介物が増加されたからとて、増加されないであろう。もし農業者がその地主に支払う地代とその労働者に支払う労賃とが、ある国においては他国よりも二〇%だけより高く、またもし同時に、農業者の資本の名目価値が二〇%だけより多くなったとすれば、彼がその粗生生産物を二〇%だけ高く売っても、彼は正確に同一の利潤率を受取るであろう。
 利潤は――これはいくら繰返しても繰返し過ぎるということはないが――労賃に名目労賃でなく真実労賃に労働者に年々支払われる貨幣量ではなくこの貨幣量を得るに必要な日労働数に依存する(訳者註)。従って労賃は二国において正確に同一であろう。これらの国の一方においては労働者は一週につき十シリングを受取り、他方において十二シリングを受取るとも、それは地代及び土地から得られる全生産物に対して同一の比例を有つであろう。
(訳者註)傍点は編者の施せる所である。
 製造業がほとんど進歩しておらず、そしてすべての国の生産物がほとんど類似していて、嵩高なかつ最も有用な貨物から成っている所の、社会の初期の段階においては、異れる国における貨幣価値は、主として貴金属を供給する鉱山からのその距離によって左右されるであろう。しかし、社会の技術と改良とが進歩し、そして異る国民が特定の製造業において優越するに従って、距離はなお計算には入るであろうけれども、貴金属の価値は主としてそれらの製造業の優越によって左右されるであろう。
 あらゆる国民が単に穀物や家畜や粗布のみを生産し、そして金がそれらの貨物を生産する国またはかかる国を征服している国から取得され得るのは、かかる貨物の輸出によってのみであると仮定するならば、金は当然に、英国におけるよりもポウランドにおいてより大なる交換価値を有つであろうが、それは穀物の如き嵩高な貨物をより遠い航海で送ることの費用のより大なるためであり、また金を金をポウランドへ送ることに伴う費用のより大なるためである。
 金の価値のこの相違は、――または同じことであるが――この二国における穀価のこの相違は、英国において穀物を生産する便益が、土地のより大なる肥沃度と労働者の熟練及び器具における優越によって、ポウランドのそれよりも遥かにより以上であっても、なお存在するであろう。
 しかしながらもしポウランドが最初にその製造業を改良するならば、もしこの国が、小なる容積中に大なる価値を含む所の一般に欲求される貨物を製造することに成功するならば、またはもしこの国のみが、一般に欲求されかつ他国が所有せぬある自然的生産物に恵まれているならば、この国は、この貨物と交換に金の附加的分量を取得するであろうが、それはこの国の穀物や家畜や粗布の価格に影響を及ぼすであろう。遠距離という不利益は、おそらく、大なる価値を有つ輸出貨物を有つという利益によって相殺されて余りあるであろう、そして貨幣は英国におけるよりもポウランドにおいて永続的により低い価値を有つであろう。もし反対に、技術及び機械の利益が英国によって所有されるならば、何故なにゆえに金がポウランドにおけるよりも英国においてより少い価値を有ち、かつ何故なにゆえに穀物や家畜や衣服が英国においてより高い価格にあるのかについての、もう一つの理由が、以前に存在した理由に附加されるであろう。
 以上が世界の異る国における比較的貨幣価値を左右するただ二つの原因であると私は信ずる。けだし、課税は貨幣の平衡を攪乱するけれども、それは課税されている国から、熟練、勤労、及び気候に伴う利益のあるものを奪うことによって、攪乱するのであるからである。
 貨幣の低き価値と、穀物その他の貨幣がそれと比較される貨物の高き価値とを、注意深く区別しようというのが、私の努力であった。この両者は、一般的には、同じことを意味するものと考えられ来った。しかし、穀物が一ブッシェルにつき五シリングから十シリングに騰貴する時には、それは貨幣価値の下落かまたは穀物の価値の騰貴かによるものであろうことは、明かである。かくて吾々は、増加しつつある人口を養わんがために逐次ますますより劣れる質の土地に頼らねばならぬ必要によって、穀物は他の物に対する相対価値において騰貴しなければならない、ということを見た。従ってもし引続き永続的に同一の価値を有つならば、穀物はかかる貨幣のより多くと交換され、換言すればそれは価格において騰貴するであろう。同一の穀価の騰貴は、吾々をして特殊の利便をもって貨物を造るを得せしめるべきような製造業の機械の改良によっても、惹起されるであろうが、それはけだし、貨幣の流入がその結果として起るであろうからである。それは価値において下落し、従ってより少い穀物と交換されるであろう。しかし穀物の高き価格の結果起る諸結果は、それが穀価の騰貴によって惹起された場合と貨幣価値の下落によって惹起された場合とでは、全然異っている。双方の場合において労賃の貨幣価格は騰貴するであろうが、しかしもしそれが貨幣価値の下落の結果であるならば、単に労賃及び穀物のみならず、更にすべての他の貨物も騰貴するであろう。製造業者は労賃としてより多くを支払わなければならぬとしても、彼れの製造財貨に対し彼はより多くを受取り、そして利潤率は依然影響を受けないであろう。しかし穀価の騰貴が生産の困難の結果である時には、利潤は下落するであろう、けだし製造業はより多くの労賃を支払うを余儀なくされ、そして彼れの製造貨物の価格の引上げによって補償を得ることが出来ないであろうから。
(五三)鉱山採掘の便宜における進歩によって貴金属類がより少い労働をもって生産され得るに至るならば、貨幣価値は一般に下落するであろう。その時にはそれはすべての国においてより少い貨物と交換されるであろう。しかしある特定の国が製造業において優越し、そのためその国への貨幣の流入が惹起される時には、その国においては他の国におけるよりも貨幣はより低く、そして穀物及び労働の価格は相対的により高いであろう。
 このより高い貨幣価値は為替相場によっては表示されないであろう。手形は、一つの国においては他国よりも穀物及び労働の価格が一〇%、二〇%、または三〇%だけより高くあっても、引続き額面で授受されるであろう。仮定された事情の下においてはかかる価格の差異は事理の当然であり、そして為替相場は、製造業に優越する国に十分な分量の貨幣が導入され、ためにその国の穀物及び労働の価格が引上げられる時においてのみ、平価にあり得るのである。もし外国が貨幣の輸出を禁止し、そしてかかる法律の遵守を強制することに成功するならば、その国は実際は、製造業国の穀物及び労働の価格騰貴を妨げ得るであろう。けだし、紙幣が用いられていないと仮定すれば、かくの如き騰貴は、貴金属の流入の後にのみ起り得るからである。しかしそれは為替相場がその国に著しく逆となるのを防ぎ得ないであろう。もし英国がこの製造業国であり、そして貨幣の輸入を妨げ得るとすれば、フランス、オランダ、及びスペインとの為替相場は、これらの国々に対して五%、一〇%、または二〇%逆になるであろう。
 貨幣の流通が強制的に停止され、そして貨幣がその正当な水準に落着くことを妨げられる時には、いつでも、為替相場の起り得べき変動には限りがない。その結果は持参人の要求に応じて正金と兌換され得ない紙幣が強制的に流通せしめられる時に随伴するものと同様である。かかる通貨は必然的に、それが発行される国に限定される。すなわちそれは過多の時といえども、一般に他国へは普及され得ない。流通の水準が破壊され、そして為替相場は不可避的に、紙幣量が過剰なる国に対し逆となるであろう。貿易の流れが貨幣に国外流出の動因を与えた時に、もし強制的な手段によりのがれ得ざる法律によって貨幣が一国に留置かれるならば、金属貨幣流通の結果も右の紙幣の場合と同様であろう。
 各国がその当然有つべき貨幣量を正確に有っている時においても、多くの貨物についてそれは五%か一〇%かまたは二〇%も異っていようから、貨幣は実際その各々において同一の価値を有たないであろうが、しかし為替相場は平価であろう。英国における一〇〇ポンド、または一〇〇ポンドに含まれている銀は、フランスやスペインやオランダにおいて、一〇〇ポンドの手形、または同一量の銀を購買するであろう。
 為替相場及び異る国における貨幣の比較価値を論ずるに当って、吾々は決して、その各国において貨物において評価された貨幣の価値に関説してはならない。為替相場は、穀物、毛織布、またはいかなる貨物において貨幣の比較価値を評価しても、確かめられるものではなく、それは一国の通貨の価値を他国の通貨において評価することによって確かめられるものである。
 それはまた、それと両国に共通なある標準に比較することによっても、確かめられ得よう。もし一〇〇ポンドの英国宛手形がフランスかスペインにおいて、同額のハムブルグ宛手形が購買すると同一量の財貨を購買するならばハムブルグと英国との間の為替相場は平価である。しかしもし一三〇ポンドの英国宛手形が、一〇〇ポンドのハムブルグ宛手形と同じだけを購買するに過ぎないならば、為替相場は英国に対し三〇%逆である。
 英国において一〇〇ポンドは、オランダにおいて一〇一ポンド、フランスにおいて一〇二ポンド、及びスペインにおいて一〇五ポンドを受取る権利、すなわち手形を購買し得よう。その場合には英国との為替相場は、オランダにとり一%逆、フランスにとり二%逆、そしてスペインにとり五%逆、と言われる。それは、これらの国においては通貨の水準が当然あるべきよりもより高いことを示すものであり、そして英国のそれは、これらの国から通貨を引出すかまたは英国の通貨を増加せしめることによって、直ちに平価に囘復されるであろう。
 我国の通貨が最近十年間減価し、その間に為替相場は我国に二〇ないし三〇%逆となった、と主張した人々も、貨幣は一国において、種々なる貨物との比較において、他国におけるよりもより大なる価値を有ち得ないとは――彼らはかく主張したと非難されているが、――主張したのでは決してない。彼らは、一三〇ポンドが、ハムブルグまたはオランダの貨幣で評価して、一〇〇ポンドに含まれる地金よりもより多くの価値を有たない時には、それが減価せられざる限り、それは英国に留置され得ない、と主張したのである。
 一三〇ポンドの純良な英国ポンド貨幣をハムブルグへ送ることによって、五ポンドの費用を要しても、私はハムブルグで一二五ポンドを得るであろう。しからばハムブルグにおいて一〇〇ポンドを私に与える手形に対し一三〇ポンドを支払うことを私に承諾せしめるものは、私のポンドが純良なポンド貨幣でないということ以外の理由で有り得ようか? ――私のポンドは減価せられたのであり、その内在価値においてハムブルグのポンド貨幣以下に低下せしめられたのであり、そしてもし実際五ポンドの費用でその地へ送られるならば一〇〇ポンドにしか売れぬであろう。金属ポンド貨幣をもってすれば私の一三〇ポンドはハムブルグにおいて私に一二五ポンドを与えるであろうが、しかしポンド貨幣をもってすれば私は単に一〇〇ポンドを取得し得るに過ぎないということは、否定されていないが、しかし紙幣での一三〇ポンドは銀または金での一三〇ポンドと等しい価値を有つ、と主張されたのである。
 ある人々は実際紙幣での一三〇ポンドは金属貨幣での一三〇ポンドと等しい価値を有たないと主張したが、それはより正当である。しかし彼らはその価値を変じたのは金属貨幣であって紙幣ではないと云った。彼らは、減価なる語の意味を実際の価格下落の場合に限定しようと欲し、そして貨幣の価値と法律によってそれを定める本位との比較的差違に限定しようとは欲しなかった。英国貨幣の一〇〇ポンドは以前にはハムブルグ貨幣の一〇〇ポンドと等しい価値を有ち、そしてこれを購買することが出来た。他のいかなる国においても、英国宛またはハムブルグ宛の一〇〇ポンド手形は、正確に同一量の貨物を購買することが出来た。近頃は同一の物を取得するために、ハムブルグはハムブルグ貨幣の一〇〇ポンドでそれを取得することが出来たのに、私は英国貨幣の一三〇ポンドを支払うを余儀なくされた。かくてもし英国の貨幣は以前と同一の価値を有つならば、ハムブルグの貨幣が価値において騰貴したのに相違ない。しかしどこにこのことの証拠があるか? 英国の貨幣が下落したのかまたはハムブルグの貨幣が騰貴したのかは、いかにして確かめらるべきであるか? このことを決定し得る標準は無い。それは証拠を許さない推測であり、そして積極的に肯定することもまた積極的に否定することも出来ない。世界の諸国民は、つとに早くから、誤りなくそれに頼り得る価値の標準は本来ないことを確信しているに相違なく、従って彼らは、大体において他のいかなる貨物よりも変動しないように彼らに思われた媒介物を、選んだのである。
 法律が変更されるまで、そしてある他の貨物――その使用によって吾々が樹立した標準よりもより完全な標準を取得すべき所の貨物――が発見されるまで、吾々はこの標準に従わなければならない。金が我国においてもっぱら標準である間は、金が一般価値において騰貴すると下落するとにかかわらず、ポンド貨幣が本位たる金の五ペニウェイト三グレインと等しい価値を有たない時には、貨幣は減価されていることになるであろう。
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    第八章 租税について

(五四)租税とは、一国の土地及び労働の生産物の中、政府の処分に委ねられた所の一部分であり、そして常に終局においては、一国の資本かまたは収入かから支払われるものである。
 吾々は既にいかにして一国の資本が、その耐久性の多少に従って、固定資本かまたは流動資本かになることを示した。流動資本と固定資本との区別がどこから始まるかを、厳密に定義するのは困難であるが、それはけだし資本の耐久力にはほとんど無限の各程度があるからである。一国の食物は少くとも毎年一度は消費されかつ再生産される。労働者の衣服は、おそらく二年以内に消費されかつ再生産されはしないであろう。しかるに彼れの家屋や什器は十年または二十年の間耐えるものと計算されている。
 一国の年々の生産がその年々の消費を代置して余りある時には、それはその資本を増加せしめると言われる。その年々の消費が少くともその年々の生産によって代置されない時には、それはその資本を減少すると言われる。従って資本は、生産の増加によりまたは不生産的消費の減少によって、増加され得よう。
 もし政府の消費が附加的税の賦課によって増加された時に、人民の側における生産の増加かまたは消費の減少かがあるならば、租税は収入の負担する所となり、そして国民資本は何らの害を蒙らないであろう。しかしもし人民の側において生産の増加または不生産的消費の減少がないならば、租税は必然的に資本の負担する所となり、換言すれば、それは生産的消費に当てられた資金を害するであろう(註)。
(註)一国のすべての生産物は消費されるが、しかしそれが、再生産する者によって消費されるか、または他の価値を再生産しない者によって消費されるかは、想像し得る最大の相違をなすものであることを、理解しなければならない。吾々が、収入が貯えられそして資本に附加される、と言う時には、吾々の意味する所は、資本に附加されると言われる収入の部分が、不生産的労働者ではなく生産的労働者によって消費される、ということである。資本は非消費によって増加されると想像するよりもより大なる誤謬はあり得ない。もしも労働の価格が、資本の増加にもかかわらず、より多くの労働を雇い得ないほど騰貴したならば、私は、かかる資本の増加はなお不生産的に消費されるであろう、と言わなければならない。
 一国の資本が減少するに比例して、その生産物は必然的に減少するであろう。従って、もし人民の側と政府の側とにおける同一の不生産的支出が続くのに、年々の再生産が不断に減少して行くならば、人民と国家との資源は加速度的に失われ、そして惨苦と破滅とがそれに随伴するであろう。
 過去二十年間(編者註)における英国政府の莫大な支出にもかかわらず、人民の側における生産の増加がこれを償って余りあったことは、ほとんど疑い得ない。国民資本が啻に害されなかったのみならず、それはまた大いに増加され、そして人民の年々の収入は、その租税を支払った後にすら、おそらく、現在においては吾々の歴史のいかなる以前の時代におけるよりもより大であろう。
(編者註)一七九三――一八一五年。
 この証拠として吾々は、人口の増加や、――農業の拡張や、――航海業及び製造業の増加や、――船渠の建造や、――多数の運河の開設や、並びに多くの他の費用を多く要する企業を、挙げ得ようが、そのすべては、資本及び年々の生産の両者の増加を示すものである。
 しかしながらそれでもなお、租税がなければこの資本増加が遥かにより大であったであろうことは確実である。蓄積の力を減少せしめる傾向を有たない租税はない。すべての租税は資本か収入かの負担する所とならねばならない。もしそれが資本を蚕食するならば、それは、その程度に応じて国の生産的産業の範囲が常に左右されねばならぬ所の資金を比例的に減少しなければならない。そしてもしそれが収入の負担する所となるならば、それは蓄積を減少せしめるか、または、納税者をして、彼らの以前の生活の必要品及び奢侈品の不生産的消費をその租税の額だけ減少せしめることによって、この額を貯蓄せしめるか、でなければならない。ある租税は、かかる結果を、他の租税よりも、遥かにより大なる程度において産み出すであろう。しかし課税の大なる害悪は、その目的物の選択にあるよりは、全体としてのその結果の総額にあることが見出さるべきである。
 租税は資本に課せられたという故をもって必然的に資本に対する租税であるわけではなく、また所得に課せられたという故をもって所得に対する租税であるわけでもない。もし私の一年一、〇〇〇ポンドの所得から、私が一〇〇ポンドを支払わせられても、私が残りの九〇〇ポンドの支出で満足するならば、それは真実に私の所得に対する租税であろうが、しかしもし私が引続き一、〇〇〇ポンドを支出するならば、それは資本に対する租税であろう。
 そこから私の一、〇〇〇ポンドの所得が得られる資本が一〇、〇〇〇ポンドの価値を有つとすれば、資本に対する一%の租税は一〇〇ポンドであろう。しかしもし私が、この租税を支払った後に同様に、九〇〇ポンドの支出をもって満足するならば、私の資本は影響を受けないであろう。
 生活上のその地位を維持し、かつその富を一度達せられた高さに維持せんとする、あらゆる人の有つ願望は、大抵資本に課せられたものでも所得に課せられたものでもその大抵の租税を、所得から支払わせるようにする。従って租税が増進するにつれまたは政府がその増加するにつれて、人民の年々の享楽は、彼らが比例的にその資本との所得とを増加し得ない限り、減少せしめられなければならない。
(五五)人民の間にこのことをなさんとする志向を奨励し、そして常に資本の負担に帰すべき租税を決して賦課しないというのが、政府の政策でなければならない。けだしかくすることによって、それは労働の支持のための基金を害し、それによって国の将来の生産を減少せしめるからである。
 英国においては、遺言検認税、遺贈税、及び死者より生者への財産の移転に影響を及ぼすあらゆる租税を課して、この政策を無視している。もし一、〇〇〇ポンドの遺産が一〇〇ポンドの租税を負担するならば、遺産相続人はその遺産を単に九〇〇ポンドと考えるに過ぎず、そして彼れの支出の中から、一〇〇ポンドの税を節約しようとする何らの特定の動機をも感ぜず、かくて国の資本は減少せしめられる。しかしもし彼が真実に一、〇〇〇ポンドを受取り、そして所得や葡萄酒や馬や僕婢に対する租税として、一〇〇ポンドを支払わしめられるならば、彼はおそらくその額だけ、その支出を減じまたはむしろ増加せしめなかったであろうし、そして国の資本は害されなかったであろう。
 アダム・スミスは曰く、『死者から生者への財産の移転に対する租税は、終局的にかつ直接的に、財産が移転せられる人の負担する所となる。土地の売却に対する租税は全然売手の負担する所となる。売手はほとんど常に売却せねばならぬ地位にあるのであり、従って彼が得ることの出来るどんな価格でも受取らなければならない。買手はほとんど購買せねばならぬ地位にあるのではなく、従って彼は単に自己の好む価格を与えるに過ぎないであろう。彼は租税と価格とを合計して土地が幾干いくばくに値するかを考慮する。租税の方に多くを支払うを余儀なくされるほど、彼は価格の方により少く与える気になるであろう。従ってかかる租税はほとんど常に必要に迫られている人の負担する所となり、従って極めて惨酷にして圧制的でなければならない。』(編者註一)『印紙税及び借金証書と借金契約との登記に対する租税は、全然借手の負担する所となり、そして事実上常に彼によって支払われる。訴訟に対する同種の租税は原告の負担する所となる。それは両者にとって係争物の資本価値を減少せしめる。ある財産を獲得するに費用が多くかかればかかるほど、それが得られた時の純価値は少くなければならない。あらゆる種類の財産の移転に対するすべての租税は、それがその財産の資本価値を減少する限り、労働の支持に向けられた資金を減少する傾向がある。それらはすべて主権者の収入を増加せしめる多かれ少かれ浪費的な租税であるが、それは生産的労働者以外のものを支持しない国民資本を犠牲として、不生産的労働者以外の者を支持することの稀なものである。』(編者註二)
(編者註一)『諸国民の富』第五篇第二章、(訳者註――キャナン版、第二巻、三四六頁)。
(編者註二)同上(訳者註――三四六――三四七頁)。
 しかしこれは財産の移転に対する租税への唯一の反対論ではない。それは国民資本が社会に最も有利に分配されることを妨げるものである。一般的繁栄のためには、あらゆる種類の財産の移転及び交換にいかに便宜が与えられても多過ぎるということは無い、けだしあらゆる種類の資本が、国の生産を増加するためにそれを最もよく使用する者の手に入るようになるのは、かかる手段によるものであるからである。セイ氏は問う、『何故なにゆえに一個人はその土地を売らんと欲するのであるか? それは彼が、その資金がより生産的となるべき他の用途を考えているからである。何故に他の人はこの同じ土地を買わんと欲するのであるか? それは、彼に余りにわずかしか齎さず、または用途がなく、または彼がその使用を改善し得ると考える、ある資本を用いんがためである。この交換は一般所得を増加せしめるであろうが、それはけだしこれらの当事者の所得を増加せしめるからである。しかしもし、賦課がこの交換を妨げるほどに過大であるならば、それは一般所得のこの増加に対する障害である。』(編者註)しかしながらこれらの租税は容易に徴収される、そしてこのことは多くの人々によって、その有害な結果に対する幾らかの補償を与えるものと考えられるであろう。
(編者註)経済学、第三篇、第八章、三〇九頁。
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    第九章 粗生生産物に対する租税

(五六)本書の前の部分において、私は、穀価は何ら地代を支払わない土地のみにおける、またはむしろ何ら地代を支払わない資本のみをもってする穀物の生産費によって左右される、という原則を、望むらくは満足に、樹立したから、生産費を増加せしめるものはいかなるものも価格を騰貴せしめるであろうし、それを減少せしめるものはいかなるものも価格を下落せしめるであろう、ということになるであろう。より貧弱な土地を耕作し、または既耕地へ一定の附加的資本を用いてより少い収穫を取得する必要は、粗生生産物の交換価値を不可避的に高めるであろう。耕作者をしてより少い生産費をもってその穀物を取得し得せしめるべき機械の発明は、その交換価値を必然的に低めるであろう。地租の形においてであろうと十分一税の形においてであろうとまたは取得された時に生産物に課せられる租税の形においてであろうと、とにかく耕作者に課せられるあらゆる租税は、粗生生産物の生産費を増加せしめ、従ってその価格を高めるであろう。
 もし粗生生産物の価格が耕作者にその租税を補償するほど騰貴しないならば、彼は当然に、彼れの利潤が利潤の一般水準以下に低減せしめられた職業を、中止するであろう。このことは供給の減少を惹起し、ついに、以前通りの需要は、粗生生産物の耕作をして他の職業への資本投下と同様に有利ならしめる如くに、その価格を騰貴せしめるであろう。
 価格の騰貴ということが、彼が租税を支払い、かつ彼れの資本をこのように用いることより通常のかつ一般の利潤を引続き得ることが出来る、唯一の手段である。彼は租税を彼れの地代から差引き、そして彼れの地主をしてそれを支払わしめることは出来ないであろうが、それはけだし彼は何ら地代を支払っていないからである。彼はそれを彼れの利潤から差引かないであろうが、それは、あらゆる他の職業がより大なる利潤を産出している時に彼が引続き小なる利潤を産出す職業に従事すべき理由はないからである。かくて、彼は租税に等しい額だけ粗生生産物の価格を引上げる力を有つであろうということは、疑問のあり得ぬ所である。
 粗生生産物に対する租税は地主によって支払われることはないであろう。それは農業者によって支払われることはないであろう。それは消費者によって価格の騰貴により支払われるであろう。
 地代は、同一のまたは異る質の土地に用いられた等量の労働と資本とによって取得せられた生産物の間の差違である、ということを想起してもらいたい。土地の貨幣地代と土地の穀物地代とは同一の比例において変動するものではない、ということもまた想起してもらいたい。
 粗生生産物に対する租税、地租、または十分一税の場合には、土地の穀物地代は変動するであろうが、他方貨幣地代は引続き以前と同一であろう。
 吾々が前に仮定した如くに、耕地は、三つの質を有ち、そして等しい額の資本をもって、
第一等地からは一八〇クヲタアの穀物が取得され、
第二等地からは一七〇クヲタアの穀物が取得され、
第三等地からは一六〇クヲタアの穀物が取得されるならば、
第一等地の地代は、第三等地と第一等地とのそれの差額たる二〇クヲタアであり、そして第二等地の地代は、第三等地と第二等地とのそれの差額たる一〇クヲタアであろうが、しかるに第三等地は何らの地代をも支払わないであろう。
 さてもし穀価が一クヲタアにつき四ポンドであるならば、第一等地の貨幣地代は八〇ポンドであり、また第二等地のそれは四〇ポンドであろう。
 一クヲタアにつき八シリングの租税が穀物に対し課せられたと仮定せよ。しかる時は価格は四ポンド八シリングに騰貴するであろう。そしてもし地主が以前と同一の穀物地代を取得するならば、第一等地の地代は八八ポンド、第二等地のそれは四四ポンドとなるであろう。しかし彼らは同一の穀物地代を取得しないであろう。租税は第二等地より第一等地の負担となる事より重く、また第三等地よりも第二等地の負担となる事より重いであろうが、けだしそれはより大なる分量の穀物に課せられるであろうから。価格を左右するのは第三等地における生産の困難である。そして穀物は第三等地に用いられる資本の利潤が資本の一般利潤と同一水準になるように四ポンド八シリングに騰貴するのである。
 この三つの質の土地における生産物及び租税は次の如くであろう。
第一等地、一クヲタア四ポンド八シリングで一八〇クヲタアを産す……………………七九二ポンド
 差引{一六・三の価値、
    すなわち一八〇クヲタアに対し一クヲタアにつき八シリング}……………七二ポンド
 純穀物生産物一六三・七[#「一六三・七」の両側に傍線]                            純貨幣生産物七二〇ポンド[#「物七二〇ポンド」の両側に傍線]
第二等地、一クヲタア四ポンド八シリングで一七〇クヲタアを産す……………………七四八ポンド
 差引{四ポンド八シリングで一五・四クヲタアの価値、
    すなわち一七〇クヲタアに対し一クヲタアにつき八シリング}……………六八ポンド
 純穀物生産物一五四・六[#「一五四・六」の両側に傍線]                            純貨幣生産物六八〇ポンド[#「物六八〇ポンド」の両側に傍線]
第三等地、四ポンド八シリングで一六〇クヲタアを産す…………………………………七〇四ポンド
 差引{四ポンド八シリングで一四・五クヲタアの価値、
    すなわち一六〇クヲタアに対し一クヲタアにつき八シリング}……………六四ポンド
 純穀物生産物一四五・五[#「一四五・五」の両側に傍線]                            純貨幣生産物六四〇ポンド[#「物六四〇ポンド」の両側に傍線]
 第一等地の貨幣地代は引続き八〇ポンドすなわち六四〇ポンドと七二〇ポンドとの差額であり、また第二等地のそれは四〇ポンドすなわち六四〇ポンドと六八〇ポンドとの差額であって、以前と正確に同一である。しかし穀物地代は、第一等地においては二〇クヲタアから、一四五・五クヲタアと一六三・七クヲタアとの差額たる一八・二クヲタアに、そして第二等地においてはそれは一〇クヲタアから、一四五・五クヲタアと一五四・六クヲタアとの差額たる九・一クヲタアに、減少されるであろう。
 しからば穀物に対する租税は穀物の消費者の負担する所となり、そして租税に比例する程度だけその価値を他のすべての貨物に比較して高めるであろう。粗生生産物が他の貨物の構成に入り込むに比例して、それらの価値もまた、租税が他の原因によって相殺されない限り、高められるであろう。それらは事実間接に課税されることとなり、そしてその価値は租税に比例して騰貴するであろう。
 しかしながら、粗生生産物及び労働者の必要品に対する租税は、もう一つの結果を有つであろう、――すなわちそれは労賃を高めるであろう。人口の原理の人類の増加に及ぼす結果によって、最下級の労賃は決して引続き、自然と習慣によって労働者の支持上必要となっている率の遥か上にあることはない。この階級は決して多額の課税を負担し得ない。従ってもし彼らが小麦に対して一クヲタアにつき更に八シリング支払わねばならず、そして他の必要品に対してあるより少い比例だけ更に支払わなければならないとすれば、彼らは以前と同一の労賃で生存しそして労働者の種族を維持することは出来ないであろう。労賃は不可避的にかつ必然的に騰貴するであろう。そしてそれが騰貴するに比例して利潤は下落するであろう。政府は、国内において消費されるすべての穀物に対し一クヲタアにつき八シリングの租税を受取るであろうが、その一部分は直接に穀物の消費者によって支払われ、他の部分は間接に労働を使用する人々によって支払われ、そして、労働に対する需要がその供給に比して増加したために、または労働者の必要とする食物及び必要品の獲得の困難が増加して行くために、労賃が騰貴した場合と同様に、利潤に影響を及ぼすであろう。
(五七)租税が消費者に影響を及ぼす限りにおいて、それは平等な租税であるが、しかしそれが利潤に影響を及ぼす限りにおいて、それは偏頗へんぱな租税であろう。けだし、それは地主に対しても株主に対しても影響を及ぼさないであろうからであるが、その理由は、彼らは引続き、一方は以前と同一の貨幣地代を、また他方は以前と同一の貨幣配当を、受取るであろうからである。しからば土地の生産物に対する租税は、次の如く作用するであろう。
第一、それは租税に等しい額だけ粗生生産物の価格を引上げ、従って各消費者の消費に比例して彼れの負担する所となるであろう。
第二、それは労働の労賃を引上げ、そして利潤を引下げるであろう。
 しからばかかる租税に対しては次の如き反対がなされ得よう。
第一、労働の労賃を引上げそして利潤を引下げることによって、それは不平等な租税であるが、それはけだし、それが農業者や商人や製造業者の所得には影響を及ぼし、そして地主や株主やその他の固定的所得を享受する者の所得を課税[#「税」は底本では「説」]されぬままにしておくからである、ということ。
第二、穀価の騰貴と労賃の騰貴との間にはかなりの時の隔りがあり、その間に労働者は多くの惨苦を経験するであろうということ。
第三、労賃の引上と利潤の引下とは蓄積の阻害であり、そして土壌の自然的疲瘠ひせきと同様の作用をすること。
第四、粗生生産物の価格を引上げることによって、粗生生産物が入っているすべての貨物の価格は引上げられ、従って吾々は一般市場において外国製造業者に平等な条件で対抗し得ないであろうということ。
(五八)労働の労賃を引上げ、そして利潤を引下げることによって、それは不平等な作用をするが、それはけだし、それが農業者や商人や製造業者の所得には影響を及ぼし、そして地主や株主やその他の固定的所得を課税されぬままにしておくからである、という第一の反対論に関しては、もしも租税の作用が不平等であるならば、立法府にとっては、土地の地代及び株式からの配当に直接に課税することによってそれを平等ならしめるべきである、と答え得よう。かくすることによって、所得税のすべての目的は、各人の私事に立入りかつ官吏に自由国の慣習と感情とに矛盾する権力を賦与するという忌わしい手段に頼るの不便なしに、達せられるであろう。
(五九)穀価の騰貴と労賃の騰貴との間にはかなりの時の隔りがあり、その間に下層階級は多くの惨苦を経験するであろう、という第二の反対論に関しては、異る事情の下においては、労賃は極めて異る程度の速力をもって粗生生産物の価格に追従し、ある場合においては穀物の騰貴によっては労賃には何らの結果も起らず、他の場合においては労賃の騰貴は穀価の騰貴に先行し、更にある場合においては労賃に対する結果は遅く、また他の場合においては速い、と私は答える。
 常に社会の進歩の特定状態を斟酌して、労働の価格を左右するものは必要品の価格である、と主張する人々は、必要品の価格の騰貴及び下落は、極めて徐々として労賃の騰貴及び下落を伴うであろうということを、余りに即座に同意してしまっているように思われる。食料品の高き価格は、各種各様の原因から起るであろうし、またそれに従って各種各様の結果を生み出すであろう。それは次の如き原因から起るであろう。
第一、供給の不足。
第二、結局においては生産費の増加を伴うべき徐々たる需要の増加から。
第三、貨幣価値の下落から。
第四、必要品に対する租税から。
 これら四つの原因は、必要品の高き価格が労賃に及ぼす影響を研究した人々によっては、十分に弁別され分離されていない。吾々はこれらを各別に検討するであろう。
 不作は食料の高き価格を齎すであろう、そしてこの高き価格は、それによって消費が供給の状態に一致せざるを得ざらしめられる唯一の手段である。もしすべての穀物購買者が富んでいるならば、価格は、いかなる程度にまでも騰貴し得ようが、しかしその結果には変りがないであろう。すなわち価格はついに、富める程度の最も少い者がその通常の消費量の一部分の使用を止めざるを得なくなるほど高くなるであろう。けだし消費の減少によってのみ、需要は供給の限界にまで引下げられ得るからである。かかる事情の下においては、救貧法の誤用によってしばしばなされているように貨幣労賃を食物の価格によって強制的に左右するという政策以上に、不合理な政策はあり得ない。かかる方策は労働者に対し何らの真実の救済をも与えるものではないが、けだし、その結果は穀価を更により以上騰貴せしめることであり、そしてついに彼はその消費を限られた供給に比例して制限せざるを得なくなるに相違ないからである。条理上不作による供給の不足は、有害かつ不賢明な干渉がなければ、労賃の騰貴を伴わないであろう。労賃の騰貴はそれを受取る者によっては単に名目的であるに過ぎない。それは穀物市場における競争を増加せしめ、そしてその終局的政策は穀物の栽培者と商人の利潤を高めることである。労働の労賃は実際は、必要品の供給と需要、及び労働の供給と需要との間の比例によって左右される。そして貨幣は単に労賃を言表わす媒介物または尺度であるに過ぎない。しからばこの場合においては、附加的食物の輸入によるかまたは最も有用な代用品の採用による他は、労働者の困厄は不可避的であり、そしていかなる立法も救済を与え得ないのである。
 穀物の高き価格が需要増加の結果である時には、それは常に労賃の騰貴によって先行される、けだし需要は、その欲する物に対して支払うべき人民の資力の増加なくしては、増加し得ないからである。資本の蓄積は当然に、労働の雇傭者の間の競争を増加せしめ、そしてその結果たる労働の騰貴を惹起す。労賃の騰貴は、常に必ずしも直ちに食物に費されるとは限らず、最初には労働者の他の享楽に寄与せしめられる。しかしながら、彼れの境遇の改善は、彼を誘って結婚せしめ、またそれを可能ならしめる。しかる時は彼れの家族の支持のための食物に対する需要は当然に、彼れの労賃が一時費された他の享楽品に対する需要を排除する。かくて穀物は、それに対する支払の資力をより多く有つ者が社会にあるためそれに対する需要が増加するから、騰貴する。そして農業者の資本の利潤は一般水準以上に高められ、ついに必要な資本量がその生産に用いられるに至るであろう。このことが起った後に穀物が再びその以前の価格にまで下落するか、または引続き永続的により高くあるかは、それより穀物の分量増加が供給された土地の質に依存するであろう。もし、それが、最後に耕作された土地と同一の肥沃度を有つ土地から、またより大なる労働の支出なしに、得られるならば、価格はその以前の状態にまで下落するであろう。もしより貧しい土地からであるならば、それは引続き永続的により高いであろう。第一の場合の高き労賃は労働に対する需要の増加から起ったものである。それが結婚を奨励し子供を支持したが故にそれは労働の供給を増加するの結果を生み出したのである。しかしこの供給が得られた時には、もし穀物がその以前の価格まで下落したならば、労賃は再びその以前の価格にまで下落し、もし穀物の供給の増加が、より劣等の質の土地から生産せられたならば以前の価格よりより高い価格にまで下落するであろう。高き価格は決して豊富な供給と両立し得ないものではない。価格が永続的に高いのは、分量が不足であるからではなく、その生産費が増加したからである。人口に刺戟が与えられた時には、その場合に必要とされる以上の結果が生み出されるということは、実際一般に起る所である。人口は、労働に対する需要の増加にかかわらず、労働者を支持するための基金に対して資本の増加の前よりもより大なる比例を有つほどに増加され得ようし、また事実一般に増加されたのである。この場合には反動が起り、労賃はその自然的水準以下となり、そして供給と需要との間の通常の比例が囘復されるまでは引続きそれ以下にあるであろう。しからばこの場合においては、穀価の騰貴は労賃の騰貴によって先行され、従ってそれは労働者に何らの困厄をも蒙らせないのである。
 鉱山からの貴金属の流入の結果たる、または銀行の特権の濫用による、貨幣価値の下落は、食物の価値騰貴に対するもう一つの原因である。しかしそれは生産される分量には何らの変動をも起さないであろう。それは労働者の数も彼らに対する需要も同一にしておく。けだし資本の増加も減少もないであろうからである。労働者に割当てられるべき必要品の分量は、労働の比較的需給に対する必要品の比較的需給に依存する。貨幣はそれによってこの分量が現わされる媒介に過ぎない。そしてこれらの両者のいずれもが変動していないから、労働者の真実の報酬は変動しないであろう。貨幣労賃は騰貴するであろうが、しかしそれは単に彼をして以前と同一の必要品量を手に入れることを得さしめるに過ぎないであろう。この原理を論難しようとする者は、何故なにゆえに、貨幣の増加は、分量の増加しなかった労働の価格をを騰貴せしめるという同一の結果を有たないかということを、説明すべきである、けだし彼らは、もし靴や帽子や穀物の分量が増加しなかったならば、それらの貨物の価格に対し、それは同一の結果を有つであろうということを、認めているからである。帽子と靴との相対的市場価値は、靴の需給と比較しての帽子の需給によって左右され、そして貨幣はこれらの貨物の価値を言い現わす媒介に過ぎない。もし靴が価格において二倍となるならば、帽子もまた価格において二倍となるであろう、そして両者は同一の相対価値を保持するであろう。同様に、もし穀物及び労働者のすべての必要品が価格において二倍となるならば、労働もまた価格において二倍となるであろう、そして必要品及び労働の通常の需給に対し何らの妨げも存しない間は、それらがその相対価値を保持しないという理由はあり得ないのである。
 貨幣価値の下落も粗生生産物に対する租税も、その各々は価格を引上げるであろうが、粗生生産物の分量を、またはそれを購買することが出来、かつそれを消費せんと欲する者の数を、必然的に妨げるわけではないであろう。何故なにゆえに、一国の資本が不規則に増加する時に、労賃は騰貴するがしかるに穀価は静止しまたはより少い比例で騰貴するかを、そして何故なにゆえに、一国の資本が減少する時に、労賃は下落するがしかるに穀価は静止しまたは遥かにより少い比例で下落し、しかもこのことがかなりの期間そうであるかを、了解することは、極めて容易である。その理由は、労働は随意に増減し得ない貨物であるからである。もし需要に対し市場に余りに少い帽子しかないならば、価格は騰貴するであろうが、しかしそれは単に短い期間に過ぎない。けだし一年経てば、より多くの資本をその職業に用いることによって、帽子の分量がある適当な量だけ増加され、従ってその市場価格は久しくその自然価格を極めて甚しく超過し得ないからである。しかし人間の場合はこれと異る。人は彼らの数を、資本の増加がある時に一二年で増加することは出来ず、またその数を、資本が退歩的状態にある時に急速に減少することも出来ない。従って、人間の数は遅々として増加するが労働維持のための基金は速かに増減するのであるから、労働の価格が穀物及び必要品の価格によって正確に規制されるまでにはかなりの時の隔りがなければならない。しかし貨幣の下落、または穀物に対する租税の場合には、必ずしも労働の供給の超過もなく、需要の減退もなく、従って労働者が労賃の真実の減少を受けるという理由はあり得ぬのである。
 穀物に対する租税は必ずしも穀物の分量を減少せしめず、ただその貨幣価格を騰貴せしめるに過ぎない。それは必ずしも労働の供給と比較しての需要を減少せしめない。しからば何故なにゆえにそれは労働者に支払われる分前を減少せしめなければならないか? それが労働者に与えられる分量を減少せしめるということを、換言すれば、租税が彼れの消費する穀物の価格を騰貴せしめると同一の比例においてそれは彼れの貨幣労賃を騰貴せしめるものではないということを、真実なりと仮定しよう。穀物の供給は需要を超過しないであろうか?――それは価格において下落しないであろうか? またかくて労働者は彼れの通常の分前を取得しないであろうか? かかる場合には実際、資本は農業から引き去られるであろう、けだしもし価格が租税の金額だけ騰貴しないならば、農業利潤は利潤の一般水準よりもより低くなるであろうし、そして資本はより有利な用途を探求するであろうからである。かくて問題の点たる粗生生産物に対する租税に関しては、粗生生産物の価格の騰貴と労働者の労賃の騰貴との間には、労働者に対して圧迫する時期はなく、従ってこの階級がある他の課税方法によって蒙る不便、換言すれば、租税が労働の支持のために向けられた基金を害し従って労働に対する需要を妨げまたは減少するかもしれぬという危険の他には、彼らは何らの不便をも蒙らないであろうと、私には思われるのである。
(六〇)粗生生産物に対して課せられる租税に対する第三の反対論、すなわち労賃の引上と利潤の引下とは蓄積の阻害であり、そして土壌の自然的疲瘠と同様の作用をする、という反対論に関しては、私は、本書の他の部分において、貯蓄は、生産からと同様に有効に支出から、利潤率の騰貴からと同様に有効に貨物の価値の下落から、なされ得ようことを、示さんと努めた。物価が引続き同一である時に私の利潤を一、〇〇〇ポンドから一、二〇〇ポンドに増加せしめることによって、私が貯蓄によって資本を増加する力は増加されるけれども、しかしこの力は、私の利潤は引続き以前と同一であるが貨物が価格において下落したために以前には一、〇〇〇ポンドで購買しただけの分量を八〇〇ポンドで取得し得るに至った場合ほどには、増加されないであろう。
 さて、租税によって要求される額は徴収されなければならない、そこで問題は単にこの額は個人の利潤を減少せしめることによって個人から徴収せらるべきであるか、または彼らの利潤がそれに支出される貨物の価格を引上げることによって徴収せらるべきであるか、ということである。
 課税はいずれの形においても諸害悪についての一選択であるに過ぎない。もしそれが利潤その他の所得の源泉に影響を及ぼさなければ、それは支出に影響を及ぼすに相違ない。そして負荷が平等に負担されかつ再生産を圧迫しない限り、それはいずれに賦課されても構わない。生産に対する租税または資本の利潤に対する租税は、直接に利潤に対し課せられようと、または土地あるいは土地の生産物に対して課税することにより、間接に課せられようとに論なく、他の租税以上にこの得点を有っている、すなわちすべての他の所得が課税されぬ限り、社会のいかなる階級もそれを免れ得ず、そして各人はその資力に応じて納税するのである。
 支出に対する租税は吝嗇家りんしょくかのがれるであろう。彼は毎年一〇、〇〇〇ポンドの所得を有ち、そして単に三〇〇ポンドを費すに過ぎないであろう。しかし直接的のものであろうと間接的のものであろうと利潤に対する租税からは、彼は遁れ得ない。彼は、その生産物の一部分、またはその一部分の価値を、抛棄して、納税することになるであろう、しからざれば生産に欠くべからざる必要品の価格の騰貴によって、彼は以前と同一の率で蓄積を続け得なくなるであろう。もちろん彼は同一の価値を有つ所得を得るであろうが、しかし彼は、労働に対する同一の支配力も有たず、またはそれにかかる労働が用いられ得る原料品の等しい分量に対する同一の支配力をも有たないであろう。
 もし一国がすべての他国より孤立し、その隣国のいずれとも商業をしないならば、それは決してその租税のいかなる部分をも他国に転嫁し得ない。その土地と労働との生産物の一部分は、国家の用に供せられるであろう。そして私は、それが蓄積しかつ貯蓄する階級に対し不平等の圧迫を加えぬ限り、租税が利潤に課せられようと、農業貨物に課せられようと、または製造貨物に課せられようと、それはほとんどどうでもよいと考えざるを得ない。もし私の収入が一年につき一、〇〇〇ポンドであり、そして私は一〇〇ポンドに当る額の租税を支払わなければならぬとすれば、私がそれを私の収入から支払って九〇〇ポンドを手許に残そうと、または私の農業貨物または私の製造財貨に対し一〇〇ポンドだけより多く支払おうと、それはほとんどどうでもよいことである。もし一〇〇ポンドが国家の経費に対する私の正当なる割当であるならば、課税のなすべきことは、私をしてそれ以上でもそれ以下でもなくまさに一〇〇ポンドを確実に支払わしめることである。そしてそれは労賃か利潤かまたは粗生生産物に対する租税によって最も確実に行われ得るのである。
(六一)第四のそして注意すべき最後の反対論は、粗生生産物の価格を引上げることによって、粗生生産物が入っているすべての貨物の価格は引上げられ、従って、吾々は一般市場において外国製造業に平等な条件で対抗し得ないであろう、というのである。
 第一に、穀物及びすべての内国貨物は、貴金属の流入なくしては価格において著しく高められ得ないであろう、けだし同一量の貨幣は高い価格においても低い価格の場合と同様に同一量の貨物を流通せしめ得ず、そして貴金属は決して高価な貨物をもっては購買され得ないであろうからである。より多くの金が必要とされる時には、それはそれと交換してより少い貨物ではなくより多くの貨物を与えることによって、取得されなければならない。貨幣の不足は紙幣によってもみたされ得ないであろう、けだし貨物としての金の価値を左右するものは紙幣ではなく、紙幣の価値を左右するものは金であるからである。しかる時は金の価値が引下げられ得ない限り、減価されずして紙幣は流通に加えられ得ないであろう。そして金の価値が引下げられ得ないであろうことは、吾々が一貨物としての金の価値は、それと交換に外国人に与えられねばならぬ財貨の分量によって左右されなければならぬことを考える時に明かになる。金が低廉である時には貨物は高く、そして金が高い時には貨物は低廉であり、価格において下落する。さて外国人が彼らの金を通常よりもより安く売るべき原因は何ら示されていないのであるから、少しでも金の流入が起ろうとは思われない。かかる流入なくしては、その量の増加は、その価値の下落は、財貨の一般価格の騰貴は、あり得ないのである(註)。
(註)単に租税のみによって価格が騰貴した貨物が、その流通のためあるより多くの貨幣を必要とするか否かは、疑い得よう。私はそれを必要としないであろうと信ずる。
 粗生生産物に対する租税の蓋然的結果は、粗生生産物の及び粗生生産物が入り込めるすべての貨物の価格を騰貴せしめることであろうが、しかしその程度は決して租税に比例しない。しかるに金属や土で造った物の如き何らの粗生生産物も入り込まぬ他の貨物は価値において下落するであろう。従って以前と同一量の貨幣が全流通に対し適当であるであろう。
 すべての内国生産物の価格を高める結果を有つべき租税は、はなはだ短い期間を除けば輸出を阻害しないであろう。もしそれが国内で価格において高められるならばそれは実際直ちに有利に輸出されることを得ないであろう、けだしそれは国内において外国では免れている負担を蒙るからである。この租税はすべての国に一般でありかつ共通であるものではなくして、ある一単独国に限られている所の貨幣価値の変動と、同一の結果を生み出すであろう。もしも英国がその国であるとするならば、英国は売却することは出来ないかもしれぬが、購買することは出来るであろう、けだし輸入される貨物は価格において騰貴しないであろうからである。かかる事情の下においては、貨幣以外に何物も外国貨物と引換えに輸出され得ないであろうが、しかしこれは久しく続き得ない取引である。一国民はその貨幣を消尽してしまうことは出来ない、けだし一定量がその国民を去った後にはその残りのものの価値は騰貴し、そしてその結果として貨物の価格は、それが再び有利に輸出され得るように変動するであろうからである。従って貨幣が騰貴した時には吾々はもはや財貨と引換えにそれを輸出せずして、吾々はまずその原料たる粗生生産物の価格の騰貴によって価格が騰貴し次いで再び貨幣の輸出によって下落した所の製造品を、輸出するであろう。
 しかし、貨幣が価値においてかくの如く騰貴した時には、それは内国貨物に関してと同様に外国貨物に関しても騰貴するであろうし、従って、外国財貨の輸入に対するあらゆる奨励が停止するであろう、という反対がなされるかもしれない。かくて吾々が外国において一〇〇ポンドを費しそして我国において一二〇ポンドに売れる財貨を輸入したと仮定するならば、貨幣価値が英国において騰貴せる結果それが単に一〇〇ポンドに売れるに過ぎなくなった時には、吾々はそれを輸入することを止めるであろう。しかしながらこのことは決して起り得ないであろう。一貨物を輸入することを吾々に決心せしめた動機はそれが外国においては相対的に低廉であることを発見したにある。それは外国でのその価格と内国でのその価格との比較である。もし一国が帽子を輸出し毛織布を輸入するとすれば、そうする理由は帽子を造ってそれを毛織布と交換することにより、毛織布を自国で造る場合よりもより多くの毛織布を取得することが出来るからである。もし粗生生産物の騰貴が帽子の製造における生産費の増加を齎すならば、それは毛織布の製造における費用の増加をも齎すであろう。従って、もし双方の貨物が国内において造られるならば、それらは双方共に騰貴するであろう。しかしながら一方は、吾々が輸入する貨物であるから、貨幣価値が騰貴した時にも、騰貴もしなければ下落もしないであろう。けだし下落せざることによって、それは輸出貨物に対するその自然的関係を恢復するであろうからである。粗生生産物の騰貴は帽子をして三〇シリングから三三シリングに、または一〇%騰貴せしめる。同一の原因はもし吾々が毛織布を製造していたならば、それを一ヤアルにつき二〇シリングから二二シリングに騰貴せしめるであろう。この騰貴は毛織布と帽子との関係を破壊するものではない。一箇の帽子は一ヤアル半の毛織布に値したし、また引続きそれに値する。しかしもし吾々が毛織布を輸入するならば、その価格はまず貨幣価値の下落によって影響を蒙らず、次いでその騰貴によって影響を蒙らずして、引続き一様に一ヤアルにつき二〇シリングであろう。しかるに三〇シリングから三三シリングに騰貴している帽子は再び三三シリングから三〇シリングに下落するであろう、そしてこの点において毛織布と帽子との間の関係は恢復されるであろう。
 この問題の考察を簡単にするために、私は、粗生原料品の価値の騰貴は、すべての内国貨物に等しい割合で影響を及ぼすものであり、すなわちもし一貨物に対して及ぼす影響がそれを一〇%騰貴せしめることであるならば、それはすべての貨物を一〇%騰貴せしめるであろうと、仮定して来たが、しかし貨物の価値が粗生原料品及び労働から出来上っている割合は極めて異っており、またある貨物例えば金属から造られているすべてのものは、地表からの粗生生産物の騰貴によって影響を受けないであろうから、粗生生産物に対する租税によって貨物の価値に対し及ぼされる影響には各種各様の最大の種類があることは明かである。この影響が生み出される限り、それは特定貨物の輸出を奨励したり阻害したりし、そして疑いもなく、貨物の課税に伴うと同一の不便を伴うであろう。それは各々の価値の間の自然的関係を破壊するであろう。かくて一箇の帽子の自然価格は、一ヤアル半の毛織布と同一ではなくして、単に一ヤアル四分の一の価値を有つに過ぎないか、または一ヤアル四分の三の価値を有つことになり、従ってむしろ異る方向が外国貿易に対して与えられるであろう。すべてのこれらの不便はおそらく輸出品及び輸入品の価値に影響を及ぼさないであろう。それは単に全世界の資本の最上の分配を妨げるに過ぎないであろうが、かかる分配は、あらゆる貨物が人為的制限によって束縛されずに自由にその自然価格に落着くに委ねられる時に最も適宜に調整されるのである。
 しからばたとえ我国自身の貨物の大抵のものの騰貴が、一時の間一般に輸出を妨げ、そして永続的に若干の貨物の輸出を妨げるとしても、それは外国貿易を大いに妨げることは出来ず、そして外国市場における競争に関する限りにおいては吾々を他に比較して不利益な地位に置くことはないであろう。
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    第十章 地代に対する租税

(六二)地代に対する租税は地代にのみ影響を及ぼすであろう。それは全然地主の負担する所となり、そしていかなる消費者階級へも転嫁され得ないであろう。地主は、最も不生産的な耕地から得られる生産物とあらゆる他の質の土地とから得られるそれとの間の差違を不変にしておくであろうから、その地代を高め得ないであろう。第一、第二、及び第三の三種の土地が耕作されており、そして各々同一の労働をもって、一八〇、一七〇、及び一六〇クヲタアの小麦を産出する。しかし第三等地は何ら地代を支払わず、従って課税されない。かくて第二等地の地代は十クヲタアの価値を、また第一等地のそれは二十クヲタアの価値を、超過せしめられ得ない。かかる租税は粗生生産物の価格を高め得ないが、それは、第三等地の耕作者は地代もまた租税も支払わないから、彼は決して生産された貨物の価格を高め得ないからである。地代に対する租税は新しい土地の耕作を阻害しないであろう、けだしかかる土地は地代を支払わず、かつ課税されないであろうから。もし第四等地が耕作されるに至り、そして一五〇クヲタアを産出するとしても、いかなる租税もかかる土地に対して支払われないであろうが、しかしそれは第三等地に十クヲタアの地代を発生せしめ、かくて第三等地は租税を支払い始めるであろう。
(六三)地代が構成されるにつれて地代に課せられる租税は、耕作を阻害するであろうが、けだしそれは地主の利潤に対する一租税となるであろうからである。土地の地代なる言葉は、私が他の場所で論じた如くに、農業者がその地主に支払う価値の全額に適用されているが、その一部のみが厳密には地代なのである。建物や造作、及び地主の支払うその他の費用は、厳密には農場の資本の一部をなし、そして地主によって供給されなければ借地人によって備えられねばならなかったものである。地代とは土地の使用に対しそして土地の使用に対してのみ、地主に支払われる額である。地代の名の下に支払われるより以上の額は建物等の使用に対するものであり、そして実際は地主の資本の利潤である。地代に課税する際には土地の使用に対し支払われる部分と、地主の資本の使用に対し支払われるそれとの間には、何らの区別もされないであろうから、租税の一部分は地主の利潤の負担する所となり、従って、粗生生産物の価格が騰貴しない限り、耕作を阻害するであろう。その使用に対しては何らの地代も支払われない土地においては、地主に対し彼れの建物の使用に対して、その名の下にある補償が与えられるであろう。粗生生産物が売られる価格が、啻にすべての通常の支出を支払うのみならず、更に租税というこの附加的支出を支払うまでは、これらの建物が建てられることもないであろうし、また粗生生産物がかかる土地に栽培されることもないであろう。租税のこの部分は地主の負担にも農業者の負担にも帰せず、粗生生産物の消費者の負担する所となる。
 もしも租税が地代に課せられるならば、地主は直ちに、土地の使用に対して彼らに支払われるものと、建物の使用及び地主の資本によってなされた改良に対して支払われるものとを、弁別する方法を発見するであろうことは、ほとんど疑いはあり得ない。後者が家屋及び建物の賃料と呼ばれるに至るか、または耕作されるに至ったすべての新しい土地においては、地主によってではなく借地人によって、かかる建物が建てられかつ改良がなされるに至るかであろう。地主の資本が実に実際にはその目的のために用いられるであろう。名目上はそれは借地人によって費され、地主は、貸金の形かまたは借地期間に亘る年金の購買で、彼にその資を支給するのである。区別されていてもいなくとも、地主がこれらの種々なる目的物に対して受取る所の補償の性質の間に真実の差違がある。そして、土地の真実地代に対する租税は全然地主の負担する所となるが、地主が農場に投ぜられたその資本の使用に対して受取る補償に対する租税は、進歩的国家においては、粗生生産物の消費者の負担する所となることは、全く確実である。もし租税が地代に賦課され、そして現在借地人が地代の名の下に地主に支払う報償を区分する何らの方法も採用されないとしても、租税は、それが建物その他の造作に対する地代に関する限り、決してどんな短い間でも地主の負担する所とはならず、消費者の負担する所となるであろう。これらの建物等に投ぜられた資本は、資本の通常利潤を与えなければならない。しかしもしそれらの建物の費用が借地人の負担する所とならなければ、それは最後に耕作される土地においてこの利潤を与えないであろう。そしてもしそれが借地人の負担する所となるならば、借地人はそれを消費者に転嫁しない限り、彼れの資本の通常利潤を得なくなるであろう。
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    第十一章 十分一税

(六四)十分一税は土地の総生産物に対する租税であり、そして粗生生産物に対する租税と同様に、全然消費者の負担する所となる。それは地代に対する租税が達しない土地に影響を及ぼす限りにおいてそれと異り、そしてこの地代に対する租税が変動せしめないであろう所の、粗生生産物の価格を引上げる。最も劣等の土地も、最良の土地と同様に、十分一税を、しかもそれらの土地から得られる生産物量に正確に比例して、支払う。従って十分一税は平等な租税である。
 もしも最後の質の土地、すなわち何らの地代も支払わず穀価を左右するそれが、農業者に資本の通常利潤を与えるに足る分量を産出し、その時に小麦の価格が一クヲタアにつき四ポンドであるならば、価格は、十分一税が賦課された後に同一の利潤が取得され得る以前に、四ポンド八シリングに騰貴しなければならない、けだし小麦一クヲタアごとに耕作者は教会に八シリングを支払わなければならず、そしてもし彼が同一の利潤を得ないとすれば、彼が他の事業においてかかる利潤を得ることが出来る時にその職業を中止しないという理由はないからである。
 十分一税と粗生生産物に対する租税との間の唯一の差違は、一方は可変的貨幣租税であり他方は定額貨幣租税であることである。穀物を生産する便宜が増加もせず減少もしない所の、社会の停止的状態においては、それらはその結果において正確に同一であろう、けだしかかる状態においては、穀物は不変的価格にあり、従って租税もまた不変であろうからである。退歩的状態か、または農業において大改良がなされ従って粗生生産物が他の物に比較して価値において下落するであろう所の状態かにおいては、十分一税は永続的貨幣租税よりもより軽い租税であろう。けだしもし穀価が四ポンドから三ポンドに下落するならば、租税は八シリングから六シリングに下落するであろうからである。社会の進歩的状態――しかも農業における何らの著しい改良もない状態――においては、穀価は騰貴し、そして十分一税は永続的貨幣租税よりもより重い租税となろう。もし穀物が四ポンドから五ポンドに騰貴するならば、同一の土地に対する十分一税は八シリングから十シリングに騰貴するであろう。
 十分一税も貨幣租税も地主の貨幣地代には影響を及ぼさないであろうが、しかし両者は穀物地代には著しく影響を及ぼすであろう。吾々は既に、貨幣租税が穀物地代に影響する仕方を論じたが、同様な結果が十分一税によっても生み出さるべきことは等しく明かである。もし第一、第二、第三等地が各々一八〇、一七〇、及び一六〇クヲタアを生産するならば、地主は第一等地に対しては、二十クヲタア、また第二等地に対しては十クヲタアであろう。しかしそれらは十分一税を支払った後には、もはやこの比例を維持しないであろう。けだしもしその各々から十分の一が徴収されるならば、残りの生産物は一六二クヲタア、一四四クヲタアとなり、従って第一等地の穀物地代は一八クヲタアに、また第二等地のそれは九クヲタアに、減少させられるであろうからである。しかし穀価は四ポンドから四ポンド八シリング一〇・三分の二ペンスに騰貴するであろう。けだし一四四クヲタアが四ポンドに対する割合は、一六〇クヲタアが四ポンド八シリング一〇・三分の二ペンスに対する割合であるからである、従って貨幣地代は第一等地に対しては八〇ポンドであり(註一)、また第二等地に対して四〇ポンドであろうから(註二)、貨幣地代は引続き不変であろう。
(註一)四ポンド八シリング一〇・三分の二ペンスで一八クヲタア
(註二)四ポンド八シリング一〇・三分の二ペンスで九クヲタア
 十分一税に対する主たる反対論は、それは永続的なかつ固定的な租税ではなくて、穀物を生産する困難が増加するに比例して価値において増加する、ということである。もしかかる困難が穀価を四ポンドならしめるならば租税は八シリングとなり、もしそれが穀価を五ポンドに増加するならば租税は一〇シリングとなり、そして六ポンドの時にはそれは一二シリングとなる。それは啻に価値において騰貴するのみならず、更にまた額において増加する。かくして第一等地が耕作された時には、租税は単に一八〇クヲタアに対して課せられるに過ぎず、第二等地が耕作された時には、それは180+170すなわち三五〇クヲタアに対して課せられ、そして第三等地が耕作された時には、180+170+160=510クヲタアに対して課せられた。生産物が一百万クヲタアから二百万クヲタアに増加される時には、租税の額が一〇〇、〇〇〇クヲタアから二〇〇、〇〇〇に附加されるのみならず、更に第二の一百万を生産するに必要な労働の増加によって、粗生生産物の相対価値は増進せしめられ、その結果二〇〇、〇〇〇クヲタアは、量においては単に以前に支払われた一〇〇、〇〇〇クヲタアのそれの二倍に過ぎないが、しかも価値においては三倍であるであろう。
 もし等しい価値が、教会のために、十分一税の増加と同様に耕作の困難に比例して増加する所のある他の手段によって、徴収されるならば、その結果は同一であろう、従って、それは土地から徴収される故に、ある他の方法によって徴収された場合の同額よりも、耕作をより多く阻害する、と想像するのは、誤りである。教会は双方の場合において、国の土地及び労働の純生産物の増加せる部分を不断に取得しつつあるであろう。社会の進歩しつつある状態においては、土地の純生産物は常にその総生産物に比例して逓減しつつある。しかし進歩的な国においても静止的な国においても、すべての租税が終局的に支払われるのは、国の総収入からである。総収入と共に増加しかつ純収入の負担とする所となる租税は、必然的に、極めて重荷的なかつ極めて堪え難い租税でなければならない。十分一税は、土地の総生産物の十分の一であり、その純生産物の十分の一ではなく、従って社会が富において進歩するにつれて、それは、総生産物については同一比例であるが、純生産物についてはますますより大なる比例とならなければならない。
(六五)しかしながら、十分一税は、外国穀物の輸入が妨害されていない間は、内国穀物の栽培に課税することによって、それが輸入に対する奨励金として作用する限りにおいて、地主によって有害である、と考えられるであろう。そしてもし、地主を、かかる奨励金が促進するはずの土地に対する需要の減少の結果から、救済するために、輸入穀物もまた、国内で栽培される穀物と等しい程度において課税され、そして生産物が国家に支払われるならば、いかなる方策もより正当かつ公平ではあり得ないであろう。けだしこの租税によって国家に支払われるものはいかなるものも、政府の経費が必要ならしめる他の租税を減少せしめるに至るであろうからである。しかしもしかかる租税が単に教会に支払われる資金を増加することに向けられるならば、それは実際全体としては生産の全量を増加することは出来ようが、しかしそれは生産階級に割当てられた額の部分を減少するであろう。
 もし毛織布の貿易が完全に自由に委ねられているならば、我国の製造業者達は、吾々が毛織物を輸入し得るよりもより低廉にそれを売却し得よう。もし租税が国内の毛織物製造業者に賦課され、そしてその輸入業者には賦課されないならば、資本は害を受けて毛織布の製造からある他の貨物の製造に追いやられるであろうが、それはけだし毛織布はその際には国内で製造され得るよりもより低廉に輸入され得ようからである。もし輸入毛織布もまた課税されるならば毛織布は再び国内において製造されるであろう。消費者は最初は国内において毛織布を買ったが、けだしそれが外国毛織布よりもより低廉であったからである。彼は次いで外国毛織布を買ったが、けだし課税された国内毛織布よりもそれは課税されずしてより低廉であったからである。彼は最後にそれを国内で買ったが、けだし内国及び外国の毛織布の双方が課税された時には内国のものがより低廉であったからである。彼がその毛織布に対し最大の価格を支払うのは最後の場合であるが、しかしすべての彼れの附加的支払は国家の利得となるのである。第二の場合においては、彼は第一の場合よりもより多く支払うが、しかし彼が附加的に支払うすべては、国家の受取る所とはならない、彼に課せられるのは生産の困難により惹起される増加価格である、けだし最も容易な生産の手段が、租税の束縛を受けて吾々から遠ざけられているからである。
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    第十二章 地租

(六六)土地の地代に比例して賦課され、かつ地代の変動ごとに変動する地租は、結果において地代に対する課税である。そしてかかる租税は、何らの地代をも生じない土地には、または単に利潤のみを目的として土地の上に使用されかつ決して地代を支払わない所の資本の生産物にも、適用されないから、それは決して粗生生産物の価格に影響を及ぼさないであろうが、しかし全く地主の負担する所となるであろう。いかなる点においてもかかる租税は地代に対する租税と異らないであろう。しかしもし地租がすべての耕地に対して課せられるならば、それがいかに適当であろうとも、それは生産物に対する租税であり、従って生産物の価格を高めるであろう。もし第三等地が最後に耕作される土地であるならば、たとえそれは何らの地代をも支払わなくとも、それは、課税された後は、生産物の価格が租税の支払に応ずるために騰貴せざる限り、耕作され得ずかつ利潤の一般率を与え得ない。資本がその職業から抑留されて、ついに需要の結果、穀物価格が通常利潤を与えるに足るほど騰貴するに至るか、またはもし既にかかる土地に用いられているならば、それは、より有利な職業を求めてこの土地を去るか、であろう。この租税は地主には転嫁され得ない、けだし仮定によれば彼は何らの地代をも受取らないからである。かかる租税は、土地の質及びその生産物量に比例せしめられるべく、しかる時にはそれはいかなる点においても、十分一税と異らない。あるいはそれはあらゆる耕地――その地質がいかなるものであろうとも――に対するエーカア当りの固定的租税であろう。
(六七)この最後の種類の地租は極めて不平等な租税であり、そしてアダム・スミス(編者註)によればすべての租税がそれに一致しなければならない租税一般に関する四公理の一つに反するであろう。この四公理は次の如くである。
一、『あらゆる国家の臣民は彼らの各々の能力に出来得る限り比例して政府の支持に寄与すべきである。
二、『各個人が支払わざるべからざる租税は確定的であるべく、恣意的であってはならない。
三、『あらゆる租税は、納税者にとりそれを支払うに最も便利なように思われる時または方法において、賦課せらるべきである。
四、『あらゆる租税は、それが国庫に齎す以上には出来るだけ少く人民の懐中から取り去りかつ出来るだけ少く人民の懐中以外にあらしめるように、工夫せらるべきである。』
(編者註)第五篇、第二章、(訳者註――キャナン版、第二巻、三一〇――三一一頁)。
 無差別的にかつその地質の区別を無視してあらゆる耕地に課せられる平等な地租は、最も悪質の土地の耕作者によって支払われる租税に比例して穀価を騰貴せしめるであろう。質を異にする土地は、同一の資本を用いて、極めて異る分量の粗生生産物を産出するであろう。もし、一定の資本をもって一千クヲタアの穀物を産する土地に、一〇〇ポンドの租税が課せられるならば、穀物は、農業者にこの租税を補償するために、一クヲタアにつき二シリング騰貴するであろう。しかし、より良き質の土地に同一の資本を用いれば、二、〇〇〇クヲタアが生産され得ようが、それは一クヲタアにつき二シリング騰貴した時には、二〇〇ポンドを与えるであろう。しかしながら、租税は双方の土地に平等に課せられるからより良い土地に対しても劣等の土地に対すると同様に一〇〇ポンドであろう、従って穀物の消費者は、啻に国家の必要費を支払うためにのみならず、更にまたその借地期限の間より良い土地の耕作者に一年につき一〇〇ポンドを与え、またその以後には地主の地代をその額だけ高めるために課税されるであろう。かくてこの種の租税はアダム・スミスの第四の公理に反するであろう、すなわち、それは、それが国庫に齎した額以上を人民の懐中以外にあらしめるであろう。革命前のフランスにおけるタイユはこの種の租税であった。平民の保有地のみが課税され、粗生生産物の価格は租税に比例して騰貴し、従ってその所有地の課税されなかった人々は彼らの地代の増加によって利益を受けた。粗生生産物に対する租税並びに十分一税は、この反対論から免れる。それらは、粗生生産物の価格を騰貴せしめるが、しかしそれらは、各々の質の土地に、その実際の生産物に比例して納税させ、そして生産力の最小なるものの生産物に比例しては納税させないのである。
 アダム・スミスが地代についてとった特殊な見解からして、すなわち、あらゆる国において、何らの地代もそれに対して支払われない土地に多くの資本が投ぜられていることを、彼が観察しなかったことからして、彼は、土地に対するすべての租税は、それが地租または十分一税の形において土地そのものに対して賦課せられようと、または農業者の利潤から徴収されようと、すべて常に地主によって支払われるものであり、そして租税は一般に名目上借地人によって前払されてはいるが、すべての場合において地主が真実の納税者である、と結論した。彼は曰く、『土地の生産物に対する租税は実際においては地代に対する租税である。そしてそれは初めは農業者によって前払されるかもしれぬが、終局的には地主によって支払われる。生産物の一定部分が租税として払い出さるべき時には、農業者は出来るだけ詳しくこの部分の価値が年々幾何いくばくに上りそうであるかを計算し、そして彼が地主に対して支払うことを同意している地代をそれに比例して減額する。この種の地租たる教会十分一税が年々幾何に上りそうであるかをあらかじめ計算しない農業者はない。』(訳者註)農業者が彼れの農場の地代について彼れの地主と約定する時にあらゆる種類の蓋然的支出を計算することは疑いもなく真実である。そしてもし教会に支払われる十分一税に対し、または土地の生産物に対する租税に対して、彼がその農場の生産物の相対価値の騰貴によって補償されないならば、彼は当然にそれを彼れの地代から控除せんと努めるであろう。しかしまさにこれが、すなわち、彼は結局それを彼れの地代から控除するであろうか、または生産物の価格騰貴によって補償されるであろうか、ということが、論争のある問題なのである。既に述べた理由により、私は彼らが生産物の価格を引上げるであろうことを、従ってアダム・スミスはこの重要な問題について誤れる見解をとっていたことを、少しも疑い得ないのである。
(訳者註)キャナン版、第二巻、三二一頁。
 スミス博士のこの主題に関する見解がおそらく彼をして次の如く述べしめた理由である、すなわち、『十分一税、及びこの種のあらゆる他の地租は、完全な平等の外観を有ちながら極めて不平等な租税であり、それは、生産物の一定分量も、事情の異る場合には、はなはだ異る分量の地代に相当するからである。』(訳者註)かかる租税は重さを異にして農業者または地主の異る階級の負担する所とはならないが、けだし彼らは共に粗生生産物の騰貴によって補償され、そして単に彼らが粗生生産物の消費者たるに比例してこの租税を納付するに過ぎないからである、ということを、私は説明せんと努力し来った。実に労賃が、そして労賃を通じて利潤率が、影響を蒙る故に、地主はかかる租税に対し彼らの十分な分前を納付せず特に免除された階級なのである。その基金が不十分なために租税を支払い得ない所の労働者の負担に課せられる租税部分が引き出されるのは、資本の利潤からである。この部分は資本の使用によりその所得を得るすべての者のもっぱら負担する所であり、従ってそれは毫も地主に影響を及ぼさない。
(訳者註)キャナン版、同上。
(六八)十分一税及び土地と生産物とに対する租税に関するこの見解からして、それらは耕作を阻害しないと推論してはならぬ。極めて一般的に需要されているいかなる種類でもの[#「でもの」はママ]貨物の交換価値を騰貴せしめるあらゆるものは、耕作及び生産の両者を阻害する傾向がある。しかしこれはあらゆる課税から免れ得ぬ害悪であり、そして吾々が今論じている特定の租税に限られるものではない。
 このことはもちろん国家によって受領されかつ支出されるすべての租税に伴う不可避的な不利益と考え得よう。あらゆる新労働の一部分は今や国家の自由になし得る所となり、従って生産的に使用され得ない。この部分が極めて大となり、そのために、通常彼らの貯蓄によって国家の資本を増大する者の努力を刺戟するに足る剰余生産物が、残されなくなるであろう。課税はさいわいにして、未だいかなる自由国家においても、不断に年々その資本を減少せしめるほどに行われたことはない。かかる課税状態は久しく耐えられ得ないであろう。またはもし耐えられたとしても、それは極めて多くの国の年々の生産物を吸収し、ために最も広大なる範囲の窮乏、飢饉、及び人口減少を惹起すに至るであろう。
 アダム・スミスは曰く、『大英国の地租の如くに、各地方において一定不変の標準によって課せられる地租は、その最初の設定の時には平等であっても、時を経るにつれ国の種々なる地方の耕作の改良または等閑の程度の不平等なのに従って、必然的に不平等になる。英国においては、種々なる州及び教区がウィリアム及メアリの第四年の法律によって地租の課せられた基準となった評価は、その最初の設定の時ですら、極めて不平等であった。従ってこの租税はそれだけ上述の四公理の第一のものに反するものである。それは他の三つには完全に合致する。それは完全に確実である。その租税の支払期が地代の支払期と同一であることは、納税者にとり最も便利である。地主がすべての場合において真実の納税者ではあるけれども、この租税は普通借地人によって前払され、地主は彼に対して地代の支払においてそれを差引かなければならないのである。』(訳者註)
(訳者註)キャナン版、三一三頁。
 もし借地人によって租税が地主にではなく消費者に転嫁されるならば、しかる時は、もしそれが最初に不平等でないならば、それは決して不平等にはなり得ない。けだし生産物の価格は租税に比例して直ちに引上げられたのであり、そしてその故をもってその以後にもはや変化することはないであろうからである。もし不平等であるならば、私はそうであろうことを証明せんと試みたのであり、それは上述の第四の公理に反するであろうが、しかし第一の公理には反しないであろう。それは国庫に齎す額以上を人民の懐中から取り去るであろうが、しかしそれは不平等に納税者のある特定階級の負担する所とはならないであろう。セイ氏は、次の如く言う時に、英国の地租の性質及び結果を誤解しているように私には思われる、『多くの人は英国農業の大繁栄をこの固定的評価に帰している。それがこれにはなはだ多く寄与したことには、疑いは有り得ない。しかし小商人に向って次の如く云う政府には、吾々は何と云うべきであろうか、すなわち、「小さな資本をもって君は小さな商売を営んでいる、そしてその結果君の直接納税は極めて小である。資本を借り入れかつ蓄積せよ。君の商売が巨大な利潤を君に齎すように、それを拡張せよ、しかも君にはより多くの納税はさせないであろう。しかのみならず君の相続者が君の利潤を相続し、かつそれを更に増加せしめる時に、君の場合よりも彼らの場合にその評価をより高くはしないであろう。そして君の相続者はより多額の公の負担を負わせはしないであろう」と。
『疑いもなく、これは製造業及び取引に対して与えられる大なる奨励であろう。しかしそれは正当であろうか? それらの進歩はある他の代価によって得ることを得ないであろうか? 英国自身において、製造業及び商業はこの時期以来、かくも多くの差別待遇を受けることなくて、かえってより大なる進歩をすらなしはしなかったか? 一地主は彼れの勤勉や節約や熟練によって彼れの年収入を五、〇〇〇フランだけ増加するとする。もし国家が彼からその増加された所得の五分の一を請求するとしても、彼れのより以上の努力を刺戟すべく四、〇〇〇フランの増加が残らないであろうか?』(編者註)
 セイ氏は、『一地主は彼れの勤勉や節約や熟練によって彼れの年収入を五、〇〇〇フランだけ増加する』(編者註)と想像している。しかし一地主は彼がそれを自身耕作せざる限り、彼れの勤勉や節倹や熟練を彼れの土地に用うべき何らの手段をも有たない。そしてその場合には彼が改良をなすのは資本家及び農業者たる資格においてであって、地主たる資格において[#「て」は底本では欠落]ではない。まず彼れの農場に用いられる資本の分量を増加することなくして、彼が彼として有つ任意の特殊な熟練によってその生産物をかく増加し得ようとは考えられない。もし彼が資本を増加したとしても、彼れのより大なる収入は彼れの増加された資本に対して、あらゆる他の農業者の収入が彼らの資本に対すると同一な比例を保つであろう。
(編者註)『経済学』第三篇、第八章、三五三――四頁。
 もし、セイ氏の教える所に従い、そして国家は農業者の増加せる所得の五分の一を請求すべきであるとするならば、それは農業者に対する局部的租税となり、彼らの利潤には影響を及ぼすけれども、他の職業の者の利潤には影響を及ぼさないであろう。この租税は、あらゆる土地によって、すなわち産出額の乏しい土地によっても産出額の多い土地によっても、支払われるであろう。そしてある土地においては、何らの地代も支払われていないのであるから、地代の低減によってのそれに対する補償はあり得ないであろう。利潤に対する局部的な租税は決してそれが課せられた事業の負担する所とはならない、けだし事業者は彼れの職業を中止するか、またはその租税に対して補償を受けるか、であろうからである。さて何らの地代をも支払わない者は、生産物の価格騰貴によってのみ補償され得る、かくてセイ氏の提議せる租税は消費者の負担する所となり、そして地主の負担にも農業者の負担にもならないであろう。
 もしこの提議された租税が、土地から得られた総生産物の分量または価値の増加に比例して増加されるならば、それは十分一税と何ら異る所なく、そして等しく消費者に転嫁されるであろう。しからばそれが土地の総生産物の負担する所となろうとまたはその純生産物の負担する所となろうと、それは等しく消費に対する租税であり、そして単に粗生生産物に対する他の租税と同様な仕方で地主及び農業者に影響を及ぼすに過ぎないであろう。
 もしいかなる種類の租税も土地に対して賦課されず、そして同一額がある他の手段によって徴収されたとしても、農業は少くとも実際に同じほど繁栄したであろう。けだし、土地に対するいかなる租税も農業に対する奨励であり得ることは不可能であるからである。適度な租税は大いに生産を妨げ得ないであろうし、またおそらく妨げないが、しかしそれは生産を奨励することは出来ない。英国政府はセイ氏が想像したような言葉は用いなかった。それは農業階級とその相続者とをあらゆる将来の課税から除外し、そして国家が必要とすべきそれ以上の資は他の社会階級から徴収するとは、約束しなかった。それは単に次の如く云ったに過ぎない、すなわち、『かくの如くして、吾々は、土地にこれ以上の負担をかけないであろう。しかし吾々は、君らをしてある他の形において国家の将来の必要費に対する君らの十分な割当額を支払わしめる最も完全なる自由を保留する』と。
 物納租税または十分一税と正確に同一なる生産物の一定の比例の租税について、セイ氏は曰く、『この課税方法は最も公平であるように思われる。しかしながらこれよりも不公平なものはない。すなわちそれは全然生産者によってなされる前払を考慮せず、それは総収入に比例せしめられ、純収入には比例せしめられない。二人の農業者が異る種類の粗生生産物を耕作する。一人は中等の土地で穀物を耕作し、その支出は年々平均して八、〇〇〇フランに当る。彼れの土地から得られる粗生生産物は一二、〇〇〇フランで売れる。しかる時は彼は四、〇〇〇フランの純収入を得る。
『彼の隣人は牧場または森林地を有し、それは毎年同額の一二、〇〇〇フランを齎すが、しかし彼れの支出は単に二、〇〇〇フランに当るに過ぎない。従って彼は平均して一〇、〇〇〇フランの純収入を得る。
『一法律が、すべての土壌の果実の生産物の十二分の一を、それが何であろうとに論なく、実物で徴収すべきことを命ずるとする。第一の者からはこの法律の結果として一、〇〇〇フランの価値の穀物が徴収され、また第二の者からは同じく一、〇〇〇フランの価値を有つ枯草や家畜や木材が徴収される。そこで何事が起ったか? 一方からは、彼れの純所得、四、〇〇〇フランの、四分の一が徴収され、その所得が一〇、〇〇〇になる他方からは、わずかに十分の一が徴収されたに過ぎない。所得とは資本を正確にその以前の状態に囘復した後に残る純利潤である。一商人は、彼が一年の間になすすべての販売に等しい所得を得るか? 確かにそうではない。彼れの所得は単に、彼れの販売が彼れの前払を超過する額に当るに過ぎず、そして所得税を負担すべきものはこの超過額のみである。』(編者註)
(編者註)前掲書、三四四頁、三五〇頁。
 上記の章句におけるセイ氏の誤謬は、これらの二つの農場の一方の生産物の価値が、資本を囘収した後に、他方の生産物の価値よりもより大であるから、その故に、耕作者の純所得はこの額だけ異るであろう、と想像していることにある。森林地の地主と借地人との純所得の合計は、穀物地の地主と借地人との純所得よりも遥かにより大であるかもしれない。しかしそれは地代の相違の故であって、利潤率の相違の故ではない。セイ氏は、これらの耕作者が支払わなければならぬ地代の量の異ることに関する考察を、全然省略したのである。同一の職業には二つの利潤率はあり得ず、従って、生産物の価値が資本に対し異る比例にある時には、異るべきものは地代であって利潤ではない。いかなる口実によって、八、〇〇〇フランの資本を有する他の人が四、〇〇〇フランを取得するに過ぎないのに二、〇〇〇フランの資本を有する人は、それを用いて一〇、〇〇〇フランの純利潤を取得することを許されるであろうか? セイ氏をして地代を適当に斟酌せしめよ。彼をして更に、かかる租税がこれらの異る種類の粗生生産物の価格に対して及ぼすべき影響を斟酌せしめよ、しからば、彼はそれは不平等な租税ではなく、更にまた、生産者自身はいかなる他の消費者階級とも異った方法では租税に貢献しないであろうということを、理解するであろう。
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    第十三章 金に対する租税

(六九)貨物の価格騰貴は、課税または生産の困難の結果として、あらゆる場合において結局生ずるであろう。しかし市場価格が自然価格に一致するまでの時の隔りは、貨物の性質に、及びその量が減ぜられ得る難易に、依存しなければならぬ。もし課税された貨物の量が減少され得ないならば、もし例えば農業者または帽子製造業者の資本が他の職業へ向って引き去られ得ないならば、彼らの利潤が租税によって一般水準以下に低減されることは、少しも重大事ではないであろう。彼らの貨物に対する需要が増加しない限り、彼らは決して穀物及び帽子の市場価格をその騰貴したる自然価格にまで引上げ得ないであろう。その職業を去りかつその資本をより有利な事業に移転するという彼らの威嚇は、実行され得ない所の無益な脅迫と看做され、従って価格は生産の減少によって引上げられることはないであろう。しかしながらあらゆる種類の貨物はその量を減少し得、かつ資本はより不利な事業からより有利な事業に――その速度は異るが――移転され得る。特定の貨物の供給が生産者に対する不便を伴わずしてより容易に減少され得るに比例して、その価格は、その生産の困難が課税またはその他の手段によって増加された後に、より速かに騰貴するであろう。穀物はあらゆる者にとって不可欠の必要貨物であるから、租税の結果としてそれに対する需要に対してほとんど影響は起らないであろう、従って、たとえ生産者達が彼らの資本を土地から移転するのが極めて困難であるとしても、その供給はおそらく久しく過剰ではないであろう。この理由のために、穀物の価格は課税によって急速に高められ、そして農業者は租税を彼自身から消費者に転嫁し得るに至るであろう。
 もし吾々に金を供給する鉱山が我国にあり、そしてもし金が課税されているとするならば、それはその分量が減少されるまでは他の物に対する相対価値において騰貴し得ないであろう。このことは、金がもっぱら貨幣として用いられる場合には、特にますます事実であろう。生産力の最も少い鉱山、何らの地代をも支払わない鉱山は、金の相対価値が租税に等しい額だけ騰貴するまでは一般利潤率を与え得ないから、もはや採掘され得ないことは、真実である。金の分量に[#「に」は底本では欠落]従って貨幣の分量は徐々に減少されるであろう。それはある年には少し減少され、他の年には更にもう少し減少され、そしてついにその価値は租税に比例して騰貴せしめられるであろう。しかしそれまでの間は、所有者または保有者が租税を支払うであろうから、彼らが被害者であり、貨幣を使用した者は被害を蒙らないであろう。もし国内における小麦一、〇〇〇クヲタアごとに、及び将来における一、〇〇〇クヲタアごとに、政府が一〇〇クヲタアを租税として徴収するならば、残りの九〇〇クヲタアは、以前に一、〇〇〇クヲタアと交換されたと同一の分量の他の貨物と交換されるであろう。しかしもし同一のことが金に関して起るならば、すなわちもし現在国内にある貨幣一、〇〇〇ポンドごとに、または将来国内に齎さるべき一、〇〇〇ポンドごとに、政府が一〇〇ポンドを租税として徴収し得るならば、残りの九〇〇ポンドは、以前に九〇〇ポンドが購買した以上にはほとんど購買しないであろう。この租税は財産が貨幣から成る人の負担する所となり、そしてその量が、租税によって起ったその生産費の増加に比例して、減少されるまでは、引続きそうであろう。
(七〇)このことはおそらく、他のいかなる貨物よりも貨幣として使用される金属に関して、特に事実であろう。けだし貨幣に対する需要は、衣服や食物に対する需要の如くに、一定分量に対するものではないからである。貨幣に対する需要は、全くその価値によって左右され、そしてその価値はその分量によって左右される。もし金が二倍の価値を有つならば、半分の分量が流通において同一の職能を果すであろうし、またもしそれが半分の価値を有つならば、二倍の分量が必要とされるであろう。もし穀物の市場価値が、課税または生産の困難によって、十分の一だけ騰貴せしめられるとしても、消費量に何らかの影響が惹起されるか否かは、疑わしいことである、けだしあらゆる者の欲望は一定量に対するものであり、従ってもし彼が購買の資力を有つならば、彼は引続き以前と同様に消費するであろうからである。しかし貨幣に対しては需要はその価値に正確に比例する。何人も彼を支えるために通常必要な穀物量の二倍を消費し得ないであろうが、しかし単に同一量の財貨を売買するに過ぎないあらゆる者は、この貨幣量の二倍、三倍、または何倍でもを、使用するを余儀なくされることもあろう。
 私が今述べて来た議論は、貴金属類が貨幣として使用されかつ紙幣信用が樹立されていない社会状態にのみ、妥当するに過ぎない。金属金は、すべての他の貨物と同様に、その市場における価値を、結局それを生産する難易によって左右される。そしてたとえその耐久的性質とその分量を減少することの困難とによってそれはその市場価値の変動に容易に服せぬとはいえ、しかもこの困難はそれが貨幣として用いられるという事情によって大いに増加される。もし商業のみの目的のために用いられる市場における貨幣量が一〇、〇〇〇オンスであり、そして我国の製造業における消費が年々二、〇〇〇オンスであるならば、年々の供給を抑止することによって、一年にしてそれはその価値において四分の一すなわち二五%だけ騰貴するであろう。しかしそれが貨幣として用いられる結果として使用量が一〇〇、〇〇〇オンスであるならば、それは十年以内には価値において四分の一だけ騰貴することはないであろう。紙幣は分量において直ちに減少され得ようから、その価値は、たとえその本位は金であっても、もしその金属が流通の極めて小部分を形造ることによって貨幣と極めて軽微な関係しか有たぬ場合には、金属それ自身の価値と同様に速かに増加されるであろう。
(七一)もし金が一国のみの生産物であり、かつそれが普遍的に貨幣として用いられるならば、かなりの多額の租税がそれに賦課され得、それが、人々が金を製造業において及び什器のために用いるに比例しての他は、いかなる国の負担する所ともならないことがあろう。貨幣として用いられる部分に対しては、多額の租税が収納されても、何人もそれを支払わないであろう。これは貨幣に特有な性質である。限られた量しか存在せずかつ競争によって増加され得ないすべての他の貨物は、その価値については、購買者の嗜好や気紛れや資力に依存している。しかし貨幣はいかなる国もそれを増加せんとする願望を有たずまたは必要を有たない貨物である。通貨を二千万使用することからは、一千万使用することから起る以上の利益はない。一国が絹または葡萄酒の独占権を有っていても、しかも気紛れや流行や嗜好のために、毛織布及びブランデイが好まれかつ代用されるであろう故に、絹製品及び葡萄酒の価値は下落するであろう。同一の結果は、金の使用が製造業に限られている限り、ある程度において金についても起り得よう。しかし貨幣は交換の一般的媒介物であるから、それに対する需要は決して選択事項でなく、常に必要事である。諸君は諸君の財貨と交換にそれを受取らなければならず、従ってもしその価値が下落するならば、外国貿易によって諸君が受取らせられる分量には限りがなく、またもしそれが騰貴するならば、諸君はいかなる減少にも服さなければならないのである。もちろん諸君は紙幣を代用し得ようが、しかしこれによって諸君は貨幣の分量を減少しないし、また減少し得ない、けだしその分量はそれと交換されるその本位の価値によって左右されるものであるからである。僅少な貨幣をもって貨物が購買される国からそれがより多くの貨幣に対して販売され得る国へと、貨物が輸出されるのを、諸君が妨げ得るのは、貨物の価値の騰貴によってのみであり、そしてこの騰貴は外国からの金属貨幣の輸入により、または国内における紙幣の創造または附加によってのみ、行われ得るものである。かくてもし、スペイン王が鉱山を独占的に所有すると仮定し、そして金のみが貨幣として用いられると仮定すれば彼が金に対し大なる租税を賦課するとするならば、彼はその自然価格を極めて多く引き上げるであろう。そしてヨオロッパにおけるその市場価格は、終局においてはスペイン領アメリカにおけるその自然価値によって左右されるのであるから、一定分量の金に対しヨオロッパによってより多くの貨物が与えられるであろう。しかし同一分量の金はアメリカにおいては生産されないであろう、けだしその価値は単にその生産費の増加の結果たる分量の減少に比例して増加されるに過ぎないからである。かくてアメリカにおいてはその輸出されたすべての金と交換に以前よりもより多くの財貨が取得されはしないであろう。そこでしからば、スペインとその植民地にとってどこに利益があるか? と問われ得よう。その利益はこういうことであろう、すなわち、もしより少い金が生産されるならば、より少い資本がその生産に用いられ、以前により大なる資本の使用によって取得されたと同一の価値を有つヨオロッパからの財貨が、より小なる資本の使用によって輸入され、従って鉱山から引き去られた資本の使用によって得られたすべての生産物は、スペインが租税の賦課によって得、かつそれが他のいかなる貨物の独占権の所有によってもかくも豊富にかつかくも確実に取得し得ないであろう所の、利益であろう。かかる租税からは、貨幣の関する限りにおいては、ヨオロッパの諸国民は何らの害をも蒙らないであろう。彼らは以前と同一の分量の財貨を有ち、従って同一の享楽手段を有つであろうが、しかしこれらの財貨は、貨幣価値が騰貴しているから、より少い分量の貨幣をもって流通されるであろう。
 もし租税の結果として金の現在量の単に十分の一が鉱山から得られるに過ぎないとするならば、その十分の一は現在生産されている十分の一と等しい価値を有つであろう。しかしスペイン王は貴金属の鉱山を独占的に所有してはいない。そしてもし彼がそれを独占しているとしても、その所有による彼れの利益及び課税権力は大なり小なりの程度における紙幣の普遍的代用の結果として、ヨオロッパにおける需要と消費との制限によって、極めて著しく減ぜられるであろう。あらゆる貨物の市場価格と自然価格との一致は、あらゆる時において、供給が増減され得る容易さに依存する。金や家屋や労働や並びにその他の多くの物の場合には、ある事情の下においては、この結果は急速に齎され得ない。しかし帽子や靴や穀物や毛織布の如き、年々消費されかつ再生産される貨物の場合はこれと異る。それらは、必要の際には、減ぜられ得よう、そして供給がそれらの生産費の増加に比例して縮小されるまでの時の隔りは、長くあり得ないのである。
 土地の表面からの粗生生産物に対する租税は、吾々の既に見た如くに、消費者の負担する所となり、そして毫も地代には影響を及ぼさないであろう。ただしそれが労働の維持のための基金を減少することによって、労賃を低め、人口を減じ、そして穀物に対する需要を減少する場合は、この限りではない。しかし金鉱の生産物に対する租税は、この金属の価値を騰貴せしめることによって、必然的にそれに対する需要を減じ、従って必然的に資本が用いられていた職業からその資本を排除しなければならない。しからば、金に対する租税から前述のすべての利益をスペインは得るであろうにもかかわらず、資本が引き去られた鉱山の所有者はすべての彼らの地位を失うであろう。これは個人に対する損失ではあろうが、しかし国民的損失ではないであろう。地代は富の創造ではなく単にその移転に過ぎないからである。スペイン王と、引続き採掘される鉱山の所有者は、相共に、啻に解放された資本が生産したすべてを受取るのみならず、更に他の所有者が失ったすべてをも受取るであろう。
 第一等、第二等、及び第三等の質の鉱山が採掘されており、そして各々一〇〇、八〇、及び七〇封度ポンドの重量の金を生産し、従って第一等鉱山の地代は三十封度ポンドであり、第二鉱山のそれは十封度ポンドであると仮定せよ。今租税は採掘されている各鉱山に対して年々七十封度ポンドの金であり、従って第一等鉱山のみが有利に採掘され得ると仮定せよ。すべての地代が直ちに消失すべきことは明かである。租税の賦課以前には、第一等鉱山で生産された一〇〇封度ポンドの中から三十封度ポンドの地代が支払われ、そしてこの鉱山の採掘者は、最も生産力の小なる鉱山の生産物に等しい額たる七十封度ポンドを保有した。しからば第一等の鉱山の資本家の手に残るものの価値は、以前と同一でなければならず、しからざれば彼は資本の通常利潤を取得しないであろう。従って租税として、彼れの一〇〇封度ポンドの中から七〇封度ポンドを支払った後に、残りの三十封度ポンドの価値は以前の七十封度ポンドの価値と同じ大きさでなければならず、従って全百封度ポンドの価値は以前の二三三封度ポンドの価値と同じ大いさでなければならない。その価値はより高いかもしれないが、しかしそれはより低くはあり得ないであろう、しからざればこの鉱山ですら採掘されざるに至るであろう。それは独占貨物であるからその自然価値を超過し得るであろう、そしてその際には、それはその超過に等しい地代を支払うであろう。しかしながらそれがこの価値以下であるならば、何らの資金も鉱山に用いられないであろう。鉱山に用いられる労働と資本との三分の一と引替に、スペインは、以前と同一の、またはほとんど全く同一の分量の貨物と交換されるべきほどの金を取得するであろう。この国は鉱山から解放された三分の二のものの生産物だけより富むであろう。もし一〇〇封度ポンドの金の価値が以前に採掘された二五〇封度ポンドのそれに等しいとするならば、スペイン王の収得分たる彼れの七十封度ポンドは、以前の価値における一七五封度ポンドに等しいであろう。国王の租税の大部分は資本のより良き分配によって取得されるから、その小部分が彼自身の臣民の負担する所となるに過ぎないであろう。
 スペインの計算書は次の如くなるであろう。

    以前の生産額
 金二五〇封度ポンド、その価値(仮定)…………毛織布一〇、〇〇〇ヤアル

    新生産額
 鉱山を中止せる二人の資本家により生産さる、金一四〇封度ポンドが以前に交換されたと同一の価値。その大いさは…………毛織布五、六〇〇ヤアル
 第一等鉱山を採掘する資本家により生産さる、一対二・二分の一にて価値騰貴せる三十封度ポンドの金、従ってその現在価値は…………毛織布三、〇〇〇ヤアル
 七十封度ポンドの王への租税、同じく一対二・二分の一にて価値騰貴、従ってその現在価値は…………毛織布七、〇〇〇ヤアル
一五、六〇〇

 王の受取る七、〇〇〇のうち、スペインの臣民は一、四〇〇を納めるに過ぎず、そして五、六〇〇は、解放された資本によって齎された純利得であろう。
 もし租税が、採掘鉱山についての固定額のものではなくして、その生産物の一定割合であるならば、生産量はその結果として直ちに減少されないであろう。もし各鉱山の産額の二分の一、四分の一、または三分の一が租税として徴収されても、それにもかかわらず彼らの鉱山をして以前と同様豊富に産出せしめるのが所有者の利益であろう。しかしもしその分量が減ぜられずして、単にその一部分が所有者から国王に移転されるに過ぎないならば、その価値は騰貴しないであろう。租税は、植民地の人民の負担する所となり、そして何らの利益も得られないであろう。この種の租税は、アダム・スミスが、粗生生産物に対する租税が土地の地代に及ぼすと想像した影響を有つであろう――すなわちそれは全然鉱山の地代の負担する所となるであろう。実にもしこれ以上もう少しく進められるならば、この租税は、啻に全地代を吸収するのみならず、鉱山の採掘者から資本の普通利潤を奪うこととなり、従って彼はその資本を金の生産から引き去るであろう。もしこれ以上、更にもう少し拡大されるならば、更により良い鉱山の地代は吸収され、そして資本は更にその上引き去られるであろう。かくて分量は不断に減少され、そしてその価値は高められ、そして吾々が指摘したと同一の結果が起るであろう。租税の一部はスペイン植民地の人民によって支払われ、そして他の部分は、交換の媒介物として用いられる用具の力を増大せしめることによって、生産物の新創造となるであろう。
 金に対する租税には二種類あり、その一は流通している金の実際の分量に課せられるものであり、他方は鉱山から年々生産される分量に課せられるものである。両者は金の分量を減じて価値を騰貴せしめる傾向を有っている。しかしそのいずれによってもその分量が減少せしめられるまではその価値は騰貴せしめられないであろう、従ってかかる租税は、供給が減少せしめられるまではしばらくの間貨幣の所有者の負担する所となるであろうが、しかし終局的には、永続的に社会の負担する所となるべき部分は、地代の減少という形で鉱山の所有者によって、及び、金のうち、人類の享楽に寄与する貨物として用いられ流通用具として取除けられることのない部分の、購買者によって、支払われるであろう。
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    第十四章 家屋に対する租税

(七二)金の他にもまた、急速にその量を減少させられ得ない他の貨物がある。従ってそれに対するいかなる租税も、価格の騰貴が需要を減少させるならば、所有者の負担となるであろう。
 家屋に対する租税はこの種のものである。たとえ居住者に課せられても、それはしばしば家賃の減少によって、家主の負担する所となるであろう。土地の生産物は年々消費されかつ再生産され、そして他の多くの貨物も同様である。従ってそれらは急速に需要と同一水準に齎され得ようから、久しくその自然価格を越していることは出来ない。しかし家屋に対する租税は、借家人によって支払われる家賃の附加と考えてよかろうから、その傾向は、家屋の供給を減少することなくして同一の年家賃の家屋に対する需要を減少することであろう。従って家賃は下落し、そして租税の一部分は間接に家主によって支払われるであろう。
(七三)アダム・スミスは曰く、『家屋の家賃は二つの部分に区別し得よう。その一方は極めて正当に建築物家賃と呼ばれ得ようし、他方は普通敷地地代と呼ばれている。建築物家賃は家屋の建築に費された資本の利子または利潤である。建築業者の職業を他の職業と同一水準に置くためには、この家賃は第一に、彼がその資本を良好な担保を取って貸附けた場合に、彼がその資本に対して得べきと同一の利子を支払うに足り、また第二に、家屋を絶えず修繕しておくことに、または同じことになるが、一定年限にそれを建築するに使用された資本を囘収するに足ることが、必要である。』(訳者註一)『もし金利に比例して、建築業者の職業が、ある時において、これよりも遥かにより大なる利潤を与えるならばそれは直ちに他の諸々の職業から極めて多くの資本を引去り、その結果この利潤をその正当な水準まで低下せしめるであろう。もしもそれがある時においてこれよりも遥かにより以下を与えるならば、他の職業は直ちにこの職業から多くの資本を引去り、その結果再びその利潤を高めるであろう。家屋の全家賃のうちこの正当な利潤を与えるに足る額を越えるすべては、当然に敷地地代に属する。そして土地の所有者と建築物の所有者とが、二人の異る人である場合には、それは大抵の場合において完全に前者に支払われる。大都市から遠く離れ、土地を広く選択し得る、田舎家屋にあっては、敷地地代は、家屋のある場所が農業に用いられた場合に支払う所以上ではほとんどなく、またはそれ以上では全くない。ある大都市の近郊における田舎の別墅べっしょにあっては、それは時に大いにより高く、そしてその特殊の便益または地の利はそこにおいてはしばしば極めて高い支払を受ける。敷地地代は一般に、首都において、また、取引や事業のためであろうと、娯楽や社交のためであろうと、または単なる虚栄や流行のためであろうと、その需要の理由が何であるかを問わず、とにかく家屋に対する需要の最大な首都の特殊部分において、最高である。』(訳者註二)家屋の家賃に対する租税は、居住者か土地地主かまたは建物家主かの負担となるであろう。普通の場合においては、全租税は直接的にかつ終局的に居住者によって支払われると推定し得よう。
(訳者註一)『諸国民の富』キャナン版、第二巻、三二四頁。
(訳者註二)同上、三二五頁。
 もしこの租税が適量であり、そして国の事情によりその国が静止的かまたは進歩的かであるならば、家屋の居住者には、より悪い種類の家屋で満足しようという動機は、ほとんど起らないであろう。しかしもしこの租税が高いか、もしくはある他の事情が家屋に対する需要を減少するならば、家主の所得は下落するであろうが、けだし居住者は租税の一部を家賃の減少によって償われるであろうからである。しかしながら、租税のうち家賃の下落によって居住者が免れた部分が、いかなる割合において、建築物家賃と敷地地代との負担する所となるであろうかをいうことは困難である。最初にはおそらく双方が影響を蒙るであろう。しかし家屋は徐々としてではあるがしかし確実に破滅して行くものであるから、そして建築業者の利潤が一般水準にまで囘復されるまではそれ以上家屋は建築されないであろうから、建築物家賃はしばらくの後には、その自然価格にまで囘復されるであろう。建築業者は単に建物が存続する間家賃を受取るに過ぎないのであるから、最も不幸な事情の下においては、彼は、それ以上の期間、租税のいかなる部分をも支払い得ないであろう。
 かくてこの租税の支払は終局的には居住者及び土地地主の負担する所となるであろう、しかし、『いかなる割合においてこの終局の支払が彼らの間に分たれるかは』とアダム・スミスは曰う、『これを確かめることは、おそらくは極めて容易ではない。この分割はおそらく、異る事情においては極めて異るであろう、そしてこの種の租税は、それらの異る事情に従って、家屋の住人と土地の所有者との双方に極めて不平等に影響を及ぼすであろう。』(註)
(註)第五篇、第二章(訳者註――キャナン版、三二六頁)。
 アダム・スミスは敷地地代をもって特に適当な課税物件であると考えている。彼は曰く、『敷地地代及び通常の土地地代の両者は、所有者が多くの場合において、彼自身の配慮や注意を要せずして享受する収入の一種である。たとえこの収入の一部分が、国家経費を支払うために、彼から取去られたとしても、いかなる種類の産業もそれによっては阻害されないであろう。社会の土地及び労働の年々の生産物は、人民の大多数の真実の富及び収入は、かかる租税が課せられた後においてもその以前も同一であろう。従って敷地地代及び通常の土地地代はおそらく、それらに対して特殊の租税が課せられてもそれを最も良く負担し得るという種類の収入である。』(訳者註)これらの租税の結果がアダム・スミスの述べた如きものであろうことは、認めなければならない。しかし、もっぱら社会のある特定階級の収入にのみ課税するというのは、確かに極めて不正であろう。国家の負荷はすべての者がその資力に応じて負担しなければならない。これは、すべての課税を支配すべきものとしてアダム・スミスが挙げている四つの公理の一つである。賃料はしばしば、多年の辛苦の後にその利得を実現しそしてその財産や土地や家屋の購買に支出した人々に、帰属する。そして財産に不平等に課税することは、確かに、財産の安固という常に神聖に保たるべき原理の一侵害となるであろう。土地財産の移転が負っている印紙税がおそらくそれを最も生産的ならしめるべき人々へのその移転を著しく害しているのは、悲しむべきことである。そして土地が、適当な単一課税物件と看做されて、啻に、その課税の危険を償うために価格において低下せしめられるのみならず、更にその危険の不確定的性質と不確実な価値とに比例して、真面目な事業というよりは、賭博の性質をより多く有つ所の投機の恰好な目的物となることを、考えるならば、その場合土地を最も所有しそうな人は、おそらく、その土地を最も有利になるように使用する如き真面目な所有者の性質よりも、賭博者の性質をより多く有つ人であろう。
(訳者註)同上、三二八頁。
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    第十五章 利潤に対する租税

(七四)一般に奢侈品と名づけられている貨物に対する租税は、それを使用する者のみの負担する所となる。葡萄酒に対する租税は葡萄酒の消費者によって支払われる。娯楽用馬匹ばひつまたは馬車に対する租税は、かかる享楽物を備えている者により、かつ彼らがそれらを備えている程度に正確に比例して、支払われる。しかし必要品に対する租税は必要品の消費者達に対し、彼らによって消費される分量に比例して影響するものではなく、しばしば遥かにより高い比例において影響する。穀物に対する租税は、既に述べた如くに、製造業者に対し、啻に彼及びその家族が穀物を消費するに比例して影響するのみならず、更にそれは資本の利潤率をも変更せしめ、従って彼れの所得にも影響する。労働の労賃を騰貴せしめるものは何でも資本の利潤を下落せしめ、従って、労働者によって消費されるいかなる貨物に対する租税も、すべて利潤率を下落せしめる傾向を持つものである。
 帽子に対する租税は帽子の価格を騰貴せしめるであろう。靴に対する租税は靴の価格を騰貴せしめるであろう。もしそうでなければ租税は結局製造業者によって支払われるであろう。彼れの利潤は一般水準以下に下落しそして彼はその職業を中止するであろう。利潤に対する部分的租税は、それを負担する貨物の価格を騰貴せしめるであろう。例えば帽子製造業者の利潤に対する租税は帽子の価格を騰貴せしめるであろう。けだしもし彼れの利潤が課税され、そしていかなる他の職業のそれも課税されないならば、彼れの利潤は、彼がその帽子の価格を引上げない限り、一般利潤率以下となり、そして彼はその職業を中止して他の職業に赴くであろうからである。
 同様にして農業者の利潤に対する租税は穀価を騰貴せしめるであろう。毛織物製造業者の利潤に対する租税は毛織布の価格を騰貴せしめるであろう。そして利潤に比例しての租税がすべての職業に賦課せられるならばあらゆる貨物は価格において騰貴せしめられるであろう。しかしもし吾々に我国の貨幣の本位を供給する鉱山が我国にあり、そして鉱山業者の利潤もまた課税されるならば、いかなる貨物の価格も騰貴せず、各人はその所得の等しい割合を与え、そして万事は以前の通りであろう。
 もし貨幣が課税されず、従ってその価値を保持することが許されるが、しかるに他のあらゆる物は課税され、そして価値において騰貴せしめられるならば、各々同一の資本を使用しかつ同一の利潤を得ている帽子製造業者、農業者、及び毛織物製造業者は同一額の租税を支払うであろう。もし租税が一〇〇ポンドであるならば、帽子、毛織布、及び穀物は各々価値において一〇〇ポンドだけ騰貴せしめられるであろう。もし帽子製造業者が彼れの帽子によって一、〇〇〇ポンドではなく一、一〇〇ポンドを利得するとしても、彼は租税として政府に一〇〇ポンドを支払い従って依然彼自身の消費のための財貨に対し支出すべき一、〇〇〇ポンドを有つであろう。しかし毛織布、穀物、及びその他すべての貨物は同一の理由によって価格において騰貴せしめられるから、彼はその一、〇〇〇ポンドに対し以前に九一〇ポンドに対し取得した以上を取得しはせず、かくして彼はその支出を減少せしめて国家の緊急費に貢献するということになろう。彼は、租税の支払によって、国の土地と労働との生産物の一部分を彼自身では使用せずして、それを政府の処分に委ねることになるであろう。もし彼れの一、〇〇〇ポンドを支出せずして、それを彼れの資本に附加するならば、彼は労賃の騰貴及び粗生原料品と機械との費用の増加に際し、彼れの一、〇〇〇ポンドの貯蓄が以前の九一〇ポンドの貯蓄額以上に及ばぬことを見出すであろう。
 もし貨幣が課税されるならば、またはもしある他の原因によってその価値が変動し、そしてすべての貨物が以前と正確に同一の価値に留まるならば、製造業者と農業者との利潤もまた以前と同一であり、それは引続き一、〇〇〇ポンドであろう。そして彼らは各々政府に対し一〇〇ポンドを支払わなければならぬであろうから、彼らはわずかに九〇〇ポンドを保持するに過ぎず、それは彼らがそれを生産的労働に支出しようとまたは不生産的労働に支出しようとに論なく、国の土地及び労働の生産物に対するより小なる支配権を彼らに与えるであろう。正確に彼らが失う所を政府は利得するであろう。第一の場合においては、納税者は一〇〇〇ポンドに対し、彼が以前に九一〇ポンドに対し得た所と同一の分量の財貨を得るであろう。第二の場合においては、彼は単に以前に九〇〇ポンドに対し得たと同じ額を得るに過ぎないであろうが、それはけだし財貨の価格は依然として不変であり、そして彼は単に九〇〇ポンドを支出し得るに過ぎないからである。このことは租税の額の相違から起るものである。第一の場合においてはそれは単に彼れの所得の十一分の一に過ぎない。第二の場合においてはそれは十分の一である。貨幣はこの二つの場合に異る価値を有っているのである。
(七五)しかし、たとえ貨幣が課税されず、そして価値において変動しなければ、すべての貨物は価格において騰貴するであろうとはいえ、それらは同一の比例においては騰貴しないであろう。それらは課税の後には、課税の前に有っていたと同一の相対価値を相互に有たないであろう。本書の前の部分において、吾々は、固定資本及び流動資本への、またはむしろ耐久的資本及び消耗的資本への資本の分割が、貨物の価格に対して及ぼす結果を論じた。吾々は二人の製造業者が正確に同一額の資本を用い、そしてそれから正確に同一額の利潤を得ても、しかも彼らはその貨物を、彼らが使用する資本が消費されかつ再生産される速度の遅速に従って、極めて異る貨幣額に対して売るであろうということを、説明した。その一方は彼れの財貨を四、〇〇〇ポンドで売り、他方は、一〇、〇〇〇ポンドで売り、そして彼らは共に一〇、〇〇〇ポンドの資本を使用して二〇%の利潤すなわち二、〇〇〇ポンドを得ることもあろう。一方の資本は例えば、再生産さるべき二、〇〇〇ポンドの流動資本と、建物及び機械における八、〇〇〇ポンドの固定資本とから成るであろう。他方の資本はこれに反し、八、〇〇〇ポンドの流動資本と、建物及び機械におけるわずか二、〇〇〇ポンドの固定資本とから成るであろう。さてもしこれらの人の各々が彼れの所得に対する一〇%すなわち二〇〇〇ポンドを課税されるならば、一方はその事業をして一般利潤率を生ぜしめるために、彼れの財を一〇、〇〇〇ポンドから一〇、二〇〇ポンドに引き上げなければならない。他方もまた彼の財貨の価格を四、〇〇〇ポンドから四二〇〇ポンドに引き上げざるを得ないであろう。課税の前にはこれらの製造業者の一方によって売られた財貨は、他方の財貨よりも二倍半の価値を有っていた。課税の後にはそれは二・四二倍の価値を有つであろう。一方の種類は二%騰貴したであろう。他方は五%騰貴したのであろう。従って所得に課せられる租税は、貨幣が引続き価値において変動しない間は、貨物の相対価格及び価値を変動せしめるであろう。このことはまた、租税が利潤には課せられずに貨物そのものに課せられた場合にも、真実であろう。それらがその生産に用いられた資本の価値に比例して課税されるならば、その価値がどうであろうとも、それは平等に騰貴し、従って以前と同一の比例を保持しないであろう。一万ポンドから一万一千ポンドに騰貴した一貨物は、二、〇〇〇ポンドから三、〇〇〇ポンドに騰貴したもう一つの貨物に対して、以前と同一の関係を有たないであろう。もしかかる事情の下において、貨幣が、――いかなる原因から起ったものであろうと、――価値において騰貴するならば、それは同一の比例において貨物の価格に影響を及ぼすことはないであろう。一方の価格を一〇、二〇〇ポンドから一〇、〇〇〇ポンドに、すなわち二%弱下落せしめると同一の原因は、他方の価格を四、二〇〇ポンドから四、〇〇〇ポンドに、すなわち四%四分の三下落せしめるであろう。もし両者がこれを異るある比例で下落するならば、利潤は等しくないことになるであろう。けだし、それを等しくするためには、第一の貨物の価格が一〇、〇〇〇ポンドの時には第二の貨物の価格は四、〇〇〇ポンドでなければならず、そして第一のものの価格が一〇、二〇〇ポンドの時には他のものの価格は四、二〇〇ポンドでなければならない。
 この事実の考察は、未だかつて言及されたことがないと私が信ずる一つの極めて重要な原則の理解に導くであろう。それはこうである、すなわち、何らの課税も存在しない国においては、稀少または豊富から生ずる貨幣価値の変動は、等しい比例において一切の貨物の価格に影響を及ぼすであろうし、もし一、〇〇〇ポンドの価値を有する貨物が一、二〇〇ポンドに騰貴しまたは八〇〇ポンドに下落するならば、一〇、〇〇〇ポンドの価値を有する貨物は一二、〇〇〇ポンドに騰貴しまたは八、〇〇〇ポンドに下落するであろうが、しかし価格が課税によって人為的に騰貴せしめられる国においては、流入による貨幣の豊富または外国の需要によるその輸出と、その結果たる稀少は、一切の貨物の価格に対し同一の比例において作用することはなく、それはあるものを五、六、または一二%騰貴または下落せしめ、他のものを三、四、または七%だけ騰貴または下落せしめるであろう、ということこれである。もし一国が課税されずそして貨幣が価値において下落するならば、あらゆる市場における貨幣の豊富は、その各々において同様の結果を生ずるであろう。もし肉が二〇%騰貴するならば、パン、麦酒ビール、靴、労働、及びあらゆる貨物もまた二〇%騰貴するであろう。各職業に同一の利潤率を確保するためにはそれらがそうなるべきことが必要である。しかしこれらの貨物のいずれかが課税されている時にはこのことはもはや真実ではない。もしその場合にはそれらがすべて貨幣価値の下落に比例して騰貴するならば、利潤は不平等になるであろう。課税貨物にあっては利潤は一般水準以上に高められ、そして資本は一職業から他の職業に移転されついに利潤の平衡が囘復されるに至るのであるが、このことは相対価格が変動した後にのみ起り得ることである。
 この原則は、英蘭イングランド銀行兌換停止中における、貨幣価値の変動によって貨物の価格に対し生ぜしめられたといわれている種々なる結果を、説明するものではないであろうか? 紙幣流通が過剰であったために通貨がその期間減価された、と主張した人々に対しては、もしそれが事実であるならば、すべての貨物[#「貨物」は底本では「貨幣」]は同一の比例で騰貴すべきはずであった、という反対論がなされた。しかし多くの貨物は他のものよりも極めてより多く変動したことが見出され、そしてこのことからして、物価騰貴は貨物の価値に影響を及ぼす何ものかによるのであって、通貨の価値の変動によるのではないと、推論されたのである。しかしながら、吾々が今見た如くに、貨物が課税されている国においては、それは、通貨の価値の騰貴の結果であるにしても下落の結果であるにしても、必ずしもすべて同一の比例で価格が変動するものではないことが、分るのである。
(七六)もし農業者の利潤を除きすべての職業の利潤が課税されるならば、粗生生産物を除くすべての財貨は貨幣価値において騰貴するであろう。農業者は以前と同一の穀物所得を得、そして彼れの穀物をもまた同一の貨幣価格で売るであろう。しかし彼は、穀物を除き彼が消費するすべての貨物に対して附加的価格を支払わざるを得ないであろうから、それは彼にとり一つの消費税であろう。彼はまた貨幣価値の変動によってもこの租税から免れないであろう。けだし貨幣価値の変動は、あらゆる課税貨物をその以前の価格にまで下落せしめるであろうが、しかし課税されないものはその以前の水準以下に下落すべく、従ってたとえ農業者は彼れの貨物を以前と同一の価格で購買するとしても、それらを購買すべき貨幣は減少しているであろうからである。
 地主もまた正確に同一の地位にあるであろう、もしすべての(他の――編者挿入)諸貨物が価格において騰貴し、そして貨幣が依然同一の価値にあるならば、彼は以前と同一の穀物地代を、そして同一の貨幣地代を、得るであろう。そしてもしすべての(他の――同前)諸貨物が依然同一の価格にあるならば彼は同一の穀物地代を、より少い貨幣地代を、得るであろう。従っていずれの場合においても、たとえ彼れの所得が直接に課税されなくとも、彼は間接的に徴収される税金に貢献するであろう。
 しかし農業者の利潤もまた課税されると仮定すれば、彼は他の職業者と同一の地位にあるであろう。彼れの粗生生産物は騰貴し、従って彼は、租税を支払った後に同一の貨幣収入を得るであろうが、しかし彼は、粗生生産物も含めての彼が消費するすべての貨物に対して附加的価格を支払うであろう。
 しかしながら彼れの地主はその地位を異にするであろう、彼はその借地人の利潤に対する租税によって利益を受けるが、けだし彼は、彼れの必要とする製造貨物が騰貴した場合にこれを購買する際の附加的価格を償われるであろうからである。そしてもし貨幣価値の騰貴の結果として貨物がその以前の価格で売れているならば、彼は同一の貨幣収入を得るであろう。農業者の利潤に対する租税は、土地の総生産物に比例する租税ではなく、地代、労賃、その他すべての諸掛を支払って後のその純生産物に比例する租税である。第一、第二、及び第三等地なる、異る種類の土地の耕作者は、正確に同一の資本を使用するから、総生産物の分量がどうあろうとも、その一人は他の者よりもより多くの総生産物を得るであろうが、しかも彼らは正確に同一の利潤を得、従ってすべて同様に課税されるであろう。第一等地の総生産物は一八〇クヲタアであり、第二等地のそれは一七〇クヲタア、第三等地のそれは一六〇クヲタアであり、そしてその各々は一〇クヲタアの税を課せられると仮定すれば、租税を支払って後の第一等、第二等、及び第三等地の生産物の間の差違は以前と同一であろう。けだし、第一等地は一七〇クヲタア、第二等地は一六〇クヲタア、そして第三等地と第二等地との間の差違は一〇クヲタアであろうからである。もし、課税後に、穀物及びすべての他の貨物の価格が依然として以前と同一であるならば、穀物地代並びに貨幣地代は引続き不変であろう。しかしもし穀物及びすべての他の貨幣の価格が、租税の結果として騰貴するならば、貨幣地代もまた、同一の比例において騰貴するであろう。もし穀物地代が一クヲタアにつき四ポンドであるなら、第一等地の地代は八〇ポンドであり、また第二等地のそれは四〇ポンドであろう。しかし、もし穀物が五%だけ、すなわち四ポンド四シリング騰貴するならば、地代もまた五%騰貴するであろう、けだしこの際二〇クヲタアの穀物は八四ポンドに値し、そして一〇クヲタアは四二ポンドに値するからである。従ってあらゆる場合において地主はかかる租税によって影響を蒙らないであろう。資本の利潤に対する租税は常に穀物地代を依然不変のままにしておき、従って貨幣地代は穀価と共に変動する。しかし粗生生産物に対する租税または十分一税は決して穀物地代を不変のままにしておくことなく、しかし一般的に貨幣地代をして以前と同一ならしめておくのである。本書の他の部分において、私は、もし同一貨幣額の地租が、あらゆる種類の耕地に、肥沃度の相違を斟酌することなしに課せられるならば、それはより肥沃な土地の地主にとっては一つの利潤であろうからその作用は極めて不等であろうことを、述べた。それは最劣等の土地の農業者のになう負担に比例して穀価を騰貴せしめるであろう。しかしこの附加的価格はより良い土地により産出されるより多量の生産物もこれを得るのであるから、かかる土地の農業者はその借地期限の間利益を受け、そしてその後にはこの利益は地代増加の形において地主の手に入るであろう。農業者の利潤に対する平等な租税の結果は正確に同一である。もし貨幣が同一の価値を保持するならば、それは地主の貨幣地代を騰貴せしめる。しかしすべての他の職業の利潤が農業者の利潤と同様に課税され、従ってすべての財貨の価格が穀物の価格と同様に騰貴せしめられるのであるから、地主はそれだけの額をその地代を支出して得る財貨及び穀物の貨幣価格の増加によって失うのである。もし貨幣が価値において騰貴し、そしてすべての物が資本の利潤に対する課税の後にその以前の価格にまで下落するならば、地代もまた以前と同一であろう。地主は同一の貨幣地代を受取り、そしてそれを支出して得るすべての貨物をその以前の価格で取得するであろう。従ってあらゆる事情の下において彼は引続き租税を負担しないであろう(註)。
(註)農業者の利潤のみが課税され、そして他のいかなる資本家の利潤も課税されないということは、地主にとり極めて有利であろう。それは事実上一部分は国家の利益のため、また一部分は地主の利益のための、粗生生産物の消費者に対する租税であろう。
 この事情は奇妙である。農業者の利潤に課税しても、農業者の利潤が租税から除外された場合以上には彼は負担を蒙らず、そして地主は、彼れの借地人の利潤が課税されることに決定的利害関係を有っているが、けだし彼自身が引続き真実に租税を負担しないのはこの条件の下においてのみであるからである。
(七七)資本の利潤に対する租税は、もしすべての貨物がこの租税に比例して騰貴するものならば、たとえ株主の配当は引続き課税されなくとも、株主にもまた影響を及ぼすであろう。しかしもし、貨幣価値の変動によって、すべての貨物がその以前の価格にまで下落するものならば、株主はこの租税に何物をも支払わないであろう。彼は彼れのすべての貨物を同一の価格で購買するであろうが、しかもなお同一の貨幣配当を受取るであろう。
(七八)一人の製造業者の利潤のみに課税することによって、彼れの財貨の価格が、彼をすべての他の製造業者と平等ならしめるために、騰貴するであろう、ということが承認され、また二人の製造業者の利潤に課税することによって、二種の財貨の価格が騰貴しなければならぬ、ということが承認されるならば、私は、吾々に貨幣を供給する鉱山が我国にありかつ引続き課税されていない限り、あらゆる製造業者の利潤に課税することによってあらゆる財貨の価格が騰貴するであろう、ということを、いかにして争い得るかがわからない。しかし貨幣または貨幣の本位は外国から輸入される貨物であるから、すべての財貨の価格は騰貴し得ないであろう。けだしかかる結果は貨幣の附加的分量なくしては起り得ず(註)、それは一〇二頁において説明された如くに高価な財貨と交換しては取得され得ないからである。しかしながらもしかかる騰貴が起り得たとしてもそれは外国貿易に力強い影響を与えるであろうから、それは永続的ではあり得ないであろう。輸入貨物と引替にかかる高価な財貨を輸出することは出来ないであろう、従って吾々は、売ることを止めたにもかかわらず、しばらくの間引続き買わなければならず、そして貨物の相対価値が依然とほとんど同一になるまで貨幣または地金を輸出しなければならないであろう。良く統制された利潤に対する租税は結局内国製及び外国製の貨物を、共に、租税が課せられる前にそれらが有っていたと同一の貨幣価格に恢復するであろうことは、私には絶対に確実であるように思われる。
(註)更に考察を加えた結果、もし貨物の価格が課税によって騰貴し、生産の困難によって騰貴したのでないならば、同一量の貨物を流通せしめるために、より多くの貨幣が必要とされるべきか否かを、私は疑う。一〇〇、〇〇〇クヲタアの穀物が一定の地方、一定の時に一クヲタアにつき四ポンドで売られ、そして一クヲタアにつき八シリングの直接税の結果として、穀物が四ポンド八シリングに騰貴すると仮定すれば、思うに、この穀物をこの騰貴せる価格において流通せしめるために必要な貨幣量は同一であって、より多くはないであろう。もし私が以前には一一クヲタアを四ポンドで購買しそして租税の結果として私の消費を一〇クヲタアに減少するの余儀なきに至るならば、私はすべての場合において私の穀物に対して四四ポンドを支払うであろうから、私はより多くの貨幣を必要としないであろう。公衆は実際十一分の一だけより少く消費し、そしてこの分量は政府によって消費されるであろう。それを購買するに必要な貨幣は租税の形において農業者達から受取らるべき一クヲタアにつき八シリングから徴収されるであろうが、しかし徴収額は同時に彼らにその穀物に対して支払われるであろう。従ってこの租税は事実上一つの物納租税であり、そしてより貨幣の用いられることを必要としないか、または必要とするものとしても、その分量は無視してもかまわぬほど少量である。
 粗生生産物に対する租税、十分一税、労賃に対する、及び労働者の必要品に対する租税は、労賃を騰貴せしめることによって、利潤を下落せしめるであろうから、それらはすべて、たとえその程度は等しくなくとも、同一の結果を伴うであろう。
 国内製造業を大いに進歩せしめる機械の発明は、常に、貨幣の相対価値を高め従ってその輸入を奨励する傾向を有っている。貨物の製造業者かまたは栽培業者かに対する一切の障害の増加たる一切の課税は、これに反し、貨幣の相対価値を低め従ってその輸出を奨励する傾向を有っているのである。
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    第十六章 労賃に対する租税

(七九)労賃に対する租税は労賃を騰貴せしめ、従って資本の利潤率を低下せしめるであろう。吾々は既に、必要品に対する租税はその価格を騰貴せしめ、そして労賃の騰貴を伴うであろう、ということを見た。必要品に対する租税と労賃に対する租税との間の唯一の差異は、前者は必然的に必要品の価格の騰貴を伴うであろうが、しかし後者はそれを伴わないであろうということである。従って労賃に対する租税に対しては、株主も、地主も、または労働の雇傭主を除く他のいかなる階級も、納税しないであろう。労賃に対する租税は全然利潤に対する租税であり、必要品に対する租税は一部分は利潤に対する租税であり、そして一部分は富める消費者に対する租税である。しからばかかる租税から生ずべき窮極的の結果は、利潤に対する直接税から生ずるそれと正確に同一である。
 アダム・スミスは曰く、『下級労働者階級の労賃は、どこにおいても必然的に、二つの異る事情、すなわち労働に対する需要及び食料品の通常価格または平均価格によって左右されるということを、私は第一篇において説明せんと努めた。労働に対する需要は、それがたまたま静止的であるかまたは減退しつつあるかに従って、またそれが、増加しつつある、静止的なる、または減退しつつある人口を必要とするに従って、労働者の生活資料を左右し、そしていかなる程度においてそれを豊富に、適当に、または稀少ならしめるかを決定する。食料品の通常価格または平均価格は、労働者をして、年々この豊富な適当なまたは稀少な生活資料を購買し得しめるために、彼に支払われねばならぬ貨幣量を決定する。従って労働に対する需要と食料品の価格が引続き同一である間は、労働の労賃に対する直接税は労賃をこの租税よりもややより高く騰貴せしめる以外の結果を有ち得ない。』(編者註)
 (編者註)『諸国民の富』第五篇、第二章(訳者註――キャナン版、第二巻、三四八頁)。
(八〇)ここにスミス博士によって展開されている命題に対して、ビウキャナン氏は二つの反対論を提出している。第一に彼は労働の貨幣労賃は食料品の価格によって左右されるということを否定する。また第二に彼は労働の労賃に対する租税は労働の価格を騰貴せしめるであろうということを否定する。第一の点については、ビウキャナン氏の議論は次の如くである、五九頁(編者註)『労働の労賃は、既に述べた所であるが、貨幣から成るものではなく、貨幣が購買する所のもの、すなわち食料品及びその他の必要品から成る。そして共通の貯財からの労働者への給与は常にその供給に比例するであろう。食料品が低廉にして豊富なる所では彼れの分前はより多くそしてそれが稀少にして高価なる所ではそれはより少いであろう。彼れの労賃は常に彼に正当な分前を与えるであろうが、、彼にそれ以上を与えることは出来ない。労働の貨幣価格は食料品の貨幣価格によって左右され、そして食料品が価格において騰貴する時には労賃はそれに比例して騰貴するというのは、実に、スミス博士及び大抵の他の論者の採る意見である。しかし労働の価格が食物の価格と何らの必然的な関聯をも有たないことは明かである。けだしそれは全然需要と比較しての労働者の供給に依存するからである。しかのみならず、食料品の高い価格は供給の不足の確実な徴候であり、そして事物の自然の行程において消費を妨げる目的をもって起るものであることを、考えなければならない。食物のより小なる供給が同一数の消費者に分たれるならば、明かに各人にはより小なる分前しか残らず、そして労働者は共通の欠乏に対する彼れの分前を負担しなければならない。この負担を平等に分配し、そして労働者が以前の如く自由に生活資料を消費するのを妨げるために、価格は騰貴するのである。しかし労賃は、彼が依然として、より稀少な貨物の中の同一分量を用い得るために、それと共に騰貴しなければならないように見える。そこでかくて自然は、まず最初には消費を減少せしめるために、食物の価格を騰貴せしめることにより、そして後には労働者に以前と同一の供給を与えるために、労賃を騰貴せしめることによって、自分自身の目的に逆行するものとして、現わされている。』
 (編者註)『諸国民の富』ビウキャナン版、一八一四年、第四巻、五九――六〇頁。
 ビウキャナン氏のこの議論には、真理と誤謬との大混同があるように私には思われる。食料品の高い価格は時に不足な供給によって齎されるという故をもって、ビウキャナン氏はそれをもって、不足な供給の確実な表示と想像している。彼は多くの原因から生じ得べきものを、ただ一つの原因に帰している。不足な供給の場合にはより小量が同一数の消費者の間に分たれそしてより小なる部分が各人に帰すべきことは、疑いもなく真実である。この欠乏を平等に分配し、そして労働者が生活資料を以前と同様に自由に消費するのを妨げるために、価格は騰貴する。従って不足な供給によって惹起される食料品の価格のいかなる騰貴も、必ずしも労働の貨幣労賃を騰貴せしめないであろうが、それは消費が遅滞されねばならぬからであるが、このことは消費者の購買力を減少することによってのみ果され得るということは、ビウキャナン氏に許されなければならない。しかし食料品の価格が不定の供給の不足によって騰貴するという故をもって、吾々は、ビウキャナン氏がなしたと思われる如くに、高い価格を伴う豊富な供給はあり得ないと結論することは決して許されないが、ここに高い価格とは、貨幣に関してのみならず、更に他のすべての物に関しての高い価格のことである。
 常に終局的に貨物の市場価格を支配する所のその自然価格は生産の便宜に依存するが、しかし生産量はその便宜には比例しない。たとえ現在耕作されている土地は三世紀以前の耕地よりも遥かに劣り、従って生産の困難は増加されていても、何人が、現在の生産量が当時の生産量を極めて遥かに超過することを、疑い得ようか? 啻に高い価格が増加せる供給と両立し得るのみならず、またそれがこれと共に起らぬことは稀である。かくてもし、課税または生産の困難の結果、食料品の価格が騰貴しそしてその分量が減少されぬならば、労働の貨幣労賃は騰貴するであろう。けだしビウキャナン氏が正当に観察した如くに、『労働の労賃は貨幣には存せず、貨幣が購買する所のもの、すなわち食料品その他の必要品に存する。そして共通の貯財からの労働者への給与は常にその供給に比例するであろう』からである。
(八一)労働の労賃に対する租税は労働の価格を騰貴せしめるか否かという第二の点に関して、ビウキャナン氏は曰く、『労働者が彼れの労働の正当な報償を受取った後に、彼が後に租税に支払わねばならぬものを、いかにして彼はその傭主やといぬしに求償し得ようか? かかる結論の正当なることを保証する法則または原則は世上にはない。労働者が彼れの労賃を受取った後は、それは彼自身の保有する所でありそして彼は出来る限り彼がその後に蒙るかもしれぬいかなる徴収の負担をも担わなければならない。けだし彼は、既に彼にその仕事の正常な価格を支払った者にその補償をなさしめる何らの方法をも有たないからである。』(編者註一)ビウキャナン氏は、大いに賞讃して人口に関するマルサス氏の著作から次の如き有能な章句を引用しているが、それは私には、完全に彼れの反対論に答うる所あるものと思われる。『労働の価格は、その自然的水準を見出すに委ねられている時には、食料品の供給とそれに対する需要との間の、消費せられるべき分量と消費者数との間の、関係を示す所の、極めて重要な政治的晴雨計である。そして、偶発的事情を別として平均をとるならば、それは更に、人口に関し社会の欲求する所を明瞭に示すものである。換言すれば、現在の人口を正確に維持するためには、一結婚に対し幾何の子供が必要であろうと、労働の価格は、労働維持のための真実の財本の状態が静止的であるか、進歩的であるか、または退歩的であるかに従って、この数をちょうど維持するに足るか、またはそれ以上であるか、またはそれ以下であろう。しかしながらそれをかかる見解において考えることなく、吾々は、それをもって吾々がほしいままに引上げまたは引下げ得るもの、主として国王の治安判事に依存するものと、考えている。食料品の価格騰貴が供給に対して需要が余りに大なることを示している時に、労働者を以前と同一の境遇に置かんがために吾々は労働の価格を引上げる、換言すれば吾々は需要を増加する、そしてしかる後食料品の価格が引続き騰貴するのに大いに驚く。この場合に吾々の行為は、普通の晴雨計の水銀が暴風雨になっている時に、ある強制的圧力によってそれを快晴に引上げ、そしてしかる後に引続き降雨が続くのに大いに驚いているのと、極めて類似しているのである。』(編者註二)
(編者註一)同上、第三巻、三三八頁、註。
(編者註二)『人口論』第二巻、第三篇、第五章、一六五、一六六頁、(第三版)。
『労働の価格は人口に関し社会の欲求する所を明瞭に示すであろう、』それは、当該時に労働者の維持のための財本の状態が必要とする人口を支持するにちょうど足るであろう。もし労働者の労賃が以前にこの必要な人口を供給するに足るのみであったならば、それは課税後には、彼はその家族に対し費すべき同一の財本を有たないであろうから、その供給に不適当になるであろう。従って労働は、需要が継続するから、騰貴するであろうし、そして供給が妨げられないのは、価格の騰貴によってのみである。
 帽子または麦芽が課税された時に騰貴するのを見るほど普通なことはない。それが、それが騰貴しなければ必要な供給が与えられないから、騰貴するのである。労賃が課税された時には労働についても同様であり、その価格はそれが騰貴しなければ必要な人口が維持されないから、騰貴するのである。ビウキャナン氏は、彼が次の如く言う時には、ここに主張されているすべてを認めているのではないか? 『もしも彼(労働者)が実際にわずかに単なる必要品を得るに過ぎぬまで落魄するならば、彼はその労賃をより以上減額されないであろう、けだし彼はかかる境遇においてはその種を継続し得ないであろうからである。』(編者註)国の事情によって、最低の労働者が、啻にその種の継続のみならず更にその増加が求められている、と仮定すれば、彼らの労賃はそれに従って左右されるであろう。もし租税が彼らからその労賃の一部を取去り、そして彼らを単なる必要品を得るに過ぎぬまでに落魄せしめるならば、彼らは必要とされる程度において増殖し得ようか?
(編者註)ビウキャナン版、第三巻、三三八頁、註。
 課税貨物は、もしそれに対する需要が減少し、かつもし分量が低減せられ得ないならば、租税に比例して騰貴しないことは、疑いもなく真実である。もし金属貨幣が一般に使用されているならば、その価値はかなりの間、租税によって、租税の額に比例して、騰貴せしめられはしないであろう。けだしより高い価格においては、需要は減少せしめられ、その分量は減少せしめられないであろうからである。そして疑いもなく同一の原因はしばしば労働の労賃に影響する。労働者数は、彼らを雇傭すべき基金の増加または減少に比例して、急に増加または減少せしめられ得ない。しかし仮定された場合においては、労働に対する需要の必然的減少はなく、もし減少したとしても需要は租税に比例して減少しない。ビウキャナン氏は、租税によって徴収された基金は、労働者――もちろん不生産的労働者ではあるがしかもなお労働者である――の維持に政府によって用いられることを忘れているのである。もし労賃が課税されている時に労働が騰貴しないならば、労働に対する競争は著しく増加するであろう、けだしかかる租税に対しては何ものをも支払う必要のない資本所有者は、労働を雇傭するための同一基金を有っているのに、他方に租税を受取る政府は、同一の目的のための附加的基金を得るであろうからである。かくて政府と人民とは競争者となり、そして彼らの競争の結果は、労働の価格の騰貴である。単に同一数の人間が雇傭されるであろうが、しかし彼らは騰貴した労賃で雇傭されるであろう。
 もし租税が直ちに資本家に賦課されていたならば、その労働の維持のための基金は、その目的のための政府の基金が増加したとまさに同一の程度において減少したであろう。従って労賃には騰貴はなかったであろう。けだしたとえ同一の需要があるとしても、同一の競争がないからである。もし租税が賦課せられた時に、政府が直ちにそれによる徴収高を補助金として外国に輸出するならば、従ってまたもしかかる基金が、例えば陸海軍人、等々の如き、英蘭イングランド労働者ではなく外国の労働者の維持に向けられるならば、実に労賃は課税されても、労働に対する需要は減少し、そして労賃は騰貴し得ないであろう。しかし、租税が消費貨物や資本の利潤に課せられ、またある他の方法で同一額がこの補助金を供給するために徴収される場合には、同一のことが起り、すなわちより少い労働しか国内で雇傭され得ないであろう。一方の場合においては労賃の騰貴は妨げられ、他方の場合においてはそれは絶対的に下落しなければならない。しかし労賃に対する租税の額が労働者から徴収された後に、彼らの雇傭者達に無償で支払われると仮定するならば、それは彼らの労働の維持のための貨幣基金を増加するであろうが、しかしそれは貨物も労働も増加せしめないであろう。従ってそれは労働の雇傭者の間の競争を増加せしめ、そしてこの租税は結局雇主にも労働者にも損失を齎さないであろう。主人は騰貴せる労働の価格を支払い、労働者の受取る附加的分量は政府に租税として支払われ、そして再び雇主達に返されるであろう。しかしながら、租税の徴収高は一般に浪費され、それは常に人民の慰楽と享楽とを犠牲として取得され、そして普通に、資本を減少せしめるかその蓄積を妨害するものであることを、忘れてはならない。資本を減少せしめることによって、それは労働の維持に当てられた真実の基金を減少し、従ってそれに対する真実の需要を減少せしめる傾向を有つ。かくて租税は一般には、それが国の真実の資本を害する限りにおいて、労働に対する需要を減少せしめ、従って、労賃は騰貴しても、それはこの租税に正確に等しい額だけ騰貴しないということは、労賃に対する租税の蓋然的な結果であるが、必然的なまたは特有な結果ではないのである。
(八二)アダム・スミスは、吾々の見た如くに、労賃に対する租税の結果は、少くとも租税に等しい額だけ労賃を騰貴せしめるにあり、そして直接的ではないとしても終局的には労働の雇傭者によって支払われるであろう、ということを十分に認めていた。その限りでは吾々は完全に同意する。しかし、かかる租税のそれ以後の作用については、吾々はその見解を本質的に異にするのである。
 アダム・スミスは曰く、『労働の労賃に対する直接税は、たとえ労働者はおそらくそれを彼れの手から支払うかもしれぬとはいえ、彼によって前払されるとさえ言うことは、正当ではあり得ぬであろう。少くとももし労働に対する需要と食料品の平均価格とが課税後もその以前と同一であるならば、あらゆるかかる場合においては、啻にこの租税のみならずまた租税以上のあるものが、彼を直接に使用する者によって実際前払されるであろう。この最終的支払は、場合の異なるにつれ異なる人々の負担する所となるであろう。かかる租税の齎すべき製造業労働の労賃の騰貴は、親方製造業者によって前払されるであろうが、彼らはそれを利潤と共に彼れの財貨の価格に添加する権能を有ちかつ添加せざるを得ないのである(編者註)。かかる租税が齎すべき農業労働の騰貴は、農業者によって前払されるであろうが、彼らは以前の同数の労働者を支持するために、より大なる資本を使用せざるを得ないであろう。このより大なる資本を、資本の通常利潤と共に、囘収せんがためには、土地の生産物のより大なる部分を、または同じことになるが、より大なる部分の価格を、彼がその手に留め、従って彼がより小なる地代を地主に支払うことが、必要である。この労賃騰貴の最終的支払は、この場合には、それを前払いした農業者の附加的利潤と共に、地主の負担する所となるであろう。あらゆる場合において、労働の労賃に対する直接税は、この租税収入に等しい額を、一部分は土地の地代に、そして一部分は消費貨物に、適当に賦課する場合に起るよりも、より大なる土地地代の減少と、より大なる製造財貨価格の騰貴とを、結局において惹起するであろう。』第三巻、三三七頁(訳者註)。この章句においては、農業者によって支払われる附加的労賃は、終局においては、減少せる地代を受取るべき地主の負担する所となるのであろうが、しかし、製造業者によって支払われる附加的労賃は、製造財貨の価格の騰貴を惹起し、従って、それらの貨物の消費者の負担する所となるであろう、ということが主張されているのである。
(編者註)ここに、省略された次の一文が続く、『従ってこの労賃騰貴の最終的支払は、親方製造業者の附加的利潤と共に、消費者の負担する所となるであろう。』
(訳者註)引用は正確ではない。キャナン版、第二巻、三四九頁。
 さて、社会が地主、製造業者、農業者及び労働者から成ると仮定すれば、労働者がこの租税に対して補償を受けるであろうということは、認められている。――しかし誰によってか?――地主の負担する所とならない部分を誰が支払うであろうか?――製造業者はそのいかなる部分をも支払い得ないであろう。けだしもし彼らの貨物の価格が、彼らの支払う附加的労賃に比例して騰貴するならば、彼らは課税前よりもその以後においてはより良い地位にあることになろうからである。もし毛織布製造業者、帽子製造業者、靴製造業者、等が各々彼らの財貨の価格を一〇%だけ引上げ得るとするならば、――一〇%が彼らにその支払った附加的労賃を完全に補償するものと仮定して、――もしアダム・スミスの言う如くに、『彼らが附加的労賃を利潤と共に彼らの財貨の価格に添加する権能を有ちかつ添加せざるを得ない』ならば、彼らは相互の財貨を以前と同じ分量だけ各々消費することが出来、従って彼らは租税に対し何物をも支払わないであろう。もし毛織布製造業者が彼れの帽子と靴とに対してより多くを支払うとしても、彼はその毛織布に対してより多くを受取るであろうし、またもし帽子製造業者が彼れの毛織布と靴とに対してより多くを支払うとしても、彼はその帽子に対してより多くを受取るであろう。かくて彼らはすべての製造貨物を以前と同じだけの利益をもって購買し、博士の仮定であるが、穀物の価格は騰貴しないであろうし――スミス博士はそう仮定しているのであるが、――他方彼らはその購買に投ずべき附加額を有っているのであるから、彼らはかかる租税によって利益を受け、そして損害を蒙ることはないであろう。
 かくて、もし労働者も製造業者もかかる租税に対して貢献せず、もし農業者もまた地代の下落によって補償されるならば、地主のみが、啻にその全重量を負担しなければならぬのみならず、また彼らは製造業者の利得の増加にも貢献しなければならない。しかしながら、このことをなすには、彼らはその国内のすべての製造貨物を消費しなければならない、けだしその全量に対して課せられる附加的価格は、製造業における労働者に本来的に課せられた租税以上ではほとんどないからである。
 さて、毛織物製造業者、帽子製造業者、及びその他すべての製造業者が、相互の財貨の消費者であることは議論のない所であろう。あらゆる種類の労働者が石鹸や毛織布や靴や蝋燭やその他種々なる貨物を消費することは、議論のない所であろう。従ってかかる租税の全重量が地主のみの負担する所となるのは不可能である。
 しかしもし労働者がこの租税の何らの部分も支払わず、しかも製造貨物が価格において騰貴するならば、労賃は、啻に彼らに租税を補償するためのみならず、更に製造必要品の価格騰貴をも補償するために、騰貴しなければならず、このことは、それが農業労働に影響を及ぼす限りにおいて、地代の下落の一つの新原因となり、そして、それが製造業労働に影響を及ぼす限りにおいて、財貨の価格におけるより以上の騰貴の原因となるであろう。財貨の価格のこの騰貴は再び労賃に作用し、そしてまず労賃の財貨に対する、次いで財貨の労賃に対する、作用及び反作用は、指示し得る限度なしに拡大されるであろう。この理論を支持する議論ははなはだ不合理な結論に導くから、この原理の全然弁護し得ないことが直ちにわかるであろう。
 社会の自然的進歩と生産の逓増的困難とにつれての地代の騰貴及び必要品の騰貴とによって、資本の利潤と労働の労賃とに惹起されるすべての影響は、課税の結果たる労賃の騰貴によっても等しく起るであろう。従って労働者の諸々の享楽は、彼れの雇傭者のそれと同様に、この租税によって削減されるであろう。そして特にこの租税によってのみならず、これと等しい額を徴収するあらゆる他の租税によっても削減されるであろうが、けだしそれらはすべて労働の支持に向けられた基金を減少する傾向があるであろうからである。
 アダム・スミスの誤謬は、第一には、農業者の支払うすべての租税は、地代の減額の形で、必然的に地主の負担する所とならねばならぬ、と想像することから生ずる。この問題に関しては、私は最も十分に私の意見を述べた、そして私は、多くの資本が何らの地代をも支払わぬ土地に使用されるから、また粗生生産物の価格を左右するものはこの資本によって取得される結果であるから、地代からは何らの減額もなされ得ないということが、従って労賃に対する租税については農業者には何らの補償もなされずまたはもしなされたとしても、それは粗生生産物の価格への附加によってなされなければならないということが、読者を満足せしめるほどに、説明されたと信ずる。
 もし租税が農業者に対し不平等に圧迫を加えるならば、彼は、他の職業を営む者と同一の水準に立たんがために、粗生生産物の価格を引上げ得るであろう。しかし、いかなる他の職業に影響を及ぼすよりもより多く彼に影響を及ぼさない所の、労賃に対する租税は、粗生生産物の高き価格によっては、移転せしめられまたは補償され得ないであろう。けだし、彼を誘って穀物の価格を引上げしめると、すなわち租税に対する償いを彼に得せしめると、同一の理由が、毛織物製造業者を誘って毛織布の価格を引上げしめ、製靴業者、帽子製造業者、及び家具製造業者を誘って、靴、帽子、及び家具の価格を引上げしめるであろうからである。
 もしも彼らがすべてその財貨の価格を、利潤と共に租税に対する償いを得るように、引き上げ得るならば、彼らはすべて相互の貨物の消費者であるから、この租税が決して支払われ得ないであろうことは明かである、なぜならば、もしすべての者が補償を受けているならば、何人が納税者なのであろうか?
 しからば私は、労賃を騰貴せしめる結果を有つべき租税は、利潤の減少によって支払われ、従って労賃に対する租税は実際上利潤に対する租税であるということを、説明するに成功したと思う。
 労働と資本との生産物の労賃及び利潤間の分割の原則は、私はそれを樹立せんと試みたのであるが、私には極めて確実に思われるから、直接の結果を除けば、資本の利潤が課税されても労働の労賃が課税されても、ほとんど大したことではないと私は思うのである。資本の利潤に対する課税によって、おそらく、労働の維持のための基金が増加する率は変動し、そして労賃は、高きに過ぎるために、その基金の状態に比例しなくなるであろう。労賃に対する課税によって、労働者に支払われる報酬もまた、低きに過ぎるために、その基金の状態に比例しなくなるであろう。一方の場合においては貨幣労賃の下落により、他方の場合においてはその騰貴によって、利潤と労賃との間の自然的平衡は恢復されるであろう。かくて労賃に対する租税は、地主の負担する所とならず、資本の利潤の負担する所となる。それは、『親方製造業者に、利潤と共にそれを彼れの財貨の価格に添加する権能を与えかつ添加せざるを得ざらしめる』ことはないが、それはけだし彼はその価格を増加し得ないであろうからである、従って、彼は全然かつ報償なしに自分でかかる租税を支払わなければならない(註)。
(註)セイ氏はこの問題に関する一般的意見を鵜呑みにしているように見える。穀物を論じて彼は曰く、『このことからして、その価格はすべての他の貨物の価格に影響を及ぼすということになる。農業者や製造業者やまたは商人は一定数の労働者を雇傭するが、この労働者はすべて、一定分量の穀物を消費しなければならぬ。もし穀物の価格が騰貴するならば、彼は、その生産物の価格をそれと等しい比例で引上げざるを得ない。』第一巻、二五五頁。
(八三)もし労賃に対する租税の結果が、私の述べた如きものであるならば、それは、スミス博士によってそれに与えられた非難に値しないことになる。彼はかかる租税について曰く、『これらの租税及びその他の同じ種類のある租税は労働の価格を騰貴せしめることによって、オランダの製造業の最大部分を破壊したと言われている。これに類似の租税はそれほど重くはないが、ミラノ公国や、ジェノア共和国や、モデナ公国やパルマ、プラチェンティア、及びグァスタルラの諸公国や、法王領にある。やや著名なフランスのある学者は、他の租税に代うるにすべての租税の中で最も破壊的なこの租税をもってして、彼れの国の財政を改革せんと提議した。キケロは曰く、「非常に不合理な事柄にして時にある哲学者によって主張されなかったものはない。」』(訳者註一)また他の場所において彼は曰く、『必要品に対する租税は労働の労賃を騰貴せしめることによって、必然的にすべてのの製造品の価格を騰貴せしめ、従ってその販売及び消費の範囲を減少する傾向がある。』(訳者註二)たとえ、かかる租税は製造貨物の価格を騰貴せしめるというスミス博士の原則が正しいとしても、この租税はかかる非難には値しないであろう。けだし、かかる結果は単に一時的であり得るに過ぎず、そして吾々を外国貿易において、何らの不利益にも陥れないであろうからである。もしある原因が若干の製造貨物の価格を騰貴せしめるならば、それはその輸出を妨げ、または阻止するであろう。しかしもし同一の原因が一般的にすべてに対して作用するならば、その結果は単に名目的に過ぎず、そしてその相対価値にも影響を及ぼさねば、また物々交換――外国貿易も内国商業もすべての商業は実際物々交換であるが――に対する刺戟を何ら減少しもしないであろう。
(訳者註一)キャナン版、第二巻、三五九――三六〇頁。
(訳者註二)同上、三五七頁。
 私は既に、ある原因がすべての貨物の価格を騰貴せしめる時には、その結果は貨幣価値の下落とほとんど同様であることを、証明せんと努めた。もし貨幣が価値において下落するならば、すべての貨物は価格において騰貴する。そしてもしこの結果が一国に限られるならば、それがその外国貿易に及ぼす影響は、一般課税によって惹起される貨物の価格騰貴と同一であろう。従って一国に限られた貨幣価値の下落から生ずる影響を検討する時には、吾々はまた一国に限られた貨物の価格騰貴から生ずる影響を検討しているわけである。実際、アダム・スミスはこの二つの場合の類似を十分知っており、そしてその輸出禁止の結果としてのスペインにおける貨幣のまたは彼れのいわゆる銀の価値の下落は、スペイン製造業及び外国貿易に極めて有害であることを、論理一貫して主張した。『しかし、特定国の特殊な地位かまたはその政治組織の結果たる銀価の下落が、単にその国に起るに過ぎないということは、極めて重大な事柄であり、それは何人かを真実により富ましめる傾向がある所かあらゆる者を真実により貧しからしめる傾向があるのである。この場合その国に特有なすべての貨物の貨幣価格の騰貴は、その内部で行われているあらゆる種類の産業を多かれ少かれ阻害し、かつ外国国民をして、自国の労働者が提供し得るよりもより少量の銀に対してほとんどすべての種類の財貨を提供することによって、啻に外国市場だけではなく内国市場においてすらそれを下値に売るを得せしめる傾向を有っている。』第二巻、二七八頁。(訳者註)
(訳者註)キャナン版、第二巻、一二――三頁。
 その量が人為的に豊富にさせられたことから起る所の、一国における銀の価値下落の有つ不利益の一つは、――そして私はその唯一のものと考えるが――スミス博士により能く説明されている。もしも金銀の取引が自由であるならば、『外国に出るべき金額は何物とも引換えられずに出ることはなく、同一の価値を有つある種の財貨を持ち込むであろう。かかる財貨もまた、すべてがその消費と引換えに何物をも生産しない怠惰な者によって消費せらるべき単なる奢侈品及び高価品であるわけではないであろう。怠惰な者の真の富と収入とは、この異常な金銀の輸出によっては増加されないであろうから、彼らの消費もまたそれによっては増加されないであろう。それらの財貨は、おそらくはその大部分、確実にはそのある部分は、彼らの消費の全価値を利潤と共に再生産すべき勤勉な者の雇傭と維持とのための、原料や道具や食料品から成っている。かくて社会の死せる貯財の一部分が生ける貯財に転化され、そして以前に用いられていた以上の分量の勤労を動かすであろう。』(訳者註)
(訳者註)同上、一四――五頁。
 貨物の価格が騰貴せしめられるときに、課税か貴金属の流入かにより貴金属の自由貿易を許さないことによって、社会の死せる貯財の一部分は生ける資本に転化されるのを妨げられる、――より多量の勤労が用いられるのが妨げられる。しかしこれが害悪の全量であり、それは銀の輸出が許されまたは黙許されている国は少しも感じない害悪である。
 諸国間の為替が平価にあるのは、事物の実状において諸国がその貨物の流通をなすに必要な通貨量を正確に有っている時に限られる。もし貴金属の取引が完全に自由であり、そして貨幣が何らの費用をも要せずして輸出され得るならば、為替はあらゆる国において平価以外には有り得ないであろう。もし貴金属の取引が完全に自由であり、その輸送の費用がかかってもそれが一般に流通に用いられるならば、為替はそのいずれの国においても、これらの費用だけ以上に平価から決して偏倚へんいし得ぬであろう。これらの原則は思うに今やどこにおいても異論のない所である。もしある国が、正金と交換されず従ってある固定的な本位によって左右されない紙幣を用いるならば、その国における為替は、その貨幣が、貨幣の取引が自由でありかつ貴金属類が貨幣としてかまたは貨幣の本位として用いられている場合に、一般的商業によってその国に割当てられた分量を超過して増加されると同一の比例で、平価から偏倚するであろう。
 もし通商の一般的作用によって、既知の量目りょうめと品位とを有つ地金で作られた一千万ポンド貨が英国の持分であり、そして一千万の紙幣ポンドがそれに代えられるならば、為替には何らの影響も生み出されないであろう。しかしもし紙幣発行権の濫用によって、一千一百万ポンドが流通に用いられるならば、為替相場は英国にとり九%逆になるであろう。もし一千二百万が用いられるならば、為替相場は英国にとり一六%、そしてもし二千万ならば為替相場は五〇%逆になるであろう。しかしながらこの結果を生み出すためには、紙幣が用いられることは必要ではない。もし通商が自由であり、そして既知の量目と品位とを有つ貴金属類が貨幣としてかまたは貨幣の本位として用いられているならば流通したであろうよりも、より多量のポンドを、流通界に保留するいかなる原因も、同一の結果を正確に生み出すであろう。貨幣の削減によって、各ポンドが法律上含有すべき分量の金または銀を含有していないと仮定すれば、それが削減されなかった場合よりもより多数のかかるポンドが流通に用いられるであろう。もし各ポンドから十分の一が除かれるならば、一千万ではなく一千一百万のかかるポンドが用いられるであろう。もし十分の二が除かれるならば、一千二百万が用いられるであろう。そしてもし二分の一が除かれるならば、三千万[#「三千万」はママ]は過剰ではないことが見出されるであろう。もし一千万の代りにこの二千万が用いられるならば、英国におけるあらゆる貨物はその以前の価格の二倍に引上げられ、そして為替相場は英国にとり五〇%逆になるであろう。しかしこのことは外国貿易に何らの混乱をも惹起ひきおこさず、いかなる一貨物の製造を阻害することもないであろう。例えばもし毛織布が英国において一反につき二〇ポンドから四〇ポンドに騰貴したとしても、吾々はそれを騰貴前とまさに同様に自由にその以後も輸出するであろう。けだし五〇%の補償は為替において外国購買者になされ、その結果、彼れの貨幣二〇ポンドをもって、英国において四〇ポンドの負債を支払い得べき手形を彼は購買し得るであろうからである。同様にして、もし彼が、国内において二〇ポンドを費しそして英国において四〇ポンドで売れる貨物を輸出するとしても、彼は単に二〇ポンドを受取るに過ぎないであろう、けだし英国における四〇ポンドは外国宛の二〇ポンド手形を購買するに過ぎないからである。単に一千万が必要であるに過ぎぬ場合に、二千万をして強いて英国における流通の仕事を遂行せしめるいかなる原因によっても、同一の結果が生ずるであろう。もし貴金属の輸出禁止というが如き不合理な法律が施行され得、そしてかかる禁止の結果が一千万ではなく造幣早々の一千一百万の良質のポンドを強いて流通せしめることであったならば、為替相場は英国にとり九%逆になり、一千二百万ならば一六%、二千万ならば五〇%、英国にとり逆になるであろう。しかし英国の製造業にはいかなる阻害も与えられないであろう。もし内国貨物が英国において高価に売られるならば、外国貨物も同様であろう。そして外国の輸入業者が、一方において、その貨物が高価な率で売られる時に、為替相場で補償を与えざるを得ず、そして英国の貨物を高い価格で購買せざるを得ない時に、同一の補償を受けるであろう限り、それらが高いか安いかは彼らにほとんど重要でないであろう。しからば、禁止法によって、しからざればそこに留まっていたはずのものよりもより多量の金及び銀を流通せしめておくことからして、一国に発生し得べき唯一の不利益は、その資本の一部分を生産的に使用せずして、不生産的に使用することによって、それが蒙るべき損失であろう。貨幣の形においてはこの資本は何らの利潤をも生産しない、それを費して得る原料品、機械、及び食物の形においては、それは収入を生産し、そして国家の富と資源とを附加するであろう。しからば私は、課税の結果たる貴金属類の比較的低価、または換言すれば、貨物の一般的高価は国家にとって何らの不利益でもないが、けだしその金属の一部分は輸出され、そのためにその価値は高められて、再び貨物の価格を下落せしめるであろうから、ということを、満足に説明したと思う。そして更に、もし金属が輸出されないならば、もし禁止法によってそれが国内に留められ得るならば、為替相場に対する影響が高き価格の影響を相殺するであろう、ということを。かくてもし必要品及び労賃に対する租税が、それに労働が投ぜられるすべての貨物の価格を騰貴せしめないならば、それはこの理由によっては否とされ得ない。そして更にそれはかかる結果を有つであろうという、アダム・スミスのなしている意見の根拠が十分であるとしても、それは決してその故をもって有害であることはないであろう。それは、他のいかなる種類の租税に対しても正当に主張し得べき理由以外の理由のためには、非難され得ないのである。
 地主は地主としてはこの租税の負担から除外されるであろう。しかし彼らが園丁えんてい僕婢ぼくひ、等を養うことによって、彼らの収入の支出上直接に労働を使用する限りにおいて、彼らはその作用を蒙るであろう。
『奢侈品に対する租税は、この課税された貨物の価格以外のいかなる他の貨物の価格をも騰貴せしめる傾向を有たない』ということは、疑いもなく真実である。しかし、『必要品に対する租税は、労働の労賃を騰貴せしめることによって、必然的にすべての製造貨物の価格を騰貴せしめる傾向を有っている』というのは真実ではない。『奢侈品に対する租税は、何らの補償もなく、終局的に課税された貨物の消費者によって支払われる。それは無差別にあらゆる種類の収入、労働の労賃、資本の利潤、及び土地の地代の負担する所となる』というのは真実である。しかし、『必要品に対する租税は、それが労働貧民に影響する限りにおいて、終局的に、一部分は地主によりその土地の地代によって、また一部分は地主であろうとその他の者であろうとに論なく、富める消費者により製造財貨の価格騰貴によって、支払われる』というのは真実ではない。けだしかかる租税が労働貧民に影響する限りにおいて、それはほとんど全部資本の利潤の減少によって支払われ、その単に一小部分のみが、各種の課税が齎す傾向がある労働に対する需要の減少によって、労働者自身によって支払われるであろうからである。
(八四)スミス博士が『中流及び上流の人民は、もし彼ら自身の利益を理解するならば、常に、生活必要品に対するすべての租税に、並びに労働の労賃に対するすべての直接税に反対すべきである』という結論に達したのは、かかる租税の結果につき誤れる見解をいだいていた故である。この結論は次の如き彼れの推理から生ずる、すなわち、『これら両者を終局的に支払うものは全然彼ら自身であり、そして常にかなりの超過負担を蒙る。それは地主の最も重く負担する所となるが、彼らは常に二重の資格において支払うのである。すなわち、地主の資格においてはその地代の低減によって、また富める消費者の資格においてはその支出の増加によって。ある租税はある財貨の価格の中に時に四囘も五囘も繰返されかつ累積されるとの、サア・マシウ・デカアの観察は、生活必要品に対する租税に関しては、完全に正当である。例えば、皮革の価格では、自分自身の靴の皮革に対する租税のみならず、靴製造業者及び鞣革なめしがわ製造業者の靴に対するそれの一部分も、支払わなければならない。諸君は、それらの職人が諸君のための仕事に従事している間に消費する塩や石鹸や蝋燭に対する租税と、塩製造業者や石鹸製造業者や蝋燭製造業者が彼らのための仕事に従事している間に消費する皮革に対する租税とを、支払わなければならない。』
 さてスミス博士は、鞣革製造業者や塩製造業者や石鹸製造業者や蝋燭製造業者は、そのいずれも、皮革や塩や石鹸や蝋燭に対する租税によって利益をけるであろうとは主張せず、また政府は課税以上には受取らないことは確かであるから、その租税が誰の負担する所となろうとも、公衆によってより以上の額が支払われ得ると考えることは不可能である。富める消費者は、貧しい消費者のために支払ってやるかもしれず、また実際支払うであろうが、しかし彼らは租税の全額以上には支払わないであろう。従って、『租税が四囘も五囘も繰返されかつ累積される』というのは事理に反する。
 ある課税制度には欠陥があるかもしれず、国庫に入る以上のものが人民から徴収されるかもしれない、けだし一部分は、価格に及ぼすその影響の結果として、おそらく特殊の課税方法によって利益を蒙る者の受領する所となるかもしれぬからである。かかる租税は有害であり、奨励されてはならない。けだし、租税の作用が正当である時には、それはスミス博士のの公理の第一と一致し、そして国家に入る以上には出来るだけ少く人民から徴収する、ということは、一つの原理となされ得ようからである。セイ氏は曰く、『他の者は財政計画を立て、そしてその臣民に何らの負担をもかけずに君主の金庫を充す手段を提案する。しかし財政計画が商業的企業の性質を有たない限り、それは政府に、ある他の形においては、個人か政府自身かからそれが徴収する以上を与えることは出来ない。杖の一撃では、無から有を造ることは出来ない。いかなる方法である作用が隠蔽されようとも、いかなる形体を吾々が価値にとらしめても、いかなる変態を吾々がそれに経過させようとも、吾々が価値を手に入れ得るのは、それを創造してか、またはそれを他人から取ることによってかである。すべての財政計画の中で最良のものは、出来るだけ経費を支出しないことであり、またすべての租税の中で最良のものは、額の最少のものである。』(編者註)
(編者註)『経済学』第三篇、第八章、二九八頁。
 スミス博士は、労働階級は国家の負担に対し大なる寄与をなし得ない、とどこまでも主張しているが、それは思うに正当な主張である。従って必要品または労賃に対する租税は、貧民から富者に転嫁されるであろう。しからばもしスミス博士の意味が、単に、この目的すなわち貧民から富者への租税の転嫁を成就するために、『ある租税はある財貨の価格の中に時に四囘も五囘も繰返されかつ累積される』というのであるならば、かかる租税はその故をもって非難してはならないはずである。
 一人の富める消費者の正当な租税の分担額が一〇〇ポンドであり、かつ彼はそれを直接支払うものと仮定するならば、もし租税が所得や葡萄酒やまたはその他のある奢侈品に課せられるとすれば、彼は、必要品の課税によって、彼自身の及び彼れの家族の必要品の消費が関する限りにおいて、二五ポンドの支払を求められるに過ぎないならば、何らの損害をも蒙らないであろう。しかし労働者またはその雇傭者に、彼らが前払することを求められた租税を償うために、他の貨物に対して附加的価格を支払うことによって、この租税を三度繰返すことを求められるであろう。この場合においてすら、この推理は首尾一貫しない。けだし政府の求める以上のものが支払われないならば、富める消費者が一つの奢侈品に対して騰貴せる価格を支払うことによって直接にこの租税を支払おうと、または彼が消費する必要品その他の貨物に対して騰貴せる価格を支払うことによって間接にそれを支払おうと、それは彼にとってどれだけの重要なことであり得ようか? もし政府の受取る以上のものが人民によって支払われないならば、富める消費者は単に彼れの公正なる分前を支払うに過ぎないであろう。もしそれ以上のものが支払われるならば、アダム・スミスはそれを誰が取るかを説明すべきであった。しかし彼れの全議論は誤謬に基いている。けだし貨物の価格はかかる租税によって騰貴せしめられないからである。
 セイ氏は、私が彼れの好著より引用した明白な原則を首尾一貫して固執しているとは、私には思われない。けだし彼はその次の頁において、課税を論じて次の如く言っているからである、すなわち、『もしそれが過度に失する時には、それはこの悲しむべき結果を齎し、国家を富ましめることなくして納税者からその富の一部分を奪う。もし吾々が、各人の消費力は、それが生産的なると否とを問わず、その所得によって制限されていることを考えるならば、これは吾々の理解し得ることである。しからば彼がその所得の一部分を奪われる時には、彼は必ずそれに比例してその消費を減少せざるを得ない。このことからして、彼がもはや消費せぬ財貨、特に租税が賦課せられている財貨に対する、需要の減少が起る。この需要の減少から生産の減少従って課税し得る貨物の減少という結果が起る。しからば、納税者はその享楽品の一部分を、生産者はその利潤の一部分を、そして国庫はその収入の一部分を、失うであろう。』(編者註)
(編者註)経済学、同上、三〇〇頁。
 セイ氏は、革命前のフランスにおける塩税の例を引いているが、それは、彼の言う所によれば、塩の生産を二分の一だけ減少せしめた。しかしながらより少い塩が消費された場合には、より少い資本がそれを生産するに用いられたのである。従ってたとえ生産者は塩の生産に対してはより少い利潤を得たとはいえ、彼は他の物の生産に対してはより多くを得たであろう。もし一租税がいかに重かろうと、それが収入の負担する所となり、資本の負担する所とならないならば、それは需要を減少せしめず、単にその性質を変更するに過ぎない。それは政府をして、納税者が以前に消費していたと同じだけの、国の土地と労働の生産物とを消費し得せしめるものであって、それを過重に課することなくとも十分に大なる害悪である。もし私の所得が年々一、〇〇〇ポンドであり、そして租税として年々一〇〇ポンドを求められるならば、私は、以前に消費した財貨の分量の単に十分の九を需要し得るに過ぎぬけれども、しかし私は残りの十分の一を政府をして需要し得せしめる。もし課税された貨物が穀物であるならば、必ずしも穀物に対する私の需要が減少する必要はない、けだし私はむしろ穀物に対して年々一〇〇ポンドより多く支払い、そして葡萄酒や家具やその他の奢侈品に対する需要を同額だけ削減することを、選ぶであろうから(註)。従って、葡萄酒製造業または家具製造業に用いられる資本は減少するであろうが、しかし政府の課した租税がそれに費される貨物の製造に用いられる資本は増加するであろう。
(註)セイ氏は曰く、『貨物の価格に附加される租税はその価格を騰貴せしめる。貨物の価格が騰貴するごとに、必然的に、それを騰貴し得る者の数、または少くとも彼らの消費する量は減少される。』これは決して必然的ではない。私は、もしパンが課税されても、パンの消費は、毛織布、葡萄酒または石鹸が課税された場合以上には、減少するであろうとは信じない。
 セイ氏は、チュルゴオ氏が、パリにおいて、魚類に対する市場税(les droits d'entr※(アキュートアクセント付きE小文字)e et de halle sur la mar※(アキュートアクセント付きE小文字)e)を二分の一減ずることによって、その実収高を減少せしめなかったし、従って魚類の消費は倍加したに相違ない、と云っている。彼は、このことから推して、漁撈者及びこの職業に従事する者の利潤もまた倍加したに相違なく、かつ国の所得は、利潤の増加の全額だけ増加したに相違なく、また蓄積に刺戟を与えることによって、それは国家の富源を増加せしめたに相違ない、と云っている(註)。
(註)同じ著者の次の語は同様に誤謬であると私には思われる。『木綿に高い税が課せられるならば、木綿を基礎とするすべての財貨の生産は減少する。もしある特定の国において、木綿の種々なる製造業においてそれに加えられる総価値が一年一〇、〇〇〇万フランに上り、そして租税の結果が消費を二分の一に減少せしめるにあるとするならば、この税は、政府が受取る額に加うるに、年々五、〇〇〇万フランを、その国から奪うであろう。』(編者註、経済学、第二巻、三一四頁)
 この租税の改正を命じた政策はこれを問題外とし、私はそれが蓄積に大なる刺戟を与えたか否かについて、疑いを有っている。もし漁撈者及び漁撈に従事する他の者の利潤が、魚類の消費が増加した結果倍加するならば、資本及び労働は、この特定の職業に用いられるために他の職業から引き去られたに相違ない。しかしかかる職業において資本及び労働は利潤を生み出していたのであるから、この利潤はそれが引き去られた時に抛棄されたに相違ない。この国の蓄積能力は、単に資本が新たに用いられた職業において取得される利潤と、資本が引き去られた職業において取得される利潤との差額だけ、増加したに過ぎないのである。
 収入から徴収されようとまたは資本から徴収されようと、租税は国家の課税し得る貨物を減少せしめる。もし私が一〇〇ポンドの租税を支払うことによって、私自身でそれを費さずに、政府をしてこの額を費し得せしめたために、一〇〇ポンドを葡萄酒に費すことを止めるなら、一〇〇ポンドに値する財貨は必然的に課税し得る貨物の表の中から除かれる。もし一国の個人の収入が一、〇〇〇万であるならば、彼らは少くとも一、〇〇〇万に値する課税し得る貨物を有するであろう。もしその中のあるものに課税することによって、一百万が政府の処分の下に移されても、彼らの収入は名目上は依然一、〇〇〇万であろうが、しかし彼らは単に九百万に値する課税し得る貨物を有つに過ぎないであろう。いかなる事情の下においても、課税は、租税を窮極的に負担する者の享楽を奪わぬという場合はなく、また新たなる収入の蓄積以外に、それらの享楽を再び拡張し得る手段はないのである。
 課税が平等に適用され、その結果すべての貨物の価値に同一の比例において作用し、しかもそれらの物を同一の相対価値に保持せしめるということは、あり得ない。それは、しばしば、その間接的結果のために、立法者の意図とははなはだ異る作用をする。吾々は既に、穀物及び粗生生産物に対する直接税の結果は、もし貨幣もまたその国内で生産されるのであるならば、粗生生産物がその構成に参加するに比例してすべての貨物の価格を騰貴せしめ、かつそれによってこれらの物の間に以前に存在した自然的関係を破壊するにあることを、知った。もう一つの結果は、それが労賃を騰貴せしめ利潤率を下落せしめることである。吾々はまた本書の他の部分において、労賃の騰貴と潤利の下落は、より大なる程度において固定資本を用いて生産される貨物の貨幣価格を下落せしめるという結果を有つことを知ったのである。
(八五)一貨物が課税される時はそれはもはやそれほど有利に輸出され得ないということは、十分に理解されているから、しばしば戻税もどしぜいがその輸出に対して与えられ、また関税がその輸入に対して課せられる。もしかかる戻税及び関税が啻にかかる貨物そのものに対してのみならず、更にそれが間接に影響を与え得るすべてのものに対して、正確に課せられるならば、貴金属の価値には何らの変動も起らないであろう。吾々は、一貨物を、課税後も以前と同様に容易に輸出することが出来、また輸入に何らの特殊の便宜も与えられないから、貴金属が以前よりもより以上に輸出貨物表に入り込むことはないであろう。
 すべての貨物の中、自然または技術の援助によって、特殊の便宜をもって生産されるものほど、課税に適当するものはおそらくないであろう。諸外国についていえば、かかる貨物は、その価格が投下労働量によって左右されずに、むしろ購買者の気紛れ、趣味、及び資力によって左右されるものの、種目の下に分類され得よう。もし英国が他国よりもより生産的な錫鉱を有ち、または優秀な機械及び燃料のため、綿製品の製造の特殊の便宜を有つとしても、錫及び綿製品の価格は、英国において、依然としてそれを生産するに必要な労働及び資本の比較的分量によって左右され、そして我国の商人の競争は、外国消費者に対してそれをほとんどより高価にしないであろう。これらの貨物の生産上での我国の利益は極めて決定的であるから、おそらくそれらの物は外国市場において、その消費を著しく減少せしめずに極めて著しい附加価値を有つであろう。これらの物は、国内において競争が自由である間は、その輸出に対する租税以外のいかなる他の手段によってもこの価格に達することを得ないであろう。この租税は全然外国の消費者の負担する所となり、そして英国政府の経費の一部分は、他国の土地及び労働に対する租税によって支弁されるであろう。現在英国民によって支払われ、そして英国政府の経費の補助に寄与している茶税は、もしそれが支那において茶の輸出に対して課せられるならば、支那政府の経費の支払に流用され得よう。
 奢侈品に対する租税は、必要品に対する租税に比してある利益を有っている。それは一般に所得から支払われ、従って国の生産的資本を減少しない。もし葡萄酒が課税の結果として価格が大いに騰貴するならば、おそらくそれを購買し得るためにその資本に対し重大な侵害を加えるよりも、むしろ葡萄酒の飲用を止めるであろう。それは極めて価格と一致しているから、納税者は租税を支払っていることをほとんど自覚しない。しかしそれはその短所を有っている。第一にそれは決して資本には及ぼされ得ない、しかも若干の異常の場合には、資本さえも公共の緊急に寄与することが得策とされることがあり得よう。そして第二にこの租税は所得にさえも及ぼされ得ないであろうから、租税の額に関しての確実性がない。貯蓄を企てている人は、葡萄酒の飲用を止めて、葡萄酒に対する租税を免れるであろう。国の所得は減少されず、しかも国家は租税によって一シリングをも徴収し得ないであろう。
 習慣によってその使用が愉楽となったものはいかなるものでも、これを放棄することは困難であり、そして極めて重い租税にもかかわらず引続き消費されるであろう。しかし、この放棄の困難にはその限界があり、そして経験は日々に課税の名目額の増加がしばしば徴税額を減少せしめることを説明している。ある人は、同一量の葡萄酒を、一本の価格が三シリング騰貴しても引続き飲用するであろうが、しかし彼は四シリングの騰貴額を支払うよりはむしろ葡萄酒の使用を中止するであろう。他の一人は甘んじて四シリングを支払うであろうが、しかし五シリングを支払うことは拒絶するであろう。同一のことは、奢侈品に対する他の租税について言い得よう。すなわち多くの者は一頭の馬が与えられる享楽に対して五ポンドの租税を支払うであろうが、しかし一〇ポンドまたは二〇ポンドは支払おうとはしないであろう。彼らが葡萄酒や馬の使用を止めるのは、彼らがより多くを支払い得ないからではなくより多くを支払いたくないからである。あらゆる人は心の中にその享楽の価値を測定するある標準を有っているが、しかしその標準は人間の性格と同様に各種各様である。多額の国債従ってまた莫大の租税を課すという有害な政策のためにその財政状態が極度に人為的となっている国は、この租税引上方法に伴う不便に特に曝されている。租税を携えて全奢侈品を一巡した後に、馬や馬車や葡萄酒や僕婢やその他すべての富者の享楽品に課税した後に、大臣は、『すべての財政計画の中で最上のものは少く支出することであり、そしてすべての租税の中で最良のものは額が最少のものである』というセイ氏の金言を無視して、所得税や財産税というが如きより直接的な租税に頼る気になるのである。
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    第十七章 粗生生産物以外の貨物に対する租税

(八六)穀物に対する租税が穀物の価格を騰貴せしめると同一の原則によって、ある他の貨物に対する租税はその貨物の価格を騰貴せしめるであろう。もし貨物が租税に等しい額だけ騰貴しないならば、それは生産者に彼が以前に得たと同一の利潤を与えず、そして彼はその資本をある他の職業に移すであろう。
 それが必要品であろうと、奢侈品であろうと、すべての貨物に対する租税は、貨幣価値が不変である間は、その価格を少くとも租税に等しい額だけ高めるであろう(註)。労働者の製造必要品に対する租税は、必要品の中で第一のものでありかつ最も重要であるということによって他の必要品と異るに過ぎない所の穀物に対する租税と、同一の影響を労賃に対して有つであろう。そしてそれは資本の利潤及び外国貿易に対して正確に同一の影響を有つであろう。しかし奢侈品に対する租税は、その価格を騰貴せしめる以外に何らの影響を有たないであろう。それは全然その消費者の負担する所となり、そして労賃をも利潤をも下落せしめ得ないであろう。
(註)セイ氏は次の如く述べている、『製造業者は、その貨物に課せられた全租税を消費者をして支払わしめることは出来ない、けだし価格騰貴はその消費を減少せしめるからである。』もしこれが事実であり、消費が減少せしめられるならば、供給もまた速かに減少せしめられないであろうか? 製造業者はその利潤が一般水準以下にある時に、何故なにゆえにその職業を継続しなければならぬのであろうか? セイ氏はここでもまた、彼が他の場所で支持している次の如き学説を忘れているように思われる。すなわち、『生産費が、それ以下に貨物が長い期間に亘って下落し得ない価格を決定する、けだしその際には生産は中止されるかまたは減少されるからである。』第二巻、二六頁。
『しからば租税はこの場合には、一部分は、課税貨物に対しより多くを支払うを余儀なくされる消費者の負担する所となり、また一部分は租税を控除した後により少い額を受取る生産者の負担する所となる。国庫は、購買者が余分に支払う額、並びに生産者がその一部を犠牲として提供するを余儀なくされる利潤だけ、利得するであろう。それが射出する弾丸に作用すると同時にそれが反衝せしめる銃身に作用するというのが、火薬の力である。』第二巻、三三三頁。
(八七)戦費を支弁する目的でまたは国家の通常の経費として、一国に賦課せられ、そして主として不生産的労働者の支持に当てられる所の、租税は、その国の生産的産業から徴収される。そしてかかる経費が節約され得るごとに納税者の資本は増加しないとしても、一般に所得は増加するであろう。一年間の戦費として二千万が公債によって調達される時には、その国民の生産資本から引き去られるのはその二千万である。この公債の利子を支払うために租税によって調達される年々の一百万は、単に、それを支払う者からそれを受取る者に、納税者から国家の債権者に、移転されるに過ぎないものである。真の経費は二千万であって、それに対して支払わるべき利子ではない(註)。利子が支払われようと支払われまいと、国はより富みもせずより貧しくもならないであろう。政府は二千万を租税の形で一時に要求したかもしれない。その場合には年々の租税を一百万に当るだけ引上げる必要はなかったであろう。しかしながら、このことは取引の性質を変えはしなかったであろう。一個人は、年々一〇〇ポンドの支払を要求されずして、時に二、〇〇〇ポンドを支払うを余儀なくされたであろう。より大なる額を彼自身の資金から割くよりもむしろ、この二、〇〇〇ポンドを借入れ、その債権者に利子として年々一〇〇ポンドを支払う方が、また彼の利益に適したかもしれない。一方の場合にはそれはAとBとの間の私的取引であるが、他方の場合には、政府がBに、等しくAによって支払わるべき利子の支払を保証するのである。もしこの取引が私的性質のものであったならば、それについては何らの公の記録も作られず、そしてAがBに対して忠実に彼れの契約を履行しようと、または不当にも年々一〇〇ポンドを彼自身の所有に保留しておこうと、それはこの国にとっては比較的にどうでもよい事柄であろう。国は契約の忠実な履行に一般的利害関係を有つであろうが、しかし国民的富に関しては、それは、AとBとのうちいずれがこの一〇〇ポンドを最も生産的ならしめるかについてより以外には、何らの利害関係をも有っていない。しかしこの問題については、それは決定すべき権利もなければ能力もないであろう。もしAがそれを彼れの使用のために保留しておくならば、彼はそれを無益に消費するかもしれず、またもしそれがBに支払われるならば、彼はそれを彼れの資本に加え、それを生産的に用いるかもしれない、ということも有り得よう。そしてその反対もまた有り得よう。すなわちBはそれを浪費するかもしれず、またAはそれを生産的に用いるかもしれない。富のみを目的とするならば、Aがそれを支払うことも支払わぬことも、同等にまたはより以上に望ましいかもしれない。しかしより大なる功利たる正義及び誠実の権利は、より小なる功利のそれに従属すべく強制されてはならない。従ってもし国家の干渉が要求されるならば、裁判所はAを強制して彼れの契約を履行せしめるであろう。国家によって保証された債務はいかなる点においても上の取引と異る所はない。正義と誠実とは、国債の利子が引続き支払わるべきことを、及びその資本を一般的利益のために前払した者は便宜という口実の下にその正当な権利を抛棄すべく求められてはならないことを、要求するのである。
(註)『ムロンは曰く、一国民の負債は右手が左手に対する負債であり、それによって身体は弱められない、と。全体の富が未償還負債に対する利子支払によって減少されぬということは、真実である。利子は納税者の手から国家債権者へ移転する一価値である。それを蓄積しまたは消費するのが国家債権者であろうとまたは納税者であろうと、それは社会にとってほとんど大したことではないということには、私は同意する。しかし負債の元金――それはどうなったのであるか? それはもはや存在しない。公債に伴う消費は一資本を無くしてしまい、それはもはや収入を生み出さないであろう。社会は利子額を奪われはしないが、けだしそれは一方の手から他方の手に移るのであるからである。しかし、社会は破壊された資本からの収入を奪われている。この資本は、もし国家にそれを貸した人が生産的に使用したならば、同じく彼に一つの所得を齎したであろうが、しかしその所得は真実なる生産から得られたものであって、同胞二三の市民の懐中から供せられたものではなかったであろう。』セイ、第二巻、三五七頁、これは経済学の真精神で理解されかつ言い表わされている。
 しかしこの考察を別にしても、政治的功利が政治的廉直を犠牲にして何物かを得るであろうということは、決して確実ではない。国債の利子の支払を免除された当事者が、それを当然受くべきものよりもより生産的に使用するであろうということには、決してならない。国債を破棄することによって、ある人の所得は一、〇〇〇ポンドから一、五〇〇ポンドに高められるかもしれないが、しかし他の人のそれは一、五〇〇ポンドから一、〇〇〇ポンドに低められるであろう。これらの二人の所得は今二、五〇〇ポンドであるが、その時にもそれはそれ以上ではないであろう。もし租税を徴収することが政府の目的であるならば、一方の場合には、他方の場合と正確に同一の課税し得る資本と所得とがあるであろう。しからば、一国が困窮せしめられるのは国債に対する利子の支払によってではなく、またそれが救済され得るのはその支払の免除によってではない。国民的資本が増加され得るのは、所得の貯蓄と支出上の節減とによってのみである。そして国債の破棄によっては、所得も増加せられず、また支出も減少されないであろう。国が貧窮化するのは、政府及び個人の浪費と負担とによってである。従って、公私の節約を助長せんがためのあらゆる方策は国の困窮を救済するであろう。しかし、真実の国民的困難が、正当にそれを負担すべき社会の一階級の肩から、あらゆる公平の原則に基いて彼らの分前以上負担すべきではない他の階級の肩に、それを転嫁することによって除去され得ると想像するのは、誤謬でありかつ妄想である。
 上述せる所からして、私は借入金の方法をもって国家の非常費を支弁するに最もよく適合せるものと考えていると、推論されてはならない。それは吾々を、より不倹約ならしめるところの、――吾々をして自分の実情に盲目ならしめるところの、傾向ある方法である。もしある戦争の経費が年々四千万であり、かつある人がその年々の経費に対して寄与しなければならぬ分前が、一〇〇ポンドであるとすれば、彼は、一時にその分担の支払を求められる時には、速かに彼れの所得から一〇〇ポンドを貯蓄せんと努めるであろう。公債の方法によるならば、彼は単にこの一〇〇ポンドの利子、すなわち年々五ポンドの支払を求められるに過ぎず、そこで彼はその支出からこの五ポンドを貯蓄するをもって足ると考え、かくて彼は以前と同様に富んでいるという信念で自ら欺くのである。全国民は、かくの如く推理し行動することによって、単に四千万の利子すなわち二百万を貯蓄するに過ぎず、かくの如くして、四千万の資本が生産的に使用された場合に与える利子または利潤のすべてを失うのみならず、更に彼らの貯蓄額と支出額との差額たる三千八百万をも失うのである。もし、前述の如く、各人が自己の借金をして国家の緊急費に対してその全分前を寄与しなければならなかったのであるならば、戦争の終了するや否や、課税は止み、そして吾々は直ちに物価の自然的状態に復帰するであろう。Aは、彼れの私的の資金から、彼が戦争中にBから借入れた貨幣に対する利子を、彼をして戦費に対するその分前を支払い得せしめるために、Bに支払わなければならないかもしれないが、しかしこれは国民のあずかり知る所ではないであろう。
 大きな負債を累積した国は、最も不自然な地位に置かれる。そしてたとえ租税の額と労働の価格との騰貴とは、その国を、それらの租税を支払うという不可避的な不利益を除けば、諸外国との関係において、他の何らの不利益な地位にも置かないかもしれぬし、また置かないであろうと私は信ずるとはいえ、しかもこの負担から免れてこの支払を自分自身から他人に転嫁するのが、あらゆる納税者の利益となる。そして彼自身と彼れの資本とをかかる負担を免れる他国に移そうという誘惑はついに不可抗的のものとなり、そして彼の出生地との若き聯想の場面を去るに当って各人が感ずる当然の念を克服する。この不自然な制度に伴う困難に陥った国は、その負債を償還するに必要なその財産のある部分を犠牲にして、この困難から免れるのが賢明な遣り方である。一個人にとって賢明なことは一国民にとってもまた賢明なことである。五〇〇ポンドの所得を齎す一〇、〇〇〇ポンドを持ち、その中から年々一〇〇ポンドを負債の利子に支払わなければならない人は、真実には単に八、〇〇〇ポンドの財産を有つに過ぎず、そして彼が引続き年々一〇〇ポンドを支払おうと、または一時にただの一囘限り二、〇〇〇ポンドを支払おうと、その富の程度は同じであろう。しかし、この二、〇〇〇ポンドを取得するために彼が売らなければならぬ財産の買手はどこにいるであろうか? と問われる。その答は明白である。この二、〇〇〇ポンドを受取るべき国家債権者は、その貨幣の放資国を求めるであろう。そしてそれを地主または製造業者に貸付けるか、または彼らからその処分しなければならぬ財産の一部を購買する気になるであろう。かかる支払に対しては公債所有者達自身も大いに寄与するであろう。この計画はしばしば推奨され来ったものであるが、しかし吾々はそれを採用するに足る知識も有たなければまた勇気も有たない。しかしながら平和の時には、吾々の不断の努力は、戦争の間に契約された負債部分の返済に向けられねばならぬこと、また楽になりたいという誘惑や、現在の――そして望むらくは一時的の、困窮から逃れんとの願望のために、その大目的に対する吾々の注意を緩めてはならぬことが、承認されなければならない。
 いかなる減債基金も、もしそれが歳出に対する歳入の超過から得られるのでないならば、負債を減少する目的に対しては有効であり得ない。この国の減債基金が単に名目的に過ぎないのは遺憾のことである。けだし支出に対する収入の超過は全くないからである。それは節約によって、その名の如きものに、すなわち真に有効な負債支払のための基金たらしめられなければならぬ。もし将来戦争の勃発せる際に、我国の負債が著しく減少せしめられていないならば、その全戦費は年々徴収される租税によって支弁されなければならぬか、しからざれば、その戦争の終了前ではないにしても、その終了の時に、吾々は国民的破産に陥らなければならぬかの、いずれかである。吾々は公債の著しい増加に堪え得ないであろうというのではない。一大国民の力に限界を置くことは困難であろう。しかし、個々人が、単に彼らの故国で生活するという特権に対して、永続的課税の形において甘んじて支払う価格には確かに限界があるのである(註)。
(註)『信用は一般的には、資本に、それが有用に用いられない人々を去って生産的たらしめられる人々に移るのを許すから、よいことである。すなわちそれは資本を、公債放資の如き、単に資本家にとって有用であるにすぎない用途から移転させ、それを産業に従事せる人々の手において生産的ならしめる。それはすべての資本の使用を便宜ならしめ、使用されない資本をなからしめる。』――『経済学』、四六三頁。第二巻、第四版――これはセイ氏の看過に相違ない。公債所有者の資本は決して生産的ならしめられ得るものではない、――それは事実上資本ではない。もし彼がその公債を売り、それに対して得た資本を生産的に使用するとすれば、彼はその公債の買手の資本を生産的用途より引離すことによってのみ、このことをなし得るのである。(編者註――この誤りは第五版で訂正された。第三巻、六〇頁。これは第三版にはなかったものである。第二巻、四四四頁。)
(八八)一貨物が独占価格にある時には、それは消費者が喜んでそれを購買せんとする最高の価格にあるのである。貨物は、いかなる工夫によってもその分量が増加され得ない時にのみ、従って競争が全然一方の側に――すなわち買手の間に――ある時にのみ、独占価格にある。ある時期における独占価格は他の時期における独占的価格よりも遥かにより低いこともまたは高いこともあろう、けだし購買者の間における競争は、彼らの富及び彼らの嗜好や気紛れに依存しなければならぬからである。極めて限られた分量において生産される特殊の葡萄酒、及びその優越または稀少によって仮想的価値を得た美術品は、社会が富んでいるか貧しいか、それがかかる生産物を豊富にまたは稀少に所有しているか、またはそれが粗末な状態にあるか洗錬せんれんされた状態にあるか、に従って、通常労働の生産物の極めて異る分量に対して交換されるであろう。従って独占価格にある貨物の交換価値は、どこにおいても生産費によって左右されないのである。
 粗生生産物は独占価格にはないが、けだし大麦及び小麦の市場価格は、毛織布及び亜麻布の市場価格と同様な程度にその生産費によって左右されるからである。唯一の差違はこうである、すなわち、農業に用いられる資本の一部分、換言すれば全然地代を支払わない部分が穀物の価格を左右するが、しかるに製造貨物の生産においては、資本のあらゆる部分の使用は同一の結果を齎し、そしていかなる部分も地代を支払わないから、あらゆる部分が等しく価格の規制者であるということである、すなわち穀物その他の粗生生産物もまた、より多くの資本の使用によって、量において増加せられ得、従ってそれは独占的価格にはないのである。買手の間におけると同様に売手の間にも競争がある。吾々の今まで論じていた稀少な葡萄酒や高価な美術品の生産においてはかかることは事実でない。その分量は増加され得ず、そしてその価格は購買者の力と意志の程度によってのみ制限される。かかる葡萄園の地代は、いかなる適当に指示し得る限界以上にも引上げられ得ようが、けだし他のいかなる土地もかかる葡萄酒を生産し得ないために、いかなる土地もかかる土地と競争せしめられ得ないからである。
(八九)もちろん一国の穀物及び粗生生産物はしばらくの間は独占的価格で売られるかもしれない。しかし、より以上いかなる資本も有利に土地に使用され得ない時、従ってその生産物が増加され得ない時にのみ、それは永続的にそうあり得るに過ぎない。かかる時には、あらゆる耕地部分、及び土地に使用されているあらゆる資本部分は、地代を生むであろうが、それは実に収穫の差違に比例して異っているのである。かかる時にはまた、農業者に課せられるべきいかなる租税も地代の負担する所となり、消費者の負担する所とはならないであろう。彼はその穀物の価値を引上げ得ないが、けだし、仮定によれば、それは既に、買手がそれを買うであろう所のまたは買い得る所の最高価格にあるからである。彼は、他の資本家の得る利潤率以下の利潤では満足しないであろう、従って彼がなし得る唯一の選択は、地代を引上げさせるか、または彼れの職業を中止するかであろう。
 ビウキャナン氏は、穀物及び粗生生産物は地代を産出するから、独占価格にあるものと、考えている。すなわち地代を産出するすべての貨物は独占状態にあるはずである、と彼は想像している。そしてこのことから彼は、粗生生産物に対するすべての租税は地主の負担する所となり、消費者の負担するところとはならない、と推論している。彼は曰く、『常に地代を与える穀物の価格は、いかなる点においてもその生産費によって影響されないから、それらの費用は地代から支払われなければならない。従ってそれが騰貴または下落する時には、その結果はより高いまたはより低い価格ではなくして、より高いまたはより低い地代である。かく観察すれば、農場の僕婢や馬匹やまたは農業機具に対するすべての租税は、実際には地租である。その負担は農業者の借地期間中は農業者の負担する所となり、そして借地契約が更新される時期になった時には地主の負担する所となる。同様にして、打穀機及び刈取機というが如き農業者の費用を節約するすべての改良された農耕器具、及び良い道路、運河、及び橋梁というが如き彼をしてより容易に市場に達せしめる一切のものは、穀物の原費は減少せしめるが、その市場価格は減少せしめない。従ってかかる改良によって節約されるものはすべて、地主に彼れの地代の一部として帰属するのである。』(編者註)
(編者註)『諸国民の富』ビウキャナン版、一八一四年、第四巻、『諸観察』、三七、三八頁。
 もし吾々がビウキャナン氏に、彼の議論がってつ所の基礎、すなわち、穀物の価格は常に地代を生ずるということを譲歩するならば、彼が主張するすべての結果が当然それに随伴すべきことは明かである。しからば農業者に対する租税は、消費者の負担する所とはならずして、地代の負担する所となり、そして農耕上のすべての改良は地代を増加するであろう。しかし私は、一国がそのいかなる部分においても余す処なくしかも最高度に耕作される時までは、土地に用いられた資本の中に何らの地代をも生み出さない部分のあるということ、及び穀物の価格を左右するものはこの部分であり、その収穫は、製造業における如く、利潤及び労賃に分たれるということを、十分に明かならしめたと思う。かくて地代を与えない穀物の価格は、その生産によって影響されるのであるから、それらの費用は地代からは支払われない。従ってそれらの費用が増加する結果は、価格の騰貴であって、地代の下落ではない(註)。
(註)『製造業者は需要に比例してその生産物を増加せしめ、そして価格は下落する。しかし土地の生産物はそのようには増加され得ない。そして消費が供給を超過するのを妨げるためには、高い価格が必要である。』ビウキャナン、第四巻、四〇頁。ビウキャナン氏が、需要が増加しても土地の生産物は増加せしめられ得ないと真面目に主張することが出来るのは、果して可能であろうか?
 粗生生産物に対する租税や地租や十分一税は、すべて土地の地代の負担する所となり、そして粗生生産物の消費者の負担する所とはならない、ということで全然一致するアダム・スミスとビウキャナン氏との両者が、それにもかかわらず、麦芽に対する租税は、麦酒ビールの消費者の負担する所となり、そして地主の地代の負担する所とはならないであろう、ということを認めているのは、注目すべきことである。アダム・スミスの議論は、麦芽に対する租税及び粗生生産物に対するあらゆる他の租税の問題について、私のいだいている見解の極めて優れた叙述であるから、私は読者の注意を惹くためにそれを提示せざるを得ない。
『大麦耕作地の地代及び利潤は、常に、他の等しく肥沃であり等しく良く耕作された土地のそれとほとんど等しくなければならない。もしもそれがより少いならば、大麦地のある部分は直ちにある他の目的に向けられ、またもしそれがより多いならば、直ちにより多くの土地が大麦の栽培に向けられるであろう。ある特定の土地の生産物の通常価格が独占価格と呼ばれ得る価格にある時には、それに対する租税は必然的に、それを栽培する土地の地代及び利潤(註)を減少せしめる。そこで作る葡萄酒が、それが有効需要に対して不足しているために、その価格が、常に他の等しく肥沃であり等しく良く耕作された土地の生産物に対する、自然的比例以上である所の、その貴重な葡萄園の生産物に対する租税は、必然的にそれらの葡萄園の地代及び利潤(註)を減少せしめるであろう。葡萄酒の価格は、既に通常市場に送り出される分量に対して手に入れ得る最高の価格であるから、それはその分量を減少せしめることなくしては引上げられ得ず、そしてその分量は更により大なる損失を伴わずしては減少され得ない。けだしそれらの土地は、ある他の等しく高価な生産物に向けられ得ないからである。従ってこの租税のすべては地代及び利潤(註)の、正当には葡萄園の地代の、負担する所となるであろう。』『しかし大麦の通常価格は決して独占価格であったことはない。そして大麦地の地代及び利潤が他の等しく肥沃であり等しく良く耕作された土地のそれに対する自然的比例以上であったことは決してない。麦芽、麦酒ビール、及び強麦酒エイルに課せられた種々なる租税が大麦の価格を低めたことは決してなく、大麦地の地代及び利潤(註)を低減せしめたことは決してない。醸造業者に対する麦芽の価格は、絶えずそれに課せられた租税に比例して騰貴し来った。しかしそれらの租税並びに麦酒ビール及び強麦酒エイルに対する種々なる租税は、絶えずそれらの貨物の価格を騰貴せしめるか、または、同一のことに帰するが、消費者に対しそれらの貨物の品質を低下せしめるか、のいずれかであった。それらの租税の終局的支払は、消費者の絶えず負担する所となり、そして生産者の負担する所とはならなかった。』この章句についてビウキャナン氏は次の如く言う、『麦芽に対する租税は決して大麦の価格を低め得ないであろう。けだし大麦を麦芽にすることにより、それを麦芽にしないで売ることによって得られると同一の額が得られない限り、必要とされる分量は市場に齎されないであろうからである。従って麦芽の価格がそれに課せられた租税に比例して騰貴しなければならぬことは明かである。けだししからざれば需要は供給され得ないからである。しかしながら、大麦の価格は砂糖のそれとちょうど同程度で独占価格である。それら両者は地代を生み出し、そして両者の市場価格は等しくその原費とのすべての関係を失っているのである。』(編者註)
(註)私は『利潤』なる言葉が省かれていたことを望む。スミス博士は、これらの貴重なる葡萄園の借地人の利潤が、一般利潤率以上であると想像しているに相違ない。もしその利潤がそうでなかったならば、彼らはそれを地主か消費者かに転嫁し得ざる限り、租税を支払おうとはしないであろう。
(編者註)『諸国民の富』ビウキャナン版、第三巻、三六八頁註。
 しからば麦芽に対する租税は麦芽の価格を騰貴せしめるであろうが、しかし麦芽がそれから造られる大麦に対する租税は大麦の価格を騰貴せしめないであろうし、従ってもし麦芽が課税されるならば、その租税は消費者によって支払われるであろうが、もし大麦が課税されるならば、地主の受取る地代は減少するであろうから地主がそれを支払うであろう、というのがビウキャナン氏の意見であるように思われる。かくてビウキャナン氏によれば、大麦は独占価格すなわち買手が喜んでそれに対し与えようとする最高の価格、にあるが、しかし大麦で造られた麦芽は独占価格になく、従ってそれは、それに対して課せらるべき租税に比例して引上げられ得るのである。麦芽に対する租税の結果に関するかかるビウキャナン氏の意見は、私には、彼がこれと同様な租税すなわちパンに対する租税について述べた意見と正反対であるように思われる。『パンに対する租税は窮極的に、価格の騰貴によってではなく地代の減少によって支払われるであろう。』(編者註)もし麦芽に対する租税が麦酒ビールの価格を騰貴せしめるならば、パンに対する租税はパンの価格を騰貴せしめなければならぬはずである。
(編者註)同上、三五五頁。
 セイ氏の次の議論は、ビウキャナン氏のそれと同一の見解に基礎を置いている、『一片の土地が生産すべき葡萄酒または穀物の分量は、それに課せられる租税がどうであろうとも、引続きほとんど同一であろう。この租税は、その純生産物の、またはお好みならばその地代の、二分の一または四分の三をすら取り去るかもしれないが、しかもそれにもかかわらず、その土地はこの租税によって吸収されない二分の一または四分の一のために耕作されるであろう。地代すなわち地主の分前は、単に幾らかより低くなるに過ぎないであろう。このことの理由は、もし吾々が、仮定された場合においては、土地から取られる生産物の分量と市場に送られる分量とが、それにもかかわらず依然同一であるべきことを考察するならば、理解されるであろう。他方において、生産物に対する需要の基礎たる動機もまた、引続き同一である。
『さて、もし供給される生産物の分量と需要される分量とが、租税の新設または増加にもかかわらず、必然的に引続き同一であるならば、その生産物の価格は変動しないであろう。そして価格が変動しないならば、消費者はこの租税を少しも支払わないであろう。
『農業者すなわち労働及び資本を提供する者が地主と共に、この租税の負担を担うであろう、と言われるであろうか? 確かに言われない。けだしこの租税の事情は、貸付農場の数を減少せしめなかったし、また農業者の数も増加せしめなかったからである。この場合においてもまた、供給及び需要は依然同一であろうから、農場の地代もまた依然同じでなければならない。消費者をして単に租税の一部分を支払わしめ得るに過ぎない塩製造業者の例や、少しも償いを受け得ない地主の例は、経済学者に反対して、すべての租税は窮極的に消費者の負担する所となると主張する人々の、誤謬を証明している。』――第二巻、三三八頁。
 もしも租税が『土地の純生産物の二分の一または四分の三すら取り去り、』しかも生産物の価格が騰貴しないならば、一定の収穫を得るためにより肥沃な土地よりも遥かにより大なる比例の労働を必要とする質の土地を占有して、極めて少額の地代を支払う農業者は、いかにして資本の通常利潤を取得し得るであろうか? たとえ全地代が免除されても、彼らは依然他の諸事業の利潤よりもより低い利潤を取得し、従って彼らがその生産物の価格を引上げ得ない限り、彼らはその土地の耕作を継続しないであろう。もしこの租税が農業者の負担する所となるならば、農場を賃借しようという農業者は減少し、またもしそれが地主の負担する所となるならば、多くの農場は、何らの地代をも与えないであろうから、全然賃貸されないであろう。しかし何らの地代をも支払わずに穀物を生産する者はいかなる資金からこの租税を支払うであろうか? この租税が消費者の負担する所とならねばならぬことは全く明かである。セイ氏が次の章句において述べている如きかかる土地は、いかにしてその生産物の二分の一または四分の三の租税を支払うであろうか?
『吾々はスコットランドにおいて、所有者によってかくの如くして耕作され他の何人によっても耕作され得ないせた土地を見る。かくてまた吾々は、合衆国の内部地方において、それより得られる収入のみでは所有者を維持するに足りない広大肥沃な土地を見る。これらの土地はそれにもかかわらず耕作されているが、しかしそれは所有者自身によってでなければならず、または換言すれば、彼をして相当に生活するを得せしめるためには、彼はほとんどまたは全くない所の地代に加えるに、彼れの資本及び勤労の利潤をもってしなければならない。土地は、耕作されても、いかなる農業者もそれに対して地代を払おうとはしない時には、地主に対して何らの収入をも産み出さないことはよく知られている。これはかかる土地は単にその耕作に必要な資本及び勤労の利潤を与えるに過ぎないということの一つの証拠である。』――セイ、第二巻、一二七頁(編者註)。
(編者註)『経済学』第二版、第二篇、第九章。
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    第十八章 救貧税

(九〇)吾々は、粗生生産物及び農業者の利潤に対する租税は、粗生生産物の消費者の負担する所となるであろうが、それはけだし、農業者が価格の増加によって補償を受ける力を有たない限り、この租税は彼れの利潤を利潤の一般水準以下に低減し、そして彼をしてその資本をある他の職業に移転せしめるであろうから、ということを見た。吾々は、彼は、それを彼れの地代から控除することによって、租税を地主に転嫁し得ないであろうが、それはけだし何らの地代も支払わない農業者も、より良い土地の耕作者と等しく、それが粗生生産物に課せられようとまたは農業者の利潤に課せられようと、この租税を課せられるであろうから、ということもまた見た。私は、もし租税が一般的であり、そして製造業のものであろうと農業のものであろうと、平等にすべての利潤に影響を及ぼすならば、それは財貨の価格にも粗生生産物の価格にも影響を及ぼさず、直接的にも窮極においても生産者によって支払われるであろう、ということをも証明しようと企てた。地代に対する租税は地主のみの負担する所となり、そして決して借地人に転嫁せしめられ得ないであろうことも、述べられた。
 救貧税は、すべてのこれらの性質を有する租税であり、そして事情の異るにつれて、粗生生産物及び財貨の消費者や、資本の利潤や、土地の地代の負担する所となる。それは農業者の利潤の特に重く負担する所となる租税であり、従って、粗生生産物の価格に影響を及ぼすものと考え得よう。それが製造業利潤及び農業利潤の平等に負担となる程度に従って、それは資本の利潤に対する一般的租税となり、そして粗生生産物及び製造品の価格には何らの変動をも惹起さないであろう。農業者が特に彼に影響を及ぼす租税の部分に対し、粗生生産物の価格を引上げることによって自身に補償し得ないのに比例して、それは地代に対する租税となり、そして地主によって支払われるであろう。しからば、ある特定の時における救貧税の作用を知るためには、吾々は、その時にそれが農業者と製造業者との利潤に影響するのが、平等な程度においてであるか、または不平等な程度においてであるかを、並びに農業者に粗生生産物の価格を引上げる力を与えるような事情になっているか否かを、確かめなければならない。
(九一)救貧税は、農業者に、彼れの地代に比例して、賦課せらるべきである、と言われている。従って、極めて少額の地代を支払い、または全然地代を支払わない農業者は、少額の租税を支払うべきであり、または全然租税を支払わざるべきである。もしこれが事実であるならば、救貧税は、それが農業階級によって支払われる限り、全然地主の負担する所となり、そして粗生生産物の消費者には転嫁され得ないであろう。しかし私はそれは事実ではないと信ずる。救貧税は農業者が実際彼れの地主に支払う地代に従っては賦課されはしない。それは彼れの土地の年々の価値に比例せしめられるが、その年々の価値が地主の資本によって土地に与えられようと、あるいは借地人の資本によって与えられようと、それは問う所ではないのである。
 もし二人の農業者が同一の教区において二つの異質の土地を賃借し、その一方は五〇エーカアの最も肥沃な土地に対し年々一〇〇ポンドの地代を支払い、そして他方は一〇〇エーカアの最も肥沃度の小なる土地に対して同一額の一〇〇ポンドを支払うならば、そのいずれもが土地の改良を企てなかった場合には、彼らは同一額の救貧税を支払うであろう。しかし、もし貧弱な土地の農業者が、極めて長期の借地契約を利用して、大なる費用をもって、施肥、灌漑、囲墻かこい等によって、彼れの土地の生産力を増進せしめる気になるならば、彼は、地主に支払われる実際の地代に比例してではなく、土地の実際の年々の価値に比例して、救貧税を納入するであろう。租税は地代に等しくもあろうし、またそれを超過しもしよう。しかしそれが事実そうであろうとなかろうと、租税のいかなる部分も地主によっては支払われないであろう。それはあらかじめ借地人によって計算されていたことであろう。そしてもし生産物の価格が、彼れのすべての費用、並びに救貧税に対するこの附加的出資を、彼に償うに足りないならば、彼れの改良はなされなかったことであろう。しからば、租税はこの場合には、消費者によって支払われることは、明かである。けだしもし何らの租税もなかったとしても、同一の改良がなされ、そして穀価がより低くとも、通常かつ一般利潤が使用資本に対し取得されたであろうからである。
 もし地主が自身でかかる改良をなし、その結果として彼れの地代を一〇〇ポンドから五〇〇ポンドに引上げたとしても、それはこの問題には全然相違を起さないであろう。租税は等しく消費者に課せられるであろう。けだし地主が彼れの土地に多額の貨幣を投ずるか否かは、彼が土地に対する報償として受取る地代または地代と呼ばれるものに依存し、そしてこれは更に、穀物またはその他の粗生生産物の価格が、啻にこの附加的地代のみならず更にこの土地に課せられる租税に堪えるに足るほど高いということに、依存するであろうからである。もし同時にすべての製造業資本が、農業者または地主が土地改良のために投ずる資本と同一の比例で、救貧税に貢献するならば、それはもはや農業者または地主の資本の利潤に対する偏頗な租税ではなく、あらゆる生産者の資本に対する租税となるであろう。従ってそれはもはや粗生生産物の消費者にも地主にも転嫁され得ないであろう。農業者の利潤は、製造業者のそれ以上には、租税の影響を感じないであろう。そして前者は、後者と同様に、それを彼れの貨物の価格騰貴に対する理由として抗弁し得ないであろう。資本がある特定の職業に用いられるのを妨げるものは、利潤の絶対的下落ではなく相対的下落である。すなわち資本を一つの職業から他のそれに移動させるものは利潤の差違である。
 しかしながら、救貧税の実状において、彼らの各々の利潤に比例して製造業者よりも遥かにより多額が農業者の負担する所となっており、農業者は彼が取得する実際の生産物に従って課税されるが、製造業者は、彼れの使用する機械や労働や資本の価値は顧慮する所なく、単にその中で彼が仕事をする建物の価値に従って課税されるに過ぎぬことが、認められなければならない。かかる事情からして、農業者はその生産物の価格をこの全差額だけ引上げ得るということになる。けだし、この租税は不平等にかつ特に彼れの利潤の負担する所となるから、粗生生産物の価格が引上げられぬ場合には、彼は、その資本をある他の職業に使用するよりもそれを土地に充用しようという動機が、減少するであろうからである。もし反対に、租税が農業者よりも製造業者のより重く負担する所となっていたならば、製造業者は、同一の事情の下において農業者が粗生生産物の価格を引上げ得たと同一の理由で、この差額だけ彼れの財貨の価格を引上げ得たであろう。従って、その農業を拡張しつつある社会においては、救貧税が特に重く土地の負担する所となっている時には、それは一部分は資本の利潤の減少という形において資本の使用者により、そして一部分は粗生生産物の価格騰貴の形においてその消費者によって、支払われるであろう。かかる事態においては、この租税は、ある事情の下において、地主達にとって有害であるよりもむしろ有利でさえあり得よう。けだしもし最劣等の土地の耕作者によって支払われる租税が、より肥沃な土地の耕作者によって支払われるそれよりも、取得される生産物の分量との比例においてより高いならば、すべての穀物に及ぶ穀価の騰貴は、後者にこの租税を償って余りあるであろうからである。この利益はその借地契約の継続期間中は彼らに続くであろうが、その後はその地主に移転されるであろう。これは進歩しつつある社会における救貧税の結果であろう。しかし静止的または退歩的な国においては、資本が土地から引去られ得ない限り、もし更に税金が貧民の支持のために賦課せられるならば、農業の負担する所となるその部分は、現在の借地期間中は農業者によって支払われるであろうが、しかしかかる借地契約の満了した時には、それはほとんど全く地主の負担する所となるであろう。以前の借地契約の継続期間中に、その土地の改良にその資本を支出した農業者は、もしその土地が依然彼れの手中にあるならば、土地がその改良によって得た新たな価値に応じてこの新租税を課せられ、そして彼れの利潤がそのために一般水準以下に低下しても、彼はその借地期間中この金額を支払わざるを得ないであろう。けだし彼が支出した資本は、到底それから引去られ得ない程度に合体していることが有り得るからである。実際、もし彼または彼れの地主(もし資本が彼によって支出されていたならば)がこの資本を引去ることが出来、かつそれによってこの土地の年々の価値を低減せしめることが出来るならば、この税はそれに比例して下落し、そして生産物は同時に減少するから、その価格は騰貴するであろう。彼はこの租税を消費者に課することによってその補償を得、従っていかなる部分も地代の負担する所とはならないであろう。しかしこれは少くとも、資本のある部分については不可能であり、従って、租税は、その比例において、農業者の借地期間中は彼らによって、またその満了後は地主によって、支払われるであろう。この附加的租税は、もしそれが特に荷重に製造業者の負担する所となるならば、――事実はそうなることはないが、――かかる事情の下においては、彼らの財貨の価格に附加されるであろう。けだし彼らの資本が容易に農業に移転され得る時に、彼らの利潤が一般利潤以下に低減されるべき理由はあり得ぬからである(註)。
(註)本書の前の部分において私は、正当に地代と呼ばるべき地代と、地主の資本がその借地人に与えた利潤に対して地代という名前で地主に支払われる報酬との間の、差異に注意した。しかし私はおそらく、この資本の適用される方法の異ることから生ずる差異を十分明かにしなかった。資本の一部分は、ひとたび農場の改良に費される時には、土地と不可分離に融合され、その生産力を増加せしめる傾向を有つから、その使用に対して地主に支払われる報酬は、厳密には地代の性質を有ち、地代に関するあらゆる法則に服するものである。それが地主の費用でなされようとまたは借地人の費用でなされようと、この改良は、第一に報酬がある他の等しい額の資本の投下によって挙げ得べき利潤と少くとも相等しいという強い蓋然性がない限り、企てられないであろう。しかしひとたび改良がなされた時には、取得された報酬はその後は常に全く地代の性質を有つに至り、かつ地代のあらゆる変動を蒙るであろう。しかしながらこれらの費用のあるものは、単に限られた期間だけ土地に利益を与えるに過ぎず、永久的にその生産力を増加せしめることはない。すなわち建物及びその他の消耗的な改良に投ぜられるならばそれは絶えず更新される必要があり、従って地主のためにその真実地代に対する何らの永続的附加をも獲得しないのである。
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    第十九章 貿易路の急変について

(九二)大製造業国は、特に、資本が一つの職業から他の職業へと移転するために生ずる一時的の災難や事故に曝されている。農業生産物に対する需要は均一であり、それは流行や偏見や気紛れの影響を蒙らない。生命を維持するためには食物が必要であり、そして食物に対する需要はすべての時代、すべての国において継続しなければならない。製造品についてはこれと異る。ある特定の製造貨物に対する需要は、啻に購買者の欲望に支配されるのみならず、更に嗜好や気紛れにも支配される。新租税もまた、一国が特定貨物の製造において有っていた比較的な得点を破壊するかもしれず、または戦争の結果その運送上の船賃及び保険料が騰貴したために、それはもはや以前にそれが輸出された国の国産品と競争し得なくなるかもしれない。あらゆるかかる場合においては、著しき困苦とそして疑いもなくある損害を、かかる貨物の製造に従事する人々は経験するであろう。そしてこれは、啻にかかる変化の時においてのみならず、更に彼らが支配し得る資本及び労働を一つの職業から他の職業に移しつつある期間全体に亙って感ぜられるであろう。
 かかる諸困難が発生したのみならず、更にその貨物が以前に輸出された国々においても、困苦は経験されるであろう。いかなる国も、輸出しない限り長く輸入することは出来ず、またいかなる国も輸入しない限り長く輸出することは出来ない。しからば、もしある国をして、外国貨物の平常量を輸入することを、永久的に妨げるある事情が起るならば、それは必然に平常輸出されていた貨物中の、あるものの製造を減少せしめるであろう。そして、同一額の資本が用いられていようから、その国の生産物の総価値はおそらくほとんど変動しないであろうとはいえ、しかもそれは同様に、豊富でかつ低廉ではないであろうし、また職業の変動によって著しい苦痛が経験されるであろう。もし一〇、〇〇〇ポンドを、輸出向綿製品の製造に用いることによって、年々、吾々が二、〇〇〇ポンドの価値ある絹靴下三、〇〇〇足を輸入するとし、そして外国貿易の中絶のために、吾々がこの資本を綿製品の製造から引去り、それを吾々自身靴下の製造に用いるを、余儀なくされたとしても、資本のいかなる部分も破壊されない限り、吾々は依然二、〇〇〇ポンドの価値を有つ靴下を取得するはずである。ただし吾々は三、〇〇〇足ではなく、単に二、五〇〇足を得るに過ぎぬであろう。資本を綿工業から靴下業に移転するに当って多くの困苦が経験されるかもしれない。しかし、たとえそれが吾々の年々の生産物の分量を、減少することがあるとしても、国民財産の価値を著しく害することはないであろう(註)。
(註)『商業は吾々をして、一貨物を、それが見出さるべき場所において取得し、それが消費せらるべき他の場所にそれを運送することを、得せしめる。従って、それは吾々に、その貨物の価値を、これらの場所の第一におけるその価格と第二におけるその価格との間の全差額だけ、増加する力を与えるものである。』セイ氏、第二巻、四五八頁。しかり、しかしいかにしてこの附加価値はそれに与えられるか? 第一に運送費を、第二に商人によってなされた資本の前貸に対する利潤を、生産費に附加することによって。その貨物の価値がより多くなるのは、あらゆる他の貨物がより多くの価値を有つに至ると同一の理由によるのであり、すなわちそれが消費者によって購買される前により多くの労働がその生産及び運送に投ぜられたが故に過ぎぬ。これは商業の持つ利益の一つとして挙げらるべきではない。この問題をより詳細に検討する時には、商業の有つ全利益は結局、それがより大なる価値ある物でなくより有用なる物をば獲得するの手段を与えることに、帰することが、見出されるであろう。
 長い平和の後の戦争の開始または長い戦争の後の平和の開始は、一般に貿易上に大きな困苦を惹起す。それは諸国のそれぞれの資本が以前に投ぜられていた職業の性質を大なる程度に変化せしめ、そして資本が新しい諸事情が最も有利ならしめた地位に落着きつつある期間内は、多くの固定資本は用いられず、おそらくは全然失われ、そして労働者は十分の職業を得ない。この困苦の期間は、大抵の人がその長く慣れ来った資本用途を棄てるに当って感ずる嫌気の念の強さに応じて、長くも短くもあるであろう。それはまたしばしば、商業界における諸国家の間に広く存在する不合理な嫉妬が惹起す制限や禁止によって、長引かされるのである。
(九三)貿易の激変から起る困苦は、しばしば、国民資本の減少や社会の退歩的状態に伴う所のそれと、誤られる。そして、これらのものを明確に区別するある標識を指示することは、おそらく困難であろう。
 しかしながら、かかる困苦が戦争から平和への変化に直ちに随伴する時には、吾々はかかる原因の存在を知っているから、労働の維持のための基金が大いに害されたというよりはむしろ、その平常の通路から他に転ぜしめられたのであり、そして一時的の苦痛の後には国民は再び繁栄に向うものであると信ずるのをもって、合理的なりとするであろう。退歩的状態は常に不自然な社会状態であるということもまた記憶しなければならない。人は青年から壮年になり、次いで衰え、そして死ぬ。しかしそれは国民の発達過程ではない。最大活力の状態に達した時には、そのより以上の進歩は実際阻止されるかもしれないが、しかしその自然的傾向は、幾時代に亘り引続きその富と人口とを減少せしめずに維持するにあるのである。
 大なる資本が機械に投ぜられている富みかつ力強い国においては、それに比して極めてより少い分量の固定資本と極めてより多い分量の流動資本が存在しており従ってより多くの仕事が人間の労働によってなされる所の貧しい国におけるよりも、貿易上の激変によってより多くの苦痛が経験されるであろう。それが投ぜられているある職業から流動資本を引去ることは、それから固定資本を引去ることほどに困難ではない。ある製造品のために作られた機械を他の製造品のために向け換えることはしばしば不可能であるが、しかし一つの職業における労働者の衣服や食物や住居は、他の職業における労働者の支持にも当てられ得、すなわち同一の労働者が、その職業は変化しても同一の食物や衣服や住居を受け得るのである。しかしながら、このことは富める国の甘受すべき一害悪であり、そしてそれに不平を云うのは、あたかも富有な商人が、その貧しい隣人の小屋はあらゆるかかる危険から免れているのに彼れの船だけは海難の危険に曝されている、ということを悲しむと同様に、不合理であろう。
(九四)農業ですら、より劣れる程度でではあるが、この種の事故を免れることは出来ない。諸国間の通商を中絶せしめる商業国における戦争は、しばしば、穀物が僅小の費用で生産され得る国から、かかる有利な位置にない他の国へ輸出されることを妨げる。かかる事情の下においては、異常な資本量が農業に引去られ、そして以前の輸入国が外国の援助を失うに至る。戦争の終了と共に輸入に対する障害が除去され、そして国内耕作者にとって破滅的な競争がはじまり、この耕作者はこの競争から、その資本の大部分を犠牲にすることなくしては退き得ない。国家の最良の政策は、国内耕作者に漸次に彼れの資本を土地から引去る機会を与えるために、限られた年数の間、外国穀物の輸入に対して、時々減額されて行く租税を課することであろう(註)。かくの如くすれば国はその資本を最も有利に分配しているわけではなかろうが、しかしその国が蒙る一時的租税は、その資本の分配が輸入停止の際に食物の供給を得るに当り極めて役立った特定階級の利益になるであろう。もしも危急の時期におけるかかる努力が、困難の終了の際の破滅の危険を伴うならば、資本はかかる職業を忌避するであろう。資本の通常利潤の他に、農業者は、急激な穀物の流入によって蒙る危険に対して補償されることを期待するであろう。従って供給を最も必要とした季節における消費者にとっての価格は、啻に国内において穀物の栽培費の騰貴のみならず、更に資本のかかる使用が曝されている特殊の危険に対して、価格において彼が支払わなければならぬ保険料だけ高められるであろう。かくて低廉な穀物の輸入を許すことは、それが資本のいかなる犠牲を払ってなされるとも、国にとってより多くの富を生産することになるにもかかわらず、数年の間はそれに輸入税を課するのがおそらく望ましいであろう。
(註)大英百科全書の補遺の最終巻の『穀物条例と貿易』なる項目中に、次のような立派な提議と考察とがある。『もし吾々がある将来の時期に吾々の歩を旧に戻そうと思うならば、我国の貧弱な土壌の耕作から資本を引去ってそれをより有利な職業に投ずる時を与えんがために、漸次に逓減する関税率が採用さるべきであろう。外国穀物が無税で輸入されるべき価格は、その現在の限度たる八〇シリングから年々一クヲタアにつき四シリングまたは五シリング減少し、ついにそれが五〇シリングに達せしめらるべきであろう。その時には港は安全に開かれ、制限制度は永久に廃止され得るであろう。この幸福な事件が起った時には、自然を強いる必要はもはやなくなるであろう。国の資本と企業とは、我国の自然的地位や国民性や政治的制度によって、吾々の卓越に適当する産業部門に向けられるであろう。ポウランドの穀物及びカロライナの原棉は、バアミンガムの器物及びグラスゴウのモスリンと交換されるであろう。真正なる商業精神、すなわち永久的に諸国民の繁栄を確保する精神は、独占という暗い浅薄な政策とは全然両立し得ない。地球上の諸国民は、同一王国の諸地方に類する、――自由にして束縛されざる交通が、そのいずれにおいても全般的並びに地方的な利益を齎すものである。』この全論文は極めて注目に値する。それは極めて教示に富み、上手に書かれ、そして、筆者がこの問題に完全に精通していることを示している。
 地代の問題を検討するに当って、吾々は、穀物の供給の増加と、その結果たるその価格の下落とのあるごとに、資本がより貧弱な土地から引去られ、そして当該時に、何らの地代も支払わないより良い種類の土地が、穀物の自然価格を左右する標準になるということを、見出した。一クヲタアにつき四ポンドならば、より劣等な質の土地――第六等地と名附けよう――が耕作されるであろう。三ポンド一〇シリングならば第五等地、三ポンドならば第四等地が耕作され、以下これに準ずる。もし穀物が、永久的豊富の結果として、三ポンド一〇シリングに下落するならば、第六等地に投ぜられた資本は、投ぜられなくなるであろう。けだし、たとえ地代を支払わなくとも、それが一般利潤を取得し得るのは、穀物が四ポンドの時に限られるからである。従って資本は引去られ、それをもって、第六等地で栽培された穀物総量が購買され輸入されるべき貨物の製造に向けられるであろう。その資本はかかる用途において、その所有者に必然的により生産的であろう。しからざればそれは他の用途から引去られないであろう。けだし、もし彼が、その製造した貨物をもって穀物を購買することにより、彼が何らの地代を支払わない土地から得た以上の穀物を取得し得ないならば、その価格は四ポンド以下にはなり得ないからである。
 しかしながら、資本は土地から引去られ得ず、それは土地から必然的に分離し得ない施肥、囲墻、灌漑等の如き、囘収し得ない支出形態をとっている、と云われ来っている。これは、ある程度において真実である。しかし牛、羊、乾草及び穀物の禾堆いなむら、荷車等から成る資本は引去られ得る。そして、穀価の低廉なるにもかかわらずこれらの物が引続き土地に使用さるべきか、またはこれらの物が売却されてその価値がある他の職業に移さるべきかは、常に計算上の問題となるのである。
 しかしながら、事実は上述の如くであり、いかなる資本部分も引去られ得ないと仮定しよう(註)。農業者は引続き穀物を生産し、しかもいかなる価格でそれが売れようともまさに同一分量を生産するであろう。けだし、より少く生産することは彼れの利益で有り得ず、またもしその資本をかくの如く用いないならば、彼はそれから全く報酬を取得しないからである。穀物は輸入され得ないであろう、けだし彼はそれを全然売らないよりもむしろそれを三ポンド一〇シリング以下で売ろうと思うであろうし、しかも仮定によれば、輸入業者はこの価格以下でそれを売り得ないからである。かくしてこの質の土地を耕した農業者は疑いもなく彼らの生産する貨物の交換価値の下落によって損害を受けるとはいえ、――この国はそれによりいかにして影響されるであろうか? 吾々はあらゆる貨物の同一量を有っているはずであるが、しかし粗生生産物と穀物とは極めてより低廉な価格で売れるであろう。一国の資本はその国の貨物から成り、そしてこれらのものは以前と同一であろうから、再生産は同一の速度で進むであろう。しかしながら、この穀価の低廉は、当該時に何らの地代も支払っていない第五等地に、単に資本の通常利潤を与えるに過ぎず、そしてすべてのそれ以上の土地の地代は下落するであろう。労賃もまた下落し、そして利潤は騰貴するであろう。
(註)土地に固定されるに至った資本はいかなるものも、借地期限の満了の時には必然的に地主のものでなければならず借地人のものではない。地主がその土地を再び賃貸する際にこの資本に対して受ける所の報償はいかなるものも、地代の形において現われるであろう。しかし、もし一定の資本をもって、国内でこの土地で作られる以上の穀物が外国から取得され得るならば、いかなる地代も支払われないであろう。もし社会の事情が穀物の輸入を必要とし、そして一定の資本を用いて一、〇〇〇クヲタアが取得され得、かつまた同一額の資本を用いてこの土地が一、一〇〇クヲタアを産出するならば、一〇〇クヲタアは必然的に地代となるであろう。しかしもし一、二〇〇クヲタアが外国から得られるならば、この土地は廃耕されるであろう。けだしその場合にはそれは一般利潤率すら産出しないからである。しかし、土地に投ぜられた資本がいかに大であっても、このことは何らの不利益でもない。かかる資本は生産物を増大せしめる目的で費されたのである、――それが終局の目的であることを忘れてはならない。しからばその資本の半分の価値において下落しようとまたはたとえ皆無になろうと、それが生産物のより大なる年々の分量を取得し得るならば、それは社会にとっていかなる重要さを有ち得ようか? この場合において資本の損失を悲しむ者は、手段のために目的を犠牲にせんとするものである。
 穀価がいかに低く下落しようとも、もし資本が土地から移転され得ず、かつ需要が増加しないならば輸入は全く起らないであろう。けだし以前と同一量が国内において生産されるであろうからである。生産物分割が異り、そしてある階級は利益を受け他の階級は損害を受けるであろうとはいえ、生産総額はまさに同一であり、そして国民は全体としてより富みもせずより貧しくもならないであろう。
 しかし穀物の比較的低価から常に生ずる次の如き利益がある、――すなわち、現実の生産物の分割は、利潤なる名称の下に生産的階級に割当てられるものが増加し、地代なる名称の下に不生産的階級に割当てられるものが減少するに従って、労働の維持のための基金を増加する傾向が多くなるということ、これである。
 たとえ、資本が土地から引去られ得ずして、そこで使用されなければならず、しからざれば全然使用され得ないとしても、このことは真実である。しかし、もし資本の大部分が引去られ得るならば――明かに引去られ得たが――それが引去られるのは、それが元の処に留まらしめられるよりも、それから引去られる方がより多くの物を所有主に産出する場合に限られるであろう。それが引去られるのは、それが他の処で所有主にも公衆にもより生産的に使用され得る場合に限られるであろう。所有主は土地から引離し得ざる彼れの資本部分を抛棄することをがえんずるが、けだし彼は、この資本部分を抛棄しない場合よりも、引去り得る部分をもって、より多くの価値とより多量の粗生生産物とを取得し得るからである。彼れの場合は、多くの費用を投じてその工場に機械を据附すえつけたが、この機械が後に至って更に新発明によって非常に改良されたために、彼が製造した貨物の価値が著しく下落するに至った人の場合と、まさに同様である。彼が古い機械を抛棄し、そして古いもののすべての価値を失いながらより完全なるものを据附けるか、または引続き古いものの比較的弱い力を利用するかは、彼にとっては全然計算上の問題である。かかる事情の下において、それが古いものの価値を減少しまたは皆無にするという理由をもって、新しい機械の使用を断念せよと、誰が彼に勧告するであろうか? しかもこれが、穀物の輸入は農業者の資本中永久に土地に投ぜられた部分を減少しまたは皆無にするという理由をもって、その輸入を禁止せよと吾々に望む人々の議論なのである。彼らは、すべての通商の目的は生産を増加するにあり、かつ生産を増加することによってたとえ部分的損失は惹起されるにしても、一般的幸福は増加されるということを、知らないのである。彼らは、首尾一貫せんがためには、農業及び製造業におけるすべての改良及びすべての機械発明を阻止すべく努むべきである。けだしこれらの物は一般的豊富従ってまた一般的幸福に寄与するとはいえ、それはその採用の瞬間において、農業者及び製造業者の現存資本の一部分の価値を必ず減少または皆無ならしめるからである(註)。
(註)穀物の輸入制限の不得策を論ずる著作物中の最も優れたものの中に入れるべきは、トランズ大佐の『対外穀物貿易論』である。彼れの議論は未だ反駁されず、かつ反駁し得ないように、私には思われる。
 農業は、他のすべての事業と同様にそして特に商業国においては、強い一刺戟を有つ作用に続いて反対の方向に起る反作用を蒙るものである。かくて、戦争が穀物の輸入を妨げる時には、その結果たるその高き価格は、農業への資本投下が与える大なる利潤のために、資本を土地に牽附ひきつける。このことはおそらくその国の需要が必要とする以上の資本を用いしめ、それ以上の粗生生産物を市場に齎しめるであろう。かかる場合においては、穀価は供給過剰の結果下落し、そして平均的需要と等しくされるまでは多くの農業上の困苦が生み出されるであろう。
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    第二十章 価値及び富、両者の特性

(九五)アダム・スミスは曰く、『人は、彼が人生の必要品、便利品、及び娯楽品を享受することを得る程度に従って、富みまたは貧しいのである。』(編者註)
(編者註)第一巻、第五章(訳者註――キャナン版、第一巻、三二頁、ただし原文には『あらゆる人は、云々』とある。)
 しからば、価値は本質的に富と異る、けだし価値は生産の量に依存するものではなくその難易に依存するからである。製造業における一百万人の労働は、常に同一の価値を生産するであろうが、しかし必ずしも同一の富を生産しはしないであろう。機械の発明により、熟練の進歩により、より良き分業により、またはより有利な交換がなされ得べき新市場の発見によって、一百万の人々は、、一つの社会状態において、他の状態において生産し得るであろう所の二倍または三倍の富を、すなわち『必要品、便利品、及び娯楽品』を生産し得るであろうが、しかし彼らはその故に価値に何物かを附加するということはないであろう、けだしあらゆる物は、それを生産する難易に比例して、換言すればその生産に用いられる労働量に比例して、価値において騰貴しまたは下落するのであるが故である。一定の資本をもって、一定数の人間の労働が一、〇〇〇足の靴下を生産していたと仮定し、そして機械の発明によって同一数の人間が二、〇〇〇足の靴下を生産することを得、または彼らは引続き一、〇〇〇足の靴下も生産し得かつ五〇〇箇の帽子を余分に生産し得ると仮定すれば、二、〇〇〇足の靴下の価値、または一、〇〇〇足の靴下と五〇〇箇の帽子との価値は、機械の採用以前における一、〇〇〇足の靴下の価値以上でも以下でもないであろう、けだしそれらは同一量の労働の生産物であるからである。しかし貨物の総量の価値はそれにもかかわらず減少されるであろう、けだし、たとえ改良の結果増加された生産物量の価値は、何らの改良も起らなかった場合に生産されていたであろう所のより少い分量が有っていた価値と正確に同一であろうとはいえ、その改良以前に製造された所のなお未だ消費されない部分の財貨にもまた、影響が及ぶからである。それらの財貨は、いちいち、改良のすべての便益の下で生産された財貨の水準にまで下落しなければならぬから、その価値は下落するであろう。そして社会は、貨物の分量が増加されたにもかかわらず、その富が増大されその享楽資料が増大されたにもかかわらず、より少量の価値しか有たぬであろう。不断に生産の便宜を増加せしめることによって、吾々は啻に国富を増加せしめるのみならず更に将来の生産力を増加せしめているとはいえ、吾々は、同一の手段によって、不断に、以前に生産された貨物のあるものの価値を減少せしめるのである。経済学上の誤謬の多くは、この問題に関する誤謬、すなわち富の増加と価値の増加とをもって同じことを意味すると考えることから、また何が、価値の標準尺度を成すかについての根拠なき観念から、生じたものである。
(九六)ある人は貨幣をもって価値の一標準と考えている。そして彼によれば、一国民は、その有するすべての種類の貨物と交換され得る貨幣量の多少に比例して、富みまたは貧しくなるのである。他のものは、貨幣をもって交換の目的のための極めて便利な一媒介物ではあるが、しかしそれによって他物の価値を測定する適当な一尺度とは云えないとする。彼らによれば、価値の真実の尺度は穀物であり(註一)、そして一国は、その国の貨物と交換される穀物の多少に従って、富みまたは貧しいのである(註二)。更に他のものは、一国はそれが購買し得る労働量に従って富みまたは貧しいと考える。しかし何故なにゆえに金や穀物や労働は、石炭や鉄以上に、――毛織布や石鹸や蝋燭やその他の労働者の必要品以上に、――価値に標準尺度となるべきであるか? ――略言すれば、何故なにゆえにある貨物もしくはすべての貨物全体が、それ自身が価値において変動を蒙るのに、この標準となるべきであるか? 穀物は金と同じく生産の難易によって他物に比して一〇%、二〇%、または三〇%変動し得よう。何故なにゆえに吾々は、変動したのはこれらの他物であって、穀物ではない、と常に言わねばならぬのか? 常にその生産に骨折と労働との同一の犠牲を必要とする貨物のみが不変なのである。吾々はかかる貨物の存在を知らない。しかし吾々は、それを知っているかの如くに仮設的にそれについて論じてよかろう。そして在来採用され来ったすべての標準が絶対的に無能力なことを明確に示すことによって、斯学に関する吾々の知識を進めることが出来るであろう。しかし、これらのもののいずれかが価値の正しい標準であると仮定しても、しかもなお、富は価値に依存するものではないから、それは富の標準とはならないであろう。人は、彼が支配し得る必要品及び奢侈品の多少によって富みまたは貧しいのである。そしてその貨幣や穀物や労働に対する交換価値が高かろうと低かろうと、それらのものは等しくその所有者の享楽に寄与するであろう。貨物、すなわち人生の必要品、便宜品、及び享楽品の分量を減少することによって富を増加し得ると主張され来ったのは、価値と富との観念の混乱の結果である。もし価値が富の尺度であるならば、このことは否定し得ないが、けだし貨物の価値は稀少によって騰貴するからである。しかしもしアダム・スミスが正しいならば、もし富は必要品及び享楽品から成るならば、富は分量の減少によっては増加され得ないものである。
(註一)アダム・スミスは曰く、『貨物及び労働の真実価格と名目価格との間の区別は、単なる思弁上の事柄ではなく、時に実際上に極めて有用であろう。』私は彼に同意する。しかし労働及び貨物の真実価値は、アダム・スミスのいわゆる真実尺度たる所の財貨で測られた価格によって確められないことは、それが、彼のいわゆる名目尺度たる所の金及び銀で測られた価格によって確定されないのと同様である。労働者は、彼れの労賃が多量の労働の生産物を購買する場合にのみ、彼れの労働に対し真実に高い価格を支払われているのである。
(註二)その第一巻一〇八頁において、セイ氏は、『同一分量の銀は同一分量の穀物をを購買するであろうから、』銀は今日ルイ十四世の治下におけると同一の価値を有つと推論している。
 稀少なる貨物を所有する人は、もしそれによって人生の必要品及び享楽品のより多くを支配し得るならば、より富んでいることは、真実である。しかし、各人の富の源泉たる一般的貯財は、ある個人が自分自身により多量を占有し得るに比例して必然的に減少しなければならない。
 ロウダアデイル卿は曰く、水をして稀少ならしめ一個人に独占的に所有せしめるならば水は価値を有つであろうから、彼れの富は増加されるであろうし、またもし国富が個人の富の総計であるならば、同一の手段によって国民の富も増加されるであろう、と。疑いもなくこの個人の富は増加されるであろうが、しかし、単に以前には無償で得ていた水を得んがために、農業者は彼れの穀物の一部分を、靴製造業者は彼れの靴の一部分を売らなければならず、そしてすべての人は、彼らの所有物の一部分を抛棄しなければならないから、彼らはこの目的に当てざるを得ぬ貨物の全量だけより貧しくなり、そして水の所有者は彼らの損失の額だけ利益するのである。全社会は同一量の水と同一量の諸貨物とを得ているが、しかしそれらの物の分配は変っているのである。しかしながら、これは水の稀少よりはむしろその独占を仮定しているのである。もしそれが稀少であるならば、その国及び個々人は、その一享楽品の一部分を奪われるから、その富は実際減少するであろう。農業者は、啻に彼に取って必要または望ましい他の貨物に対して交換すべき穀物を有つことより少いのみならず、更に彼及び他のあらゆる個々人はその愉楽品中の最も欠くべからざるものの一つの享楽を削減されるであろう。啻に富の分配が異るに至るのみならず、また富が実際に失われるであろう。
 しからば、すべての生活の必要品及び愉楽品の正しく同一量を所有する二国については、この二国は等しく富んでいると云い得ようが、しかしその各々の富の価値は、その生産の比較的難易によって定まるであろう。けだしもし一箇の改良された機械が、吾々をして労働を追加することなくして、一足ではなく二足の靴下を製造し得せしめるならば、一ヤアルの毛織布と交換して、二倍の分量が与えられるであろうからである。もし同様の改良が毛織布の製造においても行われるならば、靴下と毛織布とは以前と同一の比例で交換されるが、しかしこれら両者は価値において下落しているであろう。けだしこれを帽子や金やその他の一般貨物と交換するに当っては、以前の二倍量が与えられなければならぬからである。金その他のすべての貨物の生産にも改良を及ぼすならば、これらのものはすべてその以前の比例に復するであろう。二倍量の貨物が年々この国において生産されており、従って国の富は二倍となるであろうが、しかしこの富の価値は増加していないであろう。
 アダム・スミスは、私が一再ならず指摘した富の正しい説明を与えたにもかかわらず、彼は後にこれを異って説明し、次の如く言っている、『人は、彼が購買し得る労働量に応じて、富みまたは貧しくなければならぬ。』さてこの説明は前のものと本質的に異り、そして確かに正しくない。けだし、鉱山がより生産的になり、ために金や銀がその生産の便宜の増大によって価値が下落すると仮定するならば、または天鵞絨ビロードが以前よりも遥かにより少い労働をもって製造されるに至り、ためにそれがその以前の価値の半分に下落すると仮定するならば、これらの貨物を購買したすべての者の富は増加されるからである。ある人は彼の皿の分量を増加し、他の人は二倍の分量の天鵞絨ビロードを購買するであろう。しかし、この附加せられた皿や天鵞絨ビロードを得ても、彼らは以前と同一の労働しか用い得ないであろう。けだし天鵞絨ビロードや皿の交換価値が下落するにつれて、彼らは一日の労働を購買するためにこの種の富をそれに比例してより多く手離さなければならぬからである。富はかくて、それが購買し得る労働量によっては測定され得ないのである。
(九七)前述せる所からして、一国の富は二つの方法で増加され得べきことが分るであろう。すなわちそれは、より大なる部分の収入を生産的労働の維持に用いることによって増加され得よう、――これは、啻に貨物の総体の量を増加するのみならず、更にその価値をも増加するであろう。もしくはそれは、附加的労働量を用いることなしに同一量をより生産的ならしめることによって増加され得よう、――これは貨物の量を増加するであろうが、その価値は増加しないであろう。
 第一の場合においては、一国は、啻に富んで来るのみならず、更にその富の価値も増加するであろう。それは節倹により、すなわち奢侈や享楽の対象物に対するその支出を減少することにより、そしてこれらの貯蓄を再生産に用いることにより、富んで来るであろう。
 第二の場合においては、必ずしも、奢侈品及び享楽品に対する支出の減少も、用いられる生産的労働量の増加もなく、同一の労働をもってより多くのものが生産されるであろう。富は増加するが価値は増加しないであろう。富を増加せしめるこれら二つの方法のうち、後者は、第一の方法には必ず伴わざるを得ない享楽品の欠乏及び減少なしに同一の結果を挙げる故に、それを選ばなければならぬ。資本とは、一国の富のうち、将来の生産を目的として用いられる部分であり、そして富と同一の方法で増加せられ得る。附加的資本とは、それが技術及び機械の改良によって得られようとも、またはより多くの収入を再生産的に用いることによって得られようとも、将来の富の生産には等しく有効であろう。富は常に生産された貨物の分量に依存し、生産に使用される器具を獲得することの難易とは何らの関係も有たないからである。一定量の衣服及び食料品は、それが一〇〇名の労働によって生産されたのであろうと二〇〇名のそれによって生産されたものであろうとに論なく、常に同数の人間を維持し雇傭し、従って同一量の仕事をなさしめるであろう。しかしそれらの物は、もしその生産に二〇〇名が用いられたのであるならば、二倍の価値を有つであろう。
(九八)セイ氏は、彼れの著『経済学』の第四版すなわち最近の版において訂正をなしたにもかかわらず、富と価値とに関するその定義は極めて誤っているように私には思われる。彼はこれら二つの語は同義であり、そして人は彼れの所有物の価値を増加し、多量の貨物を支配し得るに至るにつれて、富むと考えている。彼は曰く、『しからば所得の価値はもしそれが生産物のより大なる分量を――いかなる方法によろうとそれは重要ではないが――獲得し得るならば、その時に増加される。』セイ氏によれば、もし毛織布を生産する困難が二倍となり、その結果毛織布はそれと以前に交換された貨物の二倍量と交換されるに至るならば、その価値は二倍となるのである。これに対して私は全然同意する。しかし、もし諸貨物の生産にある特別な便宜があり、そして毛織布の生産は何らの困難の増加もなく、従って毛織布は前と同様に、二倍量の諸貨物と交換されるに至るならば、セイ氏は依然毛織布の価値は二倍となったというであろうが、しかるにこの問題に対する私の見解によれば、彼は、毛織布はその以前の価値を保ち、それらの特定の貨物が以前の価値の半分に下落したというべきである。セイ氏が、生産の便宜により、以前に一袋の穀物を生産したと同一の手段によって二袋のそれが生産され、従って各袋は以前の価値の半分に下落するであろうといいながら、しかも彼が、二袋の穀物と毛織布を交換する毛織布製造業者は、彼がその毛織布と交換して単に一袋の穀物を得たに過ぎなかった時の二倍の価値を取得するであろう、と主張する時に、彼は自家撞着に陥っているのでなければならぬ。もし二袋が以前の一袋の価値を有つならば、彼は明かに同一の価値を取得するに過ぎない、――もちろん彼は富の二倍量――効用の二倍量――アダム・スミスのいわゆる使用価値の二倍量を得るのであるが、しかし価値の二倍量を得るのではない。従ってセイ氏が価値、富、及び効用を同義語と考えているのは正当であり得ない。もちろんセイ氏の著書には、価値及び富の本質的差異について私が主張している学説を支持するために、安んじて引用し得る多くの部分があるが、しかし反対の学説が主張されている色々な他の章句もあることを、云わなければならない。私はこれらの諸章句を調和せしめることが出来ない。さればセイ氏がその著作の将来の版で、これらの考察に注意されるが如き場合には、私と同じく他の多くの人々が、彼れの見解を解釈せんと努めるに当って感ずる困難を、一掃するが如き説明を与えられんがために、私はこれらの章句を互に対照せしめてこれを指摘しておく。
一、二つの生産物の交換においては、吾々は単に事実上それらを創造するに役立った生産的勤労を交換しているに過ぎない。…………五〇四頁。
二、生産費から生ずるもの以外に真実の高価ということはない。真実に高価な物は、生産に多くを費されるものである。…………四九七頁。
三、一生産物を創造するために消費されなければならぬすべての生産的勤労の価値が、その生産物の生産費を構成する。…………五〇五頁。
四、一貨物に対する需要を決定するものは効用であるが、しかしその需要の範囲を限定するものはその生産費である。その効用がその価値を生産費の水準にまで高めない時には、その物はそれに要した費用に値しない。それは、生産的勤労がそれ以上の価値を有つ一貨物の創造に使用され得べかりしことの一証拠である。生産的基金の所有者、すなわち、労働、資本、または土地を処分し得る人々は、絶えず生産費と生産されたものの価値とを比較することに、または同じことに帰着するが、種々なる貨物の価値を相互に比較することに従事している。けだし生産費は一生産物を形成するに当って消費される生産的勤労の価値に他ならず、そして一生産的勤労の価値はその結果たる貨物の価値に他ならないからである。かくて一貨物の価値、一生産的勤労の価値、生産費の価値はすべて、あらゆる物がその自然的過程に委ねられている時には、同様な価値である。
五、所得の価値は、もしそれが生産物のより大なる分量を(いかなる方法によろうとそれは重要ではないが)獲得し得るならば、その時に増加される。
六、価格は諸物の価値の尺度であり、そしてその価値はその効用の尺度である。第二巻…………四頁。
七、自由に行われた交換は、吾々のいる時、所、及び社会状態において、人々が、交換される諸物に付与する価値を示す。…………四六六頁。
八、生産するということは、一物の効用を与えまたは増加せしめることによって、またかくして、その第一原因たる所の、それに対する需要を作り出すことによって、価値を創造することである。第二巻…………四八七頁。
九、効用が創造されて、一生産物が構成される。その結果たる交換価値は、この効用の尺度、行われた生産の尺度、たるに過ぎない。…………四九〇頁。
一〇、一特定国の人民が一生産物に見出す効用は、彼らがそれに対して与える価格による他に評価され得ない。…………五〇二頁。
一一、この価格は、その物が人々の判断において有する効用の尺度であり、彼らがそれを消費することから得る満足の尺度である、けだしもし、それが費さしめる価格で、彼らにより大なる満足を与える一効用を彼らが取得し得るならば、彼らはこの効用を消費することをえらばないであろうから。…………五〇六頁。
一二、ある人が彼の処分せんと欲する貨物と交換に直ちに取得し得る他のすべての貨物の分量は、常に、一つの争い得ない価値である。…………第二巻、四頁。
 もし生産費から生ずるもの以外に真実の高価ということがないならば(二、を見よ)、一貨物の生産費が増加しない場合に、いかにしてその価値は騰貴すると言えるか?(五、を見よ)、そしてそれは単に低廉な一貨物のより多くと、その生産費が減少した一貨物のより多くと、それが交換されるからであるか? 私が一封度ポンドの金に対し、一封度ポンドの鉄に対して与える二、〇〇〇倍の毛織布を与える時には、このことは、私が鉄に付与する効用の二、〇〇〇倍を金に付与することを証明するか? 確かに否。このことは、セイ氏が認めている如くに(四、を見よ)、単に金の生産費が鉄の生産費の二、〇〇〇倍なることを証明するに過ぎない。もしこの二金属の生産費が同一であるならば、私は両者に対して同一の価格を与えるであろう。しかしもし効用が価値の尺度であるならば、おそらく私は鉄に対してより多くを与えるであろう。種々なる貨物の価値を左右するものは、『絶えず生産費と生産されたものの価値とを比較することに従事している所の、』(四、を見よ)生産者の競争である。かくてもし私が一塊のパンに対して一シリングを、一ギニイに対して二一シリングを与えても、それは、これが私の評価におけるこれらのものの効用の比較的尺度である、ということを証明するものではない。
 第四においてセイ氏は、私が価値に関して主張した学説をほとんど何らの変更もなく主張している。彼はそのいわゆる生産的勤労の中に、土地、資本、及び労働によって与えられた勤労を包含せしめているが、私のそれの中には、私は単に資本及び労働のみを包含せしめ、土地は全然除外している。吾々の差異は、地代に関する吾々の見解の異る所から起るのである。私は常に地代は部分的独占の結果であり、決して真実に価格を左右せず、むしろその結果であると考えている。たとえすべての地主が地代を抛棄しても、私は、土地において生産される貨物は低廉にはならないであろうという意見である、けだし、剰余生産物が資本の利潤を支払うに足るに過ぎないために、それに対し何らの地代も支払われずまたは支払われ得ない所の、土地において生産される同一貨物の一部分が、常にあるからである。
 結論を下せば、貨物の真実の豊富と低廉によってすべての消費者階級に生ずる利益を高く評価せんとすることは、私はあえて人後に落ちるものではないけれども、私は、一貨物の価値を、それと交換される他の諸貨物の分量によって評価することには、セイ氏に同意することは出来ない。私は、極めて著名な学者、デステュト・ドゥ・トラアシイと同意見であるが、彼は曰く、『ある一物を測るということは、吾々が比較の標準として、単位として、採用する所の同一物の確定量と、それを比較することである。一つの長さ、一つの重さ、一つの価値を測るということ、すなわちそれを確かめるということは、これらのものが、メートル、グラム、フラン、一言もって云えば同一種類の単位を、幾倍含んでいるかを発見することである。』フランと測らるべき物とが、双方に共通なある他の尺度に還元され得ざる限り、フランは単にそれでフラン貨幣が造られている同一金属の一分量に対する尺度である他は、何物に対しても価値の尺度ではない。このことはなされ得ると私は思うが、けだしこれらは共に労働の結果であるからであり、従って労働は、それによってその相対価値と同様にその真実価値が評価され得る共通の尺度である。これもまた、幸にしてデステュト・ドゥ・トラアシイ氏の意見のように思われる(註)。彼は曰く、『吾々の肉体的精神的能力のみが吾々の本来的富であることは確実であるから、それらの能力の使用すなわちある種の労働が、吾々の唯一の本来的宝であり、そして吾々が富と呼ぶすべての物、すなわち最も必要なもの並びに最も純粋に快適なものが創造されるのは常にこの物の使用によってである。すべてのそれらの物のみがそれを創造した労働を代表するものであり、かつもしそれが一つの価値、または二つの別箇の価値をさえ有つならば、それらの物は、それが生ずる源たる労働の価値から得られ得るのみであるということもまた、確実である。』
(註)『観念学要論』、第四巻、九九頁――この書物において、ドゥ・トラアシイ氏は、経済学の一般原理に関する有用にしてかつ優れた論述をなしている、そして私は、彼が、彼れの権威をもって、『価値』、『富』及び『効用』なる言葉につきセイ氏が与えた定義を支持していることを、附記せざるを得ないのを、遺憾とするものである。
 セイ氏は、アダム・スミスの大著の長所及び短所を論ずるに当って、『彼が人間の労働のみに、価値を生産する力を帰している』ことを、誤謬であるとして彼を非難している。『より正しい分析によれば、価値が、労働の活動またはむしろ人間の勤労と、並びに自然が提供する諸要素の活動及び資本の活動に、よるものなることが、吾々にわかる。彼はこの原理を知らなかったために、彼は富の生産における機械の影響に関する真の理論を樹立し得なかったのである。』
 アダム・スミスの意見とは反対に、セイ氏は第四章において、時に人間の労働に代位されまた時には生産において人間と協力する所の、太陽、空気、気圧の如き、自然的要素によって貨物に与えられる価値について論じている(註)。しかしこれらの自然的要素は、貨物の使用価値を増加することは大であるとはいえ、いまセイ氏が論じつつある交換価値を決して増加せしめるものではない。機械の助力によりまたは自然科学の知識により、自然的要素をして以前に人間がなしていた仕事をなさしめるに至るや否や、かかる製品の交換価値はそれに従って下落する。もし十名の人が磨穀器を廻していたとし、そして風か水の助力によってこの十名の人間の労働が節約され得ることが見出されたならば、一部分磨穀器によってなされる仕事の生産物たる麦粉の価値は、節約された労働量に比例して直ちに下落するであろう。そしてこの十名の維持に向けられた基金は毫も害されていないから、社会は彼らの労働が生産し得べき貨物だけより富むこととなるであろう。セイ氏は常に、使用価値と交換価値との間にある本質的差異を看過しているのである。
(註)『金属を火によって熔解する方法を知った最初の人は、この過程によって、熔解された金属に附加される価値の創造者ではない。その価値は、この知識を利用した人々の資本及び勤労に附加せられた火の物理的作用の結果である。』
『この誤謬よりしてスミスは、すべての生産物の価値は、近時または往時の労働を代表する、または換言すれば富は蓄積された労働に他ならない、という誤った結論を引出したが、このことからして同様に誤った第二の推論によって労働は富または生産物の価値の唯一の尺度である、という結論を引出している。』セイ氏が結論としたこの推論は、彼自身のものであってスミス博士のものではない。もし価値と富との間に何らの区別もなされないのであるならば、これは正しい、そしてセイ氏はこの章句において何らの区別もしていないのである。しかし富をもって、生活の必要品、便利品、及び享楽品の豊富より成ると定義したアダム・スミスは、機械及び自然的要素が一国の富を極めて増加せしめることを認めたとはいえ、彼は、それがかかる富の価値を幾らかでも増加せしめるということは、認めはしなかったであろう。
 セイ氏は、すべての物の価値は人間の労働から得られると考えたために自然的要素及び機械によって貨物に与えられる価値を看過したといって、スミス博士を非難している。しかしこの非難が当っているとは思われない。けだしアダム・スミスはどこにおいてもこれらの自然的要素及び機械が吾々のためになす奉仕を過小評価してはおらず、ただ極めて正当に、それが貨物に附加する価値の性質を明かに区別しているのであるからである、――それは、生産物の分量を増加し、人間をより富ましめ、使用価値を附加することによって、吾々に役立つ。しかし、それはその仕事を無償でなすから、空気や熱や水の使用に対しては何物も支払われないから、それが吾々に与える助力は交換価値には何物をも附加しないのである。
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    第二十一章 利潤及び利子に及ぼす蓄積の影響

(九九)資本の利潤について与えられ来った説明からすれば、労賃の騰貴に対するある永続的原因がない限り、資本の蓄積は決して永続的に利潤を下落せしめないことが分るであろう。もし労働の維持のための基金が二倍、三倍、または四倍になっても、この基金によって雇傭さるべき必要な人数を得る困難は長くはないであろう。しかし国の食物を絶えず増加して行く困難が逓増して行くために、同一の価値を有つ基金はおそらく同一量の労働を維持しないであろう。もし労働者の必要品が常に同じく容易に増加され得るならば、資本がいかなる額まで蓄積されようとも、利潤率または労賃率には何らの永続的変動も起り得ないであろう。しかしながらアダム・スミスは、利潤下落の原因を一様に資本の蓄積及びその結果として起る競争に帰し、附加資本が用うべき労働者の附加数に対して食物を供給する困難が逓増することについて論及したことはかつてない。彼は曰く、『労賃を騰貴せしめる資本の増加は利潤を下落せしめる傾向がある。多くの富裕な商人の資本が同一の事業に向けられるときは、彼らの相互の競争は当然その利潤を下落せしめる傾向がある。そして同一の社会の中で営まれているすべての各様の事業において同様の資本の増加がある時には、同一の競争はそのすべての事業において同一の結果を生み出さなければならぬ。』アダム・スミスはここで労賃の騰貴について論じているが、しかしそれは、人口が増加する前に基金が増加することから起る所の一時的の騰貴についてである。そして彼は、資本によってなさるべき仕事が同一の比例で増加されることを、見ていないようである。しかしながらセイ氏は、需要は単に生産によって限定されているに過ぎないから、一国において用いられ得ない資本の額はないということを最も十分に説明したのである。
(一〇〇)消費または売却せんとする目的なくして生産するものはない。そして直接彼に有用でありまたは将来の生産に寄与し得るある他の貨物を購買せんとする意図なくしては、人は決して売却しない。しからば、彼は、生産することによって、必然的に、彼自身の財貨の消費者となるか、またはある他人の財貨を、購買し消費するものとなるかである。他の財貨を所有するという彼れの目的を達するために、彼が最も有利に生産し得る貨物について、長い間十分の知識を有っていないということは、想像し得ない。従ってそれに対して需要の無い貨物を彼が引続き生産することはおそらくないであろう(註)。
(註)アダム・スミスはオランダを論じて、資本の蓄積とその結果あらゆる資本を有ち過ぎることによる利潤下落の一例を与えるものとしている。『そこでは政府は二%で借り、信用多き私人は三%で借りる。』しかしオランダは、それが消費するほとんどすべての穀物を輸入せざるを得ず、そして労働者の必要品に重税を課することによってこの国は労働の労賃を更に騰貴せしめた、ということを記憶しなければならない。かかる事実は、オランダにおける利潤率の低いことを十分に説明するであろう。
 しからば、必要品騰貴の結果として、蓄積に対する動機がなくなるほど労働が騰貴し従って資本の利潤が極めてわずかしか残らないようになるまでは、生産的に使用され得ないほどの資本額が一国において蓄積されることは有り得ない(註一)。資本の利潤が高い間は、人は蓄積せんとする動機を有つであろう。人が満足されぬ熱望を有つ間は、彼はより多くの貨物に対して需要を有つであろう、そして彼がそれと引換に提供すべき何らかの新しい価値を有っている間は、それは有効需要であろう。もし年々一〇〇、〇〇〇ポンドを得ている人に一〇、〇〇〇ポンドが与えられるならば、それを金庫にしまわずに、彼は、一〇、〇〇〇ポンドだけその支出を増加するか、それを自分自身で生産的に用いるか、または同じ目的のためにそれを他人に貸付けるであろう。そのいずれの場合においても、需要は異る物に向けられるけれども、需要は増加するであろう。もし彼が支出を増加するならば、その有効需要はおそらく、建物、什器、またはこれに類する享楽品に向うであろう。もし彼が一〇、〇〇〇ポンドを生産的に用いるならば、その有効需要は、新しい労働者を働かしむべき食物、衣服、及び粗生原料品に向うであろうが、しかしそれも依然として需要である(註二)。
(註一)次の語はセイ氏の原理と全く一致するであろうか? ――『自由にし得る資本が、それに対する用途の範囲に比較して豊富であればあるほど、資本の貸付に対する利子率は下落するであろう。』――第二巻、一〇八頁。もし資本がいかなる範囲にまでも一国によって用いられ得るならば、それに対する用途の範囲に比較してそれが豊富であるとは、どうして言われ得よう?
(註二)アダム・スミスは曰く、『ある特定産業部門の生産物が、その国の需要が必要とする所を超過するならば、剰余は海外に送られ、国内において需要のある何らかの物と交換されなければならない。かかる輸出なくしてはその国の生産的労働の一部分は停止しなければならずそしてその年々の生産物の価値は減少しなければならない。大英国の土地及び労働は、内国市場の需要が必要とする以上穀物や羊毛や鉄器を一般に生産する。従ってそれらの物の剰余部分は海外に送られ、そして国内において需要のある所の何らかの物と交換されなければならない。この剰余が、それを生産する労働と費用とを償うに足る価値を獲得し得るのは、かかる輸出の手段によってのみである。』人は上記の章句からして、アダム・スミスは、吾々は穀物や羊毛品や鉄器の剰余を生産しなければならぬのであり、そしてそれを生産する資本はそれ以外には用いられ得ないと結論したものと、考えるに至るかもしれない。しかしながら、資本がいかに使用されるかは常に選択の問題であり、従って、長い間に亘っては、ある貨物の剰余は決してあり得ない。けだしもしそれがあるならば、それはその自然価格以下に下落し、そして資本はより有利な職業に移転されるからである。生産された財貨が、その価格によってはその生産費と市場への運送費との全部――通常利潤を含む――を償わない所の職業から、移転せんとする資本の傾向を、スミス博士よりもより十分にかつ見事に説明した論者はない。第一篇、第十五章を見よ。
 生産物は常に生産物または勤労によって購買され、貨幣は単に交換が行われる媒介物に過ぎない。ある特定貨物が余りに生産され過ぎて、それに投ぜられた資本を償い得ないようなその供給過剰が市場に起り得よう。しかしすべての貨物に関してはかかることは起り得ない。穀物に対する需要はそれを食うべき口の数によって限定され、靴や上衣に対する需要はそれを着用する人の数によって限定される。しかし社会がまたは社会の一部分が、自ら消費し得または自ら消費せんと欲する程度の穀物量及び帽子や靴の数を有つことは有り得ても、自然または人為によって生産されるあらゆる貨物については同一のことは言い得ない。ある人々はもし葡萄酒を手に入れる資力があるならばそれをより多く消費するであろう。十分の葡萄酒を有っている他の人々は、その什器の分量を増加しまたはその品質を改善せんことを希望するであろう。他の人々は、その土地を飾り、またはその家屋を大きくしようと希望するであろう。これらのことの全部または一部をなしたいとの願望はあらゆる人の胸に植え付けられている。必要とされているのはその能力のみであり、そして生産の増加以外にはこの能力を与え得ない。もし私が自由に処分し得る食物及び必要品を有っているならば、私はまもなく、私に最も有用なまたは最も望ましい物の若干を所有せしめる労働者を手に入れることであろう。
 かかる生産物の増加及びこれに伴って惹起される需要が利潤を下落せしめるか否かは、もっぱら労賃の騰貴に依存する。そして労賃の騰貴はある限られた期間を除けば、労働者の食物その他の必要品を生産する難易に依存する。私はある限られた期間を除けばと言うが、それはけだし、労働者の供給は、常に終局的には、彼らを支持する手段に比例するということよりもより十分に樹立された点はないからである。
 食物の価格が低い場合の資本の蓄積が利潤の下落を伴い得る唯一の場合があるが、それは一時的であろう。そしてそれは労働の維持のための基金が人口よりも極めてより速かに増加する場合である。――その時には労賃は高く利潤は低いであろう。もしあらゆる人が奢侈品の使用を止め、蓄積のみを心がけるならば、直接的消費物たり得ない多量の必要品が生産されるであろう。数において極めて限定されている貨物についてすら疑いもなく普遍的供給過剰が起り得、従ってかかる貨物の追加量に対する需要も有り得ず、またより以上の資本の使用に対する利潤も有り得ないであろう。もし人々が消費することを止めるとすれば、彼らは生産することを止めるであろう。このことの承認は一般的原理を疑うゆえんではない。例えば英国の如き国においては、国の全資本及び労働を必要品のみの生産に向けようとする志向が起り得ると想像することは困難である。
(一〇一)商人がその資本を外国貿易や運送業に用いるのは、常に選択の結果であって、止むを得ずなすのではない。すなわち、それは彼らの利潤が、内国商業よりもこの事業の方が幾分多いからである。
 アダム・スミスは正当にも曰く、『食物に対する欲望は、あらゆる人間において、人類の胃の狭い受容力によって限定されているが、しかし建物や衣服や馬車や家具の如き便利品及び装飾品に対する欲望は、限度または一定の境界を有たないように思われる。』かくて自然はいかなる時にも農業に有利に用いられ得る資本額を必然的に限定したが、しかしそれは生活の『便利品及び装飾品』を獲得する上に用いられ得る資本額には、何らの制限も置かなかったのである。これらの満足を最も豊富に得ることが当面の目的であり、そして人々が、必要とする貨物やその代用品を国内において製造せずして外国貿易や運送業に従事するのは、それがこの目的をよりよく成就するからである。しかしながら、もし特殊な事情によって、資本を外国貿易や運送業に用いることを阻まれるならば、吾々は、その利益は減少しても、その資本を国内で用いるであろう。そして『建物や衣服や馬車や家具の如き便利品、装飾品』に対する欲望に何らの限度もない間は、それを生産すべき労働者を維持すべき吾々の力を束縛するものを除けば、その獲得に用いらるべき資本には何らの限界も有り得ないのである。
 しかしながら、アダム・スミスは、運送業を論じて選択的のものではなく止むを得ないものであるとし、あたかもそれに用いられている資本は、それに用いられない場合には、無能力になるかの如くに、あたかも内国商業における資本は、量を限定されない場合には、流出し得るかの如くに、論じている。彼は曰く、『ある国の資本貯財が、特定国の消費額の供給に及び生産労働の支持にそれがすべて使用し尽されないほどに増加される時は、その剰余部分は当然に運送業に注ぎ込まれ、そして同じ任務を他の国々に対してはたすに用いられる。』
『約九万六千ホグスヘッドの煙草たばこが、年々英国産業の剰余生産物の一部分で購買される。しかし大英国の需要はおそらく一万四千ホグスヘッド以上を必要としない。従ってもし残りの八万二千ホグスヘッドが、海外に送り出されて国内においてより需要のあるある物と交換され得ないならば、その輸入は直ちに止み、そしてそれと共にこの八万二千ホグスヘッドの煙草を年々購買すべき財貨の製造に現在用いられている大英国のすべての住民の生産的労働は止むであろう。』しかし大英国の生産的労働のこの部分は、国内においてより需要のあるある物を購買すべき何らかの他の種類の財貨の生産に用いられ得ないであろうか? そしてもしそれがなし得ないならば、吾々はその利益は減少するが、この生産労働を、国内において需要がある財貨の製造に、または少くともその何らかの代用品の製造に、用い得ないであろうか? もし吾々が天鵞絨ビロードを欲するならば、吾々は天鵞絨ビロードの製造を企て得ないであろうか、そしてもし吾々がそれをなし得ないならば、吾々は、より多くの毛織布、または吾々に望ましい何らかの他の物を製造し得ないであろうか?
 吾々は貨物を製造しそれをもって外国で財貨を購買するが、それは国内で造り得るよりもより多量を取得し得るからである。吾々がこの貿易を奪われるならば、吾々は直ちに再び自らのために製造する。しかしこのアダム・スミスの意見は、この問題に関する彼れのすべての一般学説とは異っている。『もし一外国が一貨物を吾々に、吾々自身が造り得るよりもより低廉に供給し得るならば、吾々がある利益を得るような方法で用いられている吾々の勤労の生産物のある部分をもって、その国からそれを購買するにかず。一国の一般的勤労は常にそれを雇傭する資本に比例するから、かかることによっては減少されず、ただ最も有利に使用され得る方法を見出すに委ねられるであろう。』
 また曰く、『従って自ら消費し得る以上の食物を支配する得る者は、常に、その剰余または同じことであるがその価格を、喜んで他の種類の欲望充足品と交換せんとしている。限定された欲望を充たした以上の余分は、到底充足され得ずかつ全く無限であるように思われる欲望の娯楽のために与えられる。貧民は食物を得んがために、富者のかかる嗜好を充すべく努力し、しかもそれをより確実に取得せんがために、彼らは互にその仕事の低廉と完全において競うのである。労働者の数は、食物量の増加すなわち土地の改良及び耕作の発展と共に増加する。そして彼らの業務の性質は極度の分業を許すから、彼らが仕上げ得る原料の分量は彼らの数以上の比例で増加する。従って人間の発明によって有用的にかまたは装飾的に建物や衣服や馬車や家具に用い得る所のあらゆる種類の原料に対する需要が起り、土殻中に包蔵される化石や鉱石、貴金属及び宝石に対する需要が起るのである。』
 かくてこれらの事柄を承認すれば、需要には限度がなく、――資本が何らかの利潤を生み出している間は、資本の使用には限度がなく――かつ資本がいかに豊富になっても、労賃の騰貴の他には利潤の下落に対する相当の理由はない、ということになり、更に、労賃騰貴の唯一の適当かつ永続的な原因は、増加しつつある労働者数に対して食物及び必要品を支給する困難の逓増であると、附加し得よう。
(一〇二)アダム・スミスは正当に、資本の利潤率を決定することは極めて困難であると述べた。『利潤は非常に変動しつつあり、ために、一職業においてさえ、また諸職業一般においてはなおいっそう、その平均率を述べることは困難であろう。それが以前に、または遠く隔った時期に、どれほどであったかを、少しでも正確に判断することは、全く不可能でなければならぬ。』しかも、貨幣の使用によって多くの収得が得られる時には、それに対して多くのものが与えられるべきことは明かであるから、彼は曰く、『市場利子率は吾々を導いて利潤率に関するある観念を構成せしめ、そして利子の発達史は、吾々に利潤の発達史を与えるであろう。』もしある長い時期に亘って市場利子率が正確に知られ得るならば、吾々は利潤の発達を測るかなりに正確な標準を得るはずである。
 しかしすべての国において誤れる政策観念から、国家は法定率以上を得るすべての人々に荷重なかつ破滅的な罰金を課して、公平自由なる市場率に干渉を加え来った。すべての国において、これらの法律はおそらくくぐられているであろうが、しかし記録は、この点に関してほとんど何事も教えず、利子の市場率よりもはむしろその法定率を指示している。現時の戦争の間に、大蔵省証券及び海軍省証券割引率が極めて高く、ためにしばしばその購買者に、その貨幣に対し七、八%またはそれ以上の利率を与えた。政府は公債を六%以上の利子で募り、そして個人はしばしば間接に、貨幣の利子として一〇%以上のものを支払わざるを得なかったが、しかも同じ期間中に法定率はあまねく五%であったのである。かくて固定的な法定率が市場率とかくも甚しく乖離し得ることを吾々が見出す以上、正確な知識を得るためには、固定的な法定率にはほとんど頼り得ぬものである。アダム・スミスはヘンリ八世の第三七年からジェイムズ一世の第二一年に至るまで、法定利率は引続き一〇%であったと吾々に告げている。王政復古後まもなくそれは六%に、そしてアンの第一二年の法律によってそれは五%に引下げられた。彼は、法定率は市場率に追従しそれに先行しはしなかったと考えている。アメリカ戦争の以前には政府は三%で起債し、そしてこの王国の首府その他多くの地方の信用ある人々は、三・五、四、また四・五%で借入れたのである。
(一〇三)利子率は、窮極的にかつ永続的には利潤率によって支配されるとはいえ、しかも他の諸原因による一時的変動を蒙る。貨幣の分量と価値の変動ごとに貨物の価値は当然変動する。それはまた、吾々の既に証明した如くに、たとえ生産の難易の増減が起らなくとも、供給の需要に対する比例の変動によって変動する。財貨の市場価格が、供給の増加、需要の減少、または貨幣価値の騰貴によって下落する時には、製造業者は、完成貨物を極めて下落せる価格で売ることを喜ばないから、当然その異常な分量を蓄積する。彼れの通常の支払をなすためには、在来はその財貨の売却によってこの支払をなして来たのであるが、今や彼は信用借をなさんと努め、そしてしばしば騰貴せる利子率を与えざるを得なくなる。しかしこれは一時的に過ぎない。けだしこの製造業者の予期に十分な根拠があり、そしてその貨物の市場価格が騰貴するか、または彼が永続的に減少した需要しかないことを見出してもはや事物の成行に抵抗しなくなるからである。価格は下落しそして貨幣と利子は再びその真実価格を囘復するであろう。もし新しい鉱山の発見、銀行の濫用、その他の何らかの原因によって貨幣の分量が大いに増加するならば、その窮極の結果は、貨幣の増加量に比例して貨物の価格を騰貴せしめることである。しかしその間におそらく常に中間期があり、その間利子率にある影響が生み出されるであろう。
 公債の価格は、利子率を判定すべき鞏固きょうこな標準ではない。戦時においては、株式市場は政府の間断なき公債を極めて多く負担するために、公債の価格は、新たな起債が行われるまでにその正当な水準に落着く暇がなく、またはそれは政治的事件の予想によって影響を蒙る。これに反して、平時においては、減債基金の作用、特定階級の人々がその資金を今まで慣れて来ており、安全と思われかつそこではその利子が最も規則的に支払われる所の職業以外のものに向け変えることについて感ずる嫌忌心が、公債の価格を引上げ、従ってかかる有価証券に対する利子率を一般市場率以下に引下げる。政府が異る有価証券に極めて異る利率を支払っていることも注意すべきである。五分利公債での一〇〇ポンドの資本が九五ポンドで売れている時に、一〇〇ポンドの大蔵省証券は時に一〇〇ポンド五シリングで売れるであろうが、この大蔵省証券に対しては、年々四ポンド一一シリング三ペンス以上の利子は支払われないのである。かくてこれらの有価証券の一方は購買者に上記の価格で五・四分の一%以上の利子を支払い、他方は四・四分の一%をほとんど越えない利子を支払うのみである。一定量のかかる大蔵省証券を銀行業者は安全なかつ売口のよい投資物として要求する。もしそれがこの需要を遥かに越えて増発されるならば、それはおそらく五分利公債よりも常にそれに比例してより大なる価格で売れるであろう。けだし、そのいずれも負債元金は、額面価格、すなわち一〇〇ポンドの公債に対する一〇〇ポンドの貨幣以外のものでは、決して償還されないからである。市場利率は四%に下落するかもしれない。その時には政府は、もし五分利公債の所持者が四%または五%以下のある低い利率を得ることに同意しないならば、彼に額面価格で償還するであろう。市場利率が一年三%以下に下落するに至るまでは、彼らは、三分利公債の所持者にかくの如くして償還することによって何らの利益をも得ないであろう。国債の利子を支払うために多額の貨幣が一年に四囘数日間流通界から引去られる。かかる貨幣需要は単に一時的に過ぎないから、物価に影響することは稀である。それは一般に高い利子率を支払うことによって避けられるのである(註)。
(註)セイ氏は曰く『すべての種類の公債は、資本または資本のある部分を、これを消費に向けるために生産的用途から引き去るという不便を伴う。そしてそれが、その政府が大なる信頼の念を起さしめない国において行われる時には、それは資本の利子を騰貴せしめるという新たな不便を有つことになる。七%または八%の利子を支払うのを辞さぬ借手が見出され得る時に、誰が年五%で農業や製造業や商業に貸付ける気になるであろう? 資本の利潤と呼ばれている種類の所得は、その場合、消費者の負担において騰貴するであろう。消費は生産物の価格の騰貴によって低減されるであろう。そして他の生産的勤労の需要は減少し、その受ける支払は減少するであろう。資本家達を除く全国民が、かかる事態により害を受けるであろう。』『信用の少い借手が七%または八%を与えようとする時に、誰が年五%で農業者や製造業者や商人に貸付ける気になるであろう?』という問に対しては、私は、あらゆる慎重なかつ合理的な人はその気になるであろう、と答える。貸手が異常な危険を冒す所で利子率が七%または八%であるからということは、かかる危険から確保されている場合にもそれが等しく高くなければならぬことの理由になろうか? セイ氏は利潤率は利子率に依存することを認めているが、しかしこのことから利子率が利潤率に依存するということにはならない。一方は原因であり他方は結果である。そしていかなる事情も両者をしてその位置を変えしめ得ないものである。
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    第二十二章 輸出奨励金及び輸入禁止

(一〇四)穀物の輸出奨励金は外国消費者にとりその価格を低める傾向を有っているが、しかしそれは内国市場におけるその価格に対しては何らの永続的な影響も有たないものである。
 資本の通常かつ一般的な利潤を与えるためには、穀価が英国において一クヲタアにつき四ポンドであるべきであると仮定すれば、それは、一クヲタアにつき三ポンド一五シリングで売られている外国には輸出され得ないであろう。しかしもしも一クヲタアにつき一〇シリングの奨励金が輸出に対し与えられるならば、それは外国市場において三ポンド一〇シリングで売られることができ、従って、穀物栽培者は、それを外国市場で三ポンド一〇シリングで売ろうとまたは内国市場において四ポンドで売ろうと、同一の利潤を得るであろう。
 かくて英国穀物の価格を外国でその国の穀物生産費以下に低めるべき奨励金は、当然英国穀物に対する需要を拡張し、そして自国穀物に対する需要を減少せしめる。英国穀物に対するこの需要拡張は、一時内国市場においてその価格を高め、かつその期間中またこの奨励金が齎すべき傾向あるほどにそれが外国市場において下落することを妨げざるを得ない。しかし英国における穀物の市場価格にかくの如く作用する原因は、その自然価格またはその真実生産費には何らの影響をも及ぼさないであろう。穀物の栽培には、より多くの労働もまた、より多くの資本も必要とされず、従ってもし農業者の資本の利潤が以前には単に他の事業家の資本の利潤と等しいに過ぎなかったならば、それは価格の騰貴の後には、著しくそれ以上になるであろう。農業者の資本の利潤を騰貴せしめることにより、奨励金は農業に対する奨励として作用し、そして資本は、外国市場のための膨脹せる需要が供給されてしまうまでは、土地に用いられるために製造業から引き去られるであろうが、その時には穀価は内国市場において再びその自然価格、必要価格にまで下落し、利潤は再びその通常かつ慣習的な水準に下落するであろう。外国市場に影響を及ぼすこの穀物の供給増加は、またその輸出先の国の穀価を下落せしめ、そしてそれによって輸出業者の利潤を、彼が辛うじて取引をなし得る最低率に制限するであろう。
 しからば、穀物の輸出奨励金の窮極的結果は、内国市場における価格を騰落せしめることではなくて、外国消費者にとっての穀価を、――もし穀物の価格が以前に内国市場よりも外国市場においてより低くなかった場合にはこの奨励金の金額だけ――そしてもし内国市場の価格が外国市場の価格以上であった場合にはそれよりもより少い程度に、――下落せしめることである。
 エディンバラ評論の第五巻において穀物の輸出奨励金の問題を論じた一論者は、その外国及び内国の需要に対する影響を極めて明瞭に指摘している。彼はまた、それは輸出国における農業に刺戟を与えずにはおかないということを、正当に述べている。しかし彼はスミス博士及び思うに他の大抵の論者をこの問題に関し誤らせた共通の誤謬を鵜呑みにしているように思われる。彼は、穀物の価格は窮極的に労賃を左右するから、従ってそれはすべての他の貨物の価格を左右するであろうと想像している。彼は曰く、奨励金は、『農業の利潤を引上げることによって、耕作に対する刺戟として作用するであろう。国内の消費者達に対する穀価を騰貴せしめることによって、それはその間彼らの生活の必要品の購買力を減少し、かくて彼らの真実の富を削減するであろう。しかしながら、この最後の結果が一時的でなければならぬことは明かである。すなわち労働に従事する消費者の労賃は以前には競争によって調整されていたが、同じ原則は再び、労働の貨幣価格を、及びそれを通じて他の貨物のそれを穀物の貨幣価格にまで騰貴せしめることによって、労賃を同一の率に調整するであろう。従って輸出奨励金は窮極的には内国市場における穀物の貨幣価格を騰貴せしめるであろう。しかしながら、それは直接的にではなく、外国市場における需要の拡張と、その結果たる内国における真実価格の騰貴という媒介を通じてである。そしてこの貨幣価格の騰貴はそれがひとたび他の貨物に伝播された時にはもちろん固定的となるであろう。』
 しかしながら、もし私が、貨物の価格を騰貴せしめるものは労働の貨幣労賃ではなく、かかる騰貴は常に利潤に影響を及ぼすものである、ということを説明するに成功したとすれば、貨物の価格は奨励金の結果として騰貴するものではない、ということになるであろう。
 しかし、海外よりの需要増加によって生じた穀価の一時的騰貴は、労働の貨幣価格には何らの影響をも及ぼさないであろう。穀物の騰貴は、以前にはもっぱら内国市場に向けられていた供給に対する競争によって齎される。利潤の騰貴により附加的資本は農業に用いられ、増加せる供給が得られることになる。
 しかしそれが得られるまでは、消費を供給に比例せしめるために価格騰貴が絶対的に必要であるが、この騰貴は労賃の騰貴により相殺されるであろう。穀物の騰貴はその稀少の結果であり、そして国内購買者の需要が減少される方法である。もし労賃が騰貴するならば、競争は増加し、そして穀価のより以上の騰貴が必要となるであろう。奨励金の結果についてのこの記述において、穀物の市場価格が窮極的に支配される所のその他の自然価格を騰貴せしむべきものは何も起らないと仮定して来た。けだし一定の生産物を確保するためには土地である附加的労働が必要とされるとは仮定されなかったからであり、そしてこれのみがその自然価格を騰貴せしめ得るのである。もし毛織布の自然価格が一ヤアル二〇シリングであるならば、外国の需要の著しい増加は、その価格を二五シリングまたはそれ以上騰貴せしめるかもしれないが、しかしその時に毛織物製造業者の得る利潤は、資本をその方向に惹き附けずにはおかぬであろう、そして需要は二倍、三倍、あるいは四倍となっても、結局供給は得られ、毛織布は二〇シリングというその自然価格に下落するであろう。かくて、穀物の供給にあっても、年々吾々が二〇万、三〇万または八〇万クヲタアを輸出しても、それは窮極的に異れる労働量が生産に必要とならざる限り決して変化しない所のその自然価格において、生産されるであろう。
(一〇五)おそらく、アダム・スミスの正当に著名な著作のいかなる部分においても、奨励金に関する章におけるほどその結論が反対を容れ得るものはない。第一に彼は穀物をもって輸出奨励金によってその生産の増加され得ない貨物であるとしている。彼は常に、それは実際に生産された分量にのみ影響を及ぼし、より以上の生産に対しては何らの刺戟でもないと想像している。彼は曰く、『豊作の年には、異常な輸出を惹起すことによって、それは必然的に内国市場における穀価を、当然下落すべき点以上に保っておく。不作の年には、奨励金はしばしば停止されるとはいえ、しかも豊作の年にそれが惹起す大なる輸出のために、しばしばある年の豊作が他の年の不作を救済するのを多かれ少かれ妨げなければならぬ。従って不作の年にも豊作の年にも、奨励金は穀物の貨幣価格を国内市場で奨励金がなければそうであったであろう点よりもいくらか高く引上げるという、傾向を有っている。』(註)
(註)他の場所において彼は曰く、『奨励金によっていかなる外国市場の拡張が起り得ようとも、それは、あらゆる特定の年において、全然内国市場を犠牲にして行われるものでなければならぬ。けだし奨励金によって輸出されそして奨励金なくしては輸出されなかった穀物の全部は、その貨物の消費を増加しその価格を下落せしめるために内国市場に留まったであろうからである。穀物奨励金並びにあらゆる他の輸出奨励金は、国民に二つの異れる租税を課することを注意すべきである。第一に奨励金を支払うために国民が納付せざるを得ぬ租税であり、そして第二に内国市場におけるこの貨物の価格騰貴によって生じ、かつ国民全体が穀物の購買者である故に、この特定貨物において国民の全体が支払わなければならぬ所の租税である。従ってこの特定貨物にあっては、この第二の租税がこの二つのうち遥かに最も重いものである。』『従って第一の租税の支払のために彼らが納付する五シリングごとに、彼らは第二の租税の支払のために六ポンド四シリングを納付しなければならぬ。』『従って奨励金によって起る穀物の異常な輸出は啻にあらゆる特定の年において、それがちょうど外国の市場と消費を拡張するだけ、内国のそれを減少するのみならず、更に国の人口及び産業を制限することによって、その終局的傾向は内国市場の漸次的拡張を阻止し制限し、ひいては結局、穀物の全市場及び消費を増大するよりはむしろ減少せしめることである。』
 アダム・スミスは、彼れの議論の正否が、『穀物の貨幣価格の』騰貴が、『その貨物を農業者にとりより有利ならしめることによって、必ずしもその生産を刺戟するものではない』かどうかという事実に、全然依存することを、十分に知っているように思われる。
 彼は曰く、『もし奨励金の結果が、穀物の真実価格を騰貴せしめ、または農業者をして、その等量をもって、より多数の労働者を、それが豊富なると適度なるとまたは不十分なるとを問わず、他の労働者がその近隣で普通維持されていると同様に、維持し得せしめることであるならば、このことは起り得よう、と私は答える。』
 もし労働者により穀物を除いては何物も消費されず、またもし彼が受取る分前がその生存が必要とする最低限であるならば、多少の根拠があるであろう――しかし、労働の貨幣労賃は時に全然騰貴せず、また穀物の貨幣価格の騰貴に比例しては決して騰貴するものではない、けだし穀物は、労働者の消費物の一重要部分であるとはいえ、しかし単にその一部分に過ぎないからである。もし彼れの労賃の半ばが穀物に費され、他の半ばが石鹸、蝋燭、薪炭、茶、砂糖、衣服等の何らの騰貴も起らないと仮定されている貨物に費されるならば、小麦が一ブッシェルにつき一六シリングの時に彼がその一ブッシェルの支払を受けるのは、価格が一ブッシェルにつき八シリングの時に二ブッシェルの支払を受けるのと全く同様であり、または貨幣で二四シリングの支払を受けるのは、以前に一六シリングの支払を受けるのと同様であることは、明かである。彼れの労賃は、たとえ穀物が一〇〇%だけ騰貴しても、単に五〇%だけ騰貴するに過ぎないであろう。従ってもし他の職業に対する利潤が引続き以前と同一であるならば、より多くの資本を土地に転向せしめる十分の動機があるであろう。しかしかかる労賃の騰貴はまた、製造業者を促してその資本を製造業から引去って土地に用いるに至らしめるであろう。けだし農業者はその貨物の価格をば一〇〇%だけ増加し、そしてその支払う労賃をば五〇%だけ増加せしめたに過ぎないのに、製造業者もまた労賃を五〇%だけ引上げざるを得ず、他方彼は生産費の増加に対し、その製造貨物の騰貴の形で何らの補償も受けず、従って資本は製造業から農業へ流入し、ついに供給が再び、穀価を一ブッシェルにつき八シリングに、労賃を一週につき一六シリングに下落せしめるであろうが、その時には製造業者は農業者と同一の利潤を得、そして資本の流れはいずれの方向へも向わなくなるであろう。これが事実上、穀物の耕作が常に拡張せられかつ市場の増加せる欲望が供給せられる仕方である。労働の維持のための基金は増加し、労賃は騰貴する。労働者の安楽な境遇は彼を促して結婚せしめる、――人口は増加し、穀物に対する需要はその価格を他の物に比して騰貴せしめる、――より多くの資本が農業に有利に用いられかつ引続きそれに流入し、ついに供給が需要に等しくなり、その時に価格は再び下落し、農業及び製造業の利潤は再び等しくなるのである。
 しかし穀価の騰貴後に、労賃が静止的であったか、適度に増進したか、または著しく増進したかは、この問題にとり何ら重要ではない、けだし労賃は農業者と同様に製造業者によっても支払われ、従ってこの点において両者は穀価の騰貴によって等しい影響を受けるに違いないからである。しかし製造業者はその貨物を以前と同一の価格で売るのに、農業者はその貨物を騰貴せる価格で売る故に、彼らはその利潤においては不平等に影響を蒙る。しかしながら、常に資本を一つの用途から他の用途に移動せしめる誘因たるものは、利潤の不平等である。従って穀物の生産は増加し、貨物の製造は減少するであろう。諸製造品は騰貴しないであろうが、けだしその一供給が輸出穀物と引換えに得られるためにその製造が減少するからである。
 奨励金は、もし穀価を騰貴せしめるならば、それを他の貨物の価格と比較して騰貴せしめるか、あるいはしからざるかである。もしこの肯定が真実であるならば、穀価が豊富な供給によって再び下落するまでは、農業者のより大なる利潤及び資本の移動に対する誘引を否定することは不可能である。もしそれが他の貨物に比較してそれを騰貴せしめないならば、租税支払という不便の以上に、内国消費者に対する害がどこにあるか? もしも製造業者がその穀物により大なる価格を支払うならば、彼は、彼れの穀物がそれで窮極的に購買される所の自分の貨物をそれで売るそのより大なる価格によって、償われるであろう。
(一〇六)アダム・スミスの誤謬は、まさに、エディンバラ評論における論者のそれと同一の源泉から発している。けだしこの両者は、『穀物の貨幣価格がすべての他の国産貨物のそれを左右する』と考えているからである(註)。アダム・スミスは曰く、『それは労働の貨幣価格を左右する、そしてこの貨幣価格は常に、労働者をして、彼とその家族を、豊富にか適度にかまたはまたは乏しく、――社会の進歩的、停止的、または退歩的な諸事情のために彼れの雇傭者は彼をかように維持せざるを得ないのであるが、――維持するに足る分量の穀物を購買し得せしめるが如きものでなければならない。土地の粗生生産物の他のすべての部分の貨幣価格を左右することによって、それはほとんどすべての製造品の原料の貨幣価格を左右する。労働の貨幣価格を左右することによって、それは製造業技術と労働との貨幣価格を左右する。そして両者を左右することによって、それは完成製造品の貨幣価格を左右する。労働と土地か労働かの生産物たるあらゆる物との貨幣価格は必然的に穀物の貨幣価格に比例して騰落しなければならない。』
(註)同一の意見をセイ氏は主張している。第二巻、三三五頁。
 このアダム・スミスの意見を、私は前に反駁せんと企てた。貨物の価格の騰貴を穀価の騰貴の必然的結果と考えることにおいて、彼はあたかも、この増加せる費用を支払い得べき他の基金は存在しないが如くに考えている。利潤の減少は、貨物の価格を騰貴せしめることなくして、この基金を形造るのであるが、彼はこの利潤の考察を全然しなかった。もしこのスミス博士の意見が十分の根拠を有っているならば、利潤は、いかなる資本蓄積が起ろうとも決して真実には下落し得ないであろう。もし労賃が騰貴した時に、農業者がその穀価を引上げ得、かつ毛織物製造業者、帽子製造業者、靴製造業者、その他あらゆる製造業者もまた労賃の騰貴に比例してその財貨の価格を引上げ得るならば、貨幣で測ればすべて騰貴していようけれども、それは相互に相対的に引続き同一の価値を保有するであろう。これらの職業の各々は、以前の同一量の他のものの財貨を支配し得るであろうが、富を構成するものは財貨であり貨幣ではないのであるから、このことが彼らにとり重要なものたり得る唯一の事情である。そして粗生生産物及び財貨の価格の全騰貴は、その財産が金及び銀より成るか、またはその年々の所得が、地金の形においてであろうと貨幣の形においてであろうとかかる金属の確定量で支払われる人々を除く、他のいかなる人々にも有害ではないであろう。貨幣の使用が全然廃止され、すべての取引が物々交換によって行われると仮定しよう。かかる事情の下においては、穀物は他の物との交換価値において騰貴し得ようか? もし騰貴し得るならば、穀物の価値がすべての他の貨物の価値を左右するというのは真実でない。けだしそうあるためには、それらの物に対するその相対価値は変動してはならないからである。もし騰貴し得ないならば、穀物が、肥沃なまたは貧弱な土地において、多量のまたは少量の労働をもって、機械のたすけをもってまたはこれなくして得られようとも、それは常に等量の他のすべての貨物と交換されるということが、主張されなければならない。
 しかしながら、たとえアダム・スミスの一般的学説は私が今引用したばかりのものと一致するとはいえ、しかも彼れの著作の一箇所においては、彼は価値の性質につき正確な説明を与えているように思われることを、私は述べざるを得ない。彼は曰く、『金及び銀の価値と他のあらゆる種類の財貨のそれとの間の比例は、すべての場合において一定量の金及び銀を市場に齎すに必要な労価量と一定量の他のあらゆる種類の財貨をそこに齎すに必要なそれとの間の比例に依存する。』ここでは彼は、もし一種の財貨を齎すに必要な労価量にある増加が起ったのに、他方他の種類をそこへ齎すにはかかる増加が何ら起らないとすれば、第一の種類が相対価値において騰貴することを、十分に認めているではないか? もし毛織布か金かを市場に齎す以前と同一量の労働しか必要とされないならば、それらは相対価値において変動しないであろうが、しかしもし穀物及び靴を市場に齎すに必要な労働が増加するならば、穀物及び靴は、毛織布及び金で造られた貨幣に対して、その価値が騰貴しないであろうか?
(一〇七)アダム・スミスは、更に、奨励金の結果は、貨幣価値の部分的下落を惹起すにあると考えている。彼は曰く、『鉱山の肥沃度の結果であり、かつ商業世界の大部分を通じて平等にまたはほとんど平等に作用しているところの銀価の下落は、ある特定国にとっては、ほとんど問題にならない事柄である。その結果たるすべての貨幣価格の騰貴は、それを受取るところの者を真実により富ましめるものではないが、また彼らを真実により貧しからしめるものでもない。一式の器物が真実により低廉になり、そしてあらゆる他の物は、正確に以前と同一の真実価値を有っているのである。』この観察は最も正しい。
『しかし、一の特定国の特殊の位置かまたはその政治組織かの結果であるために、単にその国にのみ起った所の銀価の下落は、極めて重大な事柄であり、それは何人かを真実により富ましめる傾向を有つ所か、あらゆる者を真実により貧しからしめる傾向を有っている。この場合その国に特有なすべての貨物の貨幣価格の騰貴は、その国内で営まれるあらゆる種類の産業を多かれ少かれ阻害する傾向を有ち、また外国諸国民をして、ほとんどすべての財貨をそれ自身の労働者がなす余裕を有ち得るよりもより少量の銀に対して提供することによって、それを啻に外国市場においてのみならず内国市場においてすら下値に売り得せしめる傾向を有っている。』
 私は他の場所において、農業生産物と製造貨物とに影響を及ぼすべき貨幣価値の部分的下落は、おそらく永久的たり得ないことを、示さんと企てた。貨幣が部分的に下落すると言うのは、この意味において、すべての貨幣が高い価格にあると言うことである。しかし金及び銀が自由に最も低廉な市場において購買をなす間は、それは他国のより低廉な財貨を得るために輸出され、そしてその分量の減少は国内におけるその価値を増加せしめるであろう。貨物はその通常の水準に復帰し外国市場に適するものは以前の如くに輸出されるであろう。
 従って奨励金は思うにこの理由に基いては反対せられ得ないのである。
 しからばもし奨励金が他のすべての物に比して穀物の価値を騰貴せしめないならば、奨励金を支払うという不便以外には他のいかなる不便もそれに随伴しないであろうが、この不便は私は隠蔽しようとも過少評価しようとも欲しないのである。
(一〇八)スミス博士は曰く、『穀物の輸入に対する高い関税とその輸出にに対する奨励金を設けることによって、田舎紳士は製造業の行為を模倣したように見えた。』同一の手段によって、両者はその財貨の価値を引上げようと努めた。『彼らはおそらく、自然が穀物とほとんどすべての他の財貨との間に設けた大きなかつ本質的な差異に留意しなかったであろう。上記の手段のいずれかによって、我が製造業がそれなくしてその財貨に対して取得し得たよりもややより高い価格で売り得た時には、啻にそれらの財貨の名目価格のみならずその真実価格も引上げられる。啻にそれらの製造業者の利潤、富及び収入が名目的に増加するのみならず真実にも増加する。――それらの製造業者は真実に奨励を受けるのである。しかし同様な施設によって、穀物の名目価格すなわち貨幣価格が引上げられる時には、その真実価格は引上げられず、我が農業者または田舎紳士の真実の富は増加せられず、穀物の栽培は奨励を受けない。事物の自然は穀物に、単にその貨幣価格を変動せしめることによっては変動せしめられ得ない一つの真実価値を刻印した。世界全体を通じて、その価値は、それが維持し得る労働量に等しいのである。』
 私は既に、穀物の市場価格は、奨励金の結果需要が増加した場合には、必要な附加的供給が得られるまではその自然価格を超過し、またその時に至ればそれは再びその自然価格に下落するということを、説明せんと試みた。しかし穀物の自然価格は貨物の自然価格の如くに固定してはいない。けだし穀物に対してある大きな需要の増加があれば、一定量を生産するにより多くの労働が必要とされる劣等な品質の土地が耕作されなければならず、従って穀物の自然価格は騰貴するからである。従って穀物の輸出に対する継続的奨励金によって穀価の永久的騰貴の傾向が造られるであろうが、それは、私が他の場所で説明した如くに(註)、必ず地代を騰貴せしめるものである。かくて田舎紳士は、穀物輸入禁止及びその輸出に対する奨励金に、啻に一時的のみならずまた永久的の利益を有っているが、しかし製造業者は、貨物の輸入に対する高関税及びその輸出に対する奨励金を設けることに、何らの永久的な利益も有たない。彼らの利益は全然一時的である。
(註)地代についての章を参照。
 製造品の輸出に対する奨励金は疑いもなく、スミス博士の主張する如くに、製造品の市場価格を騰貴せしめるであろうが、しかしそれはその自然価格を騰貴せしめはせぬであろう。二〇〇人の労働は、一〇〇人が以前に生産し得たこれらの財貨の二倍を生産するであろう。従って、必要な資本量が必要な製造品量を供給するに用いられる時は、それは再びその自然価格にまで下落し、そして高い市場価格から生ずるすべての利益はなくなるであろう。かくて製造業者が高い利潤を得るのは、単に貨物の市場価格の騰貴後附加的供給が得られるまでの中間期間に限る。けだし価格が低落するや否やその利潤は一般水準にまで下落するであろうからである。
 従って私は、田舎紳士は穀物の輸入を禁止することに、製造業者が製造財貨の輸入を禁止することに有っているほどの大きな利益を有つものではない、というスミスの意見には同意せずして、彼らは遥かに優れた利益を有つものであると主張する。けだし製造業者の利益は単に一時的に過ぎないが、彼らの利益は永久的であるからである。スミス博士は、自然は穀物とその他の財貨との間に一つの大きなかつ本質的な差異を設けたと述べているが、しかしその事情からの正当な推理は、彼がそれから引出しているものの正反対である。けだし地代が創造されかつ田舎紳士が穀物の自然価格の騰貴に利益を有つのは、この差違によるからである。スミス博士は、製造業者の利益を田舎紳士の利益と比較せずにそれをその地主の利益とは極めて異るところの農業者の利益と比較すべきであった。製造業者はその貨物の自然価格の騰貴には何らの利益をも有たず、農業者もまた穀物またはその他の粗生生産物の自然価格の騰貴に何らの利益も有たないが、もっとも両階級はその生産物の市場価格が自然価格を超過している間は利益を受けるのである。これに反して地主は穀物の自然価格の騰貴に最も決定的な利益を有っている。けだし地代の騰貴は粗生生産物の生産の困難の不可避的結果であり、それなくしてはその自然価格は騰貴し得ないからである。さて穀物の輸出に対する奨励金と輸入の禁止とは需要を増加しそして吾々をしてより貧弱な土地の耕作をせしめるから、それは必然的に生産の困難の増加を惹起すのである。
 製造品または穀物の輸入に対する高い関税またはその輸出に対する奨励金の唯一の影響は、資本の一部分を、それを求めるのが当然ではない用途に移転せしめることである。それは社会の一般資金の有害な分配を惹起す、――それは製造業者をして比較的により不利な職業を開始せしめまたは継続せしめる。損失額は一般資本のより不利な分配によって埋合うめあわされているから、それが内国から奪い去るすべてのものを外国に与えない故にそれは最悪の課税である。かくて、もし穀物が英国では四ポンドでありフランスでは三ポンド一五シリングであるならば、一〇シリングの奨励金は、結局、それをフランスにおいて三ポンド一〇シリングに下落せしめ、英国において四ポンドなる同一価格に維持するであろう。輸出される毎クヲタアに対して英国は一〇シリング租税を支払う。フランスに輸入される毎クヲタアに対してフランスは単に五シリングを利得するに過ぎず、従って一クヲタアにつき五シリングの価値が、おそらく穀物ではなく何らかの他の必要品または享楽品の生産を減少せしめる如き資金の分配によって、絶対的に世界から失われるのである。
(一〇九)ビウキャナン氏は奨励金に関するスミス博士の議論の誤謬を認めたように思われ、私が引用した最後の章句について極めて思慮深く次の如く述べている。『自然は穀物に単にその貨幣価格を変動せしめることによっては変動せしめられ得ない真実の価値を刻印したと主張する場合、スミス博士はその使用価値をその交換価値と混同している。一ブッシェルの小麦は、豊富な時よりも稀少な時の方がより多数の奢侈品や便宜品と交換されるであろう。従って処分すべき食物の剰余を、穀物がより多量にある時よりも、より大なる価値の他の享楽品と交換するであろう。従ってもし奨励金は穀物の強制的輸出を惹起すとしても、それはまた真実の価格騰貴を惹起すことはないであろうと論ずるのは、無益である。』奨励金の問題のこの部分についてのビウキャナン氏の議論の全体は完全に明瞭でかつ十分であるように、私には思われる。
 しかしながら、ビウキャナン氏は思うに、スミス博士または『エディンバラ評論』の論者と同じく、労働の価格の騰貴が製造貨物に対して及ぼす影響について、正しい意見を有っていない。私が他の場所で述べた所の彼れの特殊な見解からして、彼は、労働の価格は穀物と何らの関聯も有たず、従って穀物の真実価値は労働の価格に影響せずに騰貴し得るしまた騰貴するであろう、と考えている。しかしもし労働が影響されるならば、彼は、アダム・スミス及び『エディンバラ評論』の論者とともに、製造貨物の価格もまた騰貴すると主張するであろう。そしてしかる時には、いかにして彼がかかる穀物の騰貴を貨幣価値の下落から区別し、またはいかにして彼がスミス博士の結論以外の何らかの他の結論に達し得るのであるかが、私には判らない。『諸国民の富』の第一巻二七六頁への一つの註の中においてビウキャナン氏は曰く、『しかし穀価は土地の粗生生産物のすべての他の部分の貨幣価格を左右しない。それは金属類の価格も石炭、木材、石材等の如き種々なる有用物の価格も左右しない。そしてそれは労働の価格を左右しないから、それは諸製造品の価格を左右しない。従って奨励金は、それが穀価を騰貴せしめる限りにおいて、疑いもなく農業者に対する真実の利益である。従ってこの根拠に立ってはその政策は論議さるべきではない。穀価を騰貴せしめることによる農業に対するその奨励は、認めなければならない。かくて問題は、農業はかくの如くして奨励さるべきであるか否か? ということになる。』――かくてそれはビウキャナン氏によれば、労働の価格を騰貴せしめないから、農業者に対する真実の利益である。しかしもしそれが騰貴せしめるならば、それはすべての物の価格をそれに比例して騰貴せしめるであろうが、しかる時には、それは農業に対して何らの特定の奨励を与えないであろう。
 しかしながら、何らかの貨物の輸出奨励金の傾向は、少しばかり貨幣価格を下落せしめるにあることを、認めなければならない。輸出を促進するものは何でも、一国に貨幣を蓄積する傾向があり、これに反して輸出を阻害するものは何でも、それを減少する傾向がある。課税の一般的影響は、課税貨物の価格を騰貴せしめることにより、輸出を減少し従って貨幣の流入を阻止する傾向があり、そして同一の原理によって奨励金は貨幣の流入を奨励するのである。このことは課税に対する一般的観察についてより十分に説明されてある。
 重商主義の有害な影響はスミス博士によって十分に暴露された。その主義の全目的は、貨物の価格を、外国の競争を禁止することによって内国市場において騰貴せしめることであった。しかしこの主義は、社会の他のいかなる部分よりも農業階級により有害であるわけではなかった。資本がしからざれば流入しなかった通路に強いて赴かしめることによって、それは生産される貨物の全量を減少せしめた、価格は永久的により高くなったけれども、それは稀少によってではなく、生産の困難によって支持されたのである。従って、かかる貨物の売手はそれをより高い価格で売ったけれども、彼らは、資本の必要量がその生産に用いられた後は、それをより高い利潤で売ったのではないのである(註)。
(註)セイ氏は、国内の製造業者の利益は一時的のもの以上であると想像している。『一定の外国財貨の輸入を絶対的に禁止する所の政府は、かかる貨物を国内において生産する者の利益になるように、これらを消費する者を犠牲として、独占を樹立するのである。換言すれば、それを生産する所の国内の者は、それを売却する排他的特権を有っているから、その価格を自然価格以上に引上げ得よう。そして国内の消費者は、それを他の場所で取得し得ないから、それをより高い価格で購買せざるを得ない。』第一巻、二〇一頁。
 しかし、彼らの同胞市民のあらゆる者がこの事業に入るのが自由である時に、いかに彼らはその財貨の市場価格を永久的にその自然価格以上に支持し得るか? 彼らは外国の競争に対しては保証されているが、内国の競争に対しては保証されていない。かかる独占――もしそれがこの名で呼ばれ得るならば、――からその国に生ずる真実の害悪は、かかる財貨の市場価格を騰貴せしめることにはなく、その真実価格、自然価格を騰貴せしめることにある。生産費を増加することによって、国の労働の一部分はより不生産的に用いられるのである。
 製造業者自身も消費者としてかかる貨幣に対して附加的価格を支払わねばならなかった。従って『両者(組合法及び外国貨物の輸入に対する高き関税)によって惹起される価格の昇騰しょうとうはどこでも結局、国の地主、農業者によって支払われる』というのは正しくあり得ない。
 外国穀物の輸入に対して同様の高い関税を課するために、今日紳士によってアダム・スミスの権威が引用されているから、この記述をなすのがいっそう必要となる。種々なる製造貨物の生産費従ってまた価格が、消費者に対し、商法上誤謬によって高められているから、我国は、正義を口実として、新たな誅求ちゅうきゅう黙従もくじゅうすることを求められ来ったのである。吾々はすべて吾々の亜麻布やモスリンや綿布に対して附加的価格を支払っているから、吾々は吾々の穀物に対しても附加的価格を支払うのが正当であると考えられている。世界の労働の一般的分配において、吾々は生産物の最大量が、その労働の吾々の分前により、製造貨物において、取得されることを妨げ来ったから、吾々は更に、粗生生産物の供給における一般的労働の生産力を減少せしめることによって、自らを所罰しょばつすべきであろう、と。誤れる政策が吾々を誘って採用せしめた誤謬を認め、そして直ちに普遍的貿易の健全な原理への徐々たる復帰を開始するのが、遥かにより賢明であろう(註)。
(註)『種々なる勤労生産物のすべて及びあらゆる社会の欲望に適する商品を豊富に有つ英国の如き国を、稀少の可能性から保証するには、貿易の自由が要求されるのみである。地球上の諸国民は、そのいずれが飢餓に服すべきかを決定するために骰子さいころを投ずるようには命ぜられてはいない。世界には常に豊富な食物がある。不断の豊饒を享受するためには、吾々はただ、吾々の禁止や制限を撤廃し、そして神の慈悲深き智慧に逆うことを止めさえすればよい。』大英百科全書補遺、『穀物条例と貿易』の項。
 セイ氏は曰く、『私は既に不適当にも貿易差額と呼ばれているものを論ずるに当って、もし貴金属を外国に輸出するのが何らかの他の財貨を輸出するよりも一商人の利益によりよく合するならば、国家はその市民を通じてのみ利得しまたは損失するのであるから、彼がそれを輸出することはまた国家の利益でもあり、そして外国貿易に関する事柄においては個人の利益に最もよく合するものがまた国家の利益にも最もよく合するのであり、従って個人が貴金属を輸出したいと思うのにそれに障害を作ったとて、それはただ彼らを強いて彼ら自身及び国家にとってより不利な何らかの他の貨物を代用せしめることとなるに過ぎぬということを、述べる機会を得た。しかしながら、私は外国貿易に関する事柄において言っているに過ぎないということが、注意されなければならぬ。けだし商人達が自国民との取引によって得る利潤は、植民地との排他的商業において得られるそれと同様に、国家にとっての利益では全くないからである。同一国の個人間の取引においては生産された効用の価値以外には何らの利得もない。』(註)第一巻、四〇一頁。私はここになされている内国商業の利潤と外国貿易の利潤との区別を了解し得ない。すべての商業の目的は生産物を増加することである。もし一樽の葡萄酒を購買するために、私は一〇〇日の労働の生産物の価値をもって買われる地金を輸出し得るが、しかし政府が、地金の輸出を禁止することによって、私に、一〇五日の労働の生産物の価値をもって買われる貨物をもって購買するを余儀なからしめるならば、五日の労働の生産物が私の、また私を通じて国家の、損失となるのである。しかしもしかかる取引が個人の間に同一国の異る地方において行われるならば、もし彼がそれをもって購買をなすべき貨物の選択につき全然束縛されないならば、個人、また個人を通じて国家の、両者に同一の利益が生じ、そしてもし政府により彼が最も不利益な貨物をもって購買をなすの余儀なきに至らされるならば、同一の不利益が生ずるであろう。もし製造業者が同一の資本をもって、石炭が稀少な処よりも石炭が豊富な処において、より多くの鉄を製し得るならば、国はその差額だけ利得するであろう。しかしもし石炭がどこにも豊富になく、そして彼が鉄を輸入し、そしてこの附加量を同一の資本及び労働をもってする貨物の製造によって取得し得るとすれば、同様に彼は鉄の附加量だけ自国を利するであろう。本書の第六章において私は、外国貿易であろうと内国商業であろうとすべての商業が有利であるのは、生産物の分量を増加せしめるからであり、生産物の価値を増加せしめるからではないということを、示さんと努めた。吾々が最も有利な内国商業及び外国貿易を営んでいようと、または禁止法によって束縛される結果として最も不利な商業をもって満足せざるを得なかろうと、吾々はより大なる価値を有たないであろう。利潤率と生産される価値とは同一であろう。その利益は常に、セイ氏が内国商業に限るものの如く思われる所のものと等しい。双方の場合において、生産された効用の価値ということ以外には何らの利得もないのである。
(註)次の章句は上に引用された章句と矛盾しないであろうか?『内国取引は(それは種々なる人の手にあるから)注意を惹くことはより少いとはいえ、最も重要である、ということの他に、それは最も有利でもある。内国取引において交換される貨物は必然的にその同じ国の生産物である。』[#「』」は底本では欠落]第一巻、八四頁。
『最も有利な販売は一国がそれ自身に対してなす販売であって、その理由は、それは二つの価値すなわち販売される価値とそれで購買がなされる価値とがその国民によって生産されることなくしては起り得ないからである、ということを、英国政府は観察しなかった。』第一巻、二二一頁。
 私は第二十六章においてこの意見の正当なるか否かを検討するであろう。
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    第二十三章 生産奨励金について

(一一〇)資本の利潤、土地及び労働の年々の生産物の分割、及び製造品と粗生生産物との相対価格について、私が樹立せんと努め来った諸原理の適用を観察せんがために、粗生生産物及びその他の貨物の生産に対する奨励金の影響を考察することは、無益ではないであろう。第一に穀物の生産に対する奨励金を与えるために政府の用うべき資本を調達する目的をもって、すべての貨物の租税が課せられたと仮定しよう。かかる租税のいかなる部分も政府によって費されないであろうし、また人民の一階級より受領されたすべては他の階級に返付されるであろうから、国民は全体としてはかかる租税と奨励金とによってより富みもせずより貧しくもならないであろう。この資金を作り出す所のすべての貨物に対する租税が、課税貨物の価格を騰貴せしむべきことは、直ちに認められるであろう。従ってかかる貨物の消費者はすべてこの資金に貢献するであろう。換言すれば、その自然価格または必要価格が高められるから、その市場価格もまた高められるであろう。しかしかかる貨物の自然価格が高められると同一の理由によって、穀物の自然価格は引下げられるであろう。生産に奨励金が支払われる以前には、農業者はその穀物に対し、その地代及び出費を償いかつ彼らに一般利潤を与えるに必要な価格を得たが、奨励金の支払以後は、彼らは、穀価が少くとも奨励金に等しい額だけ下落しない限り、この率以上を受取るであろう。かくてこの租税と奨励金との結果は、貨物の価格を賦課された租税に等しい程度に騰貴せしめ、そして穀価を支払われた奨励金に等しい額だけ下落せしめることにあろう。農業と製造業との資本の分配には何らの永久的変動は起り得ないということも見られるであろうが、けだし資本額にも人口にも何らの変動がないからパンや製造品に対して正確に同一の需要があるからである。農業者の利潤は穀価の下落後は、一般水準以上では決してなく、また製造業者の利潤も製造財貨の騰貴後は、それ以下ではないであろう。かくして奨励金は、穀物の生産に用いられる資本を増加せしめるという結果を齎さず、また財貨の製造に用いられる資本を減ぜしめるという結果をも齎さないであろう。しかし地主の利益はいかに影響されるであろうか? 粗生生産物に対する租税が土地の貨幣地代はそのままにしておいてその穀物地代を下落せしめるのと同一の原理に基いて、租税の正反対物たる生産奨励金は、貨幣地代はそのままにしておいて穀物地代を騰貴せしめるであろう(註)。地主は同一の貨幣地代をもって、その製造財貨に対してはより大なる価格を支払わねばならず、その穀物に対してはより小なる価格を支払わねばならず、従って、彼はおそらくより富みもせずまたより貧しくもならないであろう。
(註)一七二―一七三頁を参照。[#第九章冒頭部分(五六)のこと]
(一一一)さてかかる方策が労働の労賃に何らかの影響を及ぼすか否かは、労働者が、貨物を購買する際にこの奨励金の結果として彼がその食物の価格の下落という形で受取るだけのものを租税に対して支払うか否か、という問題に依存するであろう。もしもこれら二つの分量が等しいならば、労賃は引続き不変であろうが、しかしもし課税貨物が労働者の消費するものでないならば、その労賃は下落し、彼れの雇傭者はこの差額だけ利得するであろう。しかしこれは彼れの雇傭者にとって何らの真実の利益でもない。それはもちろん労賃のあらゆる下落の必然的作用と同様に、彼れの利潤率を増加せしむべく作用するであろう。しかし労働者がこの奨励金を支払いかつ――記憶すべきであるが――徴収されねばならぬ基金に対して貢献する度が少いほど、彼れの雇傭者の貢献する度は多くならなければならない。換言すれば、彼は、この奨励金とより高い利潤率との両者の結果として受取るべきものを、その支出によってこの租税に貢献するであろう。彼は、啻に彼自身の租税分担のみならず更に彼れの労働者のそれに対する彼れの支払を償うために、より高い利潤率を得る。彼がその労働者の分担額に対して受取る報償は労賃の低減の形で、または同じことであるが利潤の増加の形で、現われる。彼自身ののそれに対する報償は、この奨励金により生ずる所の彼が消費する穀価の下落の形で、現われるのである。
(一一二)ここで、穀物の真実労働価値すなわち自然価値の変動により利潤に対して齎される影響と、課税及び奨励金による貨物の相対価値の変動より利潤に対して齎される影響とを述べるのは、正当であろう。もし穀価がその労働価格における変動によって下落するならば、啻に資本の利潤率が変動するのみならず、資本家の境遇も改善されるであろう。より大なる利潤を得ながら彼は、それらの利潤をそれに費す目的物に対して、より多くを支払わねばならぬことはないであろうが、このことは、吾々が今見たように、下落が奨励金によって人為的に惹起された時には起らないのである。人間の消費の最も重要な目的物の一つを生産するにより少い労働が必要とされることから生ずる貨物の価値の真実の下落においては、労働はより生産的たらしめられている。同一の資本をもって同一の労働が雇傭され、そして諸生産物の増加がその結果である。かくて啻に利潤率が増加されるのみならず、それを取得する者の境遇も改善されるであろう。啻に各資本家がたとえ同一の貨幣資本を用いても、より大なる貨幣収入を得るのみならず、更に、その貨幣が支出される時には、それは彼により多額の貨物を齎し、彼れの享楽品は増大されるであろう。奨励金の場合には、彼が一貨物の下落によって得る利益を相殺すべく、ある他の貨物に対してそれに比例する以上の価格を支払うという不利益を有っている。彼は、このより高い価格を支払い得んがために、騰貴せる利潤率を得るのである。従って、彼れの真実の境遇は、たとえ悪化しないとしても、決して改善されない。彼はより高い利潤率を得るけれども、彼は国の土地及び労働の生産物のより多量を支配し得ない。穀物の価値の下落が自然的原因によって齎される時には、それは他の貨物の騰貴によって相殺されないが、これに反して、それはその製造に入り込む粗生原料品が下落するから下落するのである。しかし穀物の下落が人為的手段によって惹起される時には、それは常に何らかの他の貨物の価値の真実の騰貴によって相殺され、従ってもし穀物がより低廉に買われるならば、他の貨物はより高価に買われるのである。
 かくてこのことは、必要品に対する租税は労賃を高め利潤率を低める故にそれによっては何ら特別の不利益が生じないことの、もう一つの証拠である。もちろん利潤は下落するが、しかしそれは単に労働者の租税分担額に等しいのみであり、この租税負担額はとにかく、彼れの雇傭者か、または労働者の仕事の生産物の消費者かによって、支払われなければならないのである。雇傭者の収入から年々五〇ポンドが控除されようと、または彼が消費する貨物の価格が五〇ポンド高められようと、それは彼または社会に対し、すべての他の階級に平等に影響すべき影響以外のいかなる影響をも及ぼし得ない。もしその貨物の価格がそれだけ高められるならば、吝嗇家は消費しないことによって租税を避け得よう。もしそれだけが間接にあらゆる者の収入から控除されるならば、彼れはおおやけの負担に対するその正当な分前を支払うことを避け得ないのである。
 かくて穀物の生産奨励金は、穀物を相対的に低廉にし製造品を相対的に高価にするとはいえ、国の土地及び労働の年々の生産物には何ら真実の影響を及ぼさないであろう。
(一一三)しかし今、反対の方策が採られ、貨物の生産奨励金に対する資金を供給する目的をもって、穀物から租税が徴収されたと仮定しよう。
 かかる場合においては、穀物が高価となり諸貨物が低廉となるべきことは明かである。もしも労働者が穀物の高価なることによって損害を受けるだけを諸貨物の廉価なることによって利得するならば、労働は引続き同一価格にあるであろうが、しかしもし彼がそうならないならば、労賃は騰貴して利潤は下落し、他方貨幣地代は引続き以前と同一であろう。利潤が下落するのは、吾々が今説明したように、この下落によって労働者の租税分担額が労働の雇傭者によって支払われるのであるからである。労賃の騰貴によって、労働者は穀物の騰貴せる価格という形で支払う所の租税に対して補償されるであろう。彼れの労賃を製造貨物には少しも支出しないことによって、彼は奨励金を少しも受取らないであろう。奨励金はすべて雇傭者によって受取られ、また租税は一部分被傭者によって支払われるであろう。労働者には、彼らに課せられたこの増加に対して、労賃の形において、補償がなされ、かくして利潤率は下落するであろう。この場合にもまた、国民的影響は何ら齎さない所の複雑な方策があるわけであろう。
 この問題を考慮するに当って、吾々は故意に、外国貿易に対するかかる方策の影響を吾々の考慮の外に置いた。吾々はむしろ他国と全く商業的関係を有たない島国の場合を仮定して来た。吾々は、穀物及び諸貨物に対する国の需要は同一であろうから、この奨励金がいかなる方向を取ろうとも、資本を一つの職業から他のそれに移そうとする誘惑はないであろうということを見た。しかし、もし外国貿易がありしかもその貿易が自由であるならば、それはもはや事実ではなくなるであろう。諸貨物と穀物との相対価値を変更することによって、その自然価格に極めて有力な影響を及ぼすことによって、吾々はその自然価格が下落する貨物の輸出に有力な刺戟を与え、またその自然価格が騰貴する貨物の輸入に等しい刺戟を与えていることになるであろう、かくして、かかる財政方策は全く職業の自然分配を変更し、その結果は実に外国の利益となるが、しかしかかる不合理な政策を採用する国の破滅となるであろう。
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    第二十四章 土地の地代に関するアダム・スミスの学説

(一一四)アダム・スミスは曰く、『土地の生産物の中で、その通常価格がそれを市場に齎すに用いられなければならぬ資本並びにその通常利潤を償うに足る如き部分のみが、普通市場に齎され得る。もし通常価格がこれ以上であるならば、その剰余部分は当然に土地の地代に帰属するであろう。もしそれがこれ以上でないならばその貨物は市場に齎され得てもそれは地主に何らの地代をも与え得ない。価格がそれ以上であるかないかは、需要に依存する。』
 この章句は当然読者を導いて、この著者は地代の性質を誤解せず、そして彼は社会の必要がその耕作を要求する質の土地は、『その生産物の通常価格』に依存し『それが土地の耕作に用いられねばならぬ資本並びにその通常利潤を償うに足るか否か、に依存することを知っていたに相違ない、と結論せしめるであろう。
 しかし彼は、『土地の生産物中には、それに対する需要が常に、それを市場に齎すに足る程度よりもより大なる価格を生ぜしめるが如き大いさなければならぬある部分がある』という観念を採っており、そして彼は食物をもってかかる部分の一つと考えたのである。
 彼は曰く、『土地は、ほとんどいかなる位置にあっても、食物を市場に齎すに必要なすべての労働を、この労働がかつて維持されたことのないほど最も豊かに維持するに足るよりも、より多量の食物を生産するものである。その剰余もまた常に、その労働を雇傭する資本並びにその利潤を償うに足るよりもより多い。従って常に若干のものが地主に対する地代として残るのである。』
 しかしこれについて彼はいかなる証明を与えているか? ――次の主張以外にはない、すなわち『ノルウェイ及びスコットランドにおける最も不毛な沼地も家畜に対するある種類の牧草を生産するが、その牛乳及び繁殖は常に、啻に家畜を飼養するに必要なすべての労働を維持し、かつ農業者または牛群あるいは羊群の所有者に通常利潤を支払うのみならず、更に地主にあるわずかの地代を与えてなお余りがある。』さて私はこのことについて一つのうたがいを挟むことを許されるであろう。私は、今日でも最も未開のものから最も文明の進んだものに至るまでのあらゆる国において、土地に用いられた資本並びにその国の通常利潤を償うに足る価値を有つ生産物を産出し得ざるが如き質の土地があると信ずる。アメリカではこれが事実であることを吾々はすべて知っているが、しかもなお何人も、地代を左右する諸原理がアメリカとヨオロッパとで異っているとは主張しない。しかしもし英国が極めて耕作において進歩しているために、現在地代を与えない土地は少しも残っていないということが真実であっても、以前にはかかる土地が存在していたに相違ないということもまた同様に真実であろう。そしてそれが存在するか否かはこの問題にとって少しも需要ではない。けだしもし資本の囘収並びにその通常利潤しか産出しない土地において用いられる資本が大英国にあるならば、それが古い土地において用いられていようと新しい土地において用いられていようと同一であるからである。もし一農業者が七年または十四年の期限で借地を契約するならば、彼は現在の穀物及び粗生生産物の価格で、彼が支出せざるを得ぬ資本部分を囘収し、その地代を支払い、かつ一般利潤を取得し得るのを知っているから、一〇、〇〇〇ポンドの資本をそれに用いんと企て得よう。彼は最後の一、〇〇〇ポンドが資本の通常利潤を得られるほど生産的に用いられ得ない限り、一一、〇〇〇ポンドを用いることはしないであろう。彼れのこれを用いるか否かについての計算においては、彼は単に粗生生産物の価格がその出費と利潤を補償するに足るか否かを考察するに過ぎないが、それは彼は何らの附加的地代も支払う必要のないことを知っているからである。彼れの借地期限満了の際ですら、もし彼れの地主が、この一、〇〇〇ポンドの附加額が用いられたからといって地代を要求するならば、彼はこの附加額を引去るであろうから、彼れの地代は騰貴しないであろう。けだし仮定によれば、彼はそれを用いることによって、単に、何らかの他の資本の用途によって彼が取得し得る通常利潤を得るに過ぎないからである。従って粗生生産物の価格がより以上に騰貴しない限り、または同じことであるが、普通かつ一般的の利潤率が下落しない限り、彼はそれに対して地代を支払う余裕を有たぬのである。
(一一五)もしアダム・スミスの明敏さがこの事実に向けられていたならば、彼は、地代が粗生生産物の価格の構成部分の一つであるとは主張しなかったであろう。けだし価格はどこでも、それに対して何らの地代も支払われないこの最終資本部分によって得られる報酬によって左右されるからである。もし彼がこの原理に考え及んでいたならば、彼は鉱山の地代と土地の地代とを左右する所の法則に区別を設けはしなかったであろう。
 彼は曰く、『炭坑がある地代を与え得るか否かは、一部分はその肥沃度に、そして一部分はその位置に依存する。いかなる種類の鉱山も、一定量の労働によって――それから得られ得る鉱石量が、同一量の労働によって同一種類の他の鉱山の大部分から得られ得る所のもの以上であるか以下であるかに従って、肥沃であるとも貧弱であるとも言われよう。有利な位置にある若干の炭坑も貧弱であるために採掘され得ない。その生産物は出費を償わない。それは利潤もまた地代も与え得ない。その生産物が、辛うじて労働に支払をなしその通常利潤と共にその採掘に使用された資本を補償するに足る如き炭坑が若干ある。それはこの事業の企業者には若干の利潤を支払うが、しかし何らの地代をも地主に支払わない。それは、自分自身が企業者であるためにそれに用いる資本の通常利潤を得る地主以外の何人によっても、有利には採掘され得ない。スコットランドにおける多くの炭坑はかかる仕方で採掘されており、それ以外の仕方では採掘され得ない。地主は他の何人にも若干の地代を支払わずにそれを採掘することを許さないであろうし、また何人も少しでも地代を支払う余裕はないであろう。
『この同じ国の他の炭坑は、十分肥沃ではあるが、その位置のために採掘され得ない。採掘費を支弁するに足る鉱物量が、通常のまたは通常以下の労働量によって、その炭坑から採取され得ようが、しかし人口が稀薄であり、道路か水運かの無い内地地方においては、この分量が売捌うりさばかれ得ないであろう。』地代の全原理はここに見事にかつ明截めいせつに説明されており、そのあらゆる言葉は鉱山に対すると同様に土地に対しても適用され得る。しかも彼は主張する、『地上の地所においてはこれと異る。その生産物とその地代との両者の比例はその絶対的肥沃度に比例し、その相対的肥沃度には比例しない』と。しかし地代を与えない土地はないと仮定しよう。ある時は最劣等地に対する地代額は、資本の出費と資本の通常利潤を超過する生産物の価値とに、比例するであろう。かくて同一の原理がややより良い質を有ちまたはより有利な位置を有つ土地の地代を支配し、従ってこの土地の地代は、それよりも劣る土地の地代を、それが有つより優れた利益だけ超過するであろう。同一のことが第三等地の地代についても言い得、かくて最優等地に及ぶ。しからば、土地の地代として支払わるべき生産物部分を決定するものが土地の相対的肥沃度であるということは、鉱山の相対的肥沃度が鉱山地代として支払わるべきその生産物部分を決定するということと同様に、確実ではないか?
 アダム・スミスが採掘費並びに用いられた資本の通常利潤を支弁するに足るのみであるためその所有者が採掘する他ないような若干の鉱山がある、ということを明言した以上、吾々は、すべての鉱山生産物の価格を左右するものはかかる特定の鉱山であるということを彼が承認するものと予期すべきであろう。もし古い鉱山が、必要とされる石炭量を供給するに足りないならば、石炭の価格は騰貴し、そして、新しくかつより劣れる鉱山の所有者が、その鉱山の採掘によって資本の普通利潤を取得し得ることを見出すに至るまでは、それは騰貴し続けるであろう。もしその鉱山がかなり豊富であるならば、彼れの資本をかくの如く使用するのが自分の利益となるに至るまでは、騰貴ははなはだしくはないであろう。しかし、もしそれがかなり豊富でないならば、価格は、その出費と資本の通常利潤とを支払うに足るだけの金銭を彼に与えるに至るまで騰貴しなければならないことは、明かである。かくて石炭の価格を左右するものは常に最も貧弱な鉱山であることがわかる。しかしながら、アダム・スミスは違った意見も有っている。すなわち曰く、『最も肥沃な炭坑はまた、その近隣のすべての他の炭坑の炭価を左右する。この炭坑の所有者と企業者とは、彼らのすべての隣人よりも下値に売ることによって、前者は彼がより大なる地代を取得することが出来、後者は彼がより大なる利潤を取得することが出来ることを見出す。彼らの隣人は、そう容易にそれに堪え得ず、それは彼らの地代と利潤とを常に減少せしめまた時にはそれを全然無くしてしまうとはいえ、直ちにそれと同一の価値で売らざるを得なくなる。若干の鉱山は全然抛棄され、他のものは地代を与え得ず、そして単に所有者によって採掘され得るのみである。』もし石炭に対する需要が減少するならば、またはもし新行程によって分量が増加されるならば、価格は下落し若干の鉱山は抛棄されるであろう。しかしあらゆる場合において価格は、地代を課せられることなくして採掘される鉱山の出費と利潤とを支払うに足らなければならない。従って価格を左右するものは最も貧弱な鉱山である。もちろん他の箇所においてはアダム・スミスはそう述べている、けだし彼は曰く、『ある長い期間に石炭が売られ得る最低の価格は、他のすべての貨物と同様に、その通常利潤と共に、石炭を市場に齎すに用いられねばならぬ資本を辛うじて囘収するに足る価格である。地主が何らの地代を得ず、彼が自分で採掘するか、それを全然放置しておく他ない炭坑においては、炭価は一般にほぼこの価格に近接していなければならない。』
(一一六)しかし、同一の事情、すなわちいかなる原因から起るにしろ、何らの地代もなくまたは極めて僅少な地代しかない鉱山を抛棄せざるを得ざらしめる所の、石炭の豊富及びその結果たる低廉はもし粗生生産物が同じく豊富でありかつその結果として低廉であるならば、何らの地代もなくまたは極めて僅少な地代しかない土地の耕作を抛棄せざるを得ざらしめるであろう。例えばもし馬鈴薯が人民の一般のかつ普通の食物となるならば、――米がある国においてはそうである如くに――今日耕作されている土地の四分の一または二分の一はおそらく直ちに抛棄されるであろう。けだしもし、アダム・スミスの言う如くに、『一エーカアの馬鈴薯は固形食物六千封度ポンドすなわち一エーカアの小麦畑によって生産される分量の三倍を生産する』ならば、以前に小麦の耕作に用いられた土地において収穫され得た分量を消費するほどの人民の増加は、極めて長い間起り得ないからである。従って多くの土地は抛棄され地代は下落するであろう。そして同一分量の土地が耕作されそれに対して支払われる地代が以前の高さになり得るには、人口が二倍となりまたは三倍となることを要するであろう。
 総生産物が、三百人を養うべき馬鈴薯から成ろうと単に百人を養うに過ぎない小麦から成ろうと、そのあるより大なる比例が地主に支払われることはないであろう。けだしもし労働者の労賃が主として馬鈴薯の価格によって左右され小麦の価格によっては左右されないならば、生産費は大いに減少され従って労働者に支払った後の全総生産物の比例は大いに増加するであろうけれども、しかもその附加的比例のいかなる部分も地代とはならず、全体が常に利潤となるからである、――常に労賃が下落するにつれて騰貴しかつそれが騰貴するにつれて下落するのであろうから。小麦が耕作されようと、馬鈴薯が耕作されようと、地代は同一の原理によって支配されるであろう、――それは常に、同一の土地かまたは異る質の土地において、等量の資本をもって得られる生産物量の差違に等しく、従って、同一の質の土地が耕作されその相対的肥沃度または相対的便益に何らの変動も起らない間は、地代は総生産物に対して常に同一の比例を保つであろう。
 しかしながらアダム・スミスは、地主に帰する比例は生産費の減少によって増加し、従って地主の得る所は貧弱な生産物の場合よりも豊富な生産物の場合の方が、分量もより大であり割合もより大であろう、と主張している。彼は曰く、『米田は最も肥沃な麦畑よりも遥かにより多量の食物を生産する。毎年各々三十ブッシェルないし六十ブッシェルの二毛作が、一エーカアの通常の生産物であると云われている。従ってその耕作はより多くの労働を必要とするけれども、遥かにより多くの剰余がそのすべての労働を維持した後に残る。従って人々の普通のかつ愛好の植物性食物でありかつ耕作者達が主としてそれをもって維持されている所の米の産国においては、麦産国におけるよりもこのより大なる剰余のより大なる分前が地主に帰属するはずである。』
 ビウキャナン氏も述べている、『麦よりも豊富に産出する何らかの他の生産物が人民の一般の食物となるとすれば、それが豊富になるに比例して地主の地代が増加すべきことは全く明かである。』
 もし馬鈴薯が人民の一般の食物となるとすれば、地主は長い間地代の減少によって悩むであろう。彼らはおそらく現在受領しているだけの人間の生活資料を受領しないであろうが、他方その生活資料はその現在価値の三分の一に下落するであろう。しかし地主の地代の一部分がそれに費されるすべての製造貨物は、その原料たる粗生原料品の下落と、その時にその生産に当てらるべき土地の肥沃度の増加のみとから起る所の下落以外の下落を蒙らないであろう。
 人口の増加よりして以前と同一の質の土地が耕作されるに至る時は、地主は啻に以前と同一比例の生産物を取得するばかりでなく更にそれはまた以前と同一の価値を有つであろう。かくて地代は以前と同一であろうが、しかしながら利潤は、食物の価格従ってまた労賃が大いに下落するであろうから、大いに騰貴するであろう。高い利潤は資本の蓄積に有利である。労働に対する需要は更に増加し、そして地主は土地に対する需要の増加によって永久的に利得するであろう。
 もちろん同一の諸々の土地からかくも豊富な食物が生産され得る時には、それは極めてより高度に耕作され、従ってそれは社会の進歩につれて、以前よりも遥かにより高い地代を生じかつ遥かにより多くの人口を支持するであろう。このことは地主に対し必ず大いに有利であり、かつ本書が必ず樹立せんとする所の、すべての法外な利潤はその性質上短期間でしかないが、それはけだし、土壌の全剰余生産物は、蓄積を奨励するに足るほどの過度の利潤をさえ控除した後は、終局的に地主に帰さなければならぬから、という原理と一致するものである。
 かくも豊富な生産物が惹起す如きかかる低廉な労働の価格と共に、啻に既に耕作されている土地が遥かにより多量の生産物を産出するのみならず、それは、大なる附加的資本をしてそこに使用し得しめ、またより大なる価値をしてそれから引去られ得しめ、そして同時に、極めて劣等な土地が高い利潤をもって耕作され得、その結果として地主並びに消費者の全階級は大いに利得を受けるのである。最も重要な消費物を生産する機械たる土地は改良され、そしてその仕事が需要されるにつれて良い報酬を受けるであろう。すべての利益は、最初の間は、労働者、資本家、及び消費者がこれを享受するが、しかし人口の増加につれて、それは次第に土地所有者に移転されるであろう。
(一一七)社会が直接の利害関係を有ち地主が間接の利益関係を有っている所のかかる改良を別にすれば、地主の利益は常に消費者及び製造業者のそれと対立している。穀物は、単にそれを生産するに附加的労働が必要であるというだけの理由で、すなわちその生産費が増加したという理由で、永続的により高い価格にあり得る。同一の原因は常に地代を引上げる、従って穀物の生産に伴う費用の増加するのは地主の利益となる。しかしながら、これは消費者の利益ではない。彼にとっては、穀物が貨幣及び諸貨物に相対して低廉なことが望ましいが、それは穀物が購買されるのは常に諸貨物または貨幣であるからである。穀物価格が高いことは製造業者の利益でもないが、それはけだし、穀物の高い価格は高い労賃を惹起すが、しかし彼れの貨物の価格を高めはしないからである。かくて啻に彼れの貨物のより多くが、または同じことになるが、彼れの貨物のより多くの価値が、彼自身消費する穀物と引換に与えられなければならぬのみならず、更にまたより多くのものがまたはより多くのものの価値が、彼れの労働者に労賃として与えられなければならぬが、それに対しては彼は何らの補償をも得ないのである。従って地主を除くすべての階級は穀価の騰貴によって損害を蒙るであろう。地主と一般公衆との間の取引は、売手も買手も同様に利得すると言い得られる商売上の取引とは異り、損失は全然一方にまた利得は全然他方に帰するのである。そしてもし穀物が輸入によってより低廉に取得され得るならば、輸入しないために起る損失は、一方にとって、他方にとっての利得よりも遥かにより大である。
 アダム・スミスは、貨幣価値の低いことと穀物の価値の高いこととの間に何らの区別もなさず、従って地主の利益は社会の他のものの利益と反するものではない、と推論している。第一の場合においては、貨幣がすべての貨物に比して低く、他の場合においては、穀物が諸貨物並びに貨幣に比してより高いのである。
 アダム・スミスの次の記述は、低い貨幣価値には適用し得るが、しかしそれは高い穀物価値には全然適用し得ないものである。『もし(穀物の)輸入が常に自由であるならば、我国の農業者及び全紳士はおそらく、年々、輸入が大抵の時に事実上禁止されている現在において彼らが得るよりもより少い貨幣を、その穀物に比して得るであろうが、しかし彼らが得る貨幣はより多くの価値を有ち、すべての他の種類の財貨のより多くを購買し、そしてより多くの労働を雇傭するであろう。従って、彼らの真実の富、彼らの真実の収入は、たとえより少量の銀によって現わされるであろうとはいえ、現在におけると同一であろう。そして彼らは、現在耕作しているだけの穀物を耕作する能力を失わせられることも、これを阻害されることも、ないであろう。これに反し、穀物の貨幣価格の下落の結果たる銀の真実価値の騰貴は、すべての他の貨物の貨幣価格はやや下落せしめるから、それは、このことが起った国の産業に、すべての外国市場におけるある利益を与え、ひいてはその産業を奨励しかつ増加せしめる傾向がある。しかし穀物に対する内国市場の範囲は、それが栽培される国の一般産業または穀物と引換えに与えるために他の何物かを生産する人々の数に比例しなければならない。しかしあらゆる国において、内国市場は、穀物に対する最も手近なかつ最も便利な市場であると共に、また同様の穀物に対する最も大きなかつ最も重要な市場である。従って穀物の平均貨幣価格の下落の結果たる銀の真実価値の騰貴は、穀物に対する最も大きなかつ最も重要な市場を拡張し、ひいてはその栽培を阻害することなくこれを奨励する傾向を有つものである。』
 金及び銀の豊富と低廉とより生ずる穀価の騰落は、地主にとっては何でもないことであるが、それはけだしまさにアダム・スミスの述べている如くに、あらゆる種類の生産物が平等にその影響を蒙るからである。しかし穀物の相対価格の騰貴は常に地主に極めて有利である。けだし第一に、それは彼にその地代としてより多量の穀物を与え、そして第二に、穀物の各等量について、彼はより多量の貨幣に対してのみならず貨幣が購買し得るあらゆる貨物のより多量に対しても支配権を有つからである。
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    第二十五章 植民地貿易について

(一一八)アダム・スミスは、その植民地貿易に関する考察において、最も十分に、自由貿易の利益、及び植民地が母国によりその生産物を最も高価な市場で売り、その製造品及び必要品を最も低廉な市場で買うことを妨げられるに当り蒙る不公正を説明した。彼は、あらゆる国をしてその産業の生産物をその好む時と所とにおいて自由に交換せしめることによって、世界の労働の最良の分配が齎され、かつ人類生活の必要品及び享楽品の最大量が確保されることを説明した。
 彼はまた、疑いもなく全体の利益を促進するこの通商の自由はまた各特定国のそれをも促進するものであり、またヨオロッパ諸国がその各々の植民地について採用した狭隘きょうあいな政策は、その利益が犠牲にされる植民地と同様に母国自身にとっても有害であることを説明せんと企てた。
 彼は曰く、『植民地貿易の独占は、重商主義のすべての他の下賤なかつ悪性な方策と同様に、すべての他国の産業を抑圧するが、しかし主として植民地の産業を抑圧するものであり、それがその利益のために設けられた国の産業を少しも増加せしめず、かえってこれを減少せしめるのである。』
 しかしながら彼れの主題のこの部分は、彼が植民地に対するこの制度の不公正を説明している場合の如くに明瞭にかつ確然と取扱われていないのである。
(一一九)母国は時にその領有植民地に加える制限によって利得しないかどうかを、思うに、疑い得よう。例えばもし英国がフランスの植民地であるならば、フランスが織物や毛織布やまたはその他の貨物の輸出に対して英国の支払う重い奨励金によって利得することを誰が疑い得よう? 奨励金の問題を検討するに当って、穀物が我国において一クヲタアにつき四ポンドであると仮定して、吾々は、英国で一クヲタアにつき一〇シリングの奨励金が輸出に与えられるならば、穀物はフランスでは三ポンド一〇シリングに下落すべきことを知った。さてもし穀物がフランスで以前に一クヲタアにつき三ポンド一五シリングであったならば、フランスの消費者はすべての輸入穀物に対し一クヲタアにつき五シリングだけ利得したであろう。もしフランスにおける穀物の自然価格が以前に四ポンドであったならば、彼らは一クヲタアにつき一〇シリングという奨励金の全額を利得したであろう。フランスはかくの如く英国の蒙る損失だけ利得するであろう。すなわちフランスは英国が失ったものの単に一部分を利得するに過ぎぬのではなく、その全部を利得するのである。
 しかしながら輸出奨励金は内国政策の一方策であって、母国によっては容易には課せられ得るものではないと言われるかもしれない。
 もしジャメイカ及びオランダが各々生産する貨物を、英国の仲介なしに交換するのが、両国の利益に適合するならば、オランダとジャメイカの両国がこの交換を妨げられるために両国の利益が害されるべきことは全く確実ではある。しかしジャメイカがその財貨を英国に送り、そしてそこでそれをオランダの財貨と交換せざるを得ないならば、英国の資本または英国代理店が、しからざればそれが従事しなかった職業に用いられるであろう。それは、英国ではなくオランダ及びジャメイカによって支払われた奨励金によって、そこに誘致されるのである。
 二国における労働の不利益な分配によって受ける損失は、その一方にとっては有利であるかもしれぬが、しかし他方は実際かかる分配によって起る損失以上のものを蒙る、ということは、アダム・スミス自身によって述べられている。そしてこのことは、もしそれが真実であるならば、植民地にとっては大いに有害な一方策は、母国にとっては部分的に有利であるかもしれぬことを、直ちに証明するであろう。
 彼は通商条約を論じて曰く、『ある国民が条約によって自らを束縛し、ある外国からの一定の諸財貨の輸入を、他のすべての外国からの輸入は禁止しながら、許可し、またはある国の財貨を、他のすべての国の財貨には関税を課しながらこれを免除する時には、その通商がかくの如き特恵を受けている国または少くともその国の商人及び製造業者は、必然的に条約から大きな便益を得るに相違ない。かかる商人及び製造業者は、彼らに対してかくも寛大なこの国においては一種の独占を享受する。その国は、彼らの財貨に対するより広大なかつより有利な市場となる。より広大なというのは、、他の諸国民の財貨が排斥されまたはより重い関税を賦課されていて、彼らからより多量を購買するからであり、より有利なというのは、特恵国の商人はそこで一種の独占を享受していて、しばしばその財貨を、すべての他の国の自由競争に曝される場合よりもより高い価格で販売するからである。』
 通商条約を締結している二国が母国とその植民地とであるとしよう、そして、アダム・スミスは明かに、母国はその植民地を圧迫することによって利益をけ得よう、としているのである。しかしながら、外国市場の独占が排他的一会社の手中にない限り、内国の購買者が貨物に支払う以上のものを外国の購買者が支払うことはなく、かかる双方の購買者が支払う価格は、それらの貨物が生産される国でのその自然価格と大して異ならないであろう、と云われるかもしれない。例えば英国は、通常の事情の下においては常に、フランスの財貨をフランスにおけるそれらの財貨の自然価格で買うことが出来、またフランスは英国の財貨を英国におけるその自然価格で買うという等しい特権を有っているであろう。しかしこれらの価格でならば条約がなくとも財貨は買われるであろう。しからば両当事国にとっていかなる利益または不利益を条約は有つのであるか?
 輸入国にとってのこの条約の不利益はこうであろう。すなわちそれはその国をして、一貨物を、例えば英国からこの国がおそらくそれをある他の国の遥かにより低い自然価格で購買し得る時に、英国におけるその貨物の自然価格で購買せしめるであろう。かくてそれは一般資本の分配を不利益ならしめ、それは主として、条約により最も不生産的な市場で購買せざるを得ない国の負担する所となる。しかしそれは売手にある想像上の独占の故をもって何らの利益を与えるものではない。けだし彼は、自国人の競争によってその財貨をその自然価格以上に売るのを妨げられるからであるが、彼はそれを、彼がそれをフランス、スペイン、または西印度インドへ輸出しようとまたは国内消費のためにそれを売ろうと、この自然価格で販売するであろう。
 しからば条約中の約定の利益はいかなるものであるか? それはこうである。すなわちかかる特定の財貨は、もし英国のみがこの特定の市場に供給するという特権を有つということがなかったならば、そこで輸出のために作られ得なかったであろうが、けだし自然価格のより低い国の競争が、それらの貨物を売却するすべての機会をこの国から奪っていたから、ということである。
(一二〇)しかしながら、もし英国がその製造する何らかの他の財貨を、フランスの市場において、またはそれと等しい利益をもって何らかの他の市場において、同一額だけ確実に売却し得るならば、このことはほとんど大したことではなかったであろう。英国の目的は、例えば、五、〇〇〇ポンドの価値を有つある分量のフランスの葡萄酒を買うことである、――しからばこの国は、この目的のために五、〇〇〇ポンドを得んとしてどこかへその財貨を輸出するであろう。しかしもし貿易が自由であるならば、他国の競争のために、英国における毛織布の自然価格が英国に、毛織布の売却によって五、〇〇〇ポンドを取得せしめ、またかかる資本用途によって通常利潤を取得せしめ得るに足るほど低くあることが妨げられるであろう。かくて英国の勤労は何らかの他の貨物に用いられねばならない。しかし現在の貨幣価値において、それが他国の自然価格で売却し得る生産物は無いかもしれない。その結果はどうであろうか? 英国の葡萄酒飲用者はその葡萄酒に対して依然五、〇〇〇ポンドを喜んで与える、従って五、〇〇〇ポンドの貨幣がその目的のためにフランスへ輸出される。この貨幣の輸出によって、英国においてその価値は騰貴し、他国においては下落する。そしてそれと共に英国産業によって生産されるすべての貨物の自然価格もまた下落する。貨幣価値の騰貴は貨物の価格の下落と同じことである。五、〇〇〇ポンドを取得するために英国貨物が今や輸出されるであろう。けだしその下落せる自然価格でそれは今や他国の財貨と競争し得るからである。しかしながら、必要とされる五、〇〇〇ポンドを取得するためにより多くの財貨が低い価格で売られ、そしてこの額はそれが得られた時には、同一量の葡萄酒を取得しないであろう。けだし英国における貨幣の減少がその国における財貨の自然価格を下落せしめたのに、フランスにおける貨幣の増加はフランスにおける財貨及び葡萄酒の自然価格を騰貴せしめたが故である。かくて貿易が完全に自由である時には、英国が通商条約によって特恵を得ている時よりも、英国貨物と交換に、より少量の葡萄酒が輸入されるからである。しかしながら、利潤の率は変動していないであろう。貨幣はこの二国において相対価値において変動しており、そしてフランスの得る利益は、一定量のフランス財貨と交換に、より多量の英国財貨を得ることであるが、他方英国の蒙る損失は、一定分量の英国の財貨と交換により少量のフランス財貨を得ることにあるであろう。
 かくて外国貿易は、束縛されようと奨励されようと自由であろうと、異る国における生産の比較的難易がどうであっても、常に継続するであろう。しかしそれは貨物がそれらの国で生産され得るその自然価格――自然価値ではない――を変動せしめることによってのみ左右され得、そしてこのことは貴金属の分配を変動せしめることによって成就されるのである。この説明は、貴金属の分配を変動せしめず従ってあらゆる処において貨物の自然価格及び市場価格を変動せしめない所の貨物の輸出入に対する租税や奨励金や禁止はないという、私が他の場所で述べた意見と一致するものである。
 かくて植民地との貿易が、完全な自由貿易よりも植民地にとりより不利であると同時に母国にとりより有利であるように、調整され得ることは、明かである。その取引を特定の一店に限られるのが個人たる消費者にとって不利であると同じく、一特定国から購買するを余儀なからしめられることは消費者たる一国民にとって不利である。もしその店またはその国が必要とされる財貨を最も低廉に提供するならば、それは何らのかかる排他的特権なくしても財貨の販売を確保し得よう。そしてもしそれがより低廉に販売しないならば、一般的利益のために、それが他のものと等しい利益をもって営み得ない職業を継続するのを奨励されないようになろう。その店またはその販売国は職業の変更によって損失するかもしれないが、しかし一般的利益は、一般資本の最も生産的な分配すなわち普遍的な自由貿易によってこそ最も十分に確保されるのである。
 貨物の生産費が増加しても、もしそれが第一必要品であるならば、必ずしもその消費は減少しないであろう。けだし購買者の一般的消費力がある一貨物の騰貴によって減少しても、しかも彼らはその生産費が騰貴しなかった所の何らかの他の貨物の消費を止め得るからである。その場合には、供給される分量と需要される分量とは以前と同一であろう。生産費のみが増加しているであろうが、しかも価格は、この騰貴せる貨物の生産者の利潤を他の職業から得られる利潤と等しからしめるために騰貴するであろうし、また騰貴しなければならぬ。
 セイ氏は生産費が価格の基礎であることを認めているが、しかし彼はその書物の種々なる部分において、価格は需要供給の比例によって左右されると主張している。ある二貨物の相対価値の真実かつ窮極的規制はその生産費であり、生産され得べき各々の分量でもなく、また購買者の間の競争でもないのである。
(一二一)アダム・スミスによれば、植民地貿易は、英国資本のみが用いられ得る事業であることのために、すべての他の職業の利潤率を騰貴せしめた。そして彼れの意見によれば、高い利潤は高い労賃と同様に、貨物の価格を騰貴せしめるから、植民地貿易の独占は――彼れの考えるに、――母国にとって有害であったが、けだしそれは製造貨物を他国と同様に低廉に売る力を減少せしめたからである。彼は曰く、『独占の結果として、植民地貿易の増加は、大英国が以前からなしていた貿易の方向を全く変動せしめたが、その増加はそれほど大ではなかった。第二に、この独占は必然的に、英国貿易のすべての各種部門における利潤率を、すべての国民が英国植民地に対して自由貿易を許されている場合に当然そうなるべき高さ以上に保つのに寄与したのである。』『しかしいかなる国においても通常利潤率をしからざる場合にそうあるべき以上に騰貴せしめるあらゆるものは、必然的に、その国をして、独占を有っていないあらゆる貿易部門において、絶対的並びに相対的不利益を蒙らしめる。それがこの国をして絶対的不利益を蒙らしめるというのは、けだしかかる貿易部門においては、その国の商人は彼らが自国に輸入する外国の財貨と彼らが外国に輸出する自国の財貨とを、しからざる場合に彼らが売るべき高さ以上に売ることなくしては、このより大なる利潤を獲得し得ないからである。彼ら自身の国は、しからざる場合よりも、より高く買いまたより高く売らなければならず、より少く買いまたより少く売らなければならず、より少く享受しまたより少く生産しなければならない。』
『我国の商人はしばしば、英国労働の労賃の高いことをもってその製造品が外国市場で売負かされる原因であるとかこっているが、しかし彼らは高い資本の利潤率については何事も言わない。彼らは他人の法外な利潤を喞っているが、しかし自分自身のそれについては何も言わない。しかしながら英国資本の高い利潤は、英国製造品の価格を、多くの場合には英国労働の労賃の高いだけ、またある場合にはおそらくそれ以上、高めるに貢献しているかもしれない。』
 私は、植民地貿易の独占は資本の方向を、しかもしばしば有害に、変更するであろうということを認める。しかし私が既に利潤の問題について述べた所から、一つの外国貿易から他のそれへのまたは内国商業より外国貿易へのいかなる変更も、私の意見によれば、利潤率には影響を及ぼし得ないことが、分るであろう。それによる害は、私が今述べたばかりのことであろう。すなわち、一般的資本及び勤労の分配が悪化し、従って生産が減少するであろう。貨物の自然価格は騰貴し、従って、消費者は同一の貨幣価値の購買をなし得るけれども、彼はより少量の貨物しか取得しないであろう。またそれが利潤を騰貴せしめるという影響をさえ有つとしても、価格は労賃によっても利潤によっても左右されないから、それは少しも価格を変動せしめないということも、分るであろう。
 そして、アダム・スミスが、『貨物の価格または貨物と比較された金及び銀の価値は、一定量の金及び銀を市場へ齎すに必要な労働量と、一定量の何らかの他の種類の財貨をそこへ齎すに必要なそれとの間の、比例に依存する』と言う時に、彼はこの意見に同意しているではないか? 利潤が高かろうと低かろうと、または労賃が低かろうと高かろうと、この労働量は影響を蒙らないであろう。しからばいかにして価格は高い利潤によって高められ得るのであるか?
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    第二十六章 総収入及び純収入について

(一二二)アダム・スミスは、常に、一国が大なる純所得よりはむしろ大なる総所得から得る利益を過大視している。彼は曰く、『一国のより大なる資本部分が農業に用いられるに比例して、それが国内において働かせる生産的労働量はより大となるであろう。その使用が社会の土地及び労働の年々の生産物に附加する価値も同様であろう。農業に次いで、製造業に用いられる資本が生産的労働の最大量を働かせ、そして年々の生産物に最大の価値を附加する。輸出業に用いられるそれは、これら三つのうち最小の結果しか有たない。』(註)
(註)セイ氏はアダム・スミスと同一の意見を有っている。『その国一般にとって最も生産的な資本の用途は、土地に投ぜられた資本に次いでは製造業及び国内商業のそれである。けだしそれは利潤がその国内で得られる産業を活動せしめるが、他方外国貿易に用いられる資本はすべての国の勤労と土地とをして無差別的に生産的ならしめるからである。
『一国民にとって最も不利な資本の用途は、一外国の生産物を他の外国へ輸送するそれである。』セイ、第二巻、一二〇頁。
 このことをしばらく真実なりとしよう。もし一国が多量の生産的労働を用いようとまたはそれ以下の分量を用いようと、その純地代及び利潤の両者が同一であるならば、多量の生産的労働を用いる結果その国に起る利益はいかなるものであろう? あらゆる国の土地及び労働の全生産物は三部分に分たれ、そのうち一部分は労賃に、もう一つの部分は利潤に、そして残りの部分は地代に当てられる。租税または貯蓄のために控除がなされ得るのは最後の二つの部分からのみであり、最初のものは、適度である場合には、常に必要生産費をなしているのである(註)。その利潤が年々二、〇〇〇ポンドである所の二〇、〇〇〇ポンドの資本を有っている個人にとっては、あらゆる場合にその利潤が二、〇〇〇ポンド以下に減少しない限り、彼れの資本が百人を雇傭しようと一千人を雇傭しようと、生産された貨物が一〇、〇〇〇ポンドに売れようと二〇、〇〇〇ポンドに売れようと、全くどうでもよいことであろう。国民の真実の利益も同様ではないか? その純真実所得すなわちその地代及び利潤が同一である限り、国民が一千万の住民から成ろうと一千二百万の住民から成ろうと、大したことではない。国民が陸海軍及びすべての種類の不生産労働を支持する力はその純所得に比例しなければならず、その総所得には比例しない。もし五百万人が一千万人に必要なだけの食物や衣服を生産し得るならば、五百万人に対する食物及び衣服は純収入であろう。この同じ純収入を生産するに七百万人が必要とされるということ、すなわち一千二百万人に足る食物や衣服を生産するに七百万人が用いられるということは、国にとって何らかの利益であろうか? 五百万人の食物や衣服は依然として純収入であろう。より多数の人を雇傭することは、吾々をして我が陸海軍に一兵を加え得せしめもせず、また租税に一ギニイ余計に納め得しめもしないであろう。
(註)おそらくこれは余りに強く表現されている、けだし一般に絶対必要生産費以上のものが、労賃の名の下に労働者に割当てられているからである。その場合には、国の純生産物の一部分は労働者によって受領され、かつ彼によって貯蓄または支出され得る。またはそれは彼をして国の防禦に貢献し得しめるであろう。
 アダム・スミスが最大量の勤労を動かす資本用途をもってよしとしているのは、大なる人口より生ずる何らかの想像上の利益、またはより多数の人類の享受し得べき幸福を根拠として云うのではなく、明かにそれが国力を増進するという根拠による(註)、けだし彼は曰く、『あらゆる国の富、及び力が富に依存する限りにおいてその力は、常に、その年々の生産物の価値に、すべての租税が窮極的にそこから支払わねばならぬ資金に、比例しなければならない。』と。しかしながら、租税支払能力は純収入に比例するものであり総収入に比例するものではないことは、明かでなければならない。
(註)セイ氏は私を全然誤解し、私がかくも多くの人類の幸福をどうでもよいことと考えたものと想像している。私がアダム・スミスのって立つ特定の論拠に私の記述を限定していたことは、この本文が十分に示すものと私は考える。
(一二三)すべての国への職業の分配において、より貧しい国民の資本は、多量の労働が国内で支持される職業に当然用いられるであろう、けだしかかる国においては、増加しつつある人口に対する食物及び必要品は最も容易に所得され得るからである。これに反し、食物が高価な富める国においては、資本は、貿易が自由な時には、最小量の労働が国内で維持されなければならぬ所の、運送業、遠隔外国貿易、及び高価な機械が必要とされる職業の如きへ、すなわち利潤が資本に比例して、用いられる労働量には比例しない職業へ、当然流入するであろう(註)。
(註)『自然的事態が資本を、最大の利潤の得られる職業へではなくて、その作用が社会に対し最も有利な職業へ、引寄せるのは、幸なことである。』――第一巻、一二二頁。セイ氏は、個人に対しては最も有利であるが、国家に対しては最も有利ではないこれらの職業はいかなるものであるかを、吾々に語っていない。もし資本は少いが肥沃な土地は豊富に有っている国が早くから外国貿易に従事していないならば、その理由は、それが個人に対して有利でなく、従って国家に対してもまた有利でないからである。
 地代の性質からして、最後に耕作される土地を除くあらゆる土地での一定の農業資本は、製造業及び商業に用いられる等額の資本よりもより大なる労働量を動かすものであることは、私は認めるけれども、しかも私は、内国商業に従事する一資本の雇傭する労働量と、外国貿易に従事する等量の資本の雇傭する労働量とに、ある差異があるということは、認め得ない。
 アダム・スミスは曰く、『スコットランドの製造品をロンドンへ送りそしてイングランドの穀物及び製造品をエディンバラへ持ち帰る資本は必然的に、かかる作用をなすごとに、共に大英国の農業または製造業に用いられていた二つの英国資本に代位する。
『国内消費のための外国財貨の購買に用いられる資本は、この購買が内国産業の生産物をもってなされる時には、また、かかる作用をなすごとに、二つの異る資本に代位するが、しかし単にその中の一つが内国産業を支持するに用いられているにすぎない。英国財貨をポルトガルへ送りそしてポルトガル財貨を大英国に持ち帰る資本は、かかる作用をなすごとに、一つの英国資本に代位するにすぎず、他方はポルトガルの資本である。従って、消費物の外国貿易の囘帰が内国商業の如くに早くとも、それに用いられる資本は、その国の産業または生産労働に対して、単に半分の奨励を与えるに過ぎないであろう。』
 この議論は私には誤謬であるように思われる。けだし一つのポルトガル資本と一つの英国資本との二つの資本がスミス博士の想像している如くに使用されるとはいえ、なお内国商業に用いられるものの二倍の資本が外国貿易に用いられるからである。スコットランドは、亜麻布の製造に一千ポンドの資本を用い、それをイングランドで絹製品の製造に用いられる同様の資本の生産物と交換する、と仮定すれば、二千ポンドとそれに比例する労働量とが、この二国によって用いられるであろう。いまイングランドは、それが以前にスコットランドへ輸出していた絹製品に対して、ドイツからより多くの亜麻布を輸入し得ることを発見し、またスコットランドは、それが以前にイングランドから得ていたよりもより多くの絹製品をその亜麻布と引換にフランスから得ることが出来るということを発見すると仮定すれば、イングランドとスコットランドとは直ちに相互に取引することを止め、そして消費物の内国商業は消費物の外国貿易に変更されないであろうか? しかし、ドイツの資本とフランスの資本との二つの追加資本がこの取引に入り込むとはいえ、同一額のスコットランド及びイングランドの資本が引続き使用され、そしてそれはそれが内国商業に従事していた時と同一量の勤労を動かさないであろうか?
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    第二十七章 通貨及び銀行について

(一二四)通貨に関しては既に極めて多く論ぜられ来っているから、かかる主題に注意を払うもののうち、偏見を有つものの他は、その真実の諸原理を知らないものはない。従って私はただ、その量及び価値を左右する一般的諸法則のあるものを瞥見べっけんするに止めるであろう。
 金及び銀は、すべての他の貨物と同様に、それを生産しかつ市場に齎すに必要な労働量に比例してのみ、価値を有つ。金は銀よりも約十五倍より高価であるが、それはそれに対する需要がより大であるからでもなく、また銀の供給が金のそれよりも十五倍より大であるからでもなくして、もっぱら、その一定量を獲得するに十五倍の労働量が必要であるからである。
 一国において用いられ得る貨幣の量はその価値に依存しなければならぬ。すなわちもし貨物の流通のために単に金のみが用いられるならば、銀(のみ――編者挿入)が同一の目的に用いられる場合に必要な量のわずかに十五分の一の量が必要とされるであろう。
 流通高は過剰になるほど豊富には決してなり得ない。けだしその価値を減少せしめることによって、同一の比例においてその分量は増加されるし、かつその価値を増加せしめることによって、その分量は減少されるからである。
 国家が貨幣を鋳造しかつ何らの造幣料も課さない間は、貨幣は、等しい量目と品位とを有つ同一金属のある他の片と、同一の価値を有つであろう。しかしもし国家が鋳造料を課すならば、鋳造された貨幣片は一般に、課せられた全造幣料だけ鋳造されない金属片の価値を超過するであろうが、それはけだし、それを獲得するに、より多量の労働または同じことであるがより多量の労働の生産物の価値を必要とするからである。
 国家のみが鋳造をする間は、この造幣料の賦課には何らの限界も有り得ない。けだし鋳貨の分量を制限すればそれは想像し得るいかなる価値にまでも高められ得るからである。
(一二五)貨幣が流通するのはこの原理による。すなわち紙幣に対する賦課の全額は造幣料と考え得よう。それは何らの内在価値も有たないが、しかもその分量の制限によって、その交換価値は等しい名称を有つ鋳貨またはその鋳貨に含まれる地金と同一である。また同一の原則すなわちその分量の制限によって、削減された鋳貨ももしそれが法定の量目と品位とを有っている場合にはそれが有つべき価値で流通するであろうが、それが実際に含有する金属量の価値では流通しないであろう。従って英国造幣史において吾々は通貨がその削減と同一の比例で減価しなかったのを見出すのである。その理由は、それがその内在価値の減少に比例してその分量を増加されなかったことである(註)。
(註)私が金貨について言うことは何であろうとすべて、等しく銀貨にも適用し得る。しかしあらゆる場合において両者を挙げる必要はない。
 紙幣の発行においては、分量制限の原則から生ずる結果を十分に銘記しておく以上に重要なことはない。五十年後には、今日銀行の理事及び大臣が、議会ででもまた議会の委員会ででも、英蘭イングランド銀行による銀行券の発行は、かかる銀行券の所持者の正金または地金との兌換請求権によって妨げられてはいないから、貨物や地金や外国為替の価格には何らの影響をも及ぼさずまた及ぼし得ないと、真面目に主張したということは、ほとんど信ぜられないであろう。
 銀行の設立以後は国家は独占的貨幣鋳造権または発行権を有たない。通貨は、鋳貨によってと同様に有効に紙幣によって増加され得る。従って、国家がその貨幣を削減しその分量を制限するとしても、それはその価値を保持し得ないであろうが、けだし銀行は同じく全貨幣流通量を増加せしめる権能を有っているからである。
 かかる原則によって、紙幣はその価値を確保するために正金で支払われなければならぬという必要はなく、本位として宣布された金属の価値に従って紙幣量が調節されねばならぬことが必要であるに過ぎない、ということが分るであろう。もし本位が一定の量目及び品位の金であるならば、紙幣は、金の価値の下落するごとに、またはその結果においては同じことであるが、財貨の価格の騰貴するごとに、増加され得よう。
(一二六)スミス博士は曰く、『余りに多量の紙幣を発行し、その超過分は、金及び銀と兌換されるために絶えず囘帰しつつあったために、英蘭イングランド銀行は、引続き多年の間、一年八十万ポンドから一百万ポンドまたは平均約八十五万ポンドも、金を鋳造せざるを得なかった。この大なる鋳造のために、銀行はしばしば、金貨が数年前に陥った磨損しかつ下落した状態の結果として、地金を一オンスにつき四ポンドという高い価格で購買せざるを得ず、それをその後直ちに一オンスにつき三ポンド一七シリング一〇ペンス二分の一で鋳貨として発行したために、かくて、かくも多額の鋳造に際し二%半ないし三%の損失を蒙ったのである。従って、銀行は何らの造幣料を支払わず、政府が当然にこの鋳造費を負担したとはいえ、この政府の寛裕かんゆうは銀行の出資を全然防ぐものではなかった。』
 上述の原則に基いて、かくの如くして持込まれた紙幣を再発行せざることによって、低落せる金貨と新しい金貨との全通貨の価値は騰貴し、その時に銀行に対するすべての要求はなくなったということが、私には最も明かであると思われる。
 しかしながらビウキャナン氏はこれと意見を異にする。けだし彼は曰く、『この時に銀行が負担した大なる出費は、スミス博士が想像していると思われる如くに、紙幣の不慎慮な発行によってではなく、削減された通貨の状態及びその結果たる地金の価格騰貴によって、惹起されたものである。銀行は――そう考えられるであろうが、――地金を鋳造のために造幣局に送る以外に、ギニイ貨を取得する方法を有たないから、常にその戻って来た銀行券と引換えに新鋳造ギニイ貨を発行せざるを得ず、そして通貨が量目において不足し、地金の価格がそれに比例して高い時には銀行からその紙幣と引換えにかかる量目の大なるギニイ貨を引出し、それを地金とし、そしてそれを利潤を得て銀行紙幣に対して売り、ギニイ貨の新たな供給を得んがために再びそれを銀行に戻し、このギニイ貨を再び熔解して売却するのが、有利となった。通貨の量目が不足している間は銀行はこの正金の流出を常に蒙らなければならない、けだしその時には容易なかつ確実な利潤が、紙幣と正金との不断の交換から生ずるからである。しかしながら、銀行がその時にその正金の流出によっていかなる不便や出費を蒙ろうと、その銀行券に対して貨幣を支払う義務を解除することが必要であるとは決して想像されなかったことを、述ぶべきであろう。』
 ビウキャナン氏は明かに、全通貨は、必然的に、削減された貨幣の価値の水準にまで引下げなければならぬと考えている。しかし確かに、通貨の分量の減少によって、残っている全部は最良の貨幣の価値にまで引上げられ得るのである。
 スミス博士は、植民地通貨に関するその議論の中で、自分自身の原理を忘れたように思われる。紙幣の減価をその分量の過大なるに帰せずして、彼は、植民地の保証が完全に確実であると仮定して、十五年後に支払わるべき一百ポンドは、同時に支払わるべき一百ポンドと等しい価値を有つか否かを問うている。私はもしそれが過重でないならば、しかりと答える。
(一二七)しかしながら経済は、国家でも銀行でも無制限の紙幣発行権を有つ時には常にこれを濫用するの結果となったことを、示している。従ってあらゆる国家において、紙幣の発行は何らかの制限と統制との下にあるべきである。そしてその目的のためには、紙幣発行者をして、その銀行券を地金で支払う義務に服せしめるのが、最もよいように思われる。
〔『公衆を(註一)本位そのものが蒙るもの以外の通貨の価値の何らかの他の変動に対して確保し、同時に、最も出費が少くて済む媒介物をもって流通を行わしめる事は、通貨が齎され得る最も完全な状態を達成する事であり、そして吾々は銀行をしてその銀行券と引換えに、ギニイ貨幣の引渡ではなく造幣本位及び造幣価格での未鋳造の金または銀の引渡をなさしめる事によって、すべてのこれらの利益を所有する事となろうが、この方法によれば紙幣が地金の価値以下に下落する時には必ず地金の量の減少を伴うであろう。地金の価値以上への紙幣の騰貴を防ぐために銀行はまた紙幣を、一オンスにつき三ポンド一七シリングという価格で本位たる地金と引換えに与えざるを得ざらしめられるべきである。銀行に余りに多くの手数をかけないために、三ポンド一七シリング一〇ペンス二分の一という造幣価格で紙幣と引換えに要求される金の分量、または三ポンド一七シリングで売られるべき分量は決して二十オンス以下であってはならない。換言すれば銀行は二十オンス以下ではない所のそれに提供された金のある分量を一オンスにつき三ポンド一七シリング(註二)で購買し、また要求される分量を三ポンド一七シリング一〇ペンス二分の一で売却せざるを得ざらしめらるべきである。銀行がその紙幣量を左右する力を有っている間はかかる規定よりして銀行に起り得べき不便は何もあり得ないのである。
(註一)このパラグラフ及びそれ以下の括弧の終りに至るパラグラフは、著者が一八一六年に著わした、『経済的なかつ安全な通貨に対する諸提案』と題するパンフレットからの抜抄ばっしょうである。
(註二)ここに挙げた三ポンド一七シリングという価格は、もちろん、任意にきめた価格である。おそらくそれをややこれ以上にかややこれ以下にか定むべき十分なる理由があるであろう。三ポンド一七シリングときめたのは、単に、原理を説明せんがためである。この価格は、金の売却者にとり、それを造幣局へ持って行くよりもむしろそれを銀行に売却する方が利益となるようにきめるべきである。
 同じ注意は二十オンスという特定量に対しても妥当する。それを十オンスまたは三十オンスにするのに十分の理由があるであろう。
『同時に、あらゆる種類の地金を輸出入するために最も完全な自由が与えられなければならぬ。かかる地金取引は、もし銀行が、流通している紙幣の絶対量を顧慮せずに、私がかくもしばしば挙げた指標すなわち本位たる地金の価格によって、その貸出及び紙幣発行を左右するならば、その数は極めて少いであろう。
『私が目指している目的は、もし銀行がその銀行券と引換えに造幣価格及び造幣標準で未鋳造地金を引渡すことを命ぜられているならば、十分に達せられるであろう。もっともこの場合、銀行は、特に造幣局が貨幣鋳造のために引続き公開されている場合には、銀行に提供されたいかなる分量の地金をも固定せらるべき価格で購買しなければならぬわけではない。けだしその規定は単に、貨幣価値が銀行が買入れるべき価格と売出すべき価格とのほんのわずかな差額以上に、地金価値から動くのを妨げるために云ったのに過ぎず、そしてそれはかくも望ましいものと認められている所の貨幣価値の斉一性へ接近することである。
『もし銀行が気紛れにその紙幣量を制限するならば、それはその価値を騰貴せしめ、そして金は、銀行が購入せんことを私が提案している限度以下に、下落するように思われるであろう。金は、その場合には、造幣局に運ばれ、そしてそこから返って来る貨幣は、流通貨幣に附加されて、その価値を下落せしめかつそれを再び本位に一致せしめる結果を有つであろう。しかし、それは、私が提案した手段によるほど安全にも経済的にもまた迅速にも行われないであろうが、この私の提案した手段に対しては、銀行は、他人をして鋳貨で流通貨幣を供給せしめるよりもむしろ紙幣でそれを供給するのが彼らの利益に合するから何らの反対も提起しないであろう。
『かかる制度の下において、かつかくの如く統制された通貨をもってすれば、銀行は、一般的パニックが国を襲い、そしてあらゆる者がその財産を実現しまたはこれを隠蔽いんぺいする最も便利な方法として貴金属を所有せんと望む所の異常の場合を除けば、何らの困惑をも蒙らないであろう。かかるパニックに対しては、いかなる制度によっても銀行は何らの安固をも有たない。まさにその性質そのものにより銀行は恐慌を蒙らなければならぬが、それはけだしいかなる時においても、かかる国の金持達が請求権を有するだけの正金または地金の量は、銀行にも国内にも有り得ないからである。もしあらゆる者が同じ日にその銀行からその預入残を引出すならば、今流通している銀行券の多数倍の分量でもかかる要求に応ずるに足りないであろう。この種のパニックが一七九七年の恐慌の原因であったのであり、想像されている如くに、銀行が当時政府に対してなした多額の融通がその原因であったのではない。その時に銀行も政府も悪い点はなかった。銀行取付を惹起したものは、社会の小心な一部の無根拠な恐怖の伝播であり、そして銀行が政府にいかなる融通もなさずそしてその現在の資本の二倍を所有していたとしても、それは等しく起ったことであろう。
『紙幣を発行するについての規則に対する銀行理事の周知の意見をもってすれば、彼らは、その力を大して慎重にもせずに行使したと言われ得よう。彼らが極度に注意して、彼ら自身の原理にしたがって行動したことは明かである。現在の法律状態においては、彼らは、何らの監督も受けず自ら適当と考えるいかなる程度にも流通貨幣を増減する力を有っているが、それは、国家自身にもまたその中のいかなる団体にも与えられるべきではない力である。けだし通貨の増減がもっぱら発行者達の意思に依存している時には、通貨の価値の斉一性に対しては何らの保証も有り得ないからである。銀行が流通貨幣を全く最も狭い限度にまで減少せしめる力を有っているということは、理事は無限にその分量を増加する力を有っていないということで理事と同意見の人によってすら、否定されないであろう。この力を公衆の利益を犠牲にして行使することが銀行の利益にも希望にも反するものであることは私は十分確信するとはいえ、しかも、私は、流通貨幣の突如たるかつ大なる減少並びにその大なる増加により起りもすべき悪結果を考慮する時には、国家が無造作にかくも恐るべき特権で銀行を武装したことを否とせざるを得ないのである。
『現金兌換の停止以前に地方銀行が蒙った不便は、時には、極めて大であったに相違ない。すべての危急の時期または予期された危急の時期には、地方銀行は、起り得る一切の緊急事変に応じ得んがためにギニイ貨を備えておかねばならなかったに相違ない。ギニイ貨は、かかる場合にはより多額の銀行券と引換えに英蘭イングランド銀行で得られ、そして費用と危険とを賭けて、ある信用ある代理人によって地方銀行に運ばれた。それがなすべき職務を果した後に、それは再びロンドンに戻り、そして、それが法定標準以下になってしまうような量目の減少を蒙っていなければ、ほとんど常にまたも英蘭イングランド銀行に貯蔵されたのである。
『もし今提議されている銀行券を地金で支払うという案が採用されるならば、この特権を地方銀行にまで拡張するかまたは英蘭イングランド銀行券を法貨とするかいずれかが必要であろうが、この後の場合には、地方銀行は、現在と同様に、要求される時にその銀行券を英蘭イングランド銀行券で支払わしめられるであろうから、地方銀行に関する法律には何らの変更もないであろう。
『転々する間に受けるにきまっている摩擦による量目の減少にギニイ貨を委ねないことによって生ずる節約、並びに運搬費の節約は、著しいであろう。しかし遥かに最大の利益は、少額の支払の関する限りにおいて、地方並びにロンドンの通貨の永久的供給が、はなはだ高価な媒介物たる金ではなく極めて低廉な媒介物たる紙でなされることから生じ、ひいては国をしてその額に当る資本の生産的使用によって取得され得べきすべての利潤を獲得するを得しめるであろう。ある特別の不利益がより低廉な媒介物の採用に伴生する傾向あることが指示され得ない限り、吾々は確かにかくも決定的な利益を拒否する権利はないはずである。』〕
 通貨は、それが全然紙幣から成る時に、その最も完全な状態にあるのであるが、その紙幣とは、自らそれを代表するといっている金と等しい価値を有つ紙幣のことである。金に代えての紙の使用は最も費用を要する媒介物に代えるに最も低廉なるものをもってし、そして国をして、いかなる個人にも損失せしめずに、それが以前にこの目的に用いたすべての金を粗生原料品や器具や食物と交換し得せしめるが、これらの物の使用にによってその富もその享楽品も増加されるのである。
(一二八)国民的見地からすれば、この良く調整された紙幣の発行者が政府であろうと銀行であろうと、それは何ら重要なことではなく、それがそのいずれによって発行されてもそれは全体として同等に富を生産するが、しかし個人の利益についてはそうではない。市場利子率が七%であり国家が年々ある特定の出費のために年々七〇、〇〇〇ポンドを必要とする国においては、その国の個人が年々この七〇、〇〇〇ポンドを支払うように課税されなければならぬか、または彼らが租税なくしてこれを調達し得るかは、彼らにとって重要な問題である。遠征隊を装備するに百万の貨幣が必要とされると仮定せよ。もし国家が百万の紙幣を発行し百万の鋳貨を排除するならば、遠征隊は人民に対し何らの負担を課することなくして装備されるであろうが、しかしもし銀行が百万の紙幣を発行してそれを政府に七%で貸付け、よってもって百万の鋳貨を排除するならば、国は年々七〇、〇〇〇ポンドという継続的租税を課せられるであろう。すなわち人民は租税を支払い、銀行はそれを受取り、そして社会はいずれの場合においてもその富の程度は以前と同一であろう。遠征隊は、我国の制度の改善によって、百万の価値を有つ資本を、鋳貨の形において不生産的ならしめておくことなく、これを貨物の形において生産的ならしめることによって、真実に装備されたのである。しかし利益は常に紙幣発行者に帰するであろう。そして国家は人民を代表するから、もし銀行ではなく国家が百万を発行していたならば、人民はこの租税を免れていたことであろう。
 私は既に、もし紙幣発行権が濫用されないという完全な保証があるならば、誰によってそれが発行されるかは、全体としての国の富については何ら重要ではないということを観た。そして今私は、公衆は、発行者が国家であり商人や銀行業者の会社でないことに、直接の利益を有つことを示した。しかしながら危険は、この権能が銀行会社の手中にある場合よりも政府の手中にある場合の方がより濫用されやすい、ということである。会社は法律の統制に服することがより多く、そしてたとえ慎慮の限度を越えてその発行額が拡張するのがその利益であるとしても、それは地金または正金を請求する個人の権能によって制限され妨げられるであろう、と言われている。政府が貨幣発行の特権を有つ場合にはこの妨げは長くは尊重されず、政府は将来の安固よりもむしろ現在の便宜を考える傾きが有り過ぎ、従ってそれは、便宜という理由に名をりて、その発行額を統制する妨げを除去せんとする気になり過ぎるかもしれない、と論ぜられている。
 専断な政府の下においてはこの反対論は大きな力を有つであろうが、しかし開けた立法府を有つ自由な国においては、紙幣発行権は、所持人の意志に従って兌換するという必要な抑制の下にあって、その特別の目的のために任命された委員の手に安全に託され得、そして彼らは大臣の支配から全然独立せしめられることであろう。
 減債基金は、単に議会に対してのみ責任を有つ委員によって管理され、そして彼らに委任された貨幣の投資は極めて規則正しく行われている。紙幣の発行が同様の管理の下に置かれた場合に、それがこれと等しく真面目に調整され得べきことを、疑うべきいかなる理由が有り得るであろうか?
(一二九)紙幣の発行によって国家従ってまた公衆に対して生ずる利益は、公衆がその利子を支払う国債の一部分を無利子の負担たらしめるから、十分に明かであるが、しかもそれは、銀行紙幣の一部分の発行方法たる所の、商人が貨幣を借り、またその手形を割引いてもらうことを出来なくさせるから、商業に対し不利である、と言われるかもしれない。
 しかしながらこれは、もし銀行が貨幣を貸さなければそれを借りることは出来ず、そして市場利子率及び利潤率は、貨幣の発行額とそれが発行される通路に依存するものである、と想像することである。しかし一国はその支払手段さえ有れば、毛織布や葡萄酒やその他の貨物に事欠かないと同じく、借手が十分の担保を提供しかつそれに対して喜んで市場利子率を支払う気ならば、貸付けらるべき貨幣にも事欠かないであろう。
 本書の他の部分において、私は一貨幣の真実価値は、その生産者のある者の享受すべき偶然的便益でではなく、最もめぐまれない生産者の当面する真実の困難によって、左右されることを、説明せんと努めた。貨幣に対する利子についてもそうである。それは銀行が貸付けようとする率――それが五%であろうと四%であろうとまたは三%であろうと、――によってではなく、資本の使用によって作られ得、かつ貨幣の量または価値とは全然無関係の、利潤率によって、左右されるのである。銀行が百万を貸付けようと千万を貸付けようとまたは一億を貸付けようと、それは永久的には市場利子率を変動せしめはせず、単にそれがかくして発行した貨幣価値を変動せしめるのみであろう。一つの場合においては、同じ事業を営むために、他の場合に必要とさるべき貨幣よりも一〇倍または二〇倍より多くの貨幣が必要とされるかもしれない、かくて貨幣を銀行に借り入れんことを申込むことは、それの使用によって作られ得べき利潤の率と、銀行がそれを喜んで貸付けようとする率との間の比較に依存する。もしも銀行が市場利子率以下を課するならば、銀行の有つ貨幣額で貸付け得ないものはない、――もし銀行がその率以上を課するならば、浪費者や放蕩者の他は誰も銀行から借り入れないであろう。従って吾々は、市場利子率が、銀行が一律に貸出す率たる五%を超過する時には、割引課は貸付請求者によって包囲され、反対に市場率が一時的であるといえども五%である時には、この課の事務員には仕事がないことを見出すのである。
 かくて過ぐる二十年の間、銀行が、貨幣をもって商人を援助することによって、商業にかくも多くの助力を与え来った、と言われている理由は、けだしその全期間に亘って、銀行が、市場利子率以下で、すなわち商人が他で借入れ得た率以下で、貨幣を貸付けたからである。しかし――私は告白するが、――このことは銀行なる制度の賛成論であるよりはむしろその反対論であるように、私には思われるのである。
 毛織物業者の半分に市場価格以下で羊毛を規則的に供給すべき一制度については、吾々はこれを何と評すべきであろうか? それはいかなる利益を社会に対して有つであろうか? それは我国の取引を拡張しないであろうが、けだしそれが羊毛に対し市場価格を課したとしてもそれは等しく購買されたからである。それは消費者に対し毛織布の価格を低下せしめないが、それはけだしその価格は、前述の如くに、利益を受けること最も少き者にとってのその生産費によって左右されるからである。かくてその唯一の影響は、毛織物業者の一部分の利潤を通常利潤率以上に増加せしめることであろう。この制度はその公正な利潤を奪われ、そして社会の他の部分は同一の程度に利益を受けるであろう。さてかかるものがまさに我国の銀行制度の影響である。一利子率が、市場で借りられ得る率以下に決定されており、そして銀行は、この率で貸付けなければならず、しからざれば全然貸付けてはならないのである。銀行制度というものの性質からして、それはかくの如くして処分し得るに過ぎない大きな資金を有っている。そして我国の商人の一部分は、市場価格によってのみ影響されなければならぬ者よりより少い費用で、取引の用具を手に入れ得るために、不当に、そして国に対しては不利益になるように、利益を受けているのである。
 全会社が営み得る全事業は、その資本、すなわち、生産に用いられる粗生原料品、機械、食物、船舶等、の分量に依存する。良く調整された紙幣が行われるに至った後は、これらは銀行業の作用によっては増加されも減少されもし得ない。かくてもし国家がその国の紙幣を発行するものとするならば、それが一枚の手形も割引かず一シリングを公衆に貸付けなくとも、吾々は同一量の粗生原料品や機械や食物や船舶を有っているはずであるから、取引額には何らの変動も起らないであろう。そしてまたおそらく、法定率が市場率以下である時には実際必ず法定率たる五%ではなく、貸手と借手との間の市場における公正な競争の結果たる六、七、または八%で、同額の貨幣が貸付けられ得よう。
 アダム・スミスは、現金勘定によってなすべきスコットランド式資金融通方法が、イングランド式に勝ることから、商人が得る便益について、語っている。かかる現金勘定は、スコットランドの銀行業者がその顧客に、彼らのために彼が割引する手形を加えて、与える所の信用である。しかし銀行業者は、彼が貨幣を前貸してそれを一つの方法で流通界へ送出すに比例して、他の方法でそれだけを発行することを妨げられるのであるから、その便益が何であるかを認知することは困難である。もし全流通が単に百万の紙幣を支え得るに過ぎないならば、百万が流通されるに過ぎないであろう。そして銀行家にとっても商人にとっても、全体が手形の割引によって発行されるか、または、一部分がかくの如くして発行せられ、その残りがかかる現金勘定によって発行されるかは、少しも真実の重要性を有ち得ないのである。
(一三〇)通貨として用いられる金銀二金属の問題について数語を費すことがおそらく必要であろうが、けだし特に、この問題は、多くの人の心において、簡単明瞭な通貨原理を混乱させるように思われるからである。スミス博士は曰く、『イングランドにおいては、金が貨幣に鋳造されて後久しい間金は法貨と看做されなかった。金及び銀の価値比例は、いかなる公の法律または布告によっても定められず、市場によって決定されるに委ねられていた。もし債務者が金での支払を申出たならば、債権者はかかる支払を全く拒絶するか、または彼とその債務者が同意し得るような金の評価で、それを受容し得たであろう。』
 かかる事態においては、ギニイ貨は、金と銀との相対的市場価値の変動に全く依存して、時に二二シリングまたはそれ以上に通用し、また時に一八シリングまたはそれ以下に通用するかもしれないことは、明かである。銀の価値のあらゆる変動並びに金の価値のあらゆる変動もまた、金貨で計られるであろう、――あたかも銀が不変であり、そしてあたかも金のみが騰落を蒙るに過ぎないかの如くに見えるであろう。かくて一ギニイ貨が一八シリングではなく二二シリングに通用しても、金の価値が変動しなかったかもしれず、変動は全く銀に限られ従って二二シリングは以前に一八シリングが有した以上の価値を有たなかったのかもしれない。またこれに反し、全変動が金にあったのかもしれず、一八シリングに値したギニイ貨が二二シリングの価値に騰貴したのかもしれない。
 もし吾々が今、この銀通貨が剽削ひょうさくによって削減されかつその分量も増加されたと仮定すれば、一ギニイ貨は三〇シリングに通用するかもしれない。けだしかかる削減された貨幣の三〇シリング中にある銀は、一ギニイ貨中にある金以上の価値は有たないかもしれぬからである。銀通貨をその造幣価値にまで恢復することによって銀貨は騰貴するであろう。しかし外見は金が下落したように見えるであろうが、それは一ギニイ貨はおそらく良質のシリング貨の二一と同一の価値しか有たないからである。
 もし金もまた一法貨とされ、そしてあらゆる債務者は自由に、その債務を、その負う二一ポンドごとに四二〇シリングの銀貨または二〇ギニイの金貨を支払うことによって弁済し得るならば、彼は、最も安くその債務を弁済し得るに従ってそのいずれかで支払うであろう。もし五クヲタアの小麦をもって、彼が造幣局が二〇ギニイ金貨に鋳造すべき額の全地金を取得し得、また同じ小麦に対して、造幣局が彼に四三〇シリング銀貨に鋳造すべき額の銀地金を取得し得るならば、彼は銀で支払うことを選ぶであろうが、けだし彼はその債務をかくの如くして支払うことによって一〇シリングの利得者となるからである。しかしこれに反し、もし彼がその小麦をもって二〇ギニイ半の金貨に鋳造されるべき量の金を利得し得、そして四二〇シリングの銀貨に鋳造されるべき量の銀を取得し得るに過ぎないならば、彼は当然にその債務を金で支払うことを選ぶであろう。もし彼が取得し得る金の量が単に二〇ギニイの金貨に鋳造され得るに過ぎず、そしてその銀の量が四二〇シリングの銀貨に鋳造され得るならば、彼がその債務を支払うのが銀貨であろうと金貨であろうと彼にとっては全くどうでもよいことであろう。かくてそれは偶然事ではない。金が常に債務を支払う目的のために選ばれるのは、金が富国の流通を行うによりよく適するからではなく、単にそれで債務を支払うのが債務者の利益であるからである。
 銀行の現金の兌換停止の年たる一七九七年以前の長い時期の間、金は銀に比較して極めて低廉であったために、英蘭イングランド銀行その他すべての債務者にとり、鋳造のためにそれを造幣局に運ぶ目的をもって、市場において銀ではなく金を買うのが、その利益に合したが、けだし彼らは金でその債務を弁済した方がより低廉に済んだからである。銀貨は、この時期の大部分の間、その価値が極めて削減されたが、しかしそれは稀少な程度に存在し、従って、私が前述した原理によって、その通用価値は決して下落しなかった。かくも削減されはしたけれども、金貨で支払うのが依然債務者の利益であった。もちろんもしこの削減された銀貨の量がベラ棒に大であり、またはもし造幣局がかかる削減された貨幣片を発行したのであるならば、この削減された貨幣で支払うのが債務者の利益であったかもしれないが、しかしその量は限られており、そしてその価値を保持しており、従って金が実際上通貨の真実の本位であったのである。
 それがそうであったことはどこでも否定されていない。しかしそれは、銀は造幣標準に依って量目で計算せざる限り二五ポンド以上のいかなる債務に対しても法貨たらしめられないと宣言する法律によって、そうされたのであると主張されている。
 しかしこの法律は、ある債務者がその債務を、その額がいかに大であろうと、造幣局から来たばかりの銀貨で支払うのを妨げはしなかった。債務者がこの金属で支払わなかったのは、偶然事ではなく強制事でもなくして、全く選択の結果である。銀を造幣局に持って行くのは彼れの利益には合せず、金をそこに持って行くのが彼れの利益に合したのである。もし、この削減された流通銀貨の分量がベラ棒に大であり、そしてまた法貨であるならば、おそらく一ギニイ貨が再び三〇シリングに値したであろうが、それはしかし削減されたシリング銀貨が価値において下落したのであり、ギニイ金貨が騰貴したのではないであろう。
 かくてこの二つの金属の各々がいかなる額の債務に対しても等しく法貨である間は、吾々が、価値の主たる標準尺度の不断の変動を蒙ることは明かである。それは時に金であり、また時に銀であり、このことはこの二つの金属の相対価値の変動に全く依存する。そしてかかる時代には、標準ではない金属は熔解され、そして流通から引去られるが、それはけだしその価値は鋳貨の場合よりも地金の場合の方がより大であるからである。これは一つの不利益であり、それが除去されることは極めて望ましいことである。しかし改善は極めて遅々としているために、たとえロック氏によって反駁され得ざるほどに証明され、そして彼れの時代以来、貨幣の問題についてあらゆる学者により指摘されたとはいえ、一八一六年の議会会期までにはより良い制度がかつて採用されなかったが、その時に四〇シリング以上のいかなる額に対しても金のみが法貨であると法定されたのである。
 スミス博士は、二つの金属を通貨として用い、また両者をいかなる額の債務に対しても法貨として用いることの結果を、十分知っていたようには思われない。けだし彼は曰く、『実際には、鋳貨としての種々な金属の価値の間に一つの規制された比例が継続している間は、最も貴重な金属の価値が金鋳貨の価値を左右する』と。彼れの時代には、金は債務者がその債務を支払うに適せる媒介物であったから、彼は、それがある固有の性質を有っておりそれによって当然それが銀貨の価値を左右したし、そしてまた常にこれを左右するであろう、と考えたのである。
 一七七四年の金貨の改革に当って、造幣局から出て来たばかりの新ギニイ貨は、二十一箇の削減されたシリング銀貨と交換されるに過ぎなかった。しかし銀貨が正確に同一の状態にあった所の国王ウィリアムの治世においては、同じく新しい造幣局から出て来たばかりのギニイ貨は、二〇シリング[#「二〇シリング」はママ]銀貨と交換された。これについてビウキャナン氏は曰く、『かくてここに、普通の通貨理論が何らの説明を与えない最も特異な事実があるわけである。すなわちギニイ貨は、ある時には削減された銀貨でのその内在価値たる三〇シリングと交換されながら、後に至ってこの削減されたシリング銀貨の二十一箇と交換されたに過ぎない。これらの二つの異る時期の間にはスミス博士の仮説が何らの説明も与えない所の、通貨状態のある大変化が介在したに相違ないことは、明かである。』
 述べられている二つの時期におけるギニイ貨の価値の相違を、削減された銀貨の流通量の相違に帰すれば、この困難は極めて簡単に解決され得るように、私には思われる。国王ウィリアムの治世においては金は法貨ではなく、単に伝統的な価値で通用していたに過ぎない。すべての巨額の支払はおそらく銀でなされたが、それは特に紙幣及び銀行業の作用が当時ほとんど理解されていなかったからである。この削減された銀貨の量は、削減されない貨幣のみが用いられた場合に流通界にあるべき銀貨の量を、超過し、従ってそれは削減されたと同様にまた減価した。しかしそれに続く所の、金が法貨であり銀行券もまた支払の用に当てられた時期においては、削減された銀貨の量は、削減された銀貨がない場合に流通すべかりし所の、造幣局から出て来たばかりの銀貨の量を超過しなかった。だから貨幣は削減されはしたけれども減価しなかったのである。ビウキャナン氏の説明はややこれと異る。彼は補助貨は減価しそうにもないが本位貨は減価すると考えている。国王ウィリアムの治世においては銀は本位貨であり、そのためにそれは減価した。一七七四年には、それは補助貨であり、従ってその価値を維持した。しかしながら、減価は、通貨が補助貨であるか本位貨であるかということには依存せず、それは全然その量が過剰であるということに依存するのである(註)。
(註)最近議会で、ロオダアデイル卿によって、現行の造幣規則をもってすれば英蘭イングランド銀行は正金でその銀行券を支払うことが出来ないであろうが、けだし二金属の相対価値は、その債務を金ではなく銀で支払うのがすべての債務者の利益であるというような高さにあるのに、他方法律は、銀行のすべての債権者に銀行券と引換えに金を要求する力を与えたがためである、と主張された。卿は、この金は有利に輸出され得ると考え、そしてもしそれが事実ならば、銀行は、供給を維持するために、不断にプレミアムつきで金を購買しかつそれを平価で売らざるを得ない、と彼は主張している。もしあらゆる他の債務者が銀で支払い得るならばロオダアデイル卿は正しいであろうが、しかし債務者はその債務が四〇シリングを超過するならば、銀で支払い得ない。かくてこのことは流通している銀貨の額を制限するであろう。(もし政府が、それが便宜と考える時にはいつでも、その金属の鋳造を中止する力を保留しておかなかったならば。)けだしもし余りに多くの銀が鋳造されるならば、それは金に対する相対価値において下落し、そして何人も、そのより低い価値に対して補償がなされない限り、四〇シリングを超過する債務に対する支払においてそれを受入れぬであろうからである。一〇〇ポンドの債務を支払うためには百のソヴァレイン金貨か一〇〇ポンドに当る銀行券が必要であろうが、しかし、銀貨の流通額が余りに多い場合には、銀貨で一〇五ポンドが必要とされるであろう。かくて銀貨の分量の過剰に対しては二つの抑制がある、その第一は、政府がより以上の鋳造を妨げるためにいつでもなし得る直接的妨げであり、第二に、いかなる利害の動機も、何人をしても銀を造幣局に持ち運ばせない――たとえ彼にそれが出来ても――であろうが、けだしそれが鋳造されるとしてもそれはその造幣価値では通用せず、単にその市場価値で通用するに過ぎないからである。
 適度の造幣料に対しては多くの反対はあり得ず、より少額の支払をなすための通貨に対するものについては特にそうである。貨幣は一般に造幣料の全額だけ価値において高まり、従ってそれは、貨幣の量が過剰でない間は、それを支払う者に決して影響を与えない租税である。しかしながら、紙幣制度が設けられている国においては、かかる紙幣の発行はその所持人の要求次第それを正金で支払う義務を有つとはいえ、しかも、彼らの銀行券も鋳貨も共に、紙幣の流通を制限する妨げが働かないうちに、唯一の法貨たる鋳貨に対する造幣料の全額だけ減価されるべきことを、述べなければならない。もし金貨の造幣料が例えば五%であるならば、通貨は、銀行券の濫発によってそれを地金に熔解するために鋳貨を要求するのが銀行券の所持人の利益となるに先立って、実際五%だけ減価されるであろうが、これは金貨に対して何らの造幣料もないか、または造幣料が課せられたとしても、銀行券の所持人がそれと引換えに、鋳貨ではなく地金を、三ポンド一七シリング一〇ペンス二分の一の造幣価格で請求し得る場合には、吾々が決して曝されることなき減価である。かくて英蘭イングランド銀行が所持人の欲するままに、その銀行券を地金または鋳貨で支払うべく強制されていない限り、銀貨に対して六%すなわち一オンスにつき四ペンスの造幣料を課するが、しかし金は全然無料で造幣局に鋳造させるということを命ずる所の、最近の法律は、最も有効に通貨の不必要な変動を予防するであろうから、おそらく最も適当なものであろう。
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    第二十八章 富国及び貧国における、金、穀物、及び労働の比較価値について

(一三一)アダム・スミスは曰く、『金及び銀は、すべての他の貨物と同様に、最高の価格がそれに支払われる市場を当然に求める。そしてこの最高の価格は、これを支払う余裕が最もある国においてあらゆる物に与えられる。労働はあらゆる物に対して支払われる窮極的価格であることを、記憶しなければならない。そして労働の報酬が等しくよい国においては、労働の貨幣価格は労働者の生活資料のそれに比例するであろう。しかし金及び銀は、貧国よりも富国において、生活資料の供給が相当でしかない国よりもそれを豊富に有っている国において、より多量の生活資料と当然交換されるであろう。』
 しかし穀物は、金、銀、その他の物と同様に一貨物である。従ってもしすべての貨物が富国において高い交換価値を有つならば、穀物はそれから除外されるはずはない。従って吾々は、穀物は高価であるから多量の貨幣と交換されたのであり、また貨幣もそれが高価であるから多量の穀物と交換されたのであると、正しく言い得ようが、これは、穀物は同時に高価でありかつ低廉であると主張することである。富国は、食物供給の逓増的困難によって、貧国と同一の比率において人口が増加することを妨げられているということほど、経済学において十分に樹立され得る点はない。その困難は必然的に食物の相対価値を騰貴せしめ、その輸入に刺戟を与えねばならぬ。かくて貨幣、または金及び銀は、いかにして、貧国においてよりも富国においてより多くの穀物と交換され得るのであるか? 土地保有者が立法府を促して穀物の輸入を禁止せしめるのは、穀物の高価な富国においてのみである。アメリカまたはポウランドにおける、粗生生産物輸入禁止法を耳にしたものが、かつてあるか? ――自然は、それらの国におけるその生産の比較的内容なることによって、その輸入を有効に阻止したのである。
 しからば、『もし穀物、及びその他の全然人間の勤労によって作られる如き野菜類を別とすれば、すべての他の種類の粗生生産物――家畜、家禽、すべての種類の獲物、地中の有用な化石や鉱石類等は、社会が発展するにつれて当然より高価になる。』ということはいかにして真実たり得ようか? 穀物と野菜類のみが何故なにゆえに除外されねばならぬのか? その全著作を通じてのスミス博士の誤謬は、穀価は不変であり、すべての他の物の価値は騰貴し得ようが、穀物の価値は決して騰貴し得ないと想像することにある。穀物は、彼によれば、常に同数の人間を養うから常に同一価値を有っているのである。同様に毛織布は常に同数の上衣を作るから常に同一価値を有っていると言い得よう。価値は養ったり着せたりする力といかなる関係を有ち得ようか?
(一三二)穀物は、あらゆる他の貨物と同様に、あらゆる国において、その自然価格、すなわちその生産に必要でありそれが得られなければそれは耕作され得ない価格、を有っている。その市場価格を支配し、かつそれを外国に輸出する便否を決定するものは、この価格である。もし穀物の輸入が英国において禁止されるならば、その自然価格は英国においては一クヲタアにつき六ポンドに騰貴するかもしれぬが、他方それはフランスにおいては英国の価格の半ばに過ぎない。もしこの際輸入禁止が取除かれるならば、穀物は英国市場において、六ポンドと三ポンドとの間の一価格ではなく、窮極的にかつ永久的に、フランスの自然価格に、すなわち穀物が英国市場に供給され得かつフランスにおいて資本の通常利潤を与え得る価格に、下落するであろう。そして英国が十万クヲタアを消費しようと百万クヲタアを消費しようと、それはこの価格に止まるであろう。もし英国の需要が百万クヲタアであるならば、フランスが蒙る所のこの大なる供給をなすためにより劣等な質の土地に頼るという必要のために、自然価格はおそらくフランスにおいて騰貴するであろう。そしてこれはもちろん、英国における穀物価格にも影響を及ぼすであろう。私の主張するすべては、もし貨物が独占物でないならば、それらが輸入国において売られる価格を窮極的に左右するものは、輸出国におけるその自然価格である、ということである。
 しかし、貨物の自然価格がその市場価格を窮極的に左右するという学説をかくも見事に主張したスミス博士は、市場価格が輸出国の自然価格によっても輸入国の自然価格によっても左右されないと考えられる場合を想定した。彼は曰く、『オランダかジェノア領かの真実の富を減少し、他方その住民数を同一ならしめるならば、それらが遠隔諸国から供給を受けるという力を減少するならば、穀価は、この衰退の原因またはその結果として必然的にそれに伴わざるを得ぬ所の銀の分量の減少と共に下落することなくして、饑饉ききん価格にまで騰貴するであろう。』
 私にはその正反対のことが起るであろうと思われる、すなわちオランダ人またはジェノア人が一般に購買する力の減少は、しばらくの間穀価を、その輸出国並びにその輸入国において、その自然価格以下に引下げるかもしれぬが、しかしそれが穀価をこの価格以上に引上げ得るということは、全く不可能である。需要が増加され穀価がその以前の価格以上に騰貴し得るのは、オランダ人またはジェノア人の富を増加せしめることによってのみである。そしてこのことは、その供給を得るに当って新たな困難が起らない限り、極めて短い時間に起るであろう。
 スミス博士は更にこの問題について曰く、『吾々が必要品を欠いている時には、吾々はすべての余計なものを手離さなければならないが、かかるものの価格は、それが富と繁栄の時には騰貴する如くに、貧困と窮乏の時には下落するのである。』これは疑いもなく真実である。しかも彼は続けて曰く、『必要品についてはこれと異る。その真実価格、すなわちそれが購買または支配し得る労働量は、貧困と窮乏の時には騰貴し、富と繁栄の時には下落するが、この富と繁栄の時は常に大豊富の時であって、それはけだししからざればそれは富と繁栄の時ではあり得ないからである。穀物は必要品であり、銀は単に余計物であるに過ぎない。』
 互に何らの聯関も有たない二つの命題がここに提起されている。すなわちその一つは、想定された事情の下において穀物はより多くの労働を支配するということであって、争う余地のないことであり他方は穀物はより高い貨幣価格で売れ、すなわちそれはより多くの銀と交換されるということであって、私はこの後者は誤りであると主張する。もし穀物が同時に稀少であるならば、――もし平常の供給がなされなかったのであるならば、――これは真実であるかもしれない。しかしこの場合それは豊富である。日常以下の量が輸入されまたはそれ以上が必要とされるとは、されていない。穀物を購買するためにオランダ人またはジェノア人は貨幣を欲し、そしてこの貨幣を得るために彼らはその余計物を売らざるを得ない。下落するのはかかる余計物の市場価値及び市場価格である。しかし貨幣がそれらと比較して騰貴するように見える。しかしこれは穀物に対する需要を増加せしめる傾向を有たず、また貨幣価値を下落せしめる傾向も有たないであろう、この二つのことが穀物を騰貴せしめ得るただ二つの原因なのである。貨幣は信用欠除その他の原因によって、大いに需要され、従って穀物に比較して高価になるかもしれない。しかしいかなる正しい原則にっても、かかる事情の下においては貨幣は低廉となり従って穀価は騰貴するであろう、ということは主張され得ないのである。
 吾々が異る国の金、銀、その他の貨物の価値の高下を云う時には、吾々は常に、吾々がそれらを測定しているある媒介物を指示すべきであり、しからざればその命題にはいかなる観念をも附し得ない。かくて、金がスペインよりも英国においてより高価であると言われる時には、もしいかなる貨物も指示されないならば、この主張はいかなる観念を伝えるか? もし穀物や橄欖かんらんや葡萄酒や羊毛が英国よりもスペインにおいてより低廉な価格にあるならば、それらの貨物で測定すれば、金はスペインにおいてより高いのである。更にもし、鉄器や砂糖や毛織布等がスペインよりも英国においてより低廉な価格にあるならば、それらの貨物で測定すれば、金は英国においてより高いのである。かくして金は、観察者が金の価値を測定する媒介物として何を選ぶかに従って、スペインにおいてより高くもより低廉にも見えるのである。アダム・スミスは、穀物及び労働をもって普遍的価値尺度なりと刻印したから、当然それに対して金が交換される所のこれら二つの量によって、金の比較価値を測定するであろう。従って彼が二国における金の比較価値を論ずる時には、私は彼が穀物及び労働によって測定されたその価値を意味するものと理解する。
(一三三)しかし吾々は、穀物で測定すれば、金は二つの国において極めて異る価値を有つであろうことを見た。私は、それは富国においては高いということを示さんと努力した。アダム・スミスの意見はこれと異る。すなわち彼は、穀物で測定された金の価値は富国において最も高いと考えている。しかしこれらの意見のいずれが正しいかをより以上に検討せずとも、そのいずれも、金は鉱山を所有する国において必ずしもより低くはないということ――これはアダム・スミスによって主張されている命題であるが、――を説明するに足るものである。英国が鉱山を所有し、そして金は富国において最も高い価値を有つものであるというアダム・スミスの意見が正しいと仮定すれば、金は当然に英国からすべて他国へその財貨と交換して流出するであろうけれども、それらの国よりも英国においては穀物及び労働と比較して金[#「金」は底本では「穀物」]が必然的により低廉であるということにはならないであろう。しかしながら他の場所においてアダム・スミス[#「アダム・スミス」は底本では「アダムス・ミス」]は、スペイン及びポルトガルではヨオロッパの他の地方におけるよりも貴金属は必然的により低廉であるが、けだし両国は貴金属を生産する鉱山のほとんど独占的所有者であるから、と云っている。『封建制度がなお引続き存在しているポウランドは、今日、アメリカ発見以前の状態と同様に貧しい国である。しかしながら、ポウランドにおいてはヨオロッパの他の地方と同様に、穀物の貨幣価格は騰貴し金属の真実価値は下落した。従ってその分量は、他の地方と同様にその国において、そして土地及び労働の年々の生産物とほとんど同一の比例で、増加したに相違ない。しかしながらこれらの金属量のかかる増加は、その年々の生産物を増加せしめず、この国の製造業や農業を改善しもしなければ、またその住民の境遇を改善しもしなかったように思われる。鉱山を所有する国たるスペイン及びポルトガルは、ポウランドに次いで、おそらくヨオロッパにおける二つの最も貧しい国である。しかしながら貴金属の価値は、啻に運賃及び保険料のみならず、更に貴金属の輸出が禁止されているかまたは関税を課せられているために密貿易の費用をも負担している所のヨオロッパの他の地方におけるよりも、スペイン及びポルトガルにおいてより低くなければならない。しかしながらそれらの国はヨオロッパの大部分よりもより貧しいのである。スペイン及びポルトガルにおいて封建制度が廃止[#「廃止」は底本では「発止」]されているとはいえ、その後を継いだものは遥かにより良い制度ではなかった。』
 スミス博士の議論は思うにこうである。すなわち、金は、穀物で評価される時には、他の国におけるよりもスペインにおいてより低廉であり、そしてこのことの証明は、穀物を金の代償として他国がスペインに与えるということではなく、毛織布や砂糖や鉄器をこの金属の代償としてそれらの国が与えるということなのである。
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    第二十九章 生産者によって支払われる租税

(一三四)セイ氏は、製造貨物に対する租税が、その製造過程の後期よりもむしろ初期に課せられた場合に起る不都合を、大いに誇大視している。貨物がその手を順次に通過する製造業者は、租税を前払しなければならない結果、より大なる資金を用いねばならず、このことはしばしばその資本と信用が極めて少い製造業者に対し、著しい困難を伴う、と彼は言っている。かかる考察に対してはいかなる反対論もなされ得ない。
 彼が説いているもう一つの不都合は、租税の前払の結果、この前払に対する利潤もまた消費者に課せられなければならず、そしてこの附加的租税は国庫が何らの利益をも得ない所のものであるということである。
 この後の反対論においては私はセイ氏に同意することは出来ない。国家は直ちに一、〇〇〇ポンドを徴収せんと欲し、そしてそれを製造業者に賦課したが、彼は十二箇月の間はそれをその完成貨物の消費者に転嫁し得ない、と吾々は仮定しよう。かかる十二箇月の遅延の結果として、彼は啻にこの租税額たる一、〇〇〇ポンドのみならず、更におそらく一、〇〇〇ポンド――一〇〇ポンドは前払された一、〇〇〇ポンドに対する利子である――の附加的価格を、その貨物に課せざるを得ない。しかし、消費者の支払う一〇〇ポンドというこの附加額に対する代償として、消費者は真実の利益を得るが、けだし政府が直ちに要求しまた結局彼が支払わなければならぬ租税の彼れの支払が、一年間延期されたことになるからである。従って一、〇〇〇ポンドを必要とした製造業者にそれを一〇%またはその他の協定せらるべき利率で貸付ける機会が、彼に与えられたのである。金利が一〇%の時に、一年の終りに支払わるべき一千百ポンドは、直ちに支払わるべき一、〇〇〇ポンド以上の価値は有たない。もしも政府がその租税の収納をその貨物の製造が完了するまで一年間延期するならば、政府はおそらく利附大蔵省証券を発行せざるを得ないであろうが、それは、消費者が価格において節約するだけのものを――その製造業者が租税の結果として彼自身の真実利得に加えもし得べかりし価格部分を除く――利子として支払うであろう。もしこの大蔵省証券の利子として政府が五%を支払ったとすれば、五〇ポンドの租税がそれを発行しないことによって節約される。もし製造業者が附加的資本を五%で借入れ、そして消費者に一〇%を課するならば、彼もまたその前払に対し、その日常利潤以上に五%を利得するであろう、従って製造業者も政府も共に消費者が支払う額を正確に利得しまたは節約することになるのである。
(一三五)シモンド氏は、その名著『商業上の富について』において、セイ氏と同一の論法を辿って、一〇%なる適度の率の利潤を得ている一製造業者が本来的に支払う四、〇〇〇フランの租税は、もしこの製造貨物が単に五人の異る人々の手を経るのみであるならば、消費者にとり六、七三四フランに高められるであろうと計算した。この計算は次の仮定に基くものである。すなわち租税を最初に前払した者は、次の製造業者から四、四〇〇フランを受取り、そして彼はまたも次の者から四、八四〇フランを受取り、かくて各段階においてその価値に対する一〇%がそれに附加されるということである。これは、この租税の価値が、複利で、一年につき一〇%の率でではなくて、その進行の各段階において一〇%の絶対率で、蓄積されつつあることを、仮定するものである。ドゥ・シモンド氏のこの意見は、もしこの租税の最初の前払と課税貨物の消費者への売却との間に五箇年が経過するのであるならば、正しいであろう。しかしもし単に一年が経過するに過ぎないならば、二、七三四フランではなく四〇〇フランの報償が、この租税の前払に寄与したすべての者に、――その貨物が五人の製造業者の手を経ようと――五十人の手を経ようと――一年につき一〇%の率における利潤を与えるであろう。
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    第三十章 需要及び供給の価格に及ぼす影響について

(一三六)貨物の価格を終局的に左右しなければならぬものは生産費であり、そして、しばしば言われ来った如くに、供給と需要との間の比例ではない。すなわち供給と需要との比例は、もちろん一時の間、需要の増減に従って貨物の供給が増減するまでは、その市場価格に影響を及ぼすかもしれぬが、しかしこの結果はただ短期間のものに過ぎないであろう。
 帽子の生産費を減ずるならば、その価格は、需要が二倍、三倍、または四倍となっても、結局その新しい自然価格にまで下落するであろう。生命を保持するための食物や衣服の自然価格を減少することによって人々の生計費を減少するならば、労賃は労働者に対する需要が極めて著しく増加しても、結局下落するであろう。
 貨物の価格は、もっぱら、供給の需要に対する比例、に依存するという意見は、経済学においてほとんど一つの公理となるに至り、そして斯学における多くの誤謬の根源となって来ている。ビウキャナン氏をして、労賃は食糧品の価格の騰落によっては影響されず、もっぱら労働の需要と供給とによって影響されると主張せしめ、また労働の労賃に対する租税は労賃を騰貴せしめないが、けだしそれは労働者に対する需要の供給に対する比例を変更しないからである、と主張せしめたものは、この意見である。
(一三七)一貨物に対する需要は、その附加的分量が購買されまたは消費されないならば、増加すると言われ得ないが、しかもかかる事情の下において、その貨幣価値は騰貴するかもしれない。かくて、もし貨幣の価値が下落するならば、あらゆる貨物の価格は騰貴するであろうが、けだし、競争者達の各々は、その購買に当り以前よりもより多くの貨幣を喜んで支出するであろうからである。しかしその価格が一〇%または二〇%騰貴しても、もし以前よりもより多くが購買されないならば、おそらくは、その貨物の価格の変動がそれに対する需要の増加によって齎されたものであるとは、言い得ないであろう。その自然価格、その貨幣生産費は、真実に、変動した貨幣の価値によって変動したのであろう。需要には何らの増加もなくして、その貨物の価格は当然にその新しい価値に調整されるであろう。
 セイ氏は曰く、『諸物はそれまでは下落し得るが、それ以下になれば生産が全然止るかまたは減少されるからそれ以下には下落し得ない最低価格を、生産費が決定することを、吾々は知った。』第二巻、二六頁。
 彼は後に曰く、鉱山の発見以来金に対する需要は供給よりも更により大なる比例で増加したので、『財貨で測ったその価格は、十対一の比例では下落せずして、単に四対一の比例で下落したに過ぎなかった。』換言すれば、その自然価値の下落に比例しては下落せずして、供給が需要に超過したのに比例して下落した(註)。――『あらゆる貨物の価値は常に、需要に正比例し供給に反比例して騰貴する。』
(註)もし現実に存在すると同じ金及び銀の分量がありながら、これらの金属がただ什器や装飾品の製造にのみ用いられるならば、それは豊富となり、そして現在よりも極めてより低廉になるであろう。換言すれば、それを何らかの他種の財貨と交換するに当って、吾々は今に比例してそのより大なる分量を与えざるを得ないであろう。しかしこれらの金属の多量が貨幣として用いられており、しかもこの部分はそれ以外の目的には用いられていないから、家具や玉細工に用いるために残るものはより少い。さてこの稀少性がこれらの物の価値を増加するのである。――セイ、第二巻、三一六頁。なお七八頁の註を参照。
 同一の意見はロオダアデイル伯によっても述べられている。
『あらゆる価値物が蒙る所の価値の変動については、もし吾々がしばらくの間、ある物が、あらゆる事情の下において等しい価値を常に有つように、内在的、固定的の価値を有つと仮定し得るならば、かかる固定的標準によって確かめられた所のすべての物の価値の度は、その物の分量とそれに対する需要との間の比例に応じて変動するであろう、そしてあらゆる貨物は、もちろん、四つの異る事情によりその変動を蒙るであろう。
一、『その分量の減少によってそれはその価値の増加を蒙るであろう。
二、『その分量の増加によってその価値の減少を蒙るであろう。
三、『需要の増加という事情によってそれはその価値の増大を蒙るであろう。
四、『需要の減少によってその価値は減少するであろう。
『しかしながら、いかなる貨物も、他の貨物の価値の尺度たる資格を有つように、固定的、内在的の価値を有ち得るものでないことは、明かに分るであろうから、人類は、価値の実際的尺度として、価値変動のただ四つの原因たるこれらの四つの変動源泉のいずれにも最も蒙りそうもないものを、選択させられるのである。
『従って普通の言葉で吾々がある貨物の価値を言い表わす時には、八つ異る事情の結果として、それはある時期には他の時期のそれと変化するであろう。
一、『吾々が価値を言い表わそうと思う貨物に関して、上述の四つの事情によって。
二、『吾々が価値の尺度として採用した貨物に関して、同じ四つの事情によって。』(註)
(註)『公共の富の性質及び起源に関する一研究』、一三頁。
(一三八)これは独占貨物については真実であり、そして実際他のすべての貨物の市場価格についても限られた時期の間は真実である。もし帽子に対する需要が二倍となるならば、価格は直ちに騰貴するであろうが、しかし、帽子の生産費またはその自然価格が騰貴しない限り、その騰貴は単に一時的に過ぎないであろう。農業学におけるある大発見によりパンの自然価格が五〇%下落したとしても、需要は大いに増加しないであろうが、けだし何人も彼れの欲望を満足せしめるより以上を欲求しないであろうからである。そして需要が増加しないであろうから供給もまた増加しないであろう。けだし貨物は単にそれが生産され得るから供給されるのではなく、それに対する需要があるから生産されるのであるからである。かくてここに吾々は、供給と需要とがほとんど変化せず、またはそれが増加したとしても同じ比例で増加した場合を有つわけであるが、しかも貨幣の価値が引続き不変である時にもまた、パンの価格は五〇%下落することになるであろう。
 個人かまたは会社かによって独占されている貨物は、ロオダアデイル卿が述べている法則に応じて変動する。すなわちそれは売手がその分量を増加するに比例して下落し、そして買手のこれを購買せんとする熱望に比例して騰貴する。その価格はその自然価値と何らの必然的関聯も有たない。しかし競争の対象となりかつその分量がいかなる程度にも増加され得る貨物の価格は、結局、需要と供給との状態ではなくて、その生産費の増減に、依存するであろう。
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    第三十一章 機械について(編者註)

(編者註)本章は第一版にも第二版にも現われていない。
(一三九)本章において私は、機械が社会の異る階級の利益に及ぼす影響に関する研究に入るが、それは極めて重要な問題であり、そして何らかの確実なまたは満足な結果に導くが如くに研究されたことのないものであるように思われる問題である。この問題に関する私の意見を述べるのは私の義務となっていることより多いものであるが、けだしそれは、より以上考慮してみると、著しい変化を蒙っているからである。そして私は、機械に関して、私にとり撤囘しなければならぬ何事かを発表したとは思わぬが、しかも私は、現在誤謬であると考えている学説を、他の方法で支持したことがある。従って私の現在の見解を、それを抱懐ほうかいする私の理由と共に、検討に委ねるのが、私の義務となっているのである。
 私がはじめて経済学の諸問題に注意を向けてより以来、私の意見は、労働を節約するという結果を有つ如き、生産部門への機械の採用は、一般的福祉であり、単に多くの場合に資本及び労働を一職業から他の職業に移動することに伴う不都合を随伴するに過ぎない、というにあった。地主が同一の貨幣地代を得る限り、彼らは、かかる地代を費して得る貨物のあるものの価格の下落によって利得し、そしてこの価格の下落は、必ずや機械の使用の結果でなければならないように、私には思われた。資本家もまた思うに、結局正確に同様にして利得するものであった。もちろん機械の発明をなし、また最初にそれを有用に用いた人は、一時多額の利潤を得ることによって、その上に利益を享受するであろう。しかし、機械が一般に使用されるようになるにつれて、生産された貨物の価格は、競争の影響により、その生産費にまで下落し、その時には資本家は以前と同一の貨幣利潤を得、そして、彼は、同一の貨幣収入をもってより多量の愉楽品及び享楽品を支配し得せしめられるために、一消費者として、単に一般的便益に参加するに過ぎないであろう。労働者階級もまた、機械の使用によって等しく利得するが、けだし彼らは同一の貨幣労賃をもってより多くの貨物を購買するの手段を有つからである、と私は考え、また私は、労賃の低落は全く起らないであろうが、けだし、資本家は、彼は新しいまたはとにかく異る貨物の生産に労働を雇傭せざるを得ないとはいえ、以前と同一分量の労働を需要しかつ雇傭する力を有つからである、と考えた。もし、機械の改良によって、同一分量の労働の使用をもって、靴下の分量が四倍とされ得、そして靴下に対する需要は単に二倍とされるに過ぎないならば、若干の労働者は必然的に靴下製造業から解雇されるであろう。しかし、彼らを雇傭していた資本は依然存在し、そしてそれを生産的に使用するのがその所有者の利益であるから、それは、社会にとり有用でありかつそれに対しては必ず需要がある所のある他の貨物の生産に雇傭されるであろう、と私には思われた、けだし私は、アダム・スミスの次の考察が真実であることを深く印象されていたしまた印象されているからである。すなわち、『食物に対する欲望は、人間の胃の狭小な受容力によって、あらゆる人において限定されているが、しかし建物や衣服や馬車や家具の如き便宜品及び及び装飾品に対する欲望には、何らの限界もなく一定の境界もないように思われる。』かくて以前と同一の労働に対する需要があり、そして労賃は少しも下落しないように、私には思われたから、私は、労働階級は他の諸階級と等しく、機械の使用より起る貨物の価格の一般的下落による便益に、参加するものと考えたのである。
(一四〇)かかるものが私の意見であった。そしてそれは引続き、地主と資本家とに関する限りにおいては、変っていない。しかし私は今は、人間労働に対し機械を代えるのは、しばしば、労働者階級の利益に対し極めて有害であると確信している。
 私の誤りは、社会の純所得が増加する時には常にその総所得もまた増加するという仮定に発したものであった。しかしながら、私は今は、地主と資本家とがその収入を得る一つの資金は増加するであろうが、しかるに労働階級が主として依存する他の資金は減少するであろう、と信ずべき理由を知る。従って、もし私が正しいならば、国の純収入を増加すると同一の原因が、同時に人口をして過剰ならしめ、そして労働者の境遇を悪化せしめるであろう、ということになるのである。
 一資本家が二〇、〇〇〇ポンドの価値の資本を用い、そして彼は農業者と必需品の製造業者との事業を共に営むものと、吾々は仮定しよう。吾々は更に、この資本のうち七、〇〇〇ポンドは、固定資本、すなわち建物、器具等に投ぜられ、そして残りの一三、〇〇〇ポンドは流動資本として労働の支持に用いられるものと仮定しよう。また利潤は一〇%であり、従ってその資本家の資本は毎年その本来の能率状態に置かれて二、〇〇〇ポンドの利潤を生むものと仮定しよう。
 毎年この資本家は、一三、〇〇〇ポンドの価値を有つ食物及び必要品を所有して操作を開始し、そのすべてを一年間に自分自身の労働者に同じ金額の貨幣に対して売り、そして同一期間内に、彼は労働者に同額の貨幣を労賃として支払う。かくてその年の終りには、彼らは一五、〇〇〇ポンドの価値を有つ食物及び必要品を自己の所有に囘収し、そのうち二、〇〇〇ポンドは自分で消費し、または彼れの快楽及び満足に最も合致するように処分する。これらの生産物が関する限りにおいて、その年の総生産物は一五、〇〇〇ポンドであり、純生産物は二、〇〇〇ポンドである。今、次の年に資本家がその労働者の半分を機械の建造に用い、また他の半分を常の如くに食物及び必要品の生産に用いると仮定しよう。その年には彼は常の如くに労賃として一三、〇〇〇ポンドの額を支払い、またその労働者に食物及び必要品を同じ額だけ売るであろう。しかしその次の年にはどうなるであろうか?
 機械が造られている間は、通常量の半分の食物及び必要品が取得されるに過ぎず、そしてそれは以前に生産された分量の半分の価値を有つに過ぎないであろう。機械は七、五〇〇ポンドの価値を有ち、食物及び必要品は七、五〇〇ポンドの価値を有ち、従って資本家の資本の大いさは以前と同一であろう。けだし彼はこれらの二つの価値の他に、七、〇〇〇ポンドに値する固定資本を有っており、全体として二〇、〇〇〇ポンドの資本と、二、〇〇〇ポンドの利潤となるからである。この後者の額を彼自身の出費として控除した後に、彼は爾後じごの操作を行うべき流動資本としては五、五〇〇ポンドを有するに過ぎないであろう。従って彼れの労働を雇傭する手段は、一三、〇〇〇ポンド対五、五〇〇ポンドの比例で減少し、その結果として、七、五〇〇ポンドによって以前に雇傭されていたすべての労働は過剰となるであろう。
 この資本家が用い得る所の労働量の減少は、もちろん、機械の援助により、そしてその修繕のための控除をなした後、七、五〇〇ポンドに等しい価値を生み出さなければならない、それは流動資本を囘収し全資本に対し二、〇〇〇ポンドの利潤を得なければならない。しかしもしこのことがなされるならば、もし純所得が減少しないならば、総所得が三、〇〇〇ポンドの価値を有とうと、一〇、〇〇〇ポンドの価値を有とうと、または一五、〇〇〇ポンドの価値を有とうと、それはこの資本家にとっては何の関する所であろうか?
 しからばこの場合には、純所得の価値は減少せず、その貨物購買力は大いに増加するであろうけれども、総生産物は、一五、〇〇〇ポンドの価値から、七、五〇〇ポンドの価値に下落しているであろう、そして人口を支持し労働を使用する力は、常に国民の総生産物に依存し、その純生産物には依存しないから、必然的に労働に対する需要は減少し、人口は過剰となり、そして労働階級の境遇は窮乏と貧困とのそれになるであろう。
(一四一)しかしながら、資本を増加するために収入から貯蓄するの力は、純収入が資本家の欲求する所を充足する力に依存しなければならないから、必ずや、機械採用の結果たる貨物の価格の下落から、同一の欲求品を手に入れながら彼れの貯蓄力は増加する――収入を資本に転ずる便宜は増加する――という結果が起って来るであろう。しかし資本が増加するごとに彼はより多くの労働者を雇傭するであろう。従って最初に失業した者の一部分は後に雇傭されるであろう。そしてもし機械の使用の結果たる生産の増加が極めて大であるために、以前に総生産物の形で存在していたと同一量の食物及び必要品を純生産物の形で与えるならば、全人口を雇傭する能力は同一であり、従って何らの人口過剰も必然的に起るわけではないであろう。
 私の証明せんと欲するすべては、機械の発明と使用とは総生産物の減少を伴うかもしれず、そしてそれが事実である時には常に、それは労働階級にとって有害であり、その理由は、彼らのある者は解雇され、そして人口はそれを雇傭すべき基金に比して過剰となるであろうから、ということである。
 私が仮定して来た場合は私が選び得る最も簡単なものである。しかしもし吾々が、機械がある製造業――例えば毛織物業または木綿織物業――に用いられたとしても、それは結果において何らの相違も起さないであろう。もしそれが毛織物業であるならば、機械の採用後はより少なる毛織布が生産されるであろう。けだし多数の労働者に支払う目的で処分される分量の一部分は、彼らの雇傭者によって必要とされないからである。機械を使用する結果、単に消費された価値並びに全資本に対する利潤に等しい価値を再生産することが、彼にとり必要であろう。七、五〇〇ポンドが、一五、〇〇〇ポンドが以前になしたと同様に有効に、このことをなすであろうが、この場合は前の例といかなる点でも異らないからである。しかしながら、毛織布に対する需要の大いさは以前と同一であろう、と言われるかもしれず、またどこからこの供給が来るか、と問われるかもしれない。しかし誰によってこの毛織布は需要されるであろうか? 農業者達及び他の必要品生産者達――毛織布取得の手段としてこれらの必要品の生産にその資本を用いる農業者その他の必要品生産者によって、需要される。すなわち彼らは穀物及び必要品を毛織物業者に毛織布と引換えに与え、そして彼は、その雇傭する労働者に、その労働が彼に与えた所の毛織布と引換えにこれらのものを与えたのである。
 この取引は今終りを告げるであろう。毛織物業者は、雇傭すべき人間はより少く処分すべき毛織布はより少いのであるから、食物及び衣服を求めないであろう。単に一目的を達する手段として必要品を生産したに過ぎない所の農業者その他の者は、その資本をかく用いることによってはもはや毛織布を取得し得ず、従って彼らは、自らその資本を毛織布の生産に用いるか、または真に求められている貨物が供給されるために他人にそれを貸付けるであろう。そして何人もそれに対し支払手段を有たず、またはそれに対し需要のない所のものは、生産されざるに至るであろう。かくてこのことは吾々を同一の結果に導くこととなる、労働に対する需要は減少し、労働の支持にとり必要な貨物は同じ程度に豊富には生産されないであろう。
 もしかかる見解が正しいならばこういうことになる。すなわち第一、機械の発明及びその有用な使用は、たとえそれはまもなくして、その純生産物の価値を増加しないかもしれず、また増加しないであろうとはいえ、国の純生産物の増加に導くこと。
 第二、一国の純生産物の増加は総生産物の減少と両立するものであり、そして、機械を用いんとする動機は、もしそれが純生産物を増加せしめるならば、たとえそれは総生産物の分量とその価値との双方を減少せしめるかもしれず、またしばしば減少せしめなければならぬとはいえ、常にその使用を保証するに足るものであること。
 第三、機械の使用はしばしば労働者の利益に対し有害であるという、労働階級の抱いている意見は、偏見や誤謬に基くものではなく、経済学上の正しい諸原理に一致するものであること。
 第四、もし機械の使用の結果たる生産手段の改良が、一国の純生産物を、総生産物を減少せしめないほどの程度において増加せしめるならば、(常に私は貨物の分量を意味し価値は意味しない、)すべての階級の境遇は改善されるであろう。地主と資本家とは、地代と利潤との増加によってではなく、同一の地代と利潤とを、価値が極めて下落した貨物に支出することから生ずる便益によって、利得するであろう、しかるに労働階級の境遇もまた著しく改善されるであろう、第一に、僕婢に対する需要の増加によって、第二に、かくも豊富な純生産物が与える所の、収入からの貯蓄に対する刺戟によって、そして第三には、彼らの労賃がそれに支出されるすべての消費物の価格の下落によって。
(一四二)吾々の注意が今向けられて来た所の機械の発明と使用に関する考察とは別に、労働階級は、国の純所得が費される仕方について、たとえすべての場合においてそれは正当にそれを得る権利を有つ者の満足と享楽のために費されるとはいえ、少なからざる利害関係を有っている。
 もし地主または資本家が、その収入を、昔の貴族と同様に、多勢の家来または僕婢の支持に費すならば、彼は、それは美しい衣服や高価な什具、馬に、または何らかの他の奢侈品の購買に、費す場合よりも遥かにより多くの労働に職業を与えるであろう。
 双方の場合において、純収入は同一であり、総収入もまたそうであろうが、しかし前者は異る貨物に実現されるであろう。もし私の収入が一〇、〇〇〇ポンドであるならば、私がそれを美しい衣服や高価な什器に実現しようと、または同一の価値を有つ食物や衣服のある分量に実現しようとを問わず、ほとんど同一量の労働が雇傭されるであろう。しかしながら、もし私がその収入を第一群の貨物に実現するならば、その結果としてより以上の労働が雇傭されることはないであろう。――私は、私の什器や私の衣服を享楽し、そしてそれは終りを告げるであろう。しかし、もし私が、その収入を食物や衣服に実現し、そして私の願望が僕婢を雇傭するにあるならば、私が一〇、〇〇〇ポンドの私の収入をもって、あるいはそれが購買すべき食物や衣服をもって、僕婢として雇傭し得るすべての者が、労働者に対する以前の需要に附加されるはずであり、そしてこの附加は、ただ私がその収入をかくの如く費す方を選んだが故にのみ起るであろう。かくて労働者は労働に対する需要に利害関係を有っているから、彼らは当然、出来るだけ多くの収入が、奢侈品への支出から転向せしめられて僕婢の支持に費されることを望まなければならぬのである。
 同様にして、戦争をしておりかつ大陸海軍を維持しなければならぬ国は、戦争が終りを告げかつ戦争の齎す所の年々の支出が止んだ時に、用いられるよりも、極めてより多くの人間を、用いるであろう。
 もし私が、戦争の間に、五〇〇ポンドの租税――そしてそれは陸海軍人たる人々に支出されるものであるが――を求められないならば、私はおそらくその所得部分を、家具、衣服、書類等々に支出し、そしてそれがこれらのいずれの仕方で支出されようと、同一量の労働が生産に雇傭されるであろう。けだし陸海軍人の食物及び衣服は、それを生産するに、より奢侈的な貨物と同額の勤労を必要とするからである。しかし戦争の場合には陸海軍人たる人々に対する需要の増加があり、従って一国の収入よりして支持されその資本によっては支持されない戦争は、人口の増加に対して好都合なものである。
 戦争の終結に当り、私の収入の一部分が私の所に戻って来、以前と同様に葡萄酒や什器やその他の奢侈品の購買に用いられるならば、それが以前に支持しかつ戦争が齎した所の人口は過剰となり、そしてそれが爾余じよの人口に及ぼす影響と両者の間の就職競争とによって、労賃の価値は下落せしめられ、労働階級の境遇は著しく悪化されるであろう。
 一国の純収入の額の増加、またむしろその総収入の増加が、労働に対する需要の減少に伴う可能性について、注目すべきもう一つの場合がある、それは、馬の労働が人間のそれに代位せしめられる場合である。もしも私が私の農場に百名を用い、そして私が、これらの人々の中の五十名に与えられる食物が馬の支持に転向され得、しかも私に、馬の買入に要する資本の利子を控除した後に、より多量の粗生生産物の収穫を与えることを見出すならば、私にとっては、人間に代えるに馬をもってするのが有利であり、従って私はそうするであろう。しかしこのことは人々の利益とはならず、そして私の得る所得が私をして馬と人間との双方を用い得せしめるほどに増加されない限り、人口は過剰となり労働者の境遇は一般的に下落すべきことは明かである。彼がいかなる事情の下においても農業に雇傭され得ないことは明かである。しかしもし土地の生産物が、馬に代えるに人間をもってすることによって、増加されるならば、彼は、製造業に、または僕婢として、雇傭されるであろう。
(一四三)私のなした叙述が、望むらくは、機械は奨励されてはならないという推論に導かざらんことを。原理を明かにせんがために、私は、改良された機械が突然に発明され、そして広汎に使用される、と仮定して来た。しかし事実は、これらの発明は徐々たるものであり、そして資本をその現実の用途から他へ転向せしめるよりはむしろ、節約されかつ蓄積された資本の用途を決定するに作用するのである。
 資本と人口との増加ごとに、食物は、その生産の困難の増大によって、一般的に騰貴するであろう。食物の騰貴の結果は労賃の騰貴であり、そして労賃の騰貴ごとに、蓄積された資本が以前以上の比例において機械の使用に向うという傾向が起るであろう。機械と労働とはえず競争しており、そして前者はしばしば、労働が騰貴するまでは使用され得ないのである。
 人間の食物の調達が容易なアメリカその他の多くの国においては、食物が高くその生産に多くの労働が費される英国における如くに、機械を用いんとする大なる誘引はほとんどない。労働を騰貴せしめると同一の原因は機械の価値を騰貴せしめず、従って資本の増加ごとにそのより大なる部分が機械に用いられる。労働に対する需要は資本の増加と共に引続き増加するであろうが、しかしその増加に比例しては増加しない。その比率は必然的に逓減的比率であろう(註)。
(註)『労働に対する需要は流動資本の増加に依存し、固定資本の増加には依存しない。これら二種類の資本の間の比例はすべての時、すべての国において同一であるということが真実であるならば、もちろん、雇傭労働者は国家の富に比例するということになる。しかしかかる状態は起りそうもない。技術が進歩し文明が拡大するにつれて、固定資本は流動資本に対しますますより大なる比例を有つに至る。英国モスリン一反の生産に用いられる固定資本額は、印度インドモスリンの同じ一反の生産に用いられるそれよりも少くとも百倍、おそらく千倍もより多いであろう。そして用いられる流動資本の比例は百倍または千倍より少いであろう。一定の事情の下においては、勤勉な人民の年々の貯蓄の全部が固定資本に附加され、その場合にそれは労働に対する需要を増加するという影響を少しも有たないであろう、と考えることは容易である。』
 バアトン、『社会の労働階級の状態について』、[#「』、」は底本では「、』」]一六頁
 思うに、いかなる諸事情の下においても、資本の増加は労働に対する需要の増加を伴わないであろう、と考えることは容易でない。せいぜい言い得ることは、需要は逓減的比率にある、ということである。バアトン氏は上記の著書において、思うに、固定資本の分量の増加が労働階級の境遇に及ぼす影響のあるものについて、正しい見解をとっている。彼れの論文は多くの価値多い記述を有っている。
 私は前に、貨物で測定された純所得の増加――それは常に機械の改良の結果であるが、――が新しい貯蓄と蓄積とに導くであろうということもまた述べた。かかる貯蓄は、記憶すべきことであるが、毎年のことであり、そしてまもなく、初めに機械の発明によって失われた総収入よりも遥かにより大なる基金を造り出すはずであるが、その時には、労働に対する需要の大きさは以前と同一になり、そして人民の境遇は、増加せる純収入がなお彼らをしてなすを得せしめる貯蓄の増加によって、更により以上改善されるであろう。
 機械の使用は、一国家において、決して安全に阻まれ得ない、けだしもし我国において機械の使用が支えるべき最大の純収入を得ることが許されないならば、資本は海外に運ばれるからであり、そしてこのことは、機械の最も広汎な使用以上に重大な労働の需要に対する阻害であるに相違ない。何となれば、資本が我国において使用されている間は、それは労働に対する需要を創造するに相違ないからである。機械は人間の助力なくしては運転され得ず、それは彼らの労働の貢献なくしては製造され得ない。資本の一部分を改良された機械に投ずれば、労働に対する逓増的需要には減少が起るであろうが、それを他国に輸出すれば、需要は皆無に帰するであろう。
 貨物の価格もまたその生産費によって左右される。改良された機械の使用によって貨物の生産費は減少され、従ってそれは外国市場においてより低廉な価格で売られ得る。しかしながらすべての他国が機械の使用を奨励しているのにこれを拒否するならば、自国の財貨の自然価格が他国の価値にまで下落するまで、外国の財貨と引換に貨幣を輸出せざるを得ないこととなる。かかる国々と交換をなすに当って、我国において二日の労働を費した貨物を、外国において一日の労働を費した貨物に対して与えることとなり、そしてこの不利益な交換は自己自身の行為の結果たるものである。けだし輸出されかつ二日の労働を費されている貨物は、隣国人がより賢明にその作用を専用した所の機械の使用を拒否しなかった場合には、単に一日の労働が費されたに過ぎなかったものであるからである。
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    第三十二章 地代についてのマルサス氏の意見

(一四四)地代の性質については本書の前の場所でかなり長く取扱ったけれども、しかも私は、私には誤っているように思われ、かつそれが今日のすべての人の中で、経済学のある部門が負うこと最も多き人の著作において見出されるためにより重要である所の、この問題に関するある意見に、触れるべきであると考える。マルサス氏の人口に関する試論について、私は賞讃の意を表現すべき機会がここに与えられたことを、幸福とする。この大著作に対する反対論者の攻撃は、単に彼れの強みを説明したに過ぎなかった。そして私は、その正当な名声は、この書がもって飾る所の経済学の進歩と共に拡がり行くことを確信するのである。マルサス氏はまた、地代に関する諸原理を十分に説明し、そしてそれは耕作されている種々なる土地の肥沃度または位置についての相対的便益に比例して騰落することを説明し、ひいては以前には全く知られていなかったかまたは極めて不完全にしか理解されていなかった地代の問題に関聯する多くの難点に、多くの光明を投じたのである。しかし彼は二三の誤謬に陥っているように思われるが、これを指摘することは彼が権威ある学者であるためにより必要であり、他方彼の性来の淡白のためにこのことはさほど不快ではなくなる。これらの誤謬の一つは、地代をもって、明かな利益でありかつ富の新創造である、と想像することにある。
 私は地代に関するビウキャナン氏のすべての意見には同意しないが、しかし、マルサス氏によって彼れの著書から引用された章句中に現れているものには、全く同意する。従って私は、それに対するマルサス氏の評論には反対しなければならない。
『かく観ずれば、それ(地代)は、社会の資本に対する一般的附加をなすことは出来ない、けだし、問題の純剰余は一つの階級から他の階級に移転された収入に他ならないからであり、またそれがかく所有者を変えるというだけでは、租税を支払うべき何らの基金も発生し得ないことは、明かである。土地の生産物に対し支払う収入は、その生産物を購買する者の手中に既に存在している。そしてもし生計費がより低いならば、それは依然彼らの手中に止り、その手中において、あたかもより高い価格によってそれが地主の手に移転される時とまさに同様に、租税の支払に宛てられ得るであろう。』
 粗生生産物と製造貨物との相違について種々なる考察をなした後、マルサス氏は問う、『しからば、ドゥ・シスモンディ氏と共に、地代をもって、純粋に名目的な価値を有つ唯一の労働生産物であり、そして売手が特別の特権の結果として取得する価格騰貴の単なる結果であると考えることは、可能であるか? またはビウキャナン氏と共に、それをもって、国民的富に対する何らの附加でもなく、単に、地主にとってのみ有利でありかつそれに比例して消費者にとっては有害な価値の移転に過ぎぬと考えることは、可能であるか?』(註)
(註)『地代の性質及び増進に関する研究』一五頁
 私は地代を論ずる際に既にこの問題に関する私見を述べた、そしてここで更に私が附加せねばならぬことは、単に、地代は私が解する意味での価値の創造であるが富の創造ではない、ということだけである。もし穀価が、そのある部分を生産するの困難によって、一クヲタアにつき四ポンドから五ポンドに騰貴するならば、百万クヲタアは四、〇〇〇、〇〇〇ポンドではなく五、〇〇〇、〇〇〇ポンドの価値を有ち、そしてこの穀価は、啻により多くの貨幣と交換されるのみならず、またより多くのあらゆる他の貨物と交換されるであろうから、所有者はより多額の価値を得るであろう。そしてその結果として他の何人もより少い価値を有つことにはならないから、社会は全体としてより多くの価値を有するに至るのであり、そしてその意味において地代は価値の創造である。しかしこの価値は、それが社会の富、すなわち必要品、便宜品、及び享楽品に何物をも附加しない限りにおいて、名目的である。吾々は以前とまさに同一量の貨物を有ち――そしてより以上は有たない――そして同一の百万クヲタアの穀物を有つであろう。しかしそれが一クヲタアにつき四ポンドではなく五ポンドで評価される結果は、穀物及び諸貨物の価値の一部分を、その以前の所有者から地主に移転することとなるであろう。かくて地代は価値の創造であるが富の創造ではない。それは国の資源には何物をも附加せず、それは国をして陸海軍を維持し得せしめない。けだし、その土地がより優等の質であり、かつ地代を生み出さずに同一の資本を用い得る場合には、国ははじめてより多くの基金を自由に処分し得ることとなるのであるからである。
 かくてシスモンディ氏及びビウキャナン氏が――というのは両者の意見は実質上同一であるから――地代をもって純粋に名目的な価値であるとし、かつ国民的富に対する何らの附加をもなすものではなくして、単に地主にとってのみ有利であり、それに比例して消費者にとっては有害な価値の移転に過ぎないとしたのは、正しかったと認められなければならない。
(一四五)マルサス氏の『研究』の他の部分において彼は曰く、『地代の直接原因は、明かに、粗生生産物が市場で売れる価格が生産費を越す超過である。』また他の場所において曰く、『粗生生産物の高い価格の原因は三つであると言い得よう、――
『第一に、かつ主として、それによって、土地の上に用いられる人間の支持のために必要とされるよりもより多量の生活の必要品を、土壌が生産せしめられ得るという、土壌の性質。
『第二、それ自身に対する需要を作り出し、または生産された必要品の分量に比例して需要者数を出現せしめ得るという、生活の必要品に特有な性質。
『そして第三、最も肥沃な土地の比較的稀少性。』
 穀物の高い価格を論ずるに当り、マルサス氏は明かに、一クヲタアまたは一ブッシェルについての価格を意味せずして、むしろ全生産物が売れる価格が、その生産費――『その生産費』なる語には常に労賃並びに利潤が含まれる、――を越す超過を意味している。一クヲタアにつき三ポンド一〇シリングの穀物百五十クヲタアは、もし生産費が双方の場合において同一であるならば、四ポンドの穀物一、〇〇〇クヲタアよりもより大なる地代を地主に与えるのであろう。
 かくて高い価格は、かかる表現がこの意味に用いられる場合には、地代の原因とは呼ばれ得ない。『地代の直接的原因は明かに、粗生生産物が市場で売れる価格が生産費を越す超過である。』とは言われない、けだしその超過がそれ自身地代であるからである。地代をもってマルサス氏は、『全生産の価値のうち、その種類の何たるかを問わずその土地の耕作に属するすべての出費――その中には、当該時の農業資本の日常かつ通常利潤率で測定された所の、投下資本の利潤が含まれる――が支払われた後に、土地の所有主に残る部分』と定義した。さてこの超過が売れる額が幾干であろうと、それは貨幣地代である。それはマルサス氏が、『粗生生産物が市場で売れる価格が生産費を越す超過』という語で意味している所のものである。従って生産費に比較して粗生生産物の価格を高めるべき原因の研究においては、吾々は、地代を高めるべき原因を研究しているのである。
(一四六)マルサス氏が挙げている地代の騰貴の第一原因、すなわち、『それによって、土地の上に用いられる人間の支持のために必要とされるよりもより多量の生活の必要品を、土壌が生産せしめられ得るという、土壌の性質』に関して彼は次の如き考察をなしている。『吾々はなお、何故なにゆえに消費と供給とが価格をかくも著しく生産費を超過せしめる如きものであるか、ということを知ろうと欲するが、その主たる原因は明かに生活の必要品を生産するに当っての土壌の肥沃度である。この豊饒を減少し、土壌の肥沃度を減少せよ、しからばこの超過は減少するであろう。それを更に減少せよ、しからばそれは消失するであろう。』しかり、必要品の超過は減少し消失するであろう、しかしそれが問題であるのではない。問題はその生産費以上に出ずるその価格超過が減少し消失するか否か、ということである。けだし貨幣地代はこのこと如何いかんに依存するからである。マルサス氏は次の推論においても正鵠を得ているであろうか? すなわち分量の超過が減少し消失するであろうから、従って『生産費を超過する生活必要品の高い価格の原因は、その稀少よりはむしろその豊富の中に、見出さるべきであり、そして、啻に人為的独占によって惹起された高い価格とは本質的に異るのみならず、更にまた、必然的独占物と呼ばれ得べき所の、食物に関係なき土地の特殊の生産物の高い価格とも本質的に異るものである』と。
 土地の肥沃度及びその生産物の豊饒が、生産費を越すその価格の超過の減少、――換言すれば地代の減少、を伴うことなくして減少するという、事情はないであろうか? もしかかる事情があるならば、マルサス氏の命題は余りにも一般的に過ぎる。けだし彼は、地代は土地の肥沃度の増加につれて騰貴し、その肥沃度の減少につれて下落するということを、すべての事情の下において真実な一般的原理なりと述べているように、私には思われるからである。
 もし、ある一定の農地について、土地が豊富に産出するに比例して、全生産物中のより大なる分量が地主に支払われるならば、マルサス氏は疑いもなく正しいであろう。しかしその反対が事実である。すなわち最も肥沃な土地のみが耕作されている時には、地主は全生産物の最小の比例と最小の価値とを受取り、そして全生産物に対する地主の分前も、彼れの受領する価値も、逓増的に増加するのは、より劣等な土地が、増加しつつある人口を養うために必要とされる時に限られるのである。
 穀物に対する需要は百万クヲタアであり、そしてそれは実際に耕作に引入れられている土地の生産物であると仮定しよう。そこで、すべての土地の肥沃度が、このまさに同じ土地が九〇〇、〇〇〇クヲタアしか産出しないほどに減じたと仮定しよう。需要は百万クヲタアであるから、穀価は騰貴し、優等地が引続き百万クヲタアを生産していた場合よりも速かに、劣等地に必然的に頼らなければならない。しかし、地代騰貴の原因であり、かつ地主の受取る穀物量が減少しても地代を引上げるものは、この劣等地を耕作するという必要である。地代は、記憶すべきであるが、耕作地の絶対的肥沃度には比例せず、その相対的肥沃度に比例するものである。資本をより劣等な土地に駆るすべての原因は、優等地に対する地代を引上げるに相違ない。けだし地代の原因は、マルサス氏によってその第三命題において述べられている如くに、『最も肥沃な土地の比較的稀少性』であるからである。穀価は当然その最終部分を生産する困難と共に騰貴し、そして一特定農場において生産される全分量は減少しても、その価値は増加するであろう。しかし、労賃と利潤との合計は引続き常に同一の価値を有つために(註一)より肥沃な土地においては生産費は増加しないであろうから、生産費を越す価格の超過、または換言すれば地代は、資本、人口及び需要の大きな減少によって妨げられない限り、土地の肥沃度の減少と共に騰貴しなければならぬことは、明かである。かくてマルサス氏の命題が正しいとは思われない。すなわち地代は土地の肥沃度の増減と共に、直接的にかつ必然的に騰落するものではなく、その肥沃度の増加がそれをして、ある将来の時において、増加せる地代を支払い得せしめるに過ぎない。ほとんど肥沃度のない土地は決して何らの地代をも生じ得ない。適度の肥沃度を有つ土地は人口が増加するにつれて適度の地代をまた大なる肥沃度を有つ土地は高い地代を生ぜしめられ得よう。しかし高い地代を生じ得るということと実際にそれを支払うということとは、別物である。土地が適度の収穫を産出するよりも、土地が極めて肥沃な国における方が、地代がより低いこともあろう、けだし地代は絶対的肥沃度よりはむしろ相対的肥沃度に、――生産物の豊富よりはむしろその価値に、――比例するからである(註二)。
(註一)私は、穀物の生産にいかなる難易があろうとも、労賃と利潤との合計は同一の価値を有つということを説明せんと努めた。労賃が騰貴する時にはそれは常に利潤を犠牲にしてであり、またそれが下落する時には利潤は常に騰貴するのである。
(註二)マルサス氏は、最近の著作において、この章句で私が彼を誤解しているが、けだし彼は、地代は土地の肥沃度の増減と共に直接的にかつ必然的に騰落すると、言おうとはしているのでないから、と述べている。もしそうならば、私は確かに彼を誤解していた。マルサス氏の言葉は次の如くである、『この豊饒を減少し、土壌の肥沃度を減少せよ、しからばこの超過(地代)は減少するであろう。それを更に減少せよ、しからばそれは消失するであろう。』マルサス氏はその命題を条件的には述べず、絶対的に述べている。私は、土壌の肥沃度の減少は地代の増加と両立し得ない、と彼が主張しているように私に理解される所に、反対したのである。
 マルサス氏は、自然的また必然的独占物と呼ばれ得る土地の、特殊の生産物を産出する土地に対する地代は、生活の必要品を産出する土地の地代を、左右するものとは本質的に異る原理によって左右される、と想像している。彼は高い地代の原因たるものは、前者にあってはその生産物の稀少性であるが、しかし同一の結果を生み出すものは、後者にあってはその豊饒性である、と考えているのである。
 この区別はその根拠が十分であるとは、私には思われない。けだし、もし同時にこの特殊貨物に対する需要が増加するならば、その生産物の分量を増加することによって、穀物地の地代と同様に、稀少な葡萄酒を産出する土地の地代も、確かに増加され、そして同様な需要の増加がなければ、穀物の豊富な供給は、穀物地の地代を引上げずしてかえって下落せしめるであろうからである。地質がどうであろうとも、高い地代は生産物の高い価格に依存しなければならない。しかし高い価格が与えられているならば、地代は豊饒性に――稀少性ではなく――比例して高くなければならない。
 吾々は、一貨物の需要される分量以上のものを永久的に生産する必要はない。もし偶然にあるより大なる分量が生産されるならば、それはその自然価格以下に下落し、従って生産費――その原費には資本の通常利潤を含む――を支払わず、かくて供給は妨げられ、ついに供給は需要に一致し、そして市場価格は自然価格にまで騰貴するに至るのである。
 マルサス氏は、人口の一般的増加は、資本の増加、その結果たる労働に対する需要、及び労賃の騰貴によって、生ずるものであり、食物の生産は単にその需要の結果に過ぎない、とは考えずに、人口は単に以前からの食物の備えによってのみ増加され、――『それ自身に対する需要を創り出すものは食物である、』――結婚に対して奨励が与えられるのは、まず食物を備えることによってである、と考えるに、余りに心傾き過ぎているように、私には思われる。
 労働者の境遇が改善されるのは、彼らにより多くの貨幣を、またはそれで労賃が支払われかつその価値が下落しなかった所の何らかの他の貨物を、与えることによってである。人口の増加と食物の増加とは、一般に高い労賃の結果ではあるが、その必然的な結果ではないであろう。労働者に支払われる価値の増加の結果としてのその境遇の改善は、必ずしも、彼をして結婚せしめ、家族を支える費用を負担せしめるものではない、――彼は、おそらくたぶん、その騰貴せる労賃の一部分を、食物及び必要品を豊富に手に入れるために用いるであろう、――しかし彼はその残りで、もしそれが好ましいならば、彼れの享楽に寄与し得べき何らかの貨物――椅子や卓子や鉄器またはより良い衣服や砂糖や煙草――を購買するであろう。かくて彼れの騰貴せる労賃の伴うものは、かかる貨物のある物に対する需要の増加に他ならないであろう。そして労働者の種は大いに増加されることはないであろうから、彼れの労賃は引続き永久的に高いであろう。しかし、これが高い労賃の結果であるにしても、しかも家庭の歓喜は極めて大であり、ために実際上、人口の増加が労働者の境遇の改善に随伴することは、常に見出される。そしてこれが事実であればこそ、前述の極めて些少の例外を除き、食物に対する新しい需要の増加が起るのである。しからばこの需要は資本及び人口の増加の結果ではあるが、しかしその原因ではない、――必要品の市場価格が自然価格に超過し、必要とされる食物量が生産されるのは、人民の支出がこの方向を取るが故に他ならない。そして労賃が再び下落するのは、人口が増加するが故である。
 その結果が、穀物の市場価格がその自然価格以下に下落することであり、従ってまた利潤を一般率以下に減少されるために彼れの利潤の一部分が無くなることである時に、農業者は、現実に需要される以上の穀物を生産するいかなる動機を有ち得ようか? マルサス氏は曰く、『もし土地の最も重要な生産物たる生活の必要品が、その量の増加に比例せる需要の増加を造り出す性質を有たなかったならば、かかる量の増加はその交換価値の下落を惹起すであろう(註)。国の生産物がいかに豊富であろうと、その人口は依然停止しているであろう。そして比例的需要を伴わず、かつかかる事情の下において当然起るべき労働の穀物価格の著しい騰貴を伴う所の、この豊富は、粗生生産物の価格を、製造貨物の価格と同様に、生産費にまで下落せしめるであろう。』
(註)いかなる量の増加をマルサス氏は論じているのであるか? 誰がそれを生産することになっているのであるか? 増加された分量に対する何らの需要も存在しないうちに、誰がそれを生産する動機を有ち得ようか?
 粗生生産物の価格を生産費にまで下落せしめるであろうという。それはある時期の間、この価格の上または下にあるのであるか? マルサス氏自身が、決してそうはならないと述べているではないか? 彼は曰く、『私は少しく止って、穀物は、現実に生産された分量に関しては、製造貨物と同様に、その必要価格で売られるという学説を種々なる形で、読者に提示することを許されたい、けだし私は、これをもって、経済学者により、アダム・スミスにより、また粗生生産物は常に独占価格で売れるとなしているすべての論者によって、看過され来った所の、最も重要な真理であると考えるからである。』
『かくてあらゆる広大な国は、穀物及び粗生原料の生産のための、諸々の等級の機械を所有するものと、考え得よう。この等級の中には、啻にあらゆる国に豊富にある所のすべての貧弱な土地のみならず、更に良質の土地が段々と附加的生産物を強制される時に用いられるものと云い得る所の劣等な機械も、含むものである。粗生生産物の価格が引続き騰貴するにつれて、これらの劣等な機械は順次に運転せしめられ、そして粗生生産物の価格が引続き下落するにつれて、これらは順次に運転されなくなる。ここに用いた例証は、同時に、現実の生産物にとっての現実の穀価の必要条件及びある特定の製造貨物の価格の著しい下落と、粗生生産物の価格の著しい下落とに伴う結果の異ることを、示すに役立つものである。』(註)
(註)『一研究』、[#「』、」は底本では「、』」]云々。『あらゆる進歩的国家においては、穀物の平均価格は決して、生産物の平均的増加を継続せしめるに必要な額以上にはならない。』『穀物条例の結果に関する諸観察』、[#「』、」は底本では「、』」]一八一五年、二一頁。
『増加しつつある人口の欲望する所を供給するために、土地に新しい資本を用いるに当って、――この新しい資本が耕地を拡張するに用いられようと、または既耕地を改良するに用いられようと、――主要な問題は常に、この資本に対する希望収得に依存する。そして総利潤のいかなる部分も、かかる資本の用い方に対する動機を減少せしめることなしには、減少され得ない。農地のすべての必要費のそれに比例する下落によって十分にかつ直ちに相殺されない所のあらゆる価格下落、土地に対する租税、農業資本に対するあらゆる租税、農業者の必要品に対するあらゆる租税は、計算に現われて来るであろう。そしてもしこれらすべての費用を斟酌した後に、生産物の価格が、用いられた資本に対し一般利潤率によっての正当の報酬及び少くともその以前の状態における土地の地代に等しい地代を、残さないならば、計画された改良をなすに足る動機は存在し得ない。』『諸観察』二二頁。
 いかにしてこれらの章句は、もし生活必要品が、その分量の増加に比例せる需要の増加を創造するという性質を有たないならば、その時には、そしてその時においてのみ、生産された豊富な分量は粗生生産物の価格を生産費にまで下落せしめるであろう、ということを主張する章句と、調和せしめらるべきであるか? もし穀物が決してその自然価格以下にないならば、それは決して現実の人口が彼ら自身の消費のために必要とする以上に豊富ではない。他人の消費に対してはいかなる貯蔵もなされ得ない。しかる時はそれはその低廉と豊富とによって人口に対する刺戟となることは決してあり得ない。穀物が生産され得るに比例して、労働者の労賃の騰貴は家族の維持力を増大するであろう。アメリカでは人口は急速に増加するが、それは食物が低廉な価格で生産され得るからであり、豊富な供給が事前になされているからではない。ヨオロッパでは人口は比較的緩慢に増加するが、それは食物が低廉な価格で生産され得ないからである。通常の事態においては、すべての貨物に対する需要はその供給に先行する。もし穀物が需要者を出現せしめ得ないならば、それは製造品と同様に、その生産価格にまで下落するであろう、と言うことによって、マルサス氏は、すべての地代が吸収されてしまうということを意味し得ない。けだし彼は自ら正当にも、もしすべての地代を地主が抛棄しても穀価は下落せず、けだし、地代は高い価格の結果であって原因ではなく、そして何らの地代も支払わずかつそこで産する穀物はその価格によって労賃及び利潤を囘収するに過ぎないという一地質の耕地があるからである、ということを述べているからである。
 次の章句において、マルサス氏は、富める進歩的な国における粗生生産物の価格騰貴の原因についての有能な説明を与えているが、そのあらゆる言葉に私は同意する。しかし私には、それは、彼れの地代に関する試論において彼が支持している命題のあるものと相違しているように思われる。『私は次の如く述べるに何ら躊躇しない、すなわち、一国の通貨の不規則なことやその他の一時的な偶発的な諸事情を別にすれば、穀物の高い比較的貨幣価格の原因は、その高い比較的真実価格またはそれを生産するに用いられねばならぬ資本及び労働のより大なる分量であり、そして既に富みそして更に繁栄と人口とにおいて進展しつつある国において、穀物の真実価格がより高くかつ引続き騰貴しつつある理由は、不断により貧弱な土地、それを運転するにより大なる費用を要し従って国の粗生生産物の新しい附加はいずれもより大なる原費で購買されるということになる所の機械に、頼るという必要の中に、見出さるべきであり、略言すればそれは、穀物は、進歩的国家においては、実際の供給を産出するに必要な価格で売られるという重要な事実の中に見出さるべきであり、そしてこの供給はますます困難となって来るから、価格はそれに比例して騰貴する、ということこれである。』
 ここでは正当にも、貨物の真実価格は、それを生産するに用いられねばならぬ労働及び資本(すなわち蓄積された労働)の分量の大小に依存する、と述べられている。真実価格はある者の主張している如くに、貨幣価値に依存するものではなく、また他の者の言っている如くに、穀物や労働やまたは何らかの他の貨物を単独に見、またはすべての貨物を全体として見て、それに対する価値に依存するものでもなく、マルサス氏が正当に言っている如くに、『それを生産するために用いられねばならぬ労働及び資本の分量の大(小)に依存する』のである。
(一四七)地代の騰貴の原因の中に、マルサス氏は『労働の労賃を下落せしめる如き人口の増加』を挙げている。しかしもし、労働の労賃が下落するために資本の利潤が騰貴しかつそれらは合計して常に同一の価値を有つならば(註)、それは農業者と労働者との両者に割当てられる生産物の分量も、またその価値も減少せしめず、従って地主により大なる分量もより大なる価値も残さないであろうから、いかなる労賃の下落も地代を引上げることは出来ない。労賃として与えられるものが減少するに比例して、利潤として与えられるものは増加し、その反対も真である。この分割は地主のいかなる干渉もなしに、農業者とその労働者によって定められるであろう。そして実にそれはある分割が他のものよりも、新しい蓄積と土地に対するより以上の需要とに対して、より好都合であるという場合を除けば、地主が利害関係を有ち得ぬ事柄である。もしも労賃が下落するならば、利潤は騰貴するであろうが地代は騰貴しない。もし労賃が騰貴するならば、利潤は下落するであろうが、地代は下落しない。地代と労賃との騰貴及び利潤の下落は、一般に、同一の原因の――すなわち、食物に対する増加しつつある需要、それを生産するに必要とされる労働量の増加、およびその結果たるその高い価格の――不可避的な結果である。たとえ地主がその全地代を抛棄しても、労働者は毫も利得しないであろう。たとえ労働者がその全労賃を抛棄し得ても、地主はかかる事情から何らの利益をも得ないであろう。しかし双方の場合において、農業者は、両者が抛棄するすべてを受取りかつ保持するであろう。労働の下落は利潤を引上げる以外の何らの他の影響をも及ぼさない、ということを本書において説明するのが、私の努力であった。利潤のあらゆる騰貴は、資本の蓄積とより以上の増加に好都合であり、従っておそらくはたぶん、結局地代の増加に導くであろう。
(註)一一二、一一三頁。[#第六章第九段落目以降のこと]
(一四八)地代騰貴のもう一つの原因は、マルサス氏によれば、『一定の収穫量を生産するに必要な労働者の数を減少する如き農業上の改良または努力の増加』である。この章句に対しては、土地の肥沃度の増加が地代の直接騰貴の原因であると論じている章句に対して、私が抱いたと同一の反対論を、私は抱いている。農業における改良も優れた肥沃度も、土地に、ある将来の時期により高い地代を生出す能力を与えるであろうが、それはけだし、食物の価格は同一であり、しかも大なる附加的分量があるからである。しかし人口の増加が同じ比例になるまでは、附加的食物量は必要とされず、従って地代は下落するが騰貴はしないであろう。その時に存在する事情の下においては消費され得べき分量は、より少数の労働者によってかまたはより少量の土地によって、供給され得ることとなり、粗生生産物の価格は下落し、そして資本は土地から引去られるであろう(註一)。より劣等な質の新しい土地に対する需要、または既耕地の相対的肥沃度に変動を惹起す如きある原因を除けば、いかなるものも地代を騰貴せしめ得ない(註二)。農業及び分業における改良はすべての土地に共通である。それはその各々から得られる粗生生産物の絶対量を増加するが、しかしおそらくは、以前にそれらの間に存在していた相対的比例を多くはみだしはしないであろう。
(註一)七三、七四頁を参照。[#第二章後ろから数えて三段落目のこと]
(註二)一定量の附加的資本が、何らの地代も支払われない新しい土地に用いられようと、または既に耕作されている土地に用いられようと、もし両者から取られる生産物が分量において正確に同一であるならば、粗生生産物の価格及び地代の騰貴に関する限りにおいては、同一の結果が随伴するであろう、ということは、あらゆる場合に述べる必要はないが、常に理解されていなければならぬ。五七頁を参照。[#第二章(二五)の最後の段落のこと]
 セイ氏は、本書の仏訳に対する彼れの註において、いかなる時においても地代を支払わない耕地は存在しないということを証明しようと努め、そしてこの点について確信を得た後に、彼は、かかる学説から結果するすべての結果を覆したと結論している。例えば彼は、私が穀物その他の粗生生産物に対する租税はその価格を騰貴せしめることによって消費者の負担する所となり地代の負担する所とはならないと云ったのは正しくない、と推論している。彼は、かかる租税は地代の負担する所とならなければならない、と主張している。しかしセイ氏は、この推論の正確なることを証する前に、また、何らの地代も支払われない土地に用いられる資本はないということを、証明しなければならない(この註の最初及び本書の五二――五三頁と五四頁とを参照[#第二章(二四)のこと])。しかるにこのことを彼はなそうとはしていない。彼れの註のいかなる部分においても彼はこの重要なる学説を反駁しておらず、留意さえしていない。仏訳。第二巻、一八二頁に対する彼れの註によれば、彼はこの学説が述べられていることさえ知っているとは思われない。
(一四九)マルサス氏は、穀物は特殊の性質を有っており、ためにその生産は、すべての他の貨物の生産が奨励されると同一の手段によっては奨励され得ない、というスミス博士の議論の誤謬を、正当に評論した。彼は曰く、『多年の間を平均して、穀価が労働の価格に及ぼす力強い影響を、決して否定せんとするものではない。しかし、この影響が土地へのまたは土地からの資本の移動を妨げるが如きものではない――これこそが問題の点である、――ということは、労働が支払われかつ市場に齎される仕方を簡単に研究し、またアダム・スミスの命題を仮定すれば不可避的にそうならざるを得ぬ結論を考えれば、十分に明かならしめられるであろう。』(註)
(註)『穀物条例に関する諸観察』四頁
 次いでマルサス氏は、進んで、需要と価格騰貴とは、ある他の貨物の需要と価格騰貴とがその生産を奨励すると同様に有効に、粗生原料品の生産を奨励するということを、説明している。私がこの見解に完全に同意するものなることは、奨励金の結果について私が前述せる所からして分るであろう。私はマルサス氏の『穀物条例に関する諸観察』と、『一意見の諸基礎』云々と題されている彼れの他のパムフレットで、いかに違った意味で真実価格なる言葉が用いられているかを示さんがために、前者からの章句を注意した。この章句においてマルサス氏は、『穀物の生産を奨励し得る所のものは、明かに真実価格の増加のみである』と吾々に告げているが、彼は明かに真実価格なる語によって、他のすべての物に相対するその価格の増加を、または換言すれば、その自然価格またはその生産費以上に出ずるその市場価格の騰貴を、意味しているのである。もしも真実価格なる語がかかることを意味するとするならば、私はそれをかくの如く名づけるのは適当であるとは思わないけれども、マルサス氏の意見は疑いもなく正しい。それのみが穀物の生産を奨励する所のものは、その市場価格の騰貴である。けだし、一貨物の生産の増加に対する唯一の大きな奨励は、その市場価値がその自然価値または必要価値を超過するということである、ということは、ひとしく真実な原理とされ得ようからである。
 しかし、これは、マルサス氏が他の場合に、真実価格なる語に附している意味ではない。地代に関する試論においてマルサス氏は曰く、『増加しつつある穀物の真実価格なる語を、私は、国民的生産物に対してなされた最後の附加分を生産するに用いられた所の労働及び資本の真実の分量の意に用いる。』他の部分において、彼は曰く、『穀物の高い比較的真実価格の原因は、それを生産するに用いられなければならない所の資本及び労働のより大なる分量である。』(註)前章句において、吾々がこういう真実価格の定義と取換えると仮定すれば、それはこういう風にはならないであろうか?――すなわち『それのみが穀物の生産を奨励し得る所のものは、明かに、それを生産するに用いられなければならない労働及び資本の分量の増加である。』これは、穀物の生産を奨励する所のものは、明かに、その自然価格または必然価格の騰貴である。――これは維持し難い命題である。生産される分量に対し何らかの影響を及ぼすものは、穀物が生産され得る価格ではなく、それが売却され得る価格である。資本が土地に引寄せられまたは土地から追出されるのは、生産費以上にまたは以下に出ずるその価格の差額の程度に比例している。もしこの超過が農業資本に、資本の一般利潤以上のものを与える如きものであるならば、資本は土地に赴くであろう。もしそれ以下ならば、それは土地から引去られるであろう。
(註)本書が印刷に付されようとしている時、マルサス氏にこの章句を示した所が、彼は、これらの二つの場合に、彼はうっかりして、生産費の代りに真実価格という語を用いたのである、と述べた。私が既に述べた所からして、これら二つの場合に彼は真実価格なる語をその真実かつ正当な意味に用いたのであり、そして前の場合にのみそれが誤って用いられている、と私には思われることが、分るであろう。
 かくて穀物の生産が奨励されるのは、その真実価格の変動によってではなくして、その市場価格における変動によってである。『より多くの資本と労働とが土地に引寄せられるのは、それを生産するにより多量の資本と労働とが用いられねばならないから(これはマルサス氏の正しい真実価格の定義である)』ではなくして、『市場価格がこのその真実価格以上に騰貴し、そして経費の増加にもかかわらず、土地の耕作をしてより有利な資本用途たらしめるからである。』
(一五〇)アダム・スミスの価値の標準に対する、マルサス氏の次の考察は最も正しい。『アダム・スミスは、明かに、労働をもって価値の標準尺度とし、そして穀物をもって労働の尺度とする彼れの習慣よりして、この論脈に引入れられた。しかし、穀物が労働の極めて不正確な尺度であることは吾々自身の国の歴史が十分に証明するであろう。我国においては、労働は、穀物に比較して、啻に毎年ばかりでなく、更に毎世紀に、そして一〇年、二〇年、また三〇年間に亘って、極めて大なるかつ驚くべき変動を経験し来ったことが、見出されるであろう。そして労働もある他の貨物も真実交換価値の正確な尺度となることは出来ないということは、今では経済学の最も争い得ない学説の一つであると考えられており、そして実際に、交換価値のまさにこの定義に随伴し来るものである。』
 もし穀物も労働も真実交換価値の正確な尺度でないとするならば、――両者は明かに、そうではないが、――他のどの貨物がそうであるか? ――確かに何もない。かくしてもし貨物の真実価格という表現が何らかの意味を有つとするならば、それは、マルサス氏が地代に関する試論において述べている意味でなければならない、――すなわちそれは、貨物を生産するに必要な資本及び労働の比例的分量によって測定されなければならぬのである。
 マルサス氏の『地代の性質に関する研究』において、彼は曰く、『一国の通貨の不規則なことや、その他の一時的な偶発的な諸事情を別にすれば、穀物の高い比較的貨幣価格の原因は、その高い比較的真実価格またはそれを生産するに用いられねばならぬ資本及び労働のより大なる分量である。』(註)。
(註)四〇頁。[#第一章第五節(二〇)のこと]
 これは思うに、穀物であろうとまたはその他の何らかの貨物であろうと、その価格のすべての永久的変動の正確な説明である。一貨物の価格が永久的に騰貴し得るのは、より多量の資本及び労働がそれを生産するに用いられねばならぬからか、または貨幣の価値が下落したからであり、これに反し、その価格が下落し得るのは、より少量の資本及び労働がそれを生産するに用いられるからであるか、または貨幣の価格が騰貴したからである。
 そのいずれかでなければ[#「ば」は底本では「で」]ならぬこれら二つのうちの後者すなわち貨幣価値の変動から生ずる変動は、同時にすべての貨物に対し共通である。しかし前者の原因から生ずる変動は、その生産に必要とされる労働が増減した特定の貨物に限られている。穀物の自由輸入を許すことにより、または農業における改良によって、粗生生産物は下落するであろう。しかしいかなる他の貨物も、その構成に参加した粗生生産物の真実価値または生産費の下落に比例して下落する以外には、影響されないであろう。
 マルサス氏は、この原理を認めているのであるから、思うに、国内におけるすべての貨物の全貨幣価値は穀価の下落に正確に比例して下落しなければならない、と矛盾なしに主張することは出来ない。もし国内において消費される穀価が一年につき一千万の価値を有ち、そして消費される製造貨物と外国貨物が二千万の価値を有し、合計三千万をなすならば、年々の支出は、穀物が五〇%だけ、すなわち一千万から五百万に、下落したから、一千五百万減少した、と推論するのは許され得ないであろう。
 これらの製造品の構成に入込んだ粗生生産物の価値は、例えば、その全価値の二〇%を超過せず、従って製造貨物の価値の下落は、二千万から一千万へではなく、単に二千万から一千八百万へであるに過ぎないであろう。そして穀価の五〇%下落の後には、年々の支出の全額は、三千万から一千五百万へは下落せずして、三千万から二千三百万に下落するであろう(註)。
(註)製造品はもちろんかかる比例においては下落し得ないであろう、けだし仮定された事情の下においては、異れる国々の新しい貴金属分配が起るであろうからである。吾々の低廉な貨物は穀物及び金と引換えに輸出され、ついに金の蓄積がその価値を下落せしめ、かつ貨物の貨幣価格を騰貴せしめるに至るであろう。
 もし穀物がかくの如く低廉であってもそれ以上の穀物及び貨物は消費されない、ということが可能であると仮定すれば、これこそがその価値であろうと私は思うのである。しかし、もはや耕作されないであろう所の土地で穀物の生産に資本を用いておったすべての者は、それを製造財貨の生産に用い得るし、またこれらの製造財貨のわずか一部分が外国穀物と引換えに与えられるに過ぎないであろう――けだしその他にどう仮定しても輸入と物価下落とによって何らの利益も得られないからである――から、吾々は、右の価値の上に、かくの如くにして生産されかつ輸出されはしなかった製造財貨の全量の附加的価値を有つわけであり、従って、穀物を含む国内のすべての貨物の真実の減少は、その貨幣価値においてすら、地代の下落による地主の損失に等しいに過ぎず、他方に享楽の目的物の分量は大いに増加するであろう。
(一五一)粗生生産物の価値の下落の影響を、かくの如くは考えずに、――マルサス氏はその前の承認からすればそう考えなければならなかったはずであるが、――彼はそれをもって、貨幣価格の一〇〇%の騰貴と正確に同一のことと考え、従ってあたかもすべての貨物がその以前の価値の半分に下落するかの如くに論じているのである。
 彼は曰く、『一七九四年に始まり一八一三年に終る二十年間には、一クヲタアについての英国穀物の平均価格は、ほぼ八十三シリングであり、一八一三年に終る十年間は、九十二シリングであり、そしてこの二十年の最後の五年間には、百八シリングであった。この二十年の間に、政府は五億近くの真実資本を借入れ、それに対し、減債基金を別としてほぼ平均して、約五%を支払う契約をした。しかしもし穀物が一クヲタアにつき五十シリングに下落し、そして他の貨物がそれに比例して下落するならば、政府は実際は約五%の利子の代りに、七、八、九%の利子を、そして最後の二億に対しては一〇%の利子を、支払うであろう。
『もしそれが誰によって支払わるべきであるかを考える必要がないならば、公債所有者に対するこの異常な寛大に対しては、私はいかなる反対もなそうとはしないであろう。そしてちょっと考えれば、それは社会の勤勉な階級及び地主によってのみ、すなわちその名目所得が価値の尺度の変動と共に変化すべき人々のすべてによって、支払われ得ることが、わかるであろう。かかる社会部分の名目収入は、最後の五年間の平均と比較すれば、半分だけ減少されるであろう。そしてこの名目上低減せる所得から彼らは同一名目額の租税を支払わなければならないであろう。』(註)
(註)『一意見の諸基礎』云々、三六頁。
 第一に私は、全国の総所得の価値ですら、マルサス氏がここで主張している比例では減少するものではないということを、既に説明したと考える。穀物が五〇%だけ下落したから各人の総所得は価値において五〇%だけ低減する、ということにはならぬであろう(註)。彼れの純所得は実際価値において増加し得るであろう。
(註)マルサス氏は、同書の他の部分において、穀物が三三・三分の一%変動する時には貨物は二五または二〇%変動するものと想像している。
 第二に、思うに読者は、増加された負担は、もし有るとしても、『地主及び社会の勤労的階級』のもっぱら負担する所とはならないという、私の意見に、同意するであろう。公債所有者は、彼れの支出によって、社会の他の階級と同一の仕方で、公の負担に対するその分担額を、寄与するのである。かくて貨幣が実際より価値多きものとなるならば、彼はより大なる価値を受取っても、彼はまたより大なる価値を租税に支払うこととなり、従って、利子の真実価値に対する全附加は、『地主及び勤労的階級』によって支払われるというのは、真実であり得ないのである。
 しかしながら、マルサス氏の全議論は弱い基礎にてられている。すなわちそれは、国の総所得が減少するから、従って純所得もまた同一の比例で減少しなければならぬと仮定している。必要品の真実価値の下落ごとに、労働の労賃は下落し資本の利潤は騰貴する、――換言すれば、一定の年々の価値のうち、労働階級に支払われる部分が少なければ、その資金でこの階級を雇傭する者に支払われる部分は大である、――ということを証明するのが、本書の目的の一つであった。特定製造業において生産される貨物の価値は一、〇〇〇ポンドであり、そしてそれが労働者達は八〇〇ポンド雇傭者は二〇〇ポンドの比で両者の間に分割されると仮定しよう。もしもこの貨物の価値が九〇〇ポンドに下落し、そして必要品の下落の結果として一〇〇ポンドが労働の労賃から節約されるならば、雇傭者の純所得は毫も害されず、従って彼は価格の下落の後もその以前と全く容易に同額の租税を支払い得るであろう(註)。
(註)純生産物と総生産物とについてセイ氏は次の如く論じている。『生産された全価値は総生産物であり、この価値から生産費を控除したものが純生産物である。』第二巻、四九一頁。しからば、セイ氏によれば生産費は地代、労賃、及び利潤から成立っているから、純生産物はあり得ない。五〇八頁において彼は曰く、『生産物の価値、生産的労働の価値、生産費の価値は、物事がその自然的事態のままに委ねられている時にはいつでも、かくすべて同様な価値である。』全部を除くならば何も残らない。
 すべての租税が支払われなければならぬのは社会の純収入からであるから、総収入と純収入とを明かに区別するのは重要である。国内のすべての貨物、すなわち一年間に市場に齎され得るすべての穀物、粗生生産物、製造貨物等が二千万の価値を有ち、そしてこの価値を手に入れんがためには一定数の人間の労働が必要であり、そしてこれらの労働者の絶対必要品は一千万の支出を必要とするものと仮定しよう。かかる社会の総収入は二千万であり、その純収入は一千万であると、私は言わなければならない。だがこの仮定からして、労働者はその労働に対して単に一千万を受取るに過ぎない、ということにはならない。彼らは、一千二百万、一千四百万、または一千五百万を受取り得よう。そしてその場合には、彼らは二百万、四百万、または五百万の純所得を得るであろう。残りは地主と資本家との間に分たれるであろう。しかし全純所得は一千万を超過しないであろう。かかる社会が租税に二百万を支払うものと仮定すれば、その純所得は八百万に減少するであろう。
 今、貨幣が十分の一だけ価値がより多くなると仮定すれば、すべての貨物は下落し、そして労働の価格は下落し、――けだし労働者の絶対的必要品はこれらの貨物の一部をなしているからである、――従って総所得は一千八百万にまた純所得は九百万に、減少するであろう。もし租税が同一の比例において下落し、そして二百万ではなく単に一、八〇〇、〇〇〇が徴収されるに過ぎないならば、純所得は更に、以前に八百万が有っていたと正確に同一の価値たる七、二〇〇、〇〇〇に減少し、従って社会はかかることによっては利得もせずまた損失もしないであろう。しかし貨幣の騰貴以後にも以前と同様に二百万が租税として徴収されるならば、社会は一年につき二〇〇、〇〇〇だけより貧しくなり、その租税は実際には九分の一だけ高められたことになるであろう。貨幣の価値を変更することによって貨物の貨幣価値を変更し、しかも租税によって同一貨幣額を徴収することは、かくて疑いもなく、社会の負担を増加することになる。
 しかし、一千万の純収入のうち、地主は五百万を地代として受取り、そして生産の容易なるためまたは穀物の輸入によって、この財貨の必要労働原費が一百万だけ減少すると仮定すれば、地代は一百万だけ下落し、そして多量の貨物の価格もまた同一額だけ下落するであろうが、しかし純収入は以前と正確に同一であろう。総所得はなるほど単に一千九百万でもあり、そしてそれを手に入れんがための必要支出は九百万でもあろうが、しかし純所得は一千万であろう。さてこの減少せる総所得から二百万が租税として徴収されると仮定すれば社会は全体としてより富むであろうか、より貧しくなるであろうか? 確かにより富むであろう。けだし、その租税の支払以後にも、社会は、以前と同様に、八百万の純所得を有ち、それは量は増加したが価格は二〇対一九の比例で下落した貨物の購買に充てられるであろう。かくて啻に同一の課税が負担され得るのみならず、更にまたより大なる租税が負担され得、しかも人民大衆は便利品及び必要品の供給が改善され得るであろう。
 もし社会の純所得が、同一の貨幣課税を支払った以後にも以前と同じ大いさであり、そして土地保有者の階級が地代の下落によって一百万を失うとすれば、他の生産的階級は物価の下落にもかかわらず増加せる貨幣所得を得るに相違ない。資本家はこの際に二重に利得するであろう。彼自身及び彼れの家族によって消費される穀物や肉は価格が下落し、また彼れの僕婢や園丁やその他すべての種類の労働者の労賃もまた、下落するであろう。彼れの牛馬は費用がよりかからなくなり、より少い出費で飼養されるであろう。粗生生産物がその価格の主要部分として入込むすべての貨物は下落するであろう。彼れの貨幣所得が増加されると同じ時に所得の支出に対してなされるこの貯蓄全額は、かくて彼に二重に有利となり、そして彼をして、啻に彼れの享楽品を増加せしめるのみならず、附加的租税――もしそれが要求されるならば――を負担し得せしめるであろう。同一の考察は農業者及びあらゆる種類の商人にも当てはまる。
 しかし、資本家の所得は増加しないであろうし、地主の地代から控除された一百万は労働への附加的労賃として支払われるであろう! と云われるかもしれない。そうであるとしよう。しかしこのことは議論に何らの相違も起さないであろう。すなわち社会の状態は改善され、そしてそれは以前よりもより容易に同一の貨幣負担を担い得るであろう。それは単に、社会における他の階級、すなわち遥かに最も重要な階級、の境遇こそが、この新しい分配によって主として利益を受けるところのものである、という更により望ましいことを、証明するに過ぎないであろう。彼が九百万以上に受取るすべてのものは国の純所得の一部をなし、そしてそれを支出すれば、必ずその収入、その幸福、または勢力が増加されるのである。しからば純所得を諸君の意のままに分配せよ。一つの階級にわずかばかりより多く、そして他の階級にわずかばかりより少く与えよ、しかもそれによって諸君は純所得を減少せしめることはないであろう。より多量の貨物が――かかる貨物の総貨幣価値額は減少するであろうけれども――依然同一の労働をもって生産されるであろう。しかし国の純貨幣所得、すなわち租税が支払われ享楽品が取得される資金は、現実の人口を維持し、それに享楽品や奢侈品を供給し、かつ一定額の課税を支持するに、以前よりも遥かにより適するであろう。
 公債所有者が穀物の価値の著しい下落によって利得することは疑い得ない。しかしもし他の何人も損害を蒙らないならば、それは穀物が高価ならしめられるの理由とはならない、けだし公債所有者の利得は国民的利得であり、そしてすべての他の利得と同様に、国の真実の富と力とを増加せしめるからである。もし彼らが不当に利得するならば、そのしかる程度を正確に確かむべきであり、しかる後その救済策を考案するのは立法府の仕事である。しかし単に公債所有者が不当な割前を得るという理由だけで、低廉な穀物と豊富な生産物とから生ずる大きな利益を得まいとするほどに、愚かな政策はあり得ない。
 穀物の貨幣価値によって公債の利子を調節しようという試みはなされたことがない。もし正義と信実とがかかる調節を要求するならば、古い公債所有者には多額の債務を負っていることになる。けだし彼らは一世紀以上同一の貨幣利子を受取り来っているのに、穀物は価格においておそらく二倍となりあるいは三倍となっているからである(註)。
(註)マカロック氏は、見事な著書(『国債の利子を低減せる問題に関する一試論』――訳者註)において極めて力強く、国債に対する利子を下落せる穀物の価値に一致せしめるのが正当である、と主張している。彼は穀物の自由貿易に賛成しているが、しかし彼は、それは国家債権者に対する利子の減額を伴うべきである、と考えているのである。
 しかし、公債所有者の境遇が、国の農業や製造業者やその他の資本家の境遇以上に、改善されると想像するのは、大きな誤謬である。それは実際上は改善を受けることより小であろう。
 公債所有者は、疑いもなく、啻に粗生生産物と労働の価格が下落したばかりでなく、更に粗生生産物が一構成部分として入込んだ他の多くの物の価格を下落したのに、同一の貨幣利子を受取るであろう。しかしながら、このことは、私が今述べた如くに、同一の貨幣所得を支出すべき他のすべての者と共通に彼が享受する利益である。――すなわち彼れの貨幣所得は増加せず、農業者や製造業者やその他の労働雇傭者のそれは増加し、従って彼らは二重に利得するであろう。
 労賃下落の結果たる利潤の騰貴によって資本家が利得すべきことが真実であるとしても、しかも彼らの所得はその貨物の貨幣価値の下落によって減少されよう、と云われるかもしれない。何がそれを下落せしめるはずであるか? 貨幣価値の変動ではない、けだし貨幣価値を変動せしめるものが何も起るとは仮定されていないから。その貨物を生産するのに必要な労働量の減少ではない。けだし、かかる原因は働かなかったし、またそれが実際働いたとしても、たとえそれは貨幣価格を下落せしめるかもしれぬとはいえ、貨幣利潤は下落せしめないであろうから。しかし貨物の原料となる粗生生産物は、価格において下落したと仮定されており、従って貨物はその故をもって下落するであろう。なるほどそれは下落するであろうが、しかしその下落は生産者の貨幣所得の減少を伴わないであろう。もし彼がその貨物をより少い貨幣に対して売るならば、それは、それを造る原料の一つが価値において下落したからに過ぎない。もし毛織物業者がその毛織物を、一、〇〇〇ポンドではなく九〇〇ポンドで売るとしても、それを造る羊毛が価値において一〇〇ポンドだけ下落するならば、彼れの所得は減少しはしないであろう。
 マルサス氏は曰く、『なるほど進歩しつつある国の農業生産物に対する最後の附加は、大なる比例の地代を伴わず、そして、富める国が確実に一様の供給を得ることが出来る場合に、その国の穀物の一部を輸入するのがその国の利益になるのは、まさにこの事情の故である。しかし、もし外国穀物が国内において栽培され得る穀物より遥かにより低廉であり、ために外国穀物輸入のために無に帰する穀物の利潤及び地代に等しいほどである、というわけでないならば、すべての場合において、外国穀物の輸入は国民的利益とならないはずである。』――『諸基礎云々』、[#「』、」は底本では「、』」]三六頁。
 この考察においてマルサス氏は全く正しい。しかし輸入された穀物は、常に、『外国穀物輸入のために無に帰する穀物の利潤及び地代に等しいほどに、』国内で栽培され得る穀物よりもより低廉でなければならない。しからざれば、その輸入によって何人に対するいかなる利益も取得され得ないであろう。
 地代は高い穀価の結果であるから、地代の喪失は低い価格の結果である。外国穀物は、決して、地代を与える如き内国穀物と競争することはない。価格の下落はあまねく地代に影響を及ぼし、ついに彼れの地代の全部が吸収されるに至るであろう。――もしそれが更により以上下落するならば、その価格は資本の通常利潤すら与えなくなるであろう。資本はその時には土地を去って他の職業に向かい、そして、その時には、――その時まではそうではないが、――以前にそこで栽培されていた穀物は輸入されるであろう。地代の喪失によって、価値は、すなわち評価された貨幣価値は、失われるであろうが、しかし富は利得されるであろう。粗生生産物及びその他の生産物の合計額は増加し、その生産の便宜の増大によって、それは、分量は増加するが、価値は減少するであろう。
 二名の人が等しい資本を、――一方は農業に他方は製造業に用いるとせよ。農業における資本は一、二〇〇ポンドの年々の純価値を生産し、そのうち一、〇〇〇ポンドは利潤として手許に保留され、二〇〇ポンドは地代として支払われ、製造業における他方は単に一、〇〇〇ポンドの年々の価値を生産するに過ぎないとする。輸入によって、一、二〇〇ポンドを費した同一量の穀物が九五〇ポンドを費した貨物と引換えに獲得され得、そしてその結果農業に用いられた資本が、一、〇〇〇ポンドの価値を生産し得る製造業に転ぜられると仮定すれば、国の純収入はより小なる価値しか有たぬものとなり、それは二、二〇〇ポンドから二、〇〇〇ポンドに減少するであろうが、しかし啻にそれ自身の消費のための貨物及び穀物の量は同一であるのみならず、その製造品が外国に売られた価値と、そこから購買された穀物の価値との差額たる、五〇ポンドが購買すべきだけの附加が、なされるであろう。
 さてこれがまさに、穀物の輸入が利益であるかまたはこれを栽培するのが利益であるか、ということに関する問題である。一定の資本の充用によって外国から得られる分量が、同一の資本が吾々をして国内で栽培し得せしめる分量を超過する――啻に農業者の分前に関する分量のみならず、更に地代として地主に支払われる分量を超過する――までは、それは決して輸入され得ないであろう。
 マルサス氏は曰く、『製造業に用いられている生産的労働のいかなる等量も、決して、農業におけるが如き大なる再生産を惹起すことは出来ない、と正当にもアダム・スミスによって論ぜられている』と。もしアダム・スミスが価値を論じているのであるならば、彼は正しい。しかしもし彼が、富を論じているのであるならば、――これが重要な点である、――彼は誤っている。けだし彼自身富をもって、人生の必要品、便利品及び享楽品より成る、と定義しているからである。一組の必要品及び便利品は、他の組との比較を許さない。使用価値は何らかの既知の標準によって測定され得ない。それは異る人によっては異って評価されるのである。





底本:「經濟學及び課税の諸原理」春秋社
   1948(昭和23)年5月20日第1刷発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「敢て→あえて 恰かも→あたかも 貴方→あなた 普く→あまねく 予め→あらかじめ 非ざれば→あらざれば 非ずんば→あらずんば 凡ゆる→あらゆる 或る→ある 或は、或いは→あるいは 雖も→いえども 如何→いか 何れ→いずれ 一々→いちいち 何時→いつ 一層→いっそう 於いて・於て→おいて 於ける→おける 恐らく→おそらく 却って→かえって 拘わらず→かかわらず 斯く→かく 且つ→かつ 嘗て・曾て→かつて 可成、可成り、可なり→かなり かも知れ→かもしれ 位→くらい 蓋し→けだし 子沢山→子だくさん 毎→ごと 此の→この 之→これ 左程→さほど 然し→しかし 而も→しかも 然ら→しから 然り→しかり 然る→しかる 屡々→しばしば 暫く→しばらく 即ち→すなわち 総べて・総て→すべて 精々→せいぜい 其処→そこ 其の、其→その 度い→たい 唯→ただ 但し→ただし 度→たび 多分→たぶん 偶々→たまたま 為・為め→ため 丁度→ちょうど 一寸→ちょっと 就いて→ついて 遂に→ついに 就き→つき (て)置→(て)お (て)居→(て)お (て)貰→(て)もら 如何→どう 何処→どこ 兎に角・とに角→とにかく 乃至→ないし 乍ら→ながら 何故→なぜ 成程・成る程→なるほど 許り→ばかり 筈→はず 甚だ→はなはだ 延いては→ひいては 一と度→ひとたび 程→ほど 殆んど・殆ど→ほとんど 正に→まさに 先ず→まず 益々→ますます 又、亦→また 迄→まで 儘→まま 間もなく→まもなく 寧ろ→むしろ 若し→もし 勿論→もちろん 以て・以って→もって 専ら→もっぱら 最早→もはや 易い→やすい 矢張り→やはり 稍々→やや 所以→ゆえん 等→ら 訳→わけ 僅か→わずか」
また、底本では格助詞の「へ」が「え」に、連濁の「づ」が「ず」になっていますが、それぞれあらためました。
※読みにくい漢字には適宜、底本にはないルビを付しました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(荒木恵一)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2005年7月2日作成
2014年4月5日修正
青空文庫作成ファイル:
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