調査機関

中井正一




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 西洋の近代文明の特徴の一つは、科学的・実証的精神である。この精神によって人間は解放せられ、民主的社会が形成せられ、産業技術が発展したのである。近世以前には東洋は西洋よりもむしろ高い文明をもっていたのであるが、近世において急速にたちおくれてしまった。その根本的原因は科学的・実証的精神の未発達に求められるであろう。
 西洋においても、産業革命以前までは、経済財の生産は手工業によってなされたのであるが、その生産様式の下においては、生産技術の獲得は、徒弟として年季奉公をしながら修得するという有様であった。その他のあらゆる職業分野においても、知識を獲得する方法は、すべてこのような形式によっていた。すなわち、個人から個人へ、秘伝として伝えられる、といった様式である。そこでは、職人気質、名人芸といったものがはばをきかす。このような方法で生産された手工業品には、人間的な味わいが多分に含まれていて、芸術味の高いものであった。
 だが、このような生産様式は、産業革命によって一変された。手工業生産から工場制生産へと発展し、生産過程における個人的人格的なものは姿を没した。同じ類型の大量の労働者が集合して生産に従事し、同質的・均一的な製品を大量に生産するようになった。大量の生産、スピードある生産をなすには、工場制工業でなければならない。工場制工業は、その生産技術においても、またその経営技術においても、たえず新機軸を採用し、合理化しつつ、その能率を高めてきた。産業革命に端を発した生産能率の革命は、やがて社会のすべての分野に浸透して、社会生活全体の能率が高められてきた。これらの点において、東洋諸国は西洋の先進諸国に比して、はるかにたちおくれている。戦前までの日本は、東洋の中では最も生産能率の高い国であったが、しかし一部の輸出工業や軍需工業の高能率とは雲泥の相違のある低能率の農業に、人口の半分もが従事しているという、跛行的な進化の状態であった。社会全体がバランスして能率化している、という先進国の形態にはなお大きな隔たりがあった。

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 高度の産業技術を基盤として成り立っている現代社会の構造は、複雑であり、かつその動きはスピード化されておる。かかる環境の中にあっては、個人の「かん」とか「はら」で仕事をすることは不正確で誤算が多く、結局は失敗して淘汰されてしまう。そこで、どんな事業をするにしても、綿密な科学的調査研究をなしとげた上でスタートしなければならなくなった。もとより人間の知識は、いつの時代にも、全能ではないから、ある限界があって、最後の決断は「かん」なり「はら」なりに頼るほかはない。しかし、充分な調査研究をとげた後の「かん」や「はら」は、調査研究を経ない前のいわば盲目的・猪突的な「かん」や「はら」とはちがう。今日の文明国では、営利事業を経営するばあいにも、あるいはまた政府が何か新政策を実施するばあいにも、その準備として科学的調査研究をすることは、当然のしきたりになった。この点で最も注目すべきは、戦争を目的とする科学的調査であろう。戦争のような、感情的、投機的要素を最も多く含む仕事も、冷静な科学的調査を前提としなければ、手を出すことができなくなったのである。
 戦争と相似の関係あることであるが、実業界において、かつては実業家の個人的創意が大きな役割を演じたけれども、巨大な株式会社大経営においては、多数の専門家が調査にもとづいて経営がなされるようになり、「企業者職能」(シュムペーターの意味する)は衰退しつつある。
 行政の分野においてもまた同様であって、一国の複雑な行政は、それぞれの事務的及び技術的専門家が各分野を担当して、歯車の一つ一つを動かして運営されている。英雄的な政治家の手腕といったものも、もしこの歯車の運転手を掌握することがなければ、花火のようなものであって、一瞬間派手な閃光をはなつにすぎないであろう。このようなわけで、行政の分野にも、経済界にも、社会事業にも、労働運動にも、各種各様の専門家ができ上った。官庁はもとより、大銀行、大産業会社、大商事会社、経済団体、文化団体、労働団体などは、それぞれ多数の優秀なエキスパートを養成して、それぞれの仕事に利用している。西洋の先進国では、早くから各種の専門家が重要視せられ、経済的にも社会的にも良い生活ができるようになった。しかも、これらの専門家は一つの社会的集団としての勢力をもつまでに成長した。これらのいわばソーシャル・エンジニーアがなければ、現代の複雑な社会は運転することができなくなっている。バーナムの『経営者革命』は、この事実を表現したものにほかならない。そして、これらの専門家の数と勢力とは、二つの大戦と一九三〇年代の世界的大不況後の経済統制の実験によって、急速に増大した。

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 複雑な現代社会の運転に指針を見出す必要からして、各種の調査研究機関が生まれたが、それらの中には純粋な民間機関もあれば、半官半民の機関もあり、また国家機関もあり、その形態ははなはだまちまちである。ところで調査研究機関は、政府の束縛をうけないで、自由な立場で真実を探求するところにその妙味があるのであって、それがためにはヴォランタリイ・アソシエーションの形態が望ましいのである。事実、自由主義的・民主主義的国家においては、任意団体、民間機関として立派な業績をあげた調査研究機関が多いのが、一つの重要な特徴をなしている。例えばイギリスのフェビアン・ソサイエティを想起せよ。この種の機関の歴史は、ベーコン以来の経験論哲学の伝統をもつイギリスが最も豊富である。次はフランスであろう。
 しかしながら、近年になって欧米諸国では、民間機関に比して国立の研究調査機関の比重が次第に増大しつつある。これは自由主義国家観から福祉国家観への転換の反映であろう。すなわち、完全な自由放任は決して福祉をもたらすゆえんではなく、国家の積極的参加が必要とされるようになったので、国家のなすべき仕事は増大し、各官庁の調査業務は膨張したのみならず、次から次へと各種の国立の調査研究機関が生まれた。他面、民間調査機関は財政難になやまされるようになった。資本主義企業の利潤率が低下したので、その利潤のおこぼれで支持される民間調査機関の財源が苦しくなったのである。
 任意団体の発達を特色とするイギリスにおいても、研究や調査を自由に放任する時代はすでにすぎて、国家が科学政策をとりあげるようになった。デパートメント・オブ・サイエンティフィック・リサーチという独立の官庁が、科学研究を統轄している。これは直属の研究所を二十ももっており、主として物理、医学、農学などの分野にまたがっている。その他、政府内にカウンシル・オブ・サイエンス・ポリシイがあり、また国会内に科学者をふくむ委員会が設けられて、科学政策を計画的に推進する体制がとられている。科学的研究を工業化することを助成する公社が創設されたことも、注目に値する。
 フランスもまた、国家が科学政策をとりあげている。文部省の外局に科学研究中央局が設けられて、科学政策を統轄している。フランスでは、政府が直接に研究調査を補助する形式ではなく、例えばある業種の業者の間にセンターが結成されると、業者から研究費を徴収する権限が付与される、という形式がとられている。
 一般的にいって、欧州諸国では、科学研究に国家が積極的に関与して、統一ある科学政策をたてるという形態がとられている。これに対するものはアメリカである。アメリカは、自由企業を今もって強力に擁護する国柄だけに、著名な大学は私立であるし、調査研究機関も民間に有力なものが多い。したがって科学政策を国家がとりあげることはしなかった。研究調査は、各機関の自由にまかせる体制が支配的であった。だが、アメリカでもニュー・ディール以来、国家の積極的活動が是認せられて、行政部門は急速に膨張し、それに伴って調査研究部門も拡大した。さらに、TVAや原子力委員会のごとき大規模な実験がなされて、国家が科学政策に大きくふみこんできた。第二次大戦およびその後の軍事的緊迫に伴って、厖大な軍事予算が科学振興のためにばらまかれるようになってからは、科学的研究調査は急速に国家予算と結びつく有様となった。大統領にも、各省にも、それぞれサイエンティフィック・アドヴァイザーが設けられた。大統領直属のサイエンティフィック・アドヴァイザーの報告にもとづいて、一九五〇年にナショナル・サイエンス・ファウンデーションの制度が生まれた。これは、科学研究の助成とコーオーディネーションとを目的としている。
 大学の研究所でさえ、国家予算によってまかなわれる部分が大きく、とりわけ最近では軍の予算から出ているものは約八割を占めている。その他、産業会社の委嘱による研究調査も重要な比重を占めており、結局、政府および会社の委託調査費が約九割を占めているとみられる。そしてその委託調査の形式は、コントラクト・リサーチが支配的である。研究者は研究費を受取り、成果を提供するという、ギヴ・アンド・テークの形式である。それ以外に何の束縛もうけないが、成果を引渡す責任を負うわけである。国家が科学研究に関与することについては、科学者の間に反対もある。研究調査は自由な立場でなされるべきことに対して強い愛着を感じているからである。しかし、これは概して年老いた科学者の考えであって、若い科学者たちは研究調査費の獲得という現実的問題からして、国家予算の分配を強く要望している。
 だが、アメリカにはまだ民間の有力な研究調査機関があり、デュポン、スタンダード・オイル、ゼネラル・エレクトリック、メロン等財閥の設立にかかる立派な研究所が健在であり、巨大な予算をもって運営されておる。全体的にみて英・仏に比べると、アメリカの科学研究体制は、まだ未組織であるとみられている。

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 戦後、わが国から相ついで各方面の人々が多数に米欧を視察したが、その中で科学振興体制や経済調査機関などを視察してきた人々の感想を綜合してみると、各研究調査機関の横の連絡がよくとれていること、研究調査事務が機械化されスピード化されていること、などが特に感心されているようである。横の連絡については、例えばアメリカの図書館が横に連絡がとれていて、Aの図書館にない文献は他の図書館から借りてくれる、しかもその事務がきわめて敏速であって、利用者にははなはだ便利であることはよく語られるところである。またシカゴ大学の外廓にあるパブリック・アドミニストレーション・サーヴィスは、地方行政の資料交換所の役割りを果たす横の連絡の好例とされている。例えばある州で児童保護立法を立案しようとするとき、他の州の立法例をここで簡単に参考できる組織である。十数個の地方行政団体が資金をもちよって設立した機関であるが、立派な専門図書館をもっている。シカゴ大学の外廓に位置を定めたのは、大学と連絡をとりやすくするための配慮からだという。
 事務の機械化・スピード化については、機械文明の先進国だけにわが国からの視察者の眼を驚かすものが多いようだ。明治開国の当時、海外の機械文明に驚異の眼をみはったと余り変わらないほどの感心ぶりを示している人もある。軍艦とか航空機などで欧米の水準を抜こうとして精力を集中したので、その方面では余り驚かないまでになったにしても、今までほとんど閑却せられていた地味な研究調査業務に眼を向けると、そこには高度の機械文明が浸透していることに、新たに驚きの眼をみはるのである。電気計算器、マイクロフィルム等々の機械礼讃が多くの視察者によって高らかに唱えられた。
 わが岡山にあるミシガン大学の日本研究班を視察した人々も、機械化され組織化された調査方法に感心させられておる。人数はきわめて少なく、また担当者が時々交代するにかかわらず、調査の型と作業とは定式化され機械化されているので、調査の成果が規則的に集積されてゆくのに感心しているのである。だが、この調査施設には莫大な経費が投ぜられており、いわば資本の有機的構成が高度化していることを見のがしてはならない。
 研究調査業務のスピード化の一つとして、図書館がレファレンス業務を営むこともあげらるべきだろう。実用主義の国アメリカでは、図書館が単に文献の格納庫ではなく、この眠れる宝庫を活かすためにレファレンス業務が活発におこなわれている。アメリカの議会図書館に調査立法考査局があって、国会へのサーヴィスを担当していることは有名であるが、国会以外にも一般に対して偉大なサーヴィスをしている。昨年のような国防に急を告げる時期には、軍関係の人々の数百人からなる調査班(例えば朝鮮調査班、満州調査班など)が組織されて、議会図書館で各種の調査をしているとのことである。
 横の連絡、事務の機械化、これらの環境の下にあっては、もはや個人単位の名人芸がものをいう余地は極めて局限される。個人単位から集団単位へ、孤立から組織へ、名人芸から機械化・スピード化へ、といったことが重要となる。
 米欧諸国の調査研究機関のあり方や調査方法などにも、もちろん幾多の欠陥はあろう。だが、それらの点については一応眼をつぶって、先進諸国における調査研究機関の基本的な発展方向を描いてみれば、右のようなものになろう。

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 ひるがえって、わが国をみよう。西洋文明の外面的模倣の結果として、わが国にもかなりの研究調査機関が存在していた。しかし、金のかかる自然科学方面の研究は、ほとんど軍部の予算で推進されたといっても過言ではない。陸海軍の各種の研究所は、国力不相応にすばらしいものであった。民間にも理化学研究所のような大規模のものが出現した。社会科学方面では、まず満鉄調査部があげらるべきだろう。これは一時、出先の調査機関をふくめて二千人以上の職員を擁し、一千万円の巨額の予算が投ぜられたという。この東印度会社的な国策会社の調査機関の規模は、世界的なものであったといってよいだろう。その他、外務省、大蔵省、日本銀行などの調査部も長い歴史をもち、信頼すべき資料を作成発表していた。大正中葉から昭和にかけて社会問題、労働問題がやかましくなった時代に幾つかの研究調査機関が生まれた。「大原社会問題研究所」や「協調会調査部」などは特記せらるべきものだろう。「日本経済連盟」や「商工会議所」の調査部、「三菱経済研究所」なども逸することのできない存在であった。昭和時代になると、「何々調査会」「何々研究会」といった調査機関がたくさん生まれた。それらはすべて陽に陰に、軍と軍需産業と植民地利潤とによって支持されたものである。これら民間の諸調査機関の優秀なスタッフが一挙に大きな力を発揮したのは、戦時中に「企画院」(はじめは「内閣調査局」)が設立されたときである。戦時中の大調査機関としては、「東亜研究所」も忘れることのできない存在である。
 敗戦とともに満鉄調査部、企画院、東亜研究所などの大調査機関は消滅した。また財閥によって支えられた調査機関も自然消滅した。さらにまた、経営力集中排除に伴い、事業者団体の調査機関も極めて小規模のものに縮小されてしまった。かように在来の機関が姿をひそめた反面に、GHQによって推進された新たな調査機関が続々と生まれた。国立国会図書館とその一部局たる調査立法考査局はその最大のものであろう。国会図書館はまた各官庁に支部図書館をもち、横のひろがりをもった組織を含んでいる。各省の調査部も一時は調査局にまで昇格したことがあった。その他統計委員会をはじめとして幾多の委員会が設けられ、それぞれ調査が進められ、その成果が発表されている。
 占領政策を実施するためには、綿密正確な統計資料を必要とするので、アメリカ型の統計作成業務が急速に導入された。経済安定本部をはじめとして各行政官庁は、その調査統計業務を急速にアメリカ化せざるをえなかった。かくして、少なくとも外面的には、アメリカ的機構と技術とをとり入れた調査機関体制ができ上がった。さて、その中味はどうであるか。
 何よりもまず指摘せられねばならぬことは、わが国には偶像を破壊し、権威と闘った科学的精神の発達史がないことである。したがって、研究調査機関の外形はあれども、魂はない。科学的調査に立脚して政治なり事業経営なりをおこなうという空気は、まだ低調である。それを立証する最も端的な証拠は、予算縮減の際には真先に調査研究費が削られ、また機構改革の場合にも調査系統が真先に槍玉にあげられることであろう。もっとも、これは調査そのものが政治なり事業経営なりにとって、まだ充分に役に立つような形にまで進歩していないことにもよるであろう。内容的に見ても権威がないし、また時間的にも間に合わないなどの欠陥があるために、調査の重要性が稀薄になっていることもある。調査というと、研究よりも一段低級のもののように考えられ、その成果もガリ版などで速報的に処理されるので、作業そのものが拙速で権威のない仕事に陥りがちである。総じて欧米先進国に比べて、わが国では学問と調査との隔りが大きい。学者は深遠な学理を探求することをもって誇りとし、調査的な仕事にたずさわるのは学問の堕落のように考えられている。他方、調査機関の側では、学者の研究はすべて迂遠であって役に立たないときめておる。双方が互いに敬遠し、軽蔑し合っている有様である。
 だが、ちょっとした調査でも、基礎的な学理の背景なくしては、権威ある業績とはならない。深遠な学理を、日常の業務に役立つように消化し普及させるには、学問と実務との双方のセンスを身につけたスペシャリストの介在が必要であろう。わが国では、学者というとひどく迂遠であり、また調査マンというとひどく拙速屋であって、両極端をなしているが、先進国では両者の距離はもっと接近しているようだ。わが国でも、学問―調査―実務の関連が、もっともっと緊密になることが望ましい。それがためには、学問と実務との橋渡し役をする多数の優秀なスペシャリストが必要であるが、わが国の社会には、優秀なスペシャリストの養成を阻害する重大な要因がひそんでいる。まず第一に指摘せねばならぬ重大なことは、わが国では技術系統の専門家は公平に待遇されておらないことである。このことは、明治以来の問題であったが、戦後においても余り変わっていないようだ。日本の社会はまだ、科学を尊重し専門学を充分に認識するまでに進化していない。現在、研究調査は国家予算によって賄われているものが大部分であるから、例を官界にとる。わが官界はかつて高文官僚の独占であって、行政系統の官吏は早く課長、局長、次官の出世コースを進むことができたのに反して、技術系統の官吏は傍系として出世街道から長くとり残されていた。この空気は現在でも余り変わっていないようだ。調査マンも一種の技術家であるから、往時の技師と同じ立場におかれている。
 もっとも、以前は調査部などに入る者は、官民を問わず、活社会で働けない不健康者や無能者が多かったようだ。調査部などに入れば、出世はできないものと自他ともにきめていたようだ。しかし、大正時代以降、社会問題に刺激されて調査マン生活に入った者は、学問的能力においても人格的にも一流官立大学の教授に劣らない人もいたのであって、調査マンの素質は一変している。けれども依然として、冷遇される旧態は改善されていない。職階制をきめる場合なども、調査系統については、きわめて認識と理解とがたりない。行政系統は、次官、局長、部長、課長、係長というように既成のハイアラーキイ秩序ができているので、わかりやすいらしいが、調査系統となるとこれがはっきりしない。そこで、つい傍系視されてしまう。形式的には民主化が唱えられているけれども、実質はあまり改革されていないようだ。公平待遇の原則が貫徹されないで、どこに民主化があろうか。こんな環境の中では、調査マンのうちで小悧巧なものは、課長や部長のコースを通って局長以上の地位に上がりたがる。終生を捧げて研究調査に没頭しようとすれば、いつも割損な地位に甘んじなければならぬ。これでは、底光りのする立派な専門家は養成されるはずがない。青年時代の社会的熱情はうせ、研究心は鈍り、人間的にも光りのあせた存在と化してしまう者が多いのは、当人の罪よりもむしろ環境の罪であろう。
 このような環境の中に成長する調査マンの心理は複雑だ。この心理をのみこんで使いこなせる指導者はきわめて稀である。TVAにおけるリリエンソールのような人物は、容易に得難いのである。はじめの純真な勉強ずきの青年たちを、みな不平家にして殺してしまう。調査マンをして単なる調査職人に終わらしめず、立派な社会人として成長するような環境ができ上ることを祈ってやまない。例えば、海外駐在のサイエンティフィック・アタッシェ制度のようなものを創立するだけでも、どれだけ明るい希望を与えることであろうか。
 わが国には過去において、優秀な青年学徒をして専門家たることを断念せしめた数多くの実例がある。それは、右に述べた社会的、経済的待遇の不公平が大きな原因であるが、そのほかにも内面的な問題がある。大学以外の職場で良心的な研究を続けることは容易でない。研究の方向や結論が与えられて、注文生産的研究調査を強いられることが多い。研究調査に自主性をもつことができず、迎合的な研究やその場限りのごまかし的調査をせねばならないとしたら、男一匹一生をかけるほどの熱情がもてないのは当然である。ここに青年調査マンの最大の精神的煩悶がある。そこで、このような生活に見きりをつけて、適当なチャンスに官界や実業界や新聞社などへ転身した悧巧者は少なくない。学力を認められて大学へ迎えられた者もある。専門家として大成すべき素質をもつ青年の実に多くが転身してしまったのである。

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 スペシャリストの養成の問題は、わが社会の封建制の問題に関連したむずかしい問題であるが、そのほかにも古い革袋が頑強に残っている。例えば官庁のセクショナリズムがそれだ。これは戦後になっても余り変わっていないようだ。もっとも、これはアメリカでも問題がある。行政機構再編成を目的としたフーヴァー委員会の調査によると、アメリカでも重複や無駄がずいぶん多いことがわかる。しかし、せめて各省の各部局の調査統計資料は、国会図書館に自動的に集積されるようにしたいものである。官庁資料の公開は民主政治に大きな関係があることを認識すべきである。
 次に、手工業的な個人単位の調査方法もまだ克服されていない。調査にとっては、単行本よりむしろパンフレットや雑誌やガリ版などの生の資料のほうが重要なことが多いのであるが、これらは、各人の机上にうず高く積まれて、それを材料としてこつこつと手工業的に作業を進め、レポートを作成するという方法である。それらの資料が公開されない。共同利用ができない。ことに当人が方々をかけまわって苦心して入手した資料などは「私料」化してしまう。これらの生の資料をどのようにして整理し保存するか、またこれを共同利用に公開しつつもなおかつ特定個人の特殊な利用に便宜を与えるにはどのような方法が考案されねばならないか、といった技術的な問題も残されておる。





底本:「中井正一評論集」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年6月16日第1刷発行
底本の親本:「中井正一全集」美術出版社
   1964(昭和39)〜1981(昭和56)年
初出:「思想」
   1952(昭和27)年4月
入力:鈴木厚司
校正:宮元淳一
2005年3月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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