脱出と回帰

中井正一




一つの神話

 日本の伝説の中で、光の美しさを描いているものでは、何といっても、手力男の命が、あの巌壁を開く時、さしはじめる光の、あの強烈な感じの右に出るものはあるまい。あの伝説、暗さへの没入、それからの回復、この構成の中に注意すべき二つの要素があると思われる。第一は、その光の源である脱出の女神が、巌壁の中でその孤独と、寂寥に堪えがたい時、金鵄カナトミの命はそれを慰めんとして、弓五張を並べて、音階的な配列で、かなでたというのである。第二は、巌壁の外で、大衆が、神集いにつどい、大論争をし、ついに、衆議一決、天鈿女の命というアフロディテをして、ほとも露わに、ストリップの大騒ぎをすることにするのである。
 私は、五張の弓の寂寥をきわめた音と、外のこの大衆の哄笑の二つとも、娯楽のもつ姿を、みごとに浮彫りにしているように思うのである。
 ミトスはいつも、哲学的なものを、民族の血の中から人々に伝えているといわれるが、ここでも、また、何かそんなことを感ぜしめられるのである。

遊離の学説

 娯楽が、いつも、テーマになる時、ある学者は、現実よりの切断、遊離、転換、放出、脱出を説くのである。
 シルレルが、その『美的教育論』に、スペンサーが、『心理学原論』に、さらにジャン・パウル、ベネケ、グランド・アレン、カール・ミュラー、ハドソン、パウル・スーリアンなど、みな人間の過剰なる意識を、有用ならざる行為に遊離せしめ、その過剰を放出せしめるのであると考えるのである。「人間は遊ぶ時いっとう美しい」というシルレルの言葉は、この人間より脱出した人間の美しさを説くのである。
 ラツァルス、シュタインタールなどは、一方の機能を過度に使用する時に生まれる疲労を、その生活を一応、中止切断して、すっかり異なったまだ用いていない他の機能を用いることに転換することによって、その疲労を回復せしめることが娯楽であると説くのである。
 パトリックはその論をさらにすすめて、精神分析的に、「抑圧の開放」にまでもっていくのである。これらの考え方は、一応心理学的に取り扱い、生活からの遊離を娯楽の要素としているのである。
 カント哲学の美の非目的性は哲学的な代表的なものであるが、フッサールもその『論理的研究』で娯楽が「記号の位置転換的構成」であることを引例の中に用いている。また将棋をもって、数学的意味の代入における「象徴的運用」として取り扱っている箇所がある。娯楽が、やがて、存在の内面を掘り下げるにあたって、その象徴的な手がかりとなると考える考えかたの一つの代表である。ソシュールが、彼の言語哲学の構造を、将棋の運用構造に適応してみせていることは、後のカッシラーの『象徴的形式』の考えかたに道を開いている。現象の本質的抽象化として、娯楽の本質を考える道が、哲学的には、一応は可能であろう。
 そのすべてが、常に、人間の実生活からの遊離と脱出を、テーマとしていることに変わりはないのである。

創造の愕き

 原始人が、獲物を追うて山に入り、渓谷に一やすみしている時、フト、まずそのしずけさに愕き、そのもつ弓絃にふれてみて、その音色を静寂の中に聞き入った時、その美しさにさらに驚いたとすれば、この時、彼は、日頃の生活からの最初の脱出をしたことになるというべきである。
 この弓絃が、かの巌壁の中で金鵄の命の弾じた五張の弓絃の音階に展開することは、やがて、現代ピアノの絃の構成にまで、永い歴史を貫いて連続しているのである。
 生活よりの遊離と脱出としての娯楽が、人間性の回復と追求としての芸術にまで、いかにして連続するのか、この脱出の回帰が、娯楽のもつ問題となってくるのである。
 この生活よりの遊離にあたって、それは一つの特徴をもっている。それは遊離ではあるが、一つの創造の驚きでもあるのである。
 手の自由と共に、言語の形成、人々は、この「宇宙に秩序があるらしい」ことに気がつきはじめた時、彼らは、宇宙の中に、いっとう不思議な現実に対決したことになるのである。
「繰り返して、無限であるものがある。」「その無限なるものの間に、符合するものがある。」その感嘆は、今も、人類の魂をゆさぶるにじゅうぶんな、率直なものをもっているはずである。今、人々には気づかぬほど、過剰な意識の閉塞の中に埋没され、阻害されているが、肉体(眼、耳、鼻、舌、皮膚)は深く眠っている原始人の意識と共に、愕きつづけているかもしれない。
 音の中に、一つの秩序があるらしい事に気づいて、弓絃をときほぐし、ハープにまでもっていき、リーマンの『音階函数論』にまでもってくるには、人間の一貫した秩序への試み、無謀なたわむれの積み上げがおこなわれたというべきであり、それを嗣いでなお多くの試みが、試み続けられているのである。
 ここで大切なのは、それが、獲物を獲て、飢をしのぐという宇宙への直接の対決ではなくて、その「秩序らしきものへの対決」、いわば、宇宙の中に、人間が、秩序を探り求めて、人間の手で創る試みが営まれているのである。
 それは、人間の営みよりの脱出ではあるが、宇宙の秩序(それは人体の中にもひそみ、人間と人間の関係の中にもかくされているものであるが)への探求でもあるのである。ただその探求そのものも、渓谷の原始人のごとく簡単でもなく、孤独でもなく、人間の社会そのものの中でおこなわれるから、そこにゆがみも、矛盾も起ってくるから大変なのである。

歪んだ推移

 人間が人間を所有するという、歴史の中の侮辱である社会現象が起った時、この生活よりの遊離はいろいろの姿で起っている。
 現実の飢えをしのぐための営みを遊離して、その業だけを追求していく人々は、非常に稀にではあるが、貴族階級中の優秀なものであるか、奴隷の中にそのことだけに専門に鞭のもとで追求しなければならないものたちの中に、閉じこめられた。
 奈良朝の朝貢物としての技芸家と平安朝の公卿の宗派の機構はそれである。ローマのコロシウムに出場する闘士としての奴隷たちは、長い伝統を今の球場のプロフェショナル・リーグ戦、拳闘のリングに尾を引いているが、生命を貴族の眼前におとすことすらをもって、人間の娯楽を構成していたのである。
 封建時代のおかかえ力士的な領主専属の、プロフェショナル行為は、剣士もそうであるように、これを美しく表現して、六芸、すなわち、礼、楽、射、禦、書、数、といってはみるものの、それを修得して、そのもつ娯楽性が、米の額でもってあがなわれ、それがただ一つの食うたつきであったことは、いなむすべもなく、そのかかえている領主も、いつか、かつて、おかかえの一芸に秀でたもの、例えば、鎗一筋でもって、その家柄となったものであるようなおたがいであることはまちがいないのである。宮本武蔵が、主君をいろいろ変えているが、領主になるほどの器量でない一芸の士であり、巌流島では、大衆にかたずをのませ、今もなお、大衆の娯楽の種になって、映画会社の弗箱ドルばことなっているのである。
 市民主義の時代になってくると、すべて協会とか何とかいっているけれども、これらすべての芸能、さらにスポーツ、相撲にせよ、ベースボール、ボクシングにせよ、競馬、競輪などに、利潤の機構の中に、あるいは、広告の手段とし、松竹ロビンスなどとしてのプロフェショナルなものに解体して変形されてゆく。国際的オリンピックでさえ、また新聞利潤の高度な対象となっていくのである。
 弓絃に偶然ふれた、渓谷の原始人の愕きよりはじまった音楽も、今は一人一人の芸術家にはマネージャーと称するブローカーがついていて、大劇場、また映画会社との契約金の大きなメールストルームの渦巻の中に、眩めく思いを、みんなしているのである。
 娯楽は、なるほど一応生活よりの脱出である。しかし、時代はいつも、この人間の脱出の道を心得て、その道筋に「わな」をかけるのである。それが歴史の狡智リストである。
 映画、レコード、ラジオ、新聞とのタイアップが、時には、その「わなの道」に人間を追い込み「利潤対象としての大衆」すなわち「ミーちゃんハーちゃん族、アロハアンちゃん族」を創造することすら、あえて辞さないのである。
 生活よりの遊離は、実は宇宙の秩序の創造の探求であり、それは、実は人間性の本質への回帰であるべきであったのに、流離より流離へと、はてしもなき迷路が、娯楽の世界を支配している。いつになったら、人々は、アリアドネの糸をたどって、そのもとの入口に帰っていきはじめるのか。

回帰をささえるもの

 ゲーテがディレッタントのことを評して、何でも自分が練習すれば上達しうるものであると思っているもののことであるといっているのは、注意すべき言葉である。何でも一家言をもち、自信をもち、放言し、自分が行くところ可ならざるはない「器用人」だと思い込んでいる人のことをゲーテはいうのである。
 尺八で首ふり三年ということがあるが、もし娯楽なる言葉が正当にまたはプリミティヴに用いられるとすれば、この三年間が、一番楽しい時である。
「旦那芸」というのは、この首ふり三年が一生続く芸である。この言葉は、それが示すごとく市民社会の娯楽の一つの典型的表現語である。清元、浄瑠璃を、落語にあるように、人に語りたく、聴かせたくてたまらない、実に楽しいほほえましい娯楽の本格的な期間である。自分のものがよく見え、聞こえてしようがない時である。しかし、それは、本人はそれでよいが、無邪気な大衆、専門家にとっては、そのほほえましさの程度、すなわち愛嬌を越えると、まことに娯楽の正反対のものとなりかねないのである。つまり一人だけの娯楽なのである。
 この首ふり三年が、ともすると物のけに憑かれたように、その芸の中に沈んでいく時、旦那はそのために身を滅すか、素人は、その芸の怖しさに戦慄するという瞬間に面するのである。芭蕉といえども、その一生の大半の後に、これに直面するのである。この時、人々はディレッタントから蝉脱せしめられるのである。
 吸いよせられるような苦闘が、ここから始まる。多くの奴隷も鞭の下に、いつの日か、この芸の鬼に魅せられる日があり、この凄惨な芸の奥底にたぐりよせられた人々が、ずいぶんあったであろう。封建時代でも、かつては忠義をたててやっている中に、芸そのものの独りあるきは、やがてその主君の命の遥かなるかなたに芸の命ずるところの怖ろしい宿命に身をゆだねることとなるのである。世阿弥が、佐渡に流さるる理由が何にもせよ、彼の中の鬼は、ほしいままなる道をたどったにちがいない。利久の歩んだ道もまたそうであろう。ここでは、娯楽といわれるには、それはあまりにも魅惑的である。凄惨であると共に、また蠱惑的である。身を滅すものを用意している。道楽といい、極道といって、人々の指弾するところのものを娯楽がふくんだのは、かかる娯楽の域を指すのである。
 なぜそれは凄惨であるのか。
 それは、それまで獲得した自分の芸が、その芸独りの歩みによって、それを抜けださざるをえない、したがって自分自身から脱出せざるをえない「巨大なる動き」が、自分自身の中に起ってくるのである。
 自分自身が相手であり、自分自身が自分を弁護するにもかかわらず、それを裸にし、露わにして、闘わねばならない。何人にもゆずることのできない対決が、自分自身に課せられてくるのである。
 多くの人々はそれから眼をそらすことで脱落しているであろうが、また多くの人が、この闘いを手離すことなく闘い続けている。
 この人々には、もはや、余技としてやっていくには、余りに全生活をそれによって闘わねばならない。自然に生活的に敗北することによって、芸自身を食うたつきとせざるをえず、そのことによって、さらに、その生活は凄惨さを増すこととなるのである。旦那芸というより、芸が身をたすける段階に入るのである。
 もはやそれは彼自身にとっては、すでに単なる娯楽でない。しかし、その観覧者、鑑賞者、ファンにとって、娯楽となってくるのである。芸術家、芸能家とよばれているが、多くの近代的奴隷はかくして生れてくるのである。
 しかし、彼らにこの奴隷的条件の生活態度を強要しているのは、社会が、たまたま愚劣であるのであって、決してかかる苦しみが、この苦闘の必須条件ではないのはもちろんである。彼らは最大の生活条件をたとえ与えられていても、彼の苦闘の対象は、より自由にならない自分自身なのである。
 しかし、この苦闘の中に、物のけに憑かれたように飛び込み、そして、それに耐えつづける人は少ないのである。いかにしてか食いつづけて、十年二十年の後に、ようやく何らか会得することのある時、彼らは、もはや、何かが悦楽であるといって彼らの前に出されても、彼らは、ほんとうの悦楽が何であるかを彼が選んだもの以外には耳をかたむけようとはしないであろう。
 その彼の味わうその醍醐味を、大衆は見て、また彼らは彼らの娯楽ともいえるところの悦楽にひたるのであって、悦楽としては、二番煎じであることはまぬがれない。しかし、それに彼らは満足し、それに金をはらうのである。
 この苦悩の中に悦楽を掴む人々は、大衆の批評が少々誤っていても、信ずるところまことに深く、批評家の冷たい仕うちにも、寂しくみずからを守っているであろう。それだけ社会は二重の罪を彼らの前に犯しているのである。
 この自分を乗り越えて、肉体中にもひそむ、宇宙の秩序を追求し、自分自身を探求するために、一分のすきをも自分にゆるさない練習を続けている、「見らるる人々」の魂の中に、それが、野球の選手であったとしても、見てくれの自分からの、脱出から脱出を貫いて、ついに、人間への回帰を約束するところの、回帰をささえる道が、そこにつながっている、といえるのである。
 ボートの選手は、一本一本のオールを手離さないことでもって、ついには天地晦冥の無意識の中に陥ってゆくが、この時に、彼はむしろ、ほんとうのフォームに立ちいたり、それを会得し、自分の会心、自分のペースに邂逅しているのである。この闇を貫かずしては、彼は、自分が対決するところの、光の中に回帰できないのである。
 闘うこころの正しさ、爽々すがすがしさを、毅然として支える清浄さを、悦楽と云うならば、娯楽の根底にはかかるものが横たわらなければ、ほんとうの永遠の娯楽にはならない。たとい、競馬のファンでさえ、その悦楽の底には、かかる本質への回帰を、はるかなる意識の奥底にもっているのであるが、帰り道のアリアドネの糸を、ただ見失っているのである。





底本:「中井正一評論集」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年6月16日第1刷発行
底本の親本:「美学的空間」弘文堂
   1959(昭和34)年
初出:「思想 三二六号」
   1951(昭和26)年8月号
入力:鈴木厚司
校正:noriko saito
2010年10月5日作成
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