絵画の不安

中井正一




 真に在るものは不安の上にある、というハイデッガーの考えかたには何ものか深いものがある。存在して、しかも存在のさながらの姿より隔てられているという嘆き。存在のふるさとに還りたきのぞみ。それがわれわれの「今」であり、「ここ」であり、「自分」のあらわなうつつである、と彼はいう。
 その意味で、真の自分の姿は永遠なる「問い」の上にある。
 言葉の上に、光の上に、音の上に、人は問いを、問いの上にまた問いを重ねる。それは真に在りたい深いねがいである。
 われわれが存在の中に在りながら、画布をもってそれを隔て、それにしずかに立ち向うのは、在るものがそのさながらに向ってなす「問い」の設立である。
 存在が存在に向ってなす「問い」の設立、そこに画布の意味がある。自分を自分から画布をもって隔ち、画布をもって押しやること、それは自分が自分に向ってなす親しき問いである。
 自分が自分から隔てられているその隙虚すきまに、あるいは画布はしずかに滑り入るともいえよう。
 われわれの前にまずある白い画布は、実にいまだ問われざる一つの疑問記号フラーゲツアイヘンである。われわれが今ここに在りながらしかも真に在らざる不安、それが画布の寂しき白さである。
 白い画布、それは一つの不安である。
 人間は問いをもつかぎりにおいて生きている、とハイデッガーはいう。その意味で、それがおそれを滲ませているかぎり、画布はいのちの中にひたり、いのちの中に濡れているともいえよう。ハイデッガーはいう。この不安こそ、自分が自分の内奥より喚ぶ言葉なき言葉への悪寒のごとき畏れである。自分が自分よりすり抜けること、自分が自分より隔てられていること、それが生ける時間であり、生ける空間であって、見ゆる時空はその固き影であり、射影にしかすぎない。
 生ける空間、いいかえれば、自分自身へのへだたりの寂しさ、隔りの愛憐の中に、影なる空間を写しとるはたらきが、画布の情趣であり、画布に触るる浸み透る心境である。

 自分が自分より隔てられたる隙虚すきまに正しく画布を挿し入るることは、地上の最も困難なる使命の一つであるとともに、多くの苦難をそれは用意する。ミケランゼロが法皇の食卓に嘗めし苦さ、ドラクロアが宮廷批評家より浴せし不当なる讒謗、常に時に追い迫り、それを追い抜き、ついに時そのものを生みいでし画布は激しき不安と闘争の下にそのすがたを露わにした。
 真に存在するものは不安の上にある。
 この不安なき世界はハイデッガーにとりては饒舌(Gerede)の存在にしかすぎない。それはすでに語られたることについてのおしゃべりである。そこに何の本質凝視もなく、話されたることへの話である。それは何ものかについての直接なる話ではない。みんなが語るところのもの、ありきたりのもの、「だそうだ」のことについての言葉である。人々と共にともかく同じことをいいたい考えたいこころもちである。言葉の……また絵の……その日暮しである。ここにはじめて好奇のこころが意味をもつ。それは何ものかを見究めんとするのではなくして、ただ見ればよいのである。人だかりの中に何でもよい首をつっこみのぞき込む思想の……芸術の……散歩である。思想のショーウィンドのぞきである。そこには存在への執着もなく、強い把握もない。好奇は常にすべてに対して興味をもつとともに、しかも何ものにも執しない。そこで存在はその根を失って日常性の中に堕し、ただ人と共に在って、自分は見失われてしまう。読まれたるもの、語られたるもの……描かれたるもの……についての剽窃ひょうせつに日は過ぎていく。すべてについて、そして何もののためにでもなく問われかつ答えられる。この世界をハイデッガーは「軌道の上の生活」(auf der Spur sein)と名づける。いわば在来の考えかた、ありきたりの日常性の中に楽々と生きることである。真の自分を掘り下げることをにぶらせることである。この世界を彼は「命なき存在」への没落と名づける。自分に飽満せる安易、だらしなき悦楽と放恣、自分におそるることなくかえって、独自の意見を失って人とあるいは党派と異なることへのみの怖れ、自分でありながら自分の外に住むこと、世間への自己解体、自己溶解、これらの墜落を彼はすべてを吸いこむところの過流(Wirbel)という。
 それは、もはや死ぬることなき死への埋没である。
 われわれは、われわれの画布をいかなる角度において存在の中に挿しいれるかを寂かに憶いみるべきである。はてもないマンネリズム、意味のない党派心、猜怨と嫉視、繰り返えさるる朋党のだましあい、執拗なる剽窃等々の中に画布が浸さるるかぎりにおいて、すでに白き画布は、再び腐剥することなき腐剥の中に朽ちているはずである。画布は、すでに死膚の白さに彩られているはずである。なぜならそこには、生のただ一つのしるしである生そのものへの疑問記号フラーゲツアイヘンを失っているからである。自分の存在へのまともな肉迫が見失われているからである。
 かくて絵画の不安をして、われわれは一朋党と異なることへの不安であらしめてはならない。かつて描かれしものと異なることへの不安であらしめてはならない。単なる取引の上の不安であらしめてはならない。
 あるべき不安は、存在に肉迫せざるの嘆きの上にあらねばならない。「存在の意味そのものへの問い」、みずからがみずからの内面にふりかえりての畏れ、自分の背後より襲いかかる悪寒の上にあらねばならない。なぜとも知れざる、みずから、みずからより隔てられたる「隔り」の意味、生ける生々しき空間(R※(ダイエレシス付きA小文字)umlich-in-Sein)の上にあらねばならない。
 かかる意味で芸術史とは、永遠なる存在摸索の記録とも考えられるであろう。そしてかのギリシャでは、調和をもって存在の形相として受け入れた。ロマン派はこれに対して、天才の情熱の中にそれを求めた。それは異なる意味をもってながめられたる、一つの「青き花」である。これについて現代、「意味づけられたる時代」としての存在は、いかなる意味でそれを受け入れつつあるのであろうか?
 この「問い」はよき意味において、また悪しき意味において、一つの絵画の不安を構成している。私は、その両様の意味で受け取られるところの一つの警告をここに呈出し、また検討してみたいと思う。そは、かのル・コルビュジエのかかげたる一つの命題である。
「みずからを新しく形造るこの時代の生みの苦悩とは、みずからの深奥の中にひそむ調和に対する衝動の確認にほかならない。
 おお、われらの眼よ、見よ、この調和こそ、能率の法則によって整理され、物理学をもって規定さるるところの労働の苦しみの表示の中にその影をひそめている。
 この調和は、その理性的根拠をもっている。それは断じて気分の気紛れではなく、論理とそれをもってしては測りがたき世界との関連的構造の支配の下にあるのである。人間の労働能力のけなげなる過重とその忍耐は、現代における『自然』である。そしてそれは、厳密なる意味においては実に解きがたき課題なのである。
 機械的建築技術の創造は一つの有機体である。それはあたかも吾人の驚愕を喚起する『自然』の生産物のごとく、純粋性に従い、たとえば生産的法則に思いをひそめる。調和は、実に仕事場あるいは工場から生まれる生産物にある。それはいわゆる高等なる芸術、シクステイヌにも、エレクチオンにもない。それは良心、知識および精密と想像、大胆および規律が生々しき結合を為すことによって創りいだすところの、日々の作品の中にある。」
 この命題の中に私たちは、反省なき多くの思いあがりを見いだすであろう。にもかかわらず、われわれのかくれたる魂の底に、何ものかを感ぜしめる衝撃を潜ませていることを否むわけにもいくまい。そこに、聖なる一回性をその底にもつ時代の大きい後姿がにじんでいる。
 ギリシャにおいて芸術の特殊性が考察された時、始めにプラトンより次いでアリストテレスによって指摘された概念は、技術 tech※(マクロン付きE小文字) であり、また模倣 mimesis であった。ロマン派的思想すなわち芸術至上主義は、これらの概念の否定より出発し、その芸術論は、技術の概念に対する天才の概念、模倣の概念に対する創造の概念の上に成立した。
 しかし、この天才と創造の概念は、それが指摘された時は、実に正当な権利を保持したるにもかかわらず、その解釈者あるいは亜流によってみずからその正当なる意味の理解を失すること、あたかもちょうど技術模倣の概念がその正当なる意味の理解が怠られたると同様であったことである。
 そして天才創造の概念は、ついに放恣個人性とに仮託的重要さをあたえるにいたった。現今の芸術のになえる悪評は、まさしくその欠陥においてである。かくて今や、再びギリシャへの興味は、異なりたる姿の上に現代に意味をもちはじめた。すなわち、技術は近代的科学の名において、また模倣は、普遍的なるものの模倣すなわち調和の名において、フェニックスのごとく灰燼の上に新しき装いをもって立ちあがりはじめた。
 いわばギリシャでは、技術の概念は人間の身体構成の上にかぎられた。しかし、現代の技術の概念は社会構成の上に生産さるる科学的機械的技術をも含む。それは、天才をもその一要素として構成因子とするところの巨大な機構の内面である。この技術が、近代の視覚、見る意味に大きな変化をもたらしたことは、多くの美学者の指摘するところである。ベーラ・バラージュ、ヴェルトフ、フランツ・ローなどの考えかたが、それである。
 それはレンズの見かたの発見である。
 それは実に個性なき非人間的存在ではある。しかし、それは見る存在である。いわば見る機能フンクチオンの異常なる発展であると共に、実に一つの性格の所有者でもある。
 たしかに、人の眼球構造と相似の過程ではある。しかし、望遠鏡や顕微鏡におけるがごとくその視野の拡大と正確性は、人の見る意味の深き飛躍でなくてはならない。そして、いまだ人の見るあたわざりし新しき美わしさを、人はそのレンズを通して見るのである。またレントゲンの出現は、人の眼の見つくすあたわざる存在の内面にまで見る意味を発展せしめる。また映画に見るごとく、動きの再現と、スローモーション、時間的可逆性重複性などの自由性は、見る世界の構成モンタージュに新しき転回をもたらす。
 ことに構成において示す一様の調子、明暗の鋭い切れかた、あるいはネガティヴの怪奇性、精密なリアリズム、確実なる直線ならびに曲線への把握性は、人の芸術の達するあたわざる数学的感覚をあたえる。またその把握の瞬間性は、あらゆるスポーツ、踊り、自動車、飛行機、飛行船などのものにまで、美的要素の題材を拡げ、しかもその瞬間の一瞥が何びとの永き正視よりも正しきリアリズムに達することは、見る意味とその把握性に、いずれの天才的巨人の試みよりももっと大きなものをもたらせている。また手法の方向の自由性と光線の方向の自由性のもたらす変革性は、絵画史上のいずれの時代における変革性よりも激しい飛躍をなし終った。
 細胞の内面、結晶の構成、星雲の推移、また分子のブラウン運動などのものを把握の対象とすることは、単に物語物絵巻などをのみ対象としている日本絵画壇にとっては、あまりにも激しい題材の加重であろう。
 しかしそれが、われわれの見地のもっている一つの不安であることは、われわれの眼をそむくべからざる課題であることを忘れてはならない。
 見る意味のマンネリズム、見る意味の日常性より脱すること、これがまさにあるべき不安の一つである。そしてかのレンズの瞳の見かた、かの「冷たい瞳」のわれわれの瞳への滲透、これは巨大なる見る意志の足跡であり、人間の瞳のはかり知れざる未来の徴しである。
 しかもそれは、一つの新しき性格の出現を意味している。それは精緻、冷厳、鋭利、正確、一言にしていえば「胸のすくような切れた感じ」である。それはこれまでの天才の創造、個性における個別性などの上に見いだすものというには、あまりに非人間的なるファインさである。すなわち換言すれば、それは一つの新しき「見る性格」の出現である。それは、天才の個性ならびに創造の中に見いだしたものより異なれる見かたである。言い換えれば、レンズの見かたである。その瞳は日常の生活、新聞、実験室、刑事室、天文台、あるいは散策の人々のポケットの中にこの機械の見る眼、そのもつ性格は、すべての人間の上により深いより大きい性格として、すべての人の上に、その視点を落している。コルビュジエの「見ざる眼」、バラージュの「見る人間」、ヴェルトフの「キノの眼」も、またその冷たい瞳について語れるにすぎない。
 そして最も大きなことは、それが社会的集団の構成した「瞳」であり、集団の内面をはかるに最もふさわしい瞳であり、あたかも自己みずからその自画像をみずからの眼を通して見まもるように、レンズの眼は集団の内面を見まもるともいえよう。そこに、天才をもその一つの要素とする巨大なる集団構成が、その精緻なる技術をもって芸術の技術となし、新しき調和の概念を生み出しつつあるのを知るのである。

 存在が存在みずからの深さをはかるにあたって、彼の眼がその深さにしたがって、その遠さをもつこと、そこに人間の太古よりの「問い」の拡延、いわば宗教的情感がある。
 存在が存在より隔てられているその隙虚すきまに画布がすべり入るとすれば、今や画布は深淵のごとき深さに沈みつつある。われわれの「問い」、われわれの不安は滲み透るような新鮮さをただよわせている。
 いわばわれわれの存在の疑問記号フラーゲツアイヘンである「白き画布」は、今新しき香りを放ちつつ、われわれの前に架けられている。





底本:「中井正一評論集」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年6月16日第1刷発行
底本の親本:「中井正一全集 第二巻」美術出版社
   1965(昭和40)年1月発行
初出:「美」
   1930(昭和5)年7月号
入力:文子
校正:鈴木厚司
2006年7月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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