スポーツの美的要素

中井正一




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 スポーツが人々によって研究され始めたのは、それを遊戯の一部としてであった。遊戯論については多くの人々が関心をもっている。それを今類別するならば大体五つに分れるかと思う。まず第一は剰余エネルギー論というべきものである。シラーが『人間の美的教育論』にのべており、スペンサーがその『心理学原論』にのべ、ジャン・パウル、ベネケ、シェリー、グラント・アレン、カール・ミュラー、ハドソン、パウル・スーリアン等が支持するところのものである。それは余れるエネルギーの放散のために、有用ならざる行為を人間がする。それが遊戯であるという考え方である。シラーの考え方はこれを浪漫派の愛好する甘き無為にまで関連せしめる。
 第二は生活準備説ともいわるべきカール・グロース、チーグラー、ワイズマン等によって支持さるるものである。それは第三の自然的遺伝的本能説(ウォール、ヴント)と関連して、動物の生存本能としての猟、戦、育児、模倣等の一つの表現であると考える。
 第四はラツァルス、スタンダール等の気晴らしのためという考え方、すなわち一方の機能の過度の使用によって来る疲労を他の用いざる機能の使用によって回復せしめるために遊戯があるという考え方である。
 第五はパトリック等によって支持さるる精神分析的に「抑圧の開放」の意味における遊戯の解釈である。
 私は今スポーツの美的要素を分析するにあたって、これらの遊戯論の一々に深入りすることをむしろ避けよう。ただそれらのものが一つの本能であるとして記述され、そのもたらす快感は本能の満足にあると解釈されていることを注意しておきたい。本能の概念は、リップスが自らそれを学問の屑籠といったがごとく、それに投ずることであたかもすべての問は掃蕩されつくしたるごとくその進行を停止している。むしろそこから私達はバトンを受取り彼等のゴールラインを私達のスタートラインにすべきではないかと思われる。

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 フッサールはその『論理的研究』において遊戯をもって「記号の位置転換的構成」の例としている。あるいは数学的意味の代入における「象徴的運用」として将棋の例を用いている。それは彼が遊戯の研究を目的とせずに、いわば偶然的にその思惟過程に現われしものにかかわらず、大きな暗示の影を遊戯の研究の上に投げるものである。
 すなわちそれは、遊戯の現象が我々の人間的構造、すなわちその機構的フンクチオンの深い象徴的運用として存在するのではないかということに対する問題の呈出である。ソッシュールは将棋の運用構造を言語哲学的構造に適用して、相似的代入に成功している。スポーツが存在の内面的組織構造の象徴的運用ではあるまいか? という問はスポーツの上に投げかけるべき親しき問であると私は考える。ことにスポーツが芸術の領域より寂しく放逐されている時においてなおさらである。またさらに近代性の一つの流れが肉体蔑視の過去の理想論に、正しき抗議を提出し始めている時においてまたなおさらである。

 3

 スポーツの解釈にあたって、私はその中に二つの要素を認める。その上に複合体としてスポーツの意味が構成される。すなわちそれは競争性筋肉操作の二作用である。
 それがたとえ肉体的運動であっても散歩ではスポーツの意味を構成しない。それはウォーキングレース、登山のごとく、距離あるいは高さにおける量的比較の可能をもってのみスポーツの意味をもつ。また競争性も単に麻雀のごとく知的の場合もスポーツの意味の外にある。この二つの要素の複合的構造の上にスポーツの意味が構成される。もしそれが許さるるならば、従って各々二つの要素の上にスポーツのもつ快感の構造が依拠することとなる。

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 競争性の快感。
 競争性の意味は本質的に量的比較でなければならない。従ってそれは同質的でなければならない。換言すれば、二個以上の異質的実体がその共通なる属性の領域内で、すなわち同質的属性の上にその量的比較を行うことを指す。
 そこに異質的なるものの量的転換が行われること、あたかも現象の数量化においてなされるところのごときものがそこに在る。
 しかも、この場合現象とは人間の神経、筋肉あるいは肉体的諸機能の上に限られる。一言にしていえば数量化されたる血液構成である。The better won! たとえ一インチであれ一秒であれ、いやしくも「差」あるならばそれは誇りか諦めかを意味する。この数の厳粛とその運用性、そこにスポーツの深い組織がある。ホイッスルが鳴って、一斉にラガーが動き始むるとき、球がそのいずれかの一人に落ちた瞬間、味方の十四人は勿論、敵の十五人の一々があたかも深い数学のごとく黙々とそのあるべきプレイの位置に動いているのを見入る時、球を中心として、見えざる力の波紋が次から次へと二方向的に作用するのを見る。そして、得点はともあれ瞬間息もつかせざる関係の構成、一人のTBに渡すハーフの一擲は十四のラガーに呼懸ける「見えざる関係の構成」でなくてはならない。もし「構成の感覚」が今新しき芸術の要素であるならば、タッチラインをカンヴァスとし、スパイクをピンゼルとするかのラグビーは瞬間崩れゆくうつつの夢ではあれ、しかも常に永遠を背負わないと誰がいい得よう。
 かかる意味で、ライプニッツがいえるように音楽が「音の数学マテマティク」であり、また建築が「凍れる音楽ミュジィック」であるならば、スポーツはまさに「燃ゆる力学デイナミィク」であるであろう。
 そして我々はその深き叡知的の計量性の中に瞬間崩れゆく美しさを把掴するとも考え得るであろう。観る者においてもしそうであるとするならば、一々のラガー自身においては、自らが深い数の要素として、構成の内面に身をもって沈みゆくのである。その悦楽はあらゆるスポーツで一般にユニフォーミティーと呼ばるる喜びである。激しき情熱、情熱の内面の秩序、いわば情熱の数学でもある。

 5

 しかし、かくのごとき喜びは競争性自体のもつ組織性、数学性、力学性に関連する対象的美感にしかすぎない。ここにさらに勝敗そのものに関する感情構成がある。
 競争者ABにおいて「Aが勝つ」の判断と、「Bが勝つ」の判断が相互否定的であるにもかかわらず、同一主観の判断構造の中に共在する場合、論理的判断としてはウィンデルバンドのいわゆる無関心的零点としての判断型態であるにもかかわらず、その二つの判断構造は一つの力の緊張シュパヌングとして相干渉して他の類型の判断構造となる。換言すれば判断構造は一つの「力」の場として収斂型態を取る。この判断構造は一般に「賭」の判断構造のもの、蓋然的期待感情の内面的構造である。この力の場としての期待感、これこそ近代人のいわゆる戦慄 thrill なのである。
 力の均等したる二つのチームのシーソーゲームにおける肉薄と追撃は、まさしくこの二つの判断の力学的構造を、外的現象の上に具象化するものである。野球において同点、終回、満塁、二死、2ストライク3ボールを想像して見るがよい。天はよくかかる悪戯をする。かかる場合観衆はむしろ面を伏せて涙ぐんでしまう。そして数年間そのシーンを回想して朗らかに微笑むのである。
 ドストエフスキーの『賭博者』を読んだものは、この最も純粋なるものを見るであろう。判断のシュパヌングのもつ愉悦の中には人間の永遠なる謎への限りなき問、その「問の構造」が本質的に関連している。パスカルの賭はその意味で深い感情を存在関連の上に投げている。ユーゴーのミゼラブルの中の一節、パリの防塞の中の戦士達が全市中に響く鐘の音に耳を澄している、その鐘声が弱ることは誓えるものの裏切りのしるしである。それは全時代が転回できるかどうかその大きな戦闘の勝敗への期待である。あたかも「時代」、あたかも「時」自体が常にこの「問の構造」の上に在り、パンドラの箱の秘密の中に閉じらるる以上、この期待の感に漂う愉悦の内には深い存在関連の認識、存在肉薄の欣恃が漂うというべきであろう。「未知」の中に在る喜悦の涙、そこにいわば裸わなる存在の原型の把握といわるべきものがあるのではあるまいか。
 しかしそれは観覧者のもつ勝敗の期待感である。これが競技者においては、チームAB……の闘争において「Aが勝つ」「Bが勝つ」の相反的判断が共在して緊張的構成を形成するにしても、自らが属するチームがAあるいはBである。もし仮にAであるとすれば「Aが勝つ」の判断は可能性であるよりもむしろ必然的である。すなわち可能的なるものを必然的ならしむるところに意志の構造がある。
 クリューが迫り来る敵艇のスパートをより鋭いスパートをもって引離す心持「これでもか」「これでもか」と重い敵艇の接近を一櫂一櫂とのがれゆく心境は、その進行する一艇に自分が乗れる意味で、蓋然より必然へと自らの艇を引きずる意味において、この外的現象は彼等クリューの内面判断構造を具象化する。内なるものを外に見出す意味で深い象徴である。蓋然判断の判断自体の中にも身をもって拶入することで、判断は即意志の構造をもって可能を必然にまで止揚する。そこに観覧者の境地はこの中間領域にあるというべきであろう。
 これまでのべたのは競争性の美的要素である。次に筋肉操作の美的要素についてのべよう。

 6

 筋肉操作の美感。
「健康状態に在ってわれわれが自己の奥底の声に耳をすますとき、秘めやかな、甘美な歌というべきものが聞える。生きていることを感ずること、そこにこそ、すべての快感の根底と同じく、すべての芸術の根底があるのではあるまいか」とギュヨウはのべている。「生きていることを感ずること」すなわち生を urteilen する意味での反省に対立して beurteilen 評価する意味で感ずることは、たしかに美学の最も深い根底を構成する。ただ問題はその評価のメルクマールが何であるかにある。近代美学においてカントおよびその発展者であるコーヘン等の立場がその哲学的体系に関連して「合法則的であること」をもって規準としたに対して、スペンサー、リップス、フォルケルト等の心理学派ならびにむしろ批評家というべきギュヨウ等が、「生命的(人間的、自然的)であること」をもって規準とせること、ならびにその各々の立場で過去の美学を解決せんとすることは注目すべき現象であると共に、現代の美学にとって、ことに新しき美の感覚に当面せる現代の美学にとって止揚さるべき深い課題でもなければならない。
「合法則的であること」と「生命的であること」との間には何等関連がないであろうか。この問題はスポーツの美学的考察においてその「フォーム」と「感じ」あるいは、「イキ」との相関性において深い興味を引くところのものがある。
 カントにおいては、「自然の技巧」Technik der Nat※(マクロン付きU小文字)r の概念は彼の第三批判の出現に対するかなり重要な史的要素となっている。彼において「自然の技巧」とは、主観の認識すべき現象自身の中にすでに理性的合法則性が内在することを意味し、すなわち客観の中にある自由性を意味するのである。そして、それへの端的なる反省が美的感情を構成するのである。かかる意味で「自然の技巧」は「理論的」と「実践的」の中間者として、換言すれば素材の理性的合法則性への信頼と直観において重要性をもつ。この場合、私達はその「自然」の意味を「人間的身体機関構成」すなわち内なる自然にまで、その内包を延長するならば、そこにいわゆるカントが余りにもプロテスタント的に捨去りすぎたる有機感覚としての地上的喜びへの合法則的顧みができたのではないかと思わしめるものがある。
 筋肉が、筋肉自らの行為をその内面の神経をもって評価し、そこに深い快適性をもって端的なる反省を為すこと、ここに「自然の技巧」への真に純粋なる直感があるというべきであろう。いずれの芸術もが、いわゆる「技巧」というところのもの、「腕」の内面の構造には、常にこの「内なる自然の技巧」すなわち筋肉操作の洗練性への深い信頼があらねばならない。そこにはじめて、訓練、練習、慣れ、老、大、熟、寂びの意味があるといえよう。あるいはむしろすべての「創作」の内面にはあらゆる外なる「自然の技巧」が、内なる「自然の技巧」を通って、そこに新しき美の現象が生ずるのである。自然美と芸術美の区別は、一度この「血によって構成せる自然の技巧」「呼吸によって構成せる自然の技巧」を、それが通過したか否かにある。すなわち全自然が人間のうちに息づいたか否かにある。
 ニイチェがカントを批評したように、「カントが創作の態度における美に余りに関心を持たなかった」ことはまさしくカント美学の大なる欠点であると同時に、その最大なる看過は、この「内なる自然の技巧」への性格的無関心にあったかと思われる。
 あらゆるスポーツのもつ技術への興味、この単なる技巧の評価的判断は、かかる意味で自然美と芸術美の中間体としての特殊なる美的構造をもつと共に常に瞬間に消えゆく純粋に行為的美感ともいわるべきであろう。主観も筋肉であり、客観も筋肉である。自分自らの中にその合理性を直感をもって把握するのである。一般にそれを「イキ」、「呼吸」、「コツ」、「気合」に見るごとく、多くそれは呼吸作用に関連しているが、これは、やはり、すべてのスポーツにおいてあたかも緊張する場合、注意をする場合、力を要する場合、腹八分目に息を吸って生理的怒責作用を惹起するに因由するであろう。あらゆるスポーツの緊張の一瞬は、この張りつめたる腹より吐く寂かな吐息の乱れざる一念の極限にあるともいい得るであろう。
 水なれば水に、雪なれば雪に、土なれば土に、その各々の構成機能フンクチオンに身体構成のフンクチオンが適用して、新しきフォームを構成するその構成の効果を常に感覚が測定しながら遂に極わまれる一点にまで導いてゆくその過程、そこにいわゆる「技術美」の特徴がある。そして、一つの「呼吸」の把握はいかなる愉悦にもまして甘美なる悦楽である。私はその悦楽の根拠を「内的自然の技巧」の美的反省的判断の上に求めたいと思う。その理論的根拠づけにまで溯ることは、ここではむしろ避けられるべきであろう。

 7

 私のこれまで解釈し来りしものは、スポーツマンが疲労を感ずるまでの筋肉操作の快感である。どんなフォームであれ清らかな空気の中で胸をふくらませる快さ、湧くがごとき血液の奔騰、「生きることを感ずる」意味で、それはすでに快いであろう。それは浄澄な外的自然の中に、整った身体機能、すなわち、内的自然の完き活動を可能ならしむる意味で、それ自体として快適である。人々は疲労を感じ始むるまで、それを持続し、疲れを感ずると共に道具をまとめて帰ってゆく。
 しかし、そこにある筋肉操作上の快適はスポーツにとってはむしろ静力学的な快である。それが一度その疲労を通して立上り始むるとき、真のスポーツの筋肉操作上の快感がそのもう一つ奥の扉を開く時である。それはむしろ動力学的ともいわるべきであろう。なぜならそこで選手達は動坐標的に内なる敵、「疲労」と血みどろな闘を開始するからである。
 リップスはすでに忍苦の快感を考察している。「忍苦」は「行為」に対立して、後者の能動的なるに反して、前者は受動的である。この苦痛を感ずる意味での受動的なこの忍苦は、その苦しみを耐え、持続し、抵抗し、さらに打破して耐切るときは、それは能動的なる行為自身の内面の、その中のさらに深い能動者、すなわち「行為の中の行為」としての忍苦 Erleiden にまで到りつくす。そしてこの忍苦は、弛緩、無気力、柔弱なるものの享受できないところの健全と弾力と興奮性のもつ特権であるという。
 この疲労の痛苦、すなわち、神経組織の計量的報告を超えて、肉体があらゆる抵抗要素をあげて、これに対立するところの「血液をもってせられたる構成」は、人間の「生きていることを感ずる」意味で、最も深刻なるものといわるべきであろう。
 それは疲労の重力の中に立上りゆく血をもってせられたる建築である。重力が加速度のシュパヌングである意味で、すなわち自らの動きが自らの抵抗を生み出す意味において、自我は、自我の内面に受動としての自我を発見する。そして、それと永遠なる闘争をなすべく運命づけられていることを人の多くの哲学は教える。人の一つの行為が、その内面に無限なる群の(否定の否定、さらに無限なる否定としての)行為をはらむこと、その限りない集合、そこに存在の原現象がその相を露わにする。一つの「行為」とその「忍苦」、そこに存在の一角の暴露がある。引きゆがめられた微笑をもってそれを親しく嘗めるスポーツの内奥の愉悦は、その秘かなあえぎ、喘ぎ、喘ぎの喜悦である。
 一本一本のオールを流さないこと、誤魔化さないこと、それはむしろ、いわるべき言葉ではなくして筋肉によって味覚さるべきものである。疲れ切った腕がなおも一本一本引き切ってゆくその重き愉悦は、人生の深き諦視の底の澄透れる無心にも似る。
 その無心性は、よき練習と行きとどいた技術の「冴え」をもたらすものである。オールあるいは水に身を委ねた心持、最も苦しいにもかかわらず、しかも楽に漕げる境、緊張し切った境に見出す弛緩ともそれはいわるべきものである。あるまま思い切り行為して、しかもあるべき則にはまってゆく心よさである。いわばそれは、「コツ」、「気合の冴え」ともいうべきものである。この境の会得は一回にして、しかも常にある種の香のごとく、湧然とゲームの始終にまつわるものであり、忘却の底に念々絶ゆることなく働きかくるところのものであり、そして働きかくることによって、その忘却の底に自ら成長し、太り、熟し、老いてゆくものとも考えられる。その成熟が、すなわち「練習」のもつ深い意味であり、訓練、寂び、甘味み、あるいは慣るることの意味でもあろう。
 すなわち「忍苦」はもはやその放棄しかあり得ない極みにおいて、何物かに身を依する。その対象は、スポーツにおいてはフォームと呼ばるるところのものである。
 よくコーチがどうしてもフォームを修正できない選手をして疲れ切らしめることがある。その疲労の中に、しかもオールを引いている選手に対して「そうだ、その気持を忘れないように」ということがある。未だ自らのフォームを自ら意識している中はそのフォームは真のものではない。いわば「岸が気にかかっている」。すでにいわゆる彼等の「天地晦冥」ただ水とオールとになるとき身は自ら水にアダプトして融合して一如となる。いわば水の構成的フンクチオンと身体的構成のフンクチオンが、深い関連の中に連続して無碍なるとき、その中にこそ、成長するフォーム、生身の型がある。それはコーチの百千万の警告もただ爛葛藤にして、ついに伝え得ざる底のものであり、一度その境にはまること、すなわち、働きそのもののみが告知るところのものである。
 そのことは、内的自然の技巧としての身体構成がその力学的フンクチオンにおいてあらゆる虚言 L※(ダイエレシス付きU小文字)ge を脱落した時「見てくれ」の粉飾を放擲した時である。筋肉を主観とし、筋肉を客観とする血の構成がそこにその自らのはからいをすてて、純粋なる行為の中に自らを没したる時である。そこに「技術美」の最も深き根底が横たわる。
 かかる意味でのフォームは、生身の形式である。生物におけるモルフェのごとく、成長してゆく一つの形態である。その意味のカラクテールでもある。極少の疲労により、極大の効果をあげるべく、筋肉繊維の運動的構成の目的化は、動植物のモルフェにおける合目的性でもある。それは働けるヴェゲテジーレン(植物化)である。それは浪漫派とは異った意味での「目的の国の戯れ」でもある、そしてその内面的評価として、自我が、自我の内面に無限に働く自分を見出すその感情はそれは芸術的といわんよりむしろ芸術を生み出す「力の感情」ともいわるべきであろう。「技術美」の内面には「芸術美」よりももっと奥のもっと深い感情が潜まされているとも考えられよう、いわば芸術創作の感情におけるごとくもっとより力学的である。

 8

 かく考えることで、スポーツの筋肉操作のもたらす快適の内面には、現象の原型に対する深い関連があるかのようである。そしてその原型の把握が、感覚の先導によってなさるること、いわゆる共通感覚(ゲマイジン)があらゆる存在の隅々より、潜れたる形相 Eidos を見付けること、またそれへの信頼が、スポーツの美的要素の深い前提とならなくてはならない。
 我々は、すでに過去の思惟方法が形式の名によって合法則的、すなわち「秩序」を、内容の名によって生命的、すなわち「衝動」の概念を遺していったことを知っている。そして、それは、すでに乾いたトルソであり、しかも組合ったトルソであることを知るのである。
 多くの芸術論が、この二つの概念の間に苦しんでいる。この場合、スポーツのフォームの概念は深い新鮮な暗示をあたえるものである。スライディング・シェル、あるいはラグビー等の近代スポーツの内面のフォームならびに組織システムをもつものは、「衝動ある秩序」である。あるいは「秩序ある衝動」である。それが、今新しき時代の成長しつつあるモルフェであると共に、新しき社会ならびに芸術の形式であり組織である。
 その意味で我々は単なる「秩序」であるギリシャと、単に「衝動」であるロマンティクをあとに見ながらより彼方へその進路を向けている。「英雄主義ヒロイズムより組織主義ユニフォーミティズム」へ、いわば「腹より腰へ」とスポーツ自身が動いてゆくその重き推移のうちにすでに感覚が生長するアイドスを育み教え導きつつあるのを知るのである。





底本:「中井正一評論集」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年6月16日第1刷発行
底本の親本:「中井正一全集 第一巻」美術出版社
   1981(昭和56)年4月25日発行
初出:「京都帝国大学新聞」
   1930(昭和5)年5月5日、21日、6月5日
入力:文子
校正:鈴木厚司
2006年7月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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