見るということは、光の物理作用と、眼の知覚作用の総合作用だと誰でも考えているし、またそれにちがいはない。素朴的にいわば客観を主観にうつしとる作用だという考えかたである。しかし、このうつすということも、考えだせばかぎりもない複雑なことを含んでいるのである。「うつす」という言葉には大体、映す、移す、といったように、一つの場所にあるものを、ほかの場所に移動しまたは射影して、しかも両者が等値的な関連をもっていることを指すのである。
等値的関連をもっている意味では連続的であるが、二つの場所にそれが離れる意味では非連続的である。うつすということの底にはすでに、この連続と非連続の問題も深く横たわっているのである。したがって、見ることも、本質的に考えると、うつすことの行為の意味で、この間題の上に成立しているのである。
見るということも何でもないようだが、理屈をつけてみれば、とんでもないむつかしいこととなってくるのである。
「みる」という言葉の意味の中には、さらにこの肉体的な射影行動の意味ばかりでなく、やってみるといったように、験すとか、何か不思議に面しているような、好奇的なこころもちも含まれている。この気分の中には、移るもの自体は、すでに行為的な流動的な時間的な、未来にのしかかっていく移動もふくまれていて、うつすとかうつるとかに関連して、みるという気持が、行為的な速度を経験している。「見えている世界が神秘だ」というゴーチェーの言葉は、そんな意味で、
しかし神秘なものとするには、それはあまりにも日常の行動である。毎日やってみているのである。試みているのである。リアルな表現で荒っぽく取り扱えば、そのことは「否定を媒介としてみずからを対象化する」ことなのである。まじまじと驚きをもって現実に関することである。流動している現実を連続するのは一瞬一瞬の見ることの、すなわちこの切断の連続である。
さきの場合、うつすことは等値的射影であるということを意味する。したがって見ることは能動的に世界を映す鏡となる。それに対して、後の場合、うつることは、否定を媒介としてみずからを対象とするということを意味するので、したがって見ることは能動的に世界に面するところの
この立場の相異は、すでに立場として深い歴史的根拠をもっていることで、物理学でアリストテレス的な見かたと、ガリレオ的な見かたをクルト・レヴィンが正しく分けているように、大きく二つに分けられるのである。アリストテレス的なものの見かたは、見ることを、何か基体的な動かないものから、展望を開くような見かたであるに反して、ガリレオ的見かたは一つの見かたそのものを、事実の否定を媒介として、さらに対象化して、見ることそのものを見ることのできる余地をのこす立場、すなわち主観ないし主体的立場の出現である。
見ることを静力学的に単なる映る世界として取り扱う立場と、それと反対に、見ることを動力学的に、一瞬一瞬移りゆくその移行を切断によって常につないでいくというふうに取り扱う場合である。
この見る立場の差異とは、
この様式の基礎にもこの見ることの姿勢の差異が探く横たわっているのである。ギリシャで芸術が模倣ミメジスであったのに、近代のリップスの
芸術的見かたとはしからばどんな特徴をもっているのだろうか。
よく芝居気分といっている気分がある。芝居を見にいこうと思って着物を着替えたりするころから、何か浮き浮きしている。母親が娘に冷やかされたりするほどいつもと異なった人間になりかわっている。母親は母親の威厳やとりすましを失って、一箇の人間になっている。博士はうっかり博士を忘れているし、軍人は劔を忘れ、商人は算盤を忘れ、僧侶は宗教を忘れて、おかしければ笑い、悲しければ泣いている。みんな子どもになって遊んでいる。
劇場においては、臨検の警察官もその職務を忘れて泣くはど、人間全体が、一箇の原始人に帰ってなまの裸の気分で舞台を見つめている。
「見る存在」とでもいいたいような存在に、人間がなりすましている。いじましい職業を忘れかけていもすれば、貧富も忘れかけている。身分も見ている間は消えかけている。そんな人間はありえないはずなのに、それへの傾きをつよく強いる性質を舞台はもっている。またそれが本質でもあるようである。職業意識も、身分もない人間、真に、もう一度全部を考えなおして、正しく生きなおさなくてはならないはずの人間に、正しく人間を建設する人間に、一瞬でも人間を引きあげることは注意すべきことである。そこでは人間は単なる自然の人間でもなく、一日一日築きあげている技術の人間でもなく、正しかるべき人間が、未来から、ソッと汚濁に満ちたこの現実を鍵穴から覗いているような、「見る存在」になっているのである。身分とか職業とか疎外された人間の桎梏に対立する人間となること、ここに「見ること」がその真の姿においてあらわれているともいえるのである。
芸術の快感が、ほかの快感より異なっているのは、この正しい客観的真実、文化の背後のものの羽音を身近く感じている刺戟にほかならない。この気分は芝居だけでなく、すべての芸術の分野の「見ること」がもっている意味である。
「見ること」の
こんな意味で画の世界にとって画布は、演劇の世界にとって舞台の第四の壁は、文学の世界にとって紙は、一つの
しかしこんな芸術気分には現今においては人々は実にふれにくいのである。なぜなら、商人が算盤を忘れて「見る世界」に入るどころか、画家が算盤を抱いて絵を描いているのである、いや描かずにいられないのである。
「見る存在」それ自体が商品化されている。そして大衆の見るはたらきは利潤対象として数量化されている。大衆は利潤対象としての大衆として、訓練され、ようやくものになりつつある。デパートと映画と新聞と蓄音機のタイアップと、権力者の参加で、とんでもないものになりつつある。
大衆の見る作用が、すでに売りものに、売りものどころかもっと大きな機構の犠牲になってひきゆがめられている証拠を私たちはいたるところに見せつけられるのである。誰一人真にその中で楽しんでいるのではなくして、人々と共に、何かに引きずられているのである。
「見ること」の正しさを守りつづけること、そして大衆を見ることの正しさの中に奪いかえすこと、この戦いが否定を媒介としてみずからを対象化するという、さながらの物になりきるという、「見ること」、そのことの中にある本質にほかならないのでもある。
*『国民美術』一九三七年四月号