中井正一




 群青のところどころ剥げて、木目の寂びてあらわなる上に、僅かに仏像が残っている。みずからの渉跡を没することでみずから無の示す空寂の美わしさを現わす仏像を載せて、壁はみずからを時の錆にまかす。
 なぜそこに壁があったのか。なぜそれに仏像が描かれねばならなかったのか。
 壁があったのは、それは人が住むためにであろう。仏像が描かれたのは、その壁を通して、人がそれをそこに見たかったからであろう。かつて人間が巌で囲まれていた時は彼らは何ものかをその巌壁に刻み込んだ。彼らは壁の中にも常に何ものかを見透したかったのである。
 壁は人の歴史の上でいろいろの意味をもってきたことであろう。ある時は風雨を浴びる劈壁として、ある時は寺院の冷たい壁として、宮殿のそれとして、城壁として、邸宅のそれとしてその平面の意味を常に変えている。
 しかも、その平面を透して見んとする意志もまたそれみずから変容している。壁が衝立、障壁と転化し、それに平面図を投げつけることにより、さらにその絵そのものを独立させ、特殊の画布として独立させる過程は西欧においても宗教画的壁画より画布が漸次独立しきたる過程として観察される。
 それらの根底には宗教的封建的社会構成より、個人的所有的資本主義形態に移りゆく社会機構が関連しているように私には思われる。
 あらゆる歴史的必然的なる被担性 Getragenheit の中にみずからの自由を発見するもの、それが芸術家である。あらゆる歴史の中にあらゆる困難を越えて、その底に美わしさを求めるものが芸術家である。巌であれば巌の固さの中に美わしさを求めいずるもの、仏像の尊厳を守りたてまつる板目であればその板の上に、襲いくる矢を防ぐ壁であればその壁の上に、豪奢をきそう富商の障壁であればその障壁の上に、すべての被担性を乗り越えてその中に「美」を盛ろうと試みるものが芸術家である。
 壁とは目をえぎり、視覚を覆うものの所謂いいである。それを透して見んとする意志がかぎりなく働く。不自由と、必然を透して自由を得んとする努力、そこに芸術のもつ執拗性がある。
 今われわれの時代において、何が被担性として最もめざましくあらわれつつあるか。一つには個人主義が集団的組織の中に沈下していくことによって、個性的天才が集団的性格カラクテールに転じつつある歴史的必然性、二つには自由通商的資本主義が統制企画的組織主義に変容しつつある過程がすなわちそれである。それが良い悪いを論ずる時ではない。時の必然がそれを率直にそこにもたらしつつある。
 機械と集団建築と組合が生活の大衆的単位となりつつある時、壁とは、今、われわれにとってはたして何を意味せんとしつつあるか。
 壁が建築の支柱的機能をもち、窓がそれに対して展望、採光、通風の機能をもっていたことは今やすでに硬質ガラスの出現によってその函数表をあらためることを要求されはじめる。極限にまでひろげられたる函数表においてはすでにすべての壁は窓となりつつある。硬質ガラスは窓であると同時に支柱としての壁をも意味することとなる。建築はすでにガラスへ向ってその視点の方向をむけつつある。
 かつて原始人が巌を透して視覚の自由を主張したように、近代人は石英と鉛の溶融体を透してその視覚の自由を獲得せんと焦慮している。
 近代人がレモネードをすすりながらガラス窓の平面を透して、往来する街路をながめている時、そこに繰りひろげられる光の画布は近代人のもつ一つの「壁画」でなければならない。動く壁画であり、みずから展開するかぎりなき絵巻であり、時の中に決して再び繰り返すことなき走馬燈でもある。集団が集団みずからを顧み覗き込むために彼らはガラスをもったといえるであろう。われわれはあの雨のハラハラ降って小さな音をたてるガラス戸をのみいっているのではない。街角を強く彎曲している巨大な建築素材としてのガラスに呼びかけているのである。巌壁のように立ちあがっているガラスの壁にものをいいかけているのである。それは見る一つの性格である。
 かくて、技術が、その意味における Kunst がみずからの歴史的必然被担性を透して、見る自由とみずからの美を見いだすことの中に、芸術の意味がある。
 封建的宗教的社会機構より自由通商的資本主義が立ちあがり、それに関連して、壁画的絵画の構造より画布的独立をもったことはあたかも音楽が宗教的封建的儀礼に制約されていたものが十六世紀に初めて人間の音楽、独唱が芸術として認められた過程にあたかも似る。
 そして、それがもたらす特徴は一枚のタブレットとして独立したる画布の出現、およびそれの一般人への公けの観照の要求である。音楽においての一個人すなわち天才の出現とその個人演奏の出現と同様である。ブルジョアジーとは個人の発見と個人の自己解消なる二元的アンチノミー的概念を意味する。
 画布がみずから独立すること、それを多くの人々に観照せしめることを要求することの中には同様にすでに一つのアンチノミーをはらんでいる。このことが展覧会の絵画と、その写真的複製の販売との関係においてあらわれる。絵画が銀粒子の中に浸されることは一つの歴史的矛盾形態を暴露している。――あたかも「株式会社それ自身がすでに資本主義形態としては弁証法的矛盾」をはらんでいるがように――。
 写真がみずから独立して、活版と親しく腕を組むことで、その独特の領域をもつことはまさに、ガラスの壁よりもぎとられたる一片の視覚を通して、視覚みずからが集団的性格と、組織的機構の中に沈みゆくことを意味する。
 ガラスの壁が現在において特殊の意味において「壁画」の役割りをもつように、レンズはまた他の特殊の意味において現在の壁を飾るところの光画の役割りを演ずる。建築様式にしたがって壁の意味が異なること、それにともなって光画がその意味を転ずることに深い注意を向けねばならない。
 そして光の壁がすでに現在において機械的集団的被担性を乗り越えてきたようにレンズのもつ意味がまた機械的被担性を越えんとする視覚の躍進である。それは個人的天才を脱落したる集団的性格である一九三二年度を代表する一つの標準スタンダードである。
 そして最も重要なことは、それがすでにものというよりはむしろザッヘとも称さるべき集団そのものの視覚であり神経であり、一つの行為であることである。行為づけるものあるいはものの行為づきともいわるべき一つの集団的視覚の一標準形態となったことである。かかる視覚が構成する光の芸術はかくてまったく未来のものでなければならない。
 ただそれが今、利潤形態より脱して、さらに企画的組織機構の要素として発展せんとする未来を展望する時、さらに遠くさらに遠く引きもがれゆく時のゆがみのかなたに、われわれの視覚は深淵のごときものに見入らずにいられない。
*『光画』一九三二年六月号





底本:「中井正一全集 第三巻 現代芸術の空間」美術出版社
   1981(昭和56)年5月25日新装第1刷
初出:「光画」
   1932(昭和7)年6月号
入力:鈴木厚司
校正:染川隆俊
2008年4月15日作成
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