本邦肖像彫刻技法の推移

高村光太郎




 わが国古来の彫刻といえば殆ど皆仏像である。記紀上代の神々の豊富な物語はまるで彫刻の対象とならなかった。藤原期に及んで神像というものが相当に作られたが遂に大勢を成すに至らなかった。(大黒天は大己貴命だと世上でいうのは俗説である。)この点、オリムポスの神々がギリシヤ彫刻に豊饒な人間的資材を提供していた西欧の事情とは大に違う。仏像は仏典によって指示せられた超人間的霊体の顕現であるから、その第一の条件として人間臭さから超脱していなければならぬ。性の観念を断絶した中性としてすべて扱われた。インドに於いては大自在天は男性の中の男性で、その精舎の中には常に天根を祀っていたほどであるが、支那を経て日本に渡来した仏教、日本民族によって敬虔に受け入れられた仏教には既にそういう観念がきれいに浄められていて、日本独自の清浄性が逆に仏教をもその清らかな面に於いてのみ許したのである。インドに於いては釈迦は一個の人格でもあったのであるが、日本に於いては釈迦牟尼は絶対に仏であって人格ではなかった。ましてその教義の中にあらわれる諸仏諸菩薩諸天の類は、人間の形態を仮りてこそ居れ、ことごとく或る抽象観念の具現に外ならなかった。その着衣服飾の如きも皆異国の風俗であって、日本人日常の触目とはまるでかけ離れて居り、ますますその超人間的様相をあつくした。四天王や十二神将のようなものでも、インドあたりならば、どこかで見た事もあるような甲冑を着ているわけであるが、日本ではただ何処か知らない霊界に於ける仏教護勇の役に任ずる大力の理想的荘厳としてしか観られなかった。螺髪らほつはもともと熱帯地方のあのちぢれ毛の写実から起った彫刻的様式であったに違いないが、日本ではそういう意味を全部喪失して、ただ希有珍重な不思議としてのみあがめられた。インドに於いては今日でも眉間に宝玉を入れている女性を見かける。日本人の観る仏像の白毫はただ白毫光の象徴として存在するのである。
 日本古来の彫刻はただ仏門のためにのみあった観がある。彫刻の技法がもともと仏教に随伴して輸入され、彫刻家とは即ち僧侶であり、あるいは僧門の人であり、後世専門的彫刻家が輩出するようになっても皆所謂いわゆる大仏師であって、定朝以来皆法印、法眼、法橋のような僧綱そうごうを持していた。明治維新の頃までもそれは行われていたのである。日本の彫刻家は仏閣の関係無しには意味を持たなかった。この豊富な天然自然に囲まれて居ながら、どうしてその造型本能が生物としての人間動物の類に解放せられなかったか。古代以来の風俗すら長い間彫刻家の眼からは見はなされていた。徳川時代になって風俗人物が作られるようになってもそれは純粋な彫刻としてよりも人形としてであった。それはもとより大仏師の手に成るものではなくて巷間の人形師の作るものであった。日本古代の仏像造顕の絶大な勢力が日本彫刻の性質を千数百年に亙って決定した。芸術上の形式と伝習とが人間の審美性の方向を左右する圧力の大なるに驚く外はない。つまり人はその与えられた形式以外の眼を以て自然を観る事が出来ず、出来てもそれを再現するものではないという不文律を心の中につくってしまうのである。
 今日のわれわれが日本古来の彫刻を概観する時、その精神的な崇高さに心打たれると同時に、またあまりに仏像ばかりなのに驚くのも是非ないことである。喜怒哀楽を持つ生きたわれわれ凡夫ぼんぷの美をその中に見ることのすくないのを嘆ずるのもむを得ない。われわれは斯かる種類の美をわずかに中世に於ける能面彫刻に見て渇をいやすのであるが、幸に日本彫刻の伝統の中に肖像彫刻の一目があって、天平以来彫刻と人間とのつながりをともかくも保持している。
 人間とのつながりと言っても、古代に於いてはもとより凡夫の像ではなく、宗祖とか開基とか、いずれも高徳名智識の像であり、従って半ば仏像に準ずるものである。いずれも礼拝の対象であるから、その相貌風姿も、彫刻様式もほぼ仏像に拠る手法で造られている。例えば耳朶の如きも大抵仏像に見るように長大に造られ、着衣の衣文も仏像の衣文に近く、決して有りのままの肖像的理念によって出来たものではない。自然界に眼の開けて来た鎌倉時代に及んでかなり写実的傾向を加え、庶民勢力の増大した徳川期になると、地方の庄屋様でもどうかすると木像を作らせるようになったのである。そのような時でも彫刻様式の上では古来の仏像彫刻の伝習から全く逸脱しているものはあまり見かけない。この延長が明治時代に於ける西郷隆盛の銅像である。上野に立っているあの銅像はまったく仏像彫刻の技法の一転した木彫様式の写実であって、恐らくかる様式の最後をなすものと言えよう。そういう意味であの銅像ははなはだ興味があるのである。
 こういう観点から日本古来の肖像彫刻の中の三四についてその技法の推移を考えてみよう。
 法隆寺夢殿の観世音菩薩立像が聖徳太子等身の像と言い伝えられて長い間厳重な秘仏とされていたことは著名であるが、それをそのままの意味にとっていいかどうか分らない。やはりこれは救世観世音菩薩として仰ぎ見たい。
 日本の肖像彫刻を考える時誰でもいちばん最初に頭に出て来るのは奈良朝に於ける唐招提寺の鑑真がんじん大和上の坐像であろう。有名であるばかりでなく、実際日本に現存する肖像彫刻中の傑作として無二の質を具えている。これは鑑真が唐から六回も企てた渡航で、しかも船中で失明するほどの苦難を経て日本に来た時の百八十幾人かの随伴者の中の思託したくという唐僧の作とされている。それ故当時の唐に於ける彫刻技法をそのまま用いたものである事に疑いはない。所謂いわゆる脱沙夾紵きょうちょ法に成るもので、今日普通に脱乾漆だつかんしつと呼ばれている。(この像を紙の張子製だという説が一時行われたが、やはりそうでなく、純粋な夾紵像であるそうだ。)
 日夜大和上に随従していた者の作と確かにうなずける彫刻的な自然さがあり、このつつましい、寂しい、しかも深い、そしてあたたかい高僧の魂がそのまま姿となってあらわれたような美しさがある。出しゃばらず、しかも気力に満ち、瞑目のまま静かに趺坐して両掌を膝に組むこの質素極まる風姿は、実に戒律授伝の大徳さながらであると思わしめる。面貌の表現に些の誇張もなく、肉づけおだやかで無駄が無い。全体として何処にも目立つようなところが無く地味で、しかも惻々そくそくとして人に迫って来る力を感ずる。作者は凡手でない。ういう特質が斯くも十全に表現せられたのは、この作者が漆と布という彫刻の素材の精神をよく会得していたからである。あらかじめ泥沙でこの像を造り、それが乾いてから上に漆で布を貼り、幾度か乾かしてはまた布を貼りながら、多分竹箆のようなものを使って木屑こくそで顔面の肉づけなり、衲衣のうえの衣文なりを形づくってゆく方法であるから、塑像のように自由はきかず、木型や蝋型のように飛び離れた凹凸もむつかしく、言わば地肌に沿ってしっとりとフォルムをきめてゆくのである。その技法がこの肖像の表現に遺憾なく適確に行われている。これは芸術家の良知である。他の如何なる素材によっても表現し得ないものが此処に表現せられている。鑿で木を刻んだのではこの隅々の模糊とした味いは出ず、ましてブロンズではこのぽっかりしたやわらかさが出ない。彫刻と素材との関係をこれほど生かした作も珍らしいのである。素材の弱点短所を直ちにそのまま長所としてしまうのが秘訣であるようだ。彫刻に限らず、あらゆる芸術に於いてこれは真理であるようである。
 この鑑真がんじん和尚にもう少し動きを与えたのが法隆寺夢殿にあるその創建者行信ぎょうしん僧都の木骨夾紵きょうちょ像である。如何にも傑物らしい風格が闊達に出ている。材料の麻布を巧みに利用して衣襞をかなり写実風に表現し、同じ礼拝の当体としても鑑真和尚のよりはずっとわれわれの人寰じんかんに近づいている。奈良朝は夾紵、塑造、鋳金の黄金時代であるが、この行信僧都像の如きも漆と麻布と木屑の扱いがはなはだ鄭重であり、その上内部の空胴には木組の支柱が巧妙に施されている。同時代の他の仏像の夾紵法によるものにもそういう骨組の入念に出来ているものが多く、時間と精力と費用とを問題外にして製作にかかっていた時代精神をよく見ることが出来る。
 木骨はやがて木心とかわり、木心夾紵法はやがて純木彫へと移行し、遂に次代弘仁期の木彫全盛に及ぶ。この時代的推移は、芸術上の見地のみから言えば、漆と布や、蝋型の典麗雄渾ではあるが、深くえぐり得ず、鋭く切り立たし得ない素材から、もっと手応えあり、もっと切り刻み、もっと徹底的に彫り起し得る純木彫への要求から来ている。積み重ねて作るものから、えぐり取って作るものへの進みである。神護寺の木造薬師如来立像や、室生寺の木造釈迦如来坐像などの衣襞の揃って深くえぐり進んだ線条の繰返しの如きは、その表現せんとした沈痛にも似た求法の焼けつくような意慾を感じさせる。これは前代流行の素材では到底出し得なかったものである。この線条の繰返しは人を生理的心理的に圧倒する性能を持っていて、例えば高い太い太鼓の音の無限の連続のような作用をひき起す。人は眼のくらむような思をするのである。流麗というような言では説きつくせない。弘仁貞観から寛平に至る大宗教時代は日本木彫史上の壮観である。
 この時代には肖像彫刻にも、東大寺開山堂の良辨ろうべん僧正坐像のような堂々たる高雅な性格描写の傑作があり、また岡寺の義淵ぎえん僧正坐像のような立ち入った写実的傾向の強い技法によるものがある。いずれも探求する意力、新をあばく精神が漲っている。た風姿を作って満足しているような弱い造型本能の能くするところではない。教王護国寺の講堂に充ちあふれて轟きわたっている峻烈な精神の人間的あらわれと見るべきである。背後にこういう裏打がなければ、肖像彫刻はまことに碌でもない個人個人の記録に過ぎなくなる。
 やがて世は藤原氏全盛時代となり、恵心えしん僧都の浄土教となり、極楽往生の欣求が世に満ち、宗教はこの世を一つの大きな夢に化した。精神の昇華、神経の洗煉は大仏師定朝となって現前する。木彫も、もう一本造りのような愚直をつづけていられなくなり、所謂いわゆる寄木法が発達した。そして彫刻は遂に彫刻業の意識を確立した。人は来世をばかり望んでいたのかこの時代には肖像彫刻のすばらしいのはあまり無い。わずかに円城寺の智證大師坐像の好もしい作が頭に浮ぶくらいである。この椎の実頭の高僧の像はまことに物わかりのいい、行き届いて出過ぎない技法で出来ている。その代り大風格は無い。
 世がくだるにつれて彫刻もくだり、定朝から分れた仏工がそれぞれに門閥をつくり、七条仏所、七条大宮仏所、六条万里小路仏所、三条仏所というように営業の競争をはじめ、あさましい軋轢さえ数多く伝えられ、保元、平治から、平家物語の世を経て、いよいよ鎌倉時代ということになる。
 人心収攬のうまかった頼朝はさかんに仏寺の再興や修復を営んだので、彫刻が急に活発に動き出した。奈良に隠忍していた七条仏所がついに京都派を克服して、ついに康慶、運慶、湛慶というような巨匠を出し、鎌倉時代の写実的彫刻を完成した。仏像ですら写実的傾向を帯びているのであるから、肖像彫刻は彼等の最も得意とするところであったに違いない。東大寺の俊乗坊重源ちょうげん像の如きはいかにもその人柄を表現していて遺憾がない。喰いついたら離れないような、従って勧進などには最も適当な、われわれの隣人のような肖像である。その代りいにしえの善い時代に見たような魂を引上げるような種類の要素が無い。興福寺の法相六祖像にしてもそうである。運慶作と称せられる世親、無著の立像などは中でいちばん中味のあるものであろうが、やはり低い。僧門以外にもようやく肖像を作らせる風潮が起り、後白河法皇御像、上杉重房像、源実朝像などが著名である。この頃以後は肖像も無数に出来たようであるがまた実に凡庸な作が多い。その上禅宗では頂相を尊ぶので一種特別な禅宗風な高僧の肖像彫刻が随所にのこっている。面白いものもすくなくない。
 室町時代、徳川時代には今言及しない。室町時代前後には彫刻の俊才が皆能面打になってしまったような気さえする。
 明治、大正、昭和の肖像について、何が故に一般に斯の如く瑣末的であるかを述べたかったが、実をいうと今それを述べてみたところで為ようもない。
 技法の推移に根本的の面白い意味を持っているのは天平から弘仁へかけての時代だけである。





底本:「仏教の名随筆 2」国書刊行会
   2006(平成18)年7月10日初版第1刷発行
底本の親本:「高村光太郎全集 第五巻」筑摩書房
   1995(平成7)年2月20日
初出:「道統 第四巻第十号」
   1941(昭和16)年11月1日発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2018年2月25日作成
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