今日は、ひとつ、私の子供の時分――小学校時代のことを話しませう。私は八つから小学校へ上りましたが、その年が丁度「日露戦争」の終つた年でしたから、もうよつぽど古いことです。
その頃、私の村には小学校が二つありましたが、大きい方も小さい方も、どちらも尋常科だけで、高等科は隣村の町にしかなかつたのです。しかもその頃の尋常科は四年まででした。それで卒業なんです。
私の上つたのは小さい方の、「
カーン/\・カーン/\と、授業の始まるごとに合図の板木を
さあ、カーン/\が鳴つたといふと、みんな大急ぎに
ワツシヨイ/\と帰つて来ると、校舎の玄関を入つて左に折れ、たつた一つの教室の入口の土間に飛びこみ、そこへゴチヤ/\に草履や
教室の正面には長い教壇があつて、壁には四つの黒板がありました。その黒板に向つて、二つづつの生徒の机が四通りに並んでゐました。一番右が一年生、その次が二年生といふ風に、四年生まででしたから四通り、そして黒板が一つづつあつたわけです。
これを、たつた一人の先生が教へるのですから、先生はとても大へんです。
「さあ、みんな/\、こつちを見い! こら、一年生の
先生は
この先生は、ふだんはとてもやさしくて、何を云つても黙つてニコ/\して、くちひげばかりひねつてゐるのでしたが、教室に入つて授業を始め出すと、どうしたものか気が荒くなつて、
私には十も歳上の姉さんがありましたが、その姉さんの
この時分の「先生」は、ずいぶん乱暴だつたやうです。けれどその時分の人達は、「先生」といふ人はそんなことをしてもよいやうに考へてゐたのですから、生徒の親たちも何も云はなかつたわけです。今から考へると、全く
とにかく私たちの教はつた
先生はムチをふり/\、一年から四年まで、代る/\教へて行くのです。例へば一年生に読方を教へる時には、二年生は習字、三年生は算術をやり、四年生は
「二年生、手をおいて!」と云つて、先生が二年生の前の教壇に立つた時には、もう一年生は読方の自習か、書取をさせられてゐるのでした。
「三年生、手をおいて。――答の出来た者? おいお前、前へ出てやつて見い!」
次には四年生。それからまた一年生、二年生といふ風に、いつの時間もこんな調子ですから、先生もなか/\骨です。
授業は大抵、一年生以外は毎日朝から午後一時、二時頃までありました。けれど、今の小学校のやうに「時間割」といふものがなかつたし、先生も一人きりだつたので、先生の都合で勝手な授業がやられました。
それはちよつと変つてゐるので、ついでに、一つ話してみませう。
私の二年の時でした。
毎日、二・三時間づつ習字ばかりやらされてゐた三年生の男の子全部が、突然、或る時間から居なくなつてしまひました。カーン/\が鳴つて、みんな教室に入つて授業を始めてゐるのに、いつまで待つても帰つて来ないのです。男の子全部――六人の三つの机の上にはキチンと、
遠くへ遊びに出てゐて、カーン/\の聞えないことは
「誰ぞ行つて見て来い。」と云はれました。
「先生、わし行きます。」と云つて、四年の男の子が一人突つ立ちました。すると他の四年の男の子たちも、
「先生、わし行かして――」
「わしも行く!」
「わしも!」
たうとう四年の男の子全部――五人とも立ち上つて、気の早い子はもう出口の方へ駈け出して行きました。
「おい/\、すぐつれて来るんだぞ。遊んぢやいかんぞ。わかつたな?」
「わかりましたア!」
みんな威勢のいゝ返事をして駈け出して行きましたが、五分たつても十分たつても、誰も帰つて来ません。そのうち休みの時間になり、次の授業のカーン/\が鳴りました。
けれど、まだ三年の男の子も、迎へに行つた男の子たちも帰つて来てゐません。先生は腹も立てば、心配でもあつたのでせう。自分で玄関
けれど、それでも帰つて来ないので、先生は大分心配になつて来たらしく、今度は内に入つて帽子を
「やあ、さがしに行くんだな。いゝなア。」
私たちは
ところが、どうでせう。先生と女生徒たちが探しに行つて見ると、三年と四年の男の子たちはみんな、威勢よく
先生はポカンとしてしまひました。
その夕方、良平爺さんはお
「先生様、今日は生徒さんたちは田植を手伝はして下さりまして、おほけに有難うござりました。とても助かりました。子供もバカにやなりませんなア。有難うござりました。」
こんなわけで、この時は、生徒は誰一人叱られずに済みました。でも、こんなことばかりはなかつたのです。
ついでに、も一つ変つた話をしませう。
これは私の四年の時のことで、私たちのひき起した騒ぎでした。
九月の新学期が始つて学校に行くと、私たち四年生は、男女代る/\水汲みをさせられました。
男の子も女の子も、毎日休みの時間に二人で一つのバケツを提げ、五丁もある水車のわきの協同井戸まで降つて行きました。そして
水車のわきの小川には、いつも
或る日のことでした。カーン/\が鳴り出したので、私と野口君とは急いでバケツを洗つて、きれいな井戸水を汲みました。すると目高魚を握つてゐた大下君が近づいて来て、
「おい、この中へ目高魚を放しとかうや。わかりやせんぞ。」と云つたものです。
「おい/\、それよりこの方がえゝぞ。これを見い!」
「なんぢや、
「すてき、/\!」
「素的々々!」
みんなとても喜んで、すぐバケツの水に入れて持つて帰り、そのまま何食はぬ顔をして水甕に入れてしまつたのです。
その翌日、また同じことをやりました。
すると、その日の二時間目か三時間目かの始めに、たうとう先生に奴鳴りつけられてしまひました。先生はカン/\になつて、正直に誰がやつたかを云へ、といふのです。
でも実際のところ、みんなが「すてき/\」でやつたことですし、それに一人だけを、あの七十三節もあるムチでひツぱたかしても困るので、私たちはどこまでも押し黙つてゐました。
「よし、そんならみんなを処罰する。生徒の身分で、先生の飲み水に蛙を入れるとは何事だツ。四年の男子、みんな後に出ろ!」
私たちは後の壁際に立たされて、その時間の終わるのを待たされました。どうせ今日はムチに見舞はれると思つたので、その時は両手で耳と頭を抱へて、力一ぱい
その時間が終りました。ジロ/\見ながらみんなが出て行つてしまふと、先生は私たちを教室からつれ出して、炊事場のわきの物置へ入れてしまひました。
物置には板戸がはまつてゐて、中には炭俵や薪や
「おい、何かやらかさうか。
「よし、拳々! ウンと出した、パラリと出した、チヨツキリ切つて――」
すると、この騒ぎを聞きつけて、先生の奥さんがコツソリやつて来て、心配さうに止めるのです。
「静かになさいよ。おとなしくなさつてると、わたしがすぐ出してもらつて上げますから。騒ぐと、どんなひどい目にされるかわかりませんよ。」
すると物置の中の私たちは、元気よく云ふのです。
「なんだい、ムチなんか怖くねいや!」
「折つちまふぞ!」
でも先生の
そのうち三年生の男の子が、先生や奥さんの
お
「弁当食うたか?」と
けれど物置に入れられると、またみんな騒ぎ出しました。特に授業中は、先生が教室にゐることがわかつてゐるので、先生の奥さんに無理ばかり云つて、何度も小便に行つたり、運動場を歩き
その日私たちは、夕日が庭木の影を長々と運動場に引いてゐる頃、やつと物置から先生の奥さんにつれ出されました。私たちは心細くなつて、みんな泣きさうな顔をしてゐました。
「わたしから、よく先生にあやまつて上げますから、もうこれからは、けつして悪いことをしてはいけませんよ。みんなよくわかりましたか? ぢや、先生はあちらにいらつしやいますから、みんなおじぎをしてお帰りなさい。」
私たちは眼を潤ませて奥さんにおじぎをし、また先生にも黙つておじぎをして帰りました。そしてそれきり、この騒ぎはすんでしまつたのです。今から考へると、懐しい思ひ出です。
とにかくその頃の小学校は、ずいぶん変つてゐたことがわかるでせう。まだいろ/\面白い話が沢山あるのですが、あんまり長くなるので今日はこれだけにして置きませう。
―昭和八年九月五日作―