にぎやかな電車通の裏に、川に沿つた静かな柳の並木道があります。その最初の石橋を渡ると、すぐ前に白い三階の大きな建物が、青青とした庭木に包まれて
五年生の
「あら、おかへり。清ちやん、それ、なに。」
睦子は玄関の入口の「あけぼの母子ホーム」といふ大きな看板のかかつてゐる下で、ふちの広い桃色の帽子をぬぎながら、清三が白いハンケチに包んでゐるものを見つめました。
「いいもんだよ、睦子ちやん。あててごらん。」
さういひながら二人は、玄関を奥にはいつて、「受附」といふ札の下つてゐる小さい部屋の窓口をのぞいて、そこのをばさんに「ただいま。」といひました。
「おかへりなさい。とても暑かつたでせう。はい、はい。」
さういつてをばさんは、二人の部屋の
「どうもありがたう。」
鍵を受取ると、二人は奥にはいつて廊下で上草履にはきかへました。そしてコンクリートの階段をのぼつて行きながら、話しつづけました。
「ねえ、清ちやん、ほんとに、なによ。ちよつと見せてね。」
「だめ、あててごらん。あてたら一匹あげるよ。」
「ぢや、あてるわよ。角のあるもの。」
「ないよ。」
「ぢや、足は六本あるでせう。」
「ちがふよ。もつと、たくさんあるらしいよ。」
「ぢや、あんた、
「あはつ。そんな悪い虫ぢやなくて、とつてもいい虫虫様だよ。もう、わかつたらう。」
「ああ、わかつたわ。蚕でせう。さうでせう。どらどら、見せてちやうだい。」
「ぢや、僕のうちへお出でよ、わけてあげるから。」
二人は三階の廊下へ来ました。廊下の両側は同じやうな、六畳ぐらゐの部屋が七つづつ並んでゐて、清三の家と睦子の家とは、ななめ向かひの部屋でした。
「ね、いらつしやいよ。」
「ええ、すぐ行くわ。」
二人は鍵で、自分の部屋の
部屋にはいつた清三は、お道具と蚕の包とを部屋の
それはおかあさんが、お勤めに出て行く時に書いて置いたものらしく、こんなことを書いてありました。
今日ハ、おやつガアリマセン。おむすびヲツクツテ、ネズミイラズニ入レテオキマス。ソレヲタベテ、晩ゴハンヲタイテオイテネ。オ米ハ、タケルヤウニシテアリマス。
母ヨリ
清三はそれを読むと、時計を見ました。まだ四時前です。
「五時からたけばいいや。六時ごろでなけりや、かへれないんだから。」
清三のおとうさんは、去年の夏出征しました。それまで或病院の薬剤師だつたのですが、おとうさんが出征されると、おかあさんがその病院の
この建物の中には、三十幾つの部屋があつて、大ていどの部屋にも、おとうさんが出征されるか、でなかつたら戦死されて、おかあさんが、子供をつれて働いてゐる家族たちが、それぞれ住んでゐるのでした。
睦子のおとうさんは、市バスの運転手でしたが、やはり出征中で、おかあさんは川向かふの罐詰工場で、
「ごめん下さい。」
睦子が
手を洗つて来て、今おむすびをたべようとしてゐた清三は、につこりしていひました。
「やあ、おはいり。いいものがあるんだよ。」
「あら、ごちそうねえ。」
睦子は、なれなれしさうにはいつて来ました。
「おたべよ。二つあるんだから。」
「いいの。それより、早くお蚕さんを見せてよ。」
「うん、これだよ。」
さういつて清三は、ハンケチを開いて蚕を見せながら、二つ目のおむすびを半分にわつて、その半分を睦子にやりました。中からは
「ね、おいしいだらう。」
「ええ、ほんとにおいしいわ。」
二人はたべながら、蚕を見ました。もう大きくなつてゐて、きれいな睦子の人さし指ほどもあります。七匹ゐます。
「でも、桑がなくちや、お蚕さん飼へないでせう。毎日どうするの。」
「ぼく、ちやんと桑の木を見つけてあるんだ。川向かふにあるんだよ。」
その時、扉がそつと開いて、
「今日は。なにしてるの。」
といつて、二十五番室の若いをばさんが、涼しさうな浴衣を着て、キヤラメルをしやぶりながら、退屈さうにはいつてきました。
「をばさん、今日はお勤め休んだの。」
睦子がさういふと、清三も、
「どこか悪いの。」
と、をばさんの顔を見つめました。
「さう、つかれたから、さ。キヤラメルあげるわ。」
をばさんはさういつて、箱のまま、二人にキヤラメルを出してくれました。
急に廊下の方がさうざうしくなつたので、清三が
「それ、なあに。」
清三がたづねると、子供たちは、
「あのね、屋上へ植物園を作つてるの。清ちやんも来て手伝つてよ。」
と答へて、行つてしまひました。
「行つて見ようね。あそこ涼しいのよ。」
二十五番のをばさんがさそふので、清三も睦子も自分の部屋に鍵をかけると、風通しのいい屋上へのぼつて行きました。
そこは
子供たちは、屋上のあちらこちらに捨ててある古い草花鉢を拾ひ集めて、洗濯場の水を出しながら、抜いて来た草や苗木のやうな物を、たんねんに一鉢づつ植ゑてゐます。あざみ、おほばこ、すすき、野菊などもあります。
「どこにあつたの。をばさんも、つれてつてもらふとよかつたわね。」
そこへ来たをばさんが、さういふと、
「だめだい、をばさんなんか。そんな、お勤めを休んでるやうな弱虫ぢや。」
と、一人の子が答へました。
一鉢づつ植終ると、子供たちは楽しさうにかかへて物干場の下の、大きな植木の鉢のまはりへ持つて行つてならべます。そこには、もう幾日か前から取つて来て植ゑたいろいろの木や草の鉢が、三十幾つならんでゐて、大きな植木の枝には、「こども植物園・入場無料」と書いた札が下げてありました。
「まあ、すてきねえ。」
をばさんがさういつた時、下から三四人の少し大きな男の子がかけのぼつて来て、すぐボール投げを始めました。
「をばさんも仲間に入れてね。」
をばさんはボールを横取りしながら、笑つていひました。けれど清三が、
「もう五時だね、をばさん。ぼく、御飯をたかなくちや。」
といふと、をばさんはすぐやめました。
「ぢや、をばさんも一しよに行くわ。」
「わたしも。」
睦子がさういふと、ボールを投合つてゐた男の子たちも、
「ぼくも。」
「ぼくも。」
と、みんな御飯たきに、一階の共同炊事場へおりて行きました。
あとには小さい子供たちが、赤い西日を浴びながら、「こども植物園」をせつせと造つてゐました。