主人クラウヂオ。(独 窓の傍 に座しおる。夕陽 。)夕陽の照す濡 った空気に包まれて山々が輝いている。棚引いている白雲 は、上の方に黄金色 の縁 を取って、その影は灰色に見えている。昔の画家 が聖母を乗せる雲をあんな風にえがいたものだ。山の裾 には雲の青い影が印 せられている。山の影は広い谷間に充 ちて、広野 の草木 の緑に灰色を帯びさせている。山の頂の夕焼は最後の光を見せている。あの広野 を女神達 が歩いていて、手足の疲れる代 りには、尊 い草を摘み取って来るのだが、それが何だか我身に近付いて来るように思われる。あの女神達は素足で野の花の香 を踏んで行 く朝風に目を覚し、野の蜜蜂 と明るい熱い空気とに身の周囲 を取り巻かれているのだ。自然はあれに使われて、あれが望 からまた自然が湧 く。疲れてもまた元に返る力の消長の中に暖かい幸福があるのだ。あれあれ、今黄金 の珠 がいざって遠い海の緑の波の中に沈んで行 く。名残 の光は遠方の樹々 の上に瞬 をしている。今赤い靄 が立ち昇る。あの靄の輪廓 に取り巻かれている辺 には、大船 に乗って風波 を破って行 く大胆な海国 の民の住んでいる町々があるのだ。その船人 はまだ船の櫓 の掻 き分けた事のない、沈黙の潮 の上を船で渡るのだ。荒海 の怒 に逢 うては、世の常の迷 も苦 も無くなってしまうであろう。己 はいつもこんな風に遠方を見て感じているが、一転して近い処を見るというと、まあ、何たる殺風景な事だろう。何だかこの往来、この建物の周囲 には、この世に生 れてから味わずにしまった愉快や、泣かずに済んだ涙や、意味のないあこがれや、当 の知れぬ恋なぞが、靄のようになって立ち籠 めているようだ。(窓に立ち寄る。)何処 の家 でも今燈火 を点 けている。そうすると狭い壁と壁との間に迷 や涙で包まれた陰気な世界が出来て、人の心はこの中 に擒 にせられてしまうのだ。あるいは幾人 か集 って遠い処に行っている一人を思ったり、あるいは誰 か一人に憂き事があるというと、皆 が寄って慰めるのだ。しかし己は慰めという事を、ついぞ経験した事がない。ほんに世の中の人々は、一寸 した一言 をいうては泣き合ったり、笑い合ったりするもので、己のように手の指から血を出して七重 に釘付 にせられた門 の扉を叩 くのではない。一体己は人生というものについて何を知っているのだろう。なるほどどうやら己も一生というものの中 に立っていたらしゅうは思われる。しかし己は高 が身の周囲 の物事を傍観して理解したというに過ぎぬ。己と身の周囲 の物とが一しょに織り交ぜられた事は無い。周囲 の物に心を委 ねて我 を忘れた事は無い。果ては人と人とが物を受け取ったり、物を遣 ったりしているのに、己はそれを余所 に見て、唖 や聾 のような心でいたのだ。己はついぞ可哀 らしい唇から誠の生命 の酒を呑 ませて貰 った事はない。ついぞ誠の嘆 にこの体を揺 られた事は無い。ついぞ一人で啜泣 をしながら寂しい道を歩いた事はない。どうかした拍子でふいと自然の好い賜 に触れる事があってもはっきり覚めている己の目はその朧気 な幸 を明るみへ引出して、余りはっきりした名を付けてしまったのだ。そして種々 な余所の物事とそれを比べて見る。そうすると信用というものもなくなり、幸福の影が消えてしまう。たまたま苦労らしい嘆 らしい事があっても、己はそれを考 の力で分析してしまって、色の褪 めた気の抜けた物にしてしまったのだ。ほんに思えばあの嬉 しさの影をこの胸にぴったり抱 き寄せるべきであったろうに。あの苦労の影を熟 く味ったら、その中 からどれ程嬉しさが沸 いたやら知れなんだ物を。ああ、悲 の翼 は己の体に触れたのに、己の不性 なために悲 の代 に詰まらぬ不愉快が出来たのだ。(物に驚きたるように。)もう暗くなった。己はまた詰まらなくくよくよと物案じをし出したな。ほんにほんに人の世には種々 な物事が出来て来て、譬 えば変った子供が生れるような物であるのに、己はただ徒 に疲れてしまって、このまま寝てしまわねばならぬのか。(家来 ランプを点 して持ち来 り、置いて帰り行 く。)ええ、またこの燈火 が照すと、己の部屋のがらくた道具が見える。これが己の求める物に達する真直 な道を見る事の出来ない時、厭 な間道 を探し損なった記念品だ。(十字架の前に立ち留まる。)この十字架に掛けられていなさる耶蘇殿 は定めて身に覚えがあろう。その疵 のある象牙 の足の下に身を倒して甘い焔 を胸の中 に受けようと思いながら、その胸は煖 まる代 に冷え切って、悔 や悶 や恥のために、身も世もあられぬ思 をしたものが幾人 あった事やら。(一面の古画の前に立ち留まる。)お前はジョコンダだな。その秘密らしい背景の上に照り輝いて現われている美しい手足や、その謎 めいた、甘いような苦いような口元や、その夢の重みを持っている瞼 の飾 やが、己に人生というものをどれだけ教えてくれたか。己の方からその中へ入れた程しきゃ出して見せてはくれなかったでは無いか。(身を返して櫃の前に立ち留まる。)この盃 の冷たい縁 には幾度 か快楽の唇が夢現 の境 に触れた事であろう。この古い琴の音色 には幾度 か人の胸に密 やかな漣 が起った事であろう。この道具のどれかが己をそういう目に遇 わせてくれたなら、どんなにか有難く思ったろうに。この木彫 や金彫 の様々な図 は、瓶 もあれば天使もある。羊の足の神、羽根のある獣 、不思議な鳥、または黄金色 の堆高 い果物。この種々 な物を彫刻家が刻んだ時は、この種々 な物が作者の生々 した心持 の中 から生れて来て、譬えば海から上 った魚 が網に包まれるように、芸術の形式に包まれた物であろう。己はお前達の美に縛せられて、お前達を弄 んだお蔭 で、お前達の魂 を仮面を隔てて感じるように思った代 には、本当の人生の世界が己には霧の中に隠れてしまった。お前達が自分で真 の泉の辺 の真 の花を摘んでいながら、己の体を取り巻いて、己の血を吸ったに違いない。己は人工を弄んだために太陽をも死んだ目から見、物音をも死んだ耳から聴くようになったのだ。己は何日 もはっきり意識してもいず、また丸で無意識でもいず、浅い楽 小さい嘆 に日を送って、己の生涯は丁度半分はまだ分らず、半分はもう分らなくなって、その奥の方にぼんやり人生が見えている書物 のようなものになってしまった。己の喜 だの悲 だのというものは、本当の喜や悲でなくって、謂 わば未来の人生の影を取り越して写したものか、さもなくば本当に味のある万有のうつろな図のようなものであって、己はつまり影と相撲を取っていたので、己の慾 という慾は何の味をも知らずに夢の中 に草臥 れてしまったのだ。振返って己の生涯を見れば、走って道が捗 らず、勇を振 って戦いに勝たれず、不幸があっても悲しくないし、幸福があっても嬉しくないし、意味の無い問には意味の無い答が出て来る。暗 の閾 から朧気な夢が浮んで、幸福は風のように捕 え難い。そこで草臥 た高慢の中にある騙 された耳目は得 べき物を得 る時無く、己はこの部屋にこの町に辛抱して引き籠 っているのだ。世間の者は己を省みないのが癖になって、己を平凡な奴 だと思っているのだ。(家来来て桜実 一皿を机の上に置き、バルコンの戸を鎖 さんとす。)戸はまあ開けて置け。(間 。)何をそんなに吃驚 するのだ。
家来。申上げても嘘 だといっておしまいなさいましょう。(半ば独言 のように、心配らしく。)ははあ、あの離座敷 に隠れておったわい。
主人。誰 が。
家来。何だかわたくしも存じません。厭らしい奴が大勢でございます。
主人。乞食 かい。
家来。如何 でしょうか。
主人。そんなら庭から往来へ出る処の戸を閉めてしまって、お前はもう寝るが好 い。己 には構わないでも好いから。
家来。いえ、そのお庭の戸は疾 くに閉めてあるのでございますから、気味が悪うございます。何しろ。
主人。どうしたと。
家来。ははあ、また出て来て、庭で方々へ坐 りました。あのアポルロの石像のある処の腰掛に腰を掛ける奴もあり、井戸の脇 の小蔭 に蹲 む奴もあり、一人はあのスフィンクスの像に腰を掛けました。丁度タクススの樹の蔭になって好 くは見えません。
主人。皆 な男かい。
家来。いえ、男もいますし女もいます。乞食らしい穢 い扮装 ではございません。銅版画 なんぞで見るような古風な着物を着ているのでございます。そしてそのじいっと坐っている様子の気味の悪い事ったらございません。死人 のような目で空を睨 むように人の顔を見ています。おお、気味が悪い。あれは人間ではございませんぜ。旦那様 、お怒 なすってはいけません。わたくしは何と仰 ゃっても彼奴 のいる傍 へ出て行く事は出来ません。もしか明日 の朝起きて見まして彼奴 が消えて無くなっていれば天の助 というものでございます。わたくしは御免を蒙 りまして、お家 の戸閉 だけいたしまして、錠前の処へはお寺から頂いて来たお水でも振り掛けて置きましょう。何にいたせわたくしはついぞあんな人間を見た事もございませんし、また人間があんな目付 をいたしているはずがございません。
主人。どうともお前の勝手にするが好い。もう用事はないから下 って寝てくれい。(暫 く物を案ずる様子にてあちこち歩く。舞台の奥にてヴァイオリンの音 聞ゆ。物懐しげに人の心を動かす響なり。初めは遠く、次第に近く、終 にはその音 暖かに充ち渡りて、壁隣 の部屋より聞ゆる如 し。)音楽だな。何だか不思議に心に沁 み入るような調べだ。あの男が下らぬ事を饒舌 ったので、己まで気が狂ったのでもあるまい。人の手で弾 くヴァイオリンからこんな音 の出るのを聞いたことはこれまでに無いようだ。(右の方に向き、耳を聳 てて聞く様子にて立ちおる。)何だか年頃 聞きたく思っても聞かれなかった調 ででもあるように、身に沁みて聞える。限 なき悔 のようにもあり、限なき希望のようにもある。この古家 の静かな壁の中 から、己 れ自身の生涯が浄められて流れ出るような心持がする。譬えば母とか恋人とかいうようないなくなってから年を経たものがまた帰って来たように、己の心の中 に暖 いような敬虔 なような考 が浮んで、己を少年の海に投げ入れる。子供の時、春の日和 に立っていて体が浮いて空中を飛ぶようで、際限 しも無いあくがれが胸に充ちた事がある。また旅をするようになってから、ある時は全世界が輝き渡って薔薇 の花が咲き、鐘の声が聞えて余所の光明に照されながら酔心地 になっていた事がある。そういう時はあらゆる物事が身に近く手に取るように思われて己も生きた世界の中の生きた一人と感じたものだ。そういう時はあらゆる人の胸を流れる愛の流 が、己の胸にも流れて来て、胸が広うなったような心持がしたものだ。今はそんな心持は夢にもせぬ。この音楽がもう少しこのまま聞えていて、己の心を感動させてくれれば好い。これを聞いている間 は、何だか己の性命が暖かく面白く昔に帰るような。そして今まで燃えた事のある甘い焔が悉 く再生して凝り固 った上皮を解かしてしまって燃え立つようだ。この良心の基礎から響くような子供らしく意味深げな調を聞けば、今まで己の項 を押屈 めていた古臭い錯雑した智識 の重荷が卸されてしまうような。そして遠い遠い所にまだ夢にも知らぬ不思議の生活があって、限無き意味を持っている形式に現われているのが、鐘の音 で知らされているような。(ほとんど突然と音楽の声止 む。)や、音楽が止んだ。己の心を深く動かした音楽が、神と人との間の不思議を聞 せるような音楽が止んだ。大方 己のために不思議の世界を現じた楽人は、詰らぬ乞食か何かで、門 に立って楽器を鳴らしていたのが、今は曲を終 ったので帽子でも脱いで、その中へ銅貨を入れて貰おうとしているのだろう。(右手の窓の処に立ち寄る。)この窓の下の処には立っていない。どうも不思議だ。何処 にいるのか知らん。あっちの方の窓から覗 いて見よう。(右手扉の方へ行 かんとする時、死あらわれ、徐 に垂布 を後 にはねて戸口に立ちおる。ヴァイオリンは腰に下げ、弓を手に持ちいる。驚きてたじたじと下 る主人を、死は徐 に見やりいる。)まあ、何という気味の悪い事だろう。お前の絃 の音 はあれほど優しゅう聞えたのに、お前の姿を見ると、体中 が縮み上 るような心持がするのはどうしたものだ。それに何だか咽 が締るようで、髪の毛が一本一本上に向いて立つような心持がする。どうぞ帰ってくれい。お前は死だな。ここに何の用がある。ええ気味の悪い。どうぞ帰ってくれい。ええ、声を立てようにも声も立てられぬわい。(へたへたと尻餅 を突く。)命の空気が脱け出てしまうような。どうぞ帰ってくれい。誰がお前を呼んだのか。帰れ帰れ。誰がお前をこの内 に入れたのか。
死。立て。その親譲りの恐怖心を棄 ててしまえ。わしは何もそう気味の悪い者ではない。わしは骸骨 では無い。男神 ジオニソスや女神 ウェヌスの仲間で、霊魂の大御神 がわしじゃ。わしの戦 ぎは総 て世の中の熟したものの周囲 に夢のように動いておるのじゃ。其方 もある夏の夕まぐれ、黄金色 に輝く空気の中 に、木 の葉 の一片 が閃 き落ちるのを見た時に、わしの戦ぎを感じた事があるであろう。凡 そ感情の暖かい潮流が其方 の心に漲 って、其方 が大世界の不思議をふと我物と悟った時、其方 の土塊 から出来ている体が顫 えた時には、わしの秘密の威力が其方 の心の底に触れたのじゃ。
主人。もう好い好い。解 った。まだ胸は支 えているが、兎 に角 お前を歓迎する。(間。)しかし何の用があって此処 へ来たのだ。
死。ふむ。わしの来るのには何日 でも一つしか用事はないわ。
主人。まだそれまでには間 があるはずだ。一枚の木 の葉 でも、枝を離れて落ちるまでには、たっぷり木の汁を吸っている。己はそこまでになってはいぬ。己はまだ生きるというように生きて見た事がないのだ。
死。兎に角、誰も歩く命の駅路 を其方 も歩いて来たのじゃ。
主人。己も若い時はあったに違いないが、その時は譬えば子供のむしった野の花が濁った流 の上に落ちて、我知らず流れるように、若い間 の月日は過ぎ去って、己はついぞそれを生活だと思った事は無い。それから己は生活の格子戸の前に永らく立っていたものだ。そして何日 かは雷 のような音 がして、その格子戸が開 くだろうと、甘いあくがれを胸に持って待っていて見たけれど、とうとう格子戸は開 かずにしまった。そうかと思えばある時己はどうしてはいったともなく、その戸の中にはいっていた事もある。しかしその時は己の心が何物かに縛られていて、深い感じは起さずにしまった。そういう時は見ても見えず、聞いても聞えず、心は何処 か余所になってしまっていて、貴 い熱も身を温 めず、貴い波も身を漂わさず、他 の人が何日 か出会って、一度 は争って、終 には恵みを受ける習 の神には己は逢わずにしまった。
死。いや。この世の生活をこの世らしゅう生きて通る事だけは、誰にも授けられているように、其方 にも確 に授けてあった。其方 の心の奥にも、このあらゆる無意味な物事の混沌 たる中へ関係の息を吹込む霊魂は据えてあった。この霊魂を寝かして置いて混沌たる物事を、生きた事業や喜怒哀楽の花園に作り上げずにいて、それを今わしが口から聞くというのは、其方 の罪じゃ。人というものは縛せられてもおり、またある機会にはその縛 を解かれもするものじゃ。夢の中 に泣いて苦労に疲れて胸にはあくがれの重荷を負うて暖かい欲望を抑えながらも、熟すればわしの手に落ちるのが人生じゃ。
主人。その熟している己ではないから、どうぞ許して貰いたい。己はまだこの世の土に噛 り付いていたいのだ。お前に逢うての怖 しさに、己の縛 が解けてしまった。どうやらこれからは本当に生きて見られそうな。今のように強い欲望があるからは、この世の物事に魂 を打入れて見る事も出来よう。これからさき生かして置いてくれるなら、己は決して他 の人間を物の言えぬ着物のように、または土偶 か何かのように扱いはせぬ。どんな詰まらぬ喜 でも、どんな詰らぬ歎 でも、己は真 から喜んで真から歎いて見る積 りだ。人生の柱になっている誠というものもこれからは覚えて見たい。これからは善と悪とが己を自由に動かして、己を喜ばせたり怒 らせたりするようにしようと思う。そうしたならば今まで影のように思っていた世の中の物事が生きて働くようになろう。そうしたら受ける身も授ける身も今までのように冷 かになっていないで、到 る処生きた人間に逢われよう。(死は冷然として取り合わぬ様子ゆえ、主人は次第に恐 を抱 く。)どうぞどうぞ思い返して見てくれい。お前は己が愛をも憎 をも閲 して来たように思うであろうが、己はただの一度 もその味を真から嘗 めた事がない。つい表面 の見えや様子や、空々しい詞 を交して来たばかりだ。その証拠にお前に見せる物がある。この手紙の一束を見てくれい。(忙がしげに抽斗 を開け、一束の手紙を取り出 す。)恋の誓言 、恋の悲歎 、何もかもこの中に書いてはある。己が少しでもそれを心に感じたのだと思って貰うと大違いだ。(主人は手紙の束を死の足許 に投げ付く。手紙床の上に飛び散る。)これが己の恋の生涯だ。誠という物を嘲 み笑って、己はただ狂言をして見せたのだ。恋ばかりではない。何もかもこの通りだ。意義もない、幸福もない、苦痛もない、慈愛もない、憎悪もない。
死。阿房 ものめが。好 いわ。今この世の暇 を取らせる事じゃから、たった一度 本当の生活というものを貴 ばねばならぬ事を、其方 に教えて遣わそう。あっちに行って黙って立っていてここの処を好く見て、凡そこの世に生きとし生けるものは、皆 な慈愛を持っているのに、其方 一人がうつろな心で戯 けながらに世を渡ったのじゃという事をしかと胸に覚えるが好 い。
(死は物を呼び寄するが如き音 をヴァイオリンにて弾 じ出 す。この時死は寝室の扉の傍 、舞台の前の方 、右手に立ちおり、主人は左手壁の方 、薄暗き処に立ちおる。右手の扉を開きて主人の母出 で来 る。更けたりという程にはあらず。長き黒き天鵞絨の上着を着し、顔の周囲 に白きレエスを付けたる黒き天鵞絨の帽子を冠 りおる。白き細き指にレエスの付きたる白き絹の紛※ [#「巾+兌」、U+5E28、20-14]を持ちおる。母は静 に扉を開きて出で、静 に一間 の中 をあちこち歩む。)
母。この部屋の空気を呼吸すれば、まあ、どれだけの甘い苦痛を覚える事やら。わたしがこの世に生きていた間 の生活の半分はラヴェンデルの草の優しい匂 のように、この部屋の空気に籠っている。人の母の生涯というものは、悲 が三分 一で、後 の二分 は心配と責苦 とであろう。男というものにはそれがちっとも分らぬわいの。(櫃の傍 にて。)この櫃の隅はまだ尖っているやら。日外 、あの子がここで頭を打って血を出した事がある。まだ小さいのに気が荒かったゆえ、走り廻 ってばかりいて、あれ危ないと思っても止 める事が出来なんだ。ああ、この窓じゃ。あの子が夜遊 に出て帰らぬ時は、わたしは何時 もここに立って真黒 な外を眺めて、もうあの子の足音がしそうなものじゃと耳を澄まして聞いていて、二時が打ち三時が打ち、とうとう夜 の明けた事も度々ある。それをあの子は知らなんだ。昼間も大抵一人でいた。盆栽の花に水を遣ったり、布団の塵 を掃 ったり、扉の撮 の真鍮 を磨いたりする内に、つい日は経 ってしもうた。その間 、頭の中 には、まあ、どんな物があったろう。夢のような何とも知れぬ苦痛の感じが、車の輪の廻 るように、頭の中 に動いていた。あの何とも言えぬ心持は、この世界の深い深い秘密と関係している人の母の心であろう。しかしもうわたしにはあの甘い苦 を持っている、ここの空気を吸う事は出来ぬ。わたしはもう行かねばならぬ。(真中 の戸口より出で去る。)
主人。お母様 。
死。黙れ。其方 が母はもう帰らぬわ。
主人。お母様。お母様。どうぞ今一度 此処 へ戻って来て下さりませ。このわたしの唇は何日 も確 り結んでいて高慢らしく黙っていたのだが、今こそは貴女 の前に膝 を突いて、この顫う唇を開けてわたくしの真心が言って見たい。ああ、何卒 母上を呼んでくれい。引き留 めてくれい。何故 お前は母上の帰って行 くのを見ていながら引留めてはくれなんだか。
死。わしの知った事では無い。母に対してどうするのも、皆 其方 の思うままであったのじゃ。
主人。ええ、この胸に何の感じもなかったか。この身の根差 はあのお母様であるのを、あのお母様のお側にいるのは、神の傍 にいるのと同じわけであるのを、己は一度 も知らなんだ。もうこうなっては取返しがつかぬわい。
(死は主人の煩悶 を省みず、古民謡の旋律を弾 じ出 す。娘一人、徐 に歩み入 る、派手なる模様あるあっさりとしたる上着を着、紐 を十字に結びたる靴を穿 き、帽子を着ず、頸 の周囲 にヴェエルを纏 えり。)
娘。あの時の事を思えば、まあ、どんなに嬉しかったろう。貴方 はもう忘れておしまいなされたか。貴方はわたしを非道 い目にお逢 せなさいました。ほんにほんに非道いめに。だが、世の中の事は何でも苦痛に終らぬ事は無い。ほんにわたしの嬉しいと思ったその数は、指を折って数えるほどであるけれど、その日の嬉しかった事は夢のようでございました。この窓の前の盆栽の花は、今もやはり咲いている。ここにはまたその頃のがたがたするような小さいスピネット(楽器)もある。この箪笥 はわたしが貴方に頂いた御文 を貴方の下すった品物と一しょに入れて置いた処でございます。わたしのためには御文も品物も優しい唇で物をいってくれました。何日 やら蒸暑い日の夕方に、雨が降って来た時に貴方と二人でこの窓の処に立って濡れた樹々の梢 から来る薫 を聞いた事があります。ああ、何もかも皆 な過ぎ去ってしまいました。そして皆 な儚 い恋の小さい奥城 の中に埋まってしまいました。しかしその埋まったものは何もかも口でいわれぬ程美しゅうございました。それは貴方のせいで美しかったのでございます。それなのに貴方はとうとうわたくしを無慙 にも棄 てておしまいなさいました。丁度花を持って遊ぶ子が、遊び倦 てその花を打捨 てしまうように、貴方はわたしを捨てておしまいなさいました。悲しい事にはわたくしは、その時になって貴方の心を繋 ぐようなものを持っていませんでした。(間。)貴方の一番終 いに下すったあの恐ろしいお手紙が届いた時は、わたしは死のうと思いました。それを今打明けて申すのは、貴方に苦しい思いをさせようと思って申すのではございません。それからわたしは貴方に最後の御返事 を致そうかと存じました。その手紙には非道く悲しい事も書かず、恨 がましい事も書かず、つい貴方のお心にわたしの心がよう分って、貴方が今一度 わたしを可哀く思って少しばかり泣いて下さるように書きたいと存じました。しかしわたしはとうとうその手紙を書かずにしまいました。そんな手紙が何になりましょうぞ。何故 と申しまするのに、貴方の下すったお手紙はわたしの心の中 を光明と熱とで満したようで、わたしはあれを頂く頃は昼中 も夢を見ているように、うろうろしておりましたが、あれがどれだけの事であったやら、後で思えばわたくしには分りません。仮令 お手紙を上げたとて、虚 が信 になりもせず、涙をどれ程注 いでも死んだものが生き戻りはいたしますまい。世の中は不患議なもので、わたしもそのまま死にもせず、あれから幾十 の寂しさ厭苦 さを閲 した上でわたしは漸々 死にました。そしてその時わたしは何卒 貴方のお死 なさる時、今一度 お側へ来たいと心に祈って死にました。それは貴方に怖い思をさせたり、貴方を窘 めたりしようというのではございませぬ。譬えて申せば貴方が一杯の酒を呑乾 しておしまいなさる時、その酒の香 がいつか何処 かであった嬉しさの香 に似ていると思召 すように、貴方が末期 にわたくしの事を思い出して下されば好いと思ったばかりでございます。(娘去る。主人は両手にて顔を覆いいる。娘の去るや否や、一人の男直 に代りて入来 る。年齢はおよそ主人と同じ位なり。旅路にて汚 れたりと覚しき衣服を纏いいる。左の胸に突込 んだるナイフの木の柄 現われおる。この男舞台の真中 に立ち留まり主人に向いて語る。)
男。はあ。君はまだこの世に生きているな。永遠の洒落者 め。君はまだホラチウスの書なぞを読んで世を嘲 っているのかい。僕が物に感じるのを見て、君は同じように感じると見せて好くも僕を欺 したな。君はあの時何といった。実にこの胸に眠っているものを、夜 吹く風が遠い便 を持って来るようにお蔭で感じるといったのう。実に君は風の伝える優しい糸の音 だったよ。ただその風というものが実は誰 かの昔吐 いた息であったのだ。僕の息でなければ外の人の息であったのだ。ほんに君と僕とは大分 長い間友人と呼び合ったのだ。ははあ、何が友人だ。君が僕と共にしたのは、夜昼とない無意味の対話、同じ人との交際 、一人の女を相手にしての偽りの恋に過ぎぬ。共にしたとはいうけれど、譬えば一家の主僕 がその家を、輿 を、犬を、三度 の食事を、鞭 を共にしていると変った事はない。一人のためにはその家は喜見城 で、一人のためには牢獄 だ。一人のためには輿は乗るもので、一人のためには輿は肩から血を出すものだ。一人のためには犬は庭へ出て輪を潜 って飛ばせて見て楽むもので、一人のためには食物 をやって介抱をするものだ。僕の魂 の生み出した真珠のような未成品の感情を君は取 て手遊 にして空中に擲 ったのだ。忽 ち親 み、忽ち疎 ずるのが君の習 で、咬 み合せた歯をめったに開かず、真心を人の腹中に置くのが僕の性分であった。不遠慮に何にでも手を触れるのが君の流儀で、口から出かかった詞をも遠慮勝 に半途 で止 めるのが僕の生付 であった。この二人の目の前にある時一人の女子 が現れた。僕の五官は疫病 にでも取付 かれたように、あの女子 のために蹣跚 いてただ一つの的を狙 っていた。この的この成就は暗 の中 に電光 の閃くような光と薫とを持っているように、僕には思われたのだ。君はそれを傍 から見て後で僕に打明 てこう云 った。あいつの疲れたような渋いような威厳が気に入った。あの若さで世の偽 に欺かれたのを悔いたような処のあるのを面白く感じたと云った。そこで欺 して己 が手に入れて散々弄んだ揚句に糟 を僕に投げてくれた。姿も心も変り果てて、渦巻いていた美しい髪の毛が死んだもののように垂れている化物にして、それを僕に授けたのだ。それまでは、何処 やら君の虚偽を感じてはいてもはっきり君を憎むという心もなかったが、その時から僕は君を憎み始めて、君から遠ざかるようにした。その後 僕は君と交 っている間、君の毒気 に中 てられて死んでいた心を振い起して高い望 を抱 いたのだが、そのお蔭で無慙な刺客 の手にかかって、この刃 を胸に受けて溝壑 に捨てられて腐ってしまったのだ。しかし君のように誰のためにするでもなく、誰の恩を受けるでもなく、空 しく生きて空しく死ぬるのに比べて見れば、僕は死んでも死甲斐 があるのだ。(男去る。)
主人。誰のためにするでもなく、誰の恩を受けるでもない。(徐 に身を起す。)譬えば下手な俳優があるきっかけで舞台に出て受持 だけの白 を饒舌 り、周匝 の役者に構わずに己 が声を己 が聞いて何にも胸に感ぜずに楽屋に帰ってしまうように、己 はこの世に生れて来て何の力もなく、何の価値もなく、このままこの世を去らねばならぬか。何でこれ程の思 を己はせねばならぬのか。何で死が現われて来て、こうまざまざと世の様 を見せてくれねばならぬのか。実在のものが儚 い思出 の影のように見えるまで、真 の生活の物事にこの心を動かさねばならぬのか。何故 お前の弾 いた糸の音 が丁度石瓦 の中に埋 められていた花のように、意識の底に隠れている心の世界を掻き乱してくれたのか。ええ、こうなる上は区々 たる浮世の事に乱されずに、何日 もお前の糸の音 を聞いてお前の側にいるも好かろう。己を死に導いてくれるなら己は甘んじて跟 いて行 こう。今までの己は生 とはいっても真 の生ではなかったから、己は今から己の死を己の生にして見よう。死も生も認めぬ己が強いて今までを生といって、お前を死と呼ばねばならぬはずがない。お前は僅 か一秒の中 に生涯を籠めて見せてくれた。そのお前の不思議な威力に己の身を任せてしまって、今までの影のような生涯を忘れてしまおう。(暫く物を案ずる様子。)思えばこう感じるのも死にかかっての一時 の事かも知れぬが、兎に角今までにこれ程感じた事はないから、己のためには幸福だ。このまま死んでしもうても、今我 胸に充ちたものは、今までの色も香 もない生活には遥 に優 っているに違いない。己は己の存在を死んで初めて知るのであろう。譬えば夢を見る人が、夢の感じの溢 れたために、眼 の覚めるのと同じように、この生活の夢の感じの力で、己は死に目覚 めるのか。(息絶えて死の足許 に伏す。)
死。(首を振りつつ徐 に去る。)思えば人というものは、不思議なものじゃ。解 すべからざるものをも解 し、文 に書かれぬものをも読み、乱れて収められぬものをも収めて、終 には永遠の闇の中 に路を尋ねて行 くと見える。(中央の戸より出で去り、詞の末のみ跡に残る。室内寂 として声無し。窓の外に死のヴァイオリンを弾 じつつ過ぎ行くを見る。その跡に跟 きて主人の母行 き、娘行 き、それに引添いて主人 に似たる影行 く。
○幕)
(明治四十一年十二月)