いちばん先に、赤いトルコ
帽をかむった
一寸法師がよちよち歩いて来ます。その後から、目のところだけ切り
抜いた大きな
袋をかむった
大象が、太い
脚をゆったりゆったり運んで来ます。象の
背中には、
桃色の洋服をきたかわいい少女が三人、人形のようにちょこんと
並んでのっかっています。その後からは
楽隊の人々が、みんな赤いズボンをはき、大きなラッパ、小さなラッパ、クラリオネット、
大太鼓、
小太鼓などを持って、
足並そろえて
調子よく
行進曲を
吹き鳴らして来ます。
さてその後からは、
鉄のおりに入ったライオン、
虎、
熊などの
猛獣が車に乗せられて来ます。つづいて馬が十頭ほど、みんなかわいい少女や少年を一人ずつ乗せて、ひづめの音をぽかぽかと鳴らしながら来ます。
最後に赤や黄や青の
旗をかついだ人たちが大ぜい、ぞろぞろとつづいて来ます。その旗にはそれぞれ「
東洋一大曲馬団」「
東洋一移動大動物園」「
世界的大魔術」「
世界的猛獣使」などという字が白く、
染めぬかれてあります。
まっ
先の一寸法師から、最後の旗持ちまでは百五十メートルほどもあり、その長い行列は、
楽隊の
吹き鳴らす
行進曲で、何ともいえない気持ちよい
調子につつまれ、何ともいえないにぎやかな色どりをあたりにふりまきながら、八月の朝のきらきらした太陽の光の中を進んで来ました。
ここは東京から北の方へ二十里ほどはなれた、ある
湖の岸の小さな町。
汽車も通らず電車もなし、一日にたった二度
乗合自動車が通るきりの、しずかなしずかなこの町に、だしぬけにこんな行列が来たのですから、大へんです。町は一どきに目がさめたように
活気づき、町の人々は
胸がわくわくして仕事など手につかず、みんな
往来へ出て、目をみはって行列を見ています。わけても、夏休みでたいくつしていた
子供たちは、一年中のお祭りが一どきに来たようによろこび、もうじっとしてはいられず、行列の後からぞろぞろぞろぞろとついて行きます。元気のいい男の子たちは足も地につかぬ思いで、
飛びまわり、はねまわり、
一寸法師の前へ立って
背くらべをしたり、
象のそばへ来て
袋の下から長い鼻をのぞいたり、楽隊といっしょに
足拍子を取ったり、ライオンや
虎や
熊をこわごわと見たり、馬の上の少年少女たちに
失敬してみたり、
旗持ちの旗をかついだり、もうまったく
夢中になっています。なにしろこの町はじまって以来の出来ごとで、一寸法師はもちろん、象もはじめて、ライオン、虎、熊もはじめて見る、という子供たちが多いのですから、こういうさわぎをするのも
無理はないのです。
火の見の立っている町の四つ角の、いちじくの葉が黒いかげをおとしているところに、一
軒の
鍛冶屋があります。ここに
新吉という十一になる
丁稚がいます。その朝も早くから、土間の仕事場で
意地悪の
親方にどなりつけられながら、トッテンカン、トッテンカンとやっていました。
すると、遠くから、ききなれない
楽隊の音が鳴りひびいて来ます。はじめは、たまに来る
活動写真の楽隊かな、と思いながら金づちをふりあげていましたが、だんだんその音が近づくにつれ、これはあたりまえの楽隊ではないぞと思いました。そのうちに楽隊の音は、
軒下からのぞけば見えそうなところまで近づいて来ました。が、こんなとき、うっかりのぞいたりしようものなら、親方の
金づちがこつんと向こうずねにぶつかって来ます。
新吉は、いっそのこと、耳がなければいいなと思いながら、下くちびるをかみしめて、金づちをふり上げていました。
曲馬団の行列は、
鍛冶屋の横手の火の見の下までやって来ました。と、まっ先の
一寸法師が、くるりとうしろへ向きなおり、赤いトルコ
帽を
片手に取って
差し上げ、
「とまれーっ。」と
叫びました。からだに
似合わず、太いしゃがれ声を出したので、
見物人はびっくりしました。人間の言葉などはしゃべれないものと思っていた
子供たちは、なおさらびっくりしました。
一寸法師は、目の前の
象の
袋のすそをめくりました。一
尺ほど象の鼻の先があらわれると、一寸法師はそれへ
片手を
掛けました。かと思うと、くるりと
宙がえりを打つようにして、象の
背中の三人の少女たちの中へ、すっぽりとのっかってしまいました。子供たちはいうに
及ばず、大人たちもこれにはまたびっくりしてしまいました。
一寸法師はそこで、ズボンのポケットから
拍子木を取り出し、それをチョンチョンと鳴らし、
「オーケストラ、ストップ。」と
叫びました。と、楽隊がぴたりと鳴りやみました。
「チョンチョンチョン。とざい、とーざい。」と一寸法師は、
胸を
張り、あたりを見まわしながら
口上をのべはじめました。
「さぁて
皆さん。皆さんは今まで、
私を世界一の小男と見て、
子供さんまでが私と
背くらべをしたりしまして
馬鹿になさいましたが、ただ今は世界一の大男となりました。なんと皆さんは、私の足もとにもとどかぬかわいそうな
一寸法師となったではありませんか。くやしかったらここへ来て私と背くらべをしてみなされ、エヘン。
チョンチョンチョン。とざい、とーざい。さぁて皆さん、この世界一の大男の一寸法師が、
曲馬団一同になりかわって、ごあいさつ申し上げることと相なりました。外でもござりません。当曲馬団は、日本中はおろか、東洋中に名を知られた大曲馬団、大動物園でござります。
象、ライオン、
虎をはじめ、動物の数が九十八種、
曲芸の馬が十八頭、
曲芸師が三十と六人、
劇とダンスの少年少女が二十と八人、それに
加えて世界的
大魔術師、世界的
猛獣使い、オーケストラが日本一、そうして、
小生の私の
我が
輩の
僕が、エヘン、日本一のいい男の一寸法師、チョンチョンチョン。
さぁて皆さん。これらの面々が、いかなる
芝居、いかなるダンス、いかなる曲芸、いかなる魔術、いかなる猛獣を
演出いたしますか、
今晩六時より
当町御役場裏の大テントで相もよおすこととなりました。これにつきましては、当町長さまはじめ、
警察の方々さま、当町
有志の皆々さまから
一方ならぬご
後援をいただき、一同
感謝にたえない
次第。よって当初日は、そのおん礼といたしまして、大人小人各等
半額をもってごらんに入れることと相なりました。なにとぞ皆さん、それからそれへとご
吹聴下され、にぎにぎしくおはやばや、ぞくぞくとご
光来ご
観覧の
栄をたまわらんことを、
一座一同になりかわり、象の
背中に平に
伏しておんねがい
奉るしだぁい。チョン、チョン、チョン。」
そこで
一寸法師は、
象の
背中へくるりとしゃっちょこ立ちをしました。かと思うとまたまたくるりと起き上がり、行列を見かえって、
「オーケストラ、ゴォー。行列、進めー……」
鍛冶屋の
新吉は、頭ががーんとするほど、うちょうてんになり、今の
曲馬団について、何でもかまわず、めちゃくちゃにしゃべってみたくなりました。けれど仕事の
最中に一言でもよけいなことを口に出したら、親方の金づちがごつんと
飛んで来ます。仕方なく新吉は、大金づちを力いっぱいふり上げて、トッテンカン、トッテンカンと打ちおろしていました。そうして、曲馬団の
楽隊の
音が、遠く町はずれへ消え去ってから、ようやく頭の中がしずまりました。
鍛冶屋の仕事は、夕方暗くなってからやっとしまいます。その仕事のしまわないうちに、役場
裏の大テントの方からは、はたして、曲馬の楽隊が鳴りひびいて来ました。そうして遠くからきこえて来る楽隊の音は、また何ともいえない、やわらかい
静かないい
調子となってひびいて来ます。クラリオネットとラッパの音とが、
離れたりもつれたり、何か見知らぬ遠い国からきこえて来る
夢のようなひびきを
伝えて来ます。
そのうち店の前を、三人五人と、楽隊の音に
吸われるようにして、急いで行く人たちが通りはじめました。兄弟同士が手をつないで走って行く
子供たちもありました。それを見ると新吉は今の自分の身の上が急に悲しくなりました。
新吉は、両親がなく、たった一人の姉さんは東京のおじさんの家へ
奉公に行ってしまい、自分は小学校へ二年ほどかよったきりで、この鍛冶屋の
丁稚になってしまったのです。兄弟で曲馬を見に行くなどはおろか、一人ぽっちでも見に行ける身の上ではないのです。
新吉は、三日に一度、町の
風呂へ行くとき、おかみさんから
一銭銅貨を三つだけうけ取るきり、お
小使銭としては、ただの一銭ももらえない
約束になっているのです。
「せめて、曲馬の外まわりだけでも見てこよう。」
新吉はわずかにそれだけで、がまんしようと思いました。
仕事がしまいになると、新吉はいそいで仕事場をかたづけ、大いそぎで
冷やめしをかっこみはじめました。と、
毎晩寝つきのわるい
赤ん
坊が、いつものとおりぎゃんぎゃん
泣き出しました。
「新吉、いつまでめしを食ってるんだえ。さっさとお
守りをしな。」
おかみさんがかん高い声でどなりました。
新吉は、かさぶた頭の赤ん坊をおぶって、耳もとでぎゃんぎゃん泣かれながら、その声のしずまるまで、店の前を何十ぺんでも行ったり来たりしていなければなりませんでした。そのうちに曲馬はおしまいになってしまうだろう。
新吉はとうとう、火の見の下の暗いところへ立って、ぽろりぽろりと
涙をこぼしました。
しかしつぎの夜は、新吉は町の風呂へ行ける番でした。曲馬の
楽隊はもうとっくから、すばらしいにぎやかさで鳴りひびいて来ています。新吉は
夕飯をかみながら外へとび出しました。そして風呂屋とははんたいの曲馬の方へ、自分にもこんなにはやく走れるのかと思うほどはやく、まっ黒な顔をふり立てながら、まるで風のようにすっ
飛んでいきました。
行って見て新吉はびっくりしてしまいました。何というすばらしい光と色のお家でしょう。テントのてっぺんからは
四方八方へ、赤と青の
電灯の
綱がはりわたされて、それが
湖から
吹いて来る夜風にゆらりゆらりとゆれかがやいています。テントの正面には、金と銀との
垂れ
幕が下がり、
絵看板がならび、赤と黄と青との
旗がそれをかこみ、きらきら光る
電灯が何十となく
照りかがやき、その中に
楽隊がわきたつようなひびきをまき起こしているのです。
「さーぁ、いらっしゃい、いらっしゃい。空中の
曲芸は大
飛行のはじまり、はじまぁり。」
客
呼びが、
片手を
頬っぺたにあててどなります、すると正面の幕がさっと上がり、中から、
胸に金銀の星の
輝く赤い服をきた少女を、二人ずつ乗せた馬が三、四頭出て来ます。かわって同じすがたをした少年少女たちが中へ入って行きます。出て来た馬は右と左へ分かれます。見ると、そこには、同じような馬がずらりとならび、その
背にはそれぞれ、それこそ
造りつけた人形のような少女たちが、まばたき一つせずじっとしています。そうして見ていればいるほど、
新吉はびっくりするものばかり見つけ出し、海の
底の
竜宮か、雲の上の天国か、自分はもうこの世の中にいるものとは思えなくなってしまいました。
「さぁー、いらっしゃい、いらっしゃい。
猛獣つかいがライオンとすもうをとります。さぁさぁ。」
中からは
見物人の
拍手が、あらしのように鳴りひびいて来ます。楽隊の音は、大なみのように鳴りわたります。
新吉は、からだが
宙に
浮かんでいるような気持ちで、テントのまわりを何べんとなくまわり歩きました。と、ある場所にちょっとしたすき間があり、ちらりと中のようすが見えました。新吉はそこへ
吸いついて中をのぞきました。すると、今、竹わたりの
芸をやっているところです。
玉虫色の服をきた美しい女が、
片手に
絵日傘を持ち、すらりとした足をしずかにすべらせようとしています。二
丈もあろうと思われる高いところです。両はしを
綱につるされた長い
竹竿はぶるぶるとこまかくふるえています。
「あっ、あぶない!」
新吉は思わずそこを
飛びはなれました。
胸がどきどきしている。
「たいへんな
芸当なのだ。あんなところからのぞいたら、ばちがあたる。」
新吉は胸をおさえて正面の方へ来ました。
いつか時間はたっていました。
風呂へ三度も入ったほどの時間がたっていたかも知れません。ぐずぐずしていたら、またおかみさんにどなりつけられます。新吉はくやしそうにふりかえりふりかえり、家の方へかえりかけました。
テントのあかりが、かくれてしまう町かどまで来ると、新吉は両手を地べたへついて
股のぞきをして見ました。またの下からさかさまに見ると、曲馬小屋はまた
一段と美しくはなやかに、まるで空中に
浮かんだ
御殿のように見えました。
つぎの一日、新吉はからだ中がぞくぞくするほど
幸福な気持ちでいました。どうしてこう幸福なのか、自分でもはっきりわけがわかりません。そして、いつもの親方の
怒り声もろくに耳へ入らず、重い金づちをふりあげることもつらいとも思いませんでした。
つぎの日も、またそのつぎの日も、新吉の気持ちは同じようでした。というよりは一日ごとに、幸福な気持ちが胸の中にひろがっていきました。
さてそのつぎの日の夕方には、いつもの
曲馬団の
楽隊の音がきこえて来ませんでした。新吉の知らぬ間に、あの曲馬団はどっかへ行ってしまったのだろうか。考えていると、新吉は急にあかりがきえたようにさびしくなって来ました。
すると、店の前を、いく台もの馬車ががらがらと通りかかりました。馬車の上にはおりに入ったライオンや
熊がのせられています。
例の
象が、例の
袋をかぶって歩いています。それから大ぜいの少年少女たちが、馬車いっぱいに乗っかっています。
最後にいろんな
荷物をのせた馬車がいくつもつづいて行きます。
いよいよ
曲馬団は
停車場の方へ引きあげて行くのです。その停車場は、湖の岸づたいに一里あまり北の方へ行ったところにありました。
新吉は火の見の下に、ぼんやり立って見送っていましたが、もういても立ってもいられないほど、さびしくなって来ました。あの曲馬団が今の自分の幸福をみんな持って行ってしまうような気がするのです。
とうとう新吉は、曲馬団のあとを追って走り出しました。曲馬団といっしょにいたい、と思うきり、外のことは何一つ考えられなかったのです。顔も手も足も、まるでインド人の子のようにまっ黒けの
鍛冶屋の新吉が、幸福そうな目をかがやかせながら、あかりのつきはじめた町をひとり遠ざかって行くすがたは、まったくただごとではありませんでしたが、町ではこれをだれ一人知るものもありませんでした。
新吉は、曲馬団の荷物をつんだ馬車に追いつくと、うしろからこっそりと馬車のすみっこへ乗っかりました。
空には星が光りはじめました。その星空をぼんやりと
眺めながら新吉は、曲馬団の
仲間に
加わってからのことをいろいろと
想像しました。その想像はみんな、はなやかな、幸福なことばかりでした。
すっかり夜になってから、曲馬団の一行は停車場へつきました。
「なんと言って
頼んだら、
仲間に入れてもらえるだろうな。」
新吉はそれを考えていました。するとそこへひょっこりと、赤いメリンスの着物をきた少女があらわれました。馬乗りの少女ですが、着物をきているので、ふつうの町の少女のように見えました。少女は、新吉を見つけると、
「おや、こんなところに黒ん
坊の子がいるよ。」と言いました。新吉はどぎまぎして、馬車からずり下りました。
「お前さん、どっからついて来たの?」
「ぼ、ぼ、ぼくね。」と新吉はどもってから「
僕、
曲馬の仲間に入りたいんだよ。」
やっとそれを言いました。
「いやーだ。」
そう言ったかと思うと、少女はくるりと
背中を向けて走り去ってしまいました。と間もなく、少女はもっと年の多い女の人をつれて、またやって来ました。
「お前、
曲馬団へ入りたいんだって? いったいどこから来たの?」
「
昨日まで曲馬をやってたろう。あの町からついて来たんだ。」
「それで、あんたの家は。」
「僕、
鍛冶屋の
小僧だよ。」
「どうりで、まっくろけの顔をしていると思った。それで、だまって鍛冶屋を出て来たんだね。悪い子だね。親方に
怒られるから、さっさとおかえんなさいね。」
「でも僕、鍛冶屋へかえるのいやなんだよ。親方もおかみさんも
意地悪で、しょっちゅうひどい目にあわせるんだもの。」
「曲馬団の中だっておんなじことだよ。曲馬団の中はもっとつらいことばかりだよ。ね、だからそんなつまらない考えを起こさずに、おとなしくおかえんなさい。わかった?」
「…………」
新吉が返事に
困っていると、
「おーい、時間だよ。ぐずぐずしていると、汽車が出ちまうよ。」と大きな
叫び声が聞こえて来ました。女の人は少女の手を引いて、
改札口の方へ走って行ってしまいました。
やがて
曲馬団の一行を乗せた汽車は
出発してしまいました。一人あとに
残された新吉はがっかりしてその場につっ立っていました。まもなく曲馬の
荷物は
倉庫の方へ引かれて行きました。倉庫の前のレールには
貨車が三つほど引きこまれていました。荷物は、
象やライオンや
虎やその他の動物といっしょに、
積まれて行くのです。
それと知った新吉は、貨車の戸が開いているのを幸いに、暗い方からそっとしのんで行って、ちょろりと
鼠のように
素早く、貨車の中へ
飛びこんでしまいました。
そうしてとうとう新吉は、東京の北の
端の町まで来てしまったのです。
はじめ、貨車の中へ飛びこんだとき、新吉はすみの方に円くなっていました。するとそこへ象が乗りこんで来たのです。これには新吉もびっくりしてしまいました。うっかりしたら、象の足に
踏みつぶされてしまうからです。新吉は
夢中になって子鼠のようにちぢこまりました。
象は、長い鼻の先でフウフウと息をしながら、新吉の頭や
肩へさわってみました。新吉は生きた
心地がしません。けれど象はそれっきりおとなしくなりました。
「おや、ここに人間の子が
寝ているぞ、かわいそうに。」
象はそう思ったのかも知れません。そのうちに
新吉はそのままぐっすりと
寝こんでしまったのです。
「こら
小僧。」
大きな声がしたので、新吉はびっくりして目をさますと、目の前に、洋服を着た大きな男が、目をぎろぎろ光らせながら立っていました。これが
曲馬団の
団長でした。いつの間にか夜が明け、いつの間にか
貨車は東京の
北端れの町の
停車場へついていたのです。象はもう貨車から下ろされていました。
「おい小僧。」
団長はもう一度そう言って、
「てめえ曲馬団の
仲間へ入れてやろうか。」とやさしい顔をしました。
「おじさん、ほんとに入れてくれる?」
新吉は元気よく立ち上がって、そうききかえしました。
「ああ。おとなしくいうことをきいて、そして
一生けんめいに
働けば、入れてやってもいいよ。」
「
僕、一生けんめい働くよ。何でもするよ。」
「よしよし、いい子だ。」
団長はにこにこして、新吉の頭をなでました。
これで新吉は、自分の思う通り、曲馬団の仲間に入ることが出来たのです。
曲馬小屋は、町の通りへ、もう
立派に出来上がっていました。屋根にはイルミネーションがつき、前面には金銀の
垂れ
幕が下がり、
幾本もの
旗がにぎやかに立ち
並び、すべて新吉の町に
造ったものと少しも
変わりませんでした。
つい
昨日までは、この小屋の中をのぞいて見ることも出来なかったのに、今日の新吉はもう曲馬団の一人となってしまって、この立派な小屋が自分の家なのです。
新吉は、あんまりうれしくて、これは
夢ではないかとさえ思いました。
新吉はうれしさのあまり、おがくずの
敷いてある円い
演技場を、ぴょんぴょん
飛びまわっていると、出入り口の
垂れ
幕のかげから、一人の少女と、それより年の多い女の人が出て来ました。よく見ると、
昨日の夕方、
田舎の
停車場でいろいろと新吉に
忠告してくれた二人でした。二人はちょっとおどろいたように目を円くしていましたが、
「お前はとうとう
仲間入りをしてしまったのね。」と年の多い方の女が言いました。それからまた、
「もういやになっても、この仲間から出られやしないよ。」と言いました。
「ほんとねえ、かわいそうね。」と少女も
同情するように言いました。
曲馬団というものは、はなやかな幸福なものとばかり思っている新吉には、この二人の女たちは、昨日も今日もどうしてこんなことばかり言うのだろうと、ただ
不思議に思うばかりでした。
新吉はなんとも答えずに垂れ幕をすりぬけて、
象のいる方へ走って行きました。象は、大きな耳をばさばさ動かし、長い鼻を左右にうちふり、足をばたばたさせました。なんにも知らぬ新吉が見ても、象はたいへんよろこんでいることがわかりました。
昨夜一晩、同じ
貨車の中ですごしたので、象は新吉を友だちのように思っている
風なのです。
それから新吉と象は、すっかり
仲よしになりました。象の名はファットマンといいました。太った男という
意味です。
十時
頃になると
楽隊がはじまりました。そして十二時頃から曲馬ははじまりました。人はぞろぞろと通りましたが、中へは新吉の町でやったときほども入らず、やっと、
見物席の三分の一がふさがっただけでしたけれど、馬の曲乗り、自転車の曲乗り、竹
渡り、
綱渡り、空中
飛行、
象の
曲芸、
猛獣使いの
芸当、少女たちのダンスと、
演芸はそれからそれへ、かぎりもなく
演じられました。
新吉は
見物したくてたまらないのですが、そうは出来ません。十
幾頭という馬のかいばをつくらねばなりません。何十
種という動物の食べものをつくらねばなりません。それから、小屋の
裏手の小さなテントの中で、何十人という曲馬
団員の
御飯のしたくをしなければなりません。これらの受け持ちの人は外に幾人もいましたが、その人たちは
道具方の男で、みんな意地悪の
横着ものばかりでした。だから新吉は、それ、水をくんで来い、それ、お米をとげ、それ、じゃがいもの皮をむけ、それ、たくあんを買って来いと、次から次へ目のまわるほどこき使われるのでした。
けれど新吉は、
一生けんめい
働きます。どんなことでもします。
団長へ
約束したのですから、いやだなどということはもちろん、ちょっとでもなまけることは出来ません。ですから新吉は、いなかの
鍛冶屋にいた
時分よりは、もっとまっ黒けになって、朝っから夜まで、その夜も十一時から十二時
頃まで働きつづけました。朝の働きはそれほどつらくはなかったが、夜、
演技がおわって、見物人がかえって、それから後かたづけをするときのつらさといったらありませんでした。おなかはすき、からだはへとへと、そして頭がおっこちそうに
眠い。新吉はただもう、
無我夢中で働いていました。
十日ほどでそこを打ち上げた
曲馬団は、今度は東京の南の
端の町へうつり、そこでまた十日ほど打ちました。それから
横浜へ行きました。次に
小田原へ行きました。次に
静岡、次に
浜松、それからさらに
大阪、
神戸、
京都、
金沢、
長野とまわって、
最後に
甲府市へ来たときは、秋も
過ぎ、冬も
越し、春も通りぬけて、ふたたび夏が来ていました。
新吉の
曲馬団の生活も、もう一年になったのでした。そしてその間に、新吉はりっぱな
象使いの名人になっていました。次から次へうつって行くときの長い旅を、新吉はいつも象といっしょに
貨車に乗せられたのです。はじめから
仲よしだった新吉と象はこのような長い旅のあいだに、もう兄弟のようになってしまい、象のファットマンは、新吉のいうことなら何でもわかり、新吉の命ずることなら何でもするようになったのでした。
団長もこれにはびっくりもし、よろこびもしました。そこで新吉を、象使いの名人として
見物人の前へ出すことにしたのです。
これまでの象使いは
例の
一寸法師でしたが、一寸法師には、
片足を上げさせたり、ラッパを
吹かせたり、
碁盤の上へ乗せたりするぐらいしか出来ませんでした。けれど新吉がやると、ファットマンは、象のからだで出来ることは何でもやりました。中でも一番
面白い
芸当は、新吉と二人で
鍛冶屋をやることでした。大きな
木琴をつくり、その木琴を新吉が持ってぐるぐるまわり歩きます。ファットマンはその後からついて歩きながら、鼻の先に持った
棒で木琴をたたくのです。
新吉が、トッテンとたたくと、ファットマンはカンとたたきます。トッテンカン、トッテンカンと実に
調子よく木琴は鳴ります。
三角帽をかむり、
道化役の服を着た新吉は、そこで大きな声で歌います。
「たたけやたたけ、はげあたま、
トッテンカン。
火花がちるぞ、はげあたま、
トッテンカン。
あははの、あははの、はっはっは、
トッテンカン。」
いうまでもなくこの
芸は、
新吉がもと
鍛冶屋の
小僧だったので、それから思いついた芸で、歌の
文句の「たたけやたたけ、はげあたま」というのは、鍛冶屋の親方のはげ頭を思い出してつくったものでした。
新吉がこれを歌い出すと、ファットマンも耳をばさばさやり、しつぽをふり、足をあげて、からだ中で
笑います。
見物人もこれにはみんなお
腹をかかえて笑いました。
もし見物人の中に、あの鍛冶屋の
意地わるおやじがいたら、どんな顔をするだろう。そう思うと新吉はまた一人でおかしくなり、ますます元気づいて、それでますます芸が
面白くなりました。
それから新吉には「トッテンカン」というあだ名がつき、「
曲馬団のトッテンカン」というと、どこへ行ってもたいへんな人気ものとなりました。
朝から夜中まで、まっ黒けになって
働いていた新吉も、今は、
象使いの名人、曲馬団のトッテンカンとなって、この大きな曲馬団の人気を一人で
背負って立つほどの人気ものとなり、見物人の前で芸をする
以外には、何一つからだを動かさなくてもいいようになりました。そうして
甲府の町へ小屋を
張ったときには、「曲馬団のトッテンカン」という
評判だけで、見物人は毎日ぞくぞくとおしよせて来ました。
新吉は
得意の
絶頂にいました。
さてある日のこと、それは九月のはじめのことでした。新吉は、象のファットマンの外に、きえちゃんとわか姉さんという二人の
竿上りの
芸人と
仲よしになっていましたが、きえちゃんの方が、その前の日から目まいがして、その日の芸が出来そうもなくなりました。きえちゃんはその前日、
芸をしくじったので、その
罰として
御飯を一日に一度しか食べさせられなかったのです。そのために目まいがするのです。しかし
団長は、
「
横着ものめ、ぐずぐずしていると、たたきのめすぞ。」とどなりつけました。
新吉は見ていて、かわいそうでたまらなくなりました。新吉が一年前、いなかの町を
逃げ出して
停車場まで
曲馬団のあとを追っかけて来たとき、はじめて新吉に話しかけたのがこのきえちゃんでした。そのとき「曲馬団の中はもっとつらいところだよ。」とさとしてくれたのが、わか姉さんでした。それからこの二人は、何かにつけて新吉の
味方になり、新吉がまっ黒けになって、朝から夜おそくまで
働かせられているときは、
涙を流して
同情し、新吉の手にあまるつらい仕事は、かげながら
手伝ってくれたのでした。で、新吉は今はこの二人を、またとない
恩人とも思っているのです。
その一人の、新吉より
年下のきえちゃんが、今こんな目にあっているのですから、新吉は
黙って見ていられるはずはありません。
「ねえ、きえちゃん、
僕が代わって芸をしてあげよう。」
そう新吉はいい出しました。
「だってトッテンカンには、わたしの芸が出来やしないよ。」
「
大丈夫、むずかしいことはしないのさ。」
「でも、外の人に代わってもらうと、また罰をくわされるもの。」
「だからね、僕がきえちゃんの服を着て、わか
姉さんにお
化粧をしてもらって、きえちゃんそっくりの少女になるのだよ。団長だって見わけのつかないような少女になるのだよ。そんなら大丈夫だろう。」と新吉は
自信のあることばで言いました。
トッテンカンの
新吉は、いよいよ、病気のきえちゃんに代わって、竹のぼりの
芸当をすることになりました。
その芸当というのは、まず、わか姉さんが
象のファットマンの
背の上に立ちます。それから三メートルほどの太い
竹棒を、手を使わずに
肩の上に立てています。すると、きえちゃんは、その竹棒のてっぺんへよじ上って行って、そこで手ばなしでうつ
伏せになったり、あおのけになったり、しゃっちょこ立ちをしたり、
足首でつかまってぶら下がったりするのです。それを
専門にしているきえちゃんには、それほどむずかしい芸当ではありませんが、今日はじめてそれをやる新吉にはむずかしいどころか、その中の一つの
芸だって
満足に出来るはずはないのです。そして、もしやりそこなって、おっこちでもしたら、それこそたいへんです。何しろ、竹棒のてっぺんから
象の足下までは七メートルもあるのですから、たとえ死なないまでも、
大怪我をするにきまっています。
「よした方がいいよ、トッテンカン。」とわか姉さんは不安そうに言いました。
「だって
僕がよしたら、きえちゃんがしなきゃあならないじゃないか。あんなに、立てないほど弱っているきえちゃんがやったら、それこそおっこちて死んじゃうよ。」
「だから、だれもしないのさ。」
「そしたら、こんどはわか姉さんが
罰を食うじゃないか。」
「かまやしないよ。」
「いやだいやだ。僕がやれば、みんな助かるんだもの。僕はどうしてもやるよ。僕はね。あのファットマンの
背中でする芸なら、なんでも
失敗しないという
自信があるんだからね。そんなに心配しないでやらせてくれよ。」
わか姉さんも、こんなに言っている
新吉の決心を止めることは出来ませんでした。それにわか姉さんは、下に立って
竹棒を
支える
芸をしているのだから、もし
彼がおっこちるようなことがあったら、下からうまく
救ってやろうと、心の中で考えたのでした。
わか姉さんは
幕のかげに新吉をかくして、そこでお
化粧をしてやりました。
白粉をつけ、
頬紅、
口紅をつけ、まゆずみを引き、目のふちをくま取り、それからきえちゃんの
芸服を着せ、
絹の
三角帽をかぶせました。少し
離れたところから見ると、きえちゃんそっくりになりました。せかっこうも、新吉はきえちゃんによく
似ていたのです。
「それなら
大丈夫。でも、口をきいちゃ
駄目だよ。」とわか姉さんは注意しました。
「なぁに、
掛け
声ぐらい、きえちゃんそっくりの声を出して見せるよ。」
新吉はそう言って
笑いました。
それは夜の八時
頃でした。
場内は
見物人でいっぱいでした。
四方が
山に
囲まれた
甲府の町のことですから、九月になるともう
山颪しの秋風が立ち、大きなテントの屋根は、ばさりばさりと風にあおられていました。
楽隊がにぎやかに鳴り出しました。と、きえちゃんに
扮した新吉が、まず
垂れ
幕のかげから
現れました。それから、
胸に金銀の星の
輝く服を着たわか姉さんが現れました。つづいて大
象のファットマンが、のそりのそりとまかり出ました。
見物席からはあらしのような
拍手が起こりました。三人は一列に
並んで見物席へあいさつをしました。
やがてわか姉さんが、ファットマンの鼻の上に乗ってひらりとその
背へ
飛び上がりました。そして長い
竹棒を受け取りました。つづいて
新吉がファットマンの鼻へ乗ろうとすると、ファットマンはちょっと鼻を
巻きこんで、しばらく新吉の顔を見ていました。きえちゃんに
扮してはいるが、それが兄弟分の新吉であることを、ファットマンはちゃんと見分けてしまったのです。
ファットマンは
不審そうに鼻を巻き上げて、新吉を
背中へのっけてやりました。しかし
中央の
垂れ
幕の前に立っている
団長はもちろん、ファットマンの
周囲に立っている四、五人の道具方も、それが新吉であることは
夢にも知りませんでした。
新吉は、ファットマンの背中の上で、きえちゃんがいつもするようにもう一度
見物席へあいさつをし、それから、わか姉さんの
肩の上に立っている
竹竿をするするとのぼって行きました。
新吉は、竹竿を上りきったところでまずあぐらをかいて、まわりを見下ろしました。それから、ハッと
掛け声をかけて、しゃっちょこ立ちをしました。次に竹竿のてっぺんへうつ
伏せになり、両手両足をはなして、
亀の
子のようにふらふらとまわりました。すべて、きえちゃんがやるのと変わりありません。わか姉さんは、肩先で竹竿の
平均を取りながら、このような
芸当の出来る新吉を、
不思議に思って見上げていました。
さて新吉は、こんどは前と反対に、背中を下にして、つまり竹竿の上にあおのけになって
亀の子のように手足を動かす
芸に移ったのです。これは見ていてもはらはらする芸で、芸をする当人にも一番むずかしい芸でした。
新吉はまず足を放しました。それから手を放そうとした
瞬間です。頭の方がぐらりとゆれたかと思うと、そのまま、サァッ――と落ちて来ました。
「あっ。」とわか姉さんは
叫びました。そして
竹竿をほうり出すと、両手をひろげて
新吉のからだを受け止めようとしました。が、
勢いついた新吉の身は、わか姉さんの手をすり
抜け、ファットマンの頭にぶつかると、もんどり打って下の
板敷へ、まっさかさまにたたきつけられた、と思ったその
刹那です。ファットマンは、その長い強い鼻をぐいと
差し
延べて、新吉のからだをふわりと
宙で受け止めてしまったのです。
見物人はいつか
総立ちになっていました。そして新吉のからだが、ファットマンの鼻の先でみごとに
救い上げられたとき、見物人はどっと声をあげてよろこびました。見物人は、新吉が
芸をしくじったことなどはすっかり
忘れて、
危機一髪というとき、ファットマンの長い鼻がうまく食い止めたということを、
涙を流さぬばかりによろこんだのです。
けれど見物人は、次のような
光景を見て、びっくりしてしまいました。それは、新吉が、ファットマンの鼻の上から
無事に下へ下りたとき、
例の
団長がいきなり
飛んで来て、新吉の
横面をぴしゃりとなぐったことでした。
「ふぬけめ。」と団長はどなりつけました。そして新吉の手が
抜けるほどぐいと引き立て、引きずるようにして
中央の
垂れ
幕のかげへ
連れて行ってしまいました。
「
僕たちはよろこんでいるのに、あいつは
怒っていやがる。
馬鹿な
奴だなぁ。」と見物人は話し合いました。
団長は、新吉を
楽屋へつれて行くと、またひどくなぐりました。
「またもだらしねえことをしやがって、このトンチキめ!」
そのとき、そばから、
「
団長さん、団長さん、かんにんしてやって下さい。」という
泣きそうな声がしました。見ると、それはふだんの着物をきたきえちゃんです。団長はそのきえちゃんを
怒りつけているのだとばかり思っていたのに、そばから
別なきえちゃんが顔を出したので、あっけにとられてきょとんとしてしまいました。
が、まもなく、
新吉がきえちゃんの
身代わりになって
芸をやったのだと知ると、どこまでも
意地悪でつむじ曲がりの団長は、こんどはそのことを怒り出しました。
「
貴様はなぜほかの人に芸をやらせたのだ。」ときえちゃんをせめました。
「てめえはまたなぜ芸も出来ないくせに、人の身代わりなどになったのだ。」と、また
改めて新吉をどなりつけました。
そこへ、わか姉さんが出て来ました。
「みんなわたしがやらせたことです。どうぞ二人をせめる代わりに、わたしをせめて下さい。」
わか姉さんはそう言いました。
「
馬鹿っ。」団長はわれるような声を出して、
「てめえら、みんなぐるになって
勝手なことをしてやがるんだな。よし、どうするか見てやがれ。」
そう言って、
鷹のようなすごいずるい目を光らせながら、その場を去って行きました。
その夜から、新吉もきえちゃんもわか姉さんもみんな
罰を受けました。お小使いは
一銭ももらえなくなるし、三度の食事は二度になりました。それも、犬が食べるような
粗末な食事でした。
その前からすっかり弱っていたきえちゃんは、とうとうひどい
熱を出し、もう頭も上がらなくなりました。それから
急性の
肺炎になり、うわごとを言い通していましたが、四日目の夜中に、ついに死んでしまいました。
新吉とわか姉さんは、きえちゃんに取りついて
泣きました。新吉は泣きながら
団長に食ってかかりました。
「この
鬼め、この
罰あたりめ、首でもくくって死んでしまえ!」
青くなって
叫んでいる新吉を、団長はただにやにや
笑って見ているばかりでした。
次の日、わか姉さんは新吉をものかげへ
呼んで、こう言いました。
「新吉さん――トッテンカンなんて
呼ぶのは
止しましょうね。もとの新吉さんになって、そして、この
曲馬団から
逃げ出してしまいなさいよ。そしてお国の町の
鍛冶屋さんへおかえんなさい。」
「
僕もそう考えたのだけど、あの鍛冶屋のおやじのところへ帰るのはいやなんだ。」
「じゃ、どこかほかにない? 新吉さんを引き取ってくれるところが。」
「東京に
叔父さんがいるの。僕の姉さんもそこにいるから、僕そこへ行こうかしら。」
「それがいい。お金も少しばかりわたしが上げるからね。ここにいつまでもぐずぐずしていたら、新吉さんも、あのきえちゃんのような目にあわされるにきまっているから。」
「この曲馬団に入る前に、わか姉さんにいわれたことが、僕今になってやっとわかったよ。それで、わか姉さんはどうするの?」
「わたしはわたしで、ほかに考えていることがあるから、わたしのことは心配しないでいいのよ。」
二人はそう話し合って、その夜は小屋の
隅へ、テントをゆすぶる
秋風をききながら
寝ました。
そのあくる朝早く、まだ
東がやっと
白みかけたころ、
新吉は、しもふりの夏服に
靴をはき、むぎわら
帽をかむり、ふろしき
包み一つを持って、一年間あまり住みなれたテント
小屋をぬけ出しました。
新吉はそこを
抜け出すとき、兄弟分のファットマンのそばへそっとしのんで行って、この一年のあいだ、新吉のためになんでもしてくれ、
最後に新吉の命まで
救ってくれたその長い鼻をなでながら、
「ファットマンよ、ありがとうよ。さよなら、さよなら。」と言いました。
新吉は
停車場へ来ると、一
番列車に乗りました。そして、おひる前に新宿の停車場へ着きました。それから電車に乗り、
叔父さんの家のある小石川へむかって行きました。
しかし新吉は、そこですっかり
途方にくれてしまいました。叔父さんの家はどっかへ引っこしてしまって、その引っこし先もまるでわからなかったからです。
新吉は、ふろしき包みを
抱いて、
夢中でそこらをほっつき歩きました。歩いているうちに、広い
池のはたへ出ました。そこは
不忍池で、新吉はいつの間にか、そんなとこまで
迷いこんで来たのです。
池の向こうに、
森の
繁った高台が見えました。そこは
上野公園でしたが、新吉はそんなことは知りません。ただ何となく、いなかの町はずれの高台の森に
似ているので、わけもなく引きつけられました。新吉は公園の上へ上って行きました。
そのうちに日が
暮れてしまいました。新吉は
泣きたくなりました。新吉は、公園の高台から、美しい
灯の
街を見下ろしながら、いつまでもいつまでもそこに立っていました。
その夜新吉は、公園の
奥のこかげの石の上に
寝てしまいました。
眠ったりさめたりしている新吉の頭の中には、いなかの町のことや、
鍛冶屋のおやじのことや、
曲馬団の中でのさまざまのことが、とぎれとぎれに
浮かんでは消え、消えては浮かびました。
その朝明けのことです。
新吉はまずライオンのほえ声をききつけました。それからいろんな動物のなき声をききつけました。曲馬団の動物園でききつけている声なので、それは自分の耳のせいではないかと思いながら、新吉はその声のする方へ歩いて行きました。すると高い石の
塀がぐるりとめぐっているところへ出ました。ああ、これが
上野の動物園というのだな、と新吉はやっと思いつきました。
新吉は、曲馬団のファットマンのことを思い出し、門の
鉄格子の
扉につかまって、中のようすをいっしんにのぞいていました。
すると、そこへ、白いズボンをはいた
人品のいいおじいさんが出て来て、にこにこしながら、
「お前さんは、こんなに早く動物園を見に来たのかね?」と新吉に話しかけました。
新吉は、そうじゃないと答えてから、
「おじさん、
僕を動物園の
象つかいにしてくださいな。」と、しんけんな顔で言いました。
「いったいお前さんは、どうした子なんだね!」とおじいさんはそれをたずねました。そこで新吉は、曲馬団へ入ってそこを
逃げ出すまでのいきさつと、東京へ
叔父さんをたずねて来て、こうして
迷っていることを一通り話しました。
「じゃ、お前は宿なしなんだね。そりゃ
困ったね。ここじゃおいそれと象つかいに
頼むわけにはいかないが、お前の叔父さんのいどころがわかるまで、わしがお前を引き取って上げよう。曲馬団で
慣れているならちょうどいい、いろんな動物へ、えさをやることでも手伝っているがいい。さぁ、こっちへお入り。」
親切なおじいさんはそう言って、新吉を門のうちへ引き入れました。
それからの
新吉はどうなったかはわかりませんが、世の中には
鍛冶屋のおやじや
曲馬団の
団長のようなわからずやの
意地わるの人間がいるかわりに、この動物園のおじいさんのようなわけのわかった
親切な人もたくさんいます。すなおでまじめで
同情心の深い新吉は、やがてこういう人たちに見
込まれて、
幸福な生活をするようになったにちがいありません。