瘠我慢の説

瘠我慢の説に対する評論について

石河幹明




 一月一日の時事新報に瘠我慢やせがまんせつおおやけにするや、同十三日の国民新聞にこれに対する評論ひょうろんかかげたり。先生その大意たいいを人より聞きいいいわく、かねてより幕末外交の顛末てんまつ記載きさいせんとして志をはたさず、今評論の誤謬ごびゅうを正すめその一端をかたしとて、当時の事情をくことすこぶつまびらかなり。余すなわちその事実にり一文を草し、碩果生せきかせいの名を以てこれを同二十五日の時事新報に掲載けいさいせり。実に先生発病はつびょうの当日なり。本文と関係かんけいあるを以てここ附記ふきす。
石河幹明しるす

     瘠我慢の説に対する評論について

碩果生せきかせい
 去る十三日の国民新聞こくみんしんぶんに「瘠我慢の説を読む」とだいする一篇の評論ひょうろんかかげたり。これを一読するにおしむべし論者は幕末ばくまつ外交の真相しんそうつまびらかにせざるがために、折角せつかくの評論も全く事実にてきせずしていたずらに一篇の空文字くうもんじしたるに過ぎず。
勝伯かつはくが徳川方の大将となり官軍をむかえ戦いたりとせよ、その結果けっかはいかなるべきぞ。人をころざいさんずるがごときは眼前のわざわいぎず。もしそれしんの禍は外国の干渉かんしょうにあり。これ勝伯の当時においてもっとも憂慮ゆうりょしたる点にして、吾人はこれを当時の記録きろくちょうしてじつにその憂慮のしかるべき道理どうりを見るなり云々うんぬん当時とうじ幕府の進歩派小栗上野介おぐりこうずけのすけはいのごときは仏蘭西フランスに結びその力をりて以て幕府統一のまつりごとをなさんとほっし、薩長さっちょうは英国にりてこれにこうたがい掎角きかくいきおいをなせり。しこうして露国またそのきょじょうぜんとす。その危機きき実に一髪いっぱつわざるべからず。し幕府にして戦端せんたんを開かば、その底止ていしするところいずれへんに在るべき。これ勝伯が一しんを以て万死ばんしの途に馳駆ちくし、その危局ききょく拾収しゅうしゅうし、維新の大業を完成かんせいせしむるに余力をあまさざりし所以ゆえんにあらずや云々うんぬん」とは評論全篇の骨子こっしにして、論者がかかる推定すいていより当時もっとも恐るべきのわざわいは外国の干渉かんしょうに在りとなし、東西開戦かいせんせば日本国の存亡そんぼうはかるべからざるごとくに認め、以て勝氏の行為こうい弁護べんごしたるは、畢竟ひっきょうするに全く事実を知らざるにするものなり。
 今当時とうじにおける外交の事情じじょうを述べんとするに当り、小栗上野介おぐりこうずけのすけの人とりよりかんに、小栗は家康公いえやすこう以来有名ゆうめいなる家柄いえがらに生れ旗下きか中の鏘々そうそうたる武士にして幕末の事、すでにすべからざるを知るといえども、つかうるところのそんせんかぎりは一日も政府の任をくさざるべからずとて極力きょくりょく計画けいかくしたるところ少なからず、そのもっとも力を致したるは勘定奉行かんじょうぶぎょう在職中ざいしょくちゅうにして一身を以て各方面にあたり、横須賀造船所よこすかぞうせんじょ設立せつりつのごとき、この人の発意はついでたるものなり。
 小栗はかくのごとくみずから内外のきょくあたりて時の幕吏中ばくりちゅうにては割合に外国の事情じじょうにも通じたる人なれども、平生へいぜいことに西洋の技術ぎじゅつはすべて日本にまさるといえども医術いじゅつだけは漢方かんぽうに及ばず、ただ洋法ようほうに取るべきものは熱病ねつびょう治療法ちりょうほうのみなりとて、浅田宗伯あさだそうはくを信ずることふかかりしという。すなわちその思想しそうは純然たる古流こりゅうにして、三河武士みかわぶし一片の精神せいしん、ただ徳川累世るいせい恩義おんぎむくゆるの外他志たしあることなし。
 小栗の人物じんぶつは右のごとしとして、さて当時の外国人は日本国をいかに見たるやというに、そもそもの米国の使節しせつペルリが渡来とらいして開国かいこくうながしたる最初さいしょの目的は、単に薪水しんすい食料しょくりょうを求むるの便宜べんぎを得んとするに過ぎざりしは、その要求ようきゅう個条かじょうを見るも明白めいはくにして、その後タオンセント・ハリスが全権ぜんけんを帯びて来るに及び、始めて通商条約つうしょうじょうやくを結び、ついで英露仏等の諸国も来りて新条約の仲間入なかまいりしたれども、その目的は他に非ず、日本との交際こうさいあたかも当時の流行りゅうこうにして、ただその流行にれて条約を結びたるのみ。
 通商貿易つうしょうぼうえき利益りえきなど最初より期するところに非ざりしに、おいおい日本の様子ようすを見れば案外あんがいひらけたる国にして生糸きいとその他の物産ぶっさんとぼしからず、したがって案外にも外国品を需用じゅようするの力あるにぞ、外国人も貿易の一点に注意ちゅういすることとりたれども、彼等のるところはただこれ一個の貿易国ぼうえきこくとして単にその利益りえきを利せんとしたるにぎず。もとより今日のごとき国交際こくこうさい関係かんけいあるに非ざれば、大抵たいていのことは出先でさきの公使に一任し、本国政府においてはただ報告ほうこくを聞くにとどまりたるそのおもむきは、の国々が従来未開国みかいこくに対するの筆法ひっぽうちょうして想像そうぞうするにるべし。
 されば各国公使等の挙動きょどううかがえば、国際の礼儀れいぎ法式ほうしきのごときもとより眼中がんちゅうかず、ややもすれば脅嚇手段きょうかくしゅだんを用い些細ささいのことにも声をだいにして兵力をうったえて目的もくてきを達すべしと公言するなど、その乱暴狼籍らんぼうろうぜき驚くべきものあり。外国の事情じじょうに通ぜざる日本人はこれを見て、本国政府の意向いこう云々うんぬんならんとみだり推測すいそくして恐怖きょうふいだきたるものありしかども、その挙動きょどうは公使一個のかんがえにして政府の意志いし代表だいひょうしたるものと見るべからず。すなわち彼等の目的もくてき時機じきに投じて恩威おんいならほどこし、くまでも自国の利益りえきらんとしたるその中には、公使始めこれに附随ふずいする一類いちるいはいにも種々の人物じんぶつありて、この機会きかいに乗じてみずから自家じかふところやさんとはかりたるものも少なからず。
 その事実をしるさんに、外国公使中にて最初さいしょ日本人にしたしかりしは米公使タオンセント・ハリスにして、ハリスは真実好意こういを以て我国わがくにに対したりしも、後任こうにんのブライン氏は前任者に引換ひきかはなは不親切ふしんせつの人なりとて評判ひょうばんよろしからず。小栗上野介おぐりこうずけのすけ全盛ぜんせいの当時、常に政府にちかづきたるは仏国公使レオン・ロセツにして、小栗及び栗本鋤雲くりもとじょうん等ともしたしく交際こうさいし政府のために種々のさくを建てたる中にも、ロセツが横須賀造船所よこすかぞうせんじょ設立の計画けいかく関係かんけいしたるがごとき、その謀計ぼうけいすこぶなる者あり。
 当時外国公使はいずれも横浜に駐剳ちゅうさつせしに、ロセツは各国人環視かんしの中にては事をはかるに不便ふべんなるを認めたることならん、やまいと称し飄然ひょうぜん熱海あたみに去りて容易よういに帰らず、使を以て小栗に申出ずるよう江戸に浅田宗伯あさだそうはくという名医めいいありと聞く、ぜひその診察をいたしとの請求に、此方このほうにては仏公使が浅田の診察しんさつうは日本の名誉めいよなりとの考にて、早速さっそくこれをゆるし宗伯を熱海につかわすこととなり、爾来じらい浅田はしばしば熱海に往復おうふくして公使を診察しんさつせり。浅田が大医たいいの名をはくしておおいに流行したるはこの評判ひょうばん高かりしがためなりという。
 さてロセツが何故なにゆえに浅田を指名して診察しんさつもとめたるやというに、診察とは口実こうじつのみ、公使はかねて浅田が小栗に信用あるを探知たんちし、治療ちりょうに託してこれにしたしみ、浅田をかいして小栗との間に、交通こうつうを開き事をはかりたる者にて、流石さすがは外交家の手腕しゅわんを見るべし。かくて事のようやく進むや外国奉行がいこくぶぎょう等は近海巡視きんかいじゅんしなど称し幕府の小軍艦にじょうじて頻々ひんぴん公使のもと往復おうふくし、他の外国人のしらぬ間に約束やくそく成立せいりつして発表はっぴょうしたるは、すなわち横須賀造船所よこすかぞうせんじょの設立にして、日本政府は二百四十万ドル支出ししゅつし、四年間継続けいぞくの工事としてこれを経営けいえいし、技師職工は仏人をやとい、したがっ器械きかい材料ざいりょうの買入までも仏人にまかせたり。
 小栗等の目的もくてき一意いちい軍備のもといかたうするがために幕末財政ざいせい窮迫きゅうはく最中さいちゅうにもかかわらずふるってこの計画けいかくくわだてたるに外ならずといえども、日本人がかかる事には全く不案内ふあんないなる時に際し、これを引受ひきうけたる仏人の利益りえきおもい見るべし。ロセツはこれがために非常ひじょうに利したりという。
 かくて一方には造船所の計画けいかくると同時に、一方においてさらにロセツより申出もうしいでたるその言にいわく、日本国中には将軍殿下しょうぐんでんか御領地ごりょうちも少からざることならん、その土地の内にさんする生糸きいとは一切いださずして政府の手より仏国人に売渡うりわたさるるよういたし、御承知ごしょうちにてもあらんが仏国は世界第一の織物国おりものこくにして生糸の需用じゅようはなはさかんなれば、他国の相場そうばより幾割の高価こうかにて引受け申すべしとの事なり。一見他に意味いみなきがごとくなれども、ロセツの真意しんいは政府が造船所ぞうせんじょ経営けいえいくわだてしその費用の出処しゅっしょに苦しみつつある内情を洞見どうけんし、かくして日本政府に一種の財源ざいげんあたうるときは、生糸専売きいとせんばいの利益をむるの目的もくてきを達し得べしとかんがえたることならん。
 すなわち実際には造船所の計画けいかく聯関れんかんしたるものなれども、これを別問題べつもんだいとしてさりなく申出もうしいだしたるは、たといこの事が行われざるも造船所計画けいかく進行しんこう故障こしょうを及ぼさしむべからずとの用意よういに外ならず。掛引かけひきみょうを得たるものなれども、政府にてはかかるたくらみと知るや知らずや、財政窮迫きゅうはく折柄おりから、この申出もうしいでに逢うてあたかわたりにふねおもいをなし、ただちにこれを承諾しょうだくしたるに、かかる事柄ことがらもとより行わるべきに非ず。その事のわたるや各国公使は異口同音いくどうおんに異議を申込みたるその中にも、和蘭公使オランダこうしのごときもっとも強硬きょうこうにして、現に瓜哇ジャワには蘭王らんおう料地りょうちありて物産ぶっさんを出せども、これを政府の手にて売捌うりさばくことなし、外国と通商条約つうしょうじょうやくを取結びながら、産物さんぶつを或る一国に専売せんばいするがごとき万国公法ばんこくこうほう違反いはんしたる挙動きょどうならずやとの口調くちょうを以てきびしくだんまれたるがゆえに、政府においては一言いちごんもなく、ロセツの申出はついにおこなわれざりしかども、彼が日本人に信ぜられたるその信用しんようを利用して利をはかるに抜目ぬけめなかりしはおよそこのたぐいなり。
 単に公使のみならず仏国の訳官やくかんにメルメデ・カションという者あり。本来宣教師せんきょうしにして久しく函館はこだてり、ほぼ日本語にもつうじたるを以て仏公使館の訳官となりたるが、これまた政府にちかづきて利したることすくなからず。その一例を申せば、幕府にてしもせき償金しょうきんの一部分を払うに際し、かねてたくわうるところの文銭ぶんせん(一文銅銭)二十何万円を売りきんえんとするに、文銭は銅質どうしつ善良ぜんりょうなるを以てその実価じっかの高きにかかわらず、政府より売出すにはやはり法定ほうていの価格にるの外なくしてみすみす大損を招かざるを得ざるより、その処置しょちにつき勘考中かんこうちゅう、カションこれを聞き込み、そのぜにを一手に引受ひきうけ海外の市場に輸出しおおいもうけんとして香港ホンコンに送りしに、陸揚りくあげの際にぜにみたる端船たんせん覆没ふくぼつしてかえって大にそんしたることあり。その後カションはいかなる病気びょうきかかりけん、盲目もうもくとなりたりしを見てこれ等の内情を知れる人々は、因果いんが覿面てきめん気味きみなりとひそかかたり合いしという。
 またその反対はんたいの例をしるせば、生麦事件なまむぎじけんにつき英人の挙動きょどう如何いかんというに、損害要求そんがいようきゅうのためとて軍艦を品川に乗入のりいれ、時間をかぎりて幕府に決答けっとううながしたるその時の意気込いきごみは非常ひじょうのものにして、彼等の言を聞けば、政府にて決答を躊躇ちゅうちょするときは軍艦より高輪たかなわ薩州邸さっしゅうてい砲撃ほうげきし、らに浜御殿はまごてん占領せんりょうして此処ここより大城に向て砲火ほうかを開き、江戸市街を焼打やきうちにすべし云々うんぬんとて、その戦略せんりゃくさえ公言こうげんしてはばからざるは、以て虚喝きょかつに外ならざるを知るべし。
 されば米国人などは、一個人の殺害さつがいせられたるために三十五万ドルの金額を要求するごとき不法ふほう沙汰さたいまだかつて聞かざるところなり、砲撃ほうげき云々うんぬんは全く虚喝きょかつぎざれば断じてその要求を拒絶きょぜつすべし、たといこれを拒絶きょぜつするも真実しんじつ国と国との開戦かいせんいたらざるは請合うけあいなりとてしきりに拒絶論きょぜつろんとなえたれども、幕府の当局者は彼の権幕けんまく恐怖きょうふしてただち償金しょうきんはらわたしたり。
 この時、らに奇怪きかいなりしは仏国公使の挙動きょどうにして本来ほんらいその事件には全く関係かんけいなきにかかわらず、公然書面を政府に差出さしいだし、政府もし英国の要求を聞入ききいれざるにおいては仏国は英と同盟してただち開戦かいせんおよぶべしとせまりたるがごとき、いずれも公使一個のかんがえにして決して本国政府の命令めいれいに出でたるものと見るべからず。
 の下ノ関砲撃事件ほうげきじけんのごときも、各公使が臨機りんきはからいにして、深き考ありしに非ず。げんに後日、彼の砲撃にあずかりたるる米国士官の実話じつわに、彼の時は他国の軍艦がかんとするゆえいて同行したるまでにて、あたか銃猟じゅうりょうにてもさそわれたるつもりなりしと語りたることあり。以てその事情を知るべし。
 右のごとき始末しまつにして、外国政府が日本の内乱にじょう兵力へいりょくを用いておおい干渉かんしょうを試みんとするの意志いしいだきたるなど到底とうていおもいも寄らざるところなれども、当時とうじ外国人にもおのずから種々の説をとなえたるものなきにあらずというその次第しだいは、たとえば幕府にて始めに使節しせつを米国につかわしたるとき、彼の軍艦咸臨丸かんりんまる便乗ぴんじょうしたるが、米国のカピテン・ブルックは帰国の後、たまたま南北戦争の起るにうて南軍に属し、一種の弾丸だんがん発明はつめいしこれを使用してしばしば戦功をあらわせしが、戦後その身のかんなるがために所謂いわゆる脾肉ひにくたんえず、折柄おりから渡来とらいしたる日本人に対し、もしも日本政府にて雇入やといい若年寄わかどしより屋敷やしきのごとき邸宅ていたくに居るを得せしめなばべつかねは望まず、日本にゆきて政府のために尽力じんりょくしたしと真面目まじめに語りたることあり。
 また維新の際にもる米人のごとき、もしも政府において五十万ドル支出ししゅつせんには三せきの船をつくりこれに水雷を装置そうちしててきに当るべし、西国大名のごときこれを粉韲ふんさい[#ルビの「ふんさい」は底本では「ふんせい」]する容易よういのみとてしきりに勧説かんせつしたるものあり。けだし当時南北戦争ようやみ、その戦争せんそうに従事したる壮年そうねん血気けっきはい無聊ぶりょうに苦しみたる折柄おりからなれば、米人にはおのずからこのしゅはいおおかりしといえども、あるいはその他の外国人にも同様どうようの者ありしならん。この輩のごときは、かかる多事紛雑たじふんざつの際に何か仕事しごとしてあたかも一杯の酒をればみずからこれを愉快ゆかいとするものにして、ただ当人銘々めいめい好事心こうずしんより出でたるに過ぎず。五十万ママを以て三隻の水雷船すいらいせんを造り、以て敵をみなごろしにすべしなど真に一じょう戯言ぎげんたれども、いずれの時代にもかくのごとき奇談きだんは珍らしからず。
 現に日清戦争にっしんせんそうの時にも、種々のはかりごとけんじて支那政府の採用さいようを求めたる外国人ありしは、その頃の新聞紙しんぶんしに見えて世人の記憶きおくするところならん。当時或る洋学者の家などにはこの種の外国人がしきりに来訪らいほうして、前記のごとき計画けいかくを説き政府に取次とりつぎを求めたるもの一にしてらざりしかども、ただこれを聞流ききながして取合とりあわざりしという。もしもかかる事実じじつを以て外国人に云々しかじかくわだてありなど認むるものもあらんには大なる間違まちがいにして、干渉かんしょうの危険のごとき、いやしくも時の事情をるものの何人なんぴとも認めざりしところなり。
 されば王政維新おうせいいしんの後、新政府にては各国公使を大阪に召集しょうしゅうし政府革命かくめいの事を告げて各国の承認しょうにんを求めたるに、もとより異議いぎあるべきにあらず、いずれも同意をひょうしたる中に、仏国公使の答は徳川政府に対しては陸軍の編制へんせいその他の事に関し少なからざる債権さいけんあり、新政府にてこれを引受けらるることなれば、毛頭もうとう差支さしつかえなしとてその挨拶あいさつはなは淡泊たんぱくなりしという。仏国がことに幕府を庇護ひごするの意なかりし一しょうとして見るべし。
 ついでながら仏公使の云々うんぬんしたる陸軍の事をしるさんに、徳川の海軍は蘭人らんじんより伝習でんしゅうしたれども、陸軍は仏人に依頼いらいし一切仏式ふっしきを用いていわゆる三兵さんぺいなるものを組織そしきしたり。これも小栗上野介おぐりこうずけのすけ等の尽力じんりょくに出でたるものにて、例の財政ざいせい困難こんなんの場合とて費用の支出ししゅつについては当局者の苦心くしん尋常じんじょうならざりしにもかかわらず、陸軍の隊長たいちょう等は仏国教師の言をき、これも必要なりれも入用なりとて兵器は勿論もちろん被服ひふく帽子ぼうしの類に至るまで仏国品を取寄とりよするの約束やくそくを結びながら、その都度つど小栗にははからずしてただち老中ろうじゅう調印ちょういんを求めたるに、老中等は事の要不要ようふようを問わず、わるるまま一々調印ちょういんしたるにぞ、小栗もほとんど当惑とうわくせりという。仏公使が幕府に対するの債権さいけんとはこれ等の代価だいかしたる者なり。
 かかる次第しだいにして小栗等が仏人をいて種々計画けいかくしたるは事実じじつなれども、その計画は造船所の設立、陸軍編制等の事にして、もっぱ軍備ぐんびを整うるの目的もくてきに外ならず。すなわち明治政府において外国のかねを借り、またその人をやとうて鉄道海軍の事を計画けいかくしたるとごうことなるところなし。小栗は幕末に生れたりといえども、その精神せいしん気魄きはく純然たる当年の三河武士みかわぶしなり。徳川のそんする限りは一日にてもそのつかうるところに忠ならんことをつとめ、鞠躬きっきゅう尽瘁じんすいついに身を以てこれにじゅんじたるものなり。外国の力をりて政府を保存ほぞんせんとはかりたりとのひょうごときは、けっして甘受かんじゅせざるところならん。
 今りに一歩をゆずり、幕末にさいして外国がいこく干渉かんしょううれいありしとせんか、その機会きかい官軍かんぐん東下とうか、徳川顛覆てんぷくの場合にあらずして、むしろ長州征伐ちょうしゅうせいばつの時にありしならん。長州征伐は幕府創立そうりつ以来の大騒動だいそうどうにして、前後数年のひさしきにわたり目的もくてきを達するを得ず、徳川三百年の積威せきいはこれがために失墜しっついし、大名中にもこれより幕命ばくめいを聞かざるものあるに至りし始末しまつなれば、はたして外国人に干渉かんしょうの意あらんにはこの機会きかいこそいっすべからざるはずなるに、しかるに当時外人の挙動きょどうを見れば、別にことなりたる様子ようすもなく、長州騒動そうどう沙汰さたのごとき、一般にこれを馬耳東風ばじとうふうに付し去るの有様ありさまなりき。
 すなわち彼等は長州がつも徳川がくるもごうも心にかんせず、心に関するところはただ利益りえきの一点にして、あるいは商人のごときは兵乱へいらんのために兵器へいき売付うりつくるの道を得てひそかによろこびたるものありしならんといえども、そのすきじょうじて政治的干渉かんしょうこころみるなどくわだてたるものはあるべからず。右のごとく長州の騒動そうどうに対して痛痒つうようあいかんせざりしに反し、官軍の東下に引続ひきつづき奥羽の戦争せんそうに付き横浜外人中に一方ならぬ恐惶きょうこうを起したるその次第しだいは、中国辺にいかなる騒乱そうらんあるも、ただ農作のうさくさまたぐるのみにして、米の収穫しゅうかく如何いかんは貿易上に関係なしといえども、東北地方は我国の養蚕地ようさんちにして、もしもその地方が戦争のためにらされて生糸の輸出ゆしゅつ断絶だんぜつする時は、横浜の貿易に非常の影響えいきょうこうむらざるを得ず、すなわち外人の恐惶きょうこうもよおしたる所以ゆえんにして、彼等の利害上、内乱ないらん干渉かんしょうしてますますその騒動を大ならしむるがごときおもいもらず、ただ一日も平和回復へいわかいふくはやからんことを望みたるならんのみ。
 またらに一歩をすすめてかんがうれば、日本の内乱に際し外国干渉かんしょううれいありとせんには、王政維新おうせいいしんの後に至りてもまた機会きかいなきにあらず。その機会はすなわち明治十年の西南戦争せいなんせんそうなり。当時薩兵さっぺいいきおい猛烈もうれつなりしは幕末ばくまつにおける長州のにあらず。政府はほとんど全国の兵をげ、くわうるに文明精巧せいこう兵器へいきを以てして容易よういにこれを鎮圧ちんあつするを得ず、攻城こうじょう野戦やせんおよそ八箇月、わずかに平定へいていこうそうしたれども、戦争中国内の有様ありさまさっすれば所在しょざい不平士族ふへいしぞくは日夜、けんして官軍のいきおい、利ならずと見るときは蹶起けっきただちに政府にこうせんとし、すでにその用意ようい着手ちゃくしゅしたるものもあり。
 また百姓ひゃくしょうはい地租改正ちそかいせいのために竹槍ちくそう席旗せきき暴動ぼうどうかもしたるその余炎よえんいまおさまらず、いわんや現に政府の顕官けんかん中にもひそかに不平士族と気脈きみゃくを通じて、蕭牆しょうしょうへんらんくわだてたる者さえなきに非ず。形勢けいせいきゅうなるは、幕末の時にしてらに急なるその内乱ないらん危急ききゅうの場合に際し、外国人の挙動きょどうは如何というに、はなは平気へいきにして干渉かんしょうなどの様子ようすなきのみならず、日本人においても敵味方てきみかたともに実際干渉かんしょう掛念けねんしたるものはあるべからず。
 或は西南の騒動そうどうは、一個の臣民しんみんたる西郷が正統せいとうの政府に対して叛乱はんらんくわだてたるものに過ぎざれども、戊辰ぼしんへんは京都の政府と江戸の政府と対立たいりつしてあたかも両政府のあらそいなれば、外国人はおのおのそのみとむるところの政府に左袒さたんして干渉かんしょうたんを開くのおそれありしといわんか。外人の眼を以てるときは、戊辰ぼしんにおける薩長人さっちょうじん挙動きょどうと十年における西郷の挙動と何のえらむところあらんや。ひとしく時の政府に反抗はんこうしたるものにして、しも西郷がこころざしを得て実際じっさいに新政府を組織そしきしたらんには、これを認むることなお維新政府いしんせいふを認めたると同様なりしならんのみ。内乱の性質せいしつ如何いかんは以て干渉の有無うむ判断はんだんするの標準ひょうじゅんとするにらざるなり。
 そもそも幕末の時に当りて上方かみがたの辺に出没しゅつぼつしたるいわゆる勤王有志家きんのうゆうしかの挙動を見れば、家をくものあり人をころすものあり、或は足利あしかが三代の木像もくぞうの首をりこれをきょうするなど、乱暴狼籍らんぼうろうぜき名状めいじょうすべからず。その中には多少時勢じせいに通じたるものもあらんなれども、多数に無勢ぶぜい、一般の挙動はかくのごとくにして、局外よりながむるときは、ただこれ攘夷じょうい一偏の壮士輩そうしはいと認めざるを得ず。しからば幕府の内情は如何いかんというに攘夷論じょういろんさかんなるは当時の諸藩しょはんゆずらず、な徳川を一藩として見れば諸藩中のもっとも強硬きょうこうなる攘夷じょうい藩というも可なるほどなれども、ただ責任せきにんの局にるがゆえに、むを得ず外国人に接して表面ひょうめん和親わしんを表したるのみ。内実はくまでも鎖攘主義さじょうしゅぎにして、ひたすら外人をとおざけんとしたるその一例をいえば、品川しながわ無益むえき砲台ほうだいなどきずきたるその上に、らに兵庫ひょうご和田岬わだみさきに新砲台の建築けんちくを命じたるその命を受けて築造ちくぞうに従事せしはすなわち勝氏かつしにして、その目的もくてきもとより攘夷じょういに外ならず。勝氏は真実しんじつの攘夷論者に非ざるべしといえども、当時とうじいきおいむを得ずして攘夷論をよそおいたるものならん。その事情じじょうもって知るべし。
 されば鳥羽とば伏見ふしみの戦争、ついで官軍の東下のごとき、あたかも攘夷藩じょういはんと攘夷藩との衝突しょうとつにして、たとい徳川がたおれて薩長がこれに代わるも、らに第二の徳川政府を見るにぎざるべしと一般に予想よそうしたるも無理むりなき次第しだいにして、維新後いしんご変化へんかあるいは当局者においてはみずから意外いがいに思うところならんに、しかるに勝氏は一身のはたらきを以ていて幕府を解散かいさんし、薩長のに天下を引渡ひきわたしたるはいかなるかんがえより出でたるか、今日に至りこれを弁護べんごするものは、勝氏は当時外国干渉がいこくかんしょうすなわち国家の危機ききに際して、対世界の見地けんちより経綸けいりんを定めたりなど云々うんぬんするも、はたして当人とうにん心事しんじ穿うがち得たるやいなや。
 もしも勝氏が当時において、真実しんじつ外国干渉のうれいあるを恐れてかかる処置しょちに及びたりとすれば、ひとみずから架空かくう想像そうぞうたくましうしてこれがために無益むえき挙動きょどうを演じたるものというの外なけれども、勝氏は決してかかる迂濶うかつの人物にあらず。思うに当時人心じんしん激昂げきこうの際、敵軍を城下に引受ひきうけながら一戦にも及ばず、徳川三百年の政府をおだやか解散かいさんせんとするは武士道の変則へんそく古今の珍事ちんじにして、これを断行だんこうするには非常の勇気ゆうきを要すると共に、人心じんしん籠絡ろうらくしてその激昂げきこう鎮撫ちんぶするにるの口実こうじつなかるべからず。これすなわち勝氏が特に外交の危機きき云々うんぬん絶叫ぜっきょうして、その声を大にし以て人の視聴しちょう聳動しょうどうせんとつとめたる所以ゆえんに非ざるか、ひそか測量そくりょうするところなれども、人々の所見しょけんおのずからことにしてみだりに他より断定だんていするを得ず。
 当人の心事しんじ如何いかんは知るによしなしとするも、るにてもしむべきは勝氏の晩節ばんせつなり。江戸の開城かいじょうその事はなはにして当局者の心事しんじかいすべからずといえども、かくその出来上できあがりたる結果けっかを見れば大成功だいせいこうと認めざるを得ず。およそ古今の革命かくめいには必ず非常の惨毒さんどくを流すの常にして、豊臣とよとみ氏の末路まつろのごとき人をして酸鼻さんびえざらしむるものあり。しかるに幕府の始末しまつはこれに反し、おだやかに政府を解散かいさんして流血りゅうけつわざわいけ、無辜むこの人を殺さず、無用むようざいを散ぜず、一方には徳川家のまつりを存し、一方には維新政府の成立せいりつ容易よういならしめたるは、時勢じせいしからしむるところとは申しながら、そもそも勝氏が一身を以て東西の間に奔走ほんそう周旋しゅうせんし、内外の困難こんなんあた円滑えんかつに事をまとめたるがためにして、その苦心くしん尋常じんじょうならざると、その功徳こうとくだいなるとは、これをあらそう者あるべからず、あきらかみとむるところなれども、日本の武士道ぶしどうを以てすれば如何いかにしてもしのぶべからざるの場合を忍んで、あえてその奇功きこうおさめたる以上は、我事わがことすでにおわれりとし主家の結末と共に進退しんたいを決し、たとい身に墨染すみぞめころもまとわざるも心は全く浮世うきよ栄辱えいじょくほかにして片山里かたやまざと引籠ひきこもり静に余生よせいを送るの決断けつだんに出でたらば、世間においても真実、天下のめに一身を犠牲ぎせいにしたるその苦衷くちゅう苦節くせつりょうして、一点の非難ひなんさしはさむものなかるべし。
 すなわち徳川家が七十万石の新封しんぽうを得てわずかにそのまつりを存したるの日は勝氏が断然だんぜん処決しょけつすべきの時機じきなりしに、しかるにその決断ここに出でず、あたかも主家を解散かいさんしたるその功を持参金じさんきんにして、新政府にし、維新功臣の末班まっぱんに列して爵位しゃくいの高きにり、俸禄ほうろくゆたかなるにやすんじ、得々とくとくとして貴顕きけん栄華えいが新地位しんちいを占めたるは、ひと三河武士みかわぶしの末流として徳川累世るいせい恩義おんぎに対し相済あいすまざるのみならず、いやしくも一個の士人たる徳義とくぎ操行そうこうにおいて天下後世に申訳もうしわけあるべからず。瘠我慢やせがまん一篇の精神せいしんもっぱらここにうたがいを存しあえてこれを後世の輿論よろんたださんとしたるものにして、この一点については論者輩ろんしゃはいがいかに千言万語せんげんばんごかさぬるも到底とうてい弁護べんごこうはなかるべし。かえがえすも勝氏のためにしまざるを得ざるなり。
 けだし論者のごとき当時の事情じじょうつまびらかにせず、軽々けいけい他人の言によって事を論断ろんだんしたるがゆえにその論の全く事実にはんするも無理むりならず。あえてとがむるにらずといえども、これを文字にしるして新聞紙上におおやけにするに至りては、つたえまた伝えて或は世人をあやまるの掛念けねんなきにあらず。いささか筆をろうして当時の事実をあきらかにするのむべからざる所以ゆえんなり。





底本:「明治十年丁丑公論・瘠我慢の説」講談社学術文庫、講談社
   1985(昭和60)年3月10日第1刷発行
   1998(平成10)年2月20日第10刷発行
底本の親本:「明治十年丁丑公論・瘠我慢の説」時事新報社
   1901(明治34)年5月2日発行
初出:「明治十年丁丑公論・瘠我慢の説」時事新報社
   1901(明治34)年5月2日発行
※誤り箇所は底本の親本にて確認しました。
※旧字の「竊」は、底本のママとしました。
入力:kazuishi
校正:田中哲郎
2006年11月7日作成
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