元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)

井原西鶴

宮本百合子訳




     跡のはげたる※(「女+里」、第4水準2-5-56)入長持

 聟入、※(「女+里」、第4水準2-5-56)取なんかの時に小石をぶつけるのはずいぶんらんぼうな事である。どうしたわけでこんな事をするかと云うと是はりんきの始めである。人がよい事があるとわきから腹を立てたりするのも世の中の人心で無理もない。自分の子でさえ親の心の通りならないで不幸者となり女の子が年頃になって人の家に行き其の夫に親しくして親里を忘れる。こんな風儀はどこの国に行っても変った事はない。
 加賀の国の城下本町筋に絹問屋左近右衛門と云うしにせあきんどがあった。其の身はかたく暮して身代にも不足なく子供は二人あったけれ共そうぞくの子は亀丸と云って十一になり姉は小鶴と云って十四であるがみめ形すぐれて国中ひょうばんのきりょうよしであった。不断も加賀染の模様のいいのなんか着せていろいろ身ぎれいにしてやるので誰云うともなく美人キヌ屋と云ってその娘を見ようと前に立つ人はたえた事がない、丁度年頃なのであっちこっちからのぞみに母親もこの返事に迷惑して申しのべし、「手前よろしければかねて手道具は高蒔絵の美をつくし衣装なんかも表むきは御法度を守っても内証で鹿子なんかをいろいろととのえ京都から女の行儀をしつける女をよびよせて万事おとなしく上品に身ぶるまいをさせて居たので今ときめいて居らっしゃる誰さんのおよめさんだっておそらくこんなよいおよめはないでしょうからね」と母親の鼻の高いことと云ったら白山の天狗殿もコレはコレはと頸をふって逃げ出してしまうだろう。ほんとに娘をもつ親の習いで、化物ばなしの話の本の中にある赤坊の頭をかじって居るような顔をした娘でも花見だの紅葉見なんかのまっさきに立ててつきうすの歩くような後から黒骨の扇であおぎながら行くのは可愛いいのを通りすぎておかしいほどだ。それだのに母親の目から見れば昔の伊勢小町紫の抱帯、前から見ても後から見ても此の上ない様子だと思ってホクホク物で居るのも可笑しい。これでさえもこれほどなんだから左近右衛門の娘に衣類敷金までつけて人のほしがるのも尤である。此の娘は聟えらびの条件には、男がよくて姑がなくて同じ宗の法華で綺麗な商ばいの家へ行きたいと云って居る。千軒もあるのぞみ手を見定め聞定めした上でえりにえりにえらんだ呉服屋にやったので世間の人々は「両方とも身代も同じほどだし馬は馬づれと云う通り絹屋と呉服屋ほんとうにいいお家ですネー」とうわさをして居たら、半年もたたない中に此の娘は男を嫌い始めて度々里の家にかえるので馴染もうすくなり、そんな風ではととうとう三条半を書いてやる。
 まもなく後に菊酒屋と云う有名な酒屋にやった所がここも秋口から物やかましいといやがられたので又、ここも縁がないのだからしかたがないと云って呼びかえした。其後又、今度は貸金までして仕度をして何にも商ばいをしない家にやるとここも人手が少なくてものがたいのでいやがって名残をおしがる男を見すてて恥も外聞もかまわないで家にかえると親の因果でそれなりにもしておけないので三所も四所も出て長持のはげたのを昔の新らしい時のようにぬりなおして木薬屋にやると男にこれと云うきずもなく身上も云い分がないんでやたらに出る事も出来ないので化病を起して癲癇を出して目をむき出し口から沫をふき手足をふるわせたんでこれを見てはあんまりいい気持もしないんで家にかえすとよろこんで親には先の男にはそりゃあ、いやな病気があるんですよといいかげんなさたに、この報はきっとあるだろう。もうまもなく振袖も見っともなくなったのでわきをふさいでからも二三度縁組みして十四の時から嫁に行き初めて二十五まで十八所出て来たり出されたりしたんで段々人が「女にもあんなあばずれ者があるもんですかネー」
と云いひろめられたので後では望み手もなくて年を経てしまった。嫁入のさきざきで子供を四人も生んだけれ共みんな女なんで出る段につれて来てその子達も親のやっかいになって育て居たけれどもたえまなくわずらうので薬代で世を渡るいしゃでさえもあいそをつかして見に来ないのでとうとう死ぬにまかせる外はない。弟の亀丸も女房をもらってもよい時だけれ共姉がそんな女なので云い込む人もなくて立って居た所が亀丸はとうとう病気になって二十三で死んでしまった。二人の親も世間に見せるかおがないと云って家の中に許り入って居たけれ共とうとう悔死、さぞ口惜しい事だったろうと人々は云って居た。其の後は家に一人のこって居たけれ共夫となるべき人もないので五十余歳まで身代のあらいざらいつかってしまったのでしょうことなしに親の時からつかわれて居た下男を夫にしてその土地を出て田舎に引き込んでその日暮しに男が犬をつって居ると自分は髪の油なんかうって居たけれどもこんなに落ぶれたわけをきいて買う人がないので暮しかね朝の露さえのどを通す事が出来ないでもう今は死ぬ許りになってしまった。花の様な美しかった形はもうどこかに行ってしまった様になって野原の岩によりかかってミイラの様になって死んでしまった。一体女と云うものは一生たよるべき男は一人ほかないはずだのに其の自分の身持がわるいので出されて又、後夫を求める様になっては女も終である。人と云う人の娘は第一考えなければならない事である。一度縁を結んで再び里にかえるのは女の不幸としてこの上ない不幸である。若し夫は縁がなくて死んだあとには尼になるのがほんとうだのに「今時いくら世の中が自分勝手だと云ってもほんとうにさもしい事ですネー」とうそつき商ばいの仲人屋もこれ丈はほんとうの事を云った。

     旅行の暮の僧にて候

 雪やこんこん、あられやこんこんと小褄にためて里の小娘は嵐の吹く松の下に集って脇明から入って来る風のさむいのもかまわず日のあんまり早く暮れてしまうのをおしんで居ると熊野を参詣した僧が山々の(一字不明)所を越えてようやくようよう麓のここまで下って来てこの一群の子供達のそばに来て息も絶え絶えの様な声をして「人の住んで居る所まではまだ遠いのですか」ときく様子は腰や足がとくにちゃんと止まって居られない様にフラフラして気味がわるいので皆んな何とも云わずに家へ逃げかえってしまった、その中にたった一人岩根村の勘太夫の娘の小吟と云うのはまだ九つだったけれ共にげもしないでおとなしく、「もう少し行らっしゃると私の家ですから湯でもさしあげましょう」とその坊さんに力をつけて案内して家にかえると夫婦で立って来て小吟の志をほめ又、旅人もさぞお困りであったろうと萩柴をたいていろいろともてなした。法師はくたびれて居てどうもしようがなかったのをたすけられてこの上もなくよろこび心をおちつけて油単の包をあらためて肩にかけながら、「私は越前福井の者でござりまするが先年二人の親に死に別れてしまったのでこの様な姿になりましたけれ共それがもうよっぽど時はすぎましたけれ共どうしてもなくなった二親の事が忘られないのでせめて死後供養にもと諸国をめぐり歩くものでございまするから又、二度とお目にかかる事はございますまい。えろうお世話になりました」と手を合せておがみ夜ぎりの中に出てゆくあとで娘が云うには「一寸一寸、今の坊さんはネ、風呂敷包の中に小判を沢山皮の袋に入れたのをもって居らっしゃるのを見つけたんですよ、だから、御つれもないんだから誰も知る人もありませんから殺してあの御金をおとりなさいよ」とささやいたので思いがけない悪心が起ったので山刀をさし枕槍をひっさげてその坊さんの跡をおっかけて行く、まだ九つ許りの娘の分際でこんな事を親に進めたのは大悪人である。殊更、熊野の奥の山家に住んで居るんだから、干鯛が木になるものだか、からかさは何になるものだかも知らない筈だのに小判と云うものを知って居るのも不思議である。彼の坊さんは草の枯れた広野を分けて衣の裾を高くはしょり霜月の十八日の夜の道を宵なので月もなく推量してたどって行くと脇道から人の足音がかるくたちどまったかと思うと大男が槍のさやをはらってとびかかるのをびっくりして逃げる時にふりかえって見ると最前情をかけてくれた亭主である。出家は言葉かけて「私は出家の身でござるから命が惜しいにはござらぬけれ共何のうらみがあってこの様な事をなさるのじゃ。路銀が取りたいのならば命にかえてまでおしみませぬじゃ」と小判百両をありのまんまなげ出せばそれをうけとり「金がかたきになる浮世だワ」と脇腹を刺通すと苦しい声をあげて「汝、此のうらみの一念、この幾倍にもしてかえすだろう、口惜い口惜い」と云う息の段々弱って沢の所にたおれたのを押えて止をさし死がいを浮藁の下にしずめそうっと家にかえったけれ共世間にはこんな事を知って居る人は一人もなくその後は家は栄えて沢山の牛も一人で持ち田畠も求めそれ綿の花盛、そら米の秋と思うがままの月日を重ねて小吟も十四になって美しゅう化粧なんかするもんで山里ではそれほどでなくっても殊更に目立って之の女を恋うる人が限ない。自分の姿を自慢して男えらみ許りしてとうとう夫もきめないで身をぞんざいにしていろいろの浮名をたてられる。親達は心配していろいろの意見するけれ共一度でも親の云う通りにはならないで「一体何と思って居らっしゃるんだか。此んなに家の富栄えるのも元はと云えば私が智慧をつけたからじゃあありませんか」と折々大事を云い出してはおびやかすので自分の子ながらもてあまして居た。或る時自分で男を見つけて「あの人ならば」と云ったのでとにかく心まかせにした方がと云って人にたのんで橋をかけてもらい世を渡る事が下手でない聟だと大変よろこび契約の盃事まですんでから此の男の耳の根にある見えるか見えないかほどのできもののきずを見つけていやがり和哥山の祖母の所へ逃げて行くと家にも置かれないので或る屋敷の腰元にやった。そうするともとからいたずらものなので奥様の手前もはばからないで旦那様にじょうだんしかけいつともなく我物にしてしまった。けれ共奥方は武士の娘なので世に例のある事だからと知らぬ振してすぎて居た。それだのに小吟はいいきになってやめないので家も乱れるほどになったので事をへだてぬ夫婦の間の事だからおいさめになると旦那も今までの事はほんとうに悪かったとさとってそれからはもう心を堅くおきめになったので小吟は奥様を大変にうらんで或る夜、旦那が御番での留守を見はからってねて居らっしゃるまくらもとに立って奥様の御守刀で心臓を刺し通したので大変驚き「汝逃すものか」と長刀の鞘をはずして広庭までおって居らっしゃったけれ共前からぬけ道を作って置いて行方知れずになってしまった。色々体をとりなおしとりなおしなさったけれ共何分重傷なもんで「あの小吟を討ち取れ討ち取れ」と二声三声ようやく開いた目よりも細くおっしゃるともう御命は無くなって居た。お次にねて居た女達は事がすんでから起きて「マアマア是は何と云う」と云って歎いてもどうしようもないので小吟の逃げたあとを人をおっかけさせたけれ共女ながらも上手ににげてどうしてもその行方がわからない。人々は「女ながら中々上手に逃げたものだ」と云いあって居た。そしてどうもしようがないので小吟のみつかるまではとその親達を牢屋に入れてつらい目に合わせて居た。けれ共どうしても目つからないと云うので霜月の十八日に殺されるときまったのでその親達をあずかった役人が可哀そうに思って「ほんとうに御気の毒な、子供のためにそんなうきめをお見になるんだもの、もうしかたがないから死ぬ時の事も覚悟して又の世をおねがいなさるほかないわナ」と云って夜中、酒をすすめたので此の親仁は大変に元気よく一寸もなげく様子がない。役人が云うには「ほかにもつみがあって命をとられるものがあるのに」と云って「自分のつみは云わないで歎くものが多いのに貴方はよくお歎になりませんネ。貴方は子のかわりのこんなつらい事にあうのではないか」といえばこの親仁は彼の出家を殺した因果話をして七年目になって月日もあしたと同じである。そのためだろうと覚悟して観念した様子は悪人は悪いとは云いながらとみんなの人がその志を可哀そうに思った。
 もうどうしても逃る事が出来ないのだからと云って首を討った翌日親の様子をきいてかくれて居た身をあらわして出て来たのをそのままつかまってこの女も討れてしまった。どうせ一度はさがされて見つけ出されるものを、「お前が早く出れば何の事もなくて助る事の出来る親を自分が出ない許っかりに親を殺してしまってほんとうにこれまでためしのない親不孝の女だ」とにくまないものはなかった。





底本:「宮本百合子全集 第二十八巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年11月25日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第6刷発行
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2009年4月29日作成
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