鈴木主水

久生十蘭




 享保きょうほう十八年、九月十三日の朝、四谷よつや塩町のはずれに小さな道場をもって、義世流の剣道を指南している鈴木伝内が、奥の小座敷で茶を飲みながら、築庭ちくていの秋草を見ているところへ、せがれの主水が入ってきて、さり気ないようすで庭をながめだした。
「これからお上りか」とたずねると、「はっ、上ります」と愛想よくうなずいてみせた。
 伝内は主水がかねてなにを考え、なにをしようとしているかおおよそのところは察していたが、いつにないとりつくろったような笑顔を見るなり、「いよいよ今日だな」と、そう感じた。今日、いけはた下邸しもやしきのちの月見の宴があるが、主水は御前で思いきった乱暴をする決心でいる。心が通じあっているので、いまさら言置くこともなかったが、あまりみじめな終りにならぬよう、士道の吟味に関することだけは確かめておきたいと思った。たとえどのような無嗜無作法むしぶさほうを働いても、主従の間でなすまじきことだけは、断じてせぬという戒懼かいぐのことである。
 上杉征伐に功のあった三河の鈴木伝助のすえで、榊原さかきばらに仕えて代々物頭ものがしら列を勤めてきたが、伝内は神田お玉ヶ池の秋月刑部ぎょうぶ正直の高弟で義世流の達人であり、無辺無極流のやりもよく使うので、先代政祐のとき、番頭兼用人に進んで役料とも七百石をたまわるようになった。
 主水は伝内の独り子で、前髪があって小主水といっていたころから政祐の給仕を勤めていたが、生れつき器量がよく、評判のある葺屋ふきや町の色小姓でさえ、主水の前へ出るとそでで顔をおおって恥らうというほどの美少年だったので、寵愛ちょうあいをうけて近習きんじゅに選ばれ擬作高ぎさくだか百石の思召おぼしめし料をもらった。主水の美貌びぼうは当時たぐいないほどのものだったらしい。はだがぬけるように白く、すらりとした身体からだつきで、女でさえうらやましがるような長い睫毛まつげの奥に、液体のなかで泳いでいるような世にも美しい眼がある。人形にもならず、といって絵にもならず、生れながらそなわった品のいい愛嬌あいきょうがあって、いちど見ると、久しく思いが残って忘れかねたということである。
 近習時代のことだが、髪は白元結もとゆいできりりと巻いた大髻おおたぶさで、白繻子しろじゅすの下着に褐色無地の定紋附羽二重じょうもんつきはぶたえ小袖、献上博多白地独鈷とっこの角帯に藍棒縞仙台平あいぼうじませんだいひらの裏附のはかま黒縮緬くろちりめんの紋附羽織に白紐しろひもを胸高に結び、大振りな大小に七分珊瑚玉さんごだま緒締おじめ印伝革いんでんがわの下げものを腰につけ、白足袋に福草履、朱の房のついた寒竹のむちを手綱に持ちそえ、朝々、馬丁を従えて三河台の馬場へ通う姿は、迫りるべからざるほどの気高い美しさをそなえているので、毎度、見馴みなれている町筋の町人どもも、その都度、吐胸とむねをつかれるような息苦しさを感じて、眼を伏せるのが常だったとつたえられている。
 伝内は秋月刑部門下の三傑の一人といわれたほどの剣客だったが、麹町こうじまち三番町で泰平真教流の道場を開いている兄の小笠原十左衛門に主水を預け、弓は竹林派の高須十郎兵衛に、柔術は吉岡扱心きゅうしん流の吉岡次郎右衛門に、馬術は大坪流の鶴岡丹下に学ばせた。
 享保十年の春、主水は元服して鉄砲三十ちょう頭に任命され、本知行ほんちぎょう二百石取になり、その年、同藩の物奉行明良あきら重三郎の次女安をめとった。翌年、太郎を生み、つづいてお徳が生れた。
 享保十七年の八月二十九日に政祐が死に、分家の榊原勝直の四男が、式部大輔政岑しきぶたいふまさみねと名をかえて姫路十五万石を相続することになった。大須賀頼母たのもといって、本家の家中客人分として、三百石の合力米をもらっていた居候いそうろう同然の身分だったが、先年、兄の勝興かつよりが早世したので、不意に千石の旗本におしあげられ、こんどは政祐の死で急養子にとられ、たちまち播州ばんしゅう姫路の城主になりあがった。
 十月、家督相続がすみ、能勢因幡守のせいなばのかみの二女竹姫を奥方に迎え、それぞれに新知、加増、役替やくがえがあった。これまでは、御代替おだいがわりになってもこれというほどの異動はなかったが、こんどは思い切った御仕置で、先代の側仕えをしていた向きは、大目附役、大番頭おおばんがしら、寄合以下、番頭、用人、給仕の果てにいたるまで、一人残らず君側から下げられ、若殿附と称する分家の番頭や、客分当時の用人小姓と入替になった。番頭、用人といえばいかめしいが、いずれも能太夫、狂言方、連歌俳諧師はいかいし、狂言作者などの上りで、そのなかには島田十々六とどろくという品川本宿の遊女屋の次男坊までいた。遊興の取持とりもちを勤めと心得ているらちもないてあいばかりだが、新規に目附になった押原右内おしはらうないという男は、お家騒動で改易になった越後えちごの浪人者で、御留守居与力をやめて豊後節ぶんごぶしの三味線弾きになり下った、原武太夫の推薦で大須賀の用人格になったものだが、こんどはまたお糸という娘をお側へ上げ、その功労で大目附の役にありついたという評判だった。
 こういう思いきった役替は、そもそも誰のさばきによるのかと、寄り寄り詮議せんぎしてみたところ、あにはからんや、押原右内一人の方寸から出ていることがわかった。宝永六年の二月、家宣いえのぶが将軍宣下をすると同時に、綱吉の近臣を残らず罷免ひめんした故実をひき、もっともらしい献策をしたのを、政岑がそのままとりあげたのである。聞いたものはみな無念に思い、三河以来、御懇意ごこんいをねがった譜代の家来も、一朝にしてかような取扱いを受けるのかと、行末をはかなんでおいとまを願うものが出てきた。
 口切りは大番頭千石取津田伴右衛門で、向後こうご、他家へは一切奉公いたすまじきむね、誓を立てて御暇をねがい、つづいて物頭四百五十石、荻田甚五兵衛、寄合五百石、たいら左衛門、使番つかいばん大番頭五百石多賀一学などが暇乞いとまごいをして※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)そうそうに退散した。主水の父の伝内は番頭兼用人から勘定役頭取に役替になったが、御納戸おなんどの役は勤めかねると辞退すると、それであらためて御暇になった。
 播磨守はりまのかみ政岑は、分家とはいえ門地の高い生れだけあって、顔に間の抜けたところがなく、容貌はむしろ立派なほうだが、ツルリとしたいき好みの細面ほそおもてがいかにも芸人みたふうにみえ、殿様らしい威容はどこにもなかった。甲高いよくとおる声で早口にものをいい、かならず人先に発言し、真面目まじめな話にも洒落しゃれや地口をまぜ、嘲弄ちょうろうするような言いかたをする。剣槍弓馬から仕方舞、豊後節、役者の真似事まねごとまで、なにによらず一と通りのところまでやるので、一廉ひとかどの器量の持主のように買いかぶられるが、内実は我意の強い狭量な気質で、こびるものやへつらうものは大好きだが、差図がましいことを言われるのは大嫌いで、時としては狂気したように激怒することがある。酔うととりとめなくなり、いつぞやなどは吉原の往来端で、人立ちをはばからずに矢の根五郎の振事ふりごとの真似をしてみせ、大方の物笑いになったようなこともあった。
 播磨守政岑というのはこういう困った殿様だったが、伝内も主水も感じたことはみな心の底にとりおさめ、親子二人だけのときでも、とやかくとあげつらうようなことは一度もなかった。おのれの主人の欠点を数えたてるなどは、武士のたしなみとしてあるまじきことで、どういう場合でも断じてしないものなのである。
 そういううちにその年も終り、十八年、癸丑みずのとうしの年になった。前年、西南諸道で米がとれず、大飢饉だいききんになって餓死するものが出た。正月※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)々、江戸に米一揆いっきが起き、奥州米を運漕うんそうしてお救い米を出す騒ぎになったが、政岑は、これも家督して間もない尾州びしゅう名古屋の城主、従三位権中納言じゅさんみごんちゅうなごん宗春と連れだって吉原へ出かけ、驕奢きょうしゃのかぎりをつくして江戸中の取沙汰とりざたになった。
 天和の頃、綱吉が武家法度はっと十五ヶ条で大名旗本が遊里に入ることを禁じてから、吉原で大名の姿を見かけたのは、五十年以来のことだったばかりでなく、取巻きの原武太夫以下、はらやの小八こはち、湯屋の五平、ねずの三武さんぶという連中の扮装ふんそうものだったので、いっそう評判になった。その頃は一般に合せびんにして髪は引詰めて結う風だったのに、もとどりを大段に巻きたて、まげ針打はりうちにして元結をかけ、地にひきずるほどの長小袖の袖口から緋縮緬ひぢりめん襦袢じゅばんえりを二寸もだし、着流しに長脇差ながわきざし、ひとつ印籠いんろうという異様な風態ふうていだったので、人目をひかぬはずもなかったが、尾張おわりの殿様も姫路の殿様も、編笠あみがさなしの素面すめんで、茶屋と三浦屋の間を遊行するという至極の寛濶かんかつさだった。
 またこんなこともあった。おなじ正月の十一日、いけはたの下邸に尾張侯、酒井日向守ひゅうがのかみ、酒井大学頭、松平摂津守せっつのかみなどを招いて恒例の具足祝いをしたが、酒狂乱舞のさなか、見あげるような蓬莱山ほうらいさんのつくりものを据えた十六人持ちの大島台おおしまだいかつぎだし、播磨守が手をつと、蓬莱山が二つに割れて、天冠に狩衣かりぎぬをつけ大口おおぐち穿いた踊子が十二、三人あらわれ、「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり」と幸若こうわかを舞った。
 それですめばよかったが、取調べにきた横目に、政岑が今日はめずらしいものを聞かせると、書院の上段にすだれを掛け、めかけのお糸の方に三味線をひかせて豊後節を一段ばかり語り、平服に替えて出てきて、
「御気鬱きうつのせつは、いつなりとござれ。このつぎには弾語りをご馳走ちそうしよう」
 と嘲弄するようなことをいった。横目の山村十郎右衛門はさすがに気色きしょくを損じ、苦い顔で帰って行った。
 放埒ほうらつだけならまだしも助かるが、殊更ことさら、幕府の忌諱ききに触れるような所行ばかりする。政道に不平を抱いているかのように推測おしはかられ、幕府の諸侯取潰とりつぶしの政策に口実を与えるような危険な状態になった。御家門ごかもんの越後侯ですら、家中仕置不行届で領地を召しあげられ伊予の果てへ押籠おしこめになった。いかに榊原氏が御譜代でも、いざとなれば参酌さんしゃくはないのである。
 伝内が四谷のほとりに身を落着けたころ、主水がこんなことをいった。
「忠義な士が、忠義でもないことをして、忠義と思って死んで行く。善人と善人が命を削り合っていよいよ世の中をむずかしくする。情けないものですな」
「というのは」
「忠義ばかりでは、いやさ、善人ばかりでは国も家も立てかねるということです。榊原の家には悪人が不足しているが、それが不幸の源なのだと思ってります」
 といって帰って行った。
 読みが深すぎて伝内にはなんのことか理解できなかったが、しばらくしてから思いあたった。
 黒田長政の後継、黒田右衛門佐うえもんのすけ忠之は放縦の行跡がつのって政道が乱れ、鳳凰ほうおう丸の建造や足軽隊の新設など、幕府の忌諱に触れるような事件が続発するうえ、幕府に不満の駿河するが大納言忠長と懇談したというようなことから、大いににらまれた。栗山大膳くりやまたいぜんは苦肉の一策を案じ、忠之に逆謀ありといって五十六ヶ条の罪案をかまえ、主侯を相手どって公儀に出訴し、対決の結果、かえって忠之に逆心のないことを幕府に確めさせ、辛くも黒田の家を救った。武士として不忠不義の汚名を着る以上の大きな犠牲はない。終生、ぬぐいようのない悪名を忍んで士道の吟味を貫いた栗山大膳こそ、無類の忠誠の士なりと、大石内蔵之助おおいしくらのすけが賞揚したと聞いたが、そのことを言ったのだと推量した。
 主水はなにかしらの存念ぞんねんを胸にひそめているらしい。それは起居振舞たちいふるまいやものの言いかたが、この頃なんとなく変ってきたことでもわかる。主水はもう二人の子持ちで、大髻おおたぶさに結っていたころのような水の垂れるような美少年ではない。顔は薄皮うすかわ立って色が美しく、いまでも目をそばだたせるが、肩幅が張って上背が増し、キッタリとしてかみしものつきがよくなった。ひげのあとが青々とし、口元にゆるみがなく、太く静かな声が、堅く結ばれた唇から口重にれてくるところなどは、いかにも沈着な人のように見える。もともとおとなしいたちで、圭角けいかくのあるようすを見せたことはなかったが、最近は別して柔和になり、挙止動作に丸味が出来、春草が風になびくようなやさしい立居をするようになった。
 主水の存念はどのようなものか、伝内とても奥底まで洞察しているわけではないが、長年、御懇意をねがってきた老臣どもに、いっこうに勘弁がなく、みな身を退いて離散してしまったというのに、主水のような若輩に一分の志がうかがわれるのが、ふしぎなものを見るような気がしてならない。なにごとをしようとたくらんでいるのか知らないが、しかしながら主水の手にあうようには思えない。上邸にも下邸にも、昨日まで小唄こうたはやしで世渡りをしていた、素姓も知れぬてあいが黒羽二重の小袖に着ぶくれ、駄物の大小を貫木差ぬきぎざしにしてあらぬ権勢をふるい、奥はまた奥で、お糸というあやしげな欠込女かけこみおんなが押原右内の娘と偽って寝所の※(「ころもへん+因」、第4水準2-88-18)おしとねへ入り込み、薄毛の鬢を片はずしに結い、大模様の裲襠うちかけ絆纏はんてんのように着崩す飛んだ御※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)ちゅうろうぶりで、呼出し茶屋の女房やら、堺町の踊子、木戸茶屋の娘、吉原のかぶろ、女幇間ほうかん、唄の小八などというむかしの朋輩ほうばいをひきこみ、仲ノ町の茶屋か芝居の楽屋のような騒ぎをしているそうな。見たわけではないが、おおよその察しはつく。そのうえ新規御抱えの近習なるものは、まったくもって沙汰のかぎり。主侯にはどこまでひねくれたまうのか、人がましいまともなつらつきを嫌い、目っかちやら兎口みつくち、耳なし、鼻欠と、醜いものを穿鑿せんさくして十数人も抱えになり、多介子たすけご重次郎、清蔵五郎兵衛という浪人上りの喧嘩けんか屋に赤鬼黒鬼と異名をつけ、二百石の知行を与えて近習の取締にしているという法外千万な仕方である。
 代々、御懇意をねがった譜代のものどもが、咄嗟とっさにお暇をねがって退散したのは、いわれないことではない。たびたびの前例によって、いちどお家が乱れだしたら、どう手をつくしても、一家離散にまで行きつくことを知っているからである。所詮しょせんは、愚痴と悪念が修羅の大猛火を燃やす魔界の現出げんしゅつなのであって、条理もなければ理非もない。いわんや人情などの通じる世界ではない。火中に栗を拾うたとえで、なまじっかなことをすれば、怪我けがをするだけではすまない。主水にどのような目途めどがあるとしても、まずまず成功は覚束おぼつかないように思われた。
 はぎの花むらを見ている静かな主水の横顔を、伝内はわきからながめていたが、主水の今日の身仕舞に軽薄なほど派手な気味合きみあいのあることに気がついた。
 薄小袖の紋服に茶宇ちゃうの袴は毎日の出仕の身装みなりだが、袖口から薄紅梅色の下着の端がのぞきだしているのが異様である。見れば芝居者のように月代さかやきを広くあけ、髷は針打にして細身につくり、なにか馬鹿ばかげたざまになっている。一度もなかったことなので、どういう心の傾きなのか、そのほうを先に聞いてみたくなった。
「今夜は、後のお月見があるそうだ」
「さようでございます」
「思いもかけない仕合せだったな」
「仕合せとは、なにが」
「野呂勘兵衛が小栗美作みまさかを討つため、日雲閣へりこんだのも、やはり月見の宴の折だったそうな。総じてやかたの討入りには、順法と逆法がある。いずれとも時宜じぎに従うのはいうまでもないが、目ざす敵を一人だけに限っておくのが定法だ。その辺の心得がなかったので、野呂はやりそくなったのだとみえる。ときに、貴様が討果したいと思っているのは、男か女か」
「これはまた意外なことを。男にも女にも、討ちたいものなどありません」
「先日、明良あきらの邸へ参ったとき、十三日の後の月見こそ、一期いちごの折というようなことを申したそうな。なんのことだ」
「今夜の御宴会に連舞つれまいをいたすことになってります、そのことです」
「連舞を。誰が」
「手前が」
「貴様に舞など舞えるのか」
「この程から幸若秀平こうわかしゅうへいに舞を習って居ります。いちどお目にかけましょう」
「どのような所存で」
「郷に入っては郷にしたがう。こうなくては、勤めかねます」
「すりゃ、そのつら装束そうぞくは、舞を舞うためのものか」
「さようでございます」
 伝内はまじまじと主水の顔を見ていたが、大きな声で、
「たわけ」
 と一喝すると、荒々しく座から立って行った。

 当夜の客には、尾張宗春きょう、酒井日向守、松平和泉守いずみのかみ、松平左衛門佐さえもんのすけ、御親類は能勢因幡守、榊原七郎右衛門、同大膳などがいた。
 月が出ると、不忍池しのばずのいけを見おろす二階の大広間に席を移してさかんな酒宴になった。あかい萩の裾模様すそもようのある曙染あけぼのぞめの小袖に白地錦の帯をしめた愛妾あいしょうのお糸の方が、金扇に月影をうつしながら月魄つきしろを舞っていると、御相伴の家中が控えた次ノ間の下座から、
「女め、誰も知らぬと思って、晴がましく舞いおるわ」
 という声がかかった。
 最初の一と声は、三味線や琴の音に消され、近くの者しか気がつかなかったが、野太い声でつづいて三度ばかり叫んだので、こんどは誰の耳にもはっきりと聞えた。
 唄と囃が一時にやみ、風が落ちて海がいだような広間の上座から、播磨守がかんを立てた蒼白あおじろんだ顔で次の間のほうをめつけながら、
「いま、なにか申した者、これへ出ろ」
 と歯軋はぎしりをするような声をだした。
 主水は朋輩のうしろにすわって、ひざに手を置いてうつむいていたが、そう言われると、逃げ隠れもできない。はっといって広間の閾際しきいぎわまで膝行いざり出て、そこで平伏した。
「何者だ、名を名乗れ」
 播磨守が膝をたたいて叱咤しったした。主水は顔をあげてこたえた。
「御鉄砲三十梃頭、鈴木主水にございます。なにとぞ、お見知りおきを」
「鉄砲持ちには出来すぎた面だ。舞っている女がどうこうとぬかしたを、たしかに聞いた。もう一度そこで申してみろ」
「はずみに申した下司げす痴言たわごと、お聞捨てにねがいます」
「はずみとは言わせぬ。三度もおなじことを申したは、所存があってのことだろう。聞いてやる、隠さずに言え」
 主水はいよいよ平伏して、御高家御同座では申しあげかねることなので、おゆるしねがいたいと言うと、宗春卿はお糸の方のほうへ底意そこいのある眼づかいをしながらニヤニヤ笑いだした。同座の一統もとんだ座興とばかり、さかずきをひかえて聞くかまえになった。言え、言われぬの掛合のうちに政岑は焦立いらだって来、佩刀はいとうをひきつけて片膝を立て、いまにも斬りつけるかという切羽詰ったようすになったので、主水も覚悟をきめたらしく、「お耳の汚れとは存じますが、では申します」といってこんな話をした。
 そこにおいでの御中※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)は、町方にいてお糸といっていられた頃、馴合なれあった踊の朋輩だった。いつか思い思われる仲になり、行末をちぎったこともあったが、そのうちに仲絶えて行会えぬようになった。おもかげは胸にとまって忘れたこともなかったが、このほど押原殿の養女として、上のご寵愛ちょうあいになったのは意外ともまた意外。いちど懇談して、その折の思いを通じたく存じていたが、中ノ門は固くて忍ぶに忍ばれず、もだもだしていたところ、七月はじめの宿居とのいの夜、ゆくりなく御腰掛の端居はしい出逢であい、積る話をして本意をとげた。そのとき、また逢うまでの思い草に舞扇を預ったが、それこそ秋の扇となりはてて、その後は風の便りもない。今夜、月見の御相伴にあずかり、下座にいてお糸の方の踊を拝見していたが、あまりの白々しさに腹がたち、我を忘れて尾籠びろうなことを口走ったという次第を述べ、言い終ってまた平伏した。
 播磨守の顔色が変ったようにみえたが、すぐ、ひょうげた顔になってお糸の方のほうへふりかえった。
「聞いたか。また逢うまでの思い草に、そちから扇をもらったと言っている」
「聞きました」
「町方にいるとき、そちと踊の朋輩だったそうな」
「そう申しておりました」
「庭先へ蹴落けおとしてくれよう。色呆いろぼけて、とりとめなくなったとみえる。その扇であやつの頭を叩いてやれ」
「でも」
「打て、存分に打ち据えろ」
 お糸の方は顔を俯向うつむけていたが、崩れるように畳の上に両手をついた。
「申訳ございません」
 そういうと、曙染めの小袖こそでたもとに顔をおしあてて泣きだした。播磨守は脇息きょうそくを押しのけてしとねから膝を乗りだし、崩れた花のようなお糸の方の襟足のあたりを、強い眼つきで睨めつけた。
「あやつの言ったことは本当か、おぼえがあるのか。泣いていてはわからぬ、顔を上げい」
 お糸の方は顔をあげると、涙にれた長い睫毛まつげを伏せて膝のあたりに眼を落した。
「腰掛の端居で、忍び逢ったというのは、本当か」
「はい」
「扇を遣わしたというのも」
「ご存分に遊ばして」
 下座から寿仙という幇間が飛びだしてきた。ツルリと禿げあがった頭のてっぺんを扇子の先ではじいて、
「いや、出来ました。これまたご趣向な。荻野万助、左七、べっこう、跣足はだしでございます。そこで一句……秋の人と成おおせけり月の宴」
 と、ぺこりと頭をさげた。
 立田川清八という関取が飛びだす、俳諧師はいかいしの貞佐が飛びだす。わいわい言いながらはぐらかしてしまった。播磨守は苦笑いをしながら盃を含んでいたが、白けた声で主水にいった。
「そこな鉄砲持ち、ここへ来い、前へ出ろ」
 主水はおそるおそるのていで前に進んだ。
「ここな女と並んで坐れ」
 主水は言われたようにお糸の方と並んで坐った。
「いかにも朋輩らしい面つきよ、似合うぞ、ついでのことに連れて舞え。舞ってみせろ」
 そうして、下座にひかえた押原右内にいいつけた。
「こいつらをくくり合せて連舞を舞わせろ。原富は三味を弾け、庄五郎は唄え」
 はっ、といって押原右内が立ちあがった。

 主水は勘当になり、湯島のお長屋を出て青山権田原ごんだわらの借家に移った。竹の垣根に野菊が倒れかかり、野分のあとのものさびしい風情ふぜいをみせている。代々木の森が明るいぬけ色になり、朝々、霜が降りるようになった。
 格別、落ちこんだような気もしない。うれいもない。身体からだにどこといって違和はないが、あの夜以来、気持にしまりがなくなった。寝るときのほか、ついぞはかまをはなしたことはなかったが、この頃は着流しで、帯も巻帯のままである。妻のお安は縁端で縫物をしながら、太郎とお徳を遊ばせている。勘当になったいきさつは、もとより知りぬいているはずだが、たわけな亭主だと思い捨てたかして、そのことには一言もふれない。生来、気性の勝った女なのである。
 主水は縁の陽だまりで膝を抱えて空を見ていたが、いかにも所在がないので、
「おい」
 とお安を呼んでみた。お安は膝の上から縫物を払って、こちらへ向きかえた。落着きはらった自若とした眼つきである。
「いや、なんでもない」
 お安はまた縫物を取りあげた。
 お安はなにか考えているが、なにを考えているのか主水にはわからない。女というものは誰もみなのぞきこんでも底の見えない、深いふちのようなものを一つずつ胸のうちに持っているように思えてならない。
「女の心はわからない」
 主水は口のなかでつぶやいた。
 後の月見の宴で、主水は群舞にまぎれてお糸の方を刺すつもりだった。もっとも、お糸の方と限ったわけではない。押原右内でも、多介子でも、ねずの三武でも、誰でもよかったが、おなじ目ざましをくれるなら、花々しいほうがよかろうと思ったのである。
 一藩の仕置をつかさどる譜代の重役が、卒爾そつじなざまで逃げるようにこそこそと退散するのを、主水は遺憾に思っていた。家中の違和に非理をたてようとすると、かえってわざわいを大きくするということを、これまでの例で身にみて承知した。争うことは内輪の紛擾ふんじょうを外部に発表する愚を招くだけでしかない。対立は禁物だ。家中の乱れは隠秘するにかぎる。見ていれば言いたいことも出てくるが、見なければ意見もない道理で、身を退くことがすなわち忠義なのである。趣意のすじはよく通る。通りすぎておかしいくらいだが、なにか一点、溶けあえぬものがある。家を思い国を思う真心は、見ねばすむといった浅墓あさはかなものではないようである。ではどうするといって、主水の頭から答えは出て来ないが、愚にもつかぬ悪党どもが、自由気儘きまま跳梁ちょうりょうするのを見すごしていては士道の一分が立ちかねる。この世に正邪の別のあることを、せめて思い知らしてやりたい。悪党ばらの一人を刺して、目ざましをくれてやろうと思ったのは、こういう気持からであった。
 この頃、酒宴のさなかに踊の心得のあるものが群舞をして興を添えることが恒例になっている。刺したいと思う者はみな群舞の仲間にいる。平素は中門にへだてられて近づくことが出来ないが、その機ならば素懐を遂げられる望みがある。
 あの夜、主水は群舞の仲間に入れられ、相手はお糸の方ときめ、続きの間の下座で時のくるのを待っていた。この女体は押原右内の道具のようなものでしかないが、御家頽廃たいはいの源の一つはたしかにそこにあるのである。そのうちにお糸の方が舞いだした。毒のある花だが、美しいことは美しい。正目まさめに見るのはこれがはじめてだが、話に聞いていた悪性女の感じはどこにもない。少女といってもいいような初々ういういしい稚顔おさながおをしている。手足の形も未熟である。舞もかくべつ上手だというようなものではないらしい。気を張って舞っているのがその証拠である。楽しそうにはしていない。踊の手振りの間に、それとない愁い顔をする。
 主水はお糸の方の舞の手振りを見ているうちに、この女を刺すということが、たいして意義のあることのようには思えなくなった。悪人ばらに、いささかの覚醒かくせいを与える効果はあるだろうが、それでお家の禍根を断つというのでもない。事をするのは簡単だ。刺してその場から逐電ちくでんするだけのことだが、この女が胸から血を流してのけるざまは、見られたものではなかろう。なんといってもむごたらしすぎる。
 そんなことを考えているうちに、この七月のはじめの夜、御待合の腰掛で舞扇を拾ったことを思いだした。
「女の心はわからない」
 主水はもう一度そうつぶやいた。御腰掛の密会も、舞扇も、すべて当座の思いつきにすぎない。ありもせぬつくりごとだったが、どういう心であの女が承服したのかそこのところがわからない。いまもってこれは解けぬなぞである。
 聞けるものなら、誰かに聞いてみたい。お安がもうすこし気持の広い女だったら、あの夜のことを仔細しさいに語って、そういう女の心はいったいどうしたものなのかと、たずねることもできるだろう。さっきふとお安に呼びかけたのは、どうやらそのつもりだったらしいが、それは望んでも無駄なのである。
 両脇りょうわきに子供をひきつけ、依怙地いこじなほど身体をこわばらせている石のようなお安の後姿を、主水は歎息たんそくするような気持で見まもった。扶持ふちを離れたといっても、明日の生計たつきに困るわけではない。縫物の賃をあてにしなければならないほど逼迫ひっぱくしていない。物を縫う女は一人置いてある。
 いつもは居づらそうにしてすぐ立って行くお安が、たどたどしく糸目を辿たどりながら、つづきの座敷に朝からかたくなに居坐っている。あてつけがましくていい気持がしない。恨みつらみを無言のうちに思い知らせようとしているとしか思えない。お糸の方と手を括りあわされ、満座のなかで馬鹿舞を舞わされた沙汰さたのかぎりのたわけ加減を聞かされたら、腹を立てずにはいられまい。うらめしくも、はかなくも、情けなくもあろう。無理はないとは思うが、そうならそうで、面と向って、怒るなり泣くなりすればいいのである。
 主水がそんなことを考えていると、お安は子供達を奥へやっておいて主水のそばに来て坐った。
 り加減の切長な眼のあたりを蒼ずませながら、素っ気ない切口上で、
「お話したいことがございます」
 といった。主水は正坐して脊筋せすじを立てると、
「どういう話だ」
 と殊更ことさら強く聞きかえした。向きあうと、かならずこういうかたちになる夫婦なのである。主水は狐拳きつねけんでもしているようだと思うことがある。
「このことは、お聞きにいれない約束になっておりますが、わたし一人の胸にためておけといわれても、重荷なばかりで、気持がうつしてなりませんから、それで、申しあげることにいたしましたのです」
 うむ、と主水がうなずいた。
「先夜、お糸さまがおいでになりました」
 主水はお安の顔を見た。
うわさには承知しておりましたが、ほんとうにお美しい方でした」
「どういう用向きで」
「舞扇を拾っていただいたお礼に、とおっしゃっていられました」
「礼などを言われる筋は、ないように思うが」
「お糸さまは、あなたに拾ってもらいたいばかりに、あなたの宿直の夜、扇を腰掛へお置きになったのだそうです。お糸さまは三河台の近くにお住いになっていたころから、あなたを慕っていらっしゃって、お忘れになる折もなかったのです。お上のお側に上る決心をなすったのは、もしか、あなたにお逢いできるかと、それだけが望みだったのだといっていられました。上のお側にいても、心はあなたのほうにばかり通い、身も世もない思いをしていらっしゃったのです」
 主水は腕を組んで眼をつぶった。
「お糸さまは飯倉のお長屋に押籠おしこめなっていられたのだそうですが、このほど、吉原へ奴勤やっこづとめに下げられることにきまったので、その前にお別れにいらっしゃったのです。この年から、お家で不義を働くと、女は吉原へやって、期限なし給金なしのくるわ勤めをさせるという御法令おきめになったのだそうですね。死にでもしなければ、廓から出ることができない儚い境涯になって、この世ではもうお目にかかる折もないだろうが、なまじいお顔を見ると、かえって思いが残るから、逢わずにこのまま帰る、この話はあなたの胸だけにおさめて、あの方にはお聞かせくださるな、とそうおっしゃって」

 九月二十七日の夜、主水は池ノ端の松永久馬という未知の人から急々の使いをうけた。用談は御面晤ごめんごの節と書いてある。とるものもとりあえず宛名あてなのところへ訪ねて行ったが、手紙の主は他出したまま、まだ帰っていなかった。
 湯島へぬけるので、男坂を上った。まだ宵の口で、大根畠だいこんばたけ小格子こごうしといっている湯島の遊女屋へ行くぞめきの客が歩いている。板倉屋敷のそばまで行くと、角のもち屋の天水桶てんすいおけや一ト手持てもち辻番つじばん小屋の陰からムラムラと人影が立ちあがった。押原右内がいる、多介子たすけご重次郎がいる、松並典膳、瀬尾庄兵衛、はらやの小八、清蔵五郎兵衛、ねずの三武、それに化物の中小姓が五七人、関取の立田川までまじって、板塀の片闇かたやみをおびやかすほどに押重なっている。
 急使の消息はこれでわかった。用談は御面晤の節とはよくいった。なるほど、この上のことはないわけである。
 あの夜、勘当になって上の御広間から退さがるとき政岑が、
「武家のおきてを知っているだろうな。おぼえて居れよ」
 といった。お家の不義は双方討ちとむかしからきまっている。お糸の方が吉原へ奴にやられ、こちらは勘当で捨ておかれるのは、チト偏頗へんぱな御処置だと思っていたが、こういう次第に逢着ほうちゃくするなら、いっそ至当の成行といっていいのである。
 ねずの三武が、やッとりかけてきたが、やいばの立てかたも知らぬ出鱈目でたらめさで、笑止なばかりであった。
 はらやの小八は、えらい向う気で、
「スチャラカチャン」
 口三味線でやってきた。これは胴斬りに斬って捨てた。
 この仕置は一ときばかりつづき、男坂の界隈かいわいを血だらけにしたところで終った。押原右内は男坂をはね越し、新花町へ逃げこんだが、そこで仕留められた。この夜、主水は十人あまり斬っている。

 元文げんぶん元年の八月、内藤新宿の橋本屋で心中があった。男は鈴木主水という浪人者で、相手は白糸という遊女だった。書置があった。
 手前事、長年、播州ばんしゅう侯のお名を偽って遊里を徘徊はいかいしたが、まことにもって慚愧ざんきのいたり
 と書いてあった。
 その年の九月十五日、榊原家の留守居に老中連名の奉書が交付された。すぐ早打で姫路へ知らせたので、親類、能勢因幡守、榊原七郎右衛門、同大膳の三人が十月の十二日に江戸へ着き、十三日に柳営へ出た。黒書院溜くろしょいんだまりで老中列座の上、大目附稲生下野守しもつけのかみから書附をもって、
式部大輔儀常々不行跡に付、隠居被仰付候急度相慎可罷在候、且、大手先屋布被召上、池之端下屋布居住可仕候
 という御達おたっしがあった。
 家筋を思召おぼしめされ、家督は相違なく嫡子ちゃくし小平太(当年八歳、後に政永)へ下置かれるむね、月番老中本多中務なかつかさ大輔から申渡された。十一月一日、越後国頸城くびき郡高田へ国替を命ぜられ、翌年、入部した。隠居の政岑は、その年、三十一歳で池の端の下邸しもやしきで死んだ。鈴木主水の書置はどれほどの効果があったか知らないが、一説には、このために半地召上げを許されたともいう。「白糸くどき」のヤンレイ節が流行したのは、元文二年の末ごろからのことであった。
昭和二十六年十一月「オール讀物」発表





底本:「歴史小説の世紀 天の巻」新潮文庫、新潮社
   2000(平成12)年9月1日発行
初出:「オール讀物」
   1951(昭和26)年11月
※表題は底本では、「鈴木主水もんど」となっています。
入力:佐野良二
校正:noriko saito
2014年10月13日作成
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