新西遊記

久生十蘭




 宇治黄檗山おうばくさんの山口智海という二十六歳の学侶が西蔵チベットへ行って西蔵訳の大蔵経(一切経または蔵経、仏教の典籍一切を分類編纂したもの)をとって来ようと思いたち、五百三十円の餞別を懐ろに、明治卅年の六月廿五日、神戸を発って印度のカルカッタに向った。
 日本の大乗仏教は支那から来たせいで、蔵経も梵語サンスクリット(古代印度語)の原典の漢訳であるのはやむをえないが、宋版、元版、明版、竜蔵版とかれこれ読みあわせてみると、随所に章句の異同や遺漏があって疏通をさまたげるところへ、天海版、黄檗版、卍蔵版などの新訳が入ってきたので、いっそう混雑がひどくなった。
 漢訳大蔵の模稜は早くから問題になっていて、それから八年後、日露戦争当時、明治天皇が奉天の黄寺にあった年代不明の満訳大蔵と蒙古大蔵を買上げ、校合の資料として東京帝大へ下附されたようなことまであったが、仏教は印度教(波羅門教)の興隆で大打撃を受けたうえ、八世紀の末、回教が侵入してきてあらゆる寺塔と仏像経巻を焼き、僧侶と信徒をかたっぱしから虐殺するという大破壊を二世紀にわたって行なったため、仏教は印度では形骸もとどめず、梵語経論の写本の一部がセイロン島やビルマ地方に残っているだけだから、漢訳大蔵を正誤するなどは、望んでもできることではなかった。
 大乗仏教が西蔵へ入ったのは七世紀頃のことで、トンミという僧が印度から大蔵の原典を持って帰って西蔵語に翻訳し、ついで蓮華上座師が仏教の密部を西蔵の原宗教に結びつけ、西蔵を中心に満洲、蒙古、シベリヤから裏海沿岸にいたる一千万の信徒をもつ西蔵せいぞう仏教の基をひらいた。西蔵人は高原パミール系の印度原住民の分流であり、西蔵語なるものはトンミが梵語のランツァたいをとってつくった国語だから、西蔵大蔵の「甘珠爾カンジュール」正蔵千四十四巻、「丹珠爾タンジュール」続蔵四千五十八巻の二部は、よく経、律の機微をつたえ、漢訳仏教にない経論がたくさん入っている。黄寺にあった満訳大蔵も蒙古訳大蔵もみなそれの翻訳で、梵語仏典の写本の校合すら西蔵訳の助けをかりるくらいのものだから、それを持ちだすことができれば、仏教伝来千三百年にして、はじめて釈迦所説しょせつ正念しょうねんに触れることができるのである。
 明治廿一、二年から日露戦争のはじまるまでの十七、八年間は、かつてないほど国民的感情が昂揚し、日本人の心に国家という斬新な感情を目ざめさせた。岡本監輔の千島義会の結成から福島中佐のシベリヤ騎馬横断、郡司大尉の千島探検、野中至夫妻の富士山頂の気象観測にまで発展する愛国心のブームのなかで、進んで国家的な事業に身を捧げようという受難者型のタイプが何人かあらわれたが、なかでも玉井喜作と山口智海の行動は傑出している。
 玉井喜作は山口県三井村の出身というほか、経歴はなにひとつ知られていない。郡司大尉の千島探検隊の出発から遅れること十カ月、福島中佐が単騎旅行を終えようとする明治廿六年の十二月、イルクーツクでロシア人の茶の隊商に加わり、福島中佐と逆コースをとってシベリヤ徒歩横断の旅行にのぼった。
 その頃、シベリヤ経由の茶の隊商の旅行は、寒気、プルガ(暴風雪)、狼群、流賊との戦争、ペスト、大飢餓というぐあいにあらゆる災厄の要素がそなわっていて、その隊商もポーランドの国境に着いたときは、四百五十人の人間が三分の一になっていたということである。玉井喜作は最後まで隊商から離れず、歌にもうたえないような一万五千粁の旅行をつづけ、翌々、廿八年の二月に独逸へ入り、ベルリンで Karawanen-Reise in Sibilien(「西比利亜征槎旅行」)という本を刊行した。イルクーツクからトスムスクまでの千八百粁の見事な素描は、欧亜をつなぐ茶の隊商の生活を知る唯一の文献だとされ、独逸地理学協会の紀行文庫へ収録されたが、当の玉井喜作はそれっきり欧羅巴のどこかへ消え、その後誰も逢ったものはない。玉井喜作はその本の序文で、「汽船の船室に閉じこもって欧羅巴へ行くのは月並だから、わざとこういう道をえらんだまで」といっているが、ありきたりの旅行が月並だというだけのことで、それほどの波瀾と艱難に耐えられるものだろうか。もし事実なら不可解というほかはない。
 山口智海が西蔵へ密入国して、ラッサ(聖都)に達するまでの苦行は、玉井喜作のそれよりも荒々しく凄涼としていて、幸も不幸ももろともにおし潰してしまう悲劇的な宿縁の翳といったようなものが感じられる。二万一千尺のヒマラヤ越えだとか、孤独無援の百日の凍原の旅だとか、異教徒と見れば、八ツ斬りにして野犬に食わしてしまう狂人じみたラマ教徒だとか、匪賊だとか、雪豹だとか、そういう道具立てはべつにして、入蔵を企てるそのこと自体が無謀な振舞いであり、無益な消耗であって、人間の精神がこれほど肉体をさいなみ、躍起になって無意味な目的に駆りたてて行く例もすくない。
 西蔵のラッサは、今なら自動車を利用すれば、ブータン(西蔵と印度の間にある小独立国)の国境に近い印度のダージリンから五日ぐらいで行かれるが、つい二十世紀のはじめまでは、国境のまわりに立ちめぐる一万六千尺から三万尺に及ぶ山脈の防壁を利用し、乖離かいりと排他主義の精神をおし樹てていた頑冥な閉鎖国で、清の高宗が辺外諸部との交通を禁止した乾隆十五年(一七四九)から、民国三年(一九一四)のシムラ会議まで、百六十五年の間、欧米人と名のつくもので、ラッサはおろか、西蔵本部(南部の渓谷地方)への潜入に成功したものは一人もない。一七四九年の鎖国以後に入蔵を企図した、英、露、仏、独のあらゆる探検隊の実例が示すとおりである。
 西蔵は唐代に西域諸州を侵略し、長駆して長安を攻めた慓悍な吐蕃の国で、北に崑崙コンロン、東にタングラ、南は二万九千尺のエヴェレストと二万八千尺のカンチェンジュンガを含むヒマラヤ、西はトランスヒマラヤの雄大な山脈をめぐらし、地域の半分が一万五千尺以上もある大高原地帯である。
 西蔵は本部と外部に分れ、外西蔵は日本の内地のほぼ三倍ほどの広さの西北原チャンリンといわれる高燥不毛の地で、平均高度一万八千尺、冬は零下四十八度まで下るので空寂たる無住の凍原となり、六、七、八の三カ月、ところどころに遊牧民の天幕が見られるだけである。本部は西北原の南にひろがるほぼ日本ぐらいの面積の低地だが、低いといっても渓谷地方で海抜九千尺、平均高度一万四、五千尺、富士山の頂上より二千尺も高いところに日本の全面積を載せ、そこに西蔵を仏法相応刹土さつどと誇る、おそるべき二百万人のラマ教徒が住んでいる。
 ラマ(喇嘛)教は、神力加持を説く密教(仏教の一流派)を精霊信仰の西蔵の原宗教(シャマニズムの一種)に結びつけ、輪廻と転生を信じ、超自然の神秘力に帰依する多神教の秘密咒教じゅきょうである。ラマ教の教理によると、人間の身体は地火風水の四つの要素からできていることになっている。したがって死んでもとのかたちに還元するにも、地、火、風、水の四つの道があるが、死体は穢れの最上のものなので、土葬して汚穢がながく地の下に残るのを好まない。火葬がいちばんいいのだが、樹林がともしくて燃料に苦しんでいる国柄だから、いきおい水葬か風葬ということになる。水葬は河に流すのだが、ただ投げこむのではない。手を斬り足を斬り、形のないまでにバラバラにして投げる。そのほうが魚が食いやすいのだという。風葬というのは、犬か鷲に食わせることで、岩山の平らなところへ担ぎあげ、肉は肉、骨は骨にして、石で叩いて手で捏ね、すさまじい肉団子をこしらえ、手も洗わずに恬然てんぜんたる顔で茶を飲んでいる。
 ラマ教徒はすべて激越な狂信者で、一種独得のクリュオーテシスム(加虐性)については、鎖国前一七〇六年に入蔵した伊太利の耶蘇会士イッポリート・デシデリが、「思い出すだけでも身の毛がよだつ」と旅行記に書いている。ラマ教徒の手に入った残酷技術の花々しさを証明するものは拷訊と刑統で、律書できめられた重罪は七十二条、これにたいする刑統(刑の種類)は千八百八十六条という豊富さである。
「ラマ教徒の残虐の熱愛と狂信が思いつかせた拷問と刑罰は、技術の繊細巧緻と創意のすばらしい点で、人類の歴史に残るすべての方法を凌駕し、トルケマダ(天才的な拷問の方法を案出した西班牙の宗教裁判判事)やアルベ(和蘭の叛乱者裁判で前例のない残酷な処刑を行なった)も及ばないような完璧さを示している。
 一例をあげると、それはこんなふうにやられる。西蔵の律法はすべて連坐法(子が罪を犯せば、その父も、父が罪を犯せば、その子も同罪になる)によるので、父と子、夫と妻がいっしょに刑場へ出てくるが、刑僧はまず二人に大きなヤットコを示し、これから歯抜きの刑を行なうと宣告する。そうしておいて、剃刀で二人の髪を剃りはじめる。受刑者には歯抜きの刑に頭を剃るというのは、どういうことなのか理解できないが、間もなく、西蔵の刑術はおどろくほど洗練されたものだということを知るようになる。頭を剃り終ると、刑僧がヤットコを受刑者の一人に渡し、父に子の歯を、子に父の歯を、というぐあいに交互に抜かせる。刑僧は直接になにもしない。円滑に刑が進行するよう傍で鞭撻するだけである。はじめのうち、受刑者たちはやさしくいたわりあっているが、そのうちにたがいに呪咀しあい、最後はあらんかぎりの憎しみを投げあう眼もあてられない場面になる。歯は全部抜けたが、刑は終ったのではない。そこからはじまる。こんどは、抜いた歯をたがいの脳天へ金槌で打ちこまなくてはならない。さっきの毛剃りは、歯を楽に頭蓋骨へ嵌入させようという親切な配慮だったことを、ここではじめて諒解する。なおまた、受刑者が仏敵であるときは、打ちこんだ歯の配列が、仏陀のイニシアルになっている梵字のチベット文字ta+音節区切り記号のグリフのフィギュアを描くように、傍から丁寧に指示するのである」
 受刑者の身体を焼く刑罰にしても、西班牙や独逸では、石炭の火を入れたアイロンで身体を撫でまわすとか、蝋燭の火で気長に腋を焼くぐらいのことしかしないが、そういう場合、ラマ僧は硫黄のかたまりに火をつけてどろどろになるのを待ち、焔のたつ硫黄の溶体を棒の先ですくって、ここと思うところへ気まぐれに塗りつける。受刑者が火を磨り消そうと努力すればするほど炎の面積が広くなり、燐が骨を腐蝕する時間が早くなる。つまり刑罰の主要なモーメントの案配は、受刑者の自由意志に任せるといったぐあいになっている。
 この二つの例だけをとってみても、ラマ僧は残酷の真の意味を理解していることがよくわかる。相手に与える苦痛そのものにたいする洞察力と想像力は、どんな智力でも及びつけないほど深い。見せかけのむごたらしさに眩まされるようなこともなく、客観的な残虐さに酔い痴れるようなこともない。あくまでも実際的で、受刑者の感受性を土台にして周到に計算され、相手の苦痛を想像力で補ったり割引したりするような幼稚な誤りをおかさないのみならず、単純ないくつかのマニエールに独創的な組合せをあたえることによって、誰も想像もし得なかった測り知れぬ残酷の効果をひきだすのである。
 ラマ教徒の残虐精神が活発な動きをみせている間はまだしも助かるが、怠けて動かなくなると、刑罰はたとえようのないほど陰惨なものになる。その一つの例が西蔵式のカロリナ刑法である。
 樹皮を剥がない丸太の二重柵で囲った十尺四方ぐらいの空地のまんなかに、長さ四尺、高さ一尺五寸ぐらいの檻が置いてある。それは受刑者が生きたまま入れられる監房なのである。受刑者は首と両腕を一つの鎖でいっしょくたにまとめられ、坐ることもできなければ身体を伸して寝ることもできず、背を曲げ、何年となくかがんだままの恰好でいるので、四肢は使途を失って骨と皮ばかりになってしまう。食餌は番僧が思いだしたとき、檻の鉄棒の間から便宜に投げこまれる。西蔵ではめずらしくない零下二十度という寒い日でも、蔽い物として羊の皮を一枚与えられるだけである。欧羅巴のカロリナ刑法は、拘禁が餓死に導くように配慮されているが、西蔵人のやりかたは、カロリナ刑法から餓死の部を引き去り、それにハンブルグの鎖拷問と西班牙の拘搾拷問を附け加えたものであることがわかる。
 これがラマ教徒の加虐性が怠けているときの結果だが、そういう状態で、最低五年から二十年ぐらいまで忘れられる。受刑者のことだが、そうしておし縮められた肉体の苦痛は言語に絶するものがあろう。飢えさせられ、てつかされ、呪われたものの呵責をこうむりながら、どうして生きていかれるのだろう。人間の智慧ではわからないことだが、ここにもラマ教徒の行届いた残酷技術の勝利があることを知らなくてはならない。というのは、そういう不幸な受刑者の命の緒をつなぎとめ、天寿が終るまで、ゆるゆると生きつづけさせる延命薬のようなものが発明されていて、渇きの頂上で水に混ぜてこっそり飲ませる。自殺を企てて食餌を拒むものでも、水だけは飲まずにいられない人性の必然を利用するわけだが、当人は、こんなひどい目に逢いながらどうして死ねないのだろうと訝り、第三者は、こんな状態でよく生きていられるものだと驚嘆するのである。
 おなじころ、鎖国前の享保四年(一七一九)に入蔵した、カプチン派の伝道士フランシスコ・デラ・ペンナは、ラマ教の実体を紹介した最初の欧羅巴人だが、ラマ法皇の悲劇的な境遇と、大臣連の公然たる弑逆の風習について詳細な報告をしている。
 ラマ教は中世に旧教(紅教)と新教に分れたが、元代に蒙古王の忽必烈フビライがラマ新教に帰依し、パスパという僧に西蔵の統治を委任したのがはじまりで、代々の貫主が枢機にあずかっていた。その後、五世貫主は政教を統一して大僧正と国王を兼ねる事実上の法皇(ダライラマ)第一世となり、タシルムポの副城に副王(パンチェンラマ)を置いて西蔵国を興したが、康熈五十九年(一七二〇)に内乱があり、清の聖祖は鎮撫に名を藉りて兵を出し、督弁政務使をやって政刑に干渉し、間もなく清国の属領にしてしまった。
「西蔵仏教は輪廻の教えや転生の説のほか、口で説明できないような深玄な汎神論のなかで浮動しているが、ラマ教の教理にしたがうと、法皇は観音菩薩の化身で、死ぬとすぐ転生して、誰かの胎内から産声をあげて出て来、降生的に法皇の位をつぐことになっている。
 法皇のなかには、臨終の床でこんどは何村の某の子になって生れるから、その子をおれだと思えと遺言して死ぬ用意のいいのもあるが、そうでないと、法皇が息をひきとった時間に生れた子供を手分けして探す。一人だけであってくれればこれに越したことはないが、三人も四人もいると、いるだけの子供を候補者に指定して五歳になるのを待ち、子供の名を書いた紙を繭玉に封じこんで金ピカの甕に入れ、督弁政務使が象牙の箸で繭玉を一つつまみだす。その子供がつぎの法皇になるのである。
 法皇えらびは西蔵ではもっとも厳粛な儀式になっているが、といって絶対に掛引がないとは断言できない。自分の子供が法皇になると、一族のうるおいはたいへんなものだから、政務使や大参事に莫大な袖の下をつかい、自分の子供の名を挾みだしてもらえるように奔走する。
 幼王が定年に達するまで副王が摂政するが、その十何年間は、閣僚や高官にとって、なによりありがたい書入れ時になる。副王にはなんの権力も与えられていないので、自分たちでいい加減な政治をとり、思う存分に私腹を肥すことができるからである。その連中のねがいは、法皇が永久に五歳のままでいるか、白痴であってくれることで、英邁俊秀といったタイプをなにより嫌う。三代から七代まで、五人の法皇のなかで、廿五歳まで生きのびたものは一人もいないが、それらはみな巧妙な方法で暗殺されたと信じられる節がある。
 八代の法皇が急病で床についたとき、立会人にえらばれて、法皇宮における医官の奮闘ぶりを見る機会を得たが、逝去するまでの前後の情況は、この世にこんな暗殺の方法も存在することを紹介するためにも、充分に記述する価値のあるものである。
 ダライラマ八世は、機才に富む、聡明な、そのうえまれにみる健康の保持者で、廿三歳になるまで、病気らしい病気をしたのはそのときがはじめてだった。熱が高く、汗を流し、発作的に咳きこむたびに軽度の痙攣があった。感冒をこじらせ、気管支炎喘息をおこしかけているくらいのところで、手早く処置すれば四、五日で快癒する程度のものであった。
 治療はまず騒ぞうしい祈祷からはじまった。ラマ教の信仰では、病気はすべて悪魔、厄鬼、死霊などのなすわざであり、悪魔を祓ってからでなければ、どんな名薬を飲ませても効目がないことになっているので、医者で修咒者より先に病室へ入るようなことはありえない。法皇の場合といえども、違法はゆるされないのである。
 大修験師を先頭に十六人の修咒者が入ってくると、あるだけの窓をみな開けはなしてしまった。せっかく祈りだしても、厄鬼が逃げて行く道をつくっておかなければなんにもならないのである。修咒者は床に坐りこんで大きな円陣をつくり、凛烈たる寒風の吹きこむのにまかせ、振鈴や太鼓の伴奏で咒文の合唱がはてしもなくつづく。法皇は濛々たる線香の煙の氷のような冷たい夜風を吸いこんで、とめどもなく咳きこむ。法皇にとりついている羅苦叉鬼ラクシャキ鳩槃陀鬼クハンダキが、祈りの力に抵抗して最後のあがきをやっているのである。修咒者はここぞとばかり太鼓を鳴らす。そういう無情な行を夜明けまでやる。法皇は呼吸痙攣をおこし、酸素欠乏で失神してしまう。大修験師は厄鬼を祓ったといって、法皇を医者の手にわたす。それからいよいよ治療にとりかかる。
 侍医長が十人ばかり医官を連れて入ってくる。まず腕から一ヴァース(約一合五勺)の瀉血をし、肩に傷をつくって吸いガラスでほぼ同量の血を絞りとる。法皇の頭を剃ってユーカリの油に芥子とアラビヤゴムを混ぜた発泡膏を貼り、馬銭子(マチン)の種と曼陀羅(チョウセンアサガオ)の葉を煮だした熱湯で足を罨法する。そういう殺人的な処置をしておいて、おもむろに投薬を開始する。
 侍医長がいちいち入念に毒見して医官に返す。まず檳榔子とタマリンドの果肉の煎汁に鼈甲の粉末をまぜた下剤を三カデックス(約三合)ほど飲ませ、吐剤として牛※(「釐」の「里」に代えて「牛」、第3水準1-87-72)(ヤク)の糞と芸香と銭苔を練りあわせた丸薬を一ドラチューム(約十匁)、鎮咳剤として印度大麻の葉、落葉松茸(エプリコ)、金銀花(スイカズラ)の花の煎汁をそれぞれ二カデックス(約二合)ずつ。乾漆(ウルシ)合歓(ネム)の木の樹皮の粉末をパパイヤの乳液で溶いた下熱剤を一ポスラム(約五合)あまり、これだけのものを渋滞なく矢継早やに飲ませる。
 ここでちょっと中休みをしてようすを見る。容態はいっこうによくならないので、瀉血から下熱剤までの過程をはじめからもう一度くりかえす。法皇は三時間ばかりのあいだに二ラゲーナ(八合強)の血をとられ、そのかわりに七ラゲーナ(二升八合)の高貴薬の煎汁を収めたことになる。二回目のクールの終りに近づくと、法皇は息もたえだえになり、溺死の一歩手前のところで藻掻いている。合議のうえ医官らは非常処置をとることに意見をまとめる。督弁政務使、大参事、大書記官、大臣以下、金繍きんしゅう職帯しょくたいをしめ大きな立毛のついた礼帽をかぶった枢機員が、法皇の転生をちょっとばかり早める事務の、最後の仕上げの部分を検分するために入ってくる。
 侍医長は、羚羊の生血と、猿の脳エキスと、印度大麻草の煎汁と、樟脳精を混合した強心剤の大椀を捧げ、西蔵風のアラベスクを金象嵌した極彩色の法皇の寝台へ近づいて行く。法皇は恐怖の叫び声をあげて無益な抵抗をするが、たくましい医官に左右からおさえつけられ、なにも受けつけなくなっている咽喉の奥へむりやりに強心剤を注ぎこまれる。五分後、ダライラマは眼もあてられぬ苦悶のうちに息をひきとった」
 耶蘇会士の異色ある「異邦伝道報告書」のなかでも、寛永六年(一六二八)に欧羅巴人として最初にラマ教徒の聖都に足を踏み入れたルイ・ドルヴィルの地理学的な史料は、旅行記としてもすぐれ、キルヘルの「支那図説」の中に収録されているが、海抜一万六千尺という地球の頂上にある冥蒙たる地域に、紀元前三世紀に滅びてしまったニネヴェ古代帝国以来の燦然たる文化の遺業をそのままにたもち、周囲約一マイル、延長三十八マイルの廻廊をめぐらす大宮殿と、二万の学徒を収容する三つの大学があるという、光明の都、拉薩ラッサの危険なまでに美しい記述は、読むものを夢心地にさせ、西蔵の周辺で多くの探検家を破滅させる機因をつくったといわれている。
「ゆくてにはやさしいなだらかな小山があるばかりであった。褐色の平原がゆるく波をうちながら茫々とひろがっている。大気は完全な均衡をたもち、人の気配はさらにない。締めつけるような沈黙のなかで、自然が魔法にかかったように四季のめぐりをとめている。人間と季節に見捨てられた異様な眺望であった。
 山のむこうにはまた空漠たる曠原が待ちうけているのだろう。それはもう十分に予期されることであった。かすかに残っている野馬の踏附け道をたどりながら頂きまでのぼりつめると、なんの前触れもなく、いきなり眼の下に現出した壮大な景観に思わず声をのんで立ちすくんだ。
 曠原のファンタジア――その蜃気楼を一瞥したときのおどろきを、どう言いあらわしていいかわからない。そのときほど強く心霊をゆすぶられた経験は、かつて一度もなかった。
 はるばるとひろがった平野のまなか、突兀たる岩山を背にした雪のように輝く白堊の大宮殿と仏殿と僧院の大群落が、乾燥した空気の作用で、無類の鮮かさでクッキリと浮きあがっている。岩山の頂きには古代契丹の放胆な規模を思わせる仏殿があり、無垢の黄金と黄瓷を載せた天蓋が、青銅の緑と大斗たいとの朱と照応して虹のような美しい光を空に放っている。その下の宮殿は立方体式の宏壮な石※(「土へん+專」、第3水準1-15-59)を幾層となく積みかさね、幾何学的配列で窓をうがった正面の壁はやや前方へ傾斜し、古代エジプトの神殿建築のバイロン(塔門)の様式に似ている。正面だけでも半リーグ(約半里)以上もある建物が岩山の南面の半ばを蔽いつくし、それを中心にして、拝殿、祠殿、霊廟、僧院、仏塔と幾百の堂宇が無数の石階や石廊や拱門で縦横につながり、四千年前に消滅したテーベの栄華の宮殿の復原図を眼のあたりに見るような幻想的な画面をつくりあげている。
 空を摩して聳えるヒマラヤ山脈の等高地帯、喜水キチュの渓谷に、西蔵の主都であり西康、青海、蒙古、新彊、露領トルキスタン、裏海沿岸に住む黄ラマ教一千万の信者のメッカになっている拉薩という都があることは知っていたが、モンブランの二倍ほどの高さのユングリング・リラの切通しのかなた、西蔵高原の風雪に櫛けずられた広袤一千リーグ(方千里)の荒れ地の果てで、眼をおどろかす荘厳華麗な大都市の実在プレザンスに接しようなどと誰が想像したろう。
 ポンタマー・ホ(玉の宮殿の意)と名づけられている大宮殿の壁の厚さはただごとではない。鼓楼のある三つの大門と、電光形の石階と、迷路のように上下八方に通じている暗道の仕掛を見ると、この宏大な宮殿は王宮と城塞をかねていることがわかる。神獣や曼陀羅を彫刻した仏殿のおどろくべきコレクションや、黄金の蓮の花の上に立っている宝石を鏤めた十六アンパン(約八十尺)の純金の仏陀像を挙げずとも、ラッサがラマ教徒の聖都だという不変の証拠がある。数えきれぬ僧院と精舎で唱和する読経の声が、鐃※(「金+拔のつくり」、第3水準1-93-6)と太鼓の伴奏で絶えることなく空中にただよい、メッカをめざして何百里の困難な旅をしてきた巡礼が、半リーグもある長い参道を、一歩ごと額を大地にうちつけながら、大仏殿のほうへ這って行く敬虔なすがたが見られる」
 アフリカ大陸の暗黒地帯、サハラ砂漠の中央、黒人国イスラム王国の文化の中心になっているトンブゥクツーという学問の都があって、そこのサンコレ大学にギリシャ、ラテンの詩文の写本やアラビヤ語の古典が集まっているといわれ、回教の大学生がトンブゥクツーの黄金の富の鵞鳥のペンでトルコ王に書き送ったという佯りの記述があるが、ラッサは伝説のなかにあるのではなく、絹の交易路を通って印度を横断し、ブータンとパミールを経て入ってきたシリヤ、ペルシャの文化の原形が潴溜ちょりゅうしている学問の偉大なる都なのである。ラッサの近郊にはデプン、セラ、ガルダンという三つの大学があり、大学は三つのターサン(部)に分れ、ターサンにはおのおの十八のカムツァン(科)があって、二万五千の学生が、中亜梵語のブラーフミーやゾクト語やウィーグル語などの死語で、仏典や経論の研究をしている。大仏殿の経蔵には七世紀のはじめに版行した西蔵語訳のカンジュール(一切経)をはじめ、六朝唐代の石摺の経本(唐拓)、※(「示+夭」、第3水準1-89-21)経(拝火教の経典)、摩尼教の教本、景教(ネストリアンというキリスト教の一派)の経本、ザラツシトラ教の経本など、千年も前に消滅してしまった世界宗教の経典が原本のままで残っている。
 濠洲の内部と中央アジアの探検が終ったので、世界地図の「白い部分」は、両極は別にして、人間の住む地域では、アフリカのイスラム王国と西蔵ということになった。イスラム王国のほうは、一八二七年(文政十年)にルネ・カイエというフランス人がトンブゥクツーを見、生きてそこから出てきた最初の欧羅巴人としてフランスへ凱旋したので、もはや神秘と冥蒙の国でなくなり、西蔵だけが知られざるただ一つの土地として残された。異邦伝道報告書で明るみだしたとはいえ、それらは人情風俗のほのかな瞥見でしかないから、地理学上の知識を得ようと思うなら、西蔵へ入って自分の手でヴェールを剥ぐしかない。それで、一八一一年(文化八年)のマイエングを最初に、英、仏、露、洪、米、瑞の探検家や地理学者が西蔵の堅固な障壁に挑戦しだした。
 印度からラッサへ入るには、ダージリンからヤートゥンを経由する公道のほかに、桃渓へ迂回する傍道と、カンチェンジュンガの西の鞍部、二万三千尺のユングリングリラ越えをして西から入る間道がある。印度からの入蔵を避けようとすれば、西康、青海、トルキスタン方面、ほかに怒江の上流の西寧を経由する方法もあるが、西蔵内部の交通路は、どんな間道を縫って入ってきても、上手な将棋指しが一つの駒であらゆる敵の進路をおさえてしまうように、いつかは公道を通らずにはすまぬ抜目のない設計になっているので、結局、外西蔵のどこかの道関で食いとめられ、国法を犯し、仏法相応刹土を洋夷の靴で穢した大罪によって、五体投地ごたいとうち稽首作礼けいしゅさらいという苛酷な刑に処せられる。西蔵馬に乗った押送使と四人の警兵が附添い、大地に平伏して摩※マニ[#「てへん+尼」、U+62B3、141-上-15](ラマ教の真言しんごん)をとなえさせ、何十里あろうとおかまいなく、西康なり青海なり、潜入してきた国境まで匍匐ほふくさせる。
 何週間かかかって国境まで這い戻ると、裸馬に乗せてはるばる甘粛新彊まで送って行き、カラコルムの峠を越えたツァイダムの沙漠の入口で、足のうらにうるしを塗って釈放する。食物も水もくれないが、一日行程のところに水があることと、行くべき方向をくわしくおしえる。一日行けば水にありつけると、夢中になって歩きだすが、間もなく、発泡剤のおかげで足のうらに水膨れができ、匍匐するほか進めなくなる。空気の乾燥した土地では、水無しで生きられるのは、十九時間を限度としているが、異常な忍耐で、水のあるところまで這い着いた人間だけが、生きて帰ってきた。
 さいわいに外関(国境に近い道関)をすりぬけることができても、その先に内関(府関)が待ちうけている。どの方面から来ても、ラッサへ入るには五カ所の関門で査閲されるが、反坐法という複雑な手続きがあって、どんなに急いでも廿日はかかる。まず第一関で仮照(仮りの通行券)をもらうのだが、それには区長と五人の村民を保証にたてなければならない。まちがって異邦人を通したような場合、区長と五人の村民が同罪に坐す仕組みである。仮照を持って第二関へ行くと、西蔵語の書試と口試を経て、清国駐蔵大臣の直轄する第三関へ送られる。清国人に扮装して入ってきたものは、すべてここで最期を遂げる。つぎに第四関でもう一度入府の請願をし、仮照を返してほんものの護照を受け、府関査察のいる第五関で通関税と入府税をおさめ、護照に入府許可の査証を請托する。そこから第三関へ戻って、第三関、第四関、第五関と順々に関長の副印をもらい、それでやっと府内へ入るのである。
 文化八年のマイエングから明治廿九年のスウェン・ヘディンまでの探検家のうち、ラッサの潜入に成功したのは、フランスの宣教師ユックとガベェの組、サラット・チャンドラというブータン系印度人の西蔵語学者だけで、あとはみな西蔵の辺外諸部で不幸な終りをとげた。ブルジェヴァルスキー将軍などは、十五年にわたって、北と東から四回も潜入を企図したが、とうとう目的を達することができず、ボンヴァロは、ラッサを距る百哩ばかりのテングリ海のそばで、リットルデール夫妻はラッサを指呼の間に望む、あとわずか五十哩というところまで迫りながら、いずれもラマの兵僧に発見されてしまった。

 麻の衣に網代笠、風呂敷包を腰につけ、脚絆に草鞋という、頭陀行ずだぎょうに出る托鉢僧のような恰好で山口智海が日本を出発した、明治卅年までの、これが西蔵探検史の概略だが、智海はそういう事情を、なにひとつご存知なかった。お前は西蔵へ行くというが、西蔵というのはどんなところかと聞かれたら、知らないと答えたろう。近年ウーヘッドが「支那年鑑」で、西蔵の面積は一、一九九、九九八平方粁、人口約六、五〇〇、〇〇〇と発表したが、それにもいろいろ異説があるくらいだから、探検家でさえ空しく西蔵の周辺を彷徨しているという時代に、日清戦争が終ったばかりの日本で、西蔵の正確な概念を得ることなどできる訳のものではなかった。身につくものといえば、康熙五十三年版「官板西彊四大部図」を謄写した手製の西蔵地図、光緒二年に北京で出版された天主公教会の神父有向の「韃靼旅行雑写」(アッベ・ユック「韃靼古道」Abb※(アキュートアクセント付きE小文字) Hu※(セディラ付きC小文字) Haute voie de Tartare の漢訳)、十年ほど前、サラット・チャンドラという西蔵語学者がラッサから大量に史料を持ちだし、印度のダージリンで西英対訳辞典の編纂をしているそうだという知識ぐらいのもので、それで、とりあえずその人に逢って入蔵の方法をたずね、できたら、紹介状のようなものでも貰おうと考えていたのである。
 地図の上では、ダージリンからブータンを通って、東北へ十五、六日歩けばいいのだが、この道は、百五十年前から厳重に閉鎖されているので、ブータンの西隣りのネパールへ行き、エヴェレストにつぐ世界第五の高山、ドーラギリを二万七千尺、富士山の二倍の高さのところで突破して西蔵の西南部へ入り、東へ行くべきところを、反対に西へ西へと二百里、マナサロワールという大湖の岸を半周したところで、はじめて東に向い、氷河の溶けだした、たぎりたつ激流をいくつか泳ぎわたり、海抜一万六千尺の漂石(氷河が押し出した堆石)の高原で形容を越えた苦難に苛まれながら、千二百里というたいへんな迂回路を一人で歩き通し、神戸を発ってから六年目にラッサへ入った。
 衣の裾のすぼけた貧相なようすで数珠を持って立っている、黄檗山時代の写真が残っている。痩せて眼ばかり大きい、機転の閃きのない印象稀薄な風態で、どこか怯懦の感じさえある凡々とした顔つきの男が、そんな激烈な到来とうらいをしたとは思えないが、智海自身もかならず成功するとは思っていなかったようである。失敗ばかりしているくせに、いつの間にかなんとなく芽を出してしまう政治家のように、すこしも自分を信用していず、ジタバタもしていない。神戸を出発する前日、友人に、「ぼくは身体も弱いし、臆病でもあるしするから、ひとのやるような無理はしない。ひとが十七年でやるところを、ぼくは三十年でも四十年でもかけてやる。死ぬまでにやれたらいいと思っている」といっている。
 玄奘三蔵が印度からお経をとって帰ったことが頭にあるので、玄奘でさえ十七年もかかるのだから、自分のような凡くらは、死ぬまでにやればいいほうだという意味だったのだろうが、この一言は、はしなくも自分の運命をぼくしたことになった。スタンダールの「赤と黒」のジュリアン・ソレルは、郷里を飛びだすとき、聖水盤の血を見たり、偶然、ある男の死刑執行の新聞記事を読んだりする。それらはみな運命の前兆だったのだが、智海の心霊も自分の運数うんすうを深いところで予知していたのかもしれない。
 六月一日にカルカッタに着くと、智海はすぐ汽車でダージリンへ行った。ダージリンはブータンの国境に近い一万四千尺の高地にある避暑地で、すぐむこうにカンチェンジュンガが頂を雲のなかに突きいれ、巨大な氷の柱のように立ちあがっているのが見えた。ほかに目的があるわけではないから、率直に訪問の素志をのべると、チャンドラはなんともいいようのない表情で、しばらく智海の顔を見まもっていた。
 この一世紀のあいだ、世界の一流の探検家でさえ一人も成功したものがないというのに、この青僧は事もなげに「西蔵のラッサへ入って」などというのだ。大きな子供ぐらいにしか見えない貧相な沙弥の顔を見ながら、案外、世俗的なところもあったチャンドラが、なにを考えていたか想像に難くない。
 狂信的なラマ教徒の独尊自大はともかく、日清戦争以来、清国人にとって日本人は不快な人種になり、西蔵の清国官吏の間に興清滅洋シンチーミエーヤンの思想がたかまっている。そんなところへ入って行ったら、どんな目に逢うか知っているのだろうか。ラッサへ入って、カンジュールを手に入れたいのだそうだが、甘珠爾(勅命訳一切経)は「経」ではなくて「仏」なのだ。北京版の甘珠爾は甘粛省敦煌の雷音寺(千仏洞)の経窟におさめられているが、毎年、五月初めの灌仏会大法要には、一切経を拝むために、青海のツァイダン王や、甘粛新彊の端郡王までが、はるばる敦煌まで出かけて行くくらいのものである。
 チャンドラにすれば、この男は正気なのかと疑いたくなったろう。あまり突拍子もない話なので相手になる気もなくなった。しかしだんだん聞いてみると、狂気どころか大真面目で、放っておくと、このままラッサへ行ってしまいそうな意気込みだから、チャンドラは本気になって説得にかかった。ラッサへ入るのは、どれほどむずかしいかということを、思いつくだけの例をあげて説明したが、「でも、あなたは入ったのでしょう」といって動かない。お前に出来ることがおれに出来ないわけはないといいたそうな顔である。
 チャンドラという洋夷が一年近くラッサに潜伏し、目的を達して印度へ帰ったという牒報が入ると、ラッサの法皇庁はものすごい痙攣をおこした。チャンドラに出入の護照を出した関長はもとより、滞在と通行に有形無形の援助を与えたものは、情を知ると否とに関係なくみな永世牢へ追いこまれ、チャンドラの西蔵語研究を指導したというので、西蔵一の高僧センチェン・ドル・ジェチャン(大獅子金剛宝)の死体を一年の間、毎日、百回ずつコンポ河へ沈め、骨についている腐肉を匙で掻きとって蒼朮そうじゅつの煎汁で晒し、骨格を関門の地下二十尺のところへ拝跪するかたちにして埋めた。ラマ教の信仰では、金剛宝はそれで永久に転生することができず、大地のあらんかぎり劫罰を受けることになるのである。
 自分の都合で他人に意外な災厄を及ぼし、おのれは清雅高燥の地で悠々と辞典を編纂しているという自覚で、チャンドラはたえず良心の呵責を受けていた。異邦人がラッサへ潜入すれば、当人のみならず、直接間接に接触したすべての人間に累を及ぼすことを知らせたかったのだろうが、さすがにそこまでの告白をする気はなく、いろいろと想像に及ばないような危険があるのだから、無謀なことはやめにして、ここで西蔵語でも勉強して帰ったらどうかというくらいのところで、とやかくと忠告した。
 宗教というものは、自己一身の施捨せしゃによって、あくまでも他人の幸福を拡充していくことにほかならない。入蔵の目的もその一点に凝っているのはいうまでもないが、智海という男は、絶えず自分に鞭うって進んで困難にたちむかい、そういう境界で自分の行動を創りだして行く苦行者のタイプだったから、危険とだけでは納得するはずもなかった。チャンドラのお座なりの忠告などは、智海の耳になんのひびきもつたえなかったが、入蔵前に西蔵語を身につけておくことはかねての計画だったので、チャンドラのすすめにしたがって、ダージリンから一里ほど上ったグンパールという僧院に入ることにした。
 グンパールは黄教ラマの僧院で、丘陵の思い思いのところに石灰を塗った方形の僧房が建っていた。石門の前の草原に、黄の衣を着たラマ僧が五人ばかり、しゃがむともつかず坐るともつかぬ恰好でうずくまっている。なんだと思ったらそれは排便中のポーズなのであった。
 チャンドラから話があったのらしく、シャブズンという僧院長が承引して僧房を一つ開け、一カ月五タンガー(約十銭)の学費で西蔵仏典の講義をしてくれることになった。僧房は厚い壁と閂のついた重い扉で仕切られた三坪ばかりの薄暗い部屋で、羊毛の毛氈を敷いた臥牀と※(「火+亢」、第4水準2-79-62)カンの焚口がついているだけの簡素なものである。
 僧院には五十人ばかりの学侶がいたが、いずれも骨格のたくましい屈強な壮佼ばかりで、お経などはろくに読まず、石投げ、高飛び、棒術など武技の練習に精をだし、なにかというとすぐ草原へ出て決闘をする。いいかげん傷がついたところで、仲裁が入って仲直りの酒を飲むといったようなことばかりやっている。学業はすべて問答で、一人が端坐しているところへ一人が数珠を持って歩みよって来て、手を向い合わせに拡げ、大きな声で「チー・チ・クワ・チョエ・チャン」と絶叫して手を打ちあわせる。文珠菩薩の心、という真言である。問われたほうは「チー・ターワ・チミエ・チャン」とこたえる。宇宙間、如実の真法において論ずという意味で、それから問答がはじまる。問いを発すると同時に、左足を高くあげて両手をひろげ、手を拍つ拍子に、力まかせに足踏みをするという荒々しいものである。
 朝は教学、午後はダージリンへ下りて托鉢をし、夜は読経に費した。僧院の同学は智海を支那の仏僧だときめこみ、お経ばかり読んでいる気のきかないやつだと思うかして、当らず触らずの扱いをしていたが、時折、その連中が話していることを聞くと、西蔵の辺外諸部の国境に近いところにあるこうした僧院は、西蔵へ潜入する異邦人を監視する耳目じもくなので、托鉢や説法に出たついでにそこここで情報を集め、毎日、駅伝でラッサへ報告を出す。必要があれば尾行もし、村民を煽動して抹殺してしまう暗殺者の役までやるらしい。この連中の度外れに殺伐なわけもこれでわかったが、こういう行届きかたでは、国境の町で、大掛りな入蔵準備を必要とする探検隊が失敗したのも、当然すぎることと思われた。
 有向という耶蘇会士の「韃靼旅行雑写」はいろいろと有益な示唆を与えてくれた。北京で西蔵布教の命令を受けると、有向は蒙古のドロンノールへ行き、ラマ廟に四年、西蔵人の遊牧者の天幕に三年居て、ラマ僧の完全な肉体化をしたうえ、二百人以上の巡礼と話をして道関組織の綿密な研究をしている。チャンドラの話では、この一世紀の間、ラッサを目ざした延べて何百人の努力がみな失敗に終ったということだったが、そういうなかで有向だけが成功したのは、ひとえにゆるぎない堅信と誠実な人柄によることである。おのれは西蔵語を修得する方便に経典を読んでいるが、こんな軽薄なことではとうてい本願はとげられないと、率然と勇猛心をふるいおこし、思いたったその日に誓願文を書きあげた。
 本願をとげるまでは、文珠問経の戒法にのっとって百戒の戒相を保ち、四不浄食に堕せず、托鉢した清浄なもの以外には食わぬこと、日本人としての一切の地縁と血縁を放下し、今生では父母兄弟師友と相見あいまみえないこと、結願の暁には、ラマ宗徒が聖地とあがめているところを、異邦人の靴で穢した罪を謝するため、両足を膝から下を斬って犬狼に施捨供養すること、以下二十六カ条のものであった。
 翌日、未明に谷川で斎戒沐浴し、カンチェンジュンガの氷の山をまなかいに見る台地に坐った。百八遍の礼拝をして誓願文を読み、山に向って「何事の苦しかりけるためしをも人を救はむ道とこそなれ」と朗詠し、導師の学位を受けるためにあらためて学寮に入った。ラマ教の教学の組織は、名目みょうもく、教儀、集解しゅうげという順でやっていく。智海は卅一年の五月に中座に進み、その年いっぱい観心と玄義をやり、卅二年の暮に小導師の位をとった。
 そうしているうちに、毎年、陰暦九月上旬から翌年の二月の中旬まで六カ月の間、西蔵の巡礼がネパールのカトマンドゥの大塔へ参拝に来るということを聞いた。
 ネパールはブータンの西隣り、西蔵と印度との間にある半独立国で、ほぼ中央のところを、東から西へ、ヒマラヤの主山脈が氷の障壁をひきめぐらしているのに、エヴェレスト、アンナプルナ、ドーラギリなど、世界で一、二の高山が五峯も集まっている削峻たる地形である。西蔵とネパールはその以前、ヒマラヤの北にあるクヒンガングリ山脈のノラの大峠を通じて交通していた。文久三年(一八六三)にモントゴメリー少佐を隊長とする英国の探検隊が潜入して以来、この道も閉鎖されてしまったということだが、それにもかかわらず、大勢の巡礼が入ってくるところをみると、抜ける道があるのにちがいない。そこで聞けば、なにかの便宜がありそうなので、翌卅三年の一月、早々退舎して、カルカッタから汽車でカトマンドゥへ行った。十日の法要に連り、知合いになった巡礼たちにたずねてみると、メンダンという峠に巡礼だけが通る道があるが、ラッサの法皇庁の旅行券を持ったものでなければだめだということで、この道も問題にならなかった。
 二月の半ばまで大塔の精舎で空しく日を送っていたが、百年ほど前、乾隆年間にネパールのグルーカ族で三万尺のドーラギリ越えをして西蔵へ攻め入り、ラッサの近くまで迫ったという話を聞くと、なにかしきりに気持が惹かれた。そういう折、おなじ房にいた慧憧(ギャルツァン)というラマ僧が暇乞いにきた。ドーラギリの山裾にあるカンプゥタンという村へ帰るのだが、村の精舎に、蔵経の律部の写本があるから読みに来ないかと誘われたので、よろこんでついて行った。
 カンプゥタンは一万八千尺ほどの高地の斜面に、牡蠣かき殻のようにしがみついた五十戸ばかりの寒村だった。村のすぐ端れまで氷河がさがり、風雪に洗われたドーラギリの尾根が眉に迫るように聳えている。住民は西蔵の北の高原から来てここに定着した純粋の西蔵人ばかりで、どの家の屋根にも、真言の文句を刷った白旗がヒラヒラし、話に聞いた西蔵風景にそっくりだった。男は白い羊毛のシャツと、和服によく似た、膝きりの羊毛織の布衣をゆったりと着こみ、その上に革帯をしめている。袖の長いことはおどろくばかりで、筒のようになったのが、上衣の裾のまだ下まで垂れている。この袖は防寒のためだが、食器を拭く雑巾の役もする。家にいるときや、右手を使いたいときは、片肌脱ぎになって長い袖を腹巻のように帯の上に巻きつける。男はみな髪を剃り、外へ出るときは、釣鐘をひっくりかえしたようなかたちのフェルト帽子をかぶる。ヤクの皮でつくったしなやかな半長靴を穿いているが、上端のほうが大きくできていて、煙管、煙草容れ、茶筒、木椀など、なにもかもみなそこへおさまってしまう。
 西蔵は一妻多夫の国で、兄弟が五人あっても七人あっても細君は一人で間にあわせる。地味が痩せているので、めいめいが妻帯しても食わせることができない。長男がまず嫁をもらい、そのうちに弟が年頃になると、母の仲人で兄嫁と夫婦になる。つぎの弟がまたこれと夫婦関係を結ぶというふうに、兄弟で一人の細君をアチコチする。父と子で一人の細君をもっているのもあり、二人、三人の娘に一人の養子をもらう例もある。それが一間きりの狭いところで暮しているので、どちらの側でも姦通は遠慮なく公然と行なわれる。こういう風習の中では姦通は意義をなさない。つまりは、なにも教えられたことのない子供のように、天然自然の生活をしているので、慎しみとか行儀とかいう観念は、かつて生活の仕組みに入ったためしがないのである。
 カンプゥタンには肉をとって食うほど羊の数がないので、ツァムバ(炒麦)やバタ茶の凝結乳ヨーグルトを常食にしていた。火にかけた鉄鉢の磚茶たんちゃが煮えると、その黒汁を椀に盛り、山羊の臭いバタの厚切れを入れて炒麦を振りこむ。肉が手に入るまでこれで何日かの凌ぎをつける。それはいいが、男も女も服を着換えるのは年に一度、身体の垢は生涯身につけて手は洗うということをしない。大便をしても洟をかんでもそのままだから、身体は垢と脂で煤色になり、服はバタで汚れてピカピカ光っている。食事がすむと椀は舌で舐めておく。客でもあると、垢光りのする長い袖でグイと椀の縁を拭いて茶を注いですすめる。西蔵人ほどの不潔な人種がほかにあろうとも思えないが、なにごとも本願をとげるためと、つとめて汚穢の修行をしているうちに、四カ月ばかりで顔も身体も乾漆仏のようになり、一廉ひとかどのチャンタン(高原人)らしい見かけになった。
 村端の峯々は吹雪や雪雲にとじられ、いつ見ても暗澹たるようすをしていたが、五月の中旬をすぎると、モヤモヤと立迷っていたものが吹っ切れてだしぬけにドーラギリの全貌があらわれた。ギザギザの尾根がいくつか重なった山襞のむこうに、のけぞらないと頂が見えないような氷の峯が、信じられないほどの高さで立ちあがっている。いままでドーラギリの頂上だとばかり思っていたのは、麓の山裾をとりまいている小山の尾根なのであった。
 五月の終りごろ慧憧がやってきて、トルボ・セーへ行く気であるなら仕度をはじめたほうがいいという。トルボ・セーはドーラギリの向側、十日ほどの行程の谷合に隠れた山間の霊場で、一切経の写経はそこの精舎にあるのだが、ドーラギリは五月までは吹雪で通れず、六月の末からは雪が軟くなってこれまた通れなくなる。七月の末にはもう雪が降りだし、それが翌年の五月までつづく。ドーラギリ越えのできるのは五月中旬から六月末まで、一年のうちわずか四週間だけだから、行ったら来年の四月まで帰って来られない。それが承知なら山案内をさがしてやるというような話であった。頂の平らなあたりに、雪のない岩の肩がかすかに見える。あそこを越えるのだと慧憧がおしえた。この村がすでに一万六、七千尺の高地だから、ドーラギリの頂上は少なく見ても二万七、八千尺はあろう。そういう高いところを人が通れるとは、むしろふしぎなくらいだった。
 一週間ほどすると、ドーラギリ越えをしてカンプゥタンにおりてくるものを見かけるようになった。仏教の隠れ信徒か、前科者か、あぶなっかしい身の上で、どのみち道関は通れぬてあいばかりである。ラッサから来たというのがいたので、それとなくようすを聞いてみると、ラッサから道を北にとり、チャンタンの高原を百日ばかり西へ、マナサロワール湖の岸をまわってそこから南へ下り、西蔵とネパールの国境にある山脈を越え、南へ二十日ばかり歩くとこのドーラギリにいきあたる。話をつづりあわせると、だいたいそんなことになる。警兵はいないのかとたずねると、警兵どころか、四十日にいちど遊牧民の天幕に出あえばいいほうで、とても人間の姿などは見られるわけのものではないという。
 いずれはドーラギリを越えなくてはならない。理由をこじつけるのに難儀することだろうと苦にしていたが、このうえもない旅行の口実であって、公然と食糧の用意ができるのはありがたかった。さっそく仕度にとりかかり、食糧として小麦粉、炒粟、乾葡萄、塩、唐辛子粉、榧の油、木椀に木匙、羊の長毛を内側にして縫いあわせたツクツク(寝袋)、ひうち道具、薬品といった類のものを、八貫目ばかり荷にしてテンバという山案内に背負わせ、地図と磁石を靴のなかに隠し、カンプゥタンを出発したのは、明治卅三年の六月十二日のことであった。
 村端の氷河を渡って涸雪かれゆきの山襞をたどり、その日は早く露営した。
 二日目はよく晴れて軟風が吹いた。氷河を三つばかり越えたところでドーラギリにとりつき、日暮までいちども休まなかった。三日目は東北へ山を巻きながらのぼりづめにのぼった。越えるはずの東の雪鞍は、なお半里ほどの高さで見あげるようなところに聳えている。手早く昼食をし、岩隙のある削岩壁にとりかかった。たいへんな高度にいるので、ちょっと身体を動かしても肺が膨れ、心臓が口からとびだしそうになる。雪を含んだ烈風が真向に吹きおろし、睫毛に雪花がついて眼がふさがってしまう。帽子の耳蔽のなかで呼気こきが凍って氷殻ができ、それが針のように頬を突刺す。そうして東の肩までにじりあがったが、去年の大雪崩の雪堆が山のように残っていて、目あての切通しは通行不能ということになった。風当りのすくないところを探し、ツクツクをかぶって岩陰に身を寄せたが、寒気と泣き叫ぶような風の音でまんじりともできない。坐禅を組んで、眠るがごとく眠らざるがごとくにうつらうつらしていると、夜半近く、大雪になって雷さえ鳴りだした。雷鳴と吹雪のなかで、世界が生れ出る音を聞いたと思った。
 夜が白むのを待って、反対のほうへ鞍部をさがしに出かけた。鉛のように重い足をひきずりながら一時間ばかりのぼると、凍った薄い空気にやられ、山に馴れたテンバまでが咳きこみだした。見るとテンバの唇が無くなっている。顔も唇もおなじような土気色になり、唇が朝顔の蕾のように口のなかへすぼみこんでいる。いうにいえぬ異様な顔つきだったが、それをなんだと思う気力もない。空気に飢え、いまにも窒息せんばかり。一歩ごとに四つから十ぐらい呼吸し、ものの五歩も歩けば、いちど停って休まないと心臓が破裂しそうになる。ものを考える力も判断する力もなくなって、夢現ゆめうつつのまま機械のようにのぼっていると、テンバがなにかいいながら上のほうを指す。目の上の氷河の床から千五百尺ほどあがったところに、吹雪に傷められた荒れ肌の岩が二つならび、その間にザラメ雪に蔽われた切通しらしいものが見える。
 氷河の床まで這いあがると、狭いところをぬけてくる狂風が、地上にあるものは一切合財吹き払ってしまおうという勢いで、呵責なく吹きに吹く。氷河の終ったところから岩の割れ目をたどり、のろい苦しいのぼりを五分ほどやって休み、五分ほどのぼってまた休むという調子でうごめいているうちに、手足が痺れて岩についたまま動かなくなった。ひとりでに口が開いて、下唇がダラリと垂れさがり、眼にはいるものがみな二重に見えて焦点が合わない。すぐ上に、ザラメ雪の切通しが招くように光っているが、体力が尽きはてて上るも下るもできないことになった。
 昨日までは、はるか下にカンプゥタンの村端の氷河が白いリボンのように光っていたが、今はもう青黒い無限の空間があるばかり、手を離せば一万尺の下へ逆落しである。そういううちに睡気がついてウトウトする。智海は岩の出っぱりに力なくしがみつきながら、これでもう万事休したと、心をきめて臨終の願をたてた。「十方三世じっぽうさんぜノ諸仏、ナラビニ本師釈迦牟尼仏、本来ノ願望ハ遂ゲザレドモ、父母、朋友、信者ノタメ、イマイチド生レ変ッテ仏法ノ恩ヲ報ズルコトガデキマスヨウニ」――この手が岩角から離れたときが今生の命の終りと、朦朧とをとなえていると、テンバが精気の霊薬だというコカの葉を智海の口もとにさしつける。いまさらそんなものを噛んでみても甲斐ないことだと思ったが、いわれたとおりにすると、いつとなく動悸が鎮まり、いくらかものの綾が見えるようになった。いまこそ成否のわかれ目と、夢中になって這いずりあがっているうちに、急に風の吹きかたがちがってきた。そこは烈風が吹き浄めた岩層が平らにひろがった西の岩肩で、ついむこうに降り口が見えている。合掌したまま思わずそこへ坐りこんでしまった。
 二時間ほど降った岩曲で死んだようになって眠り、翌日一日下って、山腹のサンダーという寒村で泊った。三日ばかりそこで休養してから、厚くねぎらってテンバを帰し、六貫目ばかりになった荷を背負ってトルボ・セーのほうへ歩きだした。十日目の正午頃、見おろすような深い谷間にそれらしい村を見たが、ここで足をとめると、これからの先行きがむずかしくなると、そのまま北へ北へと進み、ネパールと西蔵の国境になっているクヒガングリの頂上にのぼりついた。
 山は北側へゆるくなだれ降り、西蔵高原の山々が八重波のようにおし重なっている間を、一筋、河が白く光りながら流れている。後を振り返ると、二十日前に越えてきたドーラギリが、ヒマラヤの氷壁の上に架空のような唐突な山容を見せ、雲をつくばかりにぬきだしている。神戸を出発したのが卅年の六月廿六日、その日は卅三年の七月八日、これという災厄にもあわずにここまで辿りついたが、これから先になにがあるか、予想もつかぬむずかしい旅であってみれば、こんなことで安心してはいられない。地図を見ると、目ざすマナサロワール湖は、ここから西北になっているので、磁石を見ながら山を降りはじめた。
 ネパール側は、陽のおもてで雪がすくなかったが、西蔵側は、陽の蔭になるのでいちめんの雪。それも油断のならない軟雪で、踏みこむたびに膝まで埋まる。中腹ぐらいまで降ると、山裾に遊牧民の天幕が三つばかり見える。こういう退引のっぴきならない場所で人に逢ったら、密入国したことがいっぺんに見ぬかれてしまう。なんとかして天幕を避けたいと思うが、東にも西にも道らしいものは見あたらない。といって天幕が移動するのを待っているというわけにもいかない。心をきめかね、そこへ坐って断事観だんじかんをやった。無我の観中かんちゅう、観念の傾きでとるべき方法をきめるのである。幾時間か坐禅を組み、濶然と醒めて山を降り、天幕の入口で漢訳の法華経を読んでいると、あるじと思われる四十ばかりのチャンタン人が出てきて天幕へ請引しょういんしてくれた。
 翌朝、天幕を出てみると、百七、八十貫もありそうな牛のような異様なけだものが三十頭ばかり草を食っている。身体は密毛で蔽われ、額から波のように垂れた長い毛が顔を包みこみ、眼鼻もわからないほどになっている。尾は絵にある唐獅子にそっくりで、草を噛む音は櫓をこぐよう。眼つきに凄味があって、いまにも突っかけて来るのではないかと思われるくらいだった。これは西蔵高原の不毛の寒地に野生しているヤク(※(「釐」の「里」に代えて「牛」、第3水準1-87-72)牛)という動物で、北部ではもっぱら駄用乗用に使役し、肉と乳は食料、皮は沓に、毛は織物に、糞は乾かして燃料にする。見かけは恐ろしいが牛よりも温柔だという。そう聞くと、これに荷をつけてゆけば長旅の苦労は半分に減ると思い、乾隆銀幣(西蔵銀貨)を出してたのむと、金などはいらない、マナサロワール湖の手前の河のそばに弟の天幕があるから、そこへ置いて行けばいいという。礼をいってヤクを一頭借りうけ、その背に荷を預けて北に向いて歩きだした。玄奘三蔵のお伴はお猿と猪だったが、こちらはヤクかと可笑しくもあった。
 小麦粉を捏ねて塩と唐辛子粉をまぶして食い、夜は斑雪の岩地に寝て、十日ほどすると最初の川にいきあたった。西蔵一の大河ブラマプートラの上流で、氷河の溶けて流れだす一万六千尺の高地の川を、零下十度の寒風の吹きすさぶさなかに胸まで入って渡り、北へ二十日、高地の雪を喰いすぎ、肺の凍傷にかかって血を吐き、人間の影のようになって弟という天幕のある河原に着いた。
 ヤクを返すと、天幕のあるじはあわれに思ったかして、山羊を供につけてくれた。ギャトーという町の入口にムヤツォという男がいるからそこへ置いて行けという。翌朝、どれほどの重さもない荷を山羊の背につけてまた北へ四日、マナサロワール湖は近いと聞いたが、行けども行けども不毛無人の原野である。氷河がおしだしてきた漂石と凍土は、何万年かの間、酷烈な寒気に傷められ、微塵に分解をとげて灰のように軽くなり、風が吹くと砂霧になって浮遊する。動くものといえば地の上を流れる雲の影と砂の波紋。万物涸れつくして物音一つなく、死相をおびて寂漠と静まりかえっている。一滴の水も一片の日蔭もないチャンタンの原を、一点の塵となって漂っていると、ある日、猛烈な砂嵐が吹きつけてきた。一望無限の野面は荒天の海のように盛りあがり湧きたち、うねりかえし逆巻き、想像に絶した異様な波動を示しながら猛り狂う。智海は咫尺も弁ぜぬ砂霧のなかで藻掻きまわっていたが、砂の大波は後から後からうねってきて、あっという間に胸まで埋めてしまった。せめて山羊だけは助けようと抱きよせると、山羊は悲しそうな声で鳴きながら身を寄せてくる。智海は山羊をわが子のように抱きながら念仏をとなえていると、微妙のうちに風が変って、砂嵐が外れて行った。
 三日後、ようやくマナサロワール湖のほとりへ出た。カン・リンポ・チェの霊山を対岸に見ながら僧房で夜を明かし、翌日、いよいよ東南ラッサの方へ最初の一歩を踏みだした。
 踏附け道を辿ること百五十日、ラッサにつぐシカチェという大きな町を過ぎ、十二月二十七日、ギャトーに着いた。石造の家が多く、風俗も都風で、孤愁にみちた北西原の旅も終りになりかけている感じだった。ムヤツォという人を探して山羊をかえすと、かわりに騾馬を貸してくれた。ゲンバ・ラという山を降りた府関の前で弟が酒店をやっている。仮護照をもらうには区長の保証が要るが、弟は区長だから、それに頼めばよろしくやってくれるという。翌日、騾馬を曳いてギャトーを発ち、五日目に岩山の麓にある大弥勒寺という小寺で泊った。そこで明治卅三年も終った。
 三月ほどその寺にいて、卅四年の三月十八日、最後の旅程にかかった。翌々日、ゲンバ・ラという急坂をのぼって峠の上に出た。眼の下に、四方、山にかこまれた平原がひらけ、離丘が島のように二つ浮いている。一つは富士山に似た美しい丘で、一つは頂上から中腹まで金の天蓋をのせた白堊の殿堂がひしめいている。大勢の探検家が、一と眼見ようと熱望しながら果さなかった、これがその聖都かと思うと、そこへ足を踏み入れるおのれの喜びよりも、その人達の遺憾を偲んで、思わず涙をこぼした。
 坂を下ったところが府関の第一門。関門の前に酒を売る店がある。あるじは気のよさそうな赧ら顔の肥大漢で、保証をひきうけてくれたうえ、五人の連証まで探してくれた。そうした都合で第一関はわけなくすみ、そこで川を渡って、対岸の第二関、第三、第四、第五とその日のうちに通りぬけ、それをふしぎとも思わず、計られたとも知らずに、安泰な顔でラッサの市中へ入りこんだ。
 市中の家は二階、三階の石造りになり、正面に石灰を塗っているので、遠目にこそは美しいが、いったん市中へ入ると、町筋には糞尿が流れ、泥濘は膝を没するばかり。これが聖都かとおどろかれた。大きな店はバルコルという通りに集まっているが、どの店にも客引のようなものがいて、やかましく通行人を呼びとめる。そういうごったがえしのなかを、黄衣のラマ僧が悍馬を乗りこなしながらこれ見よがしに疾駆している。町はずれの僧舎に宿をとり、さっそく一切経を探しに出たが、大道に経本をならべた、露店といった体裁の店ばかりである。西蔵一切経はとたずねると、そういうものは注文主が紙を提供し、版本代と刷り代をだして刷らせる。文典学者の出た寺にはそのほうの版木、修辞学者の出た寺にはまたそれと、律部も論部もバラバラに保蔵されているので、順々にまわって版木を借り集める。遠い寺にある分はべつに旅費を払うのである。
 三日ばかり広場に通いつめ、あるだけの経本屋にあたっていると、還俗したラマ僧といった廿四五の男がそばへ来て、西蔵大蔵を探しているということだが、お望みならいい蔵経家を紹介する。紹介料として乾隆十枚いただくという。それくらいな金ですむならと、いうままに金をやると、これからすぐ行きましょう、むこうは暇なひとだからと、先に立って歩きだした。
 屋根のかかった支那風の石橋を渡り、楡や柳の芽が青く萌えた法林道場の広い庭を横切って、その奥の大きな邸の前へ行った。どういう人の邸かとたずねると、これは教務大臣チョイ・チェンモの邸だ、大臣に逢ったらすぐ銀幣五十個をあげなさい、面会料というわけで避けられないものです、あとはあなたの腕次第とある。
 拱門の檐に吊した銅鑼を打つと取次が出てきた。案内してきた男がなにかささやくと、取次は智海を連れて長い廊下を幾曲りしたすえ、赤地模様の絨緞を敷きつめた部屋へ案内した。眼もあやな色とりどりの毛氈をかけた大きな臥牀に、金襴の職帯をつけた五十五、六の温和な顔をした大人が閑臥し、阿片卓をひきつけて阿片を喫っていた。
 智海は入口で三礼して片肌脱ぎになり、三歩進んで銀幣の入った巾着を卓に置き、率直に素志をのべると、大臣は「それはお安いご用。さっそく係りのものに手筈をさせるから」といった。
 大臣の上機嫌をそこなうものはなにひとつなく、あれこれと愛想をいってから、北清事変の話に移った。拳匪が北京の永安門で日本の外務書記生と独逸公使を惨殺したことから北清事変が起き、英、米、仏、独、露、日、墺、伊、八カ国の出兵となり、清国政府は陜西省の西安へ蒙塵したが、昨年の十二月、列国公使会議から十六カ条の要求を含む議定書を突きつけられ、総理衙門大臣の那桐と皇弟醇親王が、日本と独逸へ謝罪使で行ったなどといった。この三年にそんな騒ぎがあったことは知らなかったが、なんのためにこんな話をするかと怪訝に思っているところへ、廿四、五の品のいい男が入ってきて、用意ができたというようなことをいった。大臣はうなずいて、「これは和堂ホータンという男だが、用があったらなんでも言うがいい」と丁寧に部屋から送りだした。
 和堂に連れられて宏大な法皇宮のわきの石段をのぼり、大仏殿の鼓楼の前へ出た。境内の石畳を五十間ほど行き、どっしりした石造の建物のなかへ入った。和堂は六畳ぐらいの小房がいくつもある間を通り、突当りの大きな石の扉を開けた。眼が暗さに馴れるにつれ、五十畳敷ほどもあろうかと思われる仄暗い石室の三方の壁の書棚に、経本と経巻が、黄ばんだ帙と朱塗の軸に古代の薄明を見せて天井まで積みあげられている。一切経はというと、仏の教と語を翻訳した、経部、律部をおさめた「甘珠爾」正蔵千四十四巻、仏の教示を翻訳した論部をおさめた「丹珠爾」続蔵四千五十八巻がそれぞれ経題と奥書がつき、十巻ずつ勅訳の黒印を捺した青い布に包んで左右の棚にいっぱいになっている。
 智海が陶然と法悦にひたりこんでいると、和堂が「こちらへ」といって隣の房へ連れて行った。十畳よりはやや狭い、窓一つだけある薄暗い部屋のまわりの壁に沿って、何千束とも知れぬ麻紙が厖大な量に積みあげられ、窓の下の経机の上に筆墨と青銅の油壺のついた油燈が出ている。この紙はとたずねると、和堂は「これはあなたが生涯にお使いになる紙です」といい、甘珠爾の第一巻を経机の上に置いて退って行った。
 経典は法帖のような体裁になり、六万字ばかりの経文を幽玄な草体で横書きした、横長の古代殻紙からがみを、木の表紙の間に綴じずにバラバラにおさめ、革の紐でキッチリと巻いてある。正続合せて五千百二巻、一巻平均六万字で〆めて三億六百十二万字、一時間に千字として四時間寝て廿時間書けば、一カ月六十万字の一年に七百二十万字、正続を書写するには四十年あまりかかる。いま卅歳だから、余裕をみても七十二歳までには完成すると見透しをつけた。
 智海の算出どおり、正蔵千四十四巻は八年後の明治四十一年、卅七歳の四月八日に写了した。前年の秋から膝関節に炎症をおこしていたが、四十一年の正月匆々壊疽えそになり、正蔵を写了すると同時に脚部の切断手術をした。なにからなにまで請願どおり運行する仏生の微妙さにいまさらのようにおどろき、この分なら、続蔵を完了するまでかならず生きられるという信念を堅くした。智海は昭和十五年、七十二歳の春、続蔵を終って正続五千百二巻の写経を完了し、七月、ラッサの宝積院で枯れるように死んだ。日本を発つとき、「死ぬまでかかって」といったのは妄語ではなく、今生では父母兄弟師友に相見えないという請願の趣意も、それでつらぬいたことになる。
 智海の入蔵は、ネパールの国境を越えたときラッサの法務局に通牒が行っていた。先年、密入国者にたいする刑統が変り、入国したものは、境外へ出さず、生涯、国内に監置することになった。ヤクから山羊、山羊から騾馬と、つぎつぎに生きた送状をつけてやった、西蔵人の腹黒いやりかたを、智海は知っていたろうか。智海の「西蔵記」には、本師釈迦牟尼仏の広大な法恩を古朴な筆致で述べているだけで、この点にはすこしも触れていないのである。





底本:「久生十蘭全集 ※()」三一書房
   1970(昭和45)年1月31日第1版第1刷
   1992(平成4)年2月29日第1版第8刷
初出:「別冊文藝春秋 第十九号新春小説集」
   1950(昭和25)年12月25日
入力:門田裕志
校正:富田倫生
2011年10月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「てへん+尼」、U+62B3    141-上-15


●図書カード