二十六
七月二十六日は二十六夜待で、芝高輪、品川、築地の
なかんずく、品川はたいへんな賑い。名のある茶屋、料理屋の座敷はこの夜のためにふた月も前から付けこまれる。
海にむいた座敷を打ちぬいてだれかれなしの入れごみ。衝立もおかず仕切もなく、煤払いの日の銭湯の流し場のようなぐあいになって、たがいに背中をすりあわせながら三味線をひいたり騒いだりしながら月を待っている。
この夜の月は、出る出ると見せかけてなかなか出ない。昼から騒いでいる連中は待ち切れなくなって月の出るほうへ尻をむけ、酔いつぶれて寝てしまうのもある。
顎十郎のアコ長と土々呂進のとど助。この日は日ぐれがたから商売繁昌。赤羽橋の橋づめに網を張ったのが図にあたって駕籠をすえると間もなく
五ツごろから、こんどは品川宿の入り口に網を張ってもどりの客の
「……いや驚きました。調子に乗って無我夢中でやっていましたが、今日はそもそも何十里ばかり駈けましたろう。まっすぐにのばすと
阿古長は、棒鼻にもたれて肩をたたきながら、
「……いや、まったく。頭はチンチン眼はモウモウ。こうして立っているのがやっとのところ。
「今日はそもそもなんたる日でありましたろう。おたがい、なにもこうまでして稼ぐ気はないのだが、ついはずみがついて駈けずりまわりましたが、駕籠屋をして蔵を建てるなんてえのも外聞が悪い。気味が悪いからこんな銭すてっちまいましょうか」
「それは、ともかく、こんなところでマゴマゴしていると、また客にとっつかまる。この
「それがようごわす」
提灯を吹消して空駕籠をかつぐと、ほうほうの体で逃げだす。
かれこれもう九ツ半。頬かむりをしてスタスタ
「おい、ちょいと待ちな、どこへ行く」
紺木綿のパッチに目明草履。ヌッと出て来て、駕籠の前後にひとりずつ。
「おお、駕籠屋か、面を見せろ」
月あかりがあるのに、いきなり
「どうぞ、ご存分に」
「やかましい。どこへ帰る」
「神田まで帰ります」
「神田のどこだ」
「佐久間町でございます」
「駕籠宿か」
「いいえ、そうじゃございません、
「なにを言いやがる、自前という面じゃねえ。家主の名はなんという」
「
「あてつけか、勝手にしやがれ。肩を見せろ」
「どうぞ、ご存分に」
「やかましい、黙っていろと言うに」
いきなり絆纒の肩を引きぬがせて、ちょいと指でさわり、
「新米だな」
「申訳けありません」
「うるせえ。……よし、もう行け」
さすがの阿古長とど助、クタクタになって、
「もういけません。この調子では佐久間町まで行くうちに夜が明けてしまう。いい後は悪いというのは本当ですね、阿古長さん。この様子で見ると、江戸一円になにか大捕物があるのだと思われますが、こうと知ったら、もう少し早く切りあげるンでした」
「捕物だかなんだか知りませんが、いちいち
「ようごわす、やっつけましょう。おいどんもちっと胸糞が悪るうになって来ましたけん」
馬場先門をさけて日比谷から数寄屋橋。鍛冶橋の袂まで来ると、川に照りかえす月あかりで闇の中にギラリと光った磨十手。
「阿古長さん、おりますよ」
「ええ、知っています。では、やりますよ。ジタバタ暴れたら、当身でも喰わせてください。駕籠に乗せて持って行って護持院ガ原へでも捨ててしまいますから」
「心得申した」
先棒の土々呂進、拳骨に湿りをくれてノソノソと近づいて行く。
むこうはこんなことになっているとは知らない。顎をひいて片身寄りになってツイと出て来て、駕籠の棒鼻を押す。
「待て、どこへ行く」
「それはこっちの訊くことだ」
えッ、と突きだした当身の拳。まっこうに
「うむッ」
と、のけぞる。
とど助は、妙な顔をして阿古長のほうへ振りかえって、
「ねえ、阿古長さん、どこかで聞いたような声でごわすな」
「ええ、わたしも今そう思っていたんで」
とど助はあわてて引きおこして見ると、これがひょろ松。口をアアンとあいて、つまらない顔をして気絶している。とど助は頸へ手をやって、
「これはどうもいかんことになった。阿古長さん、これはひょろ松どんでごわす」
江戸一の捕物の名人、仙波阿古十郎が北番所で帳面繰りをしているとき、阿古十郎が追いまわしていた神田の御用聞[#「御用聞」は底本では「後用聞」]、ひょろりの松五郎。阿古十郎のおしこみでメキメキと腕をあげ、神田のひょろ松といえば、今では押しも押されもしないいい顔なんだが、こうなってはまるで形なし。
阿古長も、おどろいて寄って来て、
「なるほど、これはひょろ松。妙な面をして寝ていますね。しかし、こうしてもおけませんから、生きかえらしてやりましょう」
馴れたもので、引きおこしておいて背骨の中ほどのところをヒョイと拳でおすと、そのとたん、ひょろ松は、ふッと息を吹きかえして、
「おい、どこへ行く」
「なにを言ってるんだ、寝ぼけちゃいけねえ。ひょろ松、おれだ」
ひょろ松は、キョロリと見あげて、
「おッ、これは、阿古十郎さん、ちょうどいいところで。……お話はゆっくりいたしますが、今あっしに当身を喰わした奴がおりました。畜生、どこへ行きやがった」
とど助は、頭を掻きかき、
「ひょろ松どん、悪く思ってくださんな。あんたと知ったらやるンじゃなかった。なにしろ、辻、町角で咎められるンで二人とも業を煮やし、こんど出て来たら当身を喰わせて逃げようと、ちょうど相談が出来あがったところへあんたが飛びだして来たようなわけで……」
「いや、ようござんすよ。どうせね、わたしなンざ当身をくらってひっくりかえる芝居の
阿古長は、なだめるように、
「まア、そうむくれるな。いわば、もののはずみ。それはそうと、だいぶ手びろく手配りをしているが、いったい、なにがあったんだ」
ひょろ松は、すぐ機嫌をなおして、
「あなたもご存じでしょう、重三郎の
「ほほう、なにをやった」
「神田左衛門橋の酒井さまのお金蔵から四日ほど前、出羽の
「なんでまたそんな
「こんどの
「なるほど。……それで、どんなふうにして持って行った」
「なアに、ごくざっとしたことだったんです。まるで落語の
「ほほう、なかなかやるな」
「褒めちゃいけません」
「それにしても、あんな重いものを抱えて泳げるわけのものじゃないが」
「なアに、泳いで行ったやつは綱を千両箱に結えつけるだけ。神田川へ船を浮べているほうの組が、こいつをせっせと手ぐり寄せる。わけも造作もありゃアしません」
「なるほど、法にかなっている。それから、どうした」
「ところで、酒井さまのほうもそう抜かってばかりはいなかった。半刻ごとに金蔵の覗き穴から中をのぞいて見ることになっていたもンだから、間もなく盗まれたということがわかった。つまり、運がよかったんです」
「運がいいとはなんのことだ」
「近来になく手配りが早かった。七十六の千両箱を一艘や二艘の小船につめるわけのもンじゃない。これだけのものを一艘の船につむなら、房州の石船にきまったようなもンです。石船なら神田川から
「やって来たか」
「やって来ました。……芝居でつかう張抜き。……日本紙を幾枚も張り重ねて
「そんならなんでこんな騒ぎをする」
「いけないことには、伏鐘重三郎が茅場町あたりで上ってしまったんです。足どりを辿ると、そこから八丁堀まで歩いて行って、八丁堀の船清という船宿から
両国の見世物へ
頭から尾までの長さが六間半。胴の周囲が太いところは大人の五ツかかえ。これが江戸のまンなかで絵にあるように潮を噴き、鯨ちゃんや、と言うと、あい、あい、と返事をするという。
江戸へ鯨が来たのはこれが最初。
いわんや、生きた実物が泳ぐところを、大人は百文、子供は五十文で見せるという。
「両国へ黒鯨がきたそうでございますな。もうお出かけになりましたか」
「おい、松
「お花さん、鯨が見世物に出てるそうですよ。なんでも鯨の赤ちゃんを抱いておっ
「ご隠居さん、絵では見ましたが、
「先生、両国で鯨が泳いでいるそうでごわす。見聞をひろめるは武士の
高物師の
この六月、金華山へあがった
建てあがり十間の小屋掛をし、鯨が潮を噴いている三間半の大看板をあげる。

と、鯨節にあわせて踊る。これでおしまい。
なにもかも鯨づくめのところがご愛嬌。
鯨はただ白い砂の上にごろんとねっころがっているばかり。潮を噴くわけでもなければ、尾鰭を動かすわけでもない。強いて申そうなら、ちと生臭い。これが張子細工でない証拠。客は百文はらって満足して帰る。
「あなた、両国の黒鯨をごらんになりましたか」
「いいえ、まだでございます。行こう行こうと思っていながら、つい……」
「まア、ぜひ行ってごらんなさい。大したもンですぜ。あなた、鯨が潮を噴きます。あれを見ないじゃ、江戸っ子の名折れになる」
鯨ではないが、尾に鰭がついて、いよいよ以てたいへんな評判。
口あけの初日は、それでも、どうにか納まりをつけたが、二日目は小屋のある垢離場から両国の広場にかけて身動きも出来ぬような混雑。
小屋では鼠木戸の前に竹矢来をゆいまわし、鼠木戸の上の
小屋の中は外とおとらぬ混雑、三方の桟敷に爪を立たぬほどに鮨押しになった見物が汗を流して幕のとれるのを待っている。四方八方から押されるので汗を拭くことも頸をまわすことも出来ない。顔のむいたほうへ眼玉をすえ、平ったくなって立っている。眼玉も動かせぬというはこのへんの混雑をいうのであるべし。
気が遠くなるような思いで待っているうちに楽屋のほうで波音を聞かせる。大波小波、狂瀾怒濤。小豆をつかって無闇に波の音を立てるもんだから、見物の一同は船酔いするような妙な気持になる。
しょうしょう
鯨には嘘はない。
まるで五百石船ほどもあろうと思われる黒いのっぺらぼうなやつがごろんと転がっているから、見物は夢中になって口々いっせいに、うわアと感嘆の叫び声をあげる。その声で小屋も揺らぐかと思うばかり。
鯨の背中には、先刻のべたような服装の
「
と、扇子で鯨の頭を突きながら、
「……鯨ちゃんや」
と、声をかけると、よっぽど遠いところで、あいよ、と答える。
口上つかいが静々と鯨の背中からおりて行くと、さっき言ったように鯨節の総踊り。これで、おあとと入替え。
ところで、この鯨が一夜のうちに紛失してしまった。
鯨の昇天
深草六兵衛の小屋では、その夜は
追出しをすましてから、
若太夫が祝儀をのべて一同手をしめ、櫓主の六兵衛が小屋方一同に酌をしてまわる。当祝の儀式がすむと、引きぬきになって
七ツ近くに小屋師の勘八というのがよろける足で不浄へおりて行った。
桟敷の上をつたいながら、月あかりでぼんやり仄明るくなっている飾場のほうを眺めると鯨がしょんぼりと寝ころんでいる。
「やア、寝っころがっていやがるな」
で、そのまま用を達してまた二階へあがった。
それから、ちょっと間をおいて、下座三味線をひくお秀という娘が不浄へおりて行った。このときもたしかに鯨はいたのである。それから、またちょっと間をおいて、こんどは木戸番のよだ六がおりて行った。だがこのときはもう鯨はなかった。
不浄からの帰途、桟敷の
夢を見ているのだと思った。トロンとした眼をひっこすって息をつめて、つくづくともう一度見なおしたが、酔っているのでも夢を見ているのでもなかった。なんど見なおしても鯨はいないのである。
げッ、と驚いて、足もともしどろもどろ。息も絶えだえに丸太梯子をよろけあがって三階のあがり口へ首だけ出すと、
「親方、たいへんだ。鯨が……」
馬鹿にするねえ、で、誰ひとり本当にしない。
冗談なんか言っているセキはありゃしない、嘘だと思うなら行って見なせえ、たしかに鯨はいなくなっているンです。やい、よだ六、かついだら承知しねえぞ、半信半疑で六兵衛が先に立ち、一同金魚のうんこのようにつながって、ゾロゾロと飾場までおりて来て見ると……
鯨がいない。
一同、あッ、と言って腰をぬかした。
それにしても、誰がなんの必要があって鯨などを盗んで行ったのだろう。それはまアいいとして、秀の後でよだ六が不浄へおりたのは、その間、時間で言えば、ほんの十分。その短い間に六間半もある鯨をどんな方法で持って行ったのだろう。
小屋の
ところで、掘立柱はおろか、蓆一枚やぶれていない。鯨が雲散霧消したと思うほかはないのである。
竜の昇天というのは聞くが、鯨の昇天というのはまだ聞かない。なんとも考えようもないことだが、六兵衛としては五百両なげだした大事なネタ。夜のあけるのを待って浅草橋の
物が物だけに、詰番所の番衆では納まりがつかない。この月は北の月番で、番所からすぐ常盤橋へ訴えをまわす。
伏鐘重三郎を追いまわしてクタクタになったひょろ松が、ちょうど部屋へ引きあげて来たところ。
「なんだって、両国の鯨が盗まれたって、馬鹿にしちゃいけねえ。手前、面を洗ったのか。番所を遊ばせに来ると承知しねえぞ」
番衆は、ヘドモドして、
「じょ、冗談。……朝っぱらから洒落などを言いに来るもンですか、本当のことなンで」
「鯨を、……どうして持って行った」
「えへへ、それがわからねえンで」
「じゃ、本当の話なンだな」
「ええ、ですから……」
「よし、行って見よう」
広小路から垢離場。
小屋の前にはたいへんな人だかり。
「けさがた、鯨が盗まれてしまったンだそうで」
「いいえ、そうじゃありません。鯨が泳いで逃げたってことです」
勝手なことを言いながらワイワイ騒いでいる。
ひょろ松は、人垣を押しわけながら小屋の中へ入って行くと、若太夫から奥役、まるで腑ぬけのようになって腕組みをしたままぼんやりと飾場の砂の上に突っ立っている。
「鯨が盗まれたそうだな」
奥役は、泣き出しそうな顔で、ピョコンとお辞儀をしてから、
「ごらんの通りの始末なンで」
「変ったことをする奴があればあるもの。鯨盗人なんてえのはまだ話にも聞いたことがねえ。いっそ、とぼけた話だぜ」
「とぼけた話どころか、あっしどものほうは生き死にの境なンで。櫓主が五百両も出した
ひょろ松は、ズイと
「どこにも運び出したような跡がねえ。いってえ、鯨なんていうのは、最初っからいなかったんじゃねえのか。くだらねえ人騒がせをするときかねえぞ」
若太夫はおびえた声で、
「どうして、まあ、そんなことが。現在こうして今日までに何千という人に……」
ひょろ松は、ジロリとその顔を見あげて、
「さもなけりゃ
後から六兵衛が、ささり出て来て、
「そうおっしゃるのは、いかにもごもっとも。あっしらのおりましたところは飾場のちょうど真上。あれだけの物が運び出されるのがどうして気がつかなかったか、それが不思議でならねえンで。……よだ六というのが飛んで来てそう言いましたときも、誰ひとり本当にする者アない。馬鹿にしやがると思いながらおりて来て見て、真実、狐に化かされたような気がしました」
顎十郎は、ふンと鼻を鳴らして、
「凧にのって金の
ひょろ松は、あっけに取られたような顔で、
「要用って、あんな物を、……あんな馬鹿べらぼうなどえらい物を持って行って、いったい、どうする気なンでしょう」
「おれならば鯨鍋にする」
「からかっちゃいけません。
「それは不思議でもあろうさ。ひとの都合なんてえものは他人にゃわからねえ。なにか思いこんだことがあって、どうでも要用だったんだと思うよりほかはない。鯨鍋は冗談だが、誰にしたって始末に困る。そうあるべきはずのところを、なにか知ら、たいへんな手間をかけて持って行ったというからには、われわれの知らねえような退っ引きならねえ理由があったのにちがいない。そのへんのところをトックリと考えて見ると、なんのためにこんなことをしたかすぐわかるはずだ」
「阿古十郎さん、じゃアあなたにはなにか、もうお
顎十郎は、首を振って、
「そこまではまだおれにもわからない。しかし、鯨をどうして持って行ったか、そのほうだけははっきりとわかっている」
ひょろ松は、おどろいて、
「えッ、本当ですか。いったい、ど、どんなことをして持って行きやがったンでしょう」
顎十郎は、なにをくだらんといった顔で、
「なにもいちいち掘立柱の根を調べるには当らない。どうしたって丸一疋のままで持って行けるわけはないとすれば、切りきざンで小さくして持ちだしたのに違いなかろう、きまり切った話だ」
「でも、切るにしたって、あんな大きな物を」
「一人二人じゃ出来なかろうが、三十人も手わけしてかかれば一刻ぐらいで造作もなく片がつく。最初っから臓腑は抜いてあるンだし、脂抜きはしてあるし、腹の中はガラン洞で、鯨といったってただ骨と肉だけのこと。挽ききるにしろ、刻むにしろ、どうでも手に負えないというような代物じゃない。になって持ちだせるくらいの大きさに刻めば、後は三十人で二三度往復すれば、肉ひとっぺら残さずに運び出してしまうことが出来る。なンとそんなもンじゃなかろうか、なア、ひょろ松」
ひょろ松は、手をうって、
「なるほどね、これは恐れ入りました。が、ひとつわからないことがあります。最初に勘八というのがおりて来て、お次に下座三味線の秀という女がおりて来た。二人がおりて来たときには鯨はたしかに飾場にあったンです。ところで、その次によだ六がおりて来たときには、もう鯨は失くなっている。秀が櫓裏へあがって、よだ六がおりて来たそのあいだはわずか十分足らず。切るにしろ刻むにしろ、そんな短いあいだにあれだけの物を始末できるものでしょうか」
「こいつア驚いた。勘八も秀も鯨にさわって見たとは言っていやしない。しかも、飾場からずっと遠い桟敷の嶺で月の光でぼんやりそれらしい物がいると見ただけのこと」
と言って、飾場の真上に渡した梁丸太にからみついている五つばかりの
「おい、ひょろ松、あれをなんだと思う。妙なところに妙な物があるじゃないか」
「あれが、どうしたというンです」
「わからなければ言って聞かせてやる。そいつは鯨を描いた大きな絵幕をあの梁からつるし、その後でゆっくりと鯨の始末をしていたのだ。あの輪索がなによりの証拠。つまり、勘八と秀は絵幕に描いた鯨をぼんやりした月あかりで見て、あそこに鯨がいると思っただけのことだ。どうです、ひょろ松先生、合点が行きましたか」
ひょろ松、
「いや、一言もございません。鯨を持って行った方法はそれでわかりましたが、くどいようだが、なんのためにあんな物を持って行ったのでしょうか。丸一疋で持って行ったら見世物にもなろうが、切りきざんでしまったらなんの役にも立ちゃしない」
「おれも先刻からそれを考えているンだが……」
と言って、伏目になって考えこんでいたが、だしぬけに、阿古十郎が、
「おい、ひょろ松、一昨日の晩、お前は伏鐘をどこへ追いこんだと言ったっけな」
「芝浦です」
「なるほど。それで、この鯨はどこへあがったンだ」
「芝浦です」
ひょろ松は、急に横手をうって、
「あッ、畜生、すると、伏鐘のやつは……」
顎十郎は、ニヤリと笑って、
「海岸まで追いつめてもいねえはずだ。あいつは切羽つまって、ちょうど陸あげした鯨の口ン中へ飛びこんで隠れていやがったんだ。この鯨が見世物になろうとは、さすがの伏鐘も気がつかなかったろう。入ったまではいいが、気がついて見ると、千、二千という見物にかこまれて、出るも這いだすもなりゃアしねえ。入る時は無我夢中で飛びこんだろうが、小屋へ運ばれて来てから、鯨が寝ころばねえように杭と綱でしっかりと頭を留められ、中から口を押しあけることもどうすることも出来なくなった。乾児のほうじゃ、重三郎が鯨の中へ飛びこんだことだけは知っている。もうそろそろ這いだして来そうなもんだと思っているのに、いつまでたっても帰って来ないから、見物にまぎれて様子を見に来て見ると、いま言ったような始末なんだ。そこで、思いついたのがこの一件さ……」
ひょろ松は、嚥みこめぬ顔で、
「そんなら、頭を縛った綱だけ取りゃアそれですむことでしょう。そんな手間をかけて鯨を切りきざんで持って行かねえだってよさそうなもんだ……」
「そこが、伏鐘組の尋常でねえところだ。下手な真似をすれば、伏鐘はきょうまで鯨の中にいたんだと見当がつき、それからそれと足がつく。こういう大掛りなことをして鯨が昇天でもしたように見せかければ、みなは不思議のほうに気を取られて、伏鐘のことまで考える暇はない。まず、ざっとこんなぐあいだ」
「よくわかりましてございます。
「お前の感の悪さにもつくづく感服する。その四つの関所を通っていなかったら、四つの関所にかこまれた中にいるンだろう。そうとしか考えようがないじゃないか。その廓の中にある家数は十軒や二十軒ではきかなかろうが、三十人の人間とそれだけの肉をかくせるような構えの家はそう数あるもンじゃない。虱つぶしにして行ったら、二刻足らずで追いつめることが出来よう」
両国二丁目の
鈴木仁平という浪人者がやっている
ひょろ松と顎十郎が、踏みこんで行くと、伏鐘重三郎は、
お大名の若殿のような品のいい顔を振りあげて、苦笑いしながら、重三郎、
「仙波さんにかかっちゃかなわねえ」
と、言った。