お姫様
「なんだ、なんだ、てめえら。……客か、物貰いか、
繩
「おいでなさいまし。お駕籠屋さんとお見うけしましたが、景気をつけに来てくださいましてありがとうございます。……酒は
経文読みの尻あがり。
神田柳原、
もとは江戸一の捕物の名人、仙波阿古十郎、駕籠屋と変じてアコ長となる。
相棒は九州の浪人
居酒屋の新店をさがして歩くようでは、どのみちあまりぱっとしない証拠。
辻駕籠をはじめてからもう半年近くになるが、いっこう芽が出ないというのも、いわば
江戸一の捕物の名人ともあろうものが、開店祝いの祝儀酒を狙うまでにさがったってのも、またもって、やむを得ざるにいずる。
亭主は、しゃくった尖がり面をつんだして、
「お肴はなんにいたします。
前垂に片だすき、支度はかいがいしいが、だいぶ底が入っている体で、そういうあいだにも身体を泳がせながら、デレッと舌で上唇を舐めあげ、
「ひッ。……今も申しあげましたように、なにによらずひと皿だけお添えしやす。……ひッ、どうか、ご遠慮なく、ひッ」
とど助は、頭をかいて、
「わア、それは、誠に恐縮」
「……友達がいにあっしからご披露もうします。この亭主は六平と申しましてね、ついこのごろまで
「兄貴のいう通りだ、さあさあ、こちらへ。こちらへ」
中間や陸尺やらが五人。
アコ長は、そちらへ愛想笑いをしながら、
「ねえ、とど助さん、みさんが[#「みさんが」はママ]ああおっしゃってるから、お辞儀なしにあっちへ移ろうじゃありませんか」
「いかにも、これもなにかの因縁。
「いよう、軍師、軍師!」
「それがいい、それがいい」
さっきの
さあ、これで邪魔が入らないとばかりに、中間や陸尺のあいだへ割りこんで、たちまち差しつ押えつ、ふたりとも引きぬきになって湯呑で
「さア、ドシコと注ぎまッせ、そんなことでは手ぬるい手ぬるい」
アコ長も、負けず劣らず、
「ご亭主、ご亭主。
たまらなくなったと見え、亭主も一枚くわわって、注げ注げ、
さっきの年嵩の中間、
「なア、六平、ここにいるこの五人。それから、すこしお長えのと髯もじゃのふたりのお仲間さん。こうして一杯の酒も呑みあったからにゃア、血をわけた兄弟も同然、そうだろう、六平」
「そうだとも、そうだとも。芳太郎、お前のいう通りだ。まア、一杯飲め」
「おう、その盃を俺にくれるというのか。ありがてえね。……ありがた山のほととぎす、と、いいてえところだが、その盃は貰わねえよ」
「くだらねえことを言わねえで、まア飲め。……それとも、俺のさした盃が気に入らねえというのか」
「ああ、気に入らねえね、気に入りませんよ。手前のような水くせえ野郎の盃は死んだって受けてやらねえんだ」
「また始めやがった。手前は酔うとくどくなる。いってえ、なにが気に入らねんだい」
芳太郎という中間は、いよいよ
「聞きたきゃ聞かせてやろう。
六平は、いつの間にか片だすきをはずして
「こいつアやられた。そこまでお見とおしたア知らなかった。……やいやい、芳太郎、まア、そうご立腹あそばすな。悪気でしたわけじゃねえ。ちょっと曰くがあって、それで
「勘弁してくれというなら勘弁しねえこともねえが、じゃアその曰くというのを聞こうじゃねえか。……なア、みんな、こりゃアいちばん聞かねえじゃおさまらねえところだ、そうだろう」
「そうだとも、そうだとも」
「やい、六平、
顎十郎は、とど助のほうへ振りかえって、
「これは、だいぶ面白くなってきました」
とど助はうなずいて、
「さんざ
六平は、急にヤニさがって、
「どうでもというなら聞かせてやる。そのかわり、腰をぬかさぬようにそのへんの蝶番をしっかりと留めておけ。……なにを隠そう、俺の金主というのは藤堂さまの加代姫さま。……ひッ、けだものどもめ、なんとも
「気味のわるい声を出しゃアがる。……このスケテン野郎、手前の面が路考に似てると。飛んでもねえことぬかしゃがる。どう見たって、
六平は、へへん、と鼻で笑って、
「そう思うのが下郎根性。むこうは大々名のお姫さま、こっちはいかにも駕籠の虫だが、恋をへだてる
芳太郎は、ひらきなおって、
「おお、そうか。加代姫さまがそれほどお前に肩を入れているとは知らなかった。いや、どうも恐れ入った、見なおしたよ。……じゃ、なんだな、六平、お前の言うことなら加代姫さまはどんなことでもうんと言うというんだな、それにちがいねえんだろうな」
「冗く念をおすには及ばねえ」
「じゃア、さっそくだが、加代姫さまをここへ呼びだして、俺っちに一杯ずつ酌をしてもれえてえんだがお願いできましょうか」
六平は、大きくうなずいて、
「ひッ、そんなことはお安いご用。お茶づけサーラサラでえ。ちょっと一筆書いてやりゃア、間をあけずに舞いおりていらっしゃらア」
「おお、そうか、じゃア、ぜひそういう都合にお願い申そうじゃねえか。三十二万石の大名のお姫さまに酌をしてもらえたら、男に生れたかいがあらア。さっそく一筆……といっても、お恥ずかしながら、文字をのたくるような器用なやつは
よせばいいのに、とど助が、
「よろしい、そういうことならば、拙者が一筆書きましょう」
アコ長が、膝をつついてよせと言ったが、とど助は、上機嫌でそんなことには気がつかない。サラサラと書き流したのを、こいつア面白い、で、一人がそれを持って駈け出す。
それから、ものの小半刻、『かごや』の門口にひとがたたずむ気配。
どこのどいつだ、うさん臭え、なんでひとの門口へマゴマゴしてやがる、手近にいたのが、
「やい、こん畜生」
ガラリと木戸を引きあけて見ると、
スッと上身を反らして立っていたのが、藤堂和泉守の御息女加代姫さま。
髪をさげ下地にして、細模様の
膚はみがきあげた象牙のように冴えかえり、女にしてはととのいすぎた冷い面ざし。
よもや、と思っていた。
あっけに取られて腑ぬけのようになってぼんやり見あげている顔々を尻目にかけ、引きあけた木戸から雲に乗るような足どりでスラスラと入って来て、爪さきのそる白玉のような手で唐津焼の徳利を取りあげるとスラリと立ったまま、
「酌をしてとらする」
六平をはじめ、五人のももんがあ、うわッ、と、もろともに床几からころげおち、
「と、と、飛んでもございませんこと……」
「ど、ど、どうつかまつりまして」
加代姫は、
「遠慮をしないでもいいのだよ。……お出し。……盃を出せ、酌をしてとらせる」
顎十郎は、とど助の膝をつき、
「とど助さん、こりゃア凄いことになりました。……逃げましょう。こんなところでマゴマゴしていたら、えらいことになります」
とど助は、眼玉をギョロギョロさせて、
「いかにも! 逃げまッしょう、とてもかなわん」
「いいですか。じャ、ひい、ふう、みいで
「心得もうした。じゃア、掛け声のほうを……」
ひい、ふう、みい……まるで
毒流し
原の入口に大きな
朝がけに両国まで客を送って行って、これでこの日の商売はおしまい。どっちももう働かないつもり。通りがかった
鷲づかみにした
「ここへさえ来りゃ、かならずひっ捕まえることが出来ると見こんですっ飛んで来たんですが、それにしても、まア、うまく捕まえた」
「おい、おい、ひと聞きの悪いことを言うな。黒のパッチに目明し草履、だれが見たって御用聞と知れるのに、捕まえたの追いこんだの、
ひょろ松は、うへえ、と頭へ手をやって、
「こりゃ、どうも失礼。口癖になってるもんだから、つい……これはとど助さん、今日は」
「あんたはいつも裾から火がついたように駈けずりまわっているが、よくすり切れんことですのう」
「こりゃアどうも、さんざんだ」
「それはそうと、ひょろ松。いったい、なんでそんなにあわてくさっているんだ」
ひょろ松は、顎十郎とむかいあって中腰になり、
「いや、どうも、近来にない
「なんで殺した」
「酒に
「こりゃア、おどろいた」
顎十郎は、とど助と眼を見あわせ、
「とど助さん、世の中にはいろいろなことがありますな。それが事実としたら、実にどうも、際どいことでした」
さすがの、とど助も、息をついで、
「いや、まったく。あのまま意地きたなくいすわっていたら、鯰なみにポックリ浮きあがってしまうところでした。それも、あなたのお蔭」
「お蔭なんていうことはありません。あの姫さまが毒を盛るだろうなどと、いくらあたしでもそこまでは察しない。あたしは、元来、ああいうお姫さま面が嫌いでね、それで、まア、恐れて逃げだしたようなわけだったんですが、こりゃとんだ
二人の話を聞いていたひょろ松が、怪訝な顔で、
「なにか耳よりな
顎十郎は、恍けた顔で、
「実はな、ひょろ松、われわれ二人もあぶなく毒流しにかかりかけた組なんだ」
ひょろ松は、おどろいて、
「えッ、すると……」
「ああ、そうなんだ。あの六人とひっつるんで大騒ぎをやらかしているところへ人間を氷漬けにしたような凄味なのが入って来たんで、せっかくの酒がさめると思って、泡をくって逃げ出したんだ。……それはそうと、あの居酒屋へ加代姫が出むいて来たことがどうしてわかった」
「中間の芳太郎というのがこれが息の長いやつで、しゃっくりをしながら朝まで生残っていて、虫の鳴くような声で、
「ふむ、芳太郎はまだ生きてるのか」
「
「馬鹿な念を押すようだが、すると、亭主の六平ぐるみ、あの六人はひとりも助からなかったんだな」
「残らず死んでしまいました」
「なるほど、そりゃア大事だ」
ひょろ松はうなずいて、
「近くは法華経寺事件。それから、あなたがお手がけなすった紀州さまのお局あらそいなどの事件もあって、大きな声じゃ申されませんが、お上のご威勢は地に墜ちたようなあんばい。折も折、お屋敷うちならともかく、三十二万石のお姫さまが、町方まで出かけて来て六人の人間を毒で殺すなんてえのは実に無法。阿部さまもことのほかご
アコ長は、れいの長い顎のはしをつまみながら、うっそりとなにか考えこんでいたが、だしぬけに口をひらき、
「それで加代姫は、じぶんが殺ったと
「いいえ、そうは申しません。まるっきりじぶんの知らぬことだと突っぱるんです」
「それは、そうだろう」
と言っておいて、とど助のほうへ振りかえり、
「ねえ、とど助さん。あなたもそうお思いになるでしょう。いくら大名のお姫さまでも、かりにもひとを殺せば無事にはすまない。いわんや藤堂和泉守は
とど助は、頬の髯をしごきながら、
「同感ですな。いかにうっそりなお姫さまでも、そぎゃん
「そうですよ。こりゃ、たしかに
「……あっしは、こんなふうに考えておりました。加代姫は、六平になにか弱い尻をにぎられていて、今まで
顎十郎は、へへら笑って、
「なにをくだらない。子供が絵解きをしやしまいし、そんなことぐらいは改まって言うがものはねえ、わかり切った話だ」
ひょろ松は、頸へ手をやって、
「あまり常式でお恥ずかしいんですが、それというのは、あなた方おふたりが、加代姫が入って来たところを見たなんてえことを知らなかったから。……加代姫は、うまうま六人を盛り殺し、じぶんが『かごや』へ出かけて行ったことなぞ、ひとにわかるはずはないと多寡をくくっているんだと思いました。……芳太郎も死ぬ前にそんなことを申しました。あっしがみなと一緒に死んでしまうと、加代姫がここへ来たことを知らせる奴がいなくなる。それがいかにも残念。字が書けりゃア壁の端へでも『加代姫』と書きつけておくところなンですが、悲しいことには無筆。旦那方がおいでになるまでは地面にくらいついても虫の息をつなごうと、それこそ死んだ気になって頑張っていたンだと……」
「なるほど」
「しかし、お話を聞けば、じぶんが『かごや』へ出むいて行ったことを、一人ならず二人までに見られているンだから、そうあるところへいくら加代姫だってそんな馬鹿なことはしなかろう。これは、理屈です」
と言って、不審らしく首をかしげ、
「そのほうは納得がいきましたが、ここに不思議なのは加代姫を誘いだした手紙。これが大師流のいい
とど助は、てれ臭そうな顔をして、
「……どうも言いにくいことだが、ひょろ松
ひょろ松は、げッと驚いて、
「とど助さん、そ、そりゃほんとうですか。なんでまた、そんなつまらねえことを……」
「いや、面目しだいもない」
「面目どころの騒ぎじゃない。そういうことならあなたも関りあい。これは一応しょっぴかれます」
とど助は、しょげて、
「どうも、これは困った。なんとかならんもんだろうかの」
顎十郎は、ニヤニヤ笑いながら、
「こりゃア、逃れる道はありませんね。まアまア観念して藤波に威張られていらっしゃい。……だから、あのとき、あたしがよせよせ、ととめたのにあなたが聞き入れないものだから、……それはまア、大したことはないが、そういうのっぴきならない情況で、おまけに藤波の掛りというのであれば、否でも応でも加代姫は突きおとされる。……気の毒なもんですねえ、とど助さん」
「さよう、いかにも気の毒。なんとかならんもんでしょうかなア。袖すりあうも他生の縁。あんた、ひと肌をぬいでつかわさりまッせ。加代姫だけならいいが、三十二万石に瑕がつくことですけん、なア、アコ長さん」
顎十郎は、組んでいた腕あぐらをバラリと振りほどいて、
「おっしゃる通り、いかにもこれは因縁ごと。よろしい、なにをかやっつけて見ましょう。相手が藤波というのであれば、これは久しぶりの咬みあい、まんざら気が乗らないわけもない。……『かごや』に加代姫が出むいて来たから、加代姫が殺ったのだと考えるのは、あまりチョロすぎる。加代姫が帰った後で、だれか別な人間がやって来てそいつが殺したのだとなぜ考えちゃいけないんです。……あたしの推察では、たしかにだれか加代姫の後に来たやつがあったんだと思う。……要するに、これから『かごや』へ出かけて行って、そいつがやって来たというたしかな証拠をさがし出しゃアいいわけなんです。とにかく、その前に加代姫にあってしっかりと念を押しておくのが順序だが。……ひょろ松、加代姫はいまどこにいるんだ」
「お屋敷に押しこめられているそうです」
九つの盃
叔父の庄兵衛から借りた五ツ紋に
トホンとした顔を怖れげもなく振りあげて、透き通るような加代姫の顔をマジマジと眺めながら、
「いまも申しあげましたように、くどいようだが、日本国じゅうの人間がみなあなたの反対についても、手前だけはあなたの味方です。なにしろ、事情はたいへんあなたに不利なのですから、このままだと、どうしたってあなたが下手人になる。
加代姫は、
「それで、わたしに、なにを言えというの」
顎十郎は、
「やア、どうも弱った。さっきからおなじような押し問答。……金をやるのはいいとして、来いといえばあんな下司ばったところへ出かけて行かれたのは、どういう因縁によることなのか、それをお話くださいと申しているのです」
「それは、言われませぬ」
「あなたが、ひと殺しの汚名をきても」
「それは、もう覚悟しております」
「加代姫さま、あなたもずいぶん強情だ。権式高いということは、かねて噂にきいておりましたが、これほど堂に入っているとは思わなかった。……それほどまでのお覚悟でしたら、このうえお願いもうしても無駄。あきらめて引きとりますが、最後に、ひとこと申しあげたいことがあります」
「…………」
「あなたには意外なことかも知れませんが、六平が死んだというのは嘘で、虫の息ながら、まだ息が通っているんです。舌が
加代姫は、
「縁もゆかりもないこのわたしを、それほどまでに
蘆の葉が風にゆらぐように、ソヨと肩をそよがせ、
「
顎十郎はうなずいて、
「……なるほど、そういうわけだったんですか。数馬さんとやらの死体の処置に困って、六平にそっとかつぎ出させ、このへんならまず
加代姫は急に
「恨まれる覚えはたったひとつある。あんな無惨な死に方をさせたこのわたしを、あの世とやらで、数馬が、きっと恨んでいましょう」
「ほほう、それは耳よりな話ですな。……ながながとくだらないことばかりをお喋りしてさぞお耳ざわりだったことでしょう。手前はこれから『かごや』へ行って、とっくりと検べあげ、夕方までに
和泉橋の北づめの藤堂の屋敷を飛びだす。
橋を渡ったむこうがわが『かごや』。急ぐようすもなくのそのそと和泉橋を渡り、のっそりと『かごや』のなかへ入って行く。
あげ座敷の上框に腰をかけていた藤波友衛。
「いよう、これは仙波さん、絶えて久しいご邂逅。どうです、駕籠屋はもうかりますか」
「どなたかと思ったら藤波先生。あいかわらずご勝健の体でなにより。それはそうと、今度の件ですがね、ありゃア加代姫が殺ったのではありません。加代姫が引きとってから、この『かごや』へやって来たやつの仕業なんです」
藤波は、眼ざしを鋭くして、
「相もかわらずのあなたの出しゃばりにも困ったものだ。駕籠屋は駕籠屋相応のことをしておればいい。よけいなおせっかいはご無用です」
「などと言いながら、その実、訊きたいのでしょう。あなたの顔に、ちゃんとそう書いてある」
藤波は、蒼沈んだ額にサッと怒りの血のいろを刷いて、
「仙波さん、ふざけるのはいい加減にしておきなさい」
「おや、ご立腹ですか。お怒りになるならお怒りになってもかまわないが、あたしの言うことをきかずに加代姫などを突きおとしたら、あなたは生涯うだつのあがらないことになりますぜ。『野伏大名』のときの例もあるでしょう、突っぱらずに、あたしの言うことを聴いてください。あなたの鼻をあかそうの、あたしがこれで功名をしようの、そんな気は
藤波は、唇を噛んでうつむいていたが、
「あたしも加代姫が殺ったとは、どうも納得の行きかねるところがあって、先刻からここで悩んでいたんです。……加代姫が帰ってからこの『かごや』にやって来たやつが下手人だという、あなたの
「藤波さん、よく折れてくだすった。あなたがそんなふうにおっしゃるなら、あたしも正直なところを申します。……ここへ入って来るまで、実は、あたしにもなんの当てもなかった。ところで、こうやって飯台のうえを眺めてるうちに、ここへやって来て六人を殺したのはいったい誰だったか、はっきりとわかったんです」
「えッ、飯台を眺めて、……やって来たやつは誰かと……」
「ご
「お話は、よくわかりました。それで、その証拠は」
「あたしがここへ入ると、あなたと話をしながら飯台のほうばかり眺めていましたろう。いったい、なにをしていたと思います。ひい、ふう、みいと、盃の数ばかり数えていたんです。たぶんひょろ松からお聞きになったことでしょうが、昨夜、あたしととど助がここにいたんです。……あたしととど助と六平、それに中間どもが五人。〆めて盃が八ツでなければならないのに、ごらんの通り、ちゃんと九ツあります。あたしは如才なく加代姫に念をおして見ましたが、加代姫は、ここで酒など呑んでいないのです。してみると、あたしの推察どおり、加代姫が帰ったあとで、別なだれかがやって来た。それが、濠へ沈められた三枝数馬だというんです。……その証拠ですか? 実に、簡単なことなんです。……いちばん手近な盃の下に懐紙を四つに折って盃台にしてあるでしょう。懐紙の紙はご覧のように、薄紅梅を刷りこんだお小姓紙。懐紙で盃をうけることは小姓でなければしないことです。……嘘だと思ったら、あの盃を改めてごらんなさい。あの盃だけには毒がはいってないはずですから……」