一
キャラコさんは、ひろい
ともかく、あまり礼儀のあるやりかたではなかった。そのうちの一人の手は、たしかにキャラコさんの
不意だったので、キャラコさんは道のはしまでよろけて行ったが、そこで踏みとまって、れいの、すこし大きすぎる口をあけて、快活に笑いだした。
おい、おれたちに追いついてごらん。……通りすがりに、きさくな冗談をして行ったのだとおもった。
キャラコさんは、笑いながらいった。
「見ていらっしゃい、どんなに早いか」
きっと
山売の一行は、はるか向うの橋のうえを飛ぶように歩いている。駆けだすのでなければとても追いつけそうもなかったが、三十分ほどせっせと歩いているうちに、双方の距離がだんだん縮まってきた。
峠のてっぺんで、とうとう四人を追いぬいた。
キャラコさんは、くるりと四人のほうへふりかえると、のどかな声で、いった。
「ほらね、早いでしょう」
泥だらけの四人の鉱夫は、ちょっと足をとめると、なんだ、というような顔つきで、いっせいにキャラコさんの顔を見すえた。
四人ながら、顔のどこかにえぐったような傷あとをもっていて、このどうもうな顔をいっそう凄まじいものにみせる。どんな残忍なことでも平気でやってのけそうな
四人の
「なにをいってるんだ、こいつ」
小さな、円い眼をした貧相な男が、無感動な声で、こたえた。
「おし
いちばんうしろにいた、牛のようなどっしりと頑丈な男は、
「
と、吐きだすようにいうと、小山のような
キャラコさんは、うまく追いつけたのでうれしくてたまらない。そうするのが当然だというふうに、いかにも自然なようすで四人の山売のうしろにくっついて歩きながら、愛想よく言葉をかける。
「これから、どこへいらっしゃるの?」
だれも返事をしない。みな、ひどく
キャラコさんは、じぶんのいったことが聞えなかったのだろうとおもって、いちばんうしろからゆく、
「どこへ、いらっしゃるの」
「
と、こたえた。
キャラコさんには、この一行がどんな職業の人間かわからないが、なにか大急ぎに急いでいることだけははっきりとわかる。いったい、どんなさしせまった用事で、こんなに夢中になって急いでいるのだろう。
じっさい、一風変わった一行だった。まるで、敵でも追撃するような勢いで疾走してゆく。立ちどまりもしなければ口もきかない。必要があると、ごく短い簡単な言葉を互いにす早く投げあう。外国語らしい言葉もときどきまじる。
キャラコさんは、他人の生活に
キャラコさんは、この一行がどんな目的で丹沢山の奥へゆくのか、とうとう聞きだすことができた。たとえようもなく愛想のいいキャラコさんの問いかけには、この無愛想の山男も
四人のうちで、比較的やさしげな、銀縁眼鏡の黒江氏が、
二
四人ながら、科学の研究にひたむきな熱情をそそぐことのできる誠実な精神のもちぬしだったので、戦争が始まると同時に熱烈に祖国を愛するようになった。
四人の血管の中に脈々たる熱いものがたぎりたち、はげしい情感が息苦しく心臓をおしつけ、自分たちにふさわしい、できるだけ直接の方法で祖国の苦難に協力したいと考えるようになった。自分たちのまわりの人間が、祖国にたいしてあまりにも無関心なようすをしているのに、
慎重に意見を
この四人の若い学者たちは鉱山学にも深い知識をもっていたので、この仕事がどんなに困難なものか、最初からはっきりと知っていた。知識ではなく、
四人は、日本中の廃棄金山の
この大きな
戦場の兵士と同じ労苦をあえてしようという素朴の感情のほかに、自分らの肉体に精密器械のような緻密性を課したのである。
廃鉱にたどりつくと、息をつく間もなく採鉱を開始する。
重力偏差計で鉱脈をさがし、

四人ともすっかりやせこけてしまい、顔のなかに、寄りつきがたいような
こんなひどい苦労をつづけてきたが、いままでの五つの鉱山は、この四人にたいして、なんの好意も示さなかった。
どの
この四人の山の
キリストのような顔をした若い助教授は、こんなに
キャラコさんは、思わずため息をついた。
「たいへんだ」
黒江氏が、重厚な口調でいった。
「かくべつ、たいへんなどというようなことではないです」
「でも、それでは、あまり過激ですわ」
黒江氏は、ひどく咳き込みながら、
「過激というと?」
「休む時間もないというのは、あまりひどすぎますわ」
「ほほう。……でも、われわれはそんなふうには感じていませんよ。つらいのは、この仕事の性質なんだから止むを得ません」
「でも、程度ってものがありますわ」
「われわれの仲間には、もっとつらいことをやっている連中だってありますよ。このくらいのことはとり立てていうほどのこともないでしょう」
「ともかく、もうすこしお休みにならなくては」
「有難う。充分休んでいます」
「そんなふうには見えませんわ。やせっこけて、今にも倒れてしまいそうよ。……それに、あなたは、たいへん咳をなさいますね」
えぐれたように落ち込んだ頬に、ともしい微笑をうかべながら、
「咳はむかしからです。この仕事のせいではありません。……ゴホン、ゴホン。……ほら、なかなか調子よく出るでしょう。……生理的リズムといった工合ですな。これだって、馴れると、ちょっと愉快なものです」
キャラコさんは、いいようがなくなって黙り込んでしまった。
黒江氏は、熱をはかるために、無意識にちょっと額へ手をやって、
「……
急に快活な口調になって、
「しかし、今度はどうやらうまくゆきそうです。……今まではね、
子供が
一枚すむと、すぐ次の一枚にとりかかる。これを、腰もおろさずに立ったままでやっつけるのだった。
昼食は三分とはかからなかった。
口のまわりの
キャラコさんは、これだけのことで、この四人の連中が、今までどんな無頓着な日常を送っていたか、なにもかもわかるような気がした。
仕事に魂をうばわれた、この
キャラコさんが、やさしく
「ずいぶん手軽にすみましたね。……けさは、なにをお
黒江氏が、大儀そうに、こたえた。
「なに、って、いつもの通りです」
「いつもの通りって?」
「つまり、いま喰べたようなもの」
「その前の日は?」
「べつに、変わったことはありません」
「それで、お炊事なんか、どうなさるの?」
黒江氏は、ふしぎそうな顔で、キャラコさんのほうに振り返りながら、
「お炊事、って、なんのことです」
「ご飯なんか、どんなふうにしてお
「ああ、その事ですか。……
「すると、毎日、朝も夜も
「そうです。この半年ばかり、ずっとこんなふうに
「でも、そんなことばかりしていて、身体のほうはどうなるんですの」
「身体?……身体のことなんか
「
「ええ、そうです」
キャラコさんは、腹が立ってきた。
「なるほど、たいしたもんだわね!」
自分達の仕事が大切なら大切なだけ、こんな無茶苦茶な仕方をしてはいけないのだった。
(こんなにひどく咳をしながら、こんな生活をつづけていたら、それこそたいへんなことになってしまう)
どうしても、このまま放って置けないような気がしてきた。
このひとたちを丈夫にしてあげることは、間接に大きなものに寄与することになる。一分ほど考えたのち、キャラコさんは、四人にくっついてゆくことに決心した。
こういうすぐれた仕事に、じぶんも参加することができると思うと、たいへんうれしかった。
あたしは、いま、生まれてはじめといっていいくらい、つよく、感動しています。
ここまでくる途中で、四人の人と道連れになり、その人たちといっしょに、これから丹沢山の奥へ行くことに決心しました。
これから始められようとしているのは、たいへんに意義のあることで、あたしが、いくぶんでもそれに助力できることを、心から光栄に思うようなそんな、立派な仕事なのです。あたしのことはどうぞ、心配しないでちょうだい。
ここまでくる途中で、四人の人と道連れになり、その人たちといっしょに、これから丹沢山の奥へ行くことに決心しました。
これから始められようとしているのは、たいへんに意義のあることで、あたしが、いくぶんでもそれに助力できることを、心から光栄に思うようなそんな、立派な仕事なのです。あたしのことはどうぞ、心配しないでちょうだい。
三
小屋のなかへはいると、四人の一行はすぐ
この四人自身が、それぞれ精巧な器械のようなものだった。無言のままで、すこしの無駄もなくスラスラと仕事を片づけてゆく。
キャラコさんは、暗いすみのほうへ遠慮深く坐って、いかにも馴れきった四人の仕事ぶりを感嘆しながら眺めていた。
古びた
四人は、かんたんな日誌をつけおえると、
キャラコさんも、それにならって
かたく眼をつぶって眠ろうとしていると、おもおもしい足音が近づいてきて頭の近くで止まった。
眼をあいて見ると、四人の
「あなたは、そこで何をしているんです」
キャラコさんは、おどろいて跳ね起きた。
意外な挨拶だった。説明はしなかったが、自分の意志はちゃんと四人に通じてるのだと思っていた。うるさがりもしないで
「寝るなら、どこかほかのところへ行って寝てください」
キャラコさんの心臓が瞬間、キュッとちぢこまった。が、すぐ元気をとりなおして、しっかりした声でききかえした。
「あたし、出て行かなくてはなりませんの」
山下氏は超然とした眼つきで、黙ってキャラコさんの顔を見つめている。
……それは、いまいったばかりだ。
キャラコさんは、蚊の鳴くような声で、つぶやいた。
「……あたし、ここにいたいのですけど」
対等でものをいうつもりなのだが、いつのまにか哀願するような調子になっているのが情けなかった。
山下氏が、
「なんのために?」
キャラコさんは、できるだけまっすぐに胸をはると、
「あたし、あなたがたのお手伝いをしたいのです。……力のつく食物をこしらえてあげたり、女でなければできないような細かいことをしてあげたいと思って、それで……」
「たいへん、有難いですが、見ず知らずのあなたに、そんなことをしていただくいわれはない。だいいち、われわれは、あなたの助力などを必要としないのですから」
キャラコさんは、熱くなって、大きな声をだす。
「いいえ、それはちがいます。あなたがたは、ご自分たちが、どんな不経済なことをしているか、まるっきり気がついていらっしゃらないのです。仕事が大切ならばそれだけ、ちゃんと喰べたり、適当な休養をとったりする必要があるんです。そんなことをうまくやってあげるためにあたしの助力が……」
ここまでいったところで、キャラコさんの言葉はピタリと唇の上で凍りついてしまった。冷然と自分を眺めている山下氏の無感動なようすが、キャラコさんのこころをすくみあがらせた。
キャラコさんは、顔をあげて、山下氏のうしろにある三つの顔を順々に眺めたが、じぶんのきもちを理解してくれそうなやさしい眼差しを発見することはできなかった。穏和な黒江氏の眼さえ、はっきりとキャラコさんを追い立てている。
これで、おしまい。いわれた通り、ここから出てゆくよりほかはないのであろう。
キャラコさんは、
いつのまにか空が曇り、霧のような雨が、しんとした
キャラコさんは、戸口のすぐそばまで行って、そこで踏みとどまった。もういちどやってみようと決心したのである。じぶんの気持を相手に伝えることができないのは、しょせん、まごころがたりないためであろうから。
元気よく廻れ右をすると、小屋のなかへもどってきて、四人のすぐまえで立ちどまった。
「……あまり突然でしたし、それに、私自身についてだって、なにひとつ申しあげていないのですから、気まぐれだと思われてもしようのないことですけど、でも、あたしがご一緒にここまでやってきたのは、決して、いい加減な考えからではなかったのです。……道みち、おひとりからいろいろうかがって、皆さまが、どんな目的で、どんな仕事をしていらっしゃるのか、よく承知することができました。……それから、食事の支度をする時間もないほどお忙しいということもよくよくわかりましたわ。……うかがいますと、この半年ばかりの間、ずっと簡便な方法で食事をすましていらしたのだそうですね。……仕事が大切だから、食事なんかのことで時間をつぶしていられないという考え方については、あたしにはあたしなりに別な意見がありますが、それはそれとして、たとえば、あそこで咳をしていらっしゃる黒江氏についてだけ申しあげても、誰れかちょっと気をつけてあげさえすれば、もっと丈夫になられるはずなんですわ。……みなさまは、仕事のほうが
四人の目のまえに、敏感そうな顔つきをした娘が、正直そうなようすで突っ立ち、よどまない、率直な眼差しで、じっと自分たちを眺めている。
健康そうな、力みのある唇のはしがすこしばかりほころび、この荒れはてた小屋のなかでは、それが、新鮮な
山下氏が、例の、すこし低すぎる声で、いった。
「……小屋へ帰ると飯ができていたり、部屋の中に花があったりするのは、たしかに気持の悪いことではないでしょう。われわれといえども、そんな楽しみを楽しみとしえないような
キャラコさんは頬に、サッと血の気がさす。いつになく、怒ったような声で、いった。
「お言葉ですけど、戦争は男だけがするものでしょうか。……戦場の兵士と同じような苦労を、女は、毎日じぶんの家庭でくりかえしています。……いつも、隠れて見えないところにいるけれども、その眼だたないところで、男性に協力して、びっくりするような大きな働きをしている『女の手』というものをどうぞ忘れないでちょうだい」
気がついて、困ったような顔をしながら、頬に手をあてた。
「あたし、……すこし、いいすぎましたわね」
四人のいちばんうしろにいた黒江氏が、低い声で、いった。
「かまいませんよ。
キャラコさんは、これで力をつけられてる。そのほうへちょっと感謝の微笑を送ってからまた続けた。
「……それから、情緒や女のやさしさなどというものを、なにか、役に立たない、つまらないものだというふうに考えるそういう考え方も、たいへん不服ですわ。……これは、聞きかじりですけど、欧洲戦争のとき、
赤ら顔の原田氏が、牛のような太い声で、うむ、と、うなった。三枝氏が髯のなかから白い歯を出して微笑した。二人とも、熱心に弁じ立てているこの元気な娘に思わず同感したのである。
山下氏が、三人のほうへチラと振り返ってから、いぜんとして冷静な口調で、
「……それで、どんな動機でわれわれの手助けをしようなどと決心なすったのですか。……それに、あなたはいったいどういうお嬢さんなんです。まだ、それをうかがっていないようでしたね」
キャラコさんが、大きな声で、笑いだす。
「そうですわ。それからさきに申しあげなければならなかったのですわね」
急に、まじめな顔つきになって、
「……あたしのいまの境遇は、すこし奇抜すぎるようなところもありますので、信じていただくよりしようがありませんけど、あたし、最近、ある方からたいへんな財産を譲られましたの。それがあまり評判になったので、父がうるさがって、当分東京へ帰ってくるなというのです。ずいぶん困ったはなしですわね。……嘘でない証拠に、父の手紙をお見せしてもいいわ。……
山下氏が、むずかしい顔をほころばせて、眼に見えないほどの微笑をした。
キャラコさんは、一歩前へ進み出て、胸を張って、いった。
「あたしは、こんな若い娘ですが、決してグニャグニャではないつもりですわ。それから、父も兄弟も
愛想よく笑って、
「……ずいぶんしゃべりましたわ。……申しあげたいことは、まだどっさりありますけど、もうこれくらいにして置きますわ。……どうぞ、あたしをおしゃべりだと思わないでくださいね。ふだんは、これでも無口なほうなんです。あたし、一生懸命だったからなんですわ」
山下氏が、意見をたずねるように三人のほうへ振り返った。三人は思い思いの仕方でうなずいた。
山下氏は、キャラコさんのほうへ向き直ると、冷淡な口調で、いった。
「よくわかりました。……お見受けするところ、あなたは、男の仕事の邪魔をする、やり切れないお嬢さんとはすこしちがうようだ。仕事を助けてくださるという意味でなら、いてくだすって差し支えありません。……みなも、……どうやら……賛成しているようですから」
四
次の朝、まだ薄暗いうちに、四人は元気よく鉱坑のある谷間のほうへ降りていった。
キャラコさんは、たいへん忙しい。
四人の
四人が出かけてゆくと、キャラコさんは、小屋の掃除にとりかかった。
これに、午前いっぱいかかってしまった。
小屋のなかが片づくと、そろそろ夕食の支度にとりかからなくてはならない。まず、炊事道具と食糧の検査をはじめた。
四人がしょってきたものは、たいへん貧弱である。コッフェルが一つ、フォークのついたナイフが四挺、アルミのコップが四つ。……これでは、ないほうがましなくらいである。
材料のほうになると、これもまた心細いきわみだった。キャラコさんのぶんを合わせて、つぎのような貧弱な材料で、村へ買出しにくだる日までもちこたえなくてはならない。
(キャラコの分)コッペ二つ、レモン二個、角砂糖一箱、板チョコレート二枚。
(四人の分)米、塩、味噌、乾パン、熱量食。
(四人の分)米、塩、味噌、乾パン、熱量食。
キャラコさんは、意想の天才である。このような場合には、たいてい独創的な思いつきをしてひとを驚かすのだが、この貧弱な材料で四人の男を四五日養うというのには、たしかに、神の助けが必要なようである。
「困ったわね。これでは、どうにもならないわ。とりあえず、なにか力のつくものを喰べさせなければならないというのに……」
キャラコさんは、途方に暮れたようにため息をついていたが、間もなく気をとりなおして、男のように腕を組んでいろいろと工夫しはじめた。
しかし、思いつきをするのに、たいして時間はかからなかった。
「……
大急ぎで米をとぐと、裏山へ駆けあがって行ったが、
キャラコさんは、ガッカリして、情けない声をだす。
「おやおや、ずいぶん貧弱なところね。せめて、
キャラコさんは、ひとりでブツブツいいながら裏山をおりて川の岸までゆくと、すこしくい込んだ、沢のようになったところに、あさ緑の水草のようなものが
キャラコさんは、夢中になって手をたたく。
「あら、水芹があるわ!」
手でさわって見ると、みずみずしい、いかにもおいしそうな水芹だった。
「これで、おひたしのほうは片づいた。……
岸について川上へのぼってゆくと、すこしよどみになって深い
「うまい工合ね。このぶんなら、たしかに
岸からそっと身体をひいて、骨を折って大きな蠅を一匹つかまえて羽根をむしって水の上へ落してやると、まるで待ちかねてでもいたように、水の
キャラコさんが、うっとりとした声を、だす。
「虹鱒だわ! なんて、すばらしいこと!……
キャラコさんは、うれしくて胸がドキドキしてきた。
「フライにして、レモンをかけて喰べてもいいし、塩焼きにしてもいいわね。利用の方法はいくらでもあるわ。それはそうと……」
それはそうと、この虹鱒をどうして捕まえようというのです。気をきかして、虹鱒が自分からフライ鍋の中へはいってくるなんてことはとても期待ができない。いずれにしろ、釣るとか捕まえるとかするほかはないのだが、
キャラコさんは、無念そうな顔をして水の
「……困ったわね。こんなたいへんなご馳走が目の前で泳いでいるというのに、手も足も出ないというのはあまり情けないわ。なんとかならないものかしら」
虹鱒は、キャラコさんをからかうように、すぐ眼の前で水の
「そんなふうにたんと馬鹿にしていらっしゃい。いまに、つかまえてあげるから……」
キャラコさんは、川下のほうを眺めながら、腕を組んで、かんがえる。
「……
水はせいぜい膝がしらぐらいの深さしかないが、五
「たいへんだ。この大きな川をかいぼりするのかしら……」
しかし、それより方法がないとなると、やっつけるよりしようがない。
キャラコさんは、だいたい思いきりのいいほうだから、いつまでもグズグズ考えていない。スカートの裾をたくしあげると、すぐさまかいぼりの実地検分にとりかかった。
丹沢の地震のとき、このへんもだいぶひどくやられたとみえ、
キャラコさんは、物置小屋に古い
おもしろいどころではない。キャラコさんは、もう一生懸命だった。四人にこのみごとな虹鱒を喰べさせてあげたいという思いで、胸のしんが痛くなるほどだった。
膝までザブザブ水の中へはいって、岩と岩の間へ葦簀を張って、その裾のほうを石でしっかりととめて行った。

二時間ばかりかかって、
「お帰りなさい。たいへんだったでしょう」
キャラコさんは、小屋の入口まで走り出してひとつずつ
「顔と手を洗って、ちょうだい」
四人はよわよわしい反抗の身ぶりを示したが、ニコニコ笑いながら立っているキャラコさんのなんともいえない愛想のいいようすを見ると、抵抗し切れなくなったとみえて、観念したようにしぶしぶ顔を洗いはじめた。
大男の原田氏は、狼狽のあまり、たったひとつしかないキャラコさんの石鹸を手からすべらせて、どこかへなくしてしまった。
キャラコさんは、四人を台所兼用の『食堂』へ案内して、
主座には、色のさめたような蒼白い顔をした山下氏がついた。その右に、小さな円い眼をした縮れ毛の三枝氏。その向いが、どっしりと坐りのいい頑丈な原田氏。その隣りに、髯さえも悲しげな、しょっちゅう咳ばかりしている黒江氏が坐った。四人は、小屋の中があまりきれいになっているので、当惑したような顔つきで、眼のすみからジロジロと見まわしていた。
「思うようなことができませんでしたけど、どうぞ、どっさりあがって、ちょうだい」
キャラコさんが、すこし上気したようなようすで、食卓のうえの白い布を取りのけた。
「ほう!」
四人は、思わず、吐息とも嘆息ともつかぬ低い叫び声をあげた。
食卓の上には、冷静な科学者の眼をも驚かすほどのすばらしいものがのっていた。
かたちのいい川魚が、金色のころもをつけて、エナメル塗りの白い分析皿の上でそっくりかえり、現像用の大きなパットの中には、緑色の新鮮なサラダが山盛りになっている。そのとなりで、赤くゆであげられた
原田氏が、おびえたような顔で、
「これは、たいへんだ」
と、つぶやいた。
黒江氏は、感動して何かいいかけて、ひどく咳にむせんだ。
三枝氏は、小さな眼をパチパチさせながら
「これは、いったい、どうしたというご馳走なんですか?」
どういう手段と経過によって、こんな思いがけない結果に到達したのか、そこのところが知りたいという学者らしい好奇心を起こしたのだった。
キャラコさんは、額ぎわまであかくなって、夢中になって説明した。
「……分析皿の魚は川にいた虹鱒を、
三枝氏が、納得しない顔をした。
「でも、こんな山ン中で、フライの油などあるわけはないが……」
「それはね、測量機械をふくオリーブ油を少々拝借したのですわ」
「ほほう。……それで、酢なんかは?」
「分析の実験にお使いになる酢酸を、ひとたらしほど拝借しましたの」
「なるほど!」
「いけませんでしたかしら……」
三枝氏は、へどもどしながら、
「いや、結構です、結構です。……いけないなんてことはない。毒薬でさえなければ、何を使ってくだすっても結構ですが、それはそうと、この
「これはね、有名な
そういって、丁寧に会釈をすると、
「あたしたちの年ごろの娘のお料理なんていうと、一般には、あまり信用されないのが普通のようです。なかには、ひどくおびえる方もありますわ。……でもね、どうぞ、恐がらずに
原田氏が、ひどく固くなってフォークを取りあげた。
三枝氏は、胸を張って、
「えへん」
と、しかづめらしい咳ばらいをした。黒江氏は、何から手を出したらいいのかというふうに、キョトキョトと両隣りのやり方をぬすみ
さすがに、山下氏がいちばん冷静だった。
四人ながら戸迷ったようなようすをし、食べものの上へ深くうつむいて、互いに顔を見られないように用心し合うのだった。
半年ぶりで人間らしい食事をするというのに、みな、むっつりと頑固におし黙って、さもいやいやそうに喰べるのだった。
ところで、どうしたというのだろう。
ことさららしく顔をしかめているのに、みなの
分析皿にも、現像のパットにも、何ひとつ残らなかった。あんなに山盛りになっていたサラダも虹鱒のフライも、朝日に逢った
黒江氏が、申し訳なさそうな声で、いった。
「こりゃ、どうも……、あなたのぶんまで侵略してしまったようですね」
キャラコさんが、笑いだす。
「いいえ、そんなことはありませんわ。あたし、手廻しよく、さっきすまして置きましたの」
食事がすむと、熱いチョコレートまで一杯ずつ配られた。
四人は、チョコレートのはいった
黒江氏が、チョコレートをすすりながら、遠慮がちに、つぶやくような声で、いった。
「……ともかく、あのお嬢さんに、家政と料理の天分があるということだけは、認めてもいいわけだね」
三枝氏が、同じような調子で、こたえた。
「……そのほうでは、たしかに
原田氏が、怒ったような大きな声を出す。
「きいたふうなことをいうな。……ご同よう、下宿の女中と、研究室の小使いの
山下氏は、唇のはしにおだやかな微笑をうかべながら黙ってきいていた。かくべつ、原田氏の意見に反対するようなそぶりはしなかった。
五
毎朝、キャラコさんは、まだ東が白まないうちに起きあがる。火を
四時半には、小屋の中がさっぱりとなっている。掃除がすむと、
お弁当ができあがると、番茶の
あの次の朝、キャラコさんが食料をさがしに裏の崖へのぼって行ったとき、この
これは、なにによる感情なのかじぶんでもわからなかった。ただ、高いところでひるがえる旗のようなものがほしかったのである。
「すこし参りかけたとき、谷底から小屋の旗を見あげると、ふしぎに元気が出てくる」
キャラコさんの頭のうえで、その虹色の旗が、この小屋の五人の希望の象徴のように、力強い音をたててハタハタとひるがえっている。
もう、
渓流にそった広い河原は、陽の光でいちめんに白くかがやき、その白光のなかで、四人が崖を削ったり、石をくだいたり、めざましく働いているのが蟻のように小さく見える。
カチン、カチンという音は、いつまでたってもなかなかやみそうもない。腕時計を見ると、もう一時近くになっている。
キャラコさんは、そろそろ心配になってくる。
「また、ひるご飯を忘れそうだわ」
大きな声で、おうい、と叫びたくなるのをいっしんにがまんする。
四人は、ひと区切りがつくまで仕事をやめない。それを中断されるとあまり機嫌がよくない。キャラコさんはそれを知っているので、決して邪魔をしないようにしている。
キャラコさんは、矢車草の花の中へ坐って、しんぼうづよく、いつまでも待っている。
ようやく、
五人は、河原の涼しいところに坐ってお弁当をひらく。
四人とも、ひどく腹をすかしていてむやみにたべる。やっこらしょと下げてきたたくさんのおむすびが、たちまちなくなってしまう。
三枝氏が、むずかしい顔をして考え込んでいたが、何か重大な感想でも打ち明けるような口調で、
「要するに、われわれは、毎日ピクニックをしているようなものだね」
と、いった。ピクニックという言葉がおかしかったので、みな、クスクス笑いだした。
三枝氏が、まじめな顔でつづけた。
「……これが、単なる
キャラコさんは、お弁当の
キャラコさんは、手早く食事のあと片づけをすますと、すぐ白い前掛けをつけて実験室へ現われてくる。
一週間もたたないうちに、キャラコさんは分析実験の段取りをすっかり覚えてしまった。
キャラコさんは、額にむずかしい
キャラコさんはひとことも口をきかないばかりか、大きな
「ほほう、またキャラコさんだったんですね」
「ええ、そうよ、あたしですわ。幽霊ではなくてよ」
三枝氏が、感嘆したような声をだす。
「たしかにそれ以上ですよ。……僕は原田がそばにいるのだとばかし思っていた」
山下氏が、生真面目な表情で、うなずいた。
「キャラコさんは、たしかに、研究室の学生よりもうまくやる」
廿分ほど休憩すると、四人は仕事の続きにとりかかる。キャラコさんは、また無言で働きだす。
十一時になると、四人は実験を切りあげて寝床へゆく。
キャラコさんは、みなに、おやすみ、をいってじぶんの寝床のある『食堂』までひきさがると卓の上に立てた薄暗い蝋燭の光の下へノートをひろげて、低い声で、
「……Au……金、……CuFeS2[#「2」は下付き小文字]……黄銅鉄、……Ag2[#「2」は下付き小文字]S……
と、二時ごろまで、鉱石の成分式の暗記をやっている。
六
気むずかしい顔をした楽しいあけくれが、こんなふうに半月ほどつづいた。みな、見ちがえるように健康そうになり、互いの顔をながめては
ところで、キャラコさんは、やはりこの小屋に必要な人間だった。人生にとって、『女の手』というものがどんなに大切なものか証明されるような事件が起こった。
夜なかに、こっそり起きて分析試験をしていた黒江氏が、誤って
黒江氏は炎などを吸い込む気はなかった。
夜がふけて、しんしんと小屋の中が冷えてくると、例の咳がはげしくなってくる。自分の咳で仲間やキャラコさんの眠りをさまたげまいと思って、がまんにがまんをかさねる。突然、咽もとへ突っかけて来た咳の発作をこらえようとして、無意識に息をひいたとたん、吸管の炎を深く吸いこんでしまったのである。
たいへんな怪我だったけれど、黒江氏は、みなを驚かすまいと思って、叫び声ひとつあげなかった。
板壁を伝ってそろそろと
最初に発見したのはキャラコさんだった。
キャラコさんは眠っていたのではなかった。いつものように食卓の上に蝋燭を立てて、せっせと鉱物学の常識を養っていた。入口の扉のほうで何か重いものが倒れたような音がしたので、そっと出て来てみるとこの始末だった。
キャラコさんは、たいへん沈着だった。
額に手をあてて見ると、たいして熱はなかったが、もし、
「すみませんけど、ちょっと、起きてちょうだい」
三人は、すぐ眼をさました。が、キャラコさんがいつもと変わらないようすをしているので、こんなたいへんなことが起きているとは、とっさに気がつかなかった。
山下氏だけは、何かけはいを感じて、キュッと顔をひきしめながらたずねた。
「どうしました、キャラコさん」
キャラコさんが、しっかりした声で、いった。
「ちょっと、黒江さんのようすを見てちょうだい。ひどく悪いのだったら、これからすぐ医者を迎えにゆかなくてはなりませんから……」
そういっておいて、じぶんは急いで黒江氏の寝床をつくり、洗面器に
黒江氏は、間もなく意識をとり戻した。ぼんやりした眼つきで皆の顔を見廻していたが、頭がはっきりすると、吸管の炎を吸い込んでしまったのだと手まねで説明した。
ようやく原因はわかったが、どの程度の負傷なのかわからないし、どういう手当をすればいいのか見当がつかないので、ともかく医者を呼んでくることがさしあたっての急務だった。
キャラコさんが、ちゅうちょなく立ちあがった。
「あたし、行ってきますわ」
時計を見ると、夜なかの二時だった。小雨がふり、それに、風が出かけていた。
三枝氏がおどろいて、とめた。
「冗談じゃない、キャラコさん。こんな夜ふけに、あなたのようなお嬢さんをひとりでやられるものですか。私が行きます」
「だいじょうぶよ、心配しないでちょうだい。そんなことをなすったら、あなたあしたの仕事に差し支えるでしょう。あたしは遊んでいるんですから、あたしが行くのが当然よ。こんな時のために、あたしがここにいるんですわ」
そして、黒江氏の顔をのぞき込むようにしながら、いった。
「すぐ医者を呼んで来ますから。元気を出していてちょうだい」
黒江氏は、首をふって、いやいやをした。急に気が弱くなって、眼をしっとりとうるませていた。キャラコさんに、そばにいてもらいたいのらしかった。
山下氏が、いつになく懇願するような調子で、いった。
「医者を呼びに行くことはわれわれにだってできますが、介抱するほうはわたしどもではうまくゆきそうもないから、あなたは、どうか、ここにいて、こいつを見ていてください。……黒江にしたって、そのほうが心丈夫だろうし……」
キャラコさんは、素直にうなずいた。
「あなたが、そうおっしゃるんでしたら、そうしますわ」
カバード・コートを脱いで、
「黒江さん、あなた、熱もないんですし、それに、そんなふうに、しっかりと眼をあいていられるでしょう。けして、たいしたことはありませんの、すぐ
キャラコさんの声の中には、ひとの心をなだめすかすような、明るい、しっかりした調子があって、それをきいていると、この世の中に、クヨクヨしたり、思いわずらったりするようなことは何ひとつないのだというようなのどかな気持になるのだった。
朝の九時ごろになって、三枝氏が
医者の意見では、差し当って火傷面が融合するような危険はないが、こんなところでは手当も充分ゆきとどかないだろうから、町までおろして入院させたらどうかということだった。
ところで、黒江氏のほうは、この小屋から出てゆくことをどうしても承知しないのだった。じぶんをひとりだけ町へおろすようなことはしてくれるなと哀願した。とりわけ、行き届いたキャラコさんの介抱を受けられなくなるのが心細いのらしかった。
ぜひそうしなければならぬというのでもなかったので、病人の望むようにさせることになった。
黒江氏は、キャラコさんが、ちゃんとじぶんの枕もとに坐っているのを見届けると、安心したようにこんこんと眠りはじめた。
怪我のほうもそうだけれど、こんな折に休養と栄養を充分とらせて健康を回復させてあげたいとかんがえて、その思いだけでキャラコさんの心はいっぱいだった。
まだ重湯が通るぐらいなので、元気のつくような食べものを喰べさせられないが、せめてさっぱりさせてあげようと思って、倒れたときのままの
黒江氏は、この地球上にどこにも身の置きどころがないというふうに身体を固くしながら、ささやいた。
「ひどく、よごれていますから……」
「ですから、サッパリしたのと取り換えましょうね」
「でも、……どうか、よしてください」
「じゃ、せめて、靴下だけでもとりましょう」
「しかし、きっと、ひどく臭うでしょうから……。このままにして置いてください」
「どうしても、いけませんの」
「死ぬよりつらいから、どうか、このままにしておいてください」
ところで、小屋の災難は、これだけではすまなかった。
一日において、その次の日、こんどは原田氏が落石の下敷きになって右足をつぶしてしまった。
その日、三人は支柱のない危険な廃坑の中で働いていた。夕方ちかいころ、三人のすぐ横の岩盤が、きしるような妙な音を立てた。
これが、災難のキッカケだった。根元のところから始った
原田氏は、二人より比較的入口の近いところにいた。
妙な音がするのでそのほうへふりかえって見ると、大きな岩側が、今まさに二人の上に倒れかかろうとしている。
原田氏は、とっさに身をひるがえすと、二人のそばへ飛んでいって、岩側と二人の間に自分の躯を差しいれた。
山下氏と三枝氏は、原田氏のそばへ駆けよって、力を合わせて落盤を支えようとすると、原田氏は、切れぎれに叫んだ。
「逃げろ! おれの
二人は、原田氏を見捨てて逃げ出す気にはどうしてもなれなかった。一緒になって岩につかまっていると、原田氏は、地鳴りのような声でほえたてた。
「馬鹿野郎! 俺を殺す気か。……君達が逃げ出せば、俺も助かるのだ。早く、俺の股の下を!」
原田氏は、そういうと、何とも形容のつかぬうなり声を出しながら、肩の岩盤を押しかえしはじめた。
二人は、すぐその意をさとって、いわれた通りに原田氏の股の下をくぐりぬけて入口の方へ駆け出した。
原田氏は、二人が無事にぬけ出したのを見ると、
そこまでは、たしかにうまくいったが、急に支えをはずされた岩盤は、えらい速さで
原田氏は、
この時も、キャラコさんは、たいへんに沈着だった。
分析台の上に寝かされた原田氏の足首が
山下氏と三枝氏が、気ぬけがしたようにぼんやり突っ立っているうちに、キャラコさんは
原田氏が、牛のような声でほえ出した。
「ああ、
蒼ざめた額に玉のような汗をかき、身体じゅうを
「もう、よしてくれ。足なんかいらないから、もう、よしてくれえ。死にそうだ」
キャラコさんは、やめない。しっかりした声で、激励する。
「もう、一、二分。……すぐすんでしまいますわ。もう、ほんのちょっと!」
そういう間も手を休めずに、セッセと
原田氏は、ありったけの力をふりしぼって叫び立てる。
「もう、よしてくれ!……おれの足へそんなものを塗ったくっているのは誰なんだ!……おい、誰だってえのに!」
キャラコさんが、手を動かしながらこたえる。
「あたしよ。……もう、ちょっとだから我慢してちょうだい」
原田氏が、急に黙り込んだ。もう、うんともすんとも言わなかった。頭をまっ赤にふくらせ、ギュッと歯を喰いしばって、とうとう我慢し通してしまった。
二人が病床についてから、もう、一月近くになる。
この六つめの山も、今までのそれと同じように、あまり好意のある反応を示さなかったが、山下氏と三枝氏は、たゆむことなく、毎日、朝はやく谷間へ降りて行った。
夕方になると、二人は疲れたようなようすをして小屋へ帰ってくる。
原田氏は、
「今日は、どうだった?」
ときく。黒江氏も、ささやくような声でようすをたずねる。
すると、山下氏は、
「いいほうだ」
と、かんたんにこたえた。
キャラコさんも黒江氏も原田氏も、山下氏がそういう以上、
それから、また五日ほどたった夕方、遅くまで二人が帰って来ないので、河原まで迎いにゆくと、二人は鉱坑のそばの石に腰をかけて、白い
靄の向うで、つぶやくような山下氏の声が聞える。
「いよいよ、この山ともお別れだ」
ながい
「そう、いろいろなものとお別れだ」
「いろいろなものに……」
山下氏としては、珍しく感情のこもった声だった。
また、ポツンと間があく。
山下氏が、つづけた。
「われわれの労苦がむくいられることなどは、すこしも期待していなかったのに、思ってもいない方法で、感謝された。……かりに、神というものがあるならば、神様とは、なかなか油断のならない人格だね」
「おれも、そう思うよ。……あの二人さえ、怪我をしたことを、ちっとも情けながっていないんだからな。それどころか、たいへんなもうけものでもしたようにかんがえている」
「
「正直なところ、おれも、足ぐらい折りたかった。あんなにしてもらえるなら」
「馬鹿なことをいうな」
「そういう君だって、あのひとに別れたくながっている」
「そんなわかりきったことを、口に出していうやつがあるか」
三枝氏が、低い声で笑った。山下氏がつづいて、つぶやくような声でなにかいったが、それは
キャラコさんは、沈んだこころで小屋へ帰ってくると、入口の柱に背をもたせて長いあいだ立っていた。じぶんの沈んだ顔いろを原田氏や黒江氏に見られてはならないと思ったからである。落胆が激しかったので、こころをとりなおすのにだいぶ時間がかかった。
納得のゆくまで充分考えたすえ、気を取りなおした。四人の剋苦の精神のほうが、金の何層倍も尊いのだと思った。
「これだけやれば充分よ、勝ったもおなじことだわ」
夕食がすむと、山下氏が、率直に切り出した。
「いままで嘘をいっていたが、こんどもやはり駄目だった。この一年の間、われわれがどんなに努力したか、お互いによく知っているのだから、これ以上、しちくどくいう必要はないだろう。あす、山をおりて東京へ帰るつもりだが、われわれの仕事はこれで終わったというわけではない。鉱山のほうはうまくゆかなかったが、われわれの研究のなかで、この失敗をとりかえすことにしよう」
三枝氏は、鉱石のはいった採集袋を食卓のうえにおくと、
「この一年の記念のために、最後の
といった。
山下氏が、立ってきて、キャラコさんに挨拶した。
「あなたは、ほんとうに不思議なお嬢さんでした。どういう素性のかたなのか、……また、ほんとうの名前さえ知らずにお別れすることになりましたが、このほうが、たしかに印象的です。……最も心のやさしい女性の象徴として、いつまでも、われわれの心に残るでしょうから……」
あとの三人は、何もいわなかった。
原田氏と黒江氏は寝台の上で、三枝氏は、食卓に