キャラコさん

久生十蘭




     一
「兄さん、あたしは、困ったことになりはしないかと思うんですがね。ピエールは、きのうも、あのお嬢さんと二人っきりで話していましたよ」
 海風うみかぜでしめった甲板の上を大股で歩きながら、エステル夫人が、男のようなしっかりした声で、こういう。薄いもやのなかで、朝日がのぼりかけようとしている。
「あたしも、あのお嬢さんのいいところは認めます。でも、あなたのこういうやり方には、あまり賛成できませんね。……これじゃ、まるで、騒ぎの起きるのを待ってるようなもんだ」
 アマンドさんが、厚い首巻きのおくで、はっきりしない声をだす。
「それは、いったい、どういう意味だね」
 船尾までゆきつく。
 そこで、くるりと廻れ右をして、白髪頭しらがあたまを二つ並べながら、また戻って来る。
「ピエールが、あのお嬢さんを好きになったらどうします」
「ありそうなこったね。……白状するが、わしもあのお嬢さんがだいすきだ」
「そんなことは、聞かなくってもわかっています。あなたの日本心酔しんすいは並大抵じゃないんだから。……しかし、それは、あなたの趣味だけのことでしょう。ともかく、そんなことのために、不幸な人間をひとりこしらえあげることは、あたしは反対です」
 アマンドさんが、びっくりしたように立ちどまる。
「だれが、不幸になるというんだね」
「いわなくてもわかっているでしょう。レエヌです。……なるほどレエヌにはすこし気ままなところがありますが、それはそれとして、むかしならいざ知らず、今じゃ、あんなやくざな兄しかいない日本なんかで、ピエールにすてられでもしたら、あの娘は、いったいぜんたいどんなことになると思うんです」
「ピエールが、そんなことをいったのか」
「いいえ。……でも、ピエールがいまなにを考えているか、あたしにはよくわかっています。……あのお嬢さんを見る眼つきをごらんなさい」
 アマンドさんが、クスクス笑いだす。
「お前の苦労性には、いつもながら驚嘆させられるよ。……これはともかく、そんなことなら、心配しなくてもいい。……あのお嬢さんは、レエヌからピエールをとりあげるようなことはしないから」
「どうして、そんなことがわかるの」
 アマンドさんは、ピクンと肩をすくめる。
「あのお嬢さんは、かくべつピエールなんか好いていないからだ」
「そんなこと、わかったもんじゃない」
 エステル夫人は、かかとで甲板をコツンと踏む。
「これだけいってもわからないなら、もう議論はよしましょう。……とにかく、あたしはそんな騒ぎを見るのはいやだから、横浜へ着いたら快遊船ヨットを降りて、ひとりでカナダへ帰ります。……あとは、あなたがいいようになさい。あたしは、知らないから」
「したいようにするがいいさ」
「最後に、はっきりいって置きますがね、あたしはあくまでもレエヌの味方ですよ。そう思っていてください」
「わかった、わかった」
 エステル夫人は、アマンドさんの顔をマジマジとながめながら、
「どうしてあんな娘がそんなに気にいったの。なんだか、固苦しい、いやなところがあるじゃありませんか」
「お前には、それくらいにしかわからないか」
「ええ、わかりませんね。……それに、あまり貧乏すぎる」
「また、違った。……ひょっとすると、あのお嬢さんは、われわれよりも金持ちなんだぞ」

     二
 キャラコさんは、船室の中で眼をさます。
 窓掛けが、頭の上で蝶がたわむれるようにゆれている。船窓からくる朝の光が、丸い棒のようになって横倒しにノルマンディーふうの小箪笥コンモードのうえに落ちかかり、手のこんだ側板わきいたの彫刻を明るく浮きあげる。
 部屋の隅のほうに、天鵞絨びろうどの長椅子としゃれた小床几ダブウレエがどっかりと置かれ、反対の側には、三面鏡のついた、世にもみごとな化粧台があって、香水ふきや白粉いれがピカピカ光りながらキャラコさんに微笑ほほえみかける。
 長絨氈ペルシュマンはうすい空色で、明るい楓材かえでざいを張りつめたこの船室にたいへんよく調和する。半開きになったドアの隙間から、まぶしいほど白い浴槽と、銀色のシャワーのくだが見える。
 キャラコさんは、枕の上で顔をまわしながら、ぜいたくな寝室の風景をゆっくりと楽しむ。薄紗ダンテエルの窓掛けの模様に見とれたり、熱心に小箪笥コンモードの彫刻をながめたりする。なんとなくいい気持で、うっとりとなる。
「このくらい趣味がいいと、ぜいたくだってそうすてたもんじゃないわね、結構だわ」
 退役陸軍少将石井長六閣下のみごとな調教トレエニングのおかげで、質素の趣味をたれよりも愛しているくせに、こんなぜいたくな部屋に寝ころんでいても、ちっとも不自然な感じがしない。自分がこの部屋にしっくり調和しているような気がする。それが、ふしぎだ。
(あたしの適応性は、すこし、妙ね)
 毛布を鼻のところまでひきあげて、のびのびと長くなる。またうつらうつらとなる。寝ぼけ声で、こんなふうに、つぶやく。
「骨やすめ、って、英語でなんというのかしら。……ボーン・セッティングは、骨つぎか。……骨療法オステオパシイ……まさか……」
 おかしくなって、ひとりでクスクス笑いだす。
 仏蘭西フランス系のカナダ人のなかで第一のお金持ち、ジャン・アマンドさんのごうしゃな快遊船ヨットである。鋼鉄製で、駆逐艦のような恰好をしている。
 ドアをノックして英吉利イギリス人の室僕バトラアが二人、胸をそらしてはいってくる。
 ひとりは、寝室用の細長い朝食ぜんをもち、ひとりは、大きな銀のお盆にさまざまなたべものをのせている。
 さきに入ってきたほうが朝食膳のあしを起こしてそれをキャラコさんのひざの上にまたがせると、もうひとりは、銀盆をそのうえにのせ、スマートな手つきでちょっと食器の位置をあんばいし、キャラコさんの胸のへんにナプキンをひろげて出てゆく。
 いろいろなものがのっている。
 夏蜜柑なつみかんの冷やしたのが、丸い金色の切り口を上へ向けて、切子硝子きりこガラス果物盃カップの中にうずまっている。一さじほどの※(「くさかんむり/協のつくり」、第4水準2-86-11)れいしのジャム。チューブからしぼりだした白い油絵具のような、もったりとした生牛脂クレエムフレェシュ。蜜柑の花を浮かせた氷水アイスウォタア。人差し指ほどの焼き麺麭パン。熱いアップル・パイの上に[#「上に」は底本では「に上」]ヴァニラ・アイスクリームをのせた、れいのアイスクリーム・ア・ラ・モードというやつ。それから小さな湯わかし。その下でアルコール・ランプがチロチロと紫色の炎をあげている。
 盆のはしのところに朝顔の花が一輪。その下に名刺がある。ひらがなで、「おねぼうさん」と、書いてある。アマンドさんの息子のピエールさんのいたずらだ。
 ピエールさんはコロンビアの大学のヒュウ・ボートン先生の日本の講座に出ていて、ひらがなを書けるのが自慢なのである。
 キャラコさんは、このくらいのことでは動じない。ゆっくりとお膳の上の景色を観賞してから、順々に片づけはじめる。
 快遊船ヨットに乗ってから、自分でもびっくりするほどたくさんたべる。運動のせいばかりではあるまい、たしかにご馳走もおいしいようである。
 寝台の頭の上で蝉鳴器ブザが、ブウと鳴る。
 クレエムを喰べながら、あいた片手でスイッチをあけると、きれいな澄んだ声が、小さな拡声器から流れ出してくる。イヴォンヌさんだ。
「キャラコさん、もう、おめざめ?」
「ええ、おめざめよ。いま、クレエム・フレェシュを片づけているところ。……ほら、きこえるでしょう。ピシャ、ピシャって……」
「ええ、きこえるわ。あまり、お上品な音じゃありませんわね。……それはそうと、あたし重大なご相談があるのよ」
「あなたの重大には、もう驚くもんですか」
「ほんとうなのよ。とても重大なことなの。これから、すぐおうかがいしていい?」
「ええ、お待ちしててよ」

 キャラコさんをアマンド氏の快遊船ヨットへひっぱって来たのはイヴォンヌさんである。
 アマンドさんは非常な日本びいきで、趣味というよりは心酔しんすいというのに近いふうだった。
 ヴァンクゥヴァの自分の家の庭に日本ふうの四阿あずまやをつくり、家じゅうを日本に関する書籍と骨董こっとうでいっぱいにして、たいていは日本の着物を着て暮らしている。
 こんど日本へ遊びに来たのをさいわい、日本の近海に滞在するあいだ、ほんとうの意味の日本的なお嬢さんをひとり、ぜひ快遊船ヨットにご招待したいものだという希望をイヴォンヌさんのお父さんの山田氏にもらした。
 山田氏やイヴォンヌさんが推薦するとなれば、それはもうキャラコさんにきまっている。
 イヴォンヌさんが、のんきな顔で勧誘にやってきた。
「キャラコさん、十日ばかし快遊船ヨットのお客にいらっしゃらないこと? きっと、おもしろいことがあってよ。向うへは、もう行くことに返事してあるの。いらっしゃるわね」
 イヴォンヌさんと山田氏の紹介で、帝国ホテルで、はじめキャラコさんに逢った時から、アマンドさんは、はればれとした、愛想のいい、しっかりしたこのお嬢さんがすっかり好きになってしまった。
 ふしぎなことには、顔だちばかりか、まっすぐに相手の顔を見てものをいうところ、なんともいえないほど愛らしい笑い方をするところ、わざとらしくないひかえ目なところなど、死んだ夫人おくさんの若いときにあまりによく似ている。アマンドさんはどうしていいかわからなくなって、ハンカチでむやみに鼻ばかりかんでいた。
 アマンドさんは、キャラコさんが、すぐ自分の近くにいると思うだけでなんともいえぬよろこびを感じる。しかし、気丈きじょうなお老人としよりだから、夢中になっているようなようすは見せない。キャラコさんのほうも、ことさららしく話しかけたりするようなことはしない。ふいに甲板でであって、微笑し合っただけで行きちがうようなこともある。
 横浜を出帆しゅっぱんすると、浅虫あさむしの海洋研究所を見るために青森まで行き、それからまたゆっくりと南へくだって来た。
 アマンドさんは、キャラコさんと一緒にいられる日を、一日でも多くしようとたくらんでいるようにも見えるのである。

     三
 イヴォンヌさんが、白いウールのスーツを着て、うさぎのように飛び込んできた。
 息をきらせながら、大きな声で、
「キャラコさん、きょう射撃会ショッチングがあるのよ。あなた、おやりになるわね」
「重大な相談って、そんなことでしたの」
「ええ、そうよ。日本の女性全体の名誉にかかわることですもの。こんな重大なことってそうざらにないわ」
「あたしも、出なくてはいけませんの?」
「でも、ことわる理由はないでしょう。……いやねえ、あなたみたいでもありませんわ、キャラコさん。……もっと、しっかりして、ちょうだい」
「困ったわね」
 キャラコさんは、しばらく考えてからあいまいな返事をする。
「あたし、うまくやれるかしら。……見ているほうがいいようだわ」
 キャラコさんが、にえ切らないので、イヴォンヌさんが、かんしゃくを起こす。
「そんな元気のないことではだめ。……お願いだから、やってちょうだいね」
 キャラコさんは、日曜ごとに長六閣下と戸山とやまヶ原の射場へ出かけて行って、※(「土へん+朶」、第3水準1-15-42)しゃだのカンヴァスに閣下と並んで腹ばいになって、いっしょうけんめいに点数を争う。けっきょく、いつもキャラコさんのほうが勝つ。
 射撃に自信がないわけではないが、負けることの嫌いなレエヌさんとまた競争になりそうで、それを考えると気が重くなる。
 キャラコさんは、レエヌさんと女学校の二年まで同級だった。レエヌさんのお父さまは廿年も前にカナダから来たフランスの学者で、日本で結婚をしてそれから幾年もたたぬうちに亡くなられたということで、レエヌさんは、学校では、母かたの姓を名乗って、木村礼奴れいぬといっていた。
 そのころのレエヌさんはロオレンスの絵にある少女のように美しかった。眼が深く大きくて海のようにあおく、皮膚が冷たくさえて、いつも月の光をうけているようなふしぎな感じを与えた。すばらしく勝気な、固苦しいほど熱心な勉強家で、いつもキャラコさんと首席を争っていた。決してうちとけないひとで、こちらでどんなに愛想をよくしても、ちょっと微笑をかえすだけで、頑固に孤立をまもって、いつも校庭の隅で、ひとりでブウルジェなどの小説を仏蘭西フランス語で読んでいた。
 家庭的にたいへん不幸なひとらしく、保羅ぽうるという、やはり混血の兄がひとりいるということのほか、自分の家庭についてはなにひとつ話さなかった。家も横浜にあるというだけで、横浜のどこに住んでいるのか誰れにも知らさなかった。
 クラスでは、礼奴れいぬさんがお母さんと二人で、横浜の海岸通りで酒場バアをやっているのだという噂が伝説のように信じられていた。
 身振りや、言葉のちょっとしたいい廻しのなかに、相手をどきっとさせるような、大胆な、人ずれのした調子があった。いつもものうそうにして、しょっちゅう遅刻したり休んだりした。礼奴さんには女学校でやっているようなことは、つまらなくてやり切れないのらしかった。
「退屈で死にそうだわ。女学校の教師なんてみな馬鹿ばかりね」
 などといったりした。
 二年の進級試験が終わった朝、礼奴さんが校庭の入口でキャラコさんを呼びとめて、
「あたし、カナダの叔父にひきとられることになったのよ。あなたとも、これでお別れだわ」
 と、いつになくしみじみとした調子で、いった。
 一年ほど経ってから、礼奴さんがカナダのヴァンクゥヴァから短い便りをよこした。
 アマンドさんという、たいへんなお金持ちの叔父さんのやしきでぜいたくに暮らしていることや、カナダに籍が移ってレエヌという名になったことや、アマンドさんの息子のピエールさんと婚約したなどということを、誇らしい調子で書いてあった。
 快遊船ヨットの甲板で初めてレエヌさんを見たとき、それがむかしの礼奴さんだとは、どうしても思われなかった。髪を大人っぽくカアルし、きっちりとコルセットをつけ、言葉つきもそぶりもすっかりフランスのお嬢さんになり切っていて、日本に住んでいたようなようすはどこにも残っていなかった。
 それでも、さすがになつかしかったらしく、キャラコさんの手をにぎって、
「あたし、あれ以来日本の夢も見たことがなかったの。……あなたとこんなところでお目にかかるなんて、ほんとうに奇遇ね。この邂逅ルコンネッサンスは、たしかにふしぎよ」
 と、いって、いま、自分がどんなに幸福か、それを誇示するように、快遊船ヨットの中をくまなく案内して歩いた。
 しかし、レエヌさんの上機嫌は長くはつづかなかった。このごろでは、キャラコさんをあまりおもしろく思っていないらしい。
 ニュウグランドの土壇テラッスで、ピエールさんと二人っきりで話しているところを見てから、急によそよそしくなってしまった。
 ピエールさんは、死んだお母さんの子供のころの印象をなつかしそうにしみじみと話した。キャラコさんは、しんみになってそれを聞いていただけのことだったが、それ以来、レエヌさんは、なにか、ひどく対抗意識をもっていろいろといどんでくる。勝負ごとをひとつするにしても、いつも、あまり平和にはすまないのである。
 それに、カナダの銀行家だという、かっぷくのいい独逸ドイツ人くさいベットオさんも、あまりキャラコさんを好いていないらしい。アマンドさんの妹さんのエステル夫人などは、露骨にキャラコさんを毛嫌いして、
「あたしは、日本贔屓ジャポニストというわけではないのよ」
 などと、はっきりしたことをいう。
 キャラコさんは、イヴォンヌさんの勧誘に屈服したばかりに、思いがけなく、こんな劇的な境遇に身をおくことになった。
 キャラコさんにしてもあまりおもしろくないが、こんなことぐらいで弱くなってはならないと思って、いっさい気にしないことにした。
 甲板のほうから鋭い銃声がひびいてくる。
 室僕バトラアドアをノックして、皆様が上甲板ウエルでお待ちかねです、といいにきた。
「ほら、迎いにきたわ」
 イヴォンヌさんは、じれったそうに足踏みをしながら、もだもだするというふうに胸のところをおさえて、
「あたし、ここんところにいいたいことがモヤモヤしているんですけど、どうも、うまくいえないの。……なんでもいいから、たった一度だけみなにあなたの腕を見せてやって、ちょうだい」
 西洋将棋チェスやドミノで勝って見たってどうでもないと思うので、今日までレエヌさんに譲ってばかり来たが、しかし、そうばかりしているのも、あまりほめたことではない。日本の娘は、みなこんなふうに卑屈なのかと思われても困るのである。負け勝ちは問題ではないが、自分のせいいっぱいなところを見せてやってもいいような気持になってきた。
 イヴォンヌさんは、キャラコさんの顔色を敏感に見てとって、
「よかったわ」
 と、うれしそうに手をたたいてから、急に真剣な顔になって、
「やるなら、あのひとに負けないで、ちょうだい」
 と、正直なことをいう。イヴォンヌさんも、レエヌさんが嫌いなのである。

 快遊船ヨットは、いま勝浦かつうらの沖を通っている。
 八幡崎まんざきの灯台が、断崖の上でチョークのように白く光っている。
 二人が上甲板へあがってゆくと、舷牆げんしょうにすえつけた放出機トラップのまわりに船長や客が船員が十四五人ばかり集まって競技をはじめている。いまアマンドさんが撃っているらしく、射撃台のところにまっ白な頭と桃色の首筋が見える。
 ベットオさんが審判係。バアクレーさんが記録係で、記録板を鼻の先におっつけるようにして点数をマークしている。かますのようにせた、このひどい近眼のひとは、ミシガン大学の有名な東洋地理学者である。
 イヴォンヌさんが、遠くからにぎやかな声をあげて皆に挨拶をする。
 レエヌさんが、いつもの例で、おや、見なれない娘だ、というふうに、不思議そうな眼差しで二人をながめてから、
「ああ、あなたたちだったのね。あまり遅いから、もう、快遊船ヨットにいらっしゃらないのだと思っていましたわ」
 と、底意地の悪いことをいう。
 イヴォンヌさんは、負けていない。
「あたしたちが、まだまごまごしているんで、がっかりなすった?」
 レエヌさんが、肩をピクンとさせる。
「べつに、問題になんかしていませんわ」
 イヴォンヌさんが、勇ましく、やりかえす。
「ええ、どうぞ、そうして、ちょうだい。あたしたちもそのほうが望みよ。……あたしたち、アマンドさんのお客で、あなたなんかにべつに関係はないんですから」
 レエヌさんは、超然とした眼つきでイヴォンヌさんの眼を見かえすと、だまって揺椅子ロッキンング・チェヤのほうへ歩いて行ってしまった。
 アマンドさんが、新しい銃を受けとって身構える。
 ヒュッ、ヒュッと音をたてて、粘土の標的クレエ放出機トラップから飛び出す。生きもののようにもつれながら海の面をすべって行ったと思うと、急角度を切って紺青こんじょうの空へ舞いあがる。
 ズドン、ズドン!
 まっ白なクレエは飛びあがれるだけ飛びあがっておいて、それから、スッと逆落さかおとしに海の中へ落ちこむ。
零点ヌル!……合わせて、零点ヌル!」
 と、ベットオさんが叫ぶ。
 みな、どっと声を合わせて笑いだす。
 アマンドさんが笑いながら射撃台から降りてきて、キャラコさんに、身ぶりで、やりなさい、という。
 イヴォンヌさんが、キャラコさんの背中を、ぐいとこづく。
 キャラコさんは、決心して、射撃台へあがってゆく。
 しっかり足をふんばって、銃をかまえる。
 ズドン ズドン!
 青空の真ん中で、クレエが雪のようにくだける。
 室僕バトラアが、装薬そうやくした別の銃をツイと差し出す。
 また、空に、白い小さな雪煙り。
 三つ目だけミスして、五分の四で、八十点。大喝采だいかっさいだ。
 果して、レエヌさんが挑戦して来た。人垣のうしろから、
二個撃ダブルなんか、子供だましよ。一個撃シングルならお相手するわ」
 と、甲高い声で叫ぶ。
 レエヌさんがあまりうまくないことは、みながよく知っている。二個撃ダブルでもあたらないのに、一個撃シングルでやろうというのは理窟に合わない、はじめから、けんかだ。
 まわりが、ざわめきはじめる。
 英国人の室僕バトラアは、キャラコさんがひいきである。いんぎんなようすで、無言で銃を差し出す。キャラコさんが、無意識に受け取る。なんとか辞退しようと考えていたところだったのに、これで、退っぴきならないことになってしまった。
 困って、アマンドさんのほうへふりかえると、アマンドさんは肩をゆすって見せる。かまわないから、やれ、というのだ。
 イヴォンヌさんが、ジッとこっちを見ている。
(やるなら、負けないで、ちょうだい)
 さっきのイヴォンヌさんの声が、耳の底によみがえる。長六閣下の顔がチラリとまぶたの裏を横切る。キャラコさんは、すこし息ぐるしくなる。しかし、こうなった以上は、やっつけるよりしようがない。
 モリモリと闘志が湧き起こってきた。心の中で、しっかりした声で叫ぶ。
(負けないわ!)
 銃をとり直したとたんに、ヒュッとクレエが飛び出す。
 ズドン!
 つい、いまあった白いクレエはもうない。そこに、青い空があるばかり。
 ブラヴォ! みな、夢中になって手をたたく。
(こんなちっぽけな娘なのに、すごい腕前だ)
 こんどは、レエヌさんの番だ。
 銃を取って、なんだこんなものといった顔つきで、身をそらす。
 もう、癇癪かんしゃくを起こしている。どこもここもひどく誇張したジコップ・ピジャマのすそが、ヒラヒラと風になびく。
 ズドン!
 クレエは、ずっと空の向うまで逃げ出してゆく。
 その次もだめ、その次もだめ。四度目に、ようやく一つ撃ち落とす。

     四
 レエヌさんは、頭痛がするから、今晩は食堂へ出ないそうだ。室僕バトラアがそれを告げに来た。
 イヴォンヌさんが、ささやく。
「はずかしくて、出て来られないのよ」
 けさの射撃会のことで、腹を立てているにちがいない。キャラコさんは、なんだか気がとがめてしようがない。ピエールさんのほうを見ると、ピエールさんは、すまして食事にとりかかろうとしている。
(行ってあげればいいのに)
 キャラコさんは、ひとりで気をもむ。
(きっと、ひとりで、さびしがっているのにちがいないわ)
 しかし、そんな出すぎたことはいわれない。自分が見舞いにゆくのはわけはないが、そんなことをしたら、いっそう、かんしゃくをつのらせるばかりだ。もだもだしているうちに、食事が始まる。
 朱肉しゅにく色の生雲丹なまうにのあとで、苦蓬エストラゴンをいれたジェリィの鳥肉が出てくる。それから、凍甜菜カンタループ・グラッセ
 料理にあわせて、バニュウルとか、ボオジョレー酒とか、モルゴンなどという白や赤の葡萄酒がつがれる。料理も酒もりぬいたものばかりである。
 キャラコさんは、べつべつにつがれる葡萄酒を、すこしずつ飲んで見る。料理と酒がなんともいえない諧調和アルモニイをつくって、口の中が夢のようにおいしい。美食学というのも大したものだと思って感心する。なんだか、世界が広くなったような気がする。
 食卓の会話が、だんだん陽気になる。キャラコさんも、すこしずつ愉快になって、歌でもうたいたいような気持になる。となりをふりかえって見ると、イヴォンヌさんも赤い顔をしている。二人は顔を見合わせてニヤリと笑う。互いに、眼でやり合う。
(や、赤いぞ、赤いぞ)
(あなただって、そうよ)
 食事がすんで娯楽室バスチムへ引き移ると、いつものように無邪気な遊びがはじまる。
 ベットオさんが、この世へ生まれ出てから一番最初に覚えた歌を、できるだけ大きな声で唄うこと、という課題を出した。
 優しいようでなかなか手ごわい課題だ。たれもかれも、みな、むずかしい顔をして幼い時の記憶をたどりはじめる。
 ベットオさんが、最初はわたしが模範を示します、といって立ちあがる。ベットオさんは、独逸ドイツの田舎の生まれだ。こんな童謡をうたい出す。

鐘つけ、鐘つけ、
釣鐘草、
ハンスの家のお祝いだ、
そうれ、ごうんとつけ。

 猪首いくびで、あから顔の、ずうたいの大きなベットオさんが、こんなあどけない歌を、せい一杯に声をはりあげてうたうようすは、いかにもおかしい。みな、腹をかかえて、涙をふく。
 つぎに、やせたバアクレーさんが、ヒョロリと立ちあがる。近眼鏡を光らせながら、おおまじめな顔でやりだす。

ピエロオさん、
ペンを貸しておくれ。
月の光で
ひと筆書くんだ……

 次々に立って、珍妙な歌をとほうもない大きな声で唄う。ひとりすむたびに、われかえるような爆笑が起こる。
 そんな大騒ぎの最中、とつぜん、ドアがあく。
 レエヌさんが、ほのお色の、放図ほうずもなくすそのひろがった翼裾ウイング・スカーフのソワレを着て、孔雀くじゃくが燃えあがったようになってはいって来た。
「たいへんな、ばか騒ぎね」
 小さな頭をそびやかして、入口に近い椅子に掛け、青磁せいじのようなかたいあおい眼で、おびやかすようにみなの顔を見まわす。
 イヴォンヌさんが、キャラコさんのほうを向いて、ちょっと、片眼をつぶって見せる。
「……あれ、ピゲェの一九三八年の変り型ファンシイよ。去年の(ヴォーグ)にのってたわ」
 キャラコさんも、見て知っている。たいへんだなア、と思って恐縮する。でも、きこえてはたいへんだから、あたりさわりのない返事をしておく。
「みごとね」
 ピエールさんは、困ったような顔でそのそばへ行って、もう、頭痛はなおったのかと、たずねる。
 レエヌさんが、んぬけるような声で叫びだした。
「うるさくて、寝ていられません」
 これで、一座がしんとなる。
 レエヌさんの部屋は、ここからずっと離れた船尾のほうにある。そこまでこの騒ぎがきこえるはずはないのだが。
 アマンドさんが立って行って、いつも変わらぬ寛容なようすで、
「それは、悪かった。もう、よすよす……静かにしているから、行っておやすみ」
 これで、折れてくるかと思いのほか、いっそう気狂いじみたようになって、
「出て行くのは、あたしじゃない。あたしはここにいるんだ!」
 と、叫びながら、地団駄をふむ。
 我ままなことは知っているが、こうまでの狂態はさすがに今まで見たことがなかったので、みな、あっけにとられて黙り込んでしまう。
 キャラコさんは椅子にかけて、おだやかにほほえんでいた。
 レエヌさんはまだ遠廻しにしかいっていない。お前、ここから出て行けとはっきりいったら、その時いってやることは、ちゃんときまっている。それまではじっとしていればいい。しかし、これは、なかなか勇気のいることだった。胸がふるえて来てとめようがない。
 キャラコさんは、やはり聡明だった。この騒ぎは、これ以上発展しなかった。ピエールさんが、やさしい口調でなだめて、とうとうしずめてしまった。
 みなの眼が、じっとレエヌさんを眺めている。さすがにレエヌさんもいにくくなったと見え、椅子から立ちあがると、ドアのところで、憎悪をこめた眼つきでキャラコさんのほうをふりかえって、
「ミリタリズム!」
 と、聞えよがしにつぶやいて、出て行った。
 これは、すこしひどい。
 みなが、ハッとしたようすで、キャラコさんのほうをぬすみ見る。
 キャラコさんは、のんびりした声で、いう。
「もし、負けていたら、あたしだったら、もっと腹を立てかねませんわ。……負けるって、あたし、ほんとうに嫌いよ。……ほらね。……レエヌさんのおっしゃったことは嘘じゃないわ」
 これで、ピエールさんがわびなくともすむことになった。アマンドさんが、遠くから、感謝と敬意のまじった眼ざしでキャラコさんにうなずいてみせる。
 元気のいい、がむしゃらなところもありそうなこの娘が、どんなこころでこんな不当な侮辱を忍んでいるのか、それがよくわかる。そのうえこのちっぽけな娘は、社交馴れた、最も聡明な夫人ほどにもうまくやってのける。ふしぎな娘だと思って、四方からキャラコさんをみつめはじめる。
 またとつぜんドアが開いて、エステル夫人が、はばのあるがっしりした肩をそびやかすようにしてはいってきた。
 いずれエステル夫人がやって来るだろうという予感がみなの心にあった。たぶんレエヌさんは、エステル夫人のところへうったえに行くだろうし、そうなれば、夫人が黙って放っておくわけはない。果してだった。エステル夫人は、入口のところに立って、ごうじょうな気性をそのままに現わして、男のように腕組みをしながら、ジロジロとみなの顔をながめわたしている。だいぶ風向きが悪いらしい。
 エステル夫人は、感情を無理におさえつけているような声で、
「いったい、どうしたの?」
 と、切り出す。たれも返事をしない。結局、アマンドさんが、太刀たちうちを引き受ける。
「何がどうしたというんだね」
 たいへんおだやかに、こういう。アマンドさんの受け方はなかなか堂にいっている。長年のうちに、悍馬かんばのようなエステル夫人をなだめるコツをすっかり会得してしまったらしい。
「そんなところに立っていないで、お前も仲間へはいりなさい。いま迎えにやろうと思っていたところなんだ」
 エステル夫人が、はねかえす。
「よしてください、とぼけるのは。……ねえ、いったいどうしたの? どうしてレエヌをあんな目にあわせるんです。レエヌはわたしの部屋で泣いていますよ」
 アマンドさんが、両手をひろげる。
「うるさくて眠られないから、静かにしてくれというので、この通り静かにしている。……これ以上、どうにもしようがない。……いったい、なにが悲しくて泣くんだね」
「悲しいのじゃありません、怒っているのです」
「いよいよもってわからないな」
「あなたがたが、皆がかりで、レエヌを怒らせてしまったのです。どうして、あの娘ばかりいじめるの。……ねえ、兄さん、このごろのあなたのなさることは、すこし偏頗へんぱだと思うんですがね。ひとのお嬢さんをちやほやするのもいいが、それならそれで、身内みうちのものも、もっとだいじにしたらどう?」
「ずいぶんだいじにしているつもりだ」
 エステル夫人は、チラリとキャラコさんのほうへ流眄ながしめをくれて、
「おやおや。……あたしには、どうもそう思えませんがね。だいいち、ピエールが、いけない」
 ピエールさんが、ピアノのそばの椅子で、照れくさそうな顔をする。
「今度は私の番ですか、エステルおばさん」
 エステル夫人は、ピエールさんのほうへ向きなおって、
「ええ、そうですとも。あなたが、いちばんいけないんだ。じっさい、あなたの新し好きスノビスムには困ってしまう。どうして、そう移りぎなんだろう。そんなことは、あんまりみっともよくないね」
 ピエールさんが、顔をあかくして、すこし、怒ったような声をだす。
「エステルおばさん、そういうあなたのなさりかただって、たいしてほめられはしませんよ」
 エステル夫人は、はらを立てて、かかとで強く床を踏む。
「あたしのことは放ってお置きなさい。なんであろうと、いうだけのことはいうんだから」
 ピエールさんが、とてもかなわないといったようすで、折れて出る。
「私が悪いならあやまりますが、いったいレエヌはなにが気にいらないというんです」
「頭痛がするといって寝ているのに、なぜひとりで放っといたりするんです。あれは、あなたの何にあたるひと?……今からそれじゃ、レエヌだってやるせながるのも無理はないでしょう。……とにかく、あたしの部屋へ来て、レエヌにおあやまんなさい」
「そんなことまで、あなたに指図さしずされなくてはいけないんですか」
「おや、大きな口をきくこと。なんでもいいから、あたしと一緒にいらっしゃい」
 アマンドさんが、眼顔めがおで、行ってやれ、と合図をする。ピエールさんが渋々と立ちあがる。
 エステル夫人は、またアマンドさんのほうへ向きかえって、
「ねえ、兄さん、あたしだって平和にやるほうが好きなんですよ。しかし、それにはそれだけのことをしてくださらなくては。……なにしろ、狭い船の中のことですからね。これは、けさもいいましたが、もういちど、ご注意までに申し上げときますよ」
 エステル夫人とピエールさんが出て行くと、ベットオさんは、お前がいるから、それで、こんな騒ぎが起きるんだ、というような眼つきで、ジロリとキャラコさんの顔をながめてから、
「わしは、こんな騒ぎはまッぴらだ。……このへんでそろそろ退却しよう」
 と、大きな声でいうと、不機嫌そうに肩をゆすりながら、酒場バアのほうへ行ってしまった。
 一座の気分は、これですっかりしらけてしまった。アマンドさんだけは、てんで気にも止めていないらしい。新聞を下に置くと、ニコニコ笑いながら、眼鏡越しに一座をながめわたして、
「さあ、もう嵐はおさまった。かまわないから続けなさい。海の上のかもめというものは、いつまでも嵐のことなんぞ気にやんでいないものだ」

     五
 キャラコさんは、船室へ帰ると、すぐ寝床ベッドへはいったが、なかなか眠れない。
 快遊船ヨットから降りさえすれば、レエヌさんと無意味な対立などをしなくともすむし、エステル夫人やベットオさんのうるさい気持の反射なども感じなくともすむ。じぶんのほうはそれでいいが、そのために多少とも迷惑をこうむるひとたちのことをかんがえると、じぶんの感情にばかりまかせて簡単に行動するわけにはゆかない。
(そんなことをしたら、無理にこの快遊船ヨットへ誘ったイヴォンヌさんや山田氏が不愉快な目にあわしたということで、あたしにすまない思いをするだろうし、アマンドさんだって、少なからず恐縮するにちがいないし……。)
 それに、この快遊船ヨットの中で、じぶんだけがたった一人の日本人なので、いきおい、注目されたり、批評されたりしなくてはならない立場に置かれているのだと思うと、考えなしな行動はとりにくいのである。
 キャラコさんは、あまりものごとに屈託しないたちだが、さすがに、うっとうしくなって、うんざりしてしまう。
「ベットオさんばかりじゃない、あたしだって、こんなうるさいことはまッぴらだわ。今度ぐらいつまらない目にあったことは、まだなかったわ」
 丸い船窓から、水のような澄んだ月の光が斜めにゆかの上へさしこむ。
 キャラコさんは、海風うみかぜにでも吹かれたら、すこしさっぱりするかも知れないと思って、寝衣ねまきを脱いで、キチンと服に着かえると、イヴォンヌさんに気づかれないように、そっと甲板ウエルのほうへあがって行った。
 みな船室へ引きとったと見えて、甲板ウエルには人影らしいものもなくて、ひどく広々としている。
 キャラコさんは、船尾のほうまで歩いて行って、派手な日除ひよけの下の揺椅子ロッキンング・チェヤの中に沈み込んだ。
 膚にさわらぬほどの海風が、気持よくそっとえりのあたりを吹いてゆく。
 薄い月の光で、海のおもてがぼんやりとけむり、古沼ふるぬまのようにはるばるとひろがっている。空には白い巻雲まきぐもがひとつ浮いていて、眼に見えぬくらいゆっくりと西のほうへ流れてゆく。
 キャラコさんは、揺椅子ロッキング・チェヤの中でのびのびと身体をのばしながら、巻雲のゆくえを眼で追っているうちに、こんな無意味な感情の狭間はざまの中で当惑していなければならない自分の境遇をばからしくてたまらなくなってきた。
「……他人ひとの気持をいたわるのは大切なことだけど、そのために、じぶんの意志や感情まで投げ出してしまうのは、あまりほめた話ではないわね。……何より、女のやさしさと卑屈とをはきちがえないようにするこったわ。……アマンドさんを恐縮させるのはお気の毒だけど、できるだけ正直にこちらの気持をうちあけて、朝のうちに快遊船ヨットを降りてしまうことにしよう。……イヴォンヌさんや山田氏のほうは、あまり閉口させなくともすむように、なんとかうまくやれそうだわ」
 甲板ウエルの遠いはしのほうで、人の足音がする。
 振りかえって見ると、ピエールさんだった。寝巻ピジャマの上へ大きなトレンチコートを着て煙草を喫いながらゆっくりとこっちへやってくる。煙草の火が海風に吹かれて線香花火のように散る。
 ピエールさんは、すこし離れたところで立ちどまって、ジッとこちらをながめていたが、びっくりしたような声で、
「キャラコさんですね?」
 と、いった。
 キャラコさんが、笑いだす。
「ええ、あたくし。……人魚じゃなくてよ」
 ピエールさんが、微笑しながら近づいてくる。
「人魚でなくてしあわせでしたよ。もし、人魚だったら、ベットオ先生につかまって遠慮なしに解剖されてしまうでしょう。……それにしても、どうして今ごろこんなところにいらっしゃるんです。珍らしいこってすね」
「あたしが詩人だってことをご存知なかったのね? ピエールさん」
 ピエールさんは、おおげさに驚いたという身振りをして、
「詩人! ……おお、それは存じませんでした。射撃の名人が詩までつくるとは!」
「びっくりさせてお気の毒でしたわ」
「びっくりついでに、なにかひとつ朗読レシテしてきかせてください。……月もいいし……」
「でも、おしゃべりしながら詩をつくるってわけにはゆきませんわ」
「すると、つまり、私は詩作のお邪魔をしているってわけなんですね」
「ええ、まあ、そういったわけね。……それで、あなたのほうはどうなんです。身投げでもしにいらしたの?」
「身投げなら始末がいいが、私のやつは、こんなふうにのそのそ歩き廻らなければおさまらない病気なんです」
夢遊病ソムナビュリスムってわけなのね」
「たしかにそれに近いようですね。……つまり、心の悩み、ってやつなんです」
「おやおや、たいへんだ。じゃ、あたしなんかにかまわないで、どんどん悩んで、ちょうだい。ここで拝見していますわ」
「まあ、しかし、ちょっと仲入りアントラクトということにしましょう。お邪魔でなかったら、もうしばらく、ここへ掛けさせておいてください」
「ちっともかまいませんわ。どうぞ、およろしいだけ。……あたしは、あたしのことをしますから」
 ピエールさんが、煙草に火をつける。男にしては、すこしやさしすぎる横顔が、瞬間、燐寸マッチ影の中へ浮びあがって、また消える。
 ピエールさんは、心の中のひそかな憂悶をおし隠そうというふうに、わざとらしくほほえんで見せて、
「私は、レエヌを気の毒な娘だと思っています。誰からも愛されないし、誰からも好かれない。自分で、嫌われるように嫌われるようにしむけてゆくのです。……なにびとをも愛さなければ、どんな親切をも受けつけない。奇嬌ききょうで、廃頽的で、ひねくれていて、ひょっとすると、徳性モラリティというものを全然持っていないようにさえ見える。……どんなものにも満足しないし、どんな環境にも落ち着いていられない。しょっちゅう、何か刺激と変化を求めてイライラしている。このへんのことは、あなたもよくご存知でしょう」
 キャラコさんは、返事をしなかった。答えようとすれば、ピエールさんのいったことに同感するほかはないのが情けなかった。
 ピエールさんは、努力しながらものをいっているというふうに、ときどき、度を超えた快活な調子をまぜながら、
「……率直に打ちあけますが、私自身、どんな具合にしてレエヌの気持をやわらげていいのかわからなくなっている。……いったい、何があんなにレエヌをいら立たせるのか、どうしても理解することができないのです。……おやおや、これぁどうも、ひどく、述懐めいて来ましたね。しかし半分は、今夜、レエヌがあなたにした無礼な仕打ちのお詫びのためでもあるのです。まあ、そのつもりで聞いていらしてください」
「あたしのためならそんなお心づかいはいりませんわ。たしかに、あたしの出しゃばりだっていけなかったのですから」
 ピエールさんは、これ以上、廻りっくどいことはいっていられないというように、急に、激した口調になって、
「ねえ、キャラコさん、いったい、なにがレエヌをあんなに自棄的にさせるのでしょう。何かお気づきになったことでもおありですか」
 キャラコさんは、当惑を感じながら、言葉すくなに、こたえた。
「あたしには、むずかしすぎる問題ですわ」
 ピエールさんは、すぐ気がついて、
「ごめんなさい。あなたを困らせるつもりではなかったのです。……それにしても、レエヌは、むかしからあんなふうだったのですか。あんなふうに虚無的ニヒリテックな……」
「いえ、そうは思いませんわ。うちとけないところはたしかにありましたけど、そのために、友達を怒らせるようなことはありませんでした」
 ピエールさんは、ちょっとの間沈黙していたが、だしぬけに口をきって、
「レエヌが、横浜の海岸通りで、母と兄と三人で小さな酒場バアをやっていたことをご存知ですか」
「ええ、うすうす」
「たぶん、それが原因なのでしょう。……そういう事実が、われわれの耳へ届いたのは、つい二年前のことですが、父にすれば、何といったって弟の子供ですから、そんなふうに放って置くわけには行かないので、人をやって無理にレエヌをカナダへ引きとったのです。兄の保羅ぽうるのほうは、母親をひとり残して置けないといって、どうしても日本を離れませんでした」
「それで、レエヌさんのお母さまはどうなすったの」
「間もなく病気で亡くなりました」
「レエヌさんは、孤児ひとりになってしまったわけね」
「しかし、そのかわり、カナダへ国籍が移されて、叔父や叔母や養父や義妹や、……それから、許婚者フィアンセまでできたのです。しいていえば、礼儀正しい、清潔な環境と、どんなにぜいたくをしてもいいほどの財産とね。あのまま日本にいたら、レエヌはもっと不幸になっていたでしょう」
(ピエールさんの独断ドグマには、なかにすこし喰いちがいがある)
 しかし、そうはいわなかった。
「そうかも知れませんね」
 ピエールさんは、むかしのことを思いかえすような深い眼つきをしながら、
「レエヌが日本からやって来て、とつぜん、われわれの前へ現われたときは、ほんとうに、美しかった。まるで、生きた日本人形のようでしたよ。……長いそでのあるキモノを着ましてね、髪に桜の花のかんざしをさして、いつも眼を伏せて微笑ばかりしていました。……レエヌは、私ども一家の、すこし調子をはずした日本趣味ジャパニスムを知っていて、そんな媚態コケットリイをやって見せたのにちがいありません。……あのころのレエヌは、たしかにわれわれに気にいられたいという素直な気持があったのです。……父は、あんなふうなんですから、有頂天になって喜びましたが、エステル叔母や頑固な親戚たちは、こいつに大反対なんです。死んだ父の子供ならフランス人であるべきだというんです。……しかし、これは、レエヌにとっては、たいした問題じゃなかった。もともと黄白混血児ユウラジアンですし、あの通りの気紛屋キャプリシウズだから、今日は日本人、あすは仏蘭西フランス人というぐあいに、どちらの側にも都合がいいようにうまくやってのけました。おもしろがっているようにすら見えたくらいです。……とにかくどういう意味でも、われわれの家庭の中に、レエヌをいら立たせたり、自棄やけにさせたりするような原因はなかったと思います。……ところで、レエヌが、おだやかにしていたのは、カナダへ着いた当座の、ほんの一月ぐらいだったでしょう。それが過ぎると、剛情で、野卑で、ひねくれて、陰険で、手に負えないようになってしまいました。むやみに金をつかったり、人に喰ってかかったり、下等なことをわめきちらしたり、……何の理由もなしに自殺しかかったことさえあるんです。むかし、酒場バアをやっていたころ、どんなくらしをしていたのか知りませんが、たしかに、そのころのひどい生活がレエヌの性格の中へ深く染み込んでいるのにちがいないのです」
 何ともつかぬ切実な感情が、キャラコさんの心をしめつけた。
「もし、そうだとすると、それは、レエヌさんの罪ではありませんわ」
 ピエールさんは、当惑したような眼つきでキャラコさんの眼を見かえしながら、
「すると、いったい、だれの罪なんです。少なくとも、われわれは、どんな小さなことでも、レエヌの幸福ばかりを考えてやってきたつもりです。正直なところ、私がレエヌと結婚しようと決心したのは、そうでもしたら、レエヌを、……あの、手のつけられない不良少女アンファン・テリイブル正常ノルマルな性格にひき戻すことができるかと考えたからなんです」
 と、いって、苦味のある微笑をうかべながら、
「ところが、当のレエヌは、婚約披露の晩餐の席で、突然立ちあがって、わけのわからない自作の詩の朗読をやり出す始末なんです」
「どんな詩だったのでしょう」
「いや、とるに足らない無意味ナンセンスなもんなんです。……なんでも、こんなふうでした。……(かもめ、鴎、鴎に故郷はない。……おかも自分の故郷ではない、海も自分の故郷ではない。……今日もまた空の下のてない漂泊……)……まあ、だいたい、こんな工合なものでした。……ところで、鴎が、いったい、どうしたというんだ。鴎とわれわれの婚約に何の関係があるというんです。……みなふき出すやらあっけにとられるやら、さんざんなていたらくでした。……ああ、何が気にいらなくてあんなすねたような事をするのだろう。あのちっぽけな頭の中に、どんな悪魔が巣を喰っているというんだ!」
 ピエールさんは、ありったけの憤懣ふんまんを吐き出すといった調子で、
「あんな手に負えないしろものクレアチュウルと、……失礼、乱暴な言葉をつかって、ごめんなさい。……あんな手に負えない娘とこれからずっと一緒にやって行くのだと思うと、考えただけで気がめいってしまいます。……私はあまり、感傷的だった。……父も、このごろ、遠廻しにそんな意味のことをいいます。たしかに、そうに違いない。私の向う見ずな同情は、生涯、私の後悔の種になることでしょう」
 見苦しいようすを見せまいとして、押しだすような微笑をうかべながら、
「……日本からヴァンクウヴァへやって来たのが、あなたのようなお嬢さんだったら、それこそ、どんなに有難かったか!」
 そういうと、眼に見えないくらい頬をあからめて、
「これは冗談です。どうか気になさらないでください。…人間というものは、取り乱すと、心にもないことを口走るものですからね。……ああ、よくしゃべくった。……風が冷たくなって来ましたね。もう、そろそろ、船室サルーンへはいりましょう」
 すこし離れた船室のドアがとつぜんにあいて、レエヌさんが顔をだした。しきいのところに立って、こごえたような眼でキャラコさんをにらみつけていたが、そのうちに、鶏の鳴くようなけたたましい声で叫んだ。
「ちくしょう、殺してやる!」
 走り寄ってきて、
「……恥知らずアンファーム!……すれっからしインピュダンス!」
 と、わめきながら、手に持っていた短いロープの切れっぱしで、気がちがったように続けさまにキャラコさんの肩を打ちすえた。
 キャラコさんは、ロープのしもとの雨の下で、一種自若じじゃくとした面持ちでレエヌさんの顔を見上げていた。
(なるたけ、腹を立てないように……)
 しかし、今度ばかりは、キャラコさんの忍耐はあまり役に立たなかった。生まれてからまだ一度も感じたことのないようなはげしいいきどおりの情が、酸のように、意志の力を腐蝕した。
(どんな事があってもあやまらせずにはおかない!)
 レエヌさんが、息を切らして打つのをやめると、キャラコさんは、しずかに立ちあがって、秋霜のような威厳で命令した。
「レエヌさん、あなたがなさったのは、たいへんいけないことなんだから、あたしにおあやまりなさい! ……たった、一度でいいから!」
 人並はずれて愛想のいい、やさしいこの娘の、いったいどこに、こんなはげしいものがひそんでいたのだろう。ついぞ、あらい言葉ひとつ口から出したことがなかっただけに、このようすには、なにか底知れないようなところがあった。ピエールさんは、あっけにとられて茫然とながめていた。
 レエヌさんは、憎悪に満ちた眼差しでキャラコさんの顔をにらみつけると、息をはずませながら、甲走かんばしった声で、叫んだ。
「あたしが、……あたしが、あんたにあやまるんだって? ……あやまるわけなんかない。……死んだってあやまるもんか!」
 キャラコさんは、あごをひきしめて、もう一度しずかにくりかえした。
「たった一度でいいから、あたしにおあやまりなさい。あやまらないと、ここを動かさなくてよ」
「あやまるもんか!」
「あやまるまで、いつまでも待っているわ」
 キャラコさんは、まじろぎもしなければ、ものもいわない。五尺ほど間隔をあけて、レエヌさんの顔を見つめたまま甲板にが生えたようになってしまった。
 けたたましいレエヌさんの叫び声をききつけて、何が起こったのかと思って、イヴォンヌさんやエステル夫人やベットオさんが、寝衣ねまきのままで甲板へ飛び出して来たが、人がちがったようなキャラコさんのきびしいようすにけおされて、そばへ寄ることもできない。船室サルーンの入口のところにかたまって手をたばねて傍観するほかはなかった。
 それから、五分ほどしてから、アマンドさんが甲板へあがってきた。
 ピエールさんからあらましのことを聞くと、大股にレエヌさんのそばまで歩いて行って、いつに変わらぬ寛容な声で、
「レエヌ、お前のほうが悪いのだからあやまりなさい。……キャラコさんは、たったひとことでいいといってるじゃないか」
 レエヌさんは、踊りでも踊っているかと思われるような調子はずれなはげしい身振りで、地団駄を踏みながら、
「だれが、だれが、だれが! だれがあやまってなんかやるもんか! 死んだってあやまらない! ……あたしは、子供のときから、こんなふうにばかりして生きて来たんです! ……どうせあたしは黄白混血児ユウラジアンさ! どっちみち、どちらの側からも好かれやしない。おとなしくなんかしていることはいらないんだ! ……なまじっか、普通のお嬢さんのように、幸福しあわせになんかなろうと思ったばかりに、身につかない夜会服ソアレなんかでしめつけられて、それこそ息のつまるような思いをしたよ。……ヘッ、有難かったね。……ナヨナヨと扇をつかいながら、Bonjour Monsieurボンジュール・ムッシュウ か。……なんというお笑いぐさだ。……ああ、もうたくさん! そんな茶番ちゃばんはあたしの性に合わないの。……あたしは、あす、快遊船ヨットを降りて、淫売婦いんばいふにでもなっちまう。そのほうが、結局、人間らしい生活というもんだわ」
 自分でも手に負えなくなった憤怒の情を、だれかに移してやろうというふうに、火のついたような殺気だった眼つきでまわりの一人一人をにらみ廻していたが、ピエールさんの顔の上へ眼をすえると、ツカツカとそのほうへ歩いて行って、
「ねえ、ピエールさん、あたしがこんなあばれかたをしたって、嫉妬ジャルウだなんて思ってもらっては困るぜ。そんなんじゃないんだ。お前のことなんぞ、馬の尻尾だとも思っちゃいないんだ。……憎いのは、キャラコさんばかりじゃない。みんな、みんな、みんな、世界中の一人残らずが、みんな憎らしいんだ! どいつでもこいつでも、死ぬほどってやりたい。……ぶってやる! ぶってやる!」
 ……いままで炎をあげていたレエヌさんの眼の中が、急に白くなったと思うと、のろのろとまぶたを垂れ、くずれるように甲板に倒れて気を失ってしまった。

 キャラコさんは、寝苦しい夜をあかした。夜あけごろ、半睡はんすいのぼんやりした夢の中で、レエヌさんにとった自分の態度を、後悔したり、肯定したり、んずほぐれつという工合にこねかえしていたが、あんな不当には負けていないほうが本当だという結論がついて、安心してぐっすりと眠ってしまった。
 眼をさましたときは、もう八時半だった。あわてて飛び起きて身じまいをすると、電話で、イヴォンヌさんに宣言した。
「あたし、きょう、快遊船ヨットを降りるのよ。あなた、あたしのおともなんだから、あなたも、まごまごしないで支度をなさい」
 イヴォンヌさんが、電話の向うで、たまげたような声を、だす。
「降りるんですって? でも、あたし、まだねむっているのよ」
「ゆすぶって起こしなさい」
「じゃ、ゆすぶってやるわ。……よいしょ、よいしょ。……はい、眼をさましました。……いますぐなの?」
「ええ、いま、すぐ。……これは、命令よ、早くなさい」
「できるだけ、あわてます。……ねえ、キャラコさん、あたし、もう、こんな快遊船ヨットなんかいたいと思わないわ。アマンドさんにわるいけど……。あのアンファン・テリイブルはどうしたかしら。本当に快遊船ヨットを降りるつもりでしょうか」
「こらこら、なにを、ぐずぐずいっている。早くしなさいったら!」
「へいへい。すぐやりますですから、あまり、お叱りくださいませんように……」
 イヴォンヌさんのほうが片づいたので、ひとつずつ船室サルーンドアをたたいて、今まで親切にしてもらったひとたちに愛想よく別れの挨拶をして廻った。
「ほんとうに、楽しい思いをしましたわ。もう、二度とこんなことはできそうもありませんから、それだけに、なんだか名残り惜しいような気がします」
 うるさい気持の葛藤や、昨夜のレエヌさんの仕打ちを思い出さないようにすれば、この二週間の快遊船ヨットの生活はたしかに楽しかったので、キャラコさんの挨拶は嘘ではなかった。
 アマンドさんは、さすがに困ったような顔をしながら、
「ああ、せめて、そうでもいってくだされば、すこしは気持が楽になります。楽しくしていただこうと思ったのに、反対な結果になってしまいましたが、まあ、どうかゆるしてください。……レエヌは、けさくらいうちに快遊船ヨットを降りてゆきました。あれにはあれの考えがあるのでしょうから、しばらく、したいようにして見るのもいいだろう。あれは、たしかに一種の病人マラードなんだから、おはらもたったことでしょうが、かんべんしてやってください。……つまらぬ事ばかり多かったうちで、あなたのような優しいお嬢さんにお目にかかれたことが、こんどの航海の、ただひとつの楽しい出来事になりました」
 聖画の中の聖人のような素朴な顔を笑みくずしながら、
「ねえ、キャラコさん、……このわたしが、……こんな白髪頭しらがあたまの老人が、お世辞をいうとは、まさかおかんがえにはならないでしょう。わたしは、ほんとうの気持を告解コンフェッセしているんですよ」
 そういって、温い大きな手で、キャラコさんの手をしっかりとにぎった。
 いよいよランチが出るというときになると、エステル夫人もベットオさんも、さすがに名残りが惜しいらしく、キャラコさんの手をつかんでなかなか離そうとしなかった。エステル夫人が、キャラコさんの頬に接吻して、
「これは、お詫びのしるしです」
 と、正直なことをいった。
 ランチが、五けんばかり快遊船ヨットから離れた。
 イヴォンヌさんが、元気のいい声で、
「さよなら、さよなら」
 と、怒鳴った。
 そのころになって、ピエールさんがあわてたように舷側げんそくへ出てきた。複雑な表情をしながらなにかひと言叫んだが、イヴォンヌさんの声に消されて、キャラコさんの耳には届かなかった。キャラコさんは、ピエールさんのほうへ手をあげて挨拶した。ピエールさんは、気がぬけたように無意味に手を振っていた。

     六
 快遊船ヨットを降りて半月ばかりのちの夕立ち模様の夕方、キャラコさんが部屋で本を読んでいると、
「お若い男の方が、お嬢さまにと、おっしゃって玄関でお待ちになっていらっしゃいます」
 と、女中がいいに来た。
 玄関へ出て見ると、混血児あいのこらしい顔をした廿五六の青年が、火のついた巻煙草をじだらくに口にくわえたまま、入口のドアにもたれて立っていた。
 すこし大きすぎる服を無頓着に着、踏みつぶしたような鼠色のソフトを阿弥陀あみだにかぶって、右手にあおい石のはいった大きな指輪をはめている。なにかゾッとするような野卑なところがあった。ぷんと酒臭い匂いがした。
「あたしに、なにか御用でしたの」
「そうです」
 唇も動かさずに、ぶっきら棒にいうと、帽子へちょっと手をやって無造作な挨拶をして、
「僕ア、礼奴れえぬの兄の保羅ぽうるってもんです。……じつア、ちょっとお願いしたいことがあって……」
 レエヌさんの兄さんの保羅……。そういえば、眼差しや眉のあたりが、美しいレエヌさんによく似ている。
(それにしても、あたしに用って、いったい、どんな事かしら……)
 キャラコさんは、愛想のいい調子で、たずねた。
「……それで、あたしに、どんな御用?」
 青年は、ドアに背をもたせたまま、
「レエヌが、死にかけて、あなたに、逢いたがっているんです」
 だいぶ酔っている。舌がもつれて、言葉のはしはしがよくききとれなかった。
「……ピエールと喧嘩をして快遊船ヨットを降りてから、身体を悪くして、横浜の根岸の家で、もう半月もずっと寝たきりになっているんですが、どうしたのか、この四五日前からしきりにあなたに逢いたがる。迎いに行って、ぜひいちど来てもらってくれと頼むんですが、知らないならいざ知らず、私もレエヌからきいてよく知っているのですから、あんなことのあったあとで、こんなお願いに出るのも、あまり虫がいいようで、てれくさくてしようがないから、今日も逢えなかった、今日も逢えなかったで、ごまかしていたんです。……ところが……」
 急に暗い眼つきをして、窓のほうへぼんやりと視線を漂わせていたが、右手の人差し指を曲げて※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみにあてがうと、沈み切った声で、
「……じつは、ゆうべ、とうとうやったんです。……まずいことには、これが失敗しくじっちゃって……。そんなわけだから、もう嘘はいえない。今日こそは、どんなことがあっても、お目にかかって、お願いして見ようと思って」
 と、いいながら、ポケットから封筒にはいった手紙を取り出して、
「ここに、あいつの手紙を持っていますから読んでみてください。……僕なんかが、ぐずぐずいうよりもそのほうが、手っとり早い」
 キャラコさんは、手紙を受け取るとぐっと、息をつめながら封を切った。一字一字を、どんなに骨折って書いたのだろう。ペンの先が、ところどころ、紙の裏まで突きぬけていた。

 あたくしは、たぶん、不器用にやったのです。引き金のひきかたが下手だったので、弾丸たまは頭のうしろのほうへ喰い込んでしまいました。しかし、弾丸を抜き出すことはできませんし、心臓にもそろそろ異常が始まっています。もう、どうせ、そんなに長いことはないのでしょう。
 あたくしが弱っていなかったら、あなたのところへ飛んで行きたい。別れたピエールのことやあたしの辛かった時期のことでなく、あたしの短い生涯のうちで、いちばんはっきりした、誰も奪うことのできない、それこそ、ただひとつの実在だったあの楽しい女学生時代のお話をするために……。
 あたくしは、あふれるばかりの甘さとやさしさの夢に満ちていたあの時代のことを、まいにち、無垢な感動をもって思いかえしています。
 けれど、あの後のあたくしの生活はあまりにみじめで、そして、辛すぎたので、自分自身が、そんな楽しい時代を経たことがあったとはどうしても信じられないのです。どうぞ、あわれだと思って、ちょうだい。
 あたくしの枕元に坐って、それがほんとうにあったことだとあたくしに、しっかりといってきかせてください。あたくしは、追憶の清冽な水でこころを洗い、いつも、そうありたいと望んでいたように、しあわせな娘のように、死んで行きたいのです。……

     七
 ちょうど、生麦なまむぎを通るころ、沛然はいぜんと豪雨が降り出した。
 水しぶきが自動車のまわりを白く立ちこめる。暗澹あんたんとした夜の国道の上で気がちがったように雨と風が荒れ狂っていた。
 保羅ぽうるはクッションにぐったりと背をもたせかけたままひとことも口をきかない。自分だけの物思いに深く沈潜しているようだった。
 キャラコさんは、レエヌさんの手紙を膝のうえにひろげ、薄暗いドーム・ランプの光でいくどもいくども読みかえす。
「悲しいわ」
 じぶんの楽しかった時代を信じることができないという悲しさは、いったい、どんなだろうとつくづくに思いやる。それは、いま死にかけている、不幸だったひとだけが感じうる、やるせない懐疑なのであろう。
 キャラコさんは、それをそっくり理解することはできないが、悲しみの深さだけはわかるような気がする。こまごまと思いやるよりも、あわれさのほうが先に立って、つい、ほろりとしてしまうのだった。
 卅分ほどののち、自動車は競馬場の柵のそばでとまった。夏草ばかり繁ったさびしいところで、右手の闇の中に、ポツリとひとつだけあかりが見える。
 保羅は、キャラコさんのほうを向くと、ブッキラ棒な調子で、
「あれです」
 と、顎でそのほうを指した。
 斜面についた細い坂道をのぼってゆくと、行きとまりの小さな雑木林の中にその建物が建っていた。闇の空で、屋根の風見かざみがカラカラと気ぜわしく鳴っていた。
 保羅が、門の前で大きな声で叫ぶと、すこし離れた別棟の小屋の戸があいて、提灯ちょうちんをさげた、六十ばかりの老爺としよりがびっこをひきながら出て来て、ひどく大儀そうに門をあけた。漆にでもかぶれたらしく、顔いちめんを豆つぶのような腫物がおおっていた。
 玄関へ入ると広い内椽ベランダで、そこからすぐ二階へあがれるようになっている。半開きになった右手は客間サロンらしく、ドアの隙間からそれらしい調度が見えていた。
 仏蘭西フランス瓦を置いた、木造のがっしりした建物だが、建ってからもう廿年以上にもなると見えて壁はところどころはげ落ち、どこもかしこもいたみ、ひどいほこりだった。
 保羅は、濡れた雨外套を着たままズンズン二階のほうへあがってゆく。キャラコさんは、濡れた靴を気にしながら、そのあとをついて行った。
 保羅は、三つあるいちばん奥まった部屋のドアをそっとあけて、その内部なかへキャラコさんを押しいれた。
 雨の汚点しみが、壁に異様な模様をいている。化粧台の鏡には大きな亀裂ひびがはいり、縁の欠けた白い陶器の洗面器の中に、死んだ蠅が一匹ころがっていた。
 窓ガラスの上を、ひどい勢いで雨が流れおちる。とどろくような嵐の音。寝台の枕元の置電灯スタンドが、嵐がつのるたびに、あぶなっかしくスウッと暗くなる。
 レエヌさんは、こんなわびしい風景の中で、一種孤独のようすで眼をつぶっていた。
 片側からくるスタンドの光で、高い鼻のかげで頬のうえに奇妙なかげをつくり、顔はびっくりするほど小さくなって、透きとおるような蒼白い手が、にぎる力もないように、ぐったりとわきに垂れさがっていた。それでも、むかし、睡蓮すいれんの花のようだとよく思い思いした美しいおもかげは、どこかにぼんやり残っていて、それだけに、いっそう、あわれ深かった。
 傲慢ごうまんで、矜持ほこりの高い、レエヌさんの、このやつれ切ったようすを見ると、キャラコさんは、すこしばかり心の底に残っていた怒りや軽蔑の感情をすっかり忘れてしまった。胸がいっぱいになって、走るようにそのそばによると、鼻がつまったような声で、
礼奴れいぬさん」
 と、ひくく呼んで見た。
 レエヌさんは、ゆっくりと眼をひらくと、子供のように顔じゅう眼ばかりにしてまじまじとキャラコさんの顔をながめていたが、なんともいえぬ奇妙な微笑をうかべると、
「ああ、とうとう、いらしたのね」
 と、つぶやくようにいった。
 キャラコさんは、心からの和解の手を差しのべながら、
「ええ、あたしよ。……でも、思ったよりお元気そうで、うれしいわ」
 レエヌさんは、
「ええ、どうも、ありがとう」
 うわの空でいって、嘲笑するような口調で、
「ねえ、キャラコさん、あんた、とうとうやって来たわね」
 と、もう一度くりかえした。
 キャラコさんは、てのひらの中でレエヌの小さい手をしっかりとはさみとりながら、
「お手紙を見るとすぐに飛んで来たの……。ほんとに、飛ぶようにしてやって来たのよ、レエヌさん」
 レエヌは、キャラコさんの手を払いのけると、瘠せた指で寝台の端をギュッと掴んで、けたたましい声で笑い出した。
「やあい、とうとう、ひっかかりやがった!」
(気がちがいかけているのかも知れない)
 キャラコさんは、反射的にドアのほうへふりかえったが、つい今まで立っていた保羅の姿はそこにはなかった。
 いまにも吹き倒されるかと思うばかりに、ミリミリと家じゅうがきしみわたる。どこかで、風に煽られる鎧扉よろいどがバタンバタンと鳴りつづけ、それにまじって、階下したの扉口のほうで釘を打つような鋭い音がひびいてくる。
 レエヌは、おこりでも落ちたように、とつぜん笑いをやめ、眼を輝かしながらその音にききいっていたが、ゆっくりと枕の上で顔をまわして、キャラコさんのほうへ向きなおると、
「あなた、あの音、なんだか知っている? ……あれはね、保羅が、家じゅうのドアや窓を釘づけにしている音なの。……キャラコさん、あなた、もうここから帰れないのよ」
 と、叫び立てると、邪悪な喜びを隠し切れないといったふうに、また火のついたように笑いだした。
 キャラコさんは、なだめるような口調で、いった。
「こんな嵐では、どっちみち、泊めていただくほかはないわ。……あれは、保羅さんが、鎧扉が飛ばないようになんかやっている音よ。おどかそうたってだめ」
 レエヌは、ふん、とせせら笑うと、病人とは思えないようなドスのきいた声で、
「善人は善人らしいのんきなことをいってるわね。……おどかしなもんか、本当だイ。……要するに、あんたは、あたしたちの餌食になるのさ。べつに、どうってことはありゃしない」
 キャラコさんは、あっけにとられて、
「ね、どうしたのよ、レエヌさん。……すると、自殺しそこねたというのは、嘘だったのね」
「ヘッ、ばか! ……あたいの頭をごらん。どうかなっているかい?」
 まるで、手に負えないのだった。
「……では、あのお手紙も……」
 レエヌは、ニヤリと笑って、
「あんな手紙、だれが本気で書くもんですか。小説の焼き直しよ。……ほら、これが種本たねほんさ」
 といいながら、枕元から薄っぺらな仏蘭西フランス語の本をとりあげると、肩ごしにキャラコさんの膝の上に投げてよこした。
 Marcel Proust "La confession d'une jeune fille"(マルセル・プルウスト『少女の懺悔ざんげ文』)という標題がついていた。最初のページのはじめのところに、乱暴にグイグイと赤鉛筆で線がひいてある。
 キャラコさんが、たどりたどり読んで見ると、さっきの手紙と同じ書き出しがあった。

……ようやく、解放の時が近づきつつあります。あたくしは、たぶん不器用にやったのです。引き金のひきかたが……

 この最初の二行を使って、あとはいい加減に書きそえたものだった。
 レエヌは、上眼づかいでジロジロとキャラコさんの顔を見上げていたが、唇のはしを妙なふうにゆがめて、
「どう。感動した? ……と、すると、プルウスト氏にお礼をいっていいわけね」
 キャラコさんは、しずかにレエヌさんの顔を見かえす。病気でながらく床についていたこの気の毒なひとは、小説を読んで、想像の中でさまざまに自分の境遇を変えて気晴らしをしているのかも知れない。
 キャラコさんは、おだやかな笑いをうかべながら、いった。
「……あなたが、自殺しそこなう。その手紙を見て、驚いて、むかしの友達が駈けつけてくる。……二人が手をにぎる。……それから、どうなるの、レエヌさん……」
 レエヌは、いらだって、敷布シーツの端をもみくしゃにしながら、
「なんて奴だ。まだ嘘だと思っていやがる。……うしろを見てごらんなさい。あたしたちは、冗談をしてるわけじゃないのよ」

     八
 キャラコさんが、うしろを振りかえって見ると、いつの間にはいってきたのか、保羅が、濡れた髪をべったりと額にはりつけ、曖昧な薄笑いをしながら、大きな斧を持ってドアのところに突っ立っていた。酒気で真っ赤に熟した頬から、ポタポタとしずくをたらしている。
(どうするつもりだろう)
 なぜか、すこしも危険は感じなかった。
「保羅さん、いまいろいろ、うかがっていたところよ。あたしをだましてこんなところへ連れて来て、いったい、どうなさるおつもり?」
 保羅は、壁の凹みに斧を立てかけると、ジットリと濡れた外套の裾をまくりあげ、キャラコさんと向い合って椅子にかけながら、
「もう、たいてい察しそうなものじゃありませんか。……要するに、僕と結婚さえしてくれれば、それでいいんですよ」
 事務の話でもするような、こだわりのない口調で、
「廻りッくどいことをいうのはよして、単刀直入にいいますが、もちろん、形式だけのことでいいのです。結婚式をあげて、入籍の手続きをすましたら、すぐ離婚してくだすって差し支えないんです。離婚の条件として、僕に十万円だけください。それだけのことです。たいして、むずかしいことじゃないでしょう」
 レエヌが、鋭い声で叫んだ。
「どう、やっとおわかりになった? あなたが余計なところへでしゃばってきて、アマンドのほうをめ茶め茶にしてしまったんだから、それくらいの償いをしてくださるのはあたりまえよ」
 キャラコさんは、たじろがない眼で相手の顔をながめながら、感情のかげのささぬ、落ち着いた口調でいった。
「お話はよくわかりましたが、あなた方がかんがえていらっしゃるように、そんなに簡単にゆくかしら……」
 保羅は、ピクッと神経的に眉を動かして、
「こんなところに、三日も四日も僕と一緒に暮らしていたということが評判になったら、あなたのご親族も世間も、正式に結婚することを望むでしょう。いわんや、物固い長六閣下におかれては、なんであろうと、うやむやにすますようなことには賛成なさらないでしょう」
 キャラコさんは、きゅっと口を結んで相手をみつめてから、ゆっくりと、笑いだす。
「おやおや、希望しないのはあたしだけですか」
 保羅は、そっぽを向きながら、
「キャラコさん、僕は新聞社へちょっとした原稿を送ってあります。それにはね、二人が駈け落ちするまでのいっさいのいきさつと心境が、筆記体でくわしく書いてあるんです」
「なるほど、たいしたもんね。……それで?」
「二人が潜伏している場所は、だいたいこのへんとにおわしてありますから、感のいい新聞記者なら二三日中に嗅ぎつけてここへやって来るでしょう。……僕とあなたは、こんな一軒家で発見される。当然、もう秘密の結婚をしていると思うでしょうからね」
「だれが、それを証明するの? あたしですか? それとも、保羅さん、あなたですか?」
 レエヌが、甲高い声で、叫んだ。
「証人は、あたしよ。あなたと兄は、この春から秘密に結婚していたことを、婦人雑誌向きにちゃんと小説体で書いてあるの。……さっきの手紙よりも委曲いきょくをつくしているつもりよ」
 枕の下から一通の角封筒をとりだすと、それを頭の上に振って見せた。
「ほら、ほら、これが、そうなの」
 キャラコさんのはらの底から、生理的不快に似たものがこみあげて来た。
 レエヌは、調子をはずした陽気な声で、
「……あたし、むかしからあなたを嫌いだったのよ。どこもここも模範だらけのあなたが憎らしくてしようがなかったの。いつか、やっつけてやろうと思って隙をねらっていたんだ。……ねえ、キャラコさん、あなたのように、おなかの中にいるときから、幸福しあわせづくめのひともあるし、あたしたちのように、泥の中をはいずり廻っているような、こんなみじめな兄妹もあります。それに、こんどは、たいへんな財産を相続なすったそうで、お目出とう。……どこまでうまくゆくか知れないわね。……それで、すこしおすそわけしていただこうと思って考え出したことなの。……あたしたちのようなあわれな兄妹の思いつきそうなことでしょう」
 キャラコさんが、しずかにきかえした。
「もし、あたしが、いやだといったら?」
 レエヌは枕をつかんで、キャラコさんのほうへ、不気味に身体を乗り出すと、
「ねえ、キャラコさん。あなた、さっき門をあけたじじいを見た? ……あいつ、いま天然痘にかかっているのよ。真症ヴァリオラなの、ちょうど膿疱のうほう期だから危ないわね。あなたのようなお嬢さんがだい好きだから、抱きつくかも知れないわ」
 そして、勝ちほこったように、高笑いをした。

     九
 夜があけかかっていた。
 キャラコさんは、もう、すっかり落ちついていた。
 保羅が、新聞社へ原稿を送ってあるというのは本当だとしても、その方法はたいして成功しそうもなかった。信用のある新聞は、そんなことぐらいでたやすく動かされるはずはないし、ちょっと調査をしただけで、保羅の悪計だということをすぐ見ぬいてしまうだろう。
 また、自分にしても、赤新聞が書き立てる醜聞スキャンダルを恐れなければならないような弱いところはすこしもなかった。
 もともと、世間の評判などは、それほど価値のあるものだと思っていないし、そんなものぐらいで自分の価値が左右されるとも考えない。書きたてたければ、書き立てたって一向差し支えのないことだった。
 しかし、そうだといって、いたずらに笑殺してしまうようなことは、あまり聡明なやり方だとは思われない。そんな意識の低いことではなく、二人の心をなだめ、充分にお互いの気持がわかり合えるようにしなくてはならないとかんがえていた。たぶん、それがいちばんいい方法なのであろうが、すっかりひねくれている二人の気持をどんなふうにしてやわらげたらいいのか、そのあてはなかった。
 キャラコさんは、長椅子ディヴァンから身体を起こすと、足音を忍ばせながら、そっとレエヌさんの部屋をのぞきに行った。
 頬のあたりに刺々とげとげしいものがあるが、それを除くと、平和といってもいいようなおだやかな顔でしずかな寝息をたてていた。
 これが、ゆうべ、あんな邪慳な口をきいたそのひとだとは、どうしても思えない。むかし、桜の花の散る校庭で、ひとり離れてしずかに読書をしていた、優しい礼奴れいぬさんのようすが眼にうかぶ。あの時とすこしもちがわない顔だった。
 近寄ってそっと、額に手をあてて見ると、かなりひどい熱だった。頬がポッと桜色になり、うっすらと汗をかいている。息をするたびに、どこかがピイピイと木枯こがらしのようなさびしい音をたてる。
 枕元の水瓶フラスコを見ると、水がすこしもなくなっている。眼を覚まして水が欲しくなったらこまるだろうとおもって、ハンカチでそっとレエヌさんの額の汗を拭うと、水瓶フラスコをもって階下したへ降りて行った。
 食堂を通りぬけて料理場のほうへ行こうとすると、そこの胡桃くるみの食器棚の前に保羅がうつ伏せになって倒れている。
 おどろいて、顔の上にかがみ込んで見ると、酒気と濡れた羅紗らしゃから発散する鋭いにおいとが交り合って、ツンと鼻を刺す。枕元にウイスキーの瓶がいくつもごろごろ転がっていた。
 昨夜ゆうべ、夜ふけちかく、自分が寝ている真下あたりで、机でも倒れたようなえらい音がしたのは、保羅が酔いつぶれて椅子からころげ落ちた音だった。
 鎧扉の隙間からくるぼんやりとした朝の光が、たるんだような保羅の横顔のうえにさしかける。頬に絨毯じゅうたんのあとをつけ、寒そうにヒクヒクと身体をふるわせている。額に手をあてて見ると、これも、ひどい熱だった。
 キャラコさんは、水瓶フラスコを持ってあがったついでに、羽根布団と枕をかかえてきて、そっと保羅の身体にきせかけた。
 キャラコさんは、ルビンシュタイン先生のところへピアノの稽古けいこに行っている同級クラスの友達から保羅の噂をきいたことがあった。
 保羅は、時々、先生のところへやって来ては、沈鬱な、典雅エレガントなようすで、エリック・サティやダリウス・ミヨオやオーリックなどを弾いていた。近代仏蘭西フランスの音楽にたいする理解と感受性にかけては、この日本にあの内気そうな無口な青年に及ぶものはひとりもないのです。ルビンシュタイン先生がいつもそうおっしゃるの、と、その友達が話してきかせた。
 音楽にすぐれた才能をもち、どの青年よりも謙譲で優雅だったというその保羅さんが、市井しせいの無頼漢のように、床の上に酔いつぶれているのは、あさましいというよりは、なんともいえないはかなさがあった。
(このごろは、もう、ピアノなんかもよしてしまったのにちがいないわ)
 食堂のとなりの客間サロンへはいって見ると、楽譜を取り散らした隅のほうの床の上に、ピアノが置かれてあったあとがはっきりと残っていた。そこに、さんオクターヴほどの、ミシンのような恰好をしたオルガンがすえられてあって、りかえった鍵盤の上に、曇り日の朝日が、ぼんやりした薄い陽だまりをつくっている。
 キャラコさんは、踏板ペダルを踏んで、そっと鍵盤を押してみた。
 オルガンは、ぶう、と気のめいるような陰気なうめき声をあげた。その音は、食堂で酔いつぶれている保羅さんの寝息といっしょになって、なんともいえぬびしい階音アルモニイをつくる。
 キャラコさんは、説明しがたい深い憂愁の情にとらえられた。心は重く沈み、強い孤独の感じが襲いかかった。レエヌさんが、『不幸なあたしたち兄妹』といった言葉の意味が、説明もなしにそのままじかに胸にふれてくる思いだった。
 キャラコさんは、やるせなくなって、逃げるようにオルガンのそばを離れて二階へあがって行き、足音を忍ばせながらレエヌさんの部屋へあがり込むと、そっと枕元に坐った。
 レエヌさんは、熱が出てきたのらしく、眉の間に竪皺たてじわをよせ、苦しそうにあえぎながら、おぼろな声で囈言うわごとをいっていた。
「……お兄さん、……お兄さん、……また、陽が暮れかかってきたわ。……情けないわねえ。……ああ、なんて淋しいんだろう。……胸の空洞うつろの中へ潮がさしてくるような。……闇が魂を包み込んでしまうような、この、淋しい不安な感じ。……子供のときから、いくど悩まされたことだったでしょう。……ねえ、お兄さん、あなたもそうだといいましたね。……なんという、あわれな兄妹……」
 キャラコさんは、レエヌさんの手をって、そっとゆすぶって見た。
「レエヌさん、……レエヌさん……」
 レエヌは、ぼんやりと薄目をあけた。すっかり熱にうかされてしまって、譫妄せんもう状態に近いようなようすになり、うつろな視線をあてどもなく漂わせながら、のろのろした声で、切れぎれにつぶやきつづけるのだった。
「……それでも、ママが生きているうちは、まだしも生き甲斐があったわ。……学校の制服を脱ぎ捨てると、車座くるまざになった潮くさい基督エスどもの盃に威勢よくウイスキーを注いで廻る。……あなたは、できたての自作の舞踏曲ブウレを、酒場のぼろピアノがきしむほどに熱い息吹きで奏きたてる。……ミューズもアポロも大喝采だいかっさい。……プレジデント・フーヴアの楽長シェフ・ドルケストルが、あっけにとられて、ヴエールを持ったままあんぐりと口をあいていましたっけね……」
「レエヌさん、……レエヌさん……」
「……ああ、気の毒なママ。……ママは、やはりあたしのことをあきらめ切れなくて、悲しがって死んでしまったのね。……ママが病気になって寝込んでしまったというあんたの手紙は、ヴァンクウヴァへ着いて一カ月目に受け取りました。……あたしは気がちがうかと思った。夢中になって、波止場まで駈け出したこともありました。……でも、歯を喰いしばって我慢しましたわ。……あたしは、もう、フランス人なんだと思って。……それが、日本を離れるときのママとの固い約束だったんですからね。……ママは、あたしたちに、しっかりした故郷をくれたがった。……立派なフランス人にすることがママのねがいだった。それで、辛い思いをしてあたしを手離しなすった。……ママのねがいにかけて、あたしはしとやかなフランスの娘になろうと、それこそ、死んだ気になってさまざまつとめましたの。……鯨骨ほね入りの窮屈な胸衣コルセをつけて、ジュウル・ヴェルヌの教訓小説を読んだり、お弥撒ミサを受けに行ったりしていました。……でも、やっぱり駄目でした。……あたしは、フランス人ではない」
 キャラコさんは、聞いていられなくなって、椅子から立ちあがって、窓のそばまで逃げ出した。レエヌさんは、ああ、と深い、長い、ため息をついて、
「……日本のキモノを着ても日本人ではない。フランス語で話してもフランス人ではない。……このやるせなさを誰れも知らない。誰れも、察してはくれない。……気がちがわないのはまだしものことだったわ。……もう、どうなったってかまわない。なにか心のしびれるような出鱈目でもやらなければ、呼吸いきがつまりそうだ。……ねえ、お兄さん、キャラコさんに、そういってやって、ちょうだい。……お金なんか欲しいんじゃないんだ、って。あたしたち兄妹は、せめてこんなことでもしなければ生きてゆかれないんです、ってね」
 とつぜん、嗚咽おえつにむせびながら、
「キャラコさんなら、察してくれると思った。……あんないいひとですもの。きっとわかってくれると思った。……でも、キャラコさんも、やっぱり知ってくれなかった。……お兄さん、お兄さん、……キャラコさんは、あたしに、あやまれといいました。……あやまらなければ、ここを動かさない、って。……ああ、あの優しいひとまでが! ……悲しいわ。……死んだほうがましだ。……もう、生きてなんかいたくない。あまり、辛すぎますもの……」
 レエヌさんの眼からあふれ出した涙が、枕の上へしたたり落ちて、ゆっくりと汚点しみをひろげて行く。キャラコさんは、鎧扉へ額を押しつけて、泣くまいといっしんに我慢していたが、涙が勝手に流れ出して、いつの間にか頬をぬらしていた。
 レエヌさんは、夢の中のひとのような響きのない声で、
「……お兄さん、あたしたちは、いったいどうなるのでしょうね。こんなに辛くとも、まだ生きていなければならないのかしら。……日本人でもなければ、フランス人でもない。あわれな黄白混血児ユウラジアン。……お兄さん、あたしね、ヴァンクウヴァにいるとき、夕方になると、いつも、スタンリーの波止場へ出かけ行って、岩壁に腰をかけてかもめをながめていましたの。……渚に引き上げられた破船の船尾ともや潮で錆びた赤い浮標ブイの上を、たくさんの鴎が淋しそうに飛び廻っています。……鴎にも故郷がない。……海も故郷ではない、おかも故郷ではない。……空の下をあてもなく飛び廻っているばかり……。あたしたちも、この鴎と同じようなものだと思って、なつかしくてたまらなかったの。……この鴎たちも、せつない郷愁ノスタルジアを運んで行くところがないのだと思って、ながめているうちに悲しくなって、いつも、泣き出してしまうの……」
 これが、レエヌさんのこころの秘密だった。自棄も、反抗も、無信仰も、みな、このやるせない絶望の中で熟成した不幸な気質なのだった。レエヌさんの意地悪も、強がりも、孤立も、奇矯エクサントリックなさまざまな振舞いも、今こそ、そのいちいちの意味がはっきりとわかるのである。
 キャラコさんの、心はしみじみとうなだれる。この気の毒なレエヌさんをにらみつけて、立ちはだかっていた、自分のすさまじいようすを恥辱はじ慙愧ざんきの感情で思いかえす。
 キャラコさんは、手も足も出ないような心の無力を感じながら、低く、つぶやいた。
「……あやまらなければならないのは、あたしのほうよ、レエヌさん……」





底本:「久生十蘭全集 7[#「7」はローマ数字、1-13-27]」三一書房
   1970(昭和45)年5月31日第1版第1刷発行
   1978(昭和53)年1月31日第1版第3刷発行
初出:「新青年」博文館
   1939(昭和14)年5月号
※初出時の副題は、「赤い孔雀」です。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年12月7日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について