岩魚

佐藤垢石




  一

 石坂家は、大利根川と榛名山と浅間火山との間に刻む渓谷に水源を持つ烏川とが合流する上州佐波郡芝根村沼之上の三角州の上に、先祖代々農を営む大地主である。この三角州は幕末、小栗上野が官軍の東上に抗することの不可能であるを知って、江戸城を脱け出し、金びつに似た数個の箱を運んで上総国行徳地先から舟に乗って家来十人ばかりと共に所領の上州群馬郡三の倉の邸へ志し、次第に溯江して大利根に出で川俣、妻沼、尾島、本庄裏へと舟を漕ぎ上がり、最後に烏川と利根川と合流する地点に上陸して、櫃を運び上げた場所であると伝えられる。石坂家の邸は、間口十二間、奥行八間半の総三階、土蔵三棟、物置二棟、大きな長屋門に厚い築塀をめぐらし、この地方ではまれに見る豪壮な構えである。所有の田地田畑は、三十町歩を超えているらしいという。
 この三角州から西を望むと嶺の白い甲州の八ヶ岳、妙義山、淺間山。西東には秩父連山。北方には榛名山、上越国境の谷川岳、武尊ほたか山、赤城山。東北には遠く奥日光の男体山が雪を着て高く聳えるなど、まことに景勝の地を石坂家の邸は占めていた。
 間口十二間、奥行八間半といえば、一階だけでも百二坪の広さである。すべて畳を敷き詰めれば二百畳に余ろう。であるのに、この石坂家は数代前から、家族四人以上に増加したことがない。大伽籃のような邸に、もう百年近くも常に三、四人の家族が、まことに寂しく暮らしているのである。試みに、石坂家の戸籍を調べてみようか。
 失踪 石坂儀右衛門(文政十二年生)
 死亡 妻   たみ(天保四年生)
 失踪 同  裕八郎(儀右衛門長男安政五年生)
 死亡 妻   ふゆ(萬延元年生)
 失踪 同   雅衛(裕八郎長男明治十四年生)
 現存 妻   みよ(明治十六年生)
 失踪 同   清一(雅衛長男明治三十七年生)
 現存 妻   きみ(明治三十八年生)
 当主 同   賢彌(昭和三年生)
 以上を読むと現在この家に住んでいるのは当主の賢彌十九歳と、その母きみ四十一歳、祖母みよ六十四歳の三人だけである。これだけの説明ではまことに平凡であるけれど、賢彌の父清一、祖父雅衛、曾祖父裕八郎、玄祖父儀右衛門の四人が、いずれも揃って失踪していて、今もって的確に何故の失踪か、死場所はどこか、死因はなにか。一つとして分かっていないことが、長い間の不思議な謎とされているのである。

  二

 安政六年の春、二十七歳になった石坂儀右衛門は、飄然として家出した。遺書に、水戸の東湖塾へ行くと記してあるのみであった。二、三年前に利根の対岸宮郷村の豪農から嫁たみを貰い、昨秋長男の裕八郎が出生してから、まだ半歳とたっていない。
 殆ど無断にもひとしい家出に、家のものは驚いた。しかし当時、尊王攘夷の熱が青年の間に高かった世の中であったから、儀右衛門の平素の行状から推察して、水戸行は恐らく偽りではあるまいと思ったのである。そこで直ぐ人を水戸へ急行させて、儀右衛門の所在を探ねさせたけれど、皆目その消息を知ることができなかった。その後も屡々しばしば水戸へ人を派したが、水府は東湖塾を中心として混乱していて、一人の青年の行衛ゆくえなどまるで尋ねあてる由もなかった。
 石坂家では、その後儀右衛門の捜索を思い止まった。それから二十年ばかりたって、坊やの裕八郎は二十一歳になった。その秋、母の許しを得て上越国境の四万温泉に遊び、十日間ばかりの田村茂三郎旅館に滞在して沼之上のわが家へ帰ってきた。その時はもう、明治十二、三年になっていたのである。裕八郎は日ごろ名勝旧跡、神社仏閣などを探るのが趣味で、読書も好み甚だ快活な生活の持ち主であったが、四万温泉の旅から帰ってくると、急に人柄が憂鬱になったのである。青年らしく肥った茶色の皮膚は、次第々々に痩せて顔が蒼ざめて行く。母は一粒種のわが子のからだの衰え行くのを見て、ひどく心痛して明け暮れ、その原因について尋ねたけれど、裕八郎は黙してなにも語らない。鼻下や顎に、無精髭さえ生えてきた。日ごろ身綺麗にするのを好んだが、その気持ちも忘れたのであろうか。
 そのまま、一、二年過ぎた。母は、嫁を迎えてやれば息子の気持ちが子供の時のような明朗に返るのではあるまいかと考えて、結婚談を持ちだした。ところが、裕八郎はこれに反対するのでもなければ賛成するのでもなかった。ただ黙々として、母が如何なることをいっても、首で頷くばかりであったのである。
 明治十三年晩春、利根の下流の武州八斗島から、ふゆという嫁を迎えた。裕八郎二十三歳、ふゆは二十一歳の愛らしい花嫁であった。
 翌年の初夏には、可愛らしい丸々と肥った坊やが生まれたのであるから、別段夫婦仲が悪かったわけではない。母のたみは、初孫を見て喜んだ。これで家族が四人になったと近所の人々を招いて賑やかな振舞ごとまで催したのである。それと反対に、裕八郎は子供が生まれてから一層、性格が暗くなってきたように思う。
 その年の秋、ちょうど二、三年前、裕八郎が四万温泉へ旅立った日がきたと思うころ、彼はある夕の灯ともしの時刻にふらりと行衛不明となってしまった。母にも妻にも、一言もいい遺さない。遺書もない。
 裕八郎は、四万温泉から帰ってきてからというもの、いつも秋がくると三角州の果てに続く利根の河原に出て北の方を望み、榛名山と小野子山との峡に、遙かに綿々として聳える上越国境の国越えの三国連山の初雪に手をかざし、なにか口に低く唱えている姿を、幾人も村人が見て知っていた。
 たみ女も、ふゆ女も愕然としたけれど、裕八郎の行衛には、まったく手がかりがなかったのである。

  三

 石坂家の家族は、また僅かに三人で大きな邸に住まわねばならぬようになった。孫の雅衛は成長して十八歳になった冬である。明治三十一年である。
 ある日、石坂儀右衛門遺族殿という手紙が石坂家へ配達された。差出し人は、茨城県鹿島郡麻生町の一青年某というのである。私が数日前、霞ヶ浦の枯蘆かれあしのなかを散歩していると、小径から四、五歩離れたところに、小さな一つの石碑を発見した。碑面に、水戸浪士石坂儀右衛門之墓とあり、裏に儀右衛門は上野国佐波郡芝根村沼之上の産、文政十二年出生、文久三年玉造町の役にて斬死し屍をここに運び来って葬る。と、ばかり書いてあった。碑は苔蒸し土にまみれ碑頭は鳥の糞に汚れて弔う人もない姿であるが、もしこの手紙が遺族の人の手に届いたならば遙かに線香でも立ててやったならばどうであろうかという甚だ奇特な書翰であった。
 雅衛の祖父に儀右衛門と呼ぶ人物があったことは、村役場ではもちろん、村の老人たちも誰一人知らぬものはないのである。だから、この手紙は少しもまごつくことなく、雅衛のところへ配達されたのである。
 祖母のたみは手紙を読んで、眼がくらくらとした。たみは、六十五歳になっていた。すぐ家族三人で相談し、雅衛に遠い親戚の中年の男を付添いとし、常陸国の麻生まで急がせた。二人は手紙の主を尋ねて厚く礼を述べ、その案内によって祖父儀右衛門の墓に詣でた。墓は湖畔の枯蘆のなかに、遠い幕末の夢を結んでいた。近くの寺から僧を頼み、経をあげて貰ったのである。香烟が、低く冬の湖の水の上を流れた。
 雅衛は、祖父儀右衛門がどんな死に態をしたのであるか、麻生の町の古老を、あちこち訪ねて問うたけれど、それは皆目知る人とてはない。ただ、それだけで雅衛は沼之上の家へ帰ってきた。
 明治三十五年、雅衛は二十二歳のとき、利根川の上流末風村から、みよと呼ぶ十七歳の若い花嫁を迎えた。孫に嫁を迎えた喜びも束の間、たみは六十九歳を最後に他界したのである。また家族は母と息子夫婦の三人となったが、三十七年の日露戦争がはじまった年に嫁さんは男の子を生んだ。これに、清一となづけた。清一が二歳となった翌三十八年の盛夏のころ、雅衛はこれも突然姿をくらましてしまったのである。なんたる運命に魅入られた石坂家であろう。
 清一は二十三歳のとき、大正十五年武州児玉郡大幡から、嫁のきみを入れた。利根川の対岸宮郷村から嫁にきた裕八郎の妻ふゆは、孫清一が結婚する二年前の、大正十三年に一生を終わっている。
 嫁のきみが、昭和三年に男の子を生んだので、雅衛のところへ十七歳でよめにきたみよは、四十四歳ではじめて祖母になった。嫁が子供を生むと母のみよは、当家に伝わる運命の日がやがて来るのであろうことを予知して、息子清一の一挙一動に注意を怠らなかった。村の鎮守さまはもちろんのこと、信州の善光寺さまへも、紀州の高野山へも一家安泰を願かけた。賢彌となづけた孫が二歳となった春など、自ら旅支度を整えて、善光寺から越前の永平寺へ、京都の神仏を歴詣し、高野山から伊勢大神宮へ出て、成田の不動さままで頼んで沼之上の家へ帰ってきた。
 しかし、その甲斐はない。
 祖父の裕八郎が家出したと同じころの秋がきたとき、これもまた掻き消すように長屋門の前から姿を消した。祖母のみよは、狂気のようになって悲しみ、清一や清一やと、毎日泣き叫んだが、詮ないことであった。
 どの嫁もどの嫁も必ず男の子を生むこと、その子が二歳になると必ず当主が家出して、行衛不明となるということが、この近郷近村の謎のたねとなっている。これは、石坂家では美しい男ばかり生むから、越後国彌彦山に棲む※(「玄+少」、第4水準2-80-57)太郎婆あさんと呼ぶ雪女に、さらわれて行くのであると村人は信じているのであるという。

  四

 昭和二十一年の雪解けの季節、つまり今年のゆく春のころである。賢彌は、村の青年たち数人と共に草津温泉から渋峠を越えて、信州の熊の湯へ旅行を志した。賢彌は、十九歳になっている。
 草津温泉を出発して一里半、真っ白に聳える白根火山を行く手に見る香草温泉あたりに雪割草が咲いていた。雪解け頃というけれど、香草温泉からの登りは、流石さすがに未だ雪が深かった。それに、次第々々に坂道は匂配を加えてきた。標高六千余尺の上信の国境をなす渋峠の頂上まで達したときには、日ごろ健脚でない賢彌は友人から十数町も引き離されて遅れていた。雪の上を、一人でとぼとぼと歩いていた。
 すると、うしろから、
「賢彌、賢彌」
 と、呼ぶ者がある。この積雪の山中で、わが名を呼ぶ者はいない筈だ。妙なことである。あるいは耳の錯覚ではないかと考えたが、それでも後ろを振り見た。見ると頭髪も鬚髯も真っ白な老爺が雪の上を歩いてくる。熊の皮の甚兵衛を着て、もんぺと雪踏せったをはいているのである。賢彌に近づくと、
「お前は賢彌じゃろうな、するとお前はわしの曾孫ひまごじゃ」
 白髪の老人であるが淡紅の童顔に、声も若い。突然、こういわれても賢彌には、どういう意味のことであるか分からぬ。ただ、面喰らうよりほかなかった。
「さとれぬか、そうでもあろう」
 と、老爺はひとりで呟いた。そのとき賢彌の胸に、祖母からきいた話の、遠い記憶が甦ってきた。
「では、あなたは裕八郎お爺さんではありませんか」
 賢彌は、凝乎じっと老爺の顔を見た。
「そうじゃ、分かったか」
 莞爾として老爺は、顔を綻ばせた。
「まだお達者でいたのですか」
「達者じゃ、矍鑠かくしゃくとしちょる。沼之上へ帰ったら皆の者によろしく伝えてくれ」
「もうお爺さんは、九十幾歳にもなるじゃありませんか。なんで、こんな山の中へ入り込んで暮らしているのです、一緒に帰りましょうよお爺さん。沼之上の家で皆が待っていますよ」
「そうはゆかぬ」
「どうしてお爺さん、そのわけ聞かせてくださいよ」
「お前に話しても理解はゆくまいがな、わしは沼之上の家を出て以来、この信州と上州の国境に聳える横手山の洞窟に齢老いた野守のもりと夫婦の暮らしを営んでいる。これから先、幾百年も幾千年も、このままこのあたりにいるであろうが、わしに逢いたいと思うたら、なん時なりと、この渋峠の頂へ来るがよい」
「野守といいますと?」
「それは、説明せぬがよかろう」
 こう老爺が答えたとき、賢彌は自分が友人達に遠く遅れていることに気がついた。と同時にちょっと後ろを振り向いた。もちろん脚力の強い人々が遠く往ったのであるから賢彌の眼に見えるわけではないから、再び老爺の方を振り向くと、そこにはもうなに者の影もなかった。ただ、雪の峠路が続いているばかりである。
 老爺の姿は、幽風のように消え去っていた。

  五

 沼之上の家へ帰った賢彌は、挨拶が済むと直ぐ、渋峠の頂で曾祖父の姿に逢った次第を物語った。祖母みよはこの話をきいて、深く心に思い当たるところがあったのである。
 それは、姑のふみ女が存命の折り、姑は嫁にときどき、わたしの良人裕八郎は、どこか遠い遠い山の魔に魅せられていた。と、話したことのあるのを記憶していたからである。祖母のみよは、うっとりとして孫の物語をきいた。
「おばあさん、野守というのはなんですか」
 こう、賢彌は祖母に問うたのである。祖母は、野守の伝えごとについて知っていた。
「野守というのか、それは大蛇です。雌の大蛇が千年の寿をけると、胴体に四つの肢を生じて妖精となると聞きました。その妖精は、美男を求めて、その生血を吸うと伝えられているから、あるいはお前のひいお爺さんは、その野守に生きながら魅入られてしまったのではないでしょうか」
 と、説きまた自らも判断したのである。しかし、みよ女の想像は当たっていた。明治十一年から十二年の秋、裕八郎が四万温泉へ遊んだとき、彼は一日小倉の滝あたりへ散歩したことがある。その折り裕八郎は、滝に近い山径で一人の若い美女に逢ったが、ふとした言葉の交換から、ついに将来を契ったのであった。
 そのために裕八郎は、小倉の滝からさらに十里も奥の横手山に棲む野守の精に、若い生命を捧げる運命を持つことになったのである。
「賢彌、もうそんな寂しい話はやめましょうよ。ですがね、もうお前も子供ではないのですから、石坂家に伝わる男の悲しい運命を知っていると思います。ですから、やがてお前の身の上にも、その運命がめぐってくるのでありましょう」
「おばあさん、僕にも分かっています」
 賢彌は、悄然と微笑した。
「ところでね賢彌、一人生まれて一人失うという歴史では、石坂家は未来永劫家族は増えませんね。ですからね、今度お前が嫁さんを貰うとき、一度に三人お嫁さんを迎えてくれないか。そして、一度に三人子供を生んでくれないものかね、ははは」
 祖母は、悲しい話を笑いに紛らした。母のきみ女も傍らにこれをきいて眼をしばたたいた。
「おばあさん、僕一度に三人なんか嫁さんを貰うのはいやですね」
 賢彌は、馬鹿々々しいといった顔で笑ったのである。
 家族三人で囲んだ爐の榾火に、どこからともなく忍んできた隙間風が、ちょろちょろと吹いて過ぎた。

  六

 奥利根地方の温泉郷へ旅するとき、上野駅をたって高崎、新前橋、渋川駅と過ぎ、大利根川の鷺石鉄橋を渡ってから沼田駅を発車し、高橋お伝の生家のある後閑駅へくる少し手前で、汽車の窓から西方を眺めると、月夜野橋の下流数町の河原に、利根川へ合する大きな峡流を観るであろう。これが、赤谷川渓谷である。
 赤谷川は、標高僅かに六千五百尺内外であるけれど、登山者の生命を奪うことで知られている上、上越国境の谷川岳と、その西に隣し万太郎山との間に割り込んだ深渓から源を発している水量豊富な、そして恐ろしく高い胸壁の底を縫って出る人跡を寄せつけぬ渓流である。谷川岳と万太郎山との南面の山襞には、四季雪の消え去ることがない。雪解水が、春から秋まで朽葉を濡らし、古苔を浸して渓に滴るので、赤谷川の水はいつでも手を切られるように冷たい。
 それが、急傾斜の山骨の割れ目を流れ走って五里下流の笹の湯温泉のしも手までくると、西方の峡谷から一本の渓流が合する。これを、西川という。
 上州と、越後を結ぶ三国峠から一里下った谷間に法師温泉があるが、西川はこの法師温泉の奥に水源を持っているのである。赤谷川は、西川渓流を合わせると、さらに水量を増して西南五里の利根本流へ向かって奔下して行く。
 その途中に、幾つも深い淵があるけれど西川との合流点から十町ばかり下流、水の力が何百万、何千万年かの長い時間に、南岸の山裾を截り削った樋のように巌峡を過ぎ、少しかみ手に深い大きな瀞がある。蒼碧、藍を溶いたのかと思うほどの色が淵に漂い、岩のかげには緩やかな渦が巻き、象牙色の積泡が浮いて流れ、淵尻に移ろうとするところは、水が澱んで甕の面を覗いたように、とろとろとして瀞は動かぬ。
 水際に立つと、自ら悽愴の気を催す淵である。この地方の人々は、これを相俣の淵と呼んでいるのである。
 この淵に、よほど古い昔から恐ろしく大きな岩魚いわなが棲んでいた。淵の、主である。魚画を描いて日本随一と称せられる岸浪百艸居翁の研究したところによると、岩魚の相貌には男型と女型の二種あるというが、相俣淵の主は女型に類する方であった。
 悪食の上に縦横無尽に行動する岩魚は、鋭い歯を持って口は深く割れ、丸い大きな眼に、いかめしい顔の造作を備えている。しかし、女性型の岩魚は男性型に比べて、顔の容に一種の優しみを持っているので区別されるのである。殊に背の鱗は青銀色に、腹の方の膚は白銀色に、体側には両面の肩から尾筒に至まで、朱く輝く瑠璃色の斑点をちりばめたように浮かせ、あまたの魚類のうちで岩魚は、まれに見るおしゃれであるのである。その麗容な岩魚の泳ぐ大きな姿を、晩秋の水の澄んだ真昼に、ときどき村人が淵の中層に見るという。

  七

 相俣淵の岩魚は、夜な夜な法師温泉の湯槽に美しい姿を現わすということも、この地方の人々に語り伝えられている。
 一体、赤谷川の本流に添うて笹の湯、さらにその上流に古川温泉などがあるのであるけれどなにを好んで近くの温泉を求めず猿ヶ京、吹路、合瀬かつせ、永井などをへて遙々と法師温泉の湯槽に浸るのであろうか。それは、人間には分からない。
 法師温泉の主人岡村宏策老に、このことについて問うと、老は高らかに笑ってはっきりとは語らぬが、三、四年前の晩春の夜半に、それらしい姿を浴槽の湯口のあたりに、幻のように、わが視線に映じたこともあったと答えるのである。その言葉から判断すると、この地方に伝えられる話にどこかいわれがあるのであると思う。
 ところで、この美しい岩魚の姿を、ついちかごろ法師温泉の浴槽のなかで実際に見た人がある。それは、石坂賢彌であった。
 賢彌は昨年の五月の末、山に漸く早春が訪れたばかりの法師温泉へ旅したのである。三国街道の入口、利根川の月夜野橋のあたりは、もう若葉が青葉に移る季節を迎え、流れの岸に青嵐が樹々の重い梢を揺すっていたが、後閑駅から西方八里奥にある法師温泉をめぐる山々や谷々は銀鼠色のやわらかい嫩葉わかばが、ほんの少しばかり芽皮を破った雑木林に蔽われていた。
 樹々の梢が芽吹く季節は、一年中で最も快い。賢彌は、走る乗合自動車の窓から北方を眺めた。視線の届くところに、翁の眉毛のように幾筋もの白い残雪を、山襞に輝やかした谷川岳が間近に高く聳えていた。
 宿について、二、三日は、なにごともなかった。ところで、ある夜賢彌は更けるまで雑誌を読んでいた。時計を見ると、午前二時近くなっていたのである。一風呂浴びて床へ入ろうと考え、手拭さげて風呂場へ行った。
 賢彌の室は、新築した大きな別館の二階で、階段を降りて廊下を左へ曲がり、廊下はそのまま西川渓流の橋となっていて、橋が尽きるとまた左へ曲がり、暗い廊下が尽きたところの左側が風呂場になっていた。
 風呂場には、小さい石油洋灯の淡い光が、浴槽の面をぼんやり照らしていた。法師温泉へはいまでも送電線がきていない。どの室にも、風呂場にも石油洋灯を用いているのである。
 曵戸ひきどの格子から風呂場を覗くと、広い浴槽の向こうの正面の片隅に、誰か人が一人湯に浸っている。この夜更けに誰かと思って賢彌は瞳を凝らした。ゆらゆらと立ち昇る湯気のために、はっきりと分からないが、女であるらしい。賢彌は、ちょっとためらった。しかし、先客があるからといって風呂へ入らぬわけにはゆかぬ。曳戸を開けた脱衣場の棚へ衣物を投げ込み、浴槽のなかへ静かに入った。
 果たして、女であった。賢彌は、静かに湯へからだを浸したつもりではあるけれど、湯は音をたてた。だが、女は別段驚いた風もなく、凝乎と賢彌とは反対の方へ向いたまま、浴槽の一隅に浸っている。だから、賢彌は女のうしろ姿を見ているわけである。ところで、うしろ姿から察すると、若い婦人であることはたしかであると思う。
 法師温泉の、この長方形の浴槽は甚だ大きなものである。一方の隅から、一方の隅までは少なくとも四間半はあるであろう。浴槽の面を漂う湯気を通して、おぼろな女のうしろ姿をながめながら、賢彌は静かに湯のなかに脚を伸ばしていた。
 暫くすると女は、湯から出て流し場へ上がり、全身をあきらかに現わした。その、うしろ姿を見て賢彌は、からだ中の血が一瞬に頭へのぼったように、じいんとした凄気を催したのである。豊かな肉付き、なめらかな白いうなじ、両腕、そして肩から背に移る曲線を蔽う皮膚。
 だが、腰から下は大きな魚体であったのである。順序正しく並んだ銀鱗が、はっきりと見える。賢彌は、はっとして一度眼をつぶったが、さらにしっかりと見直した。けれど、はじめて見た姿と、なんの変化もない。女は手拭を絞って、湯に濡れた顔や体の皮膚を拭い終わると、うしろを振り向いて賢彌に、にこやかな視線を送った。ほんのりと紅いかお、澄んだ眼、微笑の中心に座す筋の通った鼻、黒く長い髪。眼ざめるばかりの、若い麗人であった。まだ二十歳は過ぎてはいまい。
 魅殺されたように、賢彌は夢心地になって美しい人の顔を見た。と同時に麗人のからだは、ひとりでに宙に浮いて、そのまま風呂場の窓から、そとの闇に吸い込まれるように、消え失せたのである。
 窓の闇から、西川渓谷の瀬音が、ただ淙々そうそうと響く。
 しばし荘然としていた賢彌は、われに返りうしろからつままれる怖さで、浴衣を抱えたまま自分の室へ飛び帰った。

  八

 翌朝、賢彌は急いで法師温泉を立った。学校が終わって、もう用事のない身であるから、悠々と滞在する予定であったのであるけれど、続いてここに滞在する気持ちになれなかったのである。
 西川渓谷に添うて、猿ヶ京の乗合自動車発着場まで三里の山路を急いで歩きはじめた。宿から数十町下ると、西川に渓流がさらに一段と谷底へえぐり込まれ、滝となって落ちる崖の上の路へ出た。そこは、高い絶壁を境として路が右に折れているから、行く手からこちらへ来る人の姿を望むことはできないのである。賢彌は、その絶壁の角を左へ曲がろうとしたとき、だしぬけに正面を曲がって出た人の姿に出会った。
「あっ※(感嘆符二つ、1-8-75)
 賢彌は、背中から冷水を浴びせかけられたように慄然とした。昨夜の夜半に、風呂場で見た半人半魚の麗人が、数歩前を自分の方へ向かって、窈窕ようちょうとして歩を運んでくるではないか。
 だが、今朝は半人半魚の姿ではない。華麗で、しかも気品の高い色合いのあわせを着て、足に革草履をはいている。
 麗人と、賢彌の視線が合った。しかし、麗人は昨夜のような美しい微笑を頬に浮かべなかった。路幅およそ二間半、女は崖端に近い方をしとやかに歩いて往き交った。賢彌の視線から、おのれの視線をはずすと、すぐ眼を伏せて行くのである。賢彌は、かつてこんなに美しい女を見たことがない。
 走った。まっしぐらに走った。怖いというのか、凄いというのか、わが魂が飛び去ったというのか、名状し難い気持ちに襲われて、賢彌は三里の下り路を、猿ヶ京の乗合自動車の立場まで、喪心して走った。立場まで走りついたとき、ついに身を支えきれなくなって、思わず路傍の草によろよろと崩れ伏した。
 その日の夕方、沼之上の家へ帰って、賢彌は祖母と母に法師温泉で見た妖女の話を語った。これをきいた祖母と母は、ただ一言、
「そうかね」
 といっただけであったが、二人の顔には暗い表情が掠め去った。
 沼之上の農村は、利根川と烏川と合流する三角州の上に群がっている。賢彌の家は東に利根の河原へ続き、南方には烏川が西から東へ流れて遠く明るい見晴らしを持っていた。西川渓谷が赤谷川へ落ち込み、赤谷川は大利根へ合流し、利根川はさらに流れ流れて三十里の下流、賢彌の家に近い岸を洗っている。
 その後、なにごともなく夏が過ぎ秋がきた。爽やかな風が吹く十月下旬のが、遙かに西方信州境の荒船山に落ちて間もないある黄昏のことである。秋は空気が澄んでいたためであろうか、陽が落ちて夕暗が樹かげや、家のかげから忍び寄ってきても、路行く人の顔は、はっきり見えるものである。賢彌は読書に飽きて庭に立ち、ぼんやり門のそとをながめていた。
 ところが、門のそとの路を東から西の方へ往く若い女の姿が、映画の一駒が瞬間に銀幕を過ぎるように、賢彌の瞳に映ったのである。記憶のある美しい女の横顔。
 ――そうだ、法師の女――
 賢彌のからだは、細かくふるえた。だが、賢彌の足は門のそとへ向かって走っていた。女のうしろ姿を見ようとして、門の廂の下に立ったけれど、黄昏の路上に人の姿はなかった。
 そのことがあってから後、賢彌は四、五回ほど、門のそとを過ぎ往くあの美しい女の横顔を、夕景のなかに見たのである。しかし、女は一度も門のうちへ正面を向けたことがない。いつも横顔のまま、門前を過ぎて行く。
 十一月に入ってからは、夕方がくると庭へも門の廂にも佇まぬことにした。幻奇の予感が、賢彌に濃く漂いはじめたからである。しかし、この妖しい出來ごとについては、固く口をつぐんで祖母にも母にも一言も語らなかった。

  九

 晴れた空に星が冴えて、木枯らしが水の面に、はらはらと落ち葉を降らせてくる夜である。赤谷川の相俣の淵は、両岸に百尺あまりの絶壁が屏風のようにっ立ち、日中でも澹暗が漲っている境地であるが、やがて絶壁と絶壁が相対するれ間から、二十日ばかりの月が寒い光を水際の巌の上へさし込んできた。
 月の光を浴びて、巌の上へ映し出されたのは、一頭の巨猿であった。万太郎猿が、病める相俣の淵の岩魚を見舞いにきていたのだ。
 上越国境を、東から西へ縦走する三国山脈、この山脈の東端から南会津の方へ向かって続く万太郎山、谷川岳、茂倉岳、朝日岳、兎岳、牛ヶ岳、八海山、中の岳、駒ヶ岳、銀山平など、奥上州の裏側に並ぶ越後国南魚沼の山地には、昔から野猿の大群が棲んでいた。ところで、この猿の大群を支配するのは、谷川岳のすぐ西に隣る万太郎山の裏側、越後に向かった高い崖に棲む齢も知らぬ老猿である。つまり、上州と越後に連なる奥深い山岳地帯は、この巨猿の縄張りであるのだ。上越の猟師も出羽の方から稼ぎにくる猟師も、折々この老猿を遠く高い岸の上に見ることはあるが、猟師共はこの猿を万太郎猿と呼んでいる。そして、誰もが申し合わせたように、この猿に筒先を向けぬことにしてきたのである。
 老猿の後頭から首筋、背へかけての毛は金茶色に光っている。
 さきほどから猿は、片割れ月のかげを浮かべた淵の面を、丸い大きな眼で覗き込んでいる。しばらくすると、淵の中層に黒い雲に似た彩が動き、やがてそのかげが淵の面に映した月の光を乱すと同時に、朦朧として水上に女の姿が立った。岩魚の精。
 水の上を水際に近づいてくる女の容を見ると、初夏のころには露ほどもなかったやつれが、頬や肩のあたりに現われている。この窶れのためか、相俣岩魚の姿は、ひとしお妖しく美しい。
 この姿を見て、老猿は微笑んだ。
「ちかごろ、具合はどうじゃの」
 と、巌の上から水際の岩魚に問うた。
「はい、ありがとう存じます」
 緑の黒髪が、水際の小波にゆらゆら揺れる。
「焦ってはいかんな、あははは」
 老猿は、高く笑った。
「でも――」
 岩魚の精は、はずかしそうな姿態をつくったのである。
「気を揉んだところで、時節がめぐってこなければ駄目じゃちうのは、お前さんも承知じゃろうがな」
「さ、それはそうですけれど――」
「あれはどこへもいけない人間じゃ、必ずお前さんのふところのものになるのは分かっているじゃろう」
 老猿は、慈心に富んだ表情で巌の上から岩魚を見下ろしているのである。魚精は痩せた顔に澄んだ眼をあげ、老猿を仰いだ。
「石坂の家は先祖代々、息子が嫁を迎え、その嫁が一人の子供を生まんうちは、わしらのようなものの精が、どんな妖気を弄んだところで、あの息子をかどわかすことはできない。つまり石坂家の持っている天命を、われわれが左右しようといったとてそれは無理じゃ。まあ、落ちついて時節のくるのを待つがよい。その時節は、遠いことではあるまいとわしは思うね」
「ですが、わたしの乙女心をお察しください」
「乙女心か、あっははは――ところでね、賢彌君の曾祖父さんが、渋峠の西に当たる横手山の渓谷の岩窟に、野守の精ともう百年近くも共に棲んでいるのは、お前さんも知っている筈じゃね。わしはお前さんのわずらいが心配になるので、二、三日前横手山へ出かけて行って、曾祖父さんに相談してみた。一日も早く賢彌さんを相俣淵へ引き取って、岩魚を安心させてやりたいが、なんとかならぬものでしょうかといったところ、一言のもとにはねつけられた」
「それはご親切に――厚くお礼を申しあげます」
「お礼で痛み入る――ところで、嫁を貰い子供を儲けぬうちに賢彌を誘拐すれば、石坂家の系図はそこで絶えてしまう。もし、早まって強いて賢彌を誘い出すような不心得のことをやれば相俣の岩魚めはひと捻りに捻りつぶす。そのときは、貴公も同罪じゃから只では置かぬと曾祖父さんから大喝を喰ったようなわけじゃ。じゃが、条件さえ具備すれば、これは石坂家に伝わる運命じゃから貴公らが賢彌を煮て食おうと焼いて食おうと――」
「そうでしたか、では静かに時節のくるのを待つよりほかにいたし方ありませんね」
「そのとおり、そこでしばらく燃ゆる恋心を抑えて、身のわずらいをいやす思案でもするがよかろう」
「心を落ちつけます」
「そうでなければならぬこと。そして、からだを達者にして置いて恋人を迎えにゃなるまい」
「ほほ」
 月は次第に西の空にまわって、対岸の高い絶壁のかげに隠れた。月光を失った淵の面と河原は、俄に暗いかげの底に吸い込まれて行ったのである。巨猿の姿も、魚精のかげも幽黝ゆうゆうの底に抹消された。

  十

 正月がくると、石坂家へ目出度い縁談があちこちから持ち込まれた。一体、石坂家に伝わる幻奇については、近郷に知らぬものはないのであるけれど、不思議なことに代々縁談に不自由はしなかったのである。石坂家は、この地方では有数の豪農で豊かに生活し、城郭のような屋敷を構えていることも世間の思慕をいている理由であるに違いない。代々の祖母や母が、息子のために多くの縁談のうちから、贅沢な嫁選びをしてきたほど、幸福であったのである。
 賢彌の縁談も、同じようであった。いま、賢彌の祖母や母に、白羽の矢を立てられようとしているのは、大利根川を隔てた対岸である武州の、これも豪農の美しい令嬢である。仲人は、目出度い談をまとめようとして、幾度も渡し舟に乗って石坂家を訪れた。
 賢彌が、岩魚の精と共に永久に深淵に棲む運命を迎えるのはいつのことであろうか。
(昭和二十二年二月一日)





底本:「『たぬき汁』以後」つり人ノベルズ、つり人社
   1993(平成5)年8月20日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2006年12月2日作成
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