老狸伝

佐藤垢石




  一

 大寒に入って間もない頃、越後国岩船郡村上町の友人から、野狸の肉と、月の輪熊の肉が届いた。久し振りの珍品到来に、家内一同大いに喜んだのである。
 越後岩船郡は新潟県の東北にあり、越後山脈を中に挟んで、山形県と境を接している。友人からきた手紙によると、野狸の方は村上近在の農村へ、のこのこと遊びに出てきたのを、鉄砲で撃ち取ったのであるが、熊の方は、友人の母の里方である越後山脈の、深い雪の谷合いの穴で、専門猟師がやりで突き殺したのであるというしらせである。ご馳走が、極端に払底なこの頃の世の中に、まことに難い饗饌きょうせんだ。
 私は上州、会津、雄鹿半島、紀州、丹波、信濃、満州などの狸を食ったことはあるけれど、越後と出羽境の狸の肉に見参するのは、これがはじめてだ。なんとか上手に調理して、食べたいと思う。
 動物図鑑によると、狸は本州、四国、九州に産するとある。体長は五百三十ミリ内外、尾の長さは百七十ミリ内外で、体は狐よりも小さく、前肢も後肢も短い。
 毛は概ね暗灰色で、密生している。体のところどころに黒い毛が混じっていて、両眼の下は黒褐色を呈する。吻と、眼の上部と、喉などは少し白い。そして、額は短いのである。
 山や野に穴居して夜になると這いだして残肴や昆虫、蠕虫などをあさり、時には植物質のものを食うこともある。六、七月頃、子を産む。地方により、狢ともいう。
 と、書いてある。私は、子供のころ狸とむじなは別物と思っていたが、今から四、五十年前、栃木県に狸と貉の裁判があって、その正体がはっきり分かったのである。
 日本では、狸の妊娠から分娩季を禁猟にしている。ところが、野州のある百姓が、貉を捕って殺した。それを、村の駐在巡査が発見して、貉も狸も同じ動物だ。そこでつまり、貉を殺せば狸を殺したことになるというので告発した。
 この事件が裁判に付せられたところ、百姓が述べるには、わしの村では昔から、狸と貉とは別物にしている。狸を殺してはいけないちうことは知っているけれど、貉を殺してはならぬちうことは知り申さぬ。と、いうのである。
 そこで、裁判では狸と貉の区別について専門家の意見を求めたところ、やはり駐在巡査の主張した通り、狸と貉は同一の動物であって、ところにより呼び名が異なるだけであるという証言を得たのである。よって遂に、百姓は国法により罰せられたという新聞の記事を見た。
 それ以来、私は狸と貉を同一のものと考えるようになったのだが、私の老父が私の幼い頃、私らの子供に化けものばなしをするとき、貉の化け方は、甚だ大袈裟げさで雲つくばかりの大入道となり、人間の胆を潰すのを見て喜ぶ。しかし、狸の化け方は一体に小柄で、一つ目小僧のような少年となり、時に人間に正体を見破られて逃げ出すという茶目気分がある。と、聞かせていたので、私は幼いときから両者を別ものと思ってきたわけである。
 ※(「豸+權のつくり」、第4水準2-89-10)あなぐまを指して、狢と呼ぶ地方もある。曲亭馬琴の里見八犬伝では、犬山道節が足尾庚申山の、猫又を退治する条で、※(「豸+權のつくり」、第4水準2-89-10)まみと称しているが、東京麻布の狸穴は、これをまみあな町と唱えている。してみると、われわれの先祖は、そそっかし屋揃いで、狸と※(「豸+權のつくり」、第4水準2-89-10)を兄弟か、従兄くらいにしか考えていなかったらしい。
 動物学の方からいうと、狸は犬科に属しているけれど、※(「豸+權のつくり」、第4水準2-89-10)は貉やかわうそと同じに、鼬鼠いたち科に属している。※(「豸+權のつくり」、第4水準2-89-10)は、本州、四国、九州など至るところに棲んでいて、体の長さは尾と共に六百三十ミリ内外。毛色は夏冬によって、彩を異にし、冬毛は背中に白味が多く、腹の方は黒褐色を呈し、過眼帯は黒い。爪は長く黄白色をなし、前肢の爪は殊に長大だ。
 前段に申したように地方によっては狸と混用して、狢というが体の毛の荒いのと、前肢の爪が長いのによって、はっきりと区別することができる。低い丘の横腹などに自分で穴を掘って棲んでいて、四月頃に子を産むのである。肉は脂肪を含んでやわらかく、その風味、豚に似ていると思う。

  二

 さて、わが老妻は村上町から渡来した狸の肉を細かく刻み、これを鍋の水に入れて二、三時間たぎらせ、やわらかくなったところへ、そぎ牛蒡ごぼう、下仁田ねぎ、焼豆腐を加えて、味噌を落としたのである。そして、舌をやくほど熱いところを椀に盛り、七味を加えて味わったところ、素晴らしくおいしい。さらに、奥利根沼田から贈って貰った醇酒で小盃を傾け、わが舌に吟味を問えば、なんとも答えず、ただ舌根を痙攣させるのみ。
 まことに、久し振りで狸汁の珍味に酔うたのである。
 月の輪熊の方は、その翌日とろ火にかけて、小半日ばかり湯煮ゆにして、やわらかに煮あげ、それを里芋、牛蒡、焼豆腐と共に旨煮にこしらえて賞味したところ、山谷の匂い口中に漂って、風雅の趣を噛みしめた。
 総じて獣肉料理には、牛肉にも豚肉にも猪肉にも、牛蒡の味が内助の功を示すものだが、土の香の強い狸や熊には、殊に牛蒡の持つあの特有の香が、肉の味を上品にする役目は、大したものであると思う。
 数年前、報知新聞社から北海道へ熊狩隊を派遣したことがある。そのとき撃ち取った羆を友人数名と共に、小石川富坂の富士菜館へ持ち込み、南支の広州からきた料理人の手にかけて、十数種類の支那料理にこしらえ、さまざまに試食したことがあったけれど、その折りのおいしさもさることながら、老妻の手にかけた月の輪熊のしょうは格別である。
 月の輪熊は、日本特有の種類である。本州の深山に棲んでいて体は肥満し、体の長さは二メートル近くにまで育つのがある。尾は短く、前肢も後肢も短い。そして、太い。五本の指にいずれも黒い長い爪を持っていて、それがなかなか有力だ。毛色は真っ黒で、胸に月輪形の大きな白斑を有している。巧みに樹上によぢのぼることができるけれど、ほかの獣類のように跳躍する術を知らないのは妙だ。
 食いものは雑食性で、動物でも植物でも食う。冬になると自分で掘るか、または自然にできた崖下などの穴に入って冬眠し、毎年五月頃子を産むのである。秋、落葉の頃子供をつれて餌漁りに出た熊は、人間を襲うことがあるから、ご用心。
 先年、私は渓流魚釣りにでかけて、奥利根楢俣沢の奥と浅間高原六里ヶ原の赤川の水源近くで、野性の熊に出っくわし、胆を潰して命からがら逃げたことがある。楢俣沢の奴は、子供を連れて渓流の沢蟹を掘って食べているところを、二、三十間離れた崖路の上から望んだのであったが、日ごろ子連れの熊は危ないと聞かされていたから、老生ほんとうに腰を抜かさんばかりである。
 六里ヶ原で、めぐり会ったのは、五月上旬の、まだ枯芒のままの枯野の中で、真っ黒い山のおじさんと真正面にぶつかったのである。その距離、僅かに数間。共に、だしぬけに正面衝突したのであるから、熊も人間も驚くの驚かないの、両者全くぶったまげた。熊は私を発見すると、急角度に回れ右して枯野の中を枯林めざして走りだしたのである。
 私はその場合、その場で腰を抜かしてしまったのでは逃げられないから、腰の蝶番ちょうつがいだけをしっかりさせて置いて、逃げた逃げた。
 群馬県吾妻郡応桑村北軽井沢の一匡村近くまで一里ばかりの間、どこの叢林、どこの野原を走ったのであるか夢中で走って、われに返った。
 そこで、漸く無事であった自分を発見した。胸を撫でおろしたのであるが、呼吸がピストンのように咽喉を往復して、心臓が破裂しそうだ。遂に、大地へ伸びた。

  三

 わが上州では、赤城山の裏側に当たる奥利根の、武尊ほたか山の周囲に最も多い。四万温泉にも有名な熊猟師がいて上州と越後の国境をなす三国山脈を、東は法師温泉の上から西は草津の横手山の方まで狩り歩くが、野州では奥鬼怒の湯西川温泉の奥の会津境の山脈の谷合いには、甚だ数多く棲んでいる。
 しかし私は、上州の熊も、野州の熊も、いずれも試味したけれど、どういう理由か、あまり賞賛し得なかった。
 昔から奥利根へは、出羽の熊捕り専門猟師が、越後の駒ヶ岳、八海山、牛ヶ岳などをへて入り込んできたのであるから、私は山形県や秋田県の山々が、熊の本場であろうと考えて、一度本場の熊の肉を賞味したいと希望していたところ、今回はからずも友人からの贈りものを得て出羽と越後の国境でとれた熊の肉を、たんのうした。
 野州や、上州の熊の肉に比べて、まことに本場だけのことはあると思ったのである。
 狸は、わが上州に最も多く棲んでいると拙著『たぬき汁』に書いて置いた。上州でも、榛名山麓に最も多い。
 近年でも、その地方の人々は、時たまたぬき汁に舌鼓をうっている。
 一昨年十月のことである。戦争が、次第にはげしくなって、東京では学童を地方へ疎開させねばならぬことになった。
 榛名南麓の箕輪町でも、疎開学童を受け入れることになったので、校舎の修築、炊事場の新設、井戸を新しく掘るなど、いろいろ準備に忙しい。
 榛名山の南麓は近年、相馬ヶ原の演習場や予備士官学校などができて、あたりに硝煙の臭いが強く、殊に養蚕の発達から箕輪町付近の山林は開墾されて、一望遮るもののない桑畑となったけれど、その辺は有名な真影流の開祖、塚原卜伝の師、つまり剣道の神さまと称される上泉伊勢守が城代として住まった箕輪城の趾であったから、私の少年のころまでは狐、狸、※(「豸+權のつくり」、第4水準2-89-10)、雉子、山鳥などというのは、動物園か養鶏場などにも棲んでいた。
 ところで、箕輪町では箕輪城趾の近くへ、受け入れ学童の合宿場を建て、井戸掘人夫を入れて盛んに工事を進めて行った。この地方は、土壌が深い傾斜であるから、なかなか水が沸いてこない。
 第一日は、一丈ばかり探ったところで日が暮れたから、人夫らは工事を中止したのである。二日目は、暁暗の頃から人夫らは工事場へやってきた。
 そして、しばらく榾火ほたびを焚いて一服すっているうちに、東が明るくなってきたところが、人夫らが掘り掛けの井戸を覗いていると、薄暗い底の方へ、なにか黒いものが動いているではないか。
 大騒ぎとなって、二、三人の人が梯子をかけて井戸の底へ降り行き、黒い犬のような動物を押さえつけて見ると、なんとこれは大きな狸である。
 首と四ッ肢を縄でくくりつけ、その日は一日、樹の又へ縛りつけて置いて、その夜工事場の人員全部が集まって、大鍋でたぬき汁をこしらえ、濁り酒で腹鼓をうった。
 こんな次第で、文明開化の今日でも、榛名山麓へは、狸が時々散歩に出てきて、失敗を演ずるのである。

  四

 分福茶釜の出身地も、榛名山麓である。
 上州館林在の茂林寺に、この分福茶釜が鎮座ましますのであるが、詳しくいうと上州邑楽郡六郷村字堀江青龍山茂林寺であって、開祖は正通和尚であるという。正通和尚の出身地は分からぬ。
 正通和尚は諸国行脚の途次、上州へ入り榛名山麓の村々に布施を乞うて歩いたが、ある日の夕ぐれ、湯の上村から伊香保温泉の方へ向かっていた。
 すると、路傍の樹かげの石に、僧形の少年が憩うていたのである。小さい僧は、正通和尚を見ると、立ち上がって丁寧に挨拶してから、拙僧を弟子にして、どこかへ連れて行ってくだされ、と頼むのである。
 そこで和尚はそなたは何という僧名であるかと問うと、守鶴であると答えた。そうか、だがわしは何処が目あてとも知れぬ旅僧で、草のふすま、石の枕を宿としているのであるから、折角の頼みではあるけれど、そなたを弟子にして伴い歩くことはでき申さぬ。と因果を含めた。
 しかし、少年の僧は、いつかな正通和尚の言葉をきかない。たって、弟子にしてくだされ、仏の慈悲と思し召して私の念願を叶えてくだされと、袂に縋るようにするので、和尚はこれに負けてしまったのである。
 それから、老僧は若僧を伴って、あの里この里と歩いた末、上州館林の地へ辿りついた。老僧は、館林の地がひどく気に入ったらしい。
 この地に、一寺を建立したいと守鶴にいったのである。ところが守鶴はそれに答えて、いえ館林よりも、もっと景勝の地が、ここから余り遠くないところにありますから、そこになすっては如何ですといって、正通和尚の先に立って歩いた。
 和尚は、子供でありながら妙なことをいうと思いながら歩いて行くと、いま茂林寺のある堀江の地へ入ったのである。見ると、なるほど館林よりも景勝の地だ。
 うしとらの方角には池があり、あたり樹林が茂って、寺を建て永く仏に仕えるには、まことに恰好な環境である。近村の人々の協力により間もなくそこへ寺が建った。守鶴は、和尚から番僧の役目を仰せつかったのである。
 工事が全く成ったある春の日に、和尚は近郷近在の善男善女を招いて落成祝いを行なった。寺振舞である。あっちからも、こっちからも寺の建立を祝って、多くの人々が集まった。春の寺庭は、晴れやかに賑わう。
 守鶴の、この日の役目は、お茶番であった。茶釜の直ぐ傍らに座って、あまたの寺詣の人々に茶を接待するのであるけれど、十人や二十人のことなら、大して湯水が要る筈はない。
 ところが、その日はぞろぞろと、幾百人とも知れない人の数が、後から後から続いてくるには、随分沢山の水が入用のわけだ。でも、守鶴は盛んに茶釜から湯を汲みだして、人々に接待するが、その茶釜に水をたして行かないのである。
 参詣の人々は、それに気づかなかったが、正面に座していて、守鶴の振舞を静かにながめていた正通和尚は、
 南無幽霊――南無阿弥陀仏
 と、ひそかに呪念したのである。その間も、若い僧は茶釜から尽きぬ湯を汲みだしていた。老僧は、知らぬ振りをしていた。
 寺振舞が済んでから幾日か過ぎ、もう夏となっていた。守鶴は、いろいろの用事が終わったので自分の室へ引き退り、昼寝をはじめたのである。ところが、急に用事ができたので正通和尚は庫裏くりから、守鶴の室へ向かって、幾度か呼んだけれど、返辞がない。
 そこで和尚は、守鶴の室へ行って、襖を開いてみると、驚いたことに大狸が室の真ん中で、高鼾で大の字なりに寝ていた。
 ――南無 幽霊――
 和尚の心に、合点がいった。和尚は、守鶴に気づかれぬように、静かに襖を閉めて庫裏へ戻ったのである。
 守鶴は、浅ましき姿を正通に見られたのを覚った。もう、わが正体を明らかにした以上は、この寺に務めてはおられぬ。その日夕方、守鶴は方丈で読経が済んだ後の和尚の前に座し、実はわたしは榛名山麓の横穴に、歳古く棲んでいる狸である。今日、はしたなくもわたしの粗忽そこつから、あられもなき態をお目にかけ、まことに相済まぬ仕儀であった。かくなっては、高僧と畜生とは相供に住まわれません。お暇を戴き申す。
 それでも構わぬと、和尚は引きとめたが、守鶴はその場から、いずこともなく姿を消したのである。

  五

 守鶴が、尽きぬ湯を汲み出した茶釜が、現在の茂林寺の分福茶釜であるという。
 狸となって守鶴が茂林寺を立ち退いた後も、正通和尚は守鶴少年の遺品として愛していた。庫裏の大火鉢にかけて、毎朝毎夕そこから湯を汲み出しては急須に入れた。
 ある真昼、和尚は庫裏で書見をしていた。そして、ふと傍らの茶釜を見ると、茶釜の胴の一方から、ふっくらとして毛の厚い狸の尻っ尾が出た。ついで、その反対側から眼の下を黄色に隈取った狸の顔が出た。
 和尚は微笑ほほえんだ。
 それから、前肢が出で後肢が出た。四肢が揃うと、狸は大火鉢の上からひょいと畳の上へ飛び降りた。後肢で立って、前肢で茶釜の腹を叩きながら踊りはじめたのである。
 正通和尚は、また微笑んだ。
 けれど、老僧は守鶴が昼寝をしたために、老狸の正体を現わしたこと、茶釜に頭と尾、前肢と後肢が生えて踊りだしたことは、決して誰にも語らなかったが、老僧は茶釜が踊り出してからは、これを傍らに置いて愛用する心を続けることはできなかった。
 館林の町から古道具屋を呼んできて、只と同じような値で茶釜を払い下げてやった。古道具屋が見ると、甚だ金性がよろしい。そして、値は只も同じようである。古道具屋は喜んで家へ持ち帰ったのである。
 ところでその夜半、古道具屋は店の方が、ひどく騒々しいので眼をさまし、障子の穴から覗いてみると、今日茂林寺から買ってきた茶釜に頭、肢、尻っ尾が生えて、腹のふくれた大きな狸となり、それが店にならべたいろいろの古道具を踏み荒らしながら、盛んに踊っているのであった。
 これは、いかん。
 古道具屋の亭主は、びっくりした。これは、わが店へならべて置くべき品ではないと考えたのである。その翌日、早く起きて知り合いの古道具屋へこの茶釜を提げて行って、相当儲けて売った。
 それを買った古道具屋も、その夜半、狸に化けた茶釜に驚かされた。そこでまたその道具屋は次の道具屋へ売ったのである。
 こうして、茶釜は次から次へ、転々として売られて行ったのであるが、至る処で奇蹟を現わして、人々の胆を潰したのである。結局、これに関係した古道具屋連が相集まり、これは公開して世間の人に、古今はじめての奇蹟を見せてやるべきであるという相談がまとまり、見世物小屋を開いて、茶釜の狸踊りをご覧に入れたところ、大評判となって大入り満員。
 四方から遠い道を遠しとせず、見物人が押すな押すなと集まったため、僅かに数日間で道具屋連中は大儲けをした。その福を、皆々で分け合ったから、分福茶釜と名づけたという。
 そこで道具屋連中は、興業が終わると顔を揃えて分福茶釜を携えて茂林寺へ行き、今回の次第とお礼を述べて、末永く茶釜の加護を正通和尚に頼んだのである。これがいま尚、茂林寺に伝わっているそうだ。

  六

 赤城山麓の、厩橋城も狸の巣であった。厩橋というのは、前橋の旧名である。
 厩橋城は、慶長六年酒井重忠が、武州川越から転封された後、忠世、忠行、忠清、忠挙、忠相、親愛、親本の六世をへて、忠恭に至るまで百五十年間の居城であったが、そのいく度かの、利根川の洪水のために、西方の城壘が崩壊を重ねたのであった。
 元来、厩橋城は酒井家が移ってから、利根の激流に悩まされたわけではない。天正十年織田信長の重臣瀧川一益が居城した頃から、毎年出水期になると、利根の流れのために城が盛んに崩されたらしい。
 現在、利根川は前橋市の西側を流れているけれど、今から百年ばかり前までは、前橋と赤城山麓との間の一本、前橋の西側群馬郡との間を流れる一本、都合二本に分かれて流れていたのである。それが、五、六月頃から十月頃までの出水期には、激流が荒れ狂って、田地田畑からお城まで洗い去っていた。
 かくして、寛延二年正月酒井忠恭は播州へ転封となり、その後へ松平大和守朝矩が来たり、この厩橋城へ入ったのである。その頃は、厩橋城廓の崩潰が甚だしい最中で、殿様の朝矩は危険で居堪らなくなり、本丸から三の丸へ引っ越さねばならぬありさまであったという。
 だが利根の激流は年々歳々、勢いを増してきて、城壁は崩れて底止ていしするところを知らない。ついに、三の丸も危なくなった。
 そこで、朝矩は在城僅かに十九年にして明和五年三月武州川越城へ移り、厩橋には陣屋を置いて分領としたのである。関東の四平城の一つとして名高かった厩橋城も、松平氏が川越へ避難してから廃城となり、その後十九年間、城内は荒れるに任せ、昔の偉観なく廃墟の姿となったのである。
 従って、厩橋の城下もさびれてしまった。多くの藩士はすべて川越へ去ったので、市中の商人はひどく衰え、町家は年と共に疲弊して町のなかへ田や畑が現われるという状態となった。市中へ、一つ目小僧や、大入道が散歩にでかけて、人々に腰を抜かせたのもこの頃だ。
 再築の工事がはじまったのは、明治維新から三、四年前の、元治元年五月十三日で、竣工したのが、慶応三年一月二日であるから、城が出来あがると間もなく、僅か一年ばかりで廃藩となったわけである。
 大きな城が九十九年も少しの手入れもすることなく、棄て置かれては、荒れに荒れて昼なお暗い叢林や身丈を隠す草原ができて、相馬の古御所を彷彿させるに充分であったのであろう。
 そんな次第で、荒れた城内は狸と狐と雉子の巣となって、これが競って厩橋市中へ化けて出た。廃藩置県になってからは、城の裏側の利根の急流に臨んだ崖の上へは、県営の牢屋ができて、そこは明治初年に白銀屋文七が、遊人度胸を揮ったところであるが、その付近一帯が、また薄気味悪い場所となったのである。
 あたり一面、よしあしが生えて足の踏み入れようもない。そこへ、どこから来たか大蛇が移り住んだ。私の父は少年の頃、村の友だちと共に、その近くへ草刈りに行ったが、まことに恐ろしい場所であったと、私に語ったのを記憶している。
 父の友人の一人は、その牢屋の近くで、大蛇に出逢い、毒っ気を吹きかけられ、家へはせ帰ったけれど、毒が全身にまわり、ついに死んでしまったという話だ。

  七

 厩橋城は、松平家が留守にした幕末の九十九年間に、はじめて狸がわが住まいとして、入り込んできたのではないらしい。その二、三百年前に、城の狸が北条勢や武田勢を、向こうにまわして戦っている。
『石倉記』によると、永禄十卯十年、上杉謙信は上州厩橋城に足を止めて、関東平定のことに軍略めぐらしていた。そこへ北条氏康が攻めてきた。
 氏康の軍勢は氏政従臣松田尾張入道、同左馬助、大道寺駿河守、遠山豊前守、波賀伊像守、山角上野介、福島伊賀守、山角紀伊守、依田大膳亮、南條山城守など三万余騎。
 これに、加勢として武田信玄が出馬してきた。信玄の率いる勢は馬場美濃守、内藤修理亮、土屋右衛門尉、横山備中守、金丸伊賀守ら二万余騎である。両旗の軍勢合わせて五万六千は、大旗小旗や、家々の馬印、思い思いの甲冑を、朝陽に輝かして押し寄せた。
 同年十月八日から厩橋城を打ち囲み、追手搦手から揉み合わせ、攻め轟かすこと雷霆らいていもこれを避けるであろうという状況である。
 血は、城のおほりに溢れ、屍は山と積む激戦を演じたけれど、勝敗は遂に決しない。そこで、寄せ手の方では城を焼き払う方略を立て、毎夜城下の街へ火を放して気勢をあげたのである。
 ある夜、城下の街からすばらしい火の手があがった。と、同時に寄せ手の軍勢は、ときの声をあげ、城門も吹っ飛べとばかり、何万かが束になって押し寄せてきた。城兵は、これを迎えてなにかと必死になって戦ったけれど、如何とも支え得られそうもない。
 城門を押し倒して、あわや城内へ北条勢が押し込もうと見える危機一髪のとき、不思議なり城の一角から大軍勢が押し出し、手に手に松火をかざして、北条勢の鬨の声よりも、さらに大きな鬨の声をつくって寄せ手のなかへ躍り込み、敵を無二無三に斬りまくったのである。
 城兵も、これがために勢いを盛り返して、奮戦したので、さしもの北条、武田合同軍も、ついに敗走してしまったのである。これに乗じて城兵は、城外へ押し出して敵を追跡し、これを殲滅しようとしたけれど、伏兵のおそれありとなし、謙信はこれを制止した。
 だが、思いがけない軍勢が、味方を救ったことについて、城内の幹部も兵卒も、甚だ不思議としたけれど、その謎は解けなかった。戦闘が終わって、城内の石垣の上や、門の扉に明るい朝暾ちょうとんが当たりはじめたころ、将兵が斬り合いの激しかった場所へ行ってみると、そこにもここにも獣の毛がちらばっている。
 いずれも、怪しきことに思っていると、一人の武士が城の隅のくさむらのなかで異様なものを発見した。それは一疋の大狸、しかも冑を着て倒れているのである。手も足も、頭も傷ついて息絶え絶えのありさまだ。
 武士がその傍らへ走り寄ると、狸は苦しげな声で自分は年古くこの城のなかに棲んでいる。あたかも、城の将兵から飼われているのも同じようであった。ところが、昨夜の戦いで城方が甚だまずい。この分では、落城に及ぶかも知れぬと知ったとき、傍観するのに忍びなかった。そこで、多数の将兵に化けて出で、力の限り闘って、このように深い手傷を負ったけれど、北条武田方を敗走せしめたのは本望であった。これで、多年の御恩返しもでき、無事に極楽へ行けましょう。こう、苦しいなかから物語り終わると、息を引き取ったという。

  八

 これは、それから二十二、三年過ぎてからの話である。
 上杉が退いたあとの厩橋城を支配したのが、瀧川一益であった。一益は、天正十年北条氏政のために敗られて、西の国へ走ったのである。そのあとは山上美濃守、織田彦四郎、松田兵部大夫などが引き続き北条の城代として厩橋にいた。
 秀吉が二十五万の将兵を率いて小田原の北条を攻めたのは、天正十八年である。そのとき、これに呼応して北陸の上杉景勝、前田利家が相携えて大兵を進め、信州から碓氷うすい峠を越えて上州へ攻め入った。まず松井田の城を攻め、城主大道寺政繁は坂本にこれを防いだけれど、衆寡敵わず敗走、ついにその先導となって上杉前田勢に加わったのである。それより進んで大軍は厩橋、沼田、松山、箕輪、河越の諸城を次々におとしいれ、最後に鉢形城を囲んだのである。
 上杉と前田が、厩橋城を攻めたのは天正十八年の猛春四月である。朧夜に、寄せ手は忽ち厩橋城の城壁に迫り、鬨の声をあげて城門を突破しようとする危急の場合、予想もしなかった新手の大軍が、城内から石垣の上へ現われた。そしてこの数千の大軍は、寄せ手を目がけて大小の石塊を無数に投げつけて、雨か霰のようである。さしもの寄せ手も、この不意の乱撃に堪らず、たじろいて度を失い、勢いを崩して退いたのである。
 すると、今まで雲霞の如く城壁にいた大軍は、掻き消すように見えなくなった。そこで、再び寄せ手は引き返した。と、またもや数千の大軍が城壁に現われて、石塊を飛ばす。寄せ手は今回も退却すると、城兵の姿は見えなくなった、そんなことを幾度か繰り返して恰も寄せ手はなにかに魅せられているようだ。
 はて、これは只事にあらず、と考えたのは寄せ手の大将である。妖魔の仕業に違いないと判断して、部下の侍に命じ、蟇目の矢を射させたところ、果たせるかな城壁の大軍は、掻き消すように、消えてなくなり再び姿を現わさない。
 そこで、とうとう厩橋城は陥ってしまったのだが、厩橋城下の人々はこの奇蹟について、あれは上州邑楽郡六郷村にある茂林寺の分福茶釜狸が、応援にきたのであるといっている。
 茶釜狸と、厩橋城とどういう関係があったのか、それについて何も知ることができない。だが、これは上州長脇差の本領を現わして、厩橋城内に棲んでいる狸の運命危うしと見て、茶釜狸が、おっとり刀で飛びつけた義侠心であるかも知れぬ。

  九

 ある年の冬、厩橋城下に失火があった。折柄、上州名物の空っ風が吹きすさんで、火は八方にひろがった。町の人々は、必死となって防火に努めたけれど、手がつけられない。傷者、死者まで出る始末で、今はもう手をこまねいて厩橋城下の全滅を傍観するよりほかに、手の施しようのない仕儀となった。
 これを、霊感で知って驚いたのは、茂林寺の茶釜狸である。
 元来、茂林寺の狸は、今の上越線の線路から一里程離れた榛名山麓湯の上村付近の出身であるとされているのであるけれど、厩橋城下の人々は、厩橋城内出身であると信じている。城の隅の穴に年古く棲んでいた狸が、神通力に功を積み、ついに茂林寺へと罷り越して、茶釜に化けたのであるという。
 それが、わが故郷の厩橋城下に大火が起こったと知ったから、胆を潰したのである。
 産湯を使った地を、焦土と化してはいけない。一番、大いに奮闘して消し止めてやろう。
 忽ち、一隊の火消組に化けた。まといを威勢よくかついで、館林の町をはじめ、近所近在の消防組を狩り集め、十数里の路を、一瞬の間に厩橋城下へ駆けつけた。
 多数の消防隊は、燃え盛る猛火のなかへ飛び込んで、縦横無尽に活動したから、かかる大火もついに消し止められたのである。
 鎮火して、夜が明けた。ところで、家や土蔵が崩れ落ちて、柱や商品のぶすぶすくすぶる白い煙のかげに、この地方では見かけぬ消防夫が、あっちこっちにも立っている。でも城下の人々はこの消防夫たちに厚く礼を述べて労を謝し、さて皆さまはどちらの消防隊でございましょうと尋ねると、わたしらは館林近在のものでございます。と答える。
 厩橋の人は、たまげた。十数里も、よくまあ飛びつけてくれたものであると、盛んに感激の言葉を発したのである。ところが、今度は消防隊の方から、一体この火事場は、どこでございましょうという質問である。
 この質問に、また人々は眼を白黒したのであるが、ここは厩橋城下でありますと答えると、消防隊は、魔ものにつままれでもしたような顔をして、ほんとですか、館林からここまで駆けつけるのに、ものの半刻とかからなかったのだ、が変だなあ――。





底本:「『たぬき汁』以後」つり人ノベルズ、つり人社
   1993(平成5)年8月20日第1刷発行
※<>で示された編集部注は除きました。
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2006年12月2日作成
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