採峰徘菌愚

佐藤垢石




     一

 篠秋痘鳴と山田論愚の二人が南支方向へ行くことになった。そこで私は、伊東斜酣と石毛大妖の二人を集めて、何か送別の催しをやろうではないか、という相談をはじめたのである。
 なかなか、名案が出てこない。ことあるたびに、酒ばかり飲みたがるのは時節柄大いに慎まなければならないし、釣りにはこの前の日曜日に、上総の国竹岡へ遠征したばかりだ。何かほかに面白い考えはないか、というので銘々想を練った。ところがややあって、斜酣があるあると言って膝を打つのだ。
 採蜂ハイキングがよかろう、と言う。採蜂ハイキングというのは一体どんなことをやるのかと問うて斜酣が説明するところを聞くと、一見は百聞に勝るというから、細かなことは現地において実演してみせるが、要するに蜂の子を採って、それを酒の肴にすることだ。
 また、酒か?
 いや、酒はつけたりであるが、蜂の子のおいしいことは、
  本草綱目に、
頭足未成者油炒食之
 とある通り、日本人から支那人に至るまで誰も知らぬ者はあるまい。僕の郷里信州諏訪地方では昔から、秋の佳饌かせんとしてこれの右に出ずるはないとしている。だから、近年では地蜂の種をほとんど採り尽くしてしまって僕の子供のときのように、たびたびご馳走になれないことになったが、近年蜂の子の佳味が次第に人々の理解をうけて需要が増したから、地蜂の桃源郷といわれた浅間山麓へ、蜂の子の缶詰会社ができた。
 だが、缶詰製造がはげしいので、浅間山麓の地蜂も悉く退治されてしまい、さきごろ缶詰会社は野州の那須ヶ原へ引っ越してしまったという話だ。
 本草綱目には頭足まだ成らざる者を油で炒って食うとあるが、ほんとうにおいしいのは、既に肢翅成って巣蓋そうがいを破り、まさに天宙に向かって飛翔の動作に移らんとするまで育ったのが至味というのである。それを生きているまま食うのが、本筋の蜂の子通だ。肢翅なればお尻の針も、充分に人を刺すだけの力が備わっている。だからそれを、生きているまま口へ放り込んだ瞬間、針で舌縁を刺されるか、その前に逸早く奥歯で噛み殺すか、というスリルも共に味わうので、稚鮎を梅酢に泳がせ、梅酢を含んだところを生きているまま食うなど、この比ではない。
 それは、甚だ物騒なご馳走だね。
 しかし、僕は決して針の生えた生きている蜂をそのまま口へ放り込めとは言わん。やはり、頭足いまだならざる幼いそしてやわらかい子の方が、初心者に歓迎されるのだから、いよいよ蜂の巣を採って来たならば、諸君は自分の好きな方を食うがよかろう。
 蜂の子を一匹ずつ巣から、ピンセットで引っ張り出し、それをそのまま味醂、醤油、砂糖でからからに煮てもよし、塩にまぶして焙烙ほうろくで炒ってもいい。油でいためればさらによく、蜂の子めしに至っては珍中の珍だ。
 とは言え、さきほど申す通り、塩をふって生きているままを食うのに越したことはないのである。そこでまあ、食味のことは巣を採ってから、お互いに賞翫しょうがんすることにして、食うことよりも巣を発見するまでが面白い。山野を跋渉しなければならないから健康的で、まず新スポーツとでも言えるだろう。厚生省が高唱している体位向上の主旨にもかなうわけだ。
 まあ、だまされたと思ってついてき給え、明夜は蜂の子で送別の乾杯だ。

     二

 昨年の十月下旬の某日、私と痘鳴と、大妖と論愚の四人は斜酣のあとへ從った。目ざすところは、武蔵野の大泉方面の叢林そうりんである。
 斜酣を先導として武蔵野鉄道の大泉駅へ下車して村を抜け、野路を越えて畑のなかへ出た。折りから漸く秋深く、楢と椚の林は趣をかえて紅葉の彩に美しい。芒の穂も茅の穂ももう枯れた。
 五、六十間さきへ行った斜酣は、畑の中で何か踏んづけた模様である。踏んづけたものを、斜酣は右の手でつまみあげた。蛇だ蛇だ。蛇は鎌首に楕円の波を打たせて持ちあげるが、なかなか斜酣の手まで鎌首が到達しない。私らは、何の目的があって蛇を捕えたのだろう、と考えて斜酣のそばへ駈けつけた。
 すると斜酣は蛇の首を靴のかかとで踏み砕いておいて、直ぐ蛇の皮を剥いでしまった。砥石といしの粉色の斑点を全身に艶々と飾っていた山かがしは、俄に桃色の半透明な肉の棒と化してしまったのである。
 斜酣、貴公は鮮やかな腕前を持っているの。私らは驚いて斜酣の器用な手先を見ている。
 彼は徐ろにポケットから洋刀を取り出し、件の肉の棒を骨ぐるみ、輪切りに五つ切りばかりに切り離した。そして、その蛇の輪切りを二尺ばかりの細い篠の棒にさして、私ら銘々に持たせたのである。そこで斜酣が説明するに、一体地蜂の親を誘惑するには生きている動物の肉でなければいけないのだが、就中なかんずく赤蛙の活肉が歓迎される。だが、蛙はもう土の底へ潜ってしまったものか、きょうは見つからない。やむを得ず代用品として、山かがしをとっちめた訳だ。
 これからいよいよ、地蜂の巣を捜しに行く段取りとなるのだけれど、ここで一応諸君に承知していて貰いたいことがある。そもそも地蜂の巣を捜すにはまず親蜂の散歩しているところを発見しなければならない。親蜂は、巣にいる子供に餌を運ぶため朝から晩まで、終日野や林のなかをけめぐっている。蜂は蟻のように団体行動をとらないで、どんなおいしい餌を発見しても単身で働いているものだ。地蜂の親は甚だ小型でからだ全体が青灰色を呈し、腹から尻にかけラグビーの襯衣はだぎのような横縞がある。だから、縞蜂とも言っている。穴蜂ともいう。
 その地蜂を見つけたら、棒にさした蛇の肉を蜂の前へ差し出すと、蜂は直ぐ肉につかまって、あの鋭い歯で稗粒ひえつぶほどの大きさに肉を噛みとり、それを自分の巣へ運んで行く。そしてそれを子供達に与えると、直ぐまた蛇の肉のところへ帰ってくる。
 さて、それから僕の秘訣公開ということになるのだが、親蜂を見つけることが先決問題だから諸君大いに油断は禁物ですぞ。
 話が分かったら、繰り出すことにしよう。

     三

 指導者斜酣が目星をつけたところは、大泉から十町ばかり北へ離れた丘の上の楢林である。そこは、何とか女学院の新築敷地と大きな門に標札が立っていたが、コンクリートの塀で固めた敷地の中は近く新築に着手する風もなく楢林と枯芒で満ちている。しかも数千坪というほど広い。
 私らはひらりと高い塀を乗り越えた。斜酣の指図に従い、思い思いに親蜂を捜す段となったのである。楢の皮に樹膠が出ていて、そこでブーンという羽音を聞いたから忍びよって見ると、それは蜜蜂に似た虻であった。
 いたいた、という声を耳にしたので走っていって見ると論愚が、栗の木で一匹の蜂を蛇の肉にとまらせている。蜂はまさしく、ラグビー模様のシャツを着ている。斜酣は、これを正銘の地蜂なりと鑑定したのである。
 五人は、一心に蜂の行動を凝視した。地蜂の親は僅かの時間で、蛇肉の一塊を噛み取って林を縫って南の方へ飛び走った。すると斜酣は、蜂が舞い立った途端に懐中時計を出して時計の針と蛇の肉を無言のままで見くらべているのだ。
 間もなく、蜂は帰って来た。すると斜酣は、二分――巣は近いと叫んだのである。ついで私らを自分の前へ整列させ、学校の先生のような表情でいうに、蜂は巣が近ければ三十秒、一分間位で餌のところへ飛び帰ってくる。少し遠くなると二分、三分、五分、十分もかかる奴は遠いところに巣を持っているので問題にならない。そこで、こうして時計で巣の距離を測定するのだが、五分以上かかる奴だったら、別の親蜂を捜す方がいい。
 なるほど、ひどく科学的だね。
 そこで斜酣は、ポケットから真綿を引っ張り出した。その真綿を少しつまんで引き抜き、一方を細く撚り、一方を小指の先ほどの大きさに、フワフワとふくらませた。そして、蛇の肉を稗粒ほどに小さく爪の先で抓みとって、真綿の細く撚った方でそれを縛った。その縛った肉を人差し指に載せ、飛び帰ってきた蜂の前へ出すと、蜂は蛇の肉を噛み切る労力を惜しむものと見えて指の上の小粒の蛇へ食いついた。
 食いついて、しばらく指の上に徘徊していたが翅に力をいれて、宙に飛び立ったのである。諸君、いよいよ蜂が飛び立った。蜂がくわえた肉に、真綿の白い玉がついているのを見ただろう。あれを目標に蜂の飛び行く跡を追いかけるのだ。蜂は、真綿と共に巣の入口まで行くから、そこで蜂の巣発見という目的に達する訳だ。それ諸君、真綿の飛び行く先を見失うな、それそれ。斜酣の眼の色は、変わってきた。
 けれど、この場所は樹の枝が錯綜しているのと、少し風があるので真綿をくわえては蜂はうまく飛べない。直ぐ木の枝に引っ掛かってしまう。引っ掛かると蜂は、その肉を諦めて棒の先にある大きな蛇の肉のところへ帰ってくる。斜酣は数回真綿の目標を噛ませて親蜂を飛ばせたけれど巣は甚だ近いと思うがこの樹と風では、理想通りに飛んでくれない。残念だけれど、新規の場所へ移転する、という命令を出したのである。
 私らは、片手に棒にさした蛇の肉、片手に弁当をさげて、何とか学校敷地の高い塀を再び乗り越して外へ出た。

     四

 野道へ出た。そこは少し小高くなっていて、前の方に大根畑が展開している。三町ばかり遠くに紅葉の平林があって、その横に芒野が続いている。
 ここは、障害物がなくて理想的だ、と斜酣はいうのである。五人は、また親蜂の捜索に手分けをした。こんどは路傍のはしばみの木の枝で、大妖が親蜂を発見した。例によって時計を出して計ってみると、六分ばかり掛かって帰ってきた。少し遠いが、一番やってみることにしようということになって、斜酣は蜂に真綿で結えた蛇の肉をくわえさせたのだ。
 この蜂は、ひどく力が強い。真綿をくわえあげて巣の方角を定めるため、二、三回宙を回ったが、見当がきまると東南の方へ一直線にけ出した。
 それっ!という斜酣の下知げじだ。重い真綿をくわえているのだが、蜂は随分速い。五人は白い真綿の玉を追って大根畑と小麦畑の畔を夢中になって走った。走った走った。けれど、芒原のところまで走るといつの間にか、真綿をくわえた蜂は何処どこへ行ったか姿を沒してしまったのである。
 これはいかん――だが巣のある方角は分かったのだから、こんどはリレー式で追跡しようということになった。畔道に三十間ばかりずつ間隔を置いて、勢子せこの四人は立ったのである。そこで、また帰ってきた親蜂に斜酣は真綿をくわえさせた。
 一番に立った私から二番の論愚へ、そこへ行った行った、と呼ぶのだ。二番から三番の大妖へ蜂を受け渡し、最後の痘鳴が眼を皿のようにして空に飛ぶ小さな一塊の真綿を迎えるのだ。そして見送って、蜂が何処へ飛び込んだか見定めるのだ。
 痘鳴は、とうとう蜂の飛び込んだ芒原を突きとめた。あったあった、と狂喜の叫びをあげる。一同、そこへ走りよって見ると、芒原が日向ひなたに面して緩く傾斜になっているところに、蜂の穴があった。その穴を出入りする幾百匹とも知れない親蜂の数を見て斜酣は、これはなかなかの大物に違いない。迂闊うかつには、手は出せない、と言って腕組みするのである。
 ややあって驚いたことに斜酣は、上着を脱ぎワイシャツを取り、ズボンから股引まで脱いでズロース一つの丸裸になってしまった。そして、上着のポケットから一つの紙包みを出したのである。これは、昨夜こしらえて置いた火薬だ。硫黄、硝石、桐炭。これを細く砕いて調合すると、火薬ができる。この火薬を蜂の口で燃やして、その煙を穴の中深く吹き込めば、いるだけの蜂が悉く眼をまわす。だが、その眼をまわす時間はほんの五、六分だから、電光石火の速力で穴の奥から巣を掘り出さなければならない。
 でないと、蜂が眼をさましてめったやたらに人間を襲撃して刺しまわる。つまり蜂の巣を壊したようだというたとえ通りの大混乱に陥る。そうなれば、いかに人間であっても、多少の被害を覚悟せにゃならない。ここまで斜酣は演説してくると、いよいよ覚悟をきめたらしい。穴の口でぱっと火薬に火をつけると、お尻を宙に立て口先を水道の口のように細めて、煙を穴の奥へ吹き込んだ。斜酣は阿修羅あしゅらのような活動振りである。熊手にも似た大きな両手を、穴の入口の土に突っ込んだかと思うと、掘り立て掘り立て、土をはねながら全力をあげて掘って行く。
 あったあった! 狂乱の喜びだ。

     五

 私らが、穴から二間ばかり離れて見物している前へ、彼がげ出した地蜂の巣は、直径二尺ほどもあろうと思うものが五つ重ねもあった。ぱちぱちぱち、私らは拍手喝采した。
 怪我はないか! 怪我はない、一つも刺されなかった。それで諸君、その巣を早く風呂敷へ包んでくれ給え――蜂どもが眼をさまさないうちに何処か遠くへ逃げなければならない。愚図々々していると、蜂群の大襲撃を受ける恐れがある。逃げろ逃げろ、という騒動だ。
 よし分かった。大男の論愚は直ぐ上衣を脱いで巣をこれに包み、大根畑の方へ走り出した。続いて斜酣が上着、シャツ、ズボン、股引を抱えて真っ裸で、畔道を駈けはじめたのである。
 びっくりしたのは、近くの畑に仕事をしているお百姓さんたちである。さきほどから大の男が四、五人、しかもそのうちには白に髭をはやしたのもいる。それが、どれもこれも天の一角をにらめ、何か気狂いのような叫びをあげながら畑の中を走っている。そして、最後には芒原のなかで、叫喚の声をあげていたと見るうち、上着を脱いで駈け出したの、猿股さるまた一つで飛び出したの、それに続いて異様の風体のものが、枯芒のなかからよろめき出した。
 不思議、奇っ怪に思うのがほんとうなのである。たちまち十人あまりのお百姓さんが何だ何だと言って私達のそばへかけつけた。私は歳上であるから一同に代わって爽やかに説明を試みた。
 何だそんなことか、俺は博突ばくちうちが手入れに遭ったのかと思った、つまらねえ、と愚痴たらたら己が畑へ鍬をかついで帰って行くのもある。蜂の子は、うまかんべと言って愛想を言ってくれるのもある。
 それはとにかくとして、何としてもきょうは大成功である。斜酣の得意思うべしだ。丘の上の路で仕度をして、帰途についた。電車のなかでも斜酣の話は、縷々るるとして尽きない。きょうは諸君を初めての案内であったから、終日野山をかけめぐって只一つの巣を見つけただけであるけれど、調子がいいと一日に三つや四つ採るのはむずかしくない。
 武蔵野方面も蜂の巣は少ないことはないのだが、地勢の関係上、大した期待は持てないのである。一番見込みの多いのが東京付近では、千葉県の小高い丘や野原がいいと思う、鴻之台は先年やってみて随分成績をあげた。しかしそれよりも、船橋から東京の京成電車の沿線にひろがっている林や芒原は、いまだ全く手がついていないから、いわば処女地だ。そこには必ず蜂の巣が、又か又かというほどあるだろう。
 さらに、かつて鬼熊が出た方面の叢林そうりんへ行けば、ただ路傍を歩いていても発見できるに違いない。埼玉県も浦和から大宮の間の林には相当いる。だが、それよりも信越線の桶川、吹上方面の方が有望だ。また、池上本門寺付近も市街に近いが見のがせない場所だ。
 何れにしても、その採蜂ハイキングというのは、一日を何も忘れて山、野、林、畑のなかを駆けまわり、へとへとになって我が家へ帰ってくるところが、甚だ健康的なスポーツであって費用もかからず、勝負という邪念も伴わず、おまけにお土産もあってそれが素敵に営養的だから、釣りとほとんど同じ遊びである。誰に勧めても苦情はこまいと思う。
 以上が、斜酣の採蜂スポーツに対する結論だ。
 きょう採った蜂の巣を、斜酣の家へ提げ込んだ。五人がかりで蜂窩ほうかから子供を引っ張り出して見ると、それが二升ばかりもあったのである。油炒りに、蜂の子飯。味は河豚の白子の味のようでもあるし、からすみにも似ている。動物の卵巣が持つ共通の淡味を舌に残して、酒が甚だおいしい。小杯を傾けて論愚、痘鳴を南支へ送った。
(一四・一〇・五)





底本:「完本 たぬき汁」つり人ノベルズ、つり人社
   1993(平成5)年2月10日第1刷発行
底本の親本:「随筆たぬき汁」白鴎社
   1953(昭和28)年10月発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年4月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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