佐藤垢石




   一

 南紀の熊野川で、はじめて鮎の友釣りを試みたのは、昭和十五年の六月初旬であった。そのときは、死んだ釣友の佐藤惣之助と老俳優の上山草人と行を共にしたのである。
 私らは、那智山に詣でた。那智の滝の上の東側の丸い山を掩う新緑は、眼ざめるばかり鮮やかであった。黄、淡緑、薄茶、金茶、青、薄紺など、さまざまのいろどりに芽を吹いた老木が香り合って、真昼の陽光に照り栄えていたのである。若芽と若葉の放つ、生きた色彩の輝きは人間が作った絵の具の趣にはない。つまり如何いかに豊かな腕を持つ画人であっても、新緑がいろどる活きた弾力は、到底描き得まいと思う。
 とろ八丁の両岸の崖に、初夏の微風を喜びあふれる北山川の若葉も、我が眼に沁み入るばかりの彩であった。それが、鏡のように澄んで静かに明るい淵の面に、ひらひらと揺れながら映り動いていた。
 木津呂あたりを流れる北山川[#「北山川」は底本では「来た山川」]の瀬には、激しいながら高い気品があって、プロペラ船の窓からこれを見て私は、この早瀬の底には、さだめし立派な鮎が棲んでいるのであろうと想像したのである。底石は石理せきりある水成岩の転積である。流水は、水晶のように清冽である。右岸の崖にも、左岸の河原にも、峡谷とはいえ、人に険しく迫らぬ風情が、川瀬の気品に現われてくるのであるかも知れぬ。
 私は旅先を急ぐ釣友と別れ、旅館の都合で十津川と北山川と合流して熊野川となる川相から一里下流の、日足へ足をとどめたのである。ここらあたりの風景もひろびろとして快い。
 日足の宿の二階から、熊野川の広い河原が眼の下にある。私は、ここで四、五日の間、心ゆくばかり鮎の友釣りを楽しんだ。六月はじめの解禁早々ではあるけれど、大きな姿の鮎がまことに数多く釣れたのである。
 その年の八月下旬、再びこの[#「再びこの」は底本では「再びのこの」]熊野川の日足を訪れた。

   二

 実は、伜の暑中休暇を利用して、彼に熊野川の大きな鮎を釣らせたいと思ったからである。八月二日の朝、東京を出発した。
 同行者は日本評論社の社長鈴木利貞氏と私と伜の三人である。まず、東海道の金谷駅で支線に乗り替え、家山町を志した。大井川の中流で友釣りを試みるつもりであったのだ。
 ところが、大井川の上流地方、つまり赤石山脈の南面に連日大雷雨が続いたため山崩れが起こり、川は灰白色に濁って釣りの条件がよろしくない。それでも、せっかくここまで訪ねてきたのであるからというので、三人は流れへ竿をかつぎだした。しかし、予想したとおり釣れぬ。三人合わせて僅かに十二、三尾を釣ったのみで、二時間ばかり遊んだ末、宿へ引きあげた。
 鈴木氏が旅の慰めに、上等のウイスキーを一本携えて行った。夕食のとき、二人で差し向かいにその栓を抜くと、そのとき宿の若い亭主が訪ねてきて四方山よもやまばなしをはじめ、あまりお世辞のよい男なのに、一杯さすと彼はこのウイスキーの質を賞めながら盛んにのむ。
 私らは、亭主の口前に釣り込まれて、また一杯また一杯とさしてやると、気がついたときには、四合瓶の大部分を彼にのまれてしまっているのである。彼は私らの室を上機嫌になって辞し去るとき、後刻上等の日本酒を届けると約束したが、待てども待てども彼は約束を実行しなかった。
 翌朝、金谷駅へ引き返し、そこで鈴木氏は別れて東京へ帰った。私と伜の二人は、京都へ向かった。賀茂川の上流の、放流鮎を釣ってみたいと思ったからである。上賀茂にある姪夫妻の家へ足をとどめ、そこから一里半ばかり上流の賀茂川の峡を探ったが、その年は放流鮎僅かに二万尾、既に釣り尽くしたあとで、土地の若い者が一人。小さい瀬の落ち込みで、引っ掛けの立て引きをやっているのを見たばかりである。
 その男が、こうしてやっていれば、釣り残りが一尾や二尾掛かってくるかも知れないと思って、今朝から三時間辛抱していたけれど、今もって一尾も当たりを見ない。多分この川へ放流した全部の鮎が鈎に掛かってしまったのであろうというのである。そして、その男は私と共に河原の石に腰をおろして一服つけながら、数日前吉野の五条から熊野街道を南へくだり本宮の近くまで下って、十津川で釣ったところ、素晴らしく数多く釣れた。友釣りではなく、毛鈎の沈み釣りを試みたのであるが、形が甚だ大きかったという。
 姪の家へ二、三日滞在したのち、私らは暑い日の午後、京都を立って神戸へ着いた。四国の土佐に釣友である探偵小説家の森下雨村を訪ねることにしたのである。神戸から夜の船に乗り、室戸岬の鼻を船がまわる頃は、もう太陽が太平洋の波の上へ昇っていた。私は、明治四十五年の初冬、悲しい運命の旅にこの船路を選び、同じ景色を同じ朝の時間に、この船の窓から眺めたが、陸の彩も海の色も、眼に映るいろいろが、心と共に暗かった。
 しかし今度は、既に中等学校の上級生になった伜を伴った楽しい旅である。見るもの、感ずるもの、ことごとくが明るい。船の窓から見る名勝室戸岬の風景も、三十数年前の昔とは、まるで趣が異なる。殊に立秋後の澄んだ明るい空気を透して、朝靄が岬の波打ち際に白く、またそして淡紅に輝き、南へ南へと続く漁村と松原が、あしたの薄い靄にぬくもっているではないか。
 海雀の群れが、波間に隠見する。かもめが舞う。岬の突端を彩る深緑の樹林は、山稜を伝って次第に高く行くにつれ、果ては黒く山の地肌を染めて、最後には峰の雲に溶け込んでいる。遠い山腹に、金色に輝く一点がある。その一点から発する光線は、稲妻に似て強くまぶしく眼を射るのである。あれは、山村の物持ちの家の縁側の硝子障子に、朝陽が反射するのであろうか。
 なんと静かな、親しみ深い風景であろう。南国の眺めは、旅心に清麗せいれいの情を添えてくれるのである。

   三

 ひるすこしまわった頃、汲江の奥の高知の港へ着いた。森下雨村は、数日来坐骨神経痛に悩まされ、臥床しているというので、美しい森下夫人が可愛い十歳ばかりになる坊やと共に、私ら親子を波止場まで迎えにきてくれた。
 雨村の邸は、高知から西方六里の佐川町にある。そこから、わざわざ夫の代わり、親の代わりとして私らを迎えてくれたのである。波止場の改札口に、佐藤垢石様と書いた半紙を、二尺ばかりの棒に吊るして、十歳ばかりになる少年が、あまたの旅人を品定めしているのを私らは行列の後ろの方からながめた。
 雨村の病気は、予想したよりも早く快方に赴いた。佐川町から六、七里離れた仁淀川の中流にある謙井田の集落へ、雨村と私と伜と三人で、竿をかついで行ったのである。ここは、仁淀川の中流というけれど、左右から高い山と険しい崖が迫った峡谷である。流水には、家ほども大きい岩があちこちに点在して、水は激しては崩れ、崩れては泡となり、奔湍はんたんに続く奔湍が、川の姿を現わしている。
 川底の玉石はなめらかに、水は清く、流れ速い。そして、ところどころの崖かげには、泡寄りを浮かべて緩やかに渦巻く碧い淵が、清くよどんでいる。この仁淀川は、鮎が大きく育ち、数多く棲むのに絶好の条件を備えていると思う。
 謙井田で、三人は五、六日釣り耽った。はじめて仁淀川を見たときに、立派な流相を持っていると感じた通り、この川には大きな鮎が数多くいた。三人は来る日も来る日も、我れを忘れて水際を歩きまわった。
 ここの宿は、旅館を営業しているのではないが、毎年夏になると遠くからくる釣り人を泊めるのを慣わしとしていた。雨村は、この宿と古いなじみである。宿を去る朝、雨村は勘定してくれといった。すると、宿の主人の六十五、六歳になる律気なばあさんが一日一人四十銭ずつでよろしいと答える。もちろん、朝夕二食に昼の弁当つき、布団ふとんつき間代まで含んでいるのだ。
 婆さんの答えをきいて、雨村は当然であるといったような顔をしている。私は、婆さんと雨村の二人の顔を見くらべて、心の中に驚いたのである。
 昭和十五年といえばもう支那事変が起こってから五年目になる。世の中には、そろそろ統制経済だとか、公定相場だとかという言葉をきくようになり、都会では生活物資が次第に少なくなり、物の値いが高くなっていくのに驚いているときである。であるのに、ここの宿料はどうしたことか。
 たとえ、老婆は古い顔知りの雨村のために、特に旅籠はたご料を安くして置くとかいう含みが言葉にもなく、表情にもない。また雨村は、平然としてこれを感謝している風もない。

   四

 私は、今から十五、六年前、裏飛騨の吉城郡坂上村巣の内へ、鮎釣りの旅に赴いたことがある。この村の地先は、越中国を流れる神通川の上流である宮川の奔湍はんたんが、南から北へ向かって走っていて、昔から一尺に余る大きな鮎を産するので有名である。
 その頃は、まだ富山から高山へ汽車が全通していないので、巣の内は軌道敷地の工事最中であった。ここの宿では、大きな鍋をにかけて鍋めしを炊いていた。
 ある朝、私は宿の主人に試みに旅籠はたご料はいかほどであるかと問うたのである。ところが、主人は恐縮した顔で、なにかお気に召さぬことでもあったのでしょうか。旅籠料は一泊三食金四十銭でありますけれど、それでお高いと思し召すなれば、もっと安値にして置いても結構でありますと答えるのである。それをきいて、私の方では恐縮してしまった。
 いやそんなわけではない。四十銭ではあまりに安値すぎる。そこで、朝夕もう一、二品ご馳走を添えることにして、もっと充分な値段らしい値段を請求するようにして貰いたいというと、主人は承知いたしましたと答えるのである。
 期待の通り、その夜から小皿や汁物などが前夜までより一、二品ずつ多い。朝も生玉子などが添えてある。おいしい。
 二、三日すぎてから私は、宿の主人を呼んで、今度は旅籠料をなんぼ値上げしたかと問うてみた。すると主人は、またも恐縮らしい顔をして、この辺にはこんな高い値段はないのですが、一泊三食四十五銭いただくことにいたしました。はやどうも、お気の毒さまにございますという。
 それから七、八年過ぎて、再びこの謙井田で金四十銭の旅籠料にめぐり会った。
 君、婆さんに充分な心づけをやらないと、四十銭の旅籠料では、まことに相すまんような気持ちがするね。せめて、一人当たり一円くらいの勘定で払って置こうじゃないか。
 私は、婆さんが帳場の方へ受取を書きに去ったあとで、雨村に囁いた。
 よし分かった。だが、それは僕の手加減に任せて置いてくれ。
 雨村はもう、万事承知しているかのようである。
 生の鮎は、佐川町まで持って帰れない。そこで毎日釣った鮎は、塩焼きに焼き大皿に山盛りに盛り上げて、毎夕三人で腹一杯食べた。食べきれないところは、乾物をこしらえ、塩漬けにした。それを風呂敷に包み、荷物に作ってから、雨村は旅籠料を支払った。
 私らは婆さんに、長らく厄介になった挨拶を厚く述べた。ところが婆さんは私らに比べて何倍かの丁寧さで、過分の心づけを頂戴し冥加至極でありますという意味を、繰り返し唱えて、頭を下げるのだ。
 表の路へ出て、山端の角を曲がってから、私は雨村に、婆さんはひどく喜んだらしいが、いったいいかほど心づけを置いたものかね。と問うたのである。雨村はこれに答えて大したことはない。一泊三食四十銭というから、十銭だけ増してやって、一人当たり五十銭宛の勘定にして支払ってやったのさ。
 私は、また驚いたのである。
 君、そんなに驚かんでもよろしいのだよ。君ら東京人の気持ちからすれば、あまり安いのに感激して一泊一円も二円も払いたいところであろうが、それはかえって無意味なことになる。結果がよくない。いったい、ここらあたり僻地では、茶代というものは一人一泊で五銭か十銭にきまっているものだ。それだけで、貰う方は客の行為に対して充分に満足している。であるのに、旅籠料の三倍も四倍もの心づけを置くのは、無計算ということになる。相手の気持ちの寒暖計は、十銭だけで目盛りの頂点に達しているから、それ以上いかに多くの心づけを置いたところで、目盛りが上がるわけがない。かえって、この客は銭勘定を知らぬ人間、銭を粗末にする人間であるとして、卑下の気持ちを起こさせるだけだ。良薬にも過量があるから、効くからといって、無闇むやみに量を多くのんだところで、かえって害になる。なにも、いて多くの金を払って、相手の気持ちを不純にせんでもよかろうじゃないか。
 雨村は、夏のに真っ黒にやけた顔の眼、口、鼻のあたり、筋肉を揺すって高く笑った。
 そんなものかなあ、雨村の説明するところをきいて、無上に感服したのである。

   五

 その後、森下邸に八月中旬過ぎまで滞在して、あちこちの川や海を釣り歩き、再び京都へ戻って、南紀州の熊野川行を志した。この行には、姪夫妻も加わった。八月上旬に紀勢線が紀州東端の矢の川峠の入口の木の本まで通じたので、六月の旅のときとは違い、楽々と大阪天王寺から一路車中の人となることができた。途中で、勝浦の越の湯に一泊し、翌朝姪夫妻は新宮からプロペラ船に乗って瀞へ行き、私ら親子は新宮の駅前からバスに乗り、五里奥の日足の村へ向かった。
 日足の宿では一泊一円五十銭、随分と多くご馳走がある。毎夕おしきせに、麦酒が二本。これは勿論もちろん旅籠料のほかだが、今の相場から見れば、ただに等しい。
 この村の前の熊野川には、上流にも下流にも連続して立派な釣り場がある。鮎の大きさは七、八寸、一尾二十匁から三十五、六匁ほどに、丸々と肥っているのである。
 まことに盛んに、私の竿にも伜の竿にも、大きな鮎が掛かった。
 熊野川の鮎は、日足から上流一里の河相まで遡ってくると、左へ志すのは十津川へ、右へ行くのは北山川へ別れてしまうのであるが、十津川筋へ入った鮎は残念ながら風味に乏しいのである。この川の岩質は、鮎の質を立派に育てない。それは、火山岩か火成岩が川敷に押しひろがっているからである。火成岩を基盤とする山々を源とする川の水質は、水成岩の山々を源とする水に比べると、どういうものかその川に育つ鮎は香気が薄い。そして、丸々とは肥えないのである。殊に、脂肪が薄い憾みが多い。
 これは、火成岩や火山岩に発する水には、鮎が常食として好む良質の硅藻けいそう、藍藻、緑藻などが生まれぬためであろうと思う。
 それに引き替え、北山川の水を慕う鮎は、まことに立派な姿と香気とを持っているのである。河相の合流で見れば明らかに区別されるように、十津川の川底の石は灰色に小型で、粗品であるのに、北山川の石は大きく滑らかに、青く白く淡紅に、この川の上流である吉野地方一帯に古成層の岩質が押しひろがっているのに気づくであろう。
 また十津川の鮎の腹には小砂が入っているけれど、北山川の鮎の腹には砂がない。やはりこれも、岩質からくる関係であるかも知れぬ。
 北山川は、木津呂、下瀞、上瀞をへて次第に上流へ遡るほど、鮎の姿も味も香気も立派になるのである。さらに、三重県東牟婁郡七色方面まで遡れば、鮎は七、八十匁の大きさに育ち、七月の盛季には、背や頭の細かい脂肪がほどよく乗って、塩焼きにも、刺身にも天下の絶品のうちに数えられる。

   六

 伜も、ちかごろ友釣りのわざがなかなか巧くなった。熊野川では親に負けないほどの成績をあげたのであった。
 この子に、はじめて友釣りのわざを教えた場所は、常陸国久慈郡西金の地先を流れる久慈川の中流であった。それから、磐城国植田駅から御斎所街道へ西へ入った鮫川の上流へも伴って行った。駿河の富士川へも、遠州の奥の天龍川へも、伊豆の狩野川へも連れて行って腕をみがかせたのである。越後の南北魚沼郡を流れる魚野川へは二、三年続けて引っ張りだして六日町、五日町、浦佐、小出、堀之内あたりで竿の操作を仕込んだ。
 そんなわけであるから、少しは上達するのが当然であろう。
 八月末になって、学校の始業に遅れぬよう伜は親を残して、一足さきに矢の川峠を越えて帰京した。私は、それからもゆるゆると熊野川の水に親しんでいたのである。
 東牟婁郡は三重県であるが、西牟婁郡は和歌山県である。その郡境を熊野川は、西方の深い山々の間から東に向かって流れ、太平洋に注いでいる。和歌山県側の日足の村から対岸の三重県側にある高い丸い山々と、麓に眠る村々の風景は、まことに静かである。殊に、日の出前に、淡い朝霧が山の中腹から西へ流れる趣は、浮世の姿とは思えない。
 新宮へも一泊した。泊まった熊野川の橋の袖鉱泉宿は構えが大きいだけで、まことに不親切であったけれど、新宮の街は道が狭いとはいえ、落ちつきのある親しみ深い空気が流れていた。熊野神社の境内もおごそかである。ここの宮司も、友釣りの大の愛好者で、私の著書の愛読者でもあった。
 朝夕の新涼を、肌に快く感ずる頃、日足の熊野川に別れ、遠州の奥西渡の天龍川を指して新宮から木の本、矢の川峠、尾鷲をへて、伊勢の宮川に添いつつ相可口に出たのである。西渡の天龍川で釣ったのは僅かに半日で、翌日から台風に襲われ、天龍の山鮎の大物に接する機会を得なかったのである。天龍の鮎は上等の質とはいえないけれど、形の大きいのと力の強いのでは、飛騨の宮川と並び称されるであろう。

   七

 娘がいうに、兄さんばかり釣りに伴って私ばかり家に置いていくのは不公平でしょう。と父に苦情を持ち出すのである。
 そこで、私は兄妹を伴い巣離れのふなを狙い、水之趣味社の人々と行を共にして、千葉県と茨城県にまたがる水郷地方へ釣遊を試みたことがある。それは、娘が女学校の一、二年の頃であった。それから、千葉県の手賀沼へも二、三回鮒釣りに連れていった。そして、帰り途に草餅や串カツなども釣った。
 海釣りにも誘ったが、娘は同意しなかった。伜は、伊豆の網代へも、浦賀の隣の鴨居にも下総の竹岡へも鯛釣りに同行した。そして、観音崎と富津の岬の間に漂う東京湾内の静かな海の底から、鮮麗、眼をあざむくばかりに紅い真鯛まだいを釣り上げさせたが、どういうものか伜は海釣りに深い興を起こさぬ。
 やはり、川釣りの方が面白いという。鮎釣り、山女魚やまめ釣り、はや釣りの方に面白味を持つという。寒烈、指の先が落ちさるような正月のある日、茨城県稲藪郡平田の新利根川へ寒鮒釣りに伴ったが、それでも海釣りよりも淡水で、糸と浮木うき揺曳ようえいをながめる方が楽しめるという。
 海は、伜の性に合わぬのかも知れない。
 日ごろ娘は、友釣りを教えてくれとせがんでやまないのである。そこで、昭和十八年の七月、東海道岩淵地先の富士川へ伴って行った。私はこの年の六月中旬、中島伍作氏や宮坂富九氏らと共にやはり岩淵の富士川橋のたもとの宿に滞在して釣っていたのであるが、富士川の上流に豪雨があって濁ったため、一日興津川へ遊びに行った。
 興津川も共に濁ったのではあったけれど、澄み足の早いこの川は、既に笹濁り程度に澄んで、二、三日したら釣れはじまる見込みはついた。しかし試みに竿を下ろしてみようということになり、いずれも小型のやせた鮎を四、五尾ずつ釣った。その帰途、岩淵駅で下車し富士川橋の宿へ帰る道中で、私は大怪我を負った。ちょうど、野間清治の別邸の前である。私は夕闇の東海道を西から東へ歩いて行くと、暗の中から自転車が恐ろしい速力で走ってきて私に衝突した。私は路上へ突き倒されると、横になった私の体躯の上へ、人間が乗ったまま自転車が、もろに倒れ覆うたのである。
 倒れると同時に、身体全体に痛みを感じたが、起き上がろうとすると右足が自由にならない。夕暗をすかしてみると、すねの正面の稜骨りょうこつの右側の間に、嬰児ようじの口よりも、もっと大きな口が開いている。自転車のどこかに付いている金の棒が、やわらかい肉に突きささり、そして掻き割いたらしい。

   八

 すぐ東京へ帰って医者の治療を受けた。医者は、全治するまで絶対に水に入ってはならぬという。
 十日ばかり、東京に辛抱していたけれど、辛抱がならぬ。鮎の姿が、ちらちら眼の前を泳ぎまわって、追っても払っても、敏捷な姿を現わす。
 娘を、看護婦代わりにして、医者から貰った膏薬こうやくや繃帯を携えて、びっこひきひき富士川へ引き返したのである。全治するまで絶対に水へ入ってはならぬ。と、いった医者の言葉は、私の釣り修業にとって求めても得られぬ天恵の戒律かいりつであると思った。
 若いときから長い間、私は足を水にけねば友釣りをたんのうしたような気持ちになれないできた。つまり、川の水に足をひたしながら釣ることが、友釣りの欠くべからざる条件ででもあるかのように、無意識に私をそうさせてきた。永い年月の習慣が、私の気持ちを支配してきたのである。
 しかし、それではまだ一人前の友釣りには達しておらぬのだ。絶対に足を濡らしてはならぬというそんな偏した規律はないけれど、水に足を濡らさないで釣れる場所でもあったならば、ことさらに流れに足を入れぬでもよかろう。また一歩足を水に入れねば思う壺へ竿先が達し得ぬというのを知りながら足を濡らしてはならぬという掟にとらわれて、無理に丘の石の上に立つのもおかしいものだ。無理のない釣り姿、これが釣りの極意であろう。
 ところが、私の友釣りは流れに立ち込まねば気がすまぬ。その場合における必要、不必要などから離れて私は釣り場へ行くと、流れに立ち込む癖がある。それは、はしたなき釣り癖であることを、よく私は反省している。だが、水に向かうと、我れを忘れて水に浸るのである。私は、幾年この悪癖と闘ってきたか知れない。しかし、今もってその癖を正しきに導き得ぬ。
 全治するまで絶対に、傷を水に濡らしてはならぬ。この戒めを得たのは、もっけの[#「もっけの」は底本では「もつけの」]幸いである。自分の心で、自分の悪癖を正していけないとすれば、他から与えられた動きのとれぬ条件を用いて、目的を達したらよかろう。ようし、我が輩はこの足の傷が全治するまでの間に、不必要な場合の水浸りの癖を正してみようと考えたのである。
 好きな道楽には、医者の戒めを利用か悪用かして、理屈をつけ、自分の田に水を引き、老婆が引き止めるのも顧みないで、娘を供に痛む足を引きながら、またまた富士川へ繰りだしたのであった。
 そもそも、私は上州の利根川の上流の激流の畔に育った。利根川は水量が豊かに、勾配が急に、川底に点在する石が大きく、名にし負う天下の急流である。峡谷と淵と河原と、あちこちに交錯して、六間も七間もある長い竿をふるったところで、狙う場所へおとり鮎が達せぬ場所が多いのである。であるから、強力の釣り師は六間以上の長竿、非力の者でも四間半から五間もの竿を握り、なおその上に激流の中へ、胸あたりまで立ち込んで釣る慣わしが、利根の上流にはある。それが、人々の慣習になって、立ち込まぬでもよいのに、水へ浸る癖を人々が持つに至ったのだ。
 私も、その一人であった。

   九

 もっぱら、足を濡らさぬ修練を積むことにした。東海道の汽車の鉄橋のしも手に、浅い瀞場がある。深い場所でも、浅い場所でも、瀞場で鮎を掛けるということは、一応の修業をつまぬとうまくは行かぬものだ。
 私は、この場所の条件についてはよく心得ており、既に二、三回友釣りを試みて成績をあげているのである。そこで、娘とならんで足を濡らさぬように水際に近い石の上から釣ることにした。
 娘は友釣りの竿を持つことはこの日がはじめてである。鮒釣りには数回の心得があるが鮎釣りはこれが入門だ。竿を持たせる前に、友釣りについての心得をさとした。お前は、きょうが入学日だ。鮎の習性や、囮鮎の泳がせ方、竿の長短に対する得失、糸の太さ細さ、おもりの有る無し、囮鮎の強弱、流れの速さ、水の深さ、底石の大小、水垢の乗り塩梅あんばい、水の純度、天候、時間、季節、上流中流下流、他の釣り人が既に釣った後の釣り場であるかどうか、石垢についた鮎の歯跡はみあと、気温、瀞か瀬か、瀬頭か引きの光か、落ち込み、白泡の渦巻、石かげ、ザラ場、岩盤、出水前、出水後、瀬脇の釣り場、流心の釣り場、囮鮎のけ方、風の日、雨の日など数え上げれば際限がないほど数多い。さまざまの条件をよく消化総合して、それを渾然こんぜんとして頭に入れ、理屈にこだわらず、いろいろの場合に対する変化を身につけて鮎と水とに向かわねばならぬのであるけれど、その手ほどきからはじめたのでは、全く釣りにならぬ。
 お前は自分をあやつり人形と心得ておれ。[#「。」は底本では「。、」]そして万事、父の指図の通りに竿を操り、からだを動かせ。そこに私心があってはいけない。つまり、父の教えた方法に自分の工夫をまじえてはならぬのだ。無心でおれ。
 こう語ってから、私は竿と糸、鈎などの支度を整えてやった。女の子に、長竿は禁物である。四間一尺五寸の竿から、元竿二本を抜き去って三間の長さとした。道糸は、竿の長さよりも七、八寸長くした。
 この浅い瀞の釣り場は、私の目測によれば深さ三尺前後であろう。そこで、鼻鐶はなかん上方四尺の点に、白い鳥の羽根で作った目印をつけたのである。
 囮鮎を鼻鐶につけてから、竿を娘の手に持たせ、竿の角度は自分の腰のあたりから空に向かって四十五度と思うところがよろしい。そして、囮鮎から上方四尺のところの道糸に結んだ目印が常に水面一寸の空間にあるように、竿先の位置に注意せねばならぬ。この釣り場は極めて緩い瀞であるから、おもりをつけない。この方法であると、道糸に対する水の抵抗の範囲が極めて短く狭いから、囮鮎の負担は軽いのである。であるから、囮鮎は天然自然のまま、川へ放たれたように川底を自由に泳ぎまわるのである。囮鮎が川底を、あちこち泳ぎまわったならば、自由気ままにさせるがよい。引き止めたり制したりしてはいけない。囮鮎を遊ばせる気持ちで、鮎が行くままに上流へなり、下流へなり自分の身体を移して行ける。
 しかし、その場合、決して目印の位置水上一寸の場所に変化を与えてはならぬのだ。これさえ忘れなければ、囮鮎は自由に活動して、川鮎は必ずこれに挑戦してくる。そして、お前の囮鮎の尻に装置してある鋭利な鈎に、引っ掛かってしまうであろう。

   十

 語り終わって、私は娘にこれでよろしいと言った。娘は私の言葉の通りの姿勢を作り、竿を空に向けて四十五度の角度に立て、目印が水上一寸のあたりにひらひらとするよう、竿の位置を定めると、囮鮎は私が予言したように、いったん沖へ向かってのし、それから上流下流へと縦横に泳ぎまわるのである。
 私は、娘の背後から、道糸の囮鮎の動くままに曳かれて、水上を前後左右に往きつ戻りつする白い目印の微妙な消息に、深い注目を払っていた。すると、娘が竿を水に突き出してから僅かに二、三分をへたとき、目印の揺曳ようえいに異状を認めた。私は、多年の経験によって、瀞場の鮎が囮鮎を追って、ついに掛け鈎にからだのどこかを縫い通されたのを知った。
 どうじゃ、竿を持つ手に、いま何となく感覚の変化を感じないか。
 と、娘に問うたのである。
 そうね。そういえば少し竿先から微妙な変化が伝わってきますね。
 娘は、なお懸命に目印の移動に心をとめているのだ。
 そうだろう。もう鮎が掛かったのだ。竿先を、さらに一尺ばかり上方へあげてご覧。
 竿先が一尺ばかりあがると、果然激しい勢いをもって沖の方へ走りだした。これは、鈎に掛かった鮎が、道糸の緊張に刺戟されて、遁走の行動を開始した表示である。こうなると、もう娘には竿を支えきれない。強く引き戻せば、細い道糸は僅かな、はずみで切れてしまう。やわらかく竿を振れば、竿を持ち去られそうになろう。鮒釣りに数回ほどの経験を持ったのでは、七月の鮎が友釣りの掛け鈎に掛かった場合、到底、その力をあしらいかねるのが当然である。
 娘は腕をふるわせ、顔の筋肉を緊張させ、眼をみはり、口でなにか私に訴えようとするのであるけれど、のどから声が出ない。
 私は、娘の手から竿を取った。そして、静かに竿を立て、おもむろにあしらいつつ、手許へ引き寄せて、掛かった鮎を手網のなかへ吊るし入れた。長さ七寸あまり、三十五匁はあろうと思う。
 瀞場の鮎は、鈎に掛かった瞬間、微少の衝動を目印に感ずるのが、急流の鮎と異なって、鈎に掛かるや否や、男の足でも追いつけないほどの速さで、下流へ[#「下流へ」は底本では「下流で」]走りだしはしない。鈎に掛かった場所から遠方へは走らないで、あたかも鈎の痛さなど知らぬかのように、平然として囮と共に静かに泳いでいるが、ひとたび竿を立てて、道糸に張りをくれると、がばと驚いて騒ぎはじめるものである。そこに、瀞場の友釣りの妙趣を感ずる。
 掛け鈎を丁寧に研いで、新しい囮に取り替えてから、再び竿を娘に渡した。やはり娘は、無心の姿で竿の方向は四十五度、目印は水面一寸の場所、この掟を固く守って、水際に立った。またすぐきた。
 今度も、私は娘から竿を取って、掛かり鮎を手網に入れた。こうして、僅かに一時間ばかりの間に、立派な鮎を娘は七、八尾掛けたのである。さきほどから、この瀞場で釣っている三、四人の釣り師があった。どうしたものか、その釣り師たちの鈎には一尾も掛からない。この瀞場には、数多い鮎がいる。ということは承知しているのであるけれど、瀞場の友釣りについて、あまり深い造詣を持たぬ人達かも知れない。
 その人達は、私ら父娘が、娘が忙しく釣り私が忙しく手網に入れる姿を注目していたが、とうとう三、四人の人々は竿を河原に置いて私らの近くへ集まり砂の上へ腰を降ろしてうずくまり、私ら父娘の釣りを観察しはじめた。
 疲れたので、一服していると、人々は私の傍らへきて、そのうちの一人が私に、あなたは垢石さんですかと問うのである。そうであると答えると、そうですか流石さすがになあ、娘さんでさえも――と、幾度も感嘆の声を発するのである。感嘆する一人は、どこかの釣り場で一度か二度見かけた顔だ。

   十一

 昼近くなったので、飯を食べに一旦宿へ引きあげることにした。そこで私は娘に、お前はもう十尾ほど掛けたかも知れない。しかし、きょうはじめて釣った鮎は、お前の経験や腕前で釣ったのではないのはお前も分かっていよう。ところで、経験や腕前もないほんの初心者になぜ瀞場の鮎が盛んに掛かるかということが問題だ。それはつまり、お前は傀儡かいらいであるからである。竿を持った人形が、人形使いの意のままに動いて観衆を感動させたということは、人形に人形使いの精神と技術とが乗り移ったからであるといえよう。この瀞場の鮎を釣るのに適した道具立てを持ち、そして父が教えるそのままの技術を踏んで、少しの私心を交えず竿を操ったから鮎が掛かったのである。いわばお前と父とは、個体こそ違え、釣りの意と技に伝える人格が一致したのだ。たとえば、父が自ら釣ったのと同じであったのである。
 ところで、父の眼がお前の釣り姿から離れると、不思議に俄然川鮎は囮鮎に挑み掛かってこぬであろう。つまり、釣れぬのである。それは、父の眼が離れるとお前は、自らの心に帰り、自らの釣り姿に帰るためだ。自らの心、自らの釣り姿というのは、お前が友釣りについては真の初心者である正体を指すのだ。友釣りについて、真の初心者にはこの瀞場は一尾も釣れぬ。だが、お前は将来常に父を指導者として、己れの傍らに置くわけにはいくまい。きょうは竿の上げ下げにも、足一歩運ぶにも、やかましくお前の自由を束縛したけれど、これから後はきょうの指導を基礎としてお前の工夫と才覚と思案とをめぐらして、自由に気侭に釣ってみるがよい。
 そこでお前の感ずることは、己れ一人の工夫、才覚、思案というものが、どんなに心をちぢに砕かねばならぬ難しい業であるのかを知るであろう。そこで、この友釣りは己の工夫を加えれば加えるほど釣れぬようになるものだ。研究すればするほど、勉強すればするほど釣りの道の深さが身にこたえ、野球の選手が打球に苦心していくうちに、一次スランプにおちいるのと同じように、友釣りの技もどうにもこうにも自分の力では行なえ得ぬ日がくる。
 そして、苦心に苦心を重ねた末、十年か二十年の修行の果てに、お前にめぐってくるものは、きょう父がお前の手を取り心を抑え、教え導いた傀儡の釣り姿である。結局、生まれたときの、無心の姿に帰るのだ。
 そこではじめて、友釣りの技がお前の身につくのである。この父の言葉を忘れるなよ。
 それは、ひとり釣りの道ばかりではない。人生の路、ことごとく同じである。芸術でも宗教でも、学問でも商業でも、武道でも政治でも、研鑽けんさんと工夫に長い年月苦心を重ね、渡世に骨身を削るのである。世間というものは学校にいるとき夢みたように簡単にはできていない。身を悲観する人もできようし、世を呪う人も現われてこよう。しかし、その鏤刻琢磨ろうこくたくまの間に進歩がある。そして、ある年令に達すると、つね日ごろ物に怠らなかった人にのみ、幼きときに我が心に映し受けた師聖の姿が、我が身に戻ってくるのである。
 父の友人、小説家井伏鱒二が、文章というものは上達に向かって長年苦労を重ねてきても結局は松尾芭蕉の風韻ふういんに帰るのだ。と、いったことがある。釣りも人生も、同じだ。お前は、きょう富士川の水際に立った己れの無心の姿を生涯忘れてはならんぞ。

   十二

 その年の八月中旬、私は再び娘を友釣りに伴うた。越後の魚野川の釣趣を味あわせたいと思ったからである。
 伜の方は、越後国南魚沼郡浦佐村地先の魚野川の釣り場を克明に知りつくしているから、娘の方には北魚沼郡小出を中心とした地方の釣り場に親しませたいと考えた。折りから、伊豆狩野川の釣聖中島伍作翁も来合わせていたので、私と娘と三人で、一週間ばかり楽しくあちこちと釣り歩いた。
 最後に、魚野川が信濃川に合流する上手一里ばかりの越後川口町の勇山の簗場やなば近くへ娘を連れて行った。この日は、一切娘の釣りに干渉するのをやめて、娘が思うがままに振る舞わせてやろう。しからば、どんなによく友釣りの技がなまやさしいものではないということが分かるであろうと考えた。
 中島翁にも、私にもちょいちょいと、数多く掛かる。しかし、指導の拘束から解放された娘には、朝から鈎に殆ど掛からぬといってよいほどの不成績である。ときたま掛かることがあっても、ザラ場の勾配のある瀬では出足が伴わぬ。掛かるたびに囮ぐるみ道糸を切られてしまう。
 そこは、川口町から十日町へ通う鉄道の橋のかみ手の瀬であったから、午後は簗場の尻の瀞場へ案内してやった。ここは、富士川の鉄橋のしも手の瀞場の条件によく似ている釣り場である。娘は、富士川のときと同じ竿と道糸と鈎と目印をつけた仕掛けで釣り場に対したが、やはり父の心が娘の持つ竿に通っておらねば、川の鮎はこれを相手にせぬらしい。
 でも、懸命に辛抱しているうちに、大物が娘の竿に掛かった。途端に、プツンと道糸が切れ囮鮎と共にどこかへ行ってしまった。娘は、べそを掻いている。
 魚野川は、上越国境の茂倉岳から西へ続く谷川岳と万太郎山の裏山の谷間に源を発している。そして、南越後の峡谷を北へ向かって白く流れて二十里、この川口で大きな信濃川に合している。一つの支流ではあるけれど、水量は相模川の厚木地先あたりに比べると、さらに豊かだ。清冽の流水は、最上の小国川に比べてよいと思う。
 上流の土樽、中里あたりはまだ渓谷をなしていて、山女魚やまめ岩魚いわなの釣りばかりであるが、湯沢温泉まで下ると、寺泊の堰の天然鮎を送ってきて放流している。石打、塩沢と次第に中流に及ぶほど鮎の育ちは大きく、川の幅も広くなるのである。このあたり景観も大きい。頭の上に、上越国境を遮る六千五百尺の中ヶ岳が、屏風びょうぶのように乗りだしていて、それから北方へ八海山、越後駒ヶ岳が雄偉の座を構えて続いている。立秋を迎えれば山頂の気も、山村の気も澄んで、天はますます高いのである。表日本の初秋は天爽やかなりといっても、大空のどこかに靄を含んでいる。しかし、越後の初秋の気には、微塵みじんも塵の澱みを見ぬ。満洲の初秋の気に相通じる。
 六日町の地先で三国川を合わせると、にわかに良質の岩塊を交え、水は豊富となり、流れ流れて浦佐、小出町に及ぶと、もう大河の相を呈しはじめる。小出町地先で破間あぶるま川を合わせると、川底の石もさらに大きく瀬の流れも一層速く、鮎は満点の条件をもって育つのだ。
 破間川と魚野川の合流点の、秋草に満ちた広い河原から南東を眺めた山々のただずまいはほんとうに美しく荘厳である。八海山と駒ヶ岳に奥会津に近い中ヶ岳が三角の顔をだして、山の涼しさを語っている。銀山平や、六十里越、八十里越あたりの連山に眼を移せば、旅にいて、さらに旅心をそそられるのだ。
 堀の内から、川口までの間の二つ三つの荒い瀬に、魚野川筋随一と称してよろしい大きな鮎が棲んでいる。姿は肥って大きい。香気も高い。風味もよい。殊に魚野川の畔には上流下流通じて、産米が豊富である。私の大好物である醇酒にも恵まれている。
 今年は、気まぐれな戦争から解放されたはじめての鮎釣り季節を迎えて、またこの魚野川に伜や娘を伴い、一夏を楽しく過ごしたいと、ひたすらねがう。





底本:「垢石釣り随筆」つり人ノベルズ、つり人社
   1992(平成4)年9月10日第1刷発行
底本の親本:「釣随筆」市民文庫、河出書房
   1951(昭和26)年8月発行
初出:「続たぬき汁」星書房
   1946(昭和21)年発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年5月5日作成
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