葵原夫人の鯛釣

佐藤垢石





 葵原夫人は、素晴らしい意気込みである。頬に紅潮が漂って来た。
「では、いけませんか?」
 と、念を押す。
「いけない、と言うことはありませんが、一体に婦人は舟に弱いものですからね」
「いえ、それでしたら御心配いりませんわ。私、もう五、六年も毎年葵原と一緒にヨットの練習をやっているんですもの――一度だって、ったこと御座いませんの――」
「それなら、いいですが」
「昨年の夏は、品川から三崎まで遠乗りしましたわ。ちゃんと、度胸が据わってます」
「大したものですな――しかし、葵原君が同意するかどうか?」
「ところがですわ、今朝お前がやって見たいと言うなら、行ってお願いして見なさい、と言って葵原の方から私に勧めたような訳で御座いますわ」
「そうでしたら、構いませんが……」
 が、しかし、時化を食った白波の海の真ン中で、婦人が船眩いに苦しむ、ぐったりとした姿を想像して見た。これは、自分が苦しむより以上、悩ましきものであると思った。
「では、御供させて戴けるんですか?」
「それ程、御熱心なら……」


 婦人として、曾て試みた者はないであろうと思う、沖の大鯛釣へ葵原夫人は、連れて行って呉れと言うのである。
(よもや)
と、思っているところへ、だしぬけにやって来たのであった。
 ではあるが、この頃の葵原夫人の釣熱から考えると、当然のようでもある。と言うのは、私が昨日の夕方東京湾口で釣った大鯛を、葵原君の晩酌の肴に持参したからである。鯛は、海神の寵姫であるかも知れない。淡紅の肌に泛んだ紫紺色の小さな斑点は、夜宴のドレスを飾る無数の宝玉のようにも見える。虹の光沢に似て光る二つの腹鰭、円い大きな澄んだ眼、豊満な鱗の下の肉。威あって而も優しい体から受ける形容は、ただ一つ麗艶の言葉に尽きる。しかもそれが、一貫三百匁の大物であった。
「立派ですなア」
 葵原夫妻は、笹を敷いて籠の上に在る贈物に、眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)って讃嘆した。
「私も釣って見たい……」
 心の表現を補足しようとするのであろうか、夫人は葵原君の肩を双手で揺った。
「駄目だ――それは、泥亀が月を望むと同じようなものだ」
「私、きっと釣って見せるわ。きっと――」
 三人は、卓子の上に置いた籠を囲んで、暫く立ち去り得なかった。
 それから、眼玉の潮羹を作った。刺身にもなった。塩焼も出た。アラ煮もこしらえた。
 濃胆な味品。昔から鯛を海魚の王者と言ったが、透き通るような肉の鮮味は、これに敵う魚が他にあるであろうか。而も胆にして薄ならざるところ、食って味覚に残る何の滓韻もない。
 三人は、飽食した。葵原は陶然としている。
 葵原夫人の美貌は、端麗な容姿に調和してまことに上品である。そして、素敵に健康だ。籠球ろうきゅうも、水泳も、庭球もやった学生時代、颯爽たるお嬢さんの、女離れした気性を喜んで葵原君が迎えた。嫁してからは、スキーも穿き、ゴルフもはじめた。殊に、葵原君とお揃いでこしらえた狩猟のレザーコートはよく似合うのである。
 浅間山麓六里ヶ原から上越国境の山狩にも、銃をかついで二人は歩き廻った。運動家であった葵原君と、蜜のように睦じい。
 釣の趣味も、決して見遁しはしなかった。昨年の春、夫妻打ち連れて私の邸へ遊びに来た時に、夫人は私の娘から釣のことについていろいろ聞かされた。
「婦人でも、釣がやれますか?」
「やれますとも、婦人だって別段男と変ったところはありませんわ」
「私、やって見たいと思うわ」
「あなたも、運動家なんですもの――足に自信がおありでしょう。私、いくらでもお供してあげますわ」
「私に、釣れるかしら?」
 私の娘は、二、三年前から父のあとへついて釣竿を舁ぎ廻った。殊に、一昨年女学校を出てからと言うものは、偉大な身に釣服を着け、足に草鞋を結んで、奥深い溪流を盛んに探釣した。冷寂の鬼気魄に迫るような密林も意に留めず、清洌肌を刺すような溪水をも、恬然てんぜんとして遙渉する女らしくない娘である。
 その後、葵原夫人はしばしば私のところへ来て、娘に山や溪の話を聞き、私に竿や道具のことを問うた。


 私等父娘は、葵原夫人に溪流魚釣の指導をすることになった。
 三人は、平野の青草にく春のものうい風が渡っている一日、会津と上州の国境に近い奥利根の支流片品川の源へ分け入った。里は、晩春であるが、ここは早春が訪れたばかりであった。山の襞に去年からの根雪が、砂ほこりを載せて残っている。溪流に、すくすくと伸びた芹の茎も茶色に出た小さな芦の若芽も冷たい風情である。
 はじめての釣遊ではあったが、葵原夫人の出来は大したものであった。四、五寸から、六、七寸もあろうという形のいい山女魚を、四、五尾釣ったのである。青銀色に光る鱗の底から、小判形した十三個の斑点が、薄紫を刷いたように泛び出ている。山女魚は、何と美しい魚であろう。そして鈎に掛ると、強引に竿先を引っ張り込む。道糸の細いテグスが、水面にキューキュー鳴った。
 夫人は驚喜した。山女魚が鈎に掛るたびに、竿ぐるみ磧の若草の上へ抛り上げる仕草が、ほんとうに無邪気なので、私の娘は幾度も微笑んだ。
 私も十尾近く釣った。娘も三、四尾釣ったのである。
 それから後というもの、葵原夫人と私の娘とは、初夏から晩秋へかけて上越の諸溪流、浅間山麓の叢林中を流れる小溪、遠くは裏飛騨の方まで相携えて釣り廻った。まことに勇ましき、二人の女性である。
 こんな訳で、葵原夫人は釣の一年生ではなかった。魚が餌に寄る振舞から、鈎合せの呼吸まで心得て、釣の興趣に陶酔している。であるからさらに方面を変えて海釣に志そうとする願いも無理ではない。
 夫人は、私が大鯛の釣遊に同意したのを葵原君に話したらしい。翌朝、夫妻相携えて私の邸へやって来た。
「我儘ものが、いろいろ御面倒を掛けますなア」
「いや、決して御心配はいりません。却って賑やかに遊べて結構です」
「分らぬことを言ったら叱って下さい――ところで僕もお供をして、あの豪華な大鯛を一尾釣り上げて見たいと思うのですが、この頃少し健康を害しているのが残念で堪りません。今度は、これ一人御願いします」
 私の考えでは、夫人と娘と同舟させ、私と葵原君とは同じ舟に乗って一日を遊び暮らそうとする予定であったが、健康を害していると言えば致し方ない。それにちょうど、娘も嫁入りのことで、母と共に何くれと忙しい場合であったから、今度は夫人と私と二人で第一回を試みることにした。
 葵原君は、
「充分保養して置いて、次回には必ずお供させて頂き度いと思います」
 と、残念らしい。
 それから二人は、鯛のことまた鯛釣のことについて、私にいろいろ問うのであった。


 鯛には、数えきれない程いくつもの種類があるが、私と葵原夫人とが釣りに行こうとするのは、麗容魚族の華と賞される真鯛である。古来、絵にも文にも絢爛な憧憬を人に誘う淡紅の彩り鮮やかな服飾を誇り、而も雄偉な面魂を持った、あの大鯛である。
 鯛と言えば、瀬戸内海で漁れたものが、全国に冠たり、と世の人は思う。しかし、関東の鯛も、瀬戸内海で漁れたものに勝るとも、劣っていないのである。ただ、これを広く世人が知らないだけのことである。
 昔、交通の不便の時代には、関東から東北地方の海で漁れる紅い肉の魚が、関西地方へは移入されなかった。そこで、上方の人には紅い肉の刺身には親しみを持たなかった代りに、鳴戸と音戸の峡が咽をなす瀬戸内海や、紀州と土佐、伊予と豊後が抱く大灘で釣れる淡白な肉の鯛を喜んだ。
 また、鮪や鮭は関東から取り寄せる必要のない程に瀬戸内海から漁れる魚は豊富であったのである。鯛も、その通りであった。旧の三月、桜時となれば生きのいい鯛が、浪速から尾道、広島、下関、別府の浜々へ山と積まれた。そして、料理も発達していた。清新な鯛の肉を舌に載せては、鮪や鮭は下肴と言うより外はない。それは、上流の家庭ばかりではない、昔から農家でさえも春になれば鯛の味に親しんだ。

 たまたま、関東の人が上方へ旅してその鮮味と、割烹の妙に魅せられたのも当然であった。鯛は、瀬戸内海のものに限る、と絶讃の言葉を惜しまなかったのも、因はそこから出て来ている。だが、関東の海にも立派な鯛が棲んでいる。だがそれを、一部の通人以外に知る者が少かったからだ。謂わば、認識不足と言うものであったのである。
 遠州御前崎の灘にも、駿州三保ノ松原の外に波打つ荒い海、内側のなだらかな浦にも、沼津の静浦、伊豆の網代、伊東、下田の外洋にも、また外房州の洋底にも大きな鯛が棲んでいるのであるが、東京湾口で釣れる鯛に匹敵する程の姿と味を持っているのは、少いのである。関西人の誇る瀬戸鯛もこれには過ぎまい。
 若し、生きているままの鯛を庖丁に裁いて、食膳に載せれば饌書が語る、
 従讃豫鳴門而東者額上作瘤是曰峡鯛
 の文字に象徴された荒海から産卵に来る鯛など、一笑に附してしまえよう。だが、江戸時代から最近に至るまで交通は不便であったし、漁法も拙劣であったので、東京湾口の鯛は大衆の口を贅する程、市井の巷へ現れなかった。
 ところが、今でも東京湾口の鯛は昔と同じように沢山棲んでいる。舟航も便になった。漁法も巧みになった。今では生きているままの大鯛が舟の魚槽に泳ぎながら、築地の河岸へ運ばれて来る。


 房総半島と、三浦半島が相擁した東京湾口の海は清碧である。東京湾口と言うのは、三浦半島側の観音崎から太平洋を指し、鴨居、浦賀、九里浜、下浦、剣ヶ崎の鼻、三崎前の城ヶ島の突端まで、房総半島側は富津岬から大貫、湊、竹岡、金谷、鋸山の裾を南方へ走り、那古を越えて洲崎までの、東京湾の袋の口の水道を指すのである。
 湾口へは、遠い南の海から、暖かい黒潮が藍青色の、凄いほど澄んだ海水を送って来る。上げ潮には湾内へ激しく流れ込み、下げ潮には疾風の如くに、外洋へ注ぎ出す。深い海底の岩礁は、いつもこの上げ下げの潮に洗われて、ちょうど風通しのいい部屋のように、少しの濁りも水の色にない。
 すがすがとして、そして庭樹をあしらったように海藻に繞まれた岩礁こそ、真鯛の楽園であるのだ。

 上総の竹岡の漁師は、小鯛から中鯛釣を得意としているが、三浦半島の鴨居の漁師は中鯛から大鯛釣の技に秀でている。竹岡と鴨居は、東京湾口鯛釣場の双璧と称されているだけに、近年ここへ遊ぶ素人の釣師が夥しく増えて来た。
 ほんとうに、姿が立派で味が上等であるという鯛は、この湾口の水道のあっちこっちと散在している岩礁に絡って、前年の冬から寒中を越した真鯛である。これを居付の鯛と言う。居付の鯛は、色あくまで冴えて、肌に煙程の濁りもない。そして頭は辷るように円く、背の肉張りがいかにも餌を飽食したように見える。全く、他の海から潮の旅を渡って来た鯛とは、骨相顔貌が異う。
 生きた烏賊か、蝦を餌として鈎につけ三十尋から六、七十尋の深い海底へ下してやると、三、四百匁から、六、七百匁の中鯛、一貫目から二貫目以上もある大鯛が、グイと引き込む。身を顫わす程の豪快は形容の言葉がない。釣の興趣はここに到って尽きると言えよう。
 花も終えて半島の山々が、青葉に包まれる四月下旬から五月上旬になると、太平洋の荒波に育った鯛が、東京湾口へ産卵のために乗っ込んで来る。この鯛も素晴らしく大きい。稀には、三貫目近いものさえある。この鯛は、最初洲崎の沖に在る岩礁に、四、五日旅の疲れを休める慣しがあるので、三浦半島の松輪や、房総半島の那古船形、房州の南端布良の漁師などが、これを狙って、夜の釣を試みる。だが、この鯛は三、四夜にして洲崎を離れ、鎖のように繋がった岩礁から松輪の鼻に出て次第に、鴨居や竹岡前、観音の沖を越えて横須賀から見える海堡の方まで旅して来て、性の使命を果たすのである。
 だが、同じ真鯛でも湾口に居付の鯛とは、少しばかり異ったところがある。ここと言って指すわけには行かないが、※(「蚌のつくり」、第3水準1-14-6)ふうぼうが何処となくいかつい。また、腹の両側に開いた双の鰭の間に、臍に似た瘤が隆起しているのを特徴とする。色は、真紅ではない。背の鱗の色に、薄墨を刷いたように錆が出ていて、いかにも荒波と苦闘したかを思わせる。そして、痩せて、体の厚みが薄いのである。これは、荒波に身を粉と砕いている上に、外洋には餌となるべき蝦や烏賊が少いためであろうが、居付の鯛に比べて肉の組織に細かいところがなく、舌触りが粗荒で、味が大味である。居付の鯛の、練絹のような豊満な肉の質に比べれば、翫味がんみの舌に区別が湧く。
 そこで、漁師は居付の鯛を撰んで釣り、江戸の料亭もこれには莫大な償いを払ったものである。
 上方では、額に瘤が出る程荒海と闘い、而も身を粉にして瀬戸の渦中を潜り抜けて来た鯛の肉に、美味の真なるものがあると古人も伝え、いまもこれを信じているのに比べ、関東では、湾口に穏やかに肥り育った肌の細かい肉の鯛を絶品と称している。何れが、味聖の意を迎えるか知れないけれど、関西人と関東人との舌の感覚には、こんなちがいのあるのを興味深く思う。


 こんな風で、東京湾口の鯛は三月に入れば海の面に寒風が吹くと言うのに、釣れはじまる。霞立つ四月には、浜の漁師総出の有様となり、釣客を案内し五月へかけて居付の鯛を狙う。またこの月には、外洋から大鯛が来て海は賑う。湾口の人々は、この鯛を大灘鯛と言っている。
 六、七、八月の三ヶ月間の鯛は、磯に近い七、八尋から十五、六尋の浅い岩礁まで遊びに出て来るのである。この季節には、誰の鈎にも貪りついて、楽々と釣れる。九月からは、秋鯛である。秋鯛は再び味が蘇り、釣は十一月まで続く。早春から初夏までは、主に生きた烏賊を餌に使うが、夏から秋は生きた蝦を鈎に差す。
 されば、東京から僅かに十五、六カイリ離れた海で、春浅い頃から晩秋へかけ、鱗の鮮紅に錦彩を放つ大鯛がいつでも釣れる訳である。釣を休むのは手にみぞれが冷い十二月、一月の二ヶ月だけだ。
 葵原夫妻は、私のこんな話に、長い間未知の国でも歩くように、凝っとして釣趣を唆られていた。
「私もう、何んにも手につかないわ――」
「羨しいなア」
 三人は、朗らかに笑った。


 葵原夫人と私は、鴨居港の黎明の浜に立ったのである。砂の上に、船頭英太郎父子が漁舟を艤して待っていた。
 鴨居港は、浦賀から自動車で十分、海上三里の彼方に房州の鋸山と対している。磯を浸す初夏の濤は、緩やかに流れて空は薄く高く曇っているが、西北の微風が昼の凪を物語って絶好の鯛釣日和である。那古船形と思われる遠い岬は、淡い靄に包まれて朝の海にぼうと泛び上り、夢の島のようである。まだ日の出には間があろう。
 舟には、富津から持って来た餌の赤蝦も、英太郎が前日の夕、沖で釣って置いたと言う生きている烏賊の餌も充分用意してあった。
 先ず、鴨居から松輪の灯台へ向って二里、下浦の沖合四十尋のところにある岩礁で、中鯛釣を試みることになった。
 舟がエンジンをかけ、全速力で南方を指して走り出すと、夫人は快活に大鯛が鈎を食い込んだ時の心得を問うのである。舟眩ふなよいなどと言うことは、他の国の話でもあるかのようにはしゃいでいる。
 だが、本人はまだ平然として気がつかないでいるが、かねがね私が心配していたのは、婦人の舟遊に、尿意を催した時の問題である。必ず美しい額を、しかめる時が来るのを予想していた。そこで、私は舟に乗り込む前に、そっと船頭に命じてこの問題の解決に備えて置いたのである。こんな細かいところへ気がついたと言うのは、実は昨年の落ち鱸釣の時に、何とも手のつけようのない釣友の悩みを見て教えられていたからだ。
 と、言うのは、昨年の秋実業家の細川卯一郎君、つまり十年前の横綱大錦が、十能じゅうのうのような大きな掌で私をつかまえて、
「私を、釣の弟子にして下さい」
 と、突然言い出したのである。
「いや、どうも……」
 私は「横綱と釣」何とも不釣合の注文をつける細川君の、偉大な体躯を驚いて見上げたのであった。現役を去ってはいるが今尚体重三十四貫の肥大漢である。普通の二人半分はあろう。こんなのと同船したなら、海へはみ出されてしまうに違いない。
「私は、舟の中でせいぜい小さくなります」
 細川君は、自分の大きいのに肩身狭く感じたか、真面目になって言訳を言っている。
「それには及びません――だがまア、弟子入りなんて言わないで、一度一緒に海へ遊びに行って見ましょう」
 これはほんの、その場限りのつもりで言ったのであるが、細川君は承知しない。間もなく、やんやと言って来る。とうとう一日鴨居の落ち鱸釣に同行する事になった。
 舟に乗る段になると、あの大きなお尻が持ち上らない。船頭とその女房と、忰と三人で力任せに「よんこらさッ」と、お尻を押して押し上げた。海豚いるかのような尨大な体躯で、胡座すると舟の胴の間は一杯になる。小さな私は、舳の小間にちまぢまとしてしまった。
 そこまでは無事であったが、三、四時間すると大錦関は俄かに尿意を催して来た。三十四貫のブラッセルの小便小僧が舷に立って、銀河の如き滝が天の一方に懸れば葦の葉のように小さい漁舟は、一方に偏して忽ち顛覆ものだ。
「しばらく、しばらく――」
 船頭は蒼くなって、ち上ろうとする細川君を抑えた。と、同時に舳を返して舟はゴーバックのフルスピードである。こらえ兼ねて大きな腰を顫わせている細川君を上陸させ、同舟の人々は危く舟の顛覆を免れた、という奇談があった。
 これに懲りて、次の出漁から細川君は舟の中へお丸を持ち込むことにした。用便が済んでお丸を蒼海で洗うと、白い泡は紫色の光を放つシャボン玉が碧空に浮ぶように水上を流れて美しく賑やかである。
 私はこの故智を知っているので、葵原夫人のために勝手用の新らしい亜鉛板製の洗い桶を求めさせて、舟中に用意したのだ。


「締めて! 締めて!」
 船頭英太郎が、うしろから声援である。夫人の鈎に、大鯛が食いついたらしい。夫人の顔は、俄かに紅潮を呈して来た。道綸を持った指先が戦いている。水を瞶る眼が光る。固唾を呑む。四十尋の海底で、素晴らしい大物が鈎を銜えたまま、逸走の姿勢に移った動作が見えるようだ。夫人の全身は緊張の固りとなった。
 引く、引く、怺えきれない強引だ。鯛は、懸命の狂躍らしい。夫人の手から、するすると綸は伸びて行く。
「その辺で、締めて!」
 舟の者悉く夫人の傍へ集った。鯛釣は、はじめてでありながら、夫人は巧みに道綸をさばく。次第に鯛は水の上層へあがって来た。中錘が見えようとする迄手繰り上げた時、鯛は腹中にある気嚢きのうの膨脹に泛されて、突然三、四間先の水上へぽっかりと紅い美しい姿を現した。
「しめた!」
 と、私は叫んだ。それを、夫人は徐々と手ぐり寄せて舷まで持って来たところを、横から狙っていた船頭、隼のような速さで手網で掬いとった。
 一貫目はあるだろう、錦華燦然として海の王者は、舟の魚槽の中を悠々と泳いでいる。思わず、見惚れた。
「やりましたなア」
 私も船頭も、夫人の腕を讃賞した。
「余程不運な鯛なんでしょう……」
 と、夫人は謙遜してはにかんだが、全身の武者振いがいつまでも止まらぬ風であった。
 この鯛は烏賊餌に来たのであった。そこで、いま迄蝦を餌につけて置いた英太郎は、烏賊につけ替えると、道綸を下すが早いか、ガッチリと手応えがあった。
 素敵な大物らしい。道綸を引き込んで行く勢いは、指先も切れんばかりである。流石さすがに手練の英太郎も、持て余した。遂に、尻ッ手繩を呉れた。だが百戦を経た漁師である。引くをあやし、寄るを締めて最後に手網で掬いあげたのである。傍で見ていた私も、夫人も(ホッ)とした。
 大鯛は、傲然として魚槽の両縁に頭と、尻尾一杯になった。たしかに、二貫目近くはあると思う。
 午後は潮たるみとなったので黒鯛、イサギ、イナダなどの小物釣に移ったが、それも三貫目余り釣れた。しかし、私の鈎は大鯛が見はなしたらしい、道具を仕舞うまでついに一度も当りを見せなかった。
 雲がきれて、半島の丘を圧して姿を現した富士は、もう夕陽を頂きに映していた。(お土産は充分だ。もう、帰ろう)と舟中に期せずして声が起ったのである。
 港の家々から立ち昇る夕餉の烟を、波を蹴る沖の小舟から望みながら、
「この大鯛を、葵原が見たらさぞ驚くことでしょうね」
 夫人の想いは、遠く夫君の胸にせているのであった。





底本:「垢石釣游記」二見書房
   1977(昭和52)年7月20日初版発行
入力:門田裕志
校正:塚本由紀
2015年8月26日作成
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