元日の釣

石井研堂




  上

 元日に雨降りしためしなしといふ諺は、今年も亦あたりぬ。朝の内、淡雲そらを蔽ひたりしが、九時ごろよりは、如何にも春らしき快晴、日は小斎の障子一杯に射して、眩しき程明るく、暖かさは丁度四五月ごろの陽気なり。
 数人一緒に落合ひたりし年始客の、一人残らず帰り尽せるにぞ、今まで高笑ひや何かにて陽気なりし跡は、急に静かになりぬ。
 机の前の座に着けば、常には、書損じの反故ほご、用の済みし雑書など、山の如く積み重なりて、其の一方は崩れかゝり、満面塵に埋もれ在る小机も、今日だけは、ことに小さつぱりなれば、我ながら嬉し。
 頬杖をつき、読みさしの新聞にむかひしが、対手酒のほろ酔と、日当りの暖か過ぐると、新聞の記事の閑文字かんもんじばかりなるにて、ついうと/\睡気を催しぬ。これではと、障子を半ば明けて、外の方をさしのぞけば、大空は澄める瑠璃色の外、一片の雲も見えず、小児の紙鳶たこは可なり※(「風にょう+昜」、第3水準1-94-7)ひようして見ゆれども、庭の松竹椿などの梢は、眠れるかの如くに、すこしも揺がず。
 さても/\穏かなる好き天気かな。一年の内に、雨風さては水の加減にて、釣に適当の日とては、まことに指折り数ふる位きり無し。数日照り続きし今日こそは、申し分の無き日和ひよりなれ。例の場所にて釣りたらば、水は浪立ずして、したる如く、船も竿も静にて、毛ほどのあたりも能く見え、殊に愛日を背負ひて釣る心地は、さぞ好かるべし。この陽気にては、入れ引に釣れて、煙草吸ふ間も無く、一束二束の獲物有るは受合ひなり。あゝ元日でさへ無くば往きたし。この一日千金の好日和を、新年……旧年……相変らず……などの、鸚鵡おうむ返しに暮すは勿体無し。今日往きし人も必ず多からん。今頃はさぞ面白く釣り挙げ居つらん。軒に出せし国旗の竿の、釣竿の面影あるも思の種なり。紙鳶挙ぐる子供の、風の神弱し、大風吹けよと、謡ふも心憎しなど、窓に倚りて想ひを碧潭へきたん孤舟こしゅうせ、眼に銀鱗の飛躍を夢み、寸時恍惚たり。
 やゝありて始めて我に返り、思ふまじ思ふまじ、近処の手前も有り、三ヶ日丈け辛抱する例は、自らはじめしものなるを、今更破るも悪しゝ。其代り、四日の初釣には、暗きより出でゝ思ふまゝ遊ばん。しかし、此天気、四日まで続くべきや。若し今夜にも雨雪など降りて水冷えきらば、当分暫くは望みなし。殊に、明日の潮は朝底りの筈なれば、こゝ二三日は、実に好き潮なり。好機は得離く失ひ易し、天気の変らざる内、明日にも出でゝおもいらし、年頭の回礼は、三日四日に繰送らんか。綱引の腕車くるまを勢よくはしらせ、宿処ブツクを繰り返しながら、年始の回礼に勉むる人は、せんずる所、鼻の下を養はん為めなるべし。彼れ悪事ならずば、心を養ふ此れ亦、元日なりとて、二日なりとて、誰に遠慮気兼すべき。さなり/\、往かう/\と、同しきことを黙想す。
 されども、想ひ返しては又心弱く、誰と誰とは必ず二日に来るかたじんにて、衣服に綺羅を飾らざれども、心の誠は赤し。殊に、ことさら改らずして、平日の積る話を語り合ふも亦一興なり。然るを、われの留守にて、むなしく還すはつれ無し。世上、年に一度の釣をもぬ人多し。一日二日の辛抱何か有らん。是非四日まで辛抱せんかと、さまこうさま思ひ煩ひし上句あげく、終に四日の方に勝たれ、力無く障子を立て、又元の座に直りぬ。
 一便毎に配達受けし、「恭賀新年」の葉書は、机上に溜りて数十百枚になりぬ。賀客の絶間に、返事書きて出さんかと、一枚づゝ繰り返し見つ。中には、暮の二十九日に届きしを先鋒として、三十日三十一日に届きしも有り。或は、旧年より、熱海の何々館に旅行中と、石版に摺りたるにて、麹町局の消印鮮かに見ゆるあり。或は新年の御題ぎょだいを、所謂いわゆるヌーボー流に描き、五遍七遍の色版を重ねて、金朱絢爛たるも有り。さて/\凝りしものかな、とは思ふものゝ、何と無く気乗りせず、返事は晩にせんと、其のまゝ揃へて、又机の上に重ぬ。
 顔のほてりは未だ醒めず、書読むもものうし、来客もがなと思へど、客も無し。障子に面して、空しく静座すれば、又四日の出遊は、岡釣おかづりにすべきか、船にすべきか、中川に往かんか、利根川(本名江戸川)にせんかなど、思ひ出す。これと同時に、右の手は無意識に自ら伸びて、座右の品匣しなばこ(釣の小道具入)を引き寄せぬ。綸巻いとまきを取り出しぬ。あらため見れば、鈎※はりす[#「虫+糸」、161-下-15]おもり、綸など、みだれに紊れ、処々に泥土さへ着きて、前回の出遊に、雪交りの急雨にひ、手の指かじかみて自由利かず、其のまゝ引きくるめ、這々ほうほうの体にて戻りし時の、敗亡のあと歴然たり。
 銅盥かなだらいに湯を取らせ、綸巻を洗ひかけしに、賀客のおとなふ声あり。其のまゝ片隅に推しやり、手を拭ひながら之を迎へ入る。客は、時々来る年少技術家にて、白襟の下着に、市楽三枚重ね、黒魚子ななこ五つ紋の羽織に、古代紫の太紐ゆたかに結び、袴の為めに隠れて、帯の見えざりしは遺憾なりしも、カーキー色のキヤラコ足袋を穿うがちしは明なりし。先づ、新年おめでたうより始まりて、祝辞の交換例の如く、煮染、照りごまめも亦例の如くにて、屠蘇とその杯も出でぬ。

  下

 客は早くも、主人の後方しりえなる、品匣しなばこに目をつけて、『釣の御用意ですか。』
と、釣談の火蓋を切りぬ。主人は、ほゝ笑みながら、
『どうも、狂が直らんので……。斯の好い天気を、じツと辛抱する辛さは無いです。責めては、道具だけも見て、腹の虫を押へようと思ツて、今、出しかけた処なんです。』と、又屠蘇をさしぬ。
 客は更に、『只今釣れますのは、何です。』
と、問ひ返しぬ。この質問は、来る客毎に、幾十回か発せられし覚え有り、今斯く言ふ客にも、一二回答へしやうには思ふものゝ、此の前に答へし通りとも言ひ兼ねて、
『鮒ですよ。※(「魚+與」、第4水準2-93-90)たなごは小さくて相手に足りないし、沙魚はぜも好いですが、暴風はやてが怖いので……。』と、三種を挙げて答へぬ。
 客『この寒さでは、とても、餌を食ふ気力無さゝうに思はれますが、よく釣れたものですね。』
 主『鮒の実際餌つきの好いのは、春の三四月に限るですが、寒い間でも、潮のさす処なら、随分面白く餌つくです。他の魚は、大抵餌つきの季節が有ツて、其の季節の外には、釣れないですが、鮒計りは、年中餌つくです。だから、く/\好きな者になると、真夏でも何でも、小堀を攻めて、鮒を相手に楽んでるです。食べては、かんに限るですが…………。』
 客『どうも寒鮒は特別ですね。』
 主『さうです。まア十一月頃から、春の三月一杯が、鮒釣の旬でせう。其の外の季節のは骨は硬し味はまづし、所詮食べられんです。
 主『千住の雀焼が、の通り名物になツてゝ、方々で売ツてゝも、評判の中兼なかかねだけは、常の月には売らんです、十一月後のでなくては…………。』
 客『銃猟に出る途で、よく千住の市場に、鮒を持ち出す者に逢ふですが、彼れは養魚池からでも、捕ツて来るのでせうか、』
 主『なアに、皆柴漬ふしつけです。それでなくては、彼様あんなに揃ひやう無いです。』
 客『柴漬ツて何ですか。』
 主『柴漬ですか。秋の末に、枝川や用水堀の処々に、深い穴を堀り、松葉や竹枝などを入れて置くです。すると、寒くなり次第、方々に散れてる鮒が、皆この、深くて防禦物の多い、穴の内に寄るです。其れを、お正月近くのの良い時に、掻い掘ツて大仕掛に捕るです。鯉、なまず、其の外色々のものも、一緒に馬鹿々々しく多く捕れるさうです。
 主『枝川や、汐入しおいりの池の鮒は、秋の末出水でみづと共に、どん/″\大川の深みに下ツて仕舞ふです。冬の閑な間、慰み半分に、池沼の掻掘りをやる者も、大川に続いてるか、続いてないかを見て、さうしてやるです。若し、続いてるのをやツたのでは、損ものです。既に大川に下りきツて、何も居らんですから。柴漬ふしつけは、この、大川に下るのを引き止めておく、鮒の溜りなのです。
 主『柴漬といへば、松戸のさきに、坂川上といふて、利根川(本名は江戸川)に沿ふて、小河の通ツてる処あるです。村の者が、こゝに柴漬して、莫大の鮒を捕るのですが、又、此処を狙ツてる釣師もあるです。見つけても叱らないのか、見付かツたら三年目の覚悟でやるのか、何しろ馬鹿に釣れるです。
 主『丁度今が、其処の盛りですが、どんな子供でも、三十五十釣らんものは無いです。彼処あすこの釣を見ては、竿や綸鈎いとはり善悪よしあしなどを論じてるのは、馬鹿げきツてるです。
 主『よしの間を潜ツて、その小川の内に穴(釣れさうな場処)を見つけ、竿のさきか何かで、氷を叩きこわし、一尺四方ばかりの穴を明けるです。そこへ、一間程の綸に鈎をつけ、蚯蚓みみず餌で、上からそーツとおろすです。少しあたりを見て、又そーツと挙げさへすれば、屹度きっと五六寸のが懸ツて来るです。挙げ下げとも、枯枝、竹枝の束などに引ツかけないやうに、しずかにやるだけの辛抱で、幾らも釣れるです。彼処の釣になると、上手も下手も有ツたもんで無く、只、氷こわし棒の、長いのでも持ツてる者が、かちを取るだけですから…………。』
此の時、宛も下婢かひの持ち出でゝ、膳の脇に据えたるさかなは、鮒の甘露煮と焼沙魚はぜの三杯酢なりしかば、主人は、ずツと反身になり、
『珍らしくも無いが、狂の余禄を、一つ試みて呉れ給へ。煖かいのも来たし…………。』
と、屠蘇を燗酒に改め、自らも、先づ箸を鮒の腹部につけ、黄玉こうぎょくの如く、蒸し粟の如きを抉り出しぬ。客は、杯を右手めてに持ちながら、身を屈めて皿中を見つめ、少し驚きしといふ風にて、
『斯ういふ大きいのが有るですか。』と問ふ。
客の此一言は、たきぎに加へし油の如く、主人の気焔をして、更に万丈高からしめ、滔々たる釣談に包囲攻撃せられ、降伏か脱出かの、一を撰ばざるべからざる応報を被る種となりしぞ、是非なき。
 主『誰でも、此間こないだ釣ツたのは大きかツたといふですが、実際先日挙げたのは、尺余りあツて、随分見事でした。此れ等は、また、さう大きい方で無いです。併し、此様こんなのでも、二十枚も挙げると、…………さうですね、一貫目より出ますから、魚籃びくの中は、中々賑かですよ。鮒は全体おとなしい魚で、たとひ鈎に懸ツても、余り暴れんです。寒中のは殊にすなほに挙るですが、此の位になると、さう無雑作にからだを見せず、矢張鯉などの様に、暫くは水底でこつ/\してるです。其れを此方は、彼奴きゃつの力に応じて、右に左にあしらツて、腹を横にしても、尚時々暴れるのを、だまして水面をしずかにすーツと引いて来て、手元に寄せる、其の間の楽みといふたら、とてもお話しにならんですな。』
 客『此の身幅は、まるで黒鯛の恰好ですね。』
客も亦、箸を付けて、少しくほぐす。
 主『鮒は、大きくなると、皆此様こんな風になるです。そして、泥川のと違ひ、鱗に胡麻班ごまぶちなど付いてなくて、青白い銀色の光り、そりやア美しいです。話しばかりじやいかんから、君ほぐしてくれ給へ。』
 客『え、自由に頂きます。此れは、何処でお釣りになツたのです。』
 主『江戸川です。俗に利根利根といふてる行徳の方の…………。』
 客『随分遠方までおいでになるですな。四里は確にございませう。』
 主『その位は有るでせう。だが、行徳行の汽船が、毎日大橋から出てるので、れに乗るです。船は方々に着けるし、上ると直ぐ釣場ですから、足濡らさずに済むです。の船の一番発は、朝の六時半でして、乗客の六七分は、何時も釣師で持ち切りです。僕等はまだ近い方で、中には、品川、新宿、麻布辺から、やツて来る者も大分有るです。まア、狂の病院船でせう。』
主人の雄弁、近処合壁がっぺきを驚かす最中、銚子を手にして出で来れるは、細君なり。客と、印刷的の祝詞の交換済みて、後ち、主人に、
あったかとこをお一つ。』と、勧むるにぞ、
主人、之を干して、更に客に勧むれば、客は、
『まだ此の通り…………』と、膳上の杯をゆびさして辞退しつゝ受く。
 細『何もございませんが、どうぞ、召上つて…………。』
 客『遠慮なしに、沢山頂戴しました。此の鮒は、どうも結構ですな。珍らしい大きなのが有ツたもんですな。』
 細『昨日も宿やどと笑ひましたのでございます。鮒釣鮒釣と申しまして、此の寒いに、いつも暗い内から出まして、其れも、好く釣れますならようございますが、中々さうも参りません。
 細『これは、昨日何時も川魚を持ツて来ます爺やから取りましたのでございますが、さう申しては不躾ですけれども、十せんに二枚でございます。家にじツとしてゝ取ります方が、の位おやすいか知れませんです。』
と、鮒の出処の説明に取りかゝる。
主人は、口をことに結びて、みつけ居たりしが、今、江戸川にて自ら釣りしといひし鮒を、魚屋より取りしと披露されては、堪へきれず、其の説のおわるを待たず、怒気を含みて声荒々しく、
『おい/\、此の鮒は、僕の釣ツたのだらう。』
 細『左様そうじやございませんよ。昨日、千住の爺やが持ツて参ツたのでございます。』
 主『僕の釣ツたな、どうして。』
 細『何時まで有るもんですか。半分は、焼きます時に金網の眼からぬけて、焦げて仕舞ひましたし、半分は、昨日のお昼に、召し上りましたもの。』
 主『さうか。これは千住のか。道理で骨が硬くて、に旨味が少いと思ツた。さきから、さう言へばいに…………。』
きまり悪さの余り、旦那といふ人格を振り廻して、たゞ当り散らす。客は気の毒の上なく、
『千住でも、頗る結構です。』など、
言ひ紛らせども、細君は、其の仔細を知るよしなく、唯もみ手して、もぢ/″\するのみなり。一座甚だ白けたりければ、細君は冷めたる銚子を引きてさがる。主人、更に杯を勧めて、
此様こん不美まずいのを買ツたりして、気の利かないツて無いです。』と罪を細君にす。客は、
『大分結構ですよ。』と、なだめしが、此の場合、転換法を行ふに如かずと思量してか、
『随分お好きの方が多いですが、其様そんなに面白いものでせうか。』と
木に竹をぐ問を起す。
骨牌かるた、茶屋狂ひ、碁将棋よりは面白いでせう。其れ等の道楽は、飽きてすといふこともあるですが、釣には、それが無いのですもの。』
至つて真面目に答へたりしが、酔も次第に廻り来りしかば、忽ち買入鮒以前の景気に直り、息荒く調子も高く、
 主『深さは、幾尋とも知れず、広さは海まで続いてる水の世界に、電火飛箭ひせんの運動をてる魚でせう。其れを、此処に居るわいと睨んだら、必ず釣り出すのですから、面白い筈です。
 主『物は試しといふから、騙されたと思ツて、君もたツた一度往ツて見給へ。彼奴きゃつを引懸けて、ぶるぶるといふ竿の脈が、掌に響いた時の楽みは、夢にまで見るです。併し、其れが病みつきと為ツて、後で恨まれては困るが…………。』
 客『幾らか馴れないでは、だめでせう。』
 主『なアに釣れるですとも。鮒ほど餌つきの良い魚は無いですから、誰が釣ツても上手下手無く、大抵の釣客つりしは、鮒か沙魚はぜで、手ほどきをやるです。こいは、「三日に一本」と、相場の極ツてる通り、あぶれることも多いし、きす小鱸せいご黒鯛かいず小鰡いな、何れも、餌つきの期間が短いとか、合せが六ヶむつかしいとか、船で無ければやれないとか、多少おツくうの特点有るですが、鮒つりばかりは、それが無いです。長竿、短竿、引張釣、浮釣、船におかに何れでもやれるし、又其の釣れる期間が永いですから、釣るとして不可なる点なしで、釣魚界第一の忠勤ものです。
 主『殊に、其の餌つき方が、初め数秒間は、緩く引いて、それから、しずかにすうツと餌を引いてく。其の美妙さは、まるで詩趣です。
 主『沙魚も、餌つきの方では、卑下ひけを取らず、沢庵漬でも南京玉でも、乱暴に食い付く方ですが。其殺風景は、比べにならんです。仮令たとえば、沙魚の餌付は、でも紳士の立食会に、眼を白黒してき合ひ、豚のあらしゃぶる如く、鮒は妙齢のお嬢さんが、床の間つきのお座敷に座り、口を細めて甘気の物を召し上る如く、其の段格は全で違ツてるです。
 主『合せ方(引懸けるを合せといふ)といふて、外に六ヶしいことなく、第一段で合せて、次段で挙げる丈けですが…………。』
と言ひかけしが、ちて、椽側の上に釣れる竿架棚さおだなの上なる袋より、六尺程の竿一本をき取り来りて、之を振り廻しながら、
 主『竿は長くても短くても、理窟は同しですが、う構へてあたりを待ツてるでせう。やがて、竿頭さおさきの微動で、来たなと思ツても、食ひ込むまで、構はず置くです。鮒ですから…………。幾らか餌を引いてくに及んで始めて合せるです。合せるとは引くことで、たとへば、竿の手元一寸挙げれば、竿頭では一尺とか二尺挙り、ふわりと挙げると、がしツと手応へし、鈎は確かに彼奴きゃつの顎に刺さツて仕舞ひ、竿頭の弾力は、始終上の方に反撥しようとしてるので、一厘の隙も出来ず、一旦懸ツたものは、はずれツこ無しです。竿の弾力も、この為めに必要なのです。斯う懸けてさへ仕舞しまへば、後はあわてずに、いとを弛めぬ様に、引き寄せるだけで、間違ひ無いです。
 主『然るを、初心うぶの者に限ツて、合せと挙るを混同し、子供の蛙釣の様に、有るツけの力で、かう後の方へ、蜻蛉返り打せるから…………。』
と立膝に構へて、竿を宙にはねる途端に、竿尖は※(「木+眉」、第3水準1-85-86)間の額面を打ちて、みりツと折れ、仰ぎ見て天井の煤に目隠しされ、腰砕けてよろ/\と、片手を膳の真只中に突きたれば、小皿飛び、徳利ころび、満座酒の海となれり。主人は、尚竿を放たず、
『早く/\、手拭持つて来い。早く/\。』
と大に叫ぶ。客は身をひねりて、座布団の片隅を摘み上げ、此の酒難を免れんとしたりしが、其の時既に遅く、羽織と袴の裾とは、酒浸しとなり、
『少しきり、濡れませんでした。』
と、自ら手拭出して拭きたりしも、化学染めの米沢平、乾ける後には、さだめて斑紋ぶちを留めたらん。気の毒に。
主人は、下婢に座席を拭かせ、膳をあらためさせながら又話しを続けたり。
 主『合せが頑固ですと、斯様こんな失敗を食ふです。芝居の御大将ばかりで無く、釣は総て優悠迫らず有りたいです。此処にさへ御気が付けば、忽ち卒業です。どうです、一度往ツて見ませんか。僕は此の四日に往くですが…………。』
 客『竿は、何様どんなのが好いです。一本も持ちませんが。』
少しは気の有りさうなる返事なり。
 主『あの通り、やくざ竿が、どツさり有るですから、れを使ひ給へ。使はんでおくと、どうせ虫くふていかんです。』と、竿架棚を指し言ふ。
 客『只の一疋でも、釣れゝば面白いですが、釣れませうか。』
此れ、釣りせざる者の、必ず言ふ口上なり。
 主『そりア、富籤と違ツて、屹度きっと釣れる保証をするです。若し君が往くとすれば、僕は必勝を期して、十が十まで、必ず釣れる方策ほうさくに従ふから、大丈夫です。此の節の鮒釣には、河の深みで大物を攻めるのと、浅みに小鮒を攻めるのと、又用水堀等の深みで、寄りを攻めるのなど、いろ/\有るですが、必ず外れツこ無しを望むには、型の小さいを我慢して、この第二法をやるです。君が釣ツても、一束は楽に挙り、よく/\の大風でもなければ、溢れる気使ひは決して無いです。朝少し早く出かけて、茅舎ほうしゃ林園の、尚紫色むらさき濛気もやに包まれてる、清い世界を見ながら、田圃道を歩く心地の好いこと、それだけでも、獲物はすでに十分なのです。それから、清江に対して、一意専心、竿頭さおさきを望んでる間といふものは、実に無我無心、六根清浄の仏様か神様です。人間以上の動物です。たツた一度試して見給へ。二度目からは、かえツて、君が勧めて出るやうにならうから…………。』
と、元来の下戸の得には、僅一二杯の酒にて、陶然酔境に入り、神気亢進、猩々しょうじょう顔に、塩鰯しおいわしの如き眼して、釣談泉の如く、何時果つべしとも測られず。客は、最初より、其の話を碌々ろくろく耳にも入れず、返辞一点張りにて応戦し、隙も有らば逃げ出さんと、其の機を待てども、封鎖厳重にして、意の如くならず、時々の欠伸を咳に紛らし、足をもぢ/″\して、出来得る限り忍耐したりしも、遂にこらへられずして、座蒲団を傍にけ、
『車を待たせて置きましたから…………。』
と辞して起たんとす。主人は、少しも頓着せず、
 主『僕も、車を待たせて、釣ツたことあるです。リウマチを病んでた時、中川の鮒が気になツて堪らず、といふて往復に難義なので、婚礼の見参と、国元の親爺の停車場すていしょん送りの外は、絶えて頼んだことの無い宿車を頼んで、出かけたです、土手下に車を置かせ僕は川べりに屈んで竿をおろしたでせう。
 主『初めの内は、車夫が脇に付いてゝ、「旦那まだ釣れませんか、まだ釣れませんか」と、機嫌きげんを取りながら、餌刺の役を勤めてゝ呉れたが、二三時間の後には、堤根腹ねはらに昼寝して仕舞ひ、僕は結句気儘に釣ツてたです。
 主『生憎あいにく大風が出て来て、※(「魚+與」、第4水準2-93-90)たなご位のを三つ挙げた丈で、小一日暮らし、さて夕刻かえらうとすると、車は風に吹き飛ばされたと見え、脇の泥堀どぶの中へのめツてたです。引き上げさせて見ると、すツかり泥塗どろまみれでとても乗れやしない。さればといふて、歩いて還ることの出来ない貨物しろものなので、やむを得ず、氷のやうな泥の中に、乗り込んで、還ツたことあるですが、既に釣を以て楽しまうとする上は、此の位の辛抱は、何とも思はんです。』
 客『まだ御飯前ですから、失礼いたします。』
 主『釣を始めると、御飯などは頓と気にならず、一度や二度食べずとも、ひだるく思はんのが不思議です。それに、万事八釜やかましいことを言はぬやうになるのが、何より重宝です。度々釣に出かけると、何だか知れないが、家の者に気兼するやうな風になツて、夜中に、女どもを起すでも無いと、自分独り起きて炊事することも有るですし、よし飯焚をないにしても、朝飯とお弁当は、お冷でも善い、菜が無いなら、漬物だけでも苦しうない、といふ工合で、食ぱんのぽそ/\も、むせツたいと思はず、餌をつまんだ手で、おむすびを持ツても、汚いとせず、ごく構はず屋に成るから、内では大喜びです。』
と、何が何やら分らぬ話しながら、続けざまの包囲攻撃に、客はいよいよ逃げ度を失ひて、立膝になり、身をもぢ/″\して、
『少し腹痛しますから、失礼します。』
と腹痛の盾をかざして起たんとす。主人は尚、
 主『腹痛なら、釣に限るです。釣ほど消化を助くるものは無いですから、苦味丁幾くみちんきに重曹跣足はだしで逃げるです。僕は、常に、風邪さへ引けば釣で直すです。熱ある咳が出るとしても、アンチピリンや杏仁水きょうにんすいよりは、解熱鎮咳の効あるです。リウマチも、釣を勉めて、とう/\根治したです。竿の脈の響を、マツサアージなり、電気治療なりとし、終日日に照されるを、入湯と見れば、廻り遠い医者の薬よりは、其の効神の如しです。殊に呼吸器病を直すには、沖釣に越す薬無いと、鱚庵老きすあんろうの話しでしたが、実際さうでせう。空気中のオゾンの含量が、まるで違ツてるですもの。』
立膝のまゝなる客は、ほと/\困りて揉手をしながら、
『まだ二三ヶ所寄る所ありますから…………。』
と、一つ頓首とんしゅすれども、主人は答礼とうれいどころか、
 主『野釣は、二三ヶ所に限らず、十ヶ所でも、二十ヶ所でも、お馴染みの場所に、寄ツて見んければいかんです。其のうちにぶツつかるですから…………。併し、不精者にはだめです。要所々々を、根よく攻めて歩かんければならんですもの。』
と、右の手を水平に伸べ、緩かに上下して、竿使ふ身振りしながら、夢中に語り続けて、何時已むべしとも見えず。立往生の客ばかり、哀れ気の毒に見えたりしが、恰も好し、某学校の制服着けたりし賀客両人、入り来りしかば、五つ紋の先客は、九死の場合に、身代りを得たる思を為し、匆々そうそう辞して起ちたりしが、主人は尚分れに臨み、
『それなら、四日の朝四時までに、僕の家に来給へ。道具も竿も、此方で揃ひてやるから、身体ばかり…………。霜が、雪の様に有ツてくれゝば、殊に好いがね。』
と、※(「木+厥」、第3水準1-86-15)くさびをさしぬ。
この翌日届きし、賀状以外の葉書に、
『拝啓。昨日は永々御邪魔仕り、奉謝候。帰宅候処、無拠よんどころなき用事出来、乍残念、来四日は、出難く候間、御断おことわり申上候。此次御出遊の節、御供仕度楽み居り候。頓首。』
と、有りければ、主人は之を見ながら、
『又拠ろ無き用事か。アハヽヽヽヽヽ。』





底本:「集成 日本の釣り文学 第二巻 夢に釣る」作品社
   1995(平成7)年8月10日第1刷発行
底本の親本:「釣遊秘術 釣師気質」博文館
   1906(明治39)年12月発行
※ルビを新仮名遣いとする扱いは、底本通りにしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2006年10月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について