数日前、船頭の
許に、船を用意せしめおきしが、恰も天気好かりければ、大
生担、餌入れ
岡持など
提げ、
日暮里停車場より出て立つ。時は、
八月の二十八日午后二時という、炎暑真中の時刻なりし。
前回の出遊には、天気思わしからず、
餌も、
糸女のみなりしに、尚二本を獲たりし。今日の空模様は、前遊に比べて、好くとも悪しき
方には非ず。殊に
袋餌の用意有り、好結果必ず疑い無し。料理界にてこそ、
鯉は川魚中の王なれ、懸りて後ちの力は
鱸の比に非ず。
其の姿よりして軽快に、躍力強健に、
綸に狂ひ、波を打ち、一進一退、牽けども痿えず、
縦てども弛まず、釣客をして、
危懼しながらも、ぞくぞく狂喜せしむるものは只鱸のみにて、
釣界中、
川魚の王は、これを除きてまた他に求むべからず、今日品川沖に
赤目魚釣に往きし
忘筌子、利根川(江戸川)に鯉釣に出でし
江東子に、獲物を見せて愕かし
呉るるも一興なり。など空想を描きつつ窓によりて進む。
田の
面一般に白く、今を盛りと咲き競うは、
中稲にて、己に薄黒く色つき、穂の形を成せるは
早稲にやあらん、
田家の垣には、萩の花の打ち乱れて、人まち顔なるも有り、青
無花果の、枝も撓わわに
生りたる、
糸瓜の蔓の日も漏さぬまでに這い広がり、蔭涼しそうなるも有り、
車行早きだけ、送迎に
忙わし。
成田線なる
木下駅にて下車す。船頭待ち居て、支度は既に整えりという。喜びて共に
河辺に至る。洋々たる水は
宛がら一大湖水を
湛わし、前岸有れども無きが如くにして、遠く碧天に接し、上り下りの帆影、
真艫に光を
射りて、眩きまでに白し。其の
闊大荘重の景象、自ら
衆川の
碌々に異れり。
乗り移るや
否、船頭直に櫓を執り、熟地に向う、漁史膝を抱きて、
四辺を眺めながら、昨日一昨日の漁況は
如何なりしと問えば、『一昨夜は、例の浅草の旦那と出でたりしが、思わざる事件持ち上りたり』という。『事件とは何ぞ』と問えば、『近来の
椿事なり』とて、語る。
『旦那がお
出になって、例の処で始めますと、
昼の雨が利いたのでしょう、打ち込むや否懸り始めて、三年四年以上の
計り、
二十一本挙げました。只の一本でも、無雑作に挙るのが有りませんでしたから、近くに繋ってた船にも、能く知れますのです。土地の漁師の船も、近くで行ってましたが、奴等は、赤っ腹位捕って喜んでる手合計しで、本物は、何時も江戸の方に抜いてかれてますので、内心縄張内を荒らされてる様な気が仕てます、矢先へ二十一本というものを、続けざまに拝見させられましたから、焼餅が焼けて堪らなかったと見え、何でも一時ごろでしたろう、十杯
許の船が一緒になって、文句を言いに来たです。』
漁『それは、怖いこったね。』
船『全く怖かったです。此地の船を取り巻いて、「おい、お前は何処の漁師だ」と、斯ういう切っかけです。「何処の漁師でもない、素人だ」と言いますと、「
其様なに隠さずとも好いだろう、相見互だもの、
己等の付合も為てくれたって、好さそうなもんだ」など、嫌味を言って、
強請がましいことを、愚図々々言ってますのです。私も顔を知らない中では無し、黙っても居られませんから、宥めてやりましたので、何事も無くて済みましたが、お客を預かってて、若しもの事でも有れば、此の松吉の顔が立ちませんから、ちと心配しましたよ。ただ、何の事は無い、「素人で
左様釣っては、商売人の顔を踏み付けた仕打ちだ、大抵好い加減に釣ってれば好いに」という、
強談なのです。』
漁『上手な釣師も
険呑だね、僕等では、其様な談判を持ち込まるる心配も無いが。アハハ……。』
船『私も随分永く此川に、釣を商売にしてますが、ああいう大釣は、これまでに無いですよ。何だって、一本五貫ずつにしましても十二両、十貫にすりゃ二十一両の仕事ですもの。どうも、お茶屋さんは、えらいですよ。』
漁『そう当っては、素人釣とは言われないね。立派な本職だ。』
船『本職が何時も
敵はないんですもの。』
お茶屋主人の好く釣ること、聴く毎に嘆賞すべきことのみにて、
釣聖の名あるも空しからざるを知りぬ。
船『私どもを連れて来ましても、船を扱わせるだけで、場所の見立ては、何時も御自身なのです。も一尺岡によれとか、三尺前に進めろとか、鈎先はそりゃ喧ましいです。それだから又釣れますので、幾ら名人でも、
地が分らなくては釣れっこ無しです。時によると、遙々お出になっても、
水色が気に入りませんと、鈎をおろさずにふいとお帰りになります。こればかりでも並のお方の出来ないことですよ。』
『左様だて、来た以上は、少し位水色が悪かろうが、天気が悪かろうが、鈎おろさずに帰るということは出来ないさ。聴けば聴く程感心な、奇麗な釣だね。』
釣り場は、僅数町の上流なるにぞ、間も無く漕ぎ着きぬ。漁史は、錨綱を繰り放つ役、船頭は
※[#「爿+可」、U+7241、237-7]突く役にて、前々夜、
夫のお茶屋
釣聖のかかりという、
切っ
ぷの大巻きに鈎尖の漂う加減に舟を停めぬ。日光水面を射て、まぶしさ堪えがたかりしも、川風そよそよと
衣袂を吹き、また汗を
拭う要無し。
仕掛、座蒲団などを
舳の間に持ち往きて、座を定め、水色を見ながら、錐打ち鈴刺す快心、得も言われず。
漁『ランプの油やマッチは、
受合だろうね。』
船『出る前に、すっかり見て置きました。』
漁『それなら好いが……。松さんの前で、そう言っちゃ何だが、
でも船頭に限って
吃度忘れ物をするのでね。水を忘れた、餌入を忘れた、
焚付を忘れたなんて、忘れ物をされると、
折角楽みに来ても、却って腹立てる様になるからね。此の前、
鱚の時に、僕の
品匡を忘れられて、腹が立って立って堪らんから、そのまま漕ぎ戻らせて仕舞ったこと有ったが。』
船『何一つ不足でも、思う様な戦争出来ませんよ。釣だと思うからですが、生命のやり取りをする戦争だと思えば、
淦取一つでも忘れられる筈無いですが。』
漁『ほんに、其の心がけでやってくれるから、嬉しいね。ア、
餌入れ、日に当てない様にして下さい。』
船『
半天かけておきましたから、大丈夫です』
漁『それなら好いが……。今日は、袋持って来たよ。』
船『袋は結構です。どうしても、えら物が来るようです。お茶屋さんも、袋でした。』
小桶の水に
漬け置ける
綸巻取り出し、そろそろ用意を始む。鈎は、四
分なれば、其の太さ
燐寸の軸木ほどにて、丈け一寸に近く、屈曲の度は並の型より、懐狭く、
寧ろひょっとこに近く、怪異なり。漁史自ら「
鈎政」に型を授けて、
特に造らせしものに係る。これを結びたる
天糸は、本磨き細手の八本
撚りにて、玲瓏たる玉質、水晶の縄かとも見るを得べく、結び目の切り端の、
処々に放射状を為すは、
野蚕の
背毛の一
叢の如し。十五匁程の
鉛錘は
進退環によりて、
菅絲に懸る。綸は太さ三匁其の黒き事漆の如く、手さわりは好くして柔かなるは、春風に
靡く青柳の糸の如し。されども之を夫の
鮒
を釣る織細の釣具に比する時は、
都人士の夢想にも及ばざる粗大頑強のものたるは言うまでもなし。
さて、小出し桶に受取りし
餌を摘み取り、糸女、
沙蚕三十筋ばかりと、袋餌数筋を刺す。其の状、
恰も緋色の房の如く、之を水に投ずれば、一層の艶を増して
鮮かに活動し、如何なる魚類にても、一度び之を見れば、必ず
嚥下せずには已むまじと思われ、
愈必勝を期して疑わず。
二仕掛を
左右舷に下し終り手を拭いて
烟を吹く時。後の方には、船頭の鈴を弄する声す。亦
投綸に取りかかりたるを知る。
彼是する間に、水光天色次第に金色に変じ、美しさ言うばかり無し。常の釣には暮色に促されて竿を収め、日の短きを恨みて、
眷々の情に堪えざるを、今日のみは、これより夜を徹せん覚悟なれば、悠々として帰心の清興を乱す無く、殊に愈本時刻に入るを喜ぶは、夜行して暁天に近づくを喜ぶに同じく、得意の興趣、水上に投射せる己が影の長きより長し。
舷に倚り手を伸べて右の
示指に綸を懸け、緩く進退しながら、
漁『松さん、
鈴よりか、
指の方が、脈を見るに確だね。』
船『左様です。始終、指だけで済みますなら、それに越したこと有りませんよ。鈴の方は、先ず不精釣ですもの……。』
船『どうも、そうの様だて。鈴では、合せる呼吸を取り損ねる気がして……。』
船『
此間、根岸の旦那と、植木やの親方の来ました時、後で大笑いなのです。』
漁『お二人一緒に釣ってまして、植木やさんが
水押に出てお小用してますと、「チリン」、と一つ来ましたので、旦那が、「おい、お前のに来てるよ」と、仰有る内に、綸をするするするする持ってきますが、植木やさんは、少し
痲の
気でお小用が永いですから、急に止める訳にもいかず、此方を振り反って見て、「おいおい、そう引くな、少し待って呉れ」と言ってたというのです。』
船『旦那は、余程、
合せてやろうかと、一旦は手を伸べたそうですが、若しも
逸らして、後で恨まれてはと、思いなすって、「おいおい引いてくよ、引いてくよ」と、仰有るだけなもんでしたから、植木屋さんは、猶々気が気で無く、やっとの事で降りて来ましたが、綸は、ずっと延びてますので、引いて好いのか、出さなければ悪いのか、一寸は迷って仕舞って、綸に手をかけて見たものの、仕様無かったと、言ってました。』
漁『水押の上では、随分、気を揉んだろう。見てやりたかったね。どうしたろ。挙ったか知ら。』
船『挙ったそうでした。三歳が……。』
漁『運の好い時には、そういうことも有るんだね。』
船『全く運ものですよ。
此間、お茶屋の旦那の引懸けたのなどは、引いては縦ち、引いては縦ち、幾ら痿やそうとしても、痿えないでしよう。やや暫くかかって漸く
抄い上げて見ると、大きな塩鮭程なのでしょう。私が急いで
雑巾を取るか取らないに、(顎の骨にて手を傷つけらるるを恐れ、鱸をおさえるには、皆雑巾を被せておさえる習いなり)ずとんと、風を切って一つ跳ねるが最後、
苫を突きぬいて、川中へ飛び込んで仕舞ったです。
全で
落語家の
咄しっても無いです。が、綸はまだ着いてましたので、旦那は急いで綸を執る、私は苫を
解すで、又二度めの戦争が始まりましたが、どうかこうか抄い上げました。其時私は、思はず鱸の上に四ん這いになって、「今度は逃がすものか、跳ねるなら跳ねて見ろ」って、威張りましたよ。旦那が、後で、「お前が腹這いになった時の様子っては無かった。鱸と心中する積りだったのだろう」って、お笑いでしたが、あれらは、能くよく運の尽きた鱸でしたろう、不思議に鈎が外れないでましたもの。』
漁『それは、珍らしい取組みだったね。三尺といっちゃ、聴いただけでも、ぞくぞくするね。其様な化物が出るから、此地で
行りつけると、中川や新利根のは、鱸とは思われないのだね。』
斯ること相話しながら、
神を二本の綸に注ぎ、来るか来るかと、待ちわびしが、僅に、
当歳魚五六尾挙げしのみにて、
終に
一刻千金と当てにしたりし日も暮れぬ。
薄暗き小ランプを友として、夕飯を喫す。西天を彩れる夕映の名残も、全く消え果て、星の光は有りとは言へ、水面は、空闊にして、暗色四面を
鎖し、いよいよ我が船の小なるを想うのみ。眼に入るものは、二三の
漁火の星の如く、遠くちらつくと、稀に、銚子行汽船の過ぐるに当り、船燈長く波面に
揺き、
金蛇の
隠現する如きを見るのみにして、樹林無く、
屋舎無く、人語馬声無く、一刻一刻、人間界より遠ざかる。唯、蚊の襲来の多からざると、涼風衣袂に満ちて、日中の炎塵を忘るるとは、最も快適の至りにして、殊に、ここ暫くの勝負と思えば、神新に気更に張る。
されば、更るがわる鈎を挙げて、
餌を更め、無心にして唯
中りを待ちけるに、一時間許り
経ける時、果して鈴に響く。直ちに、綸を
指して試むれば、尚放れざるものの如く、
むずむずと二つ三つ感じたり、即ちそと引きて合せたるに、正に手応えありて懸りたるを知る。
『来たよ。』と叫びながら、両手にて
手繰り始むれば、船頭直ちに、他の一仕掛を挙げ尽し、鈴をも併せ去りて、搦まるを予防しつつ、
『大きがすか。』という。身を少し前に屈め、両手を、船の外に伸べて、綸を手繰れる漁史は、喜ぶ如く、悲む如く、
『幾ら大きいか知れないよ。船でも引き寄せるようだ』と答えれば、船頭已に
玉網を手にして起ち、『
急いではいけません、十分で弱りきるまで痿やして。』と言いつつ例の如く、
直ちに水押の上に俯して、半身殆ど船外に出し、
左手を伸べて、綸を拇指と示指の間に受け、船底にかき込まるるを防ぎ、
右手に玉網の柄を執りて、
介錯の用意全く成れり。
漁史は、手応の案外強きに呆れ、多少危懼せざるに非ざれども、手繰るに従いて、
徐々相近づくにぞ、
手を濡らしつつ、風強き日の、十枚紙
鳶など手繰る如く、漸く引き寄す。
思の外、容易に近づくか知らと、喜ぶ時、船前五間許の処にて、がばがばと水を撥ねたるは、十貫目錨を投じたる程の水音にて、船は為めに揺られて上下せり。
これと同時に、敵は全力を振いて、
延し始めたれば、
素より覚悟のこととて、
左右三指ずつにて、
圧を加えながら繰り出す、その引力の強き、指さきの皮剥けんかと思うばかりなり。
彼是二十
尋ばかり引き去りて、止まりたれば、即ち又手繰れるに、ごつごつと、綸に従きて近づく様明に知れ、近づきては又急に延し、其の勢いの
暴き、綸はびんびん鳴りて、切るるか切るるかと、胸を冷せしことを一再のみならず。漁史綸を出しながら小声に、『何だって、馬鹿に強いよ。』と言えば、死したる如く、水押に俯伏して動かざる船頭、
『左様でしょう。六年ですよ。此の調子では、また一寸には痿えますまい。』と声を低めて言う。
漁『切られるかと思って、何だか怖くなって来た。』
船『なアに大丈夫です。気永くおやりなさい。』
漁史の動悸は、一秒毎に高まり来り、嬉しいには相違なきも、危惧の念亦一層強く、たとえ十分信頼せる
釣具にせよ、首尾よく挙げ得るや否やを、気遣うことも頻りなり。
引き寄せては引かれ、寄せては引かれ、数回くり返せども、敵の力は、少しも衰えず。其の引き去るに当りては、一気直に海洋まで逸し去らんとするものの如く、綸の弾力部を全く引き尽して、また余力を存せず、屡、奇声を発す。されども、
暗中ながら、綸を
紊すことも無く、力に従いて相闘いしかば、三十分許りの後には、船頭の助けを得て、
沈を手元に引き留むるを得たり。
既に沈を上げし上は一安心なり、早く挙げ終りて、船頭の苦みを除きたしと、引く時は、敵を怒らしめざるように処女の如く引き、引かるる時は、船まで引き去られん勢に逢い、
鰓洗う声の、暗中に発する毎に、胸を刺さるる如き思いを為し、口食ひしめ、眼見張りて、両手は殆んど水に漬け続けなり。
ただ、根競べにて、勝を制せんと思うものから、
急らず
逼らず、
擒縦の術を尽せしが、敵の力や多少弱りけん、四五間近く寄る毎に、翻然延し返したる彼も、今回は、やや静かに寄る如く、
鈎※[#「虫+系」、U+272EC、243-13]の結び目さえ、既に手元に入りたれば、船頭も心得て、
玉網を擬し、暗流を見つめて、浮かば
抄わんと相待つ。此方は、成るべく、彼を愕かさじと、徐々と、一尺引き五寸引き、次第に引き寄せしが、船前六尺ばかりにて、がばと水を
扇りて躍り、綸の張り卒然失せぬ。逸し去りしなり。
『ちェッ』と舌打ちして、二三秒間、綸を手にせるまま、船前を見つめしが、次で船内にどっと打ち伏して無言なり。今まで、一時間近く、水押に水を
漬せる船頭は、玉網片手にすごすご身を起し来りて。
『どうなさりました。』と、漁史の肩に手かけ、少し揺りつつ問えども、答えず。実は、泣き居しなりき。拳を振りしめたるに顔を当て、思えば思う程、
腸は煮返る如くにて、熱涙は自ら禁ぜず。
船頭は、悄然として再び、『お気の毒でしたね。』と慰む。伏したる漁史の口よりは、微かに、『どうも、お前にも気の毒で。』
船『なアに、私などに、其様な御遠慮はいりませんよ。水ものですもの、何方だって……。』
漁史は、これには、返辞無かりし。船頭は急病人の看護者の如く、暫く其の側を離れざりしが、『また幾らも来ますから……』とて、静に坐に直り、綸を
埋めて、更め投下しぬ。
漁史は、
徐に身を起し、両腕
拱きて
首を垂れしまま、前に輪を為せる綸を埋めんともせず、小ランプに半面を照されて、唯深く思いに沈むのみなり。
茶屋の主人なる人常に言えり。世人、
釣り落せし魚は、大きなるものなりと、嘲り笑えども、釣師の掛直のみならず、釣り落せしは実に大きなり。一尺のものを目当てに釣るに、三尺なるが懸る故に
逸らすなり。されども、この三尺なるは、
頻々懸るものに非ざれば、
之を挙げ得て、
真の釣の楽みあるなり。故に、釣具にも、術にも、十分の注意を要するなりと言えり。
彼の人又言えり。
釣に適したる水加減、天気工合の、申し分無き
日とては、一年に僅三日か五日なり、此の、僅の日に釣りたるだけにて、一年の
釣楽は十分なりと。実に、彼の人は、夏の土用より、彼岸までに、出遊する日は、僅に指を屈するに過ぎず。彼岸となれば、釣具を深く蔵めて、釣の話しだにせず、世の紛々たる、釣師の、数でこなす派のものを、冷眼に見て、笑えり。其の代り、彼の人の
出遊する毎に、
必ず満籃の喜び有り、一たび鈎を投ずるを惜むこと金の如く、投ずれば、必ず好結果を期待して誤らず。恰も、台湾
生蕃の、銃丸を惜むこと生命の如く、一丸空しく発せず、発せば必ず一人を
殪すに似たり。実に、思えば思う程、男らしき釣なり。
その代り、
釣具其の他に対する注意も、
極めて周到緻密にして、常人に同じからず。たとえば、
鈎は自ら新型を工夫して、製作せしめたるを、一本ずつ、其の力を試験したる上ならざれば用いず、それすら、一尾釣り挙げし毎に、新物に改めて再び用いしことなし、
綸の如きも、出遊毎に、数寸ずつ切り
棄てて、
※[#「虫+系」、U+272EC、245-9]との結びめを新にし、疲れたる
綸※[#「虫+系」、U+272EC、245-9]を用いず、言わば、
一尾を釣る毎に、
釣具を全く新にするなり。鈎をおろすに
方りて、大事とること総て此の如くなれば、一旦懸りたる魚は、必ず挙げざる無く、大利根の王と推称せらるるも
理りなり。
よし、三つ児のおろせし餌にせよ、魚の呑むには変り無し、ただ之を拳ぐるが六ヶしきにて、
釣師の腕の巧拙は、多くここに在り。然るに、予が今の失敗は何事ぞ、鈎折れしか、※
[#「虫+系」、U+272EC、245-13]切れしか、結び目解けしか、或は懸りの浅かりしにや、原因の何れにあるを問わず、一旦懸りしものを逸らせしは、返す返すも遺憾なり。ああ口惜しきことしたり、此の取り返しは、一生の中に、又と望むべからず、思えば思うほど残念なり。其の癖、綸は、今年おろして間も無く、
腐蒸居るべしとも思われず、綸の長く延び居る際は、思いの外安全なれども、近く寄せて格闘する際に、不覚を取ること多きは、予も知らざるに非ず。されば、
沈より先きなる※[#「虫+系」、U+272EC、246-1]は、大事の上にも大事を取り、上○の八本よりを用いたれば、容易に切るるべしとは思わず。水にふやけて弛みし節の解けたるにや。一回毎に切り棄てることを敢てせざりし為めに、鈎近くの※
[#「虫+系」、U+272EC、246-3]の疲れ居て、脆く切れたるにや、何れにしても、偶に来れる
逸物を挙げ損ねたるは、
釣道の大恥辱なり。ただ一尾の魚を惜むに非ず。釣道の極意を得ざりしを惜むなり。と、
兎さま
角さまに、苦悶し、懊悩し、少時は石像木仏の如し。船頭、余り気を落せるを見て、
『旦那
如何です。此の潮の好い処を、早くお
行りになりませんか。』と励ませども身体は尚少しも動かず、『そうだね』と力無き返事せるのみにて、気乗りせず、尚悔恨の淵に沈む。
やがて、豁然として我に返り、二タ仕掛の綸を、餌入の上に致し、一箱のマッチを傾けて火を点ずれば、濡れたるものながら、火

を高めてぱっと燃え、奇臭鼻をつく。船頭見て愕き、走り来りて、
『どうなさいますのです。何かお腹立ちなのですか。』と、燃え残りの綸屑※
[#「虫+系」、U+272EC、246-12]屑を掻き集めて、再び燃さんとせし漁史の手をおさえて言う。
漁『
其様なわけでないのだから、決して悪く思って呉れては困るよ。僕は、今夜はよす。』
船『其様な気の弱いことっては有りますか。お
行りなさい、私の仕掛も有りますし。』
漁『仕掛は、僕の方にも有るが、もう行らない。彼是一時間かかって痿やしたものを、
逸らすなんて、余り気の利かない話しだから、記念の為めに、今夜は帰るよ。』
漁『どんなのでも、
懸ったら最後、
逃しっこ無しというが、
真の釣だろう。それを、中途で逸らすようでは、岡っ張で、だぼ
沙魚を
対手にしてる連中と、違い無いさ。随分永らく釣を行った癖に、今夜の不首尾は、自分ながら呆れるよ。それやこれやに就て、思えば思う程、浅草の方は感心で堪らぬ。
彼の人の様に、僅五日三日きり出ずとも、
他人の一年間釣る量よりも多い程釣り挙げて、十分楽むのが本当だろう。僕も、今日以後は、念には念を入れて、
苟もしないと言う方針を取り、粗相だの、不注意だのということは、薬にしたくも無い様にしよう、折角出て貰って、ここで帰るのは残念だが、跡の薬になるから、今夜は戻ろう。』
と、理を説きて帰航を促したれば、船頭も、意
解けて、釣具を納め、錨を挙げ、暗流を下りけるが、更に再遊を約して、相分れき。
再び汽車に乗り、家に帰りしは、十時近にして、廊下に涼を
納れ居たる家族は、其の思いがけ無き早帰りを訝りぬ。されども、漁史は、発刺たる鮮鱗以外、大なる獲物を挙げしを喜び、此の夜は、快き夢を結びき。