宝塚生い立ちの記

小林一三




        四十年前の宝塚風景

 私が宝塚音楽学校を創めてから、今年でちょうど四十一年になる。今日でこそ、大衆娯楽の理想郷としてあまねく、その名を知られている宝塚ではあるが、学校をはじめた当時は、見る影もない寂しい一寒村にすぎなかった。
 そして宝塚という名称は、以前には温泉の名であって、今日のような地名ではなく、しかもその温泉は、すこぶる原始的な貧弱極まるものであった。その温泉の位置はやはり現在の旧温泉のある附近ではあったが、ずっと川の中へ突き出した武庫川の岸にささやかな湯小屋が設けられていて、その傍らに柳の木が一本植わっていた。そして塩尾寺へ登って行く道の傍らに、観世音を祀った一軒の小屋があって、尼さんが一人いた。湯に入るものはそこへ参詣をしてから、流れの急な湯小屋の方へ下りて行ったものだ。その湧出する鉱泉を引いて、初めて浴場らしい形を見せたのは、明治二十五年のことであり、それ以後保養のために集って来る湯治客は、やや増加したとはいうものの、多数の浴客を誘引する設備に欠けていたので、別にめざましい発展も見られなかった。
 その後、阪鶴鉄道の開通とともに、宝塚温泉は急速な発達を遂げて、対岸に宿屋や料亭が軒をならべるに至ったのであるが、明治四十三年三月十日、箕面有馬電気軌道株式会社(現在の京阪神急行電鉄株式会社の前身)の電車開通当時は、武庫川の東岸すなわち現在の宝塚新温泉側はわずかに数軒の農家が点在するのみで、閑静な松林のつづく河原に過ぎなかった。
 箕面有馬電気軌道はその開通後、乗客の増加をはかるためには、一日も早く沿線を住宅地として発展させるより外に方法がなかった。しかし住宅経営は、短日月に成功することはむずかしいので、沿線が発展して乗客数が固定するまでは、やむをえず何らかの遊覧設備をつくって多数の乗客を誘引する必要に迫られた。そしてその遊覧候補地として選ばれたのが、箕面と宝塚の二つであった。こうして箕面にはその自然の渓谷と山林美とを背景にして、新しい形式の動物園が設置され、宝塚には武庫川東岸の埋立地を買収して、ここに新しい大理石造りの大浴場、および瀟洒な家族温泉を新設する計画をたて、明治四十四年五月一日に完成した。当時としてはモダーンな娯楽場として発足したのである。

        無理にこしらえた新都会

 元来宝塚は、大阪市と神戸市より程近い地点にあって、美しい六甲の峰つづきである譲葉嶽の山麓に位して、生瀬の渓谷から奔流して来る武庫川の早瀬にそうた、すこぶる風光明媚な景勝の地であるので、新温泉場の出現とともに来遊客は非常に増加した。また箕面動物園も、いろいろの設備を充実するにつれて来遊者は増加し、予想外の好成績を挙げたが、しかし宝塚新温泉の経営開始後間もなく、その方針は一変されて、箕面公園はこれを俗塵の境として、その自然美をそこなうよりは、むしろ煤煙の都に住む大阪の人々のために、天然の閑寂を保つにしかずという主義によって森林美、箕面公園の大自然を永久に保護しようということになり、ここに宝塚経営に集中主義をとることとなり、箕面動物園はついに閉鎖された。
 そこで宝塚新温泉内の娯楽設備を充実させることとなり、明治四十五年七月一日には近代的な構造の洋館を増設して、室内水泳場を中心とした娯楽設備を設けて、これをパラダイスと名づけた。このプールの設計は、その当時の日本にはどこにも無い最初の試みであったが、時勢が早すぎたことと、蒸気の通らない室内プールの失敗と、女子の観客を許さない取締りや男女共泳も許さないといういろいろの事情から、利用される範囲がすこぶるせまく、結局失敗に終ってしまった。
 この水泳場を利用して、温泉場の余興として、遊覧客を吸収しようという計画がいろいろと考えられた。その頃、大阪の三越呉服店には、少年音楽隊なるものがあった。二、三十人の可愛らしい楽士が養成され、赤地格子縞の洋装に鳥の羽根のついた帽子を斜めにかぶって、ちょっとチャアミングないでたちで、各所の余興にサービスをして好評であった。宝塚新温泉もこれをまねて、三越の指導を受け、女子音楽隊を設けることにした。十五、六名の少女を募集し、唱歌をうたわせようという宝塚唱歌隊なるものを組織することになったのである。
 これは裏話になるが、当時ほとんど何もなかった宝塚の地へ、あんな無理なことをやったのは、電車を繁昌させなくてはならないから、何とかしてお客をひっぱろうとしてやったことで、何も宝塚というところがいいからといってやったわけではない。電車事業というものは都会と都会を結ぶからいいので、宝塚線のように、一方に大阪という大都会があっても、一方が山と川ではダメだから、何かやらなくてはならないというわけで、従って宝塚は無理にこしらえた都会である。
 だから宝塚にあれだけの大きなものをこしらえていても、終戦後に使った金の方がおそらく多いであろう。近頃のことはわからないけれども、私がやった頃は二、三千万円でできた。それを改装したりするのに、終戦後恐らく七、八千万円は使っているであろう。しかし今日でも、一億円にはなっていないから、考えてみると安いものであった。今あんなものをつくったら、恐らく何十億かかるかもしれないと思うと、感慨の深いものがある。

        「宝塚歌劇」の誕生

 また私が宝塚歌劇をはじめるについて、いろいろ若い人の間には伝説のような話が伝わっているらしいが、前にも書いたように三越唱歌隊からヒントを得たものだ。しかしこんなこともあった。まだ宝塚歌劇を創めない前に、私は帝劇でオペラを見たことがある。三浦環や清水金太郎らが出ていて、演し物は「熊野」であった。ところが、それを見ながら観客はゲラゲラ笑っている。そのころの観客は大体芝居のセリフ、講談のセリフを聞きつけている人たちだから、『もォーしもォーし』といって奇声を発してやるのがおかしくてしようがない。だが見渡すと、それを笑わないで聞いている一団が三階席にいた。三階席の中央部にいた男女一団の学生達である。私は冷評悪罵にあつまる廊下の見物人をぬけて三階席に上って行った。みんな緊張して見ている。僕はそこへ行って、
『あなた方、これがおもしろいのですか』
と、聞くと、
『三浦さんはこうだ、清水金太郎はこうだ』
と、批評をする。それは音楽学校の生徒であった。私には音楽学校でそういうものを習っているな、ということがわかった。オペラの将来が洋々と展けていることを知った。
 もっとも、その前からそのくらいのことは多少知っておったけれども、いよいよ自分が少女歌劇をやり出すについて、これは笑うどころじゃない、みんな必ずついて来るという確信がついた。それからは私はどんどん自分の考えどおり進むことができたものだ。
 それはさておき、このようにして、大正二年七月、宝塚唱歌隊第一期生として、左の十六名の少女達が採用されたのであった。
  高峰妙子   雄山艶子   外山咲子   由良道子
  八十島楫子  雲井浪子   秋田衣子   関守須磨子
  三室錦子   小倉みゆき  大江文子   松浦もしほ
  三好小夜子  筑波峰子   若菜君子   逢坂関子
 その指導者としては安藤弘氏、唱歌は安藤智恵子夫人、音楽は高木和夫氏、事務の方面は温泉主任安威勝也、藤本一二(藤本令妹は音楽学校出身で、その関係から安藤夫妻が選ばれたのである)両氏等の指導の下に、唱歌隊としての教育を行なうこととなった。
 多年歌劇に対する一つの理想を持っておった安藤弘氏を、当時その任に得たことは宝塚の幸運であった。
 安藤弘氏は、第一次鳩山内閣文相、安藤正純氏の弟であって、本願寺の坊さんもしたことのある人である。三浦環(旧姓柴田)という世界的オペラシンガーが上野音楽学校を卒業した時に、そのクラスの中で、三浦環の競争者で、それを負かして首席で出た小室智恵子という一人の女性があった。
 彼女の父は三井物産の重役で、ながらく外国生活をしてきた小室三吉氏である。幼き頃、彼地で教育をうけた智恵子さんは帰国して、上野で勉強する頃、同級生の秀才安藤弘と恋愛をした。ところが、その頃大正二、三年の頃の音楽学校は、官立学校の常として、コチコチで、生徒どうしの恋愛関係は厳しい批判の的になった。言うなれば御法度破りの反逆児だ。
 この天才的な二人が夫婦になって宝塚へ来てくれた。それは新温泉の従業員であった三田出身の藤本一二君の妹さんが、環、智恵子両女史と同級のピアニストである関係から、お世話して頂いたものである。そして、奥さんは声楽を教え、主人はピアノを作曲し、自分でも弾いたりした。しかし舞台へ出て弾くのは困るからというので、今の高木和夫というピアニストを雇って来た。
 こういうふうにして宝塚歌劇というものが誕生したのである。
 ところで、その頃の考え方として、ただ単に唱歌をうたうのみでは余りに単純過ぎる。よろしく歌劇を上演すべしという主張と、歌劇という名目にとらわれて、高踏的に走り過ぎては温泉場の余興とはなり得ない。一切の理論から離れて、平易なやり易いものをという経営者の方針と、一時衝突したこともあったが、結局双方からあゆみよって、振付として高尾楓蔭氏、久松一声氏等が招聘され、第二期生として瀧川末子、篠原浅茅、人見八重子、吉野雪子の四名がくわわって、ここにはじめて宝塚少女歌劇養成会が組織されたのである。
 宝塚少女歌劇養成会の教育方法は、すべて東京音楽学校の規則にのっとり、入学資格だけは小学校修業十五歳以下の少女にかぎり、修業年限を三年とし、その間に器楽、唱歌、和洋舞踊、歌劇を教授するものであって、我が国でもはじめての試みであった。

        水泳場の仮舞台で初公演

 さきに募集した第一、二期生達は、舞台に必要な基本的演技、すなわち声楽、器楽、和洋舞踊、その他全般にわたって約九ヶ月の間熱心に養成された。その進歩は早く、成績がすこぶるよかったので、ここに第一回公演期日を大正三年四月一日と決定して、公演に関する諸般の準備を着々として進めた。
 まず第一に考慮せねばならないのは、生徒達が習いおぼえた演技を発表する劇場であった。だがこれは、さきに時勢に早過ぎて失敗した「パラダイス」の室内水泳場を利用することとなり、その水槽の全面に床を設けて客席とし、脱衣場を舞台に改造(夏は再び水泳場にするつもりであった)して、ここに宝塚少女歌劇公演用の記念すべき最初の劇場が生れた。そしてこの第一回公演に選ばれた曲目は、左の三曲目であった。
北村季晴氏作 歌劇「ドンブラコ」
本居長世氏作 喜歌劇「浮れ達磨」
宝塚少女歌劇団作 ダンス「胡蝶の舞」
 このように上演脚本も選定せられて、配役も決定し、公演の練習に没頭した。それも、三月二十日から三十一日にいたる十二日間を、連日舞台稽古に費したというほどの慎重さをもって、いよいよ四月一日、処女公演の幕を開けた。
 今日から考えると、それは温泉場の余興として生れたとはいうものの、日本劇壇の一つの新分野を開拓するものでもあった。それはやがて新国民劇として大成する芽生えが、微かにその双芽を覗かせていたのである。

        糊と鋏で出来上った脚本

 この処女公演は四月一日から五月三十日まで公開されたのであるが、その間には、いろいろ困った、といっても、またなかなか面白い話もあった。
 はじめの頃は安藤君の作品が多かったが、その中でも、初期上演の「音楽カフェー」は代表的なもので、安藤君が作曲し、脚本も書いた。
 あるレストランがあって、そこで何かのときに女給がお皿を叩いたり、フォークで調子をとって陽気に唄い騒ぐ、そういうハーモニーを考えて一つの歌劇をつくり上げたのだ。
 何でも、ドイツかイタリーの音楽に「鍛冶屋」というのがあって、トントンと鉄砧かなしきを叩く、それからヒントを得たと言っていた。そういうふうにして、安藤君の作品が相当に集まって行った。
 ところが、あるとき突然、先生は宝塚の方針に対して気にいらないことがあったと見えて、楽譜集を持って、どっかへ隠れてしまった。私は内心困ったなと思ったが、おもては平然として、
『安藤が隠れたって、オレはちっとも困らんよ。作曲は自分でする。』
 安藤君は僕が音楽の知識のないことを知っているので、とても作曲なんぞできるはずがないと、たかを括っていたらしいが、僕は何とか唱歌集とか、学校の唱歌教科書を集めて来て、それを一ト通り読むと、まずここへこの歌を持って来る。それが終るとここで話をして芝居をする。今度はこの音楽を持って来る。というふうに、はさみとのりでどんどん脚本をつくった。さすがの先生も、それには閉口して、泣きを入れて帰って来た。こんな訳で、初期のものは安藤君のつくったものより、私のつくったものの方が多いくらいだ。
 大正三年四月からやった「ドンブラコ」、これは北村先生のもので、八月一日から安藤君の「浦島太郎」、私が「紅葉狩」、安藤君の「音楽カフェー」、四年には薄田泣菫の「平和の女神」、「兎の春」、「雛祭」、安藤君は薄田のものをよくやっていた。とにかく、この頃は少し困ると『よしよし』といって、私がすぐひき受けるものだから、人の力を借りなくても、宝塚でどんどん作品ができた。
 それが大正七、八年まで続いて、やや成功して来たので、私はのりとはさみを人に譲ってやめた。私がやっている時分はほんとうの田舎娘の集まりで、内々で好きなものがやっていたのだから、それでよかったわけだ。
 そのころの女の子は、膝から上はどんなことがあっても出さない。もっとパッとまくって、足を見せなくてはいかんといっても、膝までは出すけれども、膝から上を出すなんて考えてもおらなんだから、先生方はどんなにやかましく? いっても、いうことを聞かない。それで非常に困ったのを今も憶えている。

        新しい舞台芸術の萠芽

 幸いに、この処女公演の成功の波にのって、その公演回数は春、夏、秋、冬の年四回と定めて、相次いで新作歌劇を上演することとなったが、不幸にして経済界の不況に影響されて、公演毎に観客数は予定の半ばにも達せず、つづいて数年間の苦悩時代を経験した。
 この苦況と闘う宝塚少女歌劇団の努力に、先ず最初に深い理解と同情を示したのは大阪毎日新聞社であった。そしてこれを広く社会に紹介するために、また一つには大毎慈善団の基金募集のために、大阪毎日新聞社主催の大毎慈善歌劇会を年末行事の催物として、例年開催するの運びとなり、第一回は大正三年十二月十一日より三日間、それは北浜の帝国座で催された。

 この大毎慈善歌劇会は、誕生後間もない宝塚少女歌劇を広く世間に認識させるに大いに役立った。幸いに好評をえて、その翌年もまた北浜の帝国座で公演したが、第三回目からは道頓堀の浪花座に進出して、殺到する観客を収容し切れない、という盛況だった。それで第五回目からは、中之島の中央公会堂で公演することになった。
 その他にも、鐘淵紡績慰安会、愛国婦人会慈善会、京都青年会大バザー、医科大学慈善会等各方面から招聘されて、大阪、京都、神戸に出張公演を行なった。
 この公演は経済的には頗る恵まれなかった。けれども、その前途に対してやや愁眉を開きうる見極めがついたので、その内容の充実をはかることが何よりの急務となった。そこで関西における舞踊界の新人、楳茂都陸平氏を振付に、また作曲者として三善和気、原田潤の両氏を歌劇団の教師に招いた。そして深刻な経営難に脅かされながらも、関係者の努力は、一歩一歩、この新しい舞台芸術の萠芽を育てていった。

        坪内逍遙博士の折紙

 当時、少女歌劇を御覧になった坪内博士は、宝塚少女歌劇集第一号(大正五年十月)に左の如き一文を寄せられている。
     愛らしき少女歌劇
文学博士 坪内逍遙
 私は予て主張して居る舞踊劇の立場からしても常に双手を挙げて歌劇の隆興を賛して居るものだが、なかなか現在の日本の社会では盛んな流行の見えて来そうな模様がない。その社会の現状に対して愛らしい少女歌劇などの出来たのは思いつきだといわなければなるまい。しかもその少女歌劇団にお伽のものを遣らせて少年少女を歌劇趣味に導きつつ徐々に社会の新趣味を向上させようとの思いつきは頗る適当な方法だと思う。
 一言に歌劇といっても、大きいのもあれば、小さいのもあり、深いのもあれば、浅いのもあるに違いないが、先ず現今では浅い小さいものから始めて行かなければなるまい。夫れには子供の趣味に適したお伽のようなものもよかろうし、歴史噺のようなものもよかろうが、次第次第に歩みを進めて、彼のワグネル等の試みたような大作を演ずる大オペラ団の出現するようになって欲しいものだ。歌劇に就いての研究家等も、昨今では、先ず先ず喜歌劇ぐらいから社会に広めて行くのが今の場合適度だろうと論じて居るような折柄だから、愛らしいこんな少女歌劇団も賛成されるに違いない。(後略)

 さて、大正七年五月には東京の帝劇へ出て、帝劇へはそれから毎年行くようになった。この東京公演についての批評は、劇界に対する当時の事情を知ることができるので、次に掲げてみよう。
     日本歌劇の曙光
小山内薫
『宝塚の少女歌劇とかいうものが来ますね。あなた大阪で御覧になった事がおありですか。』
『ええ、あります。二三度見ました。』
『どうです。評判ほど面白いものなのですか。』
『さあ面白いというのにも、ずい分種類がありますから、私の面白いと言うのと、あなたの面白いと言うのとでは、意味が違うかもしれませんが、私は確かに面白いと思いました。』
『人間はいくら大人になってもどこかに子供らしい感情を持っているものです。あなたの今面白いとおっしゃったのは、その子供らしい感情からですか。あるいは、大人らしい感情からですか。』
『どっちの感情からも面白いと思ったのです。私は子供にもなり、大人にもなって喜んだのです。それはドイツのフンバアヂングが始めたメルヒェンオパアというようなものなのですね。』
『そんな立派なものですか。』
『いや勿論そんな立派なものじゃありません。併しやがてはそういう所へまで進むのではないかと思われます。宝塚の少女歌劇はフンバアヂングのしたように、日本人に――殊に日本の子供にポピュラアな曲を取り入れる事を第一の出発点にしているようです。それから日本の詞として歌わせるように注意しているようです。近頃浅草の六区などでオペラと称しているものを聞くと日本の詞が伊太利語として歌われたり、仏蘭西語として発音されたりしています。尤もあれらは原曲が向うのものだからやむを得ないという口実もありましょうが、それにしても日本の詞の音楽を余りに無視したしかただと思っています。そこへ来ると宝塚の少女歌劇は立派に日本語を日本語として歌っています。』
『お説のようだと、日本将来のオペラは宝塚の温泉場から生れて来そうに思えますね。』
『いや実際生れて来そうなのです。少女歌劇そのものの発達が日本将来のオペラだと言ったら言い過ぎもしましょうが、とにかくこういう物から本当の日本歌劇が生れて来るのではないかと思います。私が大人として面白かったと言ったのは、一はそういう意味からでもあったのです。』
『それからまだ他に大人として面白かったことがありますか。』
『あります。それはアンサンブルとしての演技にとても大人には見られない統一のあった事です。この一座にはスタアという者がありません。プリマドンナという者がありません。それ故、甲の役者が乙の役者を押し退けたり、乙の役者が甲の役者を圧倒したりするような事がありません。お姫様も女中も殿様も家来もみんな同じラインの上で働いています。それが私には何ともいえない快い感じを与えました。』
『成程それは好い気持でしょう。併しそういう風にして子供の芸術家を養成するという事が果して理想的な教育法でしょうか。それがために一人一人の個性が失われて行くというような憂えはないでしょうか。』
『私はその心配はないと思います。個性というものは黙っていても成長します。併し統一と訓練とは監督者に待たなければなりません。宝塚少女歌劇の可愛い役者達が舞台監督なり楽長なりを神様のように思って、小学校の生徒が体操の号令一つで動くように、一挙手一投足其の命令を待っている様子は、将来の歌劇の実に理想的な模型だと思います。』
『とうとうあなたのいつもの演劇論になりましたね。ところで演劇とは書いてありますが、宝塚のは一体どんな形式なのです。本当のオペラの形式なのですか。』
『勿論そうじゃありません。形式は先ずオペレットです。歌の間に素の台詞の這入る奴です。併し「竹取物語」などというものになると、可なりオペラらしい分子が多量に這入っていました。でも宝塚の幹部達は何処までも少女歌劇と言って貰いたい。オペラとは言って貰いたくないと言っていました。その謙遜な態度も私には気に入りましたね。』
『踊などには日本在来の型が這入り過ぎているという評がありましたが、それはどうですか。』
『それは私もそう思いました。併し私は寧ろその大胆なのに敬服している方です。あれが段々に淘汰されたら却って面白いものが出来はしまいかと思っています。ああいう大胆な試みから日本在来の踊りでもない西洋のダンスでもない一種の新しい日本の踊りが生まれて来るのではないかと思っています。』
『まあそれは見てからの議論としましょう。』
『そうです。まあ一度見てやって下さい。私はやかましい議論を離れて大の贔屓なのですから。』
『それは子供らしい感情の方からですか。』
『そうです。私はその時分三つだった私の長男を連れて宝塚へ行ったのですが、其の時見た「桜大名」というのを未だに子供は忘れずにいるのです。もう五つになったのですが。』
『では、今度も子供衆のお供ですか。』
『子供のお供だか、子供がお供だか分らないのです。私の方が寧ろ楽しみにしている位ですから。』
(時事新報)

 この帝劇公演からはじめてお金をとって見せるようになった。東京へ行ったらすぐに高輪の毛利公爵の婦人教育会に招ばれた。帝劇へ出たのをきっかけに、新橋演舞場、歌舞伎座と出るようになって、これなら東京でもできるということがわかったから、今の東京宝塚劇場を建設するようにまでなった。
 このように宝塚が帝劇に出るようになり、今度は立派な小屋ができ、どんどん発展して行くと、今日のスターを映画に引抜かれると同じように、宝塚の作曲家の原田潤とか、舞踊を教える楳茂都陸平とか、そういう方面のスターをみんな持って行かれたことがある。それは松竹少女歌劇をつくるについて、スタッフを作曲から舞踊から演出から音楽からみんな宝塚から引っこ抜いて行った。そのときは非常に困ったけれども、あとからあとからといい人を養成して発展していった。

        意外な「花嫁学校」の実質

 前にも述べたように、私が宝塚音楽学校をつくって四十一年だ。その間卒業生が何人出たか、ずっと古い人から数え上げると二千人は出ているだろう。今わかっているので千数百人ある。大正十二年からは毎年五十人ずつ採って、それから、かれこれ三十年になるから、それだけでも千五百人、その前のごく初期には十人か十五人くらいだったから、ざっとみて五百人くらい、あわせて二千人ぐらいではないかと思う。
 そのうち、現在いわゆる芸能人として名をなしている人が三十七人しかいない。あとの千九百六十三人はどうしているかというと、ほとんど家庭の人となっている。これは無理もないと思うことで、今は学校の規則がかわって、一番若くて十五、六で入るが、もとは十三、四から入った。そうしてハタチにならない前に、十八、九までにおおよその素質なり、有望であるか見込みがないか、ということがわかるから、その間にどんどん退校してお嫁にいく。奥さんとしては、いわゆる芸術的教養があって、音楽もでき、踊りもできというふうで、手前みそで言えば、彼女らはみんな「上品なマダム」なのである。
 ところが私は、実情がそうなっていることを以前には意識しなかった。われわれ音楽学校をつくって、舞台へ出る芸術家のことばかり考えておったけれども、さて舞台人として活躍している人は三十七人しかない。あとは、ほとんど一般の善良な家庭の主婦におさまっているという事実を見ると、将来もどうもそういうふうになるんではないかという気がする。
 それにつけても、お金をかけて一人前に育て上げた者をよそへとられるなんて、いかにもばかばかしいと思った時代もあったけれども、それはまことに考えちがいで、婦人として、りっぱな教養を備えた理想的奥さんができるならば、そのほかのことは附録のようなものである。むしろ多々益々よそへとられてもかまわぬという気持にさえなっている。

        私の「女性観」といったもの

 こういう訳で、私は若い女性、特に大勢の中から選ばれた美人を数多くみて来た。したがって、私には私なりに女性観もあるが、もともと、私どもの若い時代は、亭主関白、男尊女卑の時代であって、ヘリクツ言うような型の女はとても売れなかった時代だから、そんな古い者の女性観なんて、今の人から見たらおよそ時代遅れの縁遠い話だろうが、私の女性観を言わせてもらうとやっぱり第一に健康でなくてはダメだと思う。健康美こそ美人の第一要件だ。ヒョロヒョロして歌麿の絵に出て来るようなのは美人ではない。今だってやはりそうだろう。宝塚の卒業生がいい奥さんになるというのも健康美だからだ。舞台へ出て、冬でもはだしで踊る訓練をして来ているから、体が鍛えられている。私は肺病やみのような女はいいと思ったことがない。少し肥って頑丈な女の方がずっとよい。
 学生時代のことであるが、福澤先生の四番目のお嬢さんで、後に住友の重役の志立鐵次郎氏の奥さんになったお瀧さんという人を健康美に輝くすばらしい女性だと思って見ていた。学生時代、十六からハタチまで五年間おった寄宿舎からは、福澤先生の家がよく見えて、先生の家から出てくる婦人がいつもみんなの評判になった。今でも覚えているが、上からお里さん、お房さん、お俊さん、お瀧さん、お光さんといって、お嬢さんが五人あった。ところが、福澤先生のお嬢さんは、みんなベッピンなんだけれども、弱々しい。その中にあってお瀧さんだけがよく肥って元気そうだった。お瀧さんはその頃十六、七であったろう。小肥りに血色のよい、発剌とした洋装の女性で、今日でも恐らく現代的美人の標準になるだろう。その妹のお光さんもまた美人で優さ形のおとなしい、しとやかなお嬢さんのように印象に残っている。お光さんは潮田傳五郎工学士の奥さんになられた方で、現在の潮田塾長のお母さんである。
 女はいくら利口であっても、女らしさを失ったらダメだ。私の奥さんは私の圧制のもとで暮して来たから、私からいえば一番気に入った女房で、奥さんからいえば、こんな怪しからん亭主はないと思っているだろう。女らしさというのは、亭主に逆らわないということだ。今の人が見たら旧式で封建的かもしれないが、私の時代にはみんながそうだったからフシギではなかった。
 女らしさということになると、武藤山治さんの奥さん(千世子夫人)は実に女らしい人であった。神戸のどこか金持のお嬢さんだが、奥さんとしておつき合いしておって誠にりっぱな人だと思う。賢こい人だけれど、武藤さんの言うことを何でも、すなおに聞いて賢こさを少しも表に現わさない。まことに見上げたものであった。
 一体に関西、中京、関東の女を比べてみると、名古屋の女は一番発展家だ。しかし堅実だ。昔から名古屋人は、お金を蓄めるのが非常に上手だが、女もそうだ。恋よりお金の方がいいのだろう。
 そこへ行くとやはり女は江戸っ子でなくてはいけない。京都の女、大阪の女は従順さが買える。しかし、何といっても東京の女はテキパキしてはっきりしていていい。

        「男の世界」と「女の世界」

 また、男と女と比べてみると、何事にも専門的に進んで行く場合には、やはり男でなければダメだけれども、アマチュアとしての程度では女の方がいいと思う。料理屋へ行っても腕のいい料理人は男であるし、仕立屋でもほんとうにうまい一流の仕立屋は男である。料理とか裁縫は女のすることだと思っておったが、最高の技能を発揮するのには男でなくてはダメなようである。だから『女だけで芸術がやって行かれますか』ということになるが、私はそうは思わない。というのは、世の中に女ほど器用な者はないからだ。
 うちの歌劇なんか、男をこれだけに育てることは不可能だ。料理にしても、うまいものは男でなくてはならんかもしれないが、家庭ですぐ間に合うものをつくるのは女である。今宝塚はかれこれ四、五百人の生徒でやっているが、男だったらこんなことがやれるものではない。年中喧嘩だろう。今は一人一人が光る歌い手であり踊り手であり、演技者であることが必要になって来ている。それには女の方が器用である。そして宝塚には男の世界にない、女でなければできない雰囲気があると思っている。
 宝塚の生徒で感心する娘が幾人もあった。その一人に糸井しだれというのがいる。これは初め全然認められなかったが、黙々と勉強していた。それをカラスロア先生が舞台の袖で聞いていて『私が教えよう』といって教え出した。すると彼女の歌は、ぐんぐん伸びてそれから認められて来た。
 戦争中北支の皇軍慰問につれて行ったとき、あの娘だけが朝は早くから起きるし、駅に着けば疲れもいとわずに降りて歌うし、だれよりも頑張る。あるとき古川ロッパ君の一座に貸したことがあったが、帰って来て、
『もうこりごりです。男の劇団はいやらしくてイヤだわ。二度とああいうところへは行きません。』
と言う。非常にまじめな潔癖な娘だった。最後は許婚者が大尉だったので、歌劇がイヤになったのじゃないけれども、当時は軍人の細君は芸人では結婚が許されなかったので、嫁にいくために宝塚を退いて、花王石鹸の女事務員になった。そうして、まだ結婚しないのに、許婚者のお母さんのところへ行っていて、そこで空襲を受けて亡くなった。
 それから萬代峯子とか、先だって死んだ園井恵子なども感心した生徒だ。園井恵子は北海道から出て来て、女給になろうか、歌劇に入ろうかと思い悩んだ。当時、南部という舎監がいて、それに相談した。
『自分は親兄弟を養わなければならないが、歌劇に入ったら幾らもらえますか。』
と聞いていろいろ相談した末に、
『宝塚へ入った方がいいでしょう。』
ということだったので、こちらに決めたらしい。これも実にまじめな娘で、親兄弟を北海道から呼んで、家を持たして働いていたが、かわいそうに広島の空襲で亡くなった。
 また、大江美智子一座というのを知っているでしょう。大江美智子は大阪北の新地の舞妓に出ようというので、私らが行くあるお茶屋へ、芸妓の見習として出て来た。私らは、
『こりゃベッピンだ』とにらんで、いろいろ聞いてみると、『芝居が一番好きだ』と言う。
『芝居が好きなのに舞妓になったってしようがないよ。ひとつ宝塚へ入ったらどうか。』
と勧誘した。
 そのうちに舞妓の方はやめて、宝塚の試験を受けに来た。そして一時、宝塚へ入ったが、やっぱり芝居が好きで、その方に進みたいらしく、あやめが池の右太衛門(先代)プロに入り、一時右太衛門と結婚するような話もあったが、右太衛門が亡くなったので、今度は大江美智子一座というのをつくって、ひところ華やかにやっていたが、宇部かどこかの楽屋で盲腸炎を患って死んでしまった。これは先代の大江美智子のことで、お父さんが新派の役者だった。
 鶴万亀子という娘もまじめ過ぎるくらいまじめで、もっと舞台の方に進んでいたら、あるいは映画にでも出ていたら、大したものになっていたろうが、一介のサラリーマンのところへ嫁にいってしまった。今でも子供をおんぶして同窓会に顔を出す。
 秋田露子は北海道大学の理学博士の奥さんにもらわれて、子供が六人――男が四人、女が二人――あって、総領は三十くらいになるだろう。いい家庭の主婦におさまっている。

        恋愛結婚よりは見合結婚

 また、その間には生徒たちの結婚も沢山みて、結婚についてもいろいろと考えさせられることもある。
 敗戦後は、小学校から大学まですべて共学になって、学校にいる間にお互いに知り合って、相手の気持もわかり、家庭の事情もよくわかって夫婦になるという行き方になって来たのだが、しかし私の過去四十年の経験から見ると、これまでの家族制度のうちの見合結婚もなかなかよいものだと思う。これには親が勝手に決めるという弊害もあったが、しかし弊害が多いから見合結婚は悪いものだという結論にはならないのではないか。
 見合結婚には、親がむりに見合をさせて、すぐ結婚を強制するような行き方も一部にはあるが、大体は双方の親なり兄弟なりが、相手の身元をよく調べ、家庭の事情なども考慮に入れて、『これなら』というわけで見合させるのであるから、私は自由結婚よりも見合結婚の方が間違いないと思っている。
 若い男と女が、まだ何もわからない間に恋愛して結婚生活に入るのと、見合によって夫婦となり結婚してから起る自然な恋愛感情と、どっちがいいかという問題が起って来る。
 私は、見合結婚した夫婦には結婚後、自然に恋愛感情が起って来る、しかもその恋愛は若い者同士の熱病みたいなものと違って、さめやしない、いくらでも長く続くものだ、というふうに解釈している。だから、今までよくあった圧制的な見合結婚はいけないが、あらゆる方面で聞きあわして、これならいい、いわゆる良縁だというのであれば、その上に生ずる愛情は、偕老同穴の契りを結ぶ人生の最後まで円満に行くものだと思っている。
 ところが恋愛による結婚は、少し経つと、お互いが欠点だらけに見えて来る。その点見合結婚は、親でも兄弟でも、年の功からいっても選び方は老練で、かわいい娘なり息子なりの前途に善かれかしと念じて相手を選ぶから、この行き方の方が二人の将来のためにはよいのではないかと思っている。
 第一、若い者に相手を見る目など十分に具わっているものではない。昔から「恋は盲目なり」という言葉もある。
 しかし、そう言う私の結婚は恋愛結婚なのだから、それを知っている人からは、私がそういうことをいうのはおかしいじゃないかと反問されるかも知れないが、私のはほんのまぐれ当りで、まあ千人に一人あるかないかだ。だから、私の恋愛結婚が非常にうまく行って、九人の孫、三人の曽孫があって、円満に行っているからというて、そう真似できるものだと思ったらいけない。
 アメリカあたりはほとんど恋愛結婚であるが、不幸な女が沢山いる。大体名前ばかりの夫婦で、籍は入ったままで離縁にはなっていないが、おそらく半分近くは別居生活であじけない暮しをしている。というのは、生活費なり扶助料なり出す力のある人は、話合いでどんどん離縁するが、アメリカというところは離婚するのに非常に金がかかる。うっかり財産の話をすると、半分はとられてしまうそうだから、公式の宴会などにはみんな何々夫人として同伴で列席しているが、内実は別居生活で、まことに落莫たる日を送っている婦人が多い。
 日本では、そんなことは存外少ない。そういうことをするほど余裕がないからでもあろうが、まあ女が辛抱しているのだろう。日本の婦人は夫に威張られて年中かわいそうな境遇にいるということも一面の事実であるが、宝塚の卒業生の場合などみると、破綻になっている人は、どちらかというと、むしろ芸術的に進んでいる人で、家庭的の人はちゃんと夫人としておさまっている。そこが実におもしろいと思う。そして舞台で男役であった人は特別にしっかりしていて、理性的でもあるようである。

        歌劇の男役と歌舞伎の女形

 話は飛ぶが、宝塚の男役、女役というものは、かつてはわれわれも、女だけで芝居するなんて不自然だ、やはり男を入れて男女の芝居でなければいけないといって、何べんか宝塚歌劇を両性歌劇にしようと計画したことがあったが、今日ではもうそんなことは考えたことがない。それは歌舞伎と同じリクツだ。歌舞伎の女形は不自然だから、女を入れなければいかんというて、ときどき実行するけれども、結局、あれは女形あっての歌舞伎なのだ。同じように宝塚の歌劇も、男を入れてやる必要はさらにない。なぜなれば、女から見た男役というものは男以上のものである。いわゆる男性美を一番よく知っている者は女である。その女が工夫して演ずる男役は、女から見たら実物以上の惚れ惚れする男性が演ぜられているわけだ。そこが宝塚の男役の非常に輝くところである。
 歌舞伎の女形も、男の見る一番いい女である。性格なり、スタイルなり、行動なり、すべてにおいて一番いい女の典型なのである。だから歌舞伎の女形はほんとうの女以上に色気があり、それこそ女以上の女なんだ。そういう一つの、女ではできない女形の色気で歌舞伎が成り立っていると同じように、宝塚歌劇の男役も男以上の魅力を持った男性なのである。だからこれは永久に、このままの姿で行くものではないかと思う。
 元来、役者(歌舞伎)は家の芸というか、家業を継ぐものだ。素人がいくら器用でも、結局第一流の役者にはなれない。役者というものは、子供のときから舞台で、何もかも自然に覚える。中年からの役者でも、それは随分いい役者も出来るだろうけれど、歌舞伎ではそれが少ない。宝塚でもやはり雰囲気で名優をこしらえるねらいを多分にもっている。
 私はスイスの時計工の話をきいて感心したことがある。スイスの時計は世界的に有名であるが、スイスの時計職人のいいものは、みな親ゆずりで、親の、そのまた親というあんばいに、二代も三代も同じ仕事をやって、古ければ古いほどいい職人が生れている。そうして、自分一代ではどんな器用のものでも、第一流の時計職人にはなれないという話である。それと同じに、日本の歌舞伎というものも、それぞれ家の芸を承け継いで、それから自然に勉強して来なければならぬ。
 殊に女形においてはそうだ。つまり、いわゆる役者は家柄とか、なれ切るところから生れて来るもので、いわゆる俳優とはちがう。役者には家代々の玄人があるが、俳優にはその方の才能だけでなれる。したがって、宝塚にどんな名優が出て来ても、そこに素人くさいところがあるのは全くやむを得ない。だが、そこにまた宝塚の一つの特色があって、一般大衆にうける何ものかがあると、私は考えている。いわば宝塚の生命はそこにあると思う。





底本:「宝塚漫筆」阪急電鉄
   1980(昭和55)年2月15日発行
底本の親本:「宝塚漫筆」実業之日本社
   1955(昭和30)年6月20日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:鈴木厚司
校正:川山隆
2007年12月20日作成
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