寡婦とその子

ワシントン・アーヴィング Washington Irving

吉田甲子太郎訳




年老いた人をいたわりなさい。その銀髪は、
名誉と尊敬をつねに集めてきたのです。
――マーロウ作「タムバレーン」

 わたしは田舎に住んでいるころ、村の古い教会によく行ったものだ。ほの暗い通路、崩れかかった石碑、黒ずんだかしの羽目板、過ぎさった年月の憂鬱ゆううつをこめて、すべてが神々こうごうしく、厳粛な瞑想めいそうにふける場所ににつかわしい。田園の日曜日はきよらかに静かである。黙然として静寂が自然の表面にひろがり、日ごろは休むことのない心も静められ、生れながらの宗教心が静かに心のなかにきあがってくるのを覚える。

かぐわしい日、清らかな、静かな、かがやかしい日、
天と地の婚礼の日。

 わたしは、信心深い人間であるとは言えない。しかし、田舎の教会にはいると、自然の美しい静寂のなかで、何かほかのところでは経験することのできない感情が迫ってくるのである。そして、日曜日には、一週間のほかの日よりも、たとえ宗教的にはならないとしても、善人になったような気がするのだ。
 ところが、この教会では、いつでも現世的な思いにおしかえされるような感じがしたが、それは、冷淡で尊大なあわれな蛆虫うじむしどもがわたしのまわりにいたからだ。ただひとり、真のキリスト教信者らしい敬虔けいけんな信仰にひたすら身をまかせていたのは、あわれなよぼよぼの老婆ろうばであった。彼女は寄る年波と病とのために腰も曲がっていたが、どことなく赤貧に苦しんでいる人とは思われない面影を宿していた。上品な誇りがその物腰にただよっていた。着ているものは見るからに粗末だったが、きれいでさっぱりしていた。それに、わずかながら、ひとびとは彼女に尊敬をはらっていた。彼女は貧しい村人たちといっしょに席をとらず、ひとり祭壇のきざはしにすわっていたのである。彼女はすでに愛する人とも、友だちとも死に別れ、村人たちにも先立たれ、今はただ天国へゆく望みしか残されていないようにみえた。彼女は弱々しく立ちあがり、年とった体をこごめて祈りをささげ、絶えず祈祷書きとうしょを読んでいたが、その手はしびれ、眼はおとろえて、読むことはできず、あきらかにそらんじているのだった。それを見ると、わたしは、その老婆の口ごもる声は、僧の唱和や、オルガンの音や、合唱隊の歌声よりもずっとさきに天にとどくのだと強く思わざるを得なかった。
 わたしは好んで田舎の教会のあたりをあちこち歩いたものだが、この教会はたいへん気もちのよい場所にあるので、わたしはよくそこにひきつけられていったものだ。それは丘の上にあり、その丘をめぐって小川が美しく彎曲わんきょくし、そしてくねくねとうねりながら、ひろびろとした柔かい牧場を流れてゆく。教会の周囲には水松いちいの木が茂っているが、その木は教会とおなじくらい年数をへているようだった。教会の高いゴシック式の尖塔せんとうはこの木のうえにすっくりとそびえたち、いつも深山烏みやまがらすや烏がそのあたりを舞っていた。ある静かなうららかな朝、わたしはそこに腰をおろして、人夫が二人で墓を掘っているのを見ていた。彼らが選んだのは、墓地のいちばんはずれの、手入れのとどかぬ片隅で、まわりに無名の墓がたくさんあるところを見ると、貧乏で友人知己もない人たちがみんないっしょに埋葬される場所らしかった。きくと、新しい墓は、ある貧しい寡婦かふの一人息子のためのものだということだった。この世の地位階級の別がこんな墓のなかにまでおよぶのかと考えているうちに、鐘が鳴って、弔いの近づいたことを知らせた。それは貧しい人の葬式で、およそ飾りらしいものはなかった。ごく粗末な材料でつくった棺が、棺掛けもかぶせずに、数人の村人にかつがれてきた。教会の下役僧が先に立って、ひややかな無頓着むとんちゃくな顔つきをして歩いていた。見せかけはいかにも悲しそうによそおう泣き男はひとりもおらず、そのかわりに、ほんとうにかなしみいたむ人がひとり、力弱く遺骸いがいのあとをよろめきながらついてきた。それは故人の老母だった。祭壇のきざはしに腰かけるのをわたしが見たあのいたましい老婦人だった。彼女は一人の貧しい友にささえられていたが、その人は一生懸命彼女をなぐさめていた。近所の貧しい人たちが、二、三人葬列に加わっていた。村の子供たちがいくたりか手をつないでけまわり、分別もなく歓声をあげたり、子供らしい好奇心から、この喪主の悲しみに目を見はったりしていた。
 葬列が墓に近づくと牧師が教会の玄関から出てきた。白い法衣を着け、祈祷書を片手にもち、一人の僧をつれていた。しかし、葬儀はほんの慈善行為にすぎなかった。故人は窮乏の極にあったし、遺族は一文なしだった。だから、葬式はとにかくすましたとはいうものの、形だけのことで、冷淡で、感情はこもっていなかった。よくふとったその牧師は教会の入口から数歩しか出てこず、声は墓のあるところではほとんど聞えなかった。弔いという、あの荘厳そうごんで感動的な儀式が、このような冷たい言葉だけの芝居になってしまったのを、わたしは聞いたことがなかった。
 わたしは墓に近づいた。ひつぎは地面においてあった。その上に死んだ人の名と年齢とがしるしてあった。「ジョージ・サマーズ、行年二十六歳」あわれな母は人手にすがりながら、その頭のほうにひざまずいた。そのやせこけた両手を握りあわせて、あたかも祈りを捧げているようだった。だが、そのからだはかすかにゆれ、唇はひきつるようにぴくぴく動いているので、彼女が息子の遺骸を見るのもこれが最後と、親心の切ない思いにむせんでいるのがわかった。
 棺を地におろす準備がととのった。このとき愛と悲しみにみちた心を無惨むざんにも傷つける、あの騒ぎがはじまった。あれこれと指図する冷たい事務的な声。砂と砂利とにあたるシャベルの音。そういうものは、愛する人の墓で聞くと、あらゆるひびきのなかでいちばんひどく人の心をいためつけるものだ。周囲のざわめきが、いたいたしい幻想に沈んでいた母親を目ざめさせたようだった。彼女は泣きはらしてかすんだ眼をあげて、狂おしげにあたりを見まわした。ひとびとが綱をもって近づき、棺を墓におろそうとすると、彼女は手をしぼりながら、悲しみのあまり、わっと泣きだした。つきそいの貧しい婦人が腕をとって、地べたから老婆をおこそうと努め、なにかささやいてなぐさめようとした。「さあ、さあ。もうおやめなさいまし。そんなにおなげきなさらないで」老婆はただ頭をふって、手をにぎりしめるばかりで、決してなぐさめられることのない人のようだった。
 遺骸が地におろされるときの綱がきしきし鳴る音は、彼女を苦しめたようだった。しかし、なにかのはずみで棺が邪魔物に突きあたったとき、老母の愛情はいちどにほとばしり出た。その様子は、あたかも息子がもはやこの世の苦悩から遠くとどかぬところにいるのに、まだどんな災いがおこるかもしれないと思っているようだった。
 わたしはもう見ていられなくなった。胸がいっぱいになって、眼には涙があふれた。かたわらに立って安閑と母の苦しむさまを見ているのは、ひどく心ない仕打ちなのではないかと思った。わたしは墓地のほかのほうに歩いてゆき、会葬者が散るまでそこにとどまっていた。
 老母がおもむろに苦しげに墓を立ち去り、この世で自分にとっていとしいすべてのものであった人の遺骸をあとにして、語る相手もない貧しい生活に帰ってゆくのを見ると、わたしの心は彼女のことを思って痛んだ。裕福な人たちが苦しんだからといってそんなものはなんでもないではないか、とわたしは考えた。彼らにはなぐさめてくれる友だちがある。気をまぎらしてくれるたのしみがある。悲しみをらし散らしてくれるものがいくらでもある。若い人たちの悲しみはどうだろう。その精神がどんどん成長して、すぐに傷口をとじてしまう。心には弾力があって、たちまち圧迫の下からとびあがる。愛情は若くしなやかで、すぐに新しい相手にまきついてしまう。だが、貧しい人たちの悲しみ。この人たちには、ほかに心をなだめてくれるものはない。年老いた人たちの悲しみ。この人たちの生活はどんなによくても冬の日にすぎず、もはや喜びがかえり咲きするのを待つこともできない。寡婦のかなしみ。年老い、孤独で、貧乏にあえぎ、老いし日の最後に残された慰めである一人息子の死を悼んでいる。こういう悲しみをこそ、わたしたちはなぐさめるすべのないことをしみじみと感ずるものだ。
 しばらくしてわたしは墓地を去った。家へむかう途中で、わたしは、あの、なぐさめ役になった婦人に会った。彼女は老母をひとり住いの家に送った帰りだった。わたしはさきほど見たいたわしい光景にまつわる委細を彼女から聞きだすことができた。
 故人の両親は子供のころからこの村に住んでいた。彼らはごくさっぱりした田舎家に暮らし、いろいろと野良のら仕事をしたり、またちょっとした菜園もあったりして、暮らし向きは安楽で、不平をこぼすこともない幸福な生活を送っていた。彼らには一人の息子があり、成長すると、老いた両親の柱になり、自慢の種になった。「ほんとに」とその婦人は言った。「あの息子さんは、美男子で、気だてはやさしくって、だれでもまわりの人には親切で、親御さんには孝行でした。あの息子さんに、日曜日に出あったりすると、心がすっきりしたものですよ。いちばんいい服を着て、背が高く、すらっとしていて、ほがらかで。年とったお母さんの手をとって教会へ来たものです。お母さんときたら、いつでもあのジョージさんの腕にもたれるほうが、御自分の旦那だんなさんの腕にもたれるのより好きだったんですからね。おかわいそうに。あのかたが息子さんを自慢なさるのも当り前のことでしたよ。このあたりにあんな立派な若者はいませんでしたもの」
 不幸なことに、ある年、飢饉ききんで農家が困窮したとき、その息子は人に誘われて、近くの河をかよっている小船で働くようになった。この仕事をしはじめてまだ間もないころ、彼は軍隊に徴集されて水兵にされてしまった。両親は彼が捕虜になったしらせを受けたが、それ以上のことはなにもわからなかった。彼らの大切な支柱がなくなってしまったのだ。父親はもともと病気だったが、気をおとして滅入めいりこんでしまい、やがて世を去った。母親は、ただひとり老境に残されて力もなく、もはや自分で暮しを立てることもできず、村の厄介をうけることになった。しかし、今もなお、村じゅうのひとびとは彼女に同情をもっており、古くから村に住んでいる人として尊敬もしているのだった。彼女がいくたの幸福な日々をすごした田舎家にはだれも住みこもうとしないので、彼女はその家にいることを許され、そこでひとりさびしく、ほとんど助ける人もなく暮していたのだ。食べものもわずかしか要らなかったが、それはほとんど彼女の小さな菜園の乏しいみのりでまかなわれた。その菜園は近所の人たちがときどき彼女のために耕してやるのだった。こういう事情をわたしが聞いたときよりほんの二、三日前、彼女が食事のために野菜をつんでいると、菜園に面した家のドアがふいに開く音がきこえた。見知らぬ人が出てきて、夢中になってあたりを見まわしている様子だった。この男は水兵の服を着て、やせおとろえて、ぞっとするほど血の気がなく、病いと苦労とのためにすっかり弱っているようだった。彼は彼女を見つけ、そして、急いで彼女のほうへやってきた。しかし、彼の足どりは弱々しくふらふらしていた。彼は彼女の前にしゃがみこんでしまい、子供のようにむせび泣いた。憐れな女は彼を見おろしたが、その眼はうつろで、見定まらなかった。「ああ、お母さん、お母さん。御自分の息子がおわかりにならないんですか。かわいそうな息子のジョージが」ほんとうにそれはかつて気高かった若者の敗残の姿だった。負傷をうけ、病におかされ、敵地に俘虜ふりょとなってさいなまれ、最後に、やせた脚を引きずって家路をたどり、幼年時代の場所にいこいをもとめて帰ってきたのだ。
 わたしは、このような悲しみと喜びとがすっかり混りあってしまっためぐりあいを事こまかには書くまい。とにかく息子は生きていた。家に帰ってきた。彼はまだまだ生きて、母の老後をなぐさめ大事にしてくれるかも知れない。しかし、彼は精根つきはてていた。もしも彼の悲運が、決定的なものではなかったとしても、その生れた家のわびしいありさまが、十分それを決定的なものにしただろう。彼は夫を失なった母が眠れぬ夜をすごしたわらぶとんに横たわったが、ふたたび起きあがることはできなかった。
 村人たちはジョージ・サマーズが帰ったと聞くと、こぞって彼に会いにやってきて、自分たちのとぼしい力の許すかぎりのなぐさめと助力とをあたえようと申し出た。しかし、彼は弱りきっていて口もきけず、ただ眼で感謝の気持ちをあらわすだけだった。母親は片時もはなれずに付きそっていた。彼はほかの人にはだれにも看護してもらいたくないように見えた。
 病気になると、おとなの誇りはうちこわされ、心はやさしくなり、幼時の感情にもどるものである。病気や落胆でやつれ苦しんだことのある人や、異国でひとりかえりみてくれる人もなく病床に呻吟しんぎんしたことのある人ならば、高齢になってからでも、母を思いおこさぬものはあるまい。
「子供のころ世話を見てくれた」母、まくらのしわをのばしてくれ、困っているときにはいつも助けてくれた母のことを考えぬものはあるまい。ああ、母の子に対する愛には永久に変らぬやさしさがあり、ほかのどんな愛情よりもすぐれているのだ。その愛は利己心で冷たくなるようなものではない。危険にめげるものではない。その子がつまらぬものになったからといって弱められるものでもなく、子が恩を忘れても消えるものではない。彼女はあらゆる安楽を犠牲にして子のためをはかるのだ。すべてのたのしみを彼の喜びのために捧げるのだ。彼女は子が名声を得れば光栄と感じ、子が栄えれば歓喜するのだ。そして、もし不幸が彼をおそえば、その不幸のゆえにこそ彼をなおさら愛おしく思い、たとえ不名誉が子の名をけがしても、その不名誉にもかかわらずなお彼を愛し、いつくしむのだ。またもし世界じゅうの人が彼を見すてたならば、彼女は彼のために世界じゅうの人になってやるのだ。
 あわれなジョージ・サマーズは、病気になって、しかもだれもなぐさめてくれる人がないことがどんなものか知っていた。ひとりで牢獄ろうごくにいて、しかもだれも訪れる人がないことがどんなものか身をもって味わったのだ。彼は一時も母が自分の目の届かぬところに行くのには耐えられなかった。母が立ち去ると、彼の眼はそのあとを追っていった。彼女は何時間も彼のベッドのかたわらに坐って、彼が眠っているすがたを見まもっていたものだ。ときたま彼は熱っぽい夢におどろいて眼をさまし、気づかわしげに見あげたが、母が上にかがみこんでいるのを見ると、その手をとって、自分の胸の上におき、子供のように安らかに眠りにおちるのだった。こんなふうにして、彼は死んだのだ。
 このみじめな不幸の話をきいて、わたしが最初にしたいと思ったことは、老婆の家を訪問して経済的な援助をしたい、そしてできれば慰めて上げたいということだった。しかし、たずねて見てわかったことだが、村人たちは親切心が厚く、いちはやく事情の許すかぎりのことはしてやっていた。それに、貧しい人たちはお互いの悲しみをいたわるにはどうしたらよいか、いちばんよく知っているのだから、わたしはあえて邪魔することはやめた。
 その次の日曜日にわたしがその村の教会にゆくと、驚いたことに、あの憐れな老婆がよろよろと歩廊を歩いていって、祭壇のきざはしのいつもの席についた。
 彼女はなんとかして自分の息子のために喪服とはゆかぬまでも、それらしいものを身に着けようとしたのだった。この信心深い愛情と一文なしの貧困とのたたかいほど胸をうつものはあるまい。黒いリボンか、何かそれに似たもの、色あせた黒のハンカチ、それと、もう一つ二つ貧しいながらもそういうこころみをし、そとにあらわれた印で、言うに言われぬ悲しみを語ろうとしていた。まわりを見まわすとわたしの目に入るものは、死者の功績をしるした記念碑があり、堂々とした紋標があり、冷たく荘厳な大理石の墓があり、こういうもので権勢のある人たちが、生前は世の誇りとなったようなひとびとの死を壮大に悼んでいるのだ。ところが目をうつすと、この貧しい寡婦が、老齢と悲しみに腰をかがめて神の祭壇のところで、悲嘆にうちくだかれた心の底から、なお信仰あつく、祈りと、神をたたえることばをささげている。その姿を見ると、わたしは、この真の悲しみの生きた記念碑は、こういう壮大なもののすべてにもあたいすると思った。
 わたしが彼女の物語を、会衆のなかの裕福な人たち数人に話したところ、彼らはそれに感動した。彼らは懸命になって彼女の境遇をもっと楽にしてやろうとし、苦しみを軽くしようと努めた。しかし、それもただ墓へゆく最後の二、三歩をなだらかにしたにすぎなかった。一、二週間のちの日曜日には、彼女は教会の例の席に姿を見せなかった。そして、わたしはその近在を立ち去る前に、彼女が静かに最後の息をひきとったということをきいて、これでよいのだと感じた。彼女はあの世に行って自分が愛していた人たちとまたいっしょになったのだ。そして、そこでは、決して悲しみを味わうことがなく、友だち同士は決して別れることがないのだ。





底本:「スケッチ・ブック」新潮文庫、新潮社
   1957(昭和32)年5月20日発行
   2000(平成12)年2月20日33刷改版
※表題は底本では、「寡婦かふとその子」となっています。
入力:砂場清隆
校正:noriko saito
2021年9月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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