おせん

邦枝完二




  むし


    一

「おッとッとッと。そうのりしちゃいけない。垣根かきねやわだ。落着おちついたり、落着おちついたり」
「ふふふ。あわててるな若旦那わかだんな、あっしよりおまえさんでげしょう」
ッ、しずかに。――」
「こいつァまるであべこべだ。どっちが宰領さいりょうだかわかりゃァしねえ」
 が、それでもたがいこえは、ひそやかにくさずれよりもひくかった。
「まだかの」
「まだでげすよ」
「じれッてえのう、むこずねいやす」
御辛抱ごしんぼう御辛抱ごしんぼう。――」
 谷中やなか感応寺かんおうじきたはなれて二ちょうあまり、茅葺かやぶきのきこけつささやかな住居すまいながら垣根かきねからんだ夕顔ゆうがおしろく、四五つぼばかりのにわぱいびるがままの秋草あきぐさみだれて、尾花おばなかくれた女郎花おみなえしの、うつつともなく夢見ゆめみ風情ふぜいは、近頃ちかごろ評判ひょうばん浮世絵師うきよえし鈴木晴信すずきはるのぶ錦絵にしきえをそのままのうつくしさ。次第しだいえる三日月みかづきひかりに、あたりはようや朽葉色くちばいろやみさそって、くさむしのみがしげかった。
まっつぁん」
「へえ」
「たしかにここに、間違まちがいはあるまいの」
冗談じょうだんじゃござんせんぜ、若旦那わかだんな。こいつを間違まちがえたんじゃ、まつろうめくらいぬにもおとりやさァ」
「だっておまえ肝腎かんじん弁天様べんてんさまは、かたちどころか、かげせやしないじゃないか」
御辛抱ごしんぼう御辛抱ごしんぼういちゃァこと仕損しそんじやす」
「ここへてから、もう半時近はんときちかくもってるんだよ。それだのにおまえ。――」
「でげすから、あっしは浅草おくやまときに、そうもうしたじゃござんせんか。まつくらい太夫たゆうでも、花魁おいらんならばものものみみのほくろはいうにおよばず、あしうら筋数すじかずまで、みたいときめやすが、きょうのはそうはめえりやせん。半時はんときはおろか、ことによったら一時いっときでも二時ふたときでも、垣根かきねのうしろにしゃがんだまま、おちンならなきゃいけませんと、ねんをおもうしたときに、若旦那わかだんな、あなたはんとおっしゃいました。当時とうじ江戸えどの三人女にんおんなずい一とった、おせんのはだられるなら、われようが、むしされようが、すこしもいとうことじゃァない、きな煙草たばこつつしむし、こえ滅多めったすまいから、んでもかんでもこれからぐにれてけ。そのかわりおれいは二まではずもうし、羽織はおりもおまえ進呈しんていすると、これこのとおりお羽織はおりまでくだすったんじゃござんせんか。それだのに、まだほんの、半時はんときつかたないうちから、そんな我儘わがままをおいいなさるんじゃ、お約束やくそくちがいやす。頂戴物ちょうだいものは、みんなおかえしいたしやすから、どうかまつろうに、おひまをおくんなさいやして。……」
「おっとおち。あたしゃなにも、辛抱しんぼうしないたいやァしないよ。ええ、辛抱しんぼうしますとも、夜中よなかンなろうが、けようが、ここは滅多めったうごくンじゃないけれど、おまえがもしか門違かどちがいで、おせんのうちでもないひとの……」
「そ、それがいけねえというんで。……いくらあっしが酔狂すいきょうでも、若旦那わかだんならねえいえ垣根かきねまで、ってはずァありませんや。まつろう自慢じまん案内役あんないやく、こいつばかりゃ、たとえ江戸えどがどんなにひろくッても――」
ッ」
「うッ」
 おびははやりの呉絽ごろであろう。ッかけに、きりりとむすんだ立姿たちすがた滝縞たきじま浴衣ゆかたが、いっそ背丈せたけをすっきりせて、さっすだれ片陰かたかげから縁先えんさきた十八むすめ。ぽつんと一ぽんはじめた、桔梗ききょうはなのそれにもして、つゆべによりこまやかであった。
 明和めいわ戌年いぬどしあきがつ、そよきわたるゆうべのかぜに、しずかにれる尾花おばな波路なみじむすめから、団扇うちわにわにひらりとちた。

    二

 かおかすめて、ひらりとちた桔梗ききょうはなのひとひらにさえ、おと気遣きづかこころから、身動みうごきひとつ出来できずにいた、日本橋通にほんばしとおり油町あぶらちょう紙問屋かみどんや橘屋徳兵衛たちばなやとくべえ若旦那わかだんな徳太郎とくたろうと、浮世絵師うきよえし春信はるのぶ彫工ほりこうまつろうは、釘着くぎづけにされたように、夕顔ゆうがおしたからはなれなかった。
 が、よもやおのが垣根かきねそとに、二人ふたりおとこしめあわせて、をすえていようとは、夢想むそうもしなかったのであろう。むすめちた団扇うちわながに、呉絽ごろおびをかけると、まわ燈籠どうろうよりもはやく、きりりとまわったただずまい、器用きようおびからして、さてもう一まわり、ゆるりとまわった爪先つまさきえんとどめたその刹那せつなにわか鈴虫すずむしに、浴衣ゆかたかたからすべらせたまま、半身はんしん縁先えんさきりだした。
南無なむ大願成就だいがんじょうじゅ。――」
ッ」
 あとにはふたたむしこえ
 京師けいしの、はなかざしてすご上臈じょうろうたちはいざらず、天下てんか大将軍だいしょうぐん鎮座ちんざする江戸えど八百八ちょうなら、うえ大名だいみょう姫君ひめぎみから、した歌舞うたまい菩薩ぼさつにたとえられる、よろず吉原よしわら千の遊女ゆうじょをすぐっても、二人ふたりとないとの評判娘ひょうんばんむすめ下谷したや谷中やなかかたほとり、笠森稲荷かさもりいなり境内けいだいに、行燈あんどんけた十一けん水茶屋娘みずちゃやむすめが、三十余人よにんたばになろうが、縹緻きりょうはおろか、まゆ一つおよものがないという、当時とうじ鈴木春信すずきはるのぶが一枚刷まいずり錦絵にしきえから、子供達こどもたち毬唄まりうたにまではやされて、るもらぬも、うわさはな放題ほうだい、かぎのおせんならでは、けぬ煩悩ぼんのうは、血気盛けっきざかりの若衆わかしゅうばかりではないらしく、なにひとつ心願しんがんなんぞのありそうもない、五十をした武家ぶけまでが、雪駄せったをちゃらちゃらちゃらつかせてお稲荷詣いなりもうでに、御手洗みたらし手拭てぬぐいは、つねかわくひまとてないくらいであった。
 橘屋たちばなや若旦那わかだんな徳太郎とくたろうも、このれいれず、に一は、はんしたように帳場格子ちょうばごうしなかからえて、目指めざすは谷中やなか笠森様かさもりさまあか鳥居とりいのそれならで、あかえりからすっきりのぞいたおせんがゆきはだを、おがみたさの心願しんがんほかならならなかったのであるが、きょうもきょうとて浅草あさくさの、このはるんだ志道軒しどうけん小屋前こやまえで、出会頭であいがしらに、ばったりったのが彫工ほりこうまつろう、それとさっしたまつろうから、おもてかざりをるなんざ大野暮おおやぼ骨頂こっちょうでげす。おせんの桜湯さくらゆむよりも、帯紐おびひもいたたまはだたかァござんせんかとの、おもいがけないはなしいて、あとはまったく有頂天うちょうてん、どこだどこだとたずねるまでもなく、二れいと着ていた羽織はおりわたして、無我夢中むがむちゅうは、やがてこの垣根かきねそととなった次第しだい。――百ぴきが一すねにとまっても、いたさもかゆさもかんじないほど徳太郎とくたろうは、野犬やけんのようにすわっていた。
若旦那わかだんな
だまって。――」
だまってじゃァござんせん。もっとひくくおなんなすって。――」
わかってるよ」
「そんならおはやく」
「ええもういらぬお接介せっかい。――」
 おおかた、えんから上手かみてへ一だんりて戸袋とぶくろかげにはすでたらい用意よういされて、かまわかした行水ぎょうずいが、かるいうずいているのであろうが、上半身じょうはんしんあらわにしたまま、じっとむしきいっているおせんは、容易よういとうとしないばかりか、からこしへと浴衣ゆかたすべちるのさえ、まったくづかぬのであろう。三日月みかづきあわひかりあお波紋はもんおおきくげて、白珊瑚しろさんごおもわせるはだに、くようにえてゆくなめらかさが、秋草あきぐさうえにまでさかったその刹那せつな、ふと立上たちあがったおせんは、さっ浴衣ゆかたをかなぐりてると手拭てぬぐい片手かたてに、上手かみてだんを二だんばかり、そのまま戸袋とぶくろかげかくした。
「あッ」
「たッ」
 はじ外聞がいぶんわすてたか、徳太郎とくたろうまつろうくちからは、同時どうじ奇声きせいきだされた。

    三

「おせんや」
「あい」
んだえ、いまのあのおとは。――」
「さァ、んでござんしょう。おおかた金魚きんぎょねらう、泥棒猫どろぼうねこかもれませんよ」
「そんならいいが、あたしゃまたおまえがころびでもしたんじゃないかとおもって、びっくりしたのさ。おまえあって、あたし、というより、勿体もったいないが、おまえあってのお稲荷様いなりさま滅多めった怪我けがでもしてごらん、それこそ御参詣おさんけいが、半分はんぶんってしまうだろうじゃないか。――縹緻きりょうがよくって孝行こうこうで、そのうえ愛想あいそうならとりなしなら、どなたのにも笠森かさもり一、おなかいためたむすめめるわけじゃないが、あたしゃどんなにはなたかいか。……」
「まァおかあさん。――」
「いいやね。はずかしいこたァありゃァしない。めるおやは、世間せけんにはくさほどあるけれど、どれもこれも、これよがしの自慢じまんたらたら。それとちがってあたしのは、おまえにかせるおれいじゃないか。さ、ひとつついでに、背中せなかながしてあげようから、その手拭てぬぐいをこっちへおし」
「いいえ、あせさえながせばようござんすから……」
なにをいうのさ。いいからこっちへおきというのに」
 二十二でせがれの千きちみ、二十六でおせんをんだその翌年よくねん蔵前くらまえ質見世しちみせ伊勢新いせしん番頭ばんとうつとめていた亭主ていしゅ仲吉なかきちが、急病きゅうびょうくなった、こうから不幸ふこうへの逆落さかおとしに、細々ほそぼそながらひと縫物ぬいものなどをさせてもらって、そのそのごしてはやくも十八ねん。十八に家出いえでをしたまま、いまだに行方ゆくえれないせがれきち不甲斐ふがいなさは、おもいだす度毎たびごとにおきしなみだたねではあったが、まれたくさにも花咲はなさくたとえの文字通もじどおり、去年きょねん梅見時分うめみじぶんから伊勢新いせしん隠居いんきょ骨折ほねおりで、させてもらった笠森稲荷かさもりいなり水茶屋みずぢゃやたちま江戸中えどじゅう評判ひょうばんとなっては、きょう大吉だいきちかえった有難ありがたさを、なみだともよろこぶよりほかになく、それにつけてもつべきはむすめだと、近頃ちかごろ、おきしあわせるのは、笠森様かさもりさまではなくておせんであった。
「おせん」
「あい」
「つかぬことをくようだが、おまえ毎日まいにち見世みせていて、まだこれぞとおもう、いたおかた出来できないのかえ」
「まあなにかとおもえばおかあさんが。――あたしゃそんなひとなんか、ひとりもありァしませんよ」
「ほほほほ。おおこりかえ」
おこりゃしませんけれど、あたしゃおとこきらいでござんす」
「なに、おとこきらいとえ」
「あい」
「ほんにまァ。――」
 このはるまで、まだまだ子供こどもおもっていたおせんとは、つい食違くいちがって、一つたらい行水ぎょうずいつかうおりもないところから、おきしはいまだにそのままのなりかたちを想像そうぞうしていたのであったが、ふとした物音ものおとけたきっかけに、半年振はんとしぶりたおせんのからだは、まったくってわった大人おとなびよう。七八つの時分じぶんから、からすんだつるだといわれたくらい、いろしろいが自慢じまんれていたものの、半年はんとしないと、こうもかわるものかとおどろくばかりのいろっぽさは、かたからちちへとながれるほうずきのふくらみをそのままのせんに、ことにあらわのなみたせて、からこしへの、白薩摩しろさつま徳利とくりかしたようなゆみなりには、さわればそのまま手先てさきすべちるかと、あやしまれるばかりのなめらかさが、おやにさえせまらずにはいなかった。
 きらいなきゃくが百にんあっても、一人ひとりきがあろうかと、いてたいは、むすめもつおやこころであろう。

    四

若旦那わかだんな
んとの」
んとの、じゃァござんせんぜ。あのおよんで、垣根かきねくび突込つっこむなんざ、なさけなすぎて、なみだるじゃァござんせんか」
「おやおや、これはけしからぬ。おまえこししたからこそ、あんなざまになったんじゃないか、それをまつつぁん、あたしにすりつけられたんじゃ、おたまり小法師こぼしがありゃァしないよ」
「あれだ、若旦那わかだんな。あっしゃァうしろにいたんじゃねえんで。若旦那わかだんなならんで、のぞいてたんじゃござんせんか。こしすにもさないにも、まず、とどきゃァしませんや。――それにでえいち、あのこえがいけやせん。おせんの浴衣ゆかたかたからすべるのを、ていなすったまでは無事ぶじでげしたが、さっといでりると同時どうじに、きゃっとこえた異様いよう音声おんせいづめ志道軒しどうけんなら、一てんにわかにかきくもり、あれよあれよといいもあらせず、天女てんにょ姿すがたたちまちに、かくれていつかたらいなか。……」
「おいおいまっつぁん。いい加減かげんにしないか。こえしたなおまえはじめだ」
「おやいけねえ。いくらしゅ家来けらいでも、あっしにばかり、つみをなするなひどうげしょう」
「ひどいことがあるもんか。これからゆっくりかみしめて、あじようというところで、おまえこしされたばっかりに、それごらん、までこんなにきずだらけだ」
「そんならこれでもおけなんって。……おっとしまった。きのうかかあがあらったんで、まるっきりたもとくそがありゃァしねえ」
冗談じょうだんいわっし、おまえたもとくそなんぞけられたら、それこそ肝腎かんじんひとさしゆびが、もとからくさってちるわな」
「あっしゃァまだ瘡気かさけ持合もちあわせはござせんぜ」
「なにないことがあるものか。三日みっかにあげず三枚橋まいばし横丁よこちょう売女やまねこいにかけてるじゃないか。――はながまともにいてるのが、いっそ不思議ふしぎなくらいなものだ」
「こいつァどうも御挨拶ごあいさつだ。ひとらない、おせんのはだかをのぞかせた挙句あげくはなのあるのが不思議ふしぎだといわれたんじゃ、まつろうがありやせん。冗談じょうだんしにして、ひとつ若旦那わかだんな縁起直えんぎなおしに、これからめるとこへ、おともをさせておくんなさいまし」
めるとことは。――」
「おとぼけなすっちゃいけません。やみのない女護にょごしま、ここから根岸ねぎしけさえすりゃァ、をつぶってもけやさァね」
折角せっかくだが、そんなところは、あたしゃきょうからきらいになったよ」
「なんでげすって」
橘屋徳太郎たちばなやとくたろう女房にょうぼうはかぎ屋のおせんにきめました」
「と、とんでもねえ、若旦那わかだんな。おせんはそんななまやさしい。――」
「おっとみなまでのたまうな。手前てまえ孫呉そんごじゅつ心得こころえりやす」
そん五もとく七もありゃァしません。当時とうじ名代なだい孝行娘こうこうむすめ、たとい若旦那わかだんなが、百にちかよいなすっても、こればっかりは失礼しつれいながら、およばぬこい滝登たきのぼりで。……」
まつっぁん」
「へえ」
かえっとくれ」
「えッ」
「あたしゃんだか頭痛ずつうがしてた。もうおまえさんと、はなしをするのもいやンなったよ」
「そ、そんな御無態ごむたいをおいいなすっちゃ。――」
「どうせあたしゃ無態むたいさ。――この煙草入たばこいれもおまえげるから、とっととかえってもらいたいよ」
 三日月みかづきに、谷中やなか夜道よみちくらかった。そのくらがりをただひとく、蟋蟀こおろぎみつぶすほど、やけなあゆみをつづけてく、若旦那わかだんな徳太郎とくたろうあたまなかは、おせんの姿すがたで一ぱいであった。

    五

「ふん、んて馬鹿気ばかげはなしなんだろう。こっちからおたのもうしててもらったわけじゃなし。若旦那わかだんなあわせて、たってのたのみだというからこそ、れててやったんじゃねえか、そいつを、自分じぶんからあわてちまってよ。垣根かきねなかンのめったばっかりに、ゆっくり見物けんぶつ出来できるはずのおせんのはだかがちらッとしきゃのぞけなかったんだ。――面白おもしろくもねえ。それもこれも、みんなおいらのせえだッてんじゃ、てんでがありゃしねえや。どこの殿様とのさまがこさえたたとえからねえが、ながものにゃかれろなんて、あんまりむこうの都合つごう良過よすぎるぜ。橘屋たちばなや若旦那わかだんなは、八百ぞううつしだなんて、つまらねえお世辞せじをいわれるもんだから、当人とうにんもすっかりいいンなってるんだろうが、八百ぞうはおろか、八百丁稚でっちにだって、あんなつらがあるもんか。んだ料簡違りょうけんちがいのこんこんちきだ」
 だれにいうともない独言ひとりごとながら、吉原よしわらへのともまで見事みごとにはねられた、版下彫はんしたぼりまつろうは、止度とめどなくはらそこえくりかえっているのであろう。やがて二三ちょうさきってしまった徳太郎とくたろう背後はいごから、びせるようにののしっていた。
「おいおいまっつぁん」
「えッ」
「はッはッは。なにをぶつぶついってるんだ。三日月様みかづきさまわらってるぜ」
「おまえさんは。――」
「おれだよ。春重はるしげだよ」
 うしろからしのぶようにしていておとこは、そういいながらおもむろに頬冠ほおかぶりをとったが、それは春信はるのぶ弟子でしうちでも、かわものとおっている春重はるしげだった。
「なァんだ、春重はるしげさんかい。今時分いまじぶん一人ひとりでどこへきなすった」
一人ひとりでどこへは、そっちより、こっちできたいくらいのもんだ。――おまえ橘屋たちばなやとくさんにまかれたな」
「まかれやしねえが、どうしておいらが、若旦那わかだんなと一しょだったのをってるんだ」
「ふふふ。平賀源内ひらがげんない文句もんくじゃねえが、春重はるしげは、一さきまで見透みとおしがくんだからの。おまえとくさんとこでって、どこへったかぐらいのこたァ、かねえでも、ちゃんとわかってらァな」
「おやッ、ったさきわかってるッて」
「そのとおりだ、あててやろうか」
冗談じょうだんじゃねえ、いくらおまえさんのいたにしたって、こいつがわかってたまるもんか。ことわっとくが、当時とうじ十六もん売女やまねこなんざ、いにきゃァしねえよ」
「だが、あのざまは、あんまり威張いばれもしなかろう」
「あのざまたァなによ」
垣根かきねへもたれて、でんぐるかえしをったざまだ」
んだって」
「おせんのはだかのぞこうッてえのは、まず立派りっぱ智恵ちえだがの。おのれをわすれて乗出のりだした挙句あげく垣根かきねくびんだんじゃ、折角せっかく趣向しゅこうだいなしだろうじゃねえか」
「そんならしげさん、おまえさんはあの様子ようすを。――」
どくだが、こそぎちまったんだ」
「どこでなすった」
れたこった。にわなかでよ」
にわなか
「おいらァ泥棒猫どろぼうねこのように、垣根かきねそとでうろうろしちゃァいねえからの。――それな。鬼童丸きどうまる故智こちにならって、うし生皮なまかわじゃねえが、このいぬかわかぶっての、秋草城あきくさじょうでの籠城ろうじょうだ。おかげで画嚢がのうはこのとおり。――」
 懐中ふところからした春重はるしげ写生帳しゃせいちょうには、十数枚すうまいのおせんの裸像らぞう様々さまざまかれていた。

    六

 まつろうは、きつねにつままれでもしたように、しばし三日月みかづきひかりいてたおせんの裸像らぞうを、春重はるしげ写生帳しゃせいちょうなか凝視ぎょうししていたが、やがてわれかえって、あらためて春重はるしげかお見守みまもった。
しげさん、おまえ相変あいかわらずばしっこいよ」
「なんでよ」
いぬかわをかぶって、おせんのはだかおも存分ぞんぶんうえうつってるなんざ、素人しろうとにゃ、鯱鉾立しゃちほこだちをしても、かんがえられるげいじゃねえッてのよ」
「ふふふ、そんなこたァ朝飯前あさめしまえだよ。――おいらぁじつァ、もうちっといいことをしてるんだぜ」
「ほう、どんなことを」
きてえか」
かしてくんねえ」
「ただじゃいけねえ、一しゅだしたり」
「一しゅたけえの」
「なにがたけえものか。ときによったら、やすいくらいのもんだ。――だがきょうはたところ、一しゅはおろか、財布さいふそこにゃ十もんもなさそうだの」
「けちなことァおいてくんねえ。はばかンながら、あしたあさまで持越もちこしたら、はらっちまうだろうッてくれえ、今夜こんや財布さいふうなってるんだ」
「それァ豪儀ごうぎだ。ついでだ、ちょいとおがませな」
「ふん、しげさん。をつぶさねえように、大丈夫だいじょうぶか」
小判こばんふねでもきゃしめえし、御念ごねんにゃおよもうさずだ」
 財布さいふはなかった。が、おおかたさらしの六しゃくにくるんだぜにを、うちぶところからさぐっているのであろう。まつろうしばしのあいだおしたけのこるような恰好かっこうをしていたが、やがてにぎこぶしなかに、五六まい小粒こつぶ器用きようにぎりしめて、ぱっと春重はるしげはなさきひろげてみせた。
「どうだ、親方おやかた
「ほう、こいつァめずらしい。どこでひろった」
冗談じょうだんいわっし。当節とうせつぜにおとやつなんざ、江戸中えどじゅうたずねたってあるもんじゃねえ。かせえだんだ」
版下はんしたか」
はんはんだが、ちがうやつよ。ゆうべお旗本のがま本多ほんだ部屋へやで、はんつづけて三ったら、いうてのにわか分限ぶんげんでの、きゅう今朝けさから仕事しごとをするのがいやンなって、天道様てんとうさまがべそをかくまでてえたんだが蝙蝠こうもりと一しょに、ぶらりぶらりとたとこを、浅草あさくさでばったり出遭であったのが若旦那わかだんな。それからさきは、おまえさんにられたとおりのあの始末しまつだ。――」
「そいつァゆめ牡丹餅ぼたもちだの。十もんんだうちが、三りょうだとなりゃァ一しゅはあんまり安過やすすぎた。三りょうのうちから一しゅじゃァ、かみぽんくほどのいたさもあるまいて」
「こいつァ今夜こんやのもとでだからの」
「そんならしなっきかしちゃやらねえ」
かせねえ」
「だすか」
仕方しかたがねえ、しやしょう」
 すると春重はるしげは、きょろりとあたり見廻みまわしてから、にわかくびだけまえ突出つきだした。
みみをかしな」
「こうか」
「――」
「ふふ、ほんとうかい。しげさん。――」
うそはお釈迦しゃか御法度ごはっとだ」
 やせまつろうふたた春重はるしげかおもどったとき春重はるしげはおもむろに、ふところから何物なにものかを取出とりだしてまつろうはなさきにひけらかした。

    七

 あしもとに、尾花おばなかげあわかった。
「なんだい」
「なんだかよくさっし」
 八のふかくしながら、せたまつろう眼先めさきを、ちらとかすめたのは、うぐいすふんをいれて使つかうという、近頃ちかごろはやりの紅色べにいろ糠袋ぬかぶくろだった。
「こいつァしげさん、糠袋ぬかぶくろじゃァねえか」
「まずの」
「一しゅはずんで、糠袋ぬかぶくろせてもらうどじはあるめえぜ。――おめえいまなんてッた。おせんのゆきのはだからった、天下てんかに二つと代物しろものおがませてやるからと。――」
ッ、極内ごくないだ」
「だってそんな糠袋ぬかぶくろ。……」
ふくろじゃねえよ。おいらのせるなこの中味なかみだ。文句もんくがあるンなら、おがんでからにしてくんな。――それこいつだ。さわったあじはどんなもんだの」
 ぐっとばしたまつろう手先てさきへ、春重はるしげ仰々ぎょうぎょうしく糠袋ぬかぶくろ突出つきだしたが、さてしばらくすると、ふたたっておのがひたいてた。
けてせねえ」
おがみたけりゃおがませる。だが一つだってけちゃァやらねえから、そのつもりでいてくんねえよ」
 そういいながら、指先ゆびさき器用きよううごかした春重はるしげは、糠袋ぬかぶくろくちくと、まるできんこなでもあけるように、まつろうてのひらへ、三つばかりを、勿体もったいらしくげた。
「こいつァしげさん。――」
つめだ」
「ちぇッ」
「おっとあぶねえ。てられてたまるものか。これだけめるにゃ、まる一ねんかかってるんだ」
 まつろうへ、おのがをかぶせた春重はるしげは、あわてて相手のぐるみ裏返うらがえして、ほっとしたようにまえけた。
湯屋ゆやひろあつめたつめじゃァねえよ。のみなんざもとよりのこと、はらそこまでこおるようなゆきばんだって、おいらァじっとえんしたへもぐりんだまま辛抱しんぼうして苦心くしんたからだ。――このあかりじゃはっきり見分みわけがつくめえが、よくねえ。お大名だいみょうのお姫様ひめさまつめだって、これほどつやはあるめえからの」
 三日月みかづきなりにってある、にいれたいくらいのちいさなつめを、母指おやゆび中指なかゆびさきつまんだまま、ほのかな月光げっこうすかした春重はるしげおもてには、得意とくいいろ明々ありありうかんで、はてはそばまつろうのいることをさえもわすれたごとく、ひとしきりにうなずいていたが、ふとむこずねにたかった藪蚊やぶかのかゆさに、ようやくおのれにかえったのであろう。突然とつぜん平手ひらてすねをたたくと、くすぐったそうにふふふとわらった。
しげさん、おまえまったくかわものだの」
「なんでよ」
かんがえてもねえ。これがきんぼうけずったこなとでもいうンなら、ひろいがいもあろうけれど、たかおんなつめだぜ。一貫目かんめひろったところで、※(「やまいだれ+票」、第3水準1-88-55)ひょうそくすりになるくれえが、せきやまだろうじゃねえか。よく師匠ししょうも、春重はるしげかわものだといってなすったが、まさかこれほどたァおもわなかった」
「おいおいまっつぁん、はっきりしなよ。おいらがかわものじゃァねえ。世間せけんやつらがかわってるんだ。それが証拠しょうこにゃ。がんにかけておせんの茶屋ちゃやかよきゃく山程やまほどあっても、つめるおせんのかたちを、一だっておとこは、おそらく一人ひとりもなかろうじゃねえか。――そこからうまれたこのつめだ」
 一つずつかぞえたら、つめかずは、百ちかくもあるであろう。春重はるしげは、もう一糠袋ぬかぶくろにぎりしめて、薄気味悪うすきみわるにやりわらった。

  あさ


    一

 ちち、ちち、ちちち。
 行燈あんどんはともしたままになっていたが、そとすでけそめたのであろう。いままでながもとしきりにいていたむしが、えがちにほそったのは、雨戸あまどからひかりに、おのずとおびえてしまったに相違そういない。
 が、むしほそったことも、そと白々しらじらけそめて、路地ろじ溝板どぶいたひと足音あしおときこえはじめたことも、なにもかもらずに、ただひとり、やぶだたみうええた寺子屋机てらこやつくえまえ頑張がんばったまま、手許てもと火鉢ひばちせた薬罐やかんからたぎる湯気ゆげを、千れた蟋蟀こおろぎ片脚かたあしのように、ほほッつらせながら、夢中むちゅうつづけていたのは春重はるしげであった。
 七けん長屋ながやのまんなか縁起えんぎがよくないという、ひとのいやがるそんまんなかへ、所帯道具しょたいどうぐといえば、土竈どがまと七りんと、はし茶碗ちゃわんなべが一つ、ぜん師匠ししょう春信はるのぶから、ふちけたごろの猫脚ねこあしをもらったのが、せめて道具どうぐらしいかおをしているくらいがせきやま。いわばすッてんてんののみのままでうじくのも面白おもしろかろうと、おとこやもめのあかだらけのからだはこんだのが、去年きょねんくれつまって、引摺ひきずりもちむこ鉢巻ぱちまきあるいていた、廿五にちよるの八つどきだった。
 ざっと二ねん。きのうもきょうもない春重はるしげのことながら、二十七のきょうのわかさで、おんなかずは千にんちかくもつくくしたのが自慢じまんなだけに、並大抵なみたいていのことでは興味きょうみかず、師匠ししょうとおりに美人画びじんがなら、いまぐにもける器用きよううでかえって邪間じゃまになって、着物きものなんぞおんないても、はじまらないとのこころからであろう。自然しぜん風景ふうけいうつすほかは、画帳がちょうことごとく、裸婦らふぞうたされているというかわようだった。
 二じょうに六じょうの二は、せまいようでも道具どうぐがないので、ひと住居ずまいにはひろかった。そのぐるりのかべりめぐらしたかずが、一かぞえて三十あまり、しかもおとこのつくものは、半分はんぶんいてあるのではなく、おんなと、いうよりも、ほとん全部ぜんぶが、おせんの様々さまざま姿態したいつくされているのもすさまじかった。
 その六じょう行燈あんどんしたに、つくえうえからされたのであろう、こし付根つけねからしただけを、いくつともなくいた紙片しへんが、十まいちかくもちらばったのを、ときおりじろりじろりとにらみながら、薬罐やかん湯気ゆげを、はなあなひらきッぱなしになるほどんでいた春重はるしげは、ふと、行燈あんどんしんをかきてて、薄気味悪うすきみわるくニヤリとわらった。
「ふふふ。わるくねえにおいだ。――世間せけんやつらァ智恵ちえなしだから、おんなのにおいは、はだからじかでなけりゃ、げねえようにおもってるが、なさけねえもんだ。このつめが、薬罐やかんなかえくりかえあまにおいを、一でいいからがしてやりてえくれえのもんだ。べにやおしろいのにおいなんぞたァわけちがって、たましい極楽遊ごくらくあそびにかけるたァこのことだろう。おまけにただの駄爪だつめじゃねえ。笠森かさもりおせんの、みがきのかかったたまのような爪様つめさまだ。――大方おおかたまつろうやつァ、今時分いまじぶんやけかけた吉原よしわらで、折角せっかくひろったような博打ばくちかねを、もなく捲揚まきあげられてることだろうが、可哀想かわいそうにこうしておせんのあしきながらこのにおいをかいでる気持きもちァ、鯱鉾しゃちほこだちをしたってわかるこッちゃァあるめえて。――ふふふ。もうひとつかみ、あたらしいこいつをいれ、はらぱいにかぐとしようか」
 春重はるしげかたわらにいたべに糠袋ぬかぶくろを、如何いかにも大切たいせつそうに取上とりあげると、おもむろに口紐くちひもいて、十ばかりのつめてのひらにあけたが、そのままのたぎる薬罐やかんなかへ、一つ一つ丁寧ていねいにつまみんだ。
「ふふふ、こいつァいいにおいだなァ。たまらねえにおいだ。――笠森かさもり茶屋ちゃやで、おせんをてよだれをらしての野呂間達のろまたちに、猪口ちょこ半分はんぶんでいいから、このましてやりてえがする。――」
 どこぞの秋刀魚さんまねらった泥棒猫どろぼうねこが、あやまってひさしから路地ろじちたのであろう。突然とつぜん雨戸あまどたおしたようなおおきなおと窓下まどしたきこえたが、それでも薬罐やかんなかめられた春重はるしげながかおはただそのまゆ阿波人形あわにんぎょうのように、おおきくうごいただけで、けっしてよこにはけられなかった。

    二

「おたき」
「え」
となりじゃまた、いつものやまいはじまったらしいぜ。なにしろあのにおいじゃ、くさくッてたまらねえな」
「ほんとうに、んて因果いんがひとなんだろうね。かおりゃ、十にんなみの男前おとこまえだし上手じょうずだってはなしだけど、してることは、まるッきりなみ人間にんげんかわってるんだからね」
「おめえ。ちょいととなりってねえ」
なにしにさ」
よるのこたァ、こっちがてるうちだから、なにをしてもかまわねえが、お天道様てんとうさまが、あがったら、そのにおいだけにめてもらいてえッてよ。仕事しごとったって、えたいのれぬにおいが、半纏はんてんにまでしみんでるんで、外聞げえぶんわるくッて仕様しようがありやァしねえ」
おんなじゃ駄目だめだよ。おまえさんって、かけってとくれよ」
「だからね。おいらァくなってるが、いまもそいったとおり、帳場ちょうばかけてからがみっともなくて仕様しようがねえんだ。あんなにおいなか這入へえっちゃいかれねえッてのよ」
「あたしだっていやだよ。まるで焼場やきばのようなにおいだもの。きのうだって、髪結かみゆいのおしげさんがいうじゃァないか。おかみさんとこへいにくのもいいけれど、おとなり壁越かべごしにつたわってくるにおいをかぐと、仏臭ほとけくさいようながしてたまらないから、なるたけこっちへ、かけててもらいたいって。――いったいおまえさん、あれァなににおいだとおもってるの」
わかってらァな」
んだえ」
やつかきッてみだが、うそッ八だぜ」
「おや、かきじゃないのかい」
「そうとも。やつ雪駄直せったなおしだ」
雪駄直せったなおし。――」
「それにちげえねえやな。でえいち、ほかにあんなにおいをさせる家業かぎょうが、あるはずはなかろうじゃねえか。雪駄せったかわを、なべるんだ。やわらかにして、はりとおりがよくなるようによ」
「そうかしら」
しらくろもありァしねえ。それがために、いそがしいときにゃ、ッぴてなべをかけッはなしにしとくから、こっちこそいいつらかわなんだ。――このかべンところはなてていでねえ。火事場かじば雪駄せったのこりをんだときと、まるッきりかわりがねえじゃねえか」
「あたしゃもう、ここにいてさえ、いやな気持きもちがするんだから、そんなとこへるなんざ、ぴらよ。――ねえおまえさん。後生ごしょうだから、かけってとくれよ」
「おめえってねえ」
おんなじゃ駄目だめだというのにさ」
おとこっちゃァ、おだやかでねえから、おめえきねえッてんだ」
「だって、こんなこたァ、どこのうちだって、みんな亭主ていしゅやくじゃないか」
「おいらァいけねえ」
「なんてよわひとなんだろう」
くせえからいやなんだ」
「おまえさんより、おんなだもの。あたしのほうが、どんなにいやだかれやしない。――むかしッから、公事くじかけあいは、みんなおとこのつとめなんだよ」
「ふん。むかしいまもあるもんじゃねえ。隣近所となりきんじょのこたァ、女房にょうぼうがするにきまッてらァな。って、こっぴどくやっけてねえッてことよ」
 かべとなり左官夫婦さかんふうふが、朝飯あさめしぜんをはさんで、きこえよがしのいやがらせも、春重はるしげみみへは、あきはえばたきほどにも這入はいらなかったのであろう。行燈あんどんしたの、薬罐やかんうえいかぶさったそのかおは、益々ますます上気じょうきしてゆくばかりであった。

    三

しげさん。もし、しげさんは留守るすかい。――おやッ、天道様てんとうさまへそしわまで御覧ごらんなさろうッて昼間ぴるま、あかりをつけッぱなしにしてるなんざ、ひどぎるぜ。――ているのかい。きてるんならけてくんねえ」
 どこかで一ぱいっかけてた、いのまわったしたであろう。こえたしか彫師ほりしまつろうであった。
「ふふふふ。とうとうりゃがったな」
 くびをすくめながら、くちなかでこうつぶやいた春重はるしげは、それでもつめ煮込にこんでいる薬罐やかんそばからかおはなさずに、雨戸あまどほうぬすた。高々たかだかのぼっているらしく、いまさら気付きづいた雨戸あまど隙間すきまには、なだらかなひかりが、吹矢ふきやんだように、こまいあらわれたかべすそながんでいた。
春重はるしげさん。しげさん。――」
 が、それでも春重はるしげ返事へんじをしずに、そのまま鎌首かまくびげて、ひそかにあがりはなのほうってった。
「おかしいな。いねえはずァねえんだが。――あかりをつけててるなんざ、どっちにしても不用心ぶようじんだぜ。おいらだよ。まつろうさま御登城ごとじょうだよ」
「もし、親方おやかた
 突然とつぜんとなり女房にょうぼうおたきのこえこえた。
「ねえおかみさん。ここのうち留守るすでげすかい。てるんだか留守るすなんだか、ちっともわからねえ」
「いますともさ。だが親方おやかたわるいこたァいわないから、滅多めったけるなァおしなさいよ。そこをけたにゃ、それこそ生皮なまかわにおいで、隣近所となりきんじょ大迷惑おおめいわくだわな」
生皮なまかわにおいってななんだの、おかみさん」
「おや、親方おやかたにゃこのにおいがわからないのかい。このたまらないいやなにおいが。……」
わからねえこたァねえが、こいつァおまえ、にかわてるにおいだわな」
冗談じょうだんじゃない。そんななまやさしいもんじゃありゃァしない。おなべ火鉢ひばちへかけて、雪駄せったかわてるんだよ。いまもうちで、絵師えしなんてみは、大嘘おおうそだってはなしを。……」
 がらッと雨戸あまどいて、春重はるしげからかおがぬッとあらわれた。
「およう」
「おようじゃねえや。んだってまつつぁんこんなはやくッからやってたんだ」
はやえことがあるもんか。お天道様てんとうさまは、もうとっくに朝湯あさゆまして、あんなにたかのぼってるじゃねえか。――いってえしげさん。おめえ、てえたんだかきてたんだか、なぜ返事へんじをしてくれねえんだ」
返事へんじなんざ、しちゃァいられねえよ。――いいからこっちへ這入はいンねえ」
 不機嫌ふきげん春重はるしげかおは、桐油とうゆのように強張こわばっていた。
「へえってもいいかい」
かえるんならかえンねえ」
「いやにおどかすの」
られた朝帰あさがえりなんぞにられちゃ、かなわねえ」
「ふふふ。られてなんざねえよ。それが証拠しょうこにゃ、いい土産みやげってた」
土産みやげなんざいらねえから、そこをめたら、もとのとおり、ちゃんと心張棒しんばりぼうをかけといてくんねえ」
しげさん、おめえまだるつもりかい」
「いいから、おいらのいったとおりにしてくんねえよ」
 まつろう不承無承ふしょうぶしょうに、雨戸あまど心張棒しんばりぼうをかうと、九しゃくけんうちなかふたた元通もとどおりのよる世界せかいかわってった。
あがンねえ」
 が、まつろうは、次第しだいはないてくる異様いようにおいに、そのままそこへたたずんでしまった。

    四

 行燈あんどんはほのかにともっていたものの、日向ひなたから這入はいってたばかりのまつろうには、うちなか暗闇くらやみであった。
まつつぁん、んであがらねえんだ」
くらくって、あしもとがえやしねえ」
不自由ふじゆうまなこだの。そんなこっちゃ、面白おもしろおもいは出来できねえぜ」
しげさん、おめえ、ずっときてなにをしてなすった」
「ふふふ。こっちへあがりゃァ、ぐにわかるこッた。――まァこの行燈あんどんそばねえ」
 ようやれてたのであろう。行燈あんどん次第しだいいろくするにつれて、せまいあたりの有様ありさまは、おのずからまつろうまえにはっきりした。
をかいてたんじゃねえのかい」
なんざかいちゃァいねえよ。――おめえにゃ、このにおいがわからねえかの」
にかわだな」
「ふふ、にかわなさけねえぜ」
「じゃァやっぱり、うしかわでもてるのか」
馬鹿ばかをいわッし。おいらがんで、うしかわようがあるんだ。もっともこの薬罐やかんそばはなッつけて、よくいで見ねえ」
「おいらァ、こんなにおいぴらだ」
んだって。このにおいがかげねえッて。ふふふ。なかにこれほどのいいにおいは、またとあるもんじゃねえや、伽羅沈香きゃらちんこうだろうが、蘭麝らんじゃだろうがおよびもつかねえ、勿体もったいねえくれえの名香めいこうだぜ。――そんなとおくにいたんじゃ、本当ほんとうかおりはわからねえから、もっと薬罐やかんそばって、はなあなをおッぴろげていでねえ」
「いってえ、なにてるのよ」
江戸えどはおろか、日本中にほんじゅうに二つとねえ代物しろものてるんだ」
「おどかしちゃいけねえ。そんなものがあるわけはなかろうぜ」
「なにねえことがあるものか。――それねえ。おめえ、このふくろにゃおぼえがあろう」
 はなさきけたべに糠袋ぬかぶくろは、春重はるしげなかで、たまのようにちいさくおどった。
「あッ。そいつを。……」
「どうだ。おせんのつめだ。このにおいきらうようじゃ、おとこうまれた甲斐かいがねえぜ」
しげさん。おめえは、よっぽどのかわものだのう」
 まつろうは、あらためて春重はるしげかお見守みまもった。
かわものじゃァねえ。そういうおめえのほうが、かわってるんだ。――四かくめんにかしこまっているお武家ぶけでも、おとこうまれたからにゃ、おんなきらいなものッ、ただの一人ひとりもありゃァしめえ。その万人まんにん万人まんにんきできでたまらねえおんなの、これが本当ほんとうにおいだろうじゃねえか。ほどはだにおいもある。かみにおいもある。ちちにおいもあるにァちげえねえ。だが、そのかずあるおんなにおいを、一つにまとめた有難味ありがたみこもったのが、このにおいなんだ。――三浦屋うらや高尾たかおがどれほど綺麗きれいだろうが、楊枝見世ようじみせのおふじがどんなに評判ひょうばんだろうが、とどのつまりは、みめかたちよりは、おんなにおいってきゃくかようという寸法すんぽうじゃねえか。――よくきなよ。においだぜ。このたまらねえいいにおいだぜ」
冗談じょうだんじゃねえ。おいらァいくらんだって、こんなにおいをかぎたくッて、かようような馬鹿気ばかげたこたァ。……」
「あれだ。おめえにゃまだ、まるッきりわからねえとえるの。こいつだ。このにおいが、うそかくしもねえ、おんなにおいだってんだ」
馬鹿ばかな、おめえ。――」
「そうか。そうおもってるんなら、いまおめえにせてやるものがある。きっとびっくりするなよ」
 春重はるしげはこういいながら、いきなり真暗まっくら戸棚とだななかくびんだ。

    五

 じりじりッと燈芯とうしんちるおとが、しばしのしじまをやぶってえあたりをきゅうあかるくした。が、それもつか、やがてあぶらきたのであろう。行燈あんどんたちまえて、あたりはしんやみかわってしまった。
「いたずらしちゃァいけねえ。まるっきりまっくらで、んにもえやしねえ」
 背伸せのびをして、三じゃく戸棚とだなおくさぐっていた春重はるしげは、やみなかからおもこえでこういいながら、もう一ごとりねずみのようにおとてた。
「いたずらじゃねえよ。あぶられちゃったんだ」
あぶられたッて。そんなら、行燈あんどんのわきに、油差あぶらさし火口ほくちがおいてあるから、はやくつけてくんねえ」
「どこだの」
行燈あんどん右手みぎてだ」
 くちでそういわれても、勝手かってらないやみなかでは、手探てさぐりも容易よういでなく、まつろうやぶたたみうえを、小気味悪こきみわるまわった。
はやくしてもらいてえの」
「いまつける」
 さぐてた油差あぶらさしを、雨戸あまど隙間すきまからかすかにひかりたよりに、油皿あぶらざらのそばまでってったまつろうは、中指なかゆびさきつめたい真鍮しんちゅうくち加減かげんしながら、とッとッとと、おもくちたあぶらかしてたが、さてどうやらそれがうまくはこぶと、これもあしさきさぐした火口ほくちって、やっとのおもいで行燈あんどんをいれた。
 ぱっと、漆盆うるしぼんうえ欝金うこんらしたように、あたりがあかるくなった。同時どうじに、春重はるしげのニヤリとわらった薄気味悪うすきみわるかおが、こっちをいてっていた。
まつつぁん。おめえ本当ほんとうに、おんなにおいは、麝香じゃこうにおいだとおもってるんだの」
「そりゃァそうだ。こんな生皮なまかわのようなにおいおんなにおいでたまるもんか」
「そうか。じゃァよくわかるように、こいつをせてやる」
 めば牛蒡締ごぼうじめくらいのふとさはあるであろう。春重はるしげから、無造作むぞうさされたくろな一たばは、まつろうひざしたで、へびのようにひとうねりうねると、ぐさりとそのままたたみうえへ、とぐろいておさまってしまった。
「あッ」
気味きみわるいもんじゃねえよ。よくって、そのにおいいでねえ」
 まつろう行燈あんどんしたに、じっとみはった。
「これァしげさん、かみじゃねえか」
「そのとおりだ」
「こんなものを、おめえ。……」
「ふふふ、気味きみわるいか。なさけねえ料簡りょうけんだの、つめにおいがいやだというから、そいつをがせてやるんだが、これだって、かもじなんぞたわけがちがって、滅多矢鱈めったやたらあつまる代物しろものじゃァねえんだ。かずにしたら何万本なんまんぼん。しかも一ぽんずつがみんなちがった、わかおんなかみだ。――そのなかだまってかおめてねえ。一人一人ひとりひとりちがったおんなこえが、かわがわりにきこえてる。このながらの極楽ごくらくだ。うえはお大名だいみょうのお姫様ひめさまから、したはしした乞食こじきまで、十五から三十までのおんなのつくおんなかみは、ひとすじのこらずはいってるんだぜ。――どうだまつつぁん。おいらァ、このみちへかけちゃ、江戸えどはおろか、蝦夷えぞ長崎ながさきはてっても、ひけはらねえだけの自慢じまんがあるんだ。ねえ、かみはこのとおり、一ぽんのこらずきてるんだから。……」
 まつろうひざもとから、黒髪くろかみたばりあげた春重はるしげは、たちまちそれをかおてると、次第しだいつの感激かんげきをふるわせながら、異様いようこえわらはじめた。
しげさん。おれァけえる」
けえるンなら、せめてにおいだけでもいできねえ」
 が、まつろうは、もはやこしすわらなかった。

    六

「ああ気味きみわるかった。ついゆうべの惚気のろけかせてやろうとおもって、ったばっかりに、ひでえっちゃった。かわものッてこたァってたが、まさか、あれほどたァおもわなかった。――あんなやつにつかまっちゃァ、まったくかなわねえ」
 はじかれた煎豆いりまめのように、雨戸あまどそとしたまつろうは、いも一てて、一寸先すんさきえなかったが、それでも溝板どぶいたうえけだして、かど煙草屋たばこやまえまでると、どうやらほっと安心あんしんむねでおろした。
「だが、いったいあいつは、んだってあんな馬鹿気ばかげたことがきなんだろう。つめたり、かみなかかおめたり、気狂きちがいじみた真似まねをしちゃァ、いい気持きもちになってるようだが、むしのせえだとすると、ちとねんがいりぎるしの。どうも料簡方りょうけんがたがわからねえ」
 ぶつぶつひとりつぶやきながら、小首こくびかしげてあるいてまつろうは、いきなりぽんと一つかたをたたかれて、はッとした。
「どうした、あにィ」
「おおこりゃ松住町まつずみちょう
松住町まつずみちょうじゃねえぜ。あさっぱらから、素人芝居しろうとしばい稽古けいこでもなかろう。いいわけものがひとりごとをいってるなんざ、みっともねえじゃねえか」
 坊主頭ぼうずあたまへ四つにたたんだ手拭てぬぐいせて、あさ陽差ひざしけながら、高々たかだかしりからげたいでたちの相手あいては、おな春信はるのぶ摺師すりしをしている八五ろうだった。
「みっともねえかもれねえが、あれほどたァおもわなかったからよ」
なにがよ」
春重はるしげだ」
春重はるしげがどうしたッてんだ」
「どうもこうもねえが、あいつァおめえ、日本にほん一のかわものだぜ」
春重はるしげかわものだってこたァ、いつも師匠ししょうがいってるじゃねえか。いまさらかわものぐれえに、おどろくおめえでもなかろうによ」
「うんにゃ、そうでねえ。ただのかわものなら、おいらもこうまじゃおどろかねえが、一晩中ばんじゅうずにつめたり、たばにしてあるおんなかみを、一ぽんぽんしゃぶったりするのをちゃァいくらおいらが度胸どきょうえたって。……」
つめるたァ、そいつァいってえんのこったい」
薬罐やかんれて、おんなつめるんだ」
おんなつめる。――」
「そうよ。おまけにこいつァ、ただのおんなつめじゃァねえぜ。当時とうじ江戸えどで、一といって二とくだらねえといわれてる、笠森かさもりおせんのつめなんだ」
冗談じょうだんじゃねえ。おせんのつめが、んでほどれるもんか、おめえもひと好過よすぎるぜ。春重はるしげだまされて、気味きみわるいのおそろしいのと、あたまかかえてかえってくるなんざ、おわらぐさだ。おおかたにかわでもていたんだろう。そいつをおめえが間違まちがって。……」
「そ、そんなんじゃねえ。真正しんしょう間違まちがいのねえおせんのつめべに糠袋ぬかぶくろから小出こだしにして、薬罐やかんなかてるんだ。そいつも、ただてるんならまだしもだが、薬罐やかんうえつらかぶせて、立昇たちのぼ湯気ゆげを、血相けっそうえていでるじゃねえか。あれがおめえ、いい心持こころもちていられるか、いられねえか、まずかんがえてくんねえ」
「そいつをいで、どうしようッてんだ」
やつにいわせると、あのたまらなくくせにおい本当ほんとうおんなにおいだというんだ。うそだとおもったら、ろんより証拠しょうこ春重はるしげうちってねえ。って、いまうれしがりの最中さいちゅうだぜ」
 が、八五ろうくびった。
「そいつァいけねえ。おれァ師匠ししょう使つかいで、おせんのとこまでかにゃならねえんだ」

    七

 隈取くまどりでもしたようにかわをたるませた春重はるしげの、上気じょうきしたほほのあたりに、はえが一ぴきぽつんととまって、初秋しょしゅうが、路地ろじかわらから、くすぐったいかおをのぞかせていた。
「おっといけねえ。春重はるしげがやってくるぜ」
 煙草屋たばこやかどったまま、つめうわさをしていたまつろうは、あわてて八五ろうくばせをすると、暖簾のれんのかげにいた。
かくれるこたぁなかろう」
「そうでねえ。おいらはいまげてたばかりだからの。見付みつかっちァことだ」
「そんなら、そっちへんでるがいい。もののついでに、おれがひとつ、かまをかけてやるから。――」
 かえるのように、眼玉めだまばかりきょろつかせて暖簾のれんのかげからかおをだしたまつろうは、それでもまだおびえていた。
大丈夫だいじょうぶかの」
ッ。そこへたぜ」
 出合頭であいがしらのつもりかなんぞの、至極しごく気軽きがる調子ちょうしで、八五ろう春重はるしげまえちふさがった。
しげさん、大層たいそうはええの」
 びくっとしたように、春重はるしげ爪先つまさきどまった。
「八つぁんか」
「八つぁんじゃねえぜ、一ぺえやったようないい顔色かおいろをして、どこへきなさる」
柳湯やなぎゆへの」
朝湯あさゆたァしゃれてるの」
「しゃれてるわけじゃねえが、ずに仕事しごとをしてたんで、へでも這入はいらねえことにゃ、はっきりしねえからよ」
「ふん、なべたァおそった。そんなにかせいじゃ、ぜにがたまって仕方しかたがあるめえ」
「だからよ。だからあかと一しょに、柳湯やなぎゆてにくところだ」
「ほう、まねえが、そんな無駄むだぜにがあるんなら、ちとこっちへまわしてもらいてえの。おれだのまつろうなんざ、貧乏神びんぼうがみ見込みこまれたせいか、いつもぴいぴい風車かざぐるまだ。そこへくとおめえなんざ、おせんのつめ糠袋ぬかぶくろれて。……」
「なんだって八つぁん、おめえゆめてるんじゃねえか。つめだの糠袋ぬかぶくろだの、とそんなことァ、おれにゃァてんでつうじねえよ」
「えええかくしちゃァいけねえ。なにからなにまで、おれァこそぎってるぜ」
ってるッて。――」
らねえでどうするもんか。しげさん、おめえのあかしの仕事しごとは、ぜにのたまるかせぎじゃなくッて、色気いろけのたまるたのしみじゃねえか」
「そ、そんなことが。……」
うそだといいなさるのかい。証拠しょうこはちゃんとあがってるんだぜ。おせんのつめにおいは、さぞこうばしくッて、いいだろうの」
「そいつを、おめえはだれからきなすった」
だれからかねえでも、おいらの見透みとおしだて。――人間にんげんは、四百四びょううつわだというが、しげさん、おめえのやまいは、べつあつらえかもれねえの」
 春重はるしげは、きょろりとあたりを見廻みまわしてから、一だんこえおとした。
「ちょいとうちらねえか。おもしろいものせるぜ」
折角せっかくだが、ってるひまがねえやつさ。これから大急おおいそぎぎで、おせんの見世みせまでかざァならねえんだ」
「おせんの見世みせくッて、んのようでよ」
んのようだからねえが、春信師匠はるのぶししょうが、きゅうようありとのことでの」
 八五ろうは、春信はるのぶからあずかった結文むすびふみを、ちょいと懐中ふところからのぞかせた。

  べに


    一

 ゆくすえだれはだれんべにはな  ばせを
「おッとッと、そう一人ひとりいそいじゃいけねえ。まず御手洗みたらしきよめての。肝腎かんじんのお稲荷いなりさんへ参詣さんけいしねえことにゃ、ばちあたってがつぶれやしょう」
「いかさまこれははやまった。こかァ笠森様かさもりさま境内けいだいだったッけの」
冗談じょうだんじゃごわせん。そいつをわすれちゃ、申訳もうしわけがありますめえ。――それそれ、んでまた、あらったきなさらねえ。おせんはげやしねえから、落着おちついたり、落着おちついたり」
御隠居ごいんきょ、そうひやかしちゃいけやせん。堪忍かんにん堪忍かんにん
「はッはッはッ、とくさん。おまえあしッ、まるッきり、べたをんじァいねえの」
 こおろぎの細々ほそぼそれて、かぜみだれる芒叢すすきむらに、三つ四つ五つ、子雀こすずめうさまも、いとどあわれのあきながら、ここ谷中やなか草道くさみちばかりは、枯野かれの落葉おちばかげさえなく、四季しきわかたずうた、芙蓉ふようはな清々すがすがしくもいろめて、西にしそらわたった富岳ふがくゆきえていた。
 にしはな笠森かさもり感応寺かんのうじ渋茶しぶちゃあじはどうであろうと、おせんが愛想あいそうえくぼおがんで、桜貝さくらがいをちりばめたような白魚しらうおから、おちゃぷくされれば、ぞっと色気いろけにしみて、かえりの茶代ちゃだいばいになろうという。おんなならではのあけぬ、その大江戸おおえど隅々すみずみまで、子供こどもうた毬唄まりうたといえば、近頃ちかごろ「おせんの茶屋ちゃや」にきまっていた。
 よる白々しらじらけそめて、上野うえのもりこいからすが、まだようやゆめからめたかめない時分じぶんはやくも感応寺かんのうじ中門前町なかもんぜんちょうは、参詣さんけいかくれての、恋知こいしおとこ雪駄せったおとにぎわいそめるが、十一けん水茶屋みずちゃやの、いずれの見世みせやすむにしても、とう金的きんてきはかぎのおせんただ一人ひとり。ゆうべ吉原よしわらかれた捨鉢すてばちなのが、かえりの駄賃だちんに、朱羅宇しゅらう煙管きせる背筋せすじしのばせて、可愛かわいいおせんにやろうなんぞと、んだ親切しんせつなおわらぐさも、かずあるきゃくなかにもめずらしくなかった。
「はいおはよう」
「ああのどがかわいた」
 あか鳥居とりい手前てまえにある。伊豆石いずいし御手洗みたらしあらったを、くのをわすれた橘屋たちばなや若旦那わかだんな徳太郎とくたろうが、お稲荷様いなりさまへの参詣さんけいは二のぎに、れの隠居いんきょ台詞通せりふどおり、つちへつかないあしかせて、んでたおせんの見世先みせさき。どかりとこしをおろした縁台えんだいに、小腰こごしをかがめて近寄ちかよったのは、肝腎かんじんのおせんではなくて、雇女やといめのおきぬだった。
「いらっしゃいまし。おはやくからようこそ御参詣おさんけいで。――」
ちゃをひとつもらいましょう」
「はい、唯今ただいま
 三四にん先客せんきゃくへの遠慮えんりょからであろう。おきぬがちゃみにってしまうと、徳太郎とくたろうはじくりと固唾かたずんでこえをひそめた。
「おかしいの。りやせんぜ」
「そんなこたァごわすまい。看板かんばんのねえ見世みせはあるまいからの」
「だが御隠居ごいんきょ。おせんはかげもかたちもえやせんよ」
「あわてずにったり。じきにおくからようッて寸法すんぽうだろう」
朝飯あさめしとおみなすったか」
「そうだ。それともおまえさんのくるのをって、念入ねんいりの化粧けしょうッてところか」
うれしがらせは殺生せっしょうでげす。――おっとねえさん。おせんちゃんはどうしやした」
唯今ただいまちょいとおまいりに。――」
「どこへの」
「お稲荷様いなりさまでござんすよ」
「うむ、ちがいない。ここァお稲荷様いなりさま境内けいだいだっけの」
 徳太郎とくたろうようや安心あんしんしたように、ふふふとかる内所ないしょわらった。

    二

 橘屋たちばなや若旦那わかだんな徳太郎とくたろうが、おせんの茶屋ちゃや安心あんしんむねでおろしていた時分じぶんとうのおせんは、神田白壁町かんだしろかべちょう鈴木春信すずきはるのぶ住居すまいへと、ひたすら駕籠かごいそがせた。
相棒あいぼう
「おお」
威勢いせいよくやんねえ」
合点がってんだ」
「そんじょそこらの、大道臼だいどううすせてるんじゃねえや。江戸えどばんのおせんちゃんをせてるんだからの」
「そうとも」
「こうなると、銭金ぜにかねのおきゃくじゃァねえ。こちとらの見得みえになるんだ」
「そのとおりだ」
「おれァ、一半蔵松葉はんぞうまつばよそおいという花魁おいらんを、小梅こうめりょうまでせたことがあったっけが、入山形いりやまがたに一つぼしの、全盛ぜんせい太夫たゆうせたときだって、こんないい気持きもはしなかったぜ」
「もっともだ」
たれげて、世間せけん仲間なかませてやりてえくれえのものだの」
「おめえばかりじゃねえ。そいつァおいらもおんなじこッた」
「もしねえさん」と、うしろほうからこえがかかった。
「あい」
「どうでげす。駕籠かごたれげさしちァおくんなさるめえか」
堪忍かんにんしておくんなさい。あたしゃ内所ないしょ用事ようじでござんすから。……」
折角せっかくまえさんをせながら、たれをおろしてかついでたんじゃ、勿体もったいなくって仕方しかたがねえ。はばかンながら駕籠定かごさだたけ仙蔵せんぞうは、江戸えどばんのおせんちゃんをせてるんだと、みんなにせてやりてえんで。……」
「どうかそんなことは、もういわないでおくんなさい」
評判娘ひょうばんむすめのおせんちゃんだ。両方りょうほうげてわるかったら、かたぽうだけでもようがしょう」
「そうだ、ねえさん。こいつァなにも、あっしらばかりの見得みえじゃァごあんせんぜ。春信はるのぶさんのむのも、駕籠かごからのぞいてせてやるのも、いずれは世間せけんへのおんなじ功徳くどくでげさァね。ひとつおもって、ようがしょう」
「どうか堪忍かんにん。……」
よくのねえおひとだなァ。たれげてごらんなせえ。あれや、あれが水茶屋みずちゃやのおせんだ。笠森かさもりのおせんだと、だれいうとなくくちからみみつたわって白壁町しろかべちょうまでくうちにゃァ、この駕籠かごむねぱなにゃ、人垣ひとがき出来できやすぜ。のうたけ
「そりゃァもう仙蔵せんぞうのいうとお真正しんしょう間違まちげえなしの、きたおせんちゃんを江戸えど町中まちなかたとなりゃァ、また評判ひょうばん格別かくべつだ。――かたぽうでもいけなけりゃ、せめて半分はんぶんだけでもげてやったら、とおりがかりの人達ひとたちが、どんなによろこぶかれたもんじゃねえんで。……」
駕籠屋かごやさん」
「ほい」
「あたしゃもうりますよ」
んでげすッて」
無理難題むりなんだいをいうんなら、ここでろしておくんなさいよ」
「と、とんでもねえ。おまえさんを、こんなところでおろしたにゃ、それこそこちとらァ、二ふたたび、江戸えどじゃ家業かぎょう出来できやせんや。――そんなにいやなら、たれげるたいわねえから、そうじたばたとうごかねえで、おとなしくっておくんなせえ。――だが、かんげえりゃかんげえるほど、このままかついでるな、勿体もったいねえなァ」
 駕籠かごはいま、秋元但馬守あきもとたじまのかみ練塀ねりべい沿って、はすはなけんきそった不忍池畔しのばずちはんへと差掛さしかかっていた。

    三

 東叡山とうえいざん寛永寺かんえいじ山裾やますそに、周囲しゅういいけることは、開府以来かいふいらい江戸えどがもつほこりの一つであったが、わけてもかりおとずれをつまでの、はすはな池面いけおも初秋しょしゅう風情ふぜいは、江戸歌舞伎えどかぶき荒事あらごとともに、八百八ちょう老若男女ろうにゃくなんにょが、得意中とくいちゅう得意とくいとするところであった。
 近頃ちかごろはやりもののひとつになった黄縞格子きじまごうし薄物うすものに、菊菱きくびし模様もようのある緋呉羅ひごらおびめて、くびからむねへ、紅絹べにぎぬ守袋まもりぶくろひもをのぞかせたおせんは、あらがみいあげた島田髷しまだまげ清々すがすがしく、ただしくすわったひざうえに、りょういたまま、駕籠かごなかからいけのおもてに視線しせんうつした。
 けて、まだ五つにはがあるであろう。ひとかかえもあろうとおもわれるはすに、かれたつゆたまは、いずれも朝風あさかぜれて、そのあしもとにしのるさざなみを、ながしながらいたはなべにまね尾花おばなのそれとはかわったきよ姿すがたを、水鏡みずかがみうつすたわわの風情ふぜい。ゆうべの夢見ゆめみわすれられぬであろう。葉隠はがくれにちょいとのぞいた青蛙あおがえるは、いまにもちかかった三角頭かくとうに、陽射ひざしをまばゆくけていた。
駕籠屋かごやさん」
 ふと、おせんがこえをかけた。
「へえ」
「こっちがわだけ、たれげておくんなさいな」
「なんでげすッて」
はなとうござんすのさ」
合点がってんでげす」
 先棒さきぼううしろとのこえは、まさに一しょであった。駕籠かご地上ちじょうにおろされると同時どうじに、いけめんした右手みぎてたれは、さっとばかりにはねげられた。
「まァ綺麗きれいだこと」
「でげすからあっしらが、さっきッからいってたじゃござんせんか。こんないい景色けしきァ、毎朝まいあさられるじゃァねえッて。――ごらんなせえやし。おまえさんの姿すがたえたら、つぼんでいたはなが、あのとおり一ぺんきやしたぜ」
「ちげえねえ。葉ッぱにとまってたかえる野郎やろうまでが、あんなおおきなきゃァがった」
「もういいから、やっておくんなさい」
「そんなら、ゆっくりめえりやしょう。――おせんちゃんがたれげておくんなさりゃ、どんなに肩身かたみひろいかれやァしねえ。のうたけ
「そうともそうとも。こうなったら、いそいでくれろとたのまれても、あしがいうことをきませんや。あっしと仙蔵せんぞうとの、役得やくとくでげさァね」
「ほほほほ、そんならあたしゃ、たれをおろしてもらいますよ」
んでもねえ。駕籠かごひとかつぐひとさきァおきゃくのままだが、かついでるうちァ、こっちのままでげすぜ。――それたけ、なるたけ往来おうらい人達ひとたち目立めだつように、こしをひねってあるきねえ」
「おっと、御念ごねんにはおよばねえ。おかみゆるしておくんなさりゃァ、棒鼻ぼうはなへ、笠森かさもりおせん御用駕籠ごようかごとでも、ふだててきてえくらいだ」
 いうまでもなく、祝儀しゅうぎ酒手さかて多寡たかではなかった。当時とうじ江戸女えどおんな人気にんき一人ひとり背負せおってるような、笠森かさもりおせんをせたうれしさは、駕籠屋仲間かごやなかまほまれでもあろう。たけ仙蔵せんぞうも、きん延棒のべぼうせたよりもはら得意とくいで一ぱいになっていた。
「こうや。あすこへくなァおせんだぜ」
「おせんだ」
「そうよ。人違ひとちげえのはずはねえ。えくぼ立派りっぱ証拠しょうこだて」
「おッとちげえねえ。むこうへまわってざァならねえ」
 帳場ちょうばいそ大工だいくであろう。最初さいしょつけたほこりから、二人ふたりが一しょに、駕籠かごむこうへかけった。

    四

風流絵暦所ふうりゅうえこよみどころ鈴木春信すずきはるのぶ
 みずくきのあとも細々ほそぼそと、ながしたようにきつらねた木目もくめいた看板かんばんに、片枝折かたしおりたけちた屋根やねから柴垣しばがきへかけて、葡萄ぶどうつる放題ほうだい姿すがたを、三じゃくばかりのながれにうつした風雅ふうがなひとかまえ、おしろまつかげきそうな、日本橋にほんばしからきたわずかに十ちょう江戸えどのまんなかに、かくもひなびた住居すまいがあろうかと、道往みちゆひとのささやきかわ白壁町しろかべちょうなつならば、すいとびだすまよほたるを、あれさちなと、団扇うちわるしなやかなられるであろうが、はやあきこえ垣根かきねそとには、朝日あさひけた小葡萄こぶどうふさが、ようや小豆大あずきだいのかたちをつらねたかげを、真下ましたながれにただよわせているばかりであった。
 いけ名付なづけるほどではないが、一坪余つぼあまりの自然しぜん水溜みずたまりに、十ぴきばかりの緋鯉ひごいかぞえられるそのこいおおって、なかばはなりかけたはぎのうねりが、一叢ひとむらぐっと大手おおてひろげたえださきから、いましもぽたりとちたひとしずく。波紋はもん次第しだいおおきくびたささやかななみを、小枝こえださきでかきせながら、じっとみずおも見詰みつめていたのは、四十五のとしよりは十ねんわかえる、五しゃくたない小作こづくりの春信はるのぶであった。
 おおかたくわえた楊枝ようじてて、かおあらったばかりなのであろう。まだ右手みぎてげた手拭てぬぐいは、おもれたままになっていた。
藤吉とうきち
 春信はるのぶは、こいからはなすと、きゅうおもいだしたように、縁先えんさき万年青おもと掃除そうじしている、少年しょうねん門弟もんてい藤吉とうきちんだ。
「へえ」
「八つぁんは、まだかえってないようだの」
「へえ」
「おせんもまだえないか」
「へえ」
堺屋さかいや太夫たゆうもか」
「へえ」
「おまえちょいと、枝折戸しおりどな」
「かしこまりました」
 藤吉とうきちは、万年青おもとから掃除そうじふではなすと、そのままはぎすそまわって、小走こばしりにおもてへった。
今時分いまじぶん、おせんがいないはずはないから、ひょっとすると八五ろうやつ途中とちゅうだれかにって、道草みちくさってるのかもれぬの。堺屋さかいやでもどっちでも、はやればいいのに。――」
 れた手拭てぬぐいを、もう一丁寧ていねいしぼった春信はるのぶは、くちのうちでこうつぶやきながら、おもむろに縁先えんさきほうあゆった。すると、そのひたいあせきながらんでたのは、摺師すりしの八五ろうであった。
ってめえりやした」
御苦労ごくろう御苦労ごくろう。おせんはいたかの」
「へえ。りやした。でげすが師匠ししょうなかにゃ馬鹿ばか野郎やろうおおいのにおどろきやしたよ。あっしがむこうへいたのは、まだ六つをちっとまわったばかりでげすのに、もうおまえさん、かぎまえにゃ、ひとたばンなってるじゃござんせんか。それも、おんな一人ひとりいるんじゃねえ。みんな、おいらこそ江戸えどばん色男いろおとこだと、いわぬばかりのかおをして、りッかえってる野郎やろうぞっきでげさァね。――おせんちゃんにゃ、千にんおとこくびッたけンなっても、およばぬこいたきのぼりだとは、知らねえんだから浅間あさましいや」
「八つぁん。おせんの返事へんじはどうだったんだ。ぐにるとか、ないとか」
「めえりやすとも。もうおッつけ、そこいらでこえきこえますぜ」
 八五ろう得意とくいそうに小首こくびをかしげて、枝折戸しおりどほうゆびさした。

    五

 枝折戸しおりどそとに、外道げどうつらのようなかおをして、ずんぐりってっていた藤吉とうきちは、駕籠かごなかからこぼれたおせんのすそみだれに、いましもきょろりと、団栗どんぐりまなこを見張みはったところだった。
「やッ、おせんちゃん。師匠ししょうがさっきから、くびながくしておちかねだぜ」
 しゅとお納戸なんどの、二こく鼻緒はなお草履ぞうりを、うしろ仙蔵せんぞうにそろえさせて、おうぎ朝日あさひけながら、しずかに駕籠かごたおせんは、どこぞ大店おおだな一人娘ひとりむすめでもあるかのように、如何いかにもひんよく落着おちついていた。
藤吉とうきちさん。ここであたしを、ってでござんすかえ」
「そうともさ、肝腎かんじん万年青おもと掃除そうじ半端はんぱでやめて、半時はんときまえから、おまえさんのるのをってたんだ。――だがおせんちゃん。おまえ相変あいかわらず、師匠ししょうのように綺麗きれいだのう」
「おや、あさッからおなぶりかえ」
「なぶるどころか。おいらァとれてるんだ。かおといい、姿すがたといい、おまえほどのおんな江戸中えどじゅうさがしてもなかろうッて、師匠ししょうはいつも口癖くちぐせのようにいってなさるぜ。うちのおなべおんななら、おせんちゃんもおんなだが、おんなじおんなうまれながら、おなべはなんて不縹緻ぶきりょうなんだろう。おなべとはよくをつけたと、おいらァつくづくあいつの、親父おやじ智恵ちえ感心かんしんしてるんだが、それとちがっておせんさんは、弁天様べんてんさま跣足はだしおんなッぷり。いやもう江戸えどはおろか日本中にほんじゅうかね太鼓たいこさがしたって……」
「おいおいとうさん」
 かたつかんで、ぐいとった。そので、かおさかさにでた八五ろうは、もう一おびって、藤吉とうきち枝折戸しおりどうちきずりんだ。
なにをするんだ。八つぁん」
なにもこうありゃァしねえ。つべこべと、余計よけいなことをいってねえで、はやくおせんちゃんを、おく案内あんないしてやらねえか。師匠ししょうがもう、ちゃを三ばいえてちかねだぜ」
「おっと、しまった」
「おせんちゃん。すこしもはやく、いそいだ、いそいだ」
「ほほほほ。八つぁんがまた、おどけたもののいいようは。……」
 駕籠かごかえしたおせんの姿すがたは、小溝こどぶけた土橋どばしわたって、のがれるように枝折戸しおりどなかえてった。
「ふん、八五ろうやつ余計よけい真似まねをしやァがる。おせんちゃんの案内役あんないやくは、いっさいがっさい、おいらときまってるんだ。――よし、あとで堺屋さかいや太夫たゆうたら、そのときあいつにはじをかかせてやる」
 うちたからうばわれでもしたように、藤吉とうきち地駄じだんで、あとから、土橋どばしをひとびにんでった。
 かぎなりにまがった縁先えんさきでは、師匠ししょう春信はるのぶとおせんとが、すで挨拶あいさつませて、いけこいをやりながら、何事なにごとかを、こえをひそめてはなっていた。
「八つぁん、ちょいとてくんな」
んだとうさん」
 ってた八五ろうを、にらめるようにして、藤吉とうきちくちとがらせた。
「おまえ、あとからだれるか、ってるかい」
らねえ」
「それな。らねえで、よくそんなお接介せっかい出来できたもんだの」
「お接介せっかいたァんのこッた」
「おせんちゃんを、さきってれてくなんざ、お接介せっかいだよ」
冗談じょうだんじゃねえ。おせんちゃんは、師匠ししょうたのまれて、おいらがびにったんだぜ。――おめえはまだ、かおあらわねえんだの」
 かおはとうにあらっていたが、藤吉とうきち眼頭めがしらには、目脂めやに小汚こぎたなくこすりいていた。

    六

 あかとんぼが障子しょうじへくっきりかげうつした画室がしつは、きん砂子すなこらしたようにあかるかった。
 広々ひろびろにわってはあるが、わずかに三かぞえるばかりの、茶室ちゃしつがかった風流ふうりゆう住居すまいは、ただ如何いかにも春信はるのぶらしいこのみにまかせて、いれがとどいているというだけのこと、諸大名しょだいみょう御用絵師ごようえしなどにくらべたら、まことに粗末そまつなものであった。
 その画室がしつなかほどに、煙草盆たばこぼんをはさんで、春信はるのぶとおせんとが対座たいざしていた。おせんのうぶこころは、春信はるのぶ言葉ことばにためらいをせているのであろう。うついた眼許めもとには、ほのかなべにして、びんが二すじすじ夢見ゆめみるようにほほみだれかかっていた。
「どうだの、これはべつに、おいらが堺屋さかいやからたのまれたわけではないが、んといっても中村松江なかむらしょうこうなら、当時とうじしもされもしない、立派りっぱ太夫たゆう。その堺屋さかいやあき木挽町こびきちょうで、おまえのことを重助じゅうすけさんにきおろさせて、舞台いたせようというのだから、まずねがってもないもっけさいわい。いやのおうのということはなかろうじゃないか」
「はい、そりゃァもう、あたしにっては勿体もったいないくらいの御贔屓ごひいき、いやおういったら、がつぶれるかもれませぬが。……」
「それならんでの」
「お師匠ししょうさん、堪忍かんにんしておくんなさい。あたしゃらない役者衆やくしゃしゅうと、しでうのはいやでござんす」
「はッはッは、なにかとおもったら、いつもの馬鹿気ばかげたはにかみからか。ここへ堺屋さかいやんだのは、なにもおまえしでわせようの、二人ふたりはなしをさせようのと、そんな訳合わけあいじァありゃしない。松江しょうこう日頃ひごろ、おいらの大好だいすきとかで、いたおろしをしたのはもとより、版下はんしたまでをあつめているほどしゃ仲間なかま、それがゆうべ、芝居しばいかえりにひょっこりって、このつぎ狂言きょうげんには、是非ぜひとも笠森かさもりおせんちゃんを、芝居しばい仕組しくんでしたいとの、たってののぞみさ。どういうすじ仕組しくむのか、そいつは作者さくしゃ重助じゅうすけさんにはかってからの寸法すんぽうだから、まだはっきりとはいえないとのことだった、松江しょうこううつしたおまえ姿すがたを、舞台ぶたいられるとなりゃ、んといっても面白おもしろはなし。おいらは二つ返事へんじで、ってしまったんだ。――そこで、ぜんいそげのたとえをそのまま、あしたのあさ、ここへおせんにてもらおうから、太夫たゆうももう一、ここまでてもらいたいと、約束事やくそくごと出来できたんだが、――のうおせん。おいらのまえじゃ、はだまでせて、うつさせるおまえじゃないか、相手あいてだれであろうと、ここで一時いっとき、茶のみばなしをするだけだ。心持こころもよくってやるがいいわな」
「さァ。――」
今更いまさら思案しあんもないであろう。こうしているうちにも、もうそこらへ、やってたかもれまいて」
「まァ、師匠ししょうさん」
「はッはッは。おまえ、めっきりちいさくなったの」
「そんなわけじゃござんせぬが、あたしゃらない役者衆やくしゃしゅうとは。……」
「ほい、まだそんなことをいってるのか。なまじってるかおよりも、はじめてってほうに、はずむはなしがあるものだ。――それにおまえ相手あいて当時とうじ上上吉じょうじょうきち女形おやまってるだけでも、れとするようだぜ」
 ふと、とんぼのかげ障子しょうじからはなれた。と同時どうじ藤吉とうきちこえが、遠慮勝えんりょがちに縁先えんさきからきこえた。
師匠ししょう太夫たゆうがおいでになりました」
「おおそうか。ぐにこっちへおとおししな」
 じっとたたみうえ見詰みつめているおせんは、たじろぐように周囲しゅうい見廻みまわした。
「お師匠ししょうさん、後生ごしょうでござんす。あたしをこのまま、かえしておくんなさいまし」
「なんだって」
 春信はるのぶおおきくひらいた。

    七

 たとえば青苔あおこけうえに、二つ三つこぼれた水引草みずひきそうはなにもて、たたみうえすそみだしてちかけたおせんの、ぼりのような爪先つまさきは、もはやかたたたみんではいなかった。
「ははは、おせん。みっともない、どうしたというんだ」
 春信はるのぶの、いささか当惑とうわくした視線しせんは、そのまま障子しょうじほうへおせんをってったが、やがてつめられたおせんの姿すがたが、障子しょうじきわにうずくまるのをると、さらせないおもいがむねそこひろがってあわてて障子しょうじそとにいる藤吉とうきちこえをかけた。
藤吉とうきち堺屋さかいや太夫たゆうに、もうちっとのあいだっておもらいもうしてくれ」
「へえ」
 おおかた、もはや縁先近えんさきちかくまでていたのであろう。藤吉とうきちぐさま松江しょうこう春信はるのぶつたえて、いけほうかえしてゆく気配けはいが、障子しょうじうつった二つのかげにそれとれた。
「おせん」
「あい」
「おまえなにわけがあってだの」
「いいえ、なにわけはござんせぬ」
かくすにゃあたらないから、有様ありようにいってな、こと次第しだいったら、堺屋さかいやは、このままおまえにはあわせずに、かえってもらうことにする」
「そんなら、あたしのねがいをいておくんなさいますか」
きもする。かなえもする。だが、そのわけかしてもらうぜ」
「さァそのわけは。――」
「まだかくしだてをするつもりか。あくまでかせたくないというなら、かずにませもしようけれど、そのかわりおいらはもうこのさき金輪際こんりんざい、おまえかないからそのつもりでいるがいい」
「まァお師匠ししょうさん」
「なァにいいやな。笠森かさもりのおせんは、江戸えどばん縹緻佳きりょうよしだ。おいらがまずなんぞにかないでも、きゃく御府内ごふない隅々すみずみから、ありのようにってくるわな。――いいたくなけりゃ、かずにいようよ」
 いたずらに、もてあそんでいた三味線みせんの、いとがぽつんとれたように、おせんは身内みうちつもさびしさをおぼえて、おもわずまぶたあつくなった。
「お師匠ししょうさん、堪忍かんにんしておくんなさい。あたしゃ、おかあさんにもいうまいと、かたこころにきめていたのでござんすが、もう何事なにごともうしましょう。どっとわらっておくんなさいまし」
「おお、ではやっぱりなにかのわけがあって。……」
「あい、あたしゃあの、浜村屋はまむらや太夫たゆうさんが、ぬほどきなんでござんす」
「えッ。菊之丞きくのじょうに。――」
「あい。おはずかしゅうござんすが。……」
 消えもりたいおせんの風情ふぜいは、にわ秋海棠しゅうかいどうが、なまめきちる姿すがたをそのままなやましさに、おもてたもとにおおいかくした。
 じッと、くぎづけにされたように、春信はるのぶは、おせんの襟脚えりあしからうごかなかった。が、やがてしずかにうなずいたそのかおには、れやかないろただよっていた。
「おせん」
「あい」
「よくほれた」
「えッ」
当代とうだい一の若女形わかおやま瀬川菊之丞せがわきくのじょうなら、江戸えどばんのおまえ相手あいてにゃ、すこしの不足ふそくもあるまいからの。――わかった。相手あいてがやっぱり役者やくしゃとあれば、堺屋さかいやうのはそう。こりゃァんとでもいってことわるから、安心あんしんするがいい」

    八

 きおんで駕籠かごけた中村松江なかむらしょうこうは、きのうとおなじように、藤吉とうきち案内あんないされたが、さまとおしてもらえるはずの画室がしつへは、なにやらわけがあってはいることが出来できぬところから、ぽつねんと、いけちかくにたたずんだまま、人影ひとかげってこいうごきをじっと見詰みつめていた。
 歌右衛門うたえもんしたって江戸えどくだってから、まだあしかけ三ねんたばかりの松江しょうこうが、贔屓筋ひいきすじといっても、江戸役者えどやくしゃほどのかずがあるわけもなく、まして当地とうちには、当代随とうだいずい一の若女形わかおやまといわれる、二代目だいめ瀬川菊之丞せがわきくのじょう全盛ぜんせいきわめていることとて、そのかげけっしていものではなかった。が、としわかいし、げい達者たっしゃであるところから、作者さくしゃ中村重助なかむらじゅうすけしきりにかたれて、なに目先めさきかわった狂言きょうげんを、させてやりたいとのこころであろう。近頃ちかごろ春信はるのぶで一そう評判ひょうばんった笠森かさもりおせんを仕組しくんで、一ばんてさせようと、松江しょうこう春信はるのぶ懇意こんいなのをさいわい、ぜんいそげと、早速さっそくきのうここへたずねさせての、きょうであった。
太夫たゆう、お待遠まちどおさまでござんしょうが、どうかこちらへおいでなすって、おちゃでも召上めしあがって、おちなすっておくんなまし」
 藤吉とうきちにも、んで師匠ししょう堺屋さかいやたせるのか、一こう合点がってんがいかなかったが、めていた気持きもちきゅうゆるんだように、しょんぼりといけ見詰みつめてっている後姿うしろすがたると、こういってこえをかけずにはいられなかった。
「へえ、おおきに。――」
太夫たゆうは、おせんちゃんには、まだおいなすったことがないんでござんすか」
「へえ、笠森様かさもりさまのお見世みせでは、おちゃいただいたことがおますが、先様さきさまは、なにってではござりますまい。――したが若衆わかしゅうさん。おせんさんは、もはやおえではおますまいかな」
「ついいまがた。――」
「ではなにか、でもなろうていやはるのでは。――」
「さァ、大方おおかたそんなことでげしょうが、どっちにしてもながいことじゃござんすまい。そこはあたりやす。こっちへおいでなすッて。……」
 ふとくびすかえして、二あしあしあるきかかったときだった。すみ障子しょうじしずかにけて、にわった春信はるのぶは、蒼白そうはくかおを、振袖姿ふりそですがた松江しょうこうほうけた。
太夫たゆう
「おお、これはお師匠ししょうさんは。はようからお邪間じゃまして、えろみません」
まないのは、おまえさんよりこっちのこと、折角せっかくねむいところを、早起はやおきをさせて、わざわざてもらいながら、肝腎かんじんのおせんが。――」
「おせんさんが、なんぞしやはりましたか」
急病きゅうびょうでの」
「えッ」
みちでもあろうが、ここへるなり頭痛ずつうがするといって、ふさぎんでしまったまま、いまだにかおげない始末しまつ、このぶんじゃ、半時はんときってもらっても、今朝けさは、はなし出来できまいとおもっての、おどくだが、またあらためて、ってやっておもらいもうすより、仕方しかたがないじゃなかろうかと、じつ心配しんぱいしているわけだが。……」
「それはまア」
「のう太夫たゆう。おまえさん、わびはあたしから幾重いくえにもしようから、きょうはこのまま、かえっておくんなさるまいか」
「それァもう、かえることは、いつでもかえりますけれど、おせんさんが急病きゅうびょうとは、がかりでおますさかい。……」
「いや、むほどのことでもなかろうが、なんわかおんな急病きゅうびょうでの。ちっとばかり、あさから世間せけんくらくなったようながするのさ」
「へえ」
 春信はるのぶは、松江しょうこうれて、はぎうつっていた。

  あめ


    一

「おい坊主ぼうず火鉢ひばちえちゃってるぜ。ぼんやりしてえちゃこまるじゃねえか」
 浜町はまちょう細川邸ほそかわてい裏門前うらもんまえを、みぎれて一ちょうあまり、かど紺屋こうやて、伊勢喜いせきいた質屋しちやよこについてまががった三軒目げんめ、おもてに一本柳ぽんやなぎながえだれたのが目印めじるしの、人形師にんぎょうし亀岡由斎かめおかゆうさいのささやかな住居すまい
 まだ四十をしていくつにもならないというのが、一けん五十四五にえる。まげ白髪しらがもおかまいなし、床屋とこや鴨居かもいは、もう二つきくぐったことがないほどの、あかにまみれたうすぎたなさ。名人めいじんとか上手じょうずとか評判ひょうばんされているだけに、坊主ぼうずぶ十七八の弟子でしほかは、ねこぴきもいない、たった二人ふたりくらしであった。
「おめえ、いってえ弟子でしてから、何年なんねんつとおもっているんだ」
「へえ」
「へえじゃねえぜ。人形師にんぎょうしって、胡粉ごふん仕事しごとがどんなもんだぐれえ、もうてえげえわかっても、ばちあたるめえ。このあめだ。愚図々々ぐずぐずしてえりゃ、湿気しっけんで、みんなねこンなっちまうじゃねえか。はやくおこしねえ」
「へえ」
「それからんだぜ。火がおこったら、ぐに行燈あんどん掃除そうじしときねえよ。こんなァ、いつもよりれるのが、ぐっとはええからの」
「へえ」
「ふん。なにをいっても、張合はりあいのねえ野郎やろうだ。めしはらぱいわせてあるはずだに。もっとしっかり返事へんじをしねえ」
「かしこまりました」
ぬかくぎッてな、おめえのこった。――火のおこるまで一ぷくやるから、その煙草入たばこいれを、こっちへよこしねえ」
「へえ」
「なぜ煙管きせるらねえんだ」
「へえ」
「それ、蛍火ほたるびほどのもねえじゃねえか。んで煙草たばこをつけるんだ」
 相手あいて黙々もくもくとした少年しょうねんだが、由斎ゆうさいは、たとえにあるはしげおろしに、なに小言こごとをいわないではいられない性分しょうぶんなのであろう。ほとんど立続たてつづけに口小言くちこごとをいいながら、胡坐あぐらうえにかけたふる浅黄あさぎのきれをはずすと、火口箱ほぐちばこせて、てつ長煙管ながきせるぐつくわえた。
 勝手元かってもとでは、しきりにばたばたと七りんしたあおぐ、団扇うちわおときこえていた。
 その団扇うちわおとを、じりじりとみょうにいらみみきながら、由斎ゆうさいまえてかけている、等身大とうしんだいちかおんな人形にんぎょうを、にらめるようにながめていたが、ふとなにおもしたのであろう。あたりはばからぬこえ勝手元かってもとむかってさけんだ。
坊主ぼうず坊主ぼうず
「へえ」
「おめえ、今朝けさつらあらったか」
「へえ」
うそをつけ。つらあらったやつが、そんな粗相そそうをするはずァなかろう。ここへて、よく人形にんぎょうあしねえ。こうに、こんなにろうれているじゃねえか」
 おそおそ仕事場しごとばもどった。坊主ぼうずあしはふるえていた。
「こいつァおめえの仕事しごとだな」
りません」
らねえことがあるもんか。ゆうべおそ仕事場しごとば蝋燭ろうそくって這入はいってたなァ、おめえよりほかにねえはずだぜ。こいつァただの人形にんぎょうじゃねえ。菊之丞きくのじょうさんのたましいまでももうという人形にんぎょうだ。粗相そそうがあっちゃァならねえと、あれほどいっておいたじゃねえか」

    二

 ひさしふかさがおいかぶさって、あめけむったいえなかは、くらのように手許てもとくらく、まだようや石町こくちょうの八つのかねいたばかりだというのに、あたりは行燈あんどんがほしいくらい、鼠色ねずみいろにぼけていた。
 のきといはここ十ねんあいだ、一えたことがないのであろう。たけ節々ふしぶし青苔あおこけあがって、そのからちる雨水あまみず砂時計すなどけいすなもりをちるのとおなじに、なくみみうばった。
 へのむすんだくちに、煙管きせるくわえたまま、せられたように人形にんぎょう凝視ぎょうしつづけている由斎ゆうさいは、なにおおきくうなずくと、いまがた坊主ぼうずがおこして炭火すみびを、十のうから火鉢ひばちにかけて、ひとりひそかにまゆせた。
坊主ぼうず。おめえ、おもてこえきこえねえのか」
だれておりますか」
てる。けてねえ」
「へえ」
「だが、こっちへとおしちゃならねえぜ」
 半信半疑はんしんはんぎってった坊主ぼうずは、をまるくして、雨戸あまど隙間すきまからのぞいた。
「おや、あたしでござんすよ」
「おお、おせんさん」
 坊主ぼうずは、たてつけのわる雨戸あまどけて、ぺこりと一つあたまをさげた。そこには頭巾ずきんかおつつんだおせんが、かさかたにしてっていた。
親方おやかたは」
仕事しごとなんで。――」
御免ごめんなさいよ」
「ぁッいけません。おまえさんをおもうしちゃ、しかられる」
「ほほほほ、そんな心配しんぱいめにしてさ」
「でもあたしが親方おやかたに。――」
坊主ぼうず」と、するどこえおくからきこえた。
「へえ」
「いまもいったとおりだ。たとえどなたでも、仕事場しごとばへはとおしちゃならねえ」
親方おやかた」と、おせんはうったえるようにこえをかけた。
「どうかきょうだけ、堪忍かんにんしておくんなさいよ」
「いけねえ」
「あたしゃおまえさんに、ことわられるのをりながら、もう辛抱しんぼう出来できなくなって、このあめなかたんじゃござんせんか。――後生ごしょうでござんす。ちょいとのあいだだけでも。……」
折角せっかくだが、おことわりしやすよ。あっしゃァおまえさんから、この人形にんぎょう請合うけあとき、どんな約束やくそくをしたかはっきりおぼえていなさろう。――のうおせんちゃん。あのときまえんといいなすった。あたしゃんでる人形にんぎょうしくない。きた、たましいのこもった人形にんぎょうをこさえておくんなさるなら、どんな辛抱しんぼうでもすると、あれほどかた約束やくそくをしたじゃァねえか。――江戸えどばん女形おやま瀬川菊之丞せがわきくのじょう生人形いきにんぎょうを、舞台ぶたいのままにろうッてんだ。なまやさしいわざじゃァねえなァれている。あっしもきょうまで、これぞとおもった人形にんぎょうを、七つや十はこさえてたが、これさえ仕上しあげりゃ、んでもいいとおもったほど精魂せいこんうちんださくはしたこたァなかった。だが、今度こんど仕事しごとばかりァそうじゃァねえ。この生人形いきにんぎょうさえ仕上しあげたら、たとえあすがへどいてたおれても、けっして未練みれんはねえと、覚悟かくごをきめての真剣勝負しんけんしょうぶだ。――おまえさんが、どこまで出来できたかたいという。その心持こころもちァ、はらそこからさっしてるが、ならねえ、あっしゃァ、いま、人形にんぎょうってるんじゃァねえ。おのがたましいみどろにして、ぬかきるかの、仕事しごとをしてるんだからの」
 由斎ゆうさいこえきながら、ひとあしずつあとずさりしていたおせんは、いつかはりつけにされたように、雨戸あまどきわちすくんでいた。

    三

 ひとでいい、ひとでいいからいたいとの、せつなるおもいのがたく、わざと両国橋りょうごくばしちかくで駕籠かごてて、頭巾ずきん人目ひとめけながら、この質屋しちやうらの、由斎ゆうさい仕事場しごとばおとずれたおせんのむねには、しとどあめよりしげきおもいがあった。
 としからいえば五つのちがいはあったものの、おなじ王子おうじうまれたおさななじみの菊之丞きくのじょうとは、けしやっこ時分じぶんから、ひともうらやむ仲好なかよしにて、ままごとあそびの夫婦めおとにも、きちちゃんはあたいの旦那だんな、おせんちゃんはおいらのおかみさんだよと、度重たびかさなる文句もんくはいつかあそ仲間なかまわたって、自分じぶんくちからいわずとも、二人ふたりぐさま夫婦ふうふにならべられるのがかえってきまりわるく、ときにはわざと背中合せなかあわせにすわる場合ばあいもままあったが、さて、吉次きちじはやがて舞台ぶたいて、子役こやくとしての評判ひょうばん次第しだいたかくなった時分じぶんから、王子おうじったたがいおやが、芳町よしちょう蔵前くらまえわかわかれにむようになったばかりに、いつかってかたもなく二ねんは三ねんねんは五ねんと、はやくも月日つきひながながれて、辻番付つじばんづけ組合くみあわせに、振袖姿ふりそですがた生々いきいきしさはるにしても、きちちゃんおせんちゃんと、わすおりはまったくないままに、ぎてしまったのであった。
 女形おやまといえば、中村なかむらとみろうをはじめ、芳沢よしざわあやめにしろ、中村なかむら喜代きよろうにしろ、または中村粂太郎なかむらくめたろうにしろ、中村松江なかむらしょうこうにしろ、十にんいれば十にんがいずれもそろって上方下かみがたくだりの人達ひとたちであるなかに、たった一人ひとり江戸えどうまれて江戸えどそだった吉次きちじが、ほか女形おやま尻目しりめにかけて、めきめきと売出うりだした調子ちょうしもよく、やがて二代目だいめ菊之丞きくのじょういでからは上上吉じょうじょうきち評判記ひょうばんきは、いやうえにも人気にんきあおったのであろう。「王子路考おうじろこう」のは、しもされもしない、当代とうだいずい一の若女形わかおやままって、ものんであろうと菊之丞きくのじょう芝居しばいとさえいえば、ざればはじごと有様ありさまとなってしまった。
 したがって、人気役者にんきやくしゃきまとう様々さまざまうわさは、それからそれえと、日毎ひごとにおせんのみみつたえられた。――どこそこのお大名だいみょうのおめかけが、小袖こそでおくったとか。何々屋なになにや後家ごけさんが、おびってやったとか。酒問屋さけとんやむすめが、舞台ぶたい※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)したかんざししさに、おやかねを十りょうしたとか。かぞえれば百にもあまおんな出入でいり出来事できごとは、おせんの茶見世ちゃみせやす人達ひとたちあいだにさえ、くともなく、かたるともなくつたえられて、うそまこと取交とりまぜた出来事できごとが、きのうよりはきょう、きょうよりは明日あすと、益々ますます菊之丞きくのじょう人気にんきたかくするばかり。
 が、おせんのむねそこにひそんでいる、思慕しぼねんは、それらのうわさには一さいおかまいなしに日毎ひごとにつのってゆくばかりだった。それもそのはずであろう。おせんがした菊之丞きくのじょうは、江戸中えどじゅう人気にんき背負せおってった、役者やくしゃ菊之丞きくのじょうではなくて、かつてのおさななじみ、王子おうじきちちゃんそのひとだったのだから。――
 何某なにがし御子息ごしそく何屋なにや若旦那わかだんなと、水茶屋みずちゃやむすめには、勿体もったいないくらいの縁談えんだんも、これまでに五つや十ではなく、なかには用人ようにん使者ししゃてての、れッきとしたお旗本はたもとからの申込もうしこみも二三はかぞえられたが、その度毎たびごとに、おせんのくびよこられて、あったらたま輿こしりそこねるかと人々ひとびとしがらせて腑甲斐ふがいなさ、しかもむねめた菊之丞きくのじょうへのせつなるおもいを、ひととては一人ひとりもなかった。
 名人めいじん由斎ゆうさいに、こころうちちあけて、三年前ねんまえ中村座なかむらざた、八百お七の舞台姿ぶたいすがたをそのままの、生人形いきにんぎょうたのんだ半年前はんとしまえから、おせんはきょうか明日あすかと、出来できあがを、どんなにったかれなかったが、心魂しんこんかたむけつくす仕事しごとだから、たとえなにがあっても、そのまではちゃァならねえ、きますまいとちかった言葉ことば手前てまえもあり、辛抱しんぼう辛抱しんぼうかさねてたとどのつまりが、そこはおんなみだれるおもいのがたく、きのうときょうの二つづけて、この仕事場しごとばを、ひそかにおとずれるになったのであろう。頭巾ずきんなかみはったには、なみだつゆ宿やどっていた。
親方おやかた。――もし親方おやかた
 もう一おせんはおくむかって、由斎ゆうさいんでた。が、きこえるものは、わずかにといつたわってちる、雨垂あまだれのおとばかりであった。
 軒端のきばやなぎが、おもしたように、かるく雨戸あまどでてった。

    四

若旦那わかだんな。――もし、若旦那わかだんな
「うるさいね。ちとだまっておあるきよ」
「そうおっしゃいますが、これをだまってりましたら、あとで若旦那わかだんなに、どんなお小言こごと頂戴ちょうだいするかれませんや」
んだッて」
「あすこを御覧ごらんなさいまし。ありゃァたしかに、笠森かさもりのおせんさんでござんしょう」
「おせんがいるッて。――ど、どこに」
 薬研堀やげんぼり不動様ふどうさまへ、心願しんがんがあってのかえりがけ、くろじょうえりのかかったお納戸茶なんどちゃ半合羽はんがっぱ奴蛇やっこじゃそうろうごのみにして、中小僧ちゅうこぞう市松いちまつともにつれた、紙問屋かみどんや橘屋たちばなや若旦那わかだんな徳太郎とくたろうは、うわずッたようにあめなか見詰みつめた。
「あすこでござんすよ。あの筆屋ふでやまえから両替りょうがえ看板かんばんしたとおってゆく、あの頭巾ずきんをかぶった後姿うしろすがた。――」
「うむ。ちょいとおまえいそいでって、見届みとどけといで」
「かしこまりました」
 あたまのてっぺんまで、汚泥はねがるのもおかまいなく、よこびにした市松いちまつには、あめなんぞ、芝居しばい使つかかみゆきほどにもかんじられなかったのであろう。七八間先けんさききざみに渋蛇しぶじゃよこを、一文字もんじ駆脱かけぬけたのもつか、やがてくびすかえすと、おにくびでもったように、よろこいさんでもどった。
「どうした」
「この二つのにらんだとおり、おせんさんにちがいござんせん」
「これこれ、んでそんな頓狂とんきょうこえすんだ。いくらあめなかでも、人様ひとさまかれたらことじゃァないか」
「へいへい」
「おまえ、あとからついといで」
 はしのいたところが、まずなによりの身上しんしょうなのであろう。若旦那わかだんなのおともといえば、つねいちどんと朋輩ほうばいからされるならわしは、ときかけ蕎麦そばの一ぱいくらいにはりつけるものの、市松いちまつっては、むし見世みせすわって、かみ小口こぐちをそろえているほうが、どのくらいらくだかれなかった。
 が、そんな小僧こぞう苦楽くらくなんぞ、背中せなかにとまった蝿程はえほどにもおもわない徳太郎とくたろうの、おせんといた夢中むちゅうあゆみは、合羽かっぱしたからのぞいているなましろすね青筋あおすじにさえうかがわれて、みちわるしも、よこりにふりかかるあめのしぶきも、いま他所よそ出来事できごとでもあるように、まったく意中いちゅうにないらしかった。
「ちょいとねえさん。いえさ、そこへくのは、おせんちゃんじゃないかい」
 それとめた徳太郎とくたろうこえは、どうやら勝手かってのわるさにふるえていた。
「え」
 くるりといたおせんは、頭巾ずきんなかで、だけに愛嬌あいきょうをもたせながら、ちらりと徳太郎とくたろうかおぬすたが、相手あいてがしばしば見世みせってくれる若旦那わかだんなだとると、あらためてこしをかがめた。
「おやまァ若旦那わかだんな、どちらへおいででござんす」
「つい、そこの不動様ふどうさまへ、参詣さんけいったのさ。――そうしておまえさんは」
「おかあさんのくすりいに、浜町はまちょうまでまいりました。」
浜町はまちょう。そりゃァこのあめに、大抵たいていじゃあるまい。おまえさんがわざわざかないでも、ちょいと一こといてれば、いつでもうちの小僧こぞういにやってあげたものを」
有難ありがとうはござんすが、おやませるおくすり人様ひとさまにおねがもうしましては、お稲荷様いなりさまばちあたります」
ほどほど相変あいかわらずの親孝行おやこうこうだの」
 徳太郎とくたろうはそういって、ごくりと一つ固唾かたずんだ。

    五

 当代とうだい人気役者にんきやくしゃそうろうていると、太鼓持たいこもちだれかに一いわれたのが、無上むじょう機嫌きげんをよくしたものか、のほほんとおさまった色男振いろおとこぶりは、ほどものをして、ことごとくむしずのはしおもいをさせずにはおかないくらい、気障気きざけたっぷりの若旦那わかだんな徳太郎とくたろうではあったが、親孝行おやこうこうはなしッかけに、あらたまっておせんを見詰みつめたそのには、いつもとちがった真剣しんけん心持こころもち不思議ふしぎ根強ねづよあらわれていた。
「おまえさんは、これからなにか、きゅう御用ごようがおありかの」
「あい、肝腎かんじんのお見世みせほうを、けてたのでござんすから、一こくはやかえりませぬと、おかあさんにいらぬ心配しんぱいをかけますし、それに、折角せっかくのお客様きゃくさまにも、申訳もうしわけがござんせぬ」
「おきゃく心配しんぱいは、べつにいりゃァすまいがの。しかし、おかあさんといわれてると。……」
なに御用ごようでござんすかえ」
「なァにの。おもいがけないところで出遭であった、こんなのいいことは、ねがってもありゃァしないからひとつどこぞで、御飯ごはんでもつきってもらおうとおもってさ」
「おや、それは御親切ごしんせつに、有難ありがとうはござんすが、あたしゃいまももうしますとおり、風邪かぜいたおかあさんと、お見世みせへおいでのお客様きゃくさまがござんすから。――」
「このあめだ。いくらんでも、おきゃくほうは、になるほどきもしまい。それともだれぞ、約束やくそくでもしたひとがおりかの」
「まァんでそのようなおひとが。――」
「そんならべつに、一ときやそこいらおそくなったとて、あんずることもなかろうじゃないか」
「おかあさんがくびながくして、くすりってでございます」
「これ、おせんちゃん」
「ああもし。――」
「お手間てまらせることじゃない。ちとおりいって、相談そうだんしたいわけもある。ついそこまで、ほんのしばらく、つきっておくれでないか」
「さァそれが。……」
「おまえ、おふくろさんの、くすりいにったとは、そりゃ本当ほんとうかの」
「えッ」
本当ほんとうかといてるのさ」
んで、あたしがうそなんぞを。――」
「そんならそのくすりふくろを、ちょいとせておくれでないか」
ふくろとえ。――」
ってはいないとおいいだろう。ふふふ。やっぱりおまえは、あたしの手前てまえをつくろって、もないうそをついたんだの、おおかたきなおとこに、いにったかえりであろう。それとったら、なおさらこのままかえすことじゃないから、観念かんねんおし」
「あれ若旦那わかだんな。――」
「いいえ、はなすものか、江戸中えどじゅうに、おんなかずほどあっても、おもめたのはおまえ一人ひとり。ここでえたな、日頃ひごろねがもうした、不動様ふどうさま御利益ごりやくちがいない。きょうというきょうはたとえ半時はんときでもつきってもらわないことにゃ。……」
 おさえたたもとはらって、おせんがからだをひねったその刹那せつな、ひょいと徳太郎とくたろう手首てくびをつかんで、にやりわらったのは、かさもささずに、あたまから桐油とうゆかぶった彫師ほりしまつろうだった。
若旦那わかだんな殺生せっしょうでげすぜ」
「ええ、うるさい。余計よけい邪間じゃまだてをしないで、んでおくれ」
「はははは。邪間じゃまだてするわけじゃござんせんが、御覧ごらんなせえやし。おせんちゃんは、こんなにいやだといってるじゃござんせんか。若旦那わかだんな色男いろおとこかおがつぶれやすぜ」
 過日かじつかたきったつもりなのであろう。まつろうはこういって、ひげあとのあおあごを、ぐっと徳太郎とくたろうほうきだした。

    六

「はッはッは。若旦那わかだんな、そいつァ御無理ごむりでげすよ。おせんは名代なだい親孝行おやこうこうくすりいにったといやァ、うそかくしもござんすまい。ここでったが百年目ねんめと、とっつかまえて口説くどこうッたって、そうは問屋とんやでおろしませんや。――この近所きんじょ揚弓場ようきゅうばねえさんなららねえこと、かりにもおまえさん、江戸えどばん評判ひょうばんのあるおせんでげすぜ。いくら若旦那わかだんな御威勢ごいせいでも、こればッかりは、そう易々やすやすたァいきますまいて」
 おせんを首尾しゅびよくにがしてやったあめなかで、桐油とうゆから半分はんぶんかおしたまつろうは、徳太郎とくたろうをからかうようにこういうと、れとわがはなあたまを、二三平手ひらてッこすった。
 腹立はらだたしさに、なかばきたい気持きもちをおさえながら、まつろうにらみつけた徳太郎とくたろうほそまゆは、なくぴくぴくうごいていた。
市公いちこう
 おもいがけない出来事できごとに、茫然ぼうぜんとしていた小僧こぞう市松いちまつが、ぺこりとげたあたまうえで、若旦那わかだんなこえはきりぎりすのようにふるえた。
馬鹿野郎ばかやろう
「へえ」
「なぜおせんをつかまえないんだ」
「おはなしなすったのは、若旦那わかだんなでございます」
「ええうるさい。たとえあたしがはなしても、つかまえるのはおまえ役目やくめだ。――もうおまえなんぞにようはない。いますぐここでひまをやるから、どこへでもっておしまい」
「ははは。若旦那わかだんな」と、まつろうくちをはさんだ。「そいつァちとめが強過つよすぎやしょう。小僧こぞうさんにつみはねえんで。みんなあなたのわがままからじゃござんせんか」
まつつぁん、おまえなんぞのまくじゃないよ。だまってておくれ」
「そうでもござんしょうが、いちどんこそ災難さいなんだ。んにもらずにおともて、おせんにったばっかりに、大事だいじ奉公ほうこうをしくじるなんざ、辻占つじうらない文句もんくにしても悪過わるすぎやさァね。堪忍かんにんしてやっとくんなさい。――こういちどん。おめえもしっかり、若旦那わかだんなにあやまんねえ」
若旦那わかだんな、どうか御勘弁ごかんべんなすっておくんなさいまし」
「いやだよ。おまえは、もううち奉公人ほうこうにんでもなけりゃ、あたしのともでもないんだから、ちっともはやくあたしのとどかないとこへえちまうがいい」
えろとおっしゃいましても。……」
わからずやめ。どろなかへでもんでも、勝手かってにもぐってせるんだ」
「へえ」
 しり端折ぱしょりの※(「骨+低のつくり」、第3水準1-94-21)かめのおのあたりまで、高々たかだか汚泥はねげた市松いちまつの、猫背ねこぜ背中せなかへ、あめ容赦ようしゃなくりかかって、いつのにかひとだかりのしたあたり有様ありさまに、徳太郎とくたろうおもわずかめのようにくびをすくめた。
「もし、若旦那わかだんな
 まる取巻とりまいたなかから、ひょっこりくびだけべて、如何いかにもはばかった物腰ものごしの、ひざしたまでさげたのは、五十がらみのぼて魚屋さかなやだった。
 徳太郎とくたろうは、ぬすむようにかおげた。
手前てまえでございます。市松いちまつ親父おやじでございます」
「えッ」
とおりがかりの御挨拶ごあいさつで、んともおそれいりますが、どうやら、市松いちまつ野郎やろうが、んだ粗相そそうをいたしました様子ようす早速さっそくれてかえりまして、性根しょうねすわるまで、折檻せっかんをいたします。どうかこのまま。手前てまえにおわたくださいまし」
「おッとッとッと。とっつぁん、そいつァいけねえ。おいらがわるいようにしねえから、おめえはそっちにんでるがいい」
 まつろう親爺おやじせいしているすきに、徳太郎とくたろう姿すがたは、いつか人込ひとごみのなかえていた。

    七

政吉まさきち辰蔵たつぞうかめ八、分太ぶんた梅吉うめきち幸兵衛こうべえ。――」
 ほとんどひといきに、二三日前にちまえ奉公ほうこうた八さい政吉まさきちから、番頭ばんとう幸兵衛こうべえまで、やけ半分はんぶんびながら、なかくちからあたふたとんで徳太郎とくたろうは、まげ刷毛先はけさきとどく、背中せなかぱい汚泥はねわすれたように、廊下ろうか暖簾口のれんぐち地駄じだんで、おのが合羽かっぱをむしりっていた。
「へい、これは若旦那わかだんな、おはやいおかえりでございます」
 番頭ばんとう幸兵衛こうべえは、帳付ちょうづけふでして、あわてて暖簾口のれんぐちかおしたが、ひと徳太郎とくたろう姿すがたるとてっきり、途中とちゅう喧嘩けんかでもしてたものと、おもんでしまったのであろう。あたまのてッぺんからあし爪先つまさきまで、見上みあおろしながら、言葉ことばどもらせた。
「ど、どうなすったのでございます」
番頭ばんとうさん、市松いちまつひまをだしとくれ」
市松いちまつが、な、なにか、粗相そそうをいたしましたか」
んでもいいから、あたしのいったとおりにしておくれ。あたしゃきょうくらい、はじをかいたこたァありゃしない。もう口惜くやしくッて、口惜くやしくッて。……」
「そ、それはまたどんなことでございます。小僧こぞう粗相そそう番頭ばんとう粗相そそう手前てまえから、どのようにもおわびはいたしましょうから、御勘弁ごかんべんねがえるものでございましたら、この幸兵衛こうべえ御免ごめんくださいまして。……」
余計よけいなことは、いわないでおくれ」
「へい。……左様さようでございましょうが、お見世みせ支配しはいは、大旦那様おおだんなさまから、一さいあずかりいたしてります幸兵衛こうべえ、あとで大旦那様おおだんなさまのおたずねがございましたときに、らぬぞんぜぬではとおりませぬ。どうぞそのわけを、おっしゃってくださいまし」
わけなんぞ、くことはないじゃないか。んでもあたしのいったとおり、ひまさえしてくれりゃいいんだよ」
 駄々だだがおもちゃばこをぶちまけたように、のつけられないすねかたをしている徳太郎とくたろうみみへ、いきなり、見世先みせさきからきこたのは、まつろうわらごえだった。
「はッはッは、若旦那わかだんな、まだそんなことを、いっといでなさるんでござんすかい。耳寄みみよりのはなしいてめえりやした。いい智恵ちえをおもうしやすから、小僧こぞうさんのしくじりなんざさっぱりみずながしておやんなさいまし」
 中番頭ちゅうばんとうから小僧達こぞうたちまで、一どうかおが一せいまつろうほうなおった。が、徳太郎とくたろう暖簾口のれんぐちから見世みせほうにらみつけたまま、返事へんじもしなかった。
「もし、若旦那わかだんなわるいこたァもうしやせん。おまえさんが、鯱鉾立しゃっちょこだちをしておよろこびなさる、うれしいはなしいてめえりやしたんで。――ここではなしちゃならねえとおっしゃるんなら、そちらへっておはなしいたしやす。着物きものもぬれちゃァりやせん。どうでげす。それともこのままかえりやしょうか」
 かぶっていた桐油とうゆを、見世みせすみへかなぐりてて、ふところから取出とりだした鉈豆煙管なたまめぎせる[#「鉈豆煙管」は底本では「鉈煙管」]へ、かます粉煙草こなたばこ器用きようめたまつろうは、にゅッと煙草盆たばこぼんばしながら、ニヤリとわらって暖簾口のれんぐち見詰みつめた。
まつつぁん」
「へえ」
若旦那わかだんなが、こっちへとおいなさる」
「そいつァどうも。――」
「おっとった。そのあしがられちゃかなわない。たつどん、うらたらいみずみな」
 番頭ばんとう幸兵衛こうべえは、かべ荒塗あらぬりのように汚泥はねがっているまつろうすねを、しぶかおをしてじっと見守みまもった。
「ふふふ、まつろうは、かけにらねえ忠義者ちゅうぎものでげすぜ」
 ひとごとをいってあご突出つきだしたまつろうかおは、道化方どうけかた松島茂平次まつしまもへいじをそのままであった。

    八

 行水ぎょうずいでもつかうように、もも付根つけねまであらったまつろうが、北向きたむきうらかいにそぼあめおときながら、徳太郎とくたろう対座たいざしていたのは、それからもないあとだった。かわらのおもてに、あとからあとからまれて秋雨あきさめの、ときおり、となりいえからんでやなぎ落葉おちばを、けるようにらしてえるのが、なに近頃ちかごろはやりはじめた飛絣とびがすりのようにうつった。
 銀煙管ぎんぎせるにぎった徳太郎とくたろうは、火鉢ひばちわく釘着くぎづけにされたように、かたくなってうごかなかった。
「ではおせんにゃ、ちゃんとした情人いろがあって、このせつじゃ毎日まいにち、そこへかよめだというんだね」
「まず、ざっとそんなことなんで。……」
「いったい、そのおせんの情人いろというのは、何者なにものなんだか、まっつぁん、はっきりあたしにおしえておくれ」
「さァ、そいつァどうも。――」
なにをいってんだね。そこまでかしておきながら、あとは幽霊ゆうれいあしにしちまうなんて、馬鹿ばかなことがあるもんかね。――おまえさんさっき、んといったい。若旦那わかだんな鯱鉾立しゃっちょこだちしてよろこはなしだと、見世みせであんなに、おおきなせりふでいったじゃないか。あたしゃ口惜くやしいけれどいてるんだよ。どうせそのたんなら、あからさまに、一から十まではなししておくれ。相手あいてかないうちは、気の毒だがまっつぁん、ここは滅多めったうごかしゃァしないよ」
「ちょ、ちょいとっとくんなさい、若旦那わかだんな無理むりをおいいなすっちゃこまりやす」
なに無理むりさ」
なにがとおっしゃって、じつァあっしゃァ、相手あいて名前なまえまじァらねえんで。……」
名前なまえらないッて」
「そうなんで。……」
「そんなら、名前なまえはともかく、どんなおとこなんだか、それをいっとくれ。お武家ぶけか、商人あきんどか、それとも職人しょくにんか。――」
「そいつがやっぱりわからねえんで。――」
「松つぁん」
 徳太郎とくたろうこえ甲走かんばしった。
「へえ」
「たいがいにしとくれ。あたしゃ酔狂すいきょうで、おまえさんをここへとおしたんじゃないんだよ。おせんがかくれてっているという、相手あいておとこりたいばっかりに、見世みせもの手前てまえかまわず、わざわざ二かいへあげたんじゃないか。らないのはまだしものこと、お武家ぶけ商人あきんどか、職人しょくにんか、それさえわけがわからないなんて、馬鹿ばかにするのも大概たいがいにおし。――もうそんなひとにゃようはないから、とっととえてせとくれよ」
けえれとおっしゃるんなら、けえりもしましょうが、このままけえっても、ようござんすかね」
「なんだって」
若旦那わかだんな。あっしゃァなるほど、おせんの相手あいてが、どこのだれだかっちゃいませんが、そんなこたァろうとおもや、半日はんにちとかからねえでも、ちゃァんときとめてめえりやす。それよりも若旦那わかだんな。もっとおまえさんにゃ、大事だいじなことがありゃァしませんかい」
「そりゃんだい」
「まァようがす。とっととえてせろッてんなら、あんまりたたみのあったまらねえうちに、いい加減かげん引揚ひきあげやしょう。――どうもお邪間じゃまいたしやした」
「おち」
なん御用ごようで」
「あたしの大事だいじなことだという、それをかせてもらいましょう」
 が、まつろうはわざとほほをふくらまして、はなあな天井てんじょうけた。

  おび


    一

 祇園守ぎおんまもり定紋じょうもんを、鶯茶うぐいすちゃいた三じゃく暖簾のれんから、ちらりとえる四畳半じょうはんとこ※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)した秋海棠しゅうかいどうが、伊満里いまり花瓶かびんかげうつした姿すがたもなまめかしく、行燈あんどんほのおこうのように立昇たちのぼって、部屋へや中程なかほどてた鏡台きょうだいに、鬘下地かつらしたじ人影ひとかげがおぼろであった。
 ところ石町こくちょう鐘撞堂新道かねつきどうしんみち白紙はくしうえに、ぽつんと一てん桃色ももいろらしたように、芝居しばい衣装いしょうをそのままけて、すっきりたたずんだ中村松江なかむらしょうこうほほは、火桶ひおけのほてりに上気じょうきしたのであろう。たべってでもいるかとおもわれるまでにあかかった。
「おこの。――これ、おこの」
 かがみのおもてにうつしたおのが姿すがた見詰みつめたまま、松江しょうこう隣座敷となりざしきにいるはずの、女房にょうぼうんでた。が、いずこへったのやら、ぐに返事へんじかれなかった。
「ふふ、らんとえるの。このようによううつ格好かっこうを、せようとおもとるに。――」
 松江しょうこうはそういいながら、きゃしゃな身体からだをひねって、おどりのようなかたちをしながら、ふたたかがみのおもてにびかけた。
「おせんがちゃをくむ格好かっこうじゃ、はよたがいい」
「もし、太夫たゆう
 暖簾のれんしたにうずくまって、まげ刷毛先はけさきを、ちょいとゆびおさえたまま、ぺこりとあたまをさげたのは、女房にょうぼうのおこのではなくて、男衆おとこしゅうしん七だった。
しん七かいな」
「へえ」
「おこのはなにをしてじゃ」
「さァ」
なんとしたぞえ」
「おかみさんは、もう一ときまえにおかけなすって、お留守るすでござります」
留守るすやと」
「へえ」
「どこへった」
白壁町しろかべちょうの、春信はるのぶさんのおたくくとかおっしゃいまして、――」
んじゃと。春信はるのぶさんのおたくった。そりゃしん七、ほんまかいな」
「ほんまでござります」
「おこのがまた、白壁町しろかべちょうさんへ、どのような用事ようじったのじゃ。はよかせ」
御用ごようすじぞんじませぬが、おびをどうとやらすると、いっておいででござりました」
おびしん七。――そこの箪笥たんすをあけてや」
 あわてて箪笥たんす抽斗ひきだしをかけたしん七は、松江しょうこうのいいつけどおり、かたぱしから抽斗ひきだしはじめた。
着物きもの羽織はおりも、みなそこへしてや」
「こうでござりますか」
「もっと」
「これも」
「ええもういちいちくことかいな。一にあけてしまいなはれ」
 ぎっしり、抽斗ひきだしぱいつまった衣装いしょうを、一まいのこらずたたみうえへぶちまけたそのなかを、松江しょうこう夢中むちゅうッかきまわしていたが、やがてえながらしん七にめいじた。
「おまえ、ぐに白壁町しろかべちょうへ、おこののあとうて、おびってもどるのじゃ」
んのおびでござります」
阿呆あほうめ、おせんのおびじゃ。あれがのうては、肝腎かんじん芝居しばいわやになってしまうがな」
 りたての松江しょうこうまゆは、あおうごいた。

    二

 その時分じぶんとうのおこのは、駕籠かごいそがせて、つきのない柳原やなぎはら土手どてを、ひたはしりにはしらせていた。
 欝金うこん風呂敷ふろしきつつんで、ひざうえしっかかかえたのは、亭主ていしゅ松江しょうこう今度こんど森田屋もりたやのおせんの狂言きょうげん上演じょうえんするについて、春信はるのぶいえ日参にっさんしてりてた、いわくつきのおせんのおびであるのはいうまでもなかった。
 鉄漿おはぐろ黒々くろぐろと、今朝けさめたばかりのおこののは、かたみぎたもとんでいた。
 当時とうじ江戸えどでは一ばんだという、その笠森かさもり水茶屋みずぢゃやむすめが、どれほどすぐれた縹緻きりょうにもせよ、浪速なにわ天満天神てんまんてんじんの、はしたもと程近ほどちか薬種問屋やくしゅどんや小西こにし」のむすめまれて、なにひとつ不自由ふじゆうらず、わがまま勝手かってそだてられてたおこのは、たとい役者やくしゃ女房にょうぼうには不向ふむきにしろ、ひんなら縹緻きりょうなら、ひとにはけはらないとの、かた己惚うぬぼれがあったのであろう。仮令たとえ江戸えどいく千のおんながいようともうち太夫たゆうにばかりは、あしさきへもらせることではないと、三年前ねんまえ婚礼早々こんれいそうそう大阪おおさかってときから、はらそこには、てこでもうごかぬつよこころがきまっていた。
 このあき狂言きょうげんに、良人おっとえらんだ「おせん」の芝居しばいを、重助じゅうすけさんがきおろすという。もとよりそれには、異存いぞんのあろうはずもなく、本読ほんよみもんで、いよいよ稽古けいこにかかった四五にちは、をつめても、つぎひかえて、ちゃ菓子かしよと、女房にょうぼうつとめに、さらさら手落ておちはなくぎたのであったが、さて稽古けいこんで、おのれの工夫くふう真剣しんけんになる時分じぶんから、ふとについたのは、良人おっと居間いま大事だいじにたたんでいてある、もみじをらした一ぽん女帯おんなおびだった。
 った衣装いしょうというのなら、だれしょうとて、べつ邪間じゃまになるまいとおもわれる、そのおびだけに殊更ことさらに、夜寝よるねときまで枕許まくらもとつけての愛着あいちゃくは、並大抵なみたいていのことではないと、うたがうともなくうたがったのが、ことはじまりというのであろうか。おこのがひるといわず夜といわず、ひそかににらんだとどのつまりは、ひとり四畳半じょうはん立籠たてこもって、おせんのかたにうきをやつす、良人おっとむねきつけたおびが、春信はるのぶえがくところの、おせんの大事だいじ持物もちものだった。
 カッとなって、したのではもとよりなく、きのうもきょうもと、二日二晩ふつかふたばんかんがいた揚句あげくてが、隣座敷となりざしきちゃれているとせての、雲隠くもがくれれがじゅんよくはこんで、大通おおどおりへて、駕籠かごひろうまでの段取だんどりりは、誰一人だれひとりものもなかろうとおもったのが、手落ておちといえばいえようが、それにしても、しん七があとってようなぞとは、まったくゆめにもおもわなかった。
駕籠屋かごやさん。まんが、いそいどくれやすえ」
「へいへい、合点がってんでげす。つきはなくとも星明ほしあかり、足許あしもとくるいはござんせんから御安心ごあんしんを」
酒手さかてはなんぼでもはずみますさかい、そのつもりでたのンます」
相棒あいぼう
「おお」
いたか」
いたぞ」
流石さすがにいまうりだしの、堺屋さかいやさんのおかみさんだの。江戸えど女達おんなたちかしてやりてえうれしい台詞せりふだ」
「そのとおり。――おかみさん。太夫たゆう人気にんきたいしたもんでげすぜ。これからァ、んにもこわいこたァねえ、いきおいでげさァ」
「そうともそうとも、酒手さかてきいていうんじゃねえが、太夫たゆうはでえいち、ひんがあるッて評判ひょうばんだて。江戸役者えどやくしゃにゃ、なさけねえことに、ひんがねえからのう」
「おや駕籠屋かごやさん。左様さようにいうたら、江戸えどのおかたにくまれまッせ」
んでもねえ。太夫たゆうめて、にくむようなやつァ、みんなけだものでげさァね」
「そうとも」
 柳原やなぎはら土手どてひだりれて、駕籠かごはやがて三河町かわちょうの、大銀杏おおいちょうしたへとしかかっていた。
 まさに四つだった。

    三

 白壁町しろかべちょう春信はるのぶ住居すまいでは、いましも春信はるのぶ彫師ほりしまつろう相手あいてに、今度こんど鶴仙堂かくせんどうからいたおろしをする「鷺娘さぎむすめ」の下絵したえまえにして、しきりに色合いろあわせの相談中そうだんちゅうであったが、そこへひょっこりかおした弟子でし藤吉とうきちは、団栗眼どんぐりまなこ一層いっそうまるくしながら、二三つづけさまにあごをしゃくった。
「お師匠ししょうさん、おきゃくでござんす」
「どなたかおいでなすった」
堺屋さかいやさんの、おかみさんがおえなんで」
「なに、堺屋さかいやのおかみさんだと。そりゃァおかしい。なにかの間違まちがいじゃねえのかの」
間違まちがいどころじゃござんせん。真正証銘しんしょうしょうめいのおかみさんでござんすよ」
「おかみさんが、んのようで、こんなにおそくなすったんだ」
 ついに一たことのない、中村松江なかむらしょうこう女房にょうぼうが、たずねてたといただけでは、春信はるのぶは、ぐさまそのになれなかったのであろう。からはなすと、藤吉とうきちかおをあらためて見直みなおした。
なん御用ごようぞんじませんが、一こくはやくお師匠ししょうさんにおにかかって、おねがいしたいことがあると、それはそれは、いそいでおりますんで。……」
「はァてな。――んにしても、たとあれば、ともかくこっちへとおすがいい」
 藤吉とうきちが、あたふたとってしまうと、春信はるのぶ仕方しかたなしにまつろうまえいた下絵したえを、つくえうえ片着かたづけて、かるくしたうちをした。
んだところへ邪間じゃま這入はいって、どくだの」
「どういたしやして、どうせあっしゃァ、ほかようはありゃァしねえんで。……なんならあっちへってっとりやしょうか」
「いやいや、それにゃァおよぶまい。はなしぐにもうから、かまわずここにいるがいい」
「そんならこっちのすみほうへ、まいまいつぶろのようンなって、一ぷくやっておりやしょう」
 ニヤリとわらったまつろうが、障子しょうじすみへ、まるくなったときだった。藤吉とうきち案内あんないされたおこのの姿すがたが、影絵かげえのように縁先えんさきあらわれた。
師匠ししょう、おもうしました」
「御免やすえ」
「さァ、ずっとこっちへ」
 欝金うこんつつみかかえたおこのは、それでもなにやらこころみだれたのであろう。上気じょうきしたかおをふせたまま、敷居際しきいぎわあたまげた。
「こないにおそう、無躾ぶしつけうかがいまして。……」
「どんな御用ごようか、遠慮えんりょなく、ずっとおとおりなさるがいい」
「いいえもう、ここで結構けっこうでおます」
 行燈あんどんながかげをひいた、その鼠色ねずみいろつつまれたまま、いしのようにかたくなったおこののかみが二すじすじ夜風よかぜあやしくふるえて、こころもちあおみをびたほほのあたりに、ほのかにあせがにじんでいた。
「そうしておかみさんは、こんなおそく、んのようでおいでなすった」
拝借はいしゃくの、おせんさまおびを、おかえもうしに。――」
「なに、おせんのおびを。――」
「はい」
「それはまたんでの」
 春信はるのぶは、意外いがいなおこのの言葉ことばは、おもわずみはった。
御大切おたいせつなおしなゆえ、粗相そそうがあってはならんよって、はようおかえもうすが上分別じょうふんべつと、おもってさんじました」
「では太夫たゆうはこのおびを、芝居しばいにゃ使つかわないつもりかの」
「はい。折角せっかくながら。……」
 おこのは、そのままかたくちびるんだ。

    四

「ふふふふ、おかみさん」
 じっとおこののかお見詰みつめていた春信はるのぶは、苦笑くしょうくちびるゆがめた。
「はい」
「おまえさんもう一おもいなおしてなさるはないのかい」
「おもいなおせといやはりますか」
「まずのう」
「なぜでおます」
「なぜかそいつは、そっちのむねに、いてたらばわかンなさろう。――そのおびは、おせんからたのまれて、この春信はるのぶいたものにゃちがいないが、まだむこうのわたさないうちに、太夫たゆうて、してくれとのたッてのたのみ、これがなくては、肝腎かんじん芝居しばい出来できないとまでいった挙句あげく、いやおうなしにってかれてしまったものだ。おせんにゃもとより、内所ないしょしてわたした品物しなもの今更いまさらきゅうかえほどなら、あれまでにして、ってきはしなかろう。おかみさん。おまえ、つまらない料簡りょうけんは、さないほうがいいぜ」
「そんならなんぞ、わたしがひとりの料簡りょうけんで。……」
「そうだ。これがおせんのおびでなかったら、まさかおまえさんは、この夜道よみちを、わざわざここまでかえしにゃなさるまい。太夫たゆうめておどったとて、おせんの色香いろかうつるというわけじゃァなし、芸人げいにんのつれあいが、そんなせまかんがえじゃ、所詮しょせん[#「所詮」は底本では「所謂」]うだつはがらないというものだ。余計よけいなお接介せっかいのようだが、今頃いまごろ太夫たゆうは、おび行方ゆくえさがしているだろう。おまえさんのたこたァ、どこまでも内所ないしょにしておこうから、このままもう一ってかえってやるがいい」
「ほほほ、お師匠ししょうさん」
 おこのはつめたくひたいわらった。
「え」
折角せっかく御親切ごしんせつでおますが、いったんおかえししょうと、ってさんじましたこのおび、また拝借はいしゃくさせていただくとしましても、今夜こんやはおかえもうします」
「ではどうしても、いてこうといいなさるんだの」
「はい」
「そうかい。それほどまでにいうんなら、仕方しかたがない、あずかろう。そのかわり、太夫たゆうりにたにしても、もう二ふたたすことじゃないから、それだけはしかねんしとくぜ」
「ようわかりました。このうえ御迷惑ごめいわくはおかけしまへんよって。……」
「はッはッはッ」と、いままで座敷ざしきすみだまりこくっていたまつろうが、きゅう煙管きせるをつかんで大笑おおわらいにわらった。
「どうしたまつつぁん」
「どうもこうもありませんが、あんまりはなし馬鹿気ばかげてるんで、とうとう辛抱しんぼう出来できなくなりやしたのさ。――師匠ししょう、ひとつあっしに、ちっとばかりしゃべらしておくんなせえ」
んとの」
りかかるはなしじゃねえ。どうせ人様ひとさまのことだとおもって、だまっていてりやしたが。――もし堺屋さかいやさんのおかみさん、つまらねえきもちは、かねえほうがようがすぜ」
「なにいいなはる」
「なにもかにもあったもんじゃねえ。かにならよこにはうのが近道ちかみちだろうに、人間にんげんはそうはいかねえ。ひろいようでも世間せけんせめえものだ。どうかすぐいてあるいておくんなせえ」
「あんたはん、どなたや」
「あっしゃァまつろうという、けちな職人しょくにんでげすがね。おまえさんの仕方しかたが、あんまりなさけぎるから、くちをはさましてもらったのさ。らなきゃいってかせるが、笠森かさもりのおせんぼうは、男嫌おとこぎらいでとおっているんだ。いまさらおまえさんとこの太夫たゆうが、金鋲きんびょうった駕籠かごむかえにようが、毛筋けすじぽんうごかすようなおんなじゃねえから安心あんしんしておいでなせえ。痴話喧嘩ちわげんかのとばっちりがここまでくるんじゃ、師匠ししょうんだ迷惑めいわくだぜ」
 まつろうはこういって、ぐっとおこのをにらみつけた。

    五

 やみなかを、ねずみのようになって、まっしぐらにけて堺屋さかいや男衆おとこしゅうしん七は、これもおこのとおなじように、柳原やなぎはら土手どてを八つじはらへといそいだが、夢中むちゅうになってはしつづけてきたせいであろう。みぎ白壁町しろかべちょうへのみちひだりれたために、きつねにつままれでもしたように、方角ほうがくさえもわからなくなったおりおり彼方かなた本多豊前邸ほんだぶぜんてい練塀ねりべいかげから、ひたはしりにはしってくるおんな気配けはい。まさかとおもってをすえた刹那せつなまぶたににじんだかみかたちは、まさしくおこのの姿すがただった。
 しん七は、はッとしてあがった。
「おお、おかみさん」
「あッ。おまえはどこへ」
「どこへどころじゃござりません。おかみさんこそ今時分いまじぶん、どちらへおいでなさいました」
「わたしは、おまえってのとおり、あの絵師えし春信はるのぶさんのおたくへ、いってました」
「そんならやっぱり、春信師匠はるのぶししょうのおたくへ」
「おまえがまた、そのようなことをいて、んにしやはる」
手前てまえ太夫たゆうからのおいいつけで、おかみさんをおむかえにあがったのでござります」
「わたしをむかえに。――」
「へえ。――そうしてあのおびをどうなされました」
なにおびとえ」
「はい。おせんさんのおびは、おかみさんが、おちなされたのでござりましょう」
「そのようなものを、わたしがろかいな」
「いいえ。らぬことはございますまい。先程さきほどかけなさるときおびんとやらおっしゃったのを、しん七は、たしかにこのみみきました」
らぬらぬ。わたしが春信はるのぶさんをおたずねしたのはおび衣装いしょうのことではない。今度こんど鶴仙堂かくせんどうからいたおろしをしやはるという、鷺娘さぎむすめのことじゃ。――ええからそこを退きなされ」
「いいや、それはなりません。おかみさんは、たしかっておいでなされたはず。もう一手前てまえと一しょに、白壁町しろかべちょうのおたくへ、おもどりなすってくださりませ」
「なにいうてんのや。わたしがもどったとて、らぬものが、あろうはずがあるかいな。――こうしてはいられぬのじゃ。そこ退きやいの」
 おこのがはらったのはずみが、ふとかたからすべったのであろう。たもとはなしたその途端とたんに、しん七はいやというほど、おこのにほほたれていた。
「あッ。おちなさいましたな」
ったのではない。おまえが、わたしのりやはって。……」
「ええ、もう辛抱しんぼうがなりませぬ。手前てまえと一しょにもう一春信はるのぶさんのおたくまで、とっととおいでなさりませ」
 ぐっとおこのの手首てくびをつかんだしん七には、もはや主従しゅじゅうさかいもなくなっていたのであろう。たとえんであろうと、ひきずってもれてかねばならぬという、つよ意地いじ手伝てつだって、荒々あらあらしくかたをかけた。
「これ、しん七、なにをしやる」
なにもかもござりませぬ。あのおびは、太夫たゆう今度こんど芝居しばいにはなくてはならない大事だいじ衣装いしょう手前てまえがひとりでったとて、春信はるのぶさんはわたしておくんなさいますまい。どうでもお前様まえさまを一しょれて。――」
「ええ、かぬ。んというてもわしゃかぬ」
 ほしのみひかったそらしたに、二つのかたちは、いぬごとくにからっていた。
「ふふふふ。みっともねえ。こんなことであろうとおもって、あとをつけてたんだが、おかみさん、こいつァ太夫たゆうさんのはじンなるぜ」
「えッ」
「おれだよ。彫職人ほりしょくにんまつろう

    六

 めるのもきかずにまつろうのようになってってしまったあと画室がしつには、春信はるのぶがただ一人ひとりおこののいてったおびまえにして、茫然ぼうぜん煙管きせるをくわえていたが、やがてなにおもいだしたのであろう。突然とつぜんかおをあげると、きだすように藤吉とうきちんだ。
藤吉とうきち。――これ藤吉とうきち
「へえ」
 いつにないあら言葉ことばに、あわててつぎからんで藤吉とうきちは、敷居際しきいぎわで、もう一ぺこりとあたまげた。
なに御用ごようで」
羽織はおりしな」
「へえ。――どッかへおかけなさるんで。……」
余計よけいくちをきかずに、はやくするんだ」
「へえ」
 なになにやら、一こう見当けんとうかなくなった藤吉とうきちは、つぎってかえすと、箪笥たんすをがたぴしいわせながら、春信はるのぶこのみの鶯茶うぐいすちゃ羽織はおりを、ささげるようにしてもどってた。
「これでよろしいんで。……」
 それにはこたえずに、藤吉とうきちから羽織はおりを、ひったくるように受取うけとった春信はるのぶあしは、はやくも敷居しきいをまたいで、縁先えんさきへおりていた。
師匠ししょう、おともをいたしやす」
ひとりでいい」
「お一人ひとりで。……そんなら提灯ちょうちんを。――」
 が、春信はるのぶこころは、やたらにさきいそいでいたのであろう。いつもなら、藤吉とうきちともれてさえ、夜道よみちあるくくには、かなら提灯ちょうちんたせるのであったが、いまはその提灯ちょうちんももどかしく、羽織はおり片袖かたそでとおしたまま、はやくも姿すがた枝折戸しおりどそとえていた。
藤吉とうきち。――藤吉とうきち
「へえ」
 おくからのこえは、このはるまで十五ねんながあいだ番町ばんちょう武家屋敷ぶけやしき奉公ほうこうあがっていた。春信はるのぶいもうと梶女かじじょだった。
「ここへや」
「へえ」
 お屋敷者やしきもの見識けんしきとでもいうのであろうか。あし不自由ふじゆうであるにもかかわらず、四十にちかかおには、ふれればげるまでに白粉おしろいって、ときよりほかには、滅多めったはなしたことのない長煙管ながぎせるを、いつもひざうえについていた。
「お兄様にいさまは、どちらにおかけなされた」
「さァ、どこへおいでなさいましたか、ついおっしゃらねえもんでござんすから。……」
なにをうかうかしているのじゃ。らぬでもうとおおもいか。なぜおともをせぬのじゃ」
「そうもうしたのでござんすが、師匠ししょうはひどくおいそぎで、さきさえおっしゃらねえんで。……」
ぐにきゃ」
「へ」
提灯ちょうちんってぐに、あとうてきゃというのじゃ」
「とおっしゃいましても、どっちへおかけか、方角ほうがくわかりゃァいたしやせん」
「まだたばかりじゃ。そこまでけばぐにわかろう。たじろいでいるときではない。はよう。はよう」
 このうえ躊躇ちょうちょしていたら、った煙管きせるで、あたまのひとつもられまじき気配けはいとなっては、藤吉とうきちも、たないわけにはかなかった。
 提灯ちょうちん提灯ちょうちん蝋燭ろうそく蝋燭ろうそくと、みぎひだり別々べつべつにつかんだ藤吉とうきちは、われるように、梶女かじじょからおもてにのがれた。

    七

 かがみのおもてにうつした眉間みけんに、ふかい八のせたまま、ただいらいらした気持きもち繰返くりかえしていた中村松江なかむらしょうこうは、ふと、格子戸こうしどそとひとおとずれた気配けはいかんじて、じッとみみすました。
「もし、今晩こんばんは。――今晩こんばんは」
(おお、やはりうちかいな)
 そう、おもった松江しょうこうは、つぎ座敷ざしきまでってって、弟子でしのいるうらかいこえをかけた。
「これ富江とみえ松代まつよだれもいぬのか。おきゃくさんがおいでなされたようじゃ」
 が、先刻せんこくしん七におこののあとわせたすきに、二人ふたりとも、どこぞ近所きんじょへまぎれてったのであろう。もう一んで松江しょうこうみみには、容易ようい返事へんじもどってはなかった。
「ええけったいな、んとしたのじゃ。おきゃくさんじゃというのに。――」
 口小言くちこごとをいいながら、みずか格子戸こうしどのところまでってった松江しょうこうは、わざと声音こわねえて、ひくたずねた。
「どなたさまでござります」
「わたしだ」
「へえ」
白壁町しろかべちょう春信はるのぶだよ」
「えッ」
 おどろきと、土間どまりたのが、ほとん同時どうじであった。
「お師匠ししょうさんでおましたか。これはまァ。……」
 がらりとけた雨戸あまどそとに、提灯ちょうちんたずに、ひと蒼白あおじろたたずんだ春信はるのぶかおくらかった。
面目次第めんぼくしだいもござりませぬ。――でもまァ、ようおいでで。――」
「ふふふ。あんまりよくもなかろうが、ちと、ずにはまされぬことがあっての」
「そこではおはなし出来できませんで。……どうぞ、こちらへおとおくださりませ」
「しかし、わたしがあがっても、いいのか」
なにおっしゃいます。狭苦せまくるしゅうはござりますが、御辛抱ごしんぼうしやはりまして。……」
「では遠慮えんりょなしに、とおしてもらいましょうか。……のう太夫たゆう
 座敷へあがって、ひざると同時どうじに、春信はるのぶけわしく松江しょうこう見詰みつめた。
今更いまさらあらためて、こんなことをくのも野暮やぼ沙汰さただが、おこのさんといいなさるのは、たしかにおまえさんの御内儀ごないぎだろうのう」
んといやはります」
 松江しょうこうのおもてには、不安ふあんいろかげえがいた。
ふかいことはどうでもいいが、ただそれだけをかしてもらいたいとおもっての。あれが太夫たゆう御内儀ごないぎなら、わたしはこれからさき、おまえさんと、二かおわせまいと、こころかためてたのさ」
「えッ。ではやはり。……」
太夫たゆう。つまらないつらあてでいうわけじゃないが、おまえさんは、いいおかみさんをちなすって、仕合しあわせだの。――おびはたしかにわたしのから、おせんのとこへかえそうから、すこしも懸念けねんには、およばねえわな」
「どうぞ堪忍かんにんしておくれやす」
「おまえさんにあやまらせようとおもって、こんなにおそく、わざわざひとりでわけじゃァさらさらない。わびなんぞは無用むようにしておくんなさい」
「なんで、これがおわびせいでおられましょう。なおこのが、いらぬことを仕出来しでかしましたこころなさからお師匠ししょうさんに、このようないやなおもいをおさせもうしました。堺屋さかいやあながあったら這入はいりとうおます」
 松江しょうこうは、われとわがかおおおったまま、しばじろぎもしなかった。
 しもに、はやくもよわてた蟋蟀こおろぎであろう。床下ゆかしたにあえぐ細々ほそぼそかれた。

  つき


    一

「――そらなんせ、土平どへいあめじゃ。大人おとな子供こどもぜにっておいで。当時とうじ名代なだい土平どへいあめじゃ。あじがよくってがあって、おまけに肌理きめこまこうて、笠森かさもりおせんの重肌えはだを、べにめたような綺麗きれいあめじゃ。ってかんせ、べなんせ。天竺渡来てんじくとらい人参飴にんじんあめじゃ。んとみなしゅう合点がってんか」
 もはやが落ちて、そらにはつきさえかかっていた。その夕月ゆうづきひかりしたに、おのがあわかげみながら、言葉ことばのあやも面白おもしろおかしく、いつおどりつ来懸きかかったのは、この春頃はるごろから江戸中えどじゅうを、くまなくあるまわっている飴売土平あめうりどへい。まだ三十にはならないであろう。おどけてはいるが、どこかおかがたいところのあるかおかたちは、かたき武家ぶけが、しのんでの飴売あめうりだとさえうわさされて、いやがうえにも人気にんきたかく、役者やくしゃならば菊之丞きくのじょう茶屋女ちゃやおんななら笠森かさもりおせん、飴屋あめや土平どへい絵師えし春信はるのぶと、当時とうじっての評判者ひょうばんものだった。
「わッ、土平どへい土平どへいだ」
「それ、みんない、みんないやァイ」
「おっかァ、ぜにくんな」
ちゃん、おいらにもぜにくんな」
「あたいもだ」
「あたしもだ」
 軒端のきば蚊柱かばしらのように、どこからともなくあつまって子供こどもむれは、土平どへい前後左右ぜんごさゆうをおッいて、うもわぬも一ようにわッわッとはやしたてるにぎやかさ、長屋ながや井戸端いどばたで、一心不乱しんふらんこめいでいたおかみさんたちまでが、まえかけで、きながら、ぞろぞろつながっててくる有様ありさまは、流石さすが江戸えど物見高ものみだかいと、勤番者きんばんものたまをひっくりかえさずにはおかなかった。
「――さァさた、こっちへおいで、たかやすいの思案しあん無用むよう思案しあんするなら谷中やなかへござれ。谷中やなかよいとこおせんの茶屋ちゃやで、おちゃみましょ。煙草たばこをふかそ。煙草たばこふかしてけむだして、けむなかからおせんをれば、おせん可愛かあいや二九からぬ。色気いろけほどよくえくぼかすむ。かすえくぼをちょいとつっいて、もしもしそこなおせんさま。おはもじながらここもとは、そもじおもうてくびッたけ、からすかぬはあれど、そもじつかれぬ。雪駄せったちゃらちゃら横眼よこめれば、いたさくら芙蓉ふようはなか、さても見事みごと富士ふじびたえ。――さッさいなよわしゃんせ。土平どへい自慢じまん人参飴にんじんあめじゃ。遠慮えんりょ無用むようじゃ。わしゃんせ。っておせんにれしゃんせ」
 手振てぶりまでまじえての土平どへいうたは、つきひかりえるにつれて、いよいよ益々ますます面白おもしろく、子供こどもばかりか、ぐるりと周囲しゅういかきつくった大方おおかたは、とおりがかりの、大人おとな見物けんぶつで一ぱいであった。
「はッはッはッ。これがうわさたか土平どへいだの。いやもう感心かんしん感心かんしん。こののどでは、文字太夫もじだゆう跣足はだしだて」
「それはもう御隠居様ごいんきょさま滅法めっぽう名代なだい土平どへいでござんす。これほどのいいこえは、かね太鼓たいこさがしても、滅多めったにあるものではござんせぬ」
御隠居ごいんきょは、土平どへいこえを、はじめておきなすったのかい」
左様さよう
「これはまた迂濶うかつばん飴売あめうり土平どへいは、近頃ちかごろ江戸えど名物めいぶつでげすぜ」
「いや、うわさはかねていておったが、たのはいまはじめて。まことにはや。面目次第めんぼくしだいもござりませぬて」
「はははは。お前様まえさまは、おなじ名代なだいなら、やっぱりおせんのほうが、御贔屓ごひいきでげしょう」
けっして左様さようわけでは。……」
「おかくしなさいますな。それ、そのおかおいてある」
 見物けんぶつ一人ひとりが、ちかくにいる隠居いんきょかおしたときだった、だれかが突然とつぜん頓狂とんきょうこえげた。
「おせんがた。あすこへおせんがかえってた」

    二

「なに、おせんだと」
「どこへどこへ」
 飴売あめうり土平どへい道化どうけ身振みぶりに、われをわすれて見入みいっていた人達ひとたちは、っていたような「おせんがた」というこえくと、一せいくびひがしけた。
「どこだの」
「あすこだ。あのまつしたる」
 ななめにうねった道角みちかどに、二抱ふたかかえもある大松おおまつの、そのしたをただ一人ひとり次第しだいえた夕月ゆうづきひかりびながら、野中のなかいた一ぽん白菊しらぎくのように、しずかにあゆみをはこんでるほのかな姿すがた。それはまごうかたない見世みせからかえりのおせんであった。
ちげえねえ。たしかにおせんだ」
「そらけ」
 途端とたん鼻緒はなおれて、草履ぞうりをさげたまま小僧こぞうや、いしつまずいてもんどりってたおれる職人しょくにん。さては近所きんじょ生臭坊主なまぐさぼうずが、俗人ぞくじんそこのけに目尻めじりをさげていすがるていたらく。所詮しょせんおとこおんなもなく、おせんにっては迷惑千万めいわくせんばんちがいなかろうが、遠慮会釈えんりょえしゃくはからりとてたあつかましさからつるんだいぬくよりも、一そうきおって、どっとばかりにせた。
「いやだよなおさん、そんなにしちゃァころンじまうよ」
ひところぶことなんぞ、遠慮えんりょしてたまるもんかい。はやってさわらねえことにゃ、おせんちゃんはかえッちまわァ」
「おッと退いた退いた。番太郎ばんたろうなんぞのるもンじゃねえ」
馬鹿ばかにしなさんな。番太郎ばんたろうでもおとこぴきだ。綺麗きれいねえさんはてえや」
「さァ退いた、退いた」
火事かじ火事かじだ」
 ひとこころこころって、いよいよ調子ちょうしづいたのであろう。茶代ちゃだいいらずのそのうえにどさくさまぎれの有難ありがたさは、たとえ指先ゆびさきへでもさわればさわどくかんがえての悪戯いたずらか。ここぞとばかり、いきせきってけた群衆ぐんしゅう苦笑くしょうのうちに見守みまもっていたのは、飴売あめうり土平どへいだった。
「ふふふふ。あめわずに、おせんぼうぱしったな豪勢ごうせいだ。こんな鉄錆てつさびのようなかおをしたおいらより、油壺あぶらつぼからたよなおせんぼうほうが、どれだけいいかれねえからの。いやもう、浮世うきよのことは、なにをおいてもおんな大事だいじ。おいらも今度こんどにゃァ、いぬになってもおんなうまれてることだ。――はッくしょい。これァいけねえ。みんながきゅうったせいか、みずぱなたぜ。風邪かぜでもいちゃァたまらねから、そろそろかえるとしべえかの」
「おッと、飴屋あめやさん」
「はいはい、おまえさんは、んであっちへきなさらない」
きたくねえからよ」
きたくないとの」
「そうだ。おいらはこれでも、はじってるからの」
面白おもしろい。人間にんげんはじってるたァなによりだ」
なによりより御存ごぞんじよりか。なまじはじってるばかりに、おいらァ出世しゅっせ出来できねえんだよ」
「おまえさんは、なにをしなさる御家業おかぎょうだの」
かきだよ」
名前なまえは」
名前なまえなんざあるもんか」
だれのお弟子でしだの」
「おいらはおいらの弟子でしよ。かきに師匠ししょう先生せんせいなんざ、足手あしでまといになるばッかりで、ものやくにゃたねえわな」
 そういいながら、はなあたまこすったのは、かわもの春重はるしげだった。

    三

「おッとッとッと、おせんちゃん。んでそんなにいそぎなさるんだ。みんながこれほどさわいでるんだぜ。えくぼの一つもせてッてくんねえな」
「そうだそうだ。どんなにったかれやァしねえよ。おめえにいそいでかえられたんじゃ、ってたかいがありゃァしねえ」
 それとって、おせんを途中とちゅうりかこんだ多勢おおぜいは、飴屋あめや土平どへいがあっられていることなんぞ、うのむかしわすれたように、さきにと、ゆうぐれどきのあたりのくらさをさいわいにして、はなからさき突出つきだしていた。
 が、いつもなら、ひとにいわれるまでもなく、まずこっちから愛嬌あいきょうせるにきまっていたおせんが、きょうはんとしたのであろう。えくぼせないのはまだしも、まるで別人べつじんのようにせかせかと、さきいそいでの素気すげない素振そぶりに、一どう流石さすがにおせんのまえへ、大手おおでをひろげる勇気ゆうきもないらしく、ただくちだけを達者たっしゃうごかして、すこしでも余計よけい引止ひきとめようと、あせるばかりであった。
「もし、そこを退いておくんなさいな」
「どいたらおめえがかえッちまうだろう。まァいいから、ここであそんできねえ」
「あたしゃ、さきいそぎます。きょうは堪忍かんにんしておくんなさいよ」
さきッたって、これからさきァ、うちかえるよりみちはあるめえ。それともどこぞへ、きなひとでも出来できたのかい」
「なんでそんなことが。……」
「ねえンなら、よかろうじゃねえか」
「でもおっかさんが。――」
「おふくろかおなんざ、うまれたときからてるんだろう。もう大概たいがいあきてもよさそうなもんだぜ」
「そうだ、おせんちゃん。けえときにゃ、みんなでおくってッてやろうから、きょういち見世みせはなしでも、かしてくんねえよ」
「お見世みせのことなんぞ、んにもはなしはござんせぬ。――どうかとおしておくんなさい」
紙屋かみや若旦那わかだんなはなしでも、名主なぬしさんのじゃんこ息子むすこはなしでも、いくらもあろうというもんじゃねえか」
りませんよ。おっかさんが風邪かぜいて、ひとりでててござんすから、ちっともはやかえらないと、あたしゃ心配しんぱいでなりませんのさ」
「おふくろさんが風邪かぜだッて」
「あい」
「そいつァいけねえ。んなら見舞みまいってやるよ」
「おいらもくぜ」
「わたしもく」
「いいえ、もうそんなことは。――」
 すこしもながく、おせんをめておきたい人情にんじょうが、たがいくち益々ますますかるくして、まるくかこんだ人垣ひとがきは、容易よういけそうにもなかった。
 すると突然とつぜん、はッはッはと、はらそこからしぼしたようなわらごえが、一どう耳許みみもとった、
「はッはッは。みんな、みっともねえ真似まねをしねえで、はやくおせんちゃんを、かえしてやったらどんなもんだ」
「おめえは、春重はるしげだな」
「つまらねえ出口でぐちはきかねえで、んだ、んだ」
「ふふふ。おめえたち、あんまりかなぎるぜ。おせんちゃんにゃ、おせんちゃんのようがあるんだ。野暮やぼめだてするよりも、一こくはやかえしてやんねえ」
馬鹿ばかァいわッし。そんなお接介せっかいは受けねえよ」
 一どう視線しせんが、春重はるしげうえあつまっているひまに、おせんははやくもつき下影したかげかくした。

    四

「おっかさん」
「おや、おせんかえ」
「あい」
 ねこわれたねずみのように、あわただしくんでたおせんのこえに、おりから夕餉ゆうげ支度したくいそいでいたははのおきしは、なにやらむね凶事きょうじうかべて、勝手かって障子しょうじをがらりとけた。
「どうかおしかえ」
「いいえ」
「でもおまえ、そんなにいきせきってさ」
「どうもしやァしませんけれど、いまそこで、筆屋ふでやさんのくろがじゃれたもんだから。……」
「ほほほほ。くろってじゃれるのは、おまえしたっているからだよ。あたしゃまた、わるいいたずらでもされたかとおもって、びっくりしたじゃァないか。なにいつくようなくろじゃなし、げてなんぞないでも、大丈夫だいじょうぶかね脇差わきざしだわな。――こっちへおいで。あたまけてあげようから。……」
「おや、かみがそんなに。――」
 ははほうへはかずに、四畳半じょうはんのおのが居間いま這入はいったおせんは、ぐさまかがみふたはずして、薄暮はくぼなかにじっとそのまま見入みいったが、二すじすじえりみだれたびんを、手早てばやげてしまうと、今度こんどはあらためて、あたりをぐるりと見廻みまわした。
「おっかさん」
「あいよ」
「あたしの留守るすに、ここにだれ這入はいりゃしなかったかしら」
「おやまァ滅相めっそうな。そこへはねずみぴき滅多めったはいるこっちゃァないよ。――んぞかわわったことでもおありかえ」
「さァ、ちっとばかり。……」
「どれ、なにがの。――」
 障子しょうじ隙間すきまから、かお半分はんぶんのぞかせた母親ははおやを、おせんはあわててさえぎった。
にするほどでもござんせぬ。あっちへってておくんなさい」
「ほんにまァ、ここへはるのじゃなかったッけ」
 三日前みっかまえよるの四つごろ浜町はまちょうからの使つかいといって、十六七のおとこが、駕籠かごったおんなおくってたそのばん以来いらい、おきしはおせんのくちから、観音様かんのんさまへのがんかけゆえ、むこう三十にちあいだ何事なにごとがあっても、四畳半じょうはんへは這入はいっておくんなさいますな。あたしの留守るすにも、ここへあしれたが最後さいご、おっかさんのはつぶれましょうと、きつくいわれたそれからこっち、なになにやらわからないままに、おせんのたのみをかたまもって、おきしは、鬼門きもんさわるようにおそれていた座敷ざしきだったが、留守るすだれかが這入はいったといては、流石さすがにあわてずにいられなかったらしく、こしらえかけの蜆汁しじみじるを、七りんけッぱなしにしたまま、片眼かためでいきなりのぞんだのであろう。
 部屋へやなかは、まどからすほのかなつきひかりで、ようやもののけじめがつきはするものの、ともすれば、えたばかりの青畳あおだたみうえにさえ、くらかげななめにかれて、じっと見詰みつめている眼先めさきは、うみのようにふかかった。
 ははぐに勝手かってってかえしたとえて、ふたたび七りんしたあお渋団扇しぶうちわおとみだれた。
 くらい、何者なにものもはっきりえない部屋へやなかで、おせんはもう一、じっとかがみなか見詰みつめた。底光そこびかりのするかがみなかに、めばほどほのかになってゆく、おのがかお次第しだいあわえて、三日月形みかづきがた自慢じまんまゆも、いつかいとのようにほそくうずもれてった。
きちちゃん。――」
 ふと、かがみのおもてからはなしたおせんのくちびるは、ちいさくほころびた。と同時どうじに、すりるように、からだ戸棚とだなまえ近寄ちかよった。
みません。ひとりぽっちで、こんなにたせて。――」
 そういいながら、おせんのふるえるふすま引手ひきておさえた。

    五

 部屋へやなか益々ますますくらかった。
 そのくら部屋へや片隅かたすみへ、いましもおせんが、あたりくばりながら、むねぱいかかしたのは、つい三日前みっかまえよる由斎ゆうさいもとから駕籠かごせてとどけてよこした、八百お七の舞台姿ぶたいすがたをそのままの、瀬川菊之丞せがわきくのじょう生人形いきにんぎょうであった。
 おせんはかかえた人形にんぎょうを、ひがしけて座敷ざしきのまんなかてると、薄月うすづきひかりを、まともにけさせようがためであろう。おとせぬほどに、まど障子しょうじしずかはじめた。
 にわにはむしこえもなく、とおくのそらわたかりのおとずれがうつろのように、みみひびいた。
きちちゃん。――いいえ、太夫たゆう、あたしゃいとうござんした」
 きた相手あいてにいうごとく、如何いかにもなつかしそうに、人形にんぎょうあおいだおせんのには、なさけつゆさえあだ宿やどって、おもいなしか、こえは一にふるえていた。
「――あさからばんまで、いいえ、それよりも、一生涯しょうがい、あたしゃ太夫たゆうと一しょにいとうござんすが、なんといっても、おまえいまときめく、江戸えどばん女形おやま。それにえあたしゃそこらにてた、れた草鞋わらじもおんなじような、水茶屋みずぢゃや茶汲ちゃくむすめ百夜ももよみちかよったとて、おまえって、昔話むかしばなしもかなうまい。それゆえせめてのこころから、あたしがいつもゆめるおまえのお七を、由斎ゆうさいさんに仕上しあげてもらって、ここまで内緒ないしょはこんだ始末しまつ。おまえのおたくにくらべたら、物置小屋ものおきごやにもりない住居すまいでござんすが、ここばっかりは、邪間じゃまするものもない二人ふたり世界せかい。どうぞ辛抱しんぼうして、話相手はなしあいてになっておくんなさいまし、――あたしゃ、王子おうじそだった十年前ねんまえも、お見世みせかようきょうこのごろも、こころ毛筋程けすじほどかわりはござんせぬ。きちちゃんと、おせんちゃんとは夫婦ふうふだと、ままごとあそびにからかわれた、あのはるわすれられず、まくららしてかしたよるも、一や二ではござんせんし。おせんも年頃としごろきなおきゃく一人ひとりくらいはあろうかと、折節おりふしのおっかさんの心配しんぱいも、あたしのみみにはうわそらあぶりでんだお七がうらやましいと、あたしゃいつも、おもいつづけてまいりました。――太夫たゆう、おまえは、立派りっぱなおかみさんのそのほかに、二つもりょうをおちの様子ようすくてあまたの、御贔屓筋ごひいきすじもござんしょうが、あたしゃこのままこがれんでも、やっぱりおまえ女房にょうぼうでござんす」
 おもわずらず、れとわがそでらした不覚ふかくなみだに、おせんは「はッ」としてくびげたが、どうやら勝手許かってもとははみみへは這入はいらなかったものか、まだらぬ風邪かぜせきが二つ三つ、つづけざまにこえたばかりであった。
 しばしおせんは、俯向うつむいたままじていた。そのそこを、稲妻いなづまのように、おさなおもぱしった。
「おせんや」
 ははこえかれた。
「あい」
「このくらいのに、行燈あんどんもつけずに」
「あい。さしてくらくはござんせぬ」
なにをしておいでだからないが、支度したく出来できたから御飯ごはんにしようわな」
「あい、いまじきに」
くらところ一人ひとりでいると、ねずみかれるよ」
 隣座敷となりざしきでは、はは燈芯とうしんをかきてたのであろう。障子しょうじきゅうあかるくなって、膳立ぜんだてをするおとみみちかかった。
 よろめくように立上たちあがったおせんは、まど障子しょうじをかけた。と、その刹那せつなひくいしかもれないこえが、まどしたからあがった。
「おせん」
「えッ」
おどろくにゃあたらねえ。おいらだよ」
 おせんは、火箸ひばしのようにちすくんでしまった。

    六

「ど、どなたでござんす」
っ、しずかにしねえ。あやしいものじゃねえよ。おいらだよ」
「あッ、おまえあにさん。――」
「ええもう、しずかにしろというのに。おふくろみみへへえッたら、こと面倒めんどうンなる」
 そういいながら、出窓でまどえんひじけて、するりとからだもちちあげると、如何いかにも器用きよういた草履ぞうり右手みぎてぎながら、こしの三尺帯じゃくおびへはさんで、ねこのように青畳あおだたみうえったのは、三年前ねんまえいえたまま、うわさにさえ居所いどころらせなかったあにの千きちだった。――藍微塵あいみじん素袷すあわせ算盤玉そろばんだまの三じゃくは、るから堅気かたぎ着付きつけではなく、ことった頬冠ほおかむりの手拭てぬぐいを、鷲掴わしづかみにしたかたちには、にくいまでの落着おちつきがあった。
 まったく夢想むそうもしなかった出来事できごとに、おせんは、そのこしえたまま、ぐには二のげなかった。
「おせん。おめえ、いくつンなった」

「十八でござんす」
「十八か。――」
 千きちはそういって苦笑くしょうするようにうなずいたが、隣座敷となりざしきを気にしながら、さらこえひくめた。
こわがるこたァねえから、あとずさりをしねえで、落着おちついていてくんねえ。おいらァなにも、ひさりにったいもうとを、っておうたァいやァしねえ」
「あかりを、つけさせておくんなさい」
「おっと、そんな事をされちゃァたまらねえ。やみでもてえげええるだろうが、おいらァ堅気かたぎ商人しょうにんで、四かくおびを、うしろでむすんでわけじゃねえんだ。面目めんぼくねえが五一三分六ごいちさぶろくのやくざものだ。おめえやおふくろに、わせるかおはねえンだが、ちっとばかり、ひとたのまれたことがあって、義理ぎりはさまれてやってたのよ。おせん、まねえが、おいらのたのみをいてくんねえ」
「そりゃまたあにさん、どのようなことでござんす」
「どうのこうのと、はなせばなげ訳合わけあいだが、取早とりばやくいやァ、おいらァかね入用いりようなんだ」
「おかねとえ」
「そうだ」
「あたしゃ、おかねなんぞ。……」
「まァった。やぶからぼうんでた、おいらのくちからこういったんじゃ、おめえがかぶりをるのももっともだが、こっちもまんざら目算もくさんなしで、かけてたというわけじゃねえ。そこにゃちっとばかり、かけたつるがあってのことよ。――のうおせん。おめえは通油町とおりあぶらちょうの、橘屋たちばなや若旦那わかだんなってるだろう」
「なんとえ」
徳太郎とくたろうという、始末しまつくねえ若旦那わかだんなだ」
「さァ、ってるような、らないような。……」
「ここァべつ白洲しらすじゃねえから、かくしだてにゃおよばねえぜ。らねえといったところが、どうでそれじゃァとおらねえんだ。さきァおめえに、家蔵いえくらってもいとわぬほどの、くびッたけだというじゃねえか」
「まァにいさん」
はずかしがるにゃァあたらねえ。なにもこっちから、血道ちみちげてるというわけじゃなし、おめえにれてるな、むこさま勝手次第かってしだいだ。――おせん。そこでおめえに相談そうだんだが、ひとつこっちでも、のあるふうをしちゃあくれめえか」
「えッ」
「おめえも十八だというじゃァねえか。もうてえげえ、そのくれえの芸当げいとうは、出来できてもはじにゃァなるめえぜ」
 千きちは、たじろぐおせんを見詰みつめながら、四かくすわってった。

    七

「もし、あにさん」
 つきくもおおわれたのであろう。障子しょうじれるひかりさえない部屋へやなかは、わずかにとなりから行燈あんどん方影かたかげに、二人ふたり半身はんしんあわせているばかり、三ねんりでったあにかおも、おせんははっきり見極みきわめることが出来できなかった。
 その方暗かたやみなかに、おせんのこえは低くふるえた。
あにさん」
「え」
かえっておくんなさい」
んだって。おいらにけえれッて」
「あい」
冗談じょうだんじゃねえ。ようがありゃこそ、わざわざやってたんだ。なんでこのままけえれるものか。そんなことよりおいらのたのみを、素直すなおにきいてもらおうじゃねえか。おめえさえくびたてってくれりゃァ、からきしわけはねえことなんだ。のうおせん。あか他人たにんでさえ、ことけて、かくかくの次第しだいたのまれりゃ、いやとばかりゃァいえなかろう。おいらァおめえの兄貴あにきだよ。――けた、たった一人ひとり兄貴あにきだよ。それも、百とまとまったかね入用いりようだというわけじゃねえ。四半分はんぶんの二十五りょうことむんだ」
「二十五りょう。――」
「みっともねえ。おどろほどたかでもあるめえ」
「でも、そんなおかねは。……」
「だからよ。初手しょてからいってるとおり、おめえやおふくろへそくりから、そうたァいやァしねえや。ねらいをつけたなあの若旦那わかだんな橘屋たちばなや徳太郎とくたろうというでくのぼうよ。ふふふふ。んの雑作ぞうさもありァしねえ。おめえがここでたった一言ひとこと。おなつかしゅうござんす、とかなんとかいってくれさえすりァ、おいらのたのみァいてもらえようッてんだ。お釈迦しゃか甘茶あまちゃ眼病めやみなおすより、もっとわけねえ仕事しごとじゃねえか」
「それでもあたしゃ。こころにもないことをいって。……」
「そ、その料簡りょうけんがいけねえんだ。はらにあろうがなかろうが、武士ぶし戦略せんりゃく坊主ぼうず方便ほうべんとき場合ばあいじゃ、ひと寝首ねくびをかくことさえあろうじゃねえか。――さ、ここにふでかみがある。いろはのいのとろのいて、いろよい返事へんじをしてやんねえ」
 千きちがふところから取出とりだしたのは、巻紙まきがみ矢立やたてであった。
 おせんは、あわててめた。
堪忍かんにんしておくんなさい」
なにもあやまるこたァありゃァしねえ。くらくッてけねえというンなら、仕方しかたがねえ。行燈あんどんをつけてやる」
「もし。――」
 今度こんどはおせんが、千きちをおさえた。
なにをするんだ」
「あたしゃ、どうでもいやでござんす」
「そんならこれほどまでに、あたまをさげてたのんでもか」
ほかのこととはわけちがい、あたしゃかずあるおきゃくのうちでも、いの一ばんきらいなおひと、たとえうそでも冗談じょうだんでも、まないことはいやでござんす」
「おせん。おめえ、兄貴あにき見殺みごろしにするつもりか」
んとえ」
「おめえがいやだとかぶりをりゃァ、おいらはひとからあずかった、大事だいじかねとしたかどで、いやでも明日あした棒縛ぼうしばりだ。――そいつもよかろう。おめえはかげでわらっていねえ」
あにさん」
「もうんにもたのまねえ。これからけえってしばられようよ」
 千きちは、わざとやけに立上たちあがって窓辺まどべへつかつかとあゆった。
 突然とつぜん隣座敷となりざしきから、おきしのすすりこえが、障子越しょうじごしにきこえてた。

  ふみ


    一

若旦那わかだんな、もし、油町あぶらちょう若旦那わかだんな
「おお、おまえは千きちつぁん」
「そんなにいそいで、どこへおいでなせえやす」
「おまえのとこさ」
「何、あっしンとこでげすッて。――あっしンとこなんざ、若旦那わかだんなにおいでをねがうような、そんないた住居すまいじゃござんせん。火口箱ほくちばこみてえな、ちっぽけな棟割長屋むねわりながやなんで。……」
ちいさかろうが、おおきかろうが、そんなことはかんがえちゃいられないよ」
んとおっしゃいます」
「あたしゃおまえたのんだ返事へんじを、かせてもらいに、くところじゃないか」
「はッはッは。それでわざわざおはこくださろうッてんでげすか。これぁどうもおそれいりやした。そのことなら、どうかもう御心配ごしんぱいは、御無用ごむようになすっておくんなさいまし」
「おお、そんなら千きちさん、おせんの返事へんじを。――」
はばかりながら、いったんおひきもうしやした正直しょうじききち、お約束やくそくたがえるようなこたァいたしやせん」
まない。あたしはそうとはおもっていたものの、これがやっぱり恋心こいごころか。ちっともはや返事へんじくて、帳場格子ちょうばこうしと二かいあいだを、九十九かよった挙句あげく、とうとう辛抱しんぼう出来できなくなったばっかりに、ここまで出向でむいて始末しまつさ。そうときまったら、どうかぐにいろよい返事へんじかせておくれ」
「ま、ま、っておくんなせえやし。そんなにおせきンならねえでも、おせんの返事へんじは、ぐさまおかせもうしやすが、ここは道端みちばただれられねえともかぎりやせん。すじとおったいいところで、ゆっくりおにかけようじゃござんせんか」
「そりゃもう、いずれおまんまでもべながら、ゆっくりせてもらおうが、まずふみ上書うわがきだけでも、ここでちょいと、のぞかせておくれでないか」
御安心ごあんしんくださいまし。上書うわがきなんざ二のつぎ三のつぎ中味なかみからふうまで、おせんの相違そういはございません。あいつァ七八つの時分じぶんから、手習てならい仲間なかまでも、一といって二とさがったことのねえ手筋自慢てすじじまん。あっしゃァ質屋しちやしちと、万金丹まんきんたんたんだけしきゃけやせんが、おせんは若旦那わかだんなのお名前なまえまで、ちゃァんと四かくけようという、水茶屋女みずぢゃやおんなにゃしいくらいの立派りっぱ手書てがき。――このとおり、あっしがふところにあずかっておりやすから、どうか親船おやぶねったで、おいでなすっておくんなせえやし」
安心あんしんはしているけれど、ちっともはやたいのが人情にんじょうじゃないか。野暮やぼをいわずに、ちょいとでいいから、ここでおせよ」
堪忍かんにんしておくんなさい。みちぱたではおにかけねえようにと、こいつァいもうとからの、かたたのみでござんすので。……」
「はてまァ、んという野暮やぼだろうのう」
「どうかさっしておやンなすって。おせんにしてりゃ、自分じぶんからふみいたなはじめての、いわば初恋はつこいとでももうしやしょうか。はずかしいうえにもはずかしいのが人情にんじょうでげしょう。みちぱたひろげたとこを、ひょっとだれかにられたにゃァ、それこそ若旦那わかだんなよわいおせんは、どんなことになるか、れたもんじゃござんせん。野暮やぼ承知しょうちうえでござんす。どうか、ここンところをおさっしなすって……」
 谷中やなかから上野うえのける、寛永寺かんえいじ土塀どべい沿った一筋道すじみち光琳こうりんのようなさくら若葉わかばが、みちかれたまんなかたたずんだ、若旦那わかだんな徳太郎とくたろうとおせんのあにの千きちとは、おりからの夕陽ゆうひびて、いろよい返事へんじしたためたおせんのふみを、せろせないのいさかいに、しばしこころみだしていたが、このうえあらそいは無駄むださっしたのであろう。やがて徳太郎とくたろうほそくびをすくめた。
「あたしゃみじかいから、どこへくにしても、とてもあるいちゃかれない。千きちつぁん、ぐに駕籠かごんでもらおうじゃないか」
合点がってんでげす」
 千きちふた返事へんじうなずいた。

    二

 徳太郎とくたろうと千きちとが、不忍池畔しのばずちはん春草亭しゅんそうてい駕籠かごめたのは、それからもないあとだった。
 徳太郎とくたろう女中じょちゅう案内あんないたず、むように千きちをとって、おく座敷ざしきんだ。
「さ、千きちさん」
「へえ」
はやくおせ」
なにをでござんす」
「おや、なにをはあるまい。おせんのふみじゃないか」
「おそうだ。これはすっかりわすれてりやした」
「おまえ道端みちばたじゃせられないというから、わざわざ駕籠かごいそがせて、ここまでたんだよ。さ大事だいじふみを、すこしでもはやせてもらいましょう」
「おせいたしやす」
くちばっかりでなく、はやくおしッたら」
しやす。――が、ちょいとおちなすっておくんなさい。そのまえに、あっしゃァ若旦那わかだんなに、ひとつおねがもうしてえことがござんすので。……」
んだえ、あらたまって。――」
じつァその、おせんのやつから。……」
「なに、おせんから、あたしにたのみとの」
「へえ」
「そんならなぜ、もっとはやくいわないのさ」
申上もうしあげたいのは山々やまやまでござんすが、ちとあつかましいすじだもんでげすから、ついその、あっしのくちからも、申上もうしあげにくかったようなわけでげして」
馬鹿ばかな。つまらない遠慮えんりょなんか、水臭みずくさいじゃないか。そんな遠慮えんりょはいらないから、いっとくれ。あたしでかなうことなら、どんなねがいでも、きっといてあげようから。……」
「そりゃどうも。おせんにかしてやりましたら、どれほどよろこぶかれやァしません。――ところで若旦那わかだんな
「なにさ」
「そのおねがいともうしますのは」
「そのたのみとは」
「おかねを。――」
んのことかとおもったら、おかねかい。はばかりながら、あたしァ江戸えどでも人様ひとさまられた、橘屋たちばなや徳太郎とくたろう、おせんのたのみとあれば、けっしていやとはいわないから、かまわずにいって御覧ごらん。たとえどれほど大金たいきんでも、あれのためなら、くびよこにゃらないつもりだよ」
「へえへえ、どうもおそれれいりやした。いやもう、おせん、おめえよくったぞ。これほどねずみたァ、まさかおもっちゃ。……」
「これ千きちつぁん、なにをおいいだ。あたしのことをねずみとは。……」
「ど、どういたしやして、ねずみなんぞたもうしゃしません。若旦那わかだんなにはこれからも、ぬずみのように、チウをおつくしもうせと、こうもうしたのでございます」
「おまえくち上手じょうずだから。……」
くちはからきし下手へたかわ人様ひとさままえたら、ろくにおしゃべりも出来できおとこじゃござんせんが、若旦那わかだんなだけは、どうやらあか他人たにんとはおもわれず、ついへらへらとおしゃべりもいたしやす。――ねえ若旦那わかだんな。どうかおせんに、二十五りょうだけ、してやっておくんなせえやし」
なに、二十五りょう。――」
江戸えど名代なだい橘屋たちばなや若旦那わかだんな。二十五りょうは、ほんのお小遣こづかいじゃござんせんか」
 千きちはそういいながら、ふところふかくひそませた、おせんのふみをりだした。
   ありがたくぞんそうろう かしこ
           せん  より
 若旦那わかだんなさま
 ふみのおもては、ただこれだけだった。

    三

 あさっぱらの柳湯やなぎゆは、町内ちょうないわかものと、楊枝削ようじけずりの御家人ごけにん道楽者どうらくもの朝帰あさがえりとが、威勢いせいのよしあしをとりまぜて、柘榴口ざくろぐちうちそととにとぐろをいたひとときの、はじ外聞がいぶんもない、手拭てぬぐいぽん裸絵巻はだかえまきひろげていたが、こんな場合ばあいだれくちからもおなじようにかれるのは、何吉なにきちがどこの賭場とばったとか、どこそこのおなにが、近頃ちかごろだれにのぼせているとか、さもなければ芝居しばいうわさ吉原よしわら出来事できごと観音様かんのんさま茶屋女ちゃやおんなうえなど、おそらくくちひらけば、一ようにおのれの物知ものしりを、すこしもはやひとかせたいとの自慢じまんからであろう。たまのようなあせひたいにためながら、いずれもいい気持きもちでしゃべりつづける面白おもしろさ。なかには、かおさえあらやもうようはねえと、ながしのまんなか頑張がんばって、四斗樽とだるのようなからだを、あっちへげ、こっちへのばして、隣近所となりきんじょあわばすひま隠居いんきょや、膏薬こうやくだらけの背中せなかせて、弘法灸こうぼうきゅう効能こうのうを、相手あいてかまわずちら半病人はんびょうにんもある有様ありさま湯屋ゆやあさから寄合所よりあいしょのようににぎわいをせていた。
長兄ちょうあにイ。いたか」
なにを」
なにをじゃねえ、千きちがしこたまもうけたッてはなしをよ」
「うんにゃ。かねえよ」
迂濶うかつだな」
「だっておめえ、らねえもなァ仕方しかたがねえや。――いってえ、あのなまものが、どこでそんなにもうけやがったたんだ」
「どこッたっておめえ、そいつが、てえそうないかさまなんだぜ」
「ふうん、やつにそんな器用きようなことが出来できるのかい」
相手あいてがいいんだ」
椋鳥むくどりか」
「ちゃきちゃきの江戸えどよ」
「はァてな、江戸えどが、やついかさまッかかるたァおかしいじゃねえか」
いかさまッたって、おめえ、丁半ちょうはんじゃねえぜ」
「ほう、さいころじゃねえのかい」
おんなえさだ」
おんな。――」
相手あいてってもうけたのよ」
「そいつァ尚更なおさら初耳はつみみだ。――その相手あいてッてな、どこのだれよ」
油町あぶらちょう紙問屋かみどんや橘屋たちばなや若旦那わかだんなだ」
「ほう、そいつァおもしれえ」
「あれだ。おもしれえはどくだぜ。千きちいもうとのおせんをえさにして、若旦那わかだんなから、二十五りょうという大金たいきんをせしめやがったんだ」
「なに二十五りょうだって」
「どうだ。てえしたもんだろう」
冗談じょうだんじゃねえ。二十五りょうといやァ、小判こばんが二十五まいだぜ。こいつが二りょうとか、二りょうとかいうンなら、まだしもはなしすじとおるが、二十五りょうんでもねえ。あいつのくび引換ひきかえにしたって、りられるかねじゃァねえぜ。冗談じょうだんやすやすみいってくんねえ」
「ふん、らねえッてもなァおッかねえや。おいらァげんにたったいま、この二つので、にらんでたばかりなんだ。山吹色やまぶきいろで二十五まい滅多めったられるかさじゃァねえて」
「ふふふふ、きん。そのはなしをもうちっとくわしくかせねえか」
 そういいながら、柘榴口ざくろぐちから、にゅッとくびしたのは、絵師えし春重はるしげだった。
春重はるしげさん、おまえさんいたのかい」
「いたからかおしたんだがの。大分だいぶはなし面白おもしろそうじゃねえか」
 春重はるしげは、もう一ニヤリとわらった。

    四

「ふふふふ、きん、なんできゅうおしのようにだまんじゃったんだ。はなしてかせねえな。どうせおめえのはらいたわけでもあるめえしよ」
 柘榴口ざくろぐちからながしへ春重はるしげ様子ようすには、いつもとおりの、みょうねばりッからみついていて、傘屋かさや金蔵きんぞう心持こころもちを、ぞッとするほどくらくさせずにはおかなかった。
「てえした面白おもしれはなしでもねえからよ」
「なに面白おもしろくねえことがあるもんか。二十五りょうといやァ、おいらのような貧乏人びんぼうにんは、まごまごすると、生涯しょうがいにゃぶらがれない大金たいきんだぜ。そいつをいかさまだかさかさまだかにつるさげて、ものにしたといちゃァ、志道軒しどうけん講釈こうしゃくじゃねえが、うそにもさきかねえじゃいられねえからの。――相手あいて橘屋たちばなや若旦那わかだんなだったてえな、ほんまかい」
「おめえさん、それをいてどうしようッてんだ」
 かおをしかめて、春重はるしげ見守みまもったのは、金蔵きんぞうあにイとばれた左官さかん長吉ちょうきちであった。
「どうもしやァしねえがの。そいつがほんまなら、おいらもちっとばかり、若旦那わかだんなりてえとおもってよ」
若旦那わかだんなりるッて」
「まずのう。だが安心あんしんしなよ。おいらの借りようッてな、二十五りょうの三十りょうのという、だいそれたわけのもんじゃねえ。ほんの二か一りょうせきやまだ。それもたねかけでるようなけちなこたァしやァしねえ。真証しんしょう間違まちがいなしの、立派りっぱ品物しなものってって、若旦那わかだんなよろこかおながら、拝借はいしゃくおよぼうッてんだ」
「そいつァ駄目だめだ」
「なんだって」
駄目だめッてことよ。橘屋たちばなや若旦那わかだんなは、たとえお大名だいみょうから拝領はいりょう鎧兜よろいかぶとってッたって、かねァ貸しちゃァくれめえよ。――あのひとしいものァ、日本中にほんじゅうにたったひとつ、笠森かさもりおせんのなさけよりほかにゃ、ありゃァしねッてこった」
「だから、そのおせんの、からけたものを、おいらァってもらいにこうッてえのよ」
からけたもの。――」
「そうだ。ほかもののぞんだら、百りょうでもゆずれるしなじゃねえんだが、相手あいてがおせんにくびッたけの若旦那わかだんなだから、まず一りょうがとこで辛抱しんぼうしてやろうとおもってるんだ」
春重はるしげさん。またおまえ、つまらねえ細工物さいくものでもこしらえたんだな」
冗談じょうだんじゃねえ、こしらえたもンなんぞた、てんからわけが違うンだぜ」
わけちがうッたって、そんなものがざらにあろうはずもなかろうじゃねえか」
「ところが、あるんだから面白おもしれえや」
「そいつァいってえ、なんだってんだい」
つめよ」
「え」
つめだってことよ」
つめ
「そのとおりだ。おせんのについてた、嘘偽うそいつわりのねえ生爪なまづめなんだ」
馬鹿ばかにしちゃァいけねえ。いくらおせんのものだからッて、つめなんざ、んのやくにもたちゃァしねえや。かつぐのもいい加減かげんにしてくんねえ」
「ふん、もの値打ねうちのわからねえやつにゃかなわねえの。おんな身体からだについてるもんで、ねん年中ねんじゅうやすみなしにびてるもなァ、かみつめだけだぜ。そのうちでもつめほうは、三日みっかなけりゃ目立めだってびる代物しろものだ。――ゆびかずで三百ぽん糠袋ぬかぶくろれてざっと半分はんぶんよ。このじりッけのねえおせんのつめが、たった小判こばんまいだとなりゃ、若旦那わかだんなねこのようにびつくなァ、ぎたてのかがみでおのがつらるより、はっきりしてるぜ」
 春重はるしげのまわりには、いつか、ぐるりとはだか人垣ひとがき出来できていた。

    五

「千の。おめえ、いいうでンなったの」
「ふふふ」
わらいごっちゃねえぜ。二十五りょうたァ、大束おおたばもうけたじゃねえか」
「どこで、そいつをいた」
かべみみありよ。さっき、とおりがかりにんだ神田かんだ湯屋ゆやで、傘屋かさや金蔵きんぞうとかいうやつが、てめえのことのように、自慢じまんらしく、みんなにはなしてかせてたんだ」
「あいつ、もうそんな余計よけいなことをしゃべりゃがったかい」
しゃべったの、しゃべらねえのだんじゃねえや。紙屋かみや若旦那わかだんなをまるめんで。――」
 下総武蔵しもふさむさし国境くにざかいだという、両国橋りょうごくばしのまんなかで、ぼんやり橋桁はしげたにもたれたまま、薄汚うすぎたなばあさんが一ぴきもんっている、はなかめくびうごきを見詰みつめていた千きちは、とおりがかりの細川ほそかわ厩中間うまやちゅうげんたけろうに、ぽんと背中せなかをたたかれて、つづけにかされたのが、柳湯やなぎゆで、金蔵きんぞうがしゃべったという、橘屋たちばなやの一けんであった。
 が、もう一たけろうが、はなあたまッこすって、ニヤリとわらったその刹那せつなむこうからかかった、八丁堀ちょうぼり与力よりき井上藤吉いのうえとうきちよういているおに七をみとめた千きちは、素速すばや相手あいてせいした。
ッ。いけねえ。っちめえねえ」
合点がってんだ」
 するりとけるようにして、たけろうってしまうと、はやくもおに七は、千きちまえせまっていた。
「千きち。おめえ、こんなとこで、なにをうろうろしてるんだ」
「へえ。きょうは親父おやじの、墓詣はかめえりにめえりやした。そのけえりがけでござんして。……」
墓詣はかまいり」
「へえ」
「いつッから、そんなこころがけになったんだ」
「どうか御勘弁ごかんべんを」
勘弁かんべんはいいが、――丁度ちょうどいいところでおめえにった。ちっとばかりきてえことがあるから、つきあってくんねえ」
「へえ」
「びくびくするこたァありゃしねえ。こいつあこっちからたのむんだから、安心あんしんしてついてねえ」
 おに七と呼ばれてはいるが、名前なまえとはまったくちがった、すっきりとした男前おとこまえの、いたてのまげ川風かわかぜかせた格好かっこうは、如何いかにも颯爽さっそうとしていた。
 折柄おりから上潮あげしおに、漫々まんまんたるあきみずをたたえた隅田川すみだがわは、のゆくかぎり、とお筑波山つくばやまふもとまでつづくかとおもわれるまでに澄渡すみわたって、綾瀬あやせから千じゅしてさかのぼ真帆方帆まほかたほが、黙々もくもく千鳥ちどりのように川幅かわはばっていた。
 その絵巻えまきひろげた川筋かわすじ景色けしきを、るともなく横目よこめながら、千きちおに七はかたをならべて、しずかにはしうえ浅草御門あさくさごもんほうへとあゆみをはこんだ。
「千きち、おめえ、おせんのところへはかけたろうの」
「どういたしやして。いもうとにゃ、三ねんこのかた、てんでやァいたしません」
「ふふふ。つまらねえかくてはめねえか。いまもいったとおり、おいらァおめえを、あらてるッてんじゃねえ。こっちのようきてえことがあるんだ。わるいようにゃしねえから、はっきりかしてくんねえ」
「どんな御用ごようで。……」
「おせんのとこへ、菊之丞はまむらや毎晩まいばんかようッてうわさんだんだが、そいつをおめえはってるだろうの」
 こうきながら、おに七の異様いようひかった。

    六

 おに七のといは、まったく千きちにはおもいがけないことであった。――子供こども時分じぶんからきでこそあれ、きらいではない菊之丞きくのじょうを、おせんがどれほどおもめているかは、いわずとれているものの、いまでは江戸えどばん女形おやまといわれている菊之丞きくのじょうが、自分じぶんからおせんのもとへ、それも毎晩まいばんかよってようなぞとは、どこからうわさであろう。岡焼半分おかやきはんぶん悪刷わるずりにしても、あんまりはなしちがぎると、千きちおもわずおに七のかお見返みかえした。
んで、そんな不審ふしんそうなかおをするんだ」
んでとおっしゃいますが、あんまり親方おやかたのおきなさることが、せねえもんでござんすから。……」
「おいらのくことがせねえッて。――なにせねえんだ」
浜村屋はまむらやは、おせんのところへなんざ、いのちけてたのんだって、かよっちゃくれませんや」
「おめえ、まだかくしてるな」
「どういたしやして、うそかくしもありゃァしません。みんなほんまのことをもうしげてりやすんで。……」
「千きち
「へ」
「おめえ、二三日前にちまえったとき、おせんがだれはなしをしてえたか、そいつをいってねえ」
はなしでげすって」
「そうだ。おせん一人ひとりじゃなかったろう。たしか相手あいてがいたはずだ」
「おふくろが、隣座敷となりざしきにいたほかにゃ、これぞといって、ひとらしいものァいやァいたしません」
「ふふふ、お七はいなかったか」
「お七ッ」
「どうだ、お七の衣装いしょう浜村屋はまむらやが、ちゃァんと一人ひとりいたはずだ。おめえはそのたじゃねえか」
「ありゃァ親方おやかた。――」
「あれもこれもありゃァしねえ。おいらはそいつをいてるんだ」
人形にんぎょうじゃござんせんか」
「とぼけちゃいけねえ。人間にんげん人形にんぎょう見違みちがえるほどおに七ァまだ耄碌もうろくしちゃァいねえよ。ありゃァ菊之丞きくのじょうちげえあるめえ」
たしかにそうたァ申上もうしあげられねえんで。……」
「おめえ、あがったな。わかった。――もういいからけえンな」
有難ありがとうござんすが、――親方おやかた、あれがもしか浜村屋はまむらやだったら、どうなせえやすんで。……」
「どうもしやァしねえ」
「どうもしねンなら、なにも。――」
きてえか」
「どうか、おかせなすっておくんなせえやし」
浜村屋はまむらやは、役者やくしゃめざァならねえんだ」
んでげすッて」
くちけてもいうじゃァねえぞ。――南御町奉行みなみおまちぶぎょうの、信濃守様しなののかみさま妹御いもうとごのお蓮様れんさまは、浜村屋はまむらや日本にほん一の御贔屓ごひいきなんだ」
「ではあの、壱岐様いきさまからのお出戻でもどりの。――」
っ。余計よけいなこたァいっちゃならねえ」
「へえ」
「さ、けえンねえ」
有難ありがとうござんす」
 千きちは、ふところの小判こばんにしながら、ほっとしてあたまげた。
 えりあたあき狐色きつねいろかがやいていた。

    七

 無理むりやりに、手習てならいッふでにぎらせるようにして、たった二ぎょうふみではあったが、いやおうなしにかされた、ありがたくぞんそうろうかしこの十一文字もじになるままに、一をまんじりともしなかったおせんは、ちゃあじもいつものようにさわやかでなく、まだ小半時こはんときはやい、けたばかりの日差ひざしなか駕籠かごられながら、白壁町しろかべちょう春信はるのぶもとおとずれたのであった。
 弟子でし藤吉とうきちから、おせんがたとのらせをいた春信はるのぶは、たばかりでかおあらっていなかったが、とりあえず画室がしつとおして、磁器じきはだのようにんだおせんのかおを、じっと見詰みつめた。
たいそうはやいの」
「はい。すこしばかりおもあまったことがござんして、お智恵ちえ拝借はいしゃくうかがいました」
智恵ちえせとな。はッはッは。これは面白おもしろい。智恵ちえはわたしよりおまえほう多分たぶん持合もちあわせているはずだがの」
「まァお師匠ししょうさん」
「いや、それァ冗談じょうだんだが、いったいどんなことが持上もちあがったといいなさるんだ」
「あのう、いつもおはなしいたしますあにが、ゆうべひょっこり、かえってたのでござんす」
「なに、にいさんがかえってたと」
「はい」
「よくくおまえはなしでは、千きちとやらいうにいさんは、まる三ねん行方ゆくえれずになっていたとか。――それがまた、どうしてきゅうに。――」
面目次第めんぼくしだいもござんせぬが、にいさんは、おたからしいばっかりに、かえってたのだと、自分じぶんくちからいってでござんす」
かねしいとの。したがまさか、おまえ分限者ぶげんじゃだとはおもうまいがの」
にいさんは、あたしをおとりにして、よその若旦那わかだんなから、おかねをおもうしたのでござんす」
「ほう、んとしてりた」
「いやがるあたしにふみかせ、そのふみを、二十五りょうに、っておもらいもうすのだと、ッたくるようにして、どこぞへせましたが、そのおひとだれあろう、通油町とおりあぶらちょうの、橘屋たちばなや徳太郎とくたろうさんという、むしずがはしるくらい、かないおかたでござんす」
「そんなら千きちさんは、橘屋たちばなやとくさんから、そのかねりて。――」
「はい。今頃いまごろはおおかた、どこぞお大名屋敷だいみょうやしきのおうまやで、きな勝負しょうぶをしてでござんしょうが、ふみ御覧ごらんなすった若旦那わかだんなが、まッことあたしからのおねがいとおおもいなされて、大枚たいまいのおたからをおくださいましたら、これからさきあたしゃ若旦那わかだんなから、どのような難題なんだいをいわれても、かえ言葉ことばがござんせぬ。――お師匠ししょうさん。なんとしたらよいものでござんしょう」
 まったく途方とほうれたのであろう。春信はるのぶかおあげたおせんのまぶたは、つゆふくんだ花弁かべんのようにうるんでえた。
「さァてのう」
 うでをこまねいて、あごをいた春信はるのぶは、しばおのひざうえ見詰みつめていたが、やがておもむろくびった。
とくさんも、ひとこころめないほど馬鹿ばかでもなかろう。どのような文句もんくいたふみらないが、そのふみぽんで、まさか二十五りょう大金たいきんすまいよ」
「それでもにいさんは、ただの二でも三でも、あたしのいたふみさえってけば、おかねみぎからひだりとのことでござんした」
「そりゃ、いつのことだの」
「ゆうべでござんす」
 おせんがもう一かおげたときであった。突然とつぜん障子しょうじそとから、藤吉とうきちこえひくきこえた。
「おせんさん、大変たいへんなことができましたぜ。浜村屋はまむらや太夫たゆうが、急病きゅうびょうだってこった」
 おせんは「はッ」とむねまって、ぐにはくちけなかった。

  ゆめ


    一

 うしとらたつ、――と、きゃくのないあがかまちこしをかけて、ひとり十二じゅん指折ゆびおかぞえていた、仮名床かなどこ亭主ていしゅ伝吉でんきちは、いきなり、いきがつまるくらいあらッぽく、拳固げんこ背中せなかをどやしつけられた。
いてッ。――だ、だれだ」
「だれだじゃねえや、てえへんなことがおっぱじまったんだ。子丑寅ねうしとらもなんにもあったもんじゃねえ。あしたッから、うちの小屋こやかねえかもれねえぜ」
 火事場かじば纏持まといもちのように、いきせきってんでたのは、おな町内ちょうない市村座いちむらざ木戸番きどばん長兵衛ちょうべえであった。
 伝吉でんきちはぎょっとして、もう一長兵衛ちょうべえかお見直みなおした。
「な、なにがあったんだ」
「なにがも、かにがもあるもんじゃねえ、まかり間違まちがや、てえしたさわぎになろうッてんだ。おめえンとこだって、芝居しばいのこぼれをひろってる家業かぎょうなら、万更まんざらかかりあいのねえこともなかろう。こけ秋刀魚さんま勘定かんじょうでもしてやしめえし、ゆびなんぞってるときじゃありゃァしねえぜ」
「いってえ、どうしたッてんだ、ちょうさん」
「おめえ、まだわからねえのか」
かねえことにゃわからねえや」
「なんてのめぐりがわる出来できてるんだ。――浜村屋はまむらや太夫たゆうが、舞台ぶたいおどってたままたおれちゃったんだ」
んだッてそいつァおめえ、本当ほんとうかい」
「おれにゃ、うそ坊主ぼうずあたまァいえねえよ。――かりにもおんなじ芝居しばいものが、こんなことを、ありもしねえのにいってねえ。それこそ簀巻すまきにして、隅田川すみだがわのまんなかへおッまれらァな」
ちょうさん」
「ええびっくりするじゃねえか。きゅうにそんなおおきなこえなんざ、さねえでくんねえ」
なにをいってるんだ。これがおめえ、こそこそばなしにしてられるかい。おいらァだれが好きだといって、浜村屋はまむらや太夫たゆうくれえ、きな役者衆やくしゃしゅうはねえんだよ。げいがよくって愛嬌あいきょうがあって、おまけに自慢気じまんげなんざくすりにしたくもねえッておひとだ。――どこがわるくッて、どうたおれたんだか、さ、そこをおいらに、くわしくはなしてかしてくんねえ」
 どやしつけられた、背中せなかいたさもけろりとわすれて、伝吉でんきちは、元結もとゆいからけて足元あしもとらばったのさえ気付きづかずに夢中むちゅう長兵衛ちょうべえほうひざをすりせた。
丁度ちょうど番目ばんめの、所作事しょさごとまくちけ時分じぶんだとおもいねえ。ってのとおりこの狂言きょうげんは、三五ろうさんの頼朝よりともに、羽左衛門うざえもんさんの梶原かじわら、それに太夫たゆう鷺娘さぎむすめるという、豊前ぶぜんさんの浄瑠璃じょうるりとしっくりった、今度こんど芝居しばいものだろうじゃねえか。はねちかくなったって、おきゃくただ一人ひとりだって、とうなんて料簡りょうけんものァねえやな。舞台ぶたいははずむ、おきゃくはそろって一すんでもさきくびそうとする。いわばかみすきもねえッてとこだった。どうしたはずみか、太夫たゆうおどってたあしが、つまずいたようによろよろっとしたかとおもうと、あッというもなく、舞台ぶたいへまともにしちまったんだ。――客席きゃくせきからは浜村屋はまむらやッというこえが、いしげるようにこえてるかとおもうと、御贔屓ごひいきこえわめこえ、そいつがたちま渦巻うずまきになって、わッわッといってるうちに、道具方どうぐかたかしてまくいたんだが、そりゃおめえ、ここでおれがはなしをしてるようなもんじゃァねえ、芝居中しばいじゅうがひっくりかえるような大騒おおさわぎだ。――そのうちに頭取とうどりける、弟子達でしたちあつまるで、たおれた太夫たゆうを、鷺娘さぎむすめ衣装いしょうのまま楽屋がくやへかつぎんじまったが、まだおめえ、宗庵先生そうあんせんせいのおゆるしがねえから、太夫たゆう楽屋がくやかしたまま、うちへもけえれねえんだ」
「よし、おはな、おいらに羽織はおりしてくんねえ」
 伝吉でんきち突然とつぜんこういって立上たちあがった。

    二

「おまえさん、どこへくんだよ。昼間ぴるまッからお見世みせけてったんじゃ、お客様きゃくさま申訳もうしわけがないじゃないか。太夫たゆうさんとこへお見舞みまいくなら、れてからにしとくれよ。――ようッてば」
 下剃したぞり一人ひとりをおいてられたのでは、家業かぎょうさわるとおもったのであろう。一張羅ちょうら羽織はおりを、渋々しぶしぶ箪笥たんすからしてたおはなは、亭主ていしゅ伝吉でんきちそでをおさえて、無理むりにも引止ひきとめようとかおのぞんだ。
 が、伝吉でんきちは、いきなりきだすようにけんのみわせた。
馬鹿野郎ばかやろうなにをいってやがるんだ。亭主ていしゅのすることに、おんななんぞがくちすこたァねえからだまってんでろ。ほかのことならともかく、太夫たゆう急病きゅうびょうだッてのを、そのままにしといたんじゃ、世間せけん奴等やつらになんていわれるとおもうんだ。仮名床かなどこ伝吉でんきちやつァ、ふだん浜村屋はまむらやきだのはちあたまだのと、口幅くちはばッてえことをいってやがるくせに、なんてざまなんだ。手間てましさに見舞みまいにもかねえしみッたれ野郎やろうだ、とそれこそくちをそろえてわるくいわれるなァ、加賀様かがさまもんよりもよくわかってるぜ。――つまらねえ理屈りくつァいわねえで、はや羽織はおりせねえかい。こうなったり一こくだって、てしばしはねえんだ」
 おはなから羽織はおりッたくった伝吉でんきちは、背筋せすじが二すんがったなりにッかけると、もう一はなりもぎって、喧嘩犬けんかいぬのように、夢中むちゅう見世みせした。
ちねえ、でんさん」
 長兵衛ちょうべえ背後うしろからこえをかけた。
んのようだ」
ようじゃァねえが、おかみさんもああいうンだから、ばんにしたらどうだ。どうせいまったって、えるもんでもねえンだから。――」
「ふん、おめえまで、余計よけいなことはおいてくんねえ。おいらのあしでおいらがあるいてくんだ。どこへこうが勝手かってじゃねえか」
「ほう、おおまかにやァがったな。はなしをしたなァおれなんだぜ。くんなら、せめておれのひげだけでもあたッてッてくんねえ」
ひげけえっててからだ」
かえっててからじゃ、わねえよ」
わなかったら、どこいでもって、やってもらってるがいいやな。――ええもう面倒臭めんどうくせえ、四の五のいってるうちに、れちまわァ」
 前つぼのかた草履ぞうりさきすなって、一目散もくさんした伝吉でんきちは、提灯屋ちょうちんやかどまでると、ふと立停たちどまって小首こくびかしげた。
てよ。こいつァ市村座いちむらざくよりさきに、もっと大事だいじなところがあるぜ。――そうだ。まだおせんちゃんがらねえかもしれねえ。こんなとき人情にんじょうせてやるのが、江戸えどはらせどこだ。よし、ひとつ駕籠かごをはずんで、谷中やなかまでぱしってやろう」
 おおきくうなずいた伝吉でんきちは、おりからとおあわせた辻駕籠つじかごめて、笠森稲荷かさもりいなり境内けいだいまでだと、酒手さかてをはずんでんだ。
いそいでくんねえよ」
「ようがす」
急病人きゅうびょうにんらせにくんだからの」
合点がってんだ」
 返事へんじ如何いかにも調子ちょうしがよかったが、肝腎かんじん駕籠かごは、一こうぱしってはくれなかった。
「ちぇッ。吉原よしわらだといやァ、豪勢ごうせいびゃァがるくせに、谷中やなか病人びょうにんらせだといて、馬鹿ばかにしてやがるんだろう。伝吉でんきちァただの床屋とこやじゃねえんだぜ。当時とうじ江戸えど名高なだけ笠森かさもりおせんの、えりあたるなァおいらよりほかにゃ、ひろ江戸中えどじゅう二人ふたりたねえんだ」
 伝吉でんきち駕籠かごなかはなあたまッこすってのひとり啖呵たんかも、駕籠屋かごやにはすこしのもないらしく、駕籠かごあゆみは、依然いぜんとしてゆるやかだった。

    三

 床屋とこや伝吉でんきちが、笠森かさもり境内けいだいいたその時分じぶん春信はるのぶ住居すまいで、菊之丞きくのじょう急病きゅうびょういたおせんは無我夢中むがむちゅうでおのがいえ敷居しきいまたいでいた。
「おっかさん」
「おやおまえ、どうしたというの、なにかお見世みせにあったのかい」
 いまごろかえってようとは、ゆめにもかんがえていなかったおきしは、あわただしくんでたおせんの姿すがたると、まず、怪我けがでもしたのではないかと、あなのあくほどじッと見詰みつめながら、しずかにかたをかけたが、いつもと様子ようすちがったおせんは、はははらうようにして、そのままたたみざわりもあらく、おのが居間いまんでった。
「どうおしだよ、おせん」
「おっかさん、あたしゃ、どうしよう」
「まァおまえ。……」
きちちゃんが、――あの菊之丞きくのじょうさんが、急病きゅうびょうとのことでござんす」
「なんとえ。太夫たゆうさんが急病きゅうびょうとえ。――」
「あい。――あたしゃもう、きてるそらがござんせぬ」
なにをおいいだえ。そんなよわいことでどうするものか。ひとくちは、どうにでもいえるもの。急病きゅうびょうといったところが、どこまで本当ほんとうのことかわかったものではあるまいし。……」
「いえいえ、うそでもゆめでもござんせぬ。あたしゃたしかに、このみみいてました。これからぐに市村座いちむらざ楽屋がくやへお見舞みまいってとうござんす。おっかさん、そのお七の衣装いしょうがせておくんなさいまし」
「えッ、これをおまえ」
きちちゃんが、去年きょねん芝居しばいんだときだまってとどけておくんなすったお七の衣装いしょう、あたしにろとのなぞでござんしょう」
「それでもこれは。――」
「おっかさん」
 おせんは、部屋へやすみてかけてある人形にんぎょうそばへ、自分じぶんからあゆると、いきなりおびをかけて、まるで芝居しばい衣装着いしょうつけがするように、如何いかにも無造作むぞうさ衣装いしょうがせはじめた。
「おし」
「いいえ、もうんにもいわないでおくんなさい。あたしゃお七とおんなじこころで、太夫たゆういにきとうござんす」
 ばらりといたお七のおびには、夜毎よごときこめた伽羅きゃらかおりがかなしくこもって、しずかに部屋へやなかながれそめた。
「ああ。――」
 おせんはそのおびを、ずッとむねきしめた。
「おせんや」
 おきしやさをふせた。
「あい」
「おまえ、一人ひとりかえ」
「あい」
 衣装いしょうがせて、襦袢じゅばんがせて、屏風びょうぶのかげへ這入はいったおせんは、素速すばやくおのが着物きもの着換きかえた。と、このとき格子戸こうしどそとからっていたように、おとここえおおきくきこえた。
「おせんさん、仮名床かなどこ伝吉でんきちでござんす。浜村屋はまむらや太夫たゆうさんが、急病きゅうびょういて、なによりさきにおらせしてえと、駕籠かごばしてやってめえりやした。笠森様かさもりさまにおいでがねえんでこっちへまわってやした始末しまつ。ちっともはやく、葺屋町ふきやちょうっとくンなせえやし」
親方おやかた、その駕籠かごを、たせといておくんなさい」
合点がってんでげす」
 おせんのこえは、いつになく甲高かんだかかった。

    四

 人目ひとめけるために、わざと蓙巻ござまきふかれた医者駕籠いしゃかごせて、男衆おとこしゅう弟子でし二人ふたりだけが付添つきそったまま、菊之丞きくのじょう不随ふずいからだは、その午近ひるちかくに、石町こくちょう住居すまいはこばれてった。
 が、たださえ人気にんき頂点ちょうてんにある菊之丞きくのじょうが、舞台ぶたいたおれたとのうわさは、たちまひとからひとつたえられて、いま江戸えど隅々すみずみまで、らぬはこけ骨頂こっちょうとさえいわれるまでになっていた。他目はためからは、どうても医者いしゃ見舞みまいとしかおもわれなかった駕籠かご周囲まわりは、いつのにやら五にんにん男女だんじょで、百万遍まんべんのように取囲とりかこんで、えばほど、そのかずしてるばかりであった。
「ちょいとおまえさん、んだってあんなお医者いしゃ駕籠かごに、くッついてあるいているのさ」
「なんだ神田かんだの、明神様みょうじんさまいし鳥居とりいじゃないが、おまえさんもがなさぎるよ。ありゃァただのお医者様おいしゃさま駕籠かごじゃないよ」
「だっておたっつぁん、どうたって。……」
ッ、しずかにおしなね。あンなかにゃ、浜村屋はまむらや太夫たゆうさんがってるんだよ」
浜村屋はまむらや太夫たゆうさん。――」
「そうさ。きのう舞台ぶたいたおれたまま、いまいままで、楽屋がくやてえたんじゃないか。それをおまえさん、どうでもうちかえりたいと駄々だだをこねて、とうとうあんな塩梅式あんばいしきに、お医者いしゃせてかえ途中とちゅうだッてことさ」
「おやまァ、そんならそこを退いとくれよ」
「なぜ」
「あたしゃ駕籠かごそばって、せめて太夫たゆうさんに、一ことでもお見舞みまいがいいたいンだから。……」
なにをいうのさ。太夫たゆう大病人だいびょうにんなんだよ。ちっとだッてさわいだりしちゃァ、からださわらァね。一しょについてくなァいいが、こッからさきへはちゃならねえよ」
「いいから退いとくれッたら」
「おやいたい、つねらなくッてもいいじゃないか」
退かないからさ」
「おや、またつねったね」
 髪結かみゆいのおたつと、豆腐屋とうふやむすめのおかめとが、いいのいけないのとあらそっているうちに、駕籠かごさらおおくの人数にんず取巻とりまかれながら、芳町通よしちょうどおりをひだりへ、おやじばしわたって、うしあゆみよりもゆるやかにすすんでいた。
 菊之丞きくのじょう駕籠かごを一ちょうばかりへだてて、あたかも葬式そうしきでもおくるように悵然ちょうぜんくびれたまま、一足毎あしごとおもあゆみをつづけていたのは、市村座いちむらざ座元ざもと羽左衛門うざえもんをはじめ、坂東ばんどうひころう尾上おのえきくろうあらし三五ろう、それに元服げんぷくしたばかりの尾上松助おのえまつすけなどの一こうであった。
 いずれも編笠あみがさふかかおかくしたまま、をしばたたくのみで、たがいに一ごんはっしなかったが、きゅうなにおもいだしたのであろう。羽左衛門うざえもんは、さびしくまゆをひそめた。
松助まつすけさん」
「はい」
「おまえさんは、折角せっかくだが、ここからかえほうがいいようだの」
「なぜでございます」
不吉ふきつなことをいうようだが、浜村屋はまむらやさんはひょっとすると、あのままいけなくなるかもれないからの」
「ええ滅相めっそうな。左様さようなことがおますかいな」
 そういってをみはったのはあらし三五ろうであった。
「いや、わたしとて、太夫たゆうもとのようになってもらいたいのは山々やまやまだが、いままでの太夫たゆう様子ようすでは、どうもむずかしかろうとおもわれる。縁起えんぎでもないことだが、ゆうべわたしは、上下じょうげが一ぽんのこらず、けてしまったゆめました。なさけないが、所詮しょせん太夫たゆうたすかるまい」
 羽左衛門うざえもんはそういって、さびしそうにまゆをひそめた。

    五

 ゆめからゆめ辿たどりながら、さらゆめ世界せかいをさまよつづけていた菊之丞はまむらやは、ふと、なつ軒端のきばにつりのこされていた風鈴ふうりんおとに、おもけてあたりを見廻みまわした。
 医者いしゃ玄庵げんあんをはじめ、つまのおむら、座元ざもと羽左衛門うざえもん、三五ろうひころう、その人達ひとたちが、ぐるりと枕許まくらもと車座くるまざになって、なにかひそひそとかたっているこえが、とおくに出来事できごとのようにきこえていた。
「おお、あなた。――」
 最初さいしょにおむらが、こえをかけた。が、菊之丞きくのじょうこころには、こえぬしだれであるのか、まだはっきりうつらなかったのであろう。きょろりと一見廻みまわしたきり、ふたたじてしまった。
 玄庵げんあんしずかにった。
「どなたもおしずかに。――」
「はい」
 きゅうみずったようなしずけさにかえった部屋へやなかには、ただこうのかおりが、ひくっているばかりであった。
 玄庵げんあんは、夜着よぎしたれて、かるく菊之丞きくのじょう手首てくびつかんだままくびをひねった。
先生せんせい如何いかがでございます」
みゃくちからたようじゃが。……」
「それはまァ、うれしゅうござんす」
「だが御安心ごあんしん御無用ごむようじゃ。いつ何時なんどき変化へんかがあるかわからぬからのう」
「はい」
「お見舞みまい方々かたがたも、つぎにお引取ひきとりなすってはどうじゃの、御病人ごびょうにんは、出来できるだけ安静あんせいに、やすませてあげるとよいとおもうでの」
「はいはい」と羽左衛門うざえもんおおきくうなずいた。「如何いかにももっともでございます。――では、ここはおかみさんにおねがもうして、つぎさがっていることにいたしましょう」
「それがようござる。およばずながら愚老ぐろう看護かんごして以上いじょう手落ておちはいたさぬかんがえじゃ」
何分共なにぶんともにおねが申上もうしあげます」
 一どう足音あしおとしのばせて、ふすまけたてにもくばりながら、つぎった。
 しばし、鉄瓶てつびんのたぎるおとのみが、部屋へやのしじまにあかるくのこされた。
御内儀ごないぎ
 玄庵げんあんこえは、ひくおもかった。
「はい」
「おどくでござるが、太夫たゆうはもはや、一ときいのちじゃ」
「えッ」
「いやしずかに。――ただいまみゃくちからたようじゃと申上もうしあげたが、じつ方々かたがた手前てまえをかねたまでのこと。心臓しんぞうも、かすかにぬくみをたもっているだけのことじゃ」
「それではもはや」
 おむらの、いままで辛抱しんぼう辛抱しんぼうかさねていたからは、たまのようななみだが、ほほつたわってあふちた。
 やがて、香煙こうえんゆるがせて、おそおそふすまあいだからくび差出さしだしたのは、弟子でし菊彌きくやだった。
「お客様きゃくさまでございます」
「どなたが」
谷中やなかのおせんさま
「えッ、あの笠森かさもりの。……」
「はい」
太夫たゆう御病気ごびょうきゆえ、おにかかれぬと、おことわりしておくれ」
 するとその刹那せつな、ぱっといて菊之丞きくのじょうの、ほそこえするどきこえた。
「いいよ。いいから、ここへおとおし。――」

    六

 初霜はつしもけて、昨夜さくやえんげられた白菊しらぎくであろう、下葉したはから次第しだいれてゆくはな周囲しゅういを、しずかにっている一ぴきあぶを、ねこしきりにってじゃれるかげが、障子しょうじにくっきりうつっていた。
 そのあぶ羽音はおとを、くともなしにきながら、菊之丞きくのじょう枕頭ちんとうして、じっと寝顔ねがお見入みいっていたのは、お七の着付きつけもあでやかなおせんだった。
 むらさき香煙こうえんが、ひともとすなおに立昇たちのぼって、南向みなみむきの座敷ざしきは、硝子張ギヤマンばりなかのようにあたたかい。
 七年目ねんめった、たった二人ふたり世界せかいほとんど一のうちに生気せいきうしなってしまった菊之丞きくのじょうの、なかばひらかれたからは、いとのようななみだが一すじほほつたわって、まくららしていた。
「おせんちゃん」
 菊之丞きくのじょうこえは、わずかにかれるくらいひくかった。
「あい」
「よくてくれた」
太夫たゆうさん」
太夫たゆうさんなぞとばずに、やっぱりむかしとおりり、きちちゃんとんでおくれな」
「そんなら、きちちゃん。――」
「はい」
「あたしゃ、いとうござんした」
「あたしもいたかった。――こういったら、おまえさんはさだめし、こころにもないことをいうと、おおもいだろうが、決してうそでもなけりゃ、お世辞せじでもない。――ってのとおり、あたしゃどうやら人気にんきて、世間様せけんさまからなんのかのと、いわれているけれど、こころはやっぱり十年前ねんまえもおなじこと。義理ぎりでもらった女房にょうぼうより、浮気うわきでかこったおんなより、しんからおもうのはおまえうえあついにつけ、さむいにつけ、せつないおもいは、いつも谷中やなかそらかよってはいたが、いまではおまえ人気娘にんきむすめ、うっかりあたしがたずねたら、あらぬ浮名うきなてられて、さぞ迷惑めいわくでもあろうかと、きょうがまで、辛抱しんぼうしてましたのさ」
勿体もったいない、太夫たゆうさん。――」
「いいえ、勿体もったいないより、まないのはあたしのこころ役者家業やくしゃかぎょうつらさは、どれほどいやだとおもっても、御贔屓ごひいきからのおむかえよ。お座敷ざしきよといわれれば、三に一出向でむいてって、笑顔えがおのひとつもせねばならず、そのたびごとに、ああいやだ、こんな家業かぎょうはきょうはそうか、明日あすやめようかとおもうものの、さて未練みれん舞台ぶたい。このままいてしまったら、折角せっかくきたえたおのがげいを、こそぎてなければならぬかなしさ。それゆえ、あきむしにもおとる、はかない月日つきひごしてたが、……おせんちゃん。それもこれも、いまはもうきのうのゆめえるばかり。所詮しょせんえないものと、あきらめていた矢先やさき、ほんとうによくてくれた。あたしゃこのままんでも、おものこすことはない。――」
「もし、きちちゃん」
「おお」
「しっかりしておくんなさい。はずかしながら、おまえがなくてはこのなかに、だれおもってきようやら、おまえ一人ひとりを、むねにひそめてたあたし。あたしにねというのなら、たったいまでも、身代みがわりにもなりましょう。――のうきちちゃん。たとえ一まくらかわさずとも、あたしゃおまえの女房にょうぼうだぞえ。これ、もうしきちちゃん。返事へんじのないのは、不承知ふしょうちかえ」
 一ひざずつ乗出のりだしたおせんは、ほほがすれすれになるまでに、菊之丞きくのじょうかおのぞんだが、やがてそのは、仏像ぶつぞうのようにすわってった。
きちちゃん。――太夫たゆうさん。――」
「お、せ、ん――」
「ああ、もし」
 おせんは、次第しだいくちびるせて菊之丞きくのじょうかおうえに、なみだともしてしまった。
 隣座敷となりざしきから、にわか人々ひとびと気配けはいがした。

    七

 二代目だいめ瀬川菊之丞せがわきくのじょうほうぜられたのは、そのがたちかくだった。江戸えど民衆みんしゅうは、去年きょねん吉原よしわら大火たいかよりも、さらおおきな失望しつぼうふちしずんだが、なかにも手中しゅちゅうたまうばわれたような、かなしみのどんぞこんだのは、菊之丞きくのじょうでなければもあけない各大名かくだいみょう旗本屋敷はたもとやしき女中達じょちゅうたちだった。
 ことに、このらせをけて、天地てんちくつがえったほど驚愕きょうがくおぼえたのは、南町奉行みなみまちぶぎょう本多信濃守ほんだしなののかみいもうとれんであろう。おりから夕餉ゆうげぜんむかおうとしていたおれんは、突然とつぜんにしたはし取落とりおとすと、そのまま狂気きょうきしたように、ふらふらッと立上たちあがって、跣足はだしのまま庭先にわさきへとりてった。
 二三にん侍女じじょが、ぐさまそのあとった。
「もし、お嬢様じょうさま。おあぶのうござります」
なにをするのじゃ。はなしや」
「どちらへおいであそばします」
れたことじゃ。これからぐに、浜村屋はまむらやもとへまいる」
「これはまあ、滅相めっそうなことをおっしゃいます」
なに滅相めっそうなことじゃ、わらわがまいって、浜村屋はまむらや病気びょうきなおしてらせるのじゃ。――邪間じゃまだてせずと、そこ退きゃ」
「なりませぬ」
「ええもう、退きゃというに、退かぬか」
 手荒てあら退けられた一人ひとり侍女じじょは、ころびながらも、おれんすそしかおさえた。
「お嬢様じょうさま。おをおしずあそばしまして。……」
「いらぬことじゃ。はなせ」
「いいえおはなしいたしませぬ。今頃いまごろましあそばしましては、お身分みぶんかかわりまする。もしまた、たっておましあそばしますなら、一おうわたくしどもから御家老ごかろうへ、そのよしつたえいたしませねば。……」
「くどいわ。はなせというに、はなさぬか」
 夢中むちゅうはらったおれん片袖かたそでは、稲穂いなほのように侍女じじょのこって、もなくつちってゆく白臘はくろうあしが、夕闇ゆうやみなかにほのかにしろかった。
「もし、お嬢様じょうさま。――」
 いけまわって、築山つきやますそはしるおれん姿すがたは、きつねのようにはやかった。
「それ、むこうから。――」
「あちらへおまわあそばしました」
 男気おとこけのない奥庭おくにわに、次第しだいかずした女中達じょちゅうたちは、おれん姿すがた見失みうしなっては一大事だいじおもったのであろう。おいわかきもおしなべて、にわ木戸きどへとみだした。
 が、必死ひっしけたにわ木戸きどには、もはやおれん姿すがたられなかった。
「お嬢様じょうさま。――」
「おあそばせ」
 しかも、ねんに一も、けたことなどのないおれんは、庭木戸にわきどたものの、すであしるまでにつかてて、くちなか菊之丞きくのじょうびながら、いまはもはやえられないあゆみを、いずくへとのあてもなしに、無理むりからさきさきへとはこんでいた。
「――浜村屋はまむらやちや。わらわをいて、そなたばかりがどこへく。――そりゃこえぬぞ。わらわも一しょじゃ。そなたのきやるところなら、地獄じごくはてへなりと、いといはせぬ。れてきゃ。はよれてきゃ」
 二十一で坂部壱岐守さかべいきのかみとついで八年目ねんめもどってた。すでに三十のではあったが、十四五のころからはやくも本多小町ほんだこまちうたわれたおれんは、まだようやくく二十四五にしかえず、いずれかといえば妖艶ようえんなかたちの、情熱じょうねつえたえて、夕闇ゆうやみなかおともなくあるいてゆくさまは、ぞッとするほどすごかった。

    八

 いずこの大名だいみょう旗本はたもと屋敷やしきに、如何いかなるさわぎが持上もちあがっていようとも、それらのことは、まったくべつ世界せかい出来事できごとのように、菊之丞きくのじょううちは、しずかにしめやかであった。
 座元ざもとをはじめ、あらゆる芝居道しばいどう人達ひとたちはいうまでもなく、贔屓ひいき人々ひとびと出入でいりのたれかれと、百をえる人数にんずうは、仕切しきりなしにせて、さしも豪奢ごうしゃほこ住居すまいところせまきまでの混雑こんざつていたが、しかも菊之丞きくのじょうの冷たいむくろを安置あんちした八じょうには、妻女さいじょのおむらさえれないおせんがただ一人ひとりくびれたまま、黙然もくねんひざうえ見詰みつめていた。
 ふと、おせんのかたむすんだくちびるから、ひくい、かすかなこえれた。
きちちゃん。おかみさんや、ほかの人達ひとたちにおねがいして、あたしがたった一人ひとり、おまえ枕許まくらもとのこしてもらったのは、十年前ねんまえの、飯事遊ままごとあそびが、わすれられないからでござんす。――みんなして、近所きんじょ飛鳥山あすかやまへ、お花見はなみかけたあのとき、いつものとおり、あたしとおまえとは夫婦ふうふでござんした。幔幕まんまくりめぐらした、どこぞの御大家ごたいけなかへ、まよんだあたしたちは、それおまえおぼえてであろ。にあるような綺麗きれいな、お嬢様じょうさまなにやかやと御馳走ごちそう頂戴ちょうだいした挙句あげく、お化粧直けしょうなおしのまくすみで、あたしはおまえに、おまえはあたしに、たがいにお化粧けしょうをしあって、この子達こたち、もうねんったなら、きっとれするようにうつくしくなるであろうと、お世辞せじにほめていただいた、あのゆめのようなのことが、いまだにはっきりのこって……きちちゃん。あたしゃ今こそおまえに、精根せいこんをつくしたお化粧けしょうを、してあげとうござんす。――紅白粉べにおしろいは、いえとき袱紗ふくさつつんでってました。あたしのつかいふるしでござんすが、この紅筆べにふでは、おまえ王子おうじときに、あたしにおくんなすった。今では形見かたみ役者衆やくしゃしゅうの、おまえのおるように出来できますまいけれど、辛抱しんぼうしておくんなさい。せめてもの、あたしのこころづくしでござんす」
 きたまくらに、しずかにじている菊之丞きくのじょうの、おんなにもみまほしいまでにうつくしくんだかおは、磁器じきはだのようにつめたかった。
 白粉刷毛おしろいばけったおせんのは、名匠めいしょう毛描けがきでもするように、そのうえ丹念たんねんになぞってった。
 くちみみ。――真白まっしろりつぶされたそれらのかたちが、もなく濡手拭ぬれてぬぐいで、おもむろにふききよめられると、やがてくちびるには真紅しんくのべにがさされて、菊之丞きくのじょうかおいまにもものをいうかとあやしまれるまでに、生々いきいきよみがえった。
 おせんは、じッとそのかお見入みいった。
きちちゃん。――もし、きちちゃん」
 次第しだいにおせんのこえは、たかかった。べばこたえるかとおもわれる口許くちもとは、こころなしか、さびしくふるえてえた。
「――あたしゃ、これからさきも、きっとおまえと一しょに、きてくでござんしょう。おまえもどうぞ、たましいだけはいつまでも、あたしのそばにいておくんなさい。あたしゃ千にん万人まんにんひとからいいられても、ぬまでうごきはいたしませぬ。――もし、きちちゃん。……」
 ぽたりとちたおせんのなみだは、菊之丞きくのじょうほほをぬらした。
「これはまァ折角せっかく化粧けしょうしたおかおへ。……」
 おせんはもう一白粉刷毛おしろいばけった。と、つぎからきこえてたのは、妻女さいじょのおむらのこえだった。
「おせんさん」
「は、はい。――」
「お焼香しょうこうのお客様きゃくさまがおえでござんす。よろしかったら、おとおもうします」
「はい、どうぞ。――」
 あわてて枕許まくらもとからがったおせんのに、夜叉やしゃごとくにうつったのは、本多信濃守ほんだしなののかみいもうとれんげるばかりに厚化粧あつげしょうをした姿すがただった。

 おせん (おわり)





底本:「大衆文学代表作全集 19 邦枝完二集」河出書房
   1955(昭和30)年9月初版発行
   1955(昭和30)年11月30日8刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:伊藤時也
校正:松永正敏
2007年4月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について