尊攘戦略史

服部之総





 スローガン「尊王攘夷」はなにも最初から討幕を内容としたものではなかった。反対に、本来のそれは、幕権のためにする名実ともに「天下副将軍」的なスローガンとして生れたものである。
 近世史上の尊王論そのものが、やはりそうで、徳川時代の尊王論の先駆者たち蕃山ばんざん闇斎あんさい素行そこう、そして水戸学の始祖光圀みつくにらが、時を同じうして四代五代将軍時代に輩出したのも偶然ではない。幕府の基礎はすでに定まって、いわば荘厳工事だけが残された任務だった。特に五代綱吉つなよしから八代吉宗よしむねにいたる間は、将軍の自発性にもとづく京幕融和は間然するところがなく、尊王と幕府安泰とは背馳するどころでなく見えた。蕃山らがはじめ大藩に厚遇されて晩年不遇におちたのも、むしろ幕儒林家の嫉視によるので、それも彼の学説が大藩に迎えられたためでなくたまたま当年の浪人に――丸橋忠弥まるばしちゅうやがそう自白したと伝えられる――信奉されたという理由から奏功したといわれている。
 九代十代にわたるいわゆる田沼時代は、都市の商業および高利貸資本が台所口で武家支配を抑えるようになった背後の時代的転換を――同時に、内地商業の国民的統一への軌道を――告示した時代だったが、京幕融和もすたり、ようやくラディカルな尊王思想が、反批判として定立された。竹内式部しきぶ山県大弐やまがただいに。カムフラージュされた形で賀茂真淵かもまぶち本居宣長もとおりのりなが以下の国学派がそれである。しかし、幕末政局を貫流した中心スローガン「尊王攘夷」は、これら国学派尊王論に由来しないで、水戸斉昭なりあきに主唱された。
 ゆくすえの幕政倒壊を見越して、その場合にも一門だけは残るようにとの東照神君の神謀から水戸だけは堂々尊王の家筋と定められた、などという説は、まっ正直に家康を神様扱いにする筋から出たものというほかはなかろう。実際は幕権大磐石時代に淵源する水戸学の尊王と徳川家祖法の鎖国とが、時局にたいする副将軍的念慮から結合されたにすぎない。ただ斉昭は幕権に基づいて水戸家尊王論を運用する代りに、水戸家尊王論によって幕策を旧軌に戻そうと試みただけである。とまれそのため天保以降彼の手で「京都手入」が創始された。
 後年将軍家継嗣問題を挾んで水幕の反目最もはなはだしかった。しかも他方幕閣は和親さえあるに今度は通商の決定を迫られているという安政五年正月に、その直前の水藩建白によって下ったといわれる朝廷からの幕吏への示命書には、はっきりと幕府祖法が真向からふりかざされている。
「当度の儀は寛政以来鎖国の厳制を改革し諸蛮夷通信交易等を始め、各国条約取極められ候ほどの儀につき、皇国内の儀とも違ひ云々」。
 そのときの水戸建白書は文政二年打払令(一八二五年)そっくりの口ふんをみなぎらせたものだった。しょせん水戸斉昭の尊王攘夷は天保薪水令(一八四二年)和親条約(一八五三年)と、鎖国厳制をゆるめては蹂躙じゅうりんし去った幕閣にたいする幕府祖法の怒りであった。
 だが、中期以降の国内経済の統一的傾向に加えて、いまや開国が経済のより高度な国民的統一を必然化したとき、畢竟ひっきょう地方分権に基礎をおく幕府的統一――水戸派尊攘の提唱はその主観いかんにかかわらず、新たな革命的内容を転生しなければならなかった。


 ところで、幕権に資すべきはずの副将軍的スローガン尊王攘夷は、たちまち、幕政を改革して大藩の権力を伸張せんとする雄藩ブロックの戦略語として襲用された。
 斉昭の尊王攘夷唱導は、たまたまその子慶喜よしのぶの将軍職立候補と時を同じうしてなされた。ペリー来当時の当首相阿部勢州あべせいしゅうは「攘夷」と継嗣問題を交換することのできた協調政治家だった。だがこの交換は幕府にとって大額の赤字になった。京都に奏上して「政道奏聞に不及およばざ」る祖法を覆えしたこと、同じく各藩論を従前通り無視する代りに在府諸侯に開鎖意見を徴したこと、そして何よりもそれによりて水戸と薩摩以下の雄藩ブロックの形成に資したことなど。
 水戸の尊王攘夷が雄藩の尊王攘夷となるのは、慶喜擁立ブロックが独自化して雄藩ブロックとなったためである。この転化を助けた契機に協調政治家阿部伊勢守の死による対立候補紀州慶福よしとみ擁立派井伊いい大老の首相就任があり、基底に横たわるものにたんに、幕政参与権上の雄藩の不満だけでなくもっと根底的な幕府統制組織内の矛盾――深く当時の経済に根ざした幕府および諸藩の財政的矛盾があった。
 それはともかく、井伊内閣による通商条約締結とともに朝廷の攘夷はもはや祈願たることをやめて、まず前出の示命(安政五年正月)となり、ついで条約不許可勅令(三月)、さらに八月八日の水藩以下への「密勅」となった。すでに密勅そのものの範囲が水戸継嗣ブロック以上に出て雄藩おしなべて十三藩にわたり、その内容もたんなる「攘夷」だけでなく「内憂」に言及され、内政改革の手段として「群議評定」「公武合体」が強調されている。これにたいする安政の大獄、翌年大獄始末を終えたか終えぬに桜田門さくらだもんの変、やがて水戸斉昭その人も死んで、雄藩ブロックは充分に独自化した。
 文久二年六月島津しまづ三郎の兵力に護られた勅使一行は、安政詔勅の実行として左の三条中一条を奉承すべき勅命を伝えた。
将軍上洛、諸藩と共に攘夷を議するか
没海五大藩を任じて夷狄いてき掃攘に当らせるか
慶喜を将軍後見職に越前春岳えちぜんしゅんがくを政治総裁に任ずるか
 幕府は第三条を奉承したから、一応水戸ブロックの幕政参与は実現したわけだが、その第一の政治は、参覲さんきん交代制緩和以下の幕政改革による藩権伸張策だった。
 改良派雄藩に相続された場合のスローガン尊王攘夷は徹頭徹尾改良主義的な性質のものである。攘夷は水戸斉昭の場合旧体制持続を目的とするものであったが、いまは幕府統制から藩を解放するための手段であった。雄藩ブロックの盟主島津三郎一行は使命を果しての帰途生麦なまむぎに英人を斬って攘夷実行の先頭をきったが、この生麦事件の秘密は、それが慶喜・春岳後見下の幕府による参覲制改革の以前にあったことで解けはしないか。ブラックの『ヤング・ジャパン』にもこの事件が攘夷そのものを目的としないで幕府威嚇の手段になるという見解が見られるが、事実当時の最も過激な攘夷論は藩士および浪士団の奉ずるところであったのにたいして、三郎自身はこの時の東下直前に朝廷に向って、「浪人」との接触を断つことを進言している。
 攘夷が大藩主にとって真実の目的となりえないことは、すでに薩藩が久しく琉球を通じての密貿易によりて外国貿易の利は知りすぎるほど知っていたことからも想像されよう。文久三年八月十八日の『横浜新聞紙』(おそらく『ジャパン・ヘラルド』のことだろう)には興味ある記事の一節がある。当時江戸政府は生糸きいと貿易にひどい干渉を加えていた。――
「予推察するに仙台加賀その他勢盛なる大名はかくの如く糸の運輸故障せられ、彼等の収納減少するを忍びて捨ておくべきにあらず。また大君(将軍)は已に糸を産せざる南方の大名と不和を起したれば、今また此方の勢ある大名の言を用ひざる事を得ざるべし」(『夷匪入港録』)。
 薩藩はなるほど生糸は産しなかったが、南北戦争による米綿途絶のため一八六二(文久二)―六五年の間は年々莫大な木綿輸出国だった。だが外国貿易にたずさわって諸藩が利益を見れば見るほど、それだけ諸藩と幕府の間には不断に増大してゆくヒラキがあった。「日本における排外運動の三原因は、大君タイクン政府の圧迫に対する大名の敵意、外人との交通が江戸の権威実力を増大するおそれ、及び大名の国民的プライドだ」と、文久二年十一月の日付のある函館英国領事の書簡(パスク・スミス氏『日本及び台湾における西夷』)は記しているが、現実の問題として、莫大な輸出入関税はいっさい幕府の懐を肥やしても(1)、直轄領以外に一カ所の貿易港市をもたされない大名は、幕府に上前をハネられずには一でも貿易の恩沢にはあずかれなかったのだ。
 ともかく参覲交代を三年一度に緩めること、在府期間の減少、妻子帰国の許可、江戸諸家臣の減少等々の一大改革は、それによって藩力を養って攘夷にそなえるという名目で実現された。江戸藩邸費に費用の大半を失い、高利貸に依頼してなお不足な部分を藩士の俸給米減制――いわゆる半知はんち――を採用してまでやりくりしてきた諸藩財政は、この改革によっていくらか救われたには違いないが、藩制改革が行われた話もなく、藩士ことに下格者の生活は、風雲に際会して活動の分野がひらけたという一事をのぞいては、少しもよくなることではなかった。


 文久二年といえば貿易開始以来――安政四年の日蘭条約による長崎における自由貿易の開始から数えると六年目、三港貿易の開始から四年目である。武士階級の攘夷運動にもかかわらず、貿易額は年々飛躍的に増大している。長崎横浜両港の貿易総額(2)は――
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│  年次     │  輸出     │  輸入     │  総計     │
├─────────┼─────────┼─────────┼─────────│
│         │       ドル│       ドル│       ドル│
│一八五九(安政六)│一、二〇〇、〇〇〇│  七五〇、〇〇〇│一、九五〇、〇〇〇│
│一八六〇(万延元)│四、五五四、〇〇〇│一、六四五、七〇〇│六、一九九、七〇〇│
│一八六一(文久元)│三、四七二、五〇〇│二、〇八二、〇〇〇│五、五五四、五〇〇│
│一八六三(文久三)│六、〇五九、〇〇〇│二、一九七、〇〇〇│八、二五六、〇〇〇│
└─────────┴─────────┴─────────┴─────────┘
 外国貿易が国内経済に及ぼした破壊的作用は、たとえば当時の物価を代表した米価についてみても、万延元年には従前のいかなる年の記録をも破り、文久に入ってのちはもう比較にもならぬ高値に上った。物価高騰はたんに生糸、茶以下の大量的輸出によったばかりでなく、一個の輸入品も介在しない直接の金銅貨輸出――金銅貨と銀との内外比価の差異によって生じた大量の貨幣貿易――にもよった。開港後の内地経済の変化およびそれにたいする諸階級の関係についてここに詳しく分析することはできないが、非生産的な都市俸給生活者としての武士ことに軽格藩士の生活が、いかに脅やかされたかはいうまでもない。実にこの飢えたる寄食者――下層武士身分が、幕末開国による最初のその最大の犠牲であった。
 資本主義的世界市場への日本開放は、いかなる途をたどるにせよ、いずれは、封建制のいっさいの織物の破棄を予定した。したがって武士身分の反抗も予定された事実であれば、またその敗北も必然の数である。大小がカノン砲に勝てないかぎり、彼らの排外運動は、規模のうえで成功すればするほどそれだけ惨めな敗北にあう。シナの阿片戦争と日本の攘夷派の分散的な攘夷実践とは、量の差にすぎない、がその量の差が質の差を結果した。日本の封建領主は幕府も藩主も関税の利益を壟断ろうだんするかあるいは自ら貿易企業者の資格を帯びることによって利益した。ただ封建領主相互間の一定体制――幕府封建制――の解体が開国とともにいっそう促進されたため開鎖に関する京幕の全国的対立が招致されて、阿片戦争の清朝のような統一的排外に立到らなかったものの、それにもかかわらず各領主下の軽格藩士は、全国を通じて排外主義への道を、早速に運命づけられる状態におかれていた。
 水戸の祖法護持的な、大藩主の改良主義的なスローガン「尊王攘夷」は、領主の旗幟きしいかんに関せず、各藩士の間で生命がけの実を結んだ。全国のあらゆる藩内に尊攘派と佐幕派が、改良主義的尊攘派と徹底的尊攘派が時局紛糾につれてそれだけ鋭く対立した。支配的大領主たる幕府と被支配領主たる諸藩とが対立したように、藩内上層と下層藩士とが対立の両極となった。
 ところで、開港数年の貿易は藩士生活難を激化したばかりでなく、経済の国民的統一の必然性をも激化した。藩士に奉戴された尊王攘夷のスローガンはそれ自体のうちに最大の矛盾をはらまざるをえない。経済における国民的統一の政治的要望として「尊王」に新時代的意義が体化される一方には、藩士の階級的本質に根ざした「攘夷」は、経済に関するかぎりいよいよ反動的な性格を帯びるものとなるからだ。
 それはともかく藩士尊攘派にとっては、時局を藩士のラディカリティの極限からさらに進める場合にのみ、藩論掌握の機会と彼ら自身の進路が見出された。改良主義的大藩主の活動が極限に達した文久二年が、同時にまた討幕スローガンとしての尊王攘夷を明確にする年であった。


 文久二年八月以後の討幕派としての長藩登場――寺田屋てらだや犠牲者の恩典処分、将軍上洛等の勅書を奉じた長州侯の東下――をもって、はるばる関ヶ原旧怨に帰する論者は、五カ月前の同じ江戸城で同じ長州侯が当時の改良主義政策中の、極限をなした永井雅楽ながいうたの尊王開国策をもって公武周旋を公式に依頼されている図を見落したのでもあろう。
 すでに文久元年から二年へかけて、藩士尊攘派の独自的結成は水戸で水長藩士の丙辰へいしん丸会盟、関西ではもっと大仕掛に薩――寺田屋で藩主改良派の手で殺された――長、土、肥、筑前ちくぜん筑後ちくごの諸藩士および浪士、堂上軽格公卿らの間に実現されていた。水戸浪士はもはや水戸斉昭ではない。主幕藩的公武合体運動の頭目たる首相安藤対州たいしゅうを襲撃した彼の坂下門さかしたもん事件が、藩士尊攘派の幕末史へのデビューである。桂小五郎かつらこごろう以下の長藩フラクションは、島津三郎の兵卒東下を機会に、雄藩改良派ブロック中で争われた薩長両藩主の支配競争を利用もし、永井雅楽にたいするテロまで準備して、藩論を獲得。うまうま三月の長州侯を八月の長州侯に変えることができた。
 かくして、改良派に供奉された勅使におくれることわずか五カ月で、藩士団に供奉された三条、姉小路あねのこうじ勅使一行が、攘夷公布を正面から求めて江戸に下った。このときから翌文久三年八・一五のクーデターまで京都における藩士尊攘派のヘゲモニーは微動もしなかった。
 それまで幕府にたいしてもまた藩内でも非合法的な組織であった藩士尊攘派――いわゆる志士団は、やがて公然と藩士といわず浪士といわず学習院「出仕」を命ぜられ、いわゆる学習院党を形成して、討幕的尊攘策の根源地をなした。文久三年三月、梟首きょうしゅされた尊氏たかうじ父子の木像に迎えられて将軍が上洛してのちは、政治の舞台は完全に京都に移され、一種の二重政府状態のままで、幕府は散々な目にあっている。
 著名な出来事を列挙しただけでも、攘夷祈願のための加茂かも行幸(三月)を皮切りに石清水いわしみず行幸(四月)、そのとき五月十日攘夷期限の詔勅。その五月十日から長藩の外艦砲撃。外艦だけでなく改良党の盟主薩藩の商船も幕府の船も「夷形」というので撃たれている。江戸方面でも外人襲撃事件が前年来ようやく組織的計画的になって長藩士の金沢外人襲撃計画(二年八月)、浪人大挙して、横浜を襲撃するという宣伝(十一月)などの後ついに御殿山ごてんやま英公使館焼打(十二月)となって、英幕関係は急速に悪化した。すなわち翌年二月以来艦隊を江戸湾に示威して、改めて生麦事件償金要求を含む幕府にたいする最後通牒が発せられ(五月)、幕府は江戸に戒厳令を布くとともに横浜の日本商人および外人に雇われた日本人を退去させた。「三日目にはこの撤去も全く終り、町の糧食補給も止ってしまう有様になりそうだった」(ア・ルサン『幕末海戦記』)。
 京都では幕府政治総裁松平春岳しゅんがくは――この前年できたての改良派ブロックの幕府統御官は――宿を焼かれて国許へ逃亡し、将軍も帰東したいのだが、償金支払処置をつけてあぶなく英幕危機を脱した小笠原図書頭ずしょのかみが率兵して大阪に急行するまでは、帰東することができない有様だった。
 姉小路卿暗殺事件に言掛いいがかりをつけられて、小クーデター的に禁裡護衛を解かれた改良派の盟主薩藩の武力は――藩主はその三月、攘夷軽挙の不可を入説して、もとより容れられないので、すぐに引返していた――七月に入って御国許で英艦と戦争していた。
 学習院党では討幕挙兵の準備いっさいが成った。その機会のための大和行幸が八月十二日になって、二十七日鸞輿らんよ出発の予定と発表された。そして、関東説にくみせば天誅すべしと、軟論公卿の表門へ貼紙があるころ、さきの小笠原図書頭の淀駐兵以来ひそかに醸成されつつあったクーデターの気運も熟して、中川宮なかがわのみやの密参内と薩会淀の連合兵力による「八月十八日の変」を見た。学習院党と長藩の兵力はことごとく京都から退けられた。


 幕末史中攘夷運動が最大に高まったのはこの年文久三年である。これまでのところは国外勢力をただ量のうえで――すなわち年々飛躍的に増大する貿易とその作用のうえから観察すればよかった。しかし、いったん排外的対外戦争の危険が現実化せんとしたこの年以降の幕末史は、もはや欧米列強をその質において――政治的に観察することなしには解かれえない。
 方法的にいえばこの種の観察は、幕末史中、最初まず開国問題に関して分析され、つぎにこの年の極東の、および世界の、国際情勢に基づいて分析されねばならない。ここでは簡単なスケッチにとどめる。
 日本を開いたのは米国だったが、横浜の外人植民地は「上海をモデルにして」作られ、商業のうえでも武力のうえでも英国が断然リードしていた。一八五九年から六八年までに横浜にできた外国人商館八十五のうち五十一まで英国(アメリカ九、フランス七、プロシャ七)。長崎においても大体同様だった。攘夷事件によって国交の危機が迫った文久三年(一八六三)の輸出入額についてみても、総輸入額の七八%は英国旗の下に(米八%、仏一%)総輸入額では八一%が英商人の手で(米七%、仏二%)行われている。これと、世界そして東洋における英国の勢力とを思い合わすとき、国旗のいかんを弁ぜずいどまれた「攘夷」がいかなる反作用を予想しなければならなかったか、また、英国の対日策がいかに幕末政変の過程に重要な役割を演じなければならなかったかが、容易に想像できるであろう。
 駐日英国公使オールコックは本国政府の対日策と日本の実情に基づいた、なかんずく長崎領事館方面から申告される政策との矛盾にくるしんだふうに見える。
 元来英国は、文化年間のフェートン号事件以降オランダの反英的忠告も手伝って、開港前すでに幕府に好感はもたれていなかった。巧みに英支事情を捕えて日本開国を先取した米国からも同様な耳こすりがあって、英国はますます幕府から袖にされた。幕府海軍は蘭・米に陸軍は仏に教師は米にといったふうで、明治以前幕府に受容れられた英国の助力としては灯台建設のための沿海測量一件だけ、それも測量船がほかに求められなかったためだった。
 加えて、幕府の貿易干渉も、貿易額の八〇%を占める英商から公領事館に訴えられる一番大きな不平だった。幕府の貿易干渉は自由貿易にたいする無理解というよりもむしろ貿易の利益をできるだけ幕府で独占するための努力に出たものである。
 文久三年の藩士尊攘派の組織的排外運動とそれに押された幕英間の危機については前に述べたとおりである。英国に内乱干渉の意志があればこのときほどいい機会はなかった。そして現に、長崎英国領事モリソンの名において、明瞭にその意志が公使オールコックに向って申告されているのだ。
 英幕の危機が極度に迫っている時期の六月四日および二一日(ただし太陽暦)付の文書では、幕府タイクンは完全に見切りをつけられ、ミカドの政府を承認すべしという意味の重大な提案がなされている。「大君タイクン政府はこの地(長崎)では純粋な市政事項を除けば絶対に無力である。内地交通が既に遮断されているのではないかとさえ疑われる。」と報じ、江戸間近の横浜で幕府の勢力を示すことの危険を暗示したうえ、攘夷策のいっさいが強力な京都の方角から来ているのだから「ミカドにおもむいてミカドとの間に改訂条約を結ばない限り、絶対に満足な対日関係が生じ得ないことは明かである。当面要求されているものはかかる手段であると思われる。そして全外国列強がこの目的のために連合しさえしたら、かつて日英間にその表示を見た待望この上もない“新時代”はついに明けるであろうし、日本みずからは我々によって内乱の禍悪から免かれるであろう。」と結んでいる(パスク氏前掲)。
 従前「教にかかわったミカド」(『仏人モンブラン新説書』)すなわちヨーロッパにおけるローマ法王のごとく思惟され、安政条約が「帝国大日本大君タイクン」としての将軍との間に締結されたとき初度の英公使パークスによって「虚器を擁せる一個世伝の君主すなわち禁裡あり、この主は命令を出さず、またまつりごとを施さず」と報告された――尾佐竹猛おさたけたけき氏『幕末外交物語』――朝廷は、「新時代」の国民的統一の現実の中心として、ここにはじめてブルジョア中のブルジョアたる英国の一エージェントによって、明確に予見されたのである。
 オールコックはその翌年召還されて日本を去るに際し、大政維新の近きを本国に報告したというが、このときはモリソンの説を採用しえなかった。本国政府は翌一八六四年になってさえ依然幕府を支持すべしという指令を発しているのだ。尾佐竹氏の『幕末外交物語』によると生麦事件に関して英国議会では開戦は算盤そろばんに合わないといった趣旨の演説がなされている。そして鹿児島戦争も、本国の訓令によって、中途半端のままでやめられてしまった。こうしてとかく駐日公使の態度を非決定的なものにさせた本国の政策は、日本貿易における英国の大きな分前を思い合わせるとき、阿片戦争以来のシナでの苦い経験に基づいた平和的市場保全主義によるものであろうと、私は考える。
 しかし、その翌年になってめざましく展開されてゆく国外勢力の行動方針は、文久三年中にすでに決定されていたということができる。
 一八三四年以来極東における英国のおそるべき商敵となった米国が、一八六一年来の内乱で弱められて、しっかりと幕府に食下った米公使もさすが手の出しようがなくなったころから、今度はフランスが非常な勢で日本問題に進出してきた。一八六三年の日本輸出入総額のわずか二%しか占めてないフランスが英日関係危しとの報によってすぐさま(六三年太陽暦二月)軍艦を日本に向って出動させたのは、焼のまわったボナパルト政権のわるあがきによったのである。ナポレオン三世は政権を維持するためどこかで対外的勝利を獲得しなければならない。アメリカ内乱が起るとすぐさまメキシコに宣戦(一八六二年)したが、その手で日本もみこまれたのである。メキシコも失敗、日本も失敗、そして明治四年に何もかも失敗して、パリ・コンミューンだ。しかし日本では、函館戦争まで頑張ったほどあって、文久三年ジョレス提督の軍艦到着とともに、英幕危機を巧みに利用しつつ、米公使をおしのけてたちまち幕府を掌中にまるめてしまった。ルサンによると、英国の第一回対幕最後通牒――英公使はじつに二度まで最後通牒を延期したのだ!――のとき、もうフランスは仲介に立っている。そして幕府の交渉委員竹本甲斐守かいのかみにたいして、仏英協同して「大君政府に援助を与え、政府をしてやむを得ず条約を破棄せしむるように強請している一派に対して、政府が勝利を得るように支持してもいると告げた。」再度の最後通牒が決裂すると、一方幕府にたいしては今度は独力で浪人やそれに味方する大名にたいして、幕府自身の力が及ばぬ場合にはフランス提督の協力を求めるということを約束し、他方英国にたいしては横浜の守備を一手に引受けると宣言してさらに上海から海防艦と、アフリカ兵二百五十名を呼寄せた。そして辛うじて償金が支払われることになったときも、幕府はフランスにとりなしを頼み入れるというふうでちょっとの間にものにしてしまった。


 藩士尊攘派が追われたのちの京都へ、あくる文久四年(元治げんじ元)正月将軍は再び上洛し、右大臣従一位の叙位をうけ、朝廷に十五万俵を献じ「公武一和顕然」たるものだった。二月の綸旨りんじに、
豈料あたはからんや藤原実美さねとみ等、鄙野匹夫ひやひっぷの暴説を信用し、宇内うだいの形勢を察せず国家の危殆きたいを思はず、ちんが命をためて軽率に攘夷の令を布告し、みだりに討幕のいくさおこさんとし、長門宰相の暴臣のごとき、その主を愚弄ぐろうし、故なきに夷舶いはくを砲撃し、幕使を暗殺し、私に実美等を本国に誘引す云々」。
「攘夷」の代りにより穏やかな合法的攘夷――前年末出発した鎖港談判使節の成功が期待されることとなり、改めて政治いっさい幕府に御委任ただし大政大議は奏聞のこと、と定められて、前年の二重政府的情勢もこれで収まるかに見えた。
 他方八月十八日の変以後元治元年十一月の長州服罪までの一年有余のあいだは、藩士尊攘派にとっては異状な試練期であった。全国「尊攘を励むの士」に広くげきを飛ばして三田尻招賢閣みたじりしょうけんかくを根拠とした再起運動の一から十までがことごとく失敗に帰していった。八月から四年四月までのあいだに大和やまと生野いくの筑波つくばの挙兵、六月の長兵大挙上洛と蛤門はまぐりもんの敗戦、ただちに征長詔勅、そして征長軍が進発しないうち四国連合艦隊に攻められて大敗、ついで十一月の征長にたいする謝罪による講和、同時に長藩の「俗論」化――これで、文久二年以来三年間長藩一藩を支配し根拠とした藩士尊攘派は、一人も余さず「浪人」となってしまった。
 この年の国外列強の唯一の行動は下関しものせき戦争である。「全外人列強の連合行動」ではあったが、一年前の長崎英領事モリソンの案とは逆に蛤門の敗戦で落目になったきっかけの激派長州を討ったのだ。
 馬関ばかん砲撃の七日前、さきの遣外鎖港使節一行が大急ぎで帰国した。パリでナポレオン三世政府との間に締結された仏幕秘密条約が手に握られていた。幕府がこれを受容さえすれば批准使をまたず即刻効力を発するはずになっていたから、長州砲撃は四国連合艦隊によらず仏幕連合によって行われたのだ。この露骨な内政干渉の手段は結局幕府の受容するところとならなかった。四国連盟の長州討伐案は、八・一八以後の鎖港交渉主義をなお過大視した英公使オールコックの首唱になったが、英本国政府の中止命令が到達しない間に、仏公使ロッシュと幕府との微妙な了解もあって、決行された。


 英国対日策の転換は、馬関戦争後におけるオールコック公使の召還と新公使パークスの着任(慶応元年五月)をもって明らかにされた。
 安政条約の勅許、下関償金に代えて兵庫・大阪・新潟の海港開市を繰上げることおよび現行関税率の低下の三条を、たんに将軍に要求したのみでなく将軍が京都にいるのを好機として連合艦隊を兵庫に進めて要求したのは、ことごとく新公使パークスの首唱と手腕になるものであった。三年前のモリソン案は修飾されてはいるが、しかしその本質において実現されたのである。
 ついでながら、本誌三月号木村毅きむらたけし氏「伊藤博文伝補遺」中に、馬関戦争直前、「英国策論」の著者アーネスト・サトウが伊藤俊介しゅんすけに逢ったとき、この「ミカド条約」論を伊藤から暗示されたと記してある。もちろんこれは木村氏に引用されているサトウ自身の回想記にそう記してあるのだから、この事実が間違っているというのではないが、同時にサトウが三年前のモリソンの同じようなミカド条約説とその根拠とを知らなかったろうとは、いえなかろう。木村氏には無関係だが、伊藤俊介の力で英国が長州に引張られたのか、その逆なのかは、偉人史観論者にとっては大問題だ。
 長藩はこの年正月高杉晋作たかすぎしんさくの挙兵によってふたたび藩士尊攘派の手に帰した。しかし、もはや彼らは、尊王討幕党ではあったが尊王攘夷党ではなかった。
 薩長同盟の成立は慶応二年正月京都においてできたといわれる。いずれにせよ、連合艦隊兵庫入港(元年九月)、条約勅許(十月)以後のことである。九月初旬の日付のある長崎英領事から長崎家老にあてた手紙には、馬関戦争で、破壊され、条約によって再建を禁じられている砲台の再武装問題について秘密の了解が与えられている。再武装の了解を求めた四国公使宛の文書が長州から英公使に依頼されたのを、他の三国公使宛のものを返してやって、「かかる要求がなされたという事実すら彼等に知らされてはならない。この点、貴侯の利益のために、しかあらんことを望む」(パスク氏前掲)とある。長崎英国領事はこの前後からすでに薩長土三藩の「サムライ」中に「友人」を持っている。
 英薩接近はその三年も前、鹿児島戦争直後から緊密になって、慶応二年にはパークスの鹿児島訪問まで行われている。
 これらの事実は、もとより、薩長同盟その他が討幕派志士の行動を通じて達成されたという事実を、少しもまげるものではない。しかしながらそれは、慶応元年以後再起した尊攘志士派が、その藩士もしくは浪士としての階級的本質から不可分な運命にあった「攘夷」を、揚棄した秘密を解くためには不可欠の鍵である。さらに、改良派ブロックの盟主であり、寺田屋事件以後は藩士尊攘派にたいしては寸毫すんごうも容れるところのなかった薩藩が、最初の親英藩となるや、文久以来犬猿もただならぬ長薩拮抗の歴史に邪魔されながらも、第一征長軍には事実上の調停者となり再生長藩の最初の同盟者となった点も、同じ視角から見直して見る必要があろう。
 ところで、船隊のマヌーヴァーによる条約勅許以下の諸要求は文久四年春以来の朝幕一和に一時暗影を投じたが、まもなく恢復して条約は勅許され、兵庫開港問題だけが勅許を見ないで小波紋を残したが、ともかくこの年をもって国内勢力のあらゆる指導部から、「攘夷」は事実上消滅したのである。
 攘夷揚棄とともに再組織された藩士討幕派は、はじめてここに建設者としての資格を獲得した。彼ら討幕派指導部は藩士から出てもはやたんなる藩士ではなかった。もとより彼らは国内ブルジョアジーでもなく、また国外ブルジョアジーことに英国のエージェントでもなく、ひたすらなる勤王の同志であった。しかしながら、彼らのスローガン「尊王攘夷」に鋭く内包された矛盾がいまや揚棄された以上、彼らの勤王行動は封建的分権主義を打倒して、資本主義新日本のための不可欠な前提たる国民的統一国家の建設に向って軌道づけられたのである。
 一八六〇―七〇年の時期はあたかも自由競争の最高発展段階に相当した。その資本主義史において当時他国に二十年を先んじていた英国といえども、帝国主義の段階にはまだ入っておらず、一八四〇―六〇年の英国自由主義黄金時代――そのブルジョア政治家が植民政策の敵として立ち植民地の解放をさえ主張した時代をうけており、それにつぐ植民地大奪取戦時代を世界はまだ経験していなかった(レーニン『帝国主義論』参照)。落目になったフランス・ボナパルチズムの日本代表ロッシュと英公使パークスの腕くらべは、後者の局外中立策が立派に公使団をリードした事実をもって審判された。
 討幕派に率いられた武力としての藩士大衆は、しょせん封建制の全織物と共に破棄される運命にあったのが、この年以来、用が済み次第破棄される運命として修正されたまでである。
(1)「千八百六十二年第七月より千八百六十三年第七月まで生糸の輸出二万六千苞にしてその価一千万元なり。その内大君の利益は五十万元すなわち一週ごとに一万元ばかりなり。一週間この利益なしといえども御老中その不都合を覚ゆることなきを得べしや」(『夷匡入港録』)。
(2) パスク氏前掲。六二年の長崎の数字が欠除しているため、ここには総額は示せないが、横浜一港では六一年よりも六三年よりも増加しいる。





底本:「黒船前後・志士と経済他十六篇」岩波文庫、岩波書店
   1981(昭和56)年7月16日第1刷発行
底本の親本:「服部之総全集」福村出版
   1973(昭和48)〜1975(昭和50)年
初出:「中央公論」
   1931(昭和6)年7月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※初出時の表題は「尊王攘夷戦略史」です。
※(1)〜(2)は注釈番号です。底本では、直前の文字の右横に、ルビのように付いています。
入力:ゆうき
校正:小林繁雄
2010年5月30日作成
2011年4月4日修正
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