触覚について

宮城道雄




 私は盲人であるので、ものの形を目で見るかわりに、手の感覚で探って見るわけである。そして、手の先も始終ものを触って見る練習が積めば、だんだん指先の感じが鋭敏になっていくものである。
 盲人の用いる点字というものは、人も知っている通りに、紙を針の先で突いて、その出た方の点のならべ方で読むのである。すなわち、六つの点のならび方と、点と点との間隔で、いろいろの字になるのである。
 その点字を、普通の練習しない人が撫でてみても、何が何だかわからないが、いつもやっていると、指先で撫でただけで読むことが出来るようになる。
 指先をつかうことがだんだん慣れてくると、テーブルに手を触れただけでも、どこにきずがあるか、また、汚点があるかもわかるようになる。そして織物のようなものでも色はわからないが、縞の荒さなどは、どんなぐあいかということはわかる。私は変わったものを、目で見るかわりに、撫でてみるのが楽しみなのである。
 私はよく、春先になると、庭に下りていろいろの花とか、植木の葉とか、木の枝の曲りぐあいや根の張りぐあい、また下草の芽生えの柔かいのなどを、撫でてみることがある。それは私には、目明きの人が目で見るのと同じように、のどかで楽しい気持がするのである。そして、時々庭を歩いてそれらを探っては、日増しに、いろいろの草木が伸びて行くのを知るわけである。庭石など手ざわりでどういう石かということもわかる。
 また時々、木の根の面白いのに夢中になって、這うようにして探っていて、上のことに気がつかず、うっかり立ち上った拍子に大きな木の枝に頭をぶっつけて、びっくりすることもある。私は自分の家に限らず、野原や山に行っても、よくその辺に生えている草とか木が好きで、いじってみては楽しむのである。
 私は草木のほかに、彫刻とか飾り道具とか、茶器のような器ものも、さわってみるのが好きである。それでよく子供の人形の顔などをいじり過ぎて、黒く汚したために、子供に叱られることがある。
 彫刻で思い出したが、ある時、私の友人に胸像を作ってもらったことがあった。それが出来上がった時に、私は彫刻の顔を撫でて自分の顔と比べてみたが、どうも自分に似ていないような気がした。非常に凸凹しているので、自分の顔はこんなにおかしい顔かなあと思った。それで、ある時、別の彫刻家に会った時に、その話をしたら、その彫刻家が、彫刻はやはり目で見ていいように光線の応用というものがあるために、目で見たのと手で撫でたのとはどうしても感じが違う。しかし、その方の感覚だけで面白い彫刻も出来るといった。
 それからまた、私たちには別に盲人用の時計があるが、私はわざと普通の懐中時計を用いている。それは指先の感覚で長針と短針の距離を計れば、一分も違わないようにわかる。これも長年の練習の結果によるもので、非常に便利なことは、暗がりでも時間が知れるのである。
 私が若い時、知らぬ人の前で時計を探っていると、珍しそうにしてどうして時間がわかるかといって、私の手許てもとを覗き込むので、私はそれに答えるのが面倒なので、見られないようにふところの中で、時を探ることを練習した。すると、また、友人等が、懐の中に手を入れて何をごそごそやっているのかと、尋ねられたことがあった。
 私は何によらず珍しいものは何でも手で触ってみることにしている。衣類のようなものも、いいものを触った感じはやはりよい。動物も可愛いということを感じるのは、その形を撫でてみて毛の手ざわりなどで、その感じが起こるのである。私は犬も好きであるが、特に猫が好きである。あの柔かい毛並を撫でたり、顔を探ったりするのであるが、あまり撫で廻すので、猫の方でも気味が悪くなるのか、逃げて行ってしまう。
 私が友人に動物を手で撫でる話をしたら、友人は、動物を撫でてみるのも結構だが、虎やライオンだったら困るな、といわれたことがあった。
 私は大抵たいていの動物には親しみを感じるが、ただ虫類だけは、どうも気味が悪い。同じ虫のうちでも、せみとかかぶと虫のような、からだのかたいものは気味が悪くないが、蛇とか毛虫とか蛙のような、柔かいものはいちばん苦手である。ことに怖いのは蜘蛛くもで、夜中に便所に行った時、蜘蛛の巣が顔に触ったら、私はどうしても、それから先に一足も歩けないのである。前にも述べたように、庭へ出て木を探るのも、春のうちはまだ平気で出来るが、夏になると、虫が怖いので、それが出来ない。もし探る場合は、よく用心してあまり深入りはしないようにしている。
 そういうふうであるから、ちょっと紙切れのようなものが頸筋くびすじにはいっても、虫がはいったと感じたら、じっとしていられない。私が子供の時、蜘蛛が嫌いなのを友達が知っていて紙差こよりを作って、「そら蜘蛛だ」といって、私のからだにそれを触れさして脅かすと、私があわてて逃げるのを面白がっていたくらいである。
 同じものを手に触れた場合でも、日によっては、気持のぐあいで、気持の悪い時と、それほどでもない時とがある。
 ある夏、台湾へ旅行した時、穿山甲せんざんこう剥製はくせいにしたのが形も面白く、珍しいので、もらってきたことがあった。そして、もらった当時は、夜中でも作曲をして、途切れた時は、ちょっと撫でたりしては楽しんでいた。ところがある夜中、いつもの通りに 穿山甲を撫でていたら、どういうものか急に気味が悪くなって、それからは、その気持が強くなり、どうしても触ることが出来なくなった。しかし、そうかと思うと、またしばらくして、何でもなくなったが、やはり、前ほど平気な気持ではなく、何となく薄気味悪いのである。
 話は別になるが、私は夢を見るのに、悪夢というのは大抵の場合、蜘蛛が背中を這ったとか、毛虫がはいって来たとか、あるいは重いものが胸の上に載ったとかいうのである。また、非常に何か怖いと思う虫が手の平にのっていて、それを、いくら払いけようとしても、どうしてもとれない夢を見る。そんな夢は私の怖い夢である。
 私は手やからだに触れるものだけでも、楽しいものや怖いものがあるものだと思うと、非常に面白く感じられる。そして、感覚というものについて、いろいろ考えてみると、なかなか興味のあるものである。





底本:「日本近代随筆選 1出会いの時〔全3冊〕」岩波文庫、岩波書店
   2016(平成28)年4月15日第1刷発行
底本の親本:「定本宮城道雄全集 上巻」宮城道雄全集刊行委員会
   1972(昭和47)年
初出:「水の変態」宝文館
   1956(昭和31)年
入力:法川利夫
校正:岡村和彦
2017年4月3日作成
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