競馬

犬田卯




 行って来るぜ……なんて大っぴらに出かけるには、彼はあまりに女房に気兼ねし過ぎていた。それでなくてさえ昨今とがり切っている彼女の神経は、競馬があると聞いただけでもう警戒の眼を光らしていたのである。
「今日は山だ!」
 仙太は根株掘りの大きな唐鍬を肩にして逃げるように家を出た。台所で何かごとごとやっていた妻の眼がじろりと後方からそそがれたような気がして、彼は襟首のあたりがぞっとした。彼はそれを打ち消すように、えへんと一つ、咳払いをやらかしてそれから懐中へ手をやった。そこには五円紙幣が一枚、ぼろ屑のようにくしゃくしゃになって突っ込まっていた。
 一度家の方を振返って見て、女房の姿が見えないのを確かめると彼はその紙幣をくしゃくしゃのまま引出して煙草入のかますへ押し込んだ。貧すれば貪する! それは実際だった。地道にやっていたのでは一円の小遣銭をかせぎ出すことさえ不可能な村人達は、何か幸運な、天から降って来るような「儲け仕事」をことに最近熱烈に要求した。
 馬券を買うなどということもその一つの現れだった。世間がこんなに不景気にならない前は、そんなことはばくち打ちのすることであり、有閑人の遊びごとであり、唾棄すべき破廉恥事に過ぎなかった。が、一枚の馬券がたった五分間で、五円も十円もかせいでくれる! そいつを考えるとなあ君、馬鹿々々しくって百姓仕事なんか……と捨て鉢気を起して、俺だって人間だ、馬券買って悪かろうはずはあるめえ!
 みごとに五円札を二倍にも五倍にもして帰って来る者があったのである。そうした事実が――これこそまさに、求めに求めていた幸運、天から降るのか地から湧くのか知れないが、とにかく小判が転がっているようなものだった――そいつが疫病やみのように村人の魂へとっついてしまった。
 競馬は春秋二季、あたかも農閑期に、いくらかの現なまが――たといそれは租税やなんかのためには不足だったにしても――村人のふところへ宿かりした時分にあったのだ。仙太が今、女房には内密で持ち出した五円札も、実はそうした月末の納税にぜひ必要なものだった。
――十倍にして返さい! 畜生、けちけちしやがるねえ!
 彼は村を出端れて野の向うに町のいらかがきらきらと春の日光を受けてかがやいているのを眺めると、気が大きくなってしまった。この日の競馬を知らせる煙火がぽんぽんと世間の不景気なんか大空の彼方へ吹っ飛ばしてしまいそうにコバルト色の朝空にはじけた。
 仙太は、でも神妙に山裾の開墾地へ行って午前中だけ働いた。あとで女房から証跡を発見されてはいけないと無論考えたのである。が、十一時、十二時近くになって、眼の前の道をぞろぞろと人々が押しかけはじめるのを見ると、もうたまらなかった。お祭の朝の小学生のように彼の胸は嵐にふくらんでしまった。
 野良着の裾を下ろした彼は、そのまま宙を飛んだ。町の郊外にある競馬場は、もう人で埋っていた。すでに何回かの勝負があったらしく、喊声や、落胆の溜め息や、傍観者の笑いさざめきなどが、ごっちゃになってそこから渦巻き昇っていた。
 彼は人混みを分けて柵に近づいた。煙草入のかますから、前夜隣家から借りて切り抜いて取っておいた新聞の一片――そこには無論、昨日の勝負が掲載されてあった――を引き出して、彼は熱心に眺め入った。もう組合せは相当興味のある部分へ入っていた。彼は出場するそれぞれの馬の名前、騎手の名前は殆んど知っていた。そしてどの馬がもっとも成績がよいか、どの騎手が最近出来が悪いか、などというかなり細かいところまで知っていた。
 しかし今日は新しい馬もだいぶ現れていた。それは穴をねらっての主催者側の作戦であることは分り切ったことだが、それが図に当って、場内は刻一刻熱狂してきつつあった。
 仙太もその空気に捲き込まれ、しばらくの間は夢中になって勝負を眺めていた。が、そのうちにいくらか冷静になった。ひょっと気がつくと、彼は勝負ごとに、自分が勝つと思った馬がいつも勝っていることに気がついた。――今日は運がいいぞ、畜生! 悔しさがもうむらむらと頭をもたげてきた。何故今の今、その勝負の馬券を買っていなかったのかと、そんなことが後悔されはじめた。彼は再び人混みを分けて馬券売場の方へ近づいて行った。見るとそこには勝負ごとに、熱狂し狂乱して、押し合い、へし合いしている人間の黒山、潮の差し引きがあった。勝った人間の顔は汗と埃りにまみれながらも太陽の如くかがやいていた。負けた人間のそれは瀕死の病人のように蒼ざめて、秋の木の葉のようにぶるぶるとふるえていた。
 仙太は例の五円のぼろ札を手づかみにして突っ立っていたが、容易に売場へ近づくことが出来ないとともに、一方にはその負けた人間の顔が、自分自身の顔でもあるかのように怖ろしくなってきていた。
 ――そうだ、もしひょっとして……たとい運のいい日であったにせよ、一度や二度は負けないとも限らない。負けてこの五円すってしまったなら?……
 女房の尖った顔……否、それよりも納税! 彼はその五円がどんな五円だかよく知っていた。
 仙太はぎょっとして再びかますの中へそれを押し込み、地獄へ落ちそうになって危く助かった人間のように、柵へしがみついた。
 その時、次の勝負が始まろうとしていた。五頭の競走馬がスタートの線に並行しようとして、尻や胴を押し合っていた。見ると、その中の一頭は彼の知っている、そして彼のもっとも贔屓ひいきにしているタカムラという隣村の地主の持馬だった。
 相手の馬もたいてい知っていた。ただ一頭新しいやつが加わっている。それは見るからに逞しそうな、つやつやした、ようやく五歳になるかならないくらいの、油断もすきもならないといったようなやつだった。仙太はプログラムを見た。外国まがいの長々しい読みづらい字がそこに書いてあった。しかし仙太は「なにくそ!」という気がした。絶対的にタカムラのものさ! 畜生、生命いのち張ってもいいや、彼はふらふらと柵をはなれて馬券売場へとんで行った。が、何ということだ! もう売場は閉まっていた。彼は汗びっしょりで、握りしめた五円札を拳ごと突き上げ、誰か一枚でもいいから譲ってくれないか! と叫ぼうとした。
 が、そのとき、合図とともに五頭の馬はスタートを切っていた。喊声は地をゆるがして起った。半周にしてすでにはやく他の三頭の馬は二三メートルも引き離され、タカムラとテルミドールとのせり合いになった。
 ――タカムラ!
 ――テルミドール!
 声援は嵐のようだった。タカムラはテルミドールを抜いた。と思ううちに半馬身ほど抜かれ、さらにずっと抜かれるかと見るまに、反対に半馬身先に立つ――と思うと……まるでシーソーゲーム。――だが、最後の三周目だった、タカムラはとうとう断乎として相手を抜き、疾風の如くゴールイン!
 仙太は狂めく嵐の中に、夢中になって何度か躍り上り、涙を流してどなりわめいた。付近にいた何人かの人の足を踏んで、手ひどく抗議されなかったら、彼はもっともっと狂っていたことだったろう。
 やがて彼は我にかえった。現金引換所では十円札や百円札が広告のビラのように引掴まれた。
 ――ああ俺は? 俺は?
 仙太はぽかんとしてしまった。一万円ばかり吹っ飛ばしてしまったような気がした。その時、もしもしと言って肩を叩くものがある。誰かと思って振りかえると、それは知った顔ではなく、どこかの――おそらく東京からでもやって来た立派な紳士だった。
 ――失礼だが、この金時計買ってくれまいかね。僕はね、今日運が悪くて五百円ばかりすっちまったんだ。東京へかえる汽車賃も、子供らへ買って行く土産代も、何もかも、本当に一文なしになっちまったんだ。実に弱っちまった……。
 紳士はつくづくと悲観した。
 ――これ、君、鎖とも五円でいいよ。じつは買う時は八十円したんだがね。天賞堂の保険つきだから確かなもんだ。つぶしにしたって三十円――いや五十円はある。なにしろいま地金の騰貴している時だからね。この町の時計屋へ持って行ったって三十円は欠けまいと思うよ。君、僕を助けると思って取ってくれないかね。
 紳士はどっしりした金時計と鎖とを仙太へ突きつけた。びっくりして見つめた仙太の眼は、夕陽にかがやくその山吹色のためにくらくらと眩めいた。
 ――弱ったな、僕はこの汽車で帰らないともう汽車がないんだ。あと十分しかないんだが……じつに弱っちまったな。
 仙太は五円のぼろ札を出して金時計を受取った。タカムラに張りそこなったやつを、この金時計――降って湧いたような――で取りかえそうとふと考えたのだ。それにまた立派な紳士が五百円もすってしまって家へかえれない! さぞかし彼の家にも、自分の女房のような口喧しい細君が、神経を尖らして待っているのであろう。
 紳士は五円を受取ると丁寧に礼を言って、どこかへ去って行った。
 仙太は重い金時計を懐中へ押し込んで、再び柵のところへやって来たが、しかしもう馬の興味は起って来なかった。タカムラが、ひいきの馬が、みごとに勝ったんだ! それでよかった。これからまだ少し時間もあるから、この金時計を塚田屋へ持って行って金にかえよう。
 塚田屋というのは彼の知り合いの時計屋である。最近地金の騰貴につけ込んで、入歯でも金時計でも万年筆でも、金と名のつくものなら何でも買入れていることを彼は知っていたのだ。
 塚田屋の店先へ行ってみると、四五人の百姓と一人の巡査がいた。巡査は今の今、誰かに呼ばれて、競馬場の方からやって来たものらしく、自転車を下りたばかりだった。
 仙太は傍らからのぞき込んだ。塚田屋は時計師らしく前額の禿げ上ったてらてらした頭をうつむけて、丹念に一個の金時計を眺めていた。
 ――てんぷらもてんぷら、ひどいてんぷらだ。
 それから巡査の姿を見つけて妙に笑いながら、
 ――どうぞ! と言って席をつくった。
 てんぷら! と聞くとそこにいた百姓達の顔がさっといちどきに蒼ざめた。瞬間、口をきくものがなかった。が、やがて彼らはいっせいにわめき出した。
 ――ぺてんに引っかかった。
 ――畜生! ひでえことしやがる。
 ――叩き殺してしまえ! 野郎!
 今や、仙太にも解った。五百円すっちまって帰りの汽車賃がない、金時計を買ってくれの手に、みんな引っかかったのだった。仙太はその瞬間、ぐらぐらと大地が揺れ出し、それがぐるぐると廻りはじめたように感じた。さきの紳士の生白い顔がぱっと現れた。彼は店先の柱につかまって両眼をぐりぐりといたが、次ぎの瞬間猛獣のように咆哮した。「よし、畜生、取っつかめえて叩っ殺してやる。どこまででも畜生、東京まででも追ってんから……」





底本:「犬田卯短編集二」筑波書林
   1982(昭和57)年2月15日第1刷発行
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2007年12月8日作成
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