転校

平山千代子




 誰にとつてもいやなのは転校である。
 私は二年になる時に仙台から東京へ、東京で小学校を卒業して、女子大の附属へ入り、その年の九月に名古屋へ、翌年の九月に又、女子大へと、四度、いやな思ひをした。中でも最もいやな思ひ出を残したのが、女学校に這入つてからの二つ、名古屋へと、東京へとである。小学校のときの転校は、それ程、苦痛を感じないうちに、すぐ馴れてしまふが、女学校へ這入つてのちの転校はずい分つらかつた。東京から名古屋への時は殊に、折角、勉強してやつと這入り、やうやく学校にも、お友達にもなれ始めたばかりの時だつたから、とても/\いやだつた。
 最初から私は反対で、「一人だけでも、おばあ様のところに残る」と頑張つてきかなかつたのだが、九月も間際になつて、どうしても転校しなければならなくなつてしまつた。
「長年の宿望だつた女子大、やつと三月しかたゝないのに、むざ/″\名古屋の学校なんかへ……」私は泣き泣き転校準備の勉強をやつた。
 愛知県一を訪ねたのが八月の末だつたらう。転校届けを出して、一週間とたゝぬうちだつた。しかし、女子大の方からの書類が間に合はなかつたので、試験をうけさせてくれず、私は「女子大へかへれるか」と思つたが、官舎の木俣さんのお世話や何かで、S校へ入つてしまつた。
 あの場合、危うく宿なしの憂き目をみるところだつたのだから、木俣さん、その他には充分感謝すべきであり、私もよく校風をのみ込んで、それに順応して行くべきであつたのだが、私は、ちつともうれしくなかつた。
 もと/\好きで入つた女子大と、いや/\押し込められたS校では、比べものにならない。云ふこと、なすことのすべてが気に喰はず、癪の種だ。だからS校のよさなどわかる訳がない。私は、只、むやみやたらと女子大をこひしがつた。転校する者に共通の悪い癖は、在校中はさほどにも思はないのに、転校すると、前の学校はいやによくみえる。そして又、新しい学校のアラばかり目につく、それである。
 私は、その甚だしきものだつた。たうとう学校へ行くのが苦痛になつた。皆のいふ言葉がわからないのと、乱暴なのは、私の学校嫌ひをます/\あふり立てる。その上に、自治精神を尊ぶ女子大から、強制……といふのかしら……従来の意味での、良妻賢母型にはめ込まうとするやうなS校への転校なんだから、私はクサつてしまつた。
「何々すべし、何々すべからず」学校の生活がすべて、この定規によつてあてはめられてゐる。頭の先から、爪の先までが、すべて規則でつくられてゐる。規則、規則、規則の一点張り……少くとも私にはさう見えた。
 髪は三年以上のものはむすぶこと、上衣は長さ何センチ、スカートのひだはいくつ、靴下、カバンは黒、何んだ、かんだと微に入り細を穿つてゐる。規律、それは大切だ。多くの人が学校といふ一つの団体をなして、すゝまうとするのには秩序といふものが大事だ。規則も、とりしまりの為には必要だ。だが、それだけでいゝだらうか。
 個々の創意を全然無視してもいゝだらうか。規則で全体を統一するのはよいが、規則が或る一部の違反者をとりしまる為にのみ、ふえて行くやうだと、規則は人の個性や創意を無視する、いはゆる、しばりすぎになる。
「悪くならない様に/\」と注意しすぎては、規則のレベルは段々低下して行くものだ。全体を統一するといふ意味で、性善説にあつた規則のレベルは、悪い者を出さぬために性悪説へと下つてしまふ。
「人間の性は悪なるもの……」として、最悪の場合まで用意しておけば、安全ではあらうが、進歩はないだらうと思ふ。最低の所へ行けば止まるかもしれぬが、それでは伸びようとする熱意、少しでも向上しようとする活力、といふか、生気といふか、さういふものの伸びる余地がない。
 たとへて云ふなら「ハンケチは白の木綿たるべし……」といふ。皆が白をもつてゐれば、あんな規則は生れないですむ。だのに中の何人かゞいつまでも赤いハンケチを止めないから規則としてつくらねばならない。
 すべての規則は、さういふ為におこなはれてゐる。私は、ヤケクソだつた上に生意気心をおこしたから、こんなにハツキリと――ではないが、S校のかういふ点に不満を抱いてゐた。学課は虎の巻をうつして行つて、お時間中黙つてきいて、試験の前には棒暗記さへすればいゝ。S校のやり方はさういふ式だつた。
 私は前にも云ふ様に生意気で、悪いと思つたら、後先の分別もなく反対するやうな子だつたから、この定期試験などには極度に憤慨した。一人で憤慨してみるが、大勢如何ともなしがたく、(実際バカらしい、こんなの……)と思ひつゝ長い廊下を、往つたり来たりして、天井を睨みながら、大声で暗誦をやつたものだ。暗誦はやさしいから好きだつたのだが、かうして何から何まで暗誦してゐるうちに、その中味が実に空虚な味気ないものだといふことを知つた。
 女子大では、大好きだつた英語や、歴史や、地理も大きらひになつてしまつた。
 学校も勉強も全くつまらない。殊に代数がいやだつた。代数そのものは好きだつたが、先生がいやなんだ。
 私が転校試験を受けたときに、理科の口頭試問をやつた先生――そして、会ふや否や
「ヘツヘツヘ。あなたが局長さんのお嬢さんですか、さうですか、ヘツヘ、どちらの学校……エ? 女子大の附属、さうですか、どうりでヘツヘツヘ……学校は東京に限りますな」とつまらぬことばかりしやべる――先生なのだ。先生は先生として敬ふのが生徒の道ではあるけれど、この先生だけはあふのもゾツとするほどいやだつた。時間中、前にもきいたのに、「どこまでやりました? オゝこゝまで……やつぱり東京はいゝですからね」と皆がきいてるのに、そんなことを云つてみたり、わざ/\傍へきて
「どこかわからん所はないか」の「教へてやる」のと云ひ、皆にノートを出させて、私のだけ「おゝ、よく出来ました」と、ほめたり……そして、皆にいふのはいつも「いゝところの家の子でないと、どうしてもダメだ」とか、「いゝ家の子は家庭教師をつけるから、よく出来る」とか、そんなことばつかりだ。あんないやしい、先生らしくない先生には、始めてお目にかかつた。思ひ出してもゾツとする。
 何もかもがつまらなくなつて仕様がなくなつた。憤慨しながら私もヤケクソで形式的な勉強をする様になつて来た。今、名古屋での足あとをふり返ると、私自身が冷汗が出るほどいゝ加減だつたことを思ふ。私は、従来のつめこみ式、及び形式的な勉強がほんとに、どんなに実のない、つまらないものであるかを知つた。しかも、それは只わかつたといふだけにすぎなかつた。只、悪い! 悪い! と叫んだが、肝心の「それをどうしてよくするか」といふことについては考へも研究もしなかつた。悪いことを憤慨するだけで、却つてその憤慨する自分は、黙つて学校の命ずるまゝをやつてゐる人よりはるかに劣つてゐた。偉さうなことを考へ、又言ひながら、私は云へば云ふだけ、叫べば叫ぶだけ後退してゐたのだ。自暴自棄ヤケクソだつたから勉強はしない。従つて出来ない。髪は結ぶなんてうるさいこつた。切つてしまふ。制服制帽にしろなどは、今の世に非合理だと、今迄のセーラーにランドセルで押し通す。
 何が偉いといふんだ!
 みんなは何と思つたらう。(生意気な青二才奴、親の威光を笠にきて勝手なことをする。それになんだ! 局長の子なら、もう少し出来さうなもんだ)と云つたかもしれぬ。(女子大、女子大つてあんな奴が来る様ぢや大したことはない)と笑つたかもしれぬ。
 私が偉さうに云つたことは、反つて私の青さをふれまわすに役立つただけだつた。それのみか、お父様、お母様、女子大迄を悪く言はせてしまつた。ほんたうに私は面汚しの青二才であつた。何とお詫びしてよいか……お父様やお母様は、別に局長の顔にかけて勉強しろなんて、只の一度だつておつしやつたことはない。私が猖紅熱で長く休んでしまつたため、数学に丙をとつて来たときも、眉毛一本お動かしにならなかつたんだもの……けど、だから尚恥づかしいのだ。
 もう一歩つき入つて、なぜ考へなかつたか。悪いところを、悪いとするだけぢやあ何もならないんだ。肝心なのはその中で、どう、よりよく生きるかといふことだ。
 私が転校はいやだと云つたとき、お母様は、「でも学校を代つていろんな善さをみつけ出すのも無意義ぢやあないんですよ」とおつしやたツけ。だのに、私はあの転校をほんとに故意に無意義にしてしまつた。残念だ。全く残念だ。あのとき、もう一寸と心すればS校のよさもわかつたらうに。あの時の自分を考へると、お友達に顔をあはせるのすら恥かしい。
 自らを不愉快にし、自ら無駄にした一年間がすぎて、私は、本願成就とばかり大よろこびで名古屋を逃げるように東京へ帰つて来た。
 引越し騒ぎが一先づ落着いて、さて、なつかしの女子大や如何に? と様子をきくと、今の所、欠員はないとのこと。しかし、まあ一学期だけでも居たことのあるお陰で、吉田先生や伊藤先生が大変お骨折り下さつて、「欠員はないけれども復校させて上げませう」といふことにして下さつた。しかし、只ぢやあない。国、英、数、自然研究の簡単な試験がある、といふ。私は又々苦しまねばならなかつた。
 一年の転校によつて生じた空白は大きかつた。自業自得の報ひがやつてきた。
 暑いさ中を一日机にとりついて居らねばならぬ情なさ……。殊に英数は問題にならぬほどおくれてゐた。それでも吉田先生の厚い御厚意で毎日教へて頂くことになつた。残暑のきびしい中を毎日々々リーダーをかゝへて、市ヶ谷から小田急線の経堂まで通つて、先生お直々に教へていたゞいたのである。
 皆が一学期かゝつてやつたところを、私は十日で覚えねばならない。私は勿論だが、先生は私以上に真剣でいらした。叮寧に一つ々々手をとるやうに教へて下さる。発音も滅茶滅茶なら、文法は全然しらぬ、作文もしたことがない――全く初歩の私を「これはかう、かういふときはかう……」と一々親切にみちびいて下さつた。
 おぼえなくてはならない単語は、御自身英文のタイプをうつて私に下さり、私がムダな労力を使はずにすむ様にまでして下さつた。私は往復の電車内は勿論、歩きながらもリーダーをよんだけれど、私にはすることがありすぎた。数学もしなきやならないし、国語も、自然研究もしなければならない。
 誰も教へてくれるものがないから実に心細い。英語の単語をおぼえにかゝると、ふと、数学の忘れさうなところを思ひ出す。(なんだツけ……)とあわてゝ本を繰つてみる。英語へ、数学へ、国語へ、自研へと一つの頭は四方へちつて結局どれもおぼえさせない。
 日もないし、する事は山程、いゝ加減暑さも手伝つて、私は毎日針のむしろに坐つてゐるやうに、ぢれるばかりで落着けなかつた。
 もと/\あまり鋭くない頭だから、吉田先生にも申し訳ないほど、どれもまとまらない。その中に欠員が出来てムリな復校だけは免れることが出来た。しかし、それに対する志願者、すなはち、私に対する競争相手も出来たわけだ。特別なお計らひで、私一人は皆と別に簡単なテストでいゝことにして下つた。
 だのに、テストの成績はふた眼とみられないほど、我ながらひどいものであつた。私は全く、あのときのことを思ふとゾツとする。吉田先生にあれだけ教へて頂いて……ムリな復校をおねがひして……それだけでも抜群の成績をとらなければならないところを、更に特別やさしいテストをして頂きながら、あの醜態……私は日の目も仰げぬ心地だつた。
 始業式の日、井上先生(受持の)が、「普通の編入でしたら、とても這入れない成績でしたが……」とおつしやつたときには、泣き出したいほど口惜しかつた。よつぽど来学期うけなほさうかと思つた。しかし、折角、吉田先生があんなにお骨折り下さつたのに、今更どうすることも出来ず、泣きね入りに、中組に入つた。
 入つてからも、私は妙に沈んでゐた。「当りまへなら、とても入れないところを」それは本当だ。私は決して井上先生の、あのお言葉が嘘でないことをみとめる。しかし、あのお言葉が私の心に暗い影をおとしてしまつたことも事実である。
 全く、あれは私にとつて最大の苦痛であつた。あの一言が忘れられないために、どんなに私は辛い苦しい悲しい思ひをしたか。どんなに、あの一言が私の心を傷つけたことか。それはとても想像以上のものがある。私はつく/″\辛いと思つた。情ないと思つた。始終、何か悪いことでもした人みたいに、ビクビクと人の目をうかゞふ様になつた。吉田先生や伊藤先生や井上先生の前に出ると、どうしても堂々と、まともにみられない気がした。私はひがんでゐたんだらうか。それは卑屈であつたらうか。……とにかく、この苦い経験から私は、どんなに自分に都合のいゝことであつても、正しい順序をふまないでは却つて、苦しい思ひをしなければならないのだといふことを知つた。
 しかし、御恩は御恩だ。私は、まだ何の御恩返しもしてゐないのを、いつも心苦しく思つてゐる。

 転校の思ひ出はどつちも全く苦い思ひ出だ。
 しかし、この苦い思ひは後々ずゐ分役に立つだらう。
 今迄の、このみぢかい間にも、この苦さのために救はれたことが何度かあるんだから。





底本:「みの 美しいものになら」四季社
   1954(昭和29)年3月30日初版発行
   1954(昭和29)年4月15日再版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:鈴木厚司
校正:林 幸雄
2008年2月27日作成
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●表記について