ジャズ狂時代

小野佐世男




お嬢さんはジャズがお好き


 浮風にさそわれて隅田川のボート・レースをながめていたら、
「アラ、小野の旦那、いいところでお会いしましたわ」
 お隣りの奥さんが一人娘のポッポちゃんをつれて、途方に暮れた顔。
「このポッポたらしょうがないのですよ、私が猫の手でも借りたいぐらい忙しいというのに、馬鹿々々しいたら、国際のジャズ大会につれて行けっていうんですよ。こんなアプレ娘一人でやれば、何を仕でかすかわからないし、しかたがないのでここまでは来ましたが、どうせ先生は遊んでいるんでしょう。イイエ、いつもブラブラしていらっしゃいますんでしょう。このジャズ娘連れて行ってやって下さいな。ほんとにこまったオッチョコチョイ娘ですよ。ではおたのみしましたわよ、これでも私の一人娘、掌中の珠みたいなものですから、そそっかしくあつかわないでちょうだい、ではよろしくオホホ、これで安心」
 チョチョ、ちょっと待って、というひまもなく、人混の中に消えて行ってしまった。
「ヘヘエ、小野のオジさん連れてってね――」
 十六娘のくせに、ちょっとウィンクした。
「うちのお母さん馬鹿なのよ、私がジャズを勉強して、素晴しいジャズ・シンガーになる、そうすれば美空ひばりや江利チエミのように有名になるでしょう、素晴しいわ、一本の映画出演料が二百万円、一回の舞台出演料が十万円、私の眼が鳩のように可愛いいってポッポていうのよ、芸名は鳩ポッポとするわ、すごいなあ、そうなれば、お母さんも豪勢な家に住めるし、自家用車も二台位もてるのに、神ならぬ身の知るよしもなく、お母さんたらジャズ娘、ジャズ娘って怒るのよ」
 アア世はまるで熱病か台風のように、日本全土は猛烈な勢いでジャズ熱に浮かされているのである。救われざるジャズの群の一人ポッポちゃんも、ここに早や百度程度の高熱患者である。
「サァ、おじさん早く行こう、レッスンしに」「レッスン?」
「ポッポにとっては国際劇場は教室よ」
 アアわれここに至りては負けたり、歩くのにもジャズの如く踊りの如く、人の流れにおし流されて行ったのである。

超満員のホット・ジャズ


「おじさん素晴しいわ、やっぱりラグビーやるだけあって、あの物凄い切符売場で買えたわね」
「すごいね、御覧よ、おかげでワイシャツやぶいちゃったよ、なんてものすごい人だろう」
 やっと指定席に坐って汗をふいたのである。日本一巨大なる劇場といわれる国際が、立錐の余地もなく廊下にあふれて、若い青年や少女がひしめいている。アア世は正にジャズ狂時代である。
 開幕のベルが鳴りひびいて、静かに緞帳が上げられるや、待ってましたと客席は嵐のような拍手、舞台一ぱい絢爛と飾られた雛段には、スター・ダスターズのドラム、トロンペット、サクソフォン、キラキラ星の如く銀色を放つ楽器の数々が眼もまばゆい位、チェックのスーツを着た、渡辺弘の派手やかなタクトにわき起るようなジャズのメロディー、その時、横飛びに飛び出したのは、人気者のボードビリヤン、トニー・谷。
「レディーアンド・ジェントルマン、お父ちゃん、お母ちゃん……」
 ドッとわき起る笑声、早やポッポちゃんは、感激のあまり震えている。モウこれで何回目かしら、同じものを毎日見に来ているという四人連れは、伸び上ってひっくり返りそう、舞台より客席の方がよっぽどホット・ジャズ的ではある。
 谷から聞いたのだが、
「何しろ熱病ですなア、幕が上れば、何んでもかんでも、ドッとお客さんは興奮してしまうのです。怖いようなものですよ、日本中の生きものが猫に至るまで、ジャズに浮されているように思われますよ、自動車まで唯今はジャズの調子で、家なんかに飛び込んだりしますし、ジャズ・シンガーやバンドマンの連中はサイン攻めで街も歩けませんよ、驚きましたなァ――」
 大眼鏡の奥で眼をくるくる廻していたのである。

法悦の夢想境


 曲目は進んで五彩のスポットをあびて、ピンク色のイヴニングに大輪の紅バラを胸に、メリー大須賀歌手が、艶麗な姿でマイクにころばす、ナイヤガラのメロディー、いつとはなしに暗い客席に合唱となって伝わりくるこの興奮は、かつて見たことのない雰囲気ではないか。ティーブ釜萢[#「ティーブ釜萢」は底本では「ティーブ釜苑」]の歌うハリハリハリの時に至っては、客席も調子を合せてハリハリハリと大コーラス、もしこれが普通の音楽会であったなら、その音楽会はぶちこわされてしまうところでありましょう。
 ジャズというものは、このように人心にすぐ飛び込み、夢想境の法悦にひき入れてしまうものか。むしろ不思議ではないか。左から右から面白く飛び出すトニー・谷の司会で、雪村いづみがクリクリした新鮮な姿で颯爽と現われた時には、早や客席は爆発的で、
「これよこれよ私の好きないづみちゃアーン、シッカリー」
 とたんにポッポちゃん、あまり興奮したので椅子から落ちてしまった。
「はずかしいよポッポちゃん、しっかりしてくれよ」
「うるさいわよ、私のレッスンの時間の中でも一番大事な時なのよ」
 と最早、無我夢中、いづみ熱に患されたポッポちゃんは手のつけようがない。表情もたくみに歌い出す雪村いづみに涙をこぼし、身もだえする人もいる。彼女は彗星の如く現れたジャズ・シンガー、曲は彼女が幸運を引き当てた「想い出のワルツ」、どよめきと共に次の幕が切って落され、ジャズのナンバーワンと絶讃をあびている、ジョージ・川口とビッグ・フォアー、なかでも太鼓のジョージ・川口の至芸には思わず息をのんだしだい。ボンゴス、トムトム、スネアー、トーベース、シンバル、ハイバイツと九つに近い太鼓を、まるで神わざの如くあつかうありさまは、まるで狂人の如く、獅子の如く、さしもに広い舞台が、たった一人のジョージと太鼓の轟きに一ぱいあふれ、ベースの小野満、テナーサックスの松本英彦、ピアノの中村八大の神技には人が楽器か楽器が人か、この時ばかりは、ポッポちゃんをうらむことをわすれてしまい、幕がおりてもしばし茫然。[#「茫然。」は底本では「茫然」]
 ジャズの本場アメリカで十七年間活躍していた、トミー・パーマがサクソフォンを口に指揮するために入れかわり立ちかわり、黒人女歌手、ジニー・ジョンズが黒い胸を張りきらして、うれいをおびたその美しい声音は劇場内になりひびき、客席をうっとりさせ、最後にマニラのビング・クロスビーといわれ、滞米中に、クロスビーが、彼のことを五十年に一人現れる声量と性的魅力を持つ歌手と称したビンボ・ディナウが、白いシャークスキンのスマートな姿でニコニコと現れるや、「ビンボ、ビンボ、ビンボ」と客席がどよめいた。
「ワタシ、ニポン人皆様スキ、ビンボーネ、ノーマネーネ……」
 と笑わせて歌う数曲、キス・オブ・ファイヤ、ゴメンナサイ、ポッポちゃんなぞ、夢遊病者のようで、いやポッポちゃんどころか、僕をも夢中にした。
 最後に日本語で唄う支那の夜の節廻し、まったく魂をぬかれる思い、うっとりしているひまに幕がおりてしまったのである。
 明るくなって来た客席を見ると、みんな興奮のつかれかグッタリ伸びている。
「ポッポちゃん、おじさんもついでに、よいレッスンをしたよ、ジャズ熱におかされないように、お家に帰ったら熱さましを飲もう……」





底本:「猿々合戦」要書房
   1953(昭和28)年9月15日発行
入力:鈴木厚司
校正:伊藤時也
2010年1月26日作成
2010年11月2日修正
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