一
――ほこりっぽい、だらだらな坂道がつきるへんに、すりへった木橋がある。木橋のむこうにかわきあがった白い道路がよこぎっていて、そのまたむこうに、
いつものように三吉は、熊本城の石垣に沿うてながい坂道をおりてきて、鉄の通用門がみえだすあたりから足どりがかわった。門はまだ閉まっているし、時計台の針は終業の五時に少し間がある。ド・ド・ド……。まだ作業中のどの建物からもあらい
みんなよごれて、かわいて、たいくつであった。やがて時計台の下で電気ベルが鳴りだすと、とたんにどの建物からも職工たちがはじけでてくる。守衛はまだ門をひらかないのに、内がわはたちまち人々であふれてきた。三吉はいそいで橋をわたり、それからふたたび鉄の門へむかって歩きだす。――きょうはどのへんで
鉄の門をおしやぶるようにして、人々は三つの流れをつくっている。二つは門前の道路を左右へ、いま一つは橋をわたって、まっすぐにこっちへ流れてくる。娘、婆さん、煙草色の作業服のままの猫背のおやじ。あっぱっぱのはだけた胸に弁当箱をおしつけて肩をゆすりながらくる
わらい声の一つをききつけて、三吉はハッとする。おぼえのあるわらい声は思いがけなくまじかで、もう顔をそらすひまもなかった。流れのなかをいくらかめだつたかい背の白
――すれちがうとき、女はつれの小娘に肩をぶっつけるようにしてまた笑い声をたてた。ひびく声であった。三吉は橋の
つれの、桃色の腰巻をたらして、
彼女たちはそこからわかれている、もっと小さな野良道におりて、田甫のあいだを横ぎりながら、むこうにみえている山裾の部落へかえってゆくのであった。腰のへんまで稲の青葉にかくれながらとおざかってゆく。そして幾まがりする野良道を、もうお互いの顔の表情もさだかでなくなるくらいのところで、女はこっちをふりかえって首をかしげてみせる。それまで土堤道につったっている三吉もあわてて首をさげながら、それでほッとよみがえったようになるのであった。――
たかい鼻と、すらりとした背。大きすぎる口、うすい眉毛さえが、特徴あるニュアンスになって、三吉の頭に影像をつくっている。そして彼女たちの姿が青く田甫のむこうにみえなくなったとき、しろくかわきあがった土堤道だけが足もとにのこったが、それはきのうもおとといも同じであった――。
尻からげして、三吉は、こんどは土堤道をあと戻りし、やがて場末の町にはいってきた。足首を白いほこりに染めながら、小家ばかりの裏町の
「おう、青井」
むこうから、三吉をよぶ声がして、つづけてわらい声がいった。
「どうだったい、きょうは?」
路地にひらいた三尺縁で、長野と深水が焼酎をのんでいた。長野は、赤い組長マークのついた
「その顔つきじゃ、あかんな」
チャップリンひげをうごかして長野がわらった。長野は大阪からながれてきた男で、専売局工場の電機修繕工をしている。三吉たちの熊本印刷工組合とはべつに、一専売局を中心に友愛会支部をつくっていて、弁舌がたっしゃなのと、
「ずいぶん、ごねっしんね」
低声で嫁さんがいうと、
「え」
と三吉が、真顔でこたえ、嫁さんがまたふきだすと、三吉も一緒にわらった。
嫁にきて間がない深水の細君は、眼も、口も、鼻も、そろって小さく、まるい顔して、ころころにふとっていた。何畳だか、一間きりの家の中はよくかたづいていて、あたらしいタンスや紅いきれのかかった鏡台やがあった。
「印刷工組合の指導者、青井三吉も、女にかかると、あかんな、うーん」
長野がコップをつきつけた。女房に子供もあるがチャップリンひげと、ながいあごをもっているこの男は、そんな意味でも女工たちに人気があった。三吉は焼酎をのみながら、事務的に用件をいった。いいながら自分に腹がたってくる。どうしてもこの男にバカにされてしまう。――用件というのは、東京の「前衛」社から高島貞喜がくるという通知を受けとったこと、その演説会と座談会をやるため、印刷工組合と友愛会支部とで出来ている熊本労働組合連合会の役員たちが宣伝をうけもつこと、高島の接待は第五高等学校の連中がやること等であった。しかし同じ新人会熊本支部員である長野も深水も、この用件にあまり興味をもたなかった。第一に高島が有名でないこと、次に高島がボルだということからであった。
「おあがんなさい」
深水の嫁さんがしきものをだしてくれた。うなずきながら、足首までしろくなったじぶんの足下をみていると、長野がいつもの大阪弁まじりで、秋にある、熊本市の市会議員選挙のことをしゃべっている。深水はからだをのりだすようにして、
「そりゃええ、パトロンが出来たなら、鬼に金棒さ、うん――」
ゆあがりの胸をひろげて、うちわを大げさにうごかしている。頭髪にチックをつけている深水は、新婚の女房も意識にいれてるふうで、
「――わしも応援するよ、普選になればわれわれ熊連は市会議員でも代議士でも、ドンドンださんといかん」
いいながら、こんどは三吉を仲間にいれようとする。
「君ァどうかね? え、わしがパトロンをめっけてやってもええが」
三吉は早くかえらねばならぬと思っている。専売局の截刻工である深水は、かねてから市会議員などになりたがっていた。しかしまだ印刷工組合に小野鉄次郎がいたころは、彼にしろ長野にしろ、こんなに露骨にはいわない
「高坂が準備してるいうやないか?」
こんどは長野が三吉をのぞきこんだ。高坂はやはり印刷工組合の幹部で、自分で印刷工場も経営している。一方では憲政会熊本支部にもひそかに
「きみィ、応援するのやろ?」
三吉が黙っていると、
「ええわしの方も、ひとつたのむゾ」
と、長野は酔ったふりでいった。長野も高坂も「女郎派」といわれていた。そして、この名前をつけたアナーキストの小野は、この春に上京してしまっていた。
「どうだ、あがらんか」
深水はだいぶ調子づいていた。
「おい、そっちに
嫁さんはなんでもうれしそうに、部屋のなかへ
「いや、わしはかえる。ホラ、あれでな」
長野がながいあごをしゃくってみせると、深水は気がついたふうに、こんどは三吉にだけいった。
「じゃ、きみあがれ」
「いや、おれもかえるんだ」
三吉はそういったが、長野が垣ねから
「なんだ女一匹、しっかりしろや」
と三吉の肩をたたいてから、上機嫌ででてゆくのをみおくりながら、やはりたちそびれていた。
「ときに、あの娘いくつだい?」
と、深水がきくのに、嫁さんははずんだ調子でこたえている。
「シゲちゃんは、
「二十一か」
三吉があがらぬので、しぜん夫婦もうしろへきてすわっている。
「――うちは百姓だけど、兄さんが大工さんだって。もうシゲちゃんもそろそろ、ねェ」
三吉はくらくなってきた足もとをみていた。彼女は紙巻工であった深水の嫁さんの同僚で、深水の結婚式のとき、てつだいにきていた彼女を、三吉は顔だけみたのである。
「どうだあの子、いままで男なんかあったか?」
「そんなこと――」
くっくっと嫁さんは笑いこけている。――ないでしょう――。
その嫁さんのわらいごえが、三吉をあたためてくれるようだった。女房をもとうか? どんなに貧乏だってかまわない。ゆくゆくは子供がうんとできて、自分の両親のようになってもかまわない。――
「おれが、あの娘に話してみるか?」
うしろで、夫婦が相談はじめている。
「それともお前がきいてみるか?」
「そうね」
「どっちにせ、青井の
それでまた夫婦がわらい声をたててから、こんどは急に気がついたふうに嫁さんは、顔をかくしていたうちわを離すと、
「ね、青井さん」
三吉があわてて電灯の灯の方へ顔をむけると、気のいい人の
「あなたは、それでいいんですか?」
といった。三吉はくらい方をむいたままうなずいた。すっかり夜になって、草すだれなどつるしたどの家も、食事どきの、ゆたかなしずかさにあふれてるようだった。
「まあ、尻を落ちつけるさ――」
深水が、これも人はいい、のみこみ屋の単純さで、
「――こないだ、きみのおっかさんに
などという。
「――熊連だってこまるよ。小野も津田もいなくなるし、五高の連中だって、もうすぐ卒業していってしもうしなァ。きみのような有能な人物が、熊本にとどまって、ぜひガンばってくれんことにゃ――」
けっきょく三吉は、新婚の二人に夕めしもくわせず、夜ふけまで縁さきにこしかけていた。
二
家のひさし下に、ひよけのむしろをたらして、三吉は竹のひしゃくをつくっている。縄でしばった
せまい熊本市で、三吉も「
「竹びしゃくなんかつくらんでも、わしが工場ではたらくがええ」
高坂がそういってくれても、三吉はゆきたくなかった。彼に雇われる以上、彼の旦那
ガリ、ガリ、ガリッ……。とたんに三吉はせんをほうりだして、家の中にとびこむ。家の前の道を、パッと陽の光りをはじけかしてクリーム色のパラソルがとおってゆく。もちろんパラソルにかくれた顔がだれだからというのではなくて、若い女一般にたいしてはずかしい。乞食のような風ていも、竹びしゃくつくりもはずかしい。
「けがしたかい?」
そばにならんですわって、竹ばしをけずっている母親が、びっくりしてきく。三吉は首をふって、ごまかすために自分の本箱のところへいって、小野からの手紙などとって、仕事場にもどってくる。――どうして、若い女にみられるのが、こんなにはずかしいだろう?
手紙をよみかえすふりして、三吉は考えている。竹細工の仕事は幼少から
「でもまァ、これでお前がひしゃくをつくれば、日に二円にはなる。たきぎはでけるし、つきあいはいらんし、工場の二円よりかよっぽどつよい」
「そりゃな、東京の金はとれやすいかも知らんが、入りやすい金は出やすいもんだよ。まして月々におくるという金は、なかなかのこっちゃない」
あがりがまちのむこうには、荷馬車稼業の父親が、この春仕事さきで大怪我をしてからというもの、ねたきりでいたし、そばにはまだ乳のみ児の妹がねかしてあった。母親にすれば、倅の室の隅においている小さい本箱と、ちかごろときどき東京からくる手紙がいちばん気になるのであった。
「――ドイツのね、ヨゼフ・ディーツゲンという人は、やっぱり皮なめし工という、手工業労働者だったんだ」
しばらくだまっていた
「――いえさ、おれのような職人だったんだが、マルクスと一緒にドイツ革命に参加したり、哲学書をかいたり、非常にえらい人だったそうだ」
母親は、それで見当がついた風で、
「すると、やっぱりシャカイシュギかい?」
などという。――
三吉は、ときどき、そのディーツゲンをおもいうかべることで、自分に勇気づけていた。マルクスやエンゲルスとは別個に唯物弁証法的哲学をうちたてたという偉大なドイツの労働者についてくわしくは知らなかったけれど、感じさせた。それはきよらかで、芸術的でさえある気がしていた。ディーツゲンのようにえらくはないにしても、地方にいて、何の誰べぇとも知られず、生涯をささげるということは
「しかし、彼女は竹びしゃく作りの女房になってくれるだろうか?」
そして、またそこへくると、三吉はギクリとする。鼻がたかくて、すこし頭髪のあかい、ひびくわらい声の彼女を、自分のそばのむしろに
「ときにな――」
竹くずのなかにうずまって、母親は母親でさっきから考えていたらしく、きせるたばこを一服つけながら、いった。
「こないだの、あれな」
「あれって、何だよ」
ちかごろ三吉は、何かにつけさぐるような母親の口ぶりや態度にあうと、すぐ反ぱつしたくなる自分をおさえかねた。それで、
「ほら、勘さんとこの――」
と、母親がいった瞬間、夢からさめたようになった。
「おれ、いやだっていったじゃないか」
しかし倅のつっけんどんな返辞にもさからわず、母親はだまっていま一服つけ、それからまた浮かぬ顔で仕事をはじめている。それが三吉にはよけいうっとうしかった。母親はその縁談をあきらめているのではなかった。警察から「おたずね者」のシャカイシュギになっている倅は、いわば不具者で、それこそ分相応というものであった。ところが、同じ荷馬車稼業をしている勘さんの娘というのは、ちかごろ女中奉公さきからもどっていて、三吉は知っているが、これはおよそくつじょくであった。だいいちに鼻がひくかった。眼も、口も、眉も、からだじゅう、どこにひとつかがやきがなかった。鼻がひくいと、貧乏にも卑屈にも、すべて不感症であるように、三吉には感じられるのだった。
「でもな、おまえも二十四だ。山村の常雄さんだって、兵隊からもどると、すぐ嫁さんもろうた。太田の初つぁんなんか、もう二人も子がでけとる。――」
母親は、三吉と小学校で同級だった町の青年たちの名をあげて、くりごとをはじめる。早婚な地方の世間ていもあるだろうが、何よりも早く
「――牛は牛づれという。竹びしゃく作りには竹びしゃく作りの嫁があるというもんだ。たとい鼻ひくでも、めっかちでも……」
もうすわっていられなかった。
――こんなとき、以前の三吉は、小野か津田をたずねていったが、いまはそれもできなかった。町はずれへでて、歩きまわるうち、いつか立田山へきていた。百メートルくらいしかないけれど、
「東京へゆこうか?」
三吉はふところから小野の手紙をだしてみるが、すぐまたふところにいれる。そのハトロン封筒の手紙も、気がすすまないのである。小野は東京で時事新報の植字部に入っていた。小野のほかに、熊本出の仲間であるTや、Nや、Kやも、東京のあちこちの印刷工場にはたらいていた。そして「時事にはいれるようにするから出てこい」と小野は書いているが、「時事はアナの本陣」で、小野は上京すると、同郷のTや、Kや、Nやも、正進会にひっぱりこんだと、得意で書いている。三吉もそこへゆけば正進会員にならねばならないが、それが
小野の上京以来、東京の空が急にせまくなった気がしている。――このうすよごれた町からほとんど出たことのない三吉は、東京を知らないけれど、それまでの東京からはまだ大学生の田門武雄や、卒業して間がない三輪寿蔵や、赤松克馬や新人会本部の連中がやってきた。彼らはサンジカリズムないしアナルコサンジカリズムの思想をふりまいてゆき、小野も、三吉も、五高の学生たちも、また専売局の友愛会支部の連中も、革命が気分的であるかぎり一致することが出来ていた。ところが東京から「ボル」がいちはやく五高の学生に流れこんでくると、裂けめがおこった。「前衛」とか「種蒔く人」とか、赤い旗の表紙の雑誌が五高の連中から流れこんでくると、小野のところには「自由」という黒い旗の表紙が流れこんできた。三吉はどっちも読んだが、よくはわからなかった。わかるのは小野の性格の
小野は三吉より三つ年上で、郵便配達夫、
「ホホン、そりゃええ――」
この「ホホン」というのが小野の得意であった。小男だから、いつも相手をすくいあげるようにして、しわんだ、よく光る茶っぽい眼でみつめながら、いうのである。
「ホホン――、それでわしらの労働者を踏み台にして、未来は代議士とか大臣とかに出世なさっとだろうたい、そりゃええ」
高坂でも、長野でも、この小男の「ホホン」には真ッ赤にさせられ、キリキリ舞いさせられた。いつも板裏
「ホホン、そりゃええ、“中央集権”で、労働者をしめあげて――」
ある晩、町のカフェーで、学生たちと論争したとき、そのときは酔ってもいたが、小野はあいてのあごの下に顔をつきだしながらいった。
「――それで、諸君が、レーニンさんになんなはっとだろうたい」
しかし、つりがねマントの学生たちは、長野や高坂と同じではなかった。“中央集権”是か非か。“ブルジョア議会”の肯定と否定。“ソビエット”と“自由連合”。労働者側では小野が一人で太刀打ちしている。しかし津田はとにかく三吉が黙っているのは、よくわからぬばかりでなくて、小野の態度が極端なうたぐりと感傷とで、ときにはたわいなくさえみえてくるのが不満だった。たとえば議論の焦点がきまると、それを小野の方から飛躍させられて“そりゃァ、労働者の自由を束縛するというもんだ”という風に、手のつけようのないところへもってゆく。学生たちがそれをまた神棚から引きおろそうとして躍起になると、そのうち小野がだしぬけに“ハーイ”と、熊本弁独特のアクセントでひっぱりながらいう。
「ハーイ、わしがおふくろは専売局の便所掃除でござります。どうせ身分がちごうけん、考えもちがいましょうたい」
高わらいしながら、そのくせポロポロ涙をこぼしている小野をみると、学生たちも黙ってしまう。それで、そのつぎにくる瞬間をおそれて三吉が、小野の腕をささえてたちあがると、
「なにをいうか、労働者の感情が、きさまらにわかると思うとるかッ」
すごい顔色になって、肩ごしに灰皿をつかんでなげようとする。津田と二人で、それを止めて外へでると、小野はこんどは三吉にくってかかる。――な、青井さ、きみァボルな? え、
小野が上京したのはそれから間もなくで、三吉にもだまって発ってしまったのであった。小野のうちは父親がなく、専売局の便所掃除をしていた母親は――まるで不具もんみたい、二十七にもなって、
――裂けめだ。何かしら大きな裂けめだ。
ボルの理論は、まだしっかりつかめぬながら、小野から日ごとに離れてゆく自分を、三吉は感じている。しかもその大きな裂けめにおちこんで、しかもボルの学生たちとは、つまり土地で“五高の学生さん”というような身分的な距離があるのだった。――そしてそうやって、いらいらしていると、たいくつな、うすよごれた熊本市街の風景も、永くはみていられなかった。
「――そりゃァ理想というもんですよ、空想というもんですよ。ええ」
夜になって、高坂の工場へいって、板の間の隅で、“
「――
それを、さえぎろうとして古藤の早口が、
「――理、理想じゃないですよ。げ、げ、現実ですよ。東、東京の労働者……。ア、ア、アナ、アナルコサンジカリズムなんか……」
と、やっきになっているけれど、彼はひどい
「――だからさ、だからわしは、小野がいるときから、アナだの何だの、支持したこたァないよ。そうでしょう、そうですとも。だいたい諸君は、わしのことをダラ幹だの、女郎派だのというけれどだネ、しかしだネ、じっさい労働者というもんは……」
「――理想はよろしい。アナでも、ボルでもけっこう。だからわしはポスターでも、会場費でも何でも提供している。しかしだね、諸君は学生だ、いいですか、いわば親のすねかじりだ。いや怒っちゃいけませんよ、しかしだネ、いざといって、諸君に何か……」
さいごに、おとなしい福原も、だまって外へ出ていった。
「ばかづらどもが――」
三吉がポスターをかいている板の間へ、高坂が、扇子をパチッ、パチッと鳴らせながらでてきた。むかし細川藩の国家老とか何とかいう家柄をじまんにして、高い背に黄麻の
「なんだ、青井さ、一人か」
と、気がついたふうに、それから廊下をへだてた、まだ夜業をしている工場の方へ、大声でどなった。
「安雄ッ、武ちゃん――」
よばれた二人の文選工が、まだよごれ手のまま、ボンヤリはいってくると、
「お前たち、もう今夜はいいから、ポスターをてつだいなさい」
と、あごでしゃくった。武ちゃんも、安雄も三吉とは知っている組合員であったが、主人の方にだけ気をとられている。
「ずッと、家へもどっていい、夜業は三時間につけとくから」
のりバケツとポスターの束をかかえて、外へでるとき、主人にそういわれると、二人はていねいにおじぎしている。
「オーイ」
古藤の下宿の下を通るとき、三吉はどなってみたが返事がなかった。あかるい二階の障子窓から、マンドリンをひっかきながら、外国語の歌をうたっている古藤の声や、福原や、浅川のわらい声が、ずッとちがった、遠くの世界からのようにきこえていた。
三
「社会問題大演説会」は、ひどく不人気だった。――高島貞喜は、学生たちが停車場から伴ってきたが、黒い
「フーン、これがボルか」
会場の楽屋で、
じっさい、この「東京前衛社派遣」の弁士は貧弱だった。小さいのでテーブルからやっと首だけでている。おまけにおそろしく早口で、抑揚も区切りもないので、よくわからないが、しかし三吉には何かしら面白かった。ロシヤ革命とボルシェヴィキ。レーニン。ロシアの飢饉と反革命。それから鈴木文治や、アナーキズムへの攻撃。――ことに三吉には話の内容よりも、弁士自体が面白かった。右の肩で、テーブルをおすようにして、ひどい近眼らしく、ふちなしの眼鏡で天井をあおのきながら、つっかかってくる。ところどころ感動して手をたたこうと思っても、その暇がない。――われわれ労働者前衛は――というとき、歯ぎしりするようにドンドンとテェブルをたたく。
しかし、考えてみればおかしな演説会であった。工場がえりの組合員たちは、弁当箱をひざにのせたまま居眠りしているのに、学生たちは興奮して
「そうだな、青井」
くらい町を、高島をかこんで、古藤の下宿にもどりながら、学生たちのうしろから歩いてゆくと、ときどき、古藤がふりかえって、三吉に同意をもとめるためにふりかえる。こっちの情勢を高島に報告するのであるが、三吉は三吉で、もう今夜の演説会で、「新人会熊本支部」もおしまいだ、などと考えているのだった。
「だから、労働者グループは、いまじゃ青井君一人ぽっちですよ」
下宿の二階にあがると、古藤にかわって福原が説明している。浅川も、
「印刷工組合は、小野が上京してから、かえってアナの影響がつよくなったようだナ」
などというのを、古藤たちとおなじ年頃の高島はふりむきもせず、年長者のように、あぐらのひざに
「きみ――」
やがて、三吉だけがさきに帰ろうとして、
「――きみ、一度東京へ出てみたらいいな」
三吉はびっくりした。眠っているうち、彼は三吉のことを考えていたのだろうか?
「行くんなら、ぼくが紹介状をかきます」
「はぁ――」
おのずと年長者へ対するようだった。とつぜんだが、三吉にはわかった。三吉にちゃんとしたボル理論を体得させようというのだろう。小野が東京へでてハッキリとアナーキストとして活動しはじめ、故郷へその影響を及ぼしはじめたのと、その正反対の道なのだ。三吉は梯子段にうつむいたまま、ふちなし眼鏡も、室からさしている電灯の灯に横顔をうかせたまま、そっぽむきにたっていた。――
東京! 小野にさえぎられた東京に、もひとつの東京が、ポカリとあいたような気がする。ハンチングをかぶったボルは、三吉に新しい魅力であった。東京大森の前衛社! 赤い旗の前衛社! それはどういうところだろう? くらい道を家へ歩きながら想像している。しかし三吉は、高島にむかって、とうとう返辞をしなかった。この不安は、あのハンチングをかぶった学生のボルに話してもわからない。三吉がみたボルは、まだ学生ばかりであったが、三吉が背後にひいている生活、怪我してねている父親、たくさんのきょうだい、鼻のひくい嫁をすすめる母親、そんなことは説明しようがないのである。――
――裂けめだ。――
高島が鹿児島へ発った翌日の夕方、三吉は例のように熊本城の石垣にそうて、坂をくだってきて、鉄の門のむこうの時計台をみあげてから、木橋のうえをゆきかえりしながら、運命みたいなものを感じていた。――
電気ベルが鳴りだして、鉄の門があいた。たちまちせきをきったように、人々が流れだしてくると、三吉はいそいで坂の中途から
「やぁ――」
桜並木になっている坂の
「こっちがいいでしょう」
深水がベンチのちりをはらって、自分のとなりに彼女を腰かけさせ、まだつったっている三吉を、反対がわのベンチへ腰かけさせてから、彼の改まったときのくせで、エヘンと咳ばらいした。
「こちら、青井三吉君――、こちらは野上シゲさん――」
ジーンと耳鳴りがしていて、あいてをみずに三吉は頭をさげた。すると、意外にもうつむいていた赤っぽい頭髪が、すッとあおのいた。
「――よろしく、ご交際、おねがいします」
深水がたもとから
「まず、こういうことは双方の理解が、一等大切だと思います。双方の精神的理解、これがないというと、それはつまり野合の恋愛であって――」
石の卓に
「――しかし、つまるところはですナ、ご両人でよろしくやってもらうよりないんだよ。わしはその、月下氷人でネ、これからさきは知らんですよ――」
それで深水が笑うと、彼女も一緒にわらった。深水は最初に彼らしい
「あのゥ――」
彼女の方からいいだした。
「
三吉は
「――いつか、新聞に“現代青年の任務”というのをお書きになったんでしょ。
東京弁をまじえて、笑いもせずにいっている。そのあいての顔から視線をはずしているのに、口から鼻のまわりへかけてゆれうごくものが、三吉の頭の中にある彼女の幻影を、むざんにうちくだいてゆくのが、ありありとわかった。
「
彼女の幻影をとりとめようとして、三吉がそんなことをいった。いいながら案外平気でいっている自分を
「ええ、でも
「サクカ?」
気がつくと、彼女は弁当づつみのあいだにうすっぺらな雑誌をいれていた。彼女のある期待が、歌などよくわからない三吉にその雑誌をひろげてみねば悪いようにさせた。そして雑誌をめくりながら、彼女の歌がどれであるかなど、心にとめることも出来ず、相手にひったくられるまで、ボンヤリとそこらに眼をおいていた。
「――サンポなさいません?」
三吉たちの生活にはないそんな文句をいわれて、あわててたちあがったとき、もうとり戻しが出来ぬほど遠いうしろに自分がいることを、三吉は感じずにいられなかった。桜並木の
「あなた、いつもここを、あの、いらっしゃったでしょ」
例の、肩をぶっつけるようにして、それから前こごみに彼女は笑いこけた。
「ええ」
と、こたえながら、三吉はほんとに
「あの、深水さんがね、
「――青井は未来の代議士だって、
こいつ、ぱっぱ女学生だ――野菊の花をまさぐりながら、胸のところに頭髪をよせてきたとき、三吉は心の中でさけんだ。
――もう、何ものこらなかった。病みあがりのような、げっそりした疲労だけがのこっていた。彼女と別れてすたすた戻ってきてから二三日は
ある夕方、深水がきて、高島が福岡へ発つから、今夜送別会をやるといいにきて、
「ときに、例の方はどうしたい?」
と
「おれ、病気なんだ」
と答えたきりだった。けげんな顔をしている相手にいくら説明したところで、それは無駄だと思った。
「おれ、東京へゆく」
送別会にもでなかった高島が、福岡へ発ってしまってから、三吉は母親にそういった。
「急に、また、何でや?」
「高坂さんや深水さんにも、だまってゆくのかい?」
あきらめた母親は、末の妹をおぶって途中まで送ってきながらいった。三吉はむこうむきのままうなずいただけだった。町はずれから
「どこまでいっても、おなじこったから――」
バスケット一つだけもっている三吉もふりむくと、
「こっからお江戸は三百里というからなァ――」
と、母親は、背の妹をゆすりあげていった。三吉の母親たちは、まだ東京のことを江戸といった。
「わしが死んでも、たかい旅費つこうてもどってこんでもええが、おとっさんが死んだときゃあ、もどってきておくれなァ」
三吉はうなずいた。うなずきながら歩きだした。途中でも、まだ見おくってるだろう母親の方をふりむかなかった。――土堤道の杉のところで、彼女が野菊をつまんで、むねにもたれるようにして何かいったことも、いまは思いだしもしなかった。――土堤道のつきる遠くで停車場の方から汽車の汽笛がきこえていたが、はやる心はなかった。ハンチングをかぶった学生のボルの姿は、ただひとつの道しるべだったけれど、小野たちとはべつな東京で、すぐ明日からも働き場所をめっけて、故郷に仕送りしなければならぬ生活の方が、まだ何倍も不安であった。足をかわすたびにポクリ、ポクリと、足くびまでうずめる砂ほこりが、尻ばしょりしている毛ずねまで染める。暑い