光をかかぐる人々

徳永直




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        日本の活字


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      一

 活字の發明について私が關心をもつやうになつたのはいつごろからであつたらう? 私は幼時から大人になるまで、永らく文撰工や植字工としてはたらいてゐた。それをやめて小説など書くやうになつても、やはり活字とは關係ある生活をしてゐるのであるが、活字といふものが誰によつて發明されたのか、朝晩に活字のケツをつついてゐたときでさへ、殆んど考へたことがなかつた。しひていふならばこれもすこし縁のとほい「舶來品」くらゐに思つてゐた。ずツと海のむかふから、鐵砲や、蒸汽機關や、電氣や、自動車と一緒に、潮のごとく流れこんできたもので、えらいことにはちがひないが、何となく借物のやうな氣がしてゐた。それにもつと惡いことは、空氣の偉大な效用は知つてゐてもかくべつ有難いとも思はぬやうな、恩澤に馴れたものの漠然とした無關心さで過してゐたのである。
 したがつてドイツ人グウテンベルグや日本人本木昌造の名をおぼえたのは、ツイここ數年來のことである。それもどういふ動機でグウテンベルグや昌造に關心をもちはじめたか、自分でもハツキリわからない。多少こぢつけを加へて云ふならば、著述をするやうになつてからは、人間の世界に言葉が出來、言葉を表現する文字が出來、その文字を何らかに記録して、多數の他人と意志を疏通したり、後世にまで己れの意見をつたへたりするやうになつたことが、どんなに大したことであるかといふことを、いくらかでも身に沁みるやうになつたせゐかと思はれる。
 あるとき、私は上野の美術館に「日本文化史展」を觀に行つた。昭和十五年五月であるが、朝日新聞社の主催であつた。全國から國寶級の美術品があつめられてゐるといふこともまたとない機會であつたし、それに新聞の宣傳によると、幕府時代にオランダからある大名に贈られたダルマ型の印刷機が陳列されてあるといふことも興味があつたのである。ところが會場へ行つてみると、貧血症の私はたちまちに疲れてしまつた。混雜もしてゐたが、出品があまりに厖大で、まるで豫備知識のない人間にはめまぐるしくて、つまり何を見たんだかサツパリわからない。
 教師に引率された中學生や女學生、地方から上京してきた團體なども澤山あつて、とても一つの陳列品のまへに足をとめるなどできない。幾つかの室を押しこくられ押しこくられ、やつと階下へおりて特別室との間にある休憩場までたどりついたときは、もうボーツとなつてゐた。しかしあとになつてそのとき殘つた印象を纒めてみると、伴大納言繪詞とか、鳥羽僧正の繪とか、狩野派の繪とか、いろんな有名な日本繪のある室を過ぎて幾室めかに陳列されてあつた淺井忠の「收穫」とか、高橋由一といふ人の「鮭」などいふ繪のまへにたつたときの何かしらホーツとなつた氣持と、いま一つは瀧澤馬琴の「八犬傳稿本」を觀たときのある感動であつた。もちろん私に「收穫」や「鮭」の繪畫としての佳さ加減を他と比較したりする力はないのだから、ホーツとさせたもののうちには、繪畫自體のうちに何かテクニツク以外のものがあるのであらうか?「八犬傳稿本」は二頁見開きになつて、刷り上りの同頁とならべて、脊のひくい硝子箱のなかにひろげてあつた。私はガンバツて背後からおしてくる人波を脊中でささへたつもりだが、あれでも正味は一二分くらゐだつたらう。稿本は頁のまはりに朱色の子持枠がひいてあり、一方の頁の下部には小姓風の若侍が、一方の頁の上部にはながい袂で顏をかくした、頭をかんざしでいつぱいに飾つてゐる姫樣の繪があつて、一つの情景が釣合よく描かれてゐる。文字はその繪と繪の間をうづめてゐるが、つまり馬琴は文章と繪を一緒に描いたばかりでなく、同時に製版の指定もやつてゐる。出來上つた本と見比べても殆んどちがつてゐない。昔の小説家は自分で繪を描き、文章をつづり、子持枠までつけて、己れのイメーヂをこんな具體的な形で、たのしく描いたのであらう。
 私は版木をさがしてみたが見當らなかつた。稿本が出來ると、版下屋が版下を描き、版木屋が版木を彫り、やがて雙紙などでみる、袂を手拭で結へた丁髷親爺の「すりて」が、一枚づつ丹念に「ばれん」でこすつたのであらう。私は姫樣と若侍の繪の配置が、今日の凸版や寫眞網版でする配置の趣向と同じであるのにおどろいてゐた。そして咄嗟の感じではあるが「伴大納言繪詞」などをロマンのはじまりとすると「八犬傳稿本」でも、まだ繪と文は確然と分離してゐないと思つた。文字は獨立してをらず、版木に彫られるときは繪も同じであつたらう。「伴大納言繪詞」と「八犬傳稿本」と、千年の歳月を距てて、形からみた日本ロマンの傳統といふものを考へることは、印刷工であつた私には興味があつた。それに「大納言」をはじめ第一室にあつた幾つかの繪詞類は、一枚の紙がすべてである。著者であり、印刷者であり、出版者であつた。「八犬傳」ではそれに版木が一枚加はつたことで、もはやロマンの性格からしてちがつてきてゐるやうであつたが、しかしさらにそれを今日の複雜な印刷術の發展にまでおよぼしてみると、じつにはるかな、はるかな氣がするのである。それは「八犬傳」と「大納言」を距ててゐる千年の歳月よりももつととほい氣がした。何よりも今日では、文字は繪を離れて獨立してゐるといふことだつた。
 特別室の入口には「印刷文化の歴史」と書いた紙が貼つてあつて、室のテーマを示してあつた。最初の方は朝日新聞が創刊當時使用したといふ由緒書のある、古風な美濃判型ハンドプレスとか、半紙型ハンドフートなどの實物が陳列してあつて、次には寫眞で菊八頁の足踏式ロールとか、動力式四六全判のロールなどが年代順に示してある。それからは一擧にマリノン式輪轉機とか、高速度朝日式輪轉機とか、めくらむばかりの急速な印刷機の成長が觀衆をおどろかせてゐた。殊に實驗中の寫眞電送機のまはりはいつぱいの人だかりで、室ぢゆうの人氣をさらつてゐた。
 しかし「印刷文化の歴史」とは云つても、この室はつまり明治以降の印刷術であつた。室のうちをボンヤリ見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)しながら、私の頭では「八犬傳稿本」のばれん刷り印刷術からここに至る、その中間がどつかで途切れてゐる。ハンドプレスや足踏ロールに電動機が加はつたことも、たしかに一つの革命的發展であるが、しかしばれん刷りからハンドプレスに、即ち機械力に變つたといふことは、もつと、もつと大變なことに違ひないが、その道行きが私には解せないのであつた。
 そのうち私は、フト足もとに思ひもかけずなつかしいものをめつけてびつくりした。そこは人氣の乏しい室の片隅で、古風な、それは朝日新聞が創刊當時使用したといふのよりもつと古風なハンドプレスが、誰一人觀てくれるものもなく、ころがされてあつた。不恰好に大きく彎曲した二本の支柱も、ハンドの「握り」も、支へのついた一本レールも、みんな赤く錆びついてゐる。私はわれ知らずそばへ寄つていつて、彎曲した支柱にさはりながら「おお、お前はまたどうしてこんなところにゐたのか」と、心のうちで呟いたほどである。
 何十年になるだらう? 私はこの機械と共にはたらいてゐたのである。その頃十二歳だつたから、もう三十年を超える。私はハンドの「握り」に手をかけてから「手を觸れるべからず」といふ「札」に氣がついてひつこめた。ハンドの根元、すなはち壓搾盤をおしさげる胴の形も今樣の蛇腹のギヤではなくて、太鼓型の、水車風に※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)轉がすすむにつれて釘で止める式のものだつた。この一本レールに足をふんがけて、ハンドへ雙手をかけて、踏んぞり踏んぞり、一日に何百囘何千囘をくりかへしたことだらう。この赤錆びたハンドめは、私の幼い掌を豆だらけにし、いつも御機嫌のわるい壓搾盤めは、どんなに工夫しても右肩だけを強くおとす癖をもつてゐて、刷り物をムラにしては、兄弟子たちに幾度インクベラを叩きつけられたか知らない。もちろん御機嫌のいいときもあつたわけで、いそがしい年末の徹夜業のときなぞは、私はなかば眠りこけて、このハンドにブラさがつてゐたやうなものだ。
 それは昔の幼な友達であつた。しかしまるい支柱を撫でながらフトむかふの壁の貼紙を讀んだとき、またびつくりした。貼紙によれば、これが宣傳にあつた、幕府時代にオランダからある大名に獻上されたダルマ型ハンドプレスといふことだつた。私は指を折つて數へてみた。十二歳は明治四十三年である。すこし年代が距りすぎてゐる氣がするが、もちろんこのオランダ渡りのハンドプレスそのものが、三十年前九州の片田舍で私の使つてゐた機械ではあるまい。しかし電動機が九州一圓にも普及したのは、もう大正になつてからだから、このオランダ渡りはその見本となつて、日本でも製作され、同じ型のものが九州の片田舍では何十年も使用されてゐたのであらうか。
 私は偶然ながら昔の友達に逢へた喜びのほかに、印刷機械の歴史を四五十年遡ることが出來たのを覺えながら、その古風なダルマ型プレスのそばに、しばらくはたつてゐた。そして頭の中では、一方では「伴大納言繪詞」から「八犬傳稿本」までまつすぐにきて、また片方では高速度輪轉機や動力式ロールやダルマ型プレスといふ順に、明治のむかふまで遡ることが出來ながら、たちまちにしてオランダといふとんでもないところへ逸れていつてしまふのだつた。
 眼をうつすと、片方の壁には、等身大の文撰工たちが、てんでに文撰箱や原稿を握つて、活字ケースにむかひあひながら作業してゐる、製版工場の大きな寫眞が貼つてあつた。寫眞の中の文撰工たちは霜降り小倉の制服を着て、靴を穿いて、朝日のマークのはいつた作業帽をかぶつてゐる。私たちが唐棧の素袷に平ぐけの帶をしめて、豆しぼりの手拭など頸にまいて作業してゐたのに比べると、ずゐぶんちがふ。しかしケースの配置も、作業順序も、つまり中身は昔のままだつた。しひていふならば、活字のポイント制がもつと嚴密になり、紙型を澤山とるやうになつたために、地金の硬度が強化されてゐるくらゐのことであらう。
 そしてここでも、木版と鉛活字との間の距りがつよくでてくるのだつた。それにダルマ型ハンドプレスがオランダから渡つてきたといふのはそのままのみこめるが「活字も外國からきたのだらう」では濟まないものがあるやうに思へた。たとへば電車も自動車も蒸汽船も外國から來た。それは舶來のままで、日本の道路を走り、日本の海を走つたが、しかし活字はさういふわけにゆかぬ。字體もちがふ。文字の數もちがふ。外國の書物と日本の書物を比べても、製版の形式もちがふのがわかる。つまり電車は外國で作つたものでも、日本のレールを走ることが出來るが、活字はすこしちがふのだ。
 誰が、日本の活字を創つたらう? どういふ風にして創つたのだらう? 私は會場を出て寛永寺の坂を廣小路の方へくだりながら、そんなことを考へた。プレスやロールはオランダからでも眞ツすぐにこられる。しかし活字は、外國からきたにしても、きつと日本的な道行があるにちがひない。誰が日本の活字を、どういふ風にして創つたか? それがわかれば「伴大納言繪詞」から「八犬傳稿本」から近代小説まで、つまり日本印刷術の傳統が眞ツすぐにつながらうといふものだ。

      二

 私はときをり上野の帝國圖書館や、九段下の大橋圖書館に通つて、印刷に關する文獻を讀み漁つた。そして印刷に關する書物では、大橋圖書館にくらべると、やはり上野の圖書館の方がはるかに豐富であつた。
 私はそこで「世界印刷年表」とか、「印刷局五十年史」とか、「南蠻廣記」とか、「印刷文明史」とか、「世界印刷通史」とか、「現代印刷術」とか、「古活字版之研究」とかいつた書物を讀んだ。そのほか明治末期から大正へかけて、印刷文化の大衆化につれて印刷屋を開業しようとする人のための手引きといつた、ごく通俗な書物にもぶつかつたが、名前をおぼえてゐるやうな本はたいてい立派なものだつた。なかでも「古活字版之研究」や「印刷文明史」や「世界印刷通史」などは、量的に厖大なばかりでなく、世間からはあまり顧みられない特殊な研究の一テーマのために、自分の生涯を捧げつくしても尚足れりとしないやうなきびしさがあつて、私は壓倒される氣持がした。
 しかし私のやうな入口も出口もわからない初心者のつねで、それらの書物を忠實に讀んだわけでもコナしたわけでもない。その著者に對しては申譯ないやうな氣儘な讀み方もする。目次をひろげて面白さうなのを飛び讀みしたり、それかと思ふと熱心に書き拔きしたり。ある書物では、四千年前バビロニア國のバビロニア人が、粘土の上に文字を書いた。學校があつて、學校の門は粘土の山で出來てゐる、生徒たちは登校すると、てんでに門の粘土をくづしとり、一ン日書いたりくづしたりして、をはるとまたその粘土で、門の山を築いて歸つていつたといふ話を、著者の想像らしい※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)畫と共に面白く記憶にのこした。また別の書物でバビロニアだかどこだかの女王が、自分の傳記みたいなものを粘土に書いて瓦に燒いたものが四千年後の今日發見されたといふ文章が、つまり私には「紙」以前に何に印刷されたかといふことで興味があつた。やはり西洋歴史の「貝殼追放」なども、貝殼に文字を書いた歴史であり、その後は牛や羊の皮に文字を書いて、一卷の書物は今日の呉服店のやうに大きな丸束にして書物の値段札がブラさげてあつたといふ。支那の畢昇が粘土で活字を作つたのは、グウテンベルグに先だつこと五百年だが、日本の陀羅尼經、天平八年法隆寺の印刷物はまたそれに先だつ二百八十年といつたやうなこと、その陀羅尼經の原版が木であつたか銅であつたかといふ詮議を、著者と共にボンヤリ※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)畫を眺めてゐたりすると、なかなか印刷の歴史も茫洋としてゐて、いつになつたら日本の木版から活字にうつる過渡期の傳統が理解できるのかわからなかつた。
 もちろん獨逸人ヨハン・グウテンベルグの名は最初におぼえた。美しい※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)畫があつて、グウテンベルグがその協力者二人と一緒に、彼の作つた活字の最初の校正刷りを眺めてゐる感激的な場面である。そばに所謂龜の子文字の三十二行バイブルの寫眞があり、西暦千四百四十七年とある。西洋印刷術はまづ獨逸に始まつて、フランスからイギリスへ、イギリスからアメリカへ、また一方ではオランダやイタリーやロシヤへ、十五世紀から十六世紀へかけて西半球を擴がつていつた徑路もおぼえた。そして同じ千六百年初頭、即ち天正、文祿、慶長の頃、ポルトガルの宣教師たちははるばる太平洋を越えて、肥前長崎に西洋印刷術を傳へてゐる。所謂切支丹版のことで、これは「南蠻廣記」も「印刷文明史」も「古活字版之研究」も、力をこめて書いてゐる。
 印刷機はもちろん西洋活字も「鑄造機」さへ渡來してゐると「南蠻廣記」は書いてゐる。「古活字版之研究」はたくさんの切支丹版を寫眞で紹介してゐる。殊にローマ字綴の「太平記」の印刷は、私のやうな經驗者からみてもおどろくほど立派であつた。しかし信長、秀吉、家康に至る日本の政治的事情は、西洋印刷術を島原半島の加津佐から天草に逐ひ、天草から長崎に逐ひ、つひには長崎から國外に斥けて以後、徳川三百年間はその後を絶つた。「印刷文明史」の著者は言葉をはげまして次の如く書いてゐる。「若し日本において鎖國の令出でざりしならば、我國の洋式印刷術は豐臣氏の晩年より徳川氏の初期にかけて、既に隆盛をきはめしならん」
 ところが讀者の私には、切支丹版について三書三著者がそれほど力説してもまだつよくは感じないのであつた。肥前加津佐に渡來した印刷術が滅亡してから後、三百年の間、「蘭學事始」をめぐる人々や、その他澤山の日本の學者たちが、一方の欄はアルハベツトの活字印刷で、一方の欄は毛筆の墨書きでオランダの辭書を作つたやうな苦心を知らないし、林子平が「海國兵談」の版木を生命より大事に抱へ歩いた必然さを聯關して考へることが出來なかつた。大鳥圭介が鉛の鐵砲玉に文字を彫刻したとか、わけても本木昌造が、刀の目釘の象嵌に鉛を流しこんで、今日の活字字母の啓示を得たといふやうな、封建三百年の跛行的な日本文化の運命を、それこそ自分の背中にのせてウンシヨ、ウンシヨと搬んだやうな、じつに數多くのすぐれた人々の苦心が、文明開化の明治時代に生れあはせた私には、身に沁みてはわからぬからであつたらう。
 帝國圖書館の特別閲覽室は、夏はまだよかつたが、冬はスチームがとほらぬので寒かつた。圖書館にゆくときはなるべく早く家を出て、閲覽室の陽當りのよい窓ぎはに椅子をとらうと心掛けても、いつも常連に先を越されてしまふ。却つて陽ざしが辷つてしまつた正午頃になつておちついてくるが、そんなときふツと眼をあげて窓外をみると妙な氣分になることがある。風に搖いでゐる裸樹の梢を越えて、鈍い灰色の雲の中から飛行機の爆音が間斷なく降つてゐた。讀んでゐる書物の時代や空氣から一種の錯覺をおこして、いま自分たちが支那事變や世界大戰の裡にあることを忘れてゐることがある。そして室の中に眼を戻すと、机の上に背中をまるくした人々が咳一つしないで、昨日も今日も同じ後ろ姿をみせてゐるのが、何か不審に思へるやうなことがあつた。
 またこの圖書館の食堂は、私の知るかぎり東京の圖書館食堂で一等貧弱だと思へた。貧弱はかまはぬが、場末の安食堂のやうな亂暴さに加へて、をかしな官僚ぶりをもつてゐた。時節柄コーヒーもうどんもなかつたり、あるときはお菜だけあつて飯がなかつたりするのは仕方ないことであるが、
「お菜だけですよ、いいですかア。」
 カウンターにゐる女給は拳の腹で出納器の釦を叩きながら怒つた聲でいふのであつた。しかし私の關心はそれよりも食堂に入つてくる人々の容子が、町の食堂なぞでみるそれとずゐぶん異つてゐることである。學生だらうと紳士だらうとに拘らず、カウンターの突慳貪な聲にも、まるで叱られてゐるみたいに靜かにしてゐることだつた。
 あるとき割箸の屑で燃してゐるストーヴの傍で、私たちは三十分すると出來るといふ飯を待つてゐたが、三十分經つても却々飯は出來ない。私はしだいに苛々してきたが、やがて佛頂面してゐるのは自分一人だと氣がついてきた。汚れたテーブルの前に坐つてゐる學生も、さむいたたきの隅で凍える靴の爪先をコツコツやつてゐる紳士も、みんな默念としてゐる。同じテーブルに坐つてゐる二重※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)しを着た男は特別室の顏馴染だつたが、醤油のこぼれたテーブルを鼻紙で拭いて、うすい和綴の本を擴げてゐた。白髮の雜つた口髭も頭髮もだいぶのびてゐる。時折眼をあげて、女給たちの喋くつてゐる料理場の窓の方を見るが、またゆつくりとその蟲の喰つた木版本の上へ戻つてくる。氣がつくとその男がストーヴの方へ持ちあげてゐる竹の皮草履をはいた足のズボンには穴があき、足袋は手製らしく不恰好に白絲で縫つてあつた。
 私は少し恥かしく思つた。讀書人も十分に戰爭の中にゐるのだつた。彼等は爆彈が頭上におちてきても、自若として自分の研究を遂行するために、書物から眼を離さぬだけの覺悟はもつてゐると思はれた。
 ときたまの圖書館通ひであつたが、いつかその空氣に馴染んでゆくうち、おぼろげながら日本印刷術の輪廓がわかつてきた。ロンドンの大英博物館に世界最古の印刷物として保管されてゐるといふ陀羅尼經以來、日本の印刷原版は木ないし銅の一枚板であつた。もちろん唐や天竺の坊さんと一緒にきた印刷術であつて、量的にもいかにわづかであつたかは「古活字版之研究」にある附圖、室町末期の日本全土における印刷物の分布圖をみても明らかだ。何々の國何々郡何々寺所藏何々經何部といつたぐあひである。日本印刷術中興の祖は、秀吉の朝鮮征伐、銅活字の土産物に始まつてゐて、切支丹を長崎から逐つた同じ家康が、その活字を模倣してほぼ同數の銅活字を鑄造彫刻してゐる。それによる最初の開版は「古文孝經」と謂はれるが、そのくだりは私にとつて特に興味があつた。
 勅命によつて六條有廣、西洞院時慶の兩公卿は三ヶ月に亙り、毎日禁裡の御湯殿近くの板の間で、活字を拾ひ、ばれんで印刷する仕事を奉仕したことが、西洞院の日記にある。寫眞でみると、その活字ケースは今日のそれとまるで異ひ、字畫の似たやうなものを寄せ集めたに過ぎぬのだから、長い袂を背中にくくしあげた二人の公卿さまが、どんなに苦心して一本づつ探し拾つたか目にみえるやうで、それが日本文撰工の元祖であると思ひ、なつかしく尊い氣がするのであつた。
 世に謂ふ「一字板」の言葉のいはれもこの活字から始まつたことを會得した。銅活字はやがて木活字になり、日本の印刷術はしだいに大衆化したが、徳川の中期に近づくと、こんどは木活字が再び木版の再興に壓されてきた、と同書の著者は書いてゐる。詳しい原因は私に納得できぬが、幼少からの經驗からいつても、木活字は材が黄楊つげにしろ櫻にしろ、屈りやすく高低が狂ひやすい。印刷機がプレスでなくばれんであれば尚さら汚かつたにちがひない。而も再び木版に代られて、室町以前とは比較にならぬ印刷文化の隆盛をみたのは、印刷技術の進歩といふよりはむしろ當時の社會的事情にあつたのだらうか。
 私の目的はしだいに近づいてゐた。徳川末期になつて海外との折衝が頻繁になり、醫術にしろ鐡砲にしろ電氣にしろ、それらが武士や町人の間に研究され實踐されるに從つて、木版や木活字は何とか改良されねばならなかつたにちがひない。三百年前肥前長崎から逐はれた「活字鑄造機」のことを思ひだすよすがもなかつた人々は、たとひ蘭書によつてその片貌は察し得ても、グウテンベルグと同じやうな最初からの辛苦をかさねたことであらう。やがて大鳥圭介による鉛の彫刻活字が工夫され、「斯氏築城典刑」など、いはゆる幕府の「開成所版」なるものが出來た。寫眞で見ても、從來の木活版に比べると同日の比ではない。
 しかし私のやうな印刷工から考へると、近代活字の重要性は彫刻しないことにある。字母によつて同一のものが無際限に生産されることにある。そして本木昌造はそれを作つた。全然の發明とは云へないまでも、日本流に完成したのである。凡ゆる日本印刷術の歴史家たちもひとしくそれを認めてゐる。彼等は本木を近代日本印刷術の「鼻祖」といひ「始祖」と書いてゐる。
 私は本木の寫眞を飽かず眺めた。五つ紋の羽織を着た、白髮の總髮で、鼻のたかい眼のきれいな、痩せた男である。刀をさしてゐるかどうか上半身だけだからわからぬが、どの著書でも同一の寫眞であつた。それに私のやや不滿なのは、この近代活版術の始祖、日本のグウテンベルグとも謂はるべき人についての記述は、どの著書でも二三頁であつて、どの文章でも出典が同じらしく、幾册讀んでも新らしいものを加へることが出來ないことだつた。
 本木昌造についてもつと知りたかつた。西郷隆盛や吉田松陰について知れるがごとく知りたい。私は肝腎のところへいつて物足りない氣がした。勿論研究などといふもので、新事實を一つ加へるなどどんなに大事業であるかは察することが出來る。しかし多くの著者は本木の活字完成を印刷歴史の一齣としてゐる傾向があつた。或は初心者の獨斷か知れぬが、本木の完成あつてこそ、日本の過去の印刷術を語ることが出來る、といつた程の大きな峯ではないかと、ひとりで不滿に思ふのだつた。

      三

 昭和十六年の夏になつて、ある日H君といふ若い人が訪ねてきた。會ふのは始めてだが、私がいつか書いた印刷文獻に關する隨筆が縁になつて、「本邦活版開拓者の苦心」といふ書物を送つてくれ、二三度文通したことがある。H君は關西の人だが、最近上京して下谷方面の印刷工場で植字工をしながら、「本木昌造傳」を小説風に書きたいために、文獻をさがしてゐるといふ人だつた。さつぱりした白麻の詰襟服を着て、この職業特有の猫背で、痩せて、淺ぐろい顏である。
「あなたも昌造傳を書くんですか?」
 せつかちと見えて、坐ると詰襟の釦をはづしながら、すぐ云つた。
「いやア、そんなわけでも。」
 私はわらひながら答へた。實際私にはまだかくべつな目的はなかつた。第一本木昌造について殆んど知らないのである。
「いえ、本木傳はみな似たり寄つたりで、詳しいものはないやうですよ。だからネ、ぼくはあの時代の他の文獻から、外廓的といふか、そんな風に探してるんですよ、え。」
 また詰襟の釦を弄くりながらH君はゴンチヤロフの「日本渡航記」とか「日本艦船史」とか「川路日記」とかをあげた。「日本渡航記」はロシヤ使節プーチヤチンの長崎來航で、いはゆる長崎談判、この文章のうちに通詞として「昌造」といふ名が二度出てくるとか、同じプーチヤチンの下田談判には昌造がもつと活躍してゐるから、日本側の立役者川路聖謨の日記をよめば、彼の事蹟が少しは出てくると思ふが、この文獻はまだ讀む機會を得ないとか、「日本艦船史」は元來製鐵造船の先覺でもあつた本木の時代を歴史的に知るに好都合とか、べつに本木傳を書く氣はなくても、H君の話は興味があつた。
「あなたは三谷幸吉といふ人を知つてゐますか?」
 自分の話に一區切つけてからH君が云つた。
「ああ、百科辭典の本木傳に引用されてる人ですネ。」
 私はそれだけしか知らなかつたので、さう答へた。するとH君はいくらか不滿げに「ええ」とうなづいて、また云つた。
「本木研究ではこの人が代表的ださうですよ、ぼくもつてがなくて會つたことないんですがネ、そら、この本も實際の著者は三谷氏なんださうですよ。」
 H君が扇子でおさへたのは、私がいまH君に返さうと思つて、膝の上においてゐた「本邦活版開拓者の苦心」であつた。
「ヘエ、でも署名がちがふぢやないの?」
 四六判の小さい書物は津田といふ人の著書になつてゐる。
「さうですよ、津田といふ篤志な人で、いはばパトロンですね、文章を綴つた人も三谷氏ぢやない。三谷氏はこの中にある澤山の開拓者たちの遺蹟を足で探しあるいた人ださうですよ。」
「ホウ!」
 と、私は心から云つた。三谷つてどんな人か知らないが、この本を最初讀んだときから大變な仕事だナと感心してゐた。それには本木や本木の協力者平野富二の略傳もいれてあつたが、その他數十人の近代印刷術のために苦鬪した人々の事蹟が、長短いろいろではあるが調べられてあつた。加藤復重郎といふ日本最初の鉛版師、つまり紙型をとつて活字面を鉛の一枚板に再製する工程であるが、紙型は雁皮紙を數枚あはせれば凹凸が鮮明になることや、スペースと活字面の高低にボール紙を千切つて加減をとればいいといふことや、簡單のやうなことでも、それを發見するまでのさまざまの悲喜劇を織りこんだ苦心の徑路は、たとひ印刷業關係者でないものでも身うちの緊きしまる思ひがする。今日の活字の字形を書いた竹口芳五郎といふ人は、平野富二に見出されるまで、銀座街頭で名札を書いてゐたといふ話や、その他最初のルラーの研究者境賢治とか、今日の活字ケースを創つた山元利吉といふ人の苦心談といつたもの、複雜な近代日本の印刷術が完成するまでの、じつに澤山の有名無名の發明者、改良者の苦心が描かれてあつたが、私がこの書物の著者に感服してゐるのは、多くはもはや故人となつてゐる、それらの人々を探しあるいたこと、殊に發明者とか改良者とかいふ人が、多くは産を成したわけではないので、窮乏離散してしまつた遺族をたづねあるいて聽き取つたりする仕事も、並大抵ではなかつたらうといふことであつた。
「どうです、いちど三谷氏を訪ねてみようぢやありませんか。」
 H君は熱心であつた。
「住所はわかつてゐます。つてはなくてもさきに手紙を出しとけば會つてくれるでせうから、二人で行つてみませんか。」
「いいね、行きませう。」
 私もよろこんで答へた。
 それから數日經つとH君から手紙がきた。それによると三谷氏は入院中で、何病氣だかわからぬが面會謝絶ゆゑ、いましばらく見合せようといふことだつた。いくらか失望したが、また數日經つと、こんどは速達が來た。三谷氏は胃癌の大手術で經過が惡いさうだ、待つてゐても望みないから、話は出來なくとも見舞だけでもゆかうぢやないか、といふことである。早速應諾の返辭をやると、折返して濟生會病院だから、明日午後一時省線澁谷驛のホームで逢はうと書いてきた。
 八月の中旬でひどく暑い日だつた。私たちは澁谷で一緒になつて、五反田驛で降り、それから市電で赤羽橋まで行つた。停留場の近所で、見舞のしるしを買はうと思つて花屋へ入つたとき、私とH君は顏を見合せるのだつた。
「いくつくらゐの人だらう?」
「さア、いづれ年輩でせうネ。」
 まつしろな、山百合よりも清楚な感じで、もつと匂ひの淡い花を五六輪買つた。花屋の内儀さんに訊くと、これがさんざしといふのだつた。
「質問さしてもらへるやうだと有難いがなア、しかし惡いかしら?」
 みちみちH君は手帖をめくつてみせながらそんなことをいふ。手帖には以前から準備してゐたものらしく「昌造入獄の眞の原因は何なりや」などといつたことが二三、箇條書になつてゐる。私にも返辭はできなかつた。
 受附で訊くと病室はすぐわかつた。待合室の廣間をぬけると最初の廊下を左に折れた。窓はみんな開放しになつてゐて、ベツドが目白押しにならんだ廣い病室から患者たちの苦しい呼吸づかひが聞える。風がない日で、廊下には附添の婆さんなぞの、アツパツパの裾を太股までたくしあげた、けだるい風體でしやがんでゐるのや、バケツをさげて立話してゐるステテコのズボンから毛脛をむきだしたおやぢさんやら、そんな附添人たちの庶民的風體からしてもこの病院の性質がわかる。「三谷幸吉」といふ名札は、廊下の一番はしの入口に他の名札とならんでゐたが、先に立つてゐるH君がどちらのベツドだかわからず入りそびれてゐると、廊下にしやがんでゐた内儀さん風の四十あまりの人が、襷をはづしながら近寄つてきた。
「どちらさんでせうか?」
 小柄で、看護やつれをした顏に、洋服を着た人間なぞの訪問に馴れない人のオドオドした表情がある。H君が名刺を出して、前に手紙をあげた者だといふと、「はあ、はあ」と恐縮したやうに、
「三谷の家内でございます。」
 とお辭儀した。
 私もお辭儀して名刺を出すと、内儀さん風の人は、それをもつて内部へはいつていつたが、ツイ鼻さきの衝立のきはのベツドにあふのいてゐる、もうだいぶ地が透けてみえる白髮の雜つた頭が、當の三谷氏だ、とこちらでも見當がついた。
「こちらへお入んなさいと云へ。」
 あふのいたまま二枚の名刺を支へてゐる痩せた手首はふるへてゐるのに、案外大きな聲であつた。
「大丈夫なんですか?」
 廊下へ出てきた細君にH君がたづねてゐる。
「ええ、けふはどうしたんですかネ、とても元氣ですの。」
 襷を弄くりながら、
「それにもう、どつちにしたつて同じだつて、お醫者さんも――」
 と話しかけてゐるのに、ベツドからはかんしやうな大聲がつつぬけてくる。
「何をグヅグヅしとる、早く、はいんなさいと云はんか。」
 ハイハイ、と細君はそつちへ答へておきながらも、見ず知らずの人間にも頼るやうなオロオロした聲の調子であつた。
「だからもう勝手にさしとくんですよ。ええ、あれで本人だつて、あきらめてはゐるやうですけれど――」
 ベツドの傍へ近づくと臭氣が鼻を衝くやうだつた。ひろげた腹部はガーゼで蔽つてあつて、便はみんなその切開口から出るのださうである。三谷氏は痩せて萎びきつてゐるが、大男でベツドから兩足がハミでるくらゐ。さつきから名刺をもつたままの手をふるはせながら、首をこつちへ捻ぢむけて、顏だけでも起さうとする容子だつた。
「バカヤロ、枕をとるんだ。」
 口ぎたなく罵りつける言葉まで激しい。そして泳ぐやうに手をふりながら、眼をH君の肩ごしに私の顏へまつすぐにそそいで、
「よくきてくれたなア。」
 と云つた。吐き出すやうに言葉の尻はかすれながら、皺んだ眼尻にポタポタと涙がつたはつてゐる。
「ほんとによくきてくれた。」
 さつきからの泳ぐやうな手ぶりは握手を求めてゐるのだと氣がついたので、慌てて私は應じたものの、すこしびつくりしてゐた。重態の病人だからはじめての人間にもこんなに昂奮するのかと思つたのである。
 しかし三谷氏は握つた手をなかなかはなさないで、しげしげと私の顏を見入るのである。三谷氏はふとい鼻柱と、くせのある幅廣な唇許をもつてゐて、神經質でいつこくな風貌があつた。
「しばらくだつたなア。」
 呼吸をつぎつぎなつかしさうに云ふ。
「君も、年をとつたぢやないか、だいぶ白髮がある――」
 ボンヤリな私も不審になつてきたが、この三谷氏と、どこで逢つたことがあるだらう? 困つてそれをたださうとすると、とたんに相手は手を離してしまつた。
「なんだ、君ア知らずにきたのか。」
 まだ涙のつたはつてゐる顏に、無遠慮に不機嫌な表情がうかんだ。
「ホら、あそこで、共同印刷で――」
 私は思はず「ああ」と聲をあげた。これはまた何といふことだ。私は本木研究家としての三谷氏だけを考へてゐたのだ。私はも一度聲をあげた。
「ああ、三谷君でしたか――」

      四

 三谷氏と私はしばらく顏を見合せてゐた。病人は細君に涙を拭いて貰ひながら、くるしい呼吸づかひだが、滿足氣であつた。
 大震災當時のことだから二十年ちかくもならうか。共同印刷會社の第一製版工場で、私も三谷氏も同じ植字工だつたのである。その當座、私は自分の屬してゐたポイント科の工場がつぶれてしまつて、他の植字工と一緒に第一工場へ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)されてきたので、三谷氏がその工場ではすでに古參だつたかどうかは知らない。それに三谷氏は一緒になると半年くらゐでやめて他の會社へいつたので、とくに親しかつたといふわけでもないが、仕事臺がちやうどむかひあひになつてゐた。普通だと雙方のケース架の背でさへぎられてしまふのだが、大男の三谷氏はケース架の上に首だけでてゐた。いつも私は「オイ」と誰かが自分をよぶので、何氣なくあたりを見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)してゐると、とんでもない頭の上から彼のながい顏がのぞいてゐて、びつくりさせられたりしてゐたことを憶ひだす。
 三谷氏がその頃から本木昌造の事蹟について研究してゐたかどうかは知らなかつた。私たちより一時代先輩の職工だつたが、職人氣質なところはあまりなくて、いつも肩を聳やかしてゐるやうな、何事にも一異説をたてねばをさまらぬといつたやうな、いつこくなところがあつて、職長も彼にだけは「三谷さん」と稱んでゐたのをおぼえてゐる。
 しかし二十年ぶりの邂逅はあわただしいものであつた。細君はどうせ助からぬ病人だからといつても、私は手首の時計が氣にかかつてならなかつた。H君はそばで偶然な出來事にボンヤリしてるやうだつたが、三谷氏は「きみ」と至極晴やかにH君へ云つた。
「手紙ありがたう。ぼくもどうせ永くない命だから、生きてるうち、何でも質問したまへ。」
「は」とH君が固くなるのに、三谷氏はカラカラとわらひかける。
「遠慮要らんよ、歴史とか、研究とかいふもんはネ、すべてそんなもんさ、ああ、やつと探しあてたら相手は死にかかつてゐるなンて、ぼくもそんなことを何度も經驗したよ、こんどは俺の番といふわけだ、なアにたいしたこつちやないさ。」
 三谷氏は胸の上にかざしてゐる右掌の指をふだんに動かしてゐる。神經質になにか探してゐるやうな、その火箸のやうに長ツぽそい指の、殊にまむしの頭みたいに平べつたくなつてゐる人差指は、活字のケツを永年つついてきた植字工の指であつた。最初はさすがに遠慮してゐたH君も、却つて病人に促されてベツドのそばに椅子を寄せて、緊張しながら自分の質問を訊いてゐた。
「本木の入獄が? いろいろ説があるが、つまり洋書の購入にからんで、他人のために罪におちたといふのが、一ばん妥當だネ。」
「他人といふのは、品川梅次郎のことですか?」
「さうさう――だがね、入獄といつてももつと研究してみる必要があるよ、年代的に繰つても入獄の期間中、本木はいろんな仕事をしてゐることが、事蹟で明らかになつてゐる。それは、おれの本木傳を讀んでくれればわかる――」
 昂奮のせゐか三谷氏は元氣さうだつたが、だんだん呼吸ぎれがはげしくなつた。狹いベツドの衝立の間に棒立ちになりながら、私はそんな會話もよく耳にはいらなかつた。他に訪ねてくる人もないので邪魔はなかつたが、三十分くらゐのつもりが疾つくに過ぎたので、私はH君を促した。すると三谷氏はまだ殘り惜しげに、例のほそながい指を振つてみせるのだつた。
「ぢや、あしたまたきてくれたまへ、ネ、君たちにやりたいものがあるから、あしたとり寄せとくから――」
 細君も廊下まで出てきて、病人と同じやうに、あしたきてくれと繰り返すのであつた。襷を弄くりながらオドオドした調子で、もう見込みのない夫のために、最後の願ひがたとひどんなことであつても、無條件に尊重したい細君のひたすらな氣持があらはれてゐた。そしてしまひの方は涙でかすれる聲で云ふのだつた。
「ちかごろ、うちがあんなに喜んだ顏をみるのは始めてでございます。――あたしにはよくわかりませんけれど、うちは若い頃からもう本木先生の研究ばかりだつたので、よつぽどうれしかつたんでございませう――」
 もちろんH君も私もまた明日訪ねる約束をして病院を出たが、再び澁谷驛でわかれるまでH君はあまり口をきかなかつた。三谷氏への想像があまりにちがつてゐたこともあるが、研究家などといふものの生涯が、どんなに華々しくはないものか、眼の邊りに見たからで、私も同じ氣持であつた。
 しかしその翌日、同じ時刻に病院へ二人でゆくと、三谷氏の容態は昨日とまるでちがつてゐた。ベツドの上にかがまつてゐる醫師や看護婦のただならぬ後ろ姿が見え、細君も幾度か二人の姿を眼にいれながら、よくは視覺にうつらぬといつた風の容子であつた。
 しばらく廊下にたちつくしてゐる間にも、看護婦などの出入りがあわただしい。二人でけふは歸つた方がいいかも知れぬなどと話しあつたが、そのうち細君の顏がフイに入口からのぞいて手招きするのだつた。それはすこし怒つたやうな顏色で、私がそばへ寄ると、手に持つてゐる新聞包みをおしつけてから、短い聲で、
「ちよツと顏をみせてやつてください、ちよツと――」
 と、叫ぶやうに云つて、くるツとむかふむきになつて、袂で顏をかくしてしまつた。
 醫者はまだそこにゐた。衝立のそばまでゆくと、肉親の人らしい女の背中が少しどいて、そこから白いガーゼで胸から蔽つた三谷氏が見え、顏だけがあふのきにこつちを迎へてゐた。一と晩のうちにすつかり形相が變つてゐたが、くせのある唇許には、わりあひ元氣な微笑がただよつてゐる。
「や、ありがたう――」
 例の右掌がガーゼの間からうごいた。まだ唇がうごいてゐるが、よくききとれない。私がわからぬままにうなづいてみせると、ニツコリして、さも疲れたといふ風にむかふむきになつてしまつた。――
 夕方になつて私達は、新聞包みを抱へて病院を出たが、五反田驛まできてもすぐには電車に乘れない氣がして、驛前の喫茶店に入ると、その新聞包みをあけてみた。みんな粗末な裝幀で、一册は「本木昌造、平野富二詳傳」他の二册は「活字高低の研究」「植字能率増進法」であつたが、「本木昌造、平野富二詳傳」の方は、表紙に「再版原稿」と墨書してあつて、いろんな書込みや、貼込みがしてある。三谷氏は初版後さらに研究をかさねて、訂正増補版を出す心算であつたらう。
「偶然だナ、まるで遺言をききに行つたやうなもんだ。」
 若いH君はしきりと昂奮して、コーヒーに口もつけず繰り返してゐた。私はめくりながら序文など讀んでゐたが、本木傳は福地源一郎の原文を主にして、その傍に「編者曰く」とか「補」とか「註」とかいふ形で三谷氏の文章がならんでゐる。福地の原文は私が他の著書で讀んだ本木傳と大同小異であつて、その「編者曰く」や「補」や「註」が新らしいものだつた。それは氏が長崎や福岡へんまで行脚して、本木の遺族や平野の未亡人などから聽き得たこと、或は寺社や舊幕時代から、土地に殘つてゐる文章などから探しだした貴重なものだつた。
「偶然だナ、まつたく偶然だ。」
 H君はまだ云つてゐた。なるほど私と三谷氏との邂逅も偶然だつたが、本木傳に關心をもつて寄り集つたのが、三人とも印刷工だつたといふことも偶然だつた。
「あんたも本木昌造について何か書きなさいよ、ぼくも書く、宣傳するだけでも何かのためになる。」
「さうだネ。」
 私もボンヤリと天井をみあげながらこたへた。本木昌造を書くことは日本の印刷術を、日本の活字を書くことだ。そしていま死の迫つてゐる三谷氏のことを思ひ合せると、それを書く自分らの仕事が、次第に偶然ではない氣がしてくるのであつた。
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        サツマ辭書


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      一

 三谷幸吉氏が亡くなると、生前にあづかつた「本木昌造、平野富二詳傳」の再版原稿が、私にとつては遺言のやうな形になつた。つまり三谷氏の志を繼いで、私も近代日本印刷術の始祖ともいふべき人について、その功績を讃へるために何か書かねばならぬ。
 私は繰り返しその書物を讀んだ。主文は福地源一郎が書いたもので、明治二十四年發行の「印刷雜誌」に掲載されたものである。源一郎は櫻痴と號し、天保十二年長崎の生れ、やはり和蘭通詞の出身で、昌造とは十七年の後輩であるが、安政五年には十八歳で軍艦頭取矢田堀景藏について咸臨丸に乘り組んだことがあり、萬延元年二十歳では竹内下野守に隨つて歐洲へ使したこともある。非常に若くから活動したので、昌造とはいはば同時代的な期間もあつたに違ひなく、また同じ長崎通詞のうちでも航海や造船術の先覺でもあつた昌造に對しては私淑するところあつたかに思はれる。今日印刷歴史書やその他で本木について書かれる傳記的文章は、主としてこれから出てゐると謂はれるが、それは五百字詰の用紙にすると二十枚足らずであらうか。
 三谷氏がこの書物に「詳傳」とつけたのは、その福地の主文に「補遺」とか「註」とかの形でほぼ同じながさの、自身で行脚、探索した事蹟や聽き書きを附加へたことに因るのであらう。たしか私の讀んだ範圍では、昌造についてこれより詳細なものを他に知らないが、また一方からいふと、本木についてはまだこの程度しか書かれたものがないといふことにもなる。
 私は友人知人の助をかりて、洋學の傳統とか、幕末の事情と長崎通詞の關係などを知らうと努めた。また江戸末期の印刷についてくはしく知らうと努力したが、どちらを向いても初心の私には茫洋としてゐて、昌造のイメーヂはさつぱりうかんでこぬうちに、昭和十六年は過ぎ去り、十七年も春になつてしまつたのである。
 ある日、私は日本橋のSビルの一室にある「印刷雜誌」社を訪ねた。そこには三谷氏の生前からの希望で、氏が昌造について蒐集したものが、「印刷博物館」に納めるために引きとられてあつた。私はその蒐集品のうち、昌造の著書「新塾餘談」の第三篇を見たかつたからである。「詳傳」によれば、昌造には「蘭話通辯」のほか「海軍蒸氣機關學稿本」「デースクルフ・デル・ユトームシケーベン抄譯稿本」「英和對譯商用便覽」「物理學」「祕事新書」「保建大記」「數學品題」「新塾餘談」「西洋古史略」等の著譯書があるが、それらは今日散逸してゐて、所在の知れたものでも何某所藏となつてをり、何某の所番地もわからない。わづかに三谷氏蒐集の分だけが私には可能な手がかりであるが、せめて著書の一端からでも昌造の意見なり考へ方なりを窺はうと思つたからであつた。
 印刷雜誌のM・T氏は、私の持參した三谷未亡人の紹介状をみて、快く承諾し、給仕に命じて、室の隅から大きな柳行李を持ちださしてくれた。三谷氏の蒐集品は、まだ印刷博物館が出來あがつてをらず、保管してくれる篤志な有力者への引渡しも濟んでゐないので、自由にみる譯にはゆかなかつた。
「新塾餘談」第三篇は、上下二册になつてゐて、樺色表紙の薄い和綴の本である。明治四年の發行で、四號くらゐの鉛活字で印刷されてあつたが、披げてゆくうち私は失望してしまつた。ある航海日誌であつて、昌造の著書でないことは昌造自身の序文で明らかにしてある。推測するところ萬延元年アメリカへ日本使節として行つた木村攝津守、勝麟太郎一行のうちの誰かの日誌らしいが、途中マニラに寄港したことや、大統領に歡待されることなどが出てくる。殊に港々で水何千ガロンを買入れるとか、風速とか、温度とかが最も熱心に書き入れてあつた。昌造の序文も至極かんたんで、自製するところの鉛活字によつて出版するが、これは友人茗邨君が送つてくれた航海日誌である。夷狄の風物も面白く、航海の實際も讀者を裨益するところ尠くないと思ふから一讀を乞ふといふ程のことである。
「茗邨君といふのは誰でせう?」
 M・T氏に訊いてみた。木村、勝の一行は時の海軍練習生が大部分であらうと思はれるが、昌造の友人とすれば或は長崎通詞で隨行した人かも知れない。M・T氏も小首を傾げて「さあ」と云つた。
「K・H氏に訊いたらわかるか知れませんネ。」
 私はK・H氏を知らなかつた。
「紹介してもいいですよ、ほかの著書も蒐めてゐるか知れない。三谷氏が亡くなつたから本木研究ではこの人が一ばんでせう。」
 M・T氏は卓の上に名刺をおいて、紹介を書き始めたが、ふと顏をあげると笑つて云つた。
「尤もK・H氏は三谷氏とは論敵ですがネ、つまり三谷氏は本木説、K・H氏は大鳥説と云つたぐあひですな。」
 どちらに加擔するでもない風に、M・T氏は笑ひ聲をあげたが、そんなに前提するところをみれば、私を三谷派とみたらしい。
 しかし私は專門家同志の論爭に對して、かかづらふ程の知識も資格もないので、M・T氏から紹介名刺をもらつて、そこを出たが、心ではこの「活字の元祖爭ひ」はあまりに明らかであると思つてゐた。大鳥圭介が幕府開成所版に錺屋につくらせた鉛活字を用ひたことは、印刷史上特筆すべき功勞にちがひないが、私も某所でみた大鳥の「斯氏築城典刑」の實物は、字形が夫々異つてゐて彫刻に違ひないと思はれた。近代活字の重要さは、電胎法による字母が完成したことにあるので、本木だけがそれをやつたのだと思つてゐた。それに今一つは、ある書物で「大鳥圭介傳」の孫引から讀んだ字句が私には氣にくはなかつたのである。「――蘭書に基き、その鑄造法を種々研究して、遂に兩書の出版に手製の活字を使用したことがあつた。我邦における活字の開祖としいへば、世人長崎の平野富治を推すも、此は西洋の機械を初めて輸入して製作したるものにして、予が在來の錺屋に命じて鐵砲玉を作るが如くにして作りたるとは、その難易同日の論にあらず、而して予の製作は平野に先つこと數年なれば、日本に於ける活字の元祖は斯く申す大鳥ならんと云ひしことありとぞ――」
 平野は本木の門下であり協力者であつて、彼が昌造の活字を船につんで東京へ賣捌きに出たのは明治四年の夏のことであるから、大鳥の言を傳記筆者の儘に信ずるとすると、この言葉も明治四年以後であることは明らかで、嘉永元年以後二十餘年に亙る本木の失敗苦心とその存在を知らなかつた譯である。當時の交通事情と多忙だつた大鳥の生涯からして仕方ないとしても、この磊落な政治家らしい口吻のかげには、どつか學者として或は發明家として眞摯なものが足りない氣がするのだつた。
 數日後、私は牛込にK・H氏を訪ねた。K・H氏は×××印刷會社の重役で、もう殆んど白髮の脊のたかい人だつたが、めづらしい印刷文獻をたくさん蒐めてゐて、親切に奧の室から一束づつ抱へてきては見せてくれた。なかには村垣淡路守(?)一行が歐洲行をしたとき、オランダから贈られた疊半分もあるやうな「鳥類圖譜」の大きい革表紙石版刷りの本があつたりした。初版「本草綱目圖譜」の見事な木版印刷に見惚れたりして、殆んど一日を過してしまつたが、K・H氏は昌造の「新塾餘談」第一篇上下、及び「祕事新書」一卷をも蒐めてゐた。主人に失禮ではあつたが、私は一ととほり讀ませてもらつた。そしてここでも私は失望してしまつたのである。
「新塾餘談」第一篇二册には、たとへば「燈火の強弱を試みる法」と題して、「この法は例へば石炭油の火光は蝋燭幾本の火光に等しきやを知らむためなり」といつた風に説いてある。その他「醤油を精製する法」「雷除けの法」「亞鉛を鍍金する法」「假漆油を製する法」「ガルフアニ鍍金の法」といふやうなことばかりで、他には何もなかつた。「上」の方には「緒言」と題して、「予嚮に祕事新書と題する一小册を著はす、專ら居家日用の事に關し、頗る兒戲に似たりと雖も又聊か益なしとすべからず、猶次篇を乞はるること切なり、されば事の多きを以て默止せしを、ちかごろ予が製する所の活字稍その功なるを以て、このたび倉卒筆を採り編を繼ぎ、更に新塾餘談と題し、毎月一二度活字を以て摺り、塾生の閑散に備ふ、これその餘談と題する所以なり、素より文字を以て論ずるものに非ず、見る人その鄙俚を笑ふこと勿れ」と述べ、彼の別號で――笑三識――とあつた。
「祕事新書」は文久二年の著述であるが、これの内容も「透寫紙の製法」とか「硝子ビイドロ鏡の製法」とか「水の善惡を測る法」とか「石鹸の製法」「流行眼を治する法」とかいふ類のものばかりで、私がさがしてゐる彼の風貌がうかがへるやうな、意見や主張を書いたものではさらになかつた。
「昌造の意見を述べたやうな著書はないでせうかネ。」
 私はK・H氏に訊いた。本木の著書は多い方ではない。しかも私の見た五册をのぞけば他は題をみてもわかるやうに、數學とか物理とか、英語や蘭語の辭典みたいなものが殆んどである。
「さア、たぶんないか知れませんよ。」
 K・H氏も首を傾げながら云つた。私はすこし途方にくれた氣持になつた。あんないろんな仕事をした人物が、何の意見も理想も持たなかつたのだらうか? 私はいつか病院で三谷氏が云つた言葉を思ひだしてゐた。「本木は、つまり工藝家だネ、器用で、熱心で……」。そのとき私は不滿だつたが、やはりただの器用な工藝家なんだらうか?
「それから何ですネ、電胎法による活字字母の製作は、昌造以前にもあるんですよ。」
 ぼんやりしてゐる私の耳許で、K・H氏が云つた。
「江戸神田の木村嘉平といふ人が安政年間に島津齊彬に頼まれてそれをやつてゐる。また電胎法のことは嘉永年間に川本幸民が講述してゐるし、たぶん實驗ぐらゐはやつたでせうな。」
 これが證據だといふ風に、K・H氏は數册の書物を私の手に持たせた。一つは黒茶表紙の古びた寫本で「遠西奇器述」といふのであり、木村嘉平のことを書いたのは、片手で持ちきれない大きな本で「印刷大觀」といふのであつた。
 私は私の主人公がだんだん箔が落ちてゆくやうな氣がしてゐた。主人のてまへ蟲の喰つた寫本を一枚づつめくつてゐるものの、少しも文字づらは眼に映つてはこなかつた。「ま、本木昌造の功績といへば、近代活字を工業化したといふ點にあるんでせう。」
 私は心のどつかでしきりと抗はうとするものを感じながら、K・H氏のゆつくりと結論する言葉を聽いてゐたが、K・H氏の川本幸民や、木村嘉平についての説明を聽けば聽くほど、私の抗はうとする氣持は、よけい窮地に追ひこまれていつた。
「要るんだつたらお持ちなさい、ええ、ぼくはいま使つてゐませんから。」
 私は「遠西奇器述」の寫本と、他二三の書物を借りて風呂敷につつんだが、それはたぶんに負惜みみたいな氣持であつた。私は親切なK・H氏に見送られて玄關を出たが、すつかり悄氣てしまつてゐた。

      二

 すこしばかり出來かかつてゐた本木昌造のイメーヂは、私の頭の中で無殘にくづれていつた。最初のうちは「遠西奇器述」の寫本など見る氣がしなかつた。私の頭の中には、白髮の總髮で、痩せた細おもての燃えるやうな理想と犧牲心とで肩をそびやかした昌造の横顏が、かなり濃く映つてゐたが、いまはぼやけて、至つて平凡な、少々手先が器用で、物ずきで、尻輕な、どつか田舍の藪醫者みたいになつてゐた。
 つまり、私の主人公はえらくなくなつてしまつたのである。大鳥が鉛をはじめて活字のボデイとして實用化したり、木村が電胎法で最初の活字字母を作つたとしても、それとは無關係に、嘉永の初期からこつこつと、二十餘年をつづけたといふ昌造の辛苦の事實を忘れたわけでもないが、彼の理想や觀念は著書にも見ることが出來ず、何かトピツク的なことがなければ工藝のことなど、それ自體としては小説にはとらへどこがない氣がするのであつた。
 私は主人公を見失つて、もう止めようかなど考へながら、漫然と洋學の傳統など調べては日を暮した。しかし、しばらく經つうちに、幕末の、殊に安政以來の洋學はその政治的事情から、ひどく實利的に赴かねばならぬといふことを知つた。天保十二年に渡邊崋山が自殺し、嘉永三年に高野長英が自刄してから以來といふもの、洋學者たちはただその實利性のみに頼つて生き得たといふ傾向は、昌造たちにも影響せずにはゐられまいと考へることが出來た。たとへば昌造の「新塾餘談」の序文にある――素より文字を以て論ずるものに非ず、見る人その鄙俚を笑ふこと勿れ――といふ文句も、そんな眼でみれば意味が無くはない。
 それに工藝とか科學とかいふものは、それ自體が、いはば理想の顯現ではなからうか。觀念の世界とはちがつて、ただ才能があるだけで、或は環境や條件のせゐで、ないしは功名心や利害關係だけでも、發明や發見や改良をするやうな偶然も、けつして尠くはないにちがひない。しかしそれでも根本を引き摺つてゐるものは、それぞれの差異はあれ、大きく云へば理想にちがひなからう。昌造の著書がみんな「雷除けの法」とか「流行眼を治す法」とかばかりであつたとしても(いや私は全部讀んだわけでないから斷定もできぬが)、それも彼の理想の一端ではなからうか。當時の世情からすれば、「石鹸を製する法」でも、「水の善惡を測る法」でも、新知識であつたし、彼の「緒言」にあるやうに讀者がもとめたものであらう。殊に近代活字創成のための二十年間の辛苦をひつぱつていつたものは、單なる功名心ではないにちがひない。
 私の頭の中では、以前とはだいぶちがつた形で、昌造のイメーヂが映りはじめてきた。私の主人公はえらくなくはないが、つまり偉人などといふものではなかつた。これといふ奇行も特徴もないが、器用で、熱心で、勉強家で、法螺もふかず、大それた慾望も持たず、ひたすら世のために、人のために役にたつことを理想としてはたらいた、眼のきれいな痩せた老人だつた。
 こんな老人にとつては、「活字の元祖」爭ひなど無用にちがひない。それを爭つてゐるのは他ならぬ私自身であつた。大鳥圭介が鉛を活字ボデイに實用化した功績も讃へようではないか、川本幸民が電胎法を祖述した功勞にも感謝しようではないか。木村嘉平が島津の殿樣に頼まれて、電胎法による活字字母を創つた辛苦も賞讃しようではないか。發明とか改良とかいふものが、すべてそんなものなのだ。天氣晴朗なる一日、何の誰がしが忽然と發見するやうな、そんなものではない。グウテンベルグの發明にも、その前後に澤山の犧牲的な研究者があつたればこそだ。本木はたまたまその最後の釦をおした代表者だつたのである。そんなつもりで私はこの老人の傳記を書けばよいのだ。私はひとりでに、をかしくなつてきた。私が元祖爭ひをして憂鬱になつたのは、じつは私が勝手に頭の中ででつちあげてゐた、似もつかぬ小説の主人公のせゐだつたのである。
 ある日、私はくつろいだ氣分で「遠西奇器述」の寫本を讀んだ。これは幸民が口述したものを、門生田中綱紀と三岡博厚とが筆記したものである。門生田中は凡例の一に、「此篇ハ朝夕講習ノ餘話ヲ集録ス故ニ往々錯雜ヲ免レズ其説多クハ一千八百五十二年我嘉永五年撰スル所ノ和蘭人フアン・デン・ベルグ氏ノ「理學原始」ヨリ出ヅ直寫影鏡ハ數年前吾師既ニコレヲ實驗シ蒸汽船ハ本藩已ニコレヲ模製ス他ノ諸器ハ未歴驗セズト雖其理亦疑フベキコトナシ」と書いてゐる。田中は何藩か私にわからぬ。この寫本に年代も記されてないが、新撰洋學年表によると嘉永元年の項に「川本幸民始て寫眞鏡用法を唱へ出し又燐寸の功用を説く」とあり、嘉永四年の項に幸民の著述例のうち『「西洋奇器述」等の著あり』とあるから、この凡例の「嘉永五年云々」は少し怪しく、も少し以前だつたかと思はれる。とにかく寫眞や蒸汽船やを説いてゐるうちの一つに「電氣模像機」といふ題で口述してゐるのがそれであらう。
「此術ハ一金ヲ他金上ニ沈着セシムル者ニシテ金銀銅鐵石木ヲ撰バズ新古ニ拘ラズ其上ニ彫刻スル所ノ者ニ銅ヲ着カシメコレヲ剥ギテ其形ヲ取リ以テ其數ヲ増ス次圖ハ其製式ナリ」とあつて、以下は幾つも圖解して綿密に説いてある。今日からみればごく初等な電氣分解の原理であつた。一つの容器に稀硫酸と他に目的とする銅粉をいれた液體の中に、二つの金屬板をたてて極板とし、これに電氣の兩極をつなぐ。すると一方の極から一方の極へ電氣が流れてゆく作用で、分解した銅粉は一方の極板に附着する。電胎法と稱ばれる今日の活字字母の製法は、これを二度繰り返すことで母型をつくるので、例へば最初の種子たね、「大」なら「大」といふ字を彫刻した凸版(雄型)に一度この法を用ひて雌型(凹字)の「大」をとり、いま一度繰り返して、こんどは雌型「大」から雄型「大」をとるのである。
「木版ハ數々刷摩スレバ尖鋭ナル處自滅シ終ニ用フベカラザルニ至ルコレヲ再鏤スルノ勞ヲ省クニ亦コレヲ用フベシ」と説いてゐるが、これで讀むと幸民は鉛のボデイをふくめた鑄造活字のことまでは思ひ及んでゐないと思はれるが、「其欲スル所ニ從テ其數ヲ増スヲ得其版圖ノ鋭利ナル全ク原版ト異ナラズ」と述べてゐるあたりは、或は實驗くらゐやつたか知れず、電氣分子による分解作用のいかに零細微妙であるかに感動してゐるさまが眼に見えるやうである。
 川本幸民は醫者であつた。呉秀三の「箕作阮甫」に據ると、「幸民は裕軒と號し攝州三田の人。幼い時藩の造士館に學び、二十歳江戸に出て足立長雋の門に入り、後坪井信道に就いて蘭醫學を受け、緒方洪庵、青木周弼と名を齊くした。天保三年其藩の侍醫に擧げられ、安政三年四月蕃書調所の教授手傳出役となり、四年十二月教授職並に進み、六年七月遂に教授職となる。文久二年徴出されて幕士になる。「氣海觀瀾廣義」「遠西奇器述」「螺旋汽機説」「暴風説」等の著述があり、親ら藥を製し又玻※(「王+黎」、第3水準1-88-35)版寫眞を作り、又阮甫と前後して薩摩の邸に出入して、島津齊彬侯の爲に理化學上の事などを飜譯又は親試したこと尠くなかつた」とある。また洋學年表安政元年の項によれば「島津齊彬曾て川本幸民の記述「遠西奇器述」を讀み西洋造船法を知りたれば其主九鬼侯に請ひ祿仕せしめたり」とあるし、勝海舟手記による安政二年頃の江戸在住蘭學者たち、杉田成卿、箕作阮甫、杉田玄端、宇田川興齋、木村軍太郎、大鳥圭介、松本弘庵など俊秀のなかでも、幸民は特に理化學に擢んでてゐたといふ。しかも、この頃の學者たちは、西洋の本を飜譯するといふだけではなかつたのだ。たとへば嘉永の始めごろ幸民がある男に燐寸の話をしたところ、相手は實際そんなことが出來るなら百兩やらうと云つた、すると幸民は直ちにその男の眼前で燐寸を發火させてみせたので、相手はいまさら言を左右にしたが、嚴重にせまつて百兩をとりあげたといふ※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)話があるのにみても、當時の學者たちは今日と比べてもつと實踐的だつたにちがひない。
 私は蟲の喰つた寫本の肩をいからせた墨書き文字をながめながら、百年前の鬱勃とした知識慾といふか、進歩慾といふか、そんなものを、身體いつぱいに感じながら、當時の世界を想像してゐるうちに、K・H氏にきいた木村嘉平のことがつよく泛んできた。島津の殿樣に頼まれて、蘭語の活字を作るために十一年を辛苦した人、幕府の眼を怖れて晝間も手燭をともした、くらい一室で、こつこつとのみたがねで木や金を彫つたといふ人……。
 私は夕方だといふ時間さへ忘れてゐた。近所の公衆電話にいつて×××印刷會社へかけると、K・H氏は疾つくに退けたあとだつた。自宅へかけるとK・H氏は快く應じてくれた。その日は朝のうち空襲警報が鳴つて、午後からは雨だつた。警戒警報はまだ解除になつてをらず、町もくらく、電車の中もくらかつた。
 私はみちみち一つの發明や改良について、どれだけ澤山の人が苦勞を重ねるものかなど考へてゐた。殊に言語をあらはす活字については多くの知識人がそれぞれに關心を持つたであらうと考へた。たとへば杉田成卿は「萬寶玉手箱」のなかで、「西洋活字の料劑」といふのを書いてゐる。「萬寶玉手箱」は安政五年の刊行となつてゐるが、「活字は大小に隨つて鑄料に差別あり。その小字料は安質蒙(アンチモン)二十五分、鉛七十五分。大字料は――」といつたぐあひである。また年代はずツと遡るし土地も異るが、レオナルド・ダ・ヴインチも活版術の成功に骨折つたらしく、ハンドプレスに似た印刷機の構案を圖にしたのが、ある雜誌に載つてゐたのを思ひだしたりした。市電角筈の停留場までくると、くらいガード下で、私は誰かの背中にぶつつかつた。うごけないままにたつてゐると、すぐ背後も人でいつぱいになつた。ここで折返しになる「萬世橋行」が、遮蔽した鈍い灯をかかげてビツコをひくやうに搖れながら入つてくると、こんどはシヤベルでつつかけるふうに、踏段やボートにつかまつた人間を搖りこぼしながら出ていつたが、黒い人垣は氾濫する一方で、傘をひろげると誰かが邪慳につきのけた。灯はどこにも見えず、空はひくかつた。何か壓迫されるやうな空氣がみんなを押しだまらせてゐる。身動きするたびに邪慳にこづきかへす肘があつて、私のあごの下には背のちひさい婆さんの髷あたまがつつかへてゐた。すると少しうしろの方で、しやがれたのぶとい聲がきこえた。「はるさめぢや、ぬれてゆかう――」やくしやの聲色である。すると誰かがクスツとわらつた。私もわらつた。つづいてあつちこつちで、おしかぶさる空氣をハネとばすやうに、笑ひが傳染していつた。――
 私は闇をつらぬくあたたかいものを身内に感じてゐた。牛込北町の通りも眞つくらであつた。見おぼえの新潮社の建物が仄じろく浮いてゐたので、やうやくK・H氏の邸が見當ついたくらゐだつた。
「濡れたでせう、よく出てきましたネ。」
 K・H氏は親切に應接間を明るくして待つてゐてくれた。そして例の「印刷大觀」を出してくれながら云つた。
「私もまだサツマ辭書の初版といふのは見てゐないので、斷定は出來ませんがネ。」
 私はそれを讀みながら、K・H氏は木村嘉平のつくつた活字でサツマ辭書が印刷されたのだといふ、その文章のうちのある事實のことを云つてゐるのだと理解した。
「しかし、この本の活字はたしかにそれだと、私は思つてゐるんだが――」
 また奧の室から一册の本を抱へてきて、私の膝にのせながら、K・H氏は云つた。
「オランダ文法の單語篇ですがネ、江戸で印刷されたものだといふことは明らかのやうですよ。」
 古びた青表紙の大福帳のやうな本である。分厚く細ながく、袋綴の和紙に、こまかいイタリツク風の歐文活字で印刷してあつたが、一見鉛活字だといふことは明らかだ。
「ネ、この字づらの不揃ひな點など、輸入活字とちがふと思ひませんか。」
 私も同感であつた。K・H氏の説明によると、この「和蘭文法書」は、當時の江戸書生の間にひろく讀まれたものださうで、これより少しさき、安政三年から四年へかけて、長崎奉行所でも和蘭文法書の「成句篇」「單語篇」が刊行されたが、それは輸入活字であつて、字形がちがふといふのであつた。
 私はもすこし木村の活字の行衞を知らうと思つた。K・H氏は私の考へに贊成してくれて、二三の參考書を貸してくれながら、
「I・K氏を知つてますか?」
 と訊いた。私は少しまへに長崎通詞のことで、友人の紹介で一度I・K氏を訪ねたことがあつた。江戸期における洋學傳統の研究家で、特に英語の歴史については權威ある人だと謂はれてゐた。
「さうだ、I・K氏に教へてもらつたら、サツマ辭書の活字がわかりますネ。」
 私は答へながら勇みたつてゐた。

      三

 木村嘉平は、本木昌造より一年早く、文政六年の生れ、江戸神田小柳町に住んだ。代々彫刻師で、十八歳にして業を繼ぎ、特に筆意彫りをもつて謳はれてゐたといふ。宮内省にも出入し、當時諸大名の藩札の原版は多く嘉平の彫刀に成つたと謂はれる。
「印刷大觀」の「昔時本邦創成の和歐活字製作略傳」には次のやうに書いてある。「右活字は安政年間、薩摩守齊彬公樣より江戸神田小柳町において代々彫刻を業とせる木村嘉平に命じ、嘉永元年より元治元年に至つて完成せる遺品にして、その作品中には鋼鐵製の一端の面に文字大は四厘より一分五厘まで、數種類の深く凸形に彫刻せる數百の文字、數百の銅製凹字母、金屬製三個より成る鑄造機、各活字字形、數千の木製模型、彫刻用の鑛のみ及び電氣銅版に使用する鑛銅用の器具、蝋石面に彫刻せる和文數千の種字印刷機兼植字機、その他參考せる蘭書等、いづれも當時使用せるものにて今日尚保存するところなり」
 この文章は若干不親切で、繁多な器具遺品の模樣が、植字工であつた私にもちよつと理解しにくい。同文章はつづけていふ。「嘉平は二十五歳にして薩摩守樣の召すところとなり、當時齊彬公樣は歐文書類を版本としてあまねく御藩中に學ばしめんとの御尊慮によつてひそかに嘉平に御洩談あらせらる――」。
 島津齊彬がひそかに輸入した蘭書を藩士一統に讀ませて、夷狄の新知識をわがものとせんとした英斷はよくわかるが、飜譯のできる學者も澤山あつた當時に於て、蘭書をそのままの蘭文で、しかも歐文活字を創成させてまで刊行しようとした意圖は、どういふのであつたらうか? あはせて藩士の語學力を強化せんとしたのだらうか? それとも幕末當時の、蒸汽船を作るにも、大砲を作るにも、雄藩同志が鎬をけづる競爭のいきほひであつたから、祕密を守るために歐文としたのだらうか? しかし私は考へる。いやいやさうではあるまい。尠くともそれだけではあるまい。何よりも大きな理由は、歐文ならばアルハベツト二十六文字の字母創成で、萬事が足りるといふこと。島津齊彬も木村嘉平も、まづは捷徑を選んだのではなからうか※(疑問符感嘆符、1-8-77)
「しかし當時歐品としいへばすべて幕府の禁止するところ――嘉平は自家の一部に密室をつくり晝夜燈火を具へて」とある。「櫻材をもつて模型をつくり數多のやすりたがねをあつらへ、銅又は眞鍮を用ひて、長方形大小各種の種字を作りだし」云々。嘉平の寫眞は世につたはつてゐないらしいが、一代の名工が、十一年の年月、世を憚る密室のうちで、心血を濺いで稀代の活字字母をつくりださうと苦心するさまを想像すると、百年を距てて特に活字に縁のある私には眼頭の熱くなる思ひがある。「又別に銅にて作れる鋼鐵を用ひて三個の長方形なる金物を組み合せて、字母を嵌めこみたる穴に、圓形なる器にて鉛を注ぎこみ、穴を縱の上部より底通迄に鐫りぬきて、尚空氣穴をうがてる鑄造機を造りて云々」ちよつと素人には理解しにくいか知れぬが、これはつまり「手鑄込み器」の説明である。同じ嘉永の四年には、本木昌造も既にこれをつくり出してゐるが、長崎と江戸と距てては相知るところがなかつたであらう。そしてもつとはるかなる感慨は、これよりも十五六年以前、西洋暦にして千八百三十四年アメリカのデヴイツド・ブルースが、所謂「ブルース式カスチング」を發明して、世界の印刷術界に革新をもたらしてゐることである。私たちは幼時この※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)轉式の「ブルース式」によつて育つたが、いま嘉平や昌造の苦心を傳へ讀んで、「ブルース式」から「手鑄込み器」の歴史まで遡ることができるのだ。
 そして嘉平の困苦はまだつづく。十年めに一應出來あがつた活字製法は、木や銅に手で彫つた種字が、實用に堪へぬうちに破損してしまつた。「しかし以上の方法でも種字は破損しやすく、徒らに年月を費し、嘉平は齊彬公樣の御意に報い得なかつた。――偶々島津侯の邸内に月々理化學の講義があるのを聞知し――一日偶々同邸において和蘭人に出會し、電氣學の一部を研究することを得、是より蝋石面に種字を凸形に彫刻し、高度に溶解せる液體の中に浸漬し――」云々と。これは川本幸民の「遠西奇器述」で説くところの電胎法である。
 斯くして、嘉平の活字字母は出來上つたのだといふ。そこで私は考へるのだが、島津ほどの大藩であつたから、或はオランダ人もその江戸邸に出入することも出來たか知れぬ。齊彬から二代か以前の島津重豪などは、新知識を學ぶために蘭人を厚遇したといふし、オランダのカピタン・ヅーフなどは江戸參府の歸途、島津江戸邸の門前を通過するときは駕を降りて、日本流に敬禮したと、彼自身の「日本囘想録」に見えてゐるくらゐだから、或は信用していいか知れぬ。しかしそれよりもつよく、當然私らの考へにはいつてくるものは、「島津侯に祿仕せしめられ」た川本幸民であり、幸民と嘉平とのつながりであらう。殊に「月々理化學の講義云々」を思へば、直接ではなかつたにしても、この學者と名工が科學の絆によつて、何らかの形でむすばれたらうと想像することは無理であらうか。
 ところで私は「嘉平の活字」の行衞を追つかけなくてはならない。手がかりは二つあつて、一つは前記の「昔時本邦創成の和歐活字製作略傳」中の末尾に見える、嘉平の活字がサツマ辭書の印刷に用ひられたといふのであり、いま一つはK・H氏が私に見せた大福帳型のオランダ單語篇と、同じくK・H氏が「八王子の活字」と稱ぶところの、やはり蘭書「濟生三方附醫戒」である。單語篇のイタリツク風の活字は既に見た。「濟生三方附醫戒」はK・H氏もまだ見てないらしいが、同氏が「八王子の活字」と名づけてゐるところの所以たる、ある文獻を貸してくれた。それは第千百五十號の中外醫事新報と、同第千二百八十六號別刷の薄つぺらな古雜誌である。そのどつちにも陸軍軍醫中將秋山練造といふ人が書いてゐるが、別刷の方には「安政五年父の飜刻せる蘭書「濟生三方附醫戒」について」と題してある。
 練造氏の文によれば秋山氏は代々八王子に住んで、「濟生三方附醫戒」を出版した先代方齋は「幼名佐藏と云ひ、祖父の死後家と名を襲ぎて、義方と稱し、醫にして士であつ」た。安政五年の出版で、蘭書フーフエランドの寫本を原稿として鉛活字で印刷したといふ意味が述べてあり、練造氏の幼時の記憶によれば「又活字も診察室の戸棚に澤山あつたものでした。それが皆我家全燒の時失はれて――活字の鑄型が二個殘つて記念となつてゐるのみです」。また別のところでは「印刷に用ひた活字は少くとも五種を見ることが出來る。即ち大文字大中二種と、同じ大文字ながら少しく右に傾むいたもの、並びに小文字及イタリア風小文字である」。
 寫眞でみる同書の製本は粗末で不細工ではあるが、ハイカラな英語のリイダアでもみるやうな洋裝であつた。鑄型が殘つてゐるといひ、「之を緒方博士所藏の蘭本原文と比するに文章は勿論同じだが、第一には、活字の大きさが違ふ爲各行が必ずしも同じでないのみならず、その他はくだ/\しい故ここには詳記しないが、五六廉位、植字の形式が違つてゐるのは不思議でない、況んや前記の如く寫本によつて植字したものと考へられるに於てをやである」といふ文によつても、或は輸入活字ではないかも知れぬ。しかし安政五年といへば「昔時本邦創成の和歐活字製作略傳」を信ずるかぎり、嘉平の活字は完成の緒についたくらゐの時であり、たとへば完成してゐたにしても島津の殿樣が他への流失を容易に許したらうか? 專門家でない私などの判斷はをこがましいが、若しそれがオランダ單語篇の活字とも相違するならば、そして輸入活字でないならば、嘉平の他にも活字を作つた人間がゐるといふことになる。
 私は何とか手づるを求めて秋山氏の「濟生三方」を見たくてならない。いまは疑問の儘に一應措くより外ないが「江戸の活字」が歐文から始まつたといふ事實は、永年の印刷工であつた私にもびつくりする發見であつた。
 ある日の午後、私は巣鴨の奧にI・K氏を訪ねた。二階の室に一時間ばかり待つうちに漸く主人は歸つてきたが、I・K氏は英語の教師でまだ若かつた。坊主ツくりの近眼で、私が自分の疑問について述べるうちも、伏めがちに一つところへ眼をおいてゐる。
「さア、活字のことはあまり氣をつけてゐないので……」
 口數すくなく階下へおりてゆくと、持重りのする古びた洋書を五六册かかへてきて、その一つを私の前において、簡單に云つた。
「これが、それですけれど――」
 實物があらうとは思ひがけなかつた。いま眼前にあるそれが洋學年表では片假名で書かれる有名な「サツマ辭書」ではないか! 私はいきなりその大きな書物を眞ン中からあけた。そして直覺的に「ちがふ!」と感じた。これは日本の印刷物ではない!
 菊判より大きく四六倍判より小さいが、左にならんでゐる歐文はパイカで、例の「單語篇」のイタリツクとちがひ、假に嘉平もパイカを作つたにしても字形が洗練されすぎてゐる。むしろ疑問は右にならんでゐる和文の活字、漢字よりも特に小さくしてある片假名にあつた。その並び方も日本で作られた蘭和辭書などと同じで、一方が鉛活字の歐文に、その脇ツ腹へ頭をおつつけて縱書に、つまりねた形の、それと同じ式である。
「或は上海の美華書院か知れませんね、ヘボンの辭書はたしかさうだといひますね。」
 I・K氏は、さう云つておいて、私が返辭せぬうちに、また自分で疑問をだした。
「しかし片假名は、假に字母があつたとしても、支那人の職工にくめますか?」
 私は「くめる」と答へた。植字工は特別な感覺をもつてゐて、たとへば日本の歐文植字工でも英語やドイツ語が讀める者は殆んどないが、それでも十分やつてのける。私の不審は片假名活字にあるのだが、木村の活字が上海まで搬ばれたか、ないしは誰かが片假名の種字をむかふで書いたか、である。
 奧附もないが、丸がかりの洋裝で、がつしりした革表紙の背には箔捺しで「英和對譯辭林」とある。用紙がラフに似た洋紙であることからも、當時の日本印刷術からみて和製と疑ふすべはない。
「ああ、いいものがあります。」
 また階下へおりていつたI・K氏は、薄い古雜誌を持つてきた。「新舊時代」といふので明治文化研究會が發行した昭和二年二月號である。めくられたところに「明治初期に出版した英和辭書類、石井研堂」とあり、その一項目が、「サツマ辭書」に關するものであつた。「薩藩洋學の教師高橋新吉、長崎にあり。洋行して宇内の新知識を究めんと欲すること多年。――偶々長崎人蔡愼吾と交情あり、一日愼吾勸めて曰くに、開成所の「英和對譯袖珍辭書」を増訂して洋行の資を得たらば如何」と。つまりこれが「サツマ辭書」刊行の動機であつて、當時開成所版の辭書(大福帳型)は十二三兩の値段だつたから、多量に増訂したら利益もあらうといふ譯である。以下意味だけ述べると、「本邦に活版印刷の業未だ起らず」愼吾の紹介で長崎の宣教師フエルベツキに逢ひ、フエルベツキまた上海の傳道印刷會社ガンブル商會を紹介して、出來拂ひの契約で印刷することとなつた。「サツマ辭書」はつまり開成所版の改訂版であるが、高橋がどれ程の造詣をこの辭書に傾けてゐるかは、私に判斷できない。とにかく高橋が上海に渡つたのは慶應三年で、間もなく大政奉還の御一新に遭ふや、一旦歸國したが、再び上海に渡り、明治三年の一月三百部が完成したといふ。
 そして研堂氏の文は「あるとき前田正名翁筆者に語りて曰く」とつづいてゐる。前田献吉、正名の兩人もこの辭書計畫の關係者で二人共に上海へ渡つた。「活版所は上海の某寺院であつて、支那人を使役してゐた。」文中印刷そのものに觸れたのはここだけであつて、片假名の種字がどうしてあつたか、嘉平の活字と由緒があるかどうかもさつぱりわからないが、讀んでゐるうち、私は思はず聲をたてた。
「おお正名兄弟! 貴方、前田正名を知つてるでせう、ほら、外國渡航を企てて兄弟ともふん縛られた人ですよ。」
 私はI・K氏が知つてゐようとゐまいと、じつは偶然に正名が「サツマ辭書」の計畫者であつた發見の感激を語りたいのだ。私は以前に正名の傳記を讀んだことがあるが、このことは書いてなかつた。正名は明治初期にフランスへ留學し、普佛戰爭へも義勇兵として參加し、歸朝するや官吏となつて縣知事、農林次官など勤めた人であるが、最も大きな功勞は日本農業を近代化したことにあると謂はれてゐる。薩摩藩士前田善安の四男に生れ、九歳にして洋書を讀んだ秀才であり、十四歳のときその兄と共に外國渡航を企てて露見し、幕吏に捕縛され、兄は切腹したが、正名は若年の故と、兄の命乞があつて死を減ぜられたといふのである。察するに「サツマ辭書」計畫以前のことと思はれ、その兄といふ人は、献吉より上か下かわからぬが「宇内の新知識を究め」たい志は、猶やむことなくして、その頃の長崎にうろついてをり、とほく太平洋を睨んでゐたのであらう。
 私は再び古びた「サツマ辭書」をめくつて、序文を見た。木活字風の字形で「皇國ニ英學ノ行ハルルハ他ニ非ラス所謂彼ノ長ヲ取リ我ノ短ヲ補ハンカ爲ナリ其ノ長ヲ取リ短ヲ補フハ 皇化ヲ萬國ニ輝カサン爲ナリ」とはじまつてゐて「明治二歳己巳正月、日本薩摩學生」と結んである。裏は英文の序文で、終りは同じく(1869, student of satuma)とあつた。ああ何といふ豁達なひびきであらう。スチユデント・オブ・サツマ!
 個人名もいれず・サツマ學生とだけ名乘る人々の胸を反らした面影が泛んでくるやうであつた。上海にあつて御一新のことに遭ひ、藩士として一應の始末に歸國しても、すぐまた海外へ渡つたこの人々の心には既に藩などはなくて、あるものは皇國、世界における日本であつたのだらう。
 私はすこし昂奮しながらI・K氏の家を出た。既に日暮れで癌研究所前から大塚驛の方へ歩きながら、嘉平の活字の行衞は益々紛亂してわからぬままに、少しも失望してはゐなかつた。このうへは手蔓をもとめて島津公の集成館へゆき、その遺品活字に見參することが、殘された唯一の手がかりであらう。
 しかしそれはさうとしておいて、私は考へねばならぬのだ。「江戸の活字」も木村嘉平だけではなかつたか知れない。電胎法による字母も完成されたのだ。しかも、しかも何故に活字は江戸に生れず、長崎に生れたのだらうか※(疑問符感嘆符、1-8-77)
 嘉平が元祖か、昌造が元祖か、そんなことは大きな問題ではない。江戸で生れず長崎で生れねばならなかつたその社會的事情、ああその事情、それこそ「本木昌造傳」に是非書かれねばならぬ要素の一つだと、私はいつか大塚驛前を通りすぎ、白木屋の前に出てしまつてから氣がついて引返しながら、さう考へてゐたのであつた。
[#改丁]

[#ページの左右中央]


        長崎と通詞


[#改丁]

      一

「――せめては板刻の業のみも半年にして終らせ玉へかし、小子の生命計り難きが故に、其功を急ぎ候事、胸に火を煽るが如くにて御座候――」
「海國兵談」の著者林子平は、同書の印刷に當つて、東北の片隅から江戸の有志にむかつて、火急の檄を發してゐる。
「――小子は遠鄙に在之候を板刻の諸用を調度仕候故、直に諸君に奉謁し奉告事不能候、因て東都の心友手塚市郎左衞門、柿沼寛二郎、森島二郎、工藤平助、藤田祐甫の五人に托し候て右御入銀の取次を相願候事に御座候、御入銀の御方方右五人の内催寄の者候はば即ち板刻の處に相屆申候――」
 これは今日でいふ「豫約出版」の勸誘状であるが、江戸中期以降、海邊漸く多事ならんとするとき、「海國兵談」の著述をもつて命にもかへがたいとした林子平が、當時の印刷術の迂遠さと、その高價さとを嘆く、身を灼く思ひがその全文にあらはれてゐる。私は文明の今日、印刷業にたづさはつた人間の一人として、次に見る「海國兵談」印刷費用の内譯を、ふかい感動をもつてここに掲げよう。

一つ、右海國兵談者初卷の水戰の卷より末卷の略書に至つて總て十六卷、紙數三百五十枚也、是を八册に造
一つ、右海國兵談千部を仕立候て世に施し度事小子終身の大願にて御座候事
一つ、右の如く千部を仕立候事其れ不少候、因て書肆を招て千部を仕立候、値の大略を計畫せしめ候、其大數左の如し
一つ、紙一枚の彫賃四匁五分也
 三百五十枚の彫賃一貫五百匁也、金にして二十六兩一分也
一つ、全部八册にて紙八帖づつ用ゆ、千部にて八千帖也、一帖の値八分五厘宛、八千帖にて六貫八百目也、金にして百十三兩一分と銀五匁也
一つ、表紙八千枚、一部八册千部八千册、一枚の値二分五厘づつ、八千枚にて二貫目なり、金にして十兩二分と銀五匁也
一つ、縫糸一部に二丈を用ゆ、千部にて二千丈也、一部の縫糸代六分五厘づつ、千部にて六百五十目也、金にして十兩三分と銀五匁也
一つ、摺賃一部に付四分宛、千分にて四百匁也、金にして六兩二分と銀十匁也
一つ、仕立賃一部に付一分宛、千部にて一貫匁也、金にして十六兩二分と銀十匁也
一つ、外題料全部八册に一分づつ、千部にて百目也、金にして一兩二分と銀十匁也
 〆、銀にして十二貫五百二十匁也
   金にして二百八兩三分也
右者海國兵談を千部仕立候値の大略の積方也、然るに小子元より無息にして且清貧なる者に御座候得ば、中々自力而已に難叶存奉候、因て今度板刻の證に今日迄に彫終り候水戰五卷數册を仕立て候て、諸君の賢覽に奉入此末造功の費を御助被下候――」
云々とある。
 口上のうち摺賃とは印刷費であり、仕立賃とは製本費のことである。摺賃千は千と思ふが、仕立賃より廉い。江戸中期には木版印刷が發達してゐるが、千部の摺賃銀四百匁とすると、當時のばれん刷りもよほどスピードがあつたにちがひない。又外題料といふのは表紙貼込の書名印刷及び紙代のことだらうか?
 しかし何と高價であつたらう。「海國兵談」全八册三百五十枚は、今日の九ポイント活字にすれば四六判で三百頁足らずと思はれる。しかも林子平を苦しめたのは、高價といふだけではなかつた。その何倍もの「せめても板刻の業のみも半年にして終らせ玉へかし、小子の生命計り難きが故に云々」といふ苦痛は、歸するところ木版彫刻、今日でいへば植字製版にあつたのだ。
「――一人にて彫る所紙一枚に大概一日半掛り也、海國兵談總紙數三百五十枚にて御座候得ば、一人にて是を彫候得ば元日より大晦日まで休みなしに彫候て九百日掛り申候、二人にて彫り候得ば四百五十日、四人にて彫候得ば二百二十五日掛り、八人にて彫候得ば一百十三日に彫終り申候――然るに小子無息清貧にて御座候得ば、工人を多く用ひる事不能候――」
 そして林子平はつひに彫師一人しか用ひることが出來なかつたし、「海國兵談」の板刻は一千六十日を費したのである。
 私は思ふ。これは近代活字發生前の貴重な文獻である。そしてこれはひとしく當時の學者たちの苦衷であつたらうし、子平の場合、この克明な口上書の裏には、印刷術の迂遠さに對する不滿が明らかに流れてゐる氣がする。
 周知のやうに「海國兵談」の出版は寛政三年だ。日本で始めて本木昌造が外國から鉛活字を購入して近代活字の研究にかかつたのが嘉永元年で、川本幸民が活字字母製法の「電胎法」を講述實驗したのは嘉永五年(同二年とも謂ふ)の事だから、その間五十餘年を距ててゐる。當時の學者たちが印刷術の迂遠さに對する漠然たる不滿はあつても、意識したものにならなかつたのは當然だらう。しかし林子平が、海國兵談豫約出版の檄文に、克明な印刷費内譯を書いた氣持には、もつと何かがある氣がする。たとへば周知のやうに彼はしばしば長崎を訪れてゐる。出島の蘭館にも出入して彼自身の筆になる、彼が蘭館甲比丹たちから饗應を受けた繪があるくらゐだ。彼はそこで種々の洋書を見、當時既に蘭人にとつては日常的であつた鉛活字や印刷機も見聞したにちがひないだらうからである。これは私の不當な飛躍だらうか?
 或は牽強附會とされるか知れない。しかし私の僅かな知識でも、近代活字に關心をもつたのは、主として洋學者たちだつたといふことが出來る。前記の川本幸民が然り。「活字の料劑」を書いた杉田成卿が然り。彫刻ながら鉛ボデイの活字を開成所版に用ひて印刷術の歴史に劃期的影響を與へた大鳥圭介もまたさうである。さらに島津齊彬の命をうけて木村嘉平が作つた活字の最初のが歐文であつたと謂はれ、その他私には作者未詳の「八王子の活字」や、江戸で作られた「オランダ單語篇」がまたさうだつたといふことなど、考へあはせると、洋學と近代活字とは切つても切れぬ關係があらう。
 本木昌造は和蘭通詞で、また洋學者だつた。彼が活字なり印刷術なりに關心をもちはじめたのは、前記洋學者たちのそれと軌を一にするものだらう。そこでまた私の考へは飛躍するのであるが、では長崎よりも江戸においてはより澤山の活字の研究者があり、學者があつたのに、何故それが江戸でなくて、長崎でより早く完成しただらうか? 歴史に從へば、活字はつひに長崎に誕生して大阪から江戸へと東漸していつてゐるのである。
 その理由を簡單にいへば、二つあると思ふ。その一つは當時の長崎は、唯一の海外文化の入口であつたこと。從つて明治二年米人技師ガンブルが上海から歸國の途次、長崎に寄港したとき、偶々電胎法による活字字母の製法を、本木昌造に傳授するチヤンスがあつたといふこと。つまり「地の利」といふのが、その一つである。
 その二は、昌造が活字製法に二十年來苦心をつづけてゐた人間だつたこと。ガンブル寄港以前にも幾度か門人をつかはして、上海の傳道印刷會社からその製法を學びとらうと企てては失敗してゐた人間だつたこと。つまり昌造のやうな、江戸の洋學者たちと同じく、近代活字の製法にふかい關心を持つた人間がゐたといふことであるが、さらにも一つ、昌造の場合、通詞といふ職掌柄、外國の文明品を輸入して研究するには、同じ洋學をやる人間のうちでも、比較的好都合だつたといふ條件である。
 つまり昌造は、當時のわが日本において近代活字を造りだすのに、誰よりも適當な位置にゐたといふことになる。もちろん和蘭通詞も幕末の長崎では百人を超えたと謂はれるから百人のうち偶々それが本木であつたといふことは、昌造の人間としての特殊面であるだらう。だが私は、人間昌造を含めて、日本の近代活字創成の歴史を知るには、一つは、「地の利」といふもの、當時の長崎がもつた國内と國外關係を究めること。いま一つは、洋學の傳統といつたもの、及び通詞と通詞昌造の生涯といつたものから、まづ知るべきだと考へた。
 それで私はまづ後者から始めよう。

 昌造は文政七年、長崎の新大工町に生れた。父は町の乙名(區長)北島三彌太氏、母は本木繁氏。その四男であつて、幼名を作之助といつたと謂ふ。天保五年、十一歳のとき本木昌左衞門の養子となつたが、昌左衞門は母繁の兄であり、伯父である。
 私は昌造の幼時について傳へた文獻を知らない。多くの昌造傳は「幼より學を好む」とか、「幼より俊敏にして工才に長けたり」とあるくらゐだが、これは恐らく傳記者が附加した文章だらう。私もそれを嘘だなぞとは思はないが。
 彼の生れた文政七年は西暦にすると一八二四年で、當時の長崎を歴史的に想像してみると、その前年文政六年には、彼の新大工町とはつい眼と鼻のちかくにある出島の蘭館に、館附醫員として血氣二十六歳のフオン・シーボルトが來朝してゐた。そして昌造の生れた年には、弱冠二十一歳の高野長英が遙々東北の水澤から笈を負うて長崎に來、シーボルトに弟子入りしてゐるが、翌文政八年には、長崎の郊外鳴瀧に校舍が建てられ、このドイツ生れの新知識をたづねて、醫術に志す者、自然科學や語學に志す者、當時のすぐれた青年たちが、日本ぢゆうのあちこちから集つてきてゐたのである。洋學年表文政八年の項に、「長崎の東郊鳴瀧の地に校舍を建てシーボルト講學の場とす」とあり「醫學、博物學を講説す」とあつて、當時の模樣を日高凉臺が手紙で傳へた文に「此節は西醫も珍敷者到來にて、町ぢゆう施療彼是にて、四方の英哲許多相集、未曾有之盛事と申に御座候、當時阿州美馬順三、江戸湊長安、遠州戸塚靜海、阿波高良齋、其他研介○○などいづれも相應に出來候者にて愉快無限に相覺申候」云々といふくだりもあつて、昌造が物心つくころには、長崎ぢゆう好學の氣分が溢れてゐたのだから、よほどのボンクラでない限り、何らかの影響をうけずにはゐられなかつたらう。
 ましてや彼は通詞を職とする家柄に人となつたのだから、その影響度合もはげしかつたにちがひない。おまけに長崎は幕府直轄の地であるし、通詞は長崎奉行の支配下にあつたから、政治的影響も色々と身にしみながら成長したと思はれる。殆んど江戸末期の政治的合言葉となつた「攘夷」と「開國」は、海外文物の入口であつた長崎では、日本ぢゆうのどの土地よりも直接ひびいたらうし、通詞といふ職業柄、長崎ぢゆうの誰よりも現實的に影響したにちがひない。
 昌造二歳の文政八年には幕府は「異國船打拂令」を出してをり、昌造十九歳の天保十三年には「異國船打拂令改正」が出てゐる。文政八年のそれは周知のやうに「異國船渡來之節無二念打拂可申」といふ頑固なものであるが、天保十三年の改正令では「其事情不相分に、一圖に打拂候而は、萬國に被對候御所置とも不被思召候」また「異國船と見受候はば、得と樣子相糺し、食糧薪水等乏しく、歸國難成趣候はば、望之品相應に與へ」云々となつてゐて、この改正令も外國人の上陸は許さなかつたが、よほど緩和されたものとなつてゐる。文政八年の令は將軍家齊であるが、改正令は家齊退職の直後であつて、その間幕閣にもいろいろと機微な動きがあつたであらう。文化文政の頃からは英船、魯船の來航が漸く頻繁となつてゐるし、少年昌造には、政治の機微な動きについて察知することは出來なかつたとしても、たとへば次のやうな出來事は影響あつたのではなからうか?
 つまり「蠻社遭厄事件」で、天保十年に高野長英、渡邊崋山が捕へられたとき、昌造は十五歳であつた筈である。長英の「夢物語」、崋山の「愼機論」を幕府が忌むところとなつて崋山は天保十二年、昌造十七歳のとき自殺し、長英は昌造が二十七歳、嘉永三年に自刄するまでは破獄したまま行衞不明だつた。シーボルトの弟子であつた長英、また「夢物語」や「愼機論」やを、昌造など直接讀む機會をもつたか否かはわからぬにしても、幕府の「打拂令」について洋學者たちがはじめて觸れた政治的見解であつたから、贊不贊は問はず、同じ洋學をやる昌造には、ニユースの早い長崎で、何かと感ずるところがあつたと思はれるし、天保十三年の「改正令」が出たときは、職業柄昌造たちには現實的にひびくところがあつた筈である。
 私は昌造の幼少時について傳へる文獻を知らないから、こんな世上一般の動きを考へて、その一面を推し測つてみるのだが、長崎といふ地にあつて、通詞を職とする家にあれば、その影響するところも、單に國内的なものばかりではなかつただらう。年々歳々、これだけは家康の渡海免許の御朱印状を持つてゐて、貿易のために渡來する和蘭船のほかに、當時のさだめとして、日本の土地のどこに漂着しても、必ず一度は長崎におくられてきた、毛色眼色のちがつた異國人たちに接してゐれば、あれこれと海外の珍らしい出來事も聞きかじつたと察することが出來る。
 そして昌造が五歳の年、一八二八年にはアメリカ大陸にはじめて汽車がはしつたのであるし、昌造十一歳の一八三四年にはヤコビの電機モーターが發明されてゐる。翌十二歳の一八三五年にはモールスの電信機が完成してをり、同じ年にコルト式拳銃が發明されてゐる。さらに昌造十五歳の一八三八年、日本で長英、崋山が捕へられた年には、はじめて大西洋に黒煙をなびかせながら蒸汽船が、つまりこれより十五年後の嘉永六年、日本をおどろかした黒船が波を蹴立ててはしつたのである。

      二

 本木の家は和蘭通詞のうちでも、名村、志筑、石橋、吉雄、楢林らと並んで舊家である。三谷氏つくる家系圖に據れば、その祖を明智光秀の孫、林又右衞門に發してゐると謂はれ、又右衞門より三代庄太夫のとき本木姓を名乘り、松浦侯に仕へ肥前の平戸に住したとある。庄太夫より祐齋、つづいて同じ名の二代庄太夫がはじめて平戸より長崎に移住、通詞としての本木家元祖となつた。
 同家系圖では移住の年號が明らかでないが、洋學年表では「平戸人本木庄太夫――是年長崎に移住す、後寛文甲辰小通詞となり、又五年寛文戊申大通詞に陞る」とあつて、「是年」は萬治二年である。庄太夫は元祿十年七十歳で死んでゐるから、移住の年は三十六歳の壯年であつた。
 この時代の日本人はどういふ風にして外國語を習得したのだらうか? 仔細のことは私にわからぬが、前掲書には「庄太夫、本姓林氏、世々松浦侯に仕へ、少より和蘭館に出入して其言語に通ず」とある。つまり外國人に接してゐるうち、口うつしに發音だけをおぼえていつたのだらう。從つて長ずるには一種の記憶力といつた才能が必要なわけで、庄太夫は秀でた資質があつたらしい。ただここで腑に落ちぬ點は、和蘭商館が平戸から長崎出島に移轉したのは寛永十八年のことであつて、庄太夫移住の萬治二年を距つること十七年前だといふことである。だから「幼より和蘭館に出入し」といふのは、庄太夫十九歳以前のこととなる。同じ肥前であつても平戸と出島は、當時の交通からみてはよほどの距離であるし、移轉後の商館にちよいちよい出入は出來まいと思はれる。しかもまた庄太夫が通詞として召抱へられたのは寛文四年と、板澤武雄氏「蘭學の發達」にはみえてゐるから、移住後萬治二年から五年後に屬する。してみると庄太夫は、その管轄領主であつた松浦侯に仕へながら、長崎移住後も何らか和蘭商館に關係ある役柄でも勤めてゐたのだらうか?
 いづれにしろ蘭語について、たとひ口眞似だけの理解にしろ、才能をもつた人物は當時珍重されたのにちがひない。周知のごとく將軍家光は切支丹禁制の施政を強化するために、平戸にあつたポルトガル、支那、和蘭等の商館を、長崎港の沖合に島を築いて、そこへすべてを收容したが、一方、貿易事業は日を逐うて旺んになつていつたし、フオン・シーボルトの「日本交通貿易史」によると、「此時(一六七一年、寛文十一年)は、イムホツフ總督(東印度會社の支配權を握る蘭印總督のこと)が、日本における和蘭貿易の黄金時代と云ひたる頃なり」とあつて、日本の輸出高は和蘭のみで、年々四五十萬兩にのぼつたころである。しかも日本から積出されるものは最初に黄金、つぎは銀、つづいて銅といふぐあひで狡智なヨーロツパ商人どもに乘ぜられて、怖るべき勢で貴金屬を失ひつつあつたのだから、幼稚な幕府もおどろいて、それらの危險を防ぐ施策の一つとして、より澤山の和蘭通詞をもとめてゐたと考へられるし、幕府は松浦侯に命じて庄太夫を召抱へたのだと察せられる。
 庄太夫は、諱を榮久といひ、のち剃髮して良意といつた。四十一歳で小通詞となり、四十六歳で大通詞に陞つた。彼が六十八歳のとき、幕府は和蘭通詞に目付をおく制度を設けたが、庄太夫はえらばれて初代の通詞目付となつた。よほど人物だつたらしく、延寶四年に他の通詞名村、中島、楢林らと共に「阿蘭陀風説書」を和解して幕府に呈出したなどの記録もあり、醫事にも通ずるところがあつて「和蘭全躯内外分合圖」などの著書もあるから庄太夫の蘭語も口眞似だけではなかつたとみることが出來る。その他和蘭甲比丹の「江戸參觀」に差添通詞として參觀すること九囘に及ぶといはれてゐる。この頃の「江戸參觀」(和蘭甲比丹の將軍拜謁)は毎年行はれたもので、後に見るごとくその行事はいろいろと時の政治や文化的動向にも觸れるところがあつたし、通詞としてもなかなかの大役だつたから、庄太夫といふ人は通詞としての技倆以外にも重くもちひられる人柄であつたのだらう。
 洋學年表元祿十年の項によれば「十月和蘭通詞目付本木良意死す、子市郎助年僅に七歳」とあるが、三谷氏の家系圖では本木二世「武平次」とある。そして三世本木仁太夫が元祿四年生れで、このとき丁度七歳である。だから洋學年表でいふ「子市郎助」とはたぶん仁太夫のことで、「市郎助」は仁太夫の幼名と推測されるが、すると武平次なる人物は内縁の養子ででもあつたらうか? とにかく洋學年表にしろ、「蘭學の發達」にしろ、武平次なる人物はみえず、多くの傳記が庄太夫から二世は初代仁太夫となつてゐる。しかし三谷氏の家系圖でみれば、初代仁太夫、つまり「市郎助」が書いた庄太夫の墓の碑文に「元祿十年十月十九日本木武平次之を建つ」とあるのださうだから、血縁か否かは知らず、とにかく武平次なる人があつたにちがひない。通詞だつたか否かも私には知る術がなく、いまは洋學年表に從つて、庄太夫死後は十數年打ち絶えて、七歳の市郎助二十二歳ではじめて登場してくるのについてゆかう。
 本木二世初太夫(三谷氏では三世)は寛延二年五十六で死んだ。庄太夫と同じくのち剃髮して良固と稱したが、努力にも拘らず生涯稽古通詞から陞れなかつたが、その良固が蘭學者としては知られてゐるのが面白い。洋學年表享保元年の項に「下欄ハ學者ノ忌日ヲ記入スル處ナレドモ第一年ハ現存者ヲ列記ス如左」とあつて、西川如見六十九歳、新井白石六十歳、細井廣澤五十九歳、野呂元丈二十四歳などと、年齡順にきて、「長崎人本木仁太夫二十二歳」と書いてある。
 良固の生涯でもつとも特筆すべきことは、延享二年、通詞西善三郎、吉雄幸右衞門と共に、和蘭文書を讀んでもよろしいといふ特許を得たといふことであらう。衆説によれば當時洋書を讀むことは一般に禁ぜられてをり、この頃江戸で青木文藏(昆陽)等が運動して、吉宗將軍をして「洋書解禁」の令を出さしめたといふのが、杉田玄白らの「蘭學事始」に謂ふところと併せて有名な出來事となつてゐるが、これについて板澤武雄氏は「蘭學の發達」の中で次のやうに反駁してゐる。「――八代將軍吉宗の時に至り、通詞西善三郎、吉雄幸右衞門、本木仁太夫から右の有樣を申立て、横文字を習ひ、蘭書を讀むことの免許を幕府へ願ひ出で――許可せられたといふ。――右の説が長い間そのまま信ぜられてゐたが、延享二年といへば日蘭兩國人の接觸が始まつてから百四十餘年を經てゐる。この間――貿易の實務に當つてゐた通詞が、横文字一つ讀めないでその職責を果し得たであらうとは常識からしても考へ得られないことで、蘭學事始の所傳の信じ難いことは古賀十二郎氏も「長崎と海外文化」に於て夙く指摘せられてゐるのである」云々。
 素人の私にこの板澤説と洋學年表説のいづれと判斷する力はない。しかし一世庄太夫にして「和蘭全躯内外分合圖」(これは孫二代仁太夫によつて出版されたが)の著書があるのにみても私は板澤説に加擔したい。ましてや三谷氏の本木傳にみる、青木昆陽が長崎を訪れて良固らと洋書解禁のことを圖つた云々は、素人の私も信じないところである。しかしながら板澤氏自身も同書で認めてゐるやうに、當時の和蘭通詞らがいかに蘭文學に暗かつたか、例へば、切支丹本の密輸さへ書物を見ながら指摘し得なかつたと與げてゐるごとくであるし、「日本囘想録」による甲比丹ヅーフの通詞らの蘭語に對する所見もまた同樣である。
 つまり私の信じたいことはかうである。西、吉雄、本木の蘭書讀譯の免許云々は洋學年表説の如くではなかつたか知れぬ。しかし當時の通詞らの蘭文學への暗さは、後に見るやうに通詞制度が産んだ卑屈な一般的性格にも由來する向學心の乏しさにもあらうし、洋書禁制ではなかつたにしても、口辯の通譯を以て足れりとする、「鼻紙に片假名で發音を書きとつた」といふ式の通譯で足れりとしたもののうちには、單に通詞らの卑屈さのみでなく、それをよしとするところの幕府の方針といつたものがあつたのではなからうか? もちろんそれは通詞といふ職制度と一見矛盾する。しかし家光鎖國の方針と貿易とが矛盾するやうに、そこに確然たる禁制の掟はなかつたにしても、通詞らの反向學心と狎れあはしむるやうな何物かがあつたのではなからうか?
 良固は口辯が不得手であつた。ために生涯稽古通詞からのぼれなかつたが、「蘭書讀譯免許云々」のとき、西は三十、吉雄は二十二で、ひとり仁太夫のみ五十一であつた。「されば、學問に心深かりしより半白の身を以て少壯者と其志を同じくせしぞめでたき。余の祖父玄澤は長崎に遊學し本木、吉雄の兩家に益を請れ、本木も蘭學創業の一人と傳へ」云々と、玄澤の孫の大槻如電は誌してゐる。
 玄澤は良固の孫庄左衞門とは友人であり、「益を請れ」たのは良固の子二代仁太夫と思はれるから、「免許云々」も、その子なり孫なりの云ひ傳へであらう。しかしいづれにしろ、年代的にみて通詞らの中から學者や技術者が多く出たのは良固以後であるから、この三人の擧は何らか通詞らに向學の刺戟を與へた性質のものと私は信じたい。そして「良固稽古通詞たること二十年、小通詞にも至らず――一女僅かに十二歳西氏の子を嗣となし、諭して曰く、汝其身を愼み世職を完うせよ」と遺言して亡くなつた。
 二代仁太夫、本木三世は西家から入つて榮之進といひ、良永といつた。享保二十年生れ寛政六年六十で死んだ。速水敬二氏の「哲學年表」にも同年科學者の欄に「本木良永六〇」で歿すとある。良永は先代の遺言をついで、安永六年小通詞となり、のち進んで大通詞となつた。洋學年表では「――本木氏の中興にして、オランダの天學此人に因て起る」とある。
 良永はよき通詞でもあつたが、秀れた學者でもあつた。澤山の著譯書があつて、主なるものを「哲學年表」から拾つてみると、安永三年「平天儀用法」「天地二球使用法」天明元年「阿蘭陀海鏡書」天明八年「阿蘭陀永續暦」寛政四年「太陽窮理了解」等があつて、とりわけ最後の「太陽窮理了解」説は、はじめて地動説を日本に紹介したものとして知られてゐるし、その後に來る天文學の道を拓いたものであらう。日本に始めて太陽暦が採用されるについて大きな挺子となつた「暦象新書」の魁をなすものであり、「暦象新書」の著者で有名な、通詞出身の、のちに柳圃と號し中野姓を名乘つた志筑忠雄は、良永の弟子であるのにみても理解できよう。
 良永は義父良固に肖て、むしろ勤直な學者肌だつたらしい。彼が幕府に「太陽窮理了解」説の譯述を命ぜられた(これは安永三年に「天地二球使用法」を譯述して呈出したのに基いてゐるといふ)のは五十八歳のときであつた。全篇七卷三百二十五章、外に附録一卷といふのだから、よほどの大仕事である。寛政三年十一月に始めて同五年九月に終つてゐるが、この譯著が成ると數ヶ月で死んでゐるから、恐らく命とりの仕事だつたと考へられる。四世庄左衞門の碑文に「奉命譯書、時維嚴冬、自灌冷水、裸體素跣、詣于諏訪神社、祷卒其業、人或諫曰、子既老矣、何自苦之劇、曰自先世、以譯司、食公祿、以斯致死、即吾分而已」と誌してゐるさうだが、恐らく良永の面目を傳へたものであらう。
 四世庄左衞門は良永の嫡男で、正榮と諱した。三谷氏家系圖では安永七年生れ、文化十年三十六歳で死んでゐるが、洋學年表では文政五年物故蘭學者の欄に庄左衞門の名が出てをり(長崎大光寺、享年五十六)とある。これでみれば死歿の年に相違があるばかりでなく、生年も安永七年でなく明和五年となつてくる。從つて三谷説によると、良永歿年に庄左衞門は十七歳であるが、後者では二十七歳となるし、しかも後者はその説を裏書するやうに、寛政六年の項に「大通詞本木仁太夫死し子元吉嗣ぐ、小通詞なり、庄左衞門と改め正榮と名乘る」とあるから、小通詞とすればよもや十七歳ではないだらう。前記したやうに新撰洋學年表の著者如電の祖父玄澤は、書中にもみえるやうに庄左衞門の友人だし、私は後者を信じたい。それに證據の一つとしてヅーフの「日本囘想録」には一八一七年、文化十年まで庄左衞門健在の事實が記録されてゐるからだ。一八一七年は甲比丹ヅーフが日本滯留十九年で、バタビヤへ引きあげた年である。しかもこの記録たるや、後にみるやうに庄左衞門の存在は、和蘭商館長ヅーフにとつては忘れがたい敵役であるし、彼が※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)々の思ひで日本を退散しなければならぬ動因ともなつてゐるからである。
 本木四世庄左衞門は、のち大通詞に進み文政二年には名村八右衞門と共に、「總通詞教授」を命ぜられてゐる。何の教授であるか誌されてゐないが、庄左衞門は蘭語の他に佛蘭西語を習得してをり、殊に英語において先達であるから、たぶんそれらの教授と思はれる。庄左衞門の著書のうちでも記憶さるべきものは、文化八年二月の「諳厄利亞興學小筌」(英語小辭典のこと)及び同年九月、楢林、吉雄と共につくつた「英吉利言語集成」等であつて、恐らく日本における英語の歴史上特筆されるものと思ふ。「英吉利言語集成」の序文を庄左衞門が誌して曰く「諳厄利亞國は往昔其職責を禁ぜられ其言詞を知る者あらず、文化己巳來航和蘭人ヤンコツクブロムホフ其國語に通ずるに因て我譯家肇て彼言詞習得するを得たり辛未の春諳厄利亞興學小筌を譯述し我黨小子に援け外警に備ふ幸に九月言語集成譯編の命あり於斯彼言詞を纂集し旁和蘭陀佛蘭西の語に參考飜譯して遂に皇國の俗言に歸會して是に配するに漢字を以てす」云々。
 私はこの短い序文のうちに、日本に英語が入つてきた徑路とか、その社會的事情とかがわかる氣がする。「我黨小子を援け外警に備ふ」云々は、つまり庄左衞門を中心に、有志の通詞たちがひそかに他日にそなへて、英語を習得してゐたことをいふのだらう。文化己巳は六年で、先だつこと二年であるが、さらにその前年、文化五年の「英船事件」を思ひ起すとき、私らは庄左衞門の意圖が、よりはつきりわかるではないか。「英船事件」とは有名な、和蘭の國旗を掲げて長崎港に不法侵入してきた英國軍艦「フエートン號」のことである。「フエートン號」の眞意が、和蘭本國を降伏せしめた新興英國として、その出先の和蘭商館を占領するにあつたとしても、同商館は半ばわが庇護下にあつたため、出來事は錯雜して、時の長崎奉行松平圖書をはじめ佐賀藩の重役五名が責をひいて切腹したといふ事實である。當時庄左衞門は公用を以て江戸に在つたが、「英船事件」發生に遭ふや滯留を命ぜられ、英文の通譯に當つたといふから、ブロムホフに就學する以前にも若干は獨習してゐたかと思はれる。
 いづれにしろ本木一家の系圖にみても、庄左衞門の時代となれば、海邊は急激に多事であつた。從つて彼の譯書にも「海岸砲術備用」とか「海程測驗器集説」等があつて、外交海防に盡すところ多かつたし、のちに父良永と共に正五位を贈られてゐる。
 庄左衞門歿後、洋學年表では嘉永元年の項に「昌造名永久――庄左衞門の孫なり」といきなり出てきて、昌造の養父昌左衞門はまるで缺落してしまふ。しかし昌左衞門が庄左衞門の實子であり本木家五世であることは、三谷氏の家系圖のごとく私は信じたい。若し庄左衞門に男子がなかつたならば、昌造の母繁を北島に嫁がせることをせず、養子を娶せたであらうからである。昌左衞門が何故年表にあらはれぬか、見るべき事蹟がなかつたからかどうか、私にわからぬが、「昌造――庄左衞門の孫なり」といふからには、如電も昌左衞門の存在を否定してゐるわけではない。
 そこで漸く、私の主人公、本木六世、三谷氏系圖では第七世、昌造が登場してきたのであるが、かくもくどくどと本木家系圖を述べたてていつた理由を、讀者よ、諒解して欲しい。カメノコタハシや魔法コンロの發明とちがつて、文明史のうへに足跡をのこすやうな、何か根本的な發明なり改良なりには、相應のたかい精神が必ず裏づけられてゐるものと私は信ずる。つまり、近代日本の文化の礎石の一つとなつた活字の創造、或は移植をした昌造の精神に、かうした數百年にわたる家系が、何らか影響するところなかつたらうかを、私はみたかつたのだ。

      三

 伯父昌左衞門の養子となつた幼名作之助は、のち元吉、昌造と改めたが、十一歳以後は通詞たるべく勉強したにちがひない。養父の手ほどきをうけ、通詞稽古所に通ひ、或は養父の手びきで、直接蘭館の外人たちからも學ぶところあつたであらう。そして、昌造の時代となれば、和蘭通詞も蘭語だけではなかつたと思はれる。既に家系にみたやうに庄左衞門以來は、佛蘭西語や英語の傳統があつたからであるし、天保、弘化、嘉永とちかづくにしたがつて、異國船打拂の改正令が出たほど、外國船の來航は繁くなつてをるし、必要になつてゐるからである。
 かくして昌造は横文字を習ひ、通詞たるべき資格を養ひつつあつたが、ではそれは同時に「洋學者」でもあつただらうか? 私はいままで通詞と洋學者を一緒にしてきたやうである。なるほど長崎における和蘭通詞と蘭學の發達は切つても切れない關係がある。事實、それは日本における洋學に貢獻したし、醫術における楢林流、吉雄流を出し、天文において本木、志筑の諸家があり、砲術における高島、本草學における吉雄、その他、殊に語學においては職業柄多くの先驅的學者を出してゐる。しかし、通詞は、幕臣、藩臣、或は町人出の所謂「蘭學者」と同じ性質のものであつたらうか?
 通詞とはまことに特殊な職業であつた。私の貧しい知識でいつても、ごく稀な場合「幕府譯官」などと敬稱されるが、普通には「長崎通辯何の何兵衞」といつた卑しい言葉で、そこらの輕輩武士からも捨言葉される傾きがあつたやうだ。例へばのちにみるやうに、土佐侯容堂の造船企畫について昌造が與かつた當時のことを、同藩家來寺田志齋が、その日記のうちで、かなりの捨言葉で誌してゐるのにもみることが出來る。しかし通詞は幕臣ではなくても幕府支配の下にあつて、往々にして幕閣でも重要な政治機微について用辯してをり、諮問に與かるくらゐのことはあつたであらう。しかも彼等は士分でもなく、さればといつて純然たる町人でもなかつた。
 通詞制度はいつごろ出來たものか?「和蘭通詞又譯司は通譯官と商務官とを兼ねたものであつて、オランダ人はこれをトルコと呼んだ。和蘭通詞は平戸時代からあつた。但、その整然たる階級は長崎時代になつてから出來たもののやうである」と、板澤氏は「蘭學の發達」で述べてゐる。つまり慶長五年に和蘭船が九州豐後水道の沖合に漂流して以來のことにちがひないが、秀吉末期までは政治の方針も相違があつたから、恐らく通詞の性格が確然としたのは家光以後の事だと、私らにも想像がつく。
 たしかに「通譯官」と「商務官」にはちがひないが、今日の常識でいふ「官」と名づけられる程の内容があつたかどうかは疑はしい。たとへば文化十一年、蘭館長ヘンドリツク・ヅーフが、本國が英國のために降伏して、前記したやうにその六年前には「英艦事件」を惹き起したが、再び英國は蘭人で前任館長カツサを表面にたてて、ヅーフの任期既に經過してゐることを楯にとつて、合法的な占領をせんとしたとき、日本の通詞たちをダシにして大芝居をうつたことがある。つまり「同夜予は祕密に與かれる五通詞の外目付と大小通詞一同とを予の許に召集し」とヅーフは「日本囘想録」に書いてゐる。そしてカツサに和蘭本國はやがて平和に歸すだらうから、それまでヅーフを現任のまま繼續すべしといふ虚僞の聲明をせよと迫つたのだ。カツサは自身英國の手先であり、それを拒むためには通詞たちの面前で事情を明らかにしてしまはねばならない。而もヅーフは既に五通詞をして「祕密に與かれるもの」としてゐるのである。
 もちろん歴史が示すやうにヅーフの恫喝は成功した。ヅーフは蘭領がすべて失はれたとき、ひとり日本の長崎でだけ同國旗を飜し得た和蘭歴史の功勞者となつた。しかし飜つてわが日本からみるときはまつたく圖々しいといはねばならぬ。英國に加擔するわけではないが、このときヅーフに反對行爲を示した本木庄左衞門と名村多吉郎の方針は、ヅーフが惡しざまにいふ精神からばかりではなかつたらう。しかも勝手に通詞たちを「召集」したりしたヅーフは、そのとき大通詞であつた名村、本木の二人について「予は此の機會によりて日本にては下級の官吏とも親交するの必要なることを實驗せり」と書いてゐる。
 ヅーフは策略ある人物だつた。名村、本木の二人を離間させ各個撃破するために、個々に呼びいれ、時計を與へたりして、これに成功してゐる。そしてこれは同時に通詞らの一般的性格を示すものかも知れない。さきに見たやうに庄左衞門ほどの人物が、ただ銀時計一箇に眼がくらんだばかりではあるまい。ヅーフにかかる策略をさせるところ、また通詞側にもそれに乘ずる特殊な空氣があつたのではなからうか?
 岩崎克己氏は「前野蘭化」で書いてゐる。「和蘭通詞が通辯飜譯の外に和蘭人の行動を、殆ど箸の上げ下しに至るまで、監視することを職務としてゐたことは「ケンペエル江戸參府紀行」に見えてゐた通りである。從つて罹病した和蘭人が内外の治療、手術を受ける場合にも、彼等は通詞等の監視を免れることは出來なかつた」と。つまりこれも、家光以來の方針が、「通譯官」であり「商務官」である通詞らにいま一つ加へて與へたところの役割であつたらう。
 通詞の食祿は尠い方ではなかつた。元祿八年頃で、大通詞銀十一貫五人扶持、小通詞銀七貫三百目三人扶持、小通詞並で銀三貫目だつたと「蘭學の發達」は誌してゐるが、それより降つて幕末期になると、「大通詞銀千百兩、米千九百六十升、小通詞一級銀五百三十兩、米千二百三十升、小通詞二級銀三百兩、小通詞三級銀三百兩」と「日本交通貿易史」のうちでシーボルトは書いてゐる。その他慣例によれば和蘭船の着く毎に、いろんな名目で「餘祿」があつたといふのだから、經濟的にはそこらの武士をはるかに凌ぐものがあつたと思はれるが、それと同時に、通詞らの過失や犯罪の處罰もまことにきびしく、たとへば天保八年に小通詞名村元次郎はサフラン二十五本をどうかしたといふ廉で獄門にのぼされてゐるし、前記した甲比丹ヅーフは本木、名村の兩人を各個撃破し、自分の目的を達するためには、二人の過去の小事實を長崎奉行へ密告して生殺與奪の權を自身で握つたことを「日本囘想録」のうちで得々と誌してゐる。
 まことに通詞とは機微な存在であつた。私は思ふのだが、「日本交通貿易史」のなかで述べてゐるシーボルトの次のやうな通詞に對する觀察が、もつとも正鵠を得たものではないだらうか。――通詞といふは手輕き名にて、しかも重要なり。その役柄はもつとも困難にして、諸方面に對しては腰を卑くせねばならず。彼等は官吏にして語學の師匠、仲買人にして商賣人なり――。そしていま一つ附加へて彼は謂ふ。――多くは無主義、無性格の人々なり――。
 これが恐らく和蘭通詞といふものの一般的性格であつたらう。語學といふものも白石、昆陽以來、江戸その他において有力な洋學者があらはれて「蘭學事始」のごときことが起らなかつたらば、それは貿易の必要上、ほんの通詞らの特殊技能以上のものとはならなかつたか知れない。また通詞ら自身でも、少數の人々を除けば、多くは「鼻紙に片假名で發音を書きとつた」だけで用が足りれば、それで滿足だつたにちがひない。しかし歴史の作用は何と妙であらう。かうした人々は同時に外人の家庭の世話から「箸の上げ下しまで」見てゐなければならなかつたせゐで「門前の小僧が習ひもしないのにお經が讀めるといつた類ひで――醫師の眞似事が出來るやうになつた。そして最初は、強ひて病家に乞はれる儘にほんのその場限りの積りで、恐る恐る手術したり、投藥してみたりする。ところが此の無免許先生、案外に成績が良い」(前野蘭化)といつたぐあひで、少數のすぐれた通詞らは通詞の域をいでて、醫術に限らず、その他の學問でも、いくらかづつ深入りしていつたのであらう。
 私らは本木一家にみても、さきに庄太夫良意の「和蘭全躯内外分合圖」を思ひ出すことが出來るし、仁太夫良永の地動説の紹介、庄左衞門正榮の「英吉利言語集成」などを顧みることが出來る。そしてもつと典型的な一例として良永の弟子志筑忠雄、のちの中野柳圃の「暦象新書」をあげることが出來よう。良永の「太陽窮理了解」は日本天文學に魁けるものだが、つまりは紹介の域を多く出なかつた。しかも忠雄柳圃の「暦象新書」はもはや紹介ではなかつたのだ。彼の天文學は日本に最初の地盤を打ち樹てた自説であつたのだ。そして「紹介」が「自説」となるためには、柳圃はどうしなければならなかつたか? 彼はひたすらに二十年の研修をつづけるために、養家の志筑家をいでて、もはや通詞をやめて、一個の學者中野忠雄とならなければならなかつたのである。
 私らはここに「蘭學者の蘭學」と「通詞の蘭學」の區別をみることが出來よう。江戸や京阪の洋學者たちは、最初はしばしば長崎を訪ね通詞らの門を叩いてゐる。しかし彼らは最初から學問をめざしてゐたのである。林子平が本木良永の門を叩いたと謂はれ、平賀源内、前野良澤、大槻玄澤ら、また長崎を訪れた。しかし彼等はすべて自分のものとしたのだ。
 そして私の主人公本木昌造はどうであらう。彼は傳統ある家に人となり、前記した通詞の一般的性格のうちに育つた。彼の生涯は幕末の混亂期から明治維新後の文明開化期までをつらぬき、迂餘曲折をきはめてゐる。あるときは日露談判の通辯となり、あるときは、幕府の軍艦の機關長として、長州兵と戰ふかと思へば、あるときは姉公路卿を載せた汽船の長となつて、無事勤皇の大役を果したり、またあるときは八丈島に難破したり、長年月を獄に下つたりする。そしてただ一つ活字だけが二十數年後に完成するのだが、このジグザグな彼の生涯のうちに、通詞の一般的性格をどれだけ、そしてどういふ風に超えただらうか。
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        よせくる波


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      一

 私はむかしの長崎繪圖を都合三枚みることができた。最初の一枚は帝國圖書館でみたもので、安永七年の作である。あとの二枚は友人Kの蒐集したもので、Kの鑑定によると、一枚は天保年間とおぼしきもの、いま一枚は慶應二年頃と判斷されるものである。
 安永の墨一色の「長崎之圖」は、大畠文治右衞門といふ人の作で、可なり精細である。町の中央をやや左寄りに二股川が流れ、その上流は二つの支流にわかれてゐる。左の支流は、後年シーボルトが長崎奉行の肝煎りで新知識普及の道場とした鳴瀧に源を發してをり、そのほとんど近くに昌造の生地新大工町がある。二股川はその下手で右からくる支流をあはせて、まつすぐに海へそそぐのであるが、河口の左側突端に「唐人屋舖」があり、河口の右手にもつと大きな扇型の島がある。これがいはゆる「出島」であり、「和蘭商館」のあるところである。この圖でみると、出島は帽子の玉飾りのやうで、帽子にあたるところ、つまり出島と橋一つでつないだ、やや圓型の突端に長崎奉行所がひかへ、その裾を八の字にひらいた長崎の町々の、港を中心に繁榮してゐるさまが描かれてある。海にむかつて、奉行所の右手海岸はとほく弧をゑがきながら肥後、筑前、佐賀、平戸、諫早、柳川などの各領主、當時日本の入口を護る年番諸侯の屋形所在地がつづいてゐる。
 私は興味をもつて港の沖合にかかる船々の繪をみた。大小さまざまの船がある。オランダ船、シヤム船、ナンキン船――。私は船について全く知識がないから判斷のしやうもないが、これらの外國船はいちやうに三本マスト、或は四本マストの、扇をひらいたやうな恰好で、ズングリと、胴のふかい、紅だか青だかで彩つた船である。マストのてつぺんに幾條もの旗じるしをなびかせて、マストは蜘蛛の巣のやうに綱梯子がかかつてゐる。もちろん、まだ帆の力一つで東支那海や印度洋の荒波をこえてくるのだらうが、十六艘の端舟に曳かれて港にはいつてきつつある「オランダ入船」も、まだ沖合にゐる「シヤムかかり船」も、みな帆をおろしてゐる。同じ帆船でも「かかり船」のすぐそばにみえる年番らしい肥後細川侯の九曜の紋のある一枚帆のそれが、風を孕んではしつてゐるのに比べれば、このへんで帆を張つては危險なほど巨きなものらしい。奉行所の傳馬型の「改め船」や「番船」やが、對岸の飽ノ浦から沖合の小島へかけて、一番、三番、五番などの石火矢臺(沖の水平線からあらはれてくる異國船の見張所であり、また護りの砲臺でもあつた)のへんまで點在してゐるさまが、鎖された海の日本の入口の、ある緊張したものものしさのうちにも、どつか堰きとめきれぬやうな生々としたものにあふれてみえる。
「長崎之圖」の奧附のそばに、當時の國内航路とでもいふべき海上里程が誌されてあつて、江戸へ四百七十里、京都へ二百四十八里、大阪へ二百三十五里、薩摩へ九十七里、對馬へ九十九里半などとなつてゐる。つまり南は薩摩、北は江戸へ及んでゐるが、江戸から北は誌されてない。歴史に從へば、江戸時代が蝦夷地の經營に直接身を入れだしたのは寛政以後、松平樂翁以來のことだといふから、この圖が出來たころまでは松前(函館)も繪鞆(室蘭)も、特別以外の航路としてはなかつたのであらうし、薩摩の更に南方琉球との航路も、直轄島津藩との間にのみあつたのであらう。
 天保年間とおぼしき長崎之圖は、安永のそれと比べて、ほとんど名所錦繪であつて、彩色はきれいだが、粗末である。町名もすくなく、海岸線も山々の所在もボヤけて、地理的な推測は不可能である。港にかかつてゐる船々の姿はわりかた綿密であるが、オランダ船とナンキン船の二種だけで、シヤム船も見えない。すべてが赤や青の彩色にかすんでしまつて淋しい。天保年間といへば終りにちかい同十三年には「異國船打拂改正令」が出てゐるが、まだ高橋作左衞門とシーボルトとの間に、かかる日本地圖海外持出し事件から數年しか距ててをらず、こんな名所圖繪にも影響するところあつたか知れない。
 しかし私の興味は三枚の長崎繪圖をとほして、沖合にかかつてゐる外國船の形の變遷にあつた。友人Kが慶應三年頃だと判斷する最後の一枚は、沖合の外國船の形がまるで變つてゐる。ナンキン船などどつかへすつこんでしまひ、二百餘年間長崎港の花形であつたオランダ船でさへ、隅の方にちひさくなつてゐる。ヱゲレス船、アメリカ船、オロシヤ船などが、それこそ港を壓してうかんでゐる。それに、これらの新來の船は圖體が巨きいばかりでなく、安永のそれに比べると怖ろしく長い。おまけに船の胴なかに巨大な車をつけてゐる。つまりこれらは蒸汽船である。まだ帆の力をまつたく無視してはゐないが、この奇怪な水車が、印度洋や太平洋の荒波をかきわけてきたのである。
 安永のそれから天保のそれまで約六十年、天保のそれから慶應のそれまで約三十年、通じて約一世紀の、長崎港の沖合にかかる外國渡來の船の姿のうつりかはりは、誰にしろ海の日本の歴史を知りたい慾望をおこさせられるだらう。
 日本の活字は昌造らによつて移植され、あるひは創造されたのであるが、一方からいふと、活字は船に乘つてきたものであつた。ドイツ人グウテンベルグが活字を發明したのは、西暦でいふと千四百四十五年で、昌造らがこれを移植したのは同じく千八百七十年であつて、四百餘年が距てられてゐる。その間、皇紀二千二百年頃、元龜、天正のじぶんにグウテンベルグ發明後百五十年ぐらゐ經つて、近代活字が全歐洲にゆき渡つて間もないときに、切支丹宗教と一緒に渡來したのであるが、家光將軍の鎖國方針によつて、切支丹と共に放逐されてこのかた、三百年そのあとを絶つたことは前に述べた。しかしあのとき活字や手鑄込式の活字鑄造機やが放逐されなかつたらば、日本の近代文化はどんなだつたらうと空想することは、面白いは面白いが、馬鹿げてゐよう。考へてみると、一つの文明品もそれ自體獨立に誕生するものでも成長するものでもないことは、三百年後それが再び渡來するまでの、寄せてはかへし、かへしては寄せくる波のやうな船々の渡來が、どんな複雜な事情と結びついてゐたかを考へれば、おのづから納得できることだからである。
 日本の近代活字は開國と結びついてゐる。若し明治の維新がなく、開國のことがなかつたらば、わが近代活字の運命もおのづから明らかであつた。したがつて昌造、嘉平、幸民、富二らの日本活字創成の苦心も、開國の雪崩をうつやうな過渡的な容貌をおびてゐるのも自然であらう。ドイツ・マインツの貴族であつたグウテンベルグは、宗教上の意見から平民たちと衝突して、ストラスブルグに亡命した。そしてこの鼻つぱしのつよいドイツ貴族は亡命十一年間、獨佛國境の古都にあつて、心しづかに活字創造に沒頭したし、以後の半生ももつぱらそれに終始することができた。ところが「日本のグウテンベルグ」は、その生涯のほとんどを政治的動亂のうちにおかねばならなかつた。彼は活字のほかに造船もやらねばならなかつたし、自から船長もやらねばならなかつた。製鐵事業もやれば教育もやつた。そして「はやり眼の治し方」や「石鹸のつくり方」や「ローソクと石油の灯はどちらが強いか」などに至るまで、大童になつて宣傳しなければならなかつたのである。
 そしてこの相違こそ、開國の事情を知ることなしには日本の活字が説明できない所以であらう。私は先輩友人に教へられて、江戸時代の海外關係史のそれこれを讀んだ。そして私らの遠い祖先と、當時の海の日本の、自分らの位置を知る氣がした。蝦夷地のむかふ、エトロフや、アラスカや、カムチヤツカの、氷に鎖された地圖の涯にも、おどろくべき歴史があつた。私の頭では蒸汽船以前にはまるで空白のやうであつた太平洋にも、アラスカから支那の澳門まで、直線に乘つきつてゆく帆かけ船の歴史があつた。日本海のむかふ、海と陸との區別だけしかハツキリしてゐないやうな沿海州から、シベリヤの茫漠とした地圖のうちには、ジンギスカンの後裔モンゴリヤ人と慓悍無比なロシヤコサツクとの、まるでお伽噺にきくやうな永い歴史をかけたたたかひがあつた。そして鐵砲といふ新武器をもつてジンギスカンの後裔たちを征服したスラヴ族は、地球の北端まで東漸し、やがて千島列島に沿うて南下しつつあつたのである。また南方薩摩、琉球のむかふには、ジヤワ、スマトラに根城をおくオランダ艦隊と、印度、マライに足場をもつイギリス艦隊とが、南太平洋や東支那海で覇をあらそひながら、東上しつつ、オランダ艦隊が臺灣を掠めとれば、イギリス艦隊は琉球に上陸した――。
 江戸時代が三百年の鎖國にゐるうち、海の日本の四周は、刻々にヒタしてくる「戰爭」と「文化」の波であつた。そして活字は昌造らがそれを拾ひあげるまで、四世紀にわたつて長崎の海邊に漂つてゐたわけである。

      二

 嘉永六年(一八五二年)アメリカの黒船四隻が浦賀へきて、日本をおどろかしたと謂はれるが、そのおどろきの劃期的な意義は、おそらく黒船の形にあつたのではなからう。長崎港を無視して、禁制の江戸灣へ侵入してきたことと、不遜にも武力をもつて開國を迫つたといふ、ペルリのやり方にあつたのであらう。「――黒漆のやうに相見え、鐵をのべたるがごとく丈夫にて、船の兩脇には大石火矢を仕かけたる船――」が日本海岸に出現したと、時の伊達藩廳が江戸へ早打ちをもつて注進したのは、既に元文五年(一七三九年)にはじまつてをる。もちろんこれはアメリカの船ではなく、ロシヤの船であつて、時の幕閣は(陸へあがつたらば取りおさへておいて、直ちに注進せよ)と、のんきな命令をだしてゐるが、以來百餘年の間、日本のあちこちに、さまざまの黒船があらはれた。
 仙臺藩廳をおどろかしたロシヤの黒船は、海軍中佐スパンベルグの日本探險船であつた。この船は享保十九年(一七三三年)クロンシユタツトを出て、遠く喜望峰を迂囘しながら太平洋を北上しつつ、二年後にオホツクに到着、五年後の元文四年にオホツクで新たに建造した三隻の船をもつて、一度び千島列島を南下してきたが、海上暴風に遭つて目的を達し得ず、再び六年後の元文五年六月に、漸く日本本土を望見しつつ、牡鹿半島の長坂村沖合に達し、住民らと手眞似をもつて、煙草と鮮魚と交換したといふ――。
 私はスラヴ人の根氣のよさにおどろく。海軍中佐スパンベルグは、ベーリング海軍大佐を長とする極東探險隊の第三探險隊長で、ピヨトル大帝の第二次極東探險隊の一部であつた。これを溯るとベーリング大佐が「ベーリング海峽」を發見した第一次の探險隊は一七二五年にペトログラードを出發してをり、以來第二次探險で、一七四二年にコマンドルスキー群島の一つベーリング島で、壞血病をもつて瞑目するまで、前後十七年を費してゐる。そして更にロシヤの極東制覇を溯つてゆくならば、アラスカ經營、カムチヤツカ統治、沿海州のモンゴリヤ人種打倒と、ヨアン四世がはじめてヴオルガ河を渡つて東漸しはじめた一五三〇年に至る二百餘年の歳月があつた。
 これがロシヤ人が日本を訪れた最初である。スパンベルグの船が更に南下して、仙臺藩領田代島三石崎沖に假泊してゐるとき、藩吏千葉勘左衞門、名主善兵衞、大年寺住職龍門の三名は船を訪れて、その報告を次のやうに記録してゐる。「人柄阿蘭陀に似候」「阿蘭陀仁たべ候ばうとる(バタ)と申物」をつけ、「阿蘭陀仁たべ候パンと申物」をくつてゐるといひ、「燒酎の味仕候」といふ火酒を馳走になり、「夫より紙にて仕候繪圖を出申し、又圓き物にて、世界萬國の圖を仕候物を出しみせ候。いづれも日本に近き國より參り候にも仕形仕候云々」などとあつて、三人のうち、恐らく僧侶龍門の長崎知識によつて判斷したのだらうと附記してある。スパンベルグは沖合から日本本土を望見しただけで去つたが、仙臺藩は旗本三十名以下、大筒役石火矢係など多數の武士を牡鹿半島に急行せしめ、石卷港は凡ゆる船の出入を停止、「――此間御城之御用意、扨て近代無之大騷動――」であつた。
 日露關係はかういふ風にはじまつたのであるが、ロシヤはこのとき地球の北端をきはめ、それからは南下しつつ支那、印度にでる一途であつた。カムチヤツカやアラスカに根城をおき、ヨーロツパに株主をもつ露米會社は、北氷洋の獵虎、沿海州の黒※(「豸+占」、第4水準2-89-5)の毛皮を當時最も高價に取引された支那の港に賣りこまねばならなかつたし、最も幸便に北太平洋から東支那海にぬけるには、日本本土を仲繼ぎにすることが最上であつたらう。しかも日本は「全島黄金に埋まつてゐる」といふ、當時の世界的傳説があつたといふから、この鎖された國を顧客ともしたかつたにちがひない。いづれにしろ日露關係の起源は古くはなかつたが、以來はまことに執拗に二世紀にわたつて反覆されてゐる。ロシヤの當時の日本に對する方針が、非常に惡質の侵略といふべきものか、それとも先進國としての經濟的接近といふべきか、私に判斷は出來ないが、尠くとも當時の歴史が傳へるところでは、武器をもつて脅迫するなどいふのが底意ではなかつたらしい。たとへばピヨトル大帝以來日本の船が難破して、沿海州などに漂泊した例は多く、それらの乘組員が庇護されてペトログラードの日本語學校の教師となつたり、ピヨトル大帝やエカテリイナ女皇に謁見をしたりした記録は有名である。もちろんロシヤの眞意がそれらを餌として日本の歡心を買ふものであつたとしてもである。ピヨトル大帝の遺志をついだロシヤ元老院は日本探險隊長スパンベルグ中佐の出發に先だつて、次のやうに訓令してゐるといふ。「カムチヤツカにおいて若し漂着の日本人あらば、日本國に對する友誼の表徴として之を其本國に送還すべし。遭難海員を護送して其郷土に送還するは、日本國訪問に好箇の口實をなすべきも、若し同國政府にして該遭難海員を受領する事を拒絶せば、之をして日本國海岸の何れの處にてか上陸、郷土へ歸還せしむべし。あらゆる機會を利用して好意を示すを旨とし、頑迷なる東洋流の無愛想をも意に介すべからず。日本人の感情を害する如き擧動を極力愼むべし――云々」
「燒酎の味仕候」火酒を飮み、世界地圖を見、地球儀をみておどろいた僧龍門の報告と、その六年前に書かれたロシヤ元老院の記録とをならべてみると、既にロシヤがあらゆる意味でどんな大敵であつたかを思はせる。彼處には「友誼の表徴」といふ文字があり「東洋流の無愛想」といふ豫備知識があつたのだ。爾來ロシヤの對日方針は、ピヨトル大帝のそれに副うてゐるものがあるやうだが、一國の政治にはそれぞれ複雜な變遷があるし、言葉も文字も通じない未知の國同志の理解の喰ひちがひは屡々おこつた。「はんぺんごらう事件」と「フオストフ事件」とは、安政二年川路プーチヤチンによる日露修好條約が結ばれるまでの百年間、ロシヤ側の執拗なる日本訪問にかかはらず、日本側の除きがたい惡感情の種子となつたやうである。
 明和八年(一七七一年)夏、カムチヤツカから出帆した一隻の黒船が、千島列島を南下、まるで彗星のやうに津輕海峽をぬけて、やがて大阪灣に出現、阿蘭陀船と僞つて毛皮と米薪炭を交換したが、間もなく長崎沖にいで、奄見大島へぬけ、臺灣海岸に上陸、蕃人と合戰し、再び南下して支那の澳門に達したといふのが「ばろんもりつあらあたるはんぺんごらう」の、カムチヤツカ監獄脱走船であつた。
 ハンガリヤ人にしてポーランド貴族、自稱ベニヨーウスキイ伯爵が、日本ではどうして「はんぺんごらう」と訛つたか私はいはれを知らない。このハンガリヤ人はポーランド内亂の際ロシヤ軍の捕虜となつて、一七六九年シベリヤ流刑を宣告され、當時露米會社の政策によつて、カムチヤツカに護送されたが、三年目に一味徒黨をかたらつて、カムチヤツカ長官以下を殺戮し、北極から支那までの脱走に成功した世界的冒險家? である。そしてこれが恐らく北からきて日本海岸を通り、東支那海へぬけた世界最初の船であらう。
 歴史は時によつて皮肉である。ピヨトル大帝以來の對日方針の辛苦經營は、不幸にもこんな脱走犯人によつて最初の幕が開かれたわけである。しかもこの脱走犯人は奄見大島に碇泊中、食糧薪水の補給をうけた恩義にむくいるためか、ドイツ語、ラテン語による北邊事情を密告した。長崎通詞中にはもちろん右二ヶ國語に通ずるものはなかつたので、和蘭商館長がこれを蘭譯して長崎奉行に提出した。日本文になつてゐる「ウシマにおいて、ばろんもりつあらあたるはんぺんごらう」の署名ある記録は、半紙一枚ほどの短文であるが「――日本國之筋を乘※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)り看、又一所一所に集り候筈に候、必定考候は、來歳に至り而者、マツマエの地、その外近所の島々え、手を入候事も相聞候――云々」などいふのがある。どのへんまで眞實か知らないが、その後數年を經てから長崎に來た林子平は、和蘭商館長からこのことを聞知して、彼の「三國通覽圖説」をもつて海防の急を愬へる動機にしたとも謂はれてゐる。
 とにかく、まだ鎖國の夢まどらかな時代ではあつたが、さきにスパンベルグの訪問があり、いま「はんぺんごらう」の彗星のやうな通過があつて、黒船の姿は當時の人々に大きな衝動を與へただらう。しかも北からくる船はロシヤばかりではなかつた。十八世紀の末まではまだ世界の地圖に空白があつた時代である。ヨーロツパからみれば太平洋の周圍には、まだ誰もが手をつけない「めつけもの」があつた時代である。米大陸の一部が發見されてから二百數十年、ベーリング大佐がベーリング海峽を※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)り、アラスカ東端を發見してから半世紀に足りない。ヨーロツパ人からみれば北太平洋から支那大陸の間に横はる日本の存在は、コロンブスにも似たやうな冒險心を唆らせる對象だつたと思はれる。イギリスの海軍大臣は同じ一七七〇年代の安永年間に海軍大佐ジエームズ・クツクに訓令して日本本土沿岸を探險せよといつてゐる。クツク大佐は再度太平洋を横斷してアラスカまで來つたが、果さずして一七七九年ハワイで死んだ。するとこんどはイギリスに代つて、フランスのルイ十六世が、ド・ラ・ペルウズ海軍大佐に命じて、クツクの遺業をつがせた。ペルウズはクツクの死亡後、四年目にアラスカに到達、つづいて沿海州海岸を測量し、間宮海峽にまで及んだといふ。
 當時の幕閣は、奇矯の言を振りまいたといふ廉で林子平を逮捕し「海國兵談」は板木まで沒收したが、子平や同じ仙臺藩平澤五助の海防唱道も、むしろ遲きに過ぎたか知れぬ。ペルウズが去ると、代つてイギリス海軍大佐ヴアンクヴアが二隻の軍艦を率ゐて、アラスカの多島海へきた。それが丁度寛政の三年である。そしてヴアンクヴア大佐が困難な多島海の測量を終へて退くと、その部下ブラフトン大尉が、愈々クツク以來の宿願である日本沿岸測量を遂行、寛政五年の九月、暴風の中を津輕海峽に達し、北上して蝦夷地の繪鞆(室蘭)に入港投錨したのであつた。
 このとき松前藩は防備手薄であつた。家老松前左膳はオシヤマンベにおいて英船渡來の報を知るや、早速藩廳から高橋、工藤の他數名の藩士に、少しロシヤ語のわかる醫師加藤肩吾をつけて繪鞆へ急行させた。このとき松前藩は手薄であつたためか、事が急で方針が確定してゐなかつたためか、いきなり異國船を撃攘する態度にはいでず、ロシヤ生れの相手方水兵に加藤のロシヤ語をもつて漸く意志を通じながら、艦上を訪問したといふ。ブラフトン艦長はよろこんで一行を歡待し、會食の後、高橋、工藤、加藤らは携帶したロシヤ製の日本北部地圖を示して、これを謄寫せしめ、ブラフトン艦長はまたその謝禮として、自國のクツク大佐がつくつたところの世界海圖を高橋らに贈つたさうである。
 このときのロシヤ製北部日本地圖などいふものが、どうして高橋らの手に在つたのか、そのいはれを示した記録を私は知ることができない。併し何故か不思議といふ氣はしない。日本で一番最初にロシヤ語を解したのは、學者でも武士でも醫者でもなく、海上難破してカムチヤツカとかオホツクあたりに漂着した日本の船乘たちであつたことを、多くの記録が語つてるやうに、蝦夷地に住んだ漁夫とか農夫とかは、記録もほとんど傳へ得ない世界において、カムチヤツカ土人や漂流ロシヤ人などと入り雜つて生活してゐただらうと想像することが出來るからである。現實はつねに記録よりも豐富だが、その記録でさへが、長崎と薩摩の間を往來する日本帆船が漂流して、フイリツピンのマニラやハワイ邊まで漂着した事實を傳へてをり、四國沖を航海する鹽をつんだ日本帆船が難破漂流して、太平洋の對岸(ずゐぶん遠い對岸であるが)アメリカ合衆國のオレゴン州コロンビア河口に流れついたなどいふ記録や、もつと北方のカナダ海岸に漂着してアメリカインデヤンの捕虜となつたとか、生きながらへて土人と混血してしまつたと推測されるやうな事實さへ傳へてゐるのだから、スパンベルグ來訪以來五十年の當時、ロシヤ製日本地圖が自然的な力で松前藩士らの手に在つても不思議ではないだらう。
 ブラフトン大尉は平和裡に二週間を繪鞆に碇泊。薪水補給、艦體修理、測量海圖の作成など終つてから、遠く日本の太平洋沿岸を南下、澳門に着いた。そして二ヶ年の休養後、寛政九年、ブラフトン大尉は再び澳門を出發、東支那海を東上した。臺灣海峽を通過して沖繩島に達し、再び太平洋岸にぬけて、こんどは日本本土に近接、海圖に記入しながら江戸灣なども確かめて夏の終りに繪鞆へ入港した。ところがこんども醫師加藤他二名がブラフトン大尉を艦上に訪問したが、彼らはもはや三年前の知己ではなかつた。ブラフトン大尉が慌てて繪鞆を出帆したときに、松前藩の士卒三百人が港ちかくに迫つてゐたといふ。「異國船再び來る」の報は江戸へも飛んで、老中松平伊豆守は事態容易ならずとして、松前若狹の參覲を停め、津輕藩にも箱館出兵を命じたが、船足の早い異國船はつひに捕へることが出來なかつた。
 北邊は漸く多忙であつた。しかもこれよりさき、イギリスのヴアンクヴア大佐が、多島海を測量してゐるとき、寛政の四年には、北からくる船のうちでも主人公、ロシヤのエカテリイナ女皇の第一囘遣日使節の軍艦「エカテリイナ號」が、女帝の親翰を捧持しつつ、千島列島を南下してきて、根室灣に投錨、松前藩に至つて、正式に來航の理由を明らかにしたのであつたが、これがヨーロツパ國家の元首が直接交誼を申入れた最初であらう。

      三

 十八世紀末から十九世紀へかけて、日本を訪れる黒船の數はしだいに頻繁となつたばかりでなく、一波また一波、あらたに寄せてくる波は、かへした波のそれよりもグンと大きくなつてゆく觀があつた。しかも鎖された國を脅やかすものは英、佛、露のみではなく、このときは既にアメリカの毛皮業船が、アラスカから澳門へむかつて、帆一枚で太平洋を渡りつつあつた。コロンブス發見以來の新興國民は、イギリスのクツクの探險報告でアラスカ沿岸のおびただしい獵虎の棲息と、それがロシヤ人にだけ獨占されてゐるのを知つて、命知らずのヤンキーたちは小帆船を驅つて殺到してゐた。當時アメリカ人は獵虎を狩るアラスカ土人に、鐵の頸輪一箇を毛皮三枚と交換して、毛皮一枚は澳門で七十五弗で取引されたと謂はれる。寛政四年(一七九二年)にエカテリイナ女皇の遣日使節が蝦夷松前にやつてきた年には、日本の東岸とほく太平洋を横ぎつてゆくアメリカ帆船は二十五隻にのぼつたといふことだ。つまり鎖された國を脅やかすものは北と南だけではなくて、東にも出現しつつあつたわけで、さらにこの年前後からは、毛皮船ばかりでなく、大西洋岸にあつたアメリカ捕鯨船が太平洋に河岸をかへた頃にあたる。世界最大の未開の海は豐富であつた。アメリカ人たちは抹香鯨を逐うて、南は赤道をこえて印度洋に入り、マダガスカルから紅海に達し、北はベーリング海峽をこえて、オホツクから沿海州一圓に至り、ハワイを通過する船はつひに鳥島をこえて、文政三年(一八二〇年)頃には、わが海岸に食糧薪水をもとめて、房總方面に上陸する捕鯨船が頻繁だつたと記録は書いてゐる。
 かういふ事態は、その二百年前に九州豐後水道にたまたま流れついたポルトガル船や、薩摩海岸に飄然上陸した一宣教師やが、切支丹や活字やをもたらしてきたやうな、ロマンチツクなものでないことがわかるが、さて當時の幕閣は、かうした海の四周のざわめきに對して、どんな理解と方針があつたであらう? 時の老中松平樂翁は、ロシヤの遣日使節ラクスマンに對して、「宣諭使」石川將監、村上大學の目付二人を送り、宣諭使は「異國人え被諭御國法書」を讀みあげて、「かねて通信なき國の船舶本邦に渡來せば、之を逮捕し或は撃攘する事我國法にして、若し漂民あらば、必ず長崎に護送すべし、國書をもたらすとも、受領する事能はず」と云つた。「エカテリイナ號」は根室灣に碇泊して「宣諭使」の來着を待つこと八ヶ月のうち、同船で送還されてきた漂民數多も、ロシヤ人乘組員も、また日本側警備員たちも、多數壞血病で死んだ。史家たちは當時の記録をつたへて、この時江戸評議の延引や、ラクスマンへ「長崎入港許可書」を與へたことやを基礎にして、松平越前は或は「松前の一港ぐらゐ開いてもよい」意志があつたのではないかとみる向もあるが、とにかく幕府の苦心は漸くこの頃にはじまつたのだらうか。
 ラクスマンが歸國して十一年目「長崎へゆけば國書が受理される」といふ彼の誤解? をもとにして、第二囘遣日使節國務顧問兼侍從ニコライレザノフは、文化元年七月に長崎に到着した。「ナデジユダ」「ネワ」の二軍艦をもつて、國書を捧持しつつ、クロンシユタツト發航以來二年目である。そして漂民護送は容れられたが、やはり通商は拒絶、ロシヤ側の贈物も法規に基いて、全部長崎奉行からおくりかへされて、記録は「ラクスマンの「長崎へゆけば」は誤解であつたことが明瞭」になつただけであると云つてゐる。
 このときは江戸から目付遠山金四郎が下向してきて趣きをレザノフに傳へたが、日本側の意志は出島の和蘭商館長ヅーフの策謀によつて、より冷たく誇大してロシヤ側に傳へられる、つまり「和蘭の妨害」もあつて、このときのことを長崎人蜀山人太田直二郎は「瓊浦雜綴」に次のやうに書き誌した。「――ヲランダの甲比丹、此度魯西亞出帆の翌々日、ヲランダ通詞共を招き、ヲランダ人はヲランダ料理、日本人は日本料理にて大饗せしといふ。八ツ時まで物くひ、酒のみ、歌うたひ、裸になりて騷ぎしなり。是はロシヤ交易の御免なきを悦びて祝の心とぞみえたり――」。
 それに「長崎」は「松前」とはちがつてゐた。ここは日本の玄關の一つで文化の傳統があつた。蜀山人が和蘭の妨害について誌したやうに、日本版畫の鼻祖司馬江漢も「春波樓筆記」のうちに誌した。「――魯西亞の使者を半年長崎に留めて上陸も許さず――魯西亞は北方の邊地不毛の土にして下國なりと雖も、大國にして屬國も亦多し、一概に夷狄の振舞非禮ならずや。レザノツトは彼の國の使者なり。――夫禮は人道教示の肇とす、之を譬へば、位官正しきに裸になりて立つが如し――」云々と。
 しかし聖明を蔽ひ奉る幕閣の「鎖國的」戀着は、まだまだ強固なものがあつたので、「和蘭の妨害」などは大したものでなかつたらう。そして半年後に失望のうちに長崎を退帆したニコライ・レザノフは、幕閣も、蜀山人も、司馬江漢も、想像できぬやうな決心を抱いてゐたのである。彼は一旦ペトロポウロスクまで引揚げ、解散すると、使節から早變りして露米會社重役となつて、單身アラスカへ旅立つた。そこで露米會社の全能力を擧げて艦船の建造、兵員の訓練をはじめ、文化二年七月の日付で本國政府へ上奏文を奉り、「日本遠征」の計畫を明らかにしたといふ。まづ樺太島を襲つて日本人を追放し、蝦夷本島を破壞し、さらに日本本土の沿岸にも出動して、日本帆船を拿捕しようといふ計畫で、このことは既に長崎退帆の歸途、一行の海軍大佐フオン・クルーゼンステルンが、沿岸の要衝を密かに測量したりして、海岸防備の脆弱を探査したといふことであつた。そして若しロシヤ本國政府がレザノフの計畫に同意を與へて、順調に進んだとするならば、そしてまたレザノフやフオン・クルーゼンステルンが觀察したやうに、わが日本人が弱かつたならば、英國が支那に對して阿片戰爭によつて香港を開放せしめたやうな事態が支那よりも一時代早く起つたか知れない。
 もちろんそれはレザノフの誤りであつた。日本と支那はちがふ。日本の國柄は支那とちがふし、後年シーボルトが觀察したやうに、人種血族的にも經濟的にもちがつてゐる。「――二百年の泰平庇蔭にて、日本國民の文明開化はその高潮に達して、今やわが歐羅巴を除きては、古世界中の最も進歩せるものとなれることは何人も爭ふやうなし」「英國が最近時支那につきて施爲したる處置は日本にては成すべからず、日支兩國の差別は、國民といひ、國家といひ、貿易的産物といひ、通商關係といひ、その差別は歐羅巴において考ふるよりも甚だ大なり」「されば日本には國債といふものなくして著大なる國寶と無限の國家的信用とあり。ある貴人は余に云へり。『――石を錢に鑄るべく、石は錢の價値あり』」と、かくて「日本の住民が混淆なくてある間、日本に於ける外國貿易は、歐洲人が移住し、其住民と交はりて新しき一國民となり、或はその住民を征服[#「征服」は底本では「制服」]して風俗、習慣、生活必需品一切を強要して、母國たる歐洲との交易を須要とし、有利とするに至らしめたる歐洲外の國々の如くに、繁昌となることは決してあるべからず」(日本交通貿易史)と、この一外國人は結論した。
「英國が最近時支那につきて施爲したる」とは、もちろん南京條約及び阿片戰爭の謂であり、「古世界中の云々」は、歐洲以外の基督教文化、若くは機械文明によつて近代化されてゐない國々を指してゐる。しかし私らはしばらく冷靜にして、この歐洲以外はすべて植民地視するところの一外國人の謂ふところをきいてみよう。シーボルトのこの觀察は、レザノフが長崎を去つて、ひたすら武力による日本遠征を企てた一八〇五―七年から三十餘年を距ててゐるが、そしていはば日本通商の特惠國オランダの出先役人であつたシーボルトの「將軍政治」への偏つた傾倒だつたにもしろ「古世界中」では最も發達したる國、無限の國家的信用をもつた國、石をもつて云々と比喩するごとき統一された國、「日本の住民が混淆なくてある間」は歐洲人も決してこれを征服することはできないといふ國。これらは「世界の旅人」フオン・シーボルトの十數年にわたる日本滯在のうちにつみあげられた觀察ではあるまいか。
 レザノフの觀察はそこまで至らなかつた。しかしレザノフはレザノフなりの見解をもつてゐたのである。平和な第二囘遣日使節としての彼の任務を妨害した大きな原因の一つが和蘭商館にあることを、蜀山人に俟つまでもなく承知してゐた。一説によると彼は長崎碇泊中、長崎通詞らをとほして得た知識によつて、佐幕派に對立する勤皇派に味方することで、日本通商の利を得んとしたものとも謂はれる。いかにも皮相な見解だつたとしても、家康の御朱印状以來特惠國として、事毎に「將軍政治」を謳歌するオランダに反感をもつ以上、或は自然な成行だともいへる。レザノフはひたすら戰艦を建造し兵員を募つた。そして若しかレザノフの計畫にロシヤ政府が全的承認を與へたならば、わが國内事情は一應措くとして、われら日本人は祖國を護るために相當の犧牲を拂はねばならなかつただらう。
 しかしレザノフの計畫は、後にみるやうにエカテリイナ女皇についで即位したアレクサンドル一世が承認を與へなかつたために龍頭蛇尾に終つたが、レザノフ一個は簡單に計畫を放棄することが出來ないで、文化四年(一八〇七年)のフオストフ事件となり、日露國交史上最大の暗い頁となつた。フオストフ事件はついでガロウニン事件を産みガロウニン事件はまた高田屋嘉兵衞事件を産んだのである。
 史家たちは今日も、ロシヤ政府がレザノフの計畫に承認を與へなかつた事情、また不承認を知りながら計畫をすすめ、しかも遠征出發の直前になつて、雲がくれして行衞不明となつたレザノフの曖昧な行動について、決定的な判斷を與へることが出來ないでゐる。そこで私は私なりに考へるのだが、尠くともこのレザノフの曖昧な行動に、ロシヤ政府と露米會社の關係が物語られてゐる氣がするのだ。つまり英、蘭等よりも遲れて資本主義化しつつあつたロシヤ政府の出店、露米會社の性格があるのではないか。ピヨトル大帝以來の對日方針はまだ生きてゐて、イギリス政府とイギリス東印度會社の關係のやうにはてきぱきとゆかぬのではないか。しかもレザノフとしてみれば、十九世紀初頭以來露米會社獨占の北氷洋毛皮業は、向ふみずなヤンキーたちによつて急速に侵蝕されつつあつたし、千島列島を南下する植民政策も、却つて人口稠密な日本側からの移住者によつて壓倒されてゐた。しかし彼は、露米會社二代目支配者として、ヨーロツパにある株主のためにも局面を打開しなければならなかつたのである。オホツクから澳門への最短航路を拓くこと、「鎖されたる國」の扉をむりにでもこじ開けねばならなかつたのである。
 露米會社は一七八三年、レザノフの舅シエリコフによつて創立されたが、オホツクからカムチヤツカ、ベーリング海峽をこえてアラスカ北端に至る、つまり北極圈にちかい陸地では人類生存以來の出來事だと謂はれる。土人たちは武力によつて征服され、毛皮税を課されたが、一方からいふとはじめて文字を學び、近代武器や文明品を知り、一と口にいへばヨーロツパの基督教文化に浴したわけであつた。露米會社は初期においては隆盛をきはめ、一七九八年、寛政九年、北邊事情が子平、平助らによつて漸く日本人の間に注意を惹きつつあつた當時、露米會社の株券はヨーロツパにおいて三十五割方騰貴してゐたといふ。レザノフは露米會社支配人であると同時に、エカテリイナ女皇の侍從であり、露米會社は沿海州からアラスカに至る毛皮業はもちろん、植民、開拓の權限を持ち、必要な軍事施設、軍艦の建造、兵員の養成、士官の任免等、殆んど一個の政府にちかい權能を持つてゐた。
 考へてみると、わが江戸時代、南から北から、鎖國の夢をゆすぶり脅やかしたものは、いくつかの會社であつた。殊にオランダ東印度會社、イギリス東印度會社及び露米會社の三つであつた。オランダ東印度會社はジヤワ、バタビヤに根據をおいた。イギリス東印度會社は印度とシンガポールに根據をおいた。露米會社はオホツクに根據をおいた。前二者は十七世紀初頭、秀吉時代に既に東漸しはじめてゐたのである。そしてどの會社もその本國政府に許されて、貿易、植民、産業開發、軍事に及ぶ同じやうな權能をもつて、互ひに相爭ひあつてゐた。葡の、西の、佛のそれらを考へると、それは間斷ない侵略と戰爭の連續であることを歴史は教へてゐる。
 しかしまたそれは同時に近代文化・ヨーロツパ文明の放散でもあつた。ジヨホール王から掠めとつてシンガポールを建設したラツフルズはイギリス第一の東洋通であり學者であつた。オランダ國旗を唯一つ日本長崎で護り通し祖國の歴史を辱しめなかつた甲比丹ヅーフは、日本へ對するヨーロツパの理解を深めた第一の人であり、同じく日蘭貿易關係を改善して東洋におけるオランダの位置を強化したシーボルトはまた日本にとつて近代醫學の光を與へた人であり、ロシヤの版圖を北極圈まで伸張したシエリコフは、學校を建て文字と算術を教へ近代政治を與へて、カムチヤツカやアラスカ土人に不朽の光を與へた人であつた。私はこの歴史の大きな矛盾を簡單に説明する言葉を知らないのである。

      四

 砲數門を備へた露米會社軍艦「ユノ」「アウオス」の二隻は、同社勤務海軍大尉フオストフ、同少尉ダヴイドフに率ゐられて、わが北邊を再度にわたつて襲撃した。文化三年十月、樺太大泊に兵三十名をもつて上陸、松前運上屋を襲撃、日本人四名を捕虜とした。翌年五月は千島列島を南下、エトロフ島に上陸して松前會所を襲撃して日本人五名を捕へた。松前藩は南部、津輕兩藩兵二百數十をもつて急行應戰したが、兵器に時代の差があつて敗戰、松前藩吏戸田又太夫は責を負うて切腹したと記録は傳へてゐる。
 北邊の備へは愈々嚴でなければならなかつた。ところがフオストフ大尉に一片の命令を與へて雲がくれしたレザノフは、フオストフらが最初の遠征中、既にアラスカの寒地で死亡してゐた。しかもフオストフらはオホツク港に凱旋するや、本國の訓令に基かない行動をとつたものとして、オホツク長官の手で逮捕、投獄されてしまつたのであるが、かういふ機微な事情を、松前藩でも知るわけがなかつた。
 ガロウニン事件はかくして生れた。フオストフらが投獄された翌文化八年、海軍少佐ガロウニンは本國の訓令によつて、千島及び沿海州海岸の測量中、六月エトロフにつきて薪水補給をもとめたが、松前配下石坂武兵衞の誘導にかかつて、彼以下六名が捕へられてしまつた。松前に護送され、文化十年九月まで獄中にあり、今日傳る「日本幽囚記」は、このときのガロウニンの手記であつた。これを一方からいふと文字と言葉の不通が媒ちしたものでもあるが、この悲劇はガロウニンから幕府天文方馬場佐十郎、足立左内らを通じて、ロシヤ語が日本に傳へられる機縁となつたし、嘉永年間の渡來に先だつて、種痘法がはじめて日本人の知識となる機縁ともなつた。
 そしてガロウニンが釋放されるためには、つまりガロウニン少佐とフオストフ事件とは無關係だといふことを明らかにするためには、更にいま一つの「高田屋嘉兵衞事件」が生れなければならなかつた。文化九年八月、北方千島の航路を開拓しつつあつた嘉兵衞の觀世丸は、ガロウニンの同僚リコルヅ少佐の「デイヤナ號」に抑留されてカムチヤツカへ連行された。しかし嘉兵衞は歴史が傳へるやうに相手方の眞意を把握しうる程の人物だつたので、翌年四月まだ鎖された海氷を割りながら、新たにオホツク長官代理に任命され、ガロウニンとフオストフとは關係ないといふ釋明書を携へたリコルヅ少佐を伴つて、國後島へ歸還した。そこでオホツク長官代理は日本の要求に應じて、フオストフ事件の謝罪始末書を提出し、ガロウニン以下は釋放、レザノフ以來の紛擾が解決したわけである。
 嘉兵衞の努力は日露國交の危機を救ひ、あはせて日本人の面目を海外に顯揚したのであるが、レザノフは死んでもロシヤ側の日本の門戸をたたく熱意はかはらなかつた。リコルヅのオホツク長官代理を任命されたのは、ガロウニンの身柄を釋放するに必要でもあつたが、同時に「通商」と「國境協定」のための談判を開始する資格の必要からでもあつたといふ。リコルヅと松前奉行服部備後守との會見によつてロシヤ側の希望は江戸へ申送られ、囘答は翌文化十一年エトロフにおいてなすべきことが約された。幕閣の囘答は嘗て長崎においてレザノフに示されたと同樣であつたが、しかし翌年、日、露、蘭の三國語に認められた文書を松前藩高橋三平が携行、エトロフ、シヤナに赴くと、ロシヤの船は會見の場所に來なかつたのである。するとそれより四年後文政元年になつて同藩飯田五郎作なる者が、エトロフ海岸で偶然拾つた筐のなかにロシヤ官憲の文書がはいつてゐて、約定のとほり文化十一年同島北部に來着したけれど、日本の役人をみることが出來ないから、やむなくオホツクに歸航するといふ意味が認めてあつたといふ。
 歴史はときに蒼茫としてみえる。時間と空間をこえて、あるときは近くなり、また遠くなる。ガロウニン事件、嘉兵衞事件が終つて、またプーチヤチン提督が四隻の軍艦を率ゐて長崎沖に出現するまで、約半世紀が經つ。しかも日露國境問題も未解決のままであり、ロシヤは北邊の門戸をひらくことが出來なかつたが、この因縁は絶えたわけでなく、半世紀後、本木昌造が「長崎談判」「下田談判」に通詞として活動する運命も、かうした因縁につながつてゐるわけであつた。
 北邊を襲つた波は、それで一旦かへしていつたが、波のあとに殘つたものに「ロシヤ語」があり「種痘法」があつた。ロシヤ語はこのとき以來幕府天文方において一つの座席をもつやうになつたし、「種痘法」は一部ではあつたが日本人の知識のうちに加へられた。馬場佐十郎がガロウニンから口授されたもので、嘉永二年の痘苗の渡來に先だつ四十年である。しかもこの種痘法は何故實施されず、正確には安政五年に「種痘館」が出來るまで半世紀を待たねばならなかつたであらうか。その事情はガロウニンが退去してから八年め、文政元年に江戸灣に突如あらはれた英國商船「ブラザース號」船長ゴルドンから、種痘具一式を贈られた馬場佐十郎の答にみることができる。彼の答を要約すると、「結構なる品、有難くは存ずるが、殘念ながら受領できない。それは國法の禁止するところであつて、種痘法は自分が嘗てロシヤ人ガロウニンより口授され、國内にも一應知られてゐるけれど、上役人の許可がないので未だにその效力を實驗することが出來ないでゐる状態だ」と述べてゐる。安政五年に種痘法が實施されたのは「西洋醫學所」の力のみではない。云ひ換へればここにも活字と同じ運命があつたのだ。
 さて北方に對する幕府の危惧が去らぬうち、南方では既に「フエートン號事件」が起つてゐた。文化五年でフオストフが北邊を襲撃した翌年である。「海賊」英國はこのとき既に印度洋及び南太平洋において王者の位置を築きつつあつた。一七六三年、わが明和年間にはフランスとの植民競爭にうちかつて印度を奪ひ、一八一一年、わが文化八年には和蘭艦隊を打倒して和蘭東印度會社の根據地ジヤワを陷しいれてゐた。一八一九年、わが文政二年には海峽植民地シンガポールが建設され、一八四三年、わが天保十三年には阿片戰爭を通じて香港島に砲臺が築かれた。「フエートン號事件」はつまり和蘭艦隊打倒後でジヤワ、バタビヤの和蘭政府の實權を掌握、すすんで出先日本長崎の同商館を占領しようとして長崎沖に出現したのである。もちろん目的は商館の占領よりも、日本との通商權利を頬被り的に引繼ぐことにあつて、十九歳の青年艦長ペリウをのせた武裝船が、何故僞りの和蘭國旗をかかげて入港してきたかも、自から明らかだらう。この事件におけるヅーフの策謀、奉行松平圖書をはじめ佐賀藩士數名の引責自害その他、昌造の祖父庄左衞門らの活動などは前に述べた。この事件は、北方のそれよりも影響するところが大きく、幕府は後事に備へるため庄左衞門らに英語の習得を命じたが、日本における英語の歴史はこのときから起原するといふ。
 しかも南からよせてくる波は、北のそれよりも急速ではげしかつた。當時の幕閣には薩摩、琉球より南の方についてどれほどの理解が養はれてゐただらうか。新井白石以來、海外の政策や文物に注意する傳統が失はれたとも思へないが、尠くとも表面は長崎奉行まかせであつて、また長崎奉行の目付ともいふべき代々の和蘭甲比丹から具申する海外ニユースをたよりにしてゐた程度であつたと思はれる。そのことはたとへば文化年度以來、ヨーロツパにおける國際關係が複雜になつて、和蘭船として同國國旗を掲げて入港してくる船々には、アメリカ船、デンマーク船、ロシヤ船、ブレーメン船等があつても、實際にこれを知つてゐたのは長崎通詞のみであつたといふことにもあらはれてゐる。
 これらは和蘭傭船であつた。しかし傭船ではあつたが、これらの異國船はつねに和蘭國旗を放棄して、單獨の日本通商をしようといふ謀反心を抱いてゐたのである。殊に新興のアメリカ船にそれがつよくて、アメリカ船「エリザ號」などは二度めは和蘭國旗を掲げず入港しようとして追ひ返され、三度びそれを企てて三度び追放され、つひにフイリツピン沖合で難破、再び起てなかつたといふ。そしてこれは和蘭傭船ではないが、文政元年五月、異國船が突如江戸灣に出現して江戸の役人たちをおどろかせた。それはイギリス商船「ブラザース號」で、しかも六十五噸の小帆船であつた。恐らくお膝元江戸灣に乘りこんだ最初の船であらうが、まつたく「突拍子もない船」である。本國の政治的意圖ももたない私船で、長崎を無視してのこのこと江戸へやつてきたこの船は、日本の許可を得て貿易をしたいと臆面もなく申立てたところに、異國船渡來の歴史にみて劃時代的な意味をもつものと私は考へる。
 もちろん「ブラザース號」は追ひ返された。そしてこの六十五噸の小帆船の處置について老中をはじめとする役々の動きの記録が殘されたが、ゴルドン船長の方でもおどろいて早々に引揚げた。しかしこのとき浦賀に碇泊したわづか一晝夜のうちに「雜貨類の交易に熱心」な附近の百姓町人たちは「ブラザース號」の甲板に充滿し、船の周圍をとりまく者を加へれば二千を超えたと記録してある。
「突拍子もない船」はしだいにふえた。文政年間から天保年間へかけてアメリカ、イギリスの捕鯨船で日本海岸に漂着するものだけでも「數知れず」であつた。前記したやうに文化の末から文政へかけては、アメリカ漁夫たちが大西洋から太平洋に河岸をかへた時期である。しかも未開の太平洋に鯨を逐うてくるものはアメリカ漁夫のみに限らない。弘化三年になると、フランス軍艦「クレオパトラ」が長崎港外に訪れて、日本への交誼をもとめてゐる申出のうちに、「フランス捕鯨船で漂着するものあらば穩便の處置をたのむ」といふ文句もみえるから、フランスの漁夫もあつたであらう。とにかく太平洋はまだ處女であつた。文政八年、幕府は「異國船掃攘令」を出してゐるが、直接にはこの「突拍子もない船」の來着に原因してゐるのは自然だし、よほど手を燒いたにちがひない。文政五年、つまり一八二二年、どんな順を經て日本から抗議されたのか知らないが、アメリカ政府は議會において、自國の捕鯨會社に對して警告を發する決議をしたほどであつた。
 殘念ながら私はアメリカ捕鯨船漂着の記録をつぶさにしないから、イギリス捕鯨船だけに限ると、文政五年江戸灣に一隻、同六年に常陸國沖合に六、七隻、同七年同じく常陸國沖合に二隻、同年薩摩海岸に一隻、同八年南部藩沿岸に三隻、同九年上總國望陀沖に一隻、天保二年蝦夷繪鞆沖に一隻といつたぐあひである。これに立役者のアメリカ、それにフランスその他を加へたならば、日本海岸に漂着するもの毎年數件、數十件にものぼつたであらう。
 しかもこれらの船の性質上、南の長崎も北の松前も無視してゐる。長崎の目付役? 和蘭商館さへ事前に豫知できぬやうなやからである。彼らがどんな風にやつてきたか、たとへば文政六年及び七年に、常陸國沖合にあらはれた捕鯨船についてみると、六、七隻の異國船はまつたく食糧薪水に缺乏してゐて、手眞似をもつて意志を通じながら、附近の沖合にゐた水戸の漁夫たちと、ヨーロツパ雜貨と、米や煙草などと交換した。漁夫たちは親しく異國船に招待されて、珍奇な外國の風俗や品々におどろいたが、噂は忽ち漁村から町方までひろがつて、こんどは漁夫を通じて交易せんとする商人が續出した。水戸藩廳ではおどろいて商人、漁夫ら三百餘人を捕へたが、異國船はもはや食糧薪水を得たためか間もなく沖合から姿を消してしまつた。ところが翌年漂着した二隻の捕鯨船は、もはや日本の漁夫らと交易して薪水をうることが出來ないので、ボート四隻で大津濱に上陸、十六名は武裝してゐたが、水戸藩吏に捕へられた。のち取調によつて、食糧補給以外他意なきこと判明したので、釋放されたが、一時は沖合に待機してゐた本船から大砲をうちかけてくる騷ぎであつたといふ。同じ年薩摩領寶島でも、上陸してきたイギリス漁夫たちは、火酒やパン、貨幣などみせて、畑にゐる牛をもとめたが、拒絶されるとこんどはボート三隻に二十名が武裝上陸、本船から掩護砲撃下に畑の牛を掠奪せんとした。しかし薩藩吏の應戰によつて彼らは目的を達せず、一つの遺棄死體をのこして退散した。――
 つまり彼ら漂着船の目的は、自から單純であつた。彼らは、食糧薪水の補給さへすればよかつたし、それ以上にはせいぜい自國の雜貨を與へて、代りにめづらしい日本品を土産にでも出來ればよかつたのであらう。毛色眼色は異つても、言葉は通じなくても、政治的意圖をもたぬ人間同志はつねに親しみやすいものである。しかも記録にものこらない、北は蝦夷から南は琉球までの日本海岸で、そんな事柄は澤山あつたらうと想像することは困難でないから、この時代にこれらの船々が、鎖された國の人々に與へた影響は、けつして小さくなかつたにちがひない。
 そんな意味からもつづいて起つた天保八年(一八三七年)の「モリソン號事件」などは重要であつた。有名なこの事件はアメリカ、オリフアント會社重役チヤールズ・キングを主とし、日本語學者で宣教師ギユツラフ、博物學者ウエルズ・ウイリヤムズ、醫師で天文學者ピーター・パーカーらの一行であつた。「モリソン號」の眞の目的が何であつたか、直接には日本漂民で尾張の船乘岩吉、久吉、音吉、同じく肥後の庄藏、壽三郎ら數名を本國へ護送することで日本の歡心を得、間接には日本通商の下心を得んとするにあつたらうと史家たちは云つてゐる。單に漂民の護送ならば長崎で充分であるものを、避けて江戸灣にむかつたのも、和蘭商館の妨害を懸念したことが考へられるなど、理由の一つである。
 しかしいづれにしろこの船は特殊であつた。その平和的使命を明らかにするために、モリソン號の一切の武裝を解除して、パーカーは醫療器械各種、藥品等のほか天文に關する器械、圖解などを携行、ウイリヤムズはまた博物學方面の資料を準備したと謂はれる。つまりモリソン號はその頃漸く支那において基礎を強固にしてゐたオリフアント會社の通商的野心から準備されたものであつても表面は漂民の護送、同時にヨーロツパ學術の紹介と普及にあつたといふことができよう。ところでモリソン號のかうした内容については翌年になつて和蘭商館長より長崎奉行宛への報告がはいるまで幕閣は何ら知る處がなかつた。江戸灣へむかつたモリソン號は三浦郡白根沖合に差しかかるや小田原藩及び川越藩の砲火をあびて退去。再び薩摩國兒水村近くに投錨したが、ここでも砲火をあびて一發は命中、危險に瀕したので、つひに得るところなく澳門へ歸航したのである。ある史家はモリソン號が通商に野心なく、長崎港にはいつてきたならば問題はなかつた筈だと述べてゐる。勿論それにちがひはないが、禁制の江戸灣にはいつてきた迂濶さには、和蘭商館の妨害を忌避するばかりでなしに六十五噸のブラザース號がのこのこやつてきたのと同樣な、自己の文化に確信をもつところからくる迂濶さといつた空氣があつたのではないかと私は思ふ。十九世紀も半ばとなれば、ヨーロツパ文明も侵略と植民を足場にして印度、支那沿岸に及んだ時期であつた。船の仕立主が一會社であり、乘組員が學者及び技術者に限られてゐたことも特色があるし、表面的にもしろ、こんな目的をもつて西洋から訪れた船は前例のないことであつた。
 老中筆頭水野越前守は翌年長崎奉行を通じて和蘭商館長からの報告によつてモリソン號の目的を知り、「將來同一理由を以て、外國船舶の江戸灣口に接近することあらば、其處置を如何にすべきや」と評定所へ諮問したといふ。漂民護送の船が訪れたことは、スパンベルグ以來、決してめづらしいことではないから、從つて水野の諮問には自から「江戸灣」とモリソン號の「平和的」な目的に對して心を痛めたのではなからうか? そして祕密に諮問されたこの事實が評定所内部から田原藩家老渡邊登へ洩れた。以下渡邊崋山は「愼機論」を書き高野長英は「夢物語」を著はし、ひいて蠻社遭厄事件となつたことは周知の通りである。つまりモリソン號事件への世評は意外の反響をよび、崋山が自殺した翌年「打拂改正令」は出されたが、それによつてもまだ幕閣の苦心は柔らげられなかつたのである。
 開國是か非か? イギリスを先頭とする諸國の勢力は東漸して支那大陸に及び、勢ひは明日にも日本海岸に及ばんとしてゐる。しかも自主的に開國するには國内準備が遲れてゐるし、殊に家光以來の鎖國傳統は、牢固たるものがあつた。そしてモリソン號を追ひ返してわづか六年、弘化元年六月には、和蘭の軍艦「パレムバン」が、日本ではじめてみる蒸汽軍艦が長崎にあらはれたのであつた。
「パレムバン」は、和蘭國王の「開國勸告」の書翰を捧持してゐた。和蘭が開國を勸告する眞意には、もはや彼のヨーロツパにおける國際的勢力が日本を一人己れの顧客として他の諸國と楯つくだけのものを失ひ、それよりは時運に基いて開國を勸め、さうした交誼によつて從來のやうに特惠國ではないまでも、有利の位置を占めようといふ意志もふくまれてゐただらう。しかし蒸汽軍艦「パレムバン」は長崎碇泊五ヶ月の後、何ら得るところなく退散しなければならなかつた。江戸から到着した「諭書」はつまり、「開國勸告など無用にねがひたい。從來どほり通商は貴國以外とはしない方針であつて、また貴國との通商も通商ではあつても國交ではない點、誤解なきやうねがひたい」といふのであつた。
 それはまことに取りつく島もないものであつた。「パレムバン」はやむなく國王よりの贈物を長崎出島に遺留して退去したが、當時の幕閣がこの囘答をするまでの成行は、それ自身そんなに簡單ではなかつたやうである。徳富蘇峰氏は「吉田松陰」のうちで、このときの事情を次のやうに述べてゐる。「――むしろ他より逼られて開國するよりも、我より進んで慶長、元和の規模に復り、内は既に潰敗したる士氣を鼓舞し、外は進取の長計を取らん」と水野閣老は欲した。それで水野は將軍家慶の御前において閣議をひらき、その説を主張したが、つひに家慶の容れるところとならず、水野は激して「――既に斯く鎖國と決する上は、和の一字は、永劫未來御用部屋に封禁して、再び口外する勿れ、滿座の方々も果して其の覺悟ある乎」と絶叫したので、次席閣老で、家慶將軍の最も信頼厚かつた阿部伊勢守も、雙眼に涙をうかべ、兩掌を膝に支へながら、「委細承知仕りぬ」とこたへたといふ。――
 それはまことに意味ふかい劇的一場面である。天保から安政へかけて江戸末期を代表する二名宰相、水野越前と阿部伊勢のこの言葉尠い問答のうちに、複雜多難な時代の辛苦が象徴されてゐるやうだ。「パレムバン」の來航は、いはばスパンベルグの來航以來、異國船渡來史第一期の大詰であると私は思ふ。しかも第二期はすぐはじまつて、よせてくる波は益々大きく激しくなつてきたが、このとき、弘化元年十月蒸汽軍艦渡來のとき、既にわが昌造は二十一歳で「小通詞見習」であつた。その職掌柄と、幼少から家藏の蘭書とで鍛へられ「少年時、既に世界的活眼」をひらいてゐたといふところの青年昌造は、どんな考へを抱いてゐたであらう※(疑問符感嘆符、1-8-77)
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        活字と船


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      一

 さてこのやうに逼迫した對外空氣のうちにあつて、昌造が近代活字を創造した事蹟は、彼の二十五歳のときにはじまつた。幕府への開國勸告使節和蘭の軍艦「パレムバン」が追ひ返されてから五年めで、「長崎通詞本木昌造及び北村此助、品川藤兵衞、楢林定一郎四人相議し、鉛製活字版を和蘭より購入」と、洋學年表に誌されてゐる。「――楢林家記に、銀六貫四百目、蘭書植字判一式、右四人名前にて借請――嘉永元申十二月廿九日御用方へ相納る」といふ附記もある。
 銀六貫四百目はわかつても、活字の數量など不明だから、舶來活字の當時の値段はわかりやうがない。活字の種類は現在殘つてゐる「和蘭文典セインタキシス」などからみて大小二種、字形はイタリツクにパイカの二種だつたらうくらゐのことがわかるが、「植字判一式」といふのも内容が明らかでない。今日の言葉でいへば「植字判一式」といふからには印刷機及び印刷機附屬品をふくまずに、つまり活字製版器具だけの意味であるが、この事蹟を「印刷文明史」に據つてみると曖昧である。明記はないが、このとき昌造ら購入の「植字判一式」だけで、それより七年後、幕府の命で長崎奉行所が印刷所を設置したごとくであるからである。
 しかし「植字判一式」なるもののうちに印刷機もふくまつてゐたかどうかの詮議は、さほど重要ではない。七年のうちには、幕府は年々はいつてくる和蘭船へ印刷機だけ追加註文も出來たらうし、出島商館には印刷機一臺くらゐは存在したか知れぬから、借入することも出來る。とにかく一日本人の創意によつて近代鉛活字を購入したことと、幕府が印刷所をつくる三四年前に、その購入活字をヒントにして日本文字の「流し込み活字」をつくつたこと、その日本文字の活字によつて「蘭話通辯」一册が印刷されたといふことである。
 大和法隆寺の陀羅尼經以來、木版、銅版(陀羅尼經原版は銅版とも謂はれてゐるが)、銅や木の彫刻活字といふ日本の歴史で、嘉永四年の「流し込み鉛活字」はまつたく紀元を劃するほどの魁けであつた。このとき、四人のうち、誰が買入主唱者であつたかも明らかでないが、大槻如電は、「昌造――蘭書を讀み、其の文字の鮮明にして印書術の巧妙なるに感服し、活版印刷の業を起さんとし、同志を募り、公然たる手續を以て蘭字活版を購ひ入れしなり」と書いてゐる。そして購入以來、數年を費して、「流し込み活字」をつくり、「蘭話通辯」を印刷したのは四人でなく、一人昌造だけであつたことも、もちろん疑ふ餘地がない。
 また三谷幸吉氏は「本木、平野詳傳」のうちに、昌造が蘭字活字買入の動機を誌して、彼はあるとき和蘭人から和蘭の活字發明者フラウレンス・ヤンコ・コステルの傳記をもらつて讀んだ事實があると誌してゐる。この三谷氏の説がホンの云ひ傳へであるか、確實な資料にもとづいたものであるか、私はそれを判斷する力を持たない。しかしそれがほんの長崎での傳説であつたとしても、甚だ信じ得る事柄ではある。和蘭人フラウレンス・ヤンコ・コステルは、ドイツのグウテンベルグに先だつ約十五年、西暦一四四〇年頃に、鉛活字を創造した世界最初の人だと、和蘭人が海外に誇る人であつたから、當時の日本がヨーロツパぢゆうで唯一の通商國とした和蘭から、通詞といふ職で生來科學に興味をもつ昌造のやうな人間に、コステルの名が傳へられたことは至つて自然であらう。
 しかも次のやうな、コステルと昌造の各々がもつ二つの※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)話は、以上の關係を明らかにするやうで面白い。あるとき、コステルは庭先に落ちてゐる木片をひろつて、手すさびに自分の頭字を浮彫りにしたが、捨ててしまふのも惜しくて、紙にくるんで室の隅に抛つておいた。それからずつとのち、何氣なく手にふれたその紙包をひろげてみたら、木片の文字がハツキリと紙に印刷されてゐるので、非常にびつくりしたといふ話。――
 いま一つの※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)話は、昌造の事蹟のうち今日も有名な語りぐさであるが、あるとき昌造は、購入した蘭活字の少しばかりを鍋で溶かすと、腰の刀をはづして目貫の象嵌にそれを流し込んでみた。やがて鉛が冷却するのを待つて、裏がへしてみると、目貫の象嵌は凹型になつてハツキリと鉛に轉刻されてゐるので、昌造は大聲を發して家人をよんだといふ話――である。
 この二つの※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)話は、東西を距ててどつかに共通するものがあるばかりでなく、後者は前者にくらべて、もつと意識的であることがわかる。コステルの場合は、偶然な木活字への端緒であるが、昌造の場合は、流し込み活字への豫期がある。しかも後者の※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)話は、前者の※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)話に影響されてゐるやうなふしが感じられる。
 しかしこの種の※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)話といふものは、科學精神のある純粹さが、生活と凝結しあつて、偶然な事柄を形づくつたとき、一つの藝術的な普遍さと値打をもつて傳説となるものであるが、それが必ずしもコステルなり昌造なりの、發明の實際を説明してゐるわけではあるまい。和蘭にも、コステル以前に木活字はあつた。しかも、コステルがつくつたといふ確かな鉛活字は、今日一本も殘つてゐない。印刷した書物にもコステルのそれと判斷すべきものがないので、世界の印刷歴史家たちの間では、やはりグウテンベルグに、その榮冠を授けてゐるのだと謂はれるが、しかし十五世紀の始めに出來た和蘭の古書に活字印刷の部分があるといふ事實や、コステルの工場から活字を盜んで逃げた職工が、グウテンベルグの生地ドイツ、マインツに住んだといふ傳説や、グウテンベルグの發明後、近代印刷術が全歐洲を席捲していつた徑路のうちでも、和蘭が別系統であるなどの事實があつて、ヤンコ・コステルは、或は架空の人物かも知れないのに、五世紀後の今日もまだ殺すことの出來ない人物である。今日の印刷歴史家たちは、ヤンコ・コステルといふ人物が和蘭人の創作にちがひないと承知してゐる。しかも和蘭印刷界にのこる幾つかの事實、記録にものこらないあれやこれやが、それをささへて生かしてゐるのであらう。しかもそのコステル傳記が、これは「創作」でない昌造に影響を與へたばかりでなく、東洋日本の一角に近代活字が渡來する始めであつた。
 私たちはそれが嘉永の元年で、西暦の一八四八年だといふことを記憶しておかう。そしてこの記憶を前提として、西洋印刷の歴史をさかのぼる四世紀、グウテンベルグの發明が一四五五年で、その以前の西洋の木活字時代といふものが、わづか二三十年しかないといふことを知るだらう。その木活字の創造者はイタリーのカスタルヂーであつた。カスタルヂーは土耳古のある政府につかへて、書寫官であつたが、あるときマルコ・ポーロの支那土産のうちから東洋の木版書物をめつけて、それをヒントに木活字を發明したのだといふ。それが一四二六年だ。つまりグウテンベルグの一四五五年までに二十九年しかない。
 これは非常におどろくべきことである。日本では陀羅尼經以來、木版ないし銅版の歴史は千餘年、木活字の歴史は徳川期以來二百餘年、昌造時代ももちろんさうであつた。支那や朝鮮となると木版歴史などもつと古い。それが西洋では木活字時代が二十九年でしかなかつた。そしてマルコ・ポーロの支那土産が木版であることを知つておどろいたカスタルヂーは、木版はつくらずにいきなり木活字をつくつた。これも非常におどろくべきことではないか。ヨーロツパの活字は二十六であつた。木版にするより木活字にした方がはるかに便利だつたのだ。
 私達はこの事實を、日本の太閤秀吉の朝鮮土産の銅活字にヒントを得ておこつた木活字が間もなくおとろへて、再び木版にかはつた歴史と思ひあはせてみよう。日本では、徳川も中期になると、出版物は旺んになり、部數も増大したが、さうなると木活字よりも木版の方が却つて便利であつた。第一には木版だと再版が出來る。紙型ステロ術のなかつた當時では、木活字は再版のたびに新組みしなくてはならぬ。松平樂翁が「海國兵談」の版木を押收したのは、この事情を物語つてゐるではないか。第二に木版の方がはるかに容易に、しかも美しく印刷できる。ばれんでこする印刷術は、木活字の部分的な凹凸には不向きである。第三に字劃の複雜な日本文字は磨滅しやすく、しかも萬をはるかに超える文字の種類は、新組のたびに木版を彫るとあまり變らぬほど、澤山新調しなければならなかつたし、新古の木活字は高低がくるひやすかつたにちがひない。つまり、複雜な日本の文字は、逆に木版の世界へ引戻したが、しかし支那の木版書物を見たイタリー人は、いきなり木活字をつくつてしまつた。そしてカスタルヂーが木活字をつくつたやうに、それより二十九年後のドイツ人は、いきなり鉛ボデイの「流し込み活字」をつくつてしまつた。彼等のアルハベツトは二十六である。
 ヨーロツパの印刷文明は、支那文明の影響であつた。紙の作り方もヨーロツパに攻めこんだ元の兵隊が傳授したものだ。從つてヨーロツパの古い書物はみな支那式だといふ。私はまだ見たことはないけれど、片面印刷も袋とぢといふ製本もインクが墨汁であることも、みんなその證據だと謂はれる。その支那文化の種子を蒔いたのがポーロであることは周知である。この大旅行家が歸國後※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ニスの艦隊に加はつてゼノアと戰ひ、捕虜となつて獄中で「東方見聞録」を書かされたことも有名な話である。「印刷文明史」は當時を書いて「伊太利は一時ポーロの書物をもつて埋めらるるが如き流行」と形容してゐるが、十三世紀末の當時は寫本だからたかが知れてゐる。「東方見聞録」がヨーロツパぢゆうを席捲して「日本は大洋の東方にある島國にして――黄金は無盡藏なり」といふポーロの法螺が西半球の人間たちを昂奮せしめたのは、それより一世紀半ものち、カスタルヂーの木活字、コステルやグウテンベルグの鉛の活字が出來、「東方見聞録」が活版書物になつて以後、一四七、八〇年頃からのことである。
 考へてみれば、東洋の木版は西洋にいつて金になり、五世紀めに日本へもどつてきたわけであつた。そして木から金になつた理由の第一は、ヨーロツパの文字が簡單だからにちがひない。グウテンベルグはマインツの貴族で、指輪をあつかひ鏡を磨く商人だつた。指輪の彫刻や鑄型による流しこみは、この時代既に發達してゐたのだから、彼のヒントはそこにあるだらうと、今日の印刷歴史家たちは判斷してゐる。
 西洋でも、電胎法による近代活字の字母製造は十九世紀にはいつてからだ。電氣分解法、いはゆる「フアラデーの法則」が確立されなければ出來ない藝當である。したがつてグウテンベルグ以來四世紀、「流し込み法」による活字製法は、つまりアルハベツトが二十六だといふこと、漢字のやうに字畫が複雜でないことが原因の第一だといふことになる。したがつて、たとへば慶長年間に、「きりしたん活字」がそのまま長崎にとどまつたとしても、どれくらゐ發達しただらう?
 私は思ふのだが、同じ和蘭からレムブラントなどの銅版術が、司馬江漢を通じて渡來したのは天明三年だつた。一七八三年で、昌造の「植字判一式」購入に先だつ六十年餘である。そして日本の銅版術は江漢以來、亞歐堂田善などがでて、すくすくと成長したが、昌造らの「流し込み活字」は、彼の苦心にもかかはらず、なほ二十年餘を經なければならなかつた。思へば、西洋印刷術の渡來は、遲過ぎるやうな、また早過ぎるやうなものであつた。

      二

 昌造の、最初の「流し込み活字」は「植字判一式」購入より三年後の嘉永四年に一應できた。そして、その「流し込み活字」の日本文字と、輸入の蘭活字とで「蘭話通辯」が印刷されたのだと謂はれてゐる。
「流し込み活字」の製法は、昌造の場合も、ヤンコ・コステルなり、グウテンベルグなりの「手鑄込み器」と同じ方式を逐つたものだと想像できる。つまり、最初ある金屬に凸型に彫刻して種字(パンチ、押字器などとも謂ふ)を作り、それを他の金屬に打ち込んで、凹型の字母を作り、その字母に鉛を流しこんで再び凸型の活字を得るといふやり方であるが、字劃が複雜だつたり、技術が貧困なために、種字を省略して、いきなり凹型の字母を彫刻して、流し込み活字を得ようとした形跡が見える。三谷氏の「詳傳」によれば、大體つぎのやうに説明してある。――二つに割れる抱き合せの鑄型で、中央に活字の大きさだけの穴があいてゐる。鑄型の底には横にねかした凹型、つまり雌型の字母があつて、柄杓で溶かした鉛をすくつて流し込み、冷却を待つて、抱き合せの鑄型を割つてとりだし、活字の底部を鉋で削つて、一定のたかさにそろへる――といふのである。これだけの操作は大してむづかしいことではないが、いつたい字母なるものはどんな金屬であつたらうか。專門家である三谷氏の説明も、このへんは明瞭でない。最初雌型の木活字を字母にしたといふやうに誌してあるけれど、黄楊でも櫻でも、鉛の高温には堪へられぬし、さきに木村嘉平について私らはその失敗を知つてゐるところだ。三谷氏は別の著書「本邦活版開拓者の苦心」のうちで、このとき昌造は水牛の角に彫刻したものを用ひたらうとも書いてゐるが、恐らくこれが眞實に近いであらう。今日帝室博物館に所藏される昌造作の字母は鋼鐵に彫刻したものであるが、それはこのときより數年後、安政年間の作である。長崎の諏訪神社に傳へられるところの「流し込み鑄型」も嘉永年間のものではないと、專門家たちには判斷されてゐて、いづれにしろ、昌造が嘉永年間に用ひた「流し込み活字」の字母のボデイが何であつたかは明らかでない。
 およそ人類科學發展の歴史は、金屬の發見と、その性能の理解にあつたと謂はれる。伊豆の代官江川太郎左衞門が韮山に反射爐をきづいて、攝氏千三百度以上の熱を要する鐵の熔解を試みたのが嘉永三年のことである。古來刀劒類の鐵は、鞴の力で鍛へられたけれど、まだ論理的には充分理解されてゐたわけでない。銅の「吹きわけ法」などもごく自然發生的であつたのだし、鉛活字に必要なアンチモンなども、まだ日本のどつかの山にかくれたままの時代であつた。つまり當時の状態では多くの金屬が未開にあつたし、加へてそれらの金屬は封建制度で流通も圓滑を缺く。昌造など蘭書の知識で若干の理解はあつても、手がとどかぬ憾みがあつたらうし、いま一つ加へて江戸の嘉平が白晝灯をともした室で、人目を忍んで研究せねばならなかつたやうな事情は、通詞の場合若干の役得はあつても、決してゆるがせだつたわけでもあるまい。
 とにかく、今日から想像すれば異常に困難な空氣のなかで、何程かの活字がつくられ、「蘭話通辯」の幾册かが印刷され、「蘭話通辯」は和蘭本國にもおくられ、數年後昌造は日本文字の種書を和蘭におくる動機ともなつたとは印刷歴史家の傳へるところであるが、ところで昌造が最初につくつた日本文字は何であつたらうか? 當時の活字は殘つてをらず、「蘭話通辯」もいまは見ることが出來ない。もちろん圖書館にもなく、長崎にすら現存しないといふ。したがつていま私がたよりにする唯一のものは、三谷氏が「詳傳」のうちで「蘭話通辯」の所在についてたしかめ得た、次のやうな、嘗てそれを見た人々の答へだけである。
 古賀十二郎氏
 ――「蘭話通辯」とは本木昌造が、和蘭から取寄せた活字を左の方にならべ、自分の造つた片假名文字を右に並べて、蘭語を譯したもので、紙は仙花を用ひ、表紙は黒い紙であつたか、布であつたかは判然と記憶にないが、兎に角黒い表紙で、百頁位な、美濃四ツ折の誠に杜撰な本である。
 福島惠次郎氏(長崎共益館書店主)
 ――「蘭話通辯」は四五年前、めづらしく二册手に入りましたが、何人かに賣りました。――本の形は黒表紙で、中身は英語の活字と日本の片假名活字とで印刷した百頁程のうすい、美濃四ツ折くらゐな本でした。
 小西清七郎氏(東京菊坂町書店主)
 ――「蘭話通辯」は二三年前に店にありましたが、今はありません。確かに二圓六十錢で賣つたと記憶してゐます。本の形は美濃四ツ折で、粗末な活字と片假名の混合した内容でした。
 早稻田米次郎氏(長崎古道具店主)
 ――「蘭話通辯」は黒い表紙で、今でいふ四六判ですな。中身は昔の帳面につかふ紙で、外國の字と日本のきたない片假名字で、粗末な本です。四五年前に一册誰かに賣りました。(――其他略)
 三谷氏のこの調査は昭和七年九月である。ちやうど十年前のことだから、三谷氏の文章を信ずる限り、以上の人々の多くが現存するだらう。そして更に以上の人々の言を信ずる限り、この日本で一ばん最初に「流し込み活字」でつくられた貴重な書物は、まだ日本のどこかに現存してゐるのであらう。「黒い表紙」の「美濃四ツ折」の、きたない本は、日本のどつかで蟲に喰はれつつ存在してゐるのだらう。
 そして以上の人々の言葉が一致するところにみれば、昌造が最初につくつた活字は「片假名」だといふことである。木村嘉平は島津齊彬の命によつて、最初に二十六の外國文字を作つた。昌造は自分の創意で五十音片假名を作つた。「蘭話通辯」の印刷が何によつたかは活字以上に明らかでないが、のち長崎奉行所が印刷所を設けたとき「プレスによる印刷法長崎に擴まる」とあるから、このとき二十八歳の青年昌造は輸入のアルハベツトに片假名の活字をならべて、ひとりでばれんでこすつたのであらう。そしてひとりで紙を切つたり、製本したりして、ひそかに知己の人々に「黒い表紙」の本をくばつたのだらう。
「蘭話通辯」はやや傳説めいてさへゐる。彼の片假名活字は「きたない」ものだつた。しかし昌造だつて科學未發達のその時代に、日本活字を創造してゆくどんな手がかりがあつたらう? 歴史といふものに奇蹟はないといふ。グウテンベルグの場合、活字考案に指輪があつたやうに、印刷機の考案にはドイツ、ライン地方の葡萄酒釀造につかふ壓搾機がヒントとなつたもので、今日手引印刷機を「プレス」と稱ぶのも、そこに發してゐると謂はれる。萬をもつて數へる漢字の字母は、そして畫の複雜な漢字體は、「流し込み」技術の範圍では容易に克服し難かつたらう。嘗て「植字判一式」購入當時の同志、北村此助も、品川藤兵衞も、楢林定一郎も、いつかこの活字の歴史からは消えていつた。
 しかし「蘭話通辯」から三年めの安政二年になつて、昌造らの購入活字は、それ自身として一つの記録を編んだわけであつた。同年六月、長崎奉行荒尾岩見守は老中阿部伊勢守へ「阿蘭陀活字版蘭書摺立方建白書」といふものを提出した。「一、近年洋書の需要著しきも、供給不充分なる事。二、阿蘭陀通詞は別して家學に出精熱心に研究するも、遺憾ながら蘭書拂底のため修行十分に屆き兼ねる事。三、先年紅毛人の持來りし活字版を、先勤長崎奉行の許可を得て、蘭通詞共引受所持せるを、このたび會所銀をもつて買上げ、此節奉行所に於て摺立方試み、長崎會所に於て一般志願者へ賣渡せば世上便利なる事」等といふのが建白書の内容である。
「紅毛人持來りし活字版」云々は、昌造ら註文の活字版のことである。この文章でみれば、例の「植字判一式」は偶然渡來したものを昌造らが引受け買取つたごとくであるが、海外貿易は個人として許されなかつた當時の事情からしてこの文章のごとく理解するは誤りであらう。とにかく右のやうな長崎奉行の建白によつて阿部伊勢守は同年八月これを採用した。長崎奉行は昌造に活字版摺立係を任命して、海岸に面した西役所内に印刷工場を設けた。なほこのとき西役所内にあつて西洋の印刷技術を傳へ指導した人に、和蘭人インデルモウルがあつたと記録してある。
 安政三年六月には和蘭文法書「セインタキシス」五百二十八部が印刷發行されて、一部は幕府天文方に納本され、他は一部につき金二歩にて長崎會所より一般に賣り出された。翌四年には「英文典初歩」が印刷發行、文久元年には印刷工場を出島の商館内に移し、シーボルト著の「Open Brieven uit Japan」、翌二年にはポンペ・フアン・メルデルフオールト著の「gencesmiddelleer」などが出版された。これらの書物は寫眞でみても全然日本活字のはいつてゐない洋書である。つまり日本でつくられた外國書物である。シーボルトのいはゆる「出島版」も、ポンペの醫學書も當時としてはなかなか立派な印刷であるが、さてこれらの日本製洋書に日本の活字が一本もはいつてゐないといふことは、昌造の「流し込み活字」が未だ非常に粗末であつて「プレス印刷」に堪へないか、本格的な文法書には使用し得ない程僅少であるからであつたらう。
 インデルモウルなる人物が專門の活版技師であるかどうか私は知ることが出來ない。しかしこの活版技師は電胎法による活字鑄造はまつたく行はなかつたやうである。それはこの長崎奉行所の印刷工場が活字の凡てを和蘭から補給せねばならぬため採算上廢絶するに至つたといふ事情でも明らかであるが、活版技師ともあらうものが比較的容易な洋活字の再鑄をも行はなかつたといふことはをかしい。たぶん若干の知識經驗があるといふ程度ではなかつたらうか? したがつて摺立係として密接な關係を持つた筈の昌造も、この和蘭人から學ぶところは大したものではなかつたらうと想像される。この長崎奉行所印刷工場が日本の印刷術に與へた功績の若干は、主としてその「プレス式印刷」の實際であつたらう。「印刷文明史」が傳へるところでは、「民間にありても漸く洋式活版術が行はるることとなり、洋字、漢字、假名の混淆した書册が刊行さるることとなつた。安政六年鹽田幸八の發行したる「最新日英通俗成語集」や、萬延元年増永文治發行の「蕃語小引」等は民間活字版の系統に屬する」ものださうであるが、これらの書物の漢字、假名が、木活字ないし木版であつたことは云ふまでもない。つまり從來の「ばれん」刷りを「プレス」刷りにしただけであつて、そのプレス式印刷も長崎の小範圍から遠くは出なかつたやうである。
 しかしそれにしても私らは二百數十年前、この同じ長崎の地から追放された西洋印刷術を思ひ出すとき感慨新たなるものがあるだらう。「きりしたん」と共にそれを逐つた同じ幕府が、今やふたたび迎入れねばならなかつた。「日本製洋書」は「需要著しきも供給不充分」として再製されねばならなかつた。シーボルトの「出島版」は長崎を訪れる志ある日本青年のみならず、江戸の學生たちにも珍重され、ポンペの醫術書は、長崎市大徳寺内につくられた幕府公認の學校「精得館」の生徒たちのために教科書とならねばならなかつた。
 日本製の洋書。アルハベツトにはじまつた「江戸の活字」。當時の學生が大福帳型の教科書の洋活字の一方に筆で和解して日本文字を書きこんでいつた事實をおもふとき、それが傳説めくほど微少ではあつても、昌造の日本文字片假名の「流し込み活字」の重要さと歴史性がわかるやうである。
 長崎奉行所の印刷所は日本の近代印刷術の歴史に魁けたもので、「プレス印刷」はこのときからわづかながら傳統をつくつたのであるが、何故幕府は「日本製洋書」をつくつてでも、一刻も早くヨーロツパ文明をわがものとし、文武いづれの面にも備へなければならなかつたらうか。それは云ふまでもなく「嘉永の黒船」から「安政の開港」へとつづく、まことに急迫した時の政治事情がそれであつた。

      三

「――異船々中の形勢、人氣の樣子、非常の態を備へ、應接の將官は勿論、一座居合せの異人共殺氣面に顯はれ、心中是非本願の趣意貫きたき心底と察したり。旁々浦賀の御武備も御手薄につき、彼の武威に壓せられて國書御受取あらば、御國辱とも相成るべく、依つてなるべく平穩の御取計あるより他なし――」。嘉永六年六月三日(西暦では一八五三年七月八日)、アメリカ軍艦四隻について浦賀奉行戸田伊豆守が、閣老阿部伊勢守へ報告した一節であるが、このへん繰り返し讀むと、當時幕閣の複雜な對外事情がわかるやうで、なかなか苦心の文章である。
 アメリカの蒸汽軍艦が、わが江戸灣に出現したのはこれが始めてではない。前に述べたやうに、アメリカのオリフアント會社仕立船「モリソン號」が、江戸や鹿兒島で砲撃を喰つて退出してから八年めの弘化二年に、ペルリと同じアメリカ東印度艦隊司令長官、海軍代將ビツドルが來航してゐる。そのときも同國海軍長官の命令に基く行動ではあつたが、ビツドルの任務は「日本に通商の意思ありや否や」を確かめるだけだつたから、幕府の拒絶にあふとおとなしく退去していつたのである。
 だから「嘉永の黒船」「ペルリの來航」といつて、歴史的に喧傳される所以といふものは、船の形でも、長崎を無視して江戸灣にはいつたといふことでもなくて、浦賀奉行の報告にいふ「殺氣面に顯はれ、心中是非本願の趣意貫きたき心底」といふ、アメリカの意圖内容にあつたわけである。それは禁制の江戸灣へのこのこやつてきて追ひもどされた六十噸のイギリス商船「ブラザース號」とも、通商嘆願にちかいロシヤのラクスマンやレザノフらの遣日使節ともちがひ、「パレムバン」の「開國勸告」ともちがふ。それこそ傳統も法規も無視したところの、武力による「通商要求」であつたわけである。
 まつたく祖國日本にとつて重大な危機であつた。このへんの詳細ないきさつは、既に專門家の澤山の書物があつて、殊に複雜な當時の國内事情などについては、私らの出る幕ではあるまい。間違ひのないところだけいふと、浦賀奉行の報告によつて、直ちに老中、三奉行、大小目付に至るまで召集されて、非常の會議が開かれたが、五日に至るも議決せず、將軍家慶は病あつく、閣老阿部も「憂悶措く能はず」、つひに書を水戸齊昭におくつて意見を叩き「限るに六日登營の刻を以てした」といふ。それが五日午後のことだから火急の程察しられよう。副將軍齊昭の強硬な對外態度はもちろん明らかなところであるが、七日夕刻には伊勢守が齊昭を駒込の邸に訪れてゐる。記録によると、このとき「齊昭も胸襟をひらいて所見を陳べ――かの軍艦四隻分捕等の如き――も、伊勢守の説明によつて、實行不可能な事を悟つたものの如くであつた」といふから、ざんねんながら、當時のわが海軍知識ないしは海邊武備の程も想像できるであらう。
 幕府はやむなく和平方針に決した。六月九日には、ペルリは彼の蒸汽軍艦から發射する禮砲におくられて、浦賀港に上陸した。そして四百名の武裝陸戰隊に護られながら、急設された應接所にはいつて、浦賀奉行戸田伊豆守と會見、大統領親翰を手交した。十日には、軍艦四隻が江戸灣内にすすんで觀音岬に達し、着彈距離を測るなどの威嚇をみせて、十二日に、やうやく日本から退帆した。
 もちろん大統領親翰及びペルリの「上奏文」といふのは、一は捕鯨船その他アメリカ漂民に對する日本の取扱方改善、二は通商で、來年再渡來するまでに返辭をしてくれといふことである。このとき戸田伊豆守がペルリに讀みきかせた幕府の諭書は内容が微妙であるばかりでなく、從來のそれに比べると至つて平假名の多いハイカラなものになつてゐる。「――此所は外國と應接の地にあらす、長崎におもむくへきのよし、いく度も諭すといへとも、使命を恥しめ、一分立かたき旨、存きり申立るのおもむき、使節に於ては、やむを得さることなれとも、我國法もまたやふりかたし、このたひは使節の苦勞を察し、まけて書翰を受とるといへとも、應接の地にあらされは、應答のことにおよはす、このおもむき會得いたし、使命を全くし、すみやかに歸帆あるへきなり」といふのであるが、前に述べたやうに異國船渡來の歴史にみて、とにかく長崎、松前以外で國書を受取つたことは確かに異例であるにちがひない。
 第一囘の黒船來航はほんの十日間ばかりであつたが、豫想されるペルリの再渡來をめぐつて、幕閣でも、議論はいろいろわかれた。水戸齊昭は阿部へむかつて、「千騎が一騎に相成共」夷狄打拂の大號令を天下に示せと云つた。海防係の筒井肥前守や川路左衞門尉は「凡そ外國と戰端を開く時は、短日月に終結を見る事能はざるを例とす。されば大小砲彈藥を要する事莫大――故に今急に大號令案を發布するは策を得たるものにあらず」と云ひ、「水戸老公の――趣意については――一同に於ても異存毫もなし、唯二百年以來の昇平、特に水戰とては經驗なきところ、今戰端を開くとも必勝の見込なし」と云つた。また江川太郎左衞門は「御備へ――如何にも御手薄ゆえ、俗に申すぶらかすと云ふ如く、五年も十年も願書を齋せるともなく、斷るともなくいたし、其中此方御手當此度こそ嚴重に致し、其上にて御斷りに相成可然」といふ「ぶらかし案」を發議した。その結果名宰相伊勢守は「和戰」といふ、和して戰ふといふ特別な號令を出した。
 これらは當時の幕閣事情について語る今日の歴史家のすべてが、骨子に用ひるほどの記録である。そしてこれだけの記録からでも、次のやうなことがわかる。第一にわが海の日本が蒸汽軍艦と砲身のながい大砲で脅やかされてゐること、第二に當時のわが日本はいかにも「御武備御手薄」であつたこと、第三に國威を第一に考へる點では齊昭も川路も江川も勿論一致してゐるが、方法の點ではちがひがあること、第四に川路、江川らは「ぶらかし」てゐる隙にペルリに對抗し得るだけの近代的武備を完了してしまはうといふこと等である。そこで今日の私らが考へることは、「ぶらかし」てゐるうちに、ごく短時日のうちに、ペルリを打ち破るほどの蒸汽軍艦や近代的な大砲やがすぐ出來ると、江川たちは考へてゐただらうか? また「ぶらかし」が五年も十年も出來ると考へてゐただらうか? それを明瞭に示した記録は今日のこつてゐないやうだ。
 水戸齊昭も「――ぶらかし候儀、しかと御見留有之、出來候儀に候はば其儀存意無之、異船來れば大騷ぎ致し、歸り候へば御備向忘れ候事無之候はば、ぶらかすも時にとりての御計策――無已候」と云つてゐるが、齊昭とても、「ぶらかし」に充分の信用をおいてはゐないのがわかる。つまりこれらの記録の背後には、「開國」して國威を伸張せんとする意見と、さうでない方法で國威を伸張せんとする意見の相違が微妙に潛んでゐる。これよりちやうど十年前、弘化元年に「パレムバン」が來航したとき、閣老水野越前守は「慶長、元和の規模に復り、進んで外に國威を張り、内に士氣を鼓舞せん」と主張して、つひに敗れたが、この開國的主張は、その後益々頻繁になる異國船の渡來、海外文明の伸展の模樣、一方國内では封建經濟その他の逼迫等で、幕閣内でもしだいに成長してゐたのかも知れぬ。これは外國人の記録だから信用できぬとしても、他山の石として參考にするならば、同じ嘉永六年の七月に長崎に來航したロシヤ遣日使節の祕書ゴンチヤロフは「日本渡航記」のうちにかう書いてゐる。
「――誰だつたか通詞のうちで、レザノフの來た時には、日本の閣老七八人のうちで、外國の交易に贊成したのはたつた二人にすぎなかつたが、今度はたつた二人が反對してゐるに過ぎない、と口を辷らしたものがあつた。――」
 レザノフが來航したとき幕閣に開國主張者があつたかどうか記録を知らないが、それは文化元年で五十年も以前のことである。或は水野越前に魁けする者があつたかも知れぬ。
 とにかく「外へ進んで國威を張り」「海外の文明をわがものとせん」といふほどの、ごく廣い意味での「開國」意見は、幕閣のみならず當時の志ある人々の間にはひろがつてゐたやうである。「開國」といふ言葉も、當時の政治的場面でつかはれるときはなかなか面倒であつて、專門家でさへ容易には是非を論じがたいところだらうが、ごくひろい意味での「開國」ないし海外に對する關心は、相當つよかつたにちがひなく、それは前に述べたスパンベルグ以來百餘年に亙るかずかずの異國船渡來が與へた影響だけでも、相當つよいものとなつてゐたと思はれる。しかも「開國」の端緒が「黒船來航」といふ形ではじまつたことは、それ自體歴史的であるが、いづれにしろわが國にとつて一つの危機であり、複雜な波紋を與へる緊急重大事件であつた。
 このとき昌造はちやうど三十歳である。「蘭話通辯」を印刷した翌年、「活字版摺立係」を任命される二年前であつた。通詞といふ職掌からしても、「ペルリの來航」はかくべつのシヨツクを與へたにちがひないが、そのときの彼の感想なり、考へなりを判斷しうるやうな記録は、彼自身としては、何一つのこしてゐない。
「ペルリの來航」をべつにしていへば、三谷氏は、昌造を「開國論者」だと云つてゐる。「詳傳」のなかで「急激な、然も穩健な開國論者」だと書いてゐる。「本木昌造先生は、佐幕黨にはあらざるも、然し痛烈な開國論者であつたために、一時は鎖國論者の非常な的となられ、結局開國論者側からは――佐幕黨なりとの誤解を受け――當時長崎に本木昌造先生を刺さんと、それらの志士が頻りに出入して居たために、身の危險を慮り、京洛に上り、一時某公卿に身を寄せてゐられたこともある――。」この文章には長崎での云ひつたへをそのまま書いたやうなふしもあるが、「急激な、然も穩健な開國論者」といふのは面白い。昌造は尊皇、佐幕いづれの側からも誤解され、容れられなかつたらしい。これから彼の事蹟をみてゆくところだけれど、一と口にいへば、彼は「開國論をしない開國論者」であり、尊皇開國主義を一科學者としての半面だけで生きとほしたやうな人間だつたから、このときの感想も自から輪廓だけは想像できよう。
 通詞の階級としては、「小通詞過人」で、小通詞のうちで上席であつた。十五歳のとき稽古通詞となつて以來十五年、まづは順當の出世で、この頃までは養父昌左衞門が大通詞目付といふ、通詞のうちで最高の職にゐたから、殆んど世襲制の通詞として、彼の前途は約束されたものだつた。しかもこの年はじめて妻縫との間に長男小太郎が生れて父となつたばかり。縫は養父昌左衞門の實子で、このとき十五歳であるから、隨分わかいお母さんであるが、とにかく昌造はまさにはたらき盛りであつた。
 そして江戸灣からペルリが去つてわづか一ヶ月、ニユースのはやい長崎でも、まだペルリの噂で持ち切りだつたらうと思はれる七月の十六日に、ここにも「黒船」があらはれた。第三囘目の遣日使節プーチヤチンの率ゐる蒸汽軍艦「パルラダ號」以下三隻である。江戸とちがつてここは異國船渡來の本場ではあつたが、このときのロシヤ遣日使節の渡來は、ペルリの來航につぐさわぎであつたといはれる。はたらき盛りの通詞である昌造は、いまや活字ばかりヒネくつてゐるわけにゆかなくなつた。そしてこのときの長崎談判以來、「日露修好條約」の成立した翌々年安政二年春まで、彼は殆んど家庭を顧みる暇もなかつたのであるが、考へてみると、彼の「植字判一式」が、日本の印刷歴史に記録を編んだのは、黒船來航といふ政治情勢の直接影響であつて、またそのゆゑに彼は活字をしばらく措いて、黒船のあとを逐ひ、東に西に驅け※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)らねばならなかつたわけである。

      四

 ペルリや、プーチヤチンの來航當時、昌造などが、どれほどの外國知識をもつてゐたかも明らかでない。通詞であつたから、出島の和蘭人を通じて、ごく大まかな海外ニユースなどは、傳へきいてゐただらうが、その和蘭船も年に一度しか入つて來ないのだからたかが知れてゐる。學問的な知識となれば、初代庄太夫以來、家藏の書物も多かつたらうから、當時の日本人としては、最もひらけた方であつたらうが、それも蘭書に限られてゐた。またその蘭書でさへ自由ではなかつたし、蘭語以外の書物は嚴禁されてゐた。呉秀三の「箕作阮甫」に據ると、このとき「長崎談判」の日露國境協定について、日本側全權川路左衞門尉のために大通詞森山榮之助が長崎奉行所に押收してある英書を飜讀して北邊事情を紹介したが、隨員の阮甫がそれを川路にひそかにきいて、是非その英書を讀みたいと所望すると、川路は榮之助が可哀さうだから止めよと答へたと書いてある。つまりそれが他に洩れれば、榮之助は禁を犯した者として處罰されねばならぬからであつた。
「印刷文明史」は、明治時代まで傳つた本木家藏本を掲げてゐるが、たとへば「海上砲術書」「和蘭地理圖譜」「萬國圖譜」「和蘭海鏡書」「和蘭本草和解」「軍艦圖解考例」「和佛蘭對譯々林」などがあつて、昌造はこれらの家藏本に學んだらしい。寫眞でみるとこれらの書物は、和蘭印刷文字のかたはらに筆で和解したのや、全然和解して日本風の書物につくられたのや、墨をもつて描いた圖解の書物がある。蘭學もシーボルトが最初に渡來したときの數年や、時代によつてはやや自由な期間もあるが、そのぶりかへしの方が概して永かつたから、通詞といふ役柄でのこることの出來たかういふ書物は、なかなか値打あるものだつたらう。
 昌造は幼時からそれらの家藏本に親しむことが出來た。明治四十五年、昌造贈位の御沙汰があつたとき、「印刷文明史」の著者は長崎に訪れて、まだ在世中の昌造の友人や門人などから知り得た昌造の青年時代をつぎのやうに書いてゐる。「――氏(昌造)は元服を加へたる時、家女と結婚し、間もなく家業の通詞職をも襲ぎしが、當時氏の眼中にはもはや渺たる一通詞の職はなく、世界の大勢に眼を注いで、心祕かに時機の到來を待つてゐた。この間氏は常に多くの諸書を渉獵して、專ら工藝百般の技術を研究し、殊に自己の修めた蘭學を通じて、泰西の文物を研究するに日も尚足らずといふ有樣であつた。――此頃に於ける我國の國情は鎖國の説專ら旺盛を極め、異船とさへみれば、無暗と砲撃を加へるといふ状態なりしが、昌造氏は毫も之に心を藉さず、――心靜かに泰西の工藝技術を研究してゐた。
 この文章はどのへんまでが「印刷文明史」の著者の見解であり、どのへんまでが昌造の友人及び門人の懷舊談であるか、はつきりしない。しかし昌造が「心私かに」開國必至を信じて、備へるためには彼らの文明をわがものとしなければならぬと考へてゐたこと、專ら工藝技術に興味をもつてゐたことが強調されてゐる。この昌造の工藝的な特徴は洋學年表も萬延元年の項に書いて「米魯初航以來、五ヶ國條約に至る其通辯の任に當りし者堀達之助、森山多吉郎、本木昌造也。堀は學力あり、蕃書調所教授、森山は才氣あり、外國通辯頭取、而して本木は巧智に富む、製鐵所取締、三人適所に伎倆を顯はせり」と云つてゐるが、とにかく以上でみたところ、昌造らの勉強にも拘らず、ペルリやプーチヤチン來航當時の外國知識といふものは、いろんな制約で、自から狹いものであつたらう。
 ところがペルリやプーチヤチンの來航は、從來の通詞知識の限度を超える劃時代的なものだつた。ロシヤもアメリカも始めての渡來ではないが、こんどは軍事的にも文化的にもまるで趣きを異にしてゐた。田保橋潔氏の「幕末外國關係史」に據ると、たとへばペルリは浦賀沖に出現する以前、五月中旬に小笠原父島二見港にあがつて海軍基地を作り、浦賀を退出するや、七月には琉球那覇港に上陸して、ここでも海軍基地を作つてゐた。「――世界の形勢如何に推移するや全く無關心なる――日本國政府と交渉するに當り――若干の避泊港を日本沿岸に指定するが如き、最も機に應じたる手段といふべし。同國政府にして、若し日本本土の港灣開放を頑強に拒絶し、爲に流血の慘を見るの危險ある時は、別に日本の南部地方に於て、良港を有し、薪水補給に便なる島嶼に艦隊錨地を指定せんとす。是がため琉球諸島最も便なり」と、ペルリは東印度艦隊を率ゐてマデイラ諸島を出發するとき、海軍長官宛に上申書を書いて傲語したのである。「――海上に於ける合衆國の大競爭者たる英國の東洋に於ける領土は日に増大するを見るも、合衆國亦敏速なる手段を執るの必要あるは痛切に感ずる所なり。英國は既にシンガーポール、香港の支那海に於ける二大關門を手中に收め――支那貿易を獨占せんとす。幸ひにして日本諸島は未だ「併呑」政府の手を染むる所ならず、而して其若干は合衆國のために最も重要なる商業通路に當れるを以て、なるべく多數の港灣を獲得するの機を逸せざるやう、敏活の手段を執るの要あり、本職の有力なる艦隊を引率するも是その一理由たり。――」
「併呑」政府とは英國の渾名である。しかもペルリが浦賀沖に出現したころには、ロシヤの第三囘遣日使節が旗艦「パルラダ」以下三隻を率ゐて、支那香港に待機してゐたのである。プーチヤチン提督の方針は、ペルリほどには高壓的でないことが、今日のこつてゐる記録にみても明らかであるが、從來のロシヤ遣日使節とはずゐぶんちがつてゐる。つまりは彼も「通商嘆願」ではなくて「開國要求」であつた。
「日本渡航記」の一節は、當時プーチヤチン一行の氣持を代表して次のやうに云つてゐる。
「――八月九日、例の通り晴朗だが、惜しいかな暑すぎる氣候であつた。この日私達は「謎の國」を初めて見たのである。――今ぞ遂に十ヶ月に亙る航海、苦勞の目的を達するのだ。これぞ閉めたまま鍵を失くした玉手箱だ。これぞ金力と武力と奸策とをつかつて、これまで無駄骨折つて手なづけようと各國が覗つてきた國である。これぞ巧みに文明の差出口を避け、自己の知力と自己の法規によつて敢て生きんとしてきた人類の大集團である。外國人の友誼と宗教と通商とを頑強に排撃し、この國を教化せんとする我々の企圖を嘲笑し――てゐる國である。
 いつまでもさうして居られようか? と我々は六十斤砲を撫して云ふのであつた。日本人がせめて入國を許し天賦の富の調査を許してくれたらよいのだ。地球上で人間の棲息する各地方の地球や統計のうちで、殆んど唯一の空欄となつてゐるのは日本ばかりではないか。――」
「八月九日」は陰暦の七月十五日であるが、この文章は當時のヨーロツパ人の不遜な感情を語つてあますところがない。一はヨーロツパ文化の發展と確信である。一はヨーロツパ以外のすべてを植民地視するところの侵略的な無遠慮さである。それが渾然一體となつて、ゴンチヤロフほどの大作家も「六十斤砲」と結びつかねばならぬ歴史であつた。
 十八世紀の中期以後、英國を先頭とする産業革命は、いまや一世紀を經て、全歐洲が完了に近づきつつあつた。紡績機械の發明と、火力による動力機の發見は、汽車や汽船はもちろんのこと、いろんな生産品を地球の西方から溢れださせて、それらは地球の東方に、その隅々に至るまで市場を、捌け口をつくらねばならない。各國の艦隊はその觸角となつて、紅海、印度洋、北から南に至る全太平洋、南洋諸島から支那大陸、はては極東「謎の國」「鍵を失くした玉手箱」の國に至る海とを縱横に驅けめぐらねばならなかつた。ペルリのいふ「大競爭」である。ロシヤも遲ればせながらフランスと共にヨーロツパ産業文明の一員であつた。第二囘の遣日使節レザノフのやうに、アラスカやカムチヤツカの沿岸で捕へた獵虎の皮を剥いで、日本をそのお客さんにしようとした「露米會社」時代とはわけがちがふのである。十八世紀の終りには英國よりも早く北支那の一角に市場を獲得してゐたロシヤである。「飛び石」の一つは既に出來てゐた。ペルリと同じく「併呑」政府が手を染めぬうちに、たとひ「六十斤砲」をぶつ放してでも「處女日本」を手にいれねばならなかつたであらう。
 プーチヤチン一行が香港を出發したのは嘉永六年の六月一日、颱風の中を一路東支那海を東上して小笠原島二見港についたのが同じ六月二十八日、長崎沖にあらはれたのが七月十五日である。從來のロシヤ遣日使節はクロンシユタツトを出てから太平洋を北上し、アラスカからオホツクへ到着し、そこから千島を南下してくる例だつたが、プーチヤチンがはじめて、印度洋から東支那海を通つてきたわけで、日本とロシヤ間の航路が三分の一もちぢめられてゐることも、當時の日本にとつては注意すべきことであつたらう。
 しかし歴史もなかなか忙しい。プーチヤチンは、米露雙方政府の諒解に基いて、ペルリの香港歸着を待つて對日共同歩調をとる筈であつたが、そのとき彼等遣日使節が「十ヶ月」の航海中に、本國ではロシヤ對英、佛、土間のクリミヤ戰爭が勃發してゐた。しかも支那海一帶は英佛艦隊の勢力範圍である。香港でそのニユースを知つたプーチヤチンはペルリの歸來を待たずに、長崎へむかつたわけであつた。
「――長崎灣の入口の目標になつてゐる野母崎が見えだした。皆は甲板に集つて、鮮かな日光をあびた緑の海岸に見とれてゐた。――艦の横の水面を流れてゆく、あの五色の風車を飾りたてた玩具の舟は何だらう?
「あれは――宗教上の儀式だよ」と誰かが云つた。
「いや」と一人が横槍を入れた「これは單なる迷信上の習慣さ」
「占ひだよ」――
「いや失禮だが、ケムペルの本には……」と誰やら議論をはじめた。――
 こんな風にしてロシヤの黒船は、七月の十六日、ちやうど盂蘭盆の精靈舟がただよつてゐる長崎港に入つてきたのであるが、ここにいふケムペルとは、ドイツ人エンゲベルト・ケムペルのことで、元祿二年から四年まで出島の商館長だつた人物、歐洲では日本研究家として知られてゐるが、彼らは「謎の國」についていろいろと豫備知識を養つてゐたことがわかる。それにくらべて昌造らの位置は洋書さへ嚴禁であつた。しかも歴史のめぐりあはせは面白い。昌造と「オブロモフ」の著者ゴンチヤロフとは親しく顏を合せたのである。
「――元日の晩、艦ではもう皆が眠つてしまつてから、全權の(日本の)使として二人の役人と二人の二流通譯、昌造と龍太をつれてやつて來て、二つの質問に對する囘答をもつて來た。ポシエツト君は寢てゐた。私は甲板を歩いてゐて、彼らと接見した――」

      五

 長崎港に入つたロシヤの軍艦は、七月の中旬から、翌年安政元年正月初旬まで約半歳を碇泊してゐた。幕府のロシヤ應接係筒井肥前守、川路左衞門尉などの長崎到着が六年の十一月二十七日で、正式の日露會談開始が十二月十五日からであつた。そしてこのときの通詞主席は大通詞西吉兵衞、次席大通詞過人森山榮之助兩人で、以下大通詞志筑龍太、小通詞過人本木昌造、小通詞楢林量一郎、小通詞助楢林榮七郎等が活動した。
 この「長崎談判」がロシヤ側から云はせれば不調に終つたことは周知のとほりである。通商は拒絶、北邊の國境問題も未解決のままで、プーチヤチンは再渡を約して去つた。これだけでみると、第三囘使節も前二囘の使節と同じ結果のやうだが、このときはロシヤ側の贈物も受取られたし、日本側からも贈物をした。また他日オランダ以外と通商するやうのことがあれば、隣國の誼みとしてロシヤとも通商するといふ言質を與へられたから、レザノフの場合といくらかちがつてゐる。殊に雰圍氣的にいへば、前二囘にくらべてずゐぶん緩和したものであつたといふ。
 外國の使節が長崎にきて、江戸の應接係がそこへ到着するのに半年ちかくもかかるのはいつもの例であるが、このときは江戸と長崎の間が遠いからばかりではなかつた。周知のやうに、このときも水戸齊昭の頑張りによつて「通商拒絶」といふ方針が決するまでは、「以夷制夷論」などが生れて評議は永びいたのである。「ぶらかし案」の變形みたいなもので、つまり傲慢なペルリに通商を許すよりは、スパンベルグ以來アメリカよりは氣心の知れてゐるロシヤにそれを與へて、もつてペルリに對抗しようといつた説である。齊昭はペルリの退帆が六月十二日、プーチヤチンの來航が七月十八日、これは墨夷と魯戎の間に默契があるにちがひないから、「以夷制夷論」など危險だと喝破して、それを打ち破つたから、漸く前記の方針が一決して、筒井、川路の江戸出發が十月下旬となつたのである。
 筒井、川路の任務も大變であつた。レザノフのときまではまだ目付遠山金四郎が一人でやつてきて、諭書を讀みきかせればよかつたが、しかしいまは、蒸汽軍艦が二日で長崎から江戸までいつてしまふ。魯戎の氣心はペルリとちがつて、何といつてもピヨトル大帝以來の對日方針の傳統が生きてゐて、若干穩和と思はれるが、結局「六十斤砲を撫し」てゐる點に變りはない。しかも「通商拒絶」を納得させておきながら、彼らの軍艦を江戸へやらぬやうにしなければならない。筒井、川路の奮鬪がどれほど深刻だつたかは、川路自身の日記や、相手方のゴンチヤロフの「日本渡航記」がよく描寫してゐるところである。さきの江戸奉行で、幕府の役人中では新知識といはれ、水野越前が自ら求めて友人にえらんだといふ筒井や、齊昭でさへ一目おいたといふ川路らが、その任に選まれたなども、困難だつた當時の事情を語るものであらう。
「日本渡航記」はヨーロツパ人の優越感をもつて書いてゐる。「――日本人は軍艦に向つてはどうすることも出來ない。彼等は小舟より他に何も持たないからだ。この小舟には、支那の戎克と同樣に蓆の帆や、極く稀に麻の帆がついてゐて、そのうへに艫部が開け放しになつてゐるので、海岸だけしか走れない。ケンペルは自分の居た頃、將軍が外國に行ける船舶の建造を禁止した――と云つてゐる。」「ニツポン、ヨウジンセヨ!」
 ところが、そのとき長崎にきたプーチヤチンの「デイヤナ」も、江戸にきた「ペルリの黒船」も、せいぜい四百噸ないし五百噸以下の蒸汽船だつたと、今日明らかにされてゐる。しかも當時の新知識といはれた川路でさへが、その翌年プーチヤチンが下田へきて、例の海嘯で破損した「デイヤナ」が宮島沖で沈沒したとき、「城をうかべたやうな黒船が」と日記に書いてゐる。聖明を蔽ひ奉り、國を鎖して、船といふ船が日本の海岸だけしか這ひ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)れないやうにした封建政治の矛盾はかういふ風にあらはれてゐた。しかもそれはけつして船ばかりではなかつたらう。
 とにかく當時の心ある日本人は、どんなに急激に眼をさましても追つつかぬやうな氣持であつたらう。殊に當時の制度では、海外知識の觸角であつた長崎通詞など、すぐれた人物は一樣にそんな氣持だつたと想像できる。大通詞西吉兵衞は西家十一世で、さきに開國勸告使節の「パレムバン」が來たときオランダ國王の親翰を江戸へ護送した責任者の一人、そして高島秋帆が師事して砲術を教はつた人である。大通詞過人森山榮之助はのち多吉郎と改めて幕府直參となり外國通辯方頭取となつた人で、前記したやうに川路のために英書を飜讀して北邊事情を明らかにしたが、彼の英語はアメリカ捕鯨船の漂民が崇福寺の牢屋敷にゐたのを日夜訪れて學んだものだといふ。しかも彼ら通詞が外交の舞臺でさへ扱はれた身分といふものはまことに低いものであつた。
「――全權は四人とも一列に並んだ。そして雙方禮を交した。全權の右手には兩名の長崎奉行が座に着き、左には江戸から來た高官とおぼしきものが更に四人ゐた。全權達の背後には、小姓が見事な太刀を捧げて坐つた。――全權達は話したいといふ合圖をした。すると忽ち、どこからともなく榮之助と吉兵衞が蛇のやうにするすると、全權の足下に兩方から這ひ寄つてきた。――」とゴンチヤロフはびつくりして書いてゐる。
 しかしそんな封建政治の古い慣習のうちにも新らしい萠芽はあつたわけで、そのとき會見の第一日に、筒井肥前守のした挨拶はまことに堂々としてゐて、ロシヤ人をおどろかしてゐるが、これはのち萬延、文久頃からしばしば外國を訪れた日本使節のそれにも魁けて立派なものだつたにちがひない。「――老人が口を切つた。私達はじつとその目をみつめた。老人ははじめから私達を魅惑してしまつたのだ。――眼のふちや口のまはりは光線のやうな皺にかこまれ、眼にも聲にもあらゆる點に老人らしい、物の分つた、愛想のよい好々爺ぶりが輝いてゐた。實際生活の苦勞の賜物だ。この老人をみたら誰でも自分のお祖父さんにしたくなるだらう。この老人の態度には立派な教養を窺はせるものがあつた。――」と、流石に作家ゴンチヤロフは、一と眼で筒井肥前守を描寫してしまつた。
 ――「手前共は數百里の彼方から參りました。」と老全權は始終微笑をうかべて、懷しげに私達を見やつて云つた。「貴殿方は幾千里を越えておいでになつた。これまで一度もお目にかかつたことがなく、まことに遠々しい間柄であつたのに、今やかうしてお近づきになり、同じ室に坐つて、話をしたり、食事をしたり致してゐるのです。まことに不思議な、そして愉快なことではありませんか!」――。
「六十斤砲を撫し」てゐるロシヤ人たちが「――あの時雙方の共通の氣持を現はしたこの挨拶を、何とお禮の云ひやうもなく、有難く思つた。」と書いたのである。この立派な國際的な挨拶は、ゴンチヤロフの見事な筒井肥前守の描寫と共に、永遠に生きるであらう。
 川路もまた立派であつた。聰明なこの日本人にロシヤ人たちはおどろいてゐる。「日本渡航記」の筆者も、シーボルトと同じく「日本人は支那人とちがふ!」と叫ばざるを得なかつたくらゐである。そしてこんな立派な日本人の努力が、三世紀にわたる鎖國の行詰りから救ひ、蒸汽軍艦を長崎で喰ひとめ、むげには「六十斤砲」を發射させなかつたのであるが、ほかにも立派な、新らしい日本人がたくさんゐるのを、ロシヤ人作家はめざとくめつけだしてゐる。
「――私の注意を惹いたものがあつた。――私はその男の名を知らない。彼は從者だつたから御檢使と一緒には入らなかつた。――それは均齊のとれた丈の高い男で、上體を眞直ぐに起してゐた。艦内に入れないのできまりわるく思つてゐたか、それとも日本官吏たるの名譽以外に自ら恃むところがあつて、環境を理解してゐたのか、それは私に判らない。だがその男は見事な、さりげないポーズで、誇らかに甲板に立つてゐた。――その顏の表情にも、――あの愚鈍な自己滿足も、喜劇的な勿體ぶりも、底の知れた幼稚な陽氣さもなかつた。いや却つて、日本人たるの意識が、その足らざるところ、その求むるところの自覺が、雙眼にほの見えてゐるやうに思はれるのであつた。――」
 私はこれを井上滿氏の譯から引いてゐるのであるが、このへんゴンチヤロフの敍述はきびしくまた微妙をつくしてゐる。沖にゐるロシヤ使節の船を訪れる御檢視といふのは長崎奉行の與力以下で、その從者といふからには至つて身分のかるい武士だつたにちがひないが、それが何者であつたかは、日本側の記録でも知るすべがない。とにかくこんな新らしいタイプの日本人が、たくさん名も無い人間のうちにゐたにちがひなく、私らはちやうどこの頃、ロシヤ船に乘りこんで宇内の知識をきはめんとて、若い吉田寅次郎が江戸から長崎へむかつてすたこらいそいでゐたのを思ひだすだらう。
 そして當然通詞のうちにも新らしいタイプの日本人がゐたのであつた。ペルリの「日本遠征記」も一ばん自分たちに接觸の多い通詞をとほして日本人を判斷したやうに、ゴンチヤロフは、たとへば大通詞志筑龍太をもつとも古い型の「老廢化石した日本人の部類」と書き「吉兵衞はいくらか新鮮なところがある。彼は新らしきものに對する固陋な憎惡を持たない」が、しかし「彼は新らしきものを追及する氣力がない」と大通詞西吉兵衞について感じた。そしてこのロシヤの作家は森山、本木、楢林弟の三人に一ばん興味をもつて「――話の節々や――ヨーロツパ的なものを見るときに――榮之助、昌造、楢林弟などが、自己の位置を感知し、自覺し、憂鬱になり――」幕府役人たちの舊い理解に對して「――從順な、無言の反對派をなしてゐる」と書いた。
 昌造らがこのときどういふ風に活動したか、日本の記録でさがしてみたが、なかなかめつからない。「川路日記」などでは、彼の懷刀であつた榮之助が少し書かれてゐるが、充分でもない。しかもまだ「二流」の昌造などは公的な記録にはまるで出てこない。「日本渡航記」は榮之助の才氣横溢で、進取果敢な性格の一面も描き、一ばん下ツ端の小通詞助楢林榮七郎についても、ヨーロツパ文化を自分の眼で見たいと希望するこの青年の激しい性格をも描寫してゐる。それでわが昌造はゴンチヤロフの眼にどう映つたらう? と私は注意するのであるが、不思議と昌造だけはその特徴が描かれてゐない。
 昌造は「改め舟」に乘つてロシヤ人たちを迎へにいつたり、「番舟」に乘つて食糧を搬んだり、「御檢視」に從つて些細な事務的折衝の通辯をしたり、通辯だから「默々」でもないが、せつせと働いてゐることが書いてある。プーチヤチン祕書のゴンチヤロフは、そんなことで五囘ほども「昌造」といふ名に觸れながら、何者にも特徴をめつけたがるこの作家は、たうとう昌造の性格について觸れなかつたのである。
 ところが「――古文書幕末外交關係書卷ノ七」にロシヤ側からの贈物目録があつて、筒井、川路その他幕府役人はもちろん、通詞にも及んでゐる。通詞目付本木昌左衞門を筆頭に、西吉兵衞及び森山榮之助へ金時計その他、志筑龍太、本木昌造、楢林量一郎、同榮七郎等へ硝子鏡その他を贈つてゐるが、それから數日を經て本木昌造、楢林榮七郎へ「書籍一册づつ」といふのがあり、更に數日を經て、同じく昌造、榮七郎へ「ロシヤ文字五枚づつ」といふのがある。
 その「書籍」が何であつたか、私は知ることが出來ないが、「ロシヤ文字五枚」といふのも、その書籍を解讀するための手引か或は單語表みたいなものではないかと想像するくらゐで、これもわからない。しかし昌造と榮七郎へだけ贈られた「書籍」と「ロシヤ文字」は、何かしら贈る側ばかりではない、贈られる側からの意志も動いてゐる氣がする。
 外國から入つてくる物のうちで書物は一等きびしかつた。「日本渡航記」も書いてゐる。「あるとき――大井三郎助が吉兵衞をつれてやつてきた。――提督(プーチヤチン)も私も本を贈ると云つたが――斷然辭退した。海防係の一人で、幕府直參の三郎助でさへそれ程姑息で、それ程怖れてゐたのである。ロシヤ側からの贈物は、勿論長崎奉行の承認を經てから受取つたものであるが、それがどういふ名義であつたとしても、そこには記録にものこらない昌造らの意志や努力があつたのではなからうか?
 ゴンチヤロフが注意を惹かれながら、しかも簡單には觸れなかつた昌造の特徴や性格について、私はどつか内輪な、表情の尠い、しかも、底をついてゐるやうな一克さをひそめてゐる、當時の科學者的な、一日本青年を想像するのである。
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        開港をめぐつて


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      一

 昭和十七年の夏の終り頃には、私は麻布二之橋のちかくにあるS子爵邸のS文庫に、書物をみせてもらふために通つてゐた。夕刻ちかくになると書物を棚にもどして、子爵邸前のだらだら坂をおりてくるが、どうかしたときは二之橋の欄干につかまつてどぶツ川のくろい水面をみつめながら、ボンヤリ考へこむことがあつた。
 自分は活字の歴史をさがしてゐるのに、何で「嘉永の黒船」や「安政の開港」などを追つかけまはしてゐるんだらう?
 一種の錯覺に似た、氣弱な不安が起るのであつた。たとへばS文庫のうすくらい片隅の机で、私は借りた書物のうちから、はじめは「昌造」の名ばかりさがしてゐる。幕府時代の公文書とおぼしきものから、年時や事件を繰りあはせてさがしてゆく。ちかごろでは「本木」とか「通詞」とか「活字板」とかいふやうな文字は、どんなに不用意に頁を繰つてゐても、むかふから私の眼のなかにとびこんでくるやうになつてゐたが、またそれと同時に、私の興味は活字などとは凡そ縁のないやうな、昌造とさへ直接には關係のない、いろんな他の文章にも魅かれていつて涯しがないやうであつた。
 私は日本の近代活字の誕生が知りたいのであつた。それで私はその代表的人物本木の生涯や仕事を知りたいのであつた。その昌造は通詞といふ職業で、「黒船」にも「開港」にも關係してゐた。從つて私はプーチヤチンもペルリも、水戸齊昭も川路左衞門尉も、その他いろんなものをおつかけてゆくのであるが、しかもその間を容易に斷ち切ることが出來ないでゐる。私は脱線してゐるのであらうか? 木に據つて魚をもとめてゐるのであらうか?
 私は三谷氏の「本木、平野詳傳」をはじめ三四の本木昌造傳をおもひうかべてみる。そこでもやはり「安政の開港」や「嘉永の黒船」が書いてあつたが、簡單にいへばそれらの事蹟も昌造の偉らさを讚へる證據としてだけ擧げられてあつた。そして日本の活字はその個人昌造の偉らさによつて偶然に産みだされたものとなつてゐる。だから昌造を日本活字の元祖とする場合は、「黒船」や「開港」の記録のうちにも、彼個人の偉らさを證據だてるやうな文章のみを發見すればよいのであつた。木村嘉平を元祖とする人々の場合は、嘉平の苦心談を探しだせばよいのであつた。
 しかし私の主人公は、じつは昌造や嘉平やといふ個人を超えて「活字」といふ一つの文明器具、一物質の誕生にあつた。これは昌造や嘉平の偉らさと決して無關係ではないが、はるかに限界を超えてゐた。たとへば嘉平の苦心談は、その註文主島津齊彬の意志がなくては生れないし、齊彬のさういふ前代未聞の註文は、當時の對内外關係をべつにしてはまつたく判斷出來ないであらう。だからいくら昌造の偉らさを讚へたところで、嘉平の苦心を探しあつめたところで、それだけでは日本の活字は完全に生きることが出來ないであらう。
「いや、いや」
 どぶツ川のくろい水面に、フツリフツリと浮いてでるメタン瓦斯の泡をみつめながら、私は思ひかへすのであつた。これは私の迷ひなんだ。よし私のやうな素人が、當時の複雜な對外事情に一年や二年首をつつこんだところで、その理解し得るところは高が知れてゐたにしても、やはり明治維新を産み出した當時の日本と日本人の力に全力をあげてすすまねば、日本の活字に血は通はぬのだと考へるのであつた。
 さて、プーチヤチンの黒船が長崎を退帆すると、わづか九日めには、ペルリの黒船がこんどは七隻で江戸灣に入つてきた。舞臺はたちまち長崎から江戸へと擴がつたのであるが、昌造にとつてこの「安政の開港」は、生涯の大事だつたと思はれる。わが日本にとつても開闢以來の大外交であつたが、昌造にとつても、まだ固い蕾が思ひきり雨をあびたやうなものである。長崎に住んで、外國人と接するなどめづらしくはないが、ヨーロツパを相手に國と國との折衝といふ大舞臺は、通詞職としても前代未聞のことであつた。
 これを年次的に述べると、ロシヤ使節一行の軍艦「パルラダ」以下三隻が、機微な交渉のうちに再渡を約して長崎港から退帆したのが安政元年の正月五日。アメリカの使節ペルリ一行が、江戸灣内に再渡來したのが同じ正月の十四日。そして強引に修好條約を締結して下田港を去つたのが同じ六月の二十八日。同じ九月の十八日にはまたロシヤ使節の船が大阪安治川尻にあらはれて、幕府の諭書によつて十月下田へ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)航。以來翌年三月までかかつてペルリと同じ日露修好條約を締結して歸國。すると同じ安政二年の七月にはイギリス軍艦が長崎へ入港、當時はクリミヤ戰爭の最中で、歸國途次のロシヤ使節一行中の一部を拿捕、兵員百數十名を捕虜として積みこんだまま、おやつをもらひおくれた子供のやうに慌てて條約をせまり、それを得て同じ月に去つた。以來幕府としては既定の方針を佛蘭西、和蘭にも與へたが、それらの批准はもちろん數ヶ年を要した。しかし「安政の開港」といへば、幾多の歴史書が示すとほり、最も重要點を嘉永六年から安政二年の間におく。昌造が通詞としての活動はまさにこの期間を終始してゐて、年齡でいふと三十歳から三十二歳までである。
 ペルリ二度めの來航も、どんなに幕府をおどろかしたかは、澤山の書物にみえてゐて、詳述する必要はあるまい。前年七月浦賀にきて、アメリカ漂民の取扱及び日米國交と通商に關する大統領親翰をつきつけて退帆して以來、再渡は豫期されたが、あまりに早過ぎたのである。ペルリは、前年七月彼の艦隊が留守中に、ロシヤ使節が上海にきて、待ちかねて長崎へ行つたといふ情報を、根據地の上海へ戻つてから知り、ロシヤに先鞭をつけられるのを怖れ、豫定を早めて再渡來したのだといふやうな事情を、幕閣でも知るわけがなかつた。
 三隻の蒸汽軍艦と四隻の帆前軍艦とは、前年碇泊地の浦賀を通りぬけ、無數の警衞船の制止もきかず、横濱近くの小柴沖まで進入してきたのである。當時幕閣では「ぶらかし案」以來、まだ確乎たるものがなかつたし、「二月四日、兩度老中へ逢候處――伊賀守(松平)專ら和議を唱え候、林大學、井戸對馬にも逢候處、兩人共墨夷を畏るる事虎のごとく、奮發の樣子毫髮も無之、夜五ツ時まで營中に居候得共、廟議少しも振ひ不申、いたづらに切齒するのみ」と、水戸齊昭の手記にみえるが如き空氣であつた。伊賀守は三奉行の一人、林、井戸の兩者は既にペルリ應接係を任命されてゐる當時者である。三ヶ月前、ロシヤ使節に對して、筒井、川路の應接係を長崎に差遣するときも、硬派の中心齊昭の頑張りで「通商拒絶」を決意したが、そのときはまだ「以夷制夷論」などいふものがあつた。しかし三ヶ月後には「通商やむなし」といふ風にもはや正面を切つた論が強かつたやうである。「ぶらかし」とか「御武備御手薄之故」とか、他動的なものではあつたが、「通商やむなし論」は多數だつたらしい。アメリカ應接係の一人松平美作守などは、なかなかハイカラで、第一囘會見のときアメリカ海軍軍樂隊の奏する洋樂に、手足をジツとさせてゐることが出來なかつたと、ペルリの「日本遠征記」には記録してある。從つて、副將軍齊昭は多勢に無勢、老中筆頭伊勢守はいづれとも決しかねて終始沈默をまもるし、「齊昭手記」は「二月五日、昨日廟議之模樣少しも不振、去月下旬より昨日迄之模樣――只々和議を主とし――老中はじめ總がかりにて我等を説つけ、是非和議へ同心いたし候樣にとの事にて、不堪憤悶、此まま便々登城いたし候ては恐入候故、今日は風邪氣と申立、登城延引」と書いたほどであつた。
 もちろん、家慶將軍歿後は、水戸家は幕閣中の最高決定者であるし、「登城延引」の強硬態度は伊勢守をも動かしたであらうし、通信通商の儀は一切拒絶と漸く決まつた。「二月六日、今日五ツ半刻、供揃にて太公登城――通信通商之儀は決して御許容無之と、閣老決議之段申上、林、井戸へも其旨達しに相成候由、太公御快然可知」と齊昭の家來藤田は「東湖日記」に書いた。當時の江戸警備の物々しかつたことも周知のとほり。正月以來各藩は夫々に出兵して、福井は品川御殿山を、鳥取藩は横濱本牧を、桑名藩は深川洲崎を、姫路藩は鐵砲洲から佃島を、加賀藩は芝口を――といつたぐあひに萬一に備へた。幕閣では異變の際は江戸市民へ早盤木をもつて知らせるなど布令を出して、齊昭より「――墨夷及狼藉候迚も、何も御府内町人等へ爲知候には及不申、武家さへ心得候へばよろしき儀――その外は却て火元盜賊の用心、やはり其宅々を守り候方可然――」と叱られた程である。
 しかし二月七日に浦賀奉行組頭黒川嘉兵衞は、アメリカ軍艦に參謀アーダムスを訪れて、應接所を横濱に設けたからと申入れた際、「承知仕候――乍序御談話に及候、此節相願候一件御承引不被下候はば、不得止直に戰爭を可致用意に候、若し戰爭に相成候得ば、近海に軍艦五十隻は留め有之、尚又カリホルニヤにも五十隻用意致し置候間、早速申し遣し候得ば、廿日の程には百隻の大艦相集り候云々」とおどかされたのであつた。まつたく不埓至極であるが、このおどかしは黒川嘉兵衞がたとひ勇武の人間ではあつても、まつたくヨーロツパ文明にくらいとすれば、何程にかは利きめあることだつたらう。
「――夷情察し難く、日夜苦心仕候事に御座候――阿蘭陀人、魯西亞人抔之樣に氣永には無之、至つて短氣強暴之性質故、義理を以て説破候ても、元より仁義忠孝之倫理は心得不申候――」と、アメリカ應接係たちも老中宛の書翰に書いた。やつと長崎を退帆させたばかりのロシヤへの振合も考へねばならず、「夷情察し難」いものだつたから、苦心も並々ではない。それで「――當今の場に至りては亞墨利加人へ通商之試御許容、其後魯西亞人其外英吉利、佛蘭察等共同樣之御答に無之ては、迚も談判は相整申間敷、何共殘念至極に奉存候得共、御武備御整無之上は恐れながら――」とも、この人々は書いたのである。それは正月二十七日付であつて出先から送つたものだが、前記のやうに二月四、五、六日の評議で、「通信通商を許さず」と決定。主席林大學頭をはじめ應接係たちは、己れの意見を撤囘し決心のほぞをきめたのであらう。しかし「夷情の察し難」さはかはりなく、「短氣強暴」で「仁義忠孝之倫理」をわきまへない「墨夷」どもは「廿日の程には百隻の大艦」を江戸灣におしならべるかも知れなかつた。林は井戸對馬守と連名で、二月十日の初會見の前夜、九日付の江戸奉行宛の書翰にその苦衷を愬へた。「――魯西亞人――再渡之節は應接致し方餘程六ヶ敷可相成と、榮之助抔も殊之外心配罷在候。月末迄には筒井肥前守、川路左衞門尉も歸都可被致候間――引續き兩人にて取扱候樣宜敷被仰渡候樣、前以御申上置可被下候、拙者共――明日は初面會之儀、扨々心配而已に御座候、此節之胸中は都下にて何程深く御推察被下候とも、其上幾層倍に可有之哉と奉存候――」
 文中の「榮之助」は大通詞森山榮之助で、彼は「長崎談判」が終るや、長崎から江戸まで早駕籠をもつて參着、二月一日付で神奈川へ差遣されたのであるが、この林、井戸の書翰にみても、ロシヤとの振合で「榮之助抔も殊之外心配」したといふからには、齊昭の「通信通商を許さず」の方針は決定しても、やはり大勢はある程度の讓歩を事前に覺悟してゐたものだらうか。
 二月十日は周知のごとく歴史的な日米會見日である。この日第一の議題はアメリカ捕鯨船その他漂民の取扱の緩和方であつて、雙方「人命を重んずる」建前に異議はなかつた。「通商」の申出には「如何にも交易之儀は有無を通し候事故、國益にも可相成候得共、元來日本國は自國之産物にて自ら足り候て、外國之品物無之候共、少しも事缺候儀は無之候――」と拒絶したが、漂民の取扱を改善し、缺乏品を定められた港で賣り與へるといふことを正式に約定すること自體が、新らしい大事實であつた。從來も長崎港では漂民、漂船に缺乏品を與へたことは澤山例があるけれど、それは天保十三年の「異國船打拂改正令」にもいふごとく「御憐愍」であつたし、一方的のものだつたからである。ペルリは最後に「米清修好條約文」を參考のためにと手交して「――今出す所の案書を熟覽あらば、再三に詞盡すにも及ばず、今兩國にて交り會し、互に心中を相知り、和親之條約せん。もし此度請ひ望む所を許容なからんには、某決して國に歸らず、江戸への貢獻物もいかに取はからふべき方なければ、何時迄も此海上に滯留して左右を待つべし」と結んで會見は終つた。
 二月十三日には書面を以て「――我國命之趣は廣大之意に有之、就ては貴國政府時勢を辨へ、私志願之通、治穩和親之談判を遂げ、兩國人民滿足之取極相立候儀、猶豫無之樣――」と強調して長崎港以外に、箱館、琉球にも港を開けと主張し、二月二十五日の會見では下田及び箱館開港の豫約が出來、三月三日の會見によつて、遂に「神奈川條約」が成立した。「日本と合衆國とは、其人民永世不朽の和親を取結び、場所人柄の差別無之事」にはじまつて、下田は條約批准後即時にも開港し、箱館は翌年三月から開港「亞米利加船薪水食糧石炭缺乏の品を、日本にて調候丈は給候爲め、渡來之儀差免し候云々」の文句は周知のごとくである。これはまさしく破天荒のことであつて、たとへば第五條のうちにいふ「――長崎に於て、唐和蘭人同樣、閉籠め、窮屈の取扱無之、下田港内の小島周り凡そ七里の内は、勝手に徘徊いたし――」などは、つい數ヶ月前ロシヤ使節の軍艦が半年餘を長崎沖に碇泊しても、和蘭使節の軍艦「パレムバン」が五ヶ月を海上に滯泊しても、奉行所における會見以外、一歩も上陸を許さなかつた過去にみて、おどろくべきことだつた。福地源一郎が、「幕府衰亡論」のうちで、このときを指して「開國の根本決す」と云つたのも當然であらう。つまり、「通信通商を許さ」なくても、「渡來之儀差免し」て、「日本にて調候丈は給候」とあれば、もはやそれだけで、「通商」にちかいものだつたからである。
 ペルリの蒸汽軍艦は四月十八日に江戸灣小柴沖から下田へ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)航、下檢分旁々二十五日を碇泊。五月十三日にこれも下檢分のため箱館へ行つた。その間雙方の贈物も取り交されて、このときアメリカが贈つたものに小型の蒸汽機關車、ホヰツツル式大砲等があつたことは有名である。しかしこのアメリカ應接のことが、最初の危機を孕んだ險しい雲行にも似ず、案外無事に終つたことは何に原因してゐるだらうか? 多くの歴史書が傳へるやうに、當時幕府の「御武備御手薄之故」彼の砲身の長い大砲と、煙を吐いてはしる黒船に、ある程度は氣壓されたと殘念ながら認めねばなるまい。たとひ水戸齊昭でなくとも、當の林大學でさへ「殘念至極に候得共」であつて、幕府自體尠くとも進んでやる氣はなかつたのである。云ひ換へればペルリの成功、共和黨時代に遣日使節兼東印度艦隊司令長官に任命されたペルリが、民主黨が代つて共和黨時代の對日方針を訂正しても、飽迄共和黨時代の方針で押し切つた成功であらう。
 しかしまた當時の日本の政治家たちが、單にペルリの恫喝に屈したとのみ考へることは出來ない氣がする。幕閣の多くが武備手薄を楯にとつて「通商やむなし」といつた意見の表現の仕方にも、いろいろの角度があつたのではないか? 弘化元年和蘭の「パレムバン」が來たときに、幕府は手きびしく追ひ返したが、そのとき水野越前は將軍の御前會議で「――慶長、元和の規模に復り、内は士氣を鼓舞し、外は進んでこれを取らん」と叫んだやうに、それから九年後の嘉永六年には、ゴンチヤロフの「日本渡航記」にもみるやうに「あのときは幕府の老中で贊成するものが二人だけだつたが、いまは反對するものが二人だけになつた」といふのにみても、表だつた記録にはみえなくても、鎖國に對する反對空氣は、甚だ複雜微妙ながら、相當つよく生れてゐたか知れぬと察せられる。
 その開國進取にもいろいろあつたらう。當時の困憊した經濟事情からただ利をもとめるやうなものもあつたらうし、齊昭が慨いたやうに士氣墮弱から安きにつく輩もあつたか知れぬ。それと同時に、深夜アメリカ軍艦を訪れ、祕密渡航を企て、捕はれた吉田寅次郎らの如き、尠くとも「進取」があつたのである。國法を犯しても宇内の知識をきはめ、もつて皇國の安泰をはからんとするやうな「開國進取」である。「開國」の文字も、安政末期以後の十餘年間は、複雜多岐な政治性を帶びてきて一概に云ひ難いが、この頃まではまだまだ素朴で、皇國の安泰と、武器のみに限らず文明をきはめて我物とする意慾とが、なだらかに流れてゐたと思はるる。ロシヤ使節の蒸汽軍艦に招待された日本人たちが、いかに知識慾に燃え、進取性に富んでゐるかについて、ゴンチヤロフは驚異をもつてそれを書いたが、ペルリの「日本遠征記」もそれを書いた。「――下田でも箱館でも印刷所を見なかつたが、書物は店頭で見受けられた。――人民が一般に讀み方を教へられてゐて、書物を得ることに熱心だからである。アメリカ人に接觸した日本の上流階級は、自國のことをよく知つてゐるばかりでなく、すこしは他の國々の地理、物質的進歩及び當代の歴史についても知つてゐた。――彼等の孤立した位置を考慮にいれると、その質問はまつたく注目すべき知識を有することを明らかにした。――鐵道や電信、銀版寫眞、ペークザン式大砲、汽船についても心得顏に語ることが出來たのである」
 これは主として蘭書仕込みの、「蘭學事始」以來百餘年に亙る澤山の學者の辛苦が育んだものであらう。そして鎖國のうちにあつても、進取の氣象を失はず、宇内の知識をきはめて日本の安泰を護らんとする氣象こそが、一面「神奈川條約」を自主的に成功せしめたものであつて、決してペルリの武威に屈したとのみは考へられない理由の一つである。

      二

 さて、わが昌造はそのときどういふ風にはたらいたであらう? 殘念ながら私の探しもとめた資料のうちでは、まことに僅かである。一は三月三日付の條約主文の飜譯文、二は五月二十五日付の約束の日本品授受についてペルリ側よりの抗議文の飜譯文のそれぞれに、前者は堀達之助と、後者は森山榮之助と共に署名捺印してゐること。他の一つは七月二十九日付飜譯のペルリの通譯官ポートマンより森山榮之助へ宛てた私的書翰のうちに昌造について觸れてある文章であつて、現在の私の力ではそれ以上を知ることが出來ない。
 昌造が長崎より神奈川の横濱村に參着したのは、「長崎談判」が終つて御用濟となつた正月五日から、神奈川條約文の飜譯をした三月三日の間であることはたしかであるが、「明治維新史料第二篇卷ノ三」に、二月一日付の「村垣公務日記」として「一、長崎通詞森山榮之助、昨夕着、今日、神奈川へ被遣候」とあるから、たぶんそれと一行したか、その前後であつたと考へることが出來る。それからいつごろまで横濱村に滯在したか? 前記五月二十五日付の飜譯文があるので、恐らくペルリ一行が箱館から下田へ歸つて、琉球那覇港へむかつた六月二十八日頃までではなからうか? 七月の初旬には「吉田東洋傳」の寺崎志齋[#「寺崎志齋」はママ]日記にみえるごとく、江戸築地の土佐侯造船場にゐたことが明らかだからである。
 ついでに昌造の安政二年までの動靜をいふと、元年九月には安治川尻にあらはれた魯艦について通辯をし、魯艦の下田※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)航と共に同年十月以來、翌年三月日露修好條約成立まで伊豆地に居り、同年夏以來、幕府の海軍傳習所が長崎に出來るや、傳習係通譯となつてゐる。安治川尻での魯艦についての通辯のことは、いま自分では資料をもたぬので、三谷氏の「――昌造先生も安政元年には大阪に於て魯國と談判するに際しては五代友厚氏なり、或は桂小五郎氏等の通辯をされた」といふ「本木、平野詳傳」にしばらく據つておく。また海軍傳習係通譯のことは、「幕府時代と長崎」(長崎市役所編)のうちに「――傳習係通譯岩瀬彌七郎、本木昌造等十四人云々」とあり、勝麟太郎の「海軍歴史」にも彼の名が誌してあるので疑ふ餘地はなからう。つまりこの時期から彼の生涯はそれこそ「東奔西走」であつたわけだ。
 ペルリの來航當時、長崎通詞は堀達之助、立石得十郎らの先任出役中のほか、前記榮之助、志筑辰一郎、名村五八郎らがゐた。主席通詞は大通詞過人の森山榮之助であつて、飜譯文に署名した順序からいふと、次席通詞の堀達之助よりも昌造の方が上位である。堀は當時小通詞で、昌造は小通詞過人であつた。しかしどういふ譯か三番通詞も「得十郎」となつてをり、日本側の記録をさがしても、ペルリ側の記録にみても、昌造はほとんど表だつて出て來ない。ペルリの「日本遠征記」もゴンチヤロフの「日本渡航記」と同樣、日本側の記録にくらべて、通詞らにある親しみをもつて書いてをり、「榮之助」は勿論、「五八郎」も「得十郎」も、「達之助」も、「林大學」や「井戸對馬守」のそれと同樣に、それぞれ見事な肖像を掲げてゐる。
 それぞれ大小を前半にして、やや袋じみた袴を穿き、緒の太い草履を穿いてゐる。主席通譯の榮之助は、四十未滿のはたらき盛り、禿げあがつた月代の廣さと、癖ありげな太い鼻柱、左の肩をおとして口許に薄笑ひを泛べてゐるところ、いかにも自信ありげで、ゴンチヤロフが描寫した「彼は川路つきの通詞であつたから、交渉のうちでも最も重要な部分を通譯してゐた。彼は思ひ上つて他の全權達の話は殆んど聞いてもゐなかつた。――彼は放蕩も嫌ひな方ではなかつた。――ある時は、中村の前でシヤンパンを四杯飮んで、ひどく醉つ拂つて、人の云ふことを通譯しないで、自分勝手に話をきめようとする――」といふやうな風貌が、同時にゴンチヤロフが他の個所で、その果敢な進取性と才能とに惚れて描寫したやうな部分と、一緒にあらはれてゐる。「達之助」などもつと謹嚴で、羽織を着て、小姓のやうな稽古通詞の少年の肩に、手をおいて立つてゐるところ、總じて通詞の風彩は、そこらの二三百石取の武家くらゐには見える。
 事實、幕府外交に際して彼らのはたらきは二三百石取の比ではない。前記の主席全權林大學頭が「榮之助抔も殊の外心配罷在候」と、老中にも披露される公文書に書いたやうに、事、外國に關しては彼らの知識に俟つところ、けつして單なる「通辯」の範圍ではなかつた。雙方の記録にみても、例へば主席通詞の榮之助が單獨で、ペルリを旗艦「ポーハタン」に訪れて、條約上の下交渉などをやつてゐるし、ペルリ一行の上陸についても榮之助はじめ通詞らの指揮にでるところ甚だ多かつた。しかしこれらの通詞の實際のはたらきと、「日本遠征記」に掲げるところの彼らの風彩をみて、彼らの地位がさうであつたといふのでは毛頭ない。たとへば彼らの二三百石取の武家風も、行司が土俵では烏帽子をかぶるのに似たものだつた。その證據には主席通詞の榮之助でさへ、「神奈川條約」成立後の四月二十九日付、江戸奉行達で「和蘭大通詞過人森山榮之助勤方ノ件」として、「紅毛大通詞過人森山榮之助儀、在府中御扶持方拾人扶持被下、帶刀御免――」云々とあるにみても理解できよう。つまりこのたびの未曾有の大外交に當つて、最も功勞のあつた彼への褒賞として、江戸奉行配下にある間、拾人扶持を下され、帶刀御免だつたのである。また風采はとにかく、通詞らの地位について、ペルリ側でも不思議がつてゐる。それは二月二十八日、條約成立の見透しがついて、ペルリ側で林大學以下の諸委員を旗艦艦上に招待したとき、ペルリ側主腦部と幕府全權主腦部とはペルリの居室で會食したが、ペルリ側では勿論通譯官も同列の椅子についた。それで林の方でも釣合をとるためか、榮之助をよびいれて、別の小卓につかせたときのことである。「――日本の通譯榮之助は、上役の特別の贔負で、その室の傍卓につく特權を許された。こんな低い位置についても榮之助は心を動搖せしめず、又食慾を亂されないやうであつた」と「日本遠征記」は書いてゐる。しかしこれはペルリの見當ちがひで、榮之助とすれば奉行格、大目付格の人々と同室で食事をするといふことが大變な光榮であり、また長崎通詞の過去の歴史にみても前代未聞のことだつたのである。
 通詞は低い身分であつた。したがつて記録にも主體的にはあらはれない。大通詞榮之助でも、先に魯西亞應接係勘定奉行川路左衞門尉の懷刀であつたし、いまは幕府側全權林大學の相談相手であつても、公式な記録には、ごく些細な事務的折衝でゆく、浦賀奉行配下拾石五人扶持くらゐの同心にでも「――榮之助を召伴れ」といふ風になつてゐる。ここでは詳述を避けるが、前記した條約成立以前にペルリを旗艦に訪れて「腹さぐり」をやつた榮之助、同じく米人宣教師が持歸つた日本貨幣取戻しの一件、米艦に護送された漂民が役人をみて甲板で土下座してしまつたときの榮之助の處置、殊にペルリ側通譯官ポートマンとの間に、同じ通譯としての立場から相當重大なことまで折衝して、事態の圓滑な進行をはかつた榮之助はじめ通詞らの活動――。かういふことが公式記録にはわづかしかあらはれない矛盾があつた。たとへばペルリ側の記録「日本遠征記」には、林大學や井戸對馬と並んで、澤山の通詞が肖像入りで主體的に記録されてゐるのに比べると格段の差があつて、これを異國人の一番身近に接した親しみからだとばかりするは當らない。
 しかしそれにも拘らず、幕府外交の緊要さはもはや頂點に達しつつあつた。わづか三ヶ月の差であるが、たとへば榮之助だけにみても、「長崎談判」のときの彼の活動權限と「神奈川條約」のときのそれとは比較にならぬほど廣汎になつてゐる。理由の一つには後者では條約が成立したこと、長崎とちがつて横濱ではそれが未經驗であつたことなどもあるだらうが、決してそれだけではないにちがひない。新らしい原因は、何よりも從來のやうに幕府役人の誰かが下向してきて「諭書」を讀みあげるだけでは事態が收拾出來なくなつたこと。相手方の通譯官といふのが同時に外交官であつて、「長崎通詞」とは比較にならぬ權限とはたらきを備へてゐることなどにも刺戟されたであらう。「長崎談判」以來の功勞で、在府中だけ帶刀御免をされた榮之助は、つづいて起つた同年末からの「日露修好條約」には、名を多吉郎と改め普譜役に[#「普譜役に」はママ]任用され、のち外國通辯方頭取となつたし、このときの小通詞堀達之助も士分に取立てられ、蕃書調所教授となつた。
 これらは「安政の開港」をめぐつて、通詞らの職務がどんなに重要になつてきたかを示す證據であらう。しかも彼ら通詞を通詞としての職務からだけでなしに、外國語に通じ、外國文明に多少なり通じてゐる「人間」として考へるときは、その範圍は更に廣くなる。榮之助改め多吉郎の「外國通辯方頭取」は、一種の外交官であるだらうが、堀達之助の「蕃書調所教授」となると、もつと學問的になつてくるやうに、のちの昌造の「長崎製鐵所頭取」となると、さらに範圍が廣くなる。つまり通詞といふ職に統一されて、同じ蘭語や、それぞれ多少の英、佛の外國語に通じてはゐたが、この開闢以來のヨーロツパとの國交開始に當つては、それぞれの人間的特徴をもつてはたらいただらうし、その特徴は分化する運命にあつた。しかも殘念ながら私はペルリ來航當時の昌造のはたらきぶりを殆んど知ることが出來ないのである。
 しかしたつた一つ、私としては思ひがけないめつけものがあつた。「大日本古文書幕末外交關係書卷七」に、七月二十九日付の飜譯による、ペルリの通譯官ポートマンから森山榮之助宛の書翰があつて、その文面中、昌造がでてくるのであるが、それは「米通譯官ポートマン書翰、和蘭大通詞森山榮之助へ歸國につき挨拶の件」とあつて、「榮之助君え」と親しく書き出してある。
「私共今晝後、八ツ半時頃此所へ着船致し、サウタンポン船持越候石炭積請、可相成丈急き當所を出帆いたし、カープホーレルを※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)り、ネウヨルクえ罷歸申候。其節ホノリリユ、サンフランシスコ、パナマ、カウヲ、フアルハレリ、リヲゼナイロに立寄申候。
 其許樣え、お目に掛り候儀不相叶、殘念に候得共、兼て御約諾致し置候通、追々御安否御書送被下候はば大悦に存候、猶私よりも評判記且御入用にも候はば右樣之品差送可申、失念仕間敷候。此度は聊之状紙差送申候間、私え御状之節右紙え御認被下度希上候、石状紙之内、本木昌造樣へも御遣し被下度、且御同人之御動靜直書にて承知致し度、其旨御傳聲希上候――爰に筆留致し候。
 ――大切之御用御勤被成候褒美として、大才之御許に相應之御昇進有之候樣、相祈申候――。
其許好友の    ポートマン
 尚々
 私え御出状之節宛名左之通
ア・エル・セ・ポートマン・エスクエ、ネウヨルク・ユナイテツト・ステーツ・ヲフ・ヱメルケ・ヘルヲーフルレントメールフエ・マルセールス。
右書状は下田え渡來之アメリカ船、又は長崎之ヲランダ船へ御托與被下度、又はヱゲレス船、フランス船へ御遣し被下候ても、急度相屆申候――。
 云々と、以下まだ數行つづいてゐる。
 これでみると、ポートマンは榮之助はもちろん、昌造とも個人的には相許した仲だといふことがわかつて、びつくりさせられる。
 ペルリ側通譯官として活動したポートマンが榮之助へ宛てた書翰はこの他にもあつて、たとへば徳富蘇峰氏の「近世日本國民史卷三十二」にも採録されてゐる。それは四月十六日付で、ペルリ一行の箱館行以前、日本品の賣買について當局の緩和方を懇請したものであるが、しかし七月二十九日付で堀達之助、志筑辰一郎連署で飜譯されてゐるこの書翰は、文章が示すとほり至つて私的であつた。アメリカ使節一行は、日本退帆後、七月十一日琉球那覇着、同十九日に那覇出帆、アメリカ東印度艦隊根據地の上海から香港を經て、カープホーレルと譯されたケープトーンつまり喜望峰を※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて本國に歸つた。この手紙に琉球のことも香港のことも書いてないのは、先方の政治的意圖に制限されてゐるものだらうと察せられるが、文中にあるごとく、「サウタンポン船持越候石炭積請」といふのが、べつの記録に北海道室蘭から石炭を積んできて出發直前に補給したといふ事實があるから、この手紙は下田出發の直前に出されたものと推察することが出來る。六月二十八日の下田退帆だから、飜譯出來るまで一ヶ月餘を費してゐることになるので、この私的な一書翰の取扱についても、いろいろと當時の事情を推察できる氣がする。
 榮之助が自分宛の手紙を他人によつて飜譯される以前に讀んだかどうか? 別送の「状紙」が榮之助の手に渡つたかどうか? また榮之助がポートマン書面のごとく昌造へ「傳聲」したかどうか? ましてや「状紙」が昌造にもわけられたかどうか? 私にはまるでわからない。「状紙」とは歐文を書くのに適當な西洋便箋のことにちがひなく、榮之助が蘭語のほか英佛語にも長じてゐたことは前に述べた通り、また昌造も祖父庄左衞門以來、長崎通詞中で英語の家柄であつたから、多少の程は知らず、出來たにちがひない。
 しかし恐らくこの書翰は公文として公儀に止めおかれたらうし、榮之助も昌造も、その「状紙」によつてポートマンと書翰の往復はしなかつたであらう。條約は成立したが、まだまだそんな空氣でなかつたことは前にみたとほりだ。「――兼て御約諾致し置候通、追々御安否御書送被下候」云々も、當時の外交事情のうちで置かれた通詞らの位置といふものを考へれば、どれくらゐ表裏ある「御約諾」だつたかも知れぬ。しかしまたそれにも拘らず「猶私よりも評判記且御入用にも候はば――失念仕間敷候」云々のごときは、敵とすれば大敵である「墨夷」を知るためにも、こちら側で是非と欲した感情が、うかがはれるやうである。
 殊に文中卒然としてでてくる「本木昌造樣へも御遣し被下度、且御同人之御動靜直書にて承知致し度」云々は、何かしら、もつと苛烈なものが感じられるではないか。それは單に、數ヶ月の接觸のうちで育まれた親しみだけとはちがふ。數ある通詞のうちで、昌造だけがポートマンにこのやうな印象なり、注目なり、親しみなりを與へてゐるといふことは、長崎通詞一般とはちがつた何かが、たぶんはヨーロツパ文明のどの方面へかのズバぬけた理解と、探求のはげしさがあつたのだらうと推察できる。

      三

「――西の海へさらりとけふの御用濟み、お早く歸りマシヨマシヨ」と、正月十六日の日記にかう書いた、「安政の開港」の立役者川路左衞門尉は、無事日本の面目を辱しめず、プーチヤチン使節を退帆せしめて同日長崎を發つたが、同二十七日には、もはや江戸の騷ぎを知つて心を痛めねばならなかつた。「――長門下關え着――一昨日より浦賀え異國船渡來の説、いろいろと申――さる島へかかりたるはアメリカ船にてペルリの黨なるべし、江戸にてはいかにやと昨日は少もねられ不申候」。川路の日記で考へると、その長崎出發直前に榮之助は挨拶にきてゐるのであるから、前記一月末日に江戸參着といふ「村垣日記」と照合すれば、榮之助たち長崎通詞は十日間くらゐの早駕籠で筒井、川路の行列を追ひぬいたか、特別な便船で海上を江戸へむかつたかといふことになるが、恐らく確實性のある前者によつただらうと思はれる。
 とにかく當時でも江戸のニユースが下關へんまで十數日でつたはつてゐることがわかるが、海防係川路の惱みは大きかつたにちがひない。林大學も老中宛のある書翰で「墨夷」と「魯戎」は相はからつて、魯戎が長崎でネバつてゐるうちに一方墨夷に先乘りさせる魂膽だ、といふ意味を述べてゐるが、半年も經たぬうちに再來したのは、まさしく不意打の感があつたであらう。また前年渡來のときの態度からして、なかなか「ぶらかし」なども容易でないと考へられたらうし、留守中の幕閣評議が「撃攘」となるか「和」となるか、複雜な事態にも思ひを及したらう。撃攘と和とそのいづれを望んだか、彼の日記にも明らかでないけれど、實際家である川路は、開國は必至、ただ國の安泰と面目を維持して、どう自主的にするかと考へてゐただらう。川路は江川や筒井らと共に當時の役人中新らしい政治家とされたが、必ずしもハイカラとはいへない。いはば深謀才能ある誠忠無二の武士だといへよう。彼は先んじて寒暖計や懷中時計を生活にとりいれた人だが、實際に便利なるがためであつたやうだ。同年十二月、日露の下田談判進行の際、魯艦が修理のため※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)航中颱風に遭つて沈沒したとき、日記にかう書いた。「十六日くもり。昨今にて魯戎之條約も大かたは片附くべし、この戎の存外なるは左衞門尉などの少もはたらきにあらず、一ツの不思議を證としてあぐる也、それは異船沈みたる一條也、――朝まで天氣のどかにて船頭共もよろしと申たれば曳船百艘ばかり附、二里ほど曳き參りたるに一朶の怪雲出で、船頭あやしとみる間に俄に西の大風起りて、山のごとき立浪きたりてフレガツトの城を水中に置きたる如き船をくるくる※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)したり、その勢ひおそろしと申候も大かたなり――」
 江川はまだ若く、筒井は老年、海防係として幕閣中の囑望をあつめてゐる川路であつたが、しかし川路在府で林に代つてゐたとしても、「神奈川條約」があれとはまるで異つたものにならうとは考へられない處であらう。筒井、川路の江戸歸着のときは幕閣の方針も「和」にむかひ「穩便」に決してゐたときであつた。歸着※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)々の二月二十五日付で、筒井、川路より阿部伊勢守へ宛て「今般亞米利加人渡來いたし候に付、御挨拶之儀、一體之御趣意、何卒以御書面私共より魯西亞人へ挨拶及置候趣と齟齬仕候儀無之樣仕度候。――亞米利加への御挨拶はとりも直さず魯西亞人への御挨拶と不思召候ては後日大事を引出可申と甚懸念仕候」と書いたのは當然である。しかし林對ペルリの交渉は、「通商拒絶」では一縷の面目を保つたけれど、漂民取扱の一件は修好條約にまで發展してしまつた。林も事前に逃げを打つて「魯西亞人――再渡之節は應接致し方餘程六ヶ敷可相成――月末迄には筒井肥前守川路左衞門尉も歸都可被致候間――引續き兩人にて取扱候樣宜敷被仰渡候樣、前々御申上置可被下候――」と江戸老中宛に書いてゐる。
 したがつて六月二十八日、ペルリが日本を退帆しても海防係たちの苦心は去つたわけでなかつた。そして果然、プーチヤチンの軍艦は九月十八日に思ひがけなく兵庫洋にあらはれた。大阪市内には城代からの緊急町觸れが出て、畏くも同月二十三日には七社七寺へ御祈祷のことなどがあつた。その他安治川尻に進航してきた一行の船をめぐつていろいろの※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)話ができる騷ぎであつた。昌造が魯艦との間に桂小五郎や五代友厚などの通辯をしたのもこのときだと、前記三谷氏の文にあるが、いまは確實な資料をもたぬので述べぬ。しかし大阪市中の騷ぎにも拘らず、沖にゐる魯艦は至つて平穩だつたと大阪城代の記録が誌してゐる。
 九月二十九日には老中よりの諭書が魯艦宛に屆いて、同日即刻大阪城代から沖合にゐるプーチヤチンへ手交。「――箱館において差出され候横文字並に漢文之書翰、江戸到着致し、老中披見に及び候、大阪港は外國應接之地に無之故、總て應對難致候、伊豆下田港え渡來可致候、筒井肥前守川路左衞門尉も速に下田え可相越候間、得其意、早々下田港え相越候を相待候也」といふのがそれで、文中、箱館においてプーチヤチンから江戸老中宛に出した書翰といふのが、まだ出役中で江戸滯在の森山榮之助及び本木昌造兩人で飜譯したものである。「大日本國の執政に此一翰を呈す」とはじまつてゐるが、この飜譯文などは從來の長崎通詞の譯文としてはきはだつてハイカラになつてゐる。「我長崎の港に至りし度、日本政府の貴官に告しは、二ヶ月を經てアニワ港に赴くへしと。然るにロシア國とヱゲレス國フランス國との不和ありしに依て、我國の海濱を去り難きに及へり。――もはやその事果て、箱館に來り、此一書を江戸に送つて、フレガツトに薪水食糧を貯んとす。――日本政府の貴官と治定の談判を遂んかため、此地より直接大阪に赴くへし。――日本政府の望み江戸に於て治定の談判ありたしとならは其旨大阪に告示あらんことを乞ふ、速に江戸表へ來るへし。」
 さらにこのプーチヤチン署名の書翰の日付をみると八月三十一日で箱館奉行へ呈出されたものであつた。私はこの緊急重大な書翰がどんな交通機關によつて搬ばれたか、蝦夷から江戸に何時到着したか明らかにしないが、恐らく「薪水食糧を貯」へて數日後に出帆した船足のはやい魯艦に追ひ越されたのではないかと考へる。つまりプーチヤチンの手紙が、彼の船よりおくれずに江戸へ着くことが出來たらば、「兵庫洋にあらはれた異國船」の正體が早くわかつて、大阪市中ももつと平穩であることが出來たらう。
 慶長、元和以前の昔は知らず、家光以來の二百數十年、海の日本に船らしい船が造られなかつたといふことは記憶さるべきであつた。ゴンチヤロフが不思議がつた「何故貴國の船は艫のところにあんな波の入る切込みをつけて、不恰好な高い舵をはめてゐるのか?」といふ船は、日本の海岸を這ひまはるだけであつた。勇敢なる船乘高田屋嘉兵衞が國後、擇捉間の航路を拓いた苦心は、海の日本の誇るべき語り草であるが、吃水の深い波の入らない異國の船は、嘉兵衞のやうに勇敢老練でなくともその一世紀もまへから赤道を横切り、太平洋を横斷し、北氷洋から千島列島を南下することも出來た。水戸齊昭の主唱によつて幕府の「大船建造禁止法」はまづ打ち破られたが、この大きなギヤツプ、造船技術、航海技術を急速にうづめないことには、あらゆる異國船は、依然として日本の海岸を脅やかすだらう。弘化、嘉永以後、特に安政の開港以後は、當時の日本にとつて、何よりも船だつたと察することができる。
 十月十四日、プーチヤチンの軍艦「デイヤナ號」以下三隻は下田へ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)航してきた。筒井、川路らは同月十七日再び任命されて下田へ出張。十一月一日から「下田談判」は始まつてゐる。同四日には下田の大海嘯で一帶の大被害、魯艦一隻も大破損、のち修理をもとめて港外へ曳航中沈沒などの出來事があつて、會談は十二月二十一日までかかつて「日露修好條約」は成立した。箱館、下田、長崎三港をロシヤ船及び同漂民のために開いたこと。日露の國境はエトロフ島とウルツプ島の間、カラフト島は境界をわかたず從來仕來りの通りと決定。スパンベルグ以來百年め、ロシヤは漸く半ば目的を達したわけであつた。
 この周知の「日露修好條約」文を讀むと、「日米修好條約」文とくらべておもしろい。國境問題を除けば、内實としてはどちらも殆んど同じ骨子であるけれど、「日米修好條約」文の「日本と合衆國とは、其人民永世不朽の和親を取結び、場所人柄の差別無之事」といふ第一條のアメリカ的な文章にくらべて、「日露修好條約」文のそれは至つて地味である。「今より後、兩國末永く眞實懇ろにして、各々其所領において、互に保護し、人命は勿論什物においても、損害なかるへし」といふのが、同じ第一條である。つまり後者の方が前者にくらべて幕府的自主的な匂ひがする。内容ではなくて文の調子といつたものを指していふのであるが、このへんにも林大學對ペルリと、川路對プーチヤチンの相違があるやうだ。
「日露修好條約」の場合も、蔭にかくれた長崎通詞らの活動を考慮にいれなければならぬ。川路は「日米修好條約」が成立してから間もない四月二十九日付で、アメリカ應接係の林大學へ通達して「紅毛大通詞過人森山榮之助儀――當分拙者共手付にいたし置候樣、伊勢守殿被仰渡候、尤此程及御答置候通魯西亞人渡來迄は、下田表御用相勵、拙者共において先は差支無之候、此段爲御心得及御達候也」といふので、つまり阿部伊勢守殿も御承知の事、榮之助は依然自分たちの手付だからお含み置きを乞ふといふわけである。「魯戎」はいつ渡來せぬとも限らぬ。しかもすぐれた通詞は絶對必要で、榮之助など奪ひあひだつたわけであらう。榮之助は改め多吉郎となり、士分にとりたてられて、「下田談判」のときは、「横濱談判」のそれよりも活動したのであるが、他の通詞たちも、長崎から出役してくるほどの者はそれぞれにすぐれてゐたにちがひなく、記録に殘つてゐなくても、當時の海防係を援けていろいろと活動したことは疑ひないところである。
 川路は力量才幹ある政治家であつた。ペルリ以上の人物と謂はれるプーチヤチンと太刀打の出來る外交家は、當時の幕閣において、川路をのぞけば他になかつたらうとさへ、今日の歴史家は云つてゐる。プーチヤチンもまた前二囘のロシヤ遣日使節にくらべて出色の人物であつた。當時のプーチヤチンの立場はまつたく四面重圍のなかにあつたので、ペルリの比ではない。「長崎談判」以前から始まつてゐたクリミヤ戰爭は、そのころは日本の海岸までに及んでゐた。英佛の艦隊はプーチヤチンの「デイヤナ號」および乘組の兵員を捕獲しようと、安政二年の三月五日と十一日には、佛艦「ポーテアン」が大砲六門をならべて、下田沖合に出現したし、同じ十二日には、箱館に三隻の英艦があらはれて、大砲四十門をならべて、プーチヤチンの歸航を待ち伏せてゐた。故國を離れてすでに多年萬里の異境にあつて、しかも彼はそこでも「招かれざる客」である。ロシヤ使節に對する水戸齊昭のある種の意見、阿部の返翰などの記録がそれを物語つてゐるが、さらにプーチヤチンの軍艦一隻は海嘯を喰つて破損、修理のため曳航中宮島沖で沈沒、プーチヤチン自身ですら身をもつて海岸に泳ぎついたといふ遭難事件もあつた。しかもプーチヤチンは佛艦を逆襲して、これを拿捕しようといふやうな戰爭を一方でやりながら、條約が締結し終へるまで、日本側委員にすこしの弱味も見せなかつた男である。
 川路は「下田日記」の十二月八日に書いてゐる。「――おもへは魯戎の布恬廷は、國を去ること十一年、家を隔つること一萬里餘、海灣の上を住家として、其國の地を廣くし其國の富を増さむとしてこころをつくす、去年以來は英佛二國より海軍を起して魯國と戰ひ、かれも海上にて一たひは戰ひけむ、長崎にてみたりし船は失ひて、今は只一艘の軍艦をたのみにて、三たひ四たひ日本へ來りて國境のことを爭ひ――一たひはつなみに遭ひ――艦は海底に沈みたり、されと少も氣おくれせす再ひこの地にて小船をつくり――常にはフテイヤツなとといひて罵りはすれとよく思へは――かくお用ひある左衞門尉なとの勞苦に十倍とやいはむ、百倍とやいはむ、實に――眞の豪傑也――」
 川路はまた敵を知つてゐたのである。「フテイヤツ」とはプーチヤチンのことを日本風には「布恬廷」と書いたから、その洒落をふくんでゐる。彼は日記の他のところで、「自分もプーチヤチンのやうに世界を股にかけ、四重五重の困難に遭つたらばプーチヤチンくらゐのえらい人間になれるだらう、何分泰平と鎖國の中にゐては眞の豪傑とは却々なれぬ」といふ意味の述懷をしてゐるが、當時にあつてこれだけの感想は、それだけでも値打あるものだつたにちがひない。
 毛色眼色はちがつても、豪傑は豪傑を知ることが出來る。日米、日露の修好條約文の調子にちがひが感じられるやうに、川路の太刀打は充分に自主性を護り得たものであつたと思へるが、その川路もまた時代の鎖國的な掣肘からは遠く出ることは出來なかつた。幕吏中の「新知識」もそれに災ひされて、思ひがけぬ窮地に陷らねばならなかつたのである。
 同條約文の第六條に、「若止むことを得ざる事ある時は、魯西亞政府より箱館、下田の内一港に官吏を差置くべし」とあり、同附録第六條には、「魯西亞官吏は安政三年より定むべし、尤官吏の家屋並に地處等は日本政府の差圖に任せ――」とあるのが、伊勢守の激怒する處となつた。「日米條約」の方にも第十一條に殆んど同樣の内容があり、調印後十八ヶ月を經て云々とあるが、阿部は「――神奈川條約已に誤れり。然れども彼は猶曖昧として後日談判の餘地なきに非ず。是れは明々に官吏を置くを許す。應接係の内にも左衞門尉の如きは才幹傑出の士なるに――遺憾の至りならずや」であつた。川路の處置が單なる先條約に準據した事務的な行過ぎであつたか、或は開港する以上、この處置は當然のこととする開國進取的な信念からであつたか、その日記にみても明らかでないけれど、尠くともロシヤ使節の武力やなどに氣壓されての結果でないことは明らかだと思へる。徳富蘇峰氏も「和親條約を結べば、領事を開港場に置くは必然の事。――如き不見識を――阿部正弘さへ暴露しつつあるを見れば――幕府對外の大方針、大經綸の、遂に定まる所なかりしも、亦宜べならずや」(近世日本國民史卷三十三)と書いたやうに、鎖國因循の氣風は嵐のやうな對外關係の改革期にあつても、その第一線に活動する人々の頭上を陰に陽に蔽うてゐたのであらう。安政二年二月二十四日付、伊豆戸田村寶泉寺においての川路對プーチヤチンの、この第六條取消談判の會話記録は、川路の苦衷を傳へて遺憾がない。
 左衞門尉
「――長崎以來の心盡しを不被顧、斯迄申談候儀をも、更に聞承不申候ては、拙者政府え對し申譯も無之、實に生死に拘り候次第に陷入候。然る上は右等之事は筑後守へ引渡し、以來一切拙者取扱申間敷候。
 布恬廷
 折角之御談には御座候得共、御沙汰の通りには難相成、乍去、一昨年來遙々御出張、御苦勞も被成、殊に厚き御談故、何とか御談之廉相立候樣、御受可仕候、尤御即答には難相成候間、暫く御猶豫被下候樣仕度候。
 左衞門尉
 大慶いたし候、此方之迷惑は先達て使節、宮島沖にて難船におよび候節之比例には無之候。
 布恬廷
 條約之儀昨年以來厚く御心配被爲在候て、御取極相成候儀に付、政府御不承知之儀無之事と存候處、はからずも右等之次第を承り驚き入候。
 左衞門尉
 時分にも相成、麁末之辨當申付候、相用候樣可被致候。――」
 川路が「生死に拘り候」と云つたときの顏色はもはや切腹を覺悟してゐたにちがひない。それを「折角之御談には御座候得共、御沙汰の通りには難相成」と、一旦はつつぱねたプーチヤチンのふとさ。このへん數行は男二人の力比べで、左衞門尉が「時分にも相成、麁末之辨當申付候」といふところで大舞臺の幕切れといふ趣きであるが、川路が己れの生死に拘るといひ、この上は筑後守(さきの長崎奉行で、次席應接係であつた)へ引渡して自分は取扱はぬ、つまり一切を白紙に還元してしまふぞといふところと、プーチヤチンが「御取極相成候儀に付――はからずも右等之次第――驚き入候」といふあたりの對比は、川路一個にとつての恨事であるばかりではなかつたらう。

      四

 日露下田談判のときも、通詞昌造の活動はあまり明らかでない。榮之助改め多吉郎は、このときもはや末輩ながら幕府直參だから、その活動が主體的に記録に殘つてゐるが、同じ通詞としてこのときはたらいた堀達之助にくらべても表だつた記録が尠いやうだ。ペルリの「日本遠征記」などには、當時の長崎通詞が殆んど殘らず記録されてあるのに、昌造だけがない。しかもペルリの通譯官として最も活動したポートマンが、特に昌造について注目してゐる前記の榮之助宛書翰を思ふとき、何かしら昌造の性格の一面がそこらにある氣がする。これはのちの話にもなるが、彼は通詞としては生涯「小通詞過人」から陞ることがなかつた。初代庄太夫以來世襲的な「通詞目付」として、長崎通詞最高の家柄であつた彼が「小通詞過人」から陞らなかつたといふことは、常識的にみて不審の一つである。長崎談判以來、大きな外交事件には引續き拔擢されて參加してゐるから、語學や通辯力量に劣つてゐたとも思はれないが、そのへんに長崎通詞一般とちがつた、どつか己れの科學的才能と共に思ひをひそめた一克なところがあつたのではなからうか。
 安政元年十一月以來、つまり下田談判の中途から、彼はロシヤ人と共に伊豆の戸田村にゐたことが、「古文書幕末外交關係書卷ノ八」の記録によつてわかる。「昨十四日豆州戸田村到着仕候處――魯西亞使節私共着之趣承り急き面會仕度段、通詞本木昌造を以て申越候に付、直に使節罷在候寶泉寺へ御普譜役[#「御普譜役」はママ]御小人目付等引連れ罷越及面會――」云々。これは翌年二月十五日付で、ロシヤ應接係の一人、勘定組頭中村爲彌から川路宛の上申書の一節であるが、ロシヤ人たちは戸田村海岸で船をつくつてゐたのである。前年十一月四日の海嘯と、宮島沖でのフレガツト沈沒などで、ロシヤ使節は數百名の乘組員を歸國させるのに船が足りないでゐた。アメリカ捕鯨船を借用したりしたが、その間捕鯨船乘組のアメリカ人たちを上陸させ、待たせておく場所が困難で、幕府役人との間に起つた面白い※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)話も幾つか記録にみえる。プーチヤチンは最初軍艦の建造を懇請したが、沖合に出沒してゐる英佛艦隊と中立地帶で海戰でもされては困るので、幕府は許可せず、運送用としてのスクーネル一隻が、ロシヤ人と日本人とで建造されつつあつた。
 翌二月十六日にも、川路へ上申した森山多吉郎からの上申書があつて、「今十六日、魯西亞使節多吉郎へ面會仕度旨、通詞本木昌造を以申立候に付、其節御屆之上幸藏一同と右宿寺戸田村寶泉寺え相越し面談仕候――」云々。プーチヤチンはスクーネルの建造をはじめてからは、監督をかねて戸田村の寶泉寺へ宿泊してゐた。したがつて昌造は造船場及び寶泉寺付として、當時の通詞中一ばんロシヤ人と接觸してゐたわけである。
 戸田村は下田から十里餘を距てた駿河灣の内懷にあるが、このときから日本ではじめて洋式の近代船を打建てた歴史的な土地となつた。スクーネルの建造は勿論ロシヤ人の設計で、ロシヤ人の船大工がこれに當つたが、日本人の船大工も澤山これに參加した。プーチヤチンは萬里の異境に在つて多くの船を失つた窮状を、日本側がよく諒解して建造に助力してくれた點について感謝した趣きは、彼自身の記録にも、また翌年ロシヤ政府の名を以て送られた感謝状にも明らかであるが、幕府としてもこの稀有な機會をつかんで洋式造船術を學びとらんとしたわけで、當時參加した船大工も、關東一帶の腕利きばかりを集めたと謂はれる。
 またロシヤ人たちも自分たちの技術を傳へるにやぶさかではなかつた。二月二十九日寶泉寺で會談したプーチヤチンは中村爲彌に次のやうに語つてゐる。「スクーネル新船之儀は繪圖面其外巨細之儀、川路樣え可申上、尤私出帆まで兩三日之日合有之候――スクーネル船日本にて御用ひ被成候節は長崎まで三日程にて相※[#「舟+走」、317-7]り申候、隨分御用辨に相成可申候――スクーネル船には、輕荷積入不申候ては不宜候間、石にても御積入可被爲、尤も荷數之儀は猶委細可申上候――」といふので、船底が深いから荷物が輕いときは石でも積めといふことや、江戸、長崎間を三日ではしるなどは當時としては驚異的なことであつたらう。
 川路も勿論この新造船に充分の關心を持つてゐたわけで、二月二十四日の日記に「晴、五ツ半時戸田村大行寺之魯人使節布恬廷呼寄候て及應接、夫より魯船製作所へ參る、日本之船大工異國の船大工集り候て働居申候、日本の方今は上手に相成候由――」と書いた。プーチヤチンから贈つたスクーネル繪圖面一切は川路より老中へ送られ、阿部は「――伊勢守殿へ御覽に入れ候處、軍艦には不相成共、至極便利之船に相聞候間、いづれにも一艘早くに打建」てよと命じ、ここに洋式造船術の一部がわがものとなつたわけであつた。
 このスクーネル船は長さ十二間、幅三間で、時の値段で三千餘兩かかつたと誌されてゐるが、前記の「古文書――卷ノ九」の冒頭にはこのスクーネルの進水式の繪がある。作者はたぶん伊豆代官江川の家へ食客となつてゐた無名の畫工だらうと謂はれる。その繪は當時の形を傳へて面白い。銅張りの船は青いロシヤ國旗を掲げていま水面に辷り出したところ、まはりには兩手をたかくあげた水兵風のロシヤ人大工たちと、丁髷に鉢卷、股引に草履の日本人大工たちが腕拱みして見おくつてゐる。群衆のなかに一きは背のたかいロシヤ人で何か祷りを捧げてゐるらしい宣教師と、羽織の裾を刀でピンとつつぱつた日本の侍とが、ならんでたつてゐる風景も歴史的な感じがでてゐる。
 プーチヤチンはこの新造船に乘つて歸國した。三月二十一日に一度出帆したが、沖合に待ち伏せてゐる佛軍艦を發見して引返し再び二十二日に出帆、やがて沖合に姿を消した。このスクーネルが銅張りだつたことは、まだわが國が鐵板製造に未熟だつたせゐであらう。ロシヤ人はスパンベルグ以來、いつもオホツク港で鐵張りの新船を建造する慣はしで、プーチヤチンも日本下田で船をつくらねばならぬ窮地に陷らうとは考へてゐなかつたにちがひない。「魯西亞人下官之内、船大工之者三四人有之、其餘大工鍛冶心得候者有之候間――布恬廷並士官之内三四人自身繪圖面歩割等以墨掛注文仕、多くイギリス國之書籍を以證據と仕候旨、通詞のもの申聞候――」といふ川路から老中への上申書中にみえる文でも、せいぜい破損修理に備へるくらゐの技術者たちであつたらう。海軍中將プーチヤチンはじめ半ば素人が總がかりでスクーネル一隻を作つたわけで、それは却つてこれに參加した日本船大工にもおぼえやすかつたらう。文中「通詞のもの」とあるはたぶん造船場付の昌造にちがひなく、彼はロシヤ人について伊豆一圓を歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つた木材買入れの最初から、その進水式まで關係してゐた。三谷氏の「詳傳」によれば、このときの昌造の勞苦を謝して、翌年ロシヤ政府は金時計を贈つたとあるが、プーチヤチンは歸國に先だつて日本側委員に贈物したときも、昌造には「湯ワカシ一個、繪二枚」と記録にある。「湯ワカシ」とはロシヤ名物の「サモワル」のことと察せられるが、川路に「セキスタント一箱、寒暖計一本、繪五枚」、森山に「寒暖計一本、毛氈一枚」、堀達之助や他の通詞たちは「布地若干」などと比べると、ほんの贈物ではあるけれど、昌造がロシヤ人に比較的ふかく感謝されてゐることがわかるやうだ。
 しかし昌造たち通詞も嘉永末年以來、急速に忙しくなつてゐた。新たに開港された蝦夷の箱館にも常住の通詞をおくらねばならなかつたし、長崎は長崎で新たに英國にも開港した。下田は下田で條約調印のその日から捕鯨船などがやつてきて、アメリカ人が上陸徘徊するといふ次第で、長崎通詞はいまや長崎だけの通詞であることが出來なくなつてゐた。
「下田表に詰合罷在候阿蘭陀通詞之儀、是迄兩人に候處、異船渡來之節は、應接並びに飜譯もの、薪水食糧缺乏之品送り方等、勤向悉く多端にて、其上異人共遊歩の節、謂れ無き場所へ立寄候歟、又は多人數上陸等いたし、萬一混雜等有之候節は、通詞人少々にては甚だ差支へ、自然御取締にも拘り、其上當表之儀は、缺乏品、相調候ため渡來之異船而已にては無之、何國之船、何時渡來致すべきやも難計、此上共追々御用多に相成、迚も兩人にては手足兼――五人増人被仰付候樣仕度旨申立之趣も有之、いづれにても増人被仰付――尤も長崎表之儀も當節御人少之由、殊に重立候もの當表へ罷越候ては同所御用筋差支可申哉に付、小通詞助以下三人早々當表え差越候樣、長崎奉行え被仰渡候――」云々といふのは、二月二十五日に川路から老中宛の上申書で、その附書には、堀達之助、志筑辰一郎兩人下田詰合通詞の、下田奉行への増人方願文がある。
 まつたく下田詰合二人では無理であらう。蘭語に通じた學者や侍は、當時日本全國では尠くなかつたらうが、通辯となればまた別で、加へて通詞といふのは一種の職人として扱はれてゐたから、前文中にも見えるとほり、長崎奉行の支配を受けねばならず、たとひ蘭語が喋れる學者や侍でも、進んで通詞にならうとはしなかつたらう。おまけに長崎通詞は蘭語が主であるが、條約を結んだ相手は米、露等であつて、三月一日に下田奉行が川路宛に愬へた書翰に、「只今同所に罷在候亞米利加人共は、蘭語を心得候もの無之、當方通詞共儀も、亞米利加語は昨年來自分心得にて端々聖か相覺申候得共、込み入り候儀に至候ては何分通じ兼ね――」といふ次第であつた。
 その「通じ兼ね」る通詞でさへ「――昨年來數年手掛け罷在候通詞堀達之助儀は、當節病氣にて引籠――右に付談判出來不申、甚差支候に付、定めし御地も御用繁に可有之御座候得共、若々御繰合出來候はば、御普譜役[#「御普譜役」はママ]森山多吉郎を右談判相濟候迄御差越被下候樣――若右樣難相成候はば、通詞本木昌造にても早々御差越被下――」云々。この文でいふ談判とは下田柿崎村玉泉寺に、船をプーチヤチンに借りられた捕鯨船乘組のアメリカ人男女數十名が滯在してゐて、その始末についてアメリカ人との交渉である。ところが川路から下田奉行への返翰でみると、その本木昌造も劇務のため病氣になつてゐるし、森山はまた川路の手足となつて、日露修好條約の後始末をしてゐるのだから手が離せない。さればといつて玉泉寺のアメリカ人も勝手放題に歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて放つてはおけない。「――此上は昌造儀病中には候得共、此節柄餘儀なき場合に付、駕籠にて成共、押して出勤爲致度、御用相勤候樣――申渡候に付、明後朝頃は必定其地到着可致候間――且又今七ツ時頃、夷船遠沖に相見え――」云々と、下田奉行へ川路は書いた。
 まつたくの非常時局で、通詞はその最前線であつた。これは三月四日付戸田村からで、「夷船遠沖に相見え」は、翌五日最初に下田沖に出現したフランス軍艦のことらしいが、通詞らはその軍艦にも一々乘付けて來意をただし應接しなければならない。昌造が病躯をおして駕籠にゆられながら十里の山道を下田に越えねばならぬのも「餘儀なき」ことであつた。
 下田の町を歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)るのは玉泉寺のアメリカ人ばかりではない。プーチヤチン歸國後もまだ船が足りずに百人前後のロシヤ人が殘つてゐた。その他あらたに入つてくるアメリカの他の捕鯨船などもあつて、準備の出來てない當局役人は取締に繁忙をきはめた。幕府傳統の切支丹は取締らねばならず、「當港之儀は異人遊歩をも被差免候事に付、きりしたん宗之儀、彌々に停止之、不自然なるもの有之節、申出御褒美被下候儀、若しかくし置あらはるるに於ては、夫々被行罪科候――」といふ觸書が出、「町在之もの、異人と直賣買堅致間敷」といふ觸書が出、「町在とも、若異人より音物等相送り候共、一切受申間敷、幼年之者など、何心なく貰ひ受候とも、早々奉行所え可申立、萬一かくし置きあらはるるにおいては――」といふ觸書が出た。
 それでも異人共は日々の生活品を求めて町々を歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)る。異人相手の公許の日本品賣買所である「缺乏所」の商人も異人相手に片言の異人語なり手眞似で通ずることを止めねばならなかつたが、「無筆」のアメリカ「マタロス」どもは、日本字は勿論蘭字も讀めない。「缺乏所之儀、此程御談判之上、町人共と夷人直に引合致さざるため日本字値段之脇之蘭字をも認めさせ、右にて不便之事も有之間敷と取計らはせ候處、マタロスの類ひに至り候ては無筆の者有之、是迄の仕來りを以て、居合せ候町人共へ値を承り候得共、言葉を替せ候儀不相成故、終には憤り、手を振り上、又は口などつねり候――」といふやうなわけで、ここにも通詞が至急必要だと下田取締配下の平山謙次郎から川路へ愬へ出た。
 まつたく長崎通詞は、「長崎の通詞」であることが出來なくなつたばかりでなく、「オランダ語の通詞」であることさへ出來なくなりつつあつた。日本全國の港々の通詞でなければならず、蘭語は勿論、英語、露語、佛語の通詞でなければならなくなつてゐた。そしてもつと重大なことは、いま一つ彼等通詞が、單に通辯であることだけで止まつてゐられなくなつたことであらう。異人語に通じて異人の文化を知つた以上、そして祖國がそのために困難に陷つてゐる以上、彼等はその人間個性を通じて、夫々の方面に分化し、夫々に實踐しなければならなかつたのである。
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        最初の印刷工場


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      一

 第三囘めのロシヤ使節が長崎へ來た嘉永六年は昌造三十歳であつて、この年はじめて父となつてゐる。當時の慣習からすれば晩い方であらうが、妻女縫はこのとき十五歳で長男昌太郎を産んだのである。三谷氏の「詳傳」家系圖によれば、縫は養父昌左衞門と後妻クラとの間に、天保五年四月に出生したのだから、正確には十四年と何ヶ月であり、ずゐぶん若いお母さんである。したがつて昌造らが結婚したのは、恐らく昌造二十八九歳、縫十三四歳のときであつたらう。
 縫と昌造は從兄妹同志である。「印刷文明史」の著者は「氏は元服を加へたるとき、家女と結婚し、間もなく家業の通詞職をも襲ぎしが」と書いてゐるが、昌造元服は十五歳だから、縫はこの年生れたばかりで、つまり赤ン坊と許嫁の式を擧げたのであらう。
 もちろんかうした結婚風習は江戸時代の世襲制度と深く結びついてゐる。通詞には古くから一種の試驗制度があり、幕末期には對外關係の急激な膨脹から新規取立の通詞も澤山あつたやうだが、特別の缺陷がない限り、武家と同樣、世襲制度は強力に生きてゐた。このことは日本の文書にも明らかだし、シーボルトやゴンチヤロフの手記にもみえる。昌造が昌太郎の父となつたとき、養父昌左衞門はまだ「大通詞兼通詞目付」として羽振りをきかせてゐた。そのことは「長崎談判」の折、ロシヤ使節側から幕府委員及び立會の通詞たちに贈物をしたとき、その談判には直接たづさはらなかつた昌左衞門を通詞側の筆頭にして、「通詞目付本木昌左衞門へ、銀時計一個」と「古文書――卷ノ七」に記録されてあるのでも明らかである。通詞目付は通詞取締といふ役目で、「洋學年表」元祿八年の項に「十一月長崎和蘭通詞目付の員を設け衆員を監督せしむ、本木庄太夫始て補さる」とあり、世襲して昌造はその六代目を約束されてゐたわけであつた。
 縫は昌太郎の次に安政四年小太郎を産んで、その翌年七月死亡した。長男昌太郎はそれより四ヶ月前、縫に先だつてゐるが、小太郎は明治になつてから、民間に始めて出來た活字製造會社「東京築地活版」の社長となつた人である。のち、昌造は後妻タネをむかへ、清次郎、昌三郎をなし、他に妾某との間に娘松があり、晩年には子供は出來なかつたが妾タキがあつた。娘松を産んだ妾某は、元治元年昌造が八丈島に漂流した折にできた女であるが、かうした多端な過程にみても、彼の結婚生活はあまり幸福ではなかつたやうである。後妻タネの死亡年月は不明であるけれど、清次郎を元治元年に、昌三郎を慶應三年と、矢繼早に産んで、それきり後絶してゐるのをみると、二度目の妻にも先だたれたのか知れない。いはば女房運の惡い人であつて、そのことが最初の妻縫が十三四歳で結婚し、十九歳の短生涯で終つたことや、昌造が生れたての赤ン坊と結婚式を擧げねばならなかつたことや、そんな不自然さと結びついてゐるやうに私には思へてならないのである。
 昌造自身、かういふ當時の男女風習についてどんな見解をもつてゐたか、彼の今日殘る著書のうちにも示してゐないのでわからないが、假に何らか新らしい見解が彼にあつたとしても、さういふ風俗なり慣習上の問題は當時の過渡的な政治や科學よりむづかしいもので、明治の維新なくしては考へられぬことであらう。彼は一般に科學者とだけみられてゐるし、彼の著書もそれ以外には見ることが出來ぬやうである。「印刷文明史」の著者は、明治四十五年昌造へ御贈位の御沙汰があつたとき、當時在世中であつた昌造の友人諏訪神社宮司立花照夫氏、門人境賢次氏などを長崎に訪ねて、昌造についての感想を求め、次のやうに書いてゐる。「――當時氏の眼中には最早渺たる一通詞の職はなく、世界の大勢に眼を注いで、心祕かに時機の到來を待つてゐた。この間氏は常に多くの諸書を渉獵して、專ら工藝百般の技術を研究し、殊に自己の修めた蘭學を通じて、泰西の文物を研究するに日も尚ほ足らずといふ有樣であつた。此頃に於ける我が國情は鎖國の説專ら旺盛を極め、異船とさへみれば無暗に砲撃を加へるといふ状態なりしが、昌造氏は毫も之に心を藉さず、心中私かに開港貿易の時機到來を信じてゐた。然して早晩――通商條約が締結されるであらうと考へ、先づ外國の人情風俗工藝技術の如何にも悉く調査研究して、豫め外國に對する方策を定め、世を擧げて鎖國論に熱中して居たに拘らず、氏は心靜かに泰西の工藝技術を研究してゐたのである。」
 昌造在世中の友人、門人のこの感想も今からは三十數年前のことで、再び求むるに由ない貴重なものであるが、文章があまりに抽象的で殘念な氣がする。時代も天保十三年の「異國船打拂令改正」以前のやうにも思へ、また神奈川及び下田條約以後の、つまり萬延、文久頃の五ヶ國條約實施問題をめぐる攘夷論沸騰時代のやうにも思へて甚だ曖昧であるが、とにかく「眼中には最早渺たる一通詞の職はなく、世界の大勢に眼を注いで、心祕かに時機の到來を待つてゐた」とか「毫も之に心を藉さず」とか「心靜かに泰西の工藝技術を研究してゐた」とかいふへんは、嘗ての友人や門人やが傳へる昌造の性格の一面としてそのまま信じてよいだらう。つまり昌造はその頃の日本人が當面する大きな仕事として、海外の科學を吸收してわがものとすることに一切を打ち込んでゐたのであらう。
 そして彼のこの特徴的な性格は、「長崎談判」のときプーチヤチンから彼と楢林榮七郎だけに贈られた「書籍一册づつ」「ロシヤ文字五枚」といふ事柄や、ペルリの通譯官ポートマンから森山榮之助へ與へた書翰にみる昌造への傳言文など。殊に下田談判のとき、昌造だけがひとり戸田村のスクーネル船工事場付の通譯であつたことが、對幕府的にもあまりはえない場所に自らもとめて行つたやうにも思はれるし、これらを思ひ合せると、どつか符節が合するやうで、時代を超えてとほくを見詰めてゐるやうな科學者らしい風貌がうかんでくる。
 昌造が下田から長崎へ戻つてきたのは、安政二年の何月だか現在の私にはわからない。プーチヤチンの下田退帆が三月二十三日で、まだ乘組員の一部は殘つてゐたし、いろいろ後始末もあつたらうから御用濟はそれより若干遲れてゐよう。また公用の暇々には、造船や蒸汽機關などにも當時としては先覺であつた彼など、「大船建造禁止令解放」直後の、造船熱の旺んだつた大名などに招かれたりしてゐるから、眞ツすぐに長崎に戻つたか否かもわからない。しかし同年七月長崎に出來た永井玄蕃頭、勝麟太郎らを主とする海軍傳習所の傳習係通譯となつてゐることは前記した通りだから、夏には確實に長崎へ戻つてゐたわけである。嘉永六年七月以來足かけ三年、昌造は文字通り東奔西走であつたわけで、このことは縫が長男昌太郎を産んで、次男小太郎を産むまで、嘉永六年から安政四年まで四年間のあひがあるといふこととも比例してゐる。
 安政元年の七月に、昌造が土佐侯の築地の造船場にゐたことは前に述べた。「吉田東洋傳」に見える引用文では九月初旬まで昌造の名が出てくるが、恐らく彼は九月中旬まで江戸にゐて幕府天文方の仕事をしてゐたのだと思はれる。つまり神奈川條約成立後、ペルリの退帆が六月で、九月下旬大阪の安治川尻にあらはれたプーチヤチンの船へ幕府の諭書を持參するまでの期間である。それに箱館奉行經由のプーチヤチンの書翰を森山(當時榮之助)と連名で飜譯してゐる事實からみて、天文方の仕事もしてゐただらうと判斷するわけであるが、「東洋傳」によれば、昌造は江戸において最初の洋式船舶建造の功勞者といふことになつてゐる。
「安政元年七月、長崎の通譯本木昌造、公用を帶びて下田に來るの途次、轉じて江戸に入る。八月廿九日、豐信(容堂侯)昌造を召して海外の事情を聽き、携ふるところの蒸汽船の模型を見、隨從の工夫幸八に命じて、更に模型を作らしめ、幕府に請ふて試運轉を爲す。是れ江戸に於て、洋式船舶製造の濫觴なり――」
 吉田東洋は土佐藩の船奉行で開國論者、文久二年攘夷派の志士に暗殺された人である。この文にいふ「下田に來るの途次、轉じて江戸に入る」といふところは、前記したやうな昌造の動靜から推しても異つてゐるやうだが、いづれにしろ昌造が造船その他海外科學に造詣がある人間だといふことは、當時その方面の人に知られてゐたらしい。明治四十五年御贈位の内申書には「蘭話通辯」の他に「海軍機關學稿本」などがあつて、多くの印刷術發明に功勞のあつた人々が他の部門でもさうであつたやうに、昌造も日本の艦船發達の歴史では、その名前を缺くことの出來ない一人となつてゐる。「翌二年豐信參覲交代の期に際し、歸國の後之を高知に※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)漕し、浦戸港内に泛べ、豐資その他連枝及び諸士に縱覽せしめて西洋事情の新奇進歩せる實物標本を紹介して、大いに頑夢を覺醒せしむるところありたり」
 土佐藩士を「大いに――覺醒せしめ」たのは勿論吉田東洋のことを云つてゐるのであるが、土佐藩の洋式船舶建造が東洋の發起であるならば、昌造を推薦したのも東洋かと思はれるし、東洋と昌造は若干の知己であつたかも知れぬ。しかし土佐藩の洋船が日本で最初かどうかは疑はしい。土佐藩の船が築地で出來上つて、土佐の港で運轉したのは翌二年の八月だが、薩摩藩の昇平丸が江戸へ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)航してきたのは同じ二年の四月である。土屋喬雄氏の「封建社會崩壞過程の研究」によれば、薩摩藩は嘉永五年に蘭書に基いて蒸汽船雛型を作つた。表面は琉球警備に名を藉りて幕府の許可を得てゐたもので、水戸齊昭の主唱によつて「大船建造禁止令」が打破されるや、建造中のその一隻を幕府に獻納したものだといふから、「東洋傳」の限りでは一歩遲れてゐることになる。
 しかしそれはとにかく、土佐藩は昔から船では名のある國で、土佐と薩摩は建艦競爭してゐたといふから、「禁止令」解放後先鞭をつけたことは疑ひなく、昌造としても生涯の名譽の一つであらう。昌造持參の蒸汽船模型がどんなものであつたか、それは今日何も傳つてをらぬのでわからぬが、大きな水溜か何かで運轉してみせたらしい。「東洋傳」中、引用の寺田志齋の日記は、それを見物してびつくりしてゐる。
「七月朔日(安政元年)晴天、九ツ過ニ退ク。遠江守樣御出ニ付、八ツ頃再ビ出動、直チニ退ク。長崎鹽田氏幸八ト云者、蒸汽船雛型持出シ、御馬場ニ於テ御覽アリ、實ニ奇ト云フベシ。右見物ニ暮前ニ出デ、日暮テ退ク」とあるから、その馬場は土佐藩士の見物でいつぱいだつたらう。
 ここでいふ「鹽田氏幸八」は昌造が長崎から同道してきた大工幸八のことで、寺田の日記にみても、昌造監督のもとで實際は幸八が船をつくつてゐることがわかる。同じ四日には昌造自身で運轉してみせた。「晴、四ツニ出ヅ、今日長崎譯官本木昌造、蒸汽船雛型持出シ御覽アリ。朔日ニ上ツリタルヨリハ大ニシテ仕形モヤヤ精密ナリ、七ツ過ギ退ク。夜澁谷、傳氏ニ行ク、小南、朝日奈、出間ト同クス。四ツ時カヘル。昌造ノ咄ニ此度ビ、魯西亞、獨兒格(トルコ)ト戰ヒ、英佛ノ二國獨兒格ヲ援ク、魯西亞ノ軍艦十隻爲メニ英軍ニ獲ラル」と志齋は書いてゐる。四日の雛型は朔日のそれより大きく精密なものを昌造自身で運轉してみせたのであらう。この文で見ると、あとにつづく日記のそれと綜合して、昌造は土佐藩士澁谷傳氏といふ人の邸にゐたのだらうか。小南とか朝日奈とか出間とか、同藩士かどうかわからぬが、そんな人達がやはり來合せてゐて、昌造からクリミヤ戰爭のニユースなどを聽いてゐる容子がわかる。昌造の咄ぶりがどんなだつたか知る由もないけれど、海外の政治情勢と結びつけて、海外科學の紹介、海國日本の海防の急などが、恐らく寺田はじめ居合せた人々の腦裡に植ゑつけられた話の内容だつたらうと想像することが出來る。寺田志齋は東洋と同じく土佐藩の仕置役として藩政に參畫し、容堂の側用人を勤めたことがある。川路左衞門尉などとも親交があつたといふから、後年佐幕派連署組の巨頭となつたといふやうな當時の複雜な政治的經緯は別として、昌造の海外ニユースなどにもいつぱしの見解をもつて關心するほどの人物だつたにちがひない。
 七月十六日にはまた澁谷へ行つて蒸汽船註文の事を昌造と相談し、二十四日は築地の造船場を他の藩士たちと共に下檢分してゐる。「終ニ本木昌造ヘ酒ヲ給ス」とあるから、昌造はその造船場で既に指揮に當つてゐたものであらう。八月朔日には「本木昌造ヨリ約束ノ品ヲ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)シ來ル」と、品名を匿してあるが、私の想像ではたぶん蘭書の類ではなかつたかと思ふ。蘭書は當時の志ある武士の多くが欲してゐたところで、しかもまだ特別の人以外には購求出來なかつたし、蘭書の種類によつては殊にさうだつたからである。八月五日には建造中の船の事で昌造と談じ、九月七日には「雨、出テ蒸汽船製造場ニ過タル、船ノ形、頗ル成ル」と書いてゐる。
 昌造が土佐藩のために骨折つたのは、雛型作りだけでも一再でないし、工夫に工夫を凝らしたらしい。容堂の日記でみると、八月四日は「供揃ニテ、供※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)リノ面々モ馬乘ニ申付、砂村屋舖ニ相越シ、長崎之通辭召連レ、蒸汽船一覽セラル」とか、同八日には宇和島藩主伊達侯を招待して「夕方本木庄藏ト申ス通辭、蒸汽船持參致シ候ニ付、馬場ニ於テ伊達遠江守殿ト一所ニ一覽セラル、ソノ節中濱萬次郎モ呼寄セ――」と誌してあるから、昌造はこのときアメリカ歸りのジヨン萬次郎とも逢つたわけである。中濱萬次郎は漂民として嘉永三年日本へ歸着、後二年間は自由の身ではなかつたが、安政の開港以後その語學と海外知識を買はれて後幕府の軍艦操練所教授となつた人で有名である。土佐藩は幕府にさきがけて萬次郎を登用し藩士に列せしめてゐたから、このときも呼び寄せて昌造の雛型を彼の知識によつて批判せしめたものであらう。
 神奈川條約成立以後は日本の上下をあげて近代的な大船建造熱が旺盛であつた。「閏七月(安政元年)廿四日、御用番久世大和守殿に左之伺書留守居共持參差出候處、被請取置、同八月廿三日、同所え留守居共被呼出、右伺書え付紙を以て被差返上、則左之通」と土佐藩記録にあつて、「今度大船製造御免被仰出候ニ付、爲試」と、一ヶ月の短時日を以て幕府も許可してゐる。昌造の雛型提示が前記したやうに七月朔日に始まつてゐるのだから、土佐藩の伺書提出はそれによつて決定したものだらう。そして昌造の雛型及び監督によつて建造された江戸において最初の蒸汽船はどんなものだつたらう。同じく土佐藩記録はその伺書の内容を次のやうに誌してゐる。「蒸汽船一艘、長サ六間、横九尺、深サ五尺四寸、砲數二挺」といふから小さいながら一種の軍艦であつた。「右之通雛型、築地於屋舖内、手職人エ申付爲造立度、尤長崎住居大工幸八ト申者、此節致出府居候ニ付、屋舖エ呼寄、爲見繕申度、出來之上於内海致爲乘樣、其上彌以可也乘方出來候時ハ、海路國許エ差遣シ、船手之モノ共爲習練、江戸大阪共爲致往還度、彼是相伺候、可然御差圖被成可被下候、以上、閏七月廿四日、松平土佐守」
 船が出來たらばまづ江戸内海において運轉させ、それから國元土佐へ送つて藩の船手共へ習練させる、上達したらば江戸、大阪間を往復させるといふ意味であるが、文中幸八の名があつて昌造の名が出ないのは、昌造は長崎奉行配下で目下江戸出役中ゆゑ、幕府へは憚りあつたのであらう。
 その船が雛型どほりうまくいつたか? またいつ出來あがつて、江戸内海でどんな風に試運轉したか? それはわからないが、翌年八月、その船が土佐へ無事※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)航してきたことは、既に歸國してゐた寺田志齋の日記に見える。「四日、由比猪内ヘ過ク。夫ヨリ出勤。今日ハ早仕舞九ツ時退ク。――蒸汽船江戸ヨリ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)着ス」そして同じ八月二十三日には「――四ツニ出、八ツニ退ク。今日雅樂助君(容堂弟)蒸汽船御見物ニ御出。余モ亦往ケトノ命アリ、先ヅ三頭ニ至ル。少將公御出也、頃之御歸座、遂ニ彼ノ船ニ御上リ、余モ亦隨フ、此船余前官ニテ江戸ニアリテ頗ル此議ニ預ル、只迅速ナラザルノ恐アリシニ、果シテ進ムコト遲々タリ――」
「東洋傳」には、この蒸汽船が警護の傳馬船よりもはるかにのろくて、人々困惑したといふ趣きが書いてあるが、また機械でうごく船をみて人々がおどろいた趣きも書いてある。とにかく昌造及び幸八による、日本人によつて創られた最初期の蒸汽船はのろいながらも日本の海を進水したのであつた。
 しかし昌造は蒸汽船製作の實際を何によつて學んだのだらうか? 弘化元年來航のオランダ軍艦「パレムバン」以來、いくつか蒸汽船は見たにちがひないが、通詞ではあつても外國軍艦などの機關部點檢などはそんなに自由ではなかつた筈である。同じ弘化年間に幕府はオランダに註文して、小型の蒸汽機關を註文したことがあるが、その頃の昌造は稽古通詞の若輩であつた筈だから、自由な便宜も得られなかつたにちがひない。文書により、あるひは人知れず模型などつくつて、豫てからの苦心の結晶であらうが、のろいながらも日本人だけで創つた蒸汽船が進水したことは、この時代として特筆すべきことであらう。蒸汽船ではないが洋式船舶建造の最初の歴史としてのこる戸田村の「スクーネル船」は翌安政二年であつたことを思ふと、「長サ六間」の「砲二挺」を備へた船が「深サ五尺四寸」しかなかつたといふことは、それだけに却つて自然のやうで、昌造や幸八の苦心が想像されるやうである。

      二

 昌造のつくつた蒸汽船雛型が「砲二挺」を備へた一種の軍艦であつたことは、「海防嚴守」のたてまへから、土佐藩の註文であつたと謂はれるが、嘉永六年ペルリ、プーチヤチンの來航、安政元年の「神奈川」「下田」二條約の成立といふ、時の情勢と對應してゐて興味ふかい。安政二年江戸から歸國後、直ちに永井、勝らの海軍傳習所の通譯係を任命されたのも、時代の波が命ずるところであつたらう。同僚の森山榮之助は改め多吉郎となつて外國通辯方頭取となり、同僚堀達之助は蕃書取調所教授となつた。昌造もまたこのままでゆけば、いちはやく何らか幕府的に表だつた役柄となつたのであらう。ところが彼は同じ二年に幕府に罪を問はれて「入牢」してしまつたのである。
「この年氏は長崎へ歸りしが、時の長崎奉行水野筑後守は幕府の命によりて、氏に突然揚屋入りを申付けた。乃ち氏は牢獄の人となつた。その理由は、氏が江戸に滯在中、天文臺の諸役人より依頼を受けて、天文に關する蘭書の購入方を引き請けてゐたのが原因である」と「印刷文明史」は書いてゐる。
 三谷氏の「本木、平野詳傳」を除けば、福地源一郎の「本木傳」も「世界印刷通史日本篇」も、その他多くの本木傳が、彼の入牢説を支持してゐる。しかもその入牢期間は、一致して安政二年から安政五年十一月までといふ長期である。これは昌造の生涯にとつてほんの「躓きの石」くらゐではないだらう。前にも述べたやうに、通詞に對する罰則は一般にきびしくはあつたが、しかし「印刷文明史」のいふところを信じても、單に蘭書購入方取次といふだけではあまりに過重ではないかといふ氣がする。
「天文臺の諸役人」は幕府の外國關係の役所である。しかも安政二年には蘭書の輸入が間にあはなくて、長崎奉行西役所内に印刷所をつくつて「日本製洋書」をこしらへた程である。そして昌造を訊問した水野筑後守は「下田談判」當時の次席應接係で、昌造はその配下であつた。昌造の養父昌左衞門は通詞目付で現存してゐて、假に多少の私情がものをいふとするならば相當の力もあつた筈である。しかも昌造は「長崎談判」以來、長崎通詞中功勞のあつた人間である。嘉永の初期とちがつて尠くとも表面的には緩和されてゐた筈の「蘭書購入取次」くらゐが、何故にそれ程の重罪に問はれなければならなかつたらうかといふ氣がする。
「本木傳」の多くが彼の入牢を「ほんの躓き」とする傾向をおびてゐる。福地源一郎は「同年本木昌造先生故ありて入牢せられぬ。その故詳ならず、人の傳ふる所に依れば本木昌造先生が侠氣ありて己がいささかも係はらぬ事柄なるに他人の罪を救はんとて無實の罪を身に引受けられたるなりと云ふ」と書いた。「世界印刷通史日本篇」は單に「事ありて」と詳述を避け「本木、平野詳傳」は、この出來事についてもつとも詳細に記録をあつめてゐる點ですぐれてゐるが、「苟くも偉人たる本木昌造先生の名を傷けるものとして」入牢否定説に終始してゐる。つまり否定にしても肯定にしても、「入牢といふ不名譽」から昌造を無理矢理に引き離さうとしてゐる點で一致してゐるのである。
 しかし昌造の生涯にとつて大きなこの事件は日本の活字の歴史にも關係があるので、私もべつに新らしい材料を持つてゐるわけではないが、出來るだけ考へてみたい。「印刷文明史」は福地の説「他人の罪を救はんとて無實の罪を身に引受け云々」を敷衍して「――然るに氏の實兄であつた品川梅次郎なるものは、遊蕩の性なりしため、昌造氏の購求し居る洋書類を、密かに江戸の武士達に賣付けた。洋書に趣味なき武士達は、これらの蘭書類を洋學者連に高價に賣却して遊蕩の費に當てたなどのことが累を爲して、遂に昌造氏は牢屋に閉居せしめられ」たのだと書いてゐて、「入牢肯定派」の原因とするところは一に「蘭書取次」にある。
 これに比べて、「入牢否定説」の「本木、平野詳傳」は、有力な反證をあげて次のやうに述べてある。その一は安政二年より三年にかけて昌造は出島の蘭館で活版技師インデル・モウルを監督して「蘭話字典」を印刷してゐること。その二は安政二年「活字板摺立係」を命ぜられてゐること。その三は安政二年造船海運についての「由緒書」を奉行荒尾岩見守を經て永井玄蕃頭に提出してゐること。その四は安政三年「和蘭文典文章篇」を著述してゐること。その五は安政四年和蘭で出版した「日本文典」の日本活字の種書を送つてゐること。その六は安政四年、「和英對譯商用便覽」を出版してゐること。その七は安政五年「物理の本」を出版してゐること。その八は安政四年に次男小太郎が産れてゐること。その九は長崎奉行所の「入牢帳及犯科帳」にも記録がないこと等であつて、このうち「活字板摺立係」任命は月が不明なので事件前か後かわからぬし、造船、海運の「由緒書」は海軍傳習所設置當時だからこれも事件前かも知れぬが、その他の反證はたしかに現存する文書や、家系が示すところによつて疑ふ餘地がないが、「本木、平野詳傳」の著者もまた古賀十二郎氏の談をあげて「然し蘭書輸入の點ではとがめは受けて居る」と云ひ、「安政二年に幕府の命に依り、奉行水野筑後守の調を受けて居る。それは和蘭書無斷買入れである」と[#「買入れである」と」は底本では「買入れであ」ると」]、「蘭書取次原因説」に同意して[#「「蘭書取次原因説」に同意して」は底本では「蘭書取次原因説」に同意して」]、しかし「微細なものにて、入牢せられたものとも想像されず」と否定説を固持してゐるのである。
 そこで私らが判斷しうることは、入牢肯定、否定を通じて、昌造が安政二年には「蘭書取次」あるひは「購入」で幕府に罪を問はれたことだけは確實だといふことである。たとへば「印刷文明史」のいふ如く「揚屋入りを申しつけ」られたといふ「入牢形式」ではなかつたかも知れぬが、「本木、平野詳傳」の著者のいふところもまた、その他の形式による處罰もまつたくなかつたと否定し得てゐるわけではない。逆にいへば、昌造の通詞としての公的生活は、殊に嘉永六年以來は非常に多忙で、常識的にいへば順調だつたにも拘らず、安政二年以後は萬延元年末飽ノ浦製鐵所御用係となるまで、ほとんど絶えてしまふのは何故であらうか? 通詞としては「下田談判」以來の小通詞過人から生涯のぼることのなかつたのは何故だらうか? といふ疑問にも答へ得るものとはなつてゐないことである。
 つまり肯定説、否定説のどちらも、その全部を信用することは出來ぬのであるが、假に判斷を想像的に延ばしてゆくならば、共通する原因の「蘭書購入」にもとめてゆかねばならぬだらう。「詳傳」の著者もいふごとく、それが「微細な」罪であつたかどうかである。前記したやうに安政二年の後半からは尠くとも表面的には「蘭書の輸入が間にあはな」かつたほどの時代であつた。そのために日本で最初の公許の「印刷工場」が出來た時代であつた。嘉永二年の「近來蘭醫増加致し世上之を信用するもの多く之ある由、相聞え候、右は風土も違候事に付、御醫師中は蘭方相用候儀、御禁制仰出され」た「御布令」の時代から見ると格段の相違があつたやうに見えるが、また一方では「長崎談判」の折森山榮之助が譯述して公用に役立つた英書を同じ應接係役人の箕作阮甫でさへが讀むことが出來なかつたやうな實情もあつて、それが嘉永六年の末である。また安政元年から二年まで同じく川路左衞門尉に隨つて「下田談判」へ參加した阮甫のある※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)話について呉秀三氏はこのやうにも書いてゐる。「されば安政の初に清水卯三郎が、阮甫が下田に居る所へ行つて弟子入りを頼むと、阮甫はそれを探偵と思つたと見え、なかなか許さない。段々頼んだ所、江戸へ行つてから教へてやらうといふ約束で、清水は其後江戸で阮甫の門に入つた。」また「西洋の書物の飜譯や其出版の事が寛かになつて來――たのは、是からズーツと後で、――阮甫は長い間天文臺の飜譯方で、唯天文方の下に屬して、命令の儘に洋書を飜譯するばかりであつた。」
 ところが、幕府の政治的場面にある阮甫などはさうであつても、當時江戸の杉田成卿とか大阪の緒方洪庵などは東西に大きな塾を開いてゐてなかなか旺んであつた。「緒方洪庵傳」(緒方富雄氏著)に見えるところでは、安政元年に「當時病用相省き、專ら書生を教導いたし、當今必要の西洋學者を育て候つもりに覺悟し」などと手紙に書いてゐて意氣軒昂であり、大村益次郎や大鳥圭介やなど多數の塾生を擁してゐたのをみると、かなり寛やかだつたやうでもある。福澤諭吉が二十一歳で長崎へ遊學したのは安政元年で、大阪の洪庵塾へ入つたのは同二年であるが、當時も「内塾生」だけで「五六十人」からあり、他に通學生もあつたといふから恐らく百人を超えてゐたらうし、「緒方の塾生」といへば大阪では有名だつたと謂はれる。「福翁自傳」などでみると、某大名が洪庵に貸し與へたある蘭書を、諭吉ら塾生一同が徹夜で手寫して返したなどの話がある。この場合もその原書が高價でもとめがたいといふところに力點があつて、それほど事自身が祕密でも法規に觸れたものでもないやうである。
 洪庵が「當今必要の西洋學者を育て」云々は、著者も云つてゐるやうに勿論「西洋かぶれの學者を育てる」意味ではなくて、最初の黒船來航以來、何としても泰西の文明をわがものとして、外夷に備へる必要からであるが、緒方洪庵は文久二年に西洋醫學所頭取となつた晩年わづかを除けば、生涯を民間の醫者としてまた蘭學者として功勞のあつた人で、ほとんど政治的面には出なかつた人であり、杉田成卿も蘭學者ではあつたが開國論者ではなかつたと「箕作阮甫傳」はつたへてゐる。
 つまりこれらを綜合してゆくと、蘭書の購讀とか勉強とかいふ問題は、まことに微妙なものだつたことがわかるやうだ。泰西の文明をわがものとして外夷に備へなければならぬことは當時の大勢であつても、政治的な實際方法の場面では「鎖國」と「開國」にわかれて、また「鎖國」にも佐幕派がある如く、「開國」にも尊皇派があつて、昌造など勿論「尊皇開國派」であるが、それが政治的波動のたびに複雜にもつれあひ、同じ蘭學者でも政治的面にある人は阮甫のやうに入門者でも一應は探偵ではないかと疑つてみねばならぬやうな情況にもおかれたのであらう。
 つまり安政二年頃になると、蘭書の輸入なり勉強なりの取締は寛かになりつつあつた。尠くとも蘭學への關心は「安政の開港」と共に一般的にも急速にたかまりつつあつて、幕府も國防の必要だけからも「日本製洋書」をつくらねばならなかつた。しかしまた蘭書購讀についての法規が改正されてはをらず、また改正されてゐようとゐまいとに拘らず、その購讀者、勉學者自體の性質なり、在り方なりによつては幕府なり幕府以外の方面からなり強い壓力を蒙らねばならなかつたといふことになる。箕作阮甫と緒方洪庵とくらべてみて、いろんな意味でそのことがわかるやうだ。昌造などの場合、その以外に彼が通詞といふ蘭書買入れに特別の便宜をもつた職掌は、も一つの危險があつた。この危險は人格的に下劣な單に「金儲け」からくるそれもあるが、同時に人格的に下劣でなく、學問的な意味からそれを利用する場合もありうることで、「蘭學事始」以來の洋學者は、その「脇荷」的輸入方法からまつたく無關係に勉學し得た場合の方がむしろ尠いかも知れぬ。そして昌造がそのいづれの側であるかはいままでみてきたところ、またこれからみてゆくところでおのづと明らかだから述べないが、とにかくその危險は長崎に生れ通詞の家に育つた彼の宿命の一つであり、しかも士分でもない彼等は、「藩の勢力」などといふ庇護的背景はまるでなかつたのである。
 しかしまだそれだけなら昌造の問はれた罪は單純であらう。前に述べたやうに彼の祖父四代目通詞目付庄左衞門は同じやうな事を甲比丹ヅーフから時の長崎奉行に密告されたことがあつたが、そのことで庄左衞門の通詞的立場は妨げられなかつた。また「脇荷」によるある種の利益は、古くから一般通詞のみならず奉行所役人に至るまでその「餘祿」とされたといふから、このことだけで昌造が、その六代目通詞目付を襲ぐことは出來なかつたとしても尠くとも通辭的公職から身を退いたも同然となるやうな結果は考へにくい。しかも「揚屋入り」の形式の如何はとにかく、安政二年から同五年末に至る長期のある種の處罰は、「蘭書取次」といふ原因に相違はないとしてももつと深い事情がありさうである。
「――通詞の職にある氏は洋書の購入に便利があつた。殊に元來が大に西洋文物の輸入に努めて居た氏の事故、天文書を購入する序をもつて、内々開化思想の普及に力を盡したのであつた。」と「印刷文明史」は書いてゐる。また三谷氏の「詳傳」も、「本木翁が入牢説云々は「蘭話通辯」を印刷出版したることと、蘭書に因りて「和英對譯辭書」を著述せんとする企あることを密告せるものあること、翁が開國論者たることの世に聞えたる等に起因せりといふ」と書いてゐる。このへんは入牢肯定派、否定派どちらも「蘭書取次原因説」に共通したやうに、その原因の背景となる蘭學者としての昌造の性質や在り方を觀る點でも共通してゐるが、「詳傳」はさらに昌造の在り方を強調して「――先生は佐幕黨にはあらざるも、痛烈な開國論者であつたために一時は鎖國論者の非常な的となられ――當時長崎に本木昌造先生を刺さんと、夫等の志士が頻りに出入したために、身の危險を慮りて京洛に上り、一時某公卿に身を寄せて居られたこともある」と書いてゐる。それが何時頃のことか、某公卿とは何人であるかわからぬし、たぶんに長崎での云ひ傳へをそのまま記録したやうなふしもあるが、全體として昌造が「蘭書取次」で罪を問はれたほんとの内容がおぼろ氣ながら理解できるやうである。
「印刷文明史」のいふ「揚屋入り」は恐らく間違ひではないまでも誇張に過ぎたものと私も考へる。そして古賀十二郎氏の談のやうに「水野筑後の取調を受けたことは事實で」あつて、同時にそれは「揚屋入り」ではなくても重大な、意味深長なものだつたらうと考へる。長期に亙る一種の謹愼閉門であつて、その状態は萬延元年飽ノ浦製鐵所御用係に登用されるまでつづいた。「當時紀州侯の御用達を勤めて居た青木休七郎氏がこの事情を知り、安政五年八月十五日の夜、私かに新任の奉行岡部駿河守の役宅を訪れ、現下有用の逸材である本木昌造氏を、何時までも揚屋に留め置くは國家の一大損失である所以を説いて保釋を願ひ出た。すると駿河守もその理に服したと見えて、十一月二十一日の夜、用人小林某を休七郎氏宅へ遣はし、愈々本月二十八日昌造氏を保釋する旨を傳へしめた、斯くて氏は長き牢屋生活から保釋の身となつた」(印刷文明史)といふやうな經緯いきさつは、「揚屋」の内容は疑問としても、まるきり無視することの出來ない文章であらう。青木休七郎といふ人は昌造の親友でのちにも出てくる人であるが、この文章は昌造の罪が「蘭書密輸」などいふ金儲け的なものとちがつて、機微な政治的性質を帶びてゐることをも物語つてゐる。

      三

 昌造「揚屋入り」の安政二年は三十二歳で、保釋になつた同五年は三十五歳であつた。「印刷文明史第四卷」は萬延元年か文久一、二年頃、昌造三十七八歳の頃のめづらしい寫眞をかかげてゐる。傍註に「製鐵所時代の本木氏」とあるから、さう判斷するのであるが、とにかく本木傳の多くが掲げてゐる明治初期に撮つたものと思はれる晩年の寫眞とくらべて、ひどくおもむきが異つてゐるのにおどろく。その寫眞は五人の人物が撮れてゐて、前方に腰かけた三人は「製鐵所の役人」とあるだけで何人かわからない。後方向つて右に青木休七郎がたち、同じく左方に昌造がたつてゐる。たぶん外國人の撮影だらうが、幕末期乃至は明治初期にみる寫眞のやうに、これも西洋直輸入のギコチないポーズで撮れてゐる。右方に副主任の青木がゐるところからして、このとき昌造は主任であるわけだが、前方の「役人」たちは三人共若い丁髷で、何の某と名乘る大官でもなささうだから、主任ではあつても技術面の昌造らの位置といふものは今日の常識からは、はるかにひくいものだつたのであらう。
 とにかく昌造壯年期のこの寫眞は、晩年の白髮の總髮とよく調和してゐる清らかな雙眼や柔和な痩せ面などいふのとまるでちがつて、右肩をそびやかし、やや横向きの顏の肉もまだあつくて角々があり、眉根をよせて一點を凝視してゐるところ、傲岸不屈、鬪志滿々たるものが溢れてゐて、これが同一人物かと思ふくらゐである。前方の若い役人三人はそれぞれ由緒ある士分として幕府なり藩なりの勢力を負うて鷹揚に腰かけたところ、また右方の青木が後年貿易商となつた人物のやうに少しハイカラで商人的なおだやかな風姿などにくらべると、偶然な寫眞ポーズからばかりではないもの、一克さ、狷介さが殺氣さへおびてみえるのである。
 さて、昌造の萬延元年以後、日本で最初の長崎飽ノ浦製鐵所の技術者時代は後半に述べるとして、安政二年から五年に至る長期の謹愼時代は、昌造が日本活字乃至日本の印刷術に心をつくした第二期であつた。「活字板摺立係」を任命されたのは、想像するところ海軍傳習所傳習係通譯よりものち、二年の後半であらう。「揚屋入り」よりもさきかあとかはわからぬが、傳習係通譯以前の上半期は前述したやうに大凡わかつてゐるからである。また「揚屋入り」とか、「謹愼」とかの具體的性質が不明なので判斷しにくいが、これも私の想像するところでは、水野筑後の取調をうけたのち、名目はとにかく、實際的には政治的場面の通譯などから退き、門外不出ではないまでも、自宅に閉ぢ籠つてゐたほどのことではなからうか? そして摺立係任命がよしんば「揚屋入り」の以前であつたとしても、比較的純技術的なその役柄だけは微妙な形で繼續できたのではないか? 彼の問はれた罪のほんとの内容が前述のごとくであつたとすればより一層考へ得られることである。
「活字板摺立係」といふ名稱がその以前にも幕府にはあつたかどうか私は知らない。元來幕府自體としての出版物は「官版」と稱せられて、家綱、綱吉、吉宗、家慶などの歴代將軍のうち好學の人々が開板事業のその都度、職人をあつめて印刷所をつくつたやうである。家康時代には銅活字による印刷物を多く刊行したが、當時もそんな名前はもちろんなかつたし、書物は貴重にされてもそれをつくる仕事はひどくおとしめられたものであつた。記録によると、慶長二十年江戸金地院の開山崇傳の「大藏一覽集」を銅活字で印刷したとき、主として僧侶がこれに當つてゐることがわかる。「――大藏一覽の板行仰出候に付、物書衆六七人入申由に候、貴寺臨濟寺へ可申旨御諚に候、臨濟寺には折節無人にて漸一人從被遣由に候、貴寺衆僧五六人可被成御越候則從今日奉待候――三月廿二日、金地院、拜呈清見寺侍衆閣下」といふのであるが、「物書衆」といふのは原稿の手寫のほかに銅活字の種字を書くことをも意味してゐる。「校合」今日の「校正係」といふのが頭立つたもので、これも僧侶が當つてゐた。そして左の記録によれば印刷の仕事にたづさはる人々を漠然と「はんぎの衆」と稱んだらしい。「大藏一覽集」は銅活字で刊行されたが從來の名稱のままさう稱んだのであらう。「請取申御扶持方之筆、一合壹石八斗者、右是者大藏一覽はんぎの衆、上下十八人、三月廿一日より同晦日までの御扶持方也、但毎日一斗八升づつ、以上」として、その扶持をうける内譯人の名前が「校合、壽閑」を筆頭に「字ほり、半右衞門」とか、「うへて、二兵衞」とか、「すりて、清兵衞」とか九人の名があり、「慶長廿卯三月廿六日」といふ日付が誌してある。つまり「はんぎの衆」の日當は一日米二升であつて、「すりて」は印刷工、「うへて」は植字工、文撰工その他一切の製版工に當り、「字ほり」は今日の活字鑄造工程一切の仕事に當るわけだが、これらの記録を通覽しても、「印刷」といふのが常住的に幕府の役柄としては存在しなかつたことがわかる。民間では出版物が非常に旺盛になつた江戸中期になつても、出版物檢閲の役柄についてはいろいろ記録があるが、幕府自身の常住的な印刷所についての記録はまだ知らない。
 川田久長氏の「蘭書飜刻の長崎活字版」(昭和十七年九月號學鐙所載)によれば、このときの「活字板摺立所」の總裁に赤沼庄藏、取締に保田愼作、今井泉三郎が任ぜられ「本木昌造の如きも活字板摺立御用係の命を受けた一人であつた」とある。總裁初め新たに任命されたといふ事實にみても從來にはなかつたことで、それが洋式印刷であるといふ點からも日本の印刷歴史上劃期的なことであつた。たぶんは幕府直參なり長崎奉行所配下の士分であつたらうと思はれる赤沼、保田、今井について私は知るところがないが、昌造の卑い位置であつたらうことは當然で、しかもそのことで昌造の日本印刷史に占める位置については微塵の影響もあらう筈がない。ましてや記録の示すが如く「活字板摺立所」設立の具體的動機の一つが昌造ら購入活字にあつたことを思ひ、昌造が「蘭話通辯」の出版者、最初の「流し込み活字」創造者であることを思へば、印刷史的には赤沼の總裁より昌造の摺立係にこそ必然的な重要性があらう。
 三谷氏の「詳傳」が入牢否定の證にあげたやうに、昌造はこの摺立係時代に三つの著述をしたとある。安政三年に「和蘭文典文章篇」、同三年に「和英對譯商用便覽」、同五年に「物理の本」である。尚同四年には和蘭で出版された「日本文典」のために昌造は活字の種書となるべき日本文字をおくつたといふ。「日本文典」は長崎に一册現存するさうで、私はまだ見たことがないから、いづれ後半で昌造の書いた日本文字種字が何であつたかは述べる機會を得たいと思ふが、目下のところは假名か片假名かではないかと想像してゐる。また前記三著のうち「和英對譯商用便覽」も一册現存して、安政元年にイギリス船へも開港した長崎の商取引のため、若しくは蘭語から英語にうつりつつあつた時代に魁けたものだといはれる。ごく大衆的な單語の和譯であるが、通詞中では祖父庄左衞門以來英語の家柄を語るといへばいへるだらう。
 しかし殘る二著「和蘭文典文章篇」と「物理の本」については、「蘭書飜刻の長崎活字版」は詳細な記述をかかげて三谷説を反駁してゐる。三谷氏のいふ「和蘭文典文章篇」印刷文明史のいふ「文法書シンタクシス」はその發行年月が同じ安政三年六月であることからしても川田久長氏が前題の文中にいふ「文法書セイタンキシス」と同一であることが肯けるし、寫眞でみる同書が川田説「西紀一八四六年(我國の弘化三年)に和蘭のライデンに於て出版されたもの」の飜刻であることは明らかであり、「物理の本」がやはり寫眞でみると原名「フオルクス・ナチユールクンデ」で、和譯して「理學訓蒙」と稱ばれたもので、昌造の著述ではないといふ川田説の妥當なことが明らかである。つまり三谷氏「詳傳」が昌造に同題の稿本があつたといふならば別であるが、活字板摺立所發行の限りでは昌造が印刷に携つた書物を著書と混同した形跡は否めないのであらう。
 ところで昌造が日本活字創造のこの第二期で、「流し込み活字」に努力したことは、たとへば今日帝室博物館に所藏される昌造作の鋼鐵製日本文字字母が、安政年間の作だといふ由緒によつても理解できよう。更にいま一つはこの摺立係時代に活版技師インデル・モウルと共に洋活字の流し込みもやつたと思はれるふしがある。前記「蘭書飜刻の長崎活字版」の文中掲げる寫眞、「セイタンキシス」及び同じく九月に發行された「スプラークキユンスト」の表紙及び扉、同じく川田氏所藏の「理學訓蒙」扉の寫眞をみると、和蘭活字に雜つて明らかに日本製と思はれる洋活字が澤山あることだ。「理學訓蒙」扉の一部に「TE NACASAKI IN HET 5de IAAR VAN ANSEI(1858)」とあつて、このうちの洋數字の不揃ひな活字は明らかに和製であり、そのほかNが時計數字の※(ローマ数字4、1-13-24)の如くになつてゐる點や、印刷の素人であつても一見明らかである。それは川田氏所藏の大福帳型「和蘭單語篇」の洋活字、嘉平のそれではないかとみられる「江戸の活字」とも明らかに字型がちがふ。從つてその活字板摺立所製と判斷される洋活字がインデル・モウルの指導があつたとしても、「流し込み活字」の經驗者昌造と無關係ではなかつただらう。
 安政三年六月の「セイタンキシス」が、同九月の「スプラークキユンスト」になると和製洋活字の混合度合が増加し、五年の「理學訓蒙」となるといま一段めだつてゐる。いふまでもなく原版刷りの活字は激しく磨滅して使用に堪へなくなり、しかも補給は萬里の海外に求めねばならないからであつた。昌造らの苦心は想像することが出來るが、しかしまた手工業的な「流し込み」といつても、相應の歴史と傳統が必要であらう。昌造ら輸入の洋活字は既に四世紀の歴史をもつてゐて、緻密精巧になり小型となつてゐる。十二ポイントそこらのパイカを最大とするくらゐだから、和製の洋活字も補給のためには、それに傚はねばならなかつたことを「流し込み」の初期グウテンベルグらの活字が非常に大きなものだつたことと照しあはせて困難だつたと思ふのであるが、また昌造の意圖が、今日殘る安政年間の鋼鐵製遺作字母が、日本文字のしかも漢字であつたことを思へば、洋文字活字をもつて本意としてゐなかつたことも理解できるであらう。
 昌造この時期の心中を、私らはわづかの記録や遺作によつて想像するよりないが、「和英對譯商用便覽」が一枚板の木彫で、わづかに和製洋文字のノンブルを附けたに過ぎないものであつたのをみれば、ときには大きな絶望に襲はれることもあつたかと思ふ。未曾有の變動期「安政の開港」をめぐる幕府の印刷工場も、わづか「プレス印刷」の歴史を殘しただけで、七年の歴史を閉ぢねばならなかつたと同じく、昌造の日本文字の「流し込み活字」は、それが印刷物となつてのこるほどの發展はつひに見ることが出來なかつたのであつた。
 繰り返すやうだが、活字の歴史にとつては、その民族の文字がもつ宿命は何と大きいであらうか。江戸の嘉平の洋活字、長崎の活字板摺立所の洋活字は、まがりなりにも比較的容易に印刷に堪へるものが出來た。しかも日本文字の流し込み活字は、至つて幼稚なものといはれる昌造の「蘭話通辯」をのぞけば、江戸の嘉平、長崎の昌造の苦鬪にも拘らず、今日何一つのこるほどのものがなかつたのである。考へてみればアルハベツトの民族は、前述したやうに木版や木活字の歴史をわづか半世紀足らずしか持たないで、流し込み活字の歴史を十五世紀から十九世紀へかけて四百年も持つた。それと反對にわが日本では「陀羅尼經」の天平時代から徳川の末期まで千年の間、木版と木活字の歴史をもつたかはりに流し込み活字の時代はまるでない。昌造の場合も第一期の「蘭話通辯」時代はとにかく、第二期ではもはや絶望してゐるかにみえる。それは以後慶應から明治初年に至る第三期まで、ふたたび「流し込み活字」を繰り返した形跡をみることが出來ないからである。
 種類が無限にもちかく、字畫が複雜をきはめる日本の文字は、木版のやうにまつたくの手業によるか、でなければいま數段の科學的方法によるかしかなかつた。その意味で明治二年長崎で、日本の誰よりも魁けて昌造が、ガムプルから電胎法を學びとつたことは、まつたく劃時代的であつた。その意義の重大さはそれを傳授したアメリカ人ガムプルには恐らく想像し得ぬ程のものであらう。何故ならアルハベツトの民族では、字母製造における電胎法の役割はそれほど大きくないからである。たとへばオスワルドの「西洋印刷文明史」には字母の電胎法による製造の歴史については誌されずに、一八四〇年以後に完成した電氣寫眞版及び凸版のことが、重大に誌されてゐる。ロシヤ人ヤコビ、イギリス人ジヨルデイン、アメリカ人アダムス、オーストリヤ人プレツチエらである。電氣凸版は勿論日本の印刷歴史にとつても重要だが、電胎法による字母製造のそれはより以上重大であつたのだ。
 日本の活字が創造されるには、いま一段の飛躍的な近代科學が必要であつたが、「フアラデーの法則」が確立されたのが西暦の一八三三年で、「活字板摺立所」が一八五五年であれば、昌造の「流し込み活字」に苦悶しつつ、しかも次の飛躍には容易にうつれない苦しい時期がわかるやうである。一八三三年と一八五五年との間は二十二年であり、「フアラデーの法則」が實際的に電氣凸版として應用されはじめたのを一八四〇年以後だとすれば、十年そこらである。そして東西の交通を憶ひ、當時の國情を省みるならば、その期間は決して永くはない。
 しかし江戸末期の科學者たちは、苦難の道を開拓しつつあつた。川本幸民が「遠西奇器述」で電胎法のことを祖述したのは嘉永六年で一八五三年、平賀源内や橋本曇齋、本木道平などの一種の發電機いはゆる「エレキテル」の實驗が、さらに溯ること天保年間、一八三〇年代であつたことを思へば、ペルリが書いたやうに、ゴンチヤロフが書いたやうに、シーボルトが書いたやうに、日本の民族はえらかつたのである。私は日本に於ける電氣學の發達歴史については何も知らぬが、天保年間の平賀、橋本、本木らのいはゆる「エレキテル時代」から、川本幸民らのそれは一時代を劃してゐるやうだ。「エレキテル時代」のそれは單純に空間に存在する電氣磁氣の眼にみえぬ力におどろいただけであるが、幸民らの時代には電氣分解、つまり電氣の性質内容に踏みこんだときであつたといへよう。幸民の「電胎法」(ガラハニ)が「江戸の活字」に影響してゐるだらうといふ推測は前に述べたが、電氣分解に關する研究なり、知識をもつた蘭學者は當時他にもゐたであらう。弘化から嘉永、安政の初期へかけては「蘭學事始」以來、蘭學者の最も充實した時代だと謂はれる。そして私は箕作阮甫の「陝西紀行長崎日記」のうちにはしなくも吉雄圭齋が電氣分解の實驗をしてみせる個所を發見してびつくりした。それは安政の元年正月で、場所は長崎出島の蘭館においてである。
「――巡見とて、川路君大澤鎭臺に從ひ――一机上に電氣機器あり。錫※(「竹かんむり/甬」、第4水準2-83-48)の内に一土を内れ、更に内に錫※(「竹かんむり/甬」、第4水準2-83-48)を内れ、藥汁を盛る。二行に六座の壺※(「竹かんむり/甬」、第4水準2-83-48)を並べ、各々扁平銅條を外※(「竹かんむり/甬」、第4水準2-83-48)につらね、其ガルハニ氣を興し、六壺の前に一硝子瓶をすゑその底に二細孔あり、其口を硝子塞にて固封せる者を置き、中に水を盛りて其半に至るときは、ガルハニ氣の二極に遭ひて水分析せらる。又別に一座の盤面に字を書せる、恰も時儀盤の状の如く、銅※(「竹かんむり/甬」、第4水準2-83-48)より銅線の表に絹絲を糾纒せる者二條をつらねて、一は盤脚、一は盤底に接すれば、銅線に沿ひて電氣盤面の針を呼應し、針の指す所に應じ、その字を見て其の事の如何たるを知る、其奇巧驚くべし。――吉雄圭齋といへる醫人、精しくフアン・デルベルグよりその法を傳へるよしにて、後に三寶寺に來り、其設置を語りぬ――」と、つれづれの日記とちがひ、まことに精確な描寫ではないか。
 これは單純な電氣分解による水の分析である。今日の活字字母面製造に用ひる方式とはちがふけれど、ガラハニ氣を利用して、陰陽二極の面に相互から移しとる原理はすでにここで達せられてゐるのがわかる。「此術ハ一金ヲ他金上ニ沈着セシムル者ニシテ金銀銅鐵石木ヲエラバズ――ソノ上ニ彫刻スル所ノ者ニ銅ヲ着カシメコレヲ剥キテ其形ヲ取リ――」と、幸民が「遠西奇器述」にいふ「電氣模像機」は、圭齋の實驗にみる原理に發したものであり、「木版ハ數々刷摩スレバ尖鋭ナル處自滅シ終ニ用フベカラザルニ至ル、コレヲ再鏤スルノ勞ヲ省クニ亦コレヲ用フ――其欲スル所ニ從ヒ其數ヲ増スヲ得、其版圖ノ鋭利ナル全ク原版ト異ナラ」ざるものであり、一八四〇年以後ロシヤ人ヤコビ教授以下の人々によつて完成されたそれが、十數年後の日本ではもはやこれらの先覺者によつて緒についてゐたのだといへよう。たとへば「遠西奇器述」にいふ「電氣模像機」の實試法は詳細をきはめ、效用の範圍について木版などいふ日本獨自のものに適用してゐるところ、決して單なる蘭書の飜譯ではない。
 フアン・デルベルグについて私は未だ知らないが、吉雄圭齋は長崎人、吉雄流外科醫で幸載の子、幸載の伯父が吉雄流の祖となつた吉雄耕牛である。吉雄家は代々長崎通詞であり「日本醫學史」によれば耕牛は吉雄流外科の道を拓いたほか日本の診察術に小便の檢査を加へた最初の人と謂はれ、前野蘭化、杉田玄白も耕牛に師事し「解體新書」の成功も與かつてこの人にあると謂はれるが、圭齋はいはばその三世であつて、日本で最も早い嘉永二年に、自分の三兒に種痘を試みた人だと「日本科學史年表」には書いてある。
 阮甫の文中「後に三寶寺に來り」といふその寺は、「長崎談判」のため筒井、川路に隨從してきた彼の宿舍であつて、日記の日付は正月十三日、つまりプーチヤチンらの軍艦が退帆したあと「川路君」左衞門尉らと共に出島蘭館を巡見したときの一節である。同じ日付で同じ電氣分解か他の實驗かはわからぬが、「これはエレキテルとジシヤクを合したる法也」と川路は日記に書いた。そして「故にその先を握るに手をひひきく、その手をつかみをれは十人も廿人もみなひひく也、九十九一人持居たるに強く仕かけられアツといつて倒れたり」といふ川路の興味に比べると、阮甫の文章がいかにハイカラで科學的であるかがわからう。
 阮甫は醫學者であり博物學者であり兵學者であり科學者であつた。醫書、歴史書、地理書、地質書、鑛物書、應用工藝書、兵書、その他紀行文書、詩書など合して册數百六十に及ぶ著者であつたが、同じ十五日に川路らと共に、當時日本では數少い鐵製錬所をもつてゐる佐賀藩が自慢にしてゐた洋式新臺場をみて「鎖國の弊は到らざる所なし」と叱※(「口+它」、第3水準1-14-88)してゐる。「――神崎の新臺場は鍋島侯の新に造れるにて百五十 tt 二門、二十四 tt 幾門、其餘大小砲を備へける頗る多し、斐三郎(武田)曰く、砲制洋砲と合せざる者多く、轅馬海岸砲車も皆鹵莽、砲※(「土へん+敦」、第3水準1-15-63)の制卑下にして胸壁も完からずと、これより先人々嘖々と新臺場の洋砲を用ひけるには西洋人も驚きたるよしなど申せしに、かかる粗漏なる者ならんとは思はざりしなり、火藥庫も淺露にして危うく、砲は岸頭に露はれ、ボムフレイも設けず、かかる塞堡にて自ら誇るは遼東の豚とやいはん、鎖國の弊は到らざる所なしと一口氣覺え大息す――」
 その黎明期において、日本の近代醫術は日本の近代科學の大宗と謂はれる。醫術はもつとも政治性にも克ちやすく、その醫術はまた文字の媒介によつて他の科學をも導きやすいといふのが理由の一つであらう。阮甫が既にさうであつたやうに吉雄流の外科醫圭齋が「電氣分解」の實驗をしたところで不思議ではなかつたのである。圭齋はのち長與專齋らと共に明治の醫學界を開拓した人。その圭齋と昌造との關係を「印刷文明史」はつたへて「本木氏とは竹馬の友にして、常に氏の相談役兼囑託醫として大いに――云々」と書いてゐるが、昌造は文政七年生れ、圭齋は文化十年生れで、圭齋が十年の年嵩だから「竹馬の友」は少しをかしいだらう。
 そしてさらに圭齋より二三年を距てて、福澤諭吉らも「フアラデーの法則」以後の新らしい電氣學をまなんでゐることが、「福翁自傳」のうちで語られてゐる。「――或歳、安政三年か四年と思ふ。先生は例の如く中ノ嶋の屋敷に行き、歸宅早々私を呼ぶから、何事かと思て行て見ると、先生が一册の原書を出して見せて『今日筑前屋敷へ行たら、斯う云ふ原書が黒田侯の手に這入たと云て見せて呉れられたから、一寸借りて來たと云ふ。之を見ればワンダーベルトと云ふ原書で、最新の英書を和蘭語に飜譯した物理書で、書中は誠に新らしい事ばかり、就中エレキトルの事が如何にも詳に書いてあるやうに見える。私などが大阪で電氣の事を知たといふのは、只纔に和蘭の學校讀本の中にチラホラ論じてあるより以上は知らなかつた。所が此新舶來の物理書は英國の大家フハラデーの電氣説を土臺にして、電池の構造法などがちやんと出來て居るから、新奇とも何とも唯驚くばかりで、一見直ちに魂を奪はれた」。(九〇―九一頁)
「先生」とは緒方洪庵のことであり、洪庵は筑前侯のお出入醫師であつた。「ワンダーベルト」とは和蘭語であらうが、友人に訊くとドイツ語で「ウンダ・ヴヱルト」といふのがあつて、たぶん「不思議國」ないしは「驚異の世界」といふ程の意味ではなからうかといふことである。その原書も私は見たことがないけれど、諭吉の語るところに見れば、十九世紀初期から中期へかけて、當時ヨーロツパの躍進する科學、天文とか博物とか醫術とか、いろいろあつめた書物ではなかつたらうか?
「――私は先生に向て『是れは誠に珍らしい原書で御在ますが、何時まで此處に拜借して居ることが出來ませうか』と云ふと『左樣さ。何れ黒田侯が二晩とやら大阪に泊ると云ふ。御出立になるまで彼處に入用もあるまい』『左樣で御在ますか、一寸塾の者にも見せたう御在ます』と云て、塾へ持て來て『如何だ、此原書は』と云たら塾中の書生は雲霞の如く集つて一册の本を見て居るから、私は二三の先輩と相談して何でも此本を寫し取らうと云ふことに決心して『此原書を唯見たつて何にも役に立たぬ。見ることは止めにして、サア寫すのだ。併し千頁もある大部の書を皆寫すことは迚も出來られないから、末段のエレキトルの處丈け寫さう。一同筆紙墨の用意して惣掛りだ』――」(前掲九一―九二頁)さて、「惣掛り」といつたところで、筑前侯の大切な書物をこはすことは出來ないから、一人が讀み、一人が書く。讀み手が少しでも疲勞すれば次が代り、書き手の筆が微塵でも鈍れば控への者がすぐ交代する。疲れた者から眠り、眼をさました者から交代して、晝夜の差別がない二日間の模樣は「福翁自傳」のうちでも最も感激的なくだりであるが、「――先生の話に、黒田侯は此一册を八十兩で買取られたと聞て、貧書生等は唯驚くのみ。固より自分で買ふと云ふ野心も起りはしない。愈よ今夕、侯の御出立と定まり、私共は其原書を撫くり※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)し、誠に親に暇乞をするやうに別を惜んで還した――」と云ふ。八十兩といふ値段はたぶん和蘭船が日本人に賣渡した最初の値段ではあるまいが、そのへんにも「貧書生」らの苦しみがあつたわけで、しかしその「貧書生」らこそ「――それから後は塾中にエレキトルの説が面目を新にして、當時の日本國中最上の點に達して居た――」と申して憚らなかつたのであらう。
 考へてみれば、活字板摺立係の昌造が「流し込み活字」と苦鬪しつつあつた時代に、同じ長崎でも、大阪でも、江戸でもその科學的飛躍の母體が徐々に生誕しつつあつたのである。今日からみれば圭齋の實驗から「電胎法による字母製造」はいま一歩であつた。しかしまたときによつては人間の思考も何と迂遠であらうか。幸民の「電氣模像機」は「木版ハ數々刷摩スレバ――云々」とは云つても「木活字」とは云はなかつたのである。昌造もまた同じ長崎に住んで、とにかく友人ではあつただらう圭齋のその實驗をまるで知らなかつたとも思へないが、グウテンベルグ流の「手鑄込み器」だけに奪はれてゐる思考が、電氣分解によつて銅粉を密着させ、父型から母型に交互にうつしとるといふ字母製法までに到るのは無理であつたらうか。實驗者の圭齋自身も亦そんなところに頭がむいてゐたとも考へられない。幕末期の科學者たちはそれぞれに苦心しつつあつた。そしてあまりに科學の分野は廣かつた。しかも「よせくる波」と共に急激に不規則に海邊に打ちあげてくる科學の數々、そこにはまだ統一がなかつたし、基本がなかつたのである。人々は各がままに闇と光の交錯する日本の近代科學の黎明期をひたすらに突きすすむよりなかつたのであらう。

      四

 ヒヨイと摘んでステツキへ
 ケースの前の植字工
 その眼が速いかその手はすぐに
 すばやく活字を摘みあげ
 一語又一語と形づくる
 おそいが併し堅實に
 おそいが併し確實に
 一言一言とつみ重ね
 そして尚つづけられる
 火の言葉は灼熱と化し
 無音の不思議な言葉は
 全世界をへめぐつて
 怖るべき戰慄を起さしめ
 抑壓された足かせをこぼつ
 言葉は正しき鬪ひにおいて
 我に三倍する劍の力をうち破る
 人は活字を鉛の集合物と見做し
 これを指先にて弄ばんも
 印刷者は微笑をもて一字又一字
 恰も正確な時計の如くに拾ひあげ
 鼻唄まじりに文字を組み
 己が仕事に熱中してゐる
 俺のやうにこんな簡單な器具で
 世の中を支配してゐる者は他にあらうか?
 ちやちな印刷機と鐵のステツキ
 それにホンの少しばかりの鉛の花型
 白い紙に黒いインキ
 ただそれだけだ
 正義を支持し不正をこぼつ
 この印刷者の力に刄向ふ者は誰か?
 この詩、「活字の歌」の原文を私は知らない。あまりすぐれた飜譯ではないやうだが、「世界印刷年表」に收録されてゐるもので、世界最初の印刷雜誌の編輯者トーマス・マツケラー(アメリカ人)が、西暦一八五五年に歌つたものだといふことであるが、この「活字の歌」の調子にみても、ヨーロツパや、殊にアメリカでは、活字はいまや近代文化の中心になりつつあつたことがわかる。この時期の西洋活字はもはや「流し込み」ではなかつた。電胎法字母による活字であり、デヴイツド・ブルースが發明した近代的な「ブルース式カスチング」による活字であつた。そして活字の任務ももはや教會所屬の宗教書印刷や、領主や封侯所有の歴史や、古典の手寫本を再刻する段階から飛躍して、ごく一般的な庶民の日常生活のなかで空氣のやうに普く作用する道具となつてゐたのである。
 西洋の印刷歴史書が説くところに從へば、十五世紀中葉グウテンベルグの「流し込み」活字は、十八世紀に至つて第二の開花期に達してゐたのであつた。つまりヨーロツパ大陸からアメリカ大陸へ活字が渡つていつてから、第二の飛躍が起つたのである。もちろんこの地理的事情と、印刷發達事情との時間的一致は世界産業の發達と聯關するところだらうけれど、ヨーロツパと比較すれば二世紀もおくれて輸入されていつた印刷術が、第二の飛躍をアメリカで遂げたといふ事情はなかなか興味ふかいことであつた。
 西暦の一四五五年ドイツで發明された「流し込み活字」は、「印刷文明史」によると、次のやうに流布していつてゐる。一四六五年イタリー、一四六六年ギリシヤ、一四六八年スイス、一四七〇年フランス、一四七三年オランダ、一四七三年ベルギー、一四七三年オーストリヤハンガリー、一四七四年スペイン、一四七七年イギリス、一四八二年デンマーク、一四八三年スエーデン、ノルウエー、一四八七年ポルトガル、一五三三年ロシヤ、そして北米合衆國が一六三八年であつた。もつともかういふ年代別も嚴密にはむづかしいもので、論者によつては若干の相違があるけれど、ドイツ、マインツを發祥地としてみるときこの波及していつた年代は地理的にみて理解できるであらう。グウテンベルグ及びその協力者フストとシヨフアーの活字を國境からはこんだのはライン河である。その下流はオランダへ、デンマークへ、スエーデンへはこび、その上流はスイスへはこびフランスへはこんだし、殊にローマへヴエニスへはこんだ。ヴエニスは十五世紀から十六世紀へかけて全歐洲での印刷文化の中心とさへなつた。いはゆる「イタリツク活字」を産んだのもヴエニスだし、十六世紀初頭には全イタリーで四百三十六の印刷工場があつたといふ。ヴエニスのマヌチウス父子、ウエストミンスターのカクストン、パリのロバートらその他、それぞれに華やかな第一期西洋活字文化の花を咲かせた人々として有名である。彼らは獨自の種字を書き、鉛を流しこんだ。木製のハンドプレスで印刷して、活字のほかに木彫の頭文字で圖案化し、幾つもの色彩さへ應用した。同時に著述もし、書籍賣捌もやつた。彼らの多くはその印刷術の故に法王廳からある位を授けられたり、町や市の名譽職となつて、地方の文化の指導者ともなつた。しかし第一期の印刷文化は主としてバイブルや教義に關するものが多かつたと謂はれる。古典手寫本の飜刻などで、ウエストミンスターのカクストンは彼自身ラテン語その他の手寫本から飜譯したものが二十二種に及ぶといふ。つまり第一期の印刷文化はグウテンベルグの最初の印刷物が「三十二行バイブル」であつたといふことに象徴されてゐるといつてよからう。一方からいへばこの時期の印刷者たちは、教會や神學校、大にしてはローマ法王廳の庇護なしには成功できなかつたとさへいへるだらう。そのことはまた當時の印刷物が「流し込み活字」を主體にしてゐたとはいへ、非常に手のこんだ木版の輪廓や、手寫による複雜な圖案とか、色刷とかの美麗な印刷物であつたことと比例して興味あることである。
 印刷術の最初期が宗教文化と密接な關係を持つたことは西洋でも例外ではなかつたわけで、グウテンベルグやシヨフアーの印刷物にはわざわざ手寫本に僞せたものもあるといふ。一方では手寫本に僞せることでその價値を保ち、一方では美麗な印刷物であることで宗教的尊嚴をたかくしたといふ關係は、東洋における印刷術初期の歴史と相通じてゐるが、さてその活字を宗教と古典の世界から、近代的、大衆的、科學的な世界へ導びきだした最大の功勞者は、周知のやうに世界印刷術中興の祖と謂はれるベンジヤミン・フランクリンであつた。
 フランクリンが十三歳で印刷屋の小僧となつてから、十七歳の一七二三年フイラデルフイアに移つて以來週刊新聞を發行するまで、彼のイギリス渡りの二三枚の活字ケースがどんな重大なはたらきをしたかは、周知のやうに彼の「自傳」が彼がアメリカ憲法草案を書いたときのそれにも劣らぬ感動をもつて語つてゐるところだ。フイラデルフイアの町はすべてが新らしくすべてが草創であつた。コロンブス發見以來日の淺いこの大陸へ移住してくる人々は、しかも過去十八世紀の文化の傳統を持つてをり、そしてすべての人々が獨力で新らしい天地を築きあげようといふ熱意に燃えてゐた。フランクリンのわづかの活字はさういふ人々の生活のなかで、新らしい秩序をつくり、町の發展と方針を定める輿論の寵兒とならねばならなかつた。ケース二三枚の古活字は木彫頭字の圖案化や手描きの彩色などしてゐる餘裕はない。肝腎のことは活字自體があらはしてゐる文字の正確さである。活字が表現する言葉と思想である。古風な「イタリツク」や「ローマン體」よりも、正確で端的な「ニユウスタイル」である。豐富な言葉を敏速に表現し、しかも大多數に行渡ることが必要であつた。フランクリンの古活字はたちまち磨滅し、ヨーロツパ渡りの古風なハンドプレスは使用に堪へられなくなつたばかりでなく、不便でもあつた。しかも活字鑄造所はフイラデルフイアは勿論アメリカぢゆうにさへなかつた。彼は活字を買ひに大西洋を渡つてイギリスへ再度旅行したが、十九歳のとき自分で活字鑄造法を考案したと「自傳」で述べてゐる。「アメリカには活字の鑄造所はなかつた。――けれども私は鑄型を考案し、手許にある活字を打印器に使つて鉛に打ち込み、かうして却々上手に足りない活字を揃へたものだ。また時折はその他種々のものを彫刻し、インキも作り――」といふので、ここでいふ打印器とは種字の意味であらう。西洋の印刷歴史書では、彼がロンドンの活字鑄造所で見覺えた趣きも書いてあるが、「自傳」に書かれてゐる限りでは簡單すぎてグウテンベルグ以來の鑄造法にどれほどの改良を加へることが出來たかは判斷できない。ただ彼が周知のやうな電氣發見その他の大科學者であつたことからして多少の改良を加へただらうと想像するだけであつて、たとへばオスワルドの「西洋印刷文化史」もこの點詳細な記述はない。しかし今日のこるフランクリン考案の印刷機は多少の新工夫を加へたものだとされ、「印刷文明史」はこの寫眞を載せてゐる。巨大な木製のハンドプレスで、レオナルド・ダ・ヴインチが最初に考案した印刷機に酷似してゐる。[#ここから横組み]“Benjamin Frankrin, printing press”[#ここで横組み終わり]と誌された機臺の上には、それを組みたててゐる五人の人物が小さく見えるくらゐだから、これのハンドをひくときは恐らく數人がかりだつたにちがひない。
 しかし私の考へるところでは、フランクリンが「世界印刷術中興の祖」と謂はれる所以のもつとも大なるものは、活字や印刷機の多少の改良よりは、活字や印刷術を人々の日常生活のなかにひつぱりだしたこと、たとへばフイラデルフイアの町で、町有志の會合の記録などを、この青年書記が忽ち印刷にして配布し、その翌朝は町有志の人々が洩れなく昨夜の激論の推移と成果を知ることが出來、更に次の會合のため各自が一層己れの考へを進めることが出來るやうな印刷物を作つたこと、つまり活字のために新らしい任務を拓いた點にあるのであらう。フランクリンは圖書館をつくり、新聞をつくり、志ある人々をたすけてアメリカぢゆうに印刷所が出來るやう盡力した。しかし書籍組合創立や印刷所建設やではヴエニスのマヌチウスも、ウエストミンスターのカクストンも、フランクリンに劣りはしなかつたのだから、つまりフランクリンの功績の大なる所以は、彼の圖書館の建設方法や、同じ著述でもその内容や、新聞といふ獨自の形式と内容や、印刷所建設でもその經營方法と作業規律の内容や、その性質に相違があつたのである。それは古いヨーロツパ大陸ではみることの出來ない新らしい人々の集團と生活とに結びついた成果であり、グウテンベルグの活字をして過去三世紀には考へることも出來なかつた庶民の日常生活のなかへ、信仰と過去の知識と裝飾のみではない、今日と將來のための生々とした、しかも涯しないほどひろい大海原へ躍りださせたといふことにあるであらう。
 そしてそこにこそ第二期の活字が花ひらく要素もあつた。一七九六年、フイラデルフイアのアダム・ラメーヂが世界ではじめての鐵製のハンドプレスを作り、それと應へるやうにロンドンでも數學者スタンホープが「スタンホープ式ハンドプレス」を完成して伯爵を授けられた。一八一三年にはフイラデルフイアのジヨージ・クライマーが「コロムビア・プレス」を作り、一八二一年には紐育のラストとスミスが「ワシントン・プレス」を作り、一八二〇年にはボストンのダニエル・トリードウエルが世界最初の足踏印刷機を發明した。木が鐵にかはつたことや手が足にかはつたことは何でもないやうでゐて、じつは人間の動力といふものへの新らしい考へ方の發展がひそんでゐよう。そしてこのとき既にイギリス人ウイリアム・ニコルソンやドイツ人フリードリツヒ・ケーニツヒらは「シリンダー式印刷機」を完成してゐたのであつて、このシリンダー式こそ今日の「ロール」である。
 ドイツ人ケーニツヒの發明は最もすぐれてゐたと謂はれ、科學の民族ドイツ、光榮あるグウテンベルグ以來の印刷歴史の傳統を辱しめなかつたが、ケーニツヒの完成した「シリンダー式印刷機」は、その最初の門出をイギリスの「ロンドン・タイムス」でしなければならなかつたのである。流浪のケーニツヒの發明機は、老いぼれた當時のヨーロツパ大陸では誰も相手にしてくれないからであつた。
 西洋印刷術の傳統を破つた「シリンダー式印刷機」の發明がどんなに革命的であつたかは今日からみても想像できるところだ。それは同じ方向に※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)轉する動輪の力だけで印刷物が飛びだしてくるのである。能力は一時間に千枚と謂はれ、イギリスの印刷工たちは大陸からケーニツヒの巨大な印刷機が渡つてくるといふニユースで一齊に動搖したと傳へられる。當時のロンドン・タイムス社長ジヨン・ウオルターは己れの傳記のうちに「――夜に入りて別に設けられたる建物中で新式印刷機によつてひそかに新聞印刷をなさんとせしが、職工の騷動を思ひ憂慮に堪へず、警戒を嚴重にせり――この機械は一時間に千百枚を印刷し頗る迅速なるにより、新式機械を設備するとも職工を解雇せず――と職工を宥めて、この機械を使用することとせり」と、當時の空氣を誌してゐる。
 しかしケーニツヒの「シリンダー式」はまだ「手※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)し」であつた。今日の日本でもごく田舍にゆけばわづかにみられる、人間が手で※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)してゐるあの機械であるが、それから十數年經つと、ニユーヨークの新聞テムペランス・レコードは、「蒸汽力」によつてそのシリンダー式を※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)轉させたのである。そして一八三八年には、ケーニツヒのシリンダー式以上に世界の印刷界を嵐のなかに捲きこんだ紐育のデヴイツド・ブルースの「ブルース式カスチング」の發明があり、同じニユーヨークでまた世界最初の輪轉機「ホー式※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)轉印刷機」が誕生した。それが一八四六年で、一八六〇年にニユーヨーク・トリビユーン紙が用ひた輪轉機は時速二萬枚を記録したのであつた。
 嘗て十六世紀初頭にヴエニスで花咲いた第一期の西洋印刷文化は、二世紀後にはアメリカで第二期の花を開いたわけである。その原因の一つは前述したやうな、フランクリンをして「世界印刷術中興の祖」たらしめたところの精神であつたので、またその精神こそ百年後にトーマス・マツケラーをして「活字の歌」をうたはしめたものであらう。
 そしてここで私たちは「活字の歌」がうたはれた一八五五年が、わが皇紀二千五百十五年であり、ちやうど昌造が活字板摺立係となつた安政二年であつたことに思ひ當るのである。つまりわが日本に西洋活字が傳來した兩度の歴史のうちで、元龜、天正の頃、いはゆる切支丹宗門と共に渡來した最初のものは第一期のそれであり、昌造らを以て嚆矢とした嘉永以後の舶來活字は第二期のそれであつて、同じ鉛活字にちがひはなくても、活字のもつてゐる社會的性質にはずゐぶん相違があつたので、よしそれがオランダから渡來しようと、アメリカ大陸から渡來しようと、やはり十九世紀の活字であることに變りはなかつたのである。
 世界で最初期の全鐵製ハンドプレス「スタンホープ・プレス」いはゆる「ダルマ型」が、オランダから幕府へ獻納されたのが嘉永の三年だ。西暦では一八五〇年だから、數學者で新伯爵スタンホープの發明後五十年である。「ワシントン・プレス」が上海を經て長崎奉行所の印刷工場に使用されたか知れぬといふ川田久長氏の説を假に事實とすると安政年間であり、それを別としても開港以後上海經由で輸入された形跡はたぶんにあり、昌造が薩摩の島津屋舖から慶應年間に讓りうけたハンドプレスや、明治初年に平野富二が銀座の古道具屋から發見した某大名からの流れものといふ形状不明のハンドプレスなど考へあはせると、尠くとも明治以前であり、發明後三十年ないし四十年である。ドイツ人ケーニツヒの「シリンダー式印刷機」を東京朝日新聞社で使用したのが明治十年だ。西暦にすると一八七七年だから、發明後六十年である。フランスで發明された「マリノン式輪轉機」は新聞印刷機として日本へ最初に入つてきたものだが、それが明治の三十年だ。「マリノン式」の完成は一八七〇年代だから、發明後二十年そこらである。
 安政の開港以後ないしは明治維新の前後、國内事情と對外關係の機微な事情によつて、輸出國もまた輸入方法やその徑路も複雜な變化があるけれど、印刷機といふものは、發明後比較的早く容易に渡來したことがわかる。つまり印刷機は活字とだいぶ異ふのである。「スタンホープ式」も「ワシントン式」も「マリノン式」も、日本へきてもそのままで※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)轉することが出來た。しかし活字は、文字は、日本へきてもそのままでは通用せぬのである。
 しかも活字は印刷術の主體である。嘉永三年に「スタンホープ式」が渡來しても幕府の物置小屋で赤錆びるよりなかつたのは當然であらう。昌造らの苦心はまだつづかねばならない。江戸の嘉平も幕府の眼を避けながら手燭を灯した密室で慘憺しなければならぬ時期であつた。
 そしてまた日本ぢゆうの科學者たちが刻苦精勵しなければならぬときであつた。日本の近代活字は自分ひとり誕生したのではなかつたからである。他のいろんな近代科學の誕生とつながりあつてうまれたからである。船や、大砲や、汽關車や、電氣や、それから近代醫術や、太陽暦や、丁髷廢止やと結びあはねば誕生することが出來なかつたからである。つまり明治の維新なくしてはうまれることが出來なかつたからである。
 日本の活字は西洋の活字とくらべて生ひたちがまるでちがふ。それは前記したやうに日本の活字は木版などのまつたく手業によるかでなければ電胎法といふ高度の化學によるかしかないといふ自身がもつ宿命と同時に、幕末のごくわづかな年月と政治的大嵐のなかで誕生したといふ世界無比の特徴をもつてゐるのだつた。
 したがつて私の主人公は一人昌造のみではない。まだ「江戸の活字」も行衞不明のままである。昌造の活字を大阪から東京にひろめ、印刷機械を日本で最初に製作した平野富二についても述べねばならぬ。日本最初の新聞人岸田吟香が書いたといふ「ヘボン辭書」の平假名が上海でどういふ風にして作られたかを探らねばならぬし、日本の製紙業がいかにして今日の基礎を築いたかも述べねばならぬであらう。福澤諭吉らによつて代表される明治初年の洋學者の行衞や、當時東洋の文化都市上海と長崎の交通的事情やも、日本の活字誕生にとつては缺くべからざるものであつて、讀者と共に私はこの後半を、昌造萬延元年以後の事蹟とともにみてゆきたいと考へるのである。
[#改丁]

     作者言

 この小説をどういふ氣持で書くやうになつたかは、作の中で述べたつもりである。
 しかし、ありていのところ、書く以前も、書きはじめてからも、しばらくは混沌としてゐた。本木昌造だけの傳記的なものとするか、活字ないし印刷術の歴史を中心とするかについて迷つたが、それはどうやら後者におちついた。作にもそれはあらはれてゐるつもりであるが、何にせよ一ばん閉口したのは、いろんな點で作者に豫備知識が至つて尠いといふことであつた。一つの文明品の創造なり發展なりには、縱にも横にも、永く、廣い歴史があつて、それが洋の東西を問はずかけめぐつてゐるので、何か不可解なことが出てくると、そのたんびに作者は右往左往しなければならない。
 たとへば長崎に渡來した鉛活字を、海のむかふは別とすれば簡單だらうと思ふけれど、それが人間でなくて、一つの器具といふことになると、どういふわけか區切ることが出來ない。器具とか物質とかは、人間とちがつて「死」といふものがないのであるから、滅法に生命がながい。器具とか機械とかにも時代とか社會的事情とかの制限があるし、他の器具や機械との關係や、また交通などにも制限されるけれど、人間に比べると至つて限界が廣い。しかも一つの文明品の歴史には、永い時間と地球いつぱいの廣さで、黒い眼や、茶色の眼や、青い眼や、いろんな人間個々の歴史も刻みこまれてゐる。
 つまり、作者は多少なり專門的知識を得なければならぬ。學者にならなければならぬ。これが作者にとつて閉口である。右往左往させられる原因の一つである。大袈裟にいふと東西の歴史、世界の交通史、科學の發達史などまで充分知つておかねばならぬだらうし、東洋語は勿論、西洋語も知つてゐなければならぬだらう。作者はこんどいろいろと知識を借りた專門的書物のなかで、それぞれの方面の歴史學者たちが、支那語は勿論、朝鮮語、印度語などの東洋文字から和蘭語、ラテン語などの西洋文字に至るまで、原文を讀解してゐるのに非常に感服した。しかし作者のやうに西洋史はおろか、東洋史さへウロおぼえでは、專門的どころか、普通的なところで大變暇 つてしまふのである[#「暇 つてしまふのである」はママ]。のみならず、普通的な興味と專門的な興味とがごつちやになつてしまふ場合もあつた。
 じつを云へば、さういふ知識は十年くらゐ身體ごと浸りこむべきであらう。その上でおのづから出來あがつてゆくものだらうが、さうすると作者は果してそれまで生きてるかどうかわからぬといふ懸念がおこる。だからかういふ主題に首をつつこむことが既に問題なのであらうけれど、しかしまた小説の眼でみる活字の歴史は專門家のそれとは自からちがふと思つてゐる。どうちがふかと訊かれると一寸困るが、小説の場合、尠くとも活字の歴史に興味をもつ「私」自身に、また興味の持ち方を明らかにするといふ點に、重點の大半があるといふこともその一つだ。そして、いまではもう誰が何と云はうと追つつかぬのである。
 まるで傳馬船が太平洋に乘り出したやうなものである。舵はしつかり握つてゐるつもりでも、波が一つくると、どつちが出て來た方角だか、どつちが目ざしてゐる方角だか、見當つかない感じである。じつは最初のうち一卷のつもりが、半分ゆかないうちに一册になつてしまつたので、豫期せぬ一册がこのあとへ續かねばならぬ次第となつた。
 しかしとにかく傳馬船はすすむであらう。私はつぎの卷において、長崎に渡來した「電胎法」による活字を、逆に日本から上海へ逐うてゆき、英米人の「漢字活字の創始」をも、支那、ビルマ、印度における彼等の侵入の歴史のうちに見てゆきたいと考へてゐる。
 作者の右往左往のせゐで、澤山の人々にたいへん、御迷惑をかけた。書物を貸してもらつたり、藏書を贈つていただいたり、蒐集品を見せてもらつたり、いろいろと多い。故人三谷幸吉氏については作のうちで述べた。平野義太郎氏、川田久長氏、郡山幸男氏、馬渡力氏、川端康成氏、土屋喬雄氏、手塚英孝氏、岩崎克己氏、阿部眞琴氏等その他澤山の友人知人に世話になつたが、つぎの卷で全部氏名を列記して謝意を表したいと思つてゐる。なほ引用書名についてはその都度誌したからここに書かない。本書の印刷についても精興社の活字字形が好きなために、河出書房の澄川稔氏に無理を云つて、頼んでもらつた。精興社主白井赫太郎氏をはじめ、本書の製版、印刷、製本などに從事して下さつた人々にお禮を申上げたい。

  昭和十八年五月
徳永直





底本:「光をかかぐる人々」河出書房
   1943(昭和18)年11月20日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※京都府立図書館所蔵の徳永直『光をかかぐる人々』第二版に付属する「訂正と正誤」により訂正しました。
入力:内田明
校正:しだひろし、川山隆
2010年1月22日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について