丸の内

高浜虚子




ドンが鳴ると


 震災ずっと以前のことであった。今はもう昔がたりになったが、あの小さい劇場の有楽座が建ったはじめに、表に勘亭流かんていりゅうの字で書かれた有楽座という小さい漆塗りの看板が掛っていたのに、私は奇異の眼をみはった事があった。この有楽座というのは、その頃はまだ珍しい純洋式の建築であった。どこを探しても和臭というものはなかったが、ひとりこの勘亭流の字だけに従来の芝居の名残なごりをとどめていた。私はしばらくその勘亭流の字を眺めていたが、やがて心の中でこう思った。これが奇異に私の眼にうつるのはホンの少しの間であろう。この不調和はすぐ時が調和する、時の流れはどんな不調和に感ずるものでもきっと調和させずにはおかないと。
 帝劇の屋根の上におきなの像が突っ立っていたのも同様であった。(震災前)はじめは何だか突飛とっぴな感じがしたがしかし直ぐ眼に馴れた。汽車の中から見るときでも、多くの直線的なルーフの中に独りこのまんまるこい翁の立像を見るときに、私の心は軟かになるのを覚えた。はじめ奇異に思った感じは、時の過ぎ行くと共に取り去られて、後には不調和どころか調和しきって何の不思議も感じない様になった。
 丸ビルは建った当時はすばらしく大きな洋式な建物が東京駅前に建ったという感じがした。私はまだ建ち終らないうちからホトトギス発行所にその一室を契約した。そうしたら周囲のものが笑って
「和服に靴ですか。そろ/\あなたも洋服をなければならないですね。」といった。私は学校時代に洋服を著たほか、一度も洋服を著たことはなかった。
「ナーニ和服で結構だ。」といったが、心ひそかに危ぶんでいた。
 出来上っていよ/\ホトトギス発行所をこの丸ビルに移転することになった。下駄げた雪駄せったに替えた。それに下足げそく預り所の設備があった。雨の降る日は下駄を上草履に替えた。少しも不便を感じなかった。しかし和服のものは極めて少なかった。現に極めて少ない。何だかはじめの間は私自身が不調和に感じた。しかし今は何とも思わない。
 私自身が何とも思わないばかりか、周囲の人も何とも思わない。(であろうと想像しておる)
 そればかりか、春先や秋口になると、田舎の爺さまばあさま連中が丸ビル見物にくる。まずエレベーターの前に立って、
「あら上るだ、上るだ。」と傍若無人に口を開けて見ておる。やがて一つ自分も上って見ようと恐る恐る足駄あしだをふみ入れると
「下駄のかたは草履にお替え下さい。」と剣突を食う。何のことかわからず、暫くの間その辺をまごまごしている。こういう連中さえもこの頃では別に不調和な訪問者とも思わなくなった。
 ドンがなると丸ビルの各事務所から下の食堂めがけて行く人は大変なものである。各エレベーターはことごとく満員で、そのエレベーターが吐き出す人数は、下の十字路を通る群衆の中になだれ込んで、肩摩轂撃けんまこくげきの修羅場を現出する。これは少し仰山な言葉かも知れんが、兎に角大変な混雑である。私はこの状態を毎日のように目撃しながら
くの如くもまれにもまれて、古いもの新しいものはだん/\調和して行くのだ。」と考えてニヤリとする。そのニヤリとしている私は、たちまち人にぶっつかり、横にはねとばされ、元来小男の私は、忽ち群衆の中に没し去られて存在を失ってしまう。
 漸く群衆の中から抜け出た私は、やっと食堂の片隅に椅子を見出してそこで空腹を充たす。弁当、すし、天どん、うなぎどんぶり、しるこ、萩の餅、そばなどの食堂もあれば、ランチ、ビイフステーキ、ポークカツレツ、かきフライ、メンチボール、カツどんなどの洋食屋もある。この食堂になると、洋服に靴が跋扈ばっこしているほど、洋食が跋扈していない。やはり日本人には祖先伝来の米の方が適しているらしい。そこで洋服の紳士(各事務室の重役連中は天辺てっぺん(九階)の西洋料理の方に天上するのだそうで、各階からここに天下るのは、主に雇人即ち洋服細民の部に属するということを誰かから聞いた。誰だ、洋服細民などというのは、よろしく洋服の紳士諸君と申せ)も空腹になると矢も楯もたまらず、体裁も何もかまわず、かぶりつくようにして弁当飯を食うのを目撃する。即ちここで新旧文明が苦もなくかみ合う状態を目撃するのである。

大玄関


 震災の時、私は鎌倉から横須賀まで歩いて、関東丸に乗って品川湾にいた。その夜は風波が荒くて上陸が出来ず、或士官の紹介で軍艦長門ながとに移って、はじめて安らかな眠りについた。陸地におれば絶えず余震におびえていたのが、海上に浮んでいる城の如き軍艦の上では、眠りを驚かすものは一つもなかった。人間は窮迫すると、その場限りの安易を求める。あす又陸地に上れば様々の恐怖すべきことに出あうのであるが、そんなことはどうでもよい。ただ一夜の安眠を得るということが、その時にあっては無上の慰楽である。
 翌朝芝浦に上陸して見ると、右往左往に歩いている男女のそわそわしている状態は、鎌倉、横須賀辺に比べて更にはなはだしかった。それから芝公園に入った時避難民の群衆に驚かされて、公園を抜けてから、道の両側の焼尽された廃墟のあとに、まだぶすぶすと燃えているものがあるのを見た。
 桜田本郷町を過ぎて警視庁、帝劇の焼けあとを見、いたる所に『すいとん』の旗が出ていて、そこに人が黒山のようにたかっているのを見た。
 私はこの『すいとん』に腹をこしらえたことも一、二度ならずあった。しかしこの時八重洲町を歩いているうちに、どこであったかを忘れたが、(否、どこということを十分気にもとめなかったが)ある洋館の這入口はいりぐちに『ライスカレー一杯二十五銭』とある札を見て、私は大旱に雲霓うんげいを得た心持でそこにはいった。そこは震災に荒されたあとは見えたが、かなり立派な食堂であった。給仕人もちゃんと白い洋服をていた。そして暖かそうな白い飯に琥珀こはくのような光りのある黄汁をかけたものが、私の前に運ばれた。昨夜軍艦の中では缶詰の牛肉を食った。その牛肉は素敵に美味おいしいものであった。それにパンも食った。そのパンも美味しかった。が、しかし白い御飯にありつくのは久しぶりであった。ましてライスカレーというような御馳走にありつくことは、予期しなかったことであった。私はそこで腹をこしらえて丸ビルに向った。
 丸ビルは多少破壊しておったが、それでも巍然ぎぜんとしてそびえておった。丸ビルの中も雑踏しておった。その群衆の中に三菱地所部長の赤星氏が巻ゲートルをして突立っておった。私が目礼した時、氏も目礼を返したが、それが私であることは認めなかったようだ。私は相変らず和服を著て、尻をからげて、白いズボン下をはいて、腰に大きな手拭をぶら下げていた。それにひげは生え、目は落窪んでいたため、私であることは気づかなかったのであろう。それに氏の顔面筋肉は引きしまり、何事かを沈思しているように見えた。幸いに火災は免れたけれども、多少の震災は免れなかった三菱村の諸建築の事は一にかかって氏の双肩にあるのだもの。わがホトトギス発行所たる丸ビルの一室が気になって来た私とは大変な相違である。
 丸ビルの地下室の食堂が開かれたのはそれから間もないことであった。群衆は殺到した。その時から食券は前売ということになった。必要に迫られるといろ/\新しいことが発明せられる。群衆の殺到、混雑から、食券の前売ということが工夫せられた。そうして今日ではその事が、こういう食堂の一般の通則となった。
 二階の大丸呉服店にも客が殺到した。これより前大丸の店は客が店員より少いという評判であった。震災後になってにわかに客が激増した。それはその筈である。日本橋、京橋、神田というような目抜きの場所はことごとく焼尽してしまって、わが丸の内だけが無事であったのだもの。それに丸ビルに新しく出来た商店街だけが無事であったのだもの。大東京の客は皆この丸ビルに集まった。一時は食堂、呉服店のみならず、丸ビルの十字路に設けられているあらゆる店は、悉く繁昌した。東京繁昌の中心は丸ビルにあるかの観を呈した。
 その後三越、松屋等が復興してから、又日本橋銀座等の繁昌はもとの通りとなった。しかしながら東京停車場を前に控えた大玄関の丸の内一帯は震災前とは一大変化を来して、新繁昌の中心地となろうとしている。

東京駅


 丸ビルと行幸みゆき道路を隔てて近く姉妹館が建つそうである。それはホテルにするという事である。くて大玄関の左右の翼が完備することになる。
 大玄関に対して東京市の正門は東京駅である。
 朝鎌倉からの私を乗せた汽車が東京駅にいた時には黒山のような人が一時に改札口に殺到する。(乗車口降車口共に)もっともそれは汽車の客ばかりではない。同時に著いた電車の客も交って。
 それ等の客の中に一人小さい男の子が交っている。洋服を著て、膝から下を露出して、ランドセルを背負って、マスクを掛けて、チョコチョコとそれ等の群衆の中に交っている。まだ幼稚園か、小学校でもたか/″\一、二年生であろうと思われるのに、誰もついていない。一人である。それが敏活に大人の間をかいくぐって階段を降りる。忽ちその姿は見えなくなる。やがて又第三ホームの山の手線の電車の階段を上っているのを見る。ほとんど毎日のように見る。
 それ等の客の群衆は改札口に押し寄せる。ぞろ/\と後から後から来る。まだ人の山を築いておるのに、又電車が著く。吐き出す人は雪崩なだれをうって又改札口に押し寄せる。しか流石さすがに東京駅である。改札口の人の渦は直ちに消え去ってしまう。後から後から来る人は、よく掃除されたといの水のように流れて行く。
 改札口を出た人はそこから四散する。女学生かと見えたのが、改札口の駅員にちょっと礼をしてすぐ右手の構内の駅員室に消える。これはやがてその上に黒のガウンを羽織って礼売りの窓口に現れるのであろう。
 乗車口を降りた人は丸ビルと三菱本館の間を通って行く人もある。また三菱本館の前を左に取る人もある。また目黒行、中渋谷行、新宿行、水天宮行の円太郎に乗る人もある。そしてその多くは丸ビルにはいる人のように見える。
 丸ビルには一階に百室、八階で八百室、その一室に平均十人と見て一万人近くの人が毎日出はいりするわけある[#「わけある」はママ]。それに食堂、売店に出はいりする客を数えたら大変な人になる。
 その丸ビルに吸い込まれる人を横切って自動車が駆ける。その自動車はいずれも理不尽に駆ける。路行く人を河童かっぱと駆ける。だから丸ビルをそこに見ておって、その門口に突進するまでが大変である。命から/″\である。
 今の三菱村がまだ原であった時分、その原の一隅に今の東京駅が出来た。その頃の東京駅はだだ広くって、旅客があちらに一人こちらに一人、駅員も尋ね廻らねば見当たらぬという状態であった。
『こんな広い不便なものをこさえてどうする積りであろう。』などというつぶやきをきいたものだ。それが今はどうであろう。急行の出る前などは旅客が一杯で身動きがならぬ有様である。
『折角作るなら、もうすこし広いものを作って置けばいいに。』
 そんなつぶやきが聞こえるようになった。
 そこで乗車口も降車口もそのはいり口が幾度か改造された。(これははいり口ではないが、山の手循環線が出来た時であったが、そのプラットホームに行く階段が作りかえられた。)はじめ自動車口と人力車口と歩行者口とが区分されたが、それはかえって不便なものであった。ついで露天にれんが敷かれた。その部分だけは自動車がちん入しないので危険が少なくなった。が、今度は自動車の客が、雨天の節は雨ざらしにならねばならなかった。そこでその敷かれたれん瓦の一部を掘起こして、柱を立てて、その上にガラス張りの屋根が設けられた。これで先ず一応は落著いたらしく思われた。
 が、この頃又乗車口の一部分のれん瓦を掘返して、何か工事をやっているのは何事であろう。聞く所によると、これは荘司が二十何万円とかを鉄道省に寄付して、そこの地下に理髪室浴場などを設けることになったのだという事である。
 やがて遠からぬうちに東京地下鉄道のステーションがこの東京駅の前に出来るのだとかいう事も聞いた。それも結構である。又この荘司の理髪店も結構である。併しそれ等よりも東京駅と丸ビルを連絡する地下道を作って、われ等をして安心して門から玄関に行き得るようにしてもらい度いものである。二、三人自動車でき殺してから、又煉瓦れんがを掘りかえして工事をはじめるよりも、めい/\の命が無事なうちに願い度いものである。

活動がはじまる


 朝早く東京駅に著いて、寒い北風を片頬に受けながら丸ビルに駆け込むと二、三台のエレベーターはもう動いている、八時十五分過ぎ位である。
 七階で降りて、懐中から鍵を出してホトトギス発行所のドアを開けて内にはいると、スチームはまだ通っていないが、鉄骨に昨日のぬくみが残っていて何所となく暖かい。
 四隣の部屋はまだ静かである。昨日帰ったあとにドアの穴から投げ込まれた郵便物が沢山ある。取り敢えずそれを整理する。それからはかまをぬいで、鍵だけをたもとに入れ、再びドアをしめて便所に行く。
 便所には女の掃除人が今掃除をはじめたところである。石鹸の汁みたようなものを白い化粧れんがの敷いてある上に流し、ごしごしと磨きはじめる。私はだまって便所の中にはいる。
「おはよう。」という声がする。男の声である。
「おはようございます。」という声がする。これは掃除している女の声である。それから二、三言浮世話をして男は出て行く。小便をしたものであろう。この男の姿は見えないが三菱地所部に使用しているものか、もしくはどこかの事務室の小使でもあろうか。
 私はこの便所でゆっくりと用をたしていると、忽ち隣の便所の戸をはげしくたたいて、甲高いヒステリックな声で、
あがってしてはいけません、りてなさい、りてなさいってば。」怒鳴る者があった。これはかの「おはようございます。」と男にやさしい声を掛けていた掃除婦の声であることが分った。
 上へあがってしてはいけないということは(それはこのビルデングの開館した初めに、チャンとこの便所のドアに張りつけてあった禁則であった。)わかっている筈なのに、だれかが日本便所のように上に上ってしていたものと見える。
 女は寒い時分でも額に汗を流さんばかりに忠実に掃除をしている。かつて当事者の話を聞いた事がある。それは、「この便所も少し油断をするとすぐきたなくなる。不浄を周囲に垂らす者がある。たまには落書をするものがある。又御苦労にも便所につるしてある紙をまるめて穴の中にごし/\突っ込んでいる者などがある。併しそれをとがめるよりも、先に立ち先に立ちしてこちらで清潔にする。そうすると遂にはいたずら心を止めるようになろう。」と。掃除婦の忠実な掃除っぷりを見ると、いつも私はこの当事者の話を思い出す。
 朝早くまだ掃除婦の来ない時か、もしくは昼間、掃除婦の遠ざかっている時に便所にはいると正に驚くべき現象を見ることがある。それはどの便所も/\悉く黄色いものがぷか/\と浮いていることである。ただちょっと水を出して流すだけの手数をせずに立去る人の心を考えさせられる。
 私はここを出て、再びわが事務所のドアを鍵で開けてはいる。部屋にはもうスチームが通って愈々いよいよ暖かだ。事務員もそろ/\来る。四隣の室にも人声、物音が聞こえはじめる。そろ/\とビルデングの活動がはじまりかけたのである。
 やがて集配人が肩に掛けている鞄にはみ出すようにつめ込んだ郵便物を配達して来る。これ等の集配人は丸ビルのみを受持つものであるそうな。この丸ビルには一千に近い事務室がある。これを平地に延べて見たらば先ず一千戸ある町である。それに配達する郵便物は可なりな分量のものであろう。そこに配達する集配人も特別な人を要するわけである。
 最前から電話の鳴り続けている部屋がある。そこの事務員はまだ誰も来ないものと見える。
 隣室にはタイプライターを打つ音が響きはじめる。
 中庭を隔てて向う側のある部屋の窓には人顔がうつる。そこは昼間でも明るく電灯をとぼしている歯医者である。椅子にもたれて歯の治療を受けているものがある。医療器械を掃除している女の助手がある。
 その上の部屋の窓はカーテンが下りたままになっている。そこは球突きである。朝遅いのも道理である。

能舞台


 丸ビルの廊下は人通りが多い。この廊下は往来も同じことである。人々は勝手に往来することが出来る。寄付を強要するもの、無心をいいに来るものなどが、それ等の人々の中に交っている。一時、『あめを買って下さい。』といって来る朝鮮人がよくあったが、この頃は余り見ない。
『ネクタイは入りませんか。』といって来る女学生のような服装をした物売りがよく来る。それに何々写真帖とかいうものを買わんかといってはいって来る洋服の紳士?がある。国粋何々会の会長と名乗る長髪の恐ろしい人も来る。それにわがホトトギス発行所に特別な訪問客が来る。一時は七、八人の来客が詰めかけて(それが各々違った種類の来客で)応対に忙殺されることがある。
 その中で俳句会を開くことがある。よくんなそう/″\しい所で俳句が作れるものだと怪しむ人があるが、なれるとそうも感じない。
 俳句会というと畳の上に座ってするものという習慣であったのが、いつの間にか椅子に腰掛けてするものになった。これはもう十年この方の事である。それに会社官庁のひけ時に集まって夕飯まで(二時間か三時間の間)に会を終るという事は、丸ビルにホトトギス発行所を置いた時からはじまったことである。
 ホトトギス発行所でも規定の四時までは事務を取っている。事務員が帰ってから、室の一隅に備えてある畳椅子を取り出し、総計で二十個程の椅子を並べ、この一室はたちまち俳句会場に変る。
 鉄道協会とか、電気倶楽部クラブとかその他丸の内所在の建物で俳句会の催される時も、大概四時五時頃から七時頃までの間である。そうしていずれもテーブルを囲んで椅子にもたれて作る。
 鉄道協会の俳句会の席上であったか会が終って多少余裕の時間のあった時の雑談に、
「ビルデングの最上層に能舞台を作って、そこで演奏し度いものですという事を観世喜之氏がいったことがあります。」と一人の人がいった。
 私は面白いと思ってその話を記憶している。現に丸ビルのルーフなどは広大な場所がむなしくいている。そこに能舞台を作って、俳句会と同様の時間位で能楽を催すという事は、事務所のひけ後、夕飯までの時間を利用する一つの娯楽機関となるであろう。能楽はいても人に見せる必要がある。一般にその面白味をわからせてやるようにすることは一種の善根功徳である。
 今こんなことをいうと一つの空想談のように聞こえるが、必ずしも空想談ではあるまいと思う。
 現にホトトギス発行所がこの丸ビルの一室に陣取るという事は、あまり突飛なこととして、初めは人人の嗤笑ししょうを受けた。併し今は、私の和服がこの建物と不調和と感じない如く少しも不調和ではなくなった。この丸ビルの一隅にホトトギス発行所のあるという事が当然過ぎる程当然な事のように思えて来た。ここで俳句会の開かれるという事もまた当然過ぎる程当然なことのように思えて来た。
 震災で宝生ほうしょう舞台の焼けたということは、報知講堂で宝生流素謡会を開かしめるようになった。今は誰もそれを怪しまぬではないか。
 それのみならず、この丸の内の各ビルデングではそれぞれ娯楽機関が設けられて、囲碁、将棋、謡曲、和歌、俳句等、各好むところの集団を作って、各々日に何回というように会合している。
 永楽ビルデングの最上層は日本間が設けられて、そこに囲碁の音が響き、謡のけいこの声が漏れる。銀行集会所の最上層もその通りである。今建ちつつある電気倶楽部には更に完全した設備の日本間が設けられるという事である。それ等の日本間が鉄骨の建物の中の一部分に存在しているという事は少しもおかしくない。遠からずこの三菱村のどの建物にも必ず存在する事になるかも知れぬ。今はエレベーターで最上層に上ると突として日本間があることが不思議なことのように思えるが、それも暫くの間である。時の流れは不思議なものをも不思議で無くしてしまう。丸ビルのルーフに能舞台が出来たところでやがては少しも突飛なことでなくなる。

帝劇


 日日にちにち、報知の二大新聞が街を隔てて相聳あいそびえている。それに近く東京朝日も時事も宏壮な家屋を新築した。大きな新聞社は皆丸の内に集まって来る勢いが見える。
 夜遅く帝劇を出て有楽町駅まで歩くと、おびやかさるるのは日日や報知の自動車が翌日の新聞を満載して社の中から出て来る事である。各階のどの窓にも電灯が明るくともってその中には人の活動している様が想像される。それをうかうか眺めながら通っていると、警笛を鳴らして忽ち自動車が家の中から現れて来る。それが往来に来たと思うとまっしぐらに走り去る。その自動車に驚いて飛びのくと、今度は人を乗せた自動車が一方からやみを突いて来る。そのやみの中に立っている私は魂をひやしてまた片方に飛びのく。その後ろからも後ろからも自動車が来る。いずれも全速力で来る。夜ふけたこの辺は昼間の雑踏の時よりもなか/\に肝を冷やす事が多い。
 その路傍の暗い所に薄暗い灯をともした支那そばの店がある。其店は荷車の上にこしらえられたもので、のれんが垂れ下っている。中に二、三人首を突っ込んでいる。暖かそうな湯気の中にその横顔が見える。
 有楽町駅の這入はいぐちにも小さい店のおでんやがある。そこにも又二、三人の人が暖かそうにおでんを食べている。
 有楽町駅に上って眺めると、帝劇の屋根の上には電灯が沢山にともっていて、そこが歓楽の境であることを思わしめる。震災後屋根の上の翁の像が除かれて、特に帝劇という異色を認むるものがなくなったが、夜になると、この電灯が沢山ともっているという事だけでも、せめてそこが劇場であることを思わしめるに足る。
 今まで見て居った芝居の事を思うて見るが、何も頭に残って居らぬ。ただ眼が疲労を感じて痛むばかりである。
 今から一五、六年前に帝劇が工事を起して、鉄をたたく鎚の音が盛んに響いている時分、私は或人に案内せられてその中にはいって見た。あぶない足場を渡りながら、およそこれが舞台、これが楽屋という説明を聞いた。そうしてそこを出てすぐ隣の女優養成所にも案内せられた。そこで女優の舞踊や芝居のおさらえを見た。森律子、村田嘉久子、初瀬浪子、河村菊江、鈴木徳子などという名を覚えた。それらの人々は何れもまだ二十歳ばかりの娘盛りであった。
 それから森律子は同郷の森肇氏の令嬢というので、二、三度逢った。それに鈴木徳子には私の友人が知り合いであったので二、三度引き逢わされた。
 帝劇の工事が竣成して花々しく開場した時には私も賓客の一人として招待された。赤いじゅうたんをしき詰めた階段の上を皆が恐る恐る踏んだ。中に物なれた素振りで平気で闊歩するらしく見える人もひそかに靴のよごれを気にした。
「頼朝」と題する新作物(それはたしかには覚えぬ。或は間違っているかも知れん。)は余り面白くもなかったが、それでも美しい建築と、大がかりの舞台装置とは人目をひいた。
 爾来じらい毎月案内を受けて、殆ど毎回のように私はこの帝劇を見物している。そうして梅幸や宗十郎などが漸く老いて、その梅幸の子の栄三郎や宗十郎の子の高助や田之助が一人前の役者になっているのを見た。鈴木徳子はいつの間にやら舞台から消えて沢村宗之助の女房になっていることも知った。そうしてその宗之助や栄三郎が早く鬼籍に入った事も知った。その宗之助と徳子の間に出来た新しい宗之助の子方もはや屡々しばしば見た。
 外の芝居は余り見ないが、ただ帝劇だけはよく見る。そうして毎回見ている時には、多少の興味を覚えるが、一旦そこを出て表に立つと、今何を見ておったのかさえもう覚えておらぬ。ただ眼が疲労して痛みを感ずるばかりである。そうして自動車に脅かされながら、漸く有楽町駅にたどりつくのである。

翁の像


 京阪地方から上京する旅客は、横浜を過ぎて大森あたりから、漸く帝都に近くなったという感じがするであろう。しかしながらわい小な家屋が乱雑に建っておるのを見ては、これが帝都かという浅ましい感じもまたしないことはなかろう。殊に芝浦あたりからのバラック建や、その間に残っている廃墟のような煉瓦の堆積を見ては、震災のあとのいつまでくの如きかを嘆かわしく思うであろう。
 それが漸く新橋を過ぎて、わが丸の内にはいるとはじめて面目が改まって、やや帝都の帝都らしい感じがして来るであろう。
 比較的宏壮な建築物が整然としてある。今までに見て来たようなわい小なものとは選を異にしている。それ/″\の建物の屋根は大空にそびえ立っている。
 高架鉄道になった今日から見ると、是等の建築の屋根が一番問題になる。それ等の旅人はもとより、日々通勤する人(遠くは逗子、鎌倉より、近くは大森、品川より)の眼を知らずらずの間に楽しませるものは、これ等の屋根の形状である。千篇一律のものでは飽く。俗悪怪奇なものはいとわしい。丸ビルの如き切り取ったような四角のものもあってよかろうが、又参差しんしとして塔の林立せるが如きものもほしい。それにしても、帝国ホテルの屋根は矢張り好もしい。屋根の中央に突立った棒の尖にあるものは、何にかたどったものか知らぬがただ面白い。私の眼には意味が無く面白い。又度々引合いに出すが帝劇の屋根は翁の像のあった時代がよい。何故に震災後あれを撤去したのであろう。震火災に破損したためであろうが、何故に復旧して建てないのであろう。西洋建物にああいったものは不調和だという議論があっての事か。それなら第一あの舞台で在来の歌舞伎劇をやるのがおかしいという事になる。あの舞台に花道がとりつけてあるのがおかしいという事になる。第一在来の役者が演戯するのがおかしいという事になる。内部に平気でそれ等のものを採用して置いて、外部に翁の像だけがおかしいというのはすこぶる不合理なことである。建築の上にもどし/\かかる大胆な試みを敢てして、単調を破るべきである。折角丸の内に建ち並んでいる屋根のうちで異彩を放っていたものを、一朝にして取り除いたことは誠に残念な事である。
 上野から電車で来るにしても、西も東も見る限りバラック建の中を通って来て、突として丸の内に入ると、はじめて宏壮な建物を迎えて、何となく愉快な感じがするであろう。(宏壮な建物が櫛比しっぴしてあるといい度いが、場所によるとそれ程にはいかぬ。上野からはいって来た方面はむしろ歯が抜けたように立っているという方が適切である。)
 プラットホームに立って、顧みて日本橋、京橋方面を見ると、そこにも三越や、三井銀行や、日本銀行や、千代田ビルデングや、第一相互保険ビルデングやが、バラックの中に棒杭のように突っ立ているのが見える。遠からずそれ等の高層建築は垣の如く建ち並んで、わが東京もやがては欧米の都市を見るようになるであろう。丸の内に少しばかり建ち並んでいる建築を珍しそうにいうのも、今暫くの間であろう。
 今遠く永田町に建っている議事堂の鉄骨を眺めると、何となく心強いような感じがする。
 現在の東京はまだ震災のあとがまざ/\と残っていて、それ等の建築も上京して来た旅人の心を楽しまするには足らぬであろう。けれども汽車が東京駅に近づくに従って、その汽車に或はおくれ或は先立ち、併行して突進んでいる幾多の電車が、ことごとく溢れるような人を満載していて、それ等の人は、東京駅に著くと、一時に川を決したように流れ出る容子ようすを見ては、たのもしい心を起さずには置くまい。それ等の人の個々の力はやがて新東京を建設するのである。

三十年前


 明治の三十五年頃、私は神田の猿楽町に住まっていて、屡々しばしば用事があって麹町の内幸町に行った。竹橋を渡って和田倉門をはいり、二重橋前を桜田門に出で、それから司法省の前を通って行くのであるが、ゆる/\歩いていると一時間では行けなかった。人力車に乗っても足の弱い老車夫だと相当に時間を費した。
 その頃日比谷はまだ公園にならず、草の生えた空地であった。練兵はもうやらなかったが、練兵場の面影がまだそのままに残っていた。和田倉門外も大概空地で、僅かに明治生命と商業会議所と今の一号館と二号館があるばかりであった。三菱ヶ原の四軒長屋ととなえた頃であとは狐狸の住んでいそうな原であった。中には大名屋敷であった時分の築山が、頽廃たいはいしたままで残っていたりした。有名なお艶殺しのあったのもその時分であった。
 その頃は品川から浅草迄通っている鉄道馬車があるばかりであった。急ぐ時でも人力車より早いものは無かった。その人力車も梶棒に両手を合わせて、よっちら/\曳く老車夫が多かった。又乗る客も今の様には急がしくなかった、私が内幸町に通う時でも、そこで用事をすませて帰って来れば、それで一日の用事は済んだ。
 或時一人の老車夫のくるまに乗って、道々その身の上話を聞きながら行ったことを記憶している。ゆっくり/\車をひいて、身の上話でもする老車夫は、今は春の日永のいなか道に見出す位のものであろう。いなか道でも自動車のいつ驀進ばくしんして来るかわからぬところではなか/\油断がならぬ。濠端ほりばたの柳の下を急がず騒がずひいて行く老車夫の車が、ただ一台あるばかりの光景を想像して見ると、如何にのん気な悠長な画図であったかよ。
 その時分の丸の内はただ暗く静かに、又さびしく物騒な天地であった。夜分などはこの明治生命の前を通ると、向うは真暗な原っぱで、ただ大空に星が輝いているばかりであった。今の東京駅のあたりも闇の続きで、その向うに僅かに京橋辺の灯が見えた。
 やがてぼつぼつと家が建って、その四軒長屋の間々が建てふさがるようになって、俗にこれを「一丁ロンドン」と呼ぶようになった。仲通り一帯が建ち並んだのは四十四、五年の頃であるとか。
 仲通り一帯の多くの建物にははいり口が沢山ついていて、そして或会社なり事務所なりは、天辺てっぺんの部屋までその会社や事務所で占領して、ほかとは全然区別していなければ通用しなかった。これは大冠木門おおかぶきもんを有し高い土壁をめぐらした昔の士族の習慣が抜けなかったためであろう。それが大正三年に二十一号館が出来るようになって、はじめてアパートメント式になり、つづいて大正六年に海上ビルデングが出来て更に発達した。
 大正十二年、丸の内ビルデング即ち丸ビルが出来て、この丸の内の空気に一大変革をもたらした。
 丸ビルの食堂、売店には沢山の女給、女事務員がおる。それ等には美人が多いとの事であるが私は詳しくは知らぬ。ただ夏になると、六階、七階、八階の洗面所が中庭を隔てて私の部屋から見える。その洗面所には鏡がつらなってかかっている。その鏡の前にはそれ等の女群の一隊が列をなしている。そうして厚ぼったく塗った白粉おしろいの上に更に白粉を塗っている。周囲には頓著とんちゃくなく魂は鏡の中に打ち込んで、いつまでも/\塗っている。中には肌をぬいで襟首を塗り立てているものもある。中庭を隔てて遙かに眺めるわれ等の眼にはいずれもただ白く美しい人である。成程美人が多いわいと合点がってんする。
 熱湯がほしければ湯沸場に取りに行く。お化粧がしたければ洗面所に行く。すべてが公開で何の障壁もない。
 夜になると、各階の窓には明るく火がともる。これは丸ビルばかりではない。郵船、海上その他のビルデングもその通りである。三十年前ただ真暗な原っぱであった所が今は灯火の海である。


 雨風の烈しい時は、東京駅から丸ビルに行くまでが大変である。大きな建物がある間を風は吹く。殊に東京駅にぶっつかった風は渦巻きを起こして、どちらの方向から吹くのか、見極めがつかなくなる。されば、雨風の烈しかった後では、途上に雨傘の破れたのが打っちゃってあるのを見る事が屡々しばしばである。わずか東京駅から丸ビルまでの途上に、四つも五つも打っちゃられた雨傘があるのを見た事がある。
 雨の日にはカラコロ/\と石段を駆け上り駆け下りるわが高下駄党の多いことは格別である。なくなった高橋駅長が、『あのカラコロカラコロには困る。』とかいったという話を聞いたことがあるが、困ったところで泥濘ぬかるみが往来に存在している間は仕方がない。和服が全廃されない限りは仕方が無い。私は少々な雨なら雪駄せったで辛抱するが、大降になって来ると、止むを得ずカラコロ/\党になる。実際高下駄で石の階段を上り下りするのはあぶない。それにアスファルトの上などではすべって剣呑けんのんだ。それに第一ビルデングに上る時分などには一々上草履にはきかえねばならぬので不便だ。矢張り靴が便宜だ。一つ和服に長靴をはく事にしようかと思っているがまだ決行せずにいる。
 雪駄もだん/\改良される。丸ビルの一階の阿波屋で売っておるものなどの中には、だん/\小雨などにははいても差支さしつかえないものが出来て来るであろう。ビルデング通いの者の実際の必要から迫られて工夫して行くであろう。
 必要! その事が種々の工夫ともなり発明ともなり、又ついに新しい調和ともなって現れて来るのである。
 丸の内一帯の新文明?はかくの如くして※(「酉+慍のつくり」、第3水準1-92-88)うんじょうされて来るのである。和服に長靴を穿いているうちには新工夫が出来るかも知れぬ。
 丸ビルにはいって敷煉瓦しきれんがの上をすべらないように一分きざみに歩いて、漸く下足預かり所に行って上草履にかえる。そうして七階の一室におさまっていると、暴風雨の様子は更にわからない。時々雨がざあ/\と窓のガラスに降りかかることがある位で、風などはどこを吹いているか一向にわからない。
 室内には仕事に余念がないところへ、人がはいって来る。そうして表は大変な暴風雨だという。成程最前コウモリ傘をへし曲げられそうになったのを僅かにこらえて来た時のことを思う。向うを見ることも出来ず傘をつぼめて横しぶきの雨をよけていると、電車が来る、自動車が来る。漸く命がけでこの丸ビルに辿たどいた時のことを思う。
『相変らず吹いているか。』
『滅茶苦茶に吹いている。』
『そんなにぬれたのは傘をささなかったのか。』
『傘なんかさせるものか。』
 そういった友達も暫くして、この室内の空気にならされて、風雨の事は忘れ去ったものの如く談笑に余念がない。そこへまた別の友達がはいって来る。その友達もまた風雨になやまされたらしい。また一時暴風雨の事が話題になる。
 併しその友達もすぐ風雨の事は忘れたようになってまた談笑に余念が無い。
『まだ降っているだろうか。』
『さあ。』
『もう風は止んだのだろう。』
『そうさなあ。』
 暫くしてからそんな事を話しているうちに忽ちピカッと光ったと同時に鳴りはためく音が聞こえた。それは光ると同時に聞こえたのであるから余程近くであろうと想像したが、併しその音はあつぼったいものを隔てて聞くようであった。この鉄骨のビルデングでは雨風の音が聞こえぬばかりか雷霆らいていの響きさえそれ程に響かない。併し雨風が止んでいるどころか一層猛威をたくましくしていることは漸くこの雷霆のはためきで想像された。


 丸ビルにいると、自然現象にはうとうとしくなる。雨が降り雪が降ること位は、窓ガラスを透しても知れぬことはない。併しそれとても十分にわからぬ時がある。(私の室から中庭ばかりを眺むるようになっているのである。)雨は降っていないと心得て表に出ると、ポチポチと落ちている事がある。
 その他雷霆のひらめく時位は漸くわかる。
 夕焼けの雲が赤くなっているのは、九階(精養軒のある所)の屋根の上の僅かの空でそれと知る。
 従って詩的材料には余りぶっつからない。
 鳥さえ余り眼に入らない。
 時には飛行機が飛ぶ。その爆音が聞こえるので窓に首を出して見ると、大空近く飛行機の飛んでいるのが見える。
 時には飛行船も来ることがある。魚とも鳥ともつかぬようなものが、すぐ丸ビルの屋根の上近くを過ぎていることがある。
 のみもおらぬ、蚊もおらぬ。併したまには蠅が一匹いることがある。七階の上層に蚊は飛んで来ないが、蠅は下界から飛んで来たのであろうか。地下室の食堂の野菜の洗場がここから見える。何だかきたなそうな模様であるが、あの辺から蠅が天上して来るのか。それとも人の背にとまってここまで来たものか。もっともそれも長くはいない。一日二日居ってもう居なくなる。
 鼠がいたのに驚かされた。それは私の部屋では無い。八階に用事があって七階の階段を上っていると、瓦斯ガスの鉄管の後ろの方に、隠れ顔に大きな鼠がいた。すべて白く塗ってある鉄の壁の中にどうして隠れ場所が見つかろう。かれはまご/\してその鉄管のかたわらを上ったり下ったりして、途方に暮れている容子ようすであった。私は珍しくて暫く眺めていたが、鼠も長い尾を上げたり下げたりして、私の方を眺めているばかりで、果てしが無いのでそのまま八階に上って行った。
 一階の森永の男が三、四人表に出て、しきりに大地をぶっているので何事かと見たら、鼠とりにはいっている鼠をそれから出して逃げる所をものでぶつのであった。よく見ると別々の鼠とりに五、六匹の鼠がはいっていた。
 鼠や蠅は別に詩的材料というのではない。併し蠅は俳句の季題ではある。
 ただ或時私は見るともなく窓外に目をやると、珍しくも一匹の黄蝶がひら/\と中庭を飛んでいるのが目に入った。これは珍しいと窓の所に近よって見ると、蝶はひら/\とその小さな羽を動かして、地下室のところまで降りるのであるが、何所にも出場が無いのを見ると、またひら/\と上の方に上って来る。そうして七、八階の辺の高さまで上るのであるが、もうそれより上に上ることはよして、又ひら/\と舞い下りて来る。或時は向う側の窓近く飛んでいるし或時はこちら側の窓近く飛んでいる。
 私は暫くその蝶を見ておったが、ふと中窓をめぐる各の窓に目を移すと、あちらの窓にもまたこちらの窓にもこの蝶を見ている人の顔があった。
 蝶は舞台にある舞姫のように、ただひとりこの庭を独占して上下している。そのじつ通路を見出そうとしてあせっているのであろうが、われ等の眼には少しもあせっている容子は見えず、翩翻へんぽんとして広い中庭に乱舞しているように見える。城壁のような無骨な壁と銃眼のような窓の並んでいるその単調な眺めの中に、計らずも黄蝶の舞を見出でたという事は、はからざる喜びであった。
 私は窓を離れて再び用事に携った。そうして手を離して目をやると、蝶はなお飛んでいた。暫くしてまた目をやると、なお蝶は飛んでいた。
 その日用事を果たして帰るべく窓際に立つと、もう蝶はいない。そこにはただ殺風景な事務員の影がどの窓にもあるばかりであった。

日曜日


 雪の降っている日である。丸ビルの七階の事務所の窓によって中庭を見ていると、真白に積っている何のきずもない雪の上に、何か落ちて来て忽ち大きく黒いあとを印した。何事であろうと上を仰いで見ると、九階の精養軒の一つの窓に、白い洋服を著て髪を美しくわけたボーイと赤い帯を締めて白粉を塗っている女給とが笑いながら下を見ているのが眼にとまった。そうしてそのボーイの手にかためられている雪のかたまりがあるのが目に入った。やがて又ボーイの手で雪が投げられる。忽ち中庭の雪は黒くあとをつける。
 中庭といっても、そこは売店の屋根になっているところで、丁度丸菱の屋根に当る。
 その雪のかたまりは下の雪を破って、黒く売店の屋根が現れ出るのである。
 ボーイと女給は面白そうに笑っているのである。
 そのボーイは、丁度窓の敷居の前に積っておる雪を、手のひらに丸めてはそれを放るのである。
 きょうは日曜である。しかも雪が降っている。時計はさっき十二時を打ったが、精養軒には余り客が無く、ボーイも女給も手持無沙汰なのであろう。そんな事をして遊んでいるものと見える。
 そういうわが事務所も休みである。或用事があって私一人出て来ているのである。どの部屋の窓のカーテンも皆下りてひっそりかんとしている。たま/\わが隣室にはタイプライターを打つ音が響いている。この隣室にもタイピスト一人出て来ているものかも知れぬ。
 日曜の丸ビルは淋しい。エレベーターも半数は休んでいる。その動いている半数のエレベーターにも乗る人は少ない。
 売店にも客は少ない。
 食堂も同様である。かしこに一人、ここに一人という風に陣取っているだけだ。それも多くはそとから来た客だ。元来ここの食堂の客はこの丸ビルに通勤している事務員が多い。それに又近所の会社の勤め人が多い。日曜日はそれ等の客がげっそり減るので淋しい。
 九階の精養軒でボーイや女給が雪を投げてひまをつぶしているのも道理ある事である。
 丸ビルが淋しいばかりでなく、東京駅も淋しい。遠隔の地方から来る客、又遠隔の地方に旅する客には変りは無かろうが、近郊から来る通勤客は皆無だ。
 もっとも晴天の日であると、又別種の客がある。女子供が多い。日日通勤している人も、今日ばかりは和服にかえて、打ちくつろいだ姿をして、細君や子供を携えて東京へ遊びに出かけるのである。それ等が丸ビルの売店をひやかしたり、そこの食堂で昼飯を食ったりするのも稀にある。然し大概は銀座や三越や又浅草あたりに行くのであろう。
 勤人が細君から命ぜられた買物をして帰るのは丸ビルが最も便利である。そうでなくても大概退け時には一度丸ビルを通過して東京駅に来るのである。丸ビルの下の十字街が雑踏するのは、正午の食事時とこの退け時である。
 それ等の人は日曜日には無い。銀ブラの盛んな時間になると、丸ビルはひっそりとする。勤め人の帰り去った五時頃には売店は大概店をしまうのである。食堂も七時か八時頃には大概戸を閉じる。
 丸ビルばかりではない、丸の内一帯がひっそりする。
 日曜で殊に雪の日の暮方は淋しい。東京駅にはただ遠方に行く旅客が集まり来るばかりである。自動車の中から寒そうに現れる家族連れがある。外套の襟を立てて重い鞄をさげた客が市電から降りる。それ等が泥濘を踏んで東京駅頭に立つ。
 少ない客を載せた円太郎は、雪汗を飛ばせながら景気よく駆けて来る。それが五、六台もたまって黒く雪の中にいるのが目立って見える。

中央郵便局


 よく新聞を見ていると、郵便集配人が雪にこごえて山の中に死んでおったという話などがある。『あわれな郵便集配人よ。』とそれ等を読む度にまぶたが熱くなるのを覚える。その集配人だとて人である。雪の深い山路などは行き度くないにきまっている。出来る事ならなまけて、終日火燵こたつくすぶっていたいであろう。時には暖炉だんろのかたわらにばかりかじりついている上官を呪うこともあろう。決してその死んだ集配人を立派な人とも考えない。職務に忠実な人とも考えない。(職務に忠実で無い人とも無論考えないが)ただその集配人をそんな羽目にまで置く郵便の組織を感心する。集配人を殺す組織を感心するというと変に聞こえるが、それ程までにして郵便物を集配する組織立った郵便事務に敬服する。
 私は郵便物を自分で東京中央郵便局に持って行く事が屡々しばしばある。中央郵便局はすぐ東京駅前にある。
 この中央郵便局というのは、震災前までも木造の粗末な建物であった。震災後は殊に一夜造りのバラック建である。
 表の戸からして粗末である。狭い入口が二つあって、その一つは開けっ放しになっている。沢山の人の出はいりに便宜なようにハンドルが細引か何かでしばりつけてあって一枚の戸が開いている。風がビュー/\吹き込んで寒いだろうが、局員はそんなことには頓著とんちゃくしないのである。
 郵便切手を売る口、書留、速達便を受取る口、普通郵便を受取る口などに分れているが、すべて敏活に無造作に取扱われる。
 書留、速達便の前には人の山を築いていることもある。私は速達便など持っていく時は、その山の後ろからポンと机の上にほうりなげて、
「たのみます。」というと、局員は他の書留便などを処理している間でも、ちょっとそれを見てうなずいてくれる。そうして、他の書留便に移る寸隙を見て、切手の上に日付のスタンプをして前の籠にポンと抛り込む。すべて敏活で無造作である。それがたのみ手の誰であるかという事にもとより頓著はない。小僧、給仕、車夫、勤め人、女給、禿頭、様々な人が群集して来ているが、総てに対してそうである。かの多くの三等局などで、速達便を持って行くと、前に誰かが出したただ一本の書留郵便を処理するのに悠々と時間を費し、漸くその書留郵便を終ると、はじめて速達便に移って、わかっている目方のものを鄭重にはかりにかけて見てやっと受取るようなのとは大変な相違である。
 余り無造作なので、あれで無事に配達してくれるかと思う事もあるが、三、四時間ののちにたしかに先方で受取ったという電話がかかる。
 普通郵便物にしたところでポストに抛り込むように出来てはいるが、そこに一人いる局員に手渡しても受取ってくれる。彼は受取るかたわら地方別にしている。
 雑誌などを車で引き込むと、すぐ向うの方で、それが処理されている様子である。
 郵便の赤自動車は絶えず裏口から出ている。
 万事が簡捷かんしょうで、少しも手数を要せぬ。それに局員が勤勉で無造作である。
 私はこのバラック建の中央郵便局が好きである。たま/\現在の局員が皆いい人なのかも知れぬが、そればかりでもあるまい。矢張り沢山の人が来るこの郵便局は自然うなくてはならないのであろう。それにバラック建という事が局員の気を軽くするところもあろう。
 中央郵便局はやがて立派な建築をするということである。そうすれば東京駅頭に又美しい建物が一つふえるであろう。立派な建築が出来たらこんな風に無造作には行かなくなるかも知れぬ。併しわが愛する中央郵便局はどこまでもかく無造作にありたい。無造作にあるように窓口の建築をする事だ。
 山中で凍死する集配人にも敬意を表するが、この中央郵便局員にも敬意を表する。

惜別


 丸ビルのホトトギス発行所で社員が新しく出来て来た雑誌の発送をしていた。二、三人の俳人も来合せてその手伝いをしていた。そこへヒョコッと淋し気な顔を出した男がある。それは近々来るという事がわかっていたので、発行所のものや、その俳人達も暗に待っていたところのものであった。
 その男も矢張り俳句を作る男で新潟の片田舎のものであった。それが商売の方が面白く行かないためか、外に理由があってか、今度ブラジルに移住することになったのである。もう近々渡航するという話であった。
「どうしたんだろう。ちっとも近頃たよりがない。」と殊に親しいその俳人の一人はさっきもそのうわさをしていた。今取散らした室内に無造作にはいって来たのは正しくその男であった。
「やあ来たな。」とその俳人の一人はいった。
「大変やつれているではないか。」他の一人もいった。
「二、三日寝なかったせいですよ。」
 その男は淋しく笑った。
「いつ上京したのです。」
「昨日でした。すぐ横浜に行って又引返して来たのです。」
「いつ出帆するのです。」
「二十三日です。」
 今日から数えるとあと四日しかなかった。
 一座のものは皆真面目になってこの男の顔を見た。ブラジルといえばわれ等とは地球の反対の側にある。そこへ愈々いよいよ三、四日うちにたって行こうというこの男の悲壮なる決心に同情した。
 折柄午近くなっていた。雑誌の発送も一片づき片づいたところなので、一同で下の食堂へ飯を食いに行くことにした。
 廊下の向うの隅の所に一人の婦人と校服をた青年とがいた。
「あれが私の家内と弟です。」とその男はいった。
 その細君という人はかぼそい人であった。その弟という人は顔立ちがよくその男に似ていた。二人とも淋しそうに突っ立っていたがわれ等が促すままに一同の中に加わった。
 食卓をめぐるものは都合で十人であった。
 その男に親しい俳人はいった。
「百姓をするのでしょうね。」
「そうです。」とその男は答えた。
 それから千何百円とかで二十五町の地面を買ったという事を話した。
「そうすると立派な地主だね。」と俳人は笑った。
「そうです。」とその男も淋しく笑った。以前出京した時分はこれ程までには思わなかったが、今度は何となくその言動が淋しかった。
「君、百姓が出来るのですか。」と俳人はこの男の容子ようすを見ながら危ぶむようにいった。
「出来るだろうと思います。」とその男は空しく口を開いて笑った。
 私はそのかぼそい細君を見た。弟というのも岩畳がんじょうという程ではなかった。
「何日かかります。」
「五十六、七日かかるそうです。」
「それ位で行けるのですか。」
「喜望峰を廻って行くとその位だそうです。」
「喜望峰!」と一同は皆又男の顔を見た。
「併し五十六、七日で行けるとすると遠いようでも近いものだな。もう少し飛行機が発達すると或は二、三日で行けるようになるかも知れぬ。ちょっと東京見物に帰って来るという事も出来るようになるかもしれぬ。」
「そうです。」とその男も微笑した。
 そんな話をしているうちに食堂は人で一杯になった。その食堂の一テーブルはこんな惜別のまどいが比較的長く占領していた。

其所そこらあたりを


 或日の午後二時半頃から一時間ばかりのひまを得て、丸ビルを出てそこらあたりを歩いて見た。先ず東京駅降車口前に行く。ここに朝のうちは沢山に列を作って客待をしている自動車――ちょっと見ると百台近くもあろうかと思われる――も、今は三分の一位に減っている。
 そこに一つの銅像が立っている。正二位勲一等井上勝君像とある。この人はわが国鉄道の初めの長官で創始時代の功労者と聞いている。その銅像の後は広い空地になっている。すでに数年前からここは鉄道省の敷地にきまっていると聞いているが、予算の関係でいつ建つかわからぬらしい。東京駅外が落寞らくばくとしているのもこれ等が重な原因である。
 それから永楽町の電車停留場の方へ行くと、左側のバラックには何とか活動写真株式会社とあって派手な絵看板が沢山掛けつらねてある。同じ棟の半分を占めている東京何々株式会社という前までその絵看板が連なっている。その前を自動車や電車が絶えず通るので、往来を通る人もせわしなくあぶなっかしく、余りそれ等に目をとめないが、よく見ると随分俗悪な派手な絵が掛け連ねてある。
 又その何々株式会社とある建物の一室に何とか理髪店というのが割拠かっきょしている。又「何とか食堂、グリルルーム」というのがある。
 それから反対の側の鉄道の下のガードには、その中に巣くうている店がある。之は浅草の仲見世の売店の下等のようなものである。洋品店、床屋、鮓店すしてん、天丼店、そば屋などが十四軒並んでいる。喫茶店と書籍店とが同居しているのもある。
 ここを通った時の感じは場末の盛り場といった感じである。東京の正門を出る二、三十歩でたちまち場末の盛り場があるという事は一寸ちょっと珍しい現象である。
 それから丸の内ホテルの前あたりで電車道を横切って、朝鮮銀行の横手をはいると、すべてこの辺は震火に逢って見るもいたましいバラック建である。たまに大きな煉瓦建があると見ると、煉瓦の間にはさまれた石が火に焼けて無残に欠け落ちたままになっている。それ等の建物にも人が住んで仕事をしている。
 バラック建の逓信省ていしんしょうや農林省や中央会議所や印刷局やの前を通って又電車道に出ると同じくバラック建の大蔵省や内務省がある。総てこれ等のバラック建の諸官省は広野の中の馬小屋のようだ。ただヒン/\という鳴き声を聞かぬのと馬糞が無いだけだ。
 併しこの諸官省は総て桜田門外に移転される事に内定していると聞いた。諸官省が、今の司法省と電車道を隔てて一所にかたまって立派な建築をするとなれば壮観であろう。
 併しそのあとが問題だ。その馬小屋を取りのぞけばあとはそのまま広野である。丸の内は昔からお城とお濠と広野――草原――がある事に相場がきまっていた。矢張り広野のままにして置くのもよかろう。
 が、又九階八階のアメリカ式のビルデングが立ちふさがりつつある三菱村の勢力が、ここまで延びて来てこの界隈かいわい一帯に大ビルデング街となるかも知れぬ。
 東京駅を正門として、丸ビル等を玄関として、それから左翼に延びつつあるビルデング街、また右翼にもだんだん建ち連なろうとする大建築、それ等から推しはかって見るとこの一帯も長く広野としての存在は許さないであろう。
 今の丸の内は大きなビルデングが目覚しく突っ立っている。また現に突立ちつつある。八重洲ビルデングだとか昭和館とかがその一例である。けれどもそれ等の外は空地がまだ相当にある。またバラック建の粗末な建物がある。ガードの下に巣くうている小店もある。今の丸の内の文明は先ず新開町の田圃の中に建物がぼつ/\建ちはじめた位の程度である。これを立派な町に仕上げて、新丸の内街を作り上げるのにはなお相当の歳月を要するであろう。
 一時間ばかり自動車におびやかされながら私はトボ/\歩いてまた丸ビルに帰った。

薄紅梅


 十一時半になると丸ビルの地階、一階、九階の食堂が皆開く。一階の西北隅の竹葉の食堂にはいる。まだ誰も客のいないテーブルの一つに陣取る。
 ここの壁や柱には万葉の歌が沢山に書いてある。見るともなしにそれを見る。
誰か園の梅の花ぞも久方の清き月夜にこゝだ散り来る
ほとゝぎす来啼きどよもす橘の花散る庭を見む人や誰
天の川霧たちわたり彦星のかぢの音聞ゆ夜の更け行けば
今朝啼きて行きし雁金寒みかもこの野のあさぢ色づきにける
あが宿の秋萩のへに置く露のいちじろしくもあれこひめやも
 率直なる感情を高朗なる調子でうたう万葉の詩人をなつかしく思う。柱の下の瓶には薄紅梅が生けてある。その薄紅梅の花を見ると平安朝の大宮人を連想する。
 海上ビルデングの建物が行幸道路を隔ててそびえている。すぐ近くには郵船ビルデングの大きな建物がのぞいている。
 先刻見た古い地図の事が思い出される。それは寛永、元禄、天保、文化、嘉永等数枚の丸の内の地図であった。
 その地図を見ると、古くからこの丸の内は大名屋敷がかず多く並んでいたものと見える。その屋敷も時代時代によって人が変っておるが、ただ変らぬのは鍛冶橋内、即ち今の東京市庁のあるあたりが土佐と阿波の藩邸であったことと今の鉄道省の敷地のあたりが細川越中守の邸であったことである。その他大藩の邸もあるにはあったが大概皆移動している。
 わが丸ビルの所は寛永年間に松平新太郎の屋敷に当り、元禄年間は松平内蔵の屋敷と戸田兵部の屋敷に当り、文化年間は溝口駒之介の屋敷に当り、嘉永年間は織田兵部の邸に当っていたようである。
      *     *     *
 六十銭のうなどんの食券を女中に渡す。
      *     *     *
 その一つの大名屋敷の大いさは今の丸ビルよりはなお大きかったらしい。そうすると土塀か何かをめぐらしたその大邸宅が並んでいたこの丸の内は夜にでもなったら定めて淋しい事であったろう。
 その一つの邸のうちには勤番長屋もあったろう。勤番には妻子を連れたものもあろう。又中間若党のたぐいも相応にいたろう。茶坊主、小姓乃至ないし奥女中の類も沢山にいたろう。又家老その他の諸役人もいたろう。そうして大名は芝居でするように、厚座蒲団の上に座ってかたわらに脇息きょうそくを置いて澄ましていたろう。併しそれ等の人間は皆今の世の人のように、欲望、葛藤、術策、迷い、あきらめ等の渦の中にあったろう。今の世の姿そのままをそこに描き出したような世の中に住まっていたろう。人々の嫉妬、排他、小智、頑冥等は今目のあたり見るところと何の差異も無かったろう。そんな世界がくりかえし巻きかえし展開せられ閉じられ、展開せられ閉じられして今日に及んで来たものであろう。
 それから又そのいつの時代を切り離して見ても、その時代の人はその時代の文明を一番立派なものとして賛美していたろう。たとえば今博物館内の表慶館に並べてあるような贅沢ぜいたくの限りを尽した手文庫とか茶器とかいうものを座右に備えて、これ等の文明を誇りがに眺めつつあったものであろう。
 古き時代の人が持つ誇りは近代人が持つ誇りであり又後代の人が持つ誇りであらねばならぬ。
 生滅々為して地上に栖息せいそくしている人の記録は昔と今と余り変りが無いともいえる。今行幸道路を隔てて見ゆる海上ビルデングのあたりには松平[#「松平」は底本では「松本」]豊前ぶぜんが住まっていた。(嘉永年間)今海上ビルデングのあらゆる部屋にある文明と松平豊前の奥殿に籠っていた文明とを比べたらばどちらに軍配が上るかわからない。
 鰻丼うなどんが出来て来た。
      *     *     *
 薄紅梅が一輪散った。





底本:「大東京繁昌記」毎日新聞社
   1999(平成11)年5月15日
初出:「東京日日新聞」
   1927(昭和2)年3月15日〜31日
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年12月4日作成
2013年8月2日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について


●図書カード