清水幾太郎さんへの手紙

三好十郎




      1

 清水幾太郎しみずいくたろう
 だしぬけに手紙などさしあげて失礼ですが、あなたに何か質問してみよとの雑誌「群像ぐんぞう」からの注文です。そうすれば、たぶんあなたが答えてくださるだろうというのですが、私にはわざわざあなたにご返事をわずらわせるような質問を出すだけの学問の素養もありませんので、再三辞退したのですが、どんなことでもよいから書いてみろとのことで、しかたなく、ごく短く書いてみます。
 私はこれまであなたの著書を二三冊読んだことがあります。それから今はもうなくなった雑誌「日本評論」に書かれた論文をいくつか読んだようにおぼえています。最近では、あなたがほとんど毎月執筆なさっている「婦人公論」や「世界」を読んできました。それらのものの中で、いまでも私の手もとにそろえうるものだけを先月から読みかえしてみました。
 すると、それらの中で、あなたの書いていられることは私にかなりよくわかるような気がし、個々の問題についてのご意見にも格別の異論は私にございませんでした。ことがらによってはあなたのご意見に大賛成なばあいもありました。そういうばあいのあなたは、私などがボンヤリとふんぎりわるく考えていることを、キッパリと勇敢に表現なさっているので、私は自分の目を開いてもらっているような気がしました。しかしそれだけにまた、あなたにたいして質問してみたいという興味も、じつはかなり薄れたわけでありました。
 だが、こんどあらためてあなたの評論のいくつかを読んでわかったことは、あなたがたいへん親切なそして忍耐づよい啓蒙者であるということでした。そして、いまの日本ほど啓蒙運動の必要な時も所もないと、かねて私は思っていますので、あなたのお骨折りにお礼を言いたいと思いました。同時に、それだけに、あなたの論文を読んでだいたいよくわかり賛成なことが多いにもかかわらず、それでもまだ私のなかに生まれてきた疑問や、または直接あなたの論文を読んだ結果ではなくとも、あなたがあつかっていられる諸問題について、私の抱いている疑義の二三を持ちだしてみれば、あるいはご教示をえられるかもしれないし、それが他の人びとのためにも多少はなるかもしれないと思いました。そのためにこれを書きます。
 まず、ごく小さいことをおたずねします。これはしばらくまえにある新聞にも書きましたが、昨年翻訳出版されたアメリカの評論家ストーン著「秘史朝鮮戦争」についてであります。
 その本の表紙の帯紙に、あなたは「朝鮮戦乱勃発のその日から、私は(何かかくされている)という疑惑に悩まされつづけてきた。だが私の疑惑は正しかった。(中略)この本を読んで目がさめないものを白痴というのであろう」と書いていられます。そのことなのです。たかが帯紙に印刷されたスイセン文をトッコにして、あげ足を取ろうとしているようにとられては困ります。私にしましても「帯屋」だとか「チンドン屋」などという言葉があることは知っていまして、広告用の文章にたいしてそうムキになるのは非常識なことは承知しているのです。しかし、いくらそういう場所であっても、あなたが無責任なことを書かれるはずはないと私は思いました。
 それに、ご文章の調子も烈しく、決定的だったし、かりにもこれを「チンドン屋の文句」に似たようなものとしてかるく見すごすことができませんでした。つまり、かねて評論家としてのあなたのご発言を、私がかなりの程度まで信頼しているがゆえにしたことですから、あなたは許してくださらなくてはいけません。それに人間はだれでも、十分に準備し慎重に打ちだした大論文などよりも、割に不用意にヒョイともらした片言や小文章の中に、ホントの意見や姿を示すこともあることを知っているために、このようなものを割に重要視する習慣を私はもっているのです。
 事実、私は右のあなたの文章を読んでよろこびました。というのは、私は朝鮮戦争勃発以前から、朝鮮の姿に注目しつづけており、朝鮮人の友人もかなり持っているので、戦争勃発のときには、大きなショックを受け、それだけに、勃発のときの事情については、私なりの情報をあつめたりして、ある程度の認識をもっているという自信はありますが、しかし、これこれだと断言できるほどの知識はいまだにもてないでいます。そこへ、あなたほどの人が、こんなにハッキリ言っていられるのだから、この本を読めば、すべてが明らかになるにちがいないと思ったのです。
 念のため、あなたの右の帯紙のご文章を、私は「朝鮮戦争は最初、北鮮側が南鮮に侵入してきたために勃発したと、アメリカ当局も日本の商業新聞の報道も言った。しかし自分は、それは疑わしいと感じていた。事実はその逆、つまり南鮮側、またはアメリカ側から最初北鮮に侵入し、または挑発したのではないかと疑っていた。その自分の疑いが、まさにあたっていたことが、この本を読んでわかった。南鮮側、およびアメリカ側は、戦争挑発の点で悪を働いただけでなく、その事実をかくし、その罪を北鮮側になすりつけるデマ報道をしたという点で、二重にけしからん。そういうことが、この本を読んでもわからない者は、白痴というのであろう」というふうに読みとったことを言いそえておきます。
 それで勇んで読みました。はじめのうちは、なるほどと思いながら読みました。しかし、しだいに読みすすんでいくうちに、だんだん妙な気がしてきました。
 ストーンは、朝鮮戦争勃発はまったくアメリカの反ソ的指導者たち、およびその手先である南鮮政府の挑発、または陰謀によるものであったという印象を作りだすために、じつに骨を折っている。それを彼は、公表された公文書や[#「公文書や」は底本では「公文章や」]新聞報道などを集め、組みたて、対照して、その間の矛盾や撞着のなかから自然に一つの結論をうかびあがらせてくるという方法によってしている。そのかぎりでは冷静公平で科学的な態度のように見える。しかしよく読んでみると、彼はこれまでのアメリカ政府や国連がわの発表が全部的に根本的に虚偽ではないかとの疑い、または確信から出発して、演繹えんえき的に、それを証明するために公文書や新聞報道をえらびだしたり組みあわせたりしていることがわかる。しかも、そのような疑い、または確信を、彼がどこからどういう理由で抱きはじめたかについては、まったく触れていないのである。
 彼はまえもって、われわれに語りかける以前に何かの理由でアメリカ政府当局、または、南鮮政府の有罪の事実を知っているか、または強く疑っていたらしく思われる。その何かの理由というのは、ハッキリした具体的事実ではなくて(なぜなら、そのような具体的事実を彼が知っていたのならば、この本の性質上、それをこの本のなかに書かないほど彼は愚かでないだろうから)、彼の持っているイデオロギイからきた観念的な疑惑であり、そしてそれだけだったらしい。つまり、彼は左翼的政治思想をもっていて、そのため現在のアメリカ政府当局のすることは、たいがい反動的であり反ソ的であるとふだんから思いこんでいるため、朝鮮戦争が勃発するや、さてこそアメリカと南鮮が手を出したと思い、そういう強い疑惑から出発して、その後の公文書や新聞報道を集めて、突き合わして研究すると幾多の矛盾が発見されたので、疑惑は確信のようなものになったというのではなかろうか。すくなくとも、この本をいくら熱心に読んでも、それ以外の理由を私は発見することはできませんでした。
 ストーンが左翼的イデオロギイを持っていることは、けっこうなことです。すくなくとも非難さるべきことではありません。しかし、彼がこの本のなかで採用している方法は、まったく公平なものでなく科学的なものではありません。公平さとは、あらゆる先入観を排除したところから出発することだし、科学的とは、物事の判断を演繹的にではなく、帰納的にすることだからです。土中から発掘した人骨のなかから、とくに犬歯だとか尖った骨だけをえらびだして、人間とは肉食の野獣であると断定されてもそのような断定を、公平な科学的なものだと私どもは思うことができません。
 ストーンは、公文書や報道のなかから、とくにアメリカ当局や南鮮側を有罪の方へ指向するものの多くをえらびだしてならべている。八百屋の店さきから乞食が大根を一本ぬすんだという事件にしても、それを見た人、聞いた人の認識や報告は、それぞれにかなり食いちがうものです。朝鮮戦争のような、大がかりで複雑な事件に関する公文書や報道は、たがいに矛盾したり撞着したりすることがひじょうに多い。それはある程度まで仕方のないことであって、それだから公文書や報道全部が悪意によるフレーム・アップ――たくらみだと断定される理由にはならないと思います。
 もちろん私は、朝鮮戦争についての、アメリカ当局の発表が真実であるとの証明を持っていませんし真実であるとは思っていません。この本を読んでも、真実はその反対であるとも思いえませんでした。それは私が故意に意地悪をしようと思ったためではなく、ただ謙遜に真実を知りたいと思っただけのためです。そして、あなたに言わせると私は「目がさめなかった」のです。「そんな者は白痴というのであろう」と、あなたは言っていられます。じつに私は情ない気がしました。
 私はかなり愚かな人間です。それは十分知っていますが、人から白痴と言われたことは、あまりありません。ですから白痴であろうと言われて、正直のところ、かなり気を悪くしました。
 それに、清水という人は、どういうわけで、またどういう資格で、こんな思いきったことを書くのだろう、こういうものの言いかたの中には、この本に書いてあることをウノミにして、朝鮮戦争はアメリカと南鮮の挑発によるものだと信じこむように、人を脅かすような響きがこもっている。現にこの本を読むことによって、軽率にもそう思いこんでしまったところの純真な青年が、私の知っているだけでも数人いる。そうすると、日本全国について言えば、そういう人はかなり多数にのぼるのではなかろうか等々と私は考えてきました。すると、私はただ、しょげたり気を悪くしたりしているところにとどまっていられなくて、しだいに腹がたってきたのです。
 たしかに私は白痴か白痴にちかいものかもしれません。そしてあなたは白痴ではなく、かしこい人です。白痴はときどきムチャなことを言いますから、怒らないでください。
 ストーンのようなものの見かたや書きかたをする人、そのストーンの本についてあなたのような言いかたをする人のことを、われわれ白痴のことばではデマゴーグと言います。デマゴーグとは、人びとにとって、重大な関係のある事件について、その真相の黒白を客観的にするだけの証拠も持たず、また持とうとする十分な努力もしないで、性急にまた故意にまた誇張して、これこれが真相であると断定して多くの人びとを誤った判断と気分のなかに引きずりこむことによって、自分および自分の属している特定のイデオロギイや勢力の利益をはかろうとする者のことです。ストーンはそういうことをしていると思いますし、ストーンの本が「戦さをしかけたのは南鮮側でありアメリカ側である」ことを証明していると断定したあなたもまた、そういうことをしていると私は思います。
 このばあい、あなたが故意にデマゴギイをなさっているとは、まさか私は思いません。つまり、あなた自身の気持や認識をいつわって、あのようなことを書かれたのではないと思う。正直にそう思われたために、そう書かれたのでしょう。しかしそうだとすると、妙なことになります。あなたは、そんなかしこい人で、しかも一流の社会「科学」者です。いろいろの本を私などのたぶん百倍ぐらい読んでいられる。しかもそれを私などよりたぶん二百倍も「科学的」に読むことのできる人だろう。それがストーンの著書をぜんたいどんな読みかたをなさったために、それが南鮮側とアメリカ側の有罪の証明だとの判断をなさったのだろう?
 私が質問したいのは、このことなのです。
 あなたは、もしかするとほかの理由で、朝鮮戦争は南鮮側とアメリカ側の挑発によるものだと思いたい希望をかねてから持っていられたのではないでしょうか? その希望にストーンの本がピッタリあてはまったのではないのか? だから、それを科学的に検討する余裕を失って、ウノミになさったのではないでしょうか? どんなにかしこい学者でも、自分の主観に目がくらむと、そのようなことをするものらしいのです。白痴でさえもしないことをです。
 聞くところによりますと、あなたは日本大衆のあいだにひじょうに大きな影響力を持っていられるそうです。あなたが講演旅行などなさると、恐ろしく多数の聴衆が押しかけて、あなたの言われることを、白熱的に受け入れることは、あなた自身も書いていられます。してみると、朝鮮戦争についての、右のあなたの言葉をデマゴギイだと知らないで、またデマゴギイだと気がつかないで、あなたの意見に引きずっていかれるであろう大衆も相当多いだろうと考えられます。そしてそのことは、わが日本大衆を、明瞭な理由なしに、東西両陣営のどちらかへ味方したり敵対させたりする動機となり、それによって必要も必然もなしに日本大衆を二つに分裂させることになります。すくなくとも無益に混乱させることになる。そういうことをあなたはなさっているのです。
 しかも、取りあつかわれている問題は、小さい問題ではない。朝鮮問題は、私どもにとって海のむこうの国の内乱として見すごしていられる事件ではすでにないのです。それはじつは、わが日本国内にも内在している問題であって、それが朝鮮では気の毒なことに、いろいろの理由のために戦争にまで発展してしまった。しかし戦争だけは一日も早くやめにしてほしい。したがってまた、日本における同じ問題を、どんなことがあっても戦争のようなものに発展させないようにしなければならない。そういう努力をわれわれはしなければならぬ。だから慎重にこの問題をあつかわなければならぬと思うのです。
 東西両陣営の、いずれの側に属するチンドン屋のチンドン商売の材料にしてもらいたくはないのはもちろん、あまりに主観的になったために白痴さえもしないようなことをする学者にいじりまわされるだけで捨ててはおけないのであります。
 いや、朝鮮戦争は、現在の世界における東西両陣営の対立関係が、もっとも尖鋭に焦点をむすんだ個所だとも言えますので、ただ単に朝鮮人や日本人にとってだけでなく、世界全体にとっての重大な問題であります。そのことも、あのことも、あなたは百もご承知であるはずです。だのに、どうして、あのような断定をなさるのでしょうか? そのわけを聞かせてください。それとも、あなたはストーンの著書が示している結論が、事実であったと証明することのできる証拠を、ほかに持っていられるのでしょうか? 持っていられるならば、それを示してください。それを示すこともできず、同時に、右の帯紙のご文章を取消しもなさらなければ、私および私に似たような者たちは、失礼ながらあなたを、一個のみごとなるチンドン屋とみる以外にないでありましょう。
 なぜ私がこのようにシツコイかといいますと、ほかに理由はありません。もし、朝鮮戦争勃発が、ストーンがそう言いたがっており、それをあなたが肯定なさっているように、アメリカおよび南鮮側の挑発や陰謀によることが真実であるならば、そしてそれが真実であるとの確証を握ったならば、その瞬間から、じつは私自身もアメリカおよび南鮮側を非難し抗議せざるをえないし、したいからであります。それだけのためであります。
 もし、万一、そういうふうになりましたら、このことに関するかぎり、ストーンやあなたなどの同志の一人で私はあるわけなので、どうかその末席にならぶことを許してください。
 もしまたそうでなく、真実はストーンやあなたの言われることと反対であることがハッキリしたばあいには、私どもはただ単にあなたを一個のチンドン屋としてみるだけでなく、われわれ日本人を二つに引きさき混乱させるところの有害なる人として、あなたを弾劾せざるをえないでありましょう。

      2

 清水幾太郎様
 あなたの論文を十数編こんど読みかえして気がついたことは、それらが、全体としても一編々々も、ひじょうに反米的な調子を持っていることでした。それは反米的気分というのではなくて、明確な理由のある意見として出されているもので、おおよそは賛成できるものであります。日本は敗戦後七年間も国連軍(その主力はアメリカ軍)の占領下にあり、引きつづいて現在も、かなりの程度までアメリカの圧力の下にあるのですから、われわれはそれにたいして、何かの形でか抵抗を感じざるをえないので、われわれの意見もそのことに関することが主となるのは当然です。
 しかしそれにしても、あなたがソビエットについて書かれたものが、ほとんど見あたりません。しかも、いろいろの問題についてのあなたのご意見を総合すると、あなたはソビエットまたはソビエット体系を、積極的に肯定なさっている人のように見えます。だのに、どうしてそれについてものを言われないのだろう?
 ソビエットとの直接の接触が少ないためという理由はわかりますが、それにしても、あまりに言われない。なぜだろう?
 そういう疑問を抱きながら、私はつぎのようなことを考えたのです。前記のストーンのことについてです。ストーンはアメリカ人で、そして「秘史朝鮮戦争」のような本を書いて、それをアメリカで出版した。こんな本を出版する自由がアメリカにはある。そしてその後ストーンがアメリカ官憲に捕えられたり公訴されたりしたという話は聞かない。そしてその朝鮮戦争はアメリカおよびアメリカ人にとって、どういう事件だろう?
 朝鮮戦線ではアメリカの青年が、数多く戦死しつつあり、アメリカ国費の巨大なものが費されている。つまり朝鮮戦争は少なくともアメリカ政府にとっては、へんな言葉ですが、「国是」であります。その国是の出発点を虚偽であり非行だと糾弾きゅうだんする方向へむかって書かれたこの本が、その国内で出版され、そして出版者も著者も処罰されない。そのような国がアメリカだということです。その点で私はアメリカを、さまざまのちがったものを持ちながらも、根本的によい国だと思わないわけにはいきません。
 戦争中の日本で、だれかがその本で太平洋戦争を否定し非難したとしたら、どうだったでしょう? また、現在のソビエットで、ソビエットが国として遂行している重大な戦争または事業のことで、その根本的な虚偽と非行を糾弾する本を書いて出版したら、どういうことになるでしょうか? ゾッと寒気が起きるようなことが、関係者一同のうえにおきるような気がします。
 あなたは、そのようなことを一度も考えられたことはないでしょうか? 考えたことがおありでしたら、そのことが、あなたの持っていられるらしいソビエット肯定のお気持と、反米的意見に、どんなふうに作用しているのか、または作用していないかをうかがいたいと思います。
 なぜ私がこのようなことを質問するかといいますと、日本のインテリゲンチャのなかには、学問的にも実際的にも、そのことをハッキリとつかみとる段取りを抜きにして、資本主義というものは悪いものであるという、ホッテントットふうの固定観念を持っている者が多く、その資本主義国が外国、ことに社会主義や共産主義を称している外国にたいしてする対外関係においては、悪いのはいつでも資本主義国であると思いこむ傾向が強いようです。インテリのなかでも、とくに共産主義者や社会主義者にこの傾向ははなはだしい。
 朝鮮戦争の例のばあいもそうでした。私は少しでも自分の判断を正確なものにしたいと思って、いろいろの多数の人たちの意見を聞きあつめましたが、その中でもっともいちじるしかったことは、私の知っている多数の共産主義者のことごとくが、一人のこらず判で押したように、しかも即座に、戦争勃発については北鮮には責任なく、アメリカと南鮮が陰謀し挑発したものであると確言したことです。しかも、それについての十分な証拠をあげようとした人は、ほとんどいませんでした。
 それは、まるで、共産主義や社会主義を称している国や勢力は、悪をはたらくことは絶対にありえないと、信じているもののように見えました。それほどまでに、共産主義や社会主義を絶対的に、ちょうど金ののべ棒をウノミにしたように呑みこんで信じきり、少しの不自由も不満も感じない状態というものはさしあたり、いかんともすべからざるものであり、軽蔑よりも、羨望を感じさせる種類の状態であります。しかしそれは、真実だとか正義だとか人間平等だとか寛容とか科学とかが打ちたてられなければならぬところでは、役にたたないばかりでなく、有害なものであります。
 あなたにききたいのは、あなたもまたそういうインテリゲンチャの一人ではないか? そうではないかとご自分で考えられたことはないだろうかということです。一言にいいますと、アメリカのような資本主義国と、共産主義や社会主義を称している国とが紛争を起したばあいは、あなたにとっては、調査や検討や論議以前に、絶対無条件に、有罪なのは資本主義国ではないのかということです。
 私のつぎの質問は、そのこととつながりのあることであります。
 私は社会学や経済学について、専門的に高度の学問をしたことはありません。しかし初歩の基礎的なところだけは、いくらか正確に学んでいると自分では思っています。
 そのような私の判断がどこまで確かであるか、あまり自信はありませんが、数冊のあなたの著書や多数の雑誌論文などを通読して推測するのに、あなたはだいたいマルクシズムによっていられるらしいと思います。社会現象や経済現象の説明の方法としては、マルクス以外の、また以後の英米の学者の方法などを採用なさっているところはかなりありますが基本的なまた中心的なものはマルクシズムではないでしょうか。いかがでしょう?
 これをもっと具体的に、たとえばあなたの論文のなかのこれこれの要素やこれこれの個所は、マルクシズムのこれこれの部分とこれこれのつながりがあるといったふうに書けば良いのですが(――ユックリ書けば、それは私にある程度まで書けると思います)、いま、その時間がありませんので、はぶいて、ただ私にはそうとしか見えないとだけ言っておきます。さらにまた、あなたのいろいろのご意見のなかで、ばあいによって納得がいかないような個所も、あなたのイデオロギイがマルクシズムだと見て読むと、たいがい理解できることが多いのです。あなたは学者だし、自己反省の力の強いかたのようですから、このことはあなた自身知っていられることと思います。
 そして、イデオロギイとしてマルクシズムを持っている人は、共産主義者になるか共産党員になるのがふつうだし、自然です。とくにその人が学者であって、ものごとを論理的に科学的に一貫性をもって考える能力を高く持っているばあいには、むしろそうならないのが不自然なことでしょう。あなたはマルクシズムをイデオロギイとして持っていられるらしいのに、共産主義者でも共産党員でもないらしいが、それはなぜでしょうか? それをうかがいたいのです。
 もっとも、じつはあなたは共産主義者または共産党員かもしれない。そのことを私だけが知らないのかもしれないし、または、あなたが何かの理由のためそれを隠していられるのかもしれない。秘密共産党員というものもあるらしいし、そういう戦術の必要もわからなくはありませんから、それならそれで結構でして、もしそうなら、このことをこれ以上追究する興味も必要も私にありません。ただ、妙な、おかしい話だとは思います。なぜなら、共産主義者は原則として公然と活動するのが立てまえのように私は承知しているし、現在の日本共産党も、いまの政府からいろいろ圧迫をくわえられたりはしていても、それでも合法的に存在している政党ですから。
 それとも、あなたまたはあなたの属していられる集団の思慮は、もっと深いところにあって、将来共産党を中心にする広汎な人民戦線みたいなものを考えていて、それの結成のときに、あなたを有力な調整者のような者にするために、そのときまであなたを、わざと党の外に置いておくというわけなのでしょうか?
 さて、以上のいずれのばあいであっても、私などがそれについてトヤカクいうべきではない。ただできるならば、じっさいは右のいずれであるかを、すこしばかりハッキリ知っておきたいと私が願うだけのためです。それは、今後に予見できる日本の大きな動揺に、私が不安を感じているためだとも言えますし、そのための私なりの準備をしつつあるためだとも言えます。
 あなたは日本大衆にたいして大きな影響力を持っていられる。イザというばあいには、日本大衆の多くがあなたにみちびかれて、どこかへ歩いていくでしょう。私などもあるいはその大衆の一人かもしれません。だからあなたが、大衆をどこへみちびかれていくのかを知っておきたいし、知ることを要求する権利があると思います。また、大衆指導者には、それを知らせる義務があると思います。
 たとえば徳田球一がみちびいていこうとするところは、われわれにハッキリしている。共産主義革命です。だからそれを望む者は徳田にみちびかれていくがよい。
 みちびかれていった先に、これまでの特権階級やブルジョアや地主を断罪するための人民裁判所や、プロレタリア独裁政権のための政府や、ノルマさえ守っていれば当てがってもらえる労働者の幸福や、コルホーズや、強制労働収容所や、秘密警察の殺戮さつりくや拷問等々がそこにはあって、「自由の女神」や、フォード工場や、「飢える自由」や、政府の政治をどんなに否定的にでも批判する自由等々がそこにあるはずはありません。だいたい見当がつくのであります。
 ところが、あなたがみちびいていかれるであろうところがどこなのか、そこに何があるのか、どうもよくわからないのです。しかし、日本の現体勢にたいするあなたの批判は、あらゆる領域にわたって、かなりシンラツに否定的です。そこには、一つ一つの問題について、これをこう直せばこうなるから直したがよいといったふうの意見やヒントはほとんど与えられていないで、あれもこれも根こそぎまちがっていて、その根本を叩きこわさなければ問題にならぬといった式の、皮肉の味に満ちた絶望みたいなものだけが与えられていることが多い。そして、そこから先は、ポカンとなってしまって、どうしてよいかわからなくなっているようです。
 私どもが、ある一つの問題について、あなたの意見になるほどなるほどと賛成しながらついて歩いていっていると、どこまでかいくと、さてどうしてよいかわからない場所に投げだされています。だが私どもは、どうにもしないでいるわけにはいかない。そこで、どうにかしようとすると、それまであなたにみちびかれて歩いてきた論理の道筋としては、共産主義または共産党員としての実践の道以外は残されていないようにみえる。だから、なかにはその道にはいっていく人もあるでしょう。しかし、かならずしもそんな人ばかりではない。共産主義を一つの思想としては是認しながらも、実践的な体系としては肯定しえない人も多い。そういう人は、そこのところで、ちゅうちょして立ちどまり、問いかける目つきで周囲を見まわすでしょう。
 そこにあなたの姿が見つかれば問題ではありません。ところが、あなたの姿はそこにはない。人か物かの陰にかくれて見えないのかもわからないが、とにかく見つからない。その人はオヤオヤと思い、それまで自分をみちびいてきてくれたものは一種の「ポン引き」のようなものだったのかと思ったりするばあいもあるでしょう。
 私のばあいがそうです。もしあなたが実際上、共産主義を実践なさっているか、共産党員であったならば、あなたは私にそんなふうには見えず、チャンとした一人の思想家に見えるでしょう。共産主義や共産党に私が賛成できないことにかかわりなしにです。そして、一個の思想家らしい人のことを、ときどきとはいいながら、ポン引きに似たものと思うのは、私にしてもつらいことです。お願いですから、あなたがじつは、共産主義者であるか共産党員であると言ってください。すくなくとも、あなたと共産主義、または共産党の関係を聞かせてください。
 しかし、もしかすると、このような私の考えかたの全部が思いすごしかもわかりません。というのはあなたはホントの意味ではマルクシストでも何でもなく、何かの必要から、マルクシズムを採用しているだけの人かもわからない。イデオロギイとしてマルクシズムを持っているのではなくて、ただ、単に世界や社会を説明する一つの知的用具として、それを採用しているのに過ぎないのかもしれない。
 それにしては、しかし、あなたの批判の言葉は、たいがいのばあい、本気すぎ熱烈すぎるようにも思いますが、でも私は、ホントはカトリック教を信じてもいないくせに、カトリックの神を持ちだして神罰のことを言って本気に熱烈に不良青年を叱っていた人を見たことがあります。もしそうだとするならば、このばあいなんの問題もありません。あなたがただ単なる一人のソフィストにすぎないらしいというだけのことです。
 ソフィストは、どこにでもたくさんいますから、とくに問題にする必要はありません。ソフィストはスカンクに似ていて、相手になっていじくっていると、こちらの手まで臭くなりますから、手を引っこめることに私はしています。

      3

 清水幾太郎様
 あなたは勇敢でしつような反戦論者であり、再軍備反対論者です。いくつかの論文で、あなたは反戦と再軍備のことを、いろいろの角度から論じられています。あなたの論旨と論のやり方とは精密で熱烈です。私はことごとく大賛成でありました。私も戦争および再軍備に反対の意見を持っているからです。私はたいへんよろこび、勇気づけられ、なるべく深く読みこもうと努力しました。すると、あなたの反対論と私などの反対論とのあいだに、根本的に違うところがあるらしいという気がしてきたのです。
 私自身の平和論や再軍備反対の意見はこれまでほうぼうに書きましたから、ここにくどくどしくは書きませんが、それは私の抱いている主義や学識などから生まれてきたものではなく、もっと本能的でそして常識的なものです。要約しますと、私はどんな名や理由のもとにだれによって行われる戦争にも反対であり、いつだれがだれにむかってするどのような種類と程度の軍備にも反対です。ところが、あなたのは、それとは少し違うような気がします。そうです。「気が」するという程度で、ハッキリどこがどう違うか私にはわからないし、言えない。しかしそれにもかかわらず私にとっては、これはどうでもよいことではありません。
 私にそういう気がするのは、たぶん、つぎの二つの理由のためらしいのです。第一は、あなたの反戦論と再軍備反対論が、あなたの反米論と表裏一体をなして展開されているため。第二は、前記のようにあなたがマルクシストまたは、マルクシズムの方法を、たぶんに採用なさっている人であるためです。もちろんこの二つの理由は相互にからみあっていて切りはなしては考えられません。
 第一のことを説明します。日本は独立を回復したが、しかしその独立は条件つきのもので、アメリカとのあいだには安保条約があり、日本内地には強力な、数多くのアメリカ軍事基地がある。ということは、現実的に日本はある程度までアメリカの軍事力の下にあるということだし、同時に日本が再軍備されたうえで、アメリカまたはアメリカをふくむ自由主義諸国が、他の国へむかって、もし戦争をはじめることになれば、たぶん自然に、日本はそちら側の戦力に組みこまれることになろうということです。だから、戦争や再軍備に反対しようとする者は、実際上では、アメリカおよびアメリカの日本支配に反対せざるをえないわけです。そういう反対者もたくさんいます。私もその一人です。
 ところが、それとは違った反対も多いようです。どう違うかというと、ちょうど右を逆にした反対者です。アメリカまたはアメリカ資本主義またはアメリカ帝国主義(と彼らのいうもの)などに反対したいために、そのアメリカのイニシアチブのもとに、遂行されるかもしれない戦争と戦争準備のいっさいに反対するという反対者です。いうまでもなく、そういう反対者は、反米的イデオローグに多い。別の言葉で言うと、ソビエット圏諸国の側に立つ者です。マルクシスト、共産党員、共産党同調者などのほとんど全部がそうだと思います。
 この人たちにとっては、自由主義諸国、なかにもそれらを主導しているアメリカのすることなすことのたいがいが気に入らない。もちろん、なかでも、その軍事力が気に入らない。それはある意味で当然です。この人たちにとっては、戦争自体がイヤというよりも、また、そういうことの手まえで、今後起りうる戦争で、アメリカが、ソビエット圏諸国を攻撃したり打ち負かすことがイヤらしいのです。そして、あなたも、そのような反対者の一人に私に見えます。そして、そのことは第二の理由としてあげたあなたが、マルクシストまたはマルクシズムの採用者であることと強いつながりがあると思います。
 そして、想像します。敗戦と同時に日本を占領したのが、もしアメリカ軍でなくてソビエット軍だったら、どうだったろうと。まえの種類の反対者はどうしたであろうか? あとの種類の反対者はどうしたであろうか? いろいろのばあいと、いろいろの姿が想像できます。複雑微妙であって、いちがいには言えない。
 しかしたぶん、あとの種類の反対者たちの多くは現在しているような形や意味では、戦争や再軍備に反対してはいなかったのではないだろうかとの想像が、かなりの確率で成りたちうるような気がします。そして、あなたは、どんなふうになさっていたでしょうか? たぶんは現在のようには戦争や再軍備に反対なさってはいなかったのではないか? もしかすると、戦争と再軍備に積極的に賛成なさっていたのではないか? 失礼な想像でありますが、これはただイヤガラセをしようとの悪意にもとずいたものではなく、ハッキリした理由のあることです。その理由とは何か? じつはそのことが、第二の理由の説明になります。
 というのは、マルクシズム=共産主義の実践要項のなかには、その理論体系から押しだしてくる必然として、かならず武力が取りあげられる。共産主義の革命理論がここにあって、かしこに武力があり、革命の必要に応じて、かしこの武力がここに持ってこられるのではない。理論そのもののなかに、また理論が必然的に生みだしたものとして武力がある。武力を暴力と呼んでもよいし、それが発動したときの関係が大がかりのばあいには戦争といってもよい。ただ、それは、プロレタリア階級の解放や独裁権力確立のためのものでなければならぬとされている。
 そういう武力=暴力=戦争ならば彼らは積極的に肯定する。共産主義者がいて、武力=暴力=戦争を肯定するのでなく、彼が共産主義者であること自体が武力=戦争を肯定するということを含んでいる。そういう主義がマルクシズム=共産主義です。
 マルクシズムの原典や理論家たちの本から、経済闘争から政治闘争にわたる、階級闘争に関する理論や、いくつかの帝国主義戦争論その他の理論を引きあいに出しながら、このことを私なりに証明することはできそうに思いますが、いまはその時間もなく、またあなたにむかって、そんなことをするのは、シャカに説法と同じで、不必要なことでしよう。
 要するに、マルクス主義はあらゆる戦争に反対しうるものではなく、反対していない。むしろ逆に、ある種の戦争には積極的に賛成するもので、現にしている。彼らの各種の憲章に、つねに主格として登場するのは「労働者と農民と兵士」です。
 実際的にもマルクシズム=共産主義は、武力の主義です。各国各地のあらゆる共産主義運動(その中の大きい波が革命であるが)を調べてみるとよい。つねに武力に先行されている。暴力をともなっている。戦力に裏づけられている。それは共産主義者がそろいもそろって戦争が好きであるというようなことではない。現実関係のある段階にいたると、共産主義の実践そのものが戦力のなかに具体化されるのである。共産主義者の手がサーベルを取るのではない。共産主義者の手そのものが、あるときには、サーベルになるのである。以上私は簡単に書く必要上比喩的に書きましたが、もう少しチャンと実証的に書けとあらば書くことができます。
 さて、そんなわけで、理論的にも実際的にも、マルクシズム=共産主義と、絶対的平和主義とはまったく相容あいいれない。絶対的平和主義とは、どのような種類のどのような名のもとに行われる戦争にも、それが戦争であるという理由だけで反対する主義のことである。
 マルクシスト共産主義者が平和を取りあげるばあいは――たとえ取りあげている当人の主観がどんなに真率なものであるばあいにも――それが真理であるとか正義であるとかの理由よりも、それがそのときには、もっとも効率の高い手段であったからである。もっとも有効な戦術であったからである。だからあるとき、あるばあいに、マルクシスト共産主義者が、どんなに熱心に誠実に平和のために動いたとしても、客観的情勢が彼にそのことを命じれば、びっくりするような早さと淡白さで平和を捨てて戦争を取りあげるであろう。
 そのことは、この二三十年間の世界の諸事件のなかでの共産主義者たちの動きのなかに、飽きるほど示されています。もちろん日本の共産主義者たちの姿のなかにも、ある程度まで示されています。それを今ここで非難しようというのではありません。そういうものが共産主義者であると私が思っていると言っているまでです。
 そして、あなたは、前記のとおり、マルクシストまたはマルクシズムをある程度まで採用なさっている人のように私に見えます。そして、そのあなたはじつに熱烈に平和論・戦争反対論・再軍備反対論を展開なさっている。ただ単に一時的戦術として見ることが困難なくらいに、あなたは本気なように見える。もしそうだとすると、そのことと、あなたの抱いていられるマルクシズム理論との関係は、どんなふうになつているのでしょう? その二つは、どんなふうにつながっているか、またどんなふうにはなればなれになっているか? それとも、あなたの平和運動は、あなた自身の考えによる、またあなたの属している勢力による、戦略的見解から割りだされたところの「独立前哨」といったふうのものでしょうか?
 私もまた戦争反対論者であり、再軍備反対論者であります。しかし一時的な戦術や戦略として戦争や軍備に反対しているのではありません。また、感傷的に、戦争のない、軍備の不必要な世界の可能を夢想しているのでもありません。また、ソビエットがつねに自由主義諸国にたいして侵入してくるスキをうかがっていると思いこんでいるアメリカ政治家ほど、被害妄想的では私はありませんが、同時に、軍備など何ひとつなくともソビエットが侵入してくる可能性は絶対にないなどと狂信するほど無邪気でもありません。
 私が戦争反対と再軍備反対のためには、同じくそれらに反対する人とならば、いつでも協力したいと思っているのと同時に、一時的な戦術として、それらに反対している人たちを、末ながく信頼するわけにはいかないのも、そのためであります。
 日本のマルクシストや共産主義者のなかにも、絶対的戦争反対論者がまるでいないとは思われません。しかし大多数はいま、一時的戦術的に反対しているのだと私は見ます。つまり彼らの現在の基本方針は「反米」におかれている。そして日本はいまアメリカの戦力に組みこまれかけている。しかもその戦力は仮想敵としてのソビエット圏諸国の方へむけられている。
 したがっていま、日本国内で反戦と再軍備反対をとなえて、大衆をその方へ持っていけば、もっともよく反米と援ソの効果をあげることができる。――そういう反戦論者や再軍備反対論者がひじょうに多いと私は見ます。そういう人びとは、情勢がさらにかわれば、または逆転すれば、反対はしなくなるだろうし、ぎゃくに主戦論者になったり軍備賛成者になるだろうと思われます。戦略戦術による百八十度転換というやつです。共産主義者たちは、これがなかなかうまい。実例は無数にあるが、なかでもあざやかだったのは、第二次大戦中、ソビエットが最初ナチス・ドイツと敵対していたのが、中途で結び、さらに敵対するにいたった姿だとか、終戦直前の日本にたいする態度などで、われわれはこれを忘れることができません。
 それほどあざやかとは言えないが、日本の共産主義者たちも、似たようなことをチョイチョイやってきました。このようなことは、私ども共産主義者でない者の目には、ばあいによって下劣なことに見えますが、共産主義者にとっては当然なことなのでしょう。だから、これからも戦術的必要が起きればチョイチョイやらかすでしょう。
 つまり、今後そうすることがソビエット圏諸国の利益になると見たときには、共産主義者たちは、戦争反対や再軍備反対を言わなくなり、積極的に再軍備運動に乗りだすかもしれない。そうなる可能性がひじょうに強い。
 もしそうなったときに、あなたはどうなさるのでしょうか? いぜんとして反戦論者・再軍備反対論者としてとどまるのですか? それとも、あなたもともに百八十度転換して主戦論者・再軍備賛成者となられるのでしょうか? そして、あなたは前記のとおり、マルクシストか少なくともマルクシズムの部分的把持者であるらしいことを私は忘れないで、この質問をしているのであります。
 ごらんのとおり、「もし」「もし」を重ねたうえで私は質問をしています。これはすこしコッケイに見えるにちがいありません。しかし、私にこんな質問を持ちだす理由はあるのです。それはこうです。もしそうなったときに、あなたがいぜんとして反戦論者としてとどまれるばあいは問題はありませんが、もし百八十度転換をなさったばあいには、それまであなたの反戦論に影響されたり指導されたりして、あなたの後から歩いていった大衆はどうなるだろうかということです。
 中であなたと同じように転換できる人たちはそれでよいでしょう。それのできない人たちは、ずいぶんつらい思いをしなければならないでしょう。そういう人たちは、私の同胞でありますから、それを見ている私もつらいだろうと思います。人も自分もつらい思いはなるべくしたくない。それに、単につらいだけでなく、そのことによって日本はかなり混乱するでしょう。そういうことは避けられるならば、避けた方がよいと私は考えます。そのため、いまのうちに、あなたの反戦論が絶対的反戦論か条件つきの反戦論かを知っておきたいし、あなたとしてもそれをハッキリ表明してくださる責任みたいなものがなくはなかろうとも思いますが、いかがでしょうか?
 いうまでもなく1に書いたことや2に書いたこととつながった形で、私はこれらのことを知りたいと思います。
 じつはいまの日本には、あなたとよく似た態度をとったり、あなたとよく似たことを言う学者や思想家がかなり多くて、そのような人たちにも、必要があれば、つぎつぎと質問したいとも思っていますが、なかでもあなたがもっともいちじるしい方のように見えましたので、あなたに宛てたわけです。
 失礼なことを申しあげたかもしれませんが、ただものを知りたいと思うばかりのためにしたことで、他意はありませんので、そういうところはお見のがしくださって、お答えいただけるとありがたいと思います。
(一九五三・一)





底本:「三好十郎の仕事 別巻」學藝書林
   1968(昭和43)年11月28日第1刷発行
初出:「群像」
   1953(昭和28)年3月号
入力:伊藤時也
校正:伊藤時也・及川 雅
2009年1月22日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について