人間
柴田欣一郎
誠 その長男
欣二 次男
双葉 次女
富本三平
圭子
清水八郎
せい子
お光
浮浪者
[#改ページ]誠 その長男
欣二 次男
双葉 次女
富本三平
圭子
清水八郎
せい子
お光
浮浪者
柴田一家が住み、食い、寝ているガランとした大きな洋室。もとはかなり立派な室の、現在では家具調度もなくなり、敷物もはぎとられた裸かの板敷の床。こちらに、仕事机兼食卓の大きな楕円形のテーブル。それを取りかこんで五六の椅子と腰かけ、奥の窓の下にテーブルと椅子。上手のズット手前に坐る式の勉強机。下手の手前の隅が炊事場になっていて、シチリンやバケツや薪や手斧や釜や急造の食器台など。あちこちの壁に寄せて、寝具と書籍が積みあげてある。上手奥の隅の天井が破れてポッカリと黒い大きな穴があき、天井と壁に裂け目が入っている。天井からさがっているシャンデリヤ。奥下手よりに出入口。上手の壁の手前に扉。その奥の壁に立てかけた梯子。
奥の窓から半焼けになった庭木の頭と晴れた夕空。
誰もいない。静かな中に、時々どこかでドシン、ドシンと鈍い音――間。
奥の出入口から清水八郎が出て来る。学生服の左腕が肩の所から無く、上着の左袖はポケットの中に突込んでいる。右手に重そうなフロシキ包をさげている。五六歩入って来てキチンと両足をそろえて立ちどまるが、誰も居ないので、あちこちを見る。――フロシキ包を床におろす。ハンカチを出して額の汗をふく。
同じ出入口からせい子が出て来る。抜けるように色の白い、しなやかな身体つきの三十前後の女。ひとえの着物にモンペ。美しい素足と泥だらけの両手。
奥の窓から半焼けになった庭木の頭と晴れた夕空。
誰もいない。静かな中に、時々どこかでドシン、ドシンと鈍い音――間。
奥の出入口から清水八郎が出て来る。学生服の左腕が肩の所から無く、上着の左袖はポケットの中に突込んでいる。右手に重そうなフロシキ包をさげている。五六歩入って来てキチンと両足をそろえて立ちどまるが、誰も居ないので、あちこちを見る。――フロシキ包を床におろす。ハンカチを出して額の汗をふく。
同じ出入口からせい子が出て来る。抜けるように色の白い、しなやかな身体つきの三十前後の女。ひとえの着物にモンペ。美しい素足と泥だらけの両手。
せい ……(そのへんを見まわして)あら、どうなさいまして?
清水 ……はあ。
せい 先生は?
清水 は?
せい どっかへ、あの――?
清水 いらっしゃらないんです、どなたも――。
せい へえ。……ひるっから、そこでおよっていらしったんですけどねえ。(上手の壁のわきに敷きっぱなしになっている敷きぶとんを見る)――裏へでも、じゃ、おいでかしら、呼んでまいります。
清水 ――寝ていられると言うと、先生、まだやっぱり、おからだが――?
せい いえ、かくべつ、どこが悪いと言うんじゃないんですけど、なんですか、弱っていまして――私ども、心配しているんですけど――なんしろあなた、ちかごろの――(その時またドシンと響く音に気づいて)ああ! また、なすってる!(床を見る。上手の扉の近くの床板が三尺四方に切り取られて、そのあげぶたが横にずれたところから黒く見える床穴の所へ行き、下をのぞき込む)先生! あの、先生!――(床の下からユックリ何か答える声)
清水 何をなさってるんです?
せい 防空壕なんですの。
清水 防空? 今頃、また――?
せい 戦争中、先生、ご自分でお掘りんなったんですの、この下に、電燈を引いたりして。とても、そりゃ――。いえ、戦争がすんで、埋めちまったにゃ埋めちまったんですけど、いいかげんにしといたもんですからね、いつの間にか根太がゆるんでしまって、こら――(両足でドシドシ床を踏んで見せる)こんな。
床下の声 おっと! ど、ど、どうしたんだあ?
せい (笑いながら再び穴の下をのぞいて)ほほ。――(床下の声が何か言う)――いいえ、お客さんですよ。――(床下の声)はあ、学生さんで、あの――
清水 清水八郎です。
せい 清水さんとおっしゃるかた。(床下で何か言っている声)――そうです、あの、学校の方の。(床下の声)
清水 (床下へ向って)三年のBクラスの。――(床下で何か言う声)はあ、いえ、僕はいそぎませんから。
せい 腹んばいになってやっていらっしゃるんですから、急には出て来れないんですよ。まあどうぞおかけんなって。
清水 はあ。(しかし、立っている)――
せい こちらへ。(食卓のそばの椅子を指す)
清水 ――失礼ですが――奥さんでいらっしゃいますか?
せい はあ?
清水 いえ、あの、先生の――?
せい まあ!――ほほほ。
(床穴から柴田欣一郎がニュッと首を出す。半白の頭髪を手拭でしばり、青白くむくんで、あちこちに泥を附けた顔が、キョトリと周囲を見まわす)
せい (それを見て)まあ!柴田 (泥だらけの手で、顔に取りついているクモの巣を払いのけながら)――やあ、清水君か。
清水 先生。(床の上の首へ向ってキチンと礼をする)
柴田 (きげんよく礼を返して)よく来たねえ。まあ、おかけ。
せい ぷーっ!
柴田 うむ!
せい ふふふ、ほほ! はは!
柴田 なんだい?
せい なんだじゃ、ほほ、ありませんよ! そのかっこうで、あなた、ほほ、そんな、落着いていらしたって――(清水もふき出す)
柴田 だってさ、しかたがない――(自分を振返って笑い出している)クラスの連中、元気かね?(穴のふちに手をかけてあがろうとする)
清水 はあ、まあ、やっています。
柴田 そりゃ結構だ。どっこいしょっと!(飛びあがるが、全身を支える力が両腕に無いため、再びスポッと穴に落ちる)おっと、と!
せい (近づいて)ごらんなさいよ。
柴田の声 やあ、どうも!(両腕だけをモガモガと穴から出す)ちょっと、手を貸してくれ。
せい はいはい。(その両手を掴んで引上げにかかる。清水も近づいて来て、右手を柴田のわきの下に入れて、両人力を合せて引上げる)
柴田 やあ、すまん。すまん。ふう!(息を切らしながら、穴のふちに坐って、肩や手足の泥を、穴の中にはたき落す。顔はむくんでいるが、からだがひどく痩せていて、自分の古背広を着ているのが、まるで倍も大きい人の借着をしているようにパクパクである)
せい (いっしょに泥を落してやりながら)チョットゆだんをすると、すぐに! また後で、熱を出したりなすったら、どうします?
柴田 (まだハアハア言いながら)なに、たいした事あない。
せい 先生はたいした事はなくっても、双葉さん、また、どんだけ心配なさるか――ちったあ、それ、考えておあげんならなきゃ、あなた――
柴田 はは、なにさ――
清水 なんでしたら、自分が埋めましょうか?
柴田 なあに、もうあらかた、埋めるにゃ埋めてある。あと二三本、根太の下を突きかためるだけだ。
せい ですからさ――
柴田 もともと、私が自分で掘ったものだからね。自分で埋めるのは当然だよ。はは、言わば自業自得だ。第一、床がブカブカして、歩くにも、寝ていてもグラグラする、コップはひっくり返る――(立とうとするが、うまく立てない)まあ、おかけなさい。
清水 はあ。(椅子にかける)
柴田 学校へも、だいぶ出かけないでいるんで、君達にゃ悪いと思っているが――
せい (柴田の胴に手をかけて助けおこしながら)ごらんなさいな、こいだけ、からだが、なにしていらっしゃるのに。
柴田 チョット疲れただけだ。(ヨロヨロしながら食卓のそばの椅子にかける)はは、なあに。……すまんが、水を一杯くれんか。
せい いっそ、でも、井戸へ行ってお洗いになったら?
柴田 いや、飲むんだ。
せい それなら、どうせ、すぐお茶を入れますから――
柴田 お茶はお茶で貰うとして、その前に――
せい はいはい。……(炊事場になっている所へ行き、バケツをヒシャクでかきまわして見て)おや、おや。……(からのバケツをさげて、上手の扉を開けて出て行く)
柴田 ……よく来たね。
清水 (柴田の様子を見守っていたのが)どっか、苦しいんじゃありませんか?
柴田 む? いやあ、どうしてだね?
清水 いえ、なんだか、その――
柴田 いや、馴れない仕事をしたんで、ホンのチョット息切れがするだけだ。はは。
清水 (不意にムキになって)先生は、学校でも、そんなふうにおっしゃった事があるんです。
柴田 なにが?
清水 五番教室に行く三階の階段です。うしろから見ていると、手すりにつかまって、先生、ヨロヨロして、五度も六度も休んでいらっしゃいます。――そいで、加藤が、いつか、どうかなすったんですかと、きいたんです。そしたら、今と同じように――
柴田 そうかね、私あおぼえていないが――なにしろ、脚気の気が有ってなあ。
清水 (相手の言葉は受けつけないで、寄り眼になったような視線を柴田の半白の前髪にヒタと附けたまま、しかし、静かな無表情な語調で)いつだか僕等の間で議論をしたことがあるんです。……早くなんとかしなくちゃと言う者もありました。……馬鹿だと言う者もありました。……そこへ斎藤先生が通りかかられて、ニヤニヤ笑われて、しかしあすこまで国策を守れる人は、えらいもんじゃないか、と言われました。……その時の、斎藤先生の笑い顔と眼つきを、自分は忘れる事が出来ないのです。
柴田 ――なんの事を、君あ、言ってるんだえ?
清水 ……(しばらくだまっていてから)今日は、自分は、クラスの代表として、クラスの全員の意志を持っておうかがいしたんです。
柴田 よくわからんなあ。ハッキリ話してくれんと――
清水 先生、講義をつづけてください。
柴田 うむ――そりゃ、しかし――
清水 Bクラス全員の希望です。Aクラスでも、そいから全校のみんなが希望しています。
柴田 ――しかし、そりゃ――だが、私の単位は今学期は取らなくてもパスさせる事になっていると教務の方で――
清水 パスするしないの事じゃないんです。先生の講義をみんな聞きたいんです。
柴田 ……だがね、私は、とにかく、休職願を出していて――
清水 それを引込めてください。
柴田 ……そいつは、どうも――(指の先で額にこびりついた泥をこすっている。清水は上体をまっすぐに椅子にかけて、相手を正面から見すえている)……うむ。……まあ、しかし――どうだね、君の腕はその後? もう痛まないかね?
清水 ……(表情も動かさぬ)
柴田 胸にも、たしか貫通銃創を受けていたね? そっちの方は、もうスッカリ――?
清水 ……(平然としている)
柴田 うむ……(相手がだまっているので困って額をこすっ
(せい子がバケツをさげて戻って来る)
せい ――ポンプの工合が又悪くなったんですよ。ホントにしようがない――。(炊事場に置いたバケツからコップに水をついで柴田の所へ持って来る)はい。柴田 ありがとう――
清水 これは――(と床の上に置いた包を持ちあげて)クラスの者から、先生に差しあげてくれ――ジャガイモです、すこしですが。皆で持ち寄って、もっとたくさんにしてとも話し合ったんですが、持ち寄ると言っても、どうせ買って来る――するとけっきょく闇で、先生お食べにならんから、なんにもならん。――そいで、しかたがないので、グランドのクラスの畑に出来たのが、まだ残っていたもんですから――。
柴田 ……(あきれたように、口をすこし開けて清水を見ている)
せい ……(手早くヤカンに水を入れ、火を燃すために、そこの薪を小さく割ろうとして手斧を取りあげたまま、清水の言葉を聞いていたが)まあ、ねえ!(パチパチと眼ばたきをしていたが、着物の袖で涙を拭く)……それ程、先生のこと思って下すって。
清水 (吐き捨てるように)なあに、これっぱっち、なんにもなりません。
せい (寄って行き、ていねいに頭を下げて、包をいただいて食卓の端にのせる)……皆さんによろしくお礼をおっしゃって――。いえね。私ども、チットはたしにしようと思って、セッセとやっちゃいますけど――今も、あなた、それなんですの――けど、なんしろ、焼跡でしょう、レンガやガラスだらけで、そう急にチャンとした畑になりやしません。やっと少し出来たかと思うと、はじからドロボウにやられる。泣くにも泣けません。――ホントにありがとうございます、どんなに助かりますか。
清水 ……(せい子の言葉は聞き流して、柴田から眼を離さぬ)みんな、先生を待っています。
柴田 (それまで飲むのを忘れて手に持っていたコップの水を一息に飲んで、しばらく黙っていてから)……じゃまあ、言うが――……みんなの気持は、ありがたい。が、私が休んでいるのはだな――からだのかげんが面白くないとか、食料に不自由しているとか――そ言った事のためではないんだよ。
清水 ……そいじゃ、なんのためですか?
せい (柴田がうつむいて、黙っているので)だってあなた、食料は不自由しているんですから。第一、先生は、おからだが弱いとか、食料に不自由しているとかなんて言ってらっしゃるけど、ちがいます。おからだが弱いのは食料がたりないからですよ。そのほかに、わけなんぞ有りゃしません。だってあなた、配給がこんなに少いのに、闇の物はお買いにならない。たまったわけのもんじゃないじゃありませんか。私なんぞ、あなた――
柴田 (苦笑)買おうにも、君、金が無いから――
せい いいえ、お金は、たとえ有ってもですよ、先生はそういう主義でもって――
柴田 はは、主義だなんどと、やかましい事じゃないさ。……第一、今にはじまった事ではない。戦争中からズーッと、まあ、同じ事をしているだけで――
せい ですからさ、永い間、栄養がとれていないので、今のようにおなりんなって。それを思うと、ホントに私、泣けて来ます。(言っているそばから、ポロポロ涙を流している)いえ、先生のような方が、いくらなんでも、こんな、あなた――
柴田 いや、おせいさん――すまんが、あんた少しだまっていてくれ。
清水 ――僕、言ってしまいます。先程お話ししました、僕等が先生の事に就て議論した時に、先生の事を馬鹿だと言ったのは、僕です。――だってそうじゃありませんか。配給を当てにしていればわれわれは死んでしまいます。そいで公定価格で何が手に入ります。公定と言うのは名ばかりで、それを決めた政府も守らせる気は無いし、国民は勿論守っちゃいません。守れないのです。つまり全部が闇なんです。全部が闇なのに、俺は闇はしないと言って意地をはっているのは、滑稽じゃありませんか。気ちがいじみていると思うんです。――お怒りになっちゃ困りますが――いや、お怒りになっても、かまいません。
柴田 怒りはしない。……しかしね、清水君。私が休んでいるのは、ホントにそんな事のためではないんだよ。そこまで君たちが言うんだったら、まあ言うがね――早く言えば責任だ。……話が堅苦しくなるがね、私も、まあ、永年、歴史の講義をやっていて、まあ、言って見れば、学者だ。……智識の切り売りばかりしていたわけでもない。多少は、自分の学問的な立場もあるし、又、信念と言ったものも有る。それがこんな事になってしまった。――いやいや、別にそれだからと言って、自分の立場が崩れたとか、又は、スッカリ考え直さなくてはならなくなったと言うのではない。歴史というものを見る見方の根本が変ったりはしないようだ。しかし、……とにかく、今迄の様に高い所から君達に講義が出来なくなった。いろいろ反省して見なければ一言も口が開けなくなった。(せい子が湯をわかすためにシチリンで燃しつけた火がけむって、その辺に煙が流れる。その煙のためにしぶくなった眼へ指を持って行ったりしながら語る)
清水 しかし――しかし先生は、戦争中、僕等を戦争にかり立てるような事は、一言もおっしゃらなかったじゃありませんか。むしろ僕等は、講義中に時々先生のおっしゃる事から柴田先生は戦争反対論者じゃないかなんて話し合ったことがあります。現に、先生が、配属教官から何度も忠告を喰わされた事があるのは、僕等も知っています。特高の刑事なども、始終お宅にやって来ては、先生をいじめ抜いたそうじゃありませんか。
柴田 はは、そりゃ、かなり、やられた。言う通りにしないと縛るぞと言ってね。しかし、そんな事位、別に珍らしい事じゃなかろう。たいがいの人がもっとひどい目に逢っていたんだからね。上も下もあの時分は、頭がカーッとして眼が見えなくなっていたんだね。――私の言っているのは、そんな事じゃないさ。なるほど私は、戦争中だからと言うので、自分の講義のやり方を曲げたりはしなかった。その点はハッキリ言える。しかし、私は愛国者だ。日本を愛している。……だから、とにかく、戦争に負けたら、たいへんだと思った。負けさせたくなかった。……指導者達の、とんでもなくまちがった考えのために、悪い戦争が始まってしまった事は知っていた――たしか、教室でもハッキリその事は君達に言った事があるね? (清水ガクンとうなずく)――が、とにかく、始まってしまった戦争に負けたくなかった事は事実だ。そういう自分の気持が、ところで、私の講義の内容をだな――内容の一つ一つではなくてもその全体の基調や気分をだな、無意識のうちに戦争協力の方へ持って行った。少くとも、それが無かったと言い切ることは私には出来ない。それに気が附いた。
清水 ……私には、もう君達に対して講義は出来ない――あの時、先生はそうおっしゃってお泣きんなりました。
柴田 いやあ、涙が出たのは……ありゃ君、これきりで君達とも別れるかと思って、それがつらいんで、ちょっとその、はは、センチメンタルになったのさ。
清水 しかし――しかし、いずれにしろ、うちの学校で戦争協力について責任のあった先生達は、ちゃんともう三四人追放令に引っかかって、よされたんです。もし先生までがそんな風にお考えになるんでしたら、続けて教職についている資格のある先生は一人も居なくなります。現に、先生を嘲笑された斎藤先生だとか学生課の二三の先生達、戦争中、まるで神がかりになって軍部や勤労動員の先頭に立たれた先生がたは、どうなります?
柴田 そりゃ、人それぞれで、各自の考え方の相違――
清水 戦争中、先生のことを反戦論者だと中傷していた同じ口で、今度は国策居士は偉いもんだよなどと、白い歯をむいて嘲笑なさっているじゃありませんか。まるで猿です。
柴田 いやいや、そんな君、人を裁くもんじゃない、人を裁いちゃいかん。……人の事は、まあ、いいよ。人の目はごまかす事は出来る。恐ろしいのは自分自らの裁きだ。
清水 じゃ僕は、先生、僕など、どうなります?……戦争はいやでした。どんな事があっても二度としたいとは思いません。しかし僕は出征して戦いました。そして、こうして片腕をなくして来ました。僕は自分をどう裁けばいいんですか?
柴田 君はそれでいいんだよ。君は実は、正確に言えば、戦争の犠牲者なんだからな。私は、私自身の腹の中で、国民一人ぶんの戦争責任が有ると裁いたんだ。つまり私は有罪なんだ。
清水 僕が犠牲者なら先生も犠牲者じゃありませんか。先生が有罪なら、僕も有罪です。そんな風にお考えになることは、不当だと思います。ご自身に対して不当だと思うんです。行き過ぎで、病的だと思うんです。
柴田 病的かもしれんなあ。……しかし、病的であろうとなんであろうと、実感としてそう思っている自分が居ると言う事だ。人をごまかす事は出来るが自分をごまかす事は出来ない。
清水 ……(しばらく食卓の上をジッと見つめて黙っていてから)ホントは、僕の言いたいのは、こんな事じゃないんです。……僕等あ、先生が欲しいんです。先生を見たり、先生のお声を聞きたいんです。理屈なんかどうでもいいから、僕等は、先生をなくしたくないんです。
柴田 ……。(ひた押しに押し迫って来る相手の気持が胸にこたえて来るだけに、もう言葉ではそれを受けかねて、黙ってしまい、眼をパチパチさせたり、かと思うとその眼を室の一隅の方へジッと据えたりしている。そこへせい子が茶を入れて食卓の方へはこぶ。茶碗を取って清水と柴田の前に置く。先程からの二人の話を、湯をわかしながらジッと聞いていたのだが、口出しをするのをつつしんでいる)……や、ありがとう。(茶碗をとりあげる)
せい あら、それじゃ、手が泥だらけで――ちょっとお洗いになったら――?
柴田 かまわん。どうせ、もう少しやるから。……(飲む。せい子は再び柴田をたしなめにかかりそうにするが、ムッとして柴田を見つめている清水をはばかって、黙って炊事場の方へ)
清水 学問上の智識だけを先生から教えてもらいたいんじゃないんです。そんなものよりも、もっと大きなものなんです。……戻って来てほしいんです。
柴田 うむ。……うん。……(因っている)まあ、飲みたまえ。(言われても清水は茶碗に手をふれようとしない)……そりゃねえ、どうもそう言われると、なんだ――
声 (上手の扉の外で)ごめんください! ごめんなさい!
せい ……(そっちを見てチョット考えてから)はい。
声 あの、ごめんくださいよ!
せい はい、どなた――?(扉の方へ)
(せい子が扉を開けるのを待たず、向うから突き開けるようにしてズカズカとお光が入って来る。あかじみた手足や顔に煮しめたような着物を着た女で、はじめからしまいまでグッタリと眠ったまま泣声もたてない幼児を背に紐でくくって負うている。青黄色く憔悴した顔に眼が光っている。少し話しているうちに二十三歳であることがわかって来る)
せい あらまあ、大工さんとこの……お光さん――お光 こんにちは、ヘヘ。
柴田 やあ、おいで。
せい いやじゃありませんか、表口からおはいりんなりゃいいのに。
お光 だって、外はグルッと焼けてしまって、どこが表だか裏だか――(ニコニコしている)
柴田 ごぶさたしていて……すまんと思っているが、棟梁はお元気かな?
お光 ヘヘ、お父つぁんは毎日寝ていますの。壕舎は、しけましてねえ、又ひどくリューマチが出まして。あれやこれやでグチばっかり。大工の棟梁が自分の住む家も建てられねえで、こうしていつまでもモグラもちみたいに穴ん中に住んでいりゃ世話あねえだって。
せい そいで、あなたの御主人は、まだ、あの、復員になりませんの?
お光 はあ、もう、とにかく、主人の行っている方面からは、無事な兵隊だけは帰って来るのは済んだって言いますもん。死んじまったんでしょ。(ケロリとしている)
せい ……(此方で胸がつぶれて)まあねえ。(清水が無言で椅子を立ってお光にすすめ、自分は壁に近い所にある背の無い腰かけの方へ行く。お光はペコンとおじぎをして椅子にかける)
柴田 ……すると秀三君は?
お光 弟は電車の方につとめていますの。なんしろあなた、十八や九の弟一人の働きで、お父つぁんとおっ母さんと私と、この子ともう一人の上の子の六人口をまかなっているんでしょ? いっそ私なぞ、こんな子さえ無けりゃ、どんなひどい商売でもやっちまおうと思うんですけど、ふふふ、いえ、なに、いよいよとなりゃ子供が有ったって、かまやしませんけどさ、ヘヘヘ。
せい でも弟さんは、えらいわねえ。
お光 だめですよ。近頃電車やなんかも騒いでばかりいて、いつなんどき首にならないとも限りませんからねえ。そう言えば、こちらの誠さんの新聞社でもストライキがはじまるんですって?
柴田 そうかねえ……誠は別に――
お光 共産党なんでしょ? たしか柴田さんの誠さんだったって、いつか、なんたら言うデモの時に、日比谷へんで見かけたって秀三が言っていましたわよ。
柴田 ……ふむ。……(ペラペラと取りとめなく喋りかけられて返事が出来ない)
清水 先生、それでは、僕、これで――
柴田 う? うむ。……まあ、チョット待ってくれ。ええと――(清水は、再び腰をおろす)
お光 双葉さんは、いらっしゃいませんの?
せい (何を言い出すかわからない相手にハラハラしながら)ええ、あの、双葉さんは、チョット、あの、用たしに――
お光 そう? あの、信子さんの一周忌も、たしか、もう直ぐですわね?
せい はあ、いえ――
お光 だけど、いくらなんでも、黙あって、あなた、書き置き一つ無くって毒を呑むなんて、そんなあなた、いくら日本が負けちまって、そりゃあの当時は、いよいよ占領軍が上陸してくれば、女子供など何をされるかわからないなんて、根も葉もない噂さをふりまいた馬鹿も有りましたけどさ、いくら悲観したからって、信子さんみたいな、立派な女医さんが、そんな簡単に自殺なんか出来ませんわよねえ。キットなんですよ、好き合った相手の人が、戦死でもなすったと言うような事なんですよ。ほほほ、キットそうですって、私にゃ、わかりますよ。私だって主人の事考えると、死んじまいたくなる事がありますもん。
柴田 ……いや、もう、お光つぁん、信の事は、まあまあ、言って見てもしょうがないから。
お光 テッキリそうですわよ。その出征している好きな人が、キット特攻隊かなんかで突込んでしまったんですよ。だもんで信子さん、カーッとしちゃって毒を呑んじまったんですよ。全くねえ、私にゃ、ようくわかりますわ。(指先で涙を拭く。自分だけでは真率に同情しているのである)
柴田 いや、その――(弱まり痛んでいる皮膚の上をササラでひっかきまわすような相手の粗雑さが、全く悪意に発したものでないことがわかるだけに、腹を立てるわけにもゆかず、殆んど拷問にかけられながら)……ええと、金の事だろう? 建築費の月賦で、まだ残っていた、あの話じゃないかね?
お光 はあ?(キョトンとしている)
柴田 早くなんとかせにゃならんとズーッと、この、考えているが、私も、ここんとこ、少しなまけていてな……しかたがないので、本でも売払って、あんたん所には入れるつもりで、もうチャンと話はしてあるんで、二三日すれば、私の方から持ってあがるから――そう言って、ひとつ。
お光 困りますねえ。……お父つぁんが、とてもやかましく言うんですけどねえ。
柴田 すまんが、もう少し待ってくれと、そう申しといてくださらんか。
お光 そんでも、内でも、どうにもしょうがなくなって。買い出しに行こうにも、ジャガイモが一貫目五十円からなんですもん。メシのたんびに、あなた喧嘩がはじまるんですよ。二三日前もあなた、人のを食っちまったとか何とかで、あの穴ん中でお父つぁんと秀三が取っ組合いの喧嘩ですもん、ふふ。……そいで、今日はどうしても、半年分か三月分位は、是が非でもいただいて来いと、お父つぁんが言ったんです。
せい でも、こちらも、どうにも都合が附きませんので、どうか、もう少し――
お光 冗談でしょう、こちらさまなどが五百や六百の金位にあなた、ヘヘ。
柴田 それが君、はずかしい次第じゃが、まるきり余裕がなくてなあ。すまんが――
お光 だってこちらは、大学校の先生でしょ?
柴田 (苦笑)うむ、そりゃまあ――
せい 家や家財が焼けてでもいなければ、もう少しなんとか格好の付けようが有ったでしょうけどねえ、ホントに今の所、なんとしても――
お光 焼けたなあお互いさまですもん。
せい でもねえ――家でも、まだ焼けないで残っていれば、なんですけどさ、お宅のお父さんに建てていただいた家は跡形もなく焼けてしまって、こうしてあなた、遠縁にあたるこんな所の、それもたったこの部屋だけが焼け残ったのを借りて、みんなで住んでいるようなありさまですからねえ。
お光 今更になってそんな言い方ってないじゃありませんか。内のお父つぁんはこちらから請負って家を建てたんだから、その請負賃の残金を貰うのはあたりまえでしょう? 丸焼けになったのはお父つぁんの知った事じゃないじゃありませんか。冗談言って貰っちゃ困りますわよ。第一、八年前にお宅を建てた時分と今とじゃ、お金の値打が、まるで十分の一か二十分の一になっているんですからね、あの時の五千円と言う残金を、あなた、今の金で貰ったって、まるきり、なんのたしにもなりゃしないんだから、本来ならば月賦の金の百円を千円ずつにして貰いたいとこだって、お父つぁんなど言っている位ですよ。
せい そりや暴と言うもんです。そんな、あなた――そんな事おっしゃったって――
お光 暴だって?
柴田 まあまあ、いや、何と言っても私の方に払込む義務は有るんじゃから――
お光 そうですよ、義務が有りますよ。
せい いえ、そりゃ払わないとは誰も言やあしないけど、同じ催促するにしても、なんとかもうチット、しようが――
お光 あなた、こちらの奥さん? 奥さんじゃないでしょう?
せい ……そりゃあなた、私は――
お光 こちらの亡くなった奥さんは、ようく知っているんですからね。おとなしい、おきれいな、そりゃ良い方でしたよ。お亡くなりんなる前だって、うちのお父つぁんに、おかげで、やっと自分の家に住めるようになりましたって、涙を流してお礼をおっしゃったんですからね。そりゃお人がらな、なんですよ、ふん!
せい ええ、私は、なんです、戦災に逢って、こちらに御厄介になっている者で――
柴田 この人は、まあ、遠縁にあたる人で、……なんだ、まあ、こうして家事をやってくれている――
お光 そいじゃ口出しをしないでいて下さいよ。ヘ、なによ言ってやがんだい!
柴田 ――ホントに、実に相済まんが、一両日中には本を売払って、いくらかでも持参するようにするから、今日のところは、ひとつ、お光さん――(くやしそうにお光を睨んで立っていたせい子が、プイと上手の扉から外へ出て行く)
お光 駄目ですよ先生。私等だって、もうあなた人さまに同情なんかしちゃ居れないんです。昨日っから、昨日の朝っから、親子六人が、身になるものは何一つ喰っちゃ居ません。この子が、あなた(と背中の幼児を邪慳にゆり動かして寝顔を肩ごしに覗き込む。幼児はそうされても眼をさまさぬ)こうしているのを、ただ眠っていると思うんですか? はいるものが入ってないから、弱っちまって、こうなんでさあ。四五日前から、私あ、お乳があがっちゃっているんです。
柴田 ……相済まぬ。明日にでも必らずなんとかするから――
お光 だめ。手ぶらじゃ、私、帰れないんですから。
柴田 そんなことを言われても――
お光 待たしてもらいます。どうせ、あなた、帰ったからって、食う物ひとかけら有るわけじゃなし、腹のへるぶんにゃどこに居たって同じなんですからね、ヘヘ。
柴田 ……困ったなあ、どうも――。
せい (上手の扉を開けて現われる。お光を尻目にかけて)先生、あの、小さいシャベル、ごぞんじない?
柴田 シャベルなら、この下に、まだ置きっぱなしだが。なにをやるんだね?
せい いえ、ちょっと、カボチャの根に堆肥をやるんですの。
柴田 そりゃ、明日にでもしたら――そうさな、ちょっと待ってくれ。(救われたように床の切穴の所に行き、ふちに手をかけて、足をおろす)
せい いいんですか?
柴田 なあに――(床下に姿を消す)
お光 カボチャですか?(せい子返事をしない)ふふ。(返事をされないのにも別に気を悪くした様子もなく、その辺を見まわしていた眼が食卓の端にのっているジャガイモの包に行く。スッとその方へにじり寄って、包の端を開いて覗く)まあ、みごとなおジャガですわねえ? お宅でとれたの?……(せい子返事が出来ないでいる)よござんすわねえ、ずいぶんたくさん有るじゃありませんかあ!(包をほどいてしもう)まあ、こんな大きい。(ゴロゴロゴロところがり出して床へ落ちた芋の二つ三つを拾い取って)へえ!(チョットそれを見ていてから)……ねえ、これを少し分けていただけないでしょうかねえ?
せい でも――(清水を見る。清水はへんな顔をしてお光を見ている)
お光 いいでしょう? そうすりゃ、とにかく、帰って行っても、私、お父つぁんに叱られないで済むんですからさ。
せい それは、しかし先生に――
柴田 (同時に床穴から首をもたげて、泥だらけの小さいシャベルをせい子の方へ出す)おい来た。
せい はい。――(受取るが、眼は直ぐお光の方へ)
柴田 なんだ?
せい そのねえ、おジャガを分けてくれって、お光さんが――
柴田 そう。そりゃ……そうさな、そりゃまあ、いいだろうが――そりゃ清水君達が――(清水の方を見る)
清水 それは、先生んとこの物です。
柴田 うむ、そりゃ、あんたんとこも困っているんだから――
お光 はい、ありがとうございます。
柴田 (礼を言われてしまって困って)いや、その――おせいさん、ひとつ、あんた、いいようにその――私あ、もうチョット、この下を、なにして――(床下に引っこむ)
お光 ……(黙って立っているせい子の顔を、光る眼でジッと見つめる)
せい ……(しばらく黙っていてから、ヒステリックに)いえ、私あ知りません! 私あ知りませんよ。私あ、此処のかかりうどに過ぎないんですから、そんな事知らないんですよ!(シャベルを持って小走りに扉から消える)
お光 ……(その後姿を見送ってから、チョットの間ジッとしていたが、清水の方をチラリと見てニヤリとして、次ぎに獣のようなすばやさで膝の上に置いていた買物袋の中へジャガイモをさらいこみはじめる)
清水 ……(それを見て口の中でアッと叫び、なにか言葉をかけそうにするが言えない。――その間もお光はサッサとジャガイモを袋に詰めている。――その時、床下で、土を叩く鈍い音がドシン、ドシンと間を置いてする。清水その方を見る。――やがて、その眼をお光に移して、苦しそうな低い声で)――君、おい君――
お光 ……(ジロリと清水を見るだけでイモをさらい込む手は休めない)
清水 それを、君あ、みんな持って行くんですか?
お光 ……
清水 此処でも困っていられるんだから……。(相手は、すましてイモを袋に入れ終って、椅子から立つ。清水も思わず立ちあがっている)君んとこの事情も、なんだけれど……
お光 ……(どっちから出て行こうと奥の出入口と上手の扉の方をかわるがわる見やりながら)あんた、どなたですか?
清水 いや、僕あ――しかし、せめて半分位――
お光 (ニヤリとして)金さえ返して下さりゃ、こんなもん要りませんよ。
清水 (言句に詰ってカッとして歯をガチガチ鳴らしながら)そ、そ、そりゃ君! ――先生は、柴田先生は――腹が、すいて、栄養不良なんだ。先生には食い物が無いんだ。少しは――少しは、それを考えて君――
お光 私んちでも、栄養不良ですよ。(別に反感もなく単純に言い捨てて、背の幼児を一つゆすぶってから、ふくらんだ買物袋を下げて、サッサと奥の出入口の方へ。……清水は今にもそれに掴みかからんばかりに片手をブルブルと顫わしながら、しかし立っている所から動けないでいる。そこへせい子が戻って来る)
せい ……あの――(眼がお光の後姿に行き、それから清水を見て、食卓の上のほどかれて放り出されたフロシキへ。ハッとして、再びお光を見、清水の顔を見る。不意に顔色を変えて、背後からお光にかじりついて行く)ま、あんた! お光さん! 待って下さい! そりゃ、あんた、あんまりひどい! 先生が、いえ、この方がなにした物を、それじゃ、まるであんた!
お光 ……(かじり付いた相手を猛烈な勢いで振切る。ベリベリッと音がして、ちぎれたお光の片袖を手に握ったまませい子がはねとばされて、床の上に倒れる。その拍子にお光自身もヨロヨロとして傍の壁にドシンとぶつかって倒れそうになるが、踏みこらえて、サッと出入口へ消える)
せい ま、待って! 待って!(はね起きて)そんな事って――畜――(ヒーッと言うような叫声になって、出入口から外へ)
清水 ……(それを見送って棒立ちになっている)
(間)
(シーンとして、床下の音もしない――。清水が青い顔で歩き出す。――柴田の居るあたりの床を見る。斜陽のためにスーと明るくなった窓。ユックリと無意識に歩く。室の中央に立停って、正面をジッと睨む。やがて床下へ向って)――先生! 先生!(床下からは何の音もして来ない。又二三歩歩いて行き食卓のわきの腰掛にかける。そしてジッと動かなくなる……間……)
(上手の扉から、長男の誠が入って来る。みすぼらしい背広にハンチングにズックの手さげカバン。ひどく憔悴している。冷静な、時に過度におさえつけたような傍観的態度。ものを言い出すときに時々乾いて前歯にへばり附いた唇をひっぺがすのが、痙攣するような、場合によって相手を嘲笑しているような表情を与える。――扉の外でぬいだ破れ靴を扉の傍に置いて、室内を見まわした眼が自然に清水にとまり、しばらく見ているが、清水はこちらに気が附かぬ。誠は別に言葉をかけようとするでもなく、ユックリと室内を見まわした末に、上手前寄りの坐る式の机の所へ来て、ズックのカバンを机の上にバタリと置く)
清水 ……(その音で、ちょっとの間、ボンヤリと誠を見ていてから、われに返って)やあ……。(シーンとして、床下の音もしない――。清水が青い顔で歩き出す。――柴田の居るあたりの床を見る。斜陽のためにスーと明るくなった窓。ユックリと無意識に歩く。室の中央に立停って、正面をジッと睨む。やがて床下へ向って)――先生! 先生!(床下からは何の音もして来ない。又二三歩歩いて行き食卓のわきの腰掛にかける。そしてジッと動かなくなる……間……)
(上手の扉から、長男の誠が入って来る。みすぼらしい背広にハンチングにズックの手さげカバン。ひどく憔悴している。冷静な、時に過度におさえつけたような傍観的態度。ものを言い出すときに時々乾いて前歯にへばり附いた唇をひっぺがすのが、痙攣するような、場合によって相手を嘲笑しているような表情を与える。――扉の外でぬいだ破れ靴を扉の傍に置いて、室内を見まわした眼が自然に清水にとまり、しばらく見ているが、清水はこちらに気が附かぬ。誠は別に言葉をかけようとするでもなく、ユックリと室内を見まわした末に、上手前寄りの坐る式の机の所へ来て、ズックのカバンを机の上にバタリと置く)
誠 いらっしゃい。――みんな、どうしたんでしょう?
清水 ……ええ、ちょっと、その、待たせて貰っているんで――(腰をあげる)
誠 いいんです。……(疲れきった様子で坐りながら)どうぞ、ごゆっくり。――失礼。(机の前に敷いてあるきたない座ぶとんを四つに折って、それを枕に床の上にじかにゴロリとあおむけに寝る)疲れているもんだから――(軽いせきをはじめる)
清水 はあ、いや――。(その時、同じ上手の扉の、誠が入った時にしめ切らないで少し開いていたのを、外からスッと押す片手が見える)
声 ただいまあ。……(その手が、からのリュックサックを室内に突き入れながら)兄さん――誠兄さん!
誠 ……おい。――双葉か?
声 やっぱり、兄さんだった。……駅んとこで、ガードの下を歩いて来るの、そうじゃないかと思って、急いで来たけど……(外で靴をぬいだり、バタバタと着物のほこりをはたいたりしながら)……駆け出そうと思っても、膝がガクガクしてだめなの。……(言いながら、次女の双葉が入って来る。簡単なブラウスに男のズボンをはき、左手にズック靴、右手の手拭いでズボンのすそを払いながら)足に豆が出来ちゃったわあ。アラアの神よ代々の聖人様よ……(言いながら靴を扉のわきに置き、食卓の方を見ると、そこに兄ではなく清水が立って此方を見つめているので、不意に口をつぐんで黙ってしまう。そして立った彼女の顔の左半面の、咲いたばかりの花のような
清水 ……やあ。(マジマジと相手を見つめていた末に、頭をさげる。双葉、急に少女らしくはにかんで、黙ったままキクンとお辞儀をする)
誠 どこへ行ってたの?
双葉 ……うん、買い出し。(言いながら、兄の方を向いた顔の右半面の、こめかみの辺から二寸位の巾で咽喉の右側へかけて、薄紅く光った、むざんなひきつり疵。左半面の美しさとギョッとするような対照をなしている)
誠 うまく買えたかね?(せきをする)
双葉 アブレ。……どうなすって、兄さん?
誠 うん……(せきが続けざまに出る)
双葉 お水、あげましょうか?……(下手の炊事場の方へ行きかけて、ストンと膝を突いてしもう)
誠 (せきの中から苦しそうに)いいよ。すぐおさまる。
双葉 ……(立ちあがってバケツの方へ。黙って食器棚の上からコップを取って水をつぎ、兄の所へ持って来る)はい。
誠 (半身を起して水を呑む。せきが少しおさまる)ありがとう。
双葉 お父さんは?
誠 知らん。
清水 先生は、この下にいらっしゃるんです。
双葉 あら、また! よして下さいって、あんなに言っといたのに。(床穴の方へ)
清水 僕も、そう言ったんですが――僕は、学校の、先生の講義を聴いています清水――
双葉 おぼえています。ズッとせん、出征なさる前に一二度お見えんなりました。いつお戻りんなりまして? どの方面――?
清水 自分はクェゼリンでした。
双葉 (相手の失われた片腕に目をとめて)……その腕は、それじゃ――?
清水 やあ。……(からだの左側をかくすようにして微笑)
双葉 ……(床穴を覗き込もうとした姿勢をチャンと坐り、床に手をついて頭を下げ)……御苦労さまでした。
清水 はあ。(足をそろえて礼を返す)
双葉 ……(床穴へ向って)お父さん! お父さん!(返事なし。双葉その辺を見まわして)――せい子おばさんは、どこかしら?
誠 表の畑じゃないかね。
清水 そりゃ、先程――お光とか言う人を追っかけて、出て行かれました。
双葉 へえ、そいじゃ、お光さん、又来たのね――(兄を見るが、誠は無表情な顔をして黙っている。そこへ下手の奥から外国語の鼻歌の声(Si alguna vez en tu pecho, ay ay ay, mi cari

三平 や。(鼻歌のつづき)Enga


双葉 (床下を覗きこんで)お父さん! お父さん!
三平 どうしたね?(アクセントが少し変である)
双葉 またお父さん、防空壕うずめてんの。
三平 そりゃ、いかん。これ、兄さん!(床板を足で踏む)ヘイ! 出て来い、こら!(ドンドン踏む)
双葉 お父さん! どうなすって? お父さん!
柴田 (床穴から首を出す。寝ぼけてキョロキョロと周囲を見まわしたり、眼をこすったり)う、ど、どうした?
三平 ユーこそ、どうした?(柴田の身体に手をかけて引き上げる)
双葉 (これも共に父親を引き上げながら)だめ、お父さん! あれほど言ってるのに!
柴田 いや、なに――(やっと我れに返って、双葉に助けられて椅子の方へ来ながら)びっくりした。――又、空襲がはじまったかと思った。――
三平 なにを夢を見ている?
柴田 いつの間にか、眠っちまっていたらしい。いきなり、ドカンドカンとお前、――びっくりして眼を開くと、まっくらだろう? はは、はは。
三平 しかしフロアの下で眠ってしもう奴もないじゃないか。
双葉 それだけ疲れていらっしゃるのに――(柴田がクシャンとくしゃみをする)そら、ごらんなさい、風邪ひいちゃった!
清水 ……僕、今日は、これで失礼します。(頭を下げる)
柴田 どうも、なんだ、失敬した。そうかね。いずれ、なんだ――ええと、ジャガイモは、どうも――(食卓の上を眼で捜すとイモは無くてフロシキだけ)
清水 ……(そのフロシキをクシャクシャにして右手で掻き寄せ、ポケットに突込みながら、うつ向いている顔から、ポタポタポタと涙が食卓の上に垂れる。双葉と柴田と三平と誠が次々にそれに気附いて、びっくりしている。――清水、その涙を横なぐりに右腕で拭いて、柴田を正面から見る)……先生は馬鹿です。(ふるえる唇で低く言って、クルリと背を向けて、スタスタと奥の出入口から去る)
(間)
三平 ……どうしたな、今のは――?柴田 うむ。
三平 泣いていた。……誰?
双葉 ……お父さんの学校の学生の人――
三平 そうかね? だが、馬鹿はおだやかでない。先生だろう、すると、兄さんは? 先生のことを君――
柴田 いやいや、いいんだ。ありゃ、りっぱな青年だ。
三平 りっぱな青年が、上長に対して――近頃、そんなふうになって来たのかね?
柴田 まあ、いい。
三平 道義、地に落ちたり。ふん。Pero nun ca selo digas(帽子をぬいで、ドシンと椅子にかける)
双葉 お父さん。手や足をお洗いになったら?
柴田 そうさな。
双葉 水を汲んで来ましょうか?
柴田 なに、井戸へ行こう。(フラリと立つ。双葉がその背に片手をかける)いいよ、一人でいい。
双葉 いえ、私も畑に御用があるの。(力なく歩く父を助けながら上手の扉の方へ)
三平 腹がへった。フーちゃん、腹がへったよ。
双葉 はい、直ぐ、なにしますから。(父と共に外に消える)
三平 どうした誠君?
誠 (横になったまま)ええ。
三平 どうかね、社の方は? ストライキは、いよいよ、はじまりそうかね?
誠 ええ。
三平 元気が無いね。これから君、戦闘をはじめようと言うのに、そんなグッタリしていちゃ駄目だな。そもそも、この――
誠 叔父さん、双葉は買出しに行って、今日もあぶれちまったらしいですよ。
三平 あぶれ?
誠 ――なんにも買えなかったらしいんです。
三平 ……ホントに田舎にもそんなに無いのかね? そりゃどうも考えられんね、闇市はもちろん、さかり場へ行きゃ、なんでも売っている。
誠 ――無いんでしよう。もっとも、物が無いのか、金が無いのか、わからんが。
三平 ふむ。それで、しかし――
誠 非常に弱っています。双葉がノンキそうな事を言う時は、参っちゃってる時です。そんな奴なんです。
三平 うむ、……いや、君達のお母さんも、そうだった。母親に似たんだね。私は、自分の妹ながら、感心したことがある。よくできた女だった。うむ。もっとも、そのために苦労が内にこもってしまって――つまり内攻して、若死にしてしまった。そう言っちゃなんだが、君達の親父なんて言うもなあ、学者だかなんだか知らんが、人が善いばかりで周囲の人間をどんなに犠牲にしているかわからんのだからねえ。つまり善意に依って人を殺すというやつだ。それを考えると、なんだ、心の中が苦しい時に顔はニコニコしていると言った式の東洋風の習慣も、一種の罪悪だね。人間、他人に対して正直である前に自分自身に対して正直である必要がある。日本人も、そこいらから始めるんだなあ、うむ。
誠 違うんだ。
三平 う? なんだ?
誠 (ユックリ起きあがって)僕の言うのは、そんな事じゃありません。
三平 だって、そうじゃないか。ぜんたい、君たち、柴田一家には、みんな同じような悪習慣があるね。自分の考えたり感じたりしていることの、一番かんじんな事はすこしも表に現わさない。はなはだしい場合は、腹の中で泣いていながら顔では笑っていたりする。早い話が、死んだ信子だ。死ぬ位だから、よっぽど悲しかったのだろうが、なら、なぜ正直に泣いたりわめいたりだな、つまり、その通りにふるまった上で生きて行かない? それを、涙ひとつこぼさず、遺言ひとつ残さないで、アディユ! ふん! きれいだったそうじゃないか――しかも年は若いし、医学校は卒業している。オウ! ツウ・エンド・ツエンティー! もったいない! ――そいつが、だまって、アディユ! 生命に対する冒涜だよ。死ぬほどの気持なら、生きて行けぬ事はない。これを要するに命さえ捨てれば能事終れりとする、愚劣な、神がかりのセンチメンタリズム! 私はそれを思うと――
誠 信子の事は、よしましよう。(ズックのカバンから印刷された紙のたばを取り出して机の上に開く)
三平 そら、そら、君にしたって、すぐそれだ。なぜ、よす必要があるね? あくまでその原因と動機を追究して、そんな風なセンチメンタリズムの愚劣さかげんをハッキリと認識してだな、われわれが今後もうそんな馬鹿なことを繰返さないようにする事こそ、信ちゃんの死を最もよく弔うゆえんになるじゃないか。そら又、そんな顔をする。君だってマルキストだろう? そうだろう? そんなオツに悲しそうな顔がマルキストの顔かね?(誠、無言で苦笑する)笑ってるね? 笑いたまえ! 私あ、あちらでもマルキストをたくさん知っていた。立派な奴もくだらん奴も居たがね、とにかく日本の近頃のマルキストのように東洋豪傑風にセンチメンタルな、それでいて自分に対して不正直なマルキストは一人も居なかったねえ。これも日本の特殊性かね? まるでどうも、アジャンタ洞窟の石仏だ。東方の微笑と言うやつ!
誠 ……喋るなあ。
三平 うん?……(キョトンとして)うむ、はは。(顔を平手でゴシゴシこする)いや、ちかごろ、腹がへるとベラベラと、とめどが無くなった。胃がからっぽになると頭が昂奮するのだなあ。食欲と言語中枢の関係か――
誠 ……その腹がへったを、双葉に、あまり聞かせないで下さいと言ってるんですよ。
三平 しかし、へったのは事実だからね。
誠 そうでなくても、双葉はいつも一人で気をもんでいるんですから――あんまりヤイヤイ言われると、又倒れます。
三平 うむ。……そりゃ、まあ、なんだよ……うむ。ええと、おせいさん、どこい行ったかね?
誠 人が来て、それと一緒に出かけたらしいですよ。
三平 人? じゃ、厨川の方から誰か?
誠 いや、大工さんの――板橋の家を建てた大工の内のおかみさん――どうせ金の催促でしょう。
三平 しつこいなあ、どうも。すっかり焼けて灰になってしまった物の代価を、はたり取られてる。いや今の日本は公私ともに、すべてそれかもしれんなあ。
誠 ……せい子さんの、厨川の方のこと、片附いたんですか?
三平 さあ、まだだろう。
誠 だろうって――人ごとのように言うなあ。
三平 だって君、私とおせいさんは関係が有るが、私と厨川君とは、なんの関係も無い。おせいさんの元の亭主が厨川君であると言うのにすぎないんだからね。おせいさんが厨川へ戻りたきゃ、戻ることを押しとどめ得る者は居ないわけだ。
誠 ……すると叔父さんは、そうさせたいんですか?
三平 私が? はは、そりゃ又、おのずから別の問題だね。
誠 しかし、それがつまり、三角関係じゃないんですかね。
三平 そうかねえ? 私ぁそうは思わん。私があちらへ行く前にしばらくなじんでいた会席料理の娘がその後いろんな目に逢って厨川と内縁関係をむすんでいた。厨川が出征した。その留守を焼け出された。そこへ私が向うから引上げて来てヒョックリ逢って、居るところが無くて困っていると言う。でまあ、昔のよしみ、それに、あれの、なくなった兄と言うのが、ここの兄さんの昔の教え子だって言うしね、まあ、此処へ来たらどうだと言うんでやって来た。それだけの話。もっとも、私自身がこうして此の家にころげ込んで住ましてもらってるぶんざいで、又ぞろおせいさんまで引っぱって来るのが身の程知らずだと言われれば一言も無いがね、ハハハ。しかしまあ、あの人も此処に居れば家事かなんか多少は役に立っているんだから、そこは大目に見てくれるんだな。……そこい厨川が兵隊から戻って来た。そして厨川はおせいさんに自分の所へ帰れと言う、おせいさんは帰るのはいやだと言う。そこにどんなわけが有るのか、私ぁ知らん。あくまで当人同志の問題だろうじゃないか。
誠 すると、叔父さんは、ただそれだけの気持で――?
三平 そりゃ君、私ぁあの女が好きだよ。……昔のこともあるし――好きなことをかくす必要は感じないね。ふふ。……いずれにしろ、君、たかの知れた女一匹――
誠 ……ふん、叔父さんこそ、東洋豪傑風だ。
三平 そうかね、まあどっちでもいいや。だが、君ぁ又なぜそんなに気にするんだい? え?
誠 ……不愉快だからです。
三平 不愉快? なにが?……もしかすると、なんじゃないか……君もあの女がまんざらでもないんじゃないか?
誠 (鉛筆を握って印刷物を見ていた眼をあげて三平を見る)
三平 (ニヤニヤして)駄目だぜ、君みたいな若い者があんな女に引っかかっちゃ。マルキストがいっぺんに台なしになるよ。……あの手の女は、先ず蟻地獄――君みたいな身体だと忽ち命取りだぜ。ふふ……でも、その気が有りゃ、向うを張って見るか?(ひどく陽気になっている)
(柴田が手にひとつかみの野菜を持って上手の扉から入って来る)
柴田 ……ひどいもんだねえ。ふだん三平 は、は、ははは――なに、油虫だって?
柴田 う?(はしゃいで笑う三平と、青い顔をして三平を見つめている誠を見くらべる)――どうしたね!
三平 やあ、はは、なあにね、私がさ、南米あたりで邦字新聞を出したり、いろんな代理店をやったりして、ゴロゴロして歩き廻りながら、もっぱら、この色ごとと酒の修業にどんだけ精魂を傾けて来たかと言う事をだねえ、誠君は知らんらしいからねえ、年はとってもまだまだ若い者には負けんから、お望みとあれば――
柴田 ははは、なにを、つまらんことを。……そいで、どうだね、役所の方は?
三平 やっぱり駄目ですよ。てんで、なっちょらんたい! これが二十回近くもお百度踏ましといて、いまだに責任のある返答のできる役人が現われんのじゃから。まるでどうも、日本人はホッテントット以下の人種になってしまったらしい。お気の毒ですが、なにぶんの示達があるまでは、在外資金はそのまま置くより仕方がありませんの一点張り。そんなら黙っていないで、当方の事情を訴えて、せめて引揚者の当座の生活資金だけでも肩代りをして支払えるような許可を受けてくれと言っても、駄目。卑屈になり切って、言うべき事も言えない。まるでどうも!
柴田 困るねえそれは。同じような人がずいぶんあるんだろう?
三平 ずいぶんのだんの候のって。何十万、いや東京だけでも――今日も帰りに浅草の寺に寄って見たが、――引揚者収容所です――都内だけでも二十箇所近く有るのが全部超満員――その連中が殆んどまあ、その土地々々の預金はそのままにして戻って来てるんだから。十年二十年、粒々苦心の結晶が、こら、こうして(内ポケットから、書類のたばを出して食卓の上に投げ出す)ただの紙っきれにこそは、なりにけり。
柴田 しかし、その内には、払い戻してくれるんだろう。
三平 その、その内には、だ、私等あ、一人残らず、かつえ死にに死に絶えていたってね。ふっ! その内に戻って来る十万円がなんになります? 今日たった今百円でも二百円でも無きゃ、私等ぁ生きちゃ行けないんだ。私ぁね、今日帰って来ながら、いよいよ闇屋になる決心をつけた。なあに、その気になりさえすりゃ、なんでもない。なんでも肌着を全部二重にして、それをちょうど防弾チョッキみたいに一面に小さい袋になるように縫っといて、それに全部買った米を入れて胴中から足の先まで巻きつけて来るのがあるそうだ。そうすれば一斗五升位は持って来れる。そうして一年三百六十五日汽車に乗ってあちこちしていれば、暮しが立つと言う。こんならくな稼業は無い。第一、そうなると、殆んど汽車の中が宿屋で暮せるんだから、此処の室にこうして厄介にならずに済むからね、ははは。
柴田 ……そりゃまあ、なんだが……此処にはいつまで居てくれても、私らはかまわんが――
三平 しかし、兄さんの方だって、三瓶の方から立退きを迫られているんでしょうが?
柴田 ……そりゃまあ、あけてくれと言っちゃ来ている。しかし三瓶さんの方じゃ、とにかくまあ、疎開先で腰を落着けて居られるんだから――それに此処だって、使えるのはまあ此の室だけで、どうせ三瓶で取戻して見てもチャンと住まえるわけはなし、それを話して当分、まあ、居さして貰うとして。――それよりも、その、君が、闇屋になると言うのは……なんとか他に方法は無いもんかねえ?
三平 そら始まった。
柴田 いやいや、私の言うのはだな――
三平 たいがいにしなさいよ、あなたも。ねえ誠君?(誠、答えず。うつむいて鉛筆を動かしている)そうでしょぅ? 生命をつないで行くために、人間がしちゃいけない事なんか、世の中に何一つ有りゃしませんよ。
柴田 しかし、どうせ闇屋などをしても、ホンの一時のことだろう。それよりも、なんとかこのチャンとした方針を立ててだなあ――
三平 人世、すべて、その一時でないことがありますかねえ。時にこうした有様の現在とあって見りゃ尚の事。昨日は夢の如く、明日はどうなり行くか、双葉じゃないがアラアの神も御存じなしです。チャンとした方針などが有り得ると考えることからして一つの妄想だねえ。強いて方針と言やあ、一刻々々と次々にどんなに奇妙な、どんな奇怪な事が起きてもですね、――たとえばアラフラ海の海底から四斗樽ほどの海蛇が出しぬけに此処へやって来て、一緒にダンスを踊りましょうと申し出てもだね、又、一時間もして不意に私がアモックにとっつかれて、そこの薪割りかなんかで兄さんをはじめあなた方全部を皆殺しにしてもですね、今更びっくりしないと言う事だなあ。
柴田 また、でたらめな事を――
三平 でたらめだとしても、そいつは私のせいじゃない。今の時代がそうなんだ。人間は、何百万のお仲間の人間を殺したばっかりのところでね。
誠 (眼をあげないで)南米ゴロ的な詭弁だ。
三平 (ジロジロと誠を見る)……「南米ゴロ的」は、君の言う通りだ。しかし詭弁じゃないね。
誠 戦争を計画し挑発したのはファッショですよ。
三平 そりゃ、そうのようだがね。結果さ、私の言っているのは。つまり人類だ、人類が人類を殺したと言う全体としての事実は、どういう事になるんだい?
誠 そんな人道主義的な戦争観自体がファッショです。
三平 (……誠の言い方の、静かだが、しかし毒々しい位の真意をこめた調子に対して、相手に眼をやりながら、しばらく黙っている。しかし又、殆んど表面には何の反感も現わしていない淡々たる語調で)ありがたいが、その褒め言葉は返上しよう。私はファッショでさえもないからね。せいぜい国際的ルンペン。……駄目さね、もう。つまり、倭寇のキンを抜かれたやつ――デゼネレートした倭寇さね。ハハハ……(笑いながら調子を変えて柴田に)だが、兄さんも、いいかげんにしたらいいと思う。学問の事など私にはわからんが、兄さんみたいな良心的な歴史学者なんて、これからの日本に存在し得るわけがない。存在する必要もない。又そうなった方が、日本の幸福かもしれんのだからねえ。そもそも、学校なんて一面から見れば要するに生活の資金を稼ぐ所なんだから、そんな所としてハッキリ認めた上でだな、先方で戻って来てくれと言ってるんだから、サッサと戻って行って、元気よくやったらどうです。
柴田 (苦笑)……やあ、私はただの歴史の学究……老書生に過ぎん。私など、実はこれから、もう一度、日本の歴史の勉強をやり直そうと思っているよ。
三平 へえ、まだこりませんかねえ?
柴田 こりる? こりるとは?
三平 だいたい、歴史を見るのに、そんな、いろんな見方が有るんですかねえ? 事実を事実として眺めれば、誰が見ても違いはしまいと思うが――?
柴田 その、しかし、事実を事実として眺めるのにも、眺める人の態度や立場が有る。第一、今迄、事実を事実として眺めるにも、それを邪魔したり圧迫したりする力が多過ぎた。そのために歴史そのものも色々と歪んで来ているわけだ。それが、これからは、まあ、そのような外部からの力が比較的無くなった。正しい公平な日本の歴史が出来あがるのはこれからだろうと思われる。私など、これからこそ、古事記や記紀の類や万葉その他の古典が国民全般に研究される必要が有ると思っている。古い時代に限らない、徳川以後、明治維新以後の近世の事にしたって、ホントに学問的に検討されるのはこれからだね。少くとも検討され得るのはこれからだ。私らはそれをやらなくてはならん。いや、私などに何程の事もやれんかも知れんが、それはまあ、私ら自身は捨石になってもよいからとにかく、これから、やらなくちゃならん。こうしてまあ、さんざんのありさまだが、此の国の将来の事を思うと、参ってばかりも居れない。むしろ、この国が生きるも亡びるのも、これからの事だと言う気がする。そう思うと、私など丁度二十代の、学問をはじめたばかりの時分のような気分になる。まあ、暮しの方は又飜訳の仕事でもやりながら――
三平 そりゃ……そりゃねえ、そんだけ兄さんが若返った気持になってるのは結構だけどですよ、なんだ、気だけ立てて見ても、身体がそんなに弱っていちゃ、どうにもなるまいと思うんだが――それが大事な点だと私は思いますがねえ。第一、兄さんは、これからは今迄と違って、学問の研究を、外部からの力がひん曲げたりする事がなくなったと言うが、私はそんな事はないと思うね。
柴田 そりゃ、細かい事を言えば、そうかも知れんがねえ、しかしいずれにしろ、外部からの力に依ってひん曲げられる事に対して抵抗してだな、ホントの物の真実を守って行くのが、先ず学究の任務じゃから、少しでもその種の外力が減ったと言うのはよろこばしい事で――
三平 違うなあ、私らの考えは。学問などと言うものは、いつまでもその時その時の力に依って動かされて行くもんで、学者と言うものは、その時々の権力でどうにでもなるもの――つまり、学者は一人残らず曲学阿世の徒でさあ。おっと、これは学者の悪口を言っているんじゃありませんよ。悪口でもなけりゃ、褒めているんでもない。学者にしたって此の世に生きている人間ですからな、此の世を支配している力に動かされるのは当然だし、それがあたり前だって言っているんです。
柴田 (苦笑する。しかしすぐまじめになって)……いや、そんな事はないよ。なるほど学問には、その時々の外力で動かされる部分も有るには有る。しかし動かない部分も有る。実は、その動かない部分こそ、学問の本質だ。つまり、勝者からも敗者からも同時に認め得る道理――公平冷静な、むつかしく言えば普遍妥当な、つまり、第三の価値。それが学問の中心だ。そりゃ自然科学だけであって、人文科学にはそんなものはないと言う者も世間には有るが、そんな事はない。現に――
誠 ふ、ふ、ふ……(黙々として聞いていたのが、その時、鉛筆をカラリと置いて低く笑う。柴田、言葉を切ってその方を見る)
三平 そりゃそうかも知れんけど、私ぁそんな事よりもだな、兄さんはもっと何とかして、食う物でも、もう少し食べる算段をしてからだな、そいから学問でもなんでもすると、ねえ誠君――
誠 まあ、いいですよ。ふふ、お父さんは、さっきから僕に言ってるんだ。
三平 なに? なにを?
誠 こないだの議論の続きを、お父さんは僕にふっかけているんだ。
三平 しかし、君……(柴田の方を見る)
柴田 なんだ?……(誠を見ている)
誠 ……(チョットだまっていてから)直ぐにお父さんは、普遍妥当の、第三の価値のと言いますけど……そんな物を持って来て、どんな事を立証しようと言うんです? 大和民族と言うのは、本質的に、そして根本的に、この島に渡来して来て社会生活をやって来たモンゴリヤ系の一群の人間達です。それでいて、僕等の尊厳や価値が一分一厘だって増減したりはしませんよ。大和民族を神聖化したり、皇室をタブーにしたりする必要も必然性もないんだ。待って下さい。……お父さんは、直ぐに民族と言います。しかし、それは全体、なんの事です? 誰を指しておっしゃるんです? いいえ、僕にとっては、民族は、今、現に、此処に手でつかめる姿で生きて働いているわれわれの社会の、これらの人間のことです。苦しい条件の中で生きようとあがいている人間のことです。……お父さんの民族は、どこに居ます? お父さんの国はどこに有るんです? そいつは、普遍妥当に存在しているんですか? つまり、実はどこにも存在してやしないんだ。強いて言えばお父さんの頭の中に存在しているだけなんですよ。
柴田 (立ちあがっている)違う。それは違うよ。
誠 お父さんは愛する愛すると言いながら、実は現実には誰も愛していないんだ。広い事を言う必要はない、現に、お母さんは殆んどお父さんのために犠牲になって――生活の苦しみを一手に引受け、僕等を育てるために自分一人で内職をしたり質屋に通ったり借金にまわったり、しまいに病気で倒れて死んだんです。……僕はよく憶えています。それから信子です。あの若さで、信子が、なぜ死んだと思います? 負けいくさのためじゃありません。信子は、お父さんから、むやみに神秘的な民族主義をふき込まれ、神がかりの精神教育で育てられたために、せっかく医学をやっていたくせに物事を合理的に考える力も、ネバリ強く耐えて行く力もなくしてしまったんだ。だから日本が戦争に敗北したのを、即ち自分が敗北したように思ってしまった。信子は純粋な奴でしたよ。純粋なだけに、ほかの考えようがなかったんだ。……僕が高等学校時分からお父さんに背いて別の方へ歩き出したために、信子はお父さんにお父さんの信念をシャブらされて育ったんだ。つまりお父さんの信念の申し子だった。つまり、お父さんの信念が、信子を殺したんだ。……お母さん、それから信子……それから、こうして僕、双葉、欣二にしても――お父さんは、ホントは誰も愛しちゃいないんですよ。(立って、プイと上手の扉から出て行ってしまう)
(間――柴田は誠の後姿を見送っていたが、やがて椅子にかけて、自分の前を見つめる)
三平 ……(先程からジロリジロリと誠の方を見ながら鼻毛を抜いていたが)ふ――む……いかんなあ。柴田 …………
三平 どう言うんだんね?
柴田 ……う?
三平 いやあ、あれはどうも、此処が(と自分の胸を指して)だいぶ進んで来たんじゃないかなあ?
柴田 ……?
三平 ハハ、どうです、あれにも早くワイフを持たしてやらんといけんたい。(脈絡の無い事を平気で言ってニヤニヤする)
柴田 ……(再び自身の考えの中に落ちてしばらく黙っていてから)私ぁ、そんなにむごく扱ったかなあ?
三平 なに?
柴田 いや……咲子をさ。
三平 姉さんを? いやあ、そんな事あ、ありませんよ。私の方へはズーッと手紙をくれていたから、知っている――姉さんはすべてに満足して、幸福に――
柴田 いや、咲子にしても、信子にしても……それから誠にしても双葉や欣二にしてもだ、これだけ私は気にかけて――正直のところ、あれたちが、うまくやって行くためになら、もし必要とあれば、自分の手足をもいで食べさしてやってもよいと思っている。
三平 やあ、そいつは、しかし、まずいでしょうな。ははは。
柴田 うむ?(相手の諧謔がわからぬ)……いやさ、あれは全体、何を言っているのだ? 私にどうしろと言っているのだ? ……(気が抜けたように空を見ている両眼から涙が流れる。それを拭きもしないで、ボンヤリ坐っている)
双葉の声 ……兄さん、そっちい行って、カボチャの根っこの所を、ふんづけちゃ駄目よ。兄さんてば!――(言いながら上手扉から入って来る。手に畑で採ったふだん草やサツマ芋の葉などを水で洗ったばかりで滴のたれているのを持っている。炊事場へ行きながら)叔父さん、カボチャの花は食べられるんですって?
三平 うん?……そりゃまあ、食って食えない事もなかろうが――
双葉 スープに入れたら綺麗だろうと思うの。
三平 スープか……
双葉 (野菜を、マナイタの上で揃えながら)サツマイモのはじん所、お父さん掘ったんですか?
柴田 サツマイモ? いやあ――(まだボンヤリしている)
双葉 一番向うのウネの五本ほどひっこ抜いてあるの。じゃ、せい子さんかしら。(父の方を振返って見る)
柴田 (やっと我れに返って、少しドギマギして)いやあ――おせいさんも、掘りはせんだろう。
双葉 ……でしょう? まだ、実なんか入っちゃいないんですもの。じゃ又、ドロボウ――ひどいわあ! まだ、鼠のシッポほどにもなっていないのを。おお、おお、代代の聖人様! おしりをつねりたまえ日本人の。(言いながら、手は野菜をきざみ、それを大きな鍋に入れ、バケツの水を注ぎ、ザブザブと洗って、水をゆすぎこぼし、又水を入れてふたをして置き、さてそれから七輪に火を燃すべく、薪を取って手斧でコツンコツンと割る。既に夕飯の支度に入っているのである)どっこいしょと!
三平 みんなドロボウになったのだな。二三日前も電車の中で三十恰好のりっぱな男が二人で工場へ出て働くよりか闇をやっている商人や百姓を脅迫して物資をかっぱらって来るのが率が良いと言う話をしているのさ。(その間に双葉は七輪に火を燃しつけて大きい鍋をかける。その煙)それが、なんと、ぐるりの人がチャンと聞いている電車の中で、かくべつ声を小さくするわけでもない。ちょっと、これには感服した。…Enga


双葉 (三平の歌に合せて)Ay, ay, ay!
三平 Pero nunca se lo digas!
双葉 だけど、せい子さん、どうしたんかな? 早く帰ってくれないと、私、困っちもう。
柴田 たりないかね?
双葉 ううん、そう言うわけでもないけど――。(考え込もうとする自分を振りきるように、二三のフキンを棚から取り、バケツをさげて、上手扉の方へ)
柴田 水か? どれ、私が汲んで来よう。
双葉 お父さんはそこに居て下さい。
(そこへ上手から、ぬれた手拭で額をおさえながら誠が入って来る。坐り机の方へ行く)
双葉 ……どうしたの兄さん?誠 ……うん。(机の前に坐って再び鉛筆をとりあげる)
双葉 お仕事?
誠 なに、又――
双葉 校正なら、私、やったげる。
誠 いいんだよ。今日はチョットだ。
双葉 でも、とにかく、あとでなすったら?
誠 うん。
(双葉、兄の方を見ながら出て行く)
柴田 ……(誠の後姿を見守りながら)あとでやったら、どうだ?……疲れている。誠 ……いいんです。(父の方を見ないようにして鉛筆を動かす)
声 ただいまあ。
(その声がしてからチョット間を置いて、次男の欣二が奥の出入口からノッソリ入って来る。上等のワイシャツに、麻のズボン、レーンハットに青い靴下、背広の上衣は脱いで左腕にかけている。顔つきも身体つきも、殆んど男装した若い女のようにやさしい青年)
柴田 ……お帰り。三平 どうした、欣二?
欣二 (ニコニコ笑って)ええ。……(自分の入って来た出入口の方を振返って)おい君、はいりたまえよ。
三平 ……[#「……」は底本では「…‥」](誰か出て来るかと思って同じくそちらを見るが、誰も出て来ないので)誰だえ?
欣二 ううん。……はいれよ、サッサと。(言い捨てて自分は食卓の方へ行き、帽子を脱ぎ、上衣といっしょに食卓に置き、椅子にかけて、父親の顔をむさぼるように見る)
柴田 誰かお客さんかね?
欣二 お父さん、また、痩せちゃった。
柴田 うむ? いや……(頬を撫でる)
(そこへ、出入口から圭子入って来る。思い切ってドギツイ、レンガ色の化粧をして真紅に唇を描き、はでなスーツに絹のストッキングに、大型のハンドバックを持った若い女。少しきまり悪いのをかくすために、かえって馴々しすぎる表情)
三平 やあ!圭子 今日わあ。(頭は下げないで、胴なかをクネクネさせ上眼使いに相手の顔を正面から見ながら眼に物を言わせる式のお辞儀)しばらくでございました。
柴田 ええと、たしか――(誰だかわからないで、びっくりしている)
欣二 ははは。
圭子 ……(柴田に)私、ズットせん、信子さんとこに寄せて貰っていました加藤――
柴田 ああ信子のお友達の――
圭子 圭子と申しますの。
欣二 コじゃなくって、ケイトだろう。ケティとも言う。(ポケットから小さな紙包みを出し、紙をはがして父の前に差し出す)お父さん、食べて下さい。
柴田 (ドギマギして)なんだ?
敬二 チーズ。買ったんじゃない、貰ったんだ。
圭子 (色っぽく欣二を睨んで)おぼえていらっしゃい、欣二さん!
欣二 なんでもいいから気取って、はずかしがったりして見せるのはよせって言うんだ。かん違いはしない方がいい。僕ぁ、ただ島田の松の後を追って病院へ行ったら、そこに君が青くなって顫えているから一緒に連れて来たまでだよ。
圭子 悪うござんしたねえ一緒に来て。それじゃ私ぁ出て行ってよ。
欣二 ふん。(わきを向いて三平に)双葉は?
三平 そこに居る。(圭子に)まあまあ、おかけなさい。(西洋風にていねいに椅子をすすめる)
圭子 はあ。(帰ろうとするでもなく、椅子にかける)
欣二 (扉の近くへ来て、自然に、机にかがみこんで校正をしている誠を目に入れて)兄さん、チーズ食べない?
誠 うん。(頭をあげない)
欣二 兄さんとこじゃ、工場の方に社長派の連中が、だいぶもぐり込んでしまったそうじゃないの?
誠 …………。
欣二 社長派の方でも、いよいよ本腰を据えたらしいね。暴力団などにもわたりを付けたんだって?
誠 そんな事ぁないだろう。……僕ぁ雑誌の編集の方だから、新聞の争議から言やあ、今のところ少しわきに寄ってるんで、よくは知らんが……(欣二の方を振向いて)君ぁ、どこでそんな事聞いた?
欣二 ううん、チョットそんな噂でね。……だけど、いよいよとなりゃ、兄さん達もいっしょにやるんだろ?
誠 そうさね。……しかし、まだそれ程でもないだろう。
欣二 だって、兄さん組合の委員の一人なんだろ?
誠 うん、まあ。……だけど、お前なんでそんな事言うんだい?
欣二 なんで?
誠 ばかに気にするじゃないか?
欣二 ……(笑って)僕がその事を言うと、よごれでもするかね?
誠 (相手の言葉の中に含まれているトゲに気附かぬふりで)そんな事ぁないさ。
欣二 ついでの事だ、あっちでもこっちでもムチャクチャに騒いで、なにもかもガタガタになって見ないかなあ。面白いじゃないか。
誠 ……(黙って校正にかかる)
圭子 (三平と柴田にかけて)間もなく、信子さんの一周忌でございますわね?
柴田 はあ、いや、まあ――
圭子 クラス会の方、どなたか見えますかしら?
三平 ああ、信子と、あなた、同じクラス――? 医学校の――?
圭子 いえ、女学校でいっしょでしたの。もっとも私は三年でよしたもんですけど、それまで仲よくしていただきました。信チン――皆でそう言って――以前から、あんなにおとなしい、しつかりした方が、どうしてまたって皆でそう話し合ったんですの。いえ、あの方なら、そんな気持におなりになるにちがいないと言う人もいますけど……けっきょくの所、わかったようでいて、よくわからないんですの。あんまりアッサリとあっけなくて、なんですか――
欣二 (クルリとそっちを向いて)おい君、姉さんの事言うなあ、よせ!
圭子 ……どうして?
欣二 どうして?……聞きたきゃ、てめえのマタグラに聞けよ。(端麗な顔を歪めもしないでアッサリと言う)
三平 ……なにを欣二、お前そんな失礼な――いや、どうも、はははは!(誠がフイと立上って校正刷を持って上手扉から外へ出て行く)
三平 ははは、チョンガアが気を立てるわい。
欣二 気を立てるってなあ、こんなもんじゃねえや。ヘヘ、おせいさん、どこい行ったの?
柴田 欣二、お前、酒を飲んだなあ?
欣二 酒を飲んだってなあ、こんなもんじゃありません。……それ、なぜ食わないんです?
柴田 うむ、しかし後で、夕飯の時に、みんなでこの――
欣二 みんなで食うだけは無い。食べなさい。ほら! (しつこく、チーズを手に取って父の口の所へ差しつけて行く)ほら、さ!(無理に父の口にねじこむ。柴田しかたなく食う)
(上手扉から双葉がバケツをさげて入って来る)
圭子 ……双葉さん、今日は。双葉 あら、圭子さん……ようこそ。ちっとも知らなかった。
欣二 (肩越しに双葉を振返って見る)……。
双葉 まあ、ちい兄さん、どこい行ってたの?
欣二 どこいも行きやしないよ。
双葉 だって――(炊事場へ行ってバケツを置く)この四五日、まるきり帰って来ないんだもの。
欣二 (それには答えないで)飯の仕度かね? 有るの、なにか?
双葉 ……有る。
欣二 ホント? ホントなら、(圭子をあごで指して)この人にも、なんか少し食べさしておくれよ。
双葉 (小さな声で)いいわ。……(つとめて明るく)ただし、なんにも御馳走は無くってよ。
圭子 あら、私なら、いいんですのよ。直ぐ失礼しますから。信チン――信子さんに、チョット拝ましていただこうと思って私、寄せて貰ったんですから――。
(柴田がこのとき、ゲーゲーと言って、食べた物を吐いてしもう。ポケットから紙を出して口を拭く)
双葉 どうしたの?柴田 うむ、どうも――なんだ、(もう一つゲェと言って、ツバを吐く)いや、なんでもない。チョットむかむかしたが、もう治った。
欣二 チェッ! しょうがねえなあ。
三平 飢えた胃袋にチーズは受付けまい。日本人の胃袋は、先ず、文明人の食いものとは縁が切れたね。
双葉 (圭子に)あの、チョット失礼して、仕度をしますわね。(鍋のふたを取って見てから、それを七輪からおろし、ヤカンに水を入れて火にかける)
三平 どれどれ、私も加勢しようかな。
双葉 (棚から食器の入れてある目ザルを取って、食卓の方へかかえて来ながら)いいのよ。
三平 まあ、よこしなさい。
双葉 (かまわず、食器――と言っても簡単な、七組ばかりの椀と平皿と箸だけ――を食卓の上に並べながら)だったら、叔父さん、すみませんけど、畑から、チシャを少し取ってきて、井戸でよく洗って来て下さらない? おこうこが、みんなになってたから。
三平 おこうこなんか、無くてもいいだろう。
双葉 うん、チシャをお塩でもんで、ふかしパンと一緒に食べると、おいしいのよ。第一とても栄養が有ってよ。
三平 栄養か。此の際だ、栄養とあれば、取って来ずばなるまい。(ノソノソ上手扉の方へ)
圭子 私が取って来ますわ。(これも上手扉へ)
三平 いやいや、レデイに、そんなあなた――(圭子がいっしょに行くと言うので、恐悦して、もつれるようにして出て行く)
双葉 (その二人の後姿へ)ズーッと向うの端から取ってよ、叔父さん! 引っこ抜かないように外側から一枚一枚もぐのよ。
欣二 あんな寄生虫が食いつぶしてるんだ。あんな奴等あ、一日も早く放り出してしまわないと、フー公、今にお前達ぁひぼしになるよ。
双葉 私はそうは思わないわ。第一、叔父さん、この家のほかに行く所無いじゃないの。もしひぼしになるんだったら、みんな一緒になったらいいんだわ。(炊事場の隅でコトコトとまだ何かの仕度をしながら)
欣二 おせいさんにしたって、そうさ。――見ろ。厨川ってえ男は出征してたってえじゃないか。待ってりゃいいんだ、五年だって六年だって。――それをいくらズットせんになにが有ったからって、あんなガウチョとケロリと出来ちゃってさ。
双葉 嘘、そんなこと! 三平叔父さんがそんな事言って、えばってるだけだわ。そんな――とてもとても、せい子さんて人、やさしい、良い人よ。やさしくって、弱くって、だもんだから、何にでもキツイ事ができない。つい、ズルズルと、流されちもうんだと思うわ。言って見れば、気の毒な方よ。
欣二 豚あ、みんな気の毒かね? 気の毒ついでに、兄きまで引っかけるか? ぜんたい、誠兄さんも兄さんだよ、あんな女に引っかかるなんて――
双葉 引っかけたなんて、そんな事ないわ。
欣二 じゃ兄きの方が引っかけた? 尚、悪いや。
双葉 違うの。私には、大兄さんがせい子さんに好意を持つの、わかる。きれいな人よ、せい子さんて。ううん顔やなんかでないの。ここ。(と自分の胸を指す)大兄さん、寂しいのよ。ひもじいのよ心持が。そいで、せい子さんに、なにしたんだわ。せい子さんの、やさしい、そして弱い所が大兄さんを引きつけたのよ。
欣二 へっ! ヘヘ、笑わすなよ。お前に何がわかる!(もうかなり前に、それまで背後の窓を明るくしていた夕陽の光がスーッと消え、それから暫く、夕暮れの明りが差していたのが次第に薄暗くなって来ている)
柴田 (その薄暗い中で、欣二の顔をマジマジと見ていたのが、嘆息して)欣二……お前も、頼むから……もう、いいかげんにしてくれないか。
欣二 ……なんです?
柴田 そのお前の――
欣二 だって、そうじゃありませんか。兄さんだけじゃない、あんな女あ、今に、お父さんまで引っかけにかかりますよ。
柴田 なんと言うことを――
欣二 お父さんにゃ、わからねえんだ。おせいさんは、実は、叔父さんよりも兄さんよりも、お父さんに惚れているね。
柴田 ばかな事を言うもんじゃない。……私の言ってるのは、お前自身のことだ。なにが善くて、なにが悪いかという事は、お前には、わかっている。いいや、シラをきっても、だめだ。いくらお前が悪くなったふりをしても、私はお前の父親だ、ごまかされはしないよ。お前はやっぱり、内の欣坊だ。中学から高等学校まで、殆んど首席で通して来た――気のやさしい、曲った事のきらいな柴田欣二だ。もう、よいかげんに、つまらない事をして歩くのも、やめておくれ。
欣二 ……(不意に黙りこむ。間。――戸外からかすかに流れて来る三平の「アイアイアイ」の歌声)
柴田 え? お前達青年がシャンとしてくれないで、これからどうなる? この国のなにもかも――やりなおしが、うまく行くか行かぬか――いっさいがっさいが、お前達にかかっている。負けて倒れた人間が自分の非をハッキリと認めると同時にだ、自分のいのち、自分達のいのちの在りどころに自信を持つ。この国の、民族のいのちの正当さを掴むのだ。それには青年の力が必要だ。……私のこういう気持、わかるね? 考えてくれ。お前のことを、なによりも、誰よりも大事にかけて私は――ねえ欣二。
欣二 ……(ケロリトした調子で)お父さんだってヘドを吐くじゃありませんか。フフ! ヘドだ。鼻もちがならん。……どいつもこいつも黄色い顔の中から、モグラモチのような眼をして……日本の苦しみは自分一人で背負っていると言ったツラだ。……下っ腹がヒクヒクするんですよ、そんなものを見ると。……ヘドが出らあ。ツバ
双葉 ……兄さんの、キチガイ!
(間)
欣二 コーフンするな、フー公。……はは。暗くなっちゃったなあ、電燈はつかないの?柴田 ……(ポツリと)ああ、ヒューズが飛んでいたのを忘れていた。
欣二 どこんです?
柴田 もとの応接室の方だ。あすこから此方へ引いてあるから。(立つ)
欣二 じゃ外に廻らなくちゃ駄目だな。(立つ)ヒューズは――無いんでしょう? 焼跡から銅線でも拾って来るか。(奥出入口の方へ)
柴田 いや私がやろう。――(フラフラする歩きつきで奥の出入口へ)
欣二 いいんです。(父をわきへどけて奥の出入口から出て行く)
柴田 ……(欣二の後を追って出て行きかけた足をとめて、此方を見て)双葉。
双葉 ……?
柴田 それで――食卓の上に眼をやり、次ぎに上手扉の外を見て)みんなに有るかな?
双葉 けさ、ふかしたパンが有りますから。……足りない分は、私達が少し減らせば――。
柴田 ……(何か言おうとするが言えず、ユックリ歩いて出入口を外へ)
双葉 電燈のことは、ちい兄さんにまかしとおおきになったら――
柴田 なに――欣二には安全器の場所がわからんだろう。(消える)
(それを見送って炊事場に立っている双葉の顔が、薄暗い中に白くボンヤリ見える。しばらくしてそれがフットかげったのは、両手が顔を蔽うたのである。……上手扉から手に洗った菜を持った圭子が入って来る)
圭子 はい、これ位でよろしい?双葉 ……(圭子に気付いて、クルリと棚の方を向き、炊事道具をコトコト言わせる)すみません、お客さまを使ったりして。
圭子 あらあ、たいへん! これ、もむんですの?
双葉 (手を出して)ありがとう。
圭子 いえ私にやらしてよ。(そこに有るマナ板の上にそろえてのせる)ほうちょうは?
双葉 ……(ほうちょうを取って渡す)三平叔父さんは――?
圭子 誠さんと畑の所で話していらっしゃるわ。(コトコトとほうちょうの音)……誠さん、なんだか、とてもお痩せになりましたわねえ。
双葉 そうかしら? でも、あすこから出て来た当座に較べると目方など、とてもふえたって言ってますけど。
圭子 ……どれ位、中にいらしったの?
双葉 一年と、五カ月ばかりだったかしら。(圭子のきざんだ菜をアルミのボールに取って、塩をふりかけて、もむ)
圭子 ……じゃ信子さんとは、とうとうお逢いにならなかったのね?
双葉 ええ、兄さんの出て来たのは、八月の末ですから。
圭子 戦争中、やっぱり、そんな風な、なんかなすっていたんですの?
双葉 さあ、雑誌や新聞の仲間の人達と時々集まって、研究会みたいな事をしていただけじゃないかしら。ソヴィエットの通信員の人が、その会に二三度来たって言うんだけど、それも外国の情報を聞くと言った程度だったんですって。
圭子 ……しかし、たったそれ程の事で一年五カ月。――それも戦争がこんな風にならないでいれば、いつまでだったか……とにかく、あの時分と来たら、誰も彼も頭がどうにかなってしまっていたのね。
双葉 そう。……(もんだ菜に水をかけてかきまわし、その水を流しへこぼす)……だけど、誰も彼も頭がどうにかしているのは、あの時分と限らないじゃないかしら。今でもやっぱし、形こそ違え、同じ事じゃないかしら。……私はそう思うの。――つまり、もともと私たちの程度がまだまだ低いから、それが世の中がグラグラするたんびに、本性がさらけ出されて来るんじゃないかしら。仕方がないと思うの。当分がまんして、私たちみんなの程度の低さを、なんとかして高めて行くほかに、しようがないんじゃないかしら。
圭子 そうね。……(双葉の出した大皿に、ボールの菜をしぼって水を切って、ほぐして並べる)だけど、双葉さんなんか、まだ若いし、とにかく、こうして落着いていらっしゃれるから、うらやましいわ。私なぞ、いくらそうは思っても、もう、しようがないのよ。自分のことだけで、やりきれなくなっているんだわ。
双葉 ……いいえ、私なぞに、そんなえらそうな、人の事がどうのこうのと言えるもんですか。結局は自分の事なの。ただしかし、その自分も日本人の一人だし、日本人全体が背負っている荷物は、その一人分だけは自分も背負っているし……自分の低さが結局日本人全部の低さじゃないかしらと思うもんだから。……私もそうだし、それから、ちい兄さんがあんな風になっちゃってるのも、せい子さんも三平叔父さんも、お父さんだってそうだと思うの。或る意味では誠兄さんにしたって――みんなみんな、そうだわ。重い荷物の下で、どっかしら、みんな身体が歪んじゃってる。歪んじまう位に弱いのね。――そして、弱いのは、私どもが低いからじゃないかしらと思うもんだから……(大皿を持って食卓の方へ行き、並べられた食器の間に置く)
圭子 弱いのは事実らしいわね。(ユックリと室内を歩きながら)しかし、全体が高いからとか低いからとか言われてもまるで夢のような気がするけれど。さしあたり、こんな風になっちまってる私など、生きるためには、それこそどんな事をしても、生きなくちゃならないのよ。
双葉 それはそうだわ。……私だって、近い内に働きに出ようと思っているの。私も圭子さんに教わってダンサアになってもいいけど、これじゃ、ねえ。こないだも、道で小さい子が、私の顔を見て、こわがってね、一緒に居るお母さんになんと言ったと思って? ふふ。だもの、だあれも私と踊ってなんかくれるもんですか。(アッサリとした言い方だが、圭子はなにも答えられないでいる)……だけど、圭子さんが、ご自分の事を直ぐに「私なんぞ」とおっしゃるの、私、不賛成だな。
圭子 ……だって、そりゃあなたが、私達のくらしをお知りんならないからだわ。一口にダンサアと言っても色々で、中にゃ立派な人も居るでしようけど――そんな事してたんじゃ一家五人たちまち干乾し。それこそ、アラアの神さまよだわ。ふふ……ずいぶん失礼な生活だわよ。(上手扉の手前の壁のところに立停る)
双葉 …………。
圭子 欣二さんが先刻、病院で私に逢ったって言ってらしった――ただの病院じゃなくってよ、ケンサ。……
双葉 ふむ。……(薄暗い中でも見える位にパッと顔を赤くして、しかし無理に押し出すように言う)だけど、そんな必要が有って?
圭子 …………有るらしいわね、やっぱり。……それが、私達のくらしよ。なにもかにも、むしり取られて、その上――
双葉 …………。
圭子 ……私は近頃、信チンがうらやましくなる事がある。……(そのへんの床の上を見まわして)この辺じゃなかったかしら?
双葉 なあに?
圭子 八月十五日の晩に、信子さん寝ていたの――
双葉 うん、そこだったわ。
圭子 ……信チン、あなたは――(ボンヤリ言いかけて言葉を止め、立ったままその額を壁に押しつけてジッとなってしもう)……。
(間)
双葉 (ポツンと、圭子によりも自身に向って言うように)しかし、私は、これでいいと思うの。……みんな、みんな、ひどい事になってしまったけど、しかし、私たちが眼をさまして、自分の正体をハッキリ見るためには、こんな風になる必要が有ったんだわ。……どんなに苦しくても、しかし、私どもが憎んでもいない人たちと戦争をして殺し合っているよりも、まだ、ましだわ。……以前より良い時代が始まったという事を私たちが認めるならば、そこから生れて来るいろんな苦しい事もありのままに認めて、勇気を出して、生き抜いて行かなくちゃ。……そう思うの私。……信姉さんの気持は、私には、よくわからないの。……そりゃ、戦争中、挺身隊やなんかで働いていた気持が真剣だったら、信姉さんと同じようにするのがホントだったかもわからない。……しかし、死んだからって、問題は片づきゃしないと思うの。自分が死んだからって、日本や世界が消えて無くなるわけじゃないんですもの。卑怯だわ。えて勝手だわ。……そう思うと、私、信姉さん憎らしくなるの。圭子 ……(まだ壁に額をつけている)
双葉 ……こっちへいらっしゃいよ圭子さん。(圭子の方へ行き)いや! そんな風にしているの。(後ろから圭子を抱く)……。
圭子 ……(壁から額を離して、双葉と共に食卓の方へ行きながら)欣二さん、……出征なさる前迄たしか高等学校に行ってらしったんでしょう? そこへ戻れないんですの?
双葉 ……戻れないことは無いでしょうけど、自分の方でそんな気は無いんでしょう。
圭子 おそろしいわ、近頃。不良だなんて、そんなもんじゃないの。……商売人のゴロツキや闇ブローカーなど――それも大概親分株の連中をおどかしちゃ――いいえ、それが金を捲き上げるためとは限らないの。ただ、変な事をしておどかすんだわね。……こないだも本所の方で、ダンスホールのマネジャを斬ったそうだし、……今日なんかも島田って――ゼゲンみたいな事をしている、とってもウルサイ奴よ、そいつを掴まえて病院のガレージの所で話をしているから、チラッと見たら、欣二さん、自分のナイフを自分のここんとこ(左の二の腕を指して)に逆手に突きさして、ニヤニヤ笑っているんだわ。
双葉 …………。
圭子 それを見て島田の方が真青になってブルブル顫えているの。……みんな、とても、おそろしがっている。柴田のフーテン――。
双葉 …………。
圭子 ……応召中、欣二さん、一体、どんな風な事していたの?
双葉 なんか、無電の方で水雷に乗り込んで――
圭子 ふーん……。
(そこへ、奥の出入口から、疲れ果てたせい子が戻って来る)
双葉 ……お帰んなさい。せい ああフーちゃん。……(食卓のわきの椅子にかけて、溜息をつく)
双葉 どうしたの?
せい ……どうしても返してくれない。
双葉 え?
せい (それには答えないで)……そいで、フーちゃんの方どうでした、なんか買えて?
双葉 ……駄目。みんな二千三千という現金を、前もって、なんにも言わないで、お百姓のうちへ置いて来るんだわ。そこい又、布地だとか地下足袋なんぞ持ってってやるんですもの。三十円や五十円持って私たちが行ったって、はなも引っかけてくれない。
せい ……でしょうねえ。――配給所の方も昨日も今日も私聞きに行ったけど、いつになったら入荷するか、けんとうが附かないと言うし。……欣二さんの買って来て下すった麦も、おとついでみんなになって――明日の朝から、まるでもう、なんにも無いんだけど、ねえ双葉ちゃん、……どうしたらいいかしら?……(双葉答えず。せい子の背後に位置していた圭子が、その時身じろぎをしたので、せい子がはじめて気附いて)あら……(黙って頭をさげる圭子)……いらっしゃいまし。
双葉 ……圭子さん――
せい ……失礼いたしました、気が附かないで――(少し笑う)まあ、なんて暗いんでしようねえ……あ、そうそう、電燈が悪くなっていたっけ。
双葉 お父さんと、ちい兄さんが直しに行ってる。
せい 欣二さん、帰って来たのね?……そいで、誠さんやなんかは――?
双葉 裏の畑。
せい そう。……さてと、お夕飯の仕度――(立って炊事場の方へ)
双葉 私、おつゆを拵えたの。ミソが無いから塩だけなんだけど。
せい そう、そりゃ、ありがたいわ。パンが有るから、そいで結構ですとも。ええと――
(その時、上手扉の奥の戸外のかなり難れた所で、三平が、大きくどなり立てる声、「なんだ、君ぁ?」「どうして、こんな所で……」「君ぁ、ぜんたい、なんだ!」など言うのが聞きとれるだけで、まだいろいろに言っている言葉はハッキリしない)
双葉 ……どうしたんだろ?せい 叔父さんと――誠さんが、なにか――?(双葉と眼を見合わしている。戸外では、まだ三平がどなっている。……双葉、思い切って、急ぎ足に上手扉から出て行く。それに続いて圭子も出て行く。せい子も一緒に行きかけるが、急に三平と誠とが喧嘩でもしている姿が頭に来て、立ちすくむ。薄暗がりの中で、その顔と着くずれた着物から洩れている襟元が白く浮きあがっている。……ブルブル顫える片手を頸のところへ持って行きながら、いくらかおだやかになった戸外の声に、耳を澄している。……ソロソロと上手扉の方へ)
(そこへ、背後を振り返りながら、誠が入って来る)
せい あ!誠 ……(立停ってすかすようにして見て、せい子を認め、チョットの間、見守っていてから、ユックリと自分の机の方へ行き、手に持っていた校正刷を机の上に置く)
せい ――どうなすったんですの?
誠 え?
せい 叔父さんと、なにか――?
誠 ……へんな男が居たんですよ。
せい (相手の言葉の意味がのみこめないで)え? 男――?
誠 こわれかかった犬小屋があるでしょう、畑の隅に。あの中にもぐり込んで寝ていた。叔父さんが見つけて引っぱり出したけど、何を聞いても黙ってシャックリばかりしている。
せい へえ。犬小屋にねえ。……なんか悪い事でもするんじゃないでしょうか?
誠 そんな事ぁないでしょう……暗いなあ。
せい 先生と欣二さんが電燈、なおして下すっているそうですけど。……そいで、その人、なんですの?
誠 さあ。――捨てとけばいい。
せい そうでしょうか。……おなかがおすきんなったでしょう? 直ぐに御飯にしますから――
(戸外の方を気にしながらも、食卓の方へ戻り、その上の食器などを見しらべて、炊事場へ行き鍋のふたを取って中を見たりする。誠は机の端に腰をおろして、薄闇をすかしてせい子の方をジッと見ている。せい子、鍋を持上げて、食卓にのせる。それから、七輪に火を起こそうとするが小さい薪が無いので、手斧を取ってコツンコツンと割る)
誠 ――せい子さん……厨川の方は、どうしたんです?せい え?……ええ。
誠 どうしました?
せい どうって――私の方では、別に、どうしようもないんですから。
誠 どうしようもないと言ったって――そりゃ、先方が籍を抜いてくれなければ、形の上では差し当りどうしようもないにはないけれど、しかし問題は、あなた自身の心持次第でホントは解決出来ることじゃないかな。……厨川と言う人には一応残酷なようだけど、そんな事を言ってた日には、あなた自身はどうなるんだ? しかも結局は厨川と言う人にとっても、一時はつらくとも早く解決した方が良いんだ。……それに、その人の出征前から、あなたとその人の間は、うまく行ってなかったと、言ってましたね?
せい ええ……あの人に、ほかに良い人が居て――
誠 それなら尚の事じゃありませんか。
せい しかし、その女の人は、あの人が戻って来たら、もうどこに居るかわからなかったんですの。……私は、しかし、待っていました。……出征する前にうまく行ってなかったから、かえって私、とにかくあの人が戻って来るまでは待っていようと思って――待っていたんですの。意地だのなんだのって、そんなもんじゃありません。私にゃそうしか出来なかったんです。……戻って来たら、あらためてチャンと話をつけようと思って……そしたら、戻って来て見ると厨川は別れるわけには行かない、そう言って――
誠 そんな事は、どうでもいい事なんだ。問題はあなた自身の意見さえハッキリすれば、いっぺんに片附くことです。これだけ僕が口をすっぱくして言っても――
せい ……弱いんです私は。だけど……ですから……あなたには、わからない。
誠 わからない。あなたと三平叔父さんとの関係も僕にゃ、わからない。厨川との事が、どうにもならないでいるのに、一方で叔父さんと又――
せい あの方とは、なんでもありゃしないと、これ程言ってるじゃありませんの。
誠 ……本当にそうですか? 本当に?……(立って近ずいて来る)本当ですね?
せい ……そりゃ、ズット以前には、懇意にしていただいて――
誠 そんな事あ、どうでもいいんだ。本当ですね、せい子さん?
せい ……(泣く)わからないのよ、あなたには。……そんなものじゃありません。女の気持なんてものは、そんなものじゃ、ありません。
誠 ……(なにかギクンとして相手を見つめている)……しかし……僕の言っているのは……だから……(手を伸してせい子の肩に触れかけるが、又引っこめて、泣いている相手の姿を見ているうちに)駄目だ! あなたは、こんな家なぞに居ないで、今夜にでも厨川の方へ帰ったらどうだ?
せい ――(オロオロと取りとめなく言う)出て行けと、おっしゃれば出て行きます。もともと、私は、空襲で兄が死んじまったので行く先は無し、困っていたら――兄が昔、先生から教えていだいた事が有ると言う縁で、こうしてお手伝いしながら、御厄介になっているだけなんですから、出て行けとおっしゃれば――
誠 (子供のようにすすりあげる相手が憐れになればなる程イライラして来る)そんな! そんな事を僕は、そんな事を言ってるんじゃないんだ! 僕が、僕が言ってるのは――僕は、僕が、どんな風に考えているか、君は、よく知っているんだ!
せい ……ええ、そりゃ、わかっています。だから、ありがたいと思って――
誠 ありがたいなんて、そんな――僕ぁ一人の男として、あんたをなにしているんで――
せい (小さい声で)うれしいんですの、ですから。……しかし、でも、私、それで、どうすればいいんですの? ……弱いんです私。……そうは思っても、急に言われても、私には、どうにも出来ない――
誠 だから、あんたの手でそれをしろと言ってるんじゃない。あなたさえ、心をきめてくれれば、あとは僕が処置する。場合によって、厨川と言う人とあんたと僕と三人同席してようく話し合った上で、気持の上で三人とも無理のないようにしてですね――
せい いえ、とてもそんな事だめです。よして下さい。そんな人じゃないんです。とてもそりゃ、いちど間違うと、とんでもないムチャをする人で。こないだなども、どうでも戻って来ないと言うんなら、殺してしもう。……そう言ってアジ切りなど持ち出して、ホントに私の肩に切りつけたりして。……着物を斬られただけですけど。そう言った――いえ、以前はムチャはムチャでも、そんなあぶない真似なんかする人じゃありませんでした。それが出征している間に、なんだか、スッカリ気持が荒れて――自分じゃ、向うで患った熱病が、まだ抜けきらないせいだってって言いますけど――カッとすると、まるで気がへんになったみたいな――
誠 それは、そんな事をして見せると、君が、ちじみあがってしもう事を知っているためにやる事だ。とにかく、僕が一度逢って見る。おだやかに話せない問題ではないんだ。
せい いけません。そんな――いいえ、私からよく話して、なにしますから、もう少し気長に――
誠 君にまかしとけば、いつの事になるかわからない。
せい 大丈夫ですから――
誠 だつて、もう二カ月も三カ月も同じ状態で少しも話が進みはしない。君の心持さえハッキリきまっていれば、こんな事、結局はそんなにゴタゴタする筈はないと僕ぁ思う。……もしかすると、君の方に……君の方に、まだこの、みれんと言ったような――
せい そんな、そんな事は有りません。そんな、誠さん――ひどいわ。
誠 じゃ、なぜ――?
せい ……わからない。あなたには、わからないのよ。
誠 ……わからなくたっていいんだ。僕が君をホントになにしている事さえハッキリわかっていれば、そのほかに問題は無いんだから。――そうだろう? 此方へ向きたまえ、そうじゃないの? ……(そうして言葉を切り、首うなだれて立っているせい子の姿を見ているうちにカッとして荒々しく相手の肩をつかむ。その力でせい子がヨロヨロと倒れかける。それを倒れさせまいと、誠がその肩を抱きとめる。――そのままで低くすすりあげているせい子。……薄暗い中で黙ってしまって立っている二人。……やがて天井の電燈がスッとついてあたりが明るくなる。さまで大きい燭光の電燈でもないが今まで暗かったために、まぶしい位に感じる。誠とせい子が身を離して、その辺を見まわす。そしてギョッとする。奥の出入口から室に入ったばかりの所に立停って此方を見ている欣二の姿。――しばらく前からそこに立って二人を見ていたらしい。……間……無表情な欣二の顔。せい子が耐えきれなくなって顔をそむけて炊事場の方へ行く。欣二歩き出して食卓の方へ来る。その欣二を、憎悪のこもった眼を光らせて見ている誠。欣二がユックリ椅子にかける)
誠 ……(低い声で)どうしたんだ?
欣二 ……? (誠の顔を見てニヤリと笑う)
誠 どうしたんだ?
欣二 うん?
誠 ……だまって入って来たりして。
欣二 此処は、兄さんだけの室じゃないだろう?
誠 いや、だから――電燈をなおしていると言うから――
欣二 だから、ついたよ。(あごで天井を指す)テープを僕ぁ取りに来たんだ。そしたら、お父さんが、なおしちゃったらしいや。テープはいらんだろう。フフ!
誠 何を笑う?
欣二 だって、お父さんは電気の事なんか、なんにも知らん。それが、僕がいくらいじくってもなおらんやつを、一人でお父さんがデタラメにいじくっているうちになおっちゃった。フフフ!
誠 欣二、俺ぁ、まじめな気持でしている事だ。それをお前が――許さんぞ僕ぁ!
欣二 兄さんのしている事が、なんでもかんでも、まじめだって事ぁ、知ってるよ。兄さん自身がそう言うんだからそれにまちがいはないさ、だから、それでいいじゃないか。それよりも、さっき、此方でワイワイ言ってたなあ誰なの? どうしたの?
せい ……それは、あの、へんな人が犬小屋に――
欣二 え? 犬小屋――?
(そこへ、顔の色を変えた双葉が、上手扉から小走りに入って来て、急いで炊事場へ行き、そこの棚の奥の鼠入らずのようになった個所をカタカタ言わせて開ける。室内の三人びっくりしてそれを見ている)
双葉 ……(かなり大きなアルミのボールのカラのやつを引き出して、ああやっぱりと言った、一度ガックリと落胆した顔)ああ!欣二 ……どうしたんだい?
双葉 ……うん。……(しばらくボンヤリしていたが、やがて耐えきれなくなって声をあげて泣き出す)
せい まあ、どうしたの、フーちゃん? どうして、そんな――? どうしたんですの? (双葉に寄って、その肩に手をかけ顔をのぞき込む)
柴田 (奥の出入口から入って来て、電燈がついているのでニコニコして)やあ、ついたな。――(しかし直ぐに、双葉の泣いているのに気附いて、びっくりして)……全体――?
双葉 これ! (と、せい子に、からのボールを示す)けさ、ふかしたパン。
せい パンが、しかし、どう――?
双葉 取られちまったの。……夕御飯に、みんな食べる物が無い。……(せい子、事情がわかってハッとしてその辺を見まわす)
柴田 (寄って来て)どうした?
三平 ……(上手扉からスタスタ入って来て、炊事場の双葉とせい子に眼をやり、すぐに事情がわかって)ああ、やっぱり、あいつが、やっちまったのか!
誠 どうしたんです?
三平 なに、なんにも言わんけどね――(何か問いかけそうにする柴田に向って)おお、ホーボ! (身をひるがえして扉を出て行く)
せい ですけども、あんだけのパンを。たりないながら、とにかく五人分ばかり有ったのを――
(言っている所へ、三平が、きたないなりをした若い男の肩をこづくようにして連れて入って来る。そのうしろから圭子が入って来る。若い男はズボンをはき、藁くずなどの取りついたクシャクシャの頭髪に、真黒によごれたはだし。捕えられたための悪びれた様子は全くなく、ただいぶかるような表情の氷りついたようになった瞳で、喋る相手をキョトリと見ている。最後まで一言も言わないが、それは、言うべき事を持っていながら、何か理由が有って言わないのではない。だから、此の室の人間の中では、この男が一番落ちついている。時々、シャックリをする)
三平 (柴田に)犬小屋から、へんな人間の足のようなものが突出しているから覗いて見たら、中でスースーいびきをかいて眠っているんですよ。(男の額を指でグイと突いて)おい、ユー! なんとか言ったら、どうだね? ぬすんだろう、お前がそこから、パンを? (男、三平を見て、ヒョコリとおじぎをする。サーカスで馴らされた熊などがするように単純きわまる、無表情な頭のさげかたである。そして再びボンヤリ三平を見て、シャックリをする)柴田 ……しかし、そうだとすると、この室に入って来たことになるが? この室には私らが居たんじゃから――
せい でも、私は表の畑に出ていましたし、先生は床の下に入っていらして――その留守に、入って来れば来れない事はないわけですけど――しかし、あれだけのパンが一人で食べられるでしょうか? これ位のが、たしか七つか八つは有りましたよ、ねえ双葉さん?
双葉 ――(泣きやんでいたのが、コックリをする)
三平 君は一体、なんだえ? うん? (一同を見まわして)はじめっから、逃げようとする気も無いらしいんだ。(男に)こら! (男頭を下げる。その腹の辺に手を当てて)やっぱり、こりゃ、みんな食ったんだねえ。えらい腹をしてる!
欣二 ハハハ。
せい どういう人でしょう、これ?
圭子 上野へんに、こんな風な人なら、ずいぶん居ますよ。……頭が馬鹿になっちまってるんだわ。
三平 なりから見ると、どうも、そうらしいね。
柴田 (まじめに、男の顔を正面から見て)君はなんと言う人かね?
男 ……(ふしぎそうに相手を見ている)
欣二 おい、なんとか言えよ。(男のアゴの下をくすぐるような事をする。男、人の良さそうな薄ら笑いをする)よ!
双葉 いいわ。もう、よしてちょうだい。もう。よしてちょうだい!
誠 (それまで椅子にかけたまま、若い男の方を穴のあくほど見つめていたが、双葉のヒステリックな声で、その方を見る)どうしたんだよ?
双葉 もう、たくさん。もう、たくさんだから!
欣二 (男に)おい、いいから出て行きなよ。(男はキョトンと欣二を見ている)
三平 (男の事に興味を失ってしまって)あああ、腹がへった。おせいさん、なんか、なんでもいいから食べさしてくれんかな。
せい はあ、でも、この人が、みんな、なにしちゃって――
双葉 お汁が有るから――
せい いいわフーちゃん、私がやるから――(鍋から椀に汁をよそいはじめる)
欣二 出て行けよ。おい――(男、頭をさげる)
柴田 (欣二が男に対して出しかけた手をとめて)だが、今ごろ、出て行っても、この人だって困るだろう。まあま――
欣二 いいんですよ、こんな奴あ、犬小屋かガード下で寝りゃ、たくさんだ。(相手を睨んでいたが、やがてスタスタ奥へ歩いて行き、壁に立てかけてある梯子に登る)
三平 どうするんだ? ……まあまあ捨てとけば、よい。なにはともあれ、少しこの腹を拵えんことにはねえ。ハハ(圭子に)さあさ、どうぞあなた、おかけになって、さあさ、(馴れ馴れしいインギンさで圭子を自分の傍の椅子に招じて、丁度その時、せい子がよそって双葉が取次いで渡してやった汁の椀を、圭子に当てごう)さあ、どうぞ。
圭子 いえ私は、たくさんですの。(その間に欣二は梯子の上で、こわれて大きな口を開いた天井の穴に右手を突込んで、そこから酒の瓶を取り出す。その間に、せい子は一同の椀に汁をつぎ、双葉がそれを一つ一つ食卓の上に並べ置く。風景だけは夕食の風景になる。誠は黙って汁椀を持って口をつけながら欣二のしている事に眼を附けている)
三平 (その誠の視線を追って欣二を見て)おおお! えらい物が有るじゃないか!
欣二 ふん! (梯子を降りてノッソリ食卓の方へ)
せい (まだ男の前に立っている柴田に)さあ先生、おかけになって。
柴田 だがこの人を――
三平 (欣二に)どうしたんだね? ジンじゃないか。
欣二 入れといたんだ、あすこに。フ! (瓶のセンを抜く)汁はいらん、僕ぁ。(双葉の手からカラの汁椀を取ってそれに瓶の酒を注ぎながら若い男と父の方を見て)お父さん、よしなさい、そんな、よしなさいよ!(柴田がしかたなくノロノロと男のそばを離れて食卓の方へ来て欣二のそばの椅子にかける。せい子が、それに汁椀を渡す。双葉もせい子も既に汁をよそい終って自分達も椅子にかけて食卓についている)チッ! (椀の酒をグーッと一息に飲む。そして瓶の方を三平に渡す)
三平 おっとと! いただくよ、こりゃすばらしい! (と左手に持っていた汁椀の、まだ残っている汁を口をとがらしてガツガツと呑み込んでから、そのカラになった椀に酒をつぐ。その思い切って動物的な動作を一同が見守る。圭子は顔をそむける。誠は無関心な顔で汁をすする。せい子は目をふせる。双葉は子供のようにヒタと見入っている)
欣二 (低く)畜生!
三平 どうも、やあ! (一息に飲んだ酒に激しくむせる)プッ! うまい、クシッ! ゲエ! ハハハ。(やつぎばやにもう一杯ついで、再び口をとがらせる)
柴田 ……(汁椀を受取って一口すすりながらも若い男の方を見ている)どうも……どうしたと言う――?
欣二 (三平を睨んでいた眼を、その父に移して)いいんだ! よ、お父さん! 飲みなさいよ。これ、飲んでごらんなさい! (左手で自分のカラの椀を父の鼻の先へ持って行き、右手で酒瓶を三平の手からもぎ取って、ゴブゴブとつぐ)さあ!
双葉 駄目、お父さんは!
欣二 いいじゃないか、なんだい! そら、お父さん!
双葉 駄目ですったら! (汁椀をカラリと置いて、中腰に乗り出して欣二の左腕を掴む)
三平 フッ! (ピチャピチャと舌を鳴らして二杯目の酒を飲みながら)ヘッヘヘ! まあまあ、ええじゃないか、ええじゃないか、飲みたくない者は。
欣二 ええじゃない事ぁねえよ。ヘッ! (言いながら、その椀の酒は自分で飲んでしもう。そのカラの椀を今度は誠の方へ差し出して)兄さん、ひとつ。
誠 いいよ、僕ぁ。(汁をすする)
欣二 うまいよ!
誠 僕は飲めない。
欣二 飲めない? 冗談言っちゃいけない。(圭子に)じゃ、君ひとつ。
圭子 ありがとう。でも――
欣二 遠慮するなって。
圭子 でも、今日は、駄目なの。
欣二 へえ? ああそうか、ヘッヘヘ、でも一杯位いいだろう?
双葉 圭子さん、駄目だって言っていらっしゃるじゃないの兄さん! (欣二の左腕を掴んでいた手がすべって、欣二のワイシャツが[#「ワイシャツが」は底本では「ワイシャッが」]めくれて、その二の腕に、ガーゼでおさえてバンソウコウを張った所が現われる。圭子の話を思い出し、それをジッと見て)……なあに、兄さん?
欣二 ……なに、チョット、すりむいた。
双葉 ちい兄さん――私たちが、ちい兄さんの事、どんだけなにしているか――
欣二 離せよ。(腕を振りもぎって)フッ、アラアの神様か。まあいいよ。(立って若い男の方へ行く)おい君、飲みたまえ。(椀を差し出す)
男 ……(受取らず、一歩しりごみして、ヒョックリ、頭をさげる)
三平 食べる物は、もう無いのかね? いくらなんでも、これだけじゃ、どうも――
せい ですから――あの――明日になればなんとかいたしますから。
欣二 (男に)いいから飲めよ。(男又しりごみして頭をさげる)なんだ? どうしてそうペコペコするんだ? (男更に頭をさげる)
柴田 (三平に)また、なんだ、近頃、この順々に配給が悪くなって来ているから――
せい ここんとこ押せ押せに、お尻が全部集って来て――欠配が二十四五日続いているもんですから。――もう少し早いと闇市でチットはなんか買えやしないかと思うんですけど、なんでしたら私一走り――?
三平 どうする気だろうなあ政府は? これじゃ大部分の国民は遠からずして餓死じゃね。食物が間に合う頃になったら、金が無くなってら。やっぱり、のたれ死にか。助からんねえ。阿呆な戦争をやらかしたもんさ、全く!
欣二 (男の顔を見たまま)ヘッ、ガウチョが何を言う! おい、飲めよ。よう! ……(不意に男の頬をピシッとなぐる。なぐられてもポカンとして、頭をさげるのも忘れている男。それを見て更にカッとした欣二が、更になぐる)こら! なぜ、そんなに、ペコペコしやがるんだ! (又なぐる)
双葉 兄さん!(走り寄って兄の手を掴む)なによ、なにするの!
欣二 野郎! フー公、これなんだと思う? え? これ、なんだと思う?
双葉 (怒って涙ぐんでいる)なぜ、そんな乱暴するの!
欣二 (歯をバリバリ噛んで)よく見ろ、こいつを! え? ナリを見ろよ。眼つきを見ろよ。かかって来たら、どうだ? くやしかったら、俺にかかって来たら、どうなんだ? ポカーンとして、ヘッ!(双葉に押されて食卓の方へ)
双葉 ですから――だから――そんな、ちい兄さんが乱暴する事はないじゃないの!
三平 まあまあ、じれたもうな。わかる。わかるけれども、アラアの神は曰く、一切は過ぎ去る。すべてはホンのいっときさ。アッハハハ。
欣二 なにが、アハハですよ? 一切が過ぎ去ったりして、たまるもんけえ。俺達ぁ、負けるべくして負けたんだ。(誠に)そうだろう兄さん? そうだね?
誠 …………。
欣二 え? 兄さん達から言やあ、そうなんだろ? そう言ってたね、こないだ? ……なぜ返事をしないんだ?
誠 いいよ。
欣二 そんな、変なふうに笑うのは、よせよ。
誠 お前は酔っている。
欣二 酔うなんて言うなあ、こんなんじゃねえよ。兄さんこそ酔っているんじゃないか、共産主義と言う奴にな。ヘヘ、近頃左翼ファッショと言う言葉がはやってるが、知ってる? 高慢な顔をして、他人の事は何でもかんでも批判する。そいで、てめえが批判されると忽ちむくれちゃって、そんな事を言う奴は反動だと来る。傲慢に毛が生えちまった。反動とさえ言やあ、人がビックラすると思っていやがる。いまどき言葉でレッテルを貼られてビックラするような人間が一人でも半人でも居ると思っているのかね?
三平 うむ、そりゃ、なんだなあ、(誠に)たしかに君達みたいな連中が、わけも無しに人を教えようとする態度にとっつかれている事は、事実だなあ。十七八年前の左翼の盛んだった頃は、これ程じゃなかった。あの頃よりも全体に左翼の質は落ちたらしいね? (誠答えず)
欣二 叔父さんは引込んでろよ。あなたなぞに、なにがわかる。叔父さんは、闇屋相手にトランプばくちでも打ってりゃ、そいでいいんだ。
三平 私が、いつ、ばくちを打った?
欣二 知らないと思っているの僕が? じゃ言ってやろうか、池袋のトンガリ松や、渋谷の原正なんて、どうしたい? (三平答えず)ハハ、いいさ、いっちょう行こう。(三平に酒を差す)
柴田 ……人の事はどうでもよい。欣二、お前は少し自分の事を考えたら、どうかな? お前は、どんなわけで、そんな風になってしまった?
欣二 ……全く、人の事はどうでもいいんですよ。お父さん、あなたは少し自分を考えたらどうです? なぜ、お父さんは、そんな風に痩せこけてしまった?
双葉 ちい兄さんの、バカ!
柴田 私は冗談言っているのではない、まじめだ。……お前は一二年前迄は立派な青年で、まじめ過ぎる程まじめな――それがこんなふうになって――
欣二 ダス・イスト・アイン・メルヘン。僕は冗談を言ってるんじゃない、まじめです。あなたは一二年前迄は、温厚篤実な立派な学者で、学生達からは人望が有って――それがこんなふうになってと――いまだに温厚篤実な学者かあ。なあんだい!
誠 (黙々として聞いていたが)……欣二。
欣二 …………?
誠 僕の言うのを聞いてくれ。……僕が何か言うとすぐお前のカンにさわるらしいから、なるべく俺ぁ言わんようにして来たが、今日は、まともに俺も言うから、聞いてくれるかい?
欣二 ああ聞くよ。酒の
誠 (相手の嘲弄の調子を無視して冷静に)すぐそんなふうに取るのは、君のまちがいだ。……なるほど僕たちに、すぐ、人を上から眺めおろして一段高い所から物を言う、実に薄っぺらな傲慢さが、これまで、いくらか有った。それは認める。今でもまるきり無くなってはいない。それは薄っぺらさだ。僕らのまちがいだ。僕らは、全体としてそいだけ力が弱くなっちゃってるんだ。衰弱したんで、言葉の上だけのウルトラになっちゃってるんだ。気が附いてる。……誰より僕ら自身気が附いて、早くそれを治さなきゃならんと思ってる。‥‥今俺の言うのは、説教じゃない。一段高い所から見おろして君を批判しようとしているんじゃない。
欣二 説教強盗と言うやつは、どろぼうに入られない方法を人に教えながら、どろぼうをした。
誠 (相手の調子に乗らず、まじめに)もともと、君は頭が良い。鋭い。いや、そんな事よりも君ぁ俺の――たった一人の、大事な弟だ。……小さい時分の事を僕ぁ思い出す。お前はシンはやさしい子だったがカンがつよかった。ほかの子がチットでも不当な事をするとお前はすぐにかかって行った。正義派だった。とてもそりゃ――そいでお前がやっつけられると、俺が仇うちをしてやった。思い出すんだ俺ぁ。……その気持で――あの頃と同じ気持で俺ぁ今言ってる。説教だなぞと思ったら、そりゃお前のヒガミだ。……そいで、欣二、こうやって、みんなが、こんなことになって、いろんな事を歪められてしまって、苦しみながらだ、こうしてみんなが――いや、この内の者とは限らないんだよ。世間のみんながだな、のたうち廻っているのがだな、これをなんだと君は思う? え?……なんとかして立直ろうとしているんだと俺は思う。建て直そうとしている姿なんだと思う。そうじゃないのか? そりゃ、大変だ。チットやソットの事で立ち直れる筈はない。あっちを見ても、こっちを見ても、やりきれない事だらけだ。踏みつぶして――お前の言うように、踏みつぶしてしまえと言う気のする事だらけだ。メチャメチャだ。どこへ行くか、どうなるか、わからない。真暗だ。……そいでいて、それであっても、これは立直ろうとしている姿なんだよ。そうじゃないだろうか?
欣二 わかった。そいでお前も立直れだろ? わかってるよ。その次ぎに、勤労階級の側に立てと来る。その次ぎに唯物弁証法と来る。ああ、立直ろうとも! 勤労階級の側に立つとも! 弁証法結構だ。なんでもない。半日も、いりゃしない。一時間だけ有りゃ、たくさんだね。わけないよ、そんなものになるのなんか。しかし、そうなったからって、どうなんだ? ヘッ、俺に言わせりゃマルキストなんか無邪気なもんだ、いやマルキストにしてからが、自分を動かしているものが、ほんとは、マルキシズムなんかとは縁もゆかりも無い、もっと根深い所に有ることに気が附いていないね。
誠 じゃ言ってごらん。君は気が附いてるのか?
欣二 附いているとも。んだから、三半規管をよこせ!
三平 ハハ、三半規管たあ、妙な事を言い出した。
欣二 蛙の耳の中から三半規管をとってしまって水ん中に入れると、奴さん、上か下か方角がわからなくなって、むやみに下へ下へともぐって行ってしまって、しまいに窒息して死んでしもうそうだね? フフ、おもしれえだろうと思うんだ、そいつを、はたから眺めていたら。しかし、また、当の蛙にとっちゃ、なにがつらいと言って、こんなたまらない事ぁないだろうと思うね。なにをメドにして、どっちい行っていいか、わからないもんなあ。中にゃ、自分から窒息して死んでしまおうと思って、下へもぐったつもりの奴が上へ出てしまって助かったりさ、ハハ、とにかく、いくらドデン返しを打って見たって要するに、これでいいと言う事にゃ永久にならないもん。
三平 一体、そりゃ、なんの事だ?
欣二 だからさ、要するに、その時その時で、出たとこ勝負で、茶にして暮すほかにしょうがねえだろうと言うんだ。
三平 ハハ、人間と蛙は違うよ。
欣二 違うかね? どこに違うと言う証拠が有るの? ドデン返しをさんざんやらされて来たじゃないか俺達は? そうだろう? もう、いやだよ! もう、これ以上はごめんだ。くたびれちゃった。ほかのどんな事でもいいが、ドデン返しだけは、もう、いやだ! 眼がまわる。ヘドが出る。こらえてくれよう! もうドデン返しをしないと言う保証をよこせ! 信用の出来るメドを俺によこせ! そしたら俺ぁ、たった今すぐ、なんにでもならあ! (このあたりから、欣二も誠も、その他の人々の言葉も、速射砲のように早く、かんだかになり、かつ、互いに他の人の言葉を中途でたち切ったり、同時に言い出して、ぶっつかり合ったりする。最後に至るまでに、それは益々はげしくなって行く)
誠 お前の言っているのは違う! 日本がこれまでして来た戦争は侵略戦争だった。それをお前は見おとしている。むしろ、故意にそれを見おとそうとしている。それは――
欣二 見おとそうとなんか、してない! 俺の言っているのは、そんなこと同じ事じゃないかしらんと言うんだよ。眼かくしされていたんだ俺達ぁ。しかも、かんじんな事は、眼かくしされていると言う事に気が附かない。気が附きようがない。そりぁ、兄さんみたいに、かしこい人達は気が附くだろうけどさ、一般の俺達人民にゃホントの事ぁわからん、わからなかった。この先きも、どうすればわかるようになるか、そいつを俺ぁ――。
誠 そんな事ぁないよ。今、いろんな人が戦争を振返って見て、すぐに、だまされていた、だまされていたと言うが、そりゃ嘘だ。たくさんの人間が、そんなにかんたんにだまされるものじゃない。
柴田 そりゃ、あとになって自分の責任をごまかして他になすりつけようとする卑劣さだな。私には、まけいくさそのものよりも、日本人の中にこのようにたくさんの卑劣漢が生れたことの方が悲しい。この方はもう、どんな言いのがれをしても、追っつかない。日本国民は敗れた結果、劣等になったのではなくて、その前から劣等国民だったのだな。それを思うと私は――
誠 違うんです。僕の言うのは、誰がリードして戦さをはじめたかと言うことです。誰の利益のために、戦さがやられたかという事です。その連中が、だから、大多数の国民に目かくしをして、だましたというのは、或る意味ではホントなんですよ。今までのような社会機構の中では、大衆が一部の指導者からだまされたという事は、その大衆の無智や劣等さの証拠にはなりません。(欣二に)しかし君の言っているような意味では、これまでもこれからも、俺達が眼をハッキリ見開いていれば、それが見えないという事はあり得ない。
欣二 そいだけハッキリ見えていたんだったら、じゃ兄さん達の連中は、その侵略戦争になぜ反対しなかったい? 反対してそいつをよさせるように、どうしてしなかった?
誠 反対した。したが僕等の力が弱くって成功しなかった。
欣二 嘘だあ。
誠 嘘じゃないよ。
欣二 そうか、ハハ、牢屋の中で、戦闘機の部分品を拵えながらだろう? 同じ事だね。そうじゃないか。牢屋の外にいる国民だって、それをしなきゃ、生かして置いちゃくれなかったもん。現に、俺達が召集令を貰って、行くのはいやだって言って見ろ、ズドンだ。五十歩百歩だ。威張る事ぁないじゃないか。兄さんたちの連中が、自分達だけは戦争責任は無いなんて大きな口を叩くのは、猿の尻笑いだね。
誠 そりゃ俺達は力が弱くって、そのために、国民全般に俺達の考えを充分に植えつけ戦争に反対させる事が出来なかった。それほど俺達の力は弱かった。しかし弱いために押しふせられて公然と戦争に反対出来なかった事と、積極的に戦争に協力した事とは、違うよ。
欣二 違うで、いいさ。しかし、違っていたからって、そいで、俺達の、こんな風になり果てた状態がどうなっていたんだ? どうなるんだ? 同じじゃないか。ハハ、そのうちに又、世間の調子が変って来るとする。するとまた兄さん達は引っこんじもうよ。俺が太鼓判を押さあ。そして、後になって、俺達の力は弱かったから、うんぬん。
誠 それまでに、いや、そんな事の無いように、だから、俺達は大急ぎで世の中を作りかえなくちゃならんのだ。労働者農民の手で上から下まで固めた社会を作り出さなくちゃならんのだ。そうすりゃ、侵略戦争をする必要は無くなる。又侵略戦争を無くしてしもうには、そうする以外にない。
欣二 そら出て来た、侵略戦争を必要とするのは資本家である。結構だ。ところで、資本家が無くなる事があるかね?
誠 無くなって行くよ。必然的にそうだ。これから進歩的な人間が、そいつらを無くなして行く。
欣二 個人は無くなっても、蓄積された富そのものは無くならん。つまり資本は無くならん。
誠 人民がそいつを管理する。だからもう人民を搾り取り頤で使う力ではなく、反対に人間の生活を豊かに幸福にするための力になる。
欣二 ところで、いつになったらだい。そんな時が、いつ来るかね?
誠 今に来るよ。俺達の持って行きよう次第で早くもなりおそくもなるが、必らず来る。
欣二 ブラボー! ありがたいね、そいつは。ところで今此処にいる俺達をどうしてくれるんだ? いいかい兄さん! 頼むからこの俺を、ようく見てくんないか。さあさ、お代はいらねえから、よく見ておくれよ。なにさ、もう三十分すれば、飛び出して十中の十、必ずと言う所まで行ったんだ。そして結局自分をまるきり棒に振ったんだ、なんて事ぁ大した事じゃないよ。今から思うと、こっけいさ。お笑い草だね。そんな事ぁ、どうでもいいさ。見なよ、俺達のなくしたもなあ、命なんかより、もっと大きなものなんだ。……人を信用する気をなくしちゃったんです。わかるかい! 兄さんにゃ、わかりゃしねえだろう? こいつ、チョット、オツリキな、へんてこな加減のもんだぜ。そいつは、てめえがダラシがねえからと来るだろうが、そりゃまあダラシがないにゃ違いないからね、さよでございますかと言うだけで、そんで、しょうがねえもんなあ、ハハハ! ことわっておくが、オアズケはごめんだぜ。オアズケを見せびらかされたって、腹がクチくなるか?
柴田 (それを押しとどめて)もう、黙んなさい欣二! もういいから!
三平 ハッハハ、腹がくちくなるか、はよかった。全くだよ。そんな高級らしい事をガアガア言いたくなるのが、実はただ腹がへっているという原因から来ている。胃の腑のかげんです。栄養失調の結果の精神失調ですな。そんなもんさ人間なんて。はだかになってしまえば、とどのつまりが、食い気と色気。餓鬼です、要するに。こめんどうな理屈を言い合ったって、どうなるものかね。家庭の平和がみだれるだけ。ここの内じゃ、二人三人寄るとたちまち議論だ。久しいものさ。いいかげんに、よそう。とにかく今日はよしなさい。そんな事よりも、問題はこのすきっぱらさ。おせいさん、なんか、もう少し食べるもの無いかね?
せい ええ、でも、――
双葉 私は、だけど、ちい兄さん、いけないと思う。そりゃ私なぞ、誠兄さんの言うこと、よくわからない。よくわからないけど、こうして、つらい思いをして、働いて食べて行ってる貧乏な人達のために都合の良い世の中が来なくちゃいけない、来させるようにしようと言う考えの、どこがいけないの、え、ちい兄さん? 兄さんはただイコジになっているだけだわ。そうじゃありませんか。腹の奥の奥の奥では、ちい兄さんだって、それを望んでいるんだと私思うわ。そうじゃなくって? 私は――私、今とてもつらい、つらいけど、そいでも、まだこれで以前の時代より、良くなったと思うの。本質的によ。本質的に良くなる望みが出て来たと思うの。本質的に良くなった、良くなる望みが出来て来たという事を認めたら、その事から今差し当り起きて来ているいろんなつらい事位がまんして、こらえて行かなくちゃならないわ。そして、そんな事を自分の手で順々になおして行かなくちゃならないのよ。
欣二 双葉、そいじゃ、お前のその顔のキズをなおして見ろ。ヘッ、お前のツラなんか此方から見るとバケモノだぜ、いえさ、もう少し経ってお前に恋人でも出来てからだな、今言ってるような事が言えるか?
双葉 (カッと見ひらいた両眼からバラバラ涙をこぼしながら)言えますって! 言えるわ! これ位の事で、私――私は、生きて行くのよ。姉さんと違ってよ。私は生きて行く!
欣二 あいよ、俺も死にたかあねえのさ、昂奮するなよ。おい圭ちん、踊ろうか? (立って行き圭子の腰を抱く。圭子黙ってそれをふりほどく)ヘ! そう、かんたんにくたばって、たまるかい! (立ってフラフラと上手の方へ歩き出す)死に神の歯の間から、皮一枚の違いですり抜けて来たんだ。虫けらになっても、ドブドロを呑んでも、たとえ、ばけて出ても――なあおい! (丁度その前に来ていた若い男の顔に、自分の顔を突きつけるようにして言う。男はペコリと頭を下げる)
柴田 (誠に)だけどねえ誠、私の考えは少し違う。そりゃ、日本が始めた戦争が侵略戦争であった事にまちがいはないが、その戦争と自分との関係と言うか責任と言うか、それが少し違っている。(話しかけられている誠は、男のそばを離れてフラフラしながら室の奥へ行っている欣二の方を眼で追っている)……つまり、お前達の考えと私などの考えの違いは、結局お前達は今度の敗戦は自分達に関係の無い事、つまり軍閥や財閥が勝手に始めて勝手に負けた事件であって――つまり負けたのは自分達ではないと思っているのに反して、私などは自分も負けた、いや、自分が負けた事件だと思っている、つまりその違いから来ているようだ。
誠 しかしお父さんは戦争前から戦争中もズッと戦争には反対だったじゃありませんか。僕はそれを知っています。今更それをそんな風にお父さんが言うのは、封建的な、つまり「衆に先んじて憂う」とか「死屍に鞭打たず」とか言った式の観念的な倫理観のコンガラカッたものです。愚劣だ! 普通に良心と言われていますそれは。しかし、そりゃ、病気になって、過敏になってしまった良心――ザンゲ病――自分が犯しもしない罪を自分が背負ってむやみとザンゲする――と言うのが有るそうです、それだ。良心ではない精神さくらんの一種です。
柴田 いや、よく聞きなさい! 欣二が言ったようにお前達は自分達の考えが常に一番正しくて、他の思想は愚劣だとする。そしてすぐに人を見おろして断定してしもう。自分の気に入らぬ意見は忽ち反動だと言い放って人に口を開かせないじゃないか。つまり、お前達は理窟ではデモクラシイを標ぼうしながら、そしてファシズムと闘っていると言いながら、実際に於てお前達のしている事は、なにに一番近いかと言うと、ファシズムに一番近い。人にはそれぞれ意見がある。その意見に賛成するしないは別問題として、少くとも人の意見に傾聴だけはするがよい。……それで今言ったように、私らには、自分のせいで、つまり自己の責任において此の戦争が起り、そして負けたと言う意識が有る。そして、そこから起きる反省が有る。あるいは、それは、お前の言う通り、封建的倫理観から来る考え
誠 違います! お父さんは、国民全体国民全体と言いますが、事実としては、他の者を圧えつけたりだましたり搾り取ったり利用したりしている側と、そうされている側とがあるっきりです。市ガ谷で今裁判されている連中は、その圧えつけたり利用したりしていた側の代表者――つまり選手です。連中の罪悪は徹底的に無慈悲に追求される必要があります。それは単に過去の犯罪に対する懲罰としての意味だけではありませんよ。今後の世の中の進歩のためになるからです。なぜなら、あんな連中を代表者にしたり、手先にしたりした当の階級――つまり他を圧迫したり搾取したり利用したりする側の根は、あっちこっちにまだ残っていますからね。放って置けばまた芽を出して来ます。なるほど、お父さんの良心――つまり、戦争に対して自分にも責任が有ったと言う反省に対しては、僕ぁ人間として敬意を表します。……しかし、それが、あの連中を、どんな意味ででも弁護する口実に使われるんだったら――現に使われています――だったら、僕ぁ賛成できない。ことわっときますが、僕は自分の主義や主張を、お父さんに対しても誰にも強いようとしているのではありません。世の中には他の考え方もあるし、あってさしつかえないのです。そんな人達とも、いっしょにやって行けると僕ぁ思っているんです。ただ、どんな思想を持つ人でも、どんな立場に立っている人でも、現在の事態を正確に認め掴んでですねえ、その上で積極的に人間的に生きようとする人ならば、生き方にそれぞれ多少の違いはあってもです、結局は世界の九割を占めている善良なコンモンピープル――つまり人民――勤労者と言ってもいいです――それと反対の側に立つわけにはゆかないと言っているまでです。そいで今市ガ谷でなにされている連中は、その反対側に立つ人達です。
柴田 よろしい、それでもよい、仮りにそうだとしてもよい。同じ事だ。指導した者のまちがいを、されている者の側が、それではなぜ矯正しなかった? 力が弱かったと言うかね? しかし矯正する機会が全く無かったとは言わさぬ。すると又お前達は、そのような機会をも捕え得ないほどに、お前達の力は弱かったと言うかもわからぬ。よろしい。私の言うのはそこだ。お前達の考えを仮りに正しいとしょう。すると、その正しい考えを以てしても、国民の間にそれほど弱い力、殆んど無いに等しい弱い力しか作り出し得なかったところの、国民全般の無知と無能――つまり日本人の低さだ、これに対しては国民全体に責任が在る。お前達にも無いとは言わさぬ。つまり右翼から左翼の一切合切をふくめて、今言った広い意味での責任が在るのだ。そして私の考えでは、これこそ、最も根本的な戦争責任だ。明治維新以来、日清日露の両戦役から第一次世界戦争、それから今度の戦争――その全体を通じて、全体としての日本国民が歩いて来た一歩一歩にそれが在る。今度の戦争だけに限った十年間位の責任を問うだけであったら手易いことだ。が、それでは何の役にも立たぬ。それでは日本は生れ変り得ない。日本は今、明治大帝や伊藤博文までさかのぼり、その時分からの国家の歩み方の検討をしなおさねば、生れ変るわけに行かない。今、私は敗けたから、こんな事を言うのではない。此の際、勝っていようと敗けていようと、それに関係無く、遅かれ早かれ日本は、それにぶち当らなければならんのだ。つまり、これが日本の運命だったのだ。運命なぞと言うとお前は又笑うだろうが、運命と言うのは、つまり必然性と言ってもよい。過去から現在に至る無数の事がらの積み重なりの、のっぴきのならぬ結果のことだ。それを一つ一つときほぐして、その中に本質を見つけ出さねば、ホントの日本の再建は起り得ない。私は及ばずながら、歴史を学んでいる人間の一人として、これからそれをやろうと思っている。やって見せる。それを私は――(喘いでヒッと言うような声を出して絶句してしまう。疲れ切っているところに、昂奮して長々と喋ったので、力が尽き果てたのである)
双葉 もう、よして下さい、父さん! もう、やめて! やめてちょうだい!
柴田 ……(しめ殺されそこなった鶏が、もう一度息を吹き返そうともがいているように、首を伸ばしたり、ちぢめたり、両手で食卓の上を掻きむしったりしながら、切れ切れに)……いや、私がな、この、闇買いをしないでやって行きたいと思っている事だって――そうだ、小さな事ではあるが、言ってみれば、実は、それに関係が有る。――いまどき、闇買いをしないではやって行けない事は、いかな私だって知っておる。また、自分ではしなくたって、間接的に、つまり欣二やおせいさんやなぞが闇で買って来たものを食べないわけにはゆかない事も知っておる。……不合理だ。人は笑うだろう。自分の不合理は承知している――それはしかし唯意地になっているのではない。……倫理道徳から来ているのでもない。……戦争中は、あれだけの苦しい戦さを国民全体がしているのだから、私など、それ位当然だと思ったから……又こうなって、自分達の愚かさのために、よその国に迷惑をかけた。戦勝国でさえ自分達の食糧をさいて日本にくれている。その日本のわれわれが、この敗れた国の人間が、これ位苦しむのは、あたりまえだと思うからだ。……それに、それに、私は、こうなっても、まだ日本人を信用している。……最後のところで、信じている。日本人は――役人にしろ誰にしろ――日本人が私を殺す筈はない! 日本再建のためには、闇をするなと言っているその言葉を守って――なんとかして守ろうとしている私を、日本人を、見殺しにする筈はない! え? そうだろう? ……万々が一、これで死ぬならば、われひと共に、これが日本人のホントの姿、運命――身から出たサビと諦らめて、私は死ぬ。……いいかな? 歴史の勉強のこれが、私の実は出発点だ。日本人を信じている。これが出発点! ……それが崩れれば、私の学問も崩れる! 日本人一人々々の自己完成無くしては、学問も、日本の再建も、あり得ない! これが、崩れれば死んでも惜しくない! ……しかし、そんな筈はない、絶対に、そんな筈はない! 私は信じている! やって見せる! な、誠、わかるか? わかってくれ! 賛成するしないは、別だ。わかるだけは、わかるだけは、わかってくれ! そ、そ、そ――(再び喘いで、絶句する)
誠 ……わかります。お父さんとして、そう考えられるのは、当然でしょう。しかし一人々々の自己完成の方法には限度があります。全体が改革されなければ自己は完成できません。父さん一人が死んで見せたって――
双葉 兄さん、もう、よして! たくさんです! よして、兄さん!(片手で誠をさえぎり、片手で父親の腕を掴む)
柴田 う? (無意識に双葉の顔を見上げた顔の色が真青に変っている。しかし直ぐに又誠の方を見て喘ぎながら)なんだ? 言ってくれ、聞こう。相手が父だからと言って遠慮することはない。(双葉に)よろしい、よろしい。
誠 ……(父の様子を心配そうに見ながら、しばらく黙っていてから、つとめて静かに)……そんなふうな考え方は、お父さんの国士気取りの哲学癖に過ぎないと思います。……明治維新以来の日本の歩みがどうであろうと今現に現実の問題としては、先刻言った――つまりイエスかノウの二つの立場しかないんです。その中間のどっちつかずのボンヤリした「国民的立場」なんて、実は存在しやしないんだ。われわれは自分が今立っている現実の関係に立って歴史を見る。好もうと好むまいと、意識しようとしまいと、そうです。問題はお父さんが、どんな立場に立っているかと言う事だけです。
せい (どうなるかと思う心配のために、ハラハラと唇まで顫わせていたのが、こらえきれずに誠の言葉をたち切って)もう、あなた、いいじゃありませんか!いいえ、私は、なんにも知らない人間ですけど、先生のお気持は、よくわかります。そんな、あなた! (小走りに炊事場へ行き、コップを取って水を注ぐ)
誠 (そのせい子の方をジロリと見てから、つとめて自分を押えながら)なるほど、それは良心的です。誠実だ。しかし良心的で誠実であるだけに尚いけない。それはどこにも規準を持っていない。奉仕すべきものを持っていない。良心も誠実も抽象的に幽霊として宙に浮いてフラフラしているだけだ。だから最後にそいつは、遂にファッショのために利用されるだけです。現に利用されたんだ。うっちゃって置けば今後も利用されます。かって僕自身がそうだったんです。(柴田答えず。それは答うべき事が無いからではなくて、しきりと何か言おうとしても昂奮と疲労のために声が出ないのである。そこへせい子がコップに水を持って来て渡す。ブルブル顫える手でそれを受取って喘ぎつつ飲む柴田)……日支事変が始まってからもズーッと、太平洋戦争になるしばらく前迄――つまり僕がつかまる前迄、僕ぁハッキリしたイデオロギイなんぞ何一つ持っていなかった。たかだか素朴な社会主義思想――それにお父さんから注ぎ込まれた民族主義――そうです、僕ぁ、たしかにお父さんから育てられた、お父さんの弟子です。今でも或る意味でそうです、残念ながら。――とにかく、漠然として良心的進歩主義者と言ったとこでした。ところが奴等は僕等のような生まぬるい者まで邪魔になり出したんだ。それだけ奴等自身が追い詰められたんだ。そいで、つかまった。いじめ抜かれました。……奴等から僕は教育されたんです。正確な意味で僕が共産主義者になったのは、つかまってからなんです。ならざるを得なかったんだ。――つまり、いじめ抜かれたり、自分でも苦しんで、いろいろに考え悩んだ末に、僕がたどりついた場所が――気が附いて見たら、共産主義だった――共産主義に一番近いものだったという事です。――その時から今まで、いや現在でも――ですから僕の考えや、している事が、どの程度まで共産主義者として完成されたものであるか、僕ぁ知らん。多分、百パーセントの共産主義者から見れば、素朴すぎる、矛盾だらけの、なっていないものだろうと思います。それは知ってる。知っていても、しかし僕は自分が共産主義者である事を自信を以て言えます。世の中の全部の人間を大きく真二つに分けます。奴等は、向う側に属し、僕ぁ此方側に属すんだ。骨がくだけても僕ぁ向う側へは行かない! それだけです。……もっと早く僕が――僕等が眼をさまして社会的な勢力として立上っていれば戦争なんか起させないで置けた。だのに、ボンヤリと寝呆け返って民族主義などをいじくり廻していた。それです、僕の言うのは。……そのために戦争になり――そして、こんな事になってしまって――そのために、僕等はいろんな事をだいなしにしてしまった。……何千万という兄弟のいのちを、むだに殺してしまった。内も外も、焼野原にしてしまった。……(バラバラとあふれ出して来た涙)このままで行けば、このままで行けば、ぼくらの周囲は、遂に、どうなるんです? なにになってしもうと、お父さん、思います? え? なんとかしなくちゃなりません。早く、なんとかしないと! ――(自分の涙を自ら恥じ、自分に対して腹を立てて、語調が過度に刺すように鋭くなっている)僕はかっての自分を含めて――ウロウロしていた頃の自分をも含めてです――いまだに民族主義的な感傷論で以て、あれやこれやの良心遊戯にふけっていて、このありさまを、ありのままに正面から見ようとしない連中を――僕は憎みます。
欣二 (それまで奥の方をフラフラ歩いていた末に、はしごに身を寄せかけて聞いていたのが、フッと笑って)……憎まんねえ、僕ぁ。憎むだけの価値は無いもの。そうじゃないか、こうなったからと言うんで急にウヨウヨと飛び出して来て踊りはじめた猿どもじゃないか、たかが! 尻の赤い猿どもだ。ツバぁ吐きかけてやりゃ、たくさんだい!
柴田 (やっと口がきけるまでになり、片手をあげて欣二をさえぎりながら)黙って居れ欣二! その、それでは誠、だから、つまり、お前も認めているのだ、左翼も右翼もひっくるめた国民全部に、広い意味での戦争責任の自覚――そこから来る反省――つまり、何もかも御破算にした上でわし等は出発し直さなくては、日本の再建は出来ないと私は――
誠 違います! (既に眼は血走り、声は甲走っている)そんなミソもクソも一緒にした日本再建なぞ在り得ない! お父さんの言うような意味の日本なんぞ、もう既に無い。在る必要がない。再建しなくてはならぬ部分と、根こそぎ叩きこわさなきゃならん部分があるきりだ。大事なことは、あなたの考えが、そのどの部分に奉仕しているかと言う――
欣二 (梯子の所を離れてフラリと近寄って来ながら、誠の言葉をたち切って)わかった、わかった、勤労階級だけが進歩的さ。
誠 そうだよ!
柴田 (喘ぎながら)なぜ、そうだ?
誠 (噛みつくように)人間の生活に必要な物を作り出しているのは勤労者だからです!
柴田 しかし、これだけたくさんの勤労者に仕事を与えるだけの施設や力が日本に無ければどうする? 現に無くなっている。失業者の数をお前だって知らぬ筈はない。
誠 組織を変えます。機構を変えればやって行ける。それは――
柴田 それには程度が有る。ソビエットやアメリカや中国には、土地が有る。日本には無い。
誠 土地が無ければ無いように、やり方があります。生産手段は土地だけではないんです。
柴田 粗雑な公式論だ、お前のは。自然的条件や地政方面を抜きにした愚論だ。
誠 せいぜいお父さんは一国社会主義迄しか知らんから、そんな事を言うんだ! 食糧は、ほかから入れりゃいい。
欣二 知ってらい、世界全体の社会主義化が無ければ一国の社会主義化は完成されないとね。ふん。そいで――
三平 万国の労働者団結せよか!
欣二 そいで、それまで、どうするんだい? その時まで俺達はどうしてりゃいいんだよ?
三平 ハハハ、アメリカあたりの労働者は、日本の労働者とくらべれば、三井三菱――とまでは行かんが、先ずそれに近い暮しをしとる。団結せよと言っても、ごめんだってね。
双葉 (非常な早口で叫ぶように)よして頂戴! よして頂戴! お父さんも誠兄さんも、みんな、もう、そんな、よして頂戴! なんなのそんな! そんな事をワイワイ議論したって、なんになるの? 大事な事はそんな事じゃない! 私たちにいり用なのはそんな事じゃないわ! もっとズット、ズット、ズット、なんでもない事よ! 自分と同じように人の事を考えてあげる事だわ! 人の言う事もよく聞いて人の立場も認めてあげる事だわ! 隣りに居る人を信用する事だわ! 信用できるように、私達が人とした約束を守ることだわ! そいで、みんなみんな、仲良くやって行く事だわ! そんな事よ。私たちにいり用なのは!それが無くなったから戦争なんかが起きたのよ! 兄さんやお父さんなどのような、いくら議論したって私たちになんの役に立つんですの? こうしてメチャメチャになってしまって、なんとかして立直ろうと一所懸命になっている、たくさんの人達とは、そんなの、離れてしまっているんだわ! 浮きあがってしまってるんだわ! たくさんの私達にいり用なのは、学問や議論じゃない。誰にもわかって、納得出来て、そしてこんどこそグラグラしない、たよりになる、平凡な事なのよ。兄さんが正しいかお父さんが正しいか私にはよくわからない。しかし兄さんやお父さんも、私達をよくしようと思っていらっしゃる事は、わかる。そいでいて私達から浮き上ってしまってる! そいだから、そんなだったから――良い、立派な人達の考えたり言ったりする事が国民のみんなから浮き上ってしまったから、戦争なぞ起きてしまったのよ。私そう思う。私達はもう、あんな事を繰返したくないわ、繰返すのは、ごめんだわ! シャンとして、すなおに謙遜に、卑屈にならないで、誇りを持って、勇気を出して立直って行かなくちゃならないのよ! だのに、そんなワイワイワイワイばかり言って! はずかしいわ、私達は! はずかしい――(ヒステリックに泣き出してしもう)
誠 (それをたち切って)双葉、もうよせ! だから僕ぁ言っているんだ、国民の頭を混乱させ、愚弄した末にファッショの御用学者になり果てた民族主義者の事を僕ぁ――
欣二 (それをたち切って)おいおい兄さんもういいじゃないか。わかったよ、わかりました! ヘヘ、なんでもねえ、後になりゃ、なんとでも言えらあ。後の祭って、そこいらの事だね。後の祭で茶番狂言が栄えているようなもんで――嘘だと思ったら、兄さんなんぞのお手のもんの新聞でもいい。去年の八月三日の新聞と、十月三日の新聞を引っぱり出して、くらべてごらんなさい。びっくりもんだ。昨日の淵は今日の瀬となるか、すると今日の瀬は明日の――なんになるんだい?
誠 (それをたち切って)黙れ欣二! そんな事よりも、そう言うお前自身が、なんだと言う事だ、問題は。お前こそ――
欣二 (それをたち切って)おっと、わかったわかった、反動だろう? よかろう。戦争中は、軍閥が何かと言や俺達の事を非国民の国賊だと言って、きめつけた。あれと同じ筆法だ。右翼が国賊だと言ったものを、今度は左翼が反動か。だけど、僕ぁ自分では、唯の人間だと思っている。もっとも、少しボロかな。ルンペン臭い。ただ、そら、これも後の祭でね、今頃なんと言われたって、どうにもならねえんだな。同じ事なら、去年の七月時分に、そう言ってくれりぁよかった、残念だね。
誠 欣二! お前、今度の戦争で犠牲になって、メチャメチャになったのは――つまり戦争から痛めつけられたのは、特攻隊やなんか、つまり自分達だけだと思っているようだな? 思いあがりだぞ、そいつは。一番下等なエゴイズムだ! そうじゃないか? 内地に残っているすべての人だって同じだ。又、そいつは、負けた国の人間だけに限らん。勝った方の人間だって、それぞれの形で犠牲を払っている。苦しみや痛手は、お前達だけの専売じゃない! ……そりゃお前達は自分達の若い純粋さの一切を叩きこんで行った。それが、こうなって、全部ごまかされていたんだとわかれば、たまらんだろう。そりゃわかる。しかし、それが今更、どうなんだ? だからと言って、不良になって、ヨタって歩いたからって、なんとかなるか、それが? ……食おうと思った食物が、実は煮え湯だった、舌を焼いた。こりて、怒って、皿ごとひっくり返して踏みつけて、コナゴナにする。まるでヒステリィを起した犬っころのような――痛いのは自分だけだと思いあがった所から来るセンチメンタリズム――
欣二 ああ、犬っころだよ。センチだよ。ヒステリィさ。どうしたい、それが?
誠 仲間に対する気持が欠乏しているからだ。生きているのは自分一人ではない、仲間といっしょに、仲間の中に自分は生きている。従って自分の事は自分一人の事ではなくて、仲間みんなにつながっている、仲間全体の問題だと言う自覚がたりないからだ。――つまり、俺達の社会だ。お前の問題は、実ぁ、お前だけの問題ではない。又お前だけで解決しようといくらジタバタしたって解決出来る問題ではない。それは、俺達全体の社会の問題だ。全体として全体の中で解決して行く以外にホントの解決はあり得ない。見ろ、お前は良い気になって、タカリをやったり、闇の物を扱ったり、喧嘩をしたりして、そうやって歩いているが、それで、なにが解決できた? 知っているよ俺ぁ。お前の性質は知ってる。お前は、そうして歩いていても、何一つホントの満足らしい満足は得ていない。たかだか、低級きわまる、ゴロツキとしての虚栄心がチットばかり満たされるだけだ。ホントの気持は年中飢えている。だもんだから、又ぞろ、次々と更に刺戟の強い食い物をあさる。いくらあさっても、今度は前よりも一層飢える。それの繰返しだ。――だんだん、病的になる、その中ホントの病気になる――そう言う地獄だ、お前の行きつく所は。
欣二 ……然り、飢えてるね。地獄とはうまく言った。いいさ俺ぁそんな眉つばものの全体なんかの中より、そっちの方へ、やらして貰うとする。なにはともあれ、地獄は、たしかだからね。ヘヘ! んだけど、地獄へ行くのは、この俺だぜ、兄さんじゃないぜ。よけいな世話ぁ焼かないで、ほっといてくれたらどうだえ? おせっかいが少し過ぎやしないかね? 俺ぁ――
誠 (それをたち切って)おせっかいじゃない! 仲間が俺ぁ可愛いからだ。……いいかい、闘いは、終ったのではなくて、始まったのだよ! 今度の戦いは、再び戦わないための闘いだ。まだ、この国の方々に残っているファッショを完全に叩きつぶしてしもう闘いだ。そいつは若い者の仕事だ。つまり、お前たち、身を以てファッショの毒を受けて苦しんだ若い者がやらないで誰がやるんだ? お前がこれまでに受けた手きずを痛く感ずれば感ずる程、そんな無意味な痛苦を今後ひき起さないように、まだ残っている軍閥や財閥の根と、お前は闘うのが、一番自然なんだ。当然なんだ。闘いは、これからなんだよ。その、しょっぱなから、お前は自分の武器を捨てようとしている。ばかりじゃない、お前自身、ファッショの手先になろうとしている。あらゆる場合にゴロツキはファッショの手先だよ。それを、それを、僕ぁ黙って見ては居れない。おせっかいと言われたって、なんと言われたって、仲間がお前、自分の愛している仲間がそんなふうになって行くのを黙って眺めちゃ居れん。僕ぁ、お前がかわいそうで――
欣二 (相手をたち切って)憐れむのかい[#「憐れむのかい」は底本では「隣れむのかい」]? ゲエ! よしてくれ、おい! ヘドが出らあ! ヒヒヒ! 兄さんは、ちっとばかし思いあがりようが過ぎやしないか? そんなら言ってやろう。兄さんは、な――
柴田 (長男と次男のやりとりの間も、昂奮のためにガクガクと喘いでいたのが、欣二の言葉をたち切って)まあ、まあ欣二、いいから、お前は、いっとき、黙っていてくれ!(誠に)さっきお前は民族主義者はファッショの御用学者だ、という風に言ったが、もし私がホントにファッショの御用学者だとすれば、私も困る。そのような自分を、私は許さぬ。いや、だから、そこん所をもう少し聞かせてくれ! いいや、それを聞かなくては、私は黙らぬ。そうではないか! もしそうならば、私はお前達の敵だ。また、もし、そうならばお前達は私の敵だ。言って見てくれ! もう少し、そこん所を――
せい (ハラハラして中腰になり)もう、ほんとに、もういいじゃありませんか。先生も――
圭子 (それと同時に、その前からハラハラして一同を見まわしていたのが、そのチヨット前から欣二がニヤリニヤリとしながら誠の方へ近寄って行きつつあるのに視線を吸いとられていたが、欣二の薄笑いを浮べた表情に、なにか唯ならぬものを感じ取って、不意に真青になってスッと立つ)欣二さん! あなた! (欣二の前に行く)
誠 (その方をジロリと見てから父に向って噛みつくように)言いますよ。お父さんは――
三平 よせよせ、もう! 家庭と言うものは楽しいものでなけりゃならん。ホーム・スウィート・ホームだな。特にこの家庭の夕飯時は、平和と幸福の中心でありまして、ヒッ!
双葉 お願いです! もうやめて! お願い――
欣二 (それをたち切って、自分の前に立った圭子をうるさそうに左手でどけようとしながら、ボンヤリとした語調で誠に)ヘッ、かわいそうだって? かわいそうが聞いて呆れるよ。えばるねえ! えばりなさんな! ハハそんなえらそうな事を言っている癖に、フッ、世間がグレハマになって来ると、またぞろお前さん達ぁ尻に帆かけて、逃げ出すんだ。(圭子に)なんだよ?
圭子 (真青になって、ふりもぎる欣二の腕を又掴んでとめながら)あなた、欣二さん! そんな!
欣二 うるせえなあ、なにがどうしたんだよ? ヘヘ、俺の言ってるのはね、君が生き残るか俺が生き残るか、二人に一人しきゃ生きていけないと言う最後のドタン場になって、どういう答えが飛び出すかだ。ねえ! 人をかわいそうがるのは、そん時にしてくれたらどんなもんだろう。フフ、俺ぁ――(語調が、変にユックリとねばりつくように低くなって来る。それが何を意味するかを圭子はよく知っているらしく、真剣になって欣二の身体を誠から引離そうと力一杯に押している。双葉も少し前から、立って行って圭子と一緒になって欣二を取りしずめにかかっている)
誠 ふ!(歯をむき出して欣二を嘲笑して置いて、柴田に)ですから、僕は、僕等と全く同じ立場を取れと無理にお父さんに言っているんじゃないんです。又、そんな事はお父さんに出来る筈がない事は知っています。お父さんの立場が、どっちの方向に向いているか、その事を僕ぁ――
欣二 (圭子のからだを払いのけながら、誠の言葉をたち切って)なあんだよう? (誠に)そんならねえ、兄さん、今まで君が食いつぶした俺達の分を、吐き出して返してくれよ。よ? 兄さんはズーッと百円しか内に入れてないねえ、そうだろう? いまどき、百円でたりると思うかね、一人の食費が? それも、いまの社に、戻れるようになった四月か、五月からだ。それまでは、一文も入れてねえんだ。そのぶんを誰がどうしていると思う? 兄さんみたいに立派な口をきくやつが、人を犠牲にして、人の食う物を、横取りして食うのか?
誠 …………?
双葉 ちい兄さん、なにをあなた、つまらない事を言い出すの!
欣二 おっしやる通り、俺ぁルンペンのヨタの反動だからなあ。その俺が闇で稼いで来た金で買ったものを、食いつぶすにゃ、あたらねえだろう。こないだから、君が食ってた麦だってジャガイモだって、現に今食った汁のミソも俺のゼニで買ったんだよ。返せ、吐き出して。いいや、俺ぁ、どうせゴロツキだ。俺の金なんて、腐った金だ。んだから、俺あ、そいつを恩に着せようと思って売出してるんじゃねえよ。しかたがねえから、やってるまでだからなあ。君が、しかし、あんまりのぼせるから、言ってやるんだ。吐き出して返しな。俺だけじゃない、お父さんだって食いつぶされている。双葉がそのために四苦八苦している。搾取だ、寄生だ、君達のお得意の言い方で言やあ。きいたふうな口を利くのも、いいかげんにしたらどうだい? 俺ぁ――
双葉 黙んなさい、兄さん! だまんなさい! だまんなさいったら!
欣二 だってそうじゃないか。戦争中、兄さんが引っぱられていた一年半の間、信姉さんと双葉がどんだけ苦しんで、どんだけ死ぬような思いをして此の家を支えて来たかさえも、兄さんは知りゃしないんだ。何よう言っていやがる。
誠 (真青になり、しばらく黙っていた末に、双葉に)そんなに僕の食費は足りないかね?
双葉 いいえ、そりゃしかし、兄さんだって社から貰えるお金が、そんなにたくさんは無いんだから――いえ、そんな事なんでもない。(欣二に)私は自分の事を犠牲になっているとも、苦しいとも、考えたことは一度だって無いわよ!
誠 ……そうか。そりゃ、僕が悪かった。……そうか。……(柴田に)お父さん達をそんなに食いつぶしていたとは、僕は思っていなかったんです。僕の入れているもので充分だとは、まさか思ってはいなかったけど――忙しいのと……月給が安いんで……ついウッカリしていて……(双葉に)フーちゃんすまなかった、僕ぁ――
三平 (スッカリ酔って)ヒヒヒ、えらい所で、足もとをすくわれたねえ。だから言わん事じゃない。
柴田 なに、そ、そんな、そ、食いつぶしていたなんて事があるものか! 多少そんな事があったとしても、なに、そ、そりゃ、お互いで――親子兄弟の間で、そんな事ぐらい――
誠 僕ぁ、明日からでも此の家を出て行っていいんです。
欣二 アラアの神よか、糞でもくらえ! ハハハ、見ろい! 兄さんなんか、そんなえらそうな事を言っている暇に、もう少しおせいさんとでも仲良くするんだなあ。オアズケは、お互いに、つらいや!
誠 …………。
欣二 批難してるんじゃないよ、それでいいんだよ。おやりよ。いろんな手でいじくり廻された食い物と言うもなぁ、食慾をそそるもんらしいからな。(両手で顔を蔽うせい子)ねえ! (その方へフラリと寄って行った欣二が、しなだれかかるようにしてせい子の肩に手を置こうとしたトタンに、酔った足が何かに蹴つまずいて前のめりに倒れそうになる。倒れまいとしてせい子の肩を掴んだ片手に力が入って、先程、お光のために裂けたひとえの着物の肩口のへんが、再びベリベリと音を立てて、今度はモロにわきの下までやぶれて、折から下着なしに着ていたことゆえ、わきの下から乳のあたりまで、白い素肌がまる見えになる)
三平 こら、こらお前!
柴田 欣二! (これも立って行き、欣二を押し返しながら)
(せい子が素肌をかばいながら、身をちぢめて食卓に突伏す。その他の人間は全部立上ってしまっている)
双葉 兄さん! なにをするの! なにをするの!欣二 ヘヘ。(一同が極度に昂奮している中に、この男だけが表面ますますユックリとした語調。薄ら笑いをして)いいじゃねえか。好きなら好きで、いいじャねえか。気どるない。オツリキに気どるねえ!
誠 (蒼白になり、石のように立って欣二を睨んでいたのが、相手からかき立てられた憎悪を自分で押さえつけようとする努力のために、低いが、しかし時々ふるえを帯びる語調で)欣二。……食費の事は、僕が、悪かった。……許してくれ。その中に、働いて、返えす。そいで、いやあ――しかし、それとこれとは別だ。せい子さんの事は……僕ぁ、こないだから、チャンとなにして……しんけんだ。……厨川の方は、僕の手で片づけて……僕ぁせい子さんと結婚する気でいる。だから――
欣二 おめでとう。ハハ、いいじゃないか。(三平に)叔父さんどうです、御感想は?
三平 ――まあいいて! まあ、いいから、みんな、さあ、そう昂奮せずと――
誠 せい子さんの事で、ふ、ふざけた事を、言うと、僕ぁ、き、きかん!
欣二 きかなきゃ、どうするの? だっていいじゃないか。だからさ、しんけんに好きなんだから、よろしくやったっていいじゃないか。ライト・イズ・マイトだろう? ねえ! 好きな女となら寝たっていいわけで、ハ、やって見せなよ。けだし、そこいらが、兄さんの正体……つまり、兄さんのいいとこさ。(せい子に抱きついて行き、その首に右手を巻きつけて、なめんばかりにして、その顔をのぞきこむ)ねえ、おせいさん、そうでしょう? あんたぁ良い女ですよ。
誠 (その欣二の頬を、自分を押しとどめにかかっている双葉と三平の肩越しに飛上るようにして、ピシリとなぐる)畜生!
欣二 (懸命に自分を押さえようとしている父と圭子の肩の間から、ニヤリ笑って)……いいじゃねえか、ねえか、ねえ! いいだろうおせいさん! (ズボンのポケットに左手が行く)
圭子 あれッ! (叫ぶ)あぶない! 双葉さん! あぶない! (欣二の左手に握られた大型の自動式ナイフが、ボタンを押されて、ギラリと刃を見せている)
柴田 これッ、欣二! 欣二ッ!
双葉 ……(それを見て無言で誠のそばを離れ兎のようにすばやく欣二の左側に走って、その手首をトンと叩く。ナイフがカラリと音を立てて床に落ちる)馬鹿! 兄さん!
柴田 こら! 欣二! (それを知らないで、欣二に身動きをさせまいと思って、欣二をしっかりと抱き込んで炊事場の方へ引っぱって来ながら)きさま! 駄目だぞ! この――!
欣二 なあんだい? 苦しいよ、何をするんだあ。ヘヘ、馬鹿だなあ、父さんは! 父さんこそ駄目だよ、へえ、一番愚劣なのは父さんだよ! (言葉は相変らずユックリとして低いが、身体は逆に柴田の身体をグイグイと押し、反対に父親の首をしっかりと抱き込んでいる)これでも飲みなさいよ。(それまで右手にさげていた酒の瓶の口を柴田の口に押しつけ、父親の顔を仰向けにさせて酒をつぎ込む)
柴田 あ! プー、こ――(酒にむせ、炊事場の薪にけっまずいて仰向けにころぶ)
欣二 (これも同体にころんで)アッハハハ、さあ、さあ! (尚も酒をつぎ込む)
柴田 (苦しがって、もがきながら)これッ! こ! 欣――(顔中に酒が飛び散る)
欣二 お父さんを見ると、僕ぁひねり殺してやりたくなるんだ。にわとりをひねるようにさ。こんな風にね。(父の首をしめる。柴田のもがき苦しんだ右手が無意識に、そこに転がっていた手斧を掴んでいる)
せい あっ! あっ!
双葉 ちい兄さん!
欣二 ガリッと踏み殺せ! そこら中、みんなズタズタにしてやりぁいいんだ。ヒクヒクと生きてるこたあねえんだ! 悪い事ぁ言わねえから、死んじまえ。ひねってやらあ俺が。(言いながら、父親を引き起す。立ち上った柴田の手に手斧がある)ヘヘヘ、もっと飲みなさい! え? もっと飲みなさいよ!
柴田 (無我夢中で混乱して)この! きさま! プッ!
欣二 ヒヒヒ、なんだ、もうねえや! (言ってカラの瓶をビュッと投げたのが、飛んで行って食卓の脚に当ってバリンバリンとこわれた音と同時に、ヒーッと言うような声が柴田の口から出て、その左手が欣二を突き飛ばす。つづいて、総立ちになっている一同のアッ! オ! と言う叫び声と同時に、ガッと音がしたのは、夢中になって柴田が振りおろした手斧が、食卓の板に深く喰い込んだ昔)
(長い間――)
(一同が化石してしまったように動かない。柴田は自分が何をしたのかわからないでボンヤリして突立っているが、やがて他の一同の方へ眼をやる。誠とせい子と三平と圭子と少し離れて室の中央に双葉が恐怖で一杯な真青な顔をして食卓上の手斧を見つめている。柴田はその視線をたどって手斧を見る)
(間……)
欣二 (父から突飛ばされた拍子に、椅子にドシンと掛けたまま、ポカンとしていたがやがて手斧に眼をやってニヤニヤ笑い出している)……フー。(一同が化石してしまったように動かない。柴田は自分が何をしたのかわからないでボンヤリして突立っているが、やがて他の一同の方へ眼をやる。誠とせい子と三平と圭子と少し離れて室の中央に双葉が恐怖で一杯な真青な顔をして食卓上の手斧を見つめている。柴田はその視線をたどって手斧を見る)
(間……)
柴田 ……(まだ自分のしたことがよくは理解出来ないらしく、ボンヤリ立っていたが、急にフラリと身体がゆれたかと思うとストンと前のめりに倒れる。失神したらしい)
双葉 ……(その父の様子に口の中でアッと言って左手をあげて空を掴むが、驚愕と恐怖のためにまだ動けないでいる。その美しい顔の左半面が鋭く凝結したように青白い)
欣二 ……(ニヤニヤしていた顔が、そのままでひきつったようになり、そしてふざけるような手つきで片手が頬を掻くような事をする。又ニヤリとする。両手が顔を蔽う。しばらくそうしている中にグーと言うような声を出す。しばらくしてから又同じような声……低い、地の底からのような慟哭が湧きあがって来て、次第にそのあたりをゆるがすように強くなる)
(上手の隅の壁の前では一同から忘れられて突立っている若い男が、此方を向いて、ていねいに何度もお辞儀をしている)
―― 幕 ――