肌の匂い

三好十郎




        1

 それは、こんな男だ。
 年齡二十六七。身長五尺四寸ぐらい。體重十五貫と十六貫の間。中肉でよく發達した、均整のとれたからだつき。顏は正面から見ると割りに寸がつまつて丸いが、横からだと面長に見える。鼻筋がすこし長過ぎる位に通つているせいか。色は白い、と言うよりも蒼白。ひどく冷たい感じの皮膚。頭髮豐かで、廣い額の、上の方が女にもめつたに無いクッキリとした富士びたいになつている。全體がまるで少年――時にほとんど女性的な……いや、初めからこんな事を書きすぎている。もうやめるが、とにかく、こう書いて來ると、一人の美青年を人は想像するかもしれない――事實、道具立ての一つ一つを取れば、端麗とも言える顏だちだ――が、全體から來る印象は、なにかしらアイマイで不快である。
 それは目のせいかとも思う。ふだんは別になんでも無いが時々實にイヤな目つきをする。形も色も普通な目だから、どんなふうにと説明することがチョットできないけれど、暗い、無智な、それでいて底の知れないズルサのようなもので光る。すべての物をけがす目――そんなものが、もし有るならば、それだ。思い出した。私は以前に、人と犬の群にかり立てられた末に、半分死にかけて捕えられたテン(人々はそう言つていた)を見たことがある。あの時あの動物が人と犬の圓陣をジッと見まわしていた目だ。極端な傲慢さと極端な臆病さとが、いつしよになつた目。強度の求訴と強度の不信とがいつしよになつた目。……いけない、又はじめた。いつも戯曲を書いているためのクセである。しかし、ひとつには、こうして坐つていても、私の眼の先からこの男の姿を拂いのけることが出來ないためである。とにかく、いいかげんに、話の本筋に入る。それに、この男の以上のような異樣な人がらに氣が附いたのは、私にしても、かなり後になつてからのことだから、普通の人が普通の眺めかたをすれば、あたりまえの一人の美青年として通用するのかもしれない。そうだ、たしかにそうかも知れない。げんに、あの時――終戰後はじめて私を訪れてきた時に、あとから訪ねて來た綿貫ルリが、二時間ばかり同席しているうちに、彼に對して急速に好意を抱くようになつたこと、そしてそのあげく、夜おそく二人がつれだつて歸つて行くことになり、そして、その結果、あのような、わけのわからない奇怪な事件がひき起きてしまうことになつて、そのため私までが事件の中に卷きこまれてしまつて、すくなからぬ迷惑をこうむることになつた――そういう事のすべてが、すくなくとも最初の間、ルリの目にはこの男が一人の感じの良い、おとなしい青年に見えたためだろうと思われるのである。……以下、順序を追つて書いてみよう。

        2

 その頃――終戰の次ぎの年の春――私は、人に會いたくなかつた。誰に會つても、しばらくするとイヤになつた。先ずたいがい相手の顏を見ると、あわれになる。泣き出してしまいたいほど、あわれになる。そして言うことを聞いていると、次第に腹が立つてくる。次ぎに相手を腹のドンぞこから輕蔑している自身に氣がついてくる。いろいろ話している相手が次第々々に、この上も無く卑屈で臆病でズルくて耻知らずで無智な動物のような氣がしてくる。そして次に、その相手よりも、もつと卑屈なズルい耻知らずの無智な動物は、當の自分の方だという氣がしてくる事である。すると、いけない。ムカムカして口をきくのがイヤになり、そのへんの物をみんなひつくり返して、相手の前から立ちあがつて、室の外へ、戸外へ、誰も知つた人間のいない所へ、できれば人間なんかのいない所へ行つてしまいたくなる。
 とくに、その相手がインテリゲンチャ、なかんずく作家だとか批評家の場合は、この現象が最も甚だしかつた。無理にがまんしていると、私の胸の中はおそろしくこぐらかつた。それだけにどうにも拂いのけることのできない憎惡のために、まつ黒にくすぶつてくるのであつた。
 だから、なるべく人に會わぬようにしていた。そして、たいがいの時間を、青い顏をして一人でボンヤリ坐つていた。遠い所を訪ねてきた人には氣の毒なような氣がしないことも無いが、しかし實を言うと、人の事などシミジミ氣の毒と思つたりする餘裕は無かつた。一番氣の毒なのは自分だつたのだ。
 それでいて、人を見ないでは、私は一日も居られない。二三日人に會わないでいると飢えたようになつてくる。遂に耐えきれなくなると、室を飛び出して街のあちこちをウロつき歩き、知らない人々の間に立ちまじつたり、又は、知り合つてはいても、この私を三好十郎として知つているのでは無い雜多な人々――その中には電車の車掌がいたり、大工がいたり、職工がいたり、畫家がいたり、ゴロツキがいたり、バクチウチがいたり、株屋がいたり、クツ屋がいたり、浮浪人がいたりするが――そういう人々の顏を見たりそれと話し込んだりしているうちに、ヤットいくらかホッとするのであつた。
 そういう状態であつた。
 だから、その晩春の午後おそく、その男が訪ねてきた時も、私はなにもしないで仕事室の隅にボンヤリ坐つていたのだが、家人に言つて、會うのをことわらせた。しかし男は歸らないと言う。二度も三度も押しかえして、「お目にかかりたい」と言つて、臺所口に突立つていると言う。名刺を見ると貴島勉とあつて、わきにD――興業株式會社、日本橋うんぬんと所番地が刷つてある。「どんな人だ?」と聞くと「セビロを着た、若い、おとなしそうな、文學かシバイでもやつているような人」だと言う。ますますいけない。私の最も會いたくないものだ。「イヤだから」とハッキリことわらせた。すると、四度目ぐらいに、「前に一度お目にかかつたことがある」と言つているという。でも私には思い出せなかつた。もつとも、私には會つた人の顏は忘れないけれど、名前はすぐに忘れてしまう癖がある。いずれにしろ、すこしメンドウくさくなつた。そして更にことわらせると、「戰爭中Mさんにつれられて、ここへ來たんだそうです」と言う。
 Mというのは、私の親友で、終戰直前に廣島の原子爆彈で死んでしまつた有名な新劇俳優である。げんに私がそうして坐つていた――今もこうしてこれを書いている――前の壁の上に、Mの生前の肖像畫が、ガクブチに入つて私の方を見ている。しかたが無い、會つてみようという氣になつた。「それにしても、Mのことを、最初からどうして言わないんだろう?」と取次ぎの家人に問うと、「なんだか、とても口數のすくない人で」と言う。それで、あがつてもらつた。そして、それが最初に書いたような青年だつた。
 室に入つてくると、その男は、無言で入口の所で足をそろえて立ちどまり、兩手をキチンとモモに附けて上半身をクキッと前に折り曲げながら、顏だけは正面を向いたまま私の顏に注目するしかたで禮をした。「どうぞ」と言つてザブトンを示しても、それを敷こうとせず、板敷にジカに四角に坐つた。かなり上等の薄色のフラノ地の背廣に思い切つてハデなエンジ色のネクタイをしていた。前にも書いたように、チョット女のような感じの、上品でおとなしそうな、むしろ平凡な顏で、記憶に無かつた。
「Mを知つていた――?」
 相手がいつまでもだまつているので、私の方から言つた。
「はあ。……」
「戰爭中此處に來てくれたそうだけど、――いつごろでしたつけ?」
「……あの、僕が入隊する二三日前の――」
「そうですか。……そいで、いつ復員して來ました?」
「しばらく前……去年の末にもどつて來ました。……その、入隊する二三日前にMさんといつしよに。空襲のあつた晩で、玄關先きで失禮したもんですから――」
 とぎれとぎれに低い聲で相手が言つている間に私は不意に思い出した。東京空襲が本格的にはじまつてから間の無い頃、警報が出て、燈火を消してしまつた私の家の玄關へ酒に醉つたMがもう一人の男をつれて寄つたことがあつた。それが、言われてみると、この男だつたようだ。暗かつたし、この男は一言も言わないでドアの外に黒く立つていて、Mだけが玄關のタタキに入つて來るや、私のヒジの所をグッと掴んでゆすぶりながら、「やあ、ヘッヘヘ、なにさ、三好のスローモーション、鈍重、チェッ! もしかして、おとついのブウブウでやられたんじやないかと思つて、來てみた。いいよ、いいよ、そんだけだ。生きてりや、それでいいんだよ。いいよ。なに、あがつちやおれん。忙しいんだ。ヘヘ、これから、その兵隊を――と(背後の男の姿を指して)洗禮を受けに連れて行かなきやならんからなあ。あばよ。バイバイ」と、醉つてはいても、永年舞臺できたえた、語尾のハッキリとネバリのある美しい聲でわめき立てて、風のように歸つてしまつた。この男の癖で、こちらで何かを言つている暇は無かつた。……たしか、「洗禮」と言つた。なんの事だかよくわからなかつたけれど、しかし直ぐ續いて起つた空襲騷ぎのために、それも忘れてしまつていた……
「そう。それは――そいで、君は陸軍? 海軍?」
「海軍でした」
「Mとは、なにか、お弟子さん? いや、俳優になりたいと言つたような――?」
「いえ。……前に、小説みたいなもの書いていて、シナリオをやつてみたくなつて、そいで友人に紹介してもらつてMさんに――でも、半年ぐらいでした、つき合つていただいたのは。……でも、とても、かわいがつてもらつて。……廣島でなくなられた事は、すぐ知つたんですが、今まで、あがれませんで――」
 急に、泣きだすのではないかと言う氣がした。すると私は例の、立ちあがつて外へ出て行つてしまいたくなつた。Mを失つた悲しみは、私にとつて、涙を流して泣けるような種類のものではなかつたのだ。もつと複雜で、悲しみというよりも、怒りに近い氣持だつた。……しかし青年は泣きはしなかつた。私はいくらかホッとしたが、彼はどうしたのか、それきり、だまりこんでしまつて、いくら待つてもなにも言わない。膝から一尺ぐらいの床の上に視線をやつたまま、身じろぎもせず、十分以上たつても、口を開く樣子がなかつた。なにか、わずらわしくなつて來た。
「……それで、僕になにか用があるんですか?」
 彼はこちらの言葉の意味がのみこめなかつたようだつた。問い返すような目色をチョッとしたが、すぐにそれは消えて、ただポカンとこちらを見ている。私は、はじめてその時その男の目の中をのぞきこんだ。そして、なにか、ドキッとした。そんな目を私は今までほかで見たことがない。實にイヤな――と言つて、どこがどうと説明しようが無い――つまり――。最初書いたような、下等動物が追いつめられて、自分を殺そうとしている者を見まわしているような目つきになつていた。いつそんなふうに變つたのか、わからない。もしかすると變つたのでは無く、最初からそうだつたのを私が氣がつかないでいたのか?
「へえ」と、かすれ聲を出して、それから、たよりないトボケたような低いユックリした調子で「……あの、歸つて來て、こうしているんですけど……もう、どうしていいんだか、まるきり、わからなくなつて――」
 そこで言葉を切つて、ニヤリと笑うようなことをした。
 目の前にポカッと穴があいたような氣がした。それは、どんな復員者のどんな生ま生ましい戰場の話や復員後の暗い生活の話を具體的に聞いた時よりも、私にこたえて來た。私はだまつてしまつた。なんにも言う氣になれなかつた。急に背中がゾクゾクして、すこし吐氣がして來たのをおぼえている。窓を明るくしていた夕日の名殘りがスッとうすれて、いつの間にか室内は薄暗くなつていた。靜かな室内に時々ポタンポタンと音がするので、目をやると、彼のキチンと坐つたズボンの膝と膝の間の僅かなスキマの床板が點々とぬれている。滑稽なほど大粒な涙だつた。ボンヤリと見開いたままの異樣な目から、ダラダラと、いくらでも落ちて來た。………二人とも時間というものを忘れてしまつて、シビレたようになつていた。そこに、玄關先きから綿貫ルリの聲が響いてこなかつたら、二人はいつまでそうしていたかわからない。
「コンチワァ。ごめんください! あがつてよろしうございます、センセ? 綿貫ルリ」
 ルリという語尾を投げつけるように響かせて、明るい聲だつた。それを聞いて、私はホッとした。この場のやりきれなさから助け出されたような氣がした。同時に、しかし、後になつて氣が附いたことだが、それで、この男と二人だけの空氣が打ち切られることが、なにか惜しいような氣もしたのだから、人間の心というものはヘンなものである。

        3

「今日はね、先生、どうしたらいいか相談に乘つていただきたいと思つてあがつたんですの。いいえ、最初先生から、あんだけとめられたのに、自分でだまつて入つてしまつといて、今ごろになつてこんな事を言つて來るなんて、自分かつてだと思うんですけど――いえ、後悔しているんじやありませんの。あれだつて私、いろいろ勉強になるから、自分では、これでよいと思つているんです。どうせいつまでもあの劇團に居たいとは思つていないんですから。ですから、それはそれでいいんですけれど――」
 綿貫ルリは室に入つて來るなり、坐りもしない内からベラベラとやりだした。小松と言う舊子爵家の次女として育つた娘で、二十二才だと言うが、身體つきや態度は、まだ少女に近い。顏だけは上品、と言うよりも堂上華族の血を引いているせいか、ほとんどろうたけた瓜ざね顏で、古く續いて淀んだ血液の疲れを見せて、白磁のようなスベリとした皮膚をしていた。それが考えもしないで口を突いて出て來る言葉を小鳥がさえずるようにしやべる。先生と言うのは私のことである。終戰後、或る人の紹介状を持つて私を訪ねて來て以來、思わない時に出しぬけにやつて來ては、ほとんどいつも、家人へ案内も乞わないでズンズン私の室に入つて來ては、勝手なことをペラペラ話して歸つて行くのだつた。いつでも、なにかしら昂奮している。それが、子供が輕い上等の酒を飮まされて醉つてはしやいでいるような具合で、見ていて快よいので、私も強いて避けなかつた。その日は、薄いピンク色のクレプデシンのワンピースの、腰の所を青いエナメルのバンドでグッとしめつけているため、からだの線が急に大人びて見えた。室の中がパッと一度に明るくなつた。しやべる方はやめないで、まだ五月だと言うのに思いきつた素足の、象牙色のやつを投げ出すようにストンと坐つて、
「先生、ザコ寢というのを、ご存じ?」
「ザコネ?」
「はあ」
「ザコネと言うと、この、人が大勢いつしよに寢る……あれかね?」
「そうよ、男も女もゴチャゴチャに。ですから、そうなんですの。いえ、そりや、いいのよ。ヘイチャラだわ、そんなこと。それだけならばよ。なーんでもありやしないのよ、でしよう?」
「しかし、出しぬけに君、どうしてそんな事を――?」
「ですから、平氣なのよオイラ。ただそいだけならば」
 困つて私は貴島勉の方へ目をやつた。貴島はビックリして、先ほどからルリの顏ばかり見つめていたらしい。私と、私の視線を追つたルリの目に逢うと、青白い顏を不意に眞つ赤にした。
「あら!」
 はじめて貴島を認めたルリは口の中で言つて目をすえたが、これは別に赤くもならない。「こちらは、貴島君、こちらは綿貫ルリ君」と引き合わせると、貴島の方は口の中で何か言つてモジモジと頭を下げただけだが、ルリの方は坐り直して三つ爪を突くようにして「はじめまして」と、茶の湯ででもしこまれたらしい、スラリと背を伸ばして辭儀をした。そのくせ、下げた頭をまだ上げないうちから、クスクスと笑い出している。
「しどいわあ! 先生、なんにもおつしやらないんだものう!」
「だつて、――入つてくるなり、いきなりだもの、こつちから何か言う間は無い――」
「ですけどさあ、ほかにどなたも居ないと思つたもんだから私――」
「いいさそりや、ねえ、貴島君。今どきの戰爭歸りの若い者が、ザコネぐらいにビックリはしないだろう」
「あらそう、貴島さん?……」と聞いたばかりの名をすぐに呼んで青年の顏をヒタと正面から見て、
「いつ歸つていらしつて?」
「はあ、去年の暮れに……」貴島はまだ顏を赤くしていた。
「どの方面ですの?」
「……自分はオキナワです。はじめ南方にいて、それから六月ごろオキナワにまわされて――」
「南方にいらしたんだつたら――南方と言つてもいろいろでしようし、薫のいたのがどこだかハッキリしないけど、南方なら、もしかして、小松と言つて――イトコですの、私の。學徒出陣で戰車部隊とかつて――もしかして、ご存じありません? 小松薫と言うんですの」
「小松薫……さあ、知りませんけど――」
 もうスッカリ夜になつていた。夕飯のことを私が言うと、ルリは、すまして來たと言うし、貴島もひるめしがおそいので食べたくないと言うので、私だけ中座して夕飯を食べることにした。居間の方で私が食事をしている間、二人の話し聲がし、ルリの笑い聲もきこえて來た。私がもどつて來て見ると、二人は壁のそばにピッタリと寄り添うようにして笑つている。後から思うと、それがチョット妙だつた。しかしその時には、べつになんとも思わなかつた。ただ、そうしている貴島が、ほとんど別人のように快活になつて、顏のツヤまで良くなつている。
「そりや、あたしには、むずかしい理窟はわかりませんわ。戰爭の善し惡しだとか、日本が負けちやつたことにどんな意味が有るかとか、わからないの。ただこんなふうになつたおかげでオイラは、だな――あら、ごめんあそばせ。わたしたち、こんなふうになつたおかげで、自由になつたことは事實。それがうれしくつてしようが無いんですの。それだけだわ。それでいいんじやないかしら?」
「なんの話?」
「いいえ、貴島さんがね、こんなふうになつてしまつて、どうしようもないとおつしやるから、私はそいでも、まだ以前よりもこの方がいいつて言つてるんです」
「そりや、君など戰爭をくぐつて來たと言つてもズットまだ子供だつたしね、言わば、戰爭後に生れ出した、つまり一番新らしい人たちとも言えるんだからね。それに、以前の君の家が家だつたし―」
「そうよ! 今だつて、先生、あんな燒け殘りの防空壕みたいな所に住んでいるくせに、お母さまなど、人が訪ねて來て、すぐそこの鼻の先きに立つてるのを見てながら、フフフ! お姉さんか誰かがお取次ぎをしてからでないと、その人と話しをしようとはなさらないの! まるで、キチガイ病院! ハハ!」
「そうかねえ」
「ところで先生、御相談があるんですの。もうすぐ今夜つから私困るんですから。私、自分の心をハッキリきめて置かないと、どうしていいか、わからないの。とても、とても苦しくつて。私、死んでしまおうかと思う事があるんです」
 それをしかし、浮き浮きと、言う。
「……なんだね?」
「ですからさ、はじめ申し上げた……ザコネ」
「……舞臺でやらされるのかね?」
「あらあ、舞臺でなら、どんな事をやらされたつて、もつとスゴイことやらされたつて、私、平氣だわ。ヘーイチャラ。そうでないから、どうしていいかわからないの。そこんとこなの」

        4

 ルリの言うのは、こうである。
 彼女が下つ端女優として出演しているR劇團は今Aという劇場に約半年の契約で常打ちのシバイをしているが、劇團員に戰災者が多く給料も安く、全員の三分の一ぐらいは、いまだに決つた住居を持たないため、ガクヤに寢泊りしている。ガクヤと言つても、半燒けになつた舞臺裏を應急に修理したついでに燒け殘りの材木やトタンなどで一時しのぎに建てた六疊ぐらいの一室きりで、晝間はそれをガクヤに使い、夜になると、そこに男女十人近くが寢る。その十人の中の五六人、つまり三組ばかりは夫婦又はアミ――(これはルリの言葉)――であるから、夜中には、時々、ムネドキ的(これもルリの言葉)である。しかし、それはそれでみんな馴れているから、ふだんは、なんの事も無い。ところが、R劇團は毎日午前十一時から夜の九時ごろまで一日約三囘ずつ同じシバイやショウをくりかえして休演日というのは無く、そして全部の出し物を十日目十日目に變えて行かなければならぬため、いつでも、次ぎの出し物のケイコは、前の十日の最後の二三日の午前中と、シバイがはねた後で半徹夜でやる。その二三日の間、晝間の公演を普通にした上にケイコをするのだから、そうでなくても過勞に落ちているのがクタクタに疲れ、時間も無し、ほとんど全員がガクヤに泊ることになる。すると、約三十人の男女がその六疊一室にギッシリと折り重なるようにして寢る。「ちようど、イワシのカンヅメみたい」だそうである。「着る物がよごれると言つて、スッパダカになつて寢る人もいる」「女優さんもなの?」「もち!」と言い切つて、「そして、ヘンな事がはじまるんです。あんまり疲れると人間は、どうにかなるんでしようか? それもしかし、ふだんからアミになつている人同志なら、私、目をつぶつて知らん顏してる。だけど、時々そうじや無いの。そん時だけ、不意に抱きついたりするの。いやらしいの! ペッペッペッ! お兄さんたちまで、時々そんなことするの。え? ええお兄さんと言うのは文藝部や演出やバンドの方の、つまりエライ人たちの事。そんで、イヤだから、ことわるでしよう? そいでも、大體そんなふうだから、ことわられたからつて、大して怒りもしないの。だけど、あんまりことわつてばかりいると、あいつ異常だ――そう言うの。バカにされてしまうのね。それが段々つもりつもつて來て、お兄さんたちに憎まれてしまつてごらんなさい。かんじんのシバイの方で役がもらえなくなるの。するとお給金もさがるし、肩身がせまくなるし、居づらくなつてしまうんです。そんなふうにして、劇團をやめてしまつた人が二人ばかり有つたわ。ねえ先生、私どうしたらいいかしら?……いえ、それ位のこと、どうせ覺悟して入つたんだから、なんだかだと言われるのは、なんでもないんです。お給金がさがつてしまうのも、がまんする。しかし、それがコジれてしまつて役ももらえなくなれば、せつかく私、芝居の勉強しようと思つてあんな所に入つた意味が無くなるんですもの。つらいわ。ホントに、ホントに私、こうしてしんけんに芝居の勉強しようと思つているのに……私、一人前の女優になるためになら、ホントにどんな目に會つてもいいと思つているんです。だのに、そんな事から勉強ができなくなつたら、死ぬよりつらいんですの。……實は昨日から又、次ぎの、二の替りの出し物のお稽古がはじまつていて、ゆんべも小屋で泊つたんですの。今夜も泊らなきやなりませんの。イヤでイヤで、しようが無いもんですから、私の役を、ほかの子に代つてもらつて、拔け出して來たんです。どうすればいいんでしよう、先生?……」
 話の内容が、キワドイ感じを與えていることなどに全く氣が附いていない。涙ぐまんばかりに眞劍なのだ。眼のふちが紅潮し、コメカミの邊は、青白く、ふくれた靜脈がすけて見える。……私は劇作家としての職業上、そんなふうな劇團にも出入りしたことがあり、内部のありさまも以前は知つていた。それは普通世間で思つているほどビンランしたものでは無いのだが、終戰後、そういう事になつた所もあるのか? チョット信じられないけれど、しかし、戰後の一般の世相から推して考えると、所によつてそんなこともあるのかも知れない。……とにかく、それまでヤンチャな子供の話を聞いているように輕い氣持で微笑して居れたのだが、だんだん、いいかげんな事は言えなくなつた。貴島も默々として、ルリの横顏を見ている。ルリは、しかし、子供らしく熱して、詰め寄らんばかりになつて來た。
「……そんなにそれがイヤなら、しかたが無いから、劇團をやめるわけに行かないの?」
「行かないのよ、それが。やめてしまえれば、こんな苦しんだりしません。新劇などに行けば生活費は出ないでしよう? ウチじや、あのありさまで、私を食べさせて勉強させてくれるような力は無いの。だから私が芝居の勉強をつづけて行くためには、今の劇團に居るよりほかに、方法は無いんです」
「……困つたねえ。……まあ、なんとか、そこで、つまり要領よく、つまりガマンしてやつて行くんだなあ」
「どうガマンのしようが有るんですの?」
「どうつて、具體的には言えんが……だから、君が最初映畫か芝居の方へ入りたいと言つて來た時、僕は口をすつぱくして、とめたね? いや、今の世の中が、大體において、どこもかしこも似たようなものだ。ガマンする以外に無い。ハッキリしようとすると、全部を肯定するか全部を否定する以外にないもの。全部を否定すると言うのは、自分の良心みたいなものを押し立て、それ以外のものに反抗することだ。誰にしたつて、これを一番やりたい。だけどこれはよつぽど強い人でなければ出來ない。なまじつか、中途半端に良心的になつたりすると、踏んだり蹴つたりされた上に、落伍してしまう。それ位なら、全部をあるがままに肯定して、つまり、言つて見れば闇屋かパンパン――まあ、そう言つたふうになつてもしかたが無いから、とにかく生き拔いて行つてみる事じやないかな。そういう考え方も在ると思うんだ。いやいや、そうしろと言つているんじや無い。二つのうち、どつちか一つしか無いことを言つているんだ。その中途であれやこれやと、マゴマゴしていると、かえつて自分というものがメチャメチャになる――」
「すると先生は、私に、つまりパンパンになれとおつしやるんですの?」
「いや、そんな――」
「そうなんです! だつて、私にどうしようが有るんです? 今夜、たつた今、これから小屋にもどれば、もしかすると、……いえ、そういう事になつてきていることが有るの。Kという人がとてもシツコく、あたしになにするの。イヤ! あたしはそんなの! だけど――だけど、だからさ、どうすればいいんですの私? 先生みたいなそんな話は、机の上だけの話だわ! 私たちは、今すぐジカに、私たちのカラダをどうするか、どう處置するか、鼻の先に突きつけられているんです。それが、私たちなのよ。明日の日は待てないのよ!」
 顏をクシャクシャとさせたかと思うと、それがベソになつて、ヒーと泣き出していた。
 私は、默つてしまつた。ルリは二聲ばかりで直ぐに泣きやんだ。その沈默の中で、貴島がボサッとした聲で
「だから……そうなんですよ。さつき、自由が僕らに與えられたのはウソだつて僕が言つたのは、その事なんですよ」
「あら、どうして? それとこれとは、違うわよ」
「……同じだなあ」
「だつて、そんな事言つて、あなた、貴島さん、じや、何をあなた知つてるの? いえ、あなた、どんなもの突きつけられてんの?」
 言われて貴島はケゲンそうな目をしてルリを見ていたが、しまいに、
「そうだなあ、知らんですねえ、なんにも」あと、ニコニコ笑つた。釣られてルリもその子供らしい言い方にまだ涙の溜つている目のまま、笑い出した。何かが内側から開いて來るような笑い顏であつた。
「つらいわあホントに、あたしたち!」しかし、つらそうでは無く、既に快樂のことを語るように、
「だけど、どう言うんでしよう男の人なんて? こんな事を言うの。そんなに大げさに考えるなよ、ルリちやん、たかがタッチに過ぎないじやないか。人と人とが握手するだろ、手と手がタッチするのさ、皮膚と皮膚が。そいから、ホッペタとホッペタ。そいから、唇と唇。キッスだあ。そいから、……すりやあ、惡い氣持はしない。するてえと、どこからどこまでが善くつて、どこからどこまでが惡いんだい? 手と手なら善くつて、足と足じや惡いのか? 人間なんてそんなもんさ。タッチだよ一切が。あんまりシンコクになるな。氣がちがうぞ。エッヘヘ。……そう言うの。そうかしら、先生」
 そして、私がまだなんとも言わない内に、ケラケラ笑いながら、貴島の方に横眼をくれて、まだ濡れているように見える片眼で音のするようなウィンクをした。
 間も無く、しかし、腕時計をのぞいたルリが、「あらもう十時半だわ」と急にあわて出し、するとこの女のいつもの例で、もう立つてペコンと頭を下げると、玄關の方へ歩き出していた。自然に貴島も座を立つて續き、二人並んで、靴を穿いた。「そいで、綿貫君は――?」「だから要領よくやります。フフ!」「いえさ、今夜も、すると、これから小屋へ行くの?」「いえ一度うちへ歸るんです。どうせ、今夜のお稽古はスッポかしてもいいの、明日の朝早く行きや――」「そうか。しかし、こうおそいのに君一人じや高圓寺の奧までは物騷だが――」
 貴島の住所を聞くと荻窪だと言う。「じや、御足勞だけど、君、綿貫君を家まで送つて行つてあげたら?」
「はあ。……」
「そう? すみません」ルリはうれしそうにニタリと笑つている。
 そして二人連れ立つて歸つて行つた。したがつて、貴島勉がなんのために私を訪ねてきたのか、遂に不得要領に終つてしまつたのである。私は、ひどく疲れていて、すぐに寢てしまつた。
 ルリの姉の夫だと名乘る小松敏喬が私を訪ねて來て、ルリの失踪のことをしらせてくれたのは、その次ぎの次ぎの日だつた。

        5

「芙佐子がいつもお世話になりまして」と黒い背廣をキチンと着て、どこかの官廳にでもつとめているらしい四十恰好の小松敏喬は謹嚴な初對面の挨拶をすますと、すぐ言いはじめた。「――實は芙佐子が昨日から……いや正確に申しますと一昨夜からどこへ行つたか知れませんので、内の者が非常に心配しておるものですから、突然お伺いしてなんですがこちらのお話しをよくしているのを姉……つまり私の家内でございますが、おぼえていまして、はあ。いえ、かねてたいへんわがままな子でして、それにあんなシバイなどにつとめていまして、一晩や二晩もどつて來ないことは珍らしい事ではありません。しかし今度は、いつもとは、すこしちがつているように思われますものですから。家内が言いますには、一昨晩、十二時過ぎに芙佐子は戻つて來たそうでありますが、その時の樣子が、すこし變だつたそうで、はあ。洋服を着ないで、シュミーズもこの上半身は脱いでしまつて………つまり、裸だつたような氣がすると言いますがね。はあ。家内はもうその時は寢ていましたそうで――いえ私は、別の所に住んおりますから、あの家には居りません――それが物音で目をさまして「芙佐ちやん?」と言いますと「うん」と返事をした芙佐子がですな。どうせ寢ぼけまなこで、それに御存じのように、あのへん、まだ電燈がつかないものですから、外からの薄明りの中で見たのですから、ハッキリしたなにでは無いと思いますが、たしかに、この、……そう言うのです。かねて、この、暑い時など、家に入る前から着ている物のホックなどはずしてしまつて、下着一枚になつて飛び込んで來たりする子でして、どうもこの……ですから、それだけならまあなんですが、朝になつてみますと、いつ出て行つたか居なくなつていたそうで。それに書置きがありまして、家内の着物――と言いましてもモンペの防空服ですけど、それを着て行つたものと見えて、なくなつております。それにですね、家から一町ばかり離れた燒跡の草の中に、芙佐子の着ていたピンク色のワンピースがズタズタに破られて、捨ててあるのを家内が見つけました。どうも、なにか、この暴行された……まあ、なんです、まさかとは思いますが、とにかく、捨てては置けないと思いまして、さつそく昨日、R劇團の方へ參つて見ましたが、ルリさんは昨日の午後――つまり一昨日ですね、頭が痛いから今夜は休ませてくれと言つて歸つたきり、ズット見えないから、こちらでも實は困つている。そう言うのです。實は今日もあちらへ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つてみましたが、やつぱり來ておりません。そんなわけで、とにかく、お宅へ伺えば何かわかりはしないかと思いまして、失禮ですがお伺いしたようなわけでございまして――」
 相手がジレジレするほど※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りくどい言い方で言つている間に、私の目には一昨夜のルリの姿が現われて來、そのピンクのクレープデシンが、引き裂かれて、燒跡の草の上にダラリとひろがつている光景が見えて來た。
「そうですか。……それで、その書置きと言うのは?」
「はあ。それがどうも、意味がよくわかりませんので。……これです」
 ポケットから出したのは、ノートから引きちぎつたような紙で、それに、舞臺の人間がよく使うコンテ式のマユズミのなぐり書きで、
「姉上さま。あたしは、キジマという人からブジョクを受けました。もう知つた人に顏を見せられません。フクシュウをしないでは、もう生きてゆけません。あたしを、さがさないで下さい」と三行に書いてあつた。

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「ブジョクを受けました」
 その侮辱と言うのは、どういうことなのだろう? 「暴行」と取つていいのだろうか? だが、そうならば、なぜそう書かなかつたのだろう? 若い女の羞恥心のためか、又は、氣位いが高いために、自分が受けた淺ましい目を、むきつけに書けなかつたためか? しかし、いくら貴族出身の若い娘とは言つても、既に、猥雜な舞臺人の世界の中でもまれはじめて教カ月を經ており、しかも、もともと思つたことは不必要なまでにズケズケと言つてしまう性質の女が、そんな※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りくどい表現をするだろうか? しかし――と私は、儀禮的な心配の表情を顏にこびりつかせたまま、しかつめらしく控えている小松敏喬を前に置いたまま考えた。――しかし、いずれにしろ、綿貫ルリの事は、自分にはよくわかつていない。終戰後、わずか半年あまりの附き合い――と言つても、時々訪ねて來ては、いろいろの事について私の意見を聞きたいと言つていながら、ほとんど自分一人で喋り立てては立ち去つて行くというだけの交渉――の間に、私にわかつた事は、ただ、彼女の性質が、一本氣で、血統と育ちから來た率直さ――たいがいの事にたじろいだり惡びれたりしない強さと「少女小説」風の感傷癖が、こぐらかつて入れ混つているらしいと言う事ぐらいの所である。それも、ただ、受身の、しようことなしの推測に過ぎない。それが、この書き置き一つを土臺にして、いくら考えて見てもハッキリした事がわかる道理は無い。…………要するに何か妙な事が彼女の上に起き、それに貴島が關係しているという事だけは、たしかである。だが、私は、貴島のことを、小松敏喬に話すのはよした。早まつて貴島の名を言い出して、もしかするとなんでも無いことかも知れない事がらの前に、カラ騷ぎを演じることになつてもつまらぬと思つた事と、とにかくあの晩ルリを送つて行つてくれるよう貴島に言い出したのは私だから、多少の責任みたいなものが有るようだし、氣がかりでもあるしするので、さしあたり自分だけで今日にでも貴島勉に會つて見よう、という氣に、なつていたのであつた。
「わかりました。……少しばかり心當りが無いこともありません。問合せてみましよう。何かわかりましたらお知らせします」
「そうお願いできると實にありがたいと存じます。なんとも、どうも、とんだ御迷惑さまですが……母親など心痛のあまり寢ついたりしてしまいまして――」
「……そいで、ルリさん――いや、芙佐子さんの御親戚……何かの場合に一時身を寄せると言つたようなお家は、東京に?」
「はあ、二軒ばかり親戚は有るには有ります。しかし、いずれも……御存じの通り、こんなことになりまして、……もと京都から來た貧乏華族の家でして、それだけに又融通が利かないと言いますか、今度のなんでは實際よりも以上に、この、こたえるんですなあ。もうスッカリ動てんしていまして、もう、たとえ、親類同志の間でも、他家のことなどを構つているユトリはありませんで、はあ。それに、いまだに格式と言つたような事にこだわつておりまして、この、芙佐子が女優になつた事なども、一門の恥じ……まあ、そう言つた、なんです……いつさい親戚づきあいはしない――つまり義絶と言つた……ですから、まあ――いえ、念のため私、みな寄つて見るには見ましたが、やつぱり、ズット見かけない――」
「そうですか。ようござんす。とにかく私にできるだけ、搜してみましよう」
「それでは、どうか、よろしく……もしなんでしたら、私の勤務先の方へお電話をいただければ―」そう言つて小松敏喬は或る官廳の寺社關係の部課名と電話番號を書いた名刺を、ルリの置手紙の上にのせて、席を立つた。
 彼を送り出すと、私はすぐに貴島がくれた名刺をさがし出して、そこに書いてあるD興業株式會社の所番地の大體の見當を地圖でしらべた。住んでいるのは荻窪だと言つていたが、名刺にはそれは書いてないから、さしあたり、その會社に行つて見る以外に無い。私は、仕度をして家を出た。
 電車を乘りつぎ、約一時間後――午後おそく、私はその日本橋R町の瓦礫の中に立つていた。あたり一面燒け落ちてしまつた中に、コンクリート建てのビルディングや土藏などの殘骸がポツリポツリと立つている。番號も書き出してないし、三四丁行けば繁華な街に出られるという所なのに通行人もほとんど無し、土地の人のバラック住宅もまだ建つていないので、人にたずねようも無い。しかたなく、次ぎ次ぎとその邊中の燒け殘りの建物の前に立つたり、それをグルリと※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つたり、階段をあがつてみたりして、一時間ばかりも搜した末に、やつと、コンクリートの側面全部が火にあぶられて薄桃色にこげたビルディングの二階に、それらしい事務所を見つけだした。ドアのわきにさがつている木札にD―商事會社とある。名刺にはD―興業株式會社と印刷してあるので、多少心もとないが、D―と言う名は同じなので、ともかくと思い、ドアを開けようとしたが、開かない。ノックをしても、誰も出て來なかつた。内部に人の氣配が無い。他に、ほかの事務所か、又は管理人の室でもあるかと思い、廊下をあちこちして階下へも降り、行ける所へは全部行つて見たが、人一人居なかつた。廊下の突き當りに、階上にあがる階段が有るから、あがつて行きかけると中途に、こわれかかつた椅子やテーブルを積み上げて遮斷してあつたり、木札のかかつたドアが有るから開けようとすると釘付けになつていたり、反對に、ドアもなにも無い入口が有るので入つて行くと、ガランとした室の、窓の部分が壁ごとゴボッと大穴が開いていて、いきなり青空が見え、風が吹きこんで來たりした。しかたが無いので、もとのドアの前にもどり、そのわきに積んである大きな木箱に腰をおろして待つことにした。……建物中がシーンとしている。ずいぶん永いこと、そうして待つていた。吸い過ぎたタバコのヤニで、口の中がスッカリにがくなつてしまつた。あきらめて、今日はもう歸ろうかと思いはじめた所へ、階下からコツコツと足音があがつて來て、階段口に背廣姿の男が現われ、スタスタとこつちに近づいて來た。その頃の東京では珍らしい位に高級なリュウとしたなりをして、革のカバンをさげている。四十四五歳。上品な形の口ひげとあごひげを生やしている。ジロリと私に一べつをくれてから、D―商事會社のドアを二つ三つノックした。
「そこは今、誰も居ないらしいですよ」と私は聲をかけた。「私も實は、訪ねて來たんだが――」
「やあ、そうですか――」
 男は微笑しながち振り返つた。その瞬間に、兩方で同時に相手を認めた。
「おお三好さんじやありませんか!」
「ああ、國友さん!」
 以前から笑顏のきれいな男で、ふだんの顏つきが、少しいかついだけに、ニッコリすると、まるでめんを取りはらつたように、邪氣の無い顏になる。その顏でいつぺんに思い出したのだつた。十年ばかり前、或る事から懇意になり、一年間ばかり、かなり親しく附き合つていた國友大助だつた。もと、サーカスのアクロバットの藝人、その後、柔道家になり、拳鬪選手もやつたことがあると言つていたが、私と附き合つていた頃は、バクチを打つて歩いているようだつた。ひどく快活な近代的な博徒で、何かと言えばその笑顏で「いや、僕は忍術の修行をやつてる人間でしてね」と言つていた。なんでも、仲間のもめ事で、大がかりな殺傷事件をひき起し、それを最後にしてフッツリと姿をかくしてしまい、以來十年ばかり私はこの男を見なかつた。

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「變つた。――スッカリ見ちがえて――それに、立派なやつが生えちまつた」私はヒゲの恰好をして見せた。
「ハハハ、どうも、いけません。こういうものをなにして歩くようになつたら、おしまいです。だけど三好の旦那も、お變りんなつた。第一、ひどくやせたじやないですか?」
「いや、病氣をしたり、それに」と私は盃を口へ持つて行く眞似をし、「戰爭からこつち、これをやらない」
「さいすか」と微笑してから、小腰をかがめて眼をピタリと私の眼につけたまま……さりげないものだが、昔の例の「商賣人」の挨拶の構えで……「でも、御無事で、なによりでした」
「あんたも――」
 兩方でシンミリと見合つた。十年前の若々しい無鐡砲な互いの生活と、その頃と現在までの間にはさまつていた荒い時代の波風。それら全部への想いが互いの視線の中に在つた。……
「とにかく、出ませんか。こんな所じや話しもできない。留守のようだし、又やつておいでんなるにしても、そこいらでお茶でもひと口――」と言うので、二人はそこを出て、近くの繁華な通りの横町の、國友の顏見知りらしい小料理屋へ行つた。すぐにビールを取つて私に差しながら、
「や、奇遇ですな」
 と、昔おぼえの有る、尻あがりにわざとおどけたアクセントで言つて、一人でホクホクしている。以前もこの男は、どういう譯からか、私を、ひどく好いてくれた。
「國友さん、あんた今なにをしているの?」
「なにをしているようにみえます?」
「わからない。でも、景氣は惡くなさそうだ」
「實業ですつて、御察しの通り、今どきはあなた、すべて實業だ。そうじやありませんか」
「どつちせ、忍術修業は終つたようだな。けつこうです」
「え?」と言つたが、すぐに思い出したと見えて、フフフと笑つて、「ちがい無い! いやあ、こんなことになつて、そう言つた事にも格も法もメチャメチャになりましてね、ただもう、やらずぶつたくり式と言いますかね、つまらないようです。と云やあ立派そうですが、ありようは、こつちが時代おくれになつてしまつたんですよ。もう私らの出る幕じや無い。ハハ。だけど、旦那あ、どうして、あんな所に居たんです? あすこを御存じなんですか?」
「いや、今日はじめて行つたんだ。チョッと會いたい人があつて」
「へえ、それは又どう言う―? いや、實は、あんまり思いがけない所にあんたが居るもんだから、はじめそうじやないかと思いながら似た人だ位に思つてね。それがホントにあなただとわかつて、二度びつくりしたわけだ。じや、あすこの黒田さんを御存じ?」
「いや、知らない、黒田と言うの?」
「じや、この、まるきり、知らないんですね? そうですか」國友はグイグイとビールを飮みほして
「するてえと、あすこの誰に?」
「貴島と言つてね」私はポケットから名刺を出して相手に渡した。
「これ」
「貴島に?」と國友は名刺と私の顏を見くらべている。スット笑顏を引つこめて、眼をチョッと光らせたようだつた。
「……ふーん、貴島を御存じですか?」
「いや知つていると言う程でも無いけど、一二度僕んとこに來たことがあつてね。それが、變な事で急に逢わなくちやならなくなつて」
「すると、……なんか、もめごとですか?」
「もめごと?……いやあ、そんな事じや無い。人からチョッと頼まれて。なんでも無いんだ」
 それから國友は、なにか考えながらビールを飮んでいたが、しばらくたつてから「フム」と言つて元の笑顏になつて、
「なんか知りませんけど、三好さん、あんな男には、かかり合わん方がいいなあ」
「どうして?」
 それには答えないで、一人ごとのように、
「ロクな事あ、無い」とつぶやいた。
 國友は昔から、めつたにこんなふうな言い方をしない男だつた。どんな重大な事を語るにも、さりげない言葉で輕くイナスように言つてすます、――それが、そういう仲間の氣質と言うか習慣と言うか――その事を私は知つていた。
「すると、貴島が、なにか――? いや僕も實は貴島のことは、ほとんど知らないんだ。死んだM――友だちだが、そいつが一二度つれて來ただけでね。一體、D商事という所で、どんな仕事してるんだろう?」
「社長の黒田さん――私あチョッとひつかかりがあつて知つてるんですがね、――その、秘書だと言いますがね、まあ、用心棒だな」
「用心棒?」
 私は反問しながら、貴島のあの殆んど女性的とも言えるおとなしい人柄や顏つきを思い出していた。それと國友の言うことが、ピッタリしなかつた。
「すると、しかし、D商事と言うとこの商賣は、なんかこの――?」
「ううん、ただの、ありや、ちつぽけな會社ですよ。いずれ、あれこれと落ちこぼれの仕事をしたりこうなれば、なんと言うことはありません。ハッハ、いや私なども、こいで、昔の元氣はありません。ムチャはやれんくなつた。しようが無え、ケチョンケチョン、ボロ負けの、四等國民と相成りの、ショビタレの、ねえあんた、三好さんよ、その、忍術も使えんです!」
 醉つて來たようだが、取りとめ無い事をペラペラと言うだけで、それきり、最後まで、貴島の事には觸れて來なかつた。私は、貴島の事をもつとくわしく知りたかつたが、國友のような男が、いつたん言うまいと思つて口をとじたが最後、決して一言も言わないことも知つていた。だから、問うのをあきらめた。そして互いに現住所の所書きを交換し、再會を約して外に出た。街には既に夕闇がおりて來ていた。
 そこで別れて歸つていれば、よかつたのである。そうすればあんな事は起きていなかつただろう。
 ところが、國友に「すぐに歸る三好さん?」と問われ、そうだ、念のためもう一度D商事を覗いて行こうと言う氣になつて、そう答えると、「そいじや、私も寄つてみるか」と言うので、さつきの道を逆に、夕闇を吹く微風に醉つた顏をなぶらせながらブラブラと二人はそのビルディングへ引き返して行つたのである。

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 しかし、やはり、D商事には、まだ誰も戻つて來ていなかつた。開かないドアの内部には灯かげも無く、シンとしている。或いは、前に私たちが訪れた時が既に今日の業務を了えて人が去つた後だつたかとも思われる。しかたなく、私と國友は暗い廊下を外へ出た。振返つて見ると、その建物がボンヤリと白く盲いたように、明るい窓は一つも無かつた。しばらく行き、間もなく國友と別れたが、すぐ私は小便がしたくなつて道から三四歩、燒跡に踏みこんだ。國友の歩み去つて行く靴音が、しばらく聞えていた。まだホンの宵の口なのに、離れた繁華街のあたりから物音が響いて來るだけで、この近まわりは靜まりかえつている。その中に、國友の歩み去つて行つた方角から、低い話し聲がして來た。何を言つているかわからないが、二人の聲で、一方は國友らしい。知つた人にでも逢つたのかと思いながら用をすまし、私は歩き出したのだが、直ぐの小さい四つ角の所に、國友は背を向けて立ちどまつて前に立つた人影と話していた。
「じや、あのシマの事あ、君んとこのオヤジさんも知つてんだね……」あとは聞きとれない。相手も何か言つたが、「……ですよ」という語尾だけしか聞えなかつた。兩方ともおだやかな言葉の調子である。私は、追い拔いて行くのも具合が惡く、自然に國友から五六歩の背後の電柱のかげに立ちどまるような形になつた。相手の男は、國友に對して、こちら向きに立つているため、國友の影に重なつて、よく見えない。その時、その人影がスット片手を國友の肩にかけるようなことをした。國友が「ア!」と低く口の中で言つたようだ。そのまま相對したまま二人は、しばらく動かない。
「……失敬しました」相手が低く言つて、ポケットから、ハンカチだろう、白い物を出して國友に渡すと、身を開いて、こちらへ足を踏み出した。
「……待ちな」言いながら國友がこちらへ振り向いた。その顏が、右の額口から、眉のわきへかけ頬から耳の下あたりまで、一文字に、インクでもぶつかけられたようにベトリとすじが附いている。トツサにはそれが何だかわからなかつたが、すぐにギョッとした。斬られたばかりのキズだ。夕闇のために黒く見えるが、タラタラと血を吹いて、みるみる擴がつていた。斬つたのは、その相手の男にちがい無いが、いつの間に、どうして斬つたのか? 待ちなと言われてその男は、歩き出しかけた足をとめ、グルリと國友へ振り返つて、今までと逆の位置になつた。
「チョッと聞いておくがねえ、これは、君んとこのオヤジからそう言われて……つまり、言いつかつてした事かね?」國友の聲は落ちついていて、ふだんとチットも變つていない。むしろ、ふだんよりも語調がユックリしている。顏のキズには手もあげないままである。
「……」相手は口の中で何かつぶやいてから「いやあ、僕の一存ですよ。……チラクラして、うるさくなつた――」
「うるさいと?」
「あなたは當分、ここいらに來ないでほしいんだ」
「……すると、濱の方の仕事に手を出すなつて言う事かね?」
「僕あ、なにも知りません。どうでもいいんだ、あんた方の商賣の事は……、ただ、當分、外に出ないでいてほしいもんだから…………そのハンカチは消毒してあります」
 キズを拭けと言うのらしい。國友は、左手のハンカチへチラリと目をやつたようだつた。
「わかつたよ。そのうち、又逢おうね」
 血に染つた顏でニヤリと笑つていた。言いようの無いほど不敵に見えた。
 それきりでしばらく互いの顏を見合つていたが、やがて相手の男はチョット腰をかがめてから、身をめぐらして、私の前を通り――私は自分でも知らぬ間に、電柱のかげにかくれるようになつていた。――スタスタと、D商事のビルディングの方へ歩み去つた。それが貴島勉だつた。實は聲をハッキリ聞いた時から、それが貴島である事に氣附いていたのだが、あまり意外な光景にぶつつかつたためか、目が見ているものに意識が追いついて行かず、現に、私の前數歩の所を、例の青白い彼の横顏がスッと通り過ぎて行くのを見た後まで、まるで夢を見ているようだつた。そのくせ、一方、それほど意外なような氣もしていない。國友の前身と貴島という人間、そして、貴島のD商事は直ぐ近くにある――考え合せると、今の光景がどんな事を意味しているのかまるでわからないままで、それほど起り得ない事が起きたような氣もしなかつた。……國友は、去つて行く貴島の後姿を見ながら、宵闇の中にしばらく立つていた。どこにも昂奮しているような所は無かつた。私がこつちから見ている事には、まるで、氣附いていない。やがて、左手のハンカチを顏へ持つて行くのが見え、血を抑えながら、靜かな足取りで、繁華街の方向へコツコツと去つた。

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 まるで、なにかの映畫の一シーンだけを見さされたようであつた。印象は刻みつけるように強烈でありながら、――意味はわからない。二人の取りかわした言葉を、一つ一つの語調の微妙なところまで復習してみても、ハッキリしたことは、わからなかつた。ただ、ボンヤリと推察できることは、D商事の社長と國友の間に仕事の上でのモツレが有り、それについて國友がたびたびD商事へ訪ねて來ている、それがしかしD商事にとつては望ましくない事で……しかし、來させないために顏を斬るというのは? 「オヤジから言いつかつてしたのか?」と國友に問われて「うるさいから、僕が一存で」と答えた貴島の調子にウソがあるようには聞えなかつたが、いずれにしろ社長の「秘書」が社長を訪ねて來た者を斬る――そういう世界の、その黒田という社長なり、D商事という會社、國友の前身、それから斬られた後での落ちつき拂つた態度など――いつさいを含めて彼等の仕事がどんな種類のものであるかの大體の見當は附く。社會にはいつでも、ちようど無電の電波が人間の眼には見えないでも空中に無數に飛び交い張りめぐらされているように、普通の人にはまるで氣づかれないで裏の世界の網が張られている。そのような網のホンの一個所に偶然に私が觸れたのらしい。しかし貴島という男はどうしたのだろう? そのような世界の網の中に居る人間のようには思われない。
 ……私は、電柱のかげに立つたまま、かなり永いこと動けないでいた。傷害の現場を見たことでびつくりしたためでは無かつた。以前から、時によつて自分も登場者の一人として、もつと荒々しい光景を目撃したことは何度もある。それに、その當時の、言つてみれば尊重すべきものをすべて失いつくして、バラバラに分解したまま乾いてしまつたような私の心にとつては、流れたのが血であつてもインクであつても、たいした違いは無いかのようであつた。一々こまかい反應を起せなくなつているのである。國友の「そのうち又逢おうね」という言葉が、なにか殘虐な復讐を意味していること、そして、この種の男がいつたん復讐を決心したが最後どんなことがあつてもそれは實行されるものであつて、それがどんなに無慈悲なものであるか、などを私はよく知つていた。そのために、貴島の身の上を心配する氣が起きたのでも無い。貴島や國友がどんな事になつたとしても、それが自分にとつて、なんだろう。全部がただいとわしい――言つてみれば、愚かしい三文芝居でも覗いているように白ちやけて見えたのである。ただ、事がらのわけがわからないのが、氣持が惡い。意味のわからない夢を見た後のように不快だつた。
 だからその時、一方で「めんどうくさい、歸つてしまおう」という氣もしていながら、そうはしないでD商事のビルディングの方へ再び引き返して行つたのも、僅かばかりの冷たい好奇心のようなものと、とにかく綿貫ルリの事でわざわざ來たのだから、そして、今會つておかなければ又いつ貴島をとらえる事ができるかわからないと言つたような氣持――それも、それほど熱心なもので無い半ばただ義務を果すだけだと言う程度の氣持を他にしては、おもにその感覺的な違和を埋めようとする動作に過ぎなかつたようである。ほとんどなんにも考えないで私はビルディングの二階にスタスタもどつていた。酒の醉いはすつかりさめていた。
 D商事の内部は相變らずシーンとして人の氣配は無かつたが、今度は電燈がついてドアのすりガラスが明るい。押すとあつけなく開いて、入つてすぐの所がチョット鍵の手に受付臺になつており奧は三間四方ぐらいの室内に四つばかりの事務テーブルが並んでいる。よくある平凡な小會社での退勤後のガランとした感じで、ただ後になつて氣がついたのだが不相應に上等の厚いジウタンが敷きつめてあるため、歩いてもまるで足音がしない。
 その奧の正面のテーブルに倚り、スタンドの光に照らされてこちらを向いて、貴島がションボリとかけていた。まるで元氣が無く、グナリとして、顏なども急にしぼんだように見える。ここに戻つて來てから、ただジッとそうして椅子にかけたままでいたらしい。…………一目見て私は、輕い目まいのようなものを感じた。國友を斬つたのはこの男で無く、逆に斬られたのがこの男だつたような錯覺だ。それほど弱り果てたように沈んでいる。その感じはなにか決定的なもので、市井の傷害事件などとはつながつて行かない、もつと深いものだつた。
 それはホンの一瞬の間に私の受けた感じに過ぎなかつた。しかし、いくぶんハズミのついた心持でその室へ入つて行つた私から、自分でも知らぬ間に、傷害沙汰についての差しあたりの好奇心のようなものが、いつぺんに消えてしまい、後になつても貴島がそれを言い出さないままに私の方からもそれに觸れずにしまつたのも、最初の一瞬に受けた感じのためであつたらしいのである。
 貴島は眼をあげてこちらを見たが、すぐには私だということがわからないようだつた。ほとんど死んだように靜かな無感覺な顏で――そして例のあの眼つきをしてボンヤリこちらを見ていた。そのうちにヤット私を認めた。かくべつ驚ろきもしない。ごく自然にニッコリして「ああ」と言つて立つて來た。
「先日は、どうも――」

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 もうイヤな眼つきは消えており、弱々しい位に柔和な動作と表情で私に椅子をすすめながら、
「二三日中に又、おたずねしようと思つていたところでした。……先日はうまく言えなかつたもんで――」
「いや…………すると、こないだは、なにか?」
「いいえ、いろんな、この、聞いていただいたり……、そいから、おたずねしたい事などあつて伺つたのが、なんにも言えなかつたもんですから――しかし今日は、よく……」私がわざわざ訪ねて來たことを言つて、うれしそうな顏である。拍子ぬけのするような素直さであつた。「すぐわかりましたか? なんしろ完全に燒けちまつた所で、こんなチッポケな建物ですから」
「ずいぶん搜した。……實は晝間一度來たんだけど誰も居ないようですね」
「そうですか。そりや……みんな出拂つていて僕も用たしに出かけていたもんですから。失敬しました。……全部で五六人しきや居ないもんですから、よくそういう事があるんです」微笑しながら言う樣子が、先程の國友とのことを萬一にも私が見たのではないかとチラリとでも思つているらしいところは無い。
「どういう仕事をしているの?」
「ここですか? 一種の請負業みたいなもんです。横濱の方に運送だとか荷役などの店を以前からやつていまして、人手が相當動かせるもんですから。そいで東京のここへ出て來て、いえ、こつちでは運送の請負だけじやありません、センイ類や藥品などの仲介と言いますか……小さなもので。なんでも扱つて金もうけをしようと言つた――いいかげんなものです」
「社長というのは?」
「黒田という人です。今居ると會つていただくんですけど。……たいがい横濱なんです」
「……しかし、こうしてここで話していて、いいの? なんなら外に出ようか?」
「いいんですよ。ほかに誰も居ません。いやホントは外に出てお茶でも差しあげたいんですけど、間も無く實は人が來て、それといつしよに出かける約束になつているもんですから、失禮ですけど此處で――」
「いいんだ、僕はいいんだ。……だけど、君はどうして此處で働らくように――?」
「ほかに、なんと言つて食えないもんですから……。社長を知つているもんで、ホンの腰かけです。黒田と言うのは、もと上海で軍の特務機關の仕事をしていた、おもしろい人間ですよ」
 無邪氣にスラスラと言う。
「特務機關?……どうして君は知つているんです?」
「父の關係です。父が以前めんどうを見てやつていた男で、一種のまあ子分と言つたような――」
「君のお父さんと言うと?」
「………?」逆にいぶかしそうな眼をして彼は私を見た。「Mさん話されなかつたでしようか」
「聞かない」
「そうですか。………父は、古い軍人です。後備の陸軍少將で――もう死にました」
「そう………」私にこの男の人がらがいくらか腑に落ちるような氣がしてきた。「で、僕にたずねたいと言うのは?」
「はあ、Mさんの事です」
「Mの事?」
「直接Mさんの事と言うより、なんと言いますか、Mさんに關係の有る、つまり友達の人のことやなんかを知りたくつて實は先日もあがつたのですけど、ツイ言いそびれてしまつたもんで――」
 はにかんだような色を浮べて、どもるように言つている彼を見ていて私は、そこまで言つている彼の頭に綿貫ルリの事が來ていない筈は無い、それをわざと避けて語つていると思つた。すると、ムラッとなにか意地の惡い氣持になつた。
「そりや私の知つている事ならいつでも話してあげるけど……綿貫君のことねえ」
「…………?」
「こないだ僕んとこでいつしよだつたルリ。あれの事で僕あ今日來たんだけどね」
「はあ、こないだ送つて行きました」
「知らんだろうか君は?」
「なんでしよう?……あの晩送つて行つて、もうすぐそこが家だからとあの人が言うもんですから、別れたんですが――」けげんそうに私を見るのが別にシラを切つているようでは無い。「どうかしたんでしようか?」
「いや、あれきり行方不明になつてしまつたそうでね」つとめて何氣なく言いながら私は相手の表情の動きに注視していた。貴島はただ輕く驚いたような眼色をしただけで、なんの動搖も示さない。
「そりや………」
「で、家の人が僕んとこへ來たんでね、あの晩のこともあるし君に聞けば何かわかるかもしれんと思つたんでね」
「そうですか。いいえ、僕あ知りませんねえ。ただ送つてつてあげただけで。……でも、なんじやないでしようか、あの時劇團にもどりたくないとしきりと言つていたんですから、つまり、ザコネですか…それがイヤで、ホンのどつか友達の家にでも一日二日行つてると言う事じやないでしようか?」
「僕もそれは考えたが、そうでも無いような所もあるし――」
「あんなシッカリした人なんですから、なんかあつたとしてもそれほど心配なことは無いと思いますけどねえ」
「そうも思えるけど僕にもすこし責任と言つたような事もあるような氣がするしね」
「そう言えば送つて行つた僕にもあります、……なんでしたら僕も手傳つて搜しましようか?」
 私は、あらためて彼の顏を見た。そこには單純にルリの事を心配している表情しか無い。もしルリの失踪の理由を知つていながらシラを切つているとするならば、この男はほとんど完全な役者である。私にはわけがわからなくなつて來た。いつそルリの書置の手紙を見せてやろうか。この男はどんな顏をするか? 私はポケットから書置を出しかけた。しかし途中でやめた。見せても見せなくても同じ事だと思つたのだ。それに、いつたん見せてしまえば此の男を窮地に追いつめることになる。すると、もしかすると國友を斬つたように無造作に私を斬るかもしれない。…………そんな氣がする。恐怖では無かつた。斬られたとしても、たかだかレザアの刃か何かだ。それよりも、もしそんな事が起きると、此の男と自分との間は全く斷絶してしまうにちがい無い。すると、さしあたり、ルリを搜し出す一番大事な手がかりを失つてしまう。いや、實はルリの事など私にとつてさまで重要なことでは無かつた。ホントは、いつの間にか、この貴島という男に私が強い興味を抱くようになつてしまつていた事である。引きつけられていたと言つてもよい。そのため無意識のうちに、この男との關係を斷ち切つてしまうような事を避ける氣持になつていたらしい。いつからそうなつたのか私にもわからなかつた。私自身も後になつて氣がついたことである……
「でも僕は、なんだかルリさんに變な事なぞ起きたんじや無いような氣がします。二三日したら、なんでも無く歸つて來るんじやありませんかねえ……そんな氣がしますよ」
 默つて彼の顏ばかりを見ている私の眼を、おだやかに見返しながら貴島が言つた。
「うむ。……君あ、あの晩、ルリになんかしたんじやないだろうね?」
「え? いいえ……そんな事はありませんよ」と相手はすこしシドロモドロに、視線をあちこちさせ、「そんな――ただ送つて行つて。……でも、あんな風な人、僕あ嫌いでないもんですから、いろんな話をしたり、いや、おもに話したのはあの人なんだけど……しかし、べつになんにも」
 耳に薄く血を差したようだつた。まるで單純な少年が戀愛の場面でも覗き見されて羞かしがつてでもいるように、ほとんど可愛いいと言つてもよいような感じだ。微笑の蔭から私がどんなに意地惡くギロギロと見搜しても芝居や惡意の影を見つけ出すことは出來なかつた。
 とにかく、そこには何かがある。にもかかわらず、貴島が故意に嘘を言つているとは私にはどうしても思えない。すくなくともルリの行方を知らないと言うのは事實らしかつた。いろいろの角度から、何をたずねても彼はスラスラと答えたが――答えがスラスラとしていればいる程、かんじんの點は捉まえどころが無くなつて行つた。私は少しジレて來た。貴島は貴島で、私がルリの事に就て彼を疑つている點がわかるものだから困つた顏で「なんでしたら、荻窪の僕の住いの方へ來て見てくださいませんか」と言つた。そうすれば、自分がルリの失踪にかかわり合いの無い事がわかるだろうという意味を含めた言い方だつた。「ホントにお手傳いして搜してもいいですよ。それに、僕といつしよに暮している男で、そういう事のバカにうまい奴も居ますから」その話を差しあたり打ち切りたいらしかつた。そして、すぐに又Mの事――と言うよりもMの知人で現存の人々の方へ話を持つて行く。その話になると變に熱心で、こちらが話をかわしても、又してもそこへ戻つて問いかけて來る。兩方の話が喰い合わず、チグハグになつて行くばかりだ。
「だけどルリの事では、とにかく早いとこ家の人たちに報告してやらなきやならんからねえ」
「ですから、なんでしたら今夜にでも――僕はチョット用がありますからひと足遲れますけど――僕んちへ來てくださいよ。これから――」
 貴島が言いかけている所へ、外の廊下に足音がして、ドアがスット開き、丸い顏の男がユックリ入つて來て「やあ」と言つた。そのため私と貴島の會話は打ち切られてしまつた。

        11

「どうしたんだお前、今ごろ?」
 貴島は、いぶかしそうな顏して男を見た。來る約束になつていた相手で無いらしい。復員服に板裏ぞうりをはいて不精ひげを生やした丸い顏が眠いように平凡だ。入口の通路の所にノッソリ立つたまま、
「頼まれてなあ、佐々から」
「え、どうしたんだよ? 佐々は今夜ここへ來ることになつているんだよ」
「うん、それが急に來られなくなつたから、ジカに野毛の方へまわるから、君に先きに行つてくれだつて。九時三十分には必らず行くからつて。なんだか、本部の方へ急に寄る必要が起きたとかなんとか言つてた」
「へえ。……だけど、ハジキは手に入つたのかなあ。なんか、そんなこと言つてなかつた?」
「ハジキ? 聞かんなあ」
「だけど、君んとこに寄るひまが有れば、ここに來られるじやないか?」
「ううん、佐々は、ここんとこ毎日のように俺の會社に來てるんだよ。經營管理なんて、みんな騷いでいるから、組合の幹部なぞと年中逢つてる。種取りだろ」
「黨から何か言いつかつてるんじやないかね?」
「それもあるかなあ。よく知らん」
「そいで君んとこの爭議は、どんな模樣なんだ?」
「ダメだね、みんなワイワイ騷ぐばかりで」
「しかし、お前、そうやつて出て來ちやつていいのか?」
「うむ、食い物が無くなつちやつたしなあ。俺のカマも二三日前に、とうとう火を落しちやつた。サランパンだあ。こいから荻窪へもどつて、なんか食つて寢るんだ」
「そうか」と貴島は言つてから、しばらく默つて考えていたが、やがて私をかえり見て、
「どうでしよう、これから荻窪へ行つてくださらんでしようか? 僕は横濱までチョット行つて、今夜中にはもどりますから。ちようど、いいところへ久保が來たんで、いつしよに――」と、そこまで言つて笑いながら、男に向つて、私の名を言つて紹介してから「これは久保正三と言つて、僕といつしよに暮している友だちです」
 男は、かねて私の名を貴島から聞かされていたものと見えて、默つてペコリと頭をさげた。
「おさしつかえが無ければ、是非そうしてください」
 すぐに私もその氣になつた。ルリの事もあつた。今夜、とにかく貴島の住いをハッキリと突きとめて置くのは無駄では無い。いつたん別れてしまうと、いつ又彼を捕えることができるかわからないような氣がする。そういう感じがこの男にある。めんどうだがしかたが無い。
 それで、もうしばらく此處に居てから横濱へ行くと言う貴島を殘して、久保正三と私の二人は連れ立つてそこを出た。久保は、私を案内して行きながらも、荻窪に着いてからも、實に淡淡として私に對した。冷淡と言うのでは無いが、わきに居る私をほとんど氣にかけていないようである。私の方から話しかけないと、自分の方からはなんにも言い出さない。小ぶとりで背が低く、顏が盆のように丸く、胴や手足もプリッと丸味を持つている。だから全體がおかしい位に丸く見える。それが、板裏ぞうりをペタリペタリと鳴らしながら私と並んで歩きながら、田舍出の學生のようにキマジメな眼でユックリとあちらを見たりこちらを見たりして行く。空氣のように平凡で、どこにでも居るし、どこに居ても誰の目にもつかない人柄である。ただ、省線の驛で電車を待つている時に一度と、それから電車の中で一度、胸のポケットから小さな手帳を取り出して、鉛筆で何か書きこんで、すぐにポケットにしまいこんで、知らん顏をしていた。以下は、荻窪の彼等の住いに着くまでに、私と久保が歩いたり電車に乘つたりしながら、トギレトギレに取りかわした會話である。
「荻窪の家は、君と貴島君と二人で住んでいるの?」
「ええ。でも佐々がしよつちう來て泊るから、實際は三人だ。いや、そうだな、貴島はメッタに歸つて來ないで、貴島の寢床で佐々がたいがい寢るから、やつぱり二人か。フフフ」
「佐々君と言うのは、さつき君たちが話していた人?」
「そうです」
「共産黨員かなんか?」
「そうのようですね。Gと言う、變なバクロ雜誌の編集しています」
「すると貴島君も共産黨となんかつながりが有るんですか?」
「さあ――あれはゴロツキの子分でしよ」
「…………家にめつたに歸つて來ないと言うのは、すると、どこに行つてるんだろう?」
「黒田の方の仕事をしてない時は、たいがいダンスホールだとかレヴュだとか、上野だとかラクチョウなぞに居るんじやないかな。女好きですからね奴さん」
「君と貴島君、それから佐々君と言う人など、どういう知り合いなの? いや聞き方が變だけど、いつ頃から――?」
「戰友ですよ。戰爭中、いつしよだつたんです」
「へえ、三人とも?」
「ええ。僕と貴島はクェゼリン以來ズーッといつしよで、佐々はすこし後で、僕と貴島がオキナワにまわつてから、内地から補充でやつて來て、いつしよになつたんです」
「君は、そいで、今どつかで働いてるの?」
「職工ですよ」
「どんな仕事?」
「イモノ。流しこみをやるんです」
 そう言つて彼は、驛のプラットフォームの電燈の光に兩手のひらをかざすようにして見せた。ちようど野球のグラブのように肉が厚い。その甲や指のあちこちに、ボツボツと黒い大小の斑點があつて、よく見るとその一つ一つが二分三分ぐらいの深さの穴になつている。既に完全に治つているキズあとだが、その鉛色になつた肉のえぐれ方が、生まキズよりも酷薄な影を持つていた。
「湯のとばつちりが飛びつくんだ。顏はメンをかぶつているから、いいけど、そうでなきやイボガエルみたいになつちまうね」言いながら、自分の言葉でおかしくなつたと見えてニコッとした。
「湯と言うと?」
「金屬の熔けたやつ――」
「ふむ」
「でも、もうダメですね。以前は大きな熔鑛爐でガンガンやつてたけど、ちかごろじや、たまに鐡だと思やあ、火に燒けたボロボロの屑だもん。たいがいアルミかなんか煮て、釜やなんぞ作るんだ。まるで、ママゴトでさあ」
「どこ、工場は?」
「十條です。もとは職工が三百人から居た所だけど、今じや五十人とチョット。ここんとこ、そのママゴト仕事もすくなくなつて來てね、カマは火を引くし、給料は拂わんし、心あたりの有る者は、ほかへ行つてくれと言つてるんですよ」
「爭議になつているんだね、そいで?」
「ええ。……だけど、景氣の良い時のナニとは違うんでねえ。會社もホントにやつて行けないらしいや」
「そいで、どんな工合なの?」
「ダメだなあ。どつちにも、なんにも無いのに、ムシリ合いをしてんだもの。乞食の喧嘩みたいなもんですね。左翼の連中がやつて來ちや經營管理をやれなんてアジつてるけど」
「佐々君と言うのは、そいで行つてるんだね?」
「まあそうでしようねえ。本部との連絡係みたいな事をしてるようです」
「君も共産主義?」
「いいえ」
「すると共産主義に反對?」
「いやあ。僕あまだ、そういつた事はわからんです」
「……貴島君は今夜、もどつて來るだろうか?」
「あいつの言うことは、あんまり當てにはなりませんね」
「今夜、佐々君と言うのと横濱へ行く用事と言うのは、よつぽど大事な用かな?」
「なあに、大事と言うわけでも無いだろうけど、横濱の港外の、海の上で向うの船と出會うんですからね、決めた時間にキッチリ行かないといけないんじやないですかね」
「どう言うんだろう、それ――?」
「向うの船が、藥の入つた箱を海ん中へほうり込むんだそうです。それを發動機船で行つて受取る。貴島の親分の黒田の仕事なんでしよう。受渡しの現場を見せに、いつしよに連れて行け連れて行けと、ずいぶん前から佐々が攻めるように貴島に頼んでいましたから。なんだか、G雜誌にそのことをスッパ拔いてやるんだつて佐々が言つてた」
「だけど、貴島君がよくそれを連れて行くねえ? 黒田と言うつまり自分の親分の仕事を雜誌にスッパ拔くための人間をいつしよに連れて行くなんて、妙じやないかな?」
「なに、あいつは黒田なんて男を別に好いちやいませんよ。それに貴島にとつちや黒田の仕事なんて、ホントはどうだつていいんですよ。佐々がスッパ拔こうが拔くまいが、どうだつていいんじやないですかね。どつちせ、そんな事みんな、どうだつていいらしいんだ貴島には。そんな男ですよ」
「……貴島君が女好きだつて、さつき、君言つてたね?」
「そうですよ。女の尻ばつかり追つかけてる」
「……最近、なにか、そう言つた話はしてなかつたかなあ?」
「なんですか?」
「ルリと言う――本名は芙佐子と言うんだけどね?」
「聞きませんねえ。大體、あいつはそんな話はメッタにしません。ただね、いつしよに歩いたり、電車に乘つたりしていて若い女に出會うと、時々その女とすれちがつたトタンに、僕なんぞ、うつちやつといて一人でドンドンその女の後をつけて行つてしまう事があるんです。フフ。どう言うんですかねえ。そつから先きは、僕にやわからん」
 對話がそこまで運んだ時に、私たちは、荻窪の驛から八九丁も歩いたろう、土地がすこしダラダラと窪地になつたふうの燒跡に出ていた。暗くてよくわからないけれど、所々に白く見える石塀の殘りや草の間の敷石などから推して、かなり立派だつた屋敷跡のようだ。
「ここです」と言つて久保が立ちどまつたので、そのへんを見まわしたが、近くに建物らしい物は無い。變に思つて彼の顏をすかして見ると、久保はその一廓の隅の方へ眼をやりながら鼻をクンクン鳴らして、
「ああ、染子が又、來てる」
 と言つて、その方へスタスタ歩き出した。
 窪地に降りて來た時から、私はそれに氣がついていた。今どきこんな燒跡などで誰が焚くのか、明らかに薫香の匂いである。ジャコウの勝つた、かなり上等のものだ。ほのかに、なまめかしく匂つて來る。……妙な氣がしながら、私は久保のあとについて行つた。

        12

 貴島と久保は防空壕に住んでいたのである。當時、まだ壕舍に住んでいる人がたくさん居て、さまで珍らしい事では無かつたが、不意にそれを知つたのと、香の匂いで私はすこしびつくりしていた。
 一廓の片隅に、二坪ばかりの廣さに土が二尺ばかり盛りあがつており、そのこちら側の端にポカリと穴が開いていて、五六段の階段がきざんである。そこへ下からボッとローソクの光がさしていた。階段へ足をかけると、なまぬるい香の匂いが、さかさに顏を撫でた。
「染子さん、來てんの?」
 久保が聲をかけると、人の氣配がして、
「ああ、お歸んなさい。おそいのねえ」と、くぐもつた若い女の聲がした。
 久保は無造作に私を招じ入れた。内部は一間に一間半ぐらいの廣さで、高さも頭がつかえる程では無い。四壁はコンクリートでたたんであり、床は板の上にウスベリが敷いてある。燒けた邸宅の穴倉だつたものを戰爭中に防空室に改造したものらしい。一方の壁が二段に押入れみたいに凹んでいて、毛布が敷いてあるのを見ると二人はそこで寢るのだろう。室内は割に清潔にしてある。と言うよりも片隅に机がわりに使われているらしい石油箱と、入口に近く二三の炊事道具が置いてあるきりで、他に何一つ無いので、そう見えるのかも知れない。石油箱の上に灯のともつたローソクが立つていて、そのそばに膝を突きながら、その染子という女が私の方を見上げて、
「あら!」と言つて久保の方へ眼をやつた。「貴島さんは?」
「うん?」
 久保はユックリと上衣をぬぎながら、私の方を見てから「貴島は、ほかへ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つた」
「そう?……今夜歸つて來る?」
「さあ、どうだか」
 女は明らかにガッカリしたようだつた。二十五六才になつたろう。キンシャらしい大がらの模樣の和服に、頭髮を思い切つたアップにして、パラリとした目鼻立ちに入念に化粧している。全體の樣子がただのしろうとにしてはハデすぎるし、かと言つて、くろうととも取れない。後になつてわかつたが、果して、以前藝者の下地つ子を一二年やつて、終戰後、ダンスホールに入つてダンサアをしている女だつた。久保は食事をする氣らしく、ポケットから紙包みのパンを取り出したり、隅の箱の中から乾物の魚ののつた皿を出して來てウスベリの上に並べながら、女をジャマにする風も無いかわりに、歡迎する色も無い。
「ホントにどうしたんだろう? これで三度目よ、ここへ來るの。今夜なんか一時間の上も待つていたのに。チッ!」ブツブツと一人ごとのように言つて染子は、乳房の上を兩腕でグッとしめつけて、芝居じみたしぐさで、つらそうな吐息をついて見せた。それが大げさで芝居じみているだけ、しかしかえつて變に實感をはみ出させた。「しどいわあ!」
「貴島に、なんか用かね?」
「用? フフ。そんな――いえ、そうね、用だわよ。もうあんた、このひと月ぐらいホールにも顏を見せないんだもの」
「忙しいんだろ」
「どうだか。……よその又、女の人とでも仲良くしてるんじやない? 久保さん、あんた知らない」
「知らんなあ俺あ」
 久保はモグモグと口を動かしてパンを食つている。その無心な樣子を見てクスリと笑つた染子は、それまで指先でいじつていた線香の燃え殘りを鼻先に持つて行きながら、私の方へ流し眼をくれた。
「んだけど、染子さんは、ここへ來るたんびに、どうしてそんなもの燃すんだい?」
「だつて、良い匂いじやなくつて?」
「そりやそうだけど、でも、今どき、そんなもん高えんだろ?」
「フフ。貴島さんね、いろんな匂いが、とても氣になるのよ」
「そうかなあ」
「氣が附かないのあんた、いつしよに住んでいて?」
「……すると、貴島のために燃すんだね? そうかあ」
「そいじや、あたし、歸ろうつと!」言いながら手を使わないでスラリと立ちあがつた。狹い場所なので、立ちあがつた女の着物のスソがめくれてフクラハギのへんまでが、鼻の先に見えてしまう。變だと思つたら、この女は下着を一切つけないで、キンシャの着物を素肌にじかに着ているようだ。
「せつかく來たんだから、もうすこし待つて見りやいいのに」
「だつて、どうせ今夜も歸つて來ないんでしよ。いいわ、又來る。こいからホールへ行つて見る」
「お茶でも入れようと思つてたのに」
「久保さんが? ハハハ、そりやこつちで願いさげだ。何を飮まされるか知れたもんじや無い」
「フフ、そんな君、いつでもきたなくしとくとはきまつて無いさ」
「いいわよ。そいぢや、貴島さんにそう言つといてね。このままにしてうつちやりつぱなしじや、あんまりひどい。宙ぶらりんで私どうしていいかわかんないから、とにかく一度逢つてちようだいつて。よくそう言つといてね。こいでもあんた、ただのチンピラの娘つ子とは違うんですからね。ホホ!」と不意に花が開くように笑つて、私の方へ色つぽい目禮をしてから、踊りの手のような身のこなしで階段に足をかけてヒラリと消えたかと思うと、
「あのね!」と今度は、暗い中から顏だけを、さかさまにのぞけ、白いアゴで室の隅にぶらさがつているカーキ色のズボンを指して「久保さん、それあんたんでしよ? ホコロビ縫つといたげたわよ」
 言うなり、顏はスッと消えて、たちまち燒跡を踏むゾウリの音と、それに合わせて低い鼻歌のブルースが遠ざかつて行つた。
「ありがとう」それを追つて言つた言葉がわれながら間が拔けておかしくなつたのか、久保はまだパンを頬張つている顏でニヤニヤ笑つた。
「いいのかね、女一人で今じぶん?」
「いいですよ。それ位のことでビクビクするような女じや無い」
「貴島君と、どんな關係の人?」
「さあ。別に大して立ち入つたなんじや無いんでしよう。ほかにもまだ居るようですよ、あんなふうに貴島を追いかけてる女が」

        13

 それから久保正三は火をおこして、茶を入れてくれた。
 室の入口のところにコンロが置いてあつて、細かく割つたタキ木や、水の入つたヤカンなども、そろえてある。男だけの暮しとしては意外な位にすべてがキチンと整備されていることが、だんだんわかつて來た。それが、全部この久保の仕事らしい。手順よく、ユックリ手足を動かして茶を入れおわつた時には、それに使つた道具がチャンと元の通りに片づいているという風である。
 特に私を歡待するためにしているのでは無い。食事をしながらも、私に食えとも言わなかつたし、そんな事は思いつきもしないらしい。茶も自分が飮みたいから入れたが、そばに人が居たから一杯ついであげると言つた調子だ。無禮なことや、傲慢そうな表情など一つもしないが、何か氣が遠くなるほど無關心である。默つて相對していると次第に、こちらが無限の距離に押し離され輕蔑され切つているような氣がして來るのである。以前私が勞働組合運動に出入りしていた頃に附き合つた自由勞働者などの中に、ややこれに似た男が時々居たが、それともすこし違うようである。後でわかつた事だが、これは貴島に對しても佐々に對しても、その他のどんな人間に對しても同じだつた。茶を呑み、タバコをふかしながら、ズングリムックリとアグラを組んで坐つて、すましている。
 私は貴島や佐々や、貴島の生活や仕事や、久保自身のことを、ボツボツたずね、それにはチャンと返事をするが、深い事はなんにもわからない。岩を撫でているようなものである。何かをすこし突込んで聞くと「さあ、俺あ知りませんねえ」と言う。「いやさ、君の考えでは、そこんとこは、どんなふうになつていると思うだろうか?」といつた風に追いかけると、「わからんなあ」「いや、君が想像して見てさ」「想像なんか、できんなあ」
 私もアグネてしまつた。夜も更けて來たし、貴島の歸つて來るらしい氣配は無い。今夜は此處に泊る以外に無いらしい。
「貴島君が、人を搜したりする事の上手な人といつしよに暮していると言つていたが、君のことかな?」と私がたずねると、
「さあ。そいつは、佐々のことを言つたんじやないかなあ」と言つてやがてビックリする位の大あくびをした。
 取りつく島は無い。あきらめて私は室の隅に横になつた。それを見ると久保は、ノソリと立ちあがつて、自分の寢床に敷いてある毛布の一枚を取つて私に貸してくれた。そして彼自身も、その二段に押入れのようになつた下の段にもぐりこみ、腹ばいになつて、ポケットから出した手帳に又なにか書きこみはじめた。同じような黒つぽい、よごれた手帳が、ロウソクの立ててある石油箱の中に二三十册ギッシリとそろえて入れてあるのに私は、ズット前から目をつけていた。
「君はそうやつて、何を書いているの?」と試みにたずねて見たが、「やあ」と薄笑いを浮べただけで相手にならなかつた。
 それがやつぱり一種の日記のようなものであることを私が知つたのは、その次ぎの日の朝になつてからだ。水汲みと朝食のオカズを買いに彼が出て行つたあと、「久保君は手帳に何を書いているんですか?」と私が質問したのに、佐々兼武がニヤニヤ笑いながら默つて久保の上衣のポケットからその手帳を拔いて見せてくれたのである。普通の日記とはすこし違つている。自身のその日の生活やそれに伴う感想などはほとんど書いて無い。自分の見聞した物や人の記述だけである。記述と言つても文章にはなつていない。味もソッケも無い單語と數字が羅列してあるだけで、稀れに簡單な見取圖のようなものが描いてある。そのすべてに、何の解説も附けて無いので、第三者が讀んでも、何の事やらわからない個所の方が多い。もつとも、書いてあることが全部わかつたとしても、格別變つた事は書いてないらしい。平凡な一勞働者の日常の見聞についてのラクガキ程度のものであるようだ。むしろ退屈な手帳である。變つているのは、丹念さだけである。なんのために、こんなものを飽きずに書くのか、佐々にもわからないと言う。「子供がビイ玉やボタンなどをむやみと集める――あれと同じじやないですか」と言つた。その一番新らしく書かれた個所に、
「三好十郎。近眼鏡。五尺三寸。肩はば廣すぎる。ヒタイ廣すぎる。採點八十五。キジマの事を、しつこく聞く。神經衰弱。ホクロに毛が生えてる」とあるのには笑つてしまつた。……それは後の話。
 さしあたり私は非常に疲れていた。以前から私の身體には、ずいぶん變つた事が失つぎ早やに起ることは珍らしく無い。しかもそれらが、普通の文士や劇作家などの身邊に起る事がらとしては、すこし――毛色が變つていることが多い。だから今度の事を左までに異樣なことには感じていない。しかしそれでいながら、二三日前のルリの失踪(?)に續いて今日半日の私の見聞の中に、何か妙に私のどこかをおびやかすようなものがある。しかも私の眼に見、耳に聞き得るのは、事件や人物の極く僅かの露頭だけであつて、事件や人物の全貌は、氷山に於けるがように、水面下にかくされている。いやもちろん世の中の事一切が或る程度まで、そうであるには違い無い。しかし今の場合は、これがすこし甚だし過ぎる。私が疲れたのも、そのためらしい。しかもそれらの全貌をいくらか明らかにし得たとしても、そこから別に何の得る所も無いだろう。ルリの事にしたつて、彼女も既に子供では無し、私との間に特殊の關係が在るわけでも無いのだ。私などが何をガチャガチャと騷ぐことがあろう。……そう思いながら、しかし完全にはそう思いきれないモヤモヤした氣持で、あおむけに寢て、毛布をアゴの所まで引き上げて、ボンヤリとしたロウソクの光に照らされた壕の天井のコンクリートの面の雨じみを見ていた。その間に、私はグッスリと眠りこんでしまつたらしい。

 何か激しい人聲で眼をさました。私は一瞬、自分がどこに居るのか、わからなかつた。暗い中で息がつまりかけているような氣がした。鋭い恐怖が來て、次ぎにホントに眼がさめて、ああそうだつたと思つた。同時に、
「そうだよ、貴島は幽靈だよ! しかし君は幽靈よりや惡い。豚だ!」
 と言う聲が、天井のへんから聞えた。私には、はじめての聲だつた。暗いからよく見えないが、寢床の上段に寢た男が、寢たままで言つているようだ。後でわかつたが、それが佐々兼武だつた。私が眠つている間に歸つて來たらしい。氣配で貴島は、歸つて來ていない事がすぐわかつた。語氣から推すと、もうかなり前から言い合つているようだつた。私の眠りをさまさせないためらしい、押し殺した低い聲である。しかし、四邊が靜かなのと、壕の中であるため、ガンガンとひびく。
「豚だろうと、ケエロだろうと、いいさ。俺あ、てめえがわからねえから、わからねえと言つてるまでだ」
 ユックリした聲で、やつぱり暗くて見えない下の段から久保が言つた。
「ケエロ? ケエロたあ、なんだ」
「ケエロさあ」
「蛙か。…………フフ」
 それまで怒つていた佐々の聲が、短かく笑つた。しかし久保はそれに乘つて行こうとはしない。
「そうだなあ、こうやつて、土ん中の穴あ掘つて、そん中に又こうして棚をこさえてガッカリして寢ているところは、ケエロだな。フフ、しよう無えな」そこまで笑いをふくんだ聲で言つて、しばらく言葉を切つていたが、今度は更にムラムラと腹が立つて來たと見え、とがつた聲で「……そんな事じや無いんだ俺の言つているのは! なぜ君あ貴島んとこから十條へ引き返さねえんだ? 全體、今どんなにキワどい所に差しかかつているか、わからん筈は無いだろう?」
「だつて、腹あ、へつて、しようが無えから――」
「腹あ、へるよ! なんだよ、それが?」
「だつてさ、あすこにや食う物あ、もう、なんにも無えんだぜ?」
「あたりまえじやないか。遊山に行つてるんじやないんだぜ! 工場管理がうまく行くかどうか、つまり終戰後はじめての、この、新らしいやり方の鬪爭をはじめているんだよ。イクサだよ! だのに當の君たちがノコノコ歸つちまつたりしてたら、せつかく會社の連中をしめ出しているのが、又、取りもどされてしまうじやないか」
「君あ、腹がへつて無えから、そんな事が言えるんだよ」
「バカな事を言うな! そんな君、そんな――」
「バカな事じや無えよ。腹がへつちや、イクサはできねえもん」
 久保は皮肉やシャレを言う氣など全く無しに言つている。佐々はサジを投げるように舌打ちをして
「そいで、なんで三好なんて人を連れて來たりしたんだ?」
「貴島がいつしよに連れて歸つてくれと言つたから――」
「なんか用があるのかい?」
「知らん、俺あ」
 それから、二人はしばらく默つていたが、佐々の聲が、私が眠つているかどうかを試すように低い聲で此方へ向つて、
「三好さん…………」と呼びかけた。私はだまつていた。トッサに返事が出なかつたせいもあるが、眠つたふりをしていてやろうと言う氣になつていた。佐々はもう一度私の名を呼んだ。今度も私は返事をしなかつた。それで佐々も久保も私がグッスリ眠つているものと思いこんだようである。
「知つているのか君あ、この人を?」久保の聲が言つた。
「名前は知つている。書いたものも讀んだことがある。つまらねえ文士だ」吐き捨てるように佐々が言つた。
 私は暗い中で苦笑した。
 そのくせ、翌朝になつて三人が起き出して顏を合せると、久保の紹介も待たずに佐々は私に話しかけて來たが、それは並々ならぬ敬意と親しみのこもつた態度であつた。相變らずノッソリしている久保にくらべて、その手の平を返したような調子にキビキビした一種の愛嬌が有つて、私には不快では無かつた。…………
 それから二人は、安心しきつた調子で、しばらく貴島のことを話した。話の内容は私によくわからない所が多かつたが、でも前後を綜合して判斷すると、貴島と佐々の今夜の冐險はうまく行かなかつたらしかつた。發動機船でいつたん横濱の港外まで出るには出たが、指定の時間の直前になつて、先方の船が來る予定の方向とは違つた港内の方角から、舷燈を消しエンジンの音を止めた小さな船が、近づいて來るのを發見して、怪しいと見て急いで引返して來てしまつたらしい。貴島は、いつしよに行つていた黒田の配下の者たちと共に、横濱の黒田の本據の方へまわり、佐々は貴島たちに別れて歸つて來たらしい。近づいて來た小船が、もし警備艇であつたとすれば、偶然の事とは言えず、或る程度まで目星をつけられていると思わなければならぬ、そうなれば貴島たちが相當の追求を受ける危險が有る。いずれにしろ、この三四日は貴島は戻つて來ないだろう…………。
「バカだな。そんな事、よせばいいんだ」久保が言つた。それに對して佐々が、
「そうだよ、よせばいい」とアッサリ相槌を打つたのは、意外だつた。
「どうして貴島は黒田なんて男の所で、あんな事してるんだろう? ゼニが欲しいからかね?」
「ゼニもゼニだろうが、それよりも、なんか彼奴はムシャクシャしてたまらんのじやないかね。實際、あいつはオキナワで死んでいりやよかつたんだ。死んでた方がラクだつたよ。彼奴を見ているとそんな氣がする。全くシンから氣の毒になるよ!」佐々の聲が、うめくようにシミジミとしていた。しかし、たちまち又、刺すような語調になつて「いや、ホントは彼奴はオキナワで死んでいるんだ! カラダだけが死にきれないで、いまだにウロウロしている」
「そいじや、アベコベじやないか?」
「そうさ。近頃じや、すべてアベコベだ。カラダが死にきれないんだ。だから幽靈さ」
「フ、貴島が幽靈で、俺が豚か」
「そうだよ、お前は豚だよ。そいつはハッキリしていらあ」
「そいでお前は共産黨か?」
「そうだよ、とにかく、人間だ」

 それから、二人の長々とした議論がはじまつた。それは久保がその職場での爭議に對して冷淡すぎる事を佐々が鋭くとがめることから始まつて、話は次第にもつと一般的な事にわたり、二人の青年がこの現代に處して生きて行く行き方の根本的な違いから來る論爭になつて行つた。とは言つても、それは、ひと昔以前のインテリたちの間に流行した一般論や抽象論では無かつた。そんなものとは、まるで違つた質のものであつた。この樣に混亂している現代の中で今すぐに、ジカに自分たちが明日からどうして生きて行くか、あの事やこの事をどんなふうに處理して行けばよいか、どうするのが一番正しいか――と言つたような事である。學問的な言葉は二人とも使わない。使おうと思つてもそんなものは、あまり知らないらしい。正規な高級な社會學的な教養は二人とも持つていないのである。それでいて、二人がそれぞれ自分勝手な不正確な、血の出るような生々しいジカな言葉で言い合つている事が、今の時代の一番重要な問題であつた。それが私にだんだんわかつて來た。私の眼は、いつの間にかハッキリと醒めてしまい、強い興味でもつて二人の議論に聞き入りはじめたのである。
 その議論を私はそのままに此處に書き寫すことが出來る。實はそうする氣でいた。しかし、それをしていると三四十枚かかる。長過ぎるであろう。私は前途に書くべき事を多く持ち過ぎている。たとえば、その後の綿貫ルリの事、國友大助のこと、それから、かんじんの貴島勉の事にしても、まだ僅かしか語つていないのだ。今ごろから寄り道をしていたりすると、全體が無際限に長くなつてしまう上に、自分が最初語ろうと思つた事がらを指の間からすべり落してしまうかもわからない。だから、これはさしあたり割愛する。
 ただ簡單に二人の立場を説明して置く。佐々兼武は共産主義者だ。その事に自信を持つているようである。彼が共産主義者になつたのは、長いこと人生社會について考えたり、社會科學の勉強をした結果では無いようだ。出征前は大學生だつたらしいから、その頃既に職工であつた久保などに比較すれば學問的な思想にもなじんでいたわけであろうが、それも例の戰前から戰爭中の軍部專制で塗りつぶされていた空氣の中での學生々活である。せいぜい、二三の社會科學に關する本などを讀んだと言うのにとどまつていたらしい。だから彼が左傾したのは、戰爭末期の戰場と復員して來てからの短期間中であつて主として、戰場と復員後の生活の中で身をもつて、その虚僞や矛盾にぶち當ることから來たもののようだ。マルクシズムを體系立てて學んだ事も無いらしい。つまり現在非常にたくさん居る二十代の、言わば「電撃的」に共産主義者になつた新らしいタイプにぞくする一人である。だから、主義を信ずることは非常に強い。ドンドシ實行に移して行く。彈壓の中で鬱屈した經驗が無いから、明るい。しかし又それだけに、ほとんど私などには理解できない位に單純な所があるようだ。抱いている共産主義理論そのものも、あちこちとスキだらけで、自分では共産主義的にものを言つたり行動したりしていると信じてやつている事が、實は全く封建的な專制的な事であることがあつたりする。彼自身はそれに全く氣が附いていない。そこいらが、「特攻隊」に非常に似ている。眞劍で正直で命がけな所も特攻隊にソックリである。だから、往々にして、ハタから見ていると滑稽なことがある。しかし、そういう場合も、當人が正直に全身的にやつている事がわかるし、又、机の上の空論から出發しているのでは無いから、惡い感じはしない。その輕佻さに苦笑することは出來ても、輕蔑することは出來ないのである。特にこの佐々兼武はそれらの中でも優秀な男らしい。私は、うれしいような悲しいような氣持で、彼の素朴きわまる、しかし熱情的な議論を聞いていた。そして、あと半年か一年すれば、この日本に革命政府が樹立されるという事を彼が完全に信じ切つているという事を私が知つた時には、その信念の純粹さと美しさと、同時に空虚さと子供らしさに、闇の中で私の目から涙が出そうになつた。
 久保正三のことは、既に書いた。それ以上のことをいくら書きたしてみても、既に書いた以上のことは彼についてわからないであろう。言葉を代えて言えば、だから、はじめから此の男はそのありのままがわかつているとも言えるわけだ。いくら正體を掴もうと思つて追求して見ても掴まれない、奧底の知れないような人柄だという氣がするのは、こちら側の思いすごしであつて、久保自身は、自分のありのままの姿をいつでもさらけ出しているらしいのである。その點は貴島勉に似ている。がしかし、貴島のように薄氣味の惡いような所が此の男には無い。もつと平凡だ。明るくポカンとした感じである。そして、ほとんど絶對に昂奮しない。佐々との議論で彼の方は割に無口で、佐々が三ことを言うのに彼は一ことぐらいしか口を開かないし、言葉の内容も佐々が攻撃的であればあるほど彼は防禦的であるが、その攻撃的な佐々の言葉でどんなに激しく刺されても叩かれても昂奮しない。だから議論の内容としては彼の方が負け、教えられているのにかかわらず、はたから聞いていると、やつつけられ教えられているのは佐々の方であるかのようである。それと、もう一つ、彼の言葉の中からだんだん私にわかつて來たことは、彼の出征中、それも終戰前後の戰場生活の中で、なにか非常にひどい目に會つて――そして、その時貴島といつしよに居て、貴島と同じような目に會つたらしい。そしてその時に、彼と貴島の仲は切つても切れないような深い所でつながれたらしい。それは、どんな目だつたのか、その時には彼は具體的には言わなかつたが、その言い方から察すると、ほとんど人間の頭ではそのような事が起り得るとは考えられない位に手ひどい經驗だつたらしい――その時を境い目にして、彼と言う人間は變つてしまつたと言うのである。その事を彼は「人間はケダモンだ。畜生と、ちつとも變つとらん。もう俺あ人を信用するのは、やめちやつた。人の言う事なんぞ信用せんよ。俺のせいじや無えや」と言つた。そして、ありのままの事實だけ――それも自分の眼で見、耳で聞いた事實だけしか信用しないと言うのである。自分が現に目で見、耳で聞いた事だけで世の中についての「ミトメ」――(これは久保の言葉。結論だとか答えだとか認識とか社會觀とか言つたような意味の全部をふくめて言うのらしい)――が自然に出來あがつて行くのを待つ。だから世の中に流行しているいろいろの思想や宗教などの、どんなものも、それだけでは信用しない。その中のどれかが、もし正しいものならば、それが正しいという事が、そのうちに必らず、自分が目で見たり聞いたりすることの出來るような實際の事實として現われて來ると言うのである。それまでは右翼も左翼も信用しない。彼の言葉で言うと「神も佛も信用せんよ。戀も愛も金も信用できねえ。資本家も共産主義も信用しない。一切合切、俺にとつちや、無えのと同じ」である。「信用できると手前が知つてから信用しても、おそくは無え」と言うのである。その素朴な――と言うよりも未開人のような頑迷さが、あわれな位である。あの手帳も、これに關係が有るようだつた。「あんなつまらん手帳を何百册書いたつて、なにがわかるもんか!」と佐々が言つても「わからなくつてもいいよ」と答えた。その調子が、はたで聞いている私にさえ、やりきれない位に低級で常識的にひびいた。「そいつは豚の實證主義だ。そうじやないか、豚は食物をやらないで置くと、世界中に食物がまるで無くなつたと思つてギイギイ騷ぐ。鼻先に一つかみの食物をほうつてやると、世界中に食物が滿ちあふれていると思つて有頂天になるんだ」と佐々にののしられても、彼はケロリとしている。自分の工場に於ける爭議にも參加していて、經營管理への動きの中でも組合員としてサボつたりはしない。しかしカッカとなつて積極的になることも無い。冷然として皆の動くように動いているが、ヒヨイと自分が家にでも歸りたくなると誰にも言わないでノコノコ歸つてしまう。それで、もうそれきり爭議團の方へ行かないかと思うと、又平然として戻つて行つている。そんな調子らしい。今もその事を佐々が言い立てて、イライラといきり立つて詰め寄つて行くのだつた。すると、しばらく眞面目に議論の相手になつているが、論爭のピッチがあがつて來て、決定的な所へ來たトタンに、變なトボケた聲を出すので何だと思うと、なんとかなんとかで「カヌシャマヨウ!」と、オキナワかどこかでおばえて來た歌を低く鼻歌でやつていたりする。すると佐々が怒り出してベラベラと罵倒する…………果てしが無かつた。
 貴島勉が、この二人との生活の中で、どのような位置を占めているのか、ハッキリとは、わからなかつた。しかし二人の話の中にチラチラ出て來る貴島についての言葉を綜合すると、貴島という人間が、一個の人格としてはほとんど捕捉することの出來ない位にシリメツレツに混亂し切つており、兇暴で異樣なものになつていながら、一面何か頑是の無い子供のようにひ弱で單純な所も有る人間であることがわかつて來た。佐々も久保も、その貴島の兇暴さのようなものを憎みながら、その子供らしい所を憐れみハラハラして見ているようである。一言に言つて、佐々と久保が、その全く違つた性格と生き方の、それぞれのやり方でもつて非常に強く貴島にむすばれているらしい事が、だんだん私にわかつて來たのである。

 それは實に妙な一夜であつた。
 暗い穴の底に横たわりながら、二時間も三時間もぶつつづけて、今の時代と社會について、ほとんど齒をむき出さんばかりの毒々しい言葉でもつて論爭している二人の青年。それを眠つたふりをして聞いている自分。あああ、これが一體夢でもなんでも無い、現代のしようの事であろうか?………ヒョット、これが戰線に於ける塹壕の中で、ドロドロになつた兵士同志が話し合つている光景だと思つて見た。そう言えば、佐々と久保、それから貴島も實際の上で戰友だつたと言う。何かハッとした。「そうだ!」と思つた。何がそうなのか、私にもわからなかつた。胸の底がシーンとなつて、何かが、そこから吹き上げて來るのを感じた。
 氣が附いて見ると、入口の階段の所が薄明るくなつて來ていた。やがて夜が明けるのだろう。二人の議論はまだ續いていた。

        14

 その次ぎの日に、私は綿貫ルリに逢つた。
 それもアッケない事に、防空壕での一夜の歸り途に、しかも彼女自身の方からノコノコと私の前に姿を現わしたのである――

 次ぎの朝――と言つても、はげしい議論の後で、久保も佐々も、それに私も、さすがに疲れてわずかの間トロトロとしただけだと思つたのが、實は數時間眠つたらしく、今度三人が前後して目をさました時は、すでに陽が高く昇つていた。ムックリ起きだした佐々が、いきなり壕舍の天窓と入口の戸を開け放ち、私と久保を外に追い出して、掃除をはじめる。それをすましてしまうと、自分も外に出て來て、サルマタひとつの素裸かになつて、號令をかけながら體操をする。その間に、久保は炊事の水を汲みに附近の井戸へでも行くのか、バケツをさげてノソノソと姿を消す。すべてが、軍隊の野營地に於ける生活の延長のような感じである。薄曇りの五月の晝前の、あたり一面荒れ果てた燒跡の中で、それが又ピッタリと至極あたりまえの感じだつた。佐々の體操も明らかに軍隊でおぼえて來たもので、毎朝これをやるらしい。カラリと痩せた裸體だが、四肢の筋肉がよく發達していて、兩腕をふりまわしたり脚をひろげたり飛びあがつたりするたびに、すこし青白い皮膚の下で筋肉が面白いようにグリグリ動く。それをしばらく眺めていてから、私は歸る氣になつてそう言うと、いつしよに朝飯を食つて行けと言う。べつに心にも無いお世辭を言つている風は無い。
「だけど、ごつつおはありませんよ。おい久保お!」と體操の手はやめないままで、バケツをさげて戻つて來た久保に呼びかけ「おかずは無えんだろ? ひとつ走りなんか買つて來いよ。ゼニは俺のポケットにある。その間にメシはたいとく」「そうかあ」「早くしろよ」「おう!」それで久保が使いに行き、佐々が體操をやめて七輪に火を燃しつける。そうしながらも、私に話しかける。佐々の私に對する態度は、すこし馴々しすぎる位に親しみと敬意のこもつたものである。それでいて、昨夜私が眠つていると思つて「くだらねえ文士だ」と吐き捨てるように言つた調子も續いていて、その二つが面從腹背と言つたふうの矛盾した態度にはならない。どこかしらで私のことを「罪の無いオッサン」と言つたふうに輕蔑している事は事實だし、それを隱そうともしないが、敬意もなくさない。そこの處が私にはおもしろかつた。とにかく腹は立たないのである。久保の手帳のことを聞くと、その手帳を出して見せてくれる。貴島のことをたずねても、こだわり無く答える。しかし細かい事は何も知らない。貴島の性格や心理などについても知つていないし、知ろうともしていない。そんな事は全く問題にならないらしい。お互いに、あたりまえの、唯の友だちだと思つているようだ。……そうだ、そうかも知れないと私は思つた。それが普通かも知れないのだ。人間は昔から今に至るまで、大して變つてはいないし、又、今居るたくさんの人間の一人々々にしたつて他の人間とそれほど變つていないのかも知れない。一人々々の人間を特に他の人間とは違つた、わかりにくいもののように眺めるのは私のような作家の惡習慣のようなものかもわからないのだ。――そんな氣がしながら佐々のおしやべりを聞いていたが、一方でこの三人の青年が互いに「偶然に吹き寄せられたから當分いつしよに居るだけだ」と言つたふうに、こうしてサバサバといつしよに暮していながら、自分たちでも氣が附かない所でむすばれている姿が、なにか私にうらやましいような氣がした。私にも私の周圍にも、青春のそのような空氣が、かつて有つた。今はもう無い。あれは一體、いつ頃、どこへ行つてしまつたろう?……
 飯がたけ、久保が歸つて來て、かんたんな食事がはじまつた。久保は、ほとんど口をきかないで食う。佐々と私の二人分よりもよけいに食つたろう。私は二人に向つて、貴島に會つたら、とにかく一度私の所に來るように言つてくれるように頼んだ。「ええ。一兩日中に僕が會いますから、そう言つときます。でも、ここ四五日は奴さん、出歩けないかもしれませんよ」と佐々が言つた。「どうして? その藥の件で?」「それもあるでしようが、ほかにも何かあるようでしたね」
 食事がすみ、私が辭し去ろうとすると、佐々も出かけるので途中までいつしよに行くと言う。久保は今日一日寢るらしく、すぐにもう横になつていて、佐々が身仕度しながら、工場のことや爭議のことを言つて、「ひと寢入りしたら、直ぐに行かなきやダメだよ!」とブツクサ言つても、「うん、うん」と答えるだけで、もう半分眠りかけて、くつつきそうなマブタをしていた。
 私と佐々は驛まで歩き、電車に乘つた。
 その電車が發車して間も無く、うしろから私の背をこずく者があるので、なんの氣も無しにその方を見て、おおと言つてしまつた。綿貫ルリだつた。紺ガスリの筒袖にモンペを着て、ニコニコして立つている。まるで何のことも無かつたような顏色だつた。
「どちらへ、先生?」
「どちらへつて、君……君は、どうしたの?」
「まるきり、氣がつかないのね。ズーッと私、うしろから附けて來たのに、フフ!」
「つけて來た? 僕をかね?」
「うん。驛の前から」
「……そいで、君は、ズッと、どこに居たんだ?」
「驛の前よ、だから」
「そうじや無いんだ。全體こないだから――」
「驛のすぐ前に小さい喫茶店があるでしよ。あすこで見ていたのよ。そしたら先生いらしたから、追いかけて來たんだわ」
「すると、なにかね、君あ喫茶店に勤めるようになつたのか?」
「ううん、どうして? 喫茶店は、私、ただ驛の方を見張つているために、毎日來てるの」
「え? 見張る? すると……いや、だからさ、すると、家に歸つたんだね?」「家?」
「高圓寺の、その君の――」
「ううん、家へは、私、もう戻れないわ」
 話が喰い合つて來ない。
 はげしい音を立てて走つている、混み合つた省線の中で、細かい話はできなかつた。とにかく、どうしているかと思つていた當人が、身なりこそ急に變つてしまつたけれど、落ちついた樣子で現われたと言うことで、私は急に肩の荷がおりたようにホッとしていた。さしあたり、家出の事情を、にわかに追求する氣は無くしていた。
 そんな事よりも、ルリを一目見た時から、この女が急に美しくなつているのに、私はびつくりしていたのだ。それは、ほとんど別人になつてしまつたような變りかたである。この前逢つてから、まだホンの數日にしかならないのに、どんな事がこの女の内で起きたのか?
 もともと貴族の血筋の、顏形も身體つきも、ほとんど古めかしい位に典雅な線を持つた女だが、これまで、特に美しい女だとは思つていなかつた。それが、まるで花が一夜にして開いたようになつている。先ず、陶器の肌のようにスベスベした皮膚が、以前は白く乾いて、不透明だつたのが、シットリと濡れたようになり、内側から血が差して、それが微かにすけて見える。貴重な種のバラの花のクリーム色の花瓣でも見ているようだ。それに眼だ。どこがどうと説明はできないが、まるで、ちがつてしまつた。人を眞正面からヒタと見てたじろがない視線はそのままだが、黒目にツヤを帶びて直ぐにも泣き出しそうな、せつないような色を浮べて、強く光つている。あとは、どこがどうなつたのか、よくわからない。着ているのが、男の着るような紺がすりの防空服であるのが、かえつて效果的で、ゴツゴツ黒い布にすぐれた白磁の壺を包んだように、さえざえと目立つのである。先程から、わきに立つた佐々兼武もビックリしたように眼を据えてルリの顏ばかり見守つていた。

        15

「どうなすつて、センセ? 顏ばかりごらんなつて? なんか附いてる?」そう言つてルリは片手で自分の頬をツルリと撫でた。
「いや……君の姉さんの御主人だつて言う人、――小松さんか――こないだ僕んとこに來たよ」
「へえ? 義兄にいさんが? どうしてかしら?」
「どうしてつて、君が家出をして何處へ行つたかわからんから」
「ふーん。そう?」
「なんでもお母さんは苦に病んで寢こんでいられるそうだ。實は僕も、君を搜していた。……どんな事情だか僕にはわからんけど、一度家に歸つたらどうかな?」
「歸らないの家には、もう」
 アッサリ言つて、窓の外を見た。ちようど電車はその高圓寺邊を走つていたが、彼女の顏には別に變つた表情は現われない。それを見ていて、今にわかに家に歸ることをすすめても、なんの效果も無いだろうと言う氣が私にした。
「どうしてだろう?」
「ううん、ただ家には居たくないの。お母さまが寢ついているんだつて――そうね。やつぱり心配はなすつているでしようけど、私のことでじや無いのよ。いえ、そりや私の事についてじやあるにはあつても、この私、つまり此處にこうしている私という人間――つまり、そのためじや無い。うまく言えないんだけど――それがお母さまや姉さまや義兄さんなのよ。先生にや、わかんないわ」
「しかし、とにかく心配なさつている事は事實だし、別に大したわけが無いんだつたら、一度歸つて、よく話してから又出るようにしたらどうだろう?」
「フフフ」明るく笑つて「ダメ! 先生にや、私の家の人たちのこと、わかんないの。先生だけで無く、誰にだつてわかるもんですか。あの人たちはみんなキチガイよ」
「……そいで今君はどこに住んでいる?」
「お友だちんとこ」
「R劇團の方は?」
「やめちやつた」
 ケロケロした調子だ、私はしばらく默つていてから、すこし思い切つて、
「君が家に殘して行つた置手紙を、小松さんが持つて來て、僕にも讀ましてくれたよ」
と言つて、ルリの顏を見ていた。
「ふん」と低く言つて、眼は伏せないで默つている。
「……ぜんたい、どんな事があつたの、貴島君と――」
 返事は無い。表情もほとんど變らない。ただ、耳の附根の邊からパーッと見る見るうちに血が走つて、顏がまつ赤になつた。まるで、夕立ちが近よつて來るようだ。目がさめるようだつた。私を見つめている兩眼が急に大きくなり、やがて、その兩眼から、まるで集つて來た血を濾過でもしたような調子に大粒の涙の玉が一つずつ、ポロリと出た。それでも怒つたように口を開かない。そのうちに、今度はスーッといつぺんに血が引いて、眞青になつた。腦貧血かなにか、そのまま倒れるのではないかという氣がした。私がめんくらつて、
「おい、ルリ――」と、肩に手をかけようとすると、その手を默つたまま拂いのけるようにして、いきなりクルリと身をひるがえすや、そこらの乘客を突きのけるように掻き分けて、ドアの方に突き進んだ。人が混んでいなければ、そのまま驅け出して、いきなり車外へ飛び出しでもしそうな勢いである。ビックリして私は後を追つた。やつとドアの前の所で、彼女をつかまえた。幸い電車はまだ走つていて、ドアはしまつている。しかし、開いた窓からでも飛び出しかねない樣子なので――いや、いかに綿貫ルリが無鐡砲でも走つている電車の窓から飛び降りたりする道理は無いのだが、その時の血相から私にはそんな氣がしたのだ――私は彼女の左の腕をしつかりと掴んだ。
 附近の乘客たちが變な顏をしてジロジロ見ている。ルリはそれらの視線を平然と見返しながら立つている。しかし、彼女の身内が細かくブルブルとふるえているのが、掴んでいる腕から傳わつて來た。何か遠くの、底の方から電氣の嵐のようなものが、近づいて來るような感じだつた。全體どうしたのだ? もしかすると、氣がヘンなのではないか、こいつは?……衆人環視の中で、若い女の腕を掴んで立つていなければならないテレくささ、それに何だか譯もわからない、いや、わかつたとしても、どうせ大した譯でも無さそうな事で、こんな大げさな眞似をする小娘のうるささ、それをしかし勝手にしろと打ち捨てて立ち去つてしまうわけにも行かない――私はすこし腹が立つて來ていた。ルリは一言も言わない。ありがたい事に、間も無く電車はS驛に停つた。ルリはサッサと降りながら、青い顏のままチラリと私を見たが、足は停めず、胸を張つてスッスッとプラットフォームを行く。別に逃げ出そうという氣配も無い。やれやれと思いながら並んで歩いた。
「三好さん、そいじや、僕、ここで失敬します」
 うしろで聲がするので振返ると佐々兼武だ。實は、彼のことを私は胴忘れしていた。
「そう、そいじやまあ――」
「近いうちに、お伺いするかも知れません」と佐々は不遠慮な眼つきでルリの方を見ながら、「いずれ貴島と連絡がつきましたら」
「え、貴島さん?」ルリが立停つて佐々を正面から見すえた。「………貴島さん、どこに居るんですの?」
「いやあ……」佐々は、ルリと私を見くらべながらニヤニヤしている。
 私は、かんたんに二人を紹介した。佐々はルリに對して強い興味を持ちはじめたらしい。ルリの方は、貴島といつしよに暮している友人だと言われて、急に早口で言い出した。
「……貴島さん、どこに居るんです? 住居が荻窪だとだけで、荻窪のどこだかわからないし、しかたが無いので、驛の所で待つていれば、いつか必らず通る筈だと思つたので毎日驛の前の喫茶店から見張つていたんです。今日もそうなの。そこへ先生たちが來たんだわ。どこに居るんです。あの人は? 私はあの人に會わなければならないんです。いつしよに連れて行つて下さい!」
「……でも、貴島君は、今、家には居ないよ。實はそこから僕等は出て來たんだから。ねえ佐々君」
「ええ。……當分歸つて來ませんね」
「どこに居るんですの、だから?」
 いつの間にか三人は驛の構外に出ていた。とにかく、そこらでお茶でもと言う事にして、私は二人をつれてSのゴミゴミした裏町の顏見知りのカフエへ行つた。
 腰をおろしてからも、ルリは私の方など振り向きもしないで、佐々に詰め寄るようにして貴島のことを追求した。わがままな子供が物ねだりをするように、ただ、むやみとイチズで、左右のことを顧慮しない。さすがの佐々が受けかねてシドロモドロになつていた。
「ですから、僕もハッキリ知らないんですよ」
「ウソ! だつて、さつき貴島さんと連絡すると言つてたじや、ありませんの!」
 チャンと聞いているのだ。
「いや、それは、連絡がとれたら、知らせると言つたんです」
「どつちせ、あなた御存じだわ。そうでしよう? どうして、それをかくそうとなさるの?」
「かくそうとなんかしていませんよ。横濱だつてことは知つているけど、僕も今のところ、それ以上の事は知らないんだ」
「横濱?」
「そうですよ。僕が知らんだけでなく、誰も知らんですよ。人に知られるとヤバイから、あちこち轉々として隱れているらしいから――」
「ヤバイ? ……じや、なんかしたんですの、惡いこと?」
「ううん、いや、そんなわけじや無いけど、その、仲間のチョットしたゴタゴタで、とにかく、當分出て來ない方がいいから――」
「一體、どんな仕事しているんですの?」
「知りません僕あ。……でも、あなたは、どうしてそんなに貴島に會いたがるんです?」
「あなたに關係の有ることじや無いわよ! それよりも、どうしてあなたは、あの人に私を會わせまいとなさるの?」
「ヘヘ、誰も會わせまいとなんかしていないじやありませんか? 第一、待つていれば、そのうち彼奴は戻つて來るんだ」
「早く會わなきやならないワケが有るのよ! バカねえ、あなたは! そんな事、あなたなんぞの御存じなくたつて、いい事だわ!」
「そうですか、ヘヘ!」と佐々があざ笑つて「んなら、そいでいいじやありませんか。ヘヘ! だから、僕は知らんと言つてるんだ」
 ルリは佐々を睨んで、つかみかからんばかりの樣子をしている。なにか滑稽であつた。
「まあ、いいじやないか、そりや」と私は言つた。「どうしても[#「「どうしても」は底本では「どうしても」]會わなければならないのなら、僕からも頼んで、會わしてもらうさ。ねえ佐々君、ハッキリ貴島の所がわかれば、そう出來ない事は無いだろう?」
「ええ、まあ、そりや――」
「だから……いや、それよりも、どうしてそんなに貴島の事――つまり、貴島が君に、全體、どんな事をしたの? それを話してくれないと、僕等にはわからないんだ」
 今度はすこし開き直つてそれを言つた。こんな小娘の相手からいつまでも引きずり※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)されていても仕方が無いという氣持が動いていた。すると、ルリは、急にピタリと默つてしまつた。こちらの語氣を察したせいか、目の前のコーヒー茶碗に目を落したまま、何か考えているふうで、いつまでも口を開かない。相變らず怒つたような顏だが、電車の中とはだいぶ樣子がちがつていて、底に急にショゲてしおれたような表情があつた。伏目になつたマブタの、すこし青味を帶びてフックリとした線が、情を含んで、何かの彫刻のようだ。その横顏を、さすがに佐々も笑いを引つこめて見ていた。
「……どうだろう、それはそれとして、いちおう、家に歸つたらどうかね? ……どうだい? そうしたまえな」
 それでもルリは顏を上げようともしない。よし、小松敏喬に電話をして、とにかく一度引き渡そうと言う氣になつた。佐々に眼くばせをしてから一人席を立ち、店の奧へ入つて行き、そこに居る顏見知りの女給に低い聲で近くに電話はないだろうかと聞くと、四五軒先きの食料品問屋を教えてくれた。私はカフエの裏口からソッと拔け出して、その問屋へ行き、頼んで電話を借りると、かねて手帳に控えて置いた小松敏喬の役所を呼び出しにかかつたが、なかなか、かからない。空襲のために殆んど全滅した電話が、やつといくらかずつ復舊しつつあつた時分で、どうにかした拍子で運が良いと直ぐに通じるが、通じないとなると、いくら待つても駄目なことが珍らしく無かつた。その日がそれで、何度ダイヤルを※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)しても、受話器の底でブーブーガアガア言うだけ。見かねてその店の店員が代つて呼び出そうとしてくれたが、遂に駄目。あきらめる他に無かつた。それで二三十分も費したろうか、カフエに歸つて行き、表口から入つて隅の方に眼をやると、ルリも佐々も居なくなつている。店の中央の植木のそばに來て立つていた女給が
「通じまして、電話?」
「いや、通じなかつた、ええと、連れは、どうしたろう?」
「あの、もうさつき、お歸りんなりましたけど」
「え? そんな筈は無いんだが。なんか、そいで、言つてなかつた?」
「男の方が、あの、急いで女の方を追いかけるようにして出て行きながら、いずれ、二三日中にお訪ねするからと言つてくれ。そうおつしやつて。……いえ、あなたが電話をかけにおでかけんなつた直ぐ後、二人で何か押し問答をなすつているようでした。そのうち、まるで口喧嘩みたいになつて、それからチョット、シーンとしたと思うと、ガタガタッと音がするもんですから、びつくりして私ここへ出てみると、驅け出して女の方が出て行く姿がガラス越しに見えましてね、それから、男の方が急いで私にそう言つてから、後を追つかけて飛び出して、見えなくなつたんです」
「そうか……」私は窓ガラス越しに、その方を見た。盛り場のマーケット裏の晝さがりの露路のゴタゴタした風景に、事も無く薄日がさしているだけだつた。
「……どうなすつたんですの?」
「いや」
「でも」と女給はなんと思つたか眼だけで笑つて「綺麗な人ですわねえ。どういう方?」
 受け答えをする氣も起きなかつた。思うにルリは、私が小松敏喬の方へ電話をかけに行つたのをそれと察して、逃げ出したのらしい。さしあたり、どうしようもありはしなかつた。わたしはスゴスゴと飮物の金を拂つて、家へ歸つた。

        16

「實にすばらしい肉體をしているんですよ。僕あ、たまげたなあ! タフでねえ、どんな恰好でも出來るんだ。アクロバット同然です。股の間から顏を出せと言えば、なんの苦も無く、スラリと出す。それでいてグニャグニャはしてません。ピシッとして、恐ろしくねばりのある筋肉を持つています。身體中の軟骨部が恐ろしく軟かで強いんですよ。唯單に、造形的な均整と言うだけから言つても、ほとんど理想に近いんです。千人に一人と言いたいが、日本人の間では一萬人に一人も居るか居ないか、あぶない。そう言うんですよ、Nが。Nと言うのは、繪描きになりそこなつて寫眞屋になつた男でインチキ野郎だけど、女の事はわかるんだ。ひでえ助平でね。殘念ながら、これだけの身體の女あ、平民の血筋にや、チョッと現われて來ないと言うんですねえ。シャクだけど、この代々の大ブルジョアだとか、古くから續いている貴族共が、世の中の美しい女を選り取りにして、子を生ませる。その子が又、美しい男や美しい女を選り取りにしてと言つたふうに――つまり一種の自然淘汰だなあ。それを永い間續けて來た血筋にや、かなわねえと言うんですね。實際、シャクだな。ロシヤだとかフランスの革命の時に、貴族の娘なんかを掴まえて、やつつけちやつたりしたのは、そう言つた事に對する復讐心が、たしかに有るんだな。僕だつて、ルリ君の裸を見た時に、たしかに、そんな風なものを感じたもん。そうだ、復讐心とは言えないけれど、つまりです、何代か前の僕の祖先の何人かの男たちが、自分たちの惚れた美しい女を、貴族やブルジョアに横取りされて來た、そのウラミ――その男たちのウラミみたいな氣持が、僕の中にムラムラッとね。コンチキショウ! と言う氣がしたなあ。Nの野郎なんぞ、初めてじやないのに、齒を食いしばつて、ヨダレを垂らしているんだ。それほど美しいんですよ。手も足も胴もスラリッとして、まるで、ギリシャ建築の白い圓柱のように、伸びているんです。その割に胴は短かくつて、何ともかんとも言えない丸味を持つているんだ。痩せているように見えるが、痩せてはいないんですよ。スーッと、うねつているんです」

 三四日たつて、私を訪ねて來た佐々兼武が、室に通つて坐つたかと思うと、例の人をいくらか嘲弄するような調子と人に取り入るような愛嬌のある調子とを突きまぜた話し方で、時々舌なめずりをしながら、ペラペラとやり出した。話しながら彼がポケットから出して見せてくれたキャビネ版の寫眞が、私の膝の前にあつた。全裸體の女が長椅子に横になつて、おかしな姿勢をしている寫眞で、一種の猥畫の類だが、女は一人だし、引きしまつた均整のとれた身體をしているために、それほど猥せつな感じはしない。よくあつた兵隊慰問用の寫眞を上等にしたような物だつた。女は横顏を見せているが、綿貫ルリとは似もつかない、知らない顏である。佐々は、それをルリの寫眞だと言うのだ。――

「顏だけは、ほかの女をモンタージュするんですよ。どう見てもそんな細工がしてあるようには見えないでしよう? そうなんですよ。うまいんだ。Nと言う野郎はインチキ野郎だけど、そういう技術だけは、東京で一二かも知れません。以前に僕の方の雜誌の寫眞部で三四囘この男を使つたことがあるんでね、知つてるんです。頭の禿げた四十過ぎの獨身の男です。氣は良いんです。氣の弱い、善人だな。この男は、このような寫眞を自分の道樂と金もうけの二道かけて作つては賣つているんですが、一方で――いや、裸體寫眞を寫すには身體の良いモデルが必要なので、そのモデル搜しのためもあつて、方々のレヴュ團やアチャラカ劇團なんかに出入りして、舞臺寫眞や女優の寫眞などを非常に安く、場合によつてタダで撮つてやつたりしていましてね、そんな事で、R劇團にも出入りしていてかなり前からルリには目を附けていたらしいんです。モデルになつてくれるように一二度頼んだような事も言つていました。物やさしいし、それにネバリ強いんですよ、女の子には工合が良いんだね。そこへちようどルリがR劇團を出たいという事をチョットしやべつたらしい。
「行く所が無ければ、いつでもいいから自分の所においでなさいと言われて、ツイ行つたんですね。下にも置かないように、もてなしたらしい。トタンに、どう説きつけたか、――Nに言わせると、自分は決して無理に頼んだわけじや無い、ルリさんはほとんど自分から望むようにしてモデルになつたんだと言いますがね、もつとも顏だけは自分であることがわからないようにしてくれなければイヤだという約束なんだそうです。――とにかく、原版一枚あたり百圓拂つていると言うんです。燒増しをするたんびに一枚あたり三十圓、これはルリが要求するそうです。「さすがにアプレゲールじやね。舊華族のお孃さんだと言つたつて、金の事となると、おれたちよりやチャッカリしとるんだぜと言つていました。それでも、良い身體だし、それに、注文通り、どんな恰好でもしてくれる、場合によつてはこちらで思いもかけないようなポーズを自分からしてくれると言うんで、これ以上のモデルは他に居ないんだそうです。どうも樣子が、こんなような、僕に見せてくれたような一人だけの裸體寫眞だけで無く、男と二人の本式の「人間寫眞」――Nはその手の寫眞のことを「人間寫眞」と言つているんですよ――も撮つているんじやないかと思います。もちろん、二人を組ませて寫すんではなく、男と女をそれぞれ別々にいろんなポーズをさせて寫しといてモンタージュするらしいんです。この方はルリには秘密らしいですがね。或いはこの方が本職じやないかなと思われるフシがあります。なにしろ非常に賣れるらしいんですよ。當分良い物が撮れると言うので、奴さんホクホクしていました。それに、自分が寫すだけで無く、終戰後ひどくふえたと言うシロウト寫眞家の「藝術寫眞」ですね、あれのモデルとして盜み寫しをさせて高い料金を取ることもしているらしい。結局はテイの良い「覗き」です。
「ルリの身體のすばらしさは、この寫眞だけでは、わかりません。そりや形の良さはこれでもわかるし、これだけでも大したものでしよう? そうでしよう? ヘヘそうなんですよ。先生だつて人間でしよう? 男でしよう? そんなら正直に感心して下さつてもいいじやありませんか。氣取つたつてはじまらんですよ。ね! 形だけでも、こんだけの物です。ところがホントの良さは、肌を見ないじや、わかりません。皮膚ですよ。色とキメとツヤと、それから何と言つたらいいかなあ、ネットリしたようなサラリとしたような、全體がツヤ消しになつているようでいて、薄く光つているんです。色は案外に眞白ではありません。小麥色――いや、小麥色ほど濃くは無い、つまりクリーム色に非常に薄くしたオークルを混ぜた、Nは「こんな色は上等のパステル繪具で出せるだけだ」と言つていました。ただし、パステルだと、粉つぽくなつてしまつて、あのシットリとして、光という光をすべて吸收して底の方に沈ましたようなツヤは出ないと言うのです。チエッ、どうも、うまく言えない。どだい、こいつを口の先で言おうとするのが、まちがつているんですよ。自分の目で見る以外にありません。Nの奴は、「まだ男を知らない肌だ」と言うんです。「バカ言うなよ」つて私が笑うと、「いや、まちがい無い。今迄こんだけこの道で苦勞して來た俺の眼に狂いは無い。いや、眼は或いは狂うことがあるかも知れんが、俺がカメラのファインダアから覗いた眼に絶對に狂いは無いよ」と言うんです。奴に言わせると、男でも女でも、たとえば昨夜セキジュアルな營みが有つたか無かつたかと言う所まで、ピタリとわかると言うんです。「俺は俺のファインダアから覗いた眼を疑う位なら、その前に太陽が東から昇ることを疑うよ」と言やあがる。處女か非處女かぐらいがわからなくつて、誰が永年苦勞しているんだ。わしは斯道の大家だとね。「實は俺も、こんだけ美事に成熟した女が、しかも今どき、あんなR劇團なんぞに居た女が、男を知らないなんて、實は俺自身が[#「俺自身が」は底本では「俺自信が」]信じきれなかつた。しかし、俺あファインダアから覗いた眼を信じないわけに行かない」奴さんによると、若い女が成熟し切つて、完全に花が開いて、蜜蜂の來るのを待つている時期にです、戀愛を、非常に強烈純粹な戀愛を感じる。しかも、何かの事情か、障碍があつて、その相手の男に相會うことが出來ないと言う期間――それもたいがい極く短かい期間だそうですがね――その期間に、稀れにこんなふうな皮膚になることがあると言うんです。なんだか、ロマンティックな、あやしげな話だと僕は思いますけどね。
「……え? どうしてそれを僕が見たか? Nが見せてくれたんですよ。彼奴がルリの寫眞を撮る時には、ルリだけを寫場に入れて一人で勝手なポーズをとらせながら、自分は寫場のわきの暗室みたいな所に居ましてね、その壁に覗き穴みたいな小窓が切つてある、そこにカメラのレンズを突つ込んで寫すんです。寫場に男が入つて來るのはイヤだつてルリが言うそうでね。その覗き穴のわきの隙間から僕あ見たんですよ。
「そうですよ、僕は共産主義者です。しかし人間だもんなあ。男ですからね。オスです。女を好くなあ、別に惡かあ無いじやありませんか。僕にとつちや、むしろ、それを否定しながら、一方でこの男女間のことを夢みたいに理想化して戀愛なんて言うものをむやみにありがたがつている連中こそヘンだと思いますよ。もちろん戀愛もけつこうです。そんな事もあるね。しかし世の中には戀愛以上のものが、いくらでも有るんだ。たかだか性慾の昇華した心理をそれほど貴重なものだと思う必要は無いですよ。ハハ、いいじやないですか、それで。……見たのは、あの次ぎの日です。
「あの日は、カフエであなたが電話をかけに出て行つた後、あの女は、しきりと貴島の所に連れて行つてくれと言つて聞かないのです。貴島の居る所を自分も知らないと、いくら言つても聞かない。第一、黒田の藥の一件や、それから、もう一つ、僕もよくは知りませんが東京の何とか言うギャングみたいな一黨と黒田の間が妙なことになつていて、それに貴島がいつちよう噛んでいる、そのためもあつて、つまりそのギャングどもから貴島の身がらを隱すために、黒田の方では貴島を横濱邊をアチコチ移動させてかくまつているらしいんですからね。假りに僕がそこを知つていても、そういう所へルリなんて若い娘を連れて行けやしません。しかもホントに僕あ知らないと來ているんです。………それがだんだんあの女にもわかつて來たらしく、しまいに、連れて行つてくれとは、言わなくなりました。しかし、なんとかして會わしてくれと、僕に頼むんです。じや貴島と連絡のとれ次第、知らせるから、あなたの所を教えろと言いますと、それをどうしても言いません。あなたの所、つまり三好先生の所へ知らせてくれれば、私が先生の所へ聞きに行くからと言います。自分の今居る所をどうしても人に知られたくないらしいのです。そんなふうな押問答をしているうちに、あの女が「先生、どこへいらしつたの?」と言い出した。僕は、タバコでも買いに行かれたんだろうなどと言つて、とにかく、あなたが戻つて來るまで押えているつもりでした。ところが間も無く、不意に、あなたが何のために外に出て行つたかを察したらしいのです、このままで居れば家に連れ戻されると思つたんですね「貴島さんのこと、三好先生のところへ知らせて下さること、どうぞお願いします」とていねいに頭を下げるので、こちらも「いいです、承知しました」と答えて、ユダンをしていたら、いきなりスッと立つて、パーッと表へ驅け出して行くじやありませんか。びつくりしました。とにかく、此處で逃がしてしまつては、あなたに惡いと思つて、直ぐに僕も追いかけて行つたんです。そいから、追かけゴッコです。いや、逃げ足の早いの早くないのと言つて! こういう事には馴れつこの僕も、あぶなくマカれるところでした。走る、横丁に飛び込む、かくれる、電車に乘る、乘つたかと思うと飛び降りて、バスに乘つている、それを降りたと思うと、同じ所をあちこちとグルグル※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)る、ひどい目に會いました。しかし、そんなに遠くへは行きません。SかYのあたりばかりです。ははあ、そんなに遠い所に住んでいるんじや無いと僕は思つたので、しまいに、見失つたふりをして、一町ぐらいの間を置いて、つけて行きました。當人はマキおえたと思つてすつかり安心したらしく今度は落着いて歩き出しました。案の條、Kの一劃で燒け殘つた小住宅街に入つて行き、一軒の家に消えました。間を置いて、その家の前に行つて見て、ビックリしました。前に社の仕事で二三度來た事のあるNのスタジオなんです。スタジオと言つてもケチなもので、外部からはわからず、見たところ、こわれかかつたような唯の西洋館です。勝手を知つていますから横露路から裏へまわつてノックすると、直ぐにその當のNが人の善いツラをニュッと出して、ヤアヤアと言います。社の用事で訪ねたと思つたらしいんです。それで僕は、極く簡單に、これこれの女の人が君んとこに居るねと訊ねると、「ああ、R劇團のルリ子つて子だろ? 居ますよ」とアッサリしたものなんです。一週間ばかり前から來ていると言うのです。「そう言つて來ましよう」と直ぐにも取次ぎそうなので「いや、いや、會わない方がいいんだ。チョッとした事件で調べてみたいだけだから、僕が來たことも默つていてほしい」「へえ、そうかね」と言つて、Nはかえつて變な顏をしているんです。「とても良い子ですよ。氣性はチョット變つているけど」……それで僕はルリについていろいろ聞きました。R劇團の事も聞いたんです。ザコネの事も言つて笑つていました。
「なあに、あの子は、とてもそんな所には居れないと言いますけどね。實は大した事じや無いんですね。フダンにしたつて、そのザコネをするんだつて、わしはよく知つているけど、そんなにビンランした眞似は誰もしやあしません。今どき、いくら輕演劇團の中だつて、そんなアコギな、總當り制みたいな事がある道理が無いんだ。いやいや、そんな事があれば、わしなんざあ、かえつておもしろいと思うけどね、むしろ無さ過ぎるんで、つまらんでさ。ヘヘヘ! いや、案外に、ああいう所はキチンとしたものなんだ。エロエロばつかり搜して歩いているわしが言うんだから、まちがい無しですよ。だのに、それ位の事でルリが、とてもそんな所に居れないと言う。これ又、ルリにとつては正直ホントウでね。フフ! それはね、あの子の育ちのセイもあります。とにかく、たいへんな家庭で育てられたらしい。舊華族のカチカチなんだなあ。そういう所でギッチリと取りこめられて十八九まで來た。自分では、まるで氣が附かないで、身體だけは立派な一人前の女になつていた。それが、終戰後、いつぺんに解放されたんだ。風船玉が破裂したようなもんだな。生活もある。キリキリ舞いをして下界におつこつた。そいで當人は、そんな自分のことはチットも氣が附いていない。あたりまえだと思つている。落ち着いたもんです。つまり、一人前の女としては完全以上に成熟していながら、自分ではそれをすこしも知らず、性的にはまるつきり無知なんですよ。自分の内に虎を飼いながら、それを知らずにいるんだ。それが、いきなり、R劇團のような所に入つた。エロを賣り物にしているような劇團です。劇團員たちの生活も普通の常識から言やあ、とにかくアケッピロゲたようなもんでね。そういう劇團に永く居る者にとつちや、それが馴れつこになつていて、それがエロでもなんでも無くなつている。それがあたりまえなんだ。ところが、ルリ君には、こいつが、ひどく效いちやつた。出しぬけに蜂の巣に叩きこまれたような工合。カーッと虎が目をさまして、あばれ出したらしいんですよ。しかも困まつたことに、今言つた無知のために、當人、何事が起きたか、まるでわからない。ただ、キリキリ舞いをしているうちに、そいつが、妙な風にこんぐらかつたね。一種の、まあ、性的な閉塞症と言うか、恐迫觀念と言うか、性的なことを恐ろしく嫌つて、憎むようになつてしまつたんだ。實は、それは、性的なことを好いていて、そいつを待ち望んでいるのだが、自分でも知らん間にひん曲つてしまつて閉塞した状態なんだけどね。世間には間々あることで、實はそれほど珍らしい例じや無い。とにかく、男から手足にさわられたりするのを恐ろしく嫌がるようになつた。樂屋でも、時によると舞臺に出ていても、男優から裸の肩などにさわられると、いきなりキャーッと悲鳴をあげるし、樂屋便所の節穴などを自分の手でセッセとふさぐなんて事をするし、それでも時々、誰か覗いたと言つては眞青になつて便所から飛び出して來る。すべてがそうなんですよ。しまいに、みんな、奴は氣がすこし變だと言う事になつた。事實、こんな奴がどうにかした拍子に變になることがあるんだ。そうなると、面白いことに、これがガラリとあべこべに色氣ちがいになるんですよ。……まあ、そんなふうでとにかく、やつているうちに、ザコネと來た。で、がまん出來なくなつた。そこへ何か、起きたらしい。どつかの男から何かされたらしいんですよ。………もう死んだ方がましだなんて、口走つていましたよ。いや、わしは時々R劇團へ仕事かたがた顏出しをするもんだから顏見知りでね、ルリ君を一二度此處へ招待して御馳走したことがあつたりするもんで、思い出して、相談するために訪ねて來たんですね。いやあ、實は、あの身體にや、わしあ惚れ込んでいるんでね、それに商賣にもなるし、わしにして見れば小鳥が飛び込んで來たようなもんで、願つたりかなつたりだからね、ヘヘヘ! 下にも置かないようにして歡待していますよ。當人も喜こんでいるようだ。と言うのは、男から觸られさえしなければ、裸かになつて舞臺に立つて人に見られたり、それから寫眞を撮られたり、するのは、嫌いでは無いらしいんだ。それが、つまりコグラカッちまつた人間の特色でねえ、今言つた閉塞症みたいになるかと思うと、今度は出しぬけに、露出症にもなるんです。そこいら邊が、この道の面白いところだね。ヘヘ! いや、その、どつかの男から何かされたと言うのが、どんな事されたか、ルリ君言わんのです。いずれ、大した事じや無いと思うけど、しかし、もしかすると、この、なんだ。――もしそうだとすると今言う通り、あの肌はどうなる? ありや、オボコ娘の肌だ。わしの眼にや、そうとしきや寫らん。だから、わしの眼は節穴と言うことになるわけだ。しかたが無え。なんしろ世界は廣い。千人に一人、萬人に一人と言う肌だ、女になつても處女と同じだつていう事も、あるかも知れん。なんしろ、ルリ君がその男を憎んでいるのが一通りや二通りでは無いからね。よつぽどひどい目に逢わされたんだと思わなきやならない。やつぱし、ヘヘ、花は散つたですかね。しよう無え。ヘヘ、――
 ――と言うんです。どうです? それで僕が、ルリの寫眞を撮る所を見せてくれと言いますと、イヤだと言います。それで僕はちよつとシブイ事を並べました。馴れているからワケありません。スッパ拔くとか何とか言つておどかしたんだろう、ですつて? なに、おどかすつて程のことはしません。アッサリしたもんです。そいで、奴さんシブシブ承知して、今日は駄目だから明日來いと言うんです。そいで、その次ぎの日に行つて、その覗き穴から見せてもらつたわけです。
「スタジオの中は天井一杯のガラス板からの光線で明るくなつています。こちらの室は暗い。ルリとNの間には、大體時間の打合せがしてあるらしく、Nがカメラの準備をして、こつちの穴からファインダアを睨んでいるんです。僕は、そのカメラ穴の僅かな隙間から覗くんだ。僕が覗いていることなど、ルリはもちろん夢にも知りません。カメラが向けられている事は知つている筈ですけど、見たところ、それもほとんど意識していないような樣子でした。はじめ向うむきに椅子にかけていたのが、靜かな動作でカスリの上衣をパラリと脱ぎます。肩と背中がむき出しになりました。と思つたトタンに、スラリと立ちながら、こつちを向く。ハカマが自然に下に落ちて、例の肌をした胸、乳房、腹、腰――ユラリと股が動いて、それが殆んど鼻の先に有るような感じですからね。アッと僕は聲を立てそうになりました。……眼の正月と言うのは、あの事だなあ。それからルリは、いろんなポーズをして見せるんです。ユックリユックリと手足や胴をくねらして踊るシャムの踊りを僕は一度見たことがありますけど、あの踊りをもつとユックリとスローモーションにしたような動作です。その動作そのものが次ぎ次ぎと、まるで魔力を持つているように、こつちの身體をしびれさせて來るようです。ルリ自身もウットリとなつています。一人でいながら、まるで目の前に相手が居るように、そして、その想像上の相手にからみ付いたり、離れてじらしたり、近寄つて抱きついたりするんです。相手は男らしい………Nは眼を据え緊張しきつて、パチパチとシャッタアを切つています。氣が付くと僕も手を握りしめ、むやみとノドが乾いていました。
「……ヒョッと僕は、貴島のことを思い浮べたんです、その時、そして、ああそうだと思いました。なぜだか、わかりません。あの前日、カフエで押し問答をしている時に、貴島の住所を問い詰めて來たルリの表情の中にあつた、僕には何の事やらわからない烈しいものが僕の頭に燒き附いていたためかもわかりません。貴島てえ奴の、おかしな性質のためかも知れません。貴島は憐れな奴です。赤ん坊みたいに憐れで、とても見ちやおれんです。それでいて、女たらしです。まあ色魔ですね。いろんな女を引つかけて歩くんですよ。いや、女の方から引つかかつて來るんだ。僕の知つているだけでも貴島を取り卷いている女が四五人はおります。あなたも、こないだ逢つたでしよう、あの染子などと言う女も、その一人ですよ。貴島の奴が、女にどんな事をするのか、わかりません。いずれ大した事はしないにちがい無い。だのにゾロゾロと女との關係が絶えないんだ。ルリに對してだつて、貴島がどんな事をしたのか、サッパリわかりやしません。なんにもしなかつたかも知れないし、又はNが言うように、花が散つたかも知れません。そんな事はどうでもいいんですよ。どつちだつて大した事ぢや無いんですからね。ただ、そうしてルリの裸かのいろんなポーズを見ながら、貴島のことをフッと思い出したトタンに、キラリとまるで電氣のように僕にわかつた事があります。
「それは、ルリが貴島を戀しているんじやないかという事です。そうです、あの女は貴島を憎んでいます、それは事實のようです。それでも、貴島を戀しているんじやないですかねえ。そう思つたんですよ僕は」

        17

 佐々兼武は、自分一人でベラベラとしやべりたて、言うだけ言つてしまうと、たちまち、やつて來た時と同じ唐突さで、歸つてしまつた。
 まるで音を立てて運轉している機械のように早く、鋭どく、そして傍若無人である。忙しいのも忙しいらしい。黨員としての働きもグングンやつているようだし、バクロ雜誌の編集者としても能率をあげているらしい。同時に女と遊んだり酒を呑んだりダンスをしたり――生活を樂しむ、とだけでは足りない。樂しむとか味わおうとか云う考えが起きてくる隙が無い位の急ピッチで毎日を生きている。たとえば、黨の地域鬪爭の重大問題を論じ立てる時の熱心さと同じ熱心さで猥談をしている。そうしてニタニタ笑つているかと思うと、次ぎの瞬間には、税務署の役人の中にどんなにたくさんの汚職官吏がいるか、引揚者寮の住人たちが如何に窮迫した生活をしているか等について、現に自分が調べて來た實例を口からアワを飛ばしながら語つて、憤怒のために飛び出しそうになつた兩眼に涙を浮べる。どれがマジメで、どれが不マジメだなどと言う區別はない。戰爭のために全く空白になつていた生活――青年が自分の生活を充たし得る一切の事がらのピンからキリまでのことを、大急ぎで同時的に詰め込んでいると言つた調子である。現實に向つてただビンビンと身體をぶち當てて行くだけで、人の意見などを落着いて聞いている氣持の餘裕はない。第一、その暇が無いようだ。以前から共産主義に熱心な青年の中には、同じ陣營の先輩たちを除いて、人生や社會について自分たちとは別の考え方をする年長者を、何の理由も無いのに最初から全く信頼しない習慣を持つた者が多いが、そういう所が佐々にも有る。しかし、彼の場合は、それだけではない。共産主義者であるからと言うより、もつと深い、つまり共産主義などには關係の無い、前時代者に對する不信があるらしい。「お前さんたちに話したつて、何がわかるものか!」と言つたような輕蔑だ。そして、その輕蔑を、かくそうとしない。それほど強く輕蔑しているとも言えるし、單純だから、かくそうと思つても、かくし得ないとも見られる。
 長々と綿貫ルリのことを語る佐々の調子には、私に對する不信と輕蔑がこめられていた。語り終るや、それについての私の意見や感想など聞こうともしないで歸つてしまつたのも、それだ。「深刻ヅラして坐つていたつて、オツサンにやホントの事はわからんよ。話だけは聞かせてやるがね」と言われたような感じだ。
 そこには、男らしくピリリと冷酷な快感のようなものが有る。ベタベタと尊敬されたり信頼されたりするよりも快よい。それに無理も無いとも思うのだ。あの若さで、戰爭の中をくぐつて來なければならなかつた。ほかにどうなりようがあろう? 戰爭に依る文化教養の空白だとか虚脱だとか言い立てて、とがめる事は出來よう。いくらとがめられても、しかし、青年たちにとつて、ほかに、どうなりようがあつただろうか? 青年は、いつでも善かれ惡しかれ青年らしく輕々と生きる。そのために時代と時代との間に陷沒が起きても、それがそうでなければならぬ事ならば、それでよいではないか。誰にその陷沒が埋められるだろう。もし埋め得るものならば、それは、倫理學者や文化主義者たちの努力などでは無くて、青年自身が生命を燃やして生きることで、埋めて行くだろう。……
「そうだそうだ、君たちは、俺なんぞを輕蔑しろ。それでよいのだ。それ位でなければダメだ。しつかりやれ」正直、佐々に對して私はそんな氣がしたのである。

 しかし、話の内容には、チョット困つた。
 佐々兼武は、話を面白がり過ぎて、誇張している。多少は嘘も交ぜているようだ。しかし大體は嘘では無いらしい。ルリが自分の美しい肉體をさらして裸體寫眞のモデルを始めている。……家を飛び出し、R劇團をやめたとなれば、すぐに生活の事があろうから、金を稼ぐためもあろう。いくら困つても、親戚知友をたよつて行く女では無い。それ位のことはするだろう。
 だが、それにしてもすこし度が過ぎる。いつたん、そこまで行つてしまえば、もつと極端な所まで落ちこむのは、紙一枚だ。いや既に現在、佐々は裸體モデルになつている所だけを見て來て、それだけだと思いこんでいるのだが、他にどんな事をしているか知れたものでは無い。佐々の話の中のNなどと言つた、永年そのような世界でそのような事をしている男は、別に差し當りの惡氣は無くても、世間を知らない若い女の一人や二人、どんな所までも追い込んで行ける。そういう消息は、佐々などより私の方がよく知つている。若い眼はどんなに鋭くても一面しか見ない。物事の裏の裏の、きたないドブドロまで見る事は無いのだ。
 問題はルリの、あの氣性だ。それは強い。しかしあんなふうの強さほど、弱いものは無いとも言える。強さが一方の方へグッと傾いている時に、その傾きかたが激しければ激しいほど、後ろからヒョイと押されただけでも、ガラガラとすべり落ちて行く穴の深さだ。當人が自分の意志で前へ進んでいるのだと思つているだけに、轉落は加速度を増すのだ。
 ハラハラして私は佐々の話を聞いた。にわかに自分の考えを述べたりすることが出來なかつたのも、そのためである。それから二三日の間、それが絶えず頭に來た。義兄の小松敏喬の方へ知らせてやつて、一應、家へ引戻すなり何なりさせ、自分の引受けている責任のようなものも、のがれようとも思つた。しかし、あのルリが、誰から何と言われようと、おとなしく家へ戻るとは、考えられない。この間會つた時の調子では、ヘタに引き戻そうとしたりすれば、更に遠い所へ逃げ走つてしまう可能性がある。すると、その事を充分に言い添えた上で、小松家の人に話して、ルリに對してすこしも手出しをしないで、ただ彼女が無事で東京に住んでいることを知るだけで滿足しているように言うべきであろうか。だが、小松敏喬はじめ、話を通して想像される小松家の人々が、それだけで滿足しておれる人たちでは無いように思われる。すると、事態をこれ以上惡化させないためには、小松家の人々には氣の毒だが、ルリの事を知らさずに、このままソッとして置くほかに無い。とにかく、ルリが今どんな事を考え、どんな事をやつていようと、すくなくとも、所在だけはハッキリしているのだ。
 だが、それで、よいだろうか?……いろいろに考えた。いずれにせよ、私自身、近いうちにそのNのスタジオを訪ねて、蔭ながらでもルリの所在をたしかめて來よう。と考えながら、佐々の話の中のルリが、その白い身體をひろげたり、伸ばしたり、くねらしたりして、ユックリと動いている姿が、私の眼の前に浮びあがつて來た。それを現實に見たいのだ。責任とか何とか殊勝らしい事を自分自身に言い聞かせながら――いや、たしかに、それも多少あることも事實だが、ホントは自分も見たくて、どこかウズウズしている。たしかに、私も「動物のオスの一匹」だ。ニタニタと佐々兼武の笑う顏がのぞいた。
 そんな具合でなんとも決しかね、一方自身の仕事に追われているうちに數日が過ぎた。その間、この事件について何事も起きず、そのうち、貴島自身がでなければ又佐々でも現われれば、事はひとりでにハッキリしようと待つ氣持が有つた。そこへ、三四日して、人は來ずに、貴島から分厚な封書の速達が來た。急いで書いたものらしく字は亂暴だが、以前小説やシナリオを書いていたと言うだけに、書き方は相當馴れている。ペンで書いた部分や鉛筆で書いた部分が、入れまじつていた。
 次ぎに、それを寫してみよう。

        18

「――」
 先日は失禮いたしました。
 あの晩、横濱の用事をすませて、すぐ荻窪へもどり、お目にかかれる豫定でいましたが、どうしても東京へ歸れなくなり、あなたをスッポカした結果になつてしまいました。申しわけありません。
 僕があの晩東京へ歸れなくなつたわけは、佐々からお聞きくださつたと思います。同じ理由がまだ續いているため、まだ、こちらにおります。當分東京には歸れないと思います。實はこれは、あの晩荻窪で、聞いていただくつもりでした。しかし、當分お目にかかれそうに無いので、その代りに、こうして書いてみようと思つたのです。あるいは、口でしやべるよりは、書いた方がよくわかつていただけるかも知れないと言う氣もするのです。僕はひどいどもりなんです。でも、人は僕がドモルのを知りません。普通のドモリとはすこし違つて、口を開いて何か言い出す前に、おなかの中でドモるのです。頭の中がワーンと鳴つてしまつて、最初言おうと思つたことが頭の中一杯に反射してしまつて、まるでアベコベな考えが出て來たり、又それを打ち消したり、等々、そしてついに何も言えなくなりだまつてしまう事が多いのです。事務的な事がらなら、割にスラスラ言えます。また、いつたん物を言いはじめてしまえば、その先きは表面の言葉の上ではドモりません。頭の中がドモるのです。これは小さい時からですが、戰爭中に一時それが完全に治つたのですが、戰爭後になつたら、前よりもひどくなりました。自分の思うことの四分の一も口では言えないのです。馴れていますから、別に苦しくはありませんが、人に對して惡いなと思うことがよくあります。
 文章に書いても完全には表現できませんけれど、でも、口で話すよりは、すこしましです。
 今、ヘンな所にたつた一人で居りまして、誰からも邪魔されません。危險があるので、外へ出て行けないので。いえ、別に大した事ではありません。僕自身は、なんにも危險なんか感じていないのです。ただ、周圍の人たちがそう言うのです。強いてそれを押し切つて外に出て行く用事も別に有りませんから、ボンヤリして此處に坐つているのです。しめ切つた窓の外をハシケの汽笛の音が、時々通り過ぎて行きます。ネバネバしたような匂いが板壁のすき間から這い込んで來ます。これはアヘンの燒ける匂いです。しばらく前まで、この匂いがして來ると僕は頭がクラクラしましたが、今は、好きになりました。これを嗅いでいると今までスッカリ忘れていた自分の小さい時分の事などを、ヒョイヒョイと思い出すことがあるのです。とにかく、ヒマでしようが無い位に時間があります。一つには、そのタイクツを埋めるために、こんなものを書くのです。よつぽどお暇の時に、極く輕い氣持で讀んでください。

 でも僕は、あなたに何を語ろうとしているのでしよう? それから、なぜ、あなたに對して僕は語らなければならないのでしよう?
 理由が無いことはありません。Mさんの事をもつとくわしく知りたいと言うことです。そしてMさんの友達や知つていられた人達のことを、なるべくたくさん僕は知りたいのです。その譯は、あとで聞いていただきます。とにかく僕には、その必要があるのです。Mさんの友人の方々の中で、Mさんと一番深い所でつながつていた友人の一人が、あなたなんです。その事は生前のMさんが幾度か僕に話されたので、僕は知つているのです。Mさんは、時によつてあなたの事をケナされました。「あの男は馬鹿だ」と言つて、ペッとツバキを吐き出された事だつてあります。又、時によると、あなたを世の中で一番正直で立派な人間のように語られる事もありました。かと思うと、あなたほどエタイの知れない、冷酷な、憎むべき動物は居ないと言つて、憎み切つているように語られました。そして、そんなふうに、いろいろにあなたを語られるあらゆる場合に――憎々しい口調で語られる場合にもです、Mさんが腹の底から信じていられることがわかりました。まるで、戀人のことを語るようにMさんはあなたに就て語られましたのです。
 その事を、僕は一度Mさんに言つてやつたことがあります。するとMさんは怒り出して
「君なんぞに何がわかるか。あんな奴を、俺が好いてたまるか! あれは惡魔みたいな野郎だ」と言つて、僕の額をゲンコツでゴツンとこずかれました。醉つてもいられましたが、惡魔だと言われるのです。そのあなたを、やつぱり、戀人のように大事に思つていられるのです。その二つが、その時分の僕には、何のことやら、よくわかりませんでした。だからMさんが醉つてデタラメを言つていられるのだと思つていました。それがデタラメでは無かつたのだ。兩方ともホントだと言う事が、ちかごろになつて僕にすこしわかつて來たのです。僕は急にあなたに會つてみたくなつたのです。そして先日訪ねて行つたわけなんです。
 どうも、うまく書けません。頭が惡くなつて、ペンの先がチラチラして、順序がうまく立たないのです。
 僕はあなたを、好きになつたらしいのです。好きになつたなんて、失禮な言いようである事は僕も知つていますが、ほかに言いようがチョット無いものですから。
 先日あなたにお目にかかるまで、あなたの事を僕は好きでも嫌いでもありませんでした。そして、お目にかかつて、僕があなたの前で泣いた時に、あなたは一言も言われず、ただ怒つたような顏をして、だまつていられました。僕に同情したり、僕を慰さめてくださつたりは、なんにもなさらなかつた。僕は實にホッとしました。そのためか、僕は、あの數十分間、ホントに、久しぶりに、シンから泣けました。もうどんな事をしても救われる見こみの無い、暗い暗い穴の中で泣きました。あなたは一言も、僕を慰さめたり同情したり勵ましたりするような事は言われませんでした。そういう顏つきもなさらなかつた。ただ、怒つた眼をして、僕を睨みつけていられたのです。
 それで僕はあなたが好きになつたのです。「好き」と言うのは、たしかに、當りません、あなたには冷たい所があります。きびし過ぎるところがあります。人を突き放すところがあります。すがり附いて行くと、叩きつぶされるような所があります。ですから、メソメソしたような氣持で好きになつたりは、できない人です。すくなくとも僕には、そんな風な人にあなたは思えます。ですから僕には、あなたが良いのです。そうです、あなたが良いのです。ピッタリするのです。好きと言うよりも、良いと言う方が近いです。
 ですから、僕はあなたからMさんの事について教えていただきたい事があるだけで無く、この僕の事をわかつていただきたい氣がするのです。そうです、こんな手紙を書く僕の氣持は主にそのためです。

 又居る場所を變えました。前に居た室から四五町しか離れていない、ゴタゴタしたマアケット街の奧の、電車のガードの下の家です。食べる物やタバコは、黒田の家の者が一日に二度はこんでくれるので不自由はしません。
 今度の室は、中華料理のヘットの匂いがします。そのため時々頭痛がして、食慾がまるで起きません。――
 前の續きを書きます。と言つても、前にどんな事を書いたか、忘れた所もありますが、讀み返して見る氣になりませんので、かまわず、アレコレと書きます。
 この前、東京のRの事務所でお目にかかつた時に氣附いたのですが、それまで僕は僕のことをMさんが生前にあなたに對して話しておいて下さつたものだとばかり思つていたのが、實はMさんは、なんにも僕の事をあなたに話されたことが無いと言うことです。それに氣附きました。いかにもMさんらしいと、おかしくなります。ですから、僕がイキナリ訪ねて行つたりして、あなたはサゾびつくりなすつたでしよう。サゾ、きちがいじみた奴が現われたと思われたでしよう。すまないと思います。僕は實は甚だ平々凡々の人間なのです。その點おかしくてなりません。
 それで僕は自分の自己紹介をします。僕がどんな人間であるか、僕のこれまでのケイレキみたいなものを、ごく簡單に述べます。それには先ず、どうしても僕の父親の事を書かなくてはなりません。父が無くては僕という人間は生れて來ていないのですから。いえ、それは生物學的に親が子を生んだと言う事だけではありません。父という者が居て、僕を育て上げてくれなかつたとしたら、僕という人間はこんなような人間にはなつていなかつたろうと言う意味なんです。誤解しないで下さい。僕は現在の自分を三文の價値もない人間だと思つています。ホントです。蟲ケラみたいに、生きているから生きているだけです。しかし、僕は僕をこんなふうに育て上げてくれた父を尊敬しています。なつかしいと思います。
 たしかにムジュンしています。それは知つています。でも、そうなんです。それで父の事から書きます。
 しかし、その前に、チョット、綿貫ルリさんの事を書いて置きます。この前佐々が此處に來た時に、あなたが、しきりと「貴島君はルリに一體どんな事をしたんだろう?」と氣になすつていたと言いました。それなのです。あの晩のことをチョット話して置く必要があると思うのです。

        19

「と言つても、實に簡單な話なんです。あの日、あなたの所でルリさんに初めて會つた時は、ただ勇敢な女の人だと思つただけで、特別な氣持は起きませんでした。普通の若い娘としては、かなり變つた所がありますが、しかし、變つた女なら、ほかに僕はいくらでも知つているのです。ですから、かくべつ、親しくなりたいなどとは思わず、あなたがたの會話を傍聽していました。
 僕が不意にあの人に引きつけられるような心持になつたのは、あなたが食事をしに中座されてからです。と言つても、あの人と僕との間に特別の話が出たりしたわけではありません。それまでの話題であつたR劇團のことなどを話しただけです。あの人はR劇團の男の連中のダラシなさの事を手を振つたりして話しながら、僕の方にだんだん寄つて來るのです。夢中になつて、横の方から僕の肩を押すようにして身體を寄せて來ました。見ると小鼻や口のわきに細かい汗のブツブツを浮かせています。
 僕は壓倒されるような氣がしました。なにか、いじめられているような氣がしました。すこし息苦しくセツないような感じでした。後から思うと、その時に、僕はルリさんに、引きつけられてしまつたらしいのです。しかしその時にはあの人からいじめられているよう氣がしたのです。僕は、小學校の二年か三年の時分、遠い親戚の節ちやんという、僕と同じ年の美しい女の子から、誰も居ない應接室のソファの所でおさえつけられて泣いたことがありますが――僕はそのころ弱蟲の少年で、節ちやんと言うのは、僕より力の強い、オキャンな子でした。――その時の事を僕は思い出しました。
 そのうちにルリさんは僕の困つているのに氣がついて、自分でもビックリしたようで、暫く默つて僕を見詰めていましたが、やがて笑い出しました。僕も笑いました。それから間も無く、あなたが戻つて來たのです。
 あとの事は、あなたも御存知の通りです。そしてルリさんも僕も歸ることになり、あなたからルリさんを送つて行つてあげたらと言われ、僕は、うれしい氣持がしました。同時に一方で、こいつは困つたと思いました。一度に兩方の氣持がしました。そしてドキドキしました。それはルリさんをホントに好きになつてしまいそうだと思つたためです。それは僕には困るのです。いや、そうではありません、僕は女の人をホントに好きになる事の出來ない男なんです。好きになつてはいけない人間なんです。いや、ですから、ルリさんを好きになる筈は無いのだ。だから――僕は何を書いているのか、自分でもわかりません。その時も自分で自分の氣持がわかりませんでした。わからないままで、うれしい氣がして、そして、困つたなと感じたのが事實です。
 でも、しかたが無いので――いや、しかたが無いなどと言うのは嘘で、心の中では浮き浮きしながら、僕はあの人を送つて行きました。途中、かくべつ、まとまつた話はしません。ルリさんの方は、いろんな罪の無い事を次ぎ次ぎと話しかけますが、僕はあまり口はききませんでした。
 高圓寺の驛を出て歩き出すと、ルリさんは腕を組んでくれと言いました。僕がためらつていますと「暗いから、キビが惡い!」と言つて、僕のわきの下へ自分の右腕を[#「右腕を」は底本では「右腕へ」]突つこんで來ました。そうして十分以上歩き、僕はすこし息苦しくなつたので、早く一人になりたい氣がして、
「お家は、まだ遠いんですか?」ときくと、
「いえ、もう直ぐ。そら、灯が見えるわ。あれよ!」と言つて、あいている方の手で、まつくらな燒跡の向うにポツンポツンとついている燈火を指しました。「もう此處まで來れば、歸つてくだすつてもよろしいわ。ありがとう存じました」
 その時僕はギクンとしたのです。此處でこのままこの人と別れる。別れれば、もうこれつきりで永久にこの人とは別れることになる。そういう氣がした事も事實です。しかしそれだけではありません。どう言えばよいか――そこで、その燒跡で一人になつてしまうことが、僕には、耐えきれなかつた。寂しいのです。口では言えない位、ジーンと寂しいのです。胸がしめつけられるようになつていました。
 僕がいつまでも返事をせず、動きもしないで突つ立つているのでルリさん變に思つたのか、腕を組んだまま、身體をクルリとひねつて僕の顏を覗きこむようにしました。その動作のため、すこし汗ばんでいるようなルリさんの匂いが、ワンピースの中を這い昇つて、フワッと僕の顏に來ました。トタンに、僕の頭がクラッとしました。
 そのあと、なにごとが起きたのか、僕はほとんど憶えていないのです。憶えているのは、僕が無意識にルリさんの身體をうしろから片手で抱えこむようにしたことです。それから、自分の顏をルリさんの首筋のうしろに持つて行つたことです。ワンピースの襟を引きさげるような事もしたようにおぼえています。すこしはだかつたルリさんの背中に顏が觸れました。その背中が、思いがけなくヒヤリと冷たかつた。それだけです。僕はそれだけをするにも、決して亂暴な荒々しい事をしたおばえはありません。スルスルスルと、ほとんど力をこめないで、してしまつたのです。ルリさんは、はじめ、「あつ!」と口の中で叫んだようでしたが、あとは石のように默つてしまつて、僕のするままに委せていました。むしろ、なんだかルリさんの方でそうされるのを迎えているような調子がありました。だつて、僕はそうしながらも、いや今になつて思い出して見ても、自分が進んでそんな事をしたと言うよりも、ルリさんからそうさせられたような感じでした。自分を辯解するために嘘を言つているのでは無いのです。嘘ならもつと僕は上手につきます。嘘をつく氣なら、初めからこんな事は話しません。
 氣が附くと、ルリさんの身體が、僕に抱えられたままで不意にグタッとなりました。
「いけない!」と僕は思いました。
 急に頭がハッキリして、ルリさんの身體を離しました。ルリさんはすると、グルリと此方を向いて、僕を見つめました。睨んでいるような大きな眼でした。暗い中でそれがハッキリ見えました。からだをガタガタふるわしているようです。僕は恥かしくなりました。自分が小さく小さくなつて行くような氣がしました。そのへんに穴でもあつたら飛びこんでしまいたくなりました。
「すみません!」
 僕は口の中で言つたのです。すると、ルリさんが僕を睨みつけながら、喰いしばつた齒の間から、
「き、き、き!」と言いました。貴島と僕の名を言うつもりなのか、昂奮し怒つたあまりの齒がみの音なのか、わかりませんでした。僕は彼女の眼にいすくめられて頭を垂れました。暫く時間がたちました。
「なぜ、なぜ、こんな事を――貴島さん! 貴島さん!」
 そう言いました。怒りに燃えた、刺すような聲です。そう言いながら、彼女は、自分の胸のVの所に右手をかけると、ベリリと言わせてワンピースの布を下へ向つて引き裂きました。ベリベリと、肩のへんも、むしり取るのです。兩眼は僕の方へ据えたきりです。あの人の白い胸と肩が闇の中に光つています。
 僕は耐え切れなくなりました。「すみません」ともう一度言い、頭を下げて、逃げ出しました。うしろから、あの人が叫ぶような聲がきこえましたが、何を言つているのかは、わかりませんでした。

 それだけです。僕のした事は、それだけなんです。いえ、それだけでも非常識な無禮な事なんですから、僕はすまないと思つています。どんなにでも、詫びたいと思います。しかし、正直な氣持を言いますと、僕が亂暴を働らいたような氣が、ほとんど、しないのです。かと言つて、ルリさんにさされたと言うのは、やつぱりウソです。いけないのは僕の方です。しかし、どうしてルリさんは、ワンピースを破いたりしたのでしようか? 又、どうして、僕のしかけた事に對して言葉なり動作で拒絶してくれなかつたのでしようか? そのへんが僕にわからないのです。
 どつちにしろ、惡いのは僕です。それにルリさんの家出が、その事に關係があるとすれば、僕はホントにすまないと思います。それに僕はあの人が嫌いではありません。こんな事のあつた後では、すこしルリさんが怖いのは怖いのですが、決して嫌いでは無いのです。ルリさんの身の上に惡い事が起きないようにと祈ります。

        20

 次ぎに父の事を書きます。
 これは、非常に簡單です。
 父は去年死にました。八月の終戰の日から、ちようど一カ月目の、九月十五日に、セップクしたのです。
 そのころ、まだ僕は現地に居りました。父と僕とは親一人子一人の二人きりの肉親で、僕が出征した後父は小さな女中を使つて暮していたのですが、東京空襲がはげしくなると、その栃木の山奧から來た女中は「こわい」と言つて泣くので、栃木の方へ歸してしまい、父は青山で一人きりで自炊生活をしていたそうです。終戰から一カ月もたつてから自決したのは、その一カ月の間に、身邊を整理するためだつたらしいのです。あるいは、萬一僕が生き殘つていれば、僕に一目會えるかもしれないと言うような、かすかな望みを持つていたのかもしれないとも思います。しかし、この想像は、僕のダラクした想像に過ぎません。父は僕を出征させる時に、「決して生きて歸るな」と言い、そして、腹の底から、生きて再び會えることは無いことを信じ切つていたようでしたから。
 遺書はありませんでした。遺産もほとんどありません。住んでいる家は借家でした。
「貴島さんの小父さんの姿をちかごろ見かけない」と言つて、隣の人が、なんの氣も無く、家に入つて行くと、どこもかしこもガランと整理してあつて、臺所の板敷に――疊などをよごしては迷惑をかけると思つたらしいのです。そのへんも、たしかに父です。――短刀で腹と頸を突いて、コロリと横になつていたそうです。
 父は近所の人たちからも「貴島の小父さん、貴島の小父さん」と親しまれ、ごく柔和な老人でした。これが元、陸軍少將であつたと言つても誰も信じる人は無かつただろうと思います。
 しかし父は、實に立派な軍人でした。軍人と言うよりも武人とでも言つた方が當つています。
「軍人は、國が、他から侵されて危くなつた時に、國を守り防ぐ任務を持つたものだ。そのために國民の間から選まれた者である。だから軍人は、たえず武力を磨いていなければならん。しかしその武力を發揮してはならぬ。軍人が武力を發揮したら、この國は亡びる。軍人や軍事力は、拔かない刀だ。いつたん拔いたら人も斬るが、同時に自分も死ななければならんものだ。だから、最後まで拔いてはならん。拔く時は死ぬ時だ」
 いつもそう言つていました。以前、軍備縮少に賛成して――と言うよりも、積極的にスイ進する運動をして、軍人仲間から迫害されたこともあつたらしいのです。若い頃、大使館附の武官として、六七年も外國に行つて來たことなども、父の考えに強い影響を與えたらしいのです。
 と言つても父は、變に文化カブレのしたハイカラ軍人ではありませんでした。考えも、することも剛直で、ガンコ一點張りの人です。僕を育てるのに、たしか四五歳頃から、竹刀を握らして、いきなり劍道を教えはじめたことでもわかるでしよう。書きおくれましたが、僕の母は僕を生んで間もなく死にました。たいへん美しい女だつたそうですが、僕はまるでおぼえていません。微かに微かに、なにか、どこか頭の片隅にチラッと影の差すように、そして、そこから、なんかしら、青いような花が匂つている――そういう氣がする。しかし想い出せないのです。
 父は、死んだ母をホントに愛していたようです。たしか父の方で好きになつて貰つた妻だつたようです。そんな事を父は語つたことはありませんでした。いや、僕の母そのものに就て、一言半句、僕に語つたことが無かつたのです。默々として僕を育てただけです。前に言つた通り、表面はただ手荒にボキボキと育てたばかりで、可愛がつているような事を言つたりしたりはしません。しかし、シンから可愛がつてくれました。僕にそれがわかるのです。そして、その事から、死んだ母を、父がホントに愛していたと言うことが、二重に僕にわかるのでした。
 父は遂に最後まで、次ぎの妻を迎えませんでした。僕を繼母に附かせるのが可哀そうだと言うような理由ではなく、僕の母を失つて以來、妻を持つなどと言うことが、まるで考えられなかつたようです。そのへんも、實にアッケ無いほど古武士的で、つまり古風きわまるのです。
 戰爭については、終始一貫して非戰論者でした。戰爭は、避けられるだけ避けなければならないと言うのです。そのために大佐の時に軍を退かなければならなくなつたと言います。だのに、父ほど軍人らしい軍人はいませんでした。軍をしりぞいた後になつても、物の考え方から日常生活の末々に至るまで、まるで戰陣にのぞんだ軍人そのままの剛直で簡素きわまる生活でした。父は僕を軍人にしたかつたようです。なぜなら、彼の考えでは、軍人こそ人間の中で最もすぐれたものだつたからです。ですから、僕が少年時代に、「軍人になるのはイヤだ」と言い出した時に父は、世にも悲しそうな顏をしました。しかし自分の考えを僕に強いようとはしませんでした。「人間は、自分が一番やりたいと思うことを、しなければならん」と言つて、僕が將來文科系統の勉強をしたいと望んだことにも賛成してくれたのです。

 滿洲事變から、日支事變と進んで行つた頃の父のそれについての氣持や態度は、僕にはわかりません。僕はまだ小さかつた。それに、そのような事について父は、いつでも、何も言わない性質です。戰爭が太平洋戰爭に入つてから、敗戰の色が濃くなり、そして僕が學生のままで出征することになつてからも、父は、戰爭について、どんな意見も吐きませんでした。
 ただ、太平洋戰の最初、眞珠灣攻撃の報知を聞いた時に、ラジオの前で父は眞青になつて、
「しまつた!」
 と言いました。そして二三日、眼を赤くしていました。泣いていたようです。世間一般が、その報知に狂喜している最中にです。「しかたが無い。日本は負ける。そして亡びるかも知れん。しかたが無い。そんな風に順々に日本というものが、なつて來たのだ。今さら、もうどうにも出來まい」と言つていたのを僕はおぼえています。「同じ負けるにしても、なんとかして、日本が根こそぎ亡びてしまわぬようにしなければならぬ。われわれに出來ることは、それ位の所だ」とも言いました。
 そして、父は父らしいやり方で戰爭に協力しました。實に寂しそうな顏をして、しかし、やつぱり父らしく懸命に全力をあげて協力していたようです。それは、僕が眺めても非常に矛盾した姿でした。しかし、それを僕は笑う氣にはなれませんでした。今でも笑う氣にはなれません。人は笑つたらいいと思います。僕は笑えません。

 僕は父が終戰の次ぎの月に自刄したと聞いても――悲しんだのは悲しんだのですが、それほど意外な氣はしませんでした。遺書なんか無くても、僕には父の氣持が手に取るようにわかるのです。父は軍人として、國に殉じただけです。父は、生きては居られなかつたのです。
 僕という人間は文字通り、この父に育てられ、僕の人間の内容は全部が父の生みつけてくれたものです。僕は、自分の全部で、父を愛しているだけでなく、いま尚、父を信じているのです。まちがつていたのは父ではありません。父以外の力、父にはどうする事も出來なかつた力――それは歴史の流れとも言えるでしよう――です。
 父は戰爭を好みませんでした。しかし、ホントの軍人でした。國を守るために、どうしても戰わなくてはならなくなつたら、戰つた人です。それを以て自分の義務としていた人です。その義務を神聖な仕事だと思つていた人です。刀を拔いてはいけない、しかし、どうしてもどうしても拔かなければならない時には拔く。それが軍國主義ならば、父は軍國主義者だつたのです。それが帝國主義ならば、父は帝國主義者でした。それが間違いだと言われれば、僕は反對する事が出來ません。しかし――いやいや、僕は何を言おうとしているのだ? いえ、僕は父をベンゴしようとしているのではありません。父は正しくなかつたかも知れません。まちがつていたのかも知れません。すくなくとも父を父のような軍人に育て上げた日本という國のありかたがまちがつていたのだと言えます。そうです、まちがつていました。父はまちがつていました。まちがつていた日本の、日本人の一人として、たしかに、まちがつていました。
 だけど、それでは何が間違つていないのですか? それを僕に與えて下さい。それを僕に與えて下さい。そうです、今いろんな人が、それらしい物を與えてくれています。新聞や雜誌や政治などの議論で、あちらでもこちらでも有りあまる程與えてくれているように見えます。しかし、そのどれもこれもホントのものでは無いような氣がします。どれも信用出來ないのです。なにかしらゴマカシのような氣がします。それは議論そのものに責任があるのではなく、戰爭のおかげで僕自身が何もかも信じられなくなつているためかも知れません。そうです、たしかにそれがあります。現在、方々であの戰爭がまちがつていたと言い立てている人たちの大部分が、戰爭中にそれを「聖戰だ聖戰だ」と言つて、僕らを戰爭へ驅り立てた人たちと同じ人たちなんです。そんな連中から驅り立てられたのはテメエたちが馬鹿だつたからだ、と言われれば、それまでです。たしかに僕らは馬鹿でした。しかし、僕らにどうしてそれがわかつたでしよう? どうして僕らは賢こくあり得たでしよう? 僕らは若くて、まだ無知だつた。それが惡いと言われれば、たしかに惡い。文句無し。しかし、そうだつたんだ。今でも、そうかも知れん。だから、方々であれがドロボウ戰爭であつたと言われているのも、ホントは嘘かも知れないと言う氣がするのです。裏には裏が有るかも知れん。戰爭中「聖戰々々」と言われたのが嘘であつたのと同じように、今度も嘘かもわからない。そのどつちも、僕らの無知のために、ホントの事が見えないのかも知れない。そういう氣がするんです。猿がフライパンで一度大ヤケドをすれば、それにこりて、どんなフライパンでも疑うようになる。あれです。僕らは猿です。そして、いつになつたら猿でなくなることが出來るでしようか? また、結局、誰が猿で無いでしようか?
 とにかく、僕らは、コリました。それは僕のせいでは無いのです。とにかく僕には腑に落ちない事だらけです。總てが分らないのです。
 日本の侵略戰爭をベンゴしようなどとは僕は毛頭思つていません。その反對です。僕はむしろその被害者の一人なのです。あれは、まちがつていただけでなく、僕にとつて憎いのです。いや、まちがつていてもいなくても、僕にはあの戰爭は憎い。あの戰爭は僕から父と、それから僕の青春の全部を奪い取つてしまつたのですから。
 しかし問題はそれだけでは片附きはしません。日本のドロボウ戰爭が不正であつたという事は、わかつた。でも、それだけでは片附かない。それだけでは片附かない。それだけでは、なんにも積極的な力は生れて來ない。それとは別にもつと根本的に考えて見ることです。つまりです。
 或る戰爭は正しくて、或る戰爭は不正なのですか? 佐々はそうだと言います。僕には、わかりません。僕には、戰爭がホントに否定されるためには(その戰爭がどんな動機からなされた戰爭であつてもです)今後あらゆる戰爭を絶對にしない、しないですむ地盤に立つ以外に無いのではないかと思われます。そんな地盤が現在どこかに在るでしようか? もしそれが無いのに戰爭を否定したとしても、それはただの主觀的な希望に過ぎないのではないでしようか?
 僕の考える事は堂々めぐりに過ぎません。ナンセンスです。僕は人も自分も、共に信ずる事が出來ません。信ずるという力が無くなつてしまつたのです。死んだ父だけを人間として信じているきりで、その他の一切を信ずる能力を失つてしまつたのです。しかたがありません。
 僕は戰場で死んでいればよかつたのです。でなければ、復員して來て、父がセップクした事を知つた時に、すぐに死ねばよかつたのです。死んだ方がよかつたのです。
 それはダメでした。イノチが惜しかつたのでも、死ぬのが怖かつたのでもありません。現在でも僕はイノチを惜しいとは思つてはいません。ましてその時は、そんなことは何でもありませんでした。それが、どうしてだか死ねませんでした。なんの理由もないのに、死ねなかつたのです。ただ、ハズミが無かつただけです。人間は生きるにせよ死ぬにせよ、その他のどんな事をするにも、その時のハズミだけらしいのです。
 僕が今こうして生きているのも、時のハズミで生きているだけです。その他にどんな理由もありはしません。そして、他の人間も、結局は僕と同じように生きているに過ぎないと思います。ただ生れて來たから、何かにぶつかつて死ぬまで、なんとなく生きているだけです。生きている事に、何かの意味を附けて見たり、する事の一つ一つを正しいとか間違つているとか、善いとか、惡いとか言つているのは、人間の弱さが生み出したヘリクツに過ぎません。虎は虎のように生きるでしようし、兎は兎のように生きるでしようし、ウジ蟲はウジ蟲のように生きるでしよう。
 一切がどうでもよい事です。ムキになつて考えなければならぬ事は、何一つない。人生は、生きるに値いしない。

 又、居所が變りました。
 今度は船の上です。船と言つても、汚いハシケの、胴の間です。或る船着場の、左右前後は停泊しているハシケや漁船で埋まつています。くさつたような潮の匂いと、雨の音です。
 ルリさんが此のへんにまでやつて來てウロウロしてしている事を僕が知つたのは昨日です。あるいは僕の思いちがいで、ルリさんでは無かつたかも知れませんけれど、僕の眼にはあの人のように見えました。
 前の室にいた頃、黒田の子分の一人が僕の所に使いに來た時に「若い女が二三日前から、このへんをウロウロしている。兄きをつけているんじやないかと思う。氣を附けてください」と言うのです。
「東京の連中のなにかね?」
「いや、テキさんたちが、あんな女を使つたりはしないでしよう。綺麗な女ですよ」
「そりや君たちの氣のせいだろう」
「そうも思いましたがね、なんせ、ここのマーケットに、たいがい一日に一度はやつて來て、何かを買つたり食つたりする風もなし、この家に眼をつけているようなんです。なんしろ、めつぽう綺麗な女だから、すぐに眼に附くんだ」
 ニヤニヤしながら、僕と戀愛關係でもある女ではないかと疑つているようです。
「ほら、一二度此處へ來た、何とか言う雜誌の人ねえ、あの人をソッと附けて來て此處を知つたんじやないかねえ」
 佐々のことなんです。そんなバカな事は無いと僕は打ち消しました。しかし、あり得ない事では無いのです。佐々は僕がこうして方々に身をかくすようようになつてからも、二度ばかりやつて來ています。非常にハシッコイ男ですけれど、それだけにソソッカシく、とんでも無い所で拔けた事をしかねない男です。「とにかく用心して下さい。親分もそう言つていた。昨日も金の野郎が櫻木町から連れて行かれたし、東京の店で菊次が四五日前に斬られてます。東京のは相手がわかつているし、なんの事はありませんけどね。用心するに越した事は無いんだ。一兩日中に又別の所に兄きに行つてもらうようにしてあります」
 その男は、じや又來ますと言つて歸りかけ、硝子窓を細目に開けて下の露路をうかがつていましたが
「ああ、やつぱり來てる。あれですよ」と言うので、立つて僕は覗きました。
 その家を出て、ゴタゴタと食物店の並んだ露路を出はずれた角のゴム靴などを賣つている店の軒先に、ちようど前日から降りつづいていたビショビショ雨をさけるようにして立つて、こつちを見ている女が居ます。軒先の蔭になつて顏は半分しか見えないし、モンペをはいているようです。するうち、女が歩き出して顏の七分ばかりがチラッと見え、僕はハッとしました。ルリさんでしたそれが。いや、ルリさんだと思つたのです。今から考えますと、ちがつていたような氣もします。ルリさんがあんな所に立つているわけがありません。佐々の話ではルリさんは僕の事を非常に憎んでいるということですが――そうです、僕があの晩ルリさんにした事を怒られるのは當然かもしれませんけれど、そんな憎まれるほどひどい事をしたおぼえは無いのです。いずれにせよ、こんな所まで僕を追つて來る道理がありません。
 しかしその時はたしかにルリさんを見たと思いました。して見ると僕の心の底でルリさんを忘れきれないでいたのかも知れません。
 その女はすぐに角から消え去つてしまつて、二度見直す暇は無く、確かにルリさんであつたかどうかを確かめることはできませんでした。
 結局はそんな事もどうでもよい事です。あれがルリさんであつたとしてもです、この僕とは縁もユカリも無い人です。別の世界の人です。
 僕はただこうして船の動きに搖られながら雨の音を聞いています。すべてが僕にとつてなんでしよう。僕はゴロツキの子分で無籍者です。全部愚劣なことです。
 こんな事では無いのです。僕が手紙を書くのは、こんな事のためではありません。Mさんの事を知りたいんです。どうしても知らなくてはならないのです。この一週間ばかり急にそれがハッキリして來ました。僕が知りたいのはMさんに關係のある事なんです。それは今度お目にかかつて、くわしくお話しします。…………」
 手紙は、そこでプツンと切れていた。明らかにまだ書きつづけるつもりのやつが途中で不意に中絶されたらしい。その中絶のしかたに何か不吉なものがあつた。
 貴島勉という男が私にいくらかハッキリわかつたような氣がするにはした。しかし、まだわからない所がある。部分的にハッキリした所が出來たために、わからない點は前よりも更にわからなくなつたとも言える。特に彼の精神方面――性格や心理の内容は、ほとんど未だ私には掴めない。
 私は手紙を前に置いて眺めながらボンヤリ坐つていた。その私を、貴島の例の兇惡な眼が、どこかの隅から見つめていた。

        21

 貴島勉の長い手紙を受けとつてから、五六日後の夜、私は佐々兼武の訪問を受けた。
 その夜の佐々は、いつもとはちがつていた。この前、綿貫ルリの裸體寫眞一件の話をおもしろおかしくしやべりまくつた折の、明るい道化た調子など、まるで無い。陰うつとまでは行かないが、頭が何かで一杯になつていてそれ以外の事は受付けないと言つたふうだつた。自制しておさえつけた鋭どさが、顏つきにも言葉の調子にもある。別人のように口數もすくない。急いでもいるようだつた。
「貴島から頼まれて來ました。自分で來たいけど、今のところいつ伺えるかわからないし、それに急ぐと言うんです。僕も社の用事や久保の會社の方のゴタゴタの事なぞで忙しいんで、こちらへ寄つている暇は無いんですけど、どうしても寄つてくれと言うんです。泣くように頼むんです。しかたがないのでお伺いしました」
「どんな事だろう?」
「…………貴島が言つた通りに言います。Mさんのお友達や知人の名まえと住所のリストを、あなたの御存じになつている限り、なるべく詳しく書いてください。とくに、女の人たちの事をくわしく書いてほしい。それが女優さんだつた場合には藝名と本名を同時に、それからハッキリした住所がわからない場合には、だいたいの見當で、どこそこに住んでいるらしいと言うふうに書いてください。そう言いました。そんだけです」
「いつだつたかも、貴島君はそんな事を言つていたが、Mの知人のリストなどをどうしようというんだろう?」
「そんなことは僕にも判りません。彼奴はひどい色魔ですから、そんなものをたよりにして若い映畫女優などに當つて歩きたいと言つたような事かもわかりません。しかしそれにしては、あんまり眞劍すぎますしね、今さらそんな事をしなくても、彼奴を追つかけまわしている女は掃いて捨てるほど居るんです。とにかく、彼奴のする事はわかりませんよ。唯泣くように頼むもんですからね。書いて下さらないでしようか? 實は今日は僕急ぐんです」
 怒つたように言つて後は語らない。
 とりつく島がないし、それをことわる理由もないので、私は古い手帳や住所録の類を取り出してリストを作りはじめた。亡友Mは映畫と演劇の兩方に永らく働いていた男だし、ひどい遊び好きの上に世の中のあらゆる事柄や人間に對してコッケイに思われる位に強い興味を持つていた男なので、友人知己の數は非常に多かつた。しかし彼と私の共通の知人、特に女性となると、ほとんどが演劇映畫關係に限られ、中に僅かに普通の知友關係とバーやカフエの女給などがまじつているだけだ。それでも住所録や手帳から書き拔いてみると二十名ばかりあつた。中の十五六人が女性である。しかしいずれにしろ戰前から戰爭末期へかけての記録であつて、終戰以後の激しい世態の動きの中で、それらの人々の住所はもちろんのこと、境遇なども、以前のままである者はすくないのではないかと思われた。
 私がリストを作つている間、佐々はムッツリと怒つたような顏で一言も口をきかなかつた。重大な用が自分にはあるのに、こんな愚劣な事で時間を取られるのはやりきれない……そんなふうに思つているらしい。
 作り上げたリストを私は默つて彼の前に出した。
「すみませんでした。じや、これで僕は失敬します」
「貴島君はまだ横濱の船の中に隱れているの?」
「え?……」佐々はジロリと私を見て「どうしてそれを知つているんですか?」
「四五日前に手紙をくれてね、そんなような事が書いてあつた」
「あそうか。………そうです。もつとも船にはもう居ないようで、又ほかへ移つたらしいですがね」
「ぜんたいそんなにしていなきやならないなんて、どういうのかね?」
「黒田組と束京のゴロツキ連中……そいつらと黒田組の間で取引きの事でゴタゴタがあつたらしいんですがね、そん中に貴島がまきこまれていて、と言つてもあの男の事ですから、詳しい事情も知らないままで、思いきつた事をやつちまつたらしいんです。先方のゴロツキの頭かぶの奴をなぐりたおしたか斬つたかもしたらしい。詳しい事は言わないんです。そんな事でモツレがひどくなつて、しばらく前からヤッサモッサもんでいたやつがこの一週間ばかり急に手荒い加減になつて來たんです。今となつては、先方では仕事のモツレの事よりも、貴島のような若造に勝手な事をされちやあ、そのままにしておけないと言うらしくつて、もつぱら貴島にとりついて來ているようですね。二三日前も黒田策太郎と貴島の間の連絡係をやつていた黒田の子分が、夜遲く貴島の所へ行つた歸りに野毛の裏街で袋叩きにあつてあばら骨を三本ばかりおつぺしよられて、今死にそうになつています。まあ、貴島も一寸あぶないですねえ。じやあこれで」
 言い拾てて立ち上つた。それを玄關に送り出しながら私の頭に國友大助の事が浮び上つていた。東京の頭かぶの男というのが、それでは國友の事であろうか?
「綿貫ルリはその後どうしているか知らんかね? 横濱まで出掛けて貴島君を追いかけ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)しているようだとか………いや、ルリらしい女が近くをウロウロしていると貴島君の手紙に書いてあつたんだが?」
「そうですか。いやあ………」靴を履きながら佐々はその晩初めて笑つた顏を振り向けながら「その女がルリ君だつたかどうか知りませんけどね、四五日前ルリ君と貴島とが會つたのは事實です。何の事あない、僕が逆にルリ君に尾行されていたんですよ。實におかしな女だ。四五日前僕が貴島のいる船へ――といつても、もやつてある四五そうの小舟から小舟へ渡つて行つてその船に行くんですがね、その船へ飛びついて、ヒョイと後ろを振りかえると何時の間に來たのか、脱いだ下駄を片手に持つてハダシになつたルリがヒョックリ、トモに立つているじやありませんか。仕方がないや。そいで貴島に會わせました。實におかしな會見でしたがねえ。初め兩方で睨み合つたまま、何時までたつても默つているんです。その中に貴島がだんだんしよげて來て、まるで鹽をかけられた青菜のように首うなだれてしまいましてね。その中ルリが(貴島さん貴方何故私から逃げるの?)と言います。それから(貴方は私をケガしといて、どうしてくれるの?)と言います。ケガしたと、たしかに言つたんですよ。ヘヘ! 貴島は返事をしないんです。ルリはいろんな事を言い出します。そのうちに、えらく昂奮しましてね。貴島の方はボソボソと何か言つているんですけど、ルリの詰問が詰問なら貴島の答えも答えで、何やらまるきりわけがわからないんですよ。チンプンカンプンの議論ですね。わかる事は兩方がえらく昂奮している事だけで、特にルリなど蒼くなつたり赤くなつたり、口から泡を吹かんばかりにして貴島をなじるんです。あの女は、やつぱり氣が少し變なんじやないですかねえ。僕はしばらく默つてそれを聞いていたんですけど、その中にヒョット(こいつは一種の痴話げんかのようなものじやあないかな?)という氣がしたんです。そう思つたら急に自分が馬鹿馬鹿しくなつて、二人を捨てておく氣になつて、僕はその胴の間を飛び出して、ちようど隣りにもやつてあつた小舟に飛び移つて、そのトマの下にゴロリと横になつて煙草を吸つていました。疲れていたのでそのままグッスリ眠つてしまつたんですねえ。ですから、そのあと貴島とルリの間にどんな事があつたのか僕は知りません。今度眼が覺めてみるとまだ夜中で、あたりは眞暗なんですが、氣がつくと、ピチャピチャと水の音がするんです。すかして見ると、貴島とルリの乘つている小舟が、眞黒な水の上でゆつくり、ガボガボと左右に搖れているじやありませんか。どうしたんだろうと思つてそれを見ている中に、僕はあの美しいルリの身體を思い出したんです。それが貴島の身體とガッシリと組み合つているんですな。ダァとなりましたね。やりきれん氣がしたなあ。ピチャピチャという水の音が妙なる音樂になつた。リズムでさあ。ヒヤァ、まつたくです。僕はこの、實演も二三度この、なにした事があるんだけど、その舟がですね、暗い波の中でガブガブとゆれているのを見ている時に僕が感じた肉體にくらべりや、屁のようなもんでしたね。ヘヘヘ。とに角しみじみ聞かされちやつた。うなされたようにウトウトして、それから夜が明けました。向うの船に渡つて見たら貴島もルリもまだ寢ていましたが、どういうのか二人とも着のみ着のままで三疊敷位の胴の間の向うの隅とこつちの隅にコチンと轉がつているんです。起き出した貴島の右の手の平がひつかき傷だらけで血をふいているんですよ。後で聞いたら口論最中にルリからピンで突かれたそうです。ルリはまだ怒つた顏をしていましたがしばらくしてプイと立つて小舟を次ぎ次ぎと渡つて何處かへ行つてしまいました。何が何やらさつぱりわかりやあしませんよ。その晩どんな事があつたのやらわかりやしません。貴島に聞いても要領を得んのです。どうでもいいでさあそんな事。ヘッ! これから僕は久保の會社へ行くんです。爭議がひどい事になつているんですよ。や!」言うなり佐々はスッと玄關を出て行つた。
 佐々の話に私は解説を附ける事はしない。と言うよりも私には出來ない。彼の話がどの程度まで本當であるか否かも私にはわからなかつた。それをユックリせんさくしている餘裕も實は私になかつた。
 というのはすぐその次の日の早朝、國友大助がヒョッコリ私の前に現われたのである。

        22

 氣がついて見ると、私は人が訪ねて來たことばかり書いている。きよくの無い話だと思うが、事實だから仕方が無い。私は「書齋の徒」だ。外に出れば、ただ裏町や場末や山野をウロつきまわつては、名も無い人たちと交るだけで、それもただ常識はずれの、おかしな、何の役にも立たぬことばかりして歩いている浮浪に近い。わざわざ人を訪ねて行くことなど、めつたに無い。私が相手をハッキリとその人と知り、相手も私と知つて面會するのは、ほとんど、その人が私の所へ來訪した時に限られていると言つてもよいのである。
 國友大助は相變らず立派なナリをして、おだやかな顏で私の前に坐つた。昨日の佐々の話があるので、私は無意識の中に改めて國友を調べ直すような眼で見たが、どこから見ても堅實な新興會社の重役といつた人柄で、裏に影を少しも感じさせない。いつか貴島に斬られた傷の跡がこめかみのあたりにうつすりと殘つていた。それもしかし、そう思つて見るからの事で、知らずに見ればヒゲすりの際にカミソリがすべつた跡ぐらいにしか見えない。手土産に持つて來たウィスキーのびんを、私に見せようともしないで室の隅に押しやりながら、私の仕事部屋の壁の上の佛畫などに珍らしそうな眼を向けながらニコニコしている。
「いつぞやは………」
「やあ………こういう所で、やつていられるんですか。いいなあ、あなたなぞの仕事は。こういう所で落着いてやつていられれば、それで暮しになるんだからなあ。羨ましい」
「駄目だ。落着いているように見えるのは外見だけで、こういう事になつて來るとわれわれの仕事ほど頼りにならない、おかしな仕事はないんだ。われながらどうしてこれで食つて行けているものだかわからないような始末でね」
「そうかなあ。そんな事はないでしよう?」
「そうなんですよ。然しまあ、暮しの事はいまどき誰にしろ苦しいんだから、それは言わないとしてもだ、仕事の内容を考えると、當分もう駄目だな。確かに日本は亡びた。もうどうしようもない。少くともこれから先五十年や百年はどうにも處置ない。そういう氣がする。日本人を相手にして日本人の事を書いていると、どうしてもそういう氣がしますよ」
「確かにそりやあ、そう言われればそう言う氣もしますね。新聞や雜誌で道義地に落ちたりなどと言つているが、道義なんて私共には何の事だかわからないが、近頃の日本人、ダラシが無くなつた事は事實です。まあ乞食だな。とにかく、一切合切は腹がくちくなつた後の話と言つた光景で、法も道も何ちゆう事はないようですからね、ハハ!」
 相手の氣持をはかりかねて、始めの間私は落着けなかつた。然し彼の調子には別に含むような所はなく、今の時代の有樣についての感想なども、彼は彼なりに相當深い見方をしていて、それをしみじみと本心から語つている。語り口は、例の通り輕いものだが、その底に一時のものではない嘆息がこもつていた。話している間に私も何時の間にか、この男の訪問の目的をせんさくする氣持を忘れて、久しぶりの舊知との會話を樂しむ氣持になつていた。
 その中に國友は、今までの話の續きのように氣輕な調子でヒョイと
「いつかお目にかかつた時に、あなた、D興業會社の社長秘書の貴島という男に會うんだとおつしやつていたが、お會いになりましたか?」
「………會いました」
「ごく最近?」
「いや、しばらく前だ。君にお目にかかつたあの晩遲くだつたかな」
「………それからお會いにならない?」
「會わない。どうして?」
「いや。…………貴島君、今どこにいるか御存じありませんか?」
「住んでいるのは荻窪だが………」
「そりや知つていますがね。………横濱へんに今居るらしい事も知つていますが、ハッキリわからない。一度是非會いたいんですが」
「…………さあ僕もよく知らないんだ」
 佐々の話の内容がパッパッと私の頭に閃いて來た。
「もし御存じなら教えてほしいんですがね」
「いやほんとに知らない」
「そうですか………」とおだやかな調子で眼を伏せてしばらく何か考えていたが、今度はジロリと見上げて「まさか、お宅にいるんじやあないでしようね?」
「………どうしてそんな事を言うの?」
 不快をかくさない私の調子に、今度は詑びるように
「そんな氣で言つたんじやありません。大至急にあの男に會わなきやならないので、つまり、急いでいるもんですから、ついどうも……」
 佐々の話が事實だとすると、この連中は貴島に復讐するために、そのありかを追求している。うつかりした事は喋れない。………
 そこへ家人がやつて來て「ちよつと」というので居間の方へ立つて見ると「先程から、すぐそこの角に變な人が二人立つています。今來ているお客さんと一緒に來た人達のようですけど、とても人相の惡い氣味の惡いような――」と低い聲で言うので、私は下へ降りて木戸口を出てそちらを見た。私の家は袋小路の突當りにあり、その袋小路を出て二十歩位の所が小さい四つ角になつている。その四つ角の兩側に洋服を着た男が一人ずつ立つていた。二人とも若い男で、一方は普通の顏をしているが、もう一人の男は顏中むざんな切り傷だらけで、その爲に片眼がつぶれているようだ。物凄い顏をしている。身なりから眼の配り方などが普通では無い。私の家を遠まきにして警戒しているらしい。
 私はしばらくそれを見ていてから上にあがつて書齋に歸り、默つて國友の前に坐つた。國友は壁の佛畫を見ながら煙草をふかしている。
「國友さん。………おもしろくない」
「え?」
「そこの角に立つている二人の人ねえ………」
「…………」彼は私の顏をちらつと見るや詫びるような笑顏をして見せた。このような男の神經のす速さ。「いや、すみません。そういうつもりじやあ無いんです。氣を惡くなさらないで」
「君は僕の古くからの知り合いだ。貴島のありかを僕が知つていれば、ありのままに君に言いますよ。まして、この家に貴島君が居るんだつたら、あんたに隱したりなんぞしやしない。そんな事をする理由が僕にないもの」
「………私が惡かつた。いや實はね、あの若いもんはお宅を見張つているというよりやあ、この私を監視しているんですよ。詳しく話さなけりやわからないんですが――、然しこんな事をあなたの耳に入れても仕方がないんだ。とにかく貴島君にあまり大きなケガをさせないようにと私は思つているもんだから、そういう私の量見をウチの若いものが察していましてね、そうさせまいと思つて私を監視しに附いて來るんですよ。あなたがたにやあ何の事だかわからんだろうし、つまらんことですが。そういうつまらん世界から私など、何時までたつても足が洗えないという事だなあ。ハハハ。とにかく、ちよつと追い歸して來ましよう」
 國友は座を立つて外へ出たが、すぐに戻つて來た。二人の男は歸つたらしい。
「そこで三好さん、貴島君の口から私どもの組と黒田組との間の事についてあなたがどの程度にお聞きになつたか私は知りませんが――」
「僕は何も聞いていないんだ」
「結構です。お聞きにならん方がいい。私達のシャバの事なぞ下らんです。然しとにかく、どうでしよう貴島に會わせてくれませんか? そうでないとあの男は今にえらい目に逢います。いや實は私個人としてもあの男とはカタをつけなきやならない話があるんですが、それはあの男と私とのあいだずくの話で、これはまあ、その中に處置をつけます。今言つているのは、組の奴等がいきり立つていて、うつちやつておくと、とんだ目に貴島君が逢うんです。それを言うんだ私は」
「………わかつた。國友君、それでは僕もまじめに言おう。そのつもりで聞いて下さい。………僕は現在貴島が何處に居るかほんとに知らない。横濱界隈の小さな船着場だという事は知つているが、それ以上の事は知らないんだ。さつきも言つた通り君に嘘をついて見ても仕方がない。だけどかりに貴島のありかを知つていたとしても、僕はあんたに言わないよ。………それはわかつてくれますね、國友さん? 然し僕があんたに言いたい事はそんな事じやあないんだ。そんな事よりも、ぜんたいあんた方は貴島なぞを追いかけてどうしようというの? いや貴島をかばう意味で僕は言つているのじやない。一人や二人の貴島なぞどうでもいいのだ。さつきあんたが言つたね、亡びてしまつた日本の、法も道もない世界で、何故今更そんな事をしようとするんだろう?」
「………おつしやる通りです。私達のしている事は實につまらんし、こんな風になつた國をこの上だめにしてしまうような事です。知つています。知つていてもどうにも足が拔けないんですよ。三好さん、それが世の中だ、惡いと知つていても長年身にしみついた事からはなかなか拔けられない。そうなんだ。いやで仕樣がないが、私など、ざつとこんな事で果てるんですねえ」國友の聲に嘘のものではない深い自嘲の調子があつた。「………いやだと思いながらやつていても、多勢の仲間をひかえていれば、これで、筋道だけは立てて行かなきやあならないんですよ。詳しい事をあなたに話してもしかたが無いんで、ざつと言いますが、黒田組と私共の間には半年ばかり前から取引きがありましてね、いや取引きと言つてもどうせ私等の世界の事で、どうといつてはつきりした契約のある事じやない。然し案外にこれで私達同志の取引きは堅いもんです。それが、黒田の方でしばらく前に不意打に私達にスカを食わした。かなり大量の「クロ」を黒田の方から私の方へ引取つたんだが――まあ、或る藥品だと思つて下さい――そいつを私共でいくつかに分けてほかへ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)した。あとになつてそいつが贋物だつたという事が、分けてやつた先からわかつて來たんです。全部が全部贋物じやあ無かつたらしいが、かなり澤山の贋物が入つていたんですねえ。そしてこの事をこちらで言い立てる事が出來ないような手を黒田の方が前もつてちやんと打つてあつたという事なんですよ。ここいらの事はあなたに話しても仕方がないから話しませんが、私どもの間には義理だの仁義だのと――まあそう言つたものがありましてね。みすみす贋物を掴まされたとわかつても、後になつてそれを言うわけにいかない事がある。そうでなくても、どつちにしろ表沙汰には出來ない事です。そんなこんなを黒田の方ではちやんと見越しているんだ。で、黒田に會つてそれを言つてもヌラリクラリと逃げを打つばかりで、カタがつかない。私んとこの連中がいきり立つて來たんです。そこへ黒田んとこの秘書ということで貴島が割りこんで來て、おかしな事ばかりして話の邪魔をします。ありようは、こうなんです」
「………わかつた。それは貴島が惡い。然しねえ國友君、貴島は何も知りやあしないんだ。あれは君、君達から言えば唯のシロウトで、戰爭から歸つて來てメチャメチャになつているところを、死んだ父親の縁故で黒田の所に一時身を寄せただけでね、君達の事にしたつてほんとの事は何一つ知りやあしないだろう。つまり、復員グレに過ぎん。そいつをあんたがムキになつて相手をするのは、どんなものだろう?」
「あなたと貴島とはどんなお知り合いなんですかねえ?」
「どんなつて君、僕の死んだ友達のMという男の弟子みたいな青年で、僕はじかに附合つた事もあまりないし、詳しい事は何一つ知らない。唯戰爭の爲に根こそぎ何もかも持つて行かれた人間で、あれの友達が幽靈だ幽靈だと言つていてね、自分でも死んじまつてた方がよかつたと言つている。何をするか知れたもんじやない」
「そうですか。………いや、このままで行けば、いずれ永い世間は無いかも知れませんねえ。今どき人の一人や二人、何のこたあないですからね。………いやな世の中になつたもんで、近頃そんな事をしても闇から闇へ消してしまう事なんか何でもなくなつて、外からは煙も見えません」
「いいだろう、そうなればそうなつたで」
 相手が私を脅迫にかかつているのではない事はわかつていた。が、彼の言う言葉の意味がドス黒くひびくのである。それに對して久しぶりにフテブテしい鬪志のようなものが私の胸の中に萠して來た事も事實だつた。
「だがねえ國友君、僕は思うんだ、君達のように生きている人間は、いずれにしろこの世の中でグレハマになつた人達だと思うが、それは僕にわかる。非難しようとは僕は思わない。だけど貴島のような人間も或る意味でグレハマになつた人間じやないかな? 道筋は違うがグレハマになつたという事では同じじやあないだろうか? その君達が貴島を目の敵にしていじめるのは、當らないないと思うがどうだろう? 可哀そうじやあないだろうか? 君達は、いわば、好きでそうなつた人達だ、貴島は追いこまれて、仕樣ことなしにそうなつた男だ。可哀そうだと思つてくれないもんだろうか?」
「………あなたの言う通りかも知れない。貴島という男のしている事を見ると、必ずしも黒田組の爲にと思つてしているとばかりとは思えない事がありますからね。こんだの一件についても、黒田んとこのいい顏のやつで、格別わけもないのに貴島から斬られた奴がいるんですよ。………私に對しても貴島は別に敵意は持つていないようです。する事がデタラメなんだ。キチガイだと言つてる奴もいます。………追いこまれた人間だと言われれば、わからない事あないような氣もします。私は別に含む所はありません。然しそれとこれとは別でね、私んとこの連中は、黒田が相手にならなきやあ、仕方がないから貴島をとりつめる以外に仕方がないという腹だし、もう今となつては、私が何か言つても、どうにもならないかも知れませんね。川の水が流れるようなもんで、こんなこたあ、あなたもとつくに御存じだ」
 昔から國友という男は正直な男であつた。腹に無い事は絶對に言わないし、一旦言つた事が違つたりもしない。それを知つているので私は私としての精一杯の氣持をこめて貴島の爲に話した。それに對して國友ははつきりした返事はしない。然し私の意のあるところを充分理解したらしいところがあつた。次第に陰氣な誠實な眼つきになつて、しんみりと口數も少なくなつた。このような種類の男について誠實などという言葉を使うと人は異樣に感じるかもしれぬ。しかし私の知つている限り、他の連中のことは知らず、國友大助ほど誠實な人間は、それほど多くは居ないのである。私の頼みは七八分通り相手の容るるところとなつた氣がした。然しその時、思いがけない、まずい事が起きてしまつた。
 出しぬけに綿貫ルリが飛びこんで來たのだ。

        23

 綿貫ルリが私の家を訪ねて來て案内を乞うたりしないのは、いつもの事であるが、この日は「先生今日は」も言わないで、いきなり、しめきつて話していた書齋のドアを默つてスッと開いて入つて來た。まるで今まで隣りの室にいた人のような具合だつた。私も國友も言葉を停めて見迎えたが、この前見覺えのある絣の防空服を着て、ポキンポキンと私と國友へ頭を下げただけで、何も言わず坐つた。顏色にはほとんど血の氣というものが無い。眞蒼である。この前の時から見ると頬がげつそり痩せたようだ。非常に沈んでいるように見えるのは、自分で自分をおさえつけているためらしい。底の方で強く昂奮している事は眼の色を見ればわかる。こちらの胸先に斬りこんで來るような眼だ。全體の美しさが又變つた。二十二や三の女にこんな種類の美しさが生れ得るものだろうか。ほとんど凄艶というに近い。私は一瞬あじさいの花を想い出した。咲いたばかりのあじさいが雨に濡れている。………誇張ではなかつた。その證據に國友大助も、彼にしては珍らしく強い興味を起した眼色をして、新しい客の爲に少し身を退つた横の方からマジマジとルリを見ていた。
「どうしたんだい?」
 私が言つても、ルリは答えない。怒つたように私をジッと見ている。言う事が無いのではなく、何をどんな風に言つてよいのかわからないらしい。膝の上の白い蟲のような指先が細かくブルブルと震えた。
「判らないんです。いえ、どうしてよいか判らないんですの」だしぬけに、しかしはじめは低い聲で口を切つた。「私の事じやありませんですの。いいえ、結局私の事かもわからないけど、でも私だけの事じやない。どうすればいいんでしよう? 先生教えて下さい。いやだわ、いやなんです私は。こんなわけのわからない事でゴタゴタしているのは、私はイヤ!」
 それから噴き出すような勢いでルリは喋りはじめた。何を言つているかわからない。少くとも初めの十分ばかり彼女の言葉は支離滅裂でまつたく掴えどころが無かつた。或事を言いはじめて、その一言の中で忽ち別の事を言い出すかと思うと、次に最初の事とも二番目の事とも違う事に飛んでいる。それをこちらが呑みこむ暇もない中に、他の事が入りまじつて來る。しかもそれがたいがい普通の言い方と逆になつていて、いきなり間投詞が飛んで來て、その後に叙述の文句が來てそれが又四方八方へ飛び散り、ぶつかり合う。言葉と言葉が光線の亂反射のように飛び交うのだ。
 このようなものの言い方も世の中に在るのである。然しそんな言葉を紙の上に書き寫すことは、むずかしい。私は此處で彼女の言葉を書き寫そうとはしまい。
 ただ次第にわかつて來た事は、彼女の話しているのが貴島勉の事であるという事であつた。
 そんな事ではあるまいかと、ルリが入つて來た瞬間から私が危惧していた事が當つたのだ。國友が此處に居る。その前でルリが貴島の事を語りはじめている。………まずい。息もつかずに喋り續けるルリの口に蓋をしたいような氣持でハラハラしながら聞いている以外に、然し、私に方法が無かつた。
 それが貴島の事だとわかつた時に國友大助の眼がキラリと光つたように思つた。然し彼は別に何も言い出さず、默々としてルリのお喋りを聞いている。
「まあ、まあ、まあいいよ。君が何を言おうとしているのか、よくわからないんだ、どうしたの一體?」
「ですから私にはわからないんですの。全體あの人が何をどうしようと思つているのか、何がどうなればどうなるのかハッキリした事はまるで言つてくれないんです。先生にそれを教えて戴きたいの。あの人はしきりに先生の事を言つて、會いたいと、そう言うんです。何のため? 何故先生に會いたいんですの?」
「貴島君がかね? さあ、どうしてかね、僕にもわからないな。君は會つたのだろう? そんなら君にはわからないかな? 君にわからない事が僕にわかる道理がない」
「いいえ、先生にはわかつているんです。あの人がそう言うんです。教えて下さい。ね先生」
「だつて、何が何だかちつともわからないじやないか。もうすこし落ちついて話してくれなくちや。ぜんたい貴島君の事を君はどうしてそんなに氣にするんだえ?」
「憎いからなんです! 私は憎いんです! あの人が憎いんです!」
 聲をふりしぼつた。聲にこめられている憎惡に間違いはなかつた。佐々兼武の「ほんとはルリは貴島に惚れてるんじやないですかね」というような事が、當つていようなどとは全く考えられなかつた。第三者にはまるでわからない貴島とルリとの間の關係がそこにはあるらしい。それを多少でも掴もうとして、いろいろの角度からたずねて行つても、ハッキリした答えは何一つ得られなかつた。氣の少し變になりかけた、カンのきつい子供を相手にしているようなものであつた。あぐねきつて私は、尚も喋り立てている彼女の顏を眺めているだけになつた。
「言葉をはさんですみませんが、貴島君、今どこに居るんですか?」
 わきから國友がヒョイと言つた。ルリはその方を見たが、すぐには返事をしない。私はドキリとした。
「何ですの?」
「貴島君、どこに居ります?……あなた御存じでしよう?」
「知つています。………だけど、あなた、どなた?」
 私は二人を簡單に引き合わせた。國友大助の名を聞くと「あ!」と口の中で言つてルリは例の強い視線で國友の顏を突きさすように見た。
「私の事を貴島君何か言いましたかね? ハハ、ハハ。………いやね、私あ大至急貴島君に會わなきやあならないんだ。横濱はどこです?………あなた知つてるんでしよう教えて下さい。……いや、惡いようにはしないから」
 石になつたようにルリは口を開かない。ランランと輝く眼で國友を見つめている。その中に、ヒョイと立ち上つた。同時に「失禮します先生」言うなりスッと室を出て玄關で靴を突つかけるや、表のドアを突き開けて忽ち小走りに驅け出した足音がした。速い。
 國友は、ちよつとの間苦笑していたが
「じやあ私もこれで失禮しましよう」と立ち上つた。樣子がルリを追いかけて行く氣になつているらしい。いけないと思つたが、さてどうにもできない。
「國友君、今のは以前から私のとこに來ている唯の女優の卵だ。あんな事を言つているが、貴島とは私んとこでほんのこの間知り合いになつたばかりで、格別深い關係があるわけじやない」急いで靴を履いている國友の背中に向つて私は言つた。
「しかしねえ、私としては行くところまで行つて見ないじやあ、仕樣がないんでね。それはあんたもわかつて下さると思う」
「貴島の事はさつき私が話した通りだ。あんた方の世界にあの男が手を出そうなどという氣は萬々無い事を僕が保證する。同じなにするにしても、そこの所は考えてやつてくんないかなあ。ひとつ頼む」
「わかつています。旦那と俺とは古いなじみだ。わかつてますよ。少くとも私個人としては、おかしな事はしやしません。唯みんなの奴等の事がありますからね、行くところまでは行つて見なくちやなりません。……失禮しました。いずれ又」
 急ぎ足に去つた。
 だしぬけに一人でとり殘されてしまつた私は、しばらくボンヤリして玄關に立つていた。貴島とルリの身の上にどんな事が起きるのか? つかまえ所の無い不安である。
 しかし國友という男は、口に出してハッキリ引き受けなくても、あれだけ氣を入れて聞いてくれた事を裏切る男ではない、その點確信に近いものが私にはあつた。然し彼の口ぶりから察すると、貴島に對する報復の事は、既に彼個人の一存には行かなくなつている。「川の水が流れるようなもんで」と言つた。仲間や配下の事であろう。その連中が集團として動き始めると、それは又それで絶對的な意志を持つもので、もうそうなれば、たとえその徒黨の親分や統率者が自分個人の意志からそうさせまいといくら思つても、そうは出來ない事がある。その事を私は知つている。それだけに、更に惡い事が起きる事さえも想像されない事はない。
 佐々兼武でも來てくれれば何かの處置の仕方が考えられない事もないと思つて心待ちにしたが、意地の惡いもので待つている時には現れない。一日たち二日たつうちに遂に私はジッとておれなくなつた。
 まず貴島に會つて見る事だと考えたが、さて横濱の何處に居るのか、佐々からは聞いていない。貴島の手紙には所書きは書いてない。すると、さしあたりルリの所にでも行つて見る以外に無い。ルリの居るNスタジオの所在は佐々に聞いて控えてあつた。
 そこへ行つた。K町Nという男の家はすぐにわかつた。うす汚れた、目立たない建物で、案内を乞うと、唯一人で暮してると見えて當のNがすぐに出て來た。佐々が言つた通りの、弱々しい人の良さそうな男で、ショボショボと捨犬のような眼附きをしている。私が姓名を名のつてルリの事を尋ねると、私の事は聞いていたのか、それともこの男は人を疑うという事をまるで知らないのか、ニヤニヤと薄笑いを浮べ、寫眞の現像の爲だろう藥品で黄色く汚れた片手で禿げた頭を撫でながら
「はあ、ルリさんですか? あれは一昨日でしたかね、外出から歸つて來て、その後すぐ男の人が二人で訪ねて來ましたがね、その人達としばらく話していたようでしたが、それからその二人連れと一緒に出掛けて行きました。それからこつちまだ歸つて來ないんですがね…………」
 樣子が、不意と出て行つたきり一日や二日歸つて來ない事が珍しい事でないらしく、別に大して氣にも留めていないような加減である。出掛けて行つた先の心當りなど二三尋ねてみたが、何も知らないらしい。同時にルリを使つて裸體寫眞を寫している事についても、この私がそれを知つていると思つているのかそうでないのか、假に知つていると思つていても別に何の羞恥も後暗さも感じないもののようで、ヌラリして頼りない事おびただしい。訪ねて來た二人の男の人相風態をたずねると、
「さあ、そうですね、あんまりカタギの人たちじやなさそうでしたね。そうそう、一人の方は顏中にキズのある、凄い片眼の男でした」と言う。先日國友といつしよに來た二人づれらしい。それ以上のことは、何を聞いてもわからなかつた。
 しかたなく私はすぐにそこを辭して表へ出た。殘るところは佐々に會つて見る以外にない。私はその足で荻窪へ向つた。今頃佐々が荻窪の防空壕にぼんやりしているとは思えないが、ほかにしようがない。
 荻窪の例の燒跡の近くまで來た時は既に夕方で、西の方に夕燒が薄赤く殘つて、空はまだ明るいが、地上は少し暗くなりかけていた。窪地へのダラダラ坂を私が降りかけ、くずれ殘つた石垣のところを※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)ろうとすると、そこからヒョイと出て來た男が
「おいおい、あんた何處い行くんだ?」と立ちふさがつた。ズボンに、カッターシャツの上に、スェーターを着た若い男で、ざん切り風にバラリと刈りこんだ頭髮の下に、噛みつくような眼をしている。聲の調子も態度も、つとめて押し殺したものだが、何か殺氣のようなものが來た。それを正面から受けて、私はドキンとした。いきなり兇器を突きつけられたように感じたのである。男は、然し兩手をポケットに突込んだまま私の方をうかがつているだけだ。(國友大助の配下の一人…………)と考えたのは、私にいくらかの餘裕が出た時である。
「どこへ行くんだね?」
「……君は何だ?」
「どこへ行くんだと言つてるんだ」
「そこの防空壕まで行く」私は既に見えている防空壕の方を顎でさして言つた。
「……何の用だね?」
「佐々君――佐々兼武という人に會いたいんでね」
「佐々?……あの、雜誌屋かね? 雜誌屋なら、今居ねえよ」
「そうかね……あんたは國友君とこの人かね?」
「國友? 國友だと? 大助かね?」眼を光らしたようだ。「……するてえと、お前さんは誰だ?」
 そこへ防空壕から人影が出て、スタスタこちらへ歩いて來た。見ると久保正三だ。例の急がない歩き方で近寄つて來て、睨み合うようにして立つている私と男をゆつくり見較べてから
「いらつしやい」といつもの眠いような聲で言つた。
「うん?」
 男はチラッチラッと私と久保へ眼を走らせて變な顏をしている。
「何だよ?」と久保へ言つた。
「う?……うん。いいんだよ。これは三好さんという人だ。貴島の先生だ」
 男は一ぺんにわかつたと見えて、急にテレた笑顏になり、私に詫びるようにペコリと頭を下げた。
 それを無視して久保正三は防空壕と反對の驛の方へダラダラ坂をのぼつて歩き出していた。自然に私の足もそれに從つた。
「おい久保さん、おめえ、何處へ行くんだね?」後ろから男が呼びかけた。
「うん、驛前で食物を買つて來るんだよ。じきだあ」と久保は答えて、並んで歩き始めた私に向つて
「あれは、黒田の子分です」
「黒田の?……黒田というと、横濱のその、貴島君とこの社長なんだろう? それが今頃あんなところで何をしているんだね? 何か、張り番でもしているようだが?」
「社長だなんて? なあに、ゴロツキの親分だな」久保は澄まして私の質問を默殺した。
「僕はゴロツキは嫌いだ」
「どうしてあんな男が、あんな所に立つているの?」
「今の男はズーッと貴島の護衞についている男ですよ」
「護衞? すると……然し貴島君は横濱に居るんだろう?」
「……あんな奴等は卑怯な奴等で、クズですねえ」
 この男と會話をする事は不可能である。彼が他人の問いに答えるのは、答えたいと思つた時だけだ。自分の言いたい時に、言いたいだけをポツリと口に出して、土人の樣に落着いている。この前の時にそれを知つているので私は別に驚かなかつたが、今日はとくにひどいようだ。
「あんな奴等は、世の中に居ない方がよいです」
「佐々君は今居るんだろうか?」
「佐々は三四日歸つて來ません。僕の會社のストライキで、デモだなんて言つて騷いでて、なぐり合いが始まつてね、十人ばかり警察へ持つて行かれたんです。そん中に佐々もまじつて居たらしいや。俺も會社の二階から見ていたけど、夜で暗いもんで、ハッキリ見えなかつた」
「すると……君はなにかね、貴島君の事について、最近何か聞きはしないかね?」
 返事なし。
「……ルリという女が――そうだ、君はまだ知らなかつたかな? 防空服を着た若い女だが、二三日前に、そんな風な女が此處へたずねて來なかつたかね?」
「さあ、知りませんねえ」
「いや、その女の事でなくてもだね、最近何か變つた事が無かつただろうか?」
「僕は毎日會社の爭議の方へ行つてるから何も知らないんです。……ただこの間から、そうだなあ、十日位前からかな、夜になると變な奴が三人も四人も、僕等の防空壕を遠卷きにしてウロウロしていますがね、たいがい毎晩ですよ。顏はわかりませんけどね。貴島をねらつているようです。………いや、さつきの黒田の子分などとは違つた連中のようです」
 氣の無い調子でそう言つてから、しばらく默つて歩いたあと、ヒョイと又脈絡の無い事を言いはじめた。
「佐々に言わせると、ゴロツキは反動だ。だから叩き伏せてしまわなくちやいけないと言うんですがね。……俺はそんな事は知らないんだ。反動であつてもなくつても、どうでもいいんだ。俺は貴島が好きだ。あいつは馬鹿だけど、良い奴なんですよ。俺は、あいつがおかしな目に逢わされるのを默つて見ちやあおれないんです。だから俺あ、ゴロツキは嫌いなんですよ」

        24

「國友大助というのが、僕のところへ來てね――いや、國友は昔から知つているのだ。それが貴島のありかをしつこく私に尋ねた。然し私も貴島君が横濱に居るだけは知つているが、横濱のどこだかハッキリと知らないものだから、國友はそのままで歸つたがね」
「そうですか……」と久保は私の言葉を聞き流し、しばらく默つていてから、又同じような事を言い出した。「佐々は自分の共産主義でもつて、つまり主義から、ゴロツキを憎んでいますけれど、俺は違うんです。俺は貴島が好きだからゴロツキが嫌いだ。そうですか、國友があなたの所へ行つたんですか? 僕は貴島の親分の黒田には一度會つたことがありますが、國友には會つたことはありません。黒田という奴はいやな奴だ。國友という奴も似たようなもんでしよう。嫌いだな」
「いずれにしろ、このまま捨てておけば、まずいことがおきそうな氣がする。國友の子分達が血まなこになつて青島を追いかけていることは事實らしいからね。いや、國友には私からそんな事のおきないように十分に頼んでおいたが、今となつては國友の力でも抑えきれないらしい」
「そうですか……」
「また貴島君も、よほどムチャな事をしたらしいじやないか?」
「そうかも知れませんね」
「なぜそんな事をするんだろう?……それは、いつか貴島君に會つて話も聞いたし、手紙も貰つて、あの男の氣持が多少わからないことはない。死んだ方がいいとホントに思つている人間にとつて何をしようと同じことかもわからない。だけど……だから又、そんな事をしていて、何の役に立つんだ? とも言えるわけだ」
「全くだ。それは全くだ。全くだな」久保は珍しく三度同じ言葉を繰り返して、私に合槌を打つた。そして不意に、アッハッハハハと笑い出した。私はビックリして彼の顏を見直した。この男から私がはじめて聞く哄笑である。しかもそれは何かが破れたような全く氣の拔けた高笑いであつた。聲だけが笑つているだけで顏の表情はまるで笑つていない、いつものポカンとした冷靜な顏である。しばらく高笑いをひびかしたあとで、その笑い聲とは調子の全く續かない寢ぼけ聲で言つた。「………全くだ。どうしてそんな事をするんでしようね?」
「…………貴島君は、いつまであんな生活を續けている氣なんだろう? 今後どうする氣なんだろうかね?」
「さあ、わかりませんねえ。早くそんな世界からぬけ出せと言つてもぬけ出せないそうです。そいじや、逃げ出してどつか行つちまつたらどうだと僕はすすめた事があるんですがね、どうする氣だかサッパリわからない。やつぱりユウレイだ。フン!」

 話しているうちに驛の裏のマーケットの灯の中に出ていた。星もない夜空の下に、そこだけガヤガヤと狂氣じみた人々の聲と、食物と酒の匂い。盛り場の裏や驛の近くにどこにでも在る、賑やかであればあるほどわびしい風景。
 久保は八百屋や佃煮屋で二三の物を買い、最後に肉屋に寄つてからマーケットの角で待つていた私の所へ戻つて來た。その時私のそばをフラリとすり拔けて行つた女がある。それが久保に向つて
「あらあ、久保さん!」
 久保はユックリとその女を見てヤアと言つた。
「どうしたの今頃? 買物?」
「染子さんこそ、どうしたんだよ?」
「どうもしないわよ、振られたんだわよ。そうよ、振られちやつた。そうじやあなくつて? 貴島さんから振られたんじやありませんか。アッハッハ、だからこうしてフラフラしてんの。アハハ。いえさ、これからホールへ商賣に行くのよ。そんな變な顏をするのよしなさい」
 女は喋りながら身體をユラユラさせている。醉つている。この前の和服と違つて、今夜は緑色のイヴニングを着ているので、最初チョット思い出せなかつたが、その撫で肩から腰のくびれに特徴のある、軟體動物のように柔かな後姿で、間もなく思い出した。いつか防空壕で會つたダンサーの染子である。
「貴島さん、その後元氣?」
「うん……」
「今夜家に居るの?」
「居ないよ」
「ホント? かくさなくつてもいいわよ。あの人が居たつて私もう行きはしないから。だつて、あたし振られたんだからなあ。ホントは行つて會いたいんだけど、こんなダンサーにだつて女性の誇りはあるのよ。誰がクソ、あんなインポテントの色魔のとこなんぞへ行つてやるもんか。フフフフ。居るんでしよ?」
「ホントに居ない。この間からズーッと歸つて來ない」
「そいじやあ、まだ横濱?」
「う?……どうして君それを――?」
「知つているのよ。國友という組の子分の人が、こないだからホールへやつて來ちやあ、貴島さんの事をしつこく聞くもの。どうしたの一體、貴島さん? 何か追いかけられているんじやない? 用心した方がいいわ。そう言つといてよ。振られるには振られたけど、こいでやつぱし私はまだあの人を好きなんだわねえ。アアアア」染子は大げさに泣く眞似をして見せてから「……しかし、だから、いつそあんな奴は半殺しの目にあえばいいと思うのよ。だつてそうじやありませんか? 貴島は色魔よ。あんまりひどい! 人をさんざん引き寄せて、ひつぱり※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)しといて、勝手にいじくり※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)した末にうんだともつぶれたともハッキリしないで、うつちやつちまうんだもの。私にしてみれば、どう考えていいのかわからないじやあないの! いくらダンサーだつて、あんた、ただのお客と踊る時と、戀した男と踊る時は、違うのよ。同じステップを踏むんだつて、身體の持つてき方が違うのよ。腰を入れる。わかる? 腰を入れるのよ。ウフフ、立つて踊つているようだけど、その時には、男に抱かれて寢ているのと全く同じなんだわ。わかる、久保さん? 私の言うのはそれさ。それまで私をなにしときながら、そこから先のかんじんの事となるとケロリと知らん顏しているんだもん! ザンコクじやないか! え、ザンコクじやないの、久保さん! 貴島という人はそんな人なのよ。だからインポテントの色魔! それが私だけじやないのよ。私の知つているだけでも、貴島さんに同じような目にあつている女が五人も六人も居るんだ。一體全體――いいえ、こんだけの女の恨みが、ただですむと思つて? 今に見て御覽なさい、あの人の身の上にロクな事はないから。見ていろ畜生!」
「何だか俺にやあよくわからないよ。貴島にそう言つとく」
 久保は、兩手をフラフラさせて、まつわりついて來そうにする染子のそばを離れて、私の方へやつて來た。女はそれをしばらく見送つていたが、急にゲタゲタと笑い出し、片手を高くこちらへ向つて上げた。
「バイバイ。あばよ!」
 フン、と言つたなり久保はふりかえりもしないでスタスタと歩き出していた。
 そのうしろ姿を見ながら、私はそのまま歸つてしまおうかと考えた。いつしよに防空壕に行つても、貴島も佐々も居ないとあつては、無駄だ。……そう思いながら、しかし私は自分でも知らぬ間に、久保のうしろから歩いていた。默々として歩いて行く彼の姿の中に、變に人を引きつける催眠術みたいなものがある。そのくせ、彼は私の方を振り返りもしない。防空壕の所に歸りつくまで一言も言わなかつた。何か考えているようでもあるが、それが何の事であるか見當がつかない。
 防空壕のある燒跡にくだつて行く坂道のへんから、あたりの暗さが急に濃くなつて、まるで墨の壺の中に入つて行くような氣がした。マーケット邊の灯の光に馴れた目が、特にそう感じることもあるかも知れないが、それを拔きにしても、その晩の闇は特に濃かつたようだ。
 石垣の所まで來ると、先ほどの男が又出て來て「やあ、お歸んなさい」と久保に笑いかけてから私に向つて
「さつきはすみませんでした。あたしは、黒田んとこの杉田と言いまして……杉田の杉で、一本杉と言われていますけどね、ズーッとこの、貴島の兄きに附いております」
 挨拶のしようも無いので、ただうなずいていると、久保を振りかえつて
「今、そこいらで、變な奴に逢わなかつたかね?」
「うん? いや逢わない。どんな――?」
「いや、國友の方じや無い。私服の刑事かなんかだ。このへんを二三囘ウロウロして見てまわつていたようだつたが、今、そこの角を曲つて行つてしまつた」
「ふうん…………」
「……毎晩ここいらにやつて來る國友の奴等のことを、ドロボウか何かだと思つて、誰か此處いらに住んでいる人間が、サツにそう言つて行きでもしたんじやないかね? 心當りはないかね?」
「無い」
「そうか……」杉田はチョッと考えていたが
「まあいいや。どつちせ、大した事は無かろう。何か食う物、買つて來てくれたかね? なんせ、三四時間立ちどおしで、腹ペコペコだ。おどろいたよ!」
「買つて來た。食おう」
 久保は防空壕の方へおりて行く。私と杉田もそれに續いた。壕の中からはボンヤリしたロウソクの光が差していた。私たち三人が狹い入口をおりて行くと、その光にユラリと影を動かして、寢そべつていた男が一人、起きあがつた。
 貴島勉であつた。
 そこに貴島が居ようとは思つていなかつた。それなら、そうと言つてくれればよいのにと、あらためて久保を見ても、久保は何事も無かつたような顏をして、買つて來た食料品の始末をはじめている。氣がついてみると、なるほど「貴島が居ない」と久保が言つたのは染子に對してであつて、私に答えたのではなかつた。……ヤレヤレと思いながら私は貴島の顏を見た。
 貴島も私を見てびつくりしている。入つて來たのは久保と杉田の二人だけと思つていたらしい。
「ああ、三好さん…………」と低く言つて助けを乞うような眼色で、チラッと久保の表情を探るようにした。イタズラをして逃げかくれていた子供が、母親に見つけ出された瞬間のような、眞劍におびえた樣子があつた。それには私のがわに原因が有つたのかもわからないとも思う。貴島の姿を發見した瞬間、私は壕の中に立ちはだかつて、彼を睨みつけていたかも知れないのである。不良少年を弟に持つた兄の怒りに似た複雜な氣持を味わつていた事は事實だ。……私よりも上背のあるガッシリとした貴島の姿が、私の前で急に小さくなつてしまつて、オドオドと私を見あげた。しばらく會わない間に、目立つほどに痩せ、かねて青白い顏が、更に紙のように血の氣を失つていた。
「……すみません。御心配かけて――」
 そう言つて頭をさげた。襟足が女のように細くなつている。見ているうちに、どう言う加減か私は不意に涙が出そうになつて來た。それから、急にムラムラッと腹が立つて來た。貴島にも自分にも腹が立つて來た。同時にそれは、貴島に對するものでも自分に對するものでも無かつた。ギラギラするようにはげしい憤怒であつた。……
 そうしていながら、私は白状するが、その瞬間に、そして、その瞬間から、貴島勉を愛した。愛したなどという言葉は、おかしな言葉だ。私などがウッカリ使うと、そのトタンに薄つぺらになつてしまう言葉である。しかし、ほかに適當な言葉が無い。愛した。

        25

 間もなく、貴島はオドオドした調子から囘復して、私が訪ねて來たことをシンからうれしそうにしはじめた。
 蒼白な顏に薄く血の色をさし、はずかしそうにニコニコ笑いながら、コーヒーを入れてくれたりした。
 その横から杉田が、めんくらつて見ている。ふだんの貴島から、あんまり變つてしまつたので、ビックリしているらしい。それに「兄き」の貴島が急にイソイソして、まるで女になつてしまつたように歡待している、この三好という男は一體こりや何だろうという氣持が動いている。彼は、私に對して段々敬意のようなものを拂いはじめた。そこに、何か滑稽な、そして、生え拔きの博徒などの中に間々ある子供らしい眞正直さの調子があつた。
 四人の氣分が、だんだんほぐれ、三十分後には、なごやかな夜食の光景になつていた。
 杉田は、親分の黒田の命令で貴島の護衞に當りながら――貴島の身のまわり一切を世話することになつているらしい。相當の金を託されているのであろう。タバコやコーヒーやウィスキイなどの上等なやつがそろつている。そのウィスキイの口を開け、
「まあまあ、先生、一杯!」と言つて、杉田がキチンとかしこまつて坐つて、私に第一番目にコップを握らせた。先程久保が「貴島の先生に當る人だ」と言つたのをおぼえていたらしい。私はふき出しそうになつたが、相手が大まじめなので、笑つて氣の毒なような氣がしてだまつてコップを受けた。それを貴島がチラリと私の眼の中をのぞき込んで、クスリとする。嬉しそうだつた。自身が感じている幸福のあまり、ほとんど人に媚びるような眼の色であつた。
 貴島も飮み、久保も飮まされ、杉田も自分でグイグイやる。
「さつきは、ホントにびつくりしました。あなたが、來てくださろうとは思つていなかつたもんですから、しかし、よく來て下さいました」貴島はすこし醉いがまわり、舌がほぐれて來たようだつた。それを杉田が引き取つて、
「いや、しかし、あたしや、そんな事知らねえもんだから、こいつはと思つてね、さつきは。ヘヘ、すつかり暗くならない内でよかつた。暗くなつてたら、危なかつた。いえさ、あたしの方がさ。だつてテッキリ國友の方の相當の顏だと思いましたあね。そうですぜ、先生! じようだんじや無い。大した氣組みだつたからなあ。君は何だと言われた時にはギックリしたです。ハッハ、まつたくでさあ。いや、そいでも、先生、こんな男ですけど、なんですよ、あたしが附いているからには、貴島の兄きには指一本、絶對にふれさせませんからね。安心なすつて下さい」
 これも嬉しそうだつた。善良な氣質の男らしい。しかも、その道の人間としても相當ねれていて、そんな事を言わしてもキザな所が無い。戰後のグレン隊あがりなどにある薄つぺらさが無い。下司だが、下司なりに、ゴリリとして手ごわい所があるのである。私は、惡い氣持で無く、それに貴島をたずね當てた安心のようなものもあつて、快く醉つた。
 飮んでも、ふだんとまるで變らないのは久保だけだつた。顏を薄赤くして、眼を細くしてニコニコしているだけで、自分からはほとんど語らず、買つて來たハムを切つたりしている。
「惜しいなあ、雜誌屋さんが今夜居ないのは!」杉田が言つた。「共産黨かなんか知らねえが、あの佐々さんと言うのは、おもしれえ男だあ。いや、あたしなんざ、あの人からしよつちうやつつけられていますがね、それはしかたが無いさ。人間、ツラがちがつているように一人一人向き向きがありますからね。佐々さんは共産黨で、あたしは商賣人。仲良く出來ねえと言う法も無いですからね。ハハ。こんな晩にブタ箱なんかに、くらいこんでいる法は無いや。みんなこうしてそろつているつて言うのに。要領よくやつて、ヒョイと戻つて來ねえかなあ」
 言われるまでもなく、佐々兼武が居合わさないのは殘念であつた。彼が居れば、また議論であろうが、しかし酒宴は更に愉快なものになつていたろう。
 貴島も杉田も、横濱を引き上げて此處へ戻つて來た事情については、ほとんど語らなかつた。しかし、酒杯の間にチラリチラリと取りかわされる短い言葉から大體の樣子は察しられた。黒田組と國友の方の連中の關係が益々緊張して來て、横濱かいわいに貴島を隱して置くことが不可能になつたものらしい。そこに、貴島が急に荻窪に歸ると言い出した。とんでもない、横濱に居てもこれだけ危險なのに、荻窪などに歸る手は無いと反對されたが、貴島はきかなかつたようだ。黒田策太郎が「よかろう。案外に、國友の方じや、まさか荻窪に現われたりはすまいと思つているだろうから、二三日居て見るさ」と言つたという。それで、昨夜おそく横濱をのがれ出してここに來た。終始、貴島自身は、なんの危險も感じていないふうだつた。度胸がすわつているからと言うような事ではなく、危險を感じる氣持がマヒしてしまつているような所があつた。この壕を遠卷きにして國友の部下らしい者の數人がウロウロしているという事を、久保が話してない筈はないし、杉田の見張りも、そのためのものだろう。だのに、今日の晝も、杉田がチョットゆだんをしている隙に、貴島はフラリと壕を出て、そのへんを散歩して來たりしたようだ。「まつたく、じようだんじや無えや!」と杉田が言つた。
 しかし貴島はニコニコしながら、そんな事はほとんど耳に入れていない。そうして、何かしきりに私に話したそうにしている。先きの手紙の事から推すと、Mの事らしい。それで質問を待つようにしていたが、彼は言い出さなかつた。杉田や久保の前では話せないらしいのである。
 するうち、綿貫ルリの事を私が、言いだして見た。その後ルリは君んところに行つたかと聞くと、「いいえ」と言うから、これこれで、實は今日Nのスタジオに訪ねて行つたが不在。國友の部下に連れ出されたらしい言うと、急にギラリと例の眼色をした。
「……そうですか」しばらくしてから言つて、心配そうに考えこんでいる。私は國友と私との關係を手短かに話し、二三日前の會見のこと、ルリの事についても國友に一通り話して置いたから、彼の關する限り、ルリの身の上にそれほどまずい事は起きないと思つてよい事を言つた。貴島はいくらかホッとしたようであつた。
「なんです?……國友がどうしたんですと?」杉田がこちらを振向いた。
「いや、なんでもないよ」と私が言うと、杉田はチョッと變な顏をして貴島に眼をやつたが、やがてその貴島がウィスキイのびんを取り上げて酌をするのに「おつと!」と唇を持つて行つた。
 そんなふうにして、どれ位の時間が過ぎたろうか? 夜が更け、そのうち、全く出しぬけに、血なまぐさい鬪爭が始まるまで、壕の中は男ばかり四人と、酒とコーヒーとタバコの匂いと、なごやかに滿ちたりた空氣だけだつた。

 鬪爭と私は書いたが、それがどんな鬪爭であつたか、實は私にハッキリした事は言えない。暗かつたし、双方ともほとんど聲を立てなかつたし、第一、アッと言う間にはじまつて、そして何がどうなつたかがのみこめない内に、サッと終つてしまつていた。時間にしても、ホンの十分間たらずの間の事だつたろう。しかも私はその場に居合わしたとは言いながら、鬪爭は地上の燒跡で行われ、その間私は壕の中に居り外へ出て行つた時には、一切が終りかけていた所だつたのだ。
 今思い出して見ても、あの鬪爭が現實に行われたものかどうか、妙にうたがわしくなり、ホンの一瞬の幻影を見ただけのように思われる。とにかく、以下、私の見聞を、順序を追つて書いて見る。
 ハムかなにかをモグモグと食つていた久保が、フッと口を動かすのをやめ、何かに耳をすます眼つきをして
「誰か來たよ」
 ポツンと言つた。
 杉田も貴島も私も一度に默つてしまつた。急にあたりがシーンとなつて、燒跡の郊外の夜の靜けさが、身にしみるように感じられた。人聲も足音も聞えない。何を言つているのだろうと思つて私は久保の方を見た。杉田はスッと坐り直して、壕の天井を睨むようにして地上の氣配に耳をすましている。貴島だけが、ほかの事でも考えているのか、壁に倚りかかつてボンヤリとロウソクの灯を見守つていた。
「ウソだな。足音もしないじやないかね?」しばらくしてから杉田が低い聲で言つた。
「う、うん……五、六人だよ」久保が言つた。そのままシーンと靜まり返つて數秒が過ぎた。足音など私には聞えなかつた。
 そのうちに、壕からかなり離れた邊でピシリと枯枝でも踏みつけたような音が微かにした。それとほとんど同時に、杉田がスッと立つや、恐ろしい敏捷さで壕の入口の階段をパッと外に飛び出して行つた。あと又、ヒッソリとしてしまい、なんの物音もせず。しばらくして、杉田の聲で
「おいおい、何だか知らないが、まちがえてもらつちや困るよ。……誰だね、お前さんがたあ?」
 すこし離れた闇の中へ向つて言つているようだ。しかしその方からは何の答えもない。
「え? 誰だね? 何か言つたらいいじやないか」
 しばらく沈默がつづき、今度は全然聞いたことの無い男の聲が、離れた所から
「ちよつと伺いますが……貴島さん、居ますね?」
「キジマ? ……さあ、そんな人は知らんなあ」杉田が言つている。「なんか、まちがいじや、ありませんかねえ」
「おい杉田!……お前、黒田んところの一本杉だろう?」いきなりドス聲で杉田の名を言い、同時にドタドタと六七人の足音が入り亂れて近づいて來た。次の瞬間に、パッと壕の入口に飛びこんで來た杉田の顏の血相が變つている。貴島に向つて早口で一息に押し殺した聲で
「國友の奴等だ、六人ばかり居る。ここは俺が引き受けたから、兄きあ、すぐにズラかつてくれ!」と言うなり、ポケットの中からギラリと光るものを掴み出して、スッと外へ消えた。
 ギャァと、すぐに、男の叫び聲がして、あとは、ドタドタドシンと――壕の中にいると、まるで頭の上に、入り亂れる足音が、地響きを打つて聞える。
 貴島がスッと立ちあがつた。
「駄目だよ貴島、あがつて行つちや!」久保が言つた。それを見おろしてニヤリとして
「うん……」
「行くなよ、つまらん!」
 久保の聲を背に、ユックリと普通の歩度で貴島は階段をあがつて行つた。
 ドシンドシシと格鬪している音が續く。聲を立てる者は一人もいないのである。防空壕の天井の隅から、パラパラと砂が落ちて來る。……久保と私は互いに顏を見合せたまま坐つていた。久保のお盆のように丸い顏がボヤーッとしてロウソクの光を受けている。……頭上の眞暗な燒跡に、黒い野獸のように七八人の男たちが鬪つている。聲を立てないのは、そのような事に場馴れている者ばかりである證據だ。仲間同志の爭いに、他の者を卷き込んだり、それを第三者に知られたくないのである。それを私は知つている。それだけに又、そのような鬪爭がどのように凄慘なものであるかも知つている。行く所まで行かなければ、人の制止など絶對に聞くものでは無いのである。……私は床の下から突き上げられるような氣持をおさえつけ、おさえつけしながら坐つていた。
 ゲッ! と低く、吐くような聲が一つして、つづいて、ブスッと響く音――着物を通してピストルを發射した音である――がして、足音がドタドタと壕の眞上に迫つた。私も久保も思わず立ちあがり、壕の外に飛び出していた。トタンに、四五間先きから私たちの足元めがけて、サッと懷中電燈の光を投げた者がある。襲つて來た者の一人らしかつた。
 その光の輪の中に――壕の入口のすぐ前、私と久保から數歩の所にグタリとなつた貴島勉の片腕を掴んで肩にかけた杉田が、貴島もろともドサリと膝を突いたところだつた。壕の眞上に迫つたと思つた足音はこの二人のものだつたらしい。二人とも無言。一見して貴島の顏に血の氣無く、何か重傷を受けているらしいが、トッサの事で、どこにどんな傷を受けているのかわらない。杉田はあせつて起きあがろうとするが、自身もどこか傷ついているか、足掻きが利かないらしい。向うを見ると、闇の中に圓陣を作つて黒い影が五つ六つ立ちはだかり無言でこちらを見ている。
 久保が二三歩寄つて行き
「貴島、どうした、きさま?……」と言つた。
 貴島が土氣色の顏を上げて久保を見あげたが何も言わず、言う力が無いようだ。
「久保さん――」と低く言つたのは杉田だつた。
「兄きは、パチンコの玉を食つている。そいから、足をやられた。おい!」
 言つて、貴島の身體をゆすつた。貴島の上衣がめくれ、左の腿が現われたが、そこに、ズボンの上から、ほとんど直角に、中型の海軍ナイフが突きささつている。血はズボンの内がわに流れているのだろう、布にもナイフにも赤い色は見えないで、まるで壁にナイフを突き立てでもしたように、何か唐突な恰好に見えた。
 それを久保がジッと見おろしていた。それから、しやがんで、ナイフの柄に手をかけると、グッと拔いた。ベトリと血。懷中電燈の光の中で、それが黒――いや、濃い紫色に見えたのである。
「誰だよ、貴島をやつたのは?」
 久保が圓陣に向つて言いかけた。しばらく答えが無かつたが、やがて圓陣の一人が
「ふん!」と低く言つた。
 その方を、すかすようにして久保は立つていたが、フッとそれに向つて歩き出した。ナイフを逆手に持つている。急ぎはしなかつた。例のヒョコヒョコした歩きつきで、いつの間にはいていたのか、いつもの板裏ぞうりをペタペタ鳴らしながらである。電燈の光の逆光の中でズングリした姿がグラグラして大きく見えた。私はほとんど無感覺になつていて、ボンヤリ突つ立つたまま、それを見送つていたが、その時の久保の後姿を、私はいつまでも忘れないだろう。
「なんだ?……」と言う聲が圓陣の中からした。久保が自分たちの方へ近づいて來るのが、どんな意味だかわからないらしかつた。私にしてもそれがわかつていたとは言えない。直ぐに、その方で、ノコノコと一人の男のそばまで行つた久保が、右手をスッと横に拂うようにした。同時に、「アフン」と響く鼻聲が聞えた。グラグラと圓陣が搖れ動き、電燈の光がグルッと※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて、自分たちの足元を照らした。
 そこに一人の男が倒れていた。白いシャツの胸の、まん中近く、海軍ナイフが突きささつて、見る見る血がシャツの上に擴がつて來る。すぐ前に久保が立つてそれを見おろしていた。たつた今人を刺した人の姿では無い。ポカンとしてただ見物しているように、全然、氣の無い姿だつた。何か妙な錯覺のようなものが私に來た。その次に、その冷然とした久保のうしろ姿に、ホントに恐ろしいものを見たような氣がした。それは、私だけでは無かつたらしい。襲つて來た四五人の男たちも一瞬氣を呑まれたらしく、十秒ばかりの間、身動きする者も無く、もちろん聲は立てず、シンとして手負いの男と久保を見守つて立つていた。あたり一面、しんの闇の燒跡の原に石のような靜けさが落ちて來た。
 しかし次ぎの瞬間に久保一人を取りかこんで、どんな光景が展開するかが、電氣のように私の頭にきらめいた。私は、本能的に前に進み久保に近づいて行つた。
 その時、妙な事が起きた。
 ダダダと坂道を驅けおりて、一人の男が、襲つて來た男たちの背後へ近づき、低い早口で何か言つた。「フケろ!」と言う言葉だけが聞きとれた。後になつて考えると、これは、襲つて來た連中が前もつて坂の上あたりに見張りに立たせていたものらしく、それが、誰か人が來たか(――もしかすると巡囘の警官だつたか)何かで、それにこの場の事件を知られてはまずいと言うので知らせに驅けつけたものらしい。たちまち、電燈が消え、人と人の間に、短かい符ちようのような言葉が投げかわされ、刺されて倒れている男を一同でサッとかつぎあげるや、ザザッと風のように走り出し、闇の中に散つて行つた。
 電燈が消えた直後の、目つぶしを食つたような暗さの中だし、一つ一つがそれとハッキリ見えたわけでは無い。しかも、その迅速さが普通のものでは無い。ほとんどアッと言う間も無い出來ごとであつた。こんな事に馴れ來つた者たちの行動である。
 書けばこれだけの長さになるが、前にも言つたように全體がホンの數分の出來ごとだつた。映畫のカットバックでも見さされたように、びつくりしたり恐怖を感じたりしている暇も無かつたのである。わきを見ると久保もボンヤリと立つている。暗いので表情は見えないが、ダランと兩手を垂れた氣配に、かくべつ昂奮しているようなものは無かつた。……フッと貴島と杉田の事を思い出し、防空壕の方へ戻つて行つた。久保も私の後ろからついて來た。
 貴島と杉田も、居なくなつていた。壕の中かと思つて、のぞいて見たが、ロウソクの灯が誰も居ない壕の内側をボンヤリと照し出していた。そのロウソクを取り、壕の周圍をしらべまわつたが、やつぱり見えない。
「……どうしたんだろう?」
「そうですね……」
 ユックリ言いながら、久保は、先きほど貴島と杉田が倒れていた個所へしやがみこんで、そこの草を右手で撫でていた。その右手――まるで野球のミットのような感じのする、いつか私の見さされた、熔鐡の飛びついた跡がボツボツとえぐれている手いちめんが、ヌラリと血だつた。先程、男を刺した時に附いた血か、そこの草に附いていた血か、多分兩方だつたろう。やがて彼は、わきの、血に濡れていない草の葉をひとつかみ、むしり取つて、手の血を拭きはじめた。その手つきや、全體の態度が、いつか見た炊事をしている時と全く變らない。ユックリと落着いたものだつた。顏もいつもの顏だし、眠いような目だつた。考えて見ると、貴島を傷けた者を刺して、言わば貴島のために報復したわけだが、そのことからの昂奮はもちろん、喜こびのようなものも久保の表情には無かつた。この男は、もしかすると殺人者かもわからないのだ。そして、この男こそ、人を幾人殺しても平氣な人間かもしれない。そのような冷たい、不感の、強いものが此の男にはある。………見ているうちに次第に、ホントの恐怖がゾッと私に來た。
「逃げたようですね……」ポツンと彼が言つた。
「うむ……」
 久保が圓陣の方へ向つて歩いている間か、又は、一團の者たちが逃げ走つたのと同時にか、杉田は貴島を助けながら逃げて行つたらしい。
 とにかく、すべてが一瞬のうちに起り、その間なにを考えている暇も無く、氣がついた時には、私と久保だけが、闇の燒跡のまんなかにポカンと取り殘されていたのだ。今起つた事がホントに起つた事かどうか疑わしくなつて來るような時間であつた。キツネにばかされたと言うのは、こんな氣持を言うのだろう。
 私と久保は、暗い中にいつまでも立ちつくしていた。……

        26

 以上で、事件の見聞者としての私の記述は終る。
 これだけでは、全體としても部分々々にも、よくわからない事があることを、私自身も知つている。しかしそれは、やむを得ない事であつた。なぜならば、そのようなアイマイさが生れたのは、幾分は私の記述の拙劣さのためであるが、同時に大部分が、事件が私の目に觸れた、その觸れかた自體がきわめて不完全な一面的なものであつた事から來ている。しかも私は終始、つとめて臆測や修飾を控えた。完全な脈絡の美を採るよりも、先ず何よりも眞實につかうと思つたためである。そして、そのためには、新聞雜報的な意味での低俗な「事實ありのまま」式な書き方さえも、あえて辭さなかつた。全體の不明瞭さをとがめる人があれば、その非難を甘んじて私は受けなければならぬ。
 以下、貴島勉が私にあてて書き送つた手紙の數篇を書き寫すのも、この異樣な青年の、その後の姿を追いかけるという事の他に、この不明瞭さを、補つて見たいと思うためである。これを讀めば、私の記述の不完全な所や缺落した所や裏のことが或る程度までわかつてもらえると思う。

 荻窪の防空壕の前で姿を消して以來、十日たつても一月たつても貴島は私の前には現われなかつた。同時に綿貫ルリもフッツリと姿を消した。久保と佐々は、その後も一二度私を訪ねて來たが、二人とも貴島の消息を知らず、心配のあまり、逆にそれを私にたずねるために來たのだつた。もしやと思つて、私は國友大助を訪ねて行つたが、先に彼が私に知らせた住所には既に住んでいなかつた。附近で問うても、ついに行く先きはわからず。佐々が横濱の黒田組の者に會つて、せんさくしても、貴島の消息の手がかりをつかむ事は全く出來ないと言う。
「あの連中の、イザとなつての口の固さと來たらおどろきました。大したもんだ! もつとも、貴島が行方不明になつたのは、國友の方の事を考えて、黒田が言いふくめた上でやつた事らしいから、黒田だけは、知つているでしようが、ほかの連中はホントに知らないのかもしれませんね。その黒田にしても、金でも掴まして逃がしてやつただけで貴島がどこに居るかは知らんでしよう。ああいう仲間ではよくある事です。つまりワラジをはくと言うやつです。とにかく、死んではいない事だけは、たしかです。二三カ月すれば現われますよ」と佐々は言つた。
 それから、その三カ月ばかりも過ぎたが遂に消息なし。氣にかかりながらも、時に忘れることがあるようになつた頃、フイと貴島から長い手紙が來た。無事だつたかと安心したことだが、しかしその手紙自體は變な手紙で、それについて差しあたり、なんと言えばよいかわからないようなものだつた。
 手紙は半月または一月位の間を置いて屆いた。時によつて二カ月ぐらい來ないこともある。かと思うと、十日位の間に二三通つづけて來ることがある。皆かなり長い。約十カ月位の間に十五六通の手紙をもらつた。
 その中の十二三通を次ぎに掲げる。枚數にして百五十枚、或いはもつとになるかもしれぬ。
 御覽の通り、手紙と言うよりも手記に近い。貴島自體が往々にして私に向つて書いている事を忘れるのではないかと思われる節がある。或いは自分の心おぼえとして書いたものを、捨てる代りに送りつけたとしか思えないものもある。それにスタイルに統一がなく、書き方は亂暴で氣まぐれである。
 しかし、私は、あえて筆を加えないままにして置く。

        27

 三好さん――

 いつかは、荻窪で御迷惑をおかけしました。杉田と私とが逃げ出した後で、つまらない目に會われはなさらなかつたかと、ずいぶん心配しました。でもその後、知らせてくれる者があつて、御無事だつた事を知り、いくらかホッとしました。
 しかし、どちらにしろ、僕のことでは、はじめから御迷惑ばかりかけ、おわびのしようもありません。あの後、よつぽど、おわびに伺おうかと思いましたが、どうしてもあがれませんでした。どうかお許しください。
 あの晩荻窪に押しかけて來たのは、國友の子分たちです。後でわかつた事なんですが、國友さんはあなたから話が有つたためか、國友さん自身の何かの氣持のためか、その前から、身内の連中に、僕を追いかけまわすのはよせと言つて止めていたそうで、あの晩のことも國友さんは全然知らないことだつたそうです。
 いつか久保から聞いたのによると、あなたは染子というダンサーに僕らの防空壕で一度會われたそうですが、あの女がどう言うわけか僕をうらんでいまして、あの晩のこともあの女が二三日前から向うの連中を手引き――と言うほどでは無いでしようが、とにかく連絡したようです。國友の子分の一人で染子の行つているホールによく行く男が居りまして、それが以前から僕と染子の關係を知つていたのです。
 僕はあの晩、肩先に貫通銃創を受け、腿をナイフでやられました。貫通銃創の方は、なんのことはありませんでした。もう、完全に治つてしまいました。腿のキズも大した事はないのですが、筋肉が切れていたそうで、手當をしてからも、しばらくの間は歩くことが出來ず、現在でも時々うずき出すことがあります。杉田も二カ所ばかり傷を受けていました。しかし、これも大したことはありませんでした。杉田と私は、あれからしばらくの間、ある醫院に入院していました。
 あの晩、久保に刺された向うの男は(そのことは、後ですぐ聞いたのです。黒田自身がしらべて來て教えてくれました)あの後どうなつたか、わかりません。案外大した事は無かつたかも知れませんし、或いは死んだかも知れません。萬一死んだとしても[#「死んだとしても」は底本では「死んだとしたも」]、多分、外部には全然知れないでしよう。あの連中はそうなのです。
 しかしどちらにしろ、久保もバカなことをしたものです。久保は僕を傷つけた奴を許しておけなかつたのです。僕は戰爭中、オキナワで死にかけている久保を助けてやつたことがあります。それを久保は忘れないでいるのです。バカな奴です。しかし僕のためで無くても、久保と言う男は、いつたんそうしようと決心すれば、人の一人や二人はすまして殺す男です。彼奴は僕の知つている人間の中で一番恐ろしい、強い人間です。だからバカな人間だと言えます。久保はあの時、僕のために復讐をする氣だつたのです。ところが、あの晩、杉田のあとから壕の外へ出て行つた僕の氣持は、實は國友の連中から殺されてもよい氣持でした。生きているのが、すこしめんどうくさくなつていたのです。
 いや、そう言つてしまうと、すこしウソになります。そうではありませんでした。生きているのがイヤになつていたのは、あのしばらく以前までの事で、――その事で書きます。――特にあの晩は不意にあなたが來て下さるし、みんなで酒を飮んだりしているうちに、僕は非常にうれしい氣持になつていて、とても幸福でした。戰爭後、はじめてスナオな自分に立ち歸れたような心もちでした。そして久しく考えていた私の本心を今夜こそあなたに打ち明けてあなたの御意見を聞き、又それについていろいろ教えてもらいたいという氣になつていたのです。しかし杉田や久保がそばにいますし、久保はまあかまいませんけれど、杉田にはどうしても聞かせたくない話なので(――いえ杉田は實に良い男で私の好きな奴です。しかしキッスイのヤクザで僕などとはまるでちがつた世界に生きている人間なのです)もうしばらくもうしばらくと思つているうちに、あんな事が起きてしまつたのでした。つまり言つて見れば、生きているのが張り合いがあるようになるかも知れないと言う氣が微かにした、はじめての晩に、僕は死ななければならぬかも知れなくなつていたのです。實に皮肉な、妙な氣持がしました。しかし、すぐに諦めがつきました。おれと言う人間は、いつでもこうなのだ。いつでも、事がチョット明るく、うまく行きそうになると、トタンに根こそぎ叩きこわされる運命になつているのだ。いいじやないか。生きていたつて、どうせ今俺の考えていることなど、まるで夢のような事かもわからないのだ。死ぬのもサッパリしていいだろう。……そう思つたのです。そして壕を出て行つたのです。
 しかし、つい、死ねませんでした。こうして生きて、温泉につかつたりしています。僕は今H――温泉に來ているのです。
 黒田策太郎は前から僕に言つていたのですが、荻窪で襲撃された後で、どうしても半年ばかり身をかくしてくれと言つて、かなりの金を僕にくれました。このままでいれば殺されるかも知れないからと僕の身を考えてくれたためもありますが、同時に、僕があのままで居ると、自分の組と國友の方との關係が益々もつれて惡化する恐れがあつたからです。黒田はそれらを正直にブチまけて私に話しました。私は、もうかなり前から、あんなふうな世界にゴロゴロしてつまらぬ事ばかりやつて暮す生活に飽きていました。それに、僕には新しい目的――とは言えないかも知れません、ただボンヤリと自分が差し當りやつて見たい事――が生れて來かけていたのです。ですから黒田の話をスナオに受けて、その晩から誰にも知らせずに行方をくらましてしまつたのです。半年ぐらいの間は、一人きりであちこちと旅行したり、自分の好きな事をして歩くだけの金はあります。
 その間僕は、あちらこちらから、あなたに手紙を出そうと思つています。その理由は、前に申し上げました。僕はあなたを好きなんです。
 それに、今言つた僕の新しい目的みたいな事があります。それが、あなたに關係が有るのです。あなたと言うよりもMさんにです。
 これまで、あなたに僕が話したり、それから横濱から出した手紙など、みんなウソです。いえ、ウソと言つても、その中で僕は積極的にウソをついたのではありません。ただ自分の一番ホントの氣持を言わないで、どうでもよい事ばかりを言つていたと言う意味なんです。
 それを、かくしたい氣持は僕には有りませんでした。しかし何か、恥かしくてこれまで言えなかつたのです。今でも恥かしいのですが、當分あなたにはお目にかかれないし、お目にかかろうと思つても出來ない境遇に僕はいるのですから、思い切つて言います。そうしないと、これから先きの僕のことがあなたにわかつていただけないだろうと言うこともあるのです。僕はあなたから笑われ、輕蔑されても、かまいません。しかし、僕のことを、きらいになつてだけは下さいますな。
 僕は、或る一人の女を搜しているのです。
 その女は、僕が男として生れてはじめて肉體關係を持つた――つまり僕の童貞を與えた女です。現在僕が置かれた境遇を利用してここ當分搜して見ようと思つています。
 僕は、その女の名を知りません。はじめから知らないのです。おかしいことだとあなたは思われるでしよう。しかし、名だけではありません。僕はその女の顏も、よくおぼえていないのです。
 實に、恥しい、コッケイなミジメな氣持がして、僕は泣きたくなります。しかし事實そうなんです。僕が僕の童貞を與えた女は、どこの誰ともわからない女なのです。……もう少し詳しく書いてみます。

        28

 …………
 こんなふうに言いますと、僕が童貞というものをひどく尊重していたように取られるかも知れません。しかし、ちがいます。僕はかくべつ尊重はしていませんでした。一般的に言つても、そんなに大事なものであるとは思つていなかつたのです。今でも同じです。
 だつて、そうではありませんか。誰にしたつて生れたままでいれば、そうなんですもの。「童貞」などという言葉で言うから立派そうに聞えますけど、それはあたりまえの、何でも無い事です。人間も動物です。或る時まで童貞で、それから或る時に童貞でなくなると言う事は、動物のすべてに起きる事で、尊重する必要も輕蔑する必要も無いと思うのです。僕は童貞なんか、どうでもよかつたのです。と言うよりも、それまで、ほとんど自分が童貞であることを意識することさえも無く過して來たと言うのが當つています。ですから、あの晩――と言うのは、僕が出征する三日前の晩です。そしてその次ぎの日の宵の口にMさんは僕をあなたの家の門口まで連れて行かれたのです。つまり、あの前の晩です――Mさんから聞かれるままに僕がまだ女を知らないことを何の氣も無く話しました。そしたらMさんが、いきなり眼をむいて、
「え! 君あ、すると、童貞かあ?」
 と大聲を出して、びつくりされたので、實は、僕の方がかえつてびつくりしました。
 前にも書いたように、僕は父の手ひとつで嚴格に育てられました。いえ、父は別に僕を嚴格に扱つたのではありません。僕も又、父のやりかたを嚴格だと感じたことは一度もありませんでした。父はむしろ、一人息子の僕を、ただ舐めるようにして可愛がつて育てただけです。ただその父がおそろしく剛直な古武士的な人間だつたために、自然に僕を可愛がる可愛がりかたが、ひとりでに「サムライの子」の育てかたになつたわけです。――ですから、僕が自分の育ちかたが嚴格なものである事に氣附いたのは、十八か十九になつてからでした。
 とにかく、そんなふうに育てられ、乳母だけは知つていますが、自分の身近かに女の人が一人も居ませんでした。親戚には女の人は居ましたが、そんな所とあまり親しく交際もしませんでした。青年になるまでの僕の視野には、ほとんど女の姿は現われなかつたのです。今でも僕は女の人をあまり近くで見るとドギマギしてしまつて、どうしてよいかわからなくなり、自分には理解することのできないものを突きつけられたような氣がするのです。
 もちろん小説などは、十七八の頃から相當讀んでいましたので、女についても、戀愛や性慾のことも知つてはいました。友だちの中にオナニズムを盛んにやつている者もいて、その事も僕は知つていました。ですから頭だけでは、時によるといろんな妄想を描いて見たりすることもありましたが、それをどんな形でも實行して見る氣にはならなかつたのです。決してそれは倫理や道徳などから來る考えによつて、自分をしばつていたのではありません。父の教育のせいでもありません。父は、それこそ、どんな事でも僕を強制したり、「これこれをしては、いけない」などと言つたりした事は一度も無かつたのです。まるで自然にそうなつていたのです。劍道や柔道やその他の運動に熱心だつたせいで、そんな事の方へ頭が行くことがすくなくなかつたためもあります。(僕は劍道は三段で柔道は二段です)。それから世間で言う「オクテ」のひどいのらしいのです。頭の進みかたよりも、身體の進みかたが、ひどくおくれています。いや、僕の頭の進みかたなどと言うとコッケイですが、僕の言つているのは、身體の進みかたに較べての話です。もしかすると僕の生理には、どこか缺陷が有るのかも知れないと思つたことも二三度ある位です。
 とにかく、そんなわけで、僕はそれまで女を知りませんでしたし、知ろうとも思いませんでした。ですから、Mさんから、そんなに言われて、かえつて僕の方がびつくりしたわけです。
 それは、Mさんが僕のために開いてくださつた壯行會の席上でした。壯行會と言つてもチャンとしたものでは無く、Mさんが「君のための壯行會だから、ついて來い」と言われて、小さな飮み屋につれて行かれたのですから、席上にMさんの知り合いの女や男が三四人居たのですが、それらは偶然にそこでいつしよになつただけの人々で、ですから、ホントの出席者は僕とMさんの二人きりの壯行會でした。Mさんは、既に醉つていられました。あなたも御存じだろうと思いますが、あの頃、Mさんは、仕事以外の時はほとんどいつも醉つていられました。
 Mさん自身の家庭生活が何か非常に亂れていたらしく、苦しんでいられた。その上に、戰爭というものに對して腹の底から悲しみ怒つていられた。あの人は理窟は言われませんでした。又、頭の中に理論的なものを、シッカリ持つていた人ではなかつたと思います。しかし、なにかとても大きい豐かな人間性と言つたようなものを持つていた人で、そのために本能的に進歩的な人だつたし、戰爭嫌いでした。ですから、日本のはじめた戰爭を始終怒り、そしてそのために同胞が、特に青年たちがドンドン死んで行くのを悲しんでいられた。戰局が次第に激しくなつて來るにつれて、酒でも飮んでいなければ、とても耐えきれなかつたのでしよう。醉うと、よく、泣いたり怒つたりしました。
 その時も僕の顏を穴のあくほどシゲシゲと見ていてから、
「それで、それで君、貴島! 君あ、それで出征する氣か?」と、せきこんで言われました。
「ええ」
「ええ? ええだつて? それで、なんともないのかい? 今、こんな戰況の最中に出征するという事は、このなんだぜ、たいがいまあ、なんだよ。知つてるな君あ?」
「知つてます。それでいいんです」
「それでいい? いいか、それで? いや、そうさ、そりや、それでいいのかも知れん。いやいや、ちつともよくは無いけど、もうこうなつたら、どつちみち、出征したつて此處いらにマゴマゴしていたつて、どつちみち、もういけないのかもしれん。だから、それはしかたが無いとして、その童貞……つまり、せつかく男に生れついてだな、このヘタをすると一人前の人間になりきれないままで、ジ・エンドだぞ。それでいいのか君あ?」
「……だつて、しかたが無いですから」
「……しかたが無い? しかたが無いんだと? チェッ! チェッ! チェッ!……そうさ、しかたが無いと言やあ、しかたが無い! バカだ! うん、バカヤロウだよ君あ! いやいや、バカヤロウは君じやない、バカは日本だ! おれたちの、この日本だ! チキショウ! だからよ! なぜ、なぜ、それを君は、もつと早く言わない。もつと早く、なぜ俺に言わないんだ、バカあ!」
 ガツンとテーブルを叩いて怒り出されたのです。それから、ガブガブと強い酒をあふりながら、ワケのわからぬ事を言つて怒つていられましたが、しばらくすると、今度はボロボロ涙をこぼしていられるのです。
 僕は困つてしまつて、どうしてよいかわからず、だまつて腰かけていました。
「……悲しいなあ貴島! 青年は悲しいなあ」
 そう言つて、燈火管制のための蔽いをかけた電燈の、薄暗い光の中で、僕をジッと見られました。以前、新聞などで「新劇の團十郎」と言われたという面長で彫りの深い、それこそどんな人物の性格や心理でも、この顏でなら表現できないものはあるまいと思われる造作の顏いつぱいに、ほとんど少年のような純粹なアケッパナシの悲しみを浮べながら、頬は涙でぬれていました。それを見ていて、僕も泣きたくなりました。
 Mさんは直接には、僕の童貞のことを言つているのですけれど、しかし、ホントはMさんはそんな事を言つているのでは無い。もつと深い、もつと、どうにも出來ない、われわれ全體の運命のようなものの事を言つている。愚かしい殺し合いのために、青春が浪費されている。………それなんです。それが、くやしくつて、腹だたしくつて[#「腹だたしくつて」は底本では「腹たたしくつて」]、しかたが無いのです。その氣持の中にはMさん自身の青春――それは過ぎ去つたものでありながら、しかしまだMさんの中に生きているもの。なぜなら、Mさんは年こそ中年ですが、すべての點で僕らと同じ青春を持つていた人です。――その青春を惜しむ心だつたと思います。それはMさんにとつて僕の事であると同時にMさん自身の事でした。自分も人も引つくるめて、くやしくてならないのです。しかも、今こんなふうになつて來ているのに、いくらくやしがつて見ても腹を立てて見ても、一切が無駄だ。そのために、悲しみも怒りも、持つて行きどころが無く、尚いつそう深くなる。……そのようなMさんの氣持が僕にもよくわかるのでした。……そうして、見つめ合つたまま、どれ位の時間がたつたか、僕はおぼえていない。しかし、あの瞬間を忘れない。僕は忘れることができない。僕が日本や日本人を、ハッキリと意識的に愛した瞬間が一度でも有つたとしたならば、あの瞬間でした。あの瞬間だけだつた。Mさんを通して、はじめて僕は日本を愛したのだ。Mさんは俺の師でしたが、その時から師よりももつと大きなものだつた。僕の眼であつた。僕の母であつた。Mさんはあの瞬間に僕に日本をハッキリと見せてくれた。日本人である僕自身を見せてくれた。だから、自分と言うものを産んでくれたとも言える。父が無意識のうちに僕の中に育てあげてくれたものを、Mさんは見せてくれ、知らせてくれ、意識させてくれた。――
 氣が附くと、同席者のよつぱらつた男女が、Mさんが泣いているのを見て、からかつて、笑つていました。それらを睨みまわしてMさんは
「よし! 俺にまかして置け貴島! 俺の言う通りにしろ! 言う通りにしないと、きかんぞ! いいか、俺にまかせろ! 行こう!」
 と言つて立ち上りました。それから、Mさんは急に火がついたように、あわて出されたのです。その姿は實に眞劍で、そして眞劍であればあるほどコッケイに見えました。その晩、まるで驅けるようにして、あちこちとMさんは僕を引つぱり※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)されたのですが、しまいに、
「ダメだ! もつと早く、なぜ言わないんだ、バカ! しかし、そうだ、君の出征は明後日だから、まだ明日一日ある。よし! 明日、君んとこへ行くから待つていろ!」と言われて、別れて、そして、その次ぎの日の午後、又Mさんに連れだされ、方々歩きまわり、その途中であなたの所に寄り、その後、夜おそくなつて、變な所で僕はその女に逢わされたのです。

        29

 その晩の自分の氣持がどんなものであつたか、今思い出そうとしても、僕自身にもハッキリしません。
 第一、Mさんを僕がどんなに尊敬していたにしろ、そんな變テコな目的(?)を持つているMさんの後からノコノコついて歩いた自分の量見がわからないのです。Mさんの調子はホントに眞劍でした。あなたも多分ごぞんじのように、あの人は、ホンのチョットした遊びをするにも、それに全身を打ちこんで無我夢中になつてやれる人でしたが、あの晩の調子と來たら何かギラギラと燃えているような具合で、イライラと、あわて切つて、僕が何か言つても耳にも入れてくれないのです。例の通り酒は入つているようでしたが、フザケたような所は無くなつていました。「もういいじやありませんかMさん! 僕あ、もういいですよ!」と僕が引きとめにかかろうものなら、眼を怒らして、
「グズグズ言うな! 生れて來たからには、人間として飮みほすべき盃だけは、全部飮みほさなきやならんのだ。だまつて、ついて來い!」
 僕をどなりつけるMさんの顏に何かホントに嚴肅と言つてもよいような影が差しているのを僕は見ました。……僕はだまつてくつついて行くしかありませんでした。
 それに、僕の中にも性慾はあるのですし、前にも書いたように、童貞を尊重したりはしていないのですから、女を知るという事に興味を持つていなかつたなどとは言えない。案外心の底の方では、Mさんの言う通りになつて見ようという氣が動いていたのかも知れません。いや、たしかに、動いていました。ウズウズと、どこか自分の身體の隅で、それを望んでいたようです。それが性慾であつたか、それとも生きて歸ることを全く考えられない出征を前にして、一つの點を打つ、又は切開手術をすると言つたふうの慾望であつたか、そのどちらであつたか。いずれにせよ、たしかに、僕自身が望んでいたにちがい無い。そうでなければ、いかにMさんが僕の首根つこをつかまえるようにして連れて行つたにしろ、本氣でそれを僕がイヤだつたのならば、ふりもぎつて逃げ出してしまうことができない筈は無かつた。
 それに、もう一つ、Mさんがあんまり一所懸命になつていられるので、それをハズしてしまうのが、なんだかすまない――と言うよりも、Mさんが可哀そうなような氣が、正直のところ、ありました。
 そんなふうな、アヤフヤな氣持のままで連れて歩かれている間に、あちこちで強い酒をずいぶんたくさん飮まされ――それも最初からのMさんの計畫の中に有つたらしいのです――最後に、たしか澁谷あたりの小料理屋を出て、小型のタキシイに、肩を抱かれて掻きのせられた時には、泥醉に近く、自分がどこに居るのやらわからないような状態になつていました。自動車が走り出しても方角など、まるきりわかりません。當時、東京が空襲を受けはじめたばかりの頃で、燈火管制がムヤミにやかましく言われ、それが例の通り必要以上に行き過ぎて東京中がなんでも無い時まで眞つ暗な時分でした。ルームライトはもちろん消してあり、布をかぶせたヘッドライトが、螢の火のように二三間先きの路面をボンヤリと照しているきりで、窓から兩側を見ても、ほとんど燈火が見えません。Mさんは默つています。自動車の停つた所が、どの邊であつたかまるで見當がつきませんでした。ただ氣配で、東京の中心部あたりのゴミゴミした町中であることだけがわかりました。やつぱり銀座裏か京橋へんではなかつたかと思います。
 自動車が停るとMさんは、醉つてグダグダになつている僕を肩にかつぐようにして車から引き出し、暗い露路の奧へ奧へと、角を二つばかり曲つて行き、或る家の戸をドンドン叩くと、内から女の聲がして、やがて狹いドア(――たしか、西洋式のドアでした)が内から開きました。外部にも内部にも燈火は無いので、その家の樣子も、内からMさんに話しかけた女の人の姿も、まるきり見えませんでした。しかし前もつて話してあるらしい加減で、その女に向つてMさんが早口で何か言つているようでした。「ゆんべ話した美少年だ。……頼みますよ。明日出征するんだ。……可哀そうじやないか。ね、わかつてくれ。死ぬんだ、もうすぐ。頼むよ、おれの弟だと思つて……いやいや、別にどうと言つて、どんなふうに遊ばせてくれてもいいんですよ。……どうか好きなように……」そんな言葉が、フラフラしながらMさんにつかまつて立つている僕の耳に殘りました。すると女が何か答え、Mさんが、家の中へ僕を突き入れるようにして、自分は小走りに立ち去つて行つてしまつたようです。
「どうぞ……」
 と小聲に言つて、僕の身體を抱き取つたのは、聲の調子やなにかで、中年過ぎの女だつたようです。ムッと、一種の匂いが僕を包みました。もう夜なかを、とつくに過ぎた時間だつた筈で、その女もいつたん寢どこに入つた後でMさんに叩きおこされたのではないでしようか。寢どこで暖められた匂いのようでした。……もちろん、こんな事をその時の自分が考えたりしていたのではありません。すべてが、後から切れ切れに思い出したことを書いているので、その時は醉つているし、眞つ暗だし、半ば無意識で、夢を見ているようでした。どんなふうにして、その家にあがつたのか、どんな所を通つてその室に入つたのか、全く記憶が無いのです。それから、僕は、いつときグッスリと眠つたらしい。
 今度眼がさめたら、フトンの中に横になつていました。わきに誰か一人寢ているんです。女でした。最初のとちがつた、若い女です。匂いがちがいます。それに、暗い中で身じろぎをする身體の調子もちがいます。
 女は僕が眼をさましたのを知つたのか、半身を起して、枕元に置いてあつたらしい水さしからコップに、コプコプと言わせて水をつぎ、默つてコップを僕に渡してくれました。それを飮みながら、女の方を見ると、まつ暗なので顏も姿も、まるで見えませんけれど、それでも眼が馴れたか、暗い中にもう一段黒く、かすかに頭髮のシルエットと、それから薄白い顏のリンカクと、その下に肩と胸らしい所が見えました。と言うよりも、後から思い出して、そんなものを見たような氣がしただけかもわかりません。いやたしかにそうです。ホントに見たのであつたら、その顏を、もうすこしハッキリおぼえている筈です。それがまるきりおぼえが無いのですから、やつぱり見たような氣がしただけです。
 そのくせ、その瞬間に、女が肩も胸もむき出しの裸になつていることが僕にわかつたのは、どういうわけでしよう? 動物本能と言つたようなものでしようか? しかも、肩と胸の、フックリと盛りあがつた白さまでも、たしかに見たような氣がするのですから變です。……女は裸でした。そしてヒョイと氣が附くと僕自身も、いつの間に脱がされたのか脱いだのか、着ているものを全部捨てて寢ていたのです。不意に僕はドキドキして、どうしてよいかわからなくなりました。無意識に起きあがろうとしました。すると女が默つたまま、ツと寄つてのしかかるような加減に、冷たい、そのくせシットリと汗ばんだような腕を僕のワキの下から背中へ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)して、乳房を僕の胸にピタリと附けて來ました。僕は息がつまつたようになり、急に身體がふるえ出したようです。泣きたいような死んでしまいたいような、ミジメな氣持がしました。すると女が、身體を弓なりに反らすようにしながら、僕の背中にまわした腕を下の方へだんだんさげて行きます。何か強い匂いがしました。ベトリとしめり氣のある肌でした。氣が附くと女もブルブルと全身ふるえています。あるいは僕自身のふるえを、相手までふるえているように感じたのかも知れませんが、でも、たしかに女もいくらかふるえているようで、それをこらえるためでもあるかのように、兩脚にグッと力を加えて來ました。僕の身體が、どこだか知らないがギリッと痛みました。次に頭がボーッとなつて來たことを憶えています。

 …………………

 それから、どんな事が起きたのか、おぼえていません。
 いえ、ここまで洗いざらい自分の恥を言つているんですから、そこの處を書くのを避けようとしているのではありません。絶對にそんな事はありません。ホントにおぼえが無い――と言うよりも語りようも書きようも無いのです。おぼえが無いと言うのはウソです。しかし、そこには、語るべき事はなんにも有りません。アッケないと言つても、どう言えばよいのか、ほかの人も最初はみんなこんなもんなんでしようか? そこには全部があるようでいて、しかも、なんにも無いようなんです。なんという馬鹿な事を人間はするものだろうと言う感じもしましたし、同時に、なにかもう、人間に出來る事はこれで全部しつくしてしまつたような感じもしました。
 正直に言います。完全な射精がありました。一瞬間の恍惚がありました。しかし、快感らしい快感は、ほとんどありませんでした。
 女は僕の身體の下に死んだようにジッとしていました。その顏が僕の鼻の先きに、ホンノリと浮んでいました。線の細い、やせがたの面長の、美しい顏を見たような氣が僕はしたのです。間も無く默つて起きて、どこかへ行きました。考えてみると最初から、女はズッと默つたきりで、一言も口をきいていません。どこの何と言う、そしてどんな女だろう?……僕は、なにか虚脱したような無感覺な氣持であおむけに寢ながら、無意識のうちに女が戻つて來るのを待つていたようで、そうなれば女の正體もひとりでにわかるだろう事を豫期したやうです。しかし女は、いつまで經つても戻つて來ませんでした。そのうちに、とつぜん僕は耻かしくてたまらなくなりました。こんな所で見も知らない女とこんな事になつたことも、その相手を又待つているという事もです。カーッと全身がほてつて、とてもガマンが出來なくなつて來たのです。このまま歸つてしまつては、いけないような氣もしたのですが、とても一刻もジッとしてはおれなくなつた。
 それで逃げ出したのです。枕もとを手さぐりすると僕の洋服がそろつていたので、それを順序もなにもメチャメチャに着けてから、暗い中を四五歩行くと壁に突き當つたので、壁に添つて手さぐりで横に歩くと、出入口のフスマらしい箇所が有るので、そこを開け、廊下に出て、壁を傳つて三つばかり曲つて行くと低くなつているので降りるとタタキ。入つて來た時の心おぼえがいくらか殘つていたのか、タタキを左手へ四五歩行くとドアが有つて、引くと直ぐ開きました。僕がタタキに降りた時に、すぐわきの部屋で人の氣配がして、女の聲が何か呼びかけました。最初の中年の女のようです。しかし僕は答えませんでした。女にも僕を引きとめる氣は無いようです。その氣があれば、勝手を知らない僕がマゴマゴしている間に、それが出來た筈です。後で考えると、どうも、最初から先方では僕が歸りたくなつた時に勝手に歸られるように、はかつてあつたらしい。
 僕があの時もうすこし落ち着いていれば、あの家がどんな家で、どこに在つて、そして僕の相手になつた若い女が何と言う女か――どうせハッキリした事はわからないにしろ、或る程度の手がかりになる位のことは掴んで歸られた筈です。しかしあの時はただもう人から顏を見られたり言葉をかけられたりするのが耻かしくて、ただもう一刻も早くその場から逃げたい一心で、そんな事を考える餘裕は無かつた。ドアを突き開けるや、眞つ暗な家の中から出て來るといくらかホノ明るく感じられる露路のような所を、方角も考えずに、いきなり走り出した。どこをどう曲つて、どれ位走つたか憶えていない。夜ふけのことで、町は死んだように暗く、人影は無く、車も走つていません。氣が附くと、靴もはかず、靴したのままでした。やつとそれで、どのへんだろうと、立ち止つてあたりを見まわしたが、見當がつきませんでした。しかたが無いので、そのままヤミクモに又歩いていたら、大きな坂道に出て、右手に大きく水明りが見えはじめたので、ああ赤坂だと氣がつき、それから自分の家まで歩いて歸りました。父は奧で寢ていました。僕はすぐに自分の寢どこにもぐりこみましたが、非常に疲れていて、なんにもまとまつた事は考えられず、そのうちグッスリ眠つてしまいました。

 その次ぎの日に僕は入隊しました。
 その日は朝早く父と共に九段におまいりをしてから、直ぐその足で入隊するように前から決められていたし、氣持が緊張していたのと次ぎ次ぎと多忙だつたために、前夜のことを思い出すスキはありませんでした。……そして、それから入隊して兵舍に入り、訓練や勤務などに追いたてられはじめたら、たちまちの内に完全に忘れてしまつたのです。Mさんは、九段まで見送りに行くかもしれないと言つていられましたが、ついに顏を見せられませんでした。後で隊あてにもらつた手紙によると、その朝早く、突然に映畫のロケイション撮影の仕事に呼び出されて信州の方に行かれたそうです。

        30

 そうです、その事を僕はほとんど完全に忘れてしまつていたのです。
 正直のところ、それは過ぎ去つてしまつたら、實になんでも無い事でした。まるでそれは町角で鼻紙を捨てたと言うぐらいの事だつたのです。
 一つには、たしかに、その當時の空氣のせいもありました。空襲は激しくなつて來そうだし、あちこちの戰況は次ぎ次ぎと不利になつて來るし、指導者や軍部は方針を失つて虚勢を張るだけだし、國民の一人一人はウロウロとただその日その日をどうして切り拔けて行くかに血まなこになつている。誰にしたつて、いつの間にかガサガサした荒い氣持になつている。明日の日が知れないのに、自分の生活や感情の細かいことなどにシンミリと立ちとどまつて居られない。僕もたしかに、そんなふうになつていた。しかも、出征するということは、死にに行くと言うことだつた。父からの教育や訓戒だけでなく、あの頃では一般にそうとしか考えられなかつた。僕は文字通り、今思い出しても不思議に思われる位にアッサリと、まるで冷靜に、間も無く自分は戰死すると思つていた。入隊して、生活もいつぺんに變り、荒い兵舍の殺氣立つた日々に追われるようになつていた。自分一身の童貞とか、その時の相手の女とかいう事は、まるで瞬間にけし飛んでしまつた。
 ホントに、その當座三四カ月は、その事を思い出しもしなかつた。
 それが、不意に、ヒョイと思い出したのは、僕が宮崎縣の基地で待機している時でした。どんなキッカケからだつたか忘れました。
 もう間も無く前線に出ると言うことで、召集された者はみんな不安なようなそれでいて變にクソ度胸をすえてしまつたと言いますか、ドロンとした氣持でいました。果していつ出發するのやら、又、どの方面に行かされるのやら、いろんな人がいろんな事を言つてもハッキリした事はまるでわからず、しまいに、どうでもいいや、どうせどうなつても同じだ、死にやいいんだろう、と言つたような調子なんです。毎日なんにもする事が無く、暇が有すぎる。タイ風の中心に近づくにつれてまるで無風のポカーンとした所が有るそうですが、それに似たようなものかも知れない。まるで虚無的な時間でした。その中でヒョイと思い出しました。
 思い出すと言つても、とりとめた事ではありません。第一、ハッキリした事は憶えていないんですから、童貞を捨てたというような感傷みたいなものも、すこしも感じません。感覺の上でも、その時の快感の後味みたいなものが微かに有るきりで、思い返してゾクゾクすると言つたような事は、まるでありません。すべてがアッけない夢を思い返しているようなものでした。第一、その時はオボロゲながら見たと思つた女の顏のリンカクなども、完全に忘れてしまつているのです。しかも、われながら味氣なく思つたのは、その女の事をハッキリ思い出せないために自分がすこしもイライラしたりしない事です。むしろ、そんな事よりもシミジミとなつかしく、逢いたいなあと思つたのはMさんのことでした。
 しかし一度そうして思い出すと、その後は、時々思い出すようになりました。
 だが間も無くオキナワに行き、陣地の構築やその他、完全な戰陣の生活――と言つても、ほとんど土方の生活と同じだつたですが――に追いまわされるようになつてから、再びそんな事は胴忘れしたように消えてしまい、やがて今度は戰鬪が始まる。――これも書けば戰鬪ですけれど、鬪つたのは相手方ばかりのようなもので、僕らはただ叩かれただけと言うのが實状です。飛行機や艦砲でビシビシ來られるのに、こちらでは大事な武器はとつくの昔にこわれてしまつていて、しかた無く、手りう彈とシャベルを抱えて、タコ穴の中に逃げかくれてばかり居ました。その頃です。隊内で變な事件が起きて、久保正三がもうすこしで殺される所を僕が助けてやつたのは。しかし、その事は今書きません。いや、その事だけで無く、その三カ月ばかりの戰鬪のことは、僕は書きたく無いのです。不愉快で。そうです、ただ不愉快なだけなんです。日本人を僕が最初に、そして、もうどうしようも無い位にひどく――そして今でもそれは續いているんですが――憎んだのは、その頃なんです。不愉快で、思い出すのもムカムカします。それに事實、書くことも、ほとんど有りません。僕らは、毎日々々、ガキのように食い物を搜してウロツキ歩き、あとは、ハジからバタバタと殺されて行く戰友を眺め、それが間も無く自分の番になるのを待つていただけです。
 ところが、その頃、又、あの女の事を思い出しはじめました。そして今度は、なにか、なつかしいような氣持がしました。その女がなつかしいのか、あんな事で男としての最初の事を知つた自分の幼い姿がなつかしいのか、又は、そんな事を自分にさせてくれたMさんがなつかしいのか、ハッキリしませんでした。そのみんなが入れまじつた氣持だつたのかも知れません。とにかく、次ぎの瞬間には死ぬだろうと思いながら、その時のことを思い出しているのです。そのくせ、女の顏はサッパリ浮んで來ないから妙です。

 それから終戰になり、やがて僕は歸つて來ました。
 そのへんの事、くわしく書くのは、ハブキます。
 世の中の調子はまるでメチャメチャになつており、そして僕はウロウロしたあげく、黒田策太郎の厄介になつてゴロツキの生活に入りました。僕があんな生活に入つたのは、入りたいと思つて入つたのでは無く、はじめ金が無くて生活が出來ないで困つていたら、それなら一時の腰かけにでも内の會社に來て見ないかと黒田に言われて、ズルズルにあんなことになつたのです。あんな世界を好いているからではありません。しかし、あんな生活をしてみると、あれで案外住み心地は良いのです。惡どい事や手荒い事ばかりなんですけれど、ちかごろの普通一般の人々の中に間々ある、もつともらしい顏をしてインチキな商賣などをしている連中のような中途半端なイヤラしいウソは無いのです。惡い事は始終やりますが、ハッキリした覺悟をしてやつているので、卑屈さや、ハレンチな所はありません。サバサバとしたものなんです。いえ、ゴロツキをベンゴしているのではありません。むしろ僕はあんな世界はキライです。ベンゴしたい氣は無いのです。ただその當時の、よりどころを全く失つてしまつてポカンとしてしまつた僕には、ただどこよりも氣樂だつたと言つているまでなんです。
 それに、珍らしかつた事も事實です。僕は黒田の組の先頭に立つように、かなり忙しく、次ぎから次ぎと、手荒らなことも相當やりました。そして氣が附いた時には、黒田の配下の中では、顏の古い頭株の連中とは、少しちがつた形で、つまり張出し格の兄き分の一人になつていました。金まわりが良いので惡い遊びなどもおぼえ、酒や女――そうです、女を相手の遊びも相當にやりました。
 そんなことで、その半年ばかり、なんとなく面白いような忙しいような思い切つた生活で、あの晩の女のことは全く思い出さなかつたのです。
 そのうちに、そんな生活にも飽きて來たと言うのか、もともと底の淺い世界だし、本來、性格的にもそんな所に永くなじめないものが僕にあるらしくて、いつからとも無く、つまらなくイヤでしようが無くなつて來たのです。いつたんそうなると、何をしても面白く無く、ムシャクシャしてしようが無い。すると組の仕事はうつちやつてしまう事も多くなるし、しかし一方、荒れようはひどくなつて、喧嘩や人を斬つたり次ぎ次ぎとする。すると、妙なもので、ゴロツキの仲間の内では、逆にハバがきくようになつて、人に立てられたりするんです。それが又、腹が立つ。氣がふさいで、氣がふさいで、そうすると更に、ワケも無いのに人を傷つけたりするんです。それで自分は、益々落ち着かなくなつて行くんです。まるで地獄みたいです。しかも、なぜそうなのか自分にわからないのです。どうすれば、そんな自分で自分の墓穴を掘つて行くような事を止めることが出來るのか、かいもくわからないのです。
 今に氣がちがつてしまうんじやないだろうかと思いました。實際、その頃あちこちの仲間から僕はキチガイだと思われていたようです。ホントのキチガイになれれば、まだよかつたのでしよう。それが、頭のどこか知らんが、まだいくらかハッキリしているために、自分のしている愚劣さがわかるんです。もう、やり切れず、たまらない氣持でしばらく暮していました。
 そんな中で、ヒョッと、
「あの女に、もう一度逢つて見たら――」
 と思つたのです。
 なんのためだか、わかりませんでした。ただあの女にもう一度逢つて見れば、何かがハッキリしそうな氣がしたのです。ハッキリすれば、それで生きるか、死んでしまうか、つまり此の世と自分との間の結着がつきそうな氣持がしたのです。なつかしい氣持も少しは有りましたが、それよりも、變にワケのわからない、なにかもつと深い心持です。
 そう思いつくと、急に一日も早く逢いたくなりました。

        31

 逢うと言つて、しかし、どこへ行つて、何をたよりに?
 名まえは勿論、顏だつてハッキリおぼえていない。あの家にしても、どこだつたか、第一、空襲で燒かれてしまつて、今は跡形も無いのかも知れない。……(いや、實は、それからしばらく經つてから、銀座裏や新橋京橋あたりの裏通りを、すいぶん歩きまわつて心當りの所を見つけ出そうとしましたが、ダメでした。空襲で燒かれて樣子が變つたためよりも、やつぱり最初から記憶に全然殘つていないのです。)Mさんは廣島で死んでしまつた。
 どうすればいいんだ?
 考え迷いました。そうしていながらも黒田組の仕事は、あれこれとグングン進んで行つていて、僕は一日一日と益々深くその世界に卷き込まれて行くのです。苦しくなつて來ました。その末に、あなたの事を思い出したのです。あなたに會つてMさんの事を聞いて見よう。そうすれば、或いは何かの心當りやチョットした手がかりだけでも見つかるかも知れない。それに、あなたには、僕の現在のような氣持や境遇のことも、もしかすると多少はわかつてもらえるかも知れない。
 そうは思つても僕は迷いました。遠慮したのではありません。自分みたいに自分自身をまるで大事にもなんにも思つていない、アクタみたいに、いつなんどきどこかへ吹き飛ばされてしまつて消えてしまつても、すこしも惜しいとは思つていない人間が、今更、何かを期待し、求めるために人の所へ行くなどコッケイなような氣がしたのです。しかし、あの女に、もう一度逢いたいと言う僕の氣持は、がまん出來ないほど強くなつて來たのです。僕は思い切つてあなたを訪ねて行きました。
 それが僕の第一囘の訪問でした。
 そして、僕がその事を言い出さない内に、ルリさんが來て、僕は遂に言い出せなくなりました。しかし、もしルリさんがあの場合來なくても、僕はあの時はそれを言い出せなかつたのかも知れません。と言うのは、僕はあなたを好きになつてしまつたのです。僕はただMさんの事を聞きに行つただけなのに、何と言つてよいか、あなたとMさんとが、どこかしら似ている――いえ、顏や姿で無く、性質と言うか本質と言うか、それも全部ではないけど、一部分がひどく似ている――そんな氣が僕はしました。又、僕がMさんを好いているように、あなたもMさんを未だ好いていられることが、僕に感じられるためかもわかりません。それ以外にもあなたが、われわれ戰爭のためにメチャメチャになつてしまつた青年に對して抱いている氣持――それは愛情とか責任とか言うことよりも、もつと身近かな氣持――が、僕にわかつたのです。ですから、よしんばあの時ルリさんが現われなかつたとしても、そんな、自分の最初の女を搜しているなどと言うことは恥かしくて、あなたに言えなかつただろうと思います。
 とにかく、その晩はその事は言い出せず、ルリさんと連れ立つて歸ることになり、歸り途でルリさんとの間に變な事が起り、それ以來ルリさんから追いかけられ、憎まれ、その上にあなたまでも、つまらない事件の中に引つぱり込むような形になつてしまつて、最後には、とうとう、荻窪での、あんなイヤなゴロツキ同士の斬り合いまで見せてしまうことになりました。その事はホントにすまないと僕思つています。しかし、それは僕の力ではどうにもならなかつたのです。

 ところで、その女のことです。
 僕があなたからMさんが生前知り合つておられた女の人たちのリストをもらつたのも、そのためなのです。と言うのは、あの時の前後の事情や、あの家の樣子や、あの女の僕への接し方などから、あれが普通の商賣女――つまり、そういう事に馴れ切つている女では無かつたような氣がしたのです。その時は僕にはわかりませんでしたけれど、後になつて、いろんな女を相手に遊んだりするようになつて、それがわかつて來たのです。もちろん、そうかと言つて、全くのシロウト娘さんだとは思われません。シロウトの娘さんだとすれば、よつぽど變つた人だつたと思います。やつぱり、何か多少は水商賣がかつた、たとえばバアや飮み屋につとめている人とか、シバイや映畫などに關係のある人とか、その他、そう言つたふうの世界の女ではなかつたかと言う氣がするんです。すると、やつぱりMさんの生前の、その方面の知り合いを、片つぱしから搜して見て、何か手がかりをつかむ以外に無いと思つたわけです。
 そして、今、僕の前に、あなたから書いてもらつた、そのリストがあります。女の人の名前が十五人書いてあります。先日から、暇にまかせて、僕はこれを何度も何度も眺めて研究――と言うと大ゲサですけれど、いろいろに考えています。
 この十五人の中に、あの人が居るだろうか? 多分、この中には、その當人は居ないだろう。居ると思うのはあまり虫が良すぎる。だから、この中から、次ぎに僕がその人を搜して行くためのツテなりキッカケなり、ほんのチョットしたヒントのようなものでも掴むことが出來れば、もうそれだけでよいのだ。しかし、もし萬一、この中の一人が、あの女だつたら? いや、そうでは無く、この人たちの誰かから何かのヒントを得て尚も搜しまわつた上で、あの女に逢えたとしたら?
 いやいや、そうであつても、僕はあの女の顏をハッキリおぼえていないのだ。いよいよ逢つて見ればもしかすると思い出せるかも知れないけれど、しかし、おぼつかない。すると、たしかにあの人であつたと言う事を、どうして判斷すればよいのだ?――そう思つて來ると、僕はなさけ無くなり、頭がポーッとしてしまうのです。泣きたくなります。あまりにあまりにミジメな自分にです。俺は何と言うなさけ無い、幽靈みたいな人間になつてしまつたのだろう? こんな、人を數人も斬つた事のある大の男が、こんなオカシな、夢のような、ミジメな搜し物をするというのは! 實際、泣きたくなるんですよ。
 えい、こんな事、よしてしまえ! とも思います。そしてひと思いに死んでしまおうかと思います。しかし、それが出來ません。かくべつ生きていたい慾望も理由も無いのに、ただなんとなく、死ぬこともできません。そうすると俺は、この先き、何をして行けばいいのだ? なんにも有りません。したい事は何一つ無いのです。みんなみんな、はじめからわかり切つているような、白つちやけて見えるだけです。愚劣なんです、すべてが。
 ただ、あの女にもう一度逢つて見ようと思うだけが、今僕の僅かな生甲斐のように感じられます。それなら、それが如何にコッケイなミジメな夢みたいな事であつても、それをしてみるほかに無いと思います。
 そしてヒョイと氣が附いたのは――いえ、これは現在のことではありません、僕が黒田組に働きながら、そこの生活がつまらなくなり、あの女に逢つて見たらと思い附いて、半ば無意織のうちにその事をあれやこれやと考えていた時分のことです――あの女の匂いの事です。女の身體の匂い――體臭と言いますか、肌の匂いと言いますか、それを僕は憶えているのです。いえ、匂いなんですから、結局は記憶とは言えないかも知れません。ただ、憶えているような氣がするのです。つまり、あの匂いに今度ぶつつかつたら、キット、ああこの人だという事がわかりそうな氣が僕には、するのです。人に言うと笑われるかもしれませんが、その點では僕には確信みたいなものが有るのです。
 小さい時から僕は嗅覺がおそろしく鋭敏なのです。それは實際コッケイな位で、一度かいだ匂いは、めつたな事では忘れません。その時にはハッキリ意識しないでも、それと同じ匂いをかぐと、たちまち思い出します。ことに、ふだんかぎ馴れた匂いと違つた匂いだと、忘れようと思つても忘れません。その點、僕の感覺――いやもつと體質と言つたようなもの――には多少異状なものがあるような氣がします。それは小さい時から往々にして、僕を不幸にしました。と言うのは匂いに對してむやみと敏感で氣になるものですから、食べ物や人間や場所、その他どんな物にもどんな所にも匂いの無いものは無いため、それにつれて好き嫌いが實に極端にひどいのです。僕が幸福になるためには、僕の好きな匂いのそばに僕は居なければならないし、又逆に、僕の好きな物や人は、いつの間にか、その匂いを僕は好きになつています。しかし、そんな場合は割にすくなくて、世の中には僕の嫌いなイヤな匂いの方が多いものですから、僕は不幸な事が多いのです。
 僕が軍隊というものを嫌いになり、そして軍人の子に生れ、軍人の子として育てられながら、軍人になるのを本能的に嫌つて父親を悲しませるようになつたのも、最初のキッカケは實は匂いのためなんです。極く小さい時に、乳母に手を引かれて、父の勤めていた兵營の軍旗祭か何かを見物に連れて行かれた時、その兵營の廣場で向うからやつて來た兵隊の行列とすれちがつた時に、汗の匂いと皮の匂いと、それからそのほかの匂いの入れまじつた、實に何とも言えない腐つた動物のようなイヤな匂いがムーッと僕の鼻に來て、僕は吐きました。自分では、それとは知らず、以來兵隊というものがシンから嫌いになつたらしいのです。これはホンの一例で、僕の子供の時からの生活には匂いと言うものが非常に大きな要素になつて附いて※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つているのです。
 たとえば、好きな匂いの例ですと、僕は、顏を知らない、死んだ母の匂いを憶えているような氣がします。乳母の胸の匂いは今でもハッキリと思い出せるんです。父の匂いも憶えています。Mさんの匂いも知つています。あなたの匂いも、言い當てることができます。そして好きな人の顏を思い出すのが先きか匂いを思い出すのが先きか知りませんが、とにかく匂いを思い出すと、僕はスナオな氣持になり、純粹な愛情を感じ、その人がなつかしく、シンミリとなるのです。僕をこんなふうになし得るものは匂いだけなんです。實に變な事ですが、そうなんです。
 小さい時は、他の人もみんなそうだと思つていました。しかし段々に自分が特別に匂いに對して敏感なのだという事がわかつて來ました。そのために十六七歳頃、非常に悲觀したことがあります。自分は何か普通の人とは違つた、そのうちに發狂でもする人間ではないだろうかと思つたのです。その後、何かの本で、天才的な性格の中に、おそろしく嗅覺の鋭敏な型があると言う事を讀んで、すこし安心もしましたが、しかし自分が天才だなどとは、まさか思えないので、やつぱり苦しみました。
 とにかく、そうなのです。それで、まだ黒田組に居て、あの女の人ともう一度逢つて見たいとボンヤリと思いはじめた頃から、今言つた通り、あの女の匂いを自分では憶えているような氣がするものですから――しかも、それがどんな匂いだかハッキリとは思い出せないものですから――そこらに居る若い女の匂いが馬鹿に氣になるようになつていました。道ですれちがつただけでも、何か氣になる匂いが感じられると、いけない、いけないと思いながら、その女の後をつけて行つて見たくなるのです。
 僕がお宅でルリさんとぶつつかつたのは、そういう癖が益々ひどくなつて來ていた頃です。ルリさんの匂いが僕の鼻に來ると、僕はボーッとなつてしまつたのです。もちろん、あの女の匂いだなどとは思いませんでした。明らかに違つています。しかしルリさんは非常に特色のある強い匂いを持つているんです。若い女はオシロイや香油などの化粧料の匂いのために、似たような匂いの人がウンと居ますが、ルリさんはあまり化粧はしないと見えて、ハッキリとそれがかげるのです。スモモの花の匂いにいくらか似たようなフックリと重い匂いです。それが僕には、イヤで無い匂いでした。と言うよりも、僕には抵抗することのできない匂いでした。そのためです。ルリさんと連れ立つての歸り途で、ルリさんに對して變なことをしてしまつて、ルリさんから憎まれるような事になつてしまつたのは。
 しかし僕は、ルリさんに、なんにも惡い事はしていません。今こうしてルリさんを思い出していても、なつかしくこそあれ、ホントの意味でルリさんに對する僕自身のした事について、惡い後味は何一つ無いのです。ルリさんが今後幸福になられることを僕は心から祈つています。

 恥かしい事を、思ひ切つて洗いざらい書いてしまいました。すこしホッとしています。これから僕はあなたに對して、やましい氣持無しに手紙が書けます。今日はこれでやめます。
 今、外では雨が降りつづいています。靜かな山の温泉宿が雨に煙つてすべての物音を消しています。
 もう僕の腿のキズもほとんどうずきません。二三日中に僕は此處を出立します。その女を搜しに行くのです。ホントに、おかしな、人から見たらキチガイじみた事だろうと思います。それに搜し出せるか出せないかほとんど望みは有りそうにありません。しかし今の僕には、それをする以外に何もする事が無いのです。いつまで、そうして歩くか、たとえ遂に見つからなくても、僕はバカみたいに、あちこちするでしよう。あなたの書いて下さつたリストの十五人の女の中で六人が東京附近で、三人が地方で、あとの六人が住所不明になつています。住所の書いてあるのが九人、その中の六人が東京や東京附近で、三人が地方になつています。住所の書いてない六人はあなたも御存じないのだろうと思います。それらは、さしあたり搜す當てが無いのですが、しかし、住所のわかつている人たちも、戰爭中から戰後へかけてもとの所に居る人は少いと見なければならないでしよう。中には死んだ人もいるだろうと思います。搜すのは容易なことでは無いでしよう。
 しかし僕は先ずこの九人の人たちをハジから搜して見ます。

        32

 馬鹿!
 僕は馬鹿だ。
 僕は自分のことを、かしこい人間だと思つたことは一度も無い。しかし、これほどの馬鹿だとは思つていなかつた。救われようの無い馬鹿。
 この二三カ月間、あちこちして、いろんな目に逢い、いろんな人間を見て歩いている間に、その事が、實にイヤになるほどハッキリとわかつた。
 自分が戰爭から歸つて來て、黒田組に入つて、ヤクザな生活をしていた一年ばかりと言うもの、それが自分にはわからなかつた。それが、黒田組を出てしまつて、方々をウロつきまわりはじめて、たつた二三カ月で、まるでいつぺんに幕を切つて落したように、ギョッとするほど見えて來た。自分の愚劣さ! どうしてだろう? この二三カ月で世の中が變つたわけでは無い。今、自分の目の前にある現實は一年前から在つたのだ。今、氣の附くことなら、一年前に氣が附かないワケは無い。だのに氣が附かなかつた。
 すると、自分が變つたのだろうか? いや、しかし、自分がそんなに急に變るなんていう事は、あり得ない氣がする。何かチョットした視角の違いが起きたのか、又は視力の中にある盲點のようなものがヒョイと治つたのか? わからない。
 人間なんて實に弱い、モロイものだ。ホンの昨日まで、あのようにしか見えなかつたものが、チョットした加減で今日は、まるで別のように見える。しかも、昨日の認識は、その人間にとつてはその時は絶對であつて、それしか存在しないし、今日は今日で、これ又今日の認識が全部で絶對だ。變だと思う。人間は弱い。人間はタヨリ無い。しかも、その事を知つていても、又しても明日も明後日も、その時その時の認識を持ち、その一つ一つをその時には絶對であり全部であると思つて生きて行く。頭では知つていることを、實際の上では、愚かにも何度でもくり返して行く。行かなければならない。――それほど人間は浮いている雲のようにとりとめの無いものなのだろうか? いや、えらそうに「人間」などと言うことはない。自分だ。この貴島勉と言う男だ。弱い、モロイ、たよりにならない、浮雲のようにプワプワした者が、この自分なのだろうか?
 そうだ。たしかにそうだ。そう言い切らなければならない。辯解はあり得ない。おれと言う人間は、そんな弱虫の、プワプワした浮雲なんだ。馬鹿! ザマ見ろ!
 しかし、それはそれとしてだ。いや、それがそうであればある程、すると俺には、この世の中、人生、人間、社會と言うものの眞の姿、つまり――眞實だ。その眞實が、ありのままに見える時があるだろうか? 昨日と今日と明後日と次ぎから次ぎと變つて行く「眞實」では無く、昨日も今日も明後日も變らない、不動の眞實。それがこの俺に掴まえられる時が來るだろうか? それは、來ないのではあるまいか? 俺にはそんな能力は無いのではあるまいか?
 しかし又思う。そんな不動の眞實と言うようなものが、では、一體全體、在るのか?
 まるで、わからない。俺にはわからない。しかたが無いから、俺は、やつぱり、ウジ虫のように、浮雲のように、プワプワ、フラフラと、今日ただ今、自分にとつて眞實だと思われるものを追つて歩く以外に無いのであろう。しかたが無い。

 戰爭のことにしたつて、そうだ。俺は戰爭をくぐつて來て、その事を何か特別のことでもして來たように思つている。しかし、戰爭が一體なんだろう? 戰爭は戰爭で、俺は俺だ。戰爭で自分の内容がぶちこわされてしまつたなどと思つていたのは、甘ちやんのアプレゲールのセンチメンタリズムに過ぎない。戰爭は、結局は、なんにも變えはしない。戰爭は、結局は、人間を變えてしまつたりは出來ない。ただ物ごとの進行を大げさにして、速度を早くするだけだ。變えはしない。大體、戰爭のために、ぶちこわしてしまつたり、變つてしまつたりするようなものが、俺の中に確立されていただろうか? そんなものは、はじめから俺の中に無かつたのだ。無かつたものを、ぶちこわしたり、變える事が出來るものでは無い。それを、自分は戰爭からぶちこわされたなどと思つていた所に俺の虫の良い、甘ちやんの感傷が有つた。戰爭は、ただ、俺たちの十年分の生活を一年間にスピードアップして見せてくれただけだ。そのスピードの中で、俺など目をまわしただけだ。そして、それに何か深刻な意味があるように思つていただけだ。そうなんだ。實は、ホントにそこに在つたのは、ただ弱虫の青年に共通な人生煩悶みたいなもの――藤村ミサオ流のものとチットも變らない甘つちよろい感傷があつただけなんだ。ニヒリズムなんて、ドエライものじや無かつたのだ。
 むしろ、戰爭というもののスピードアップの生活の中で、俺たちは俺たちの青春時代を生きたのだ。それは、「生」だつたのだ。俺たちの淺薄な目は、そこに「死」だけしか見なかつたが、しかし、平和な生活にだつて死は常に自分のソバに在る。ただちがつているのは疊の上で死ぬか、ザンゴウの中で死ぬかと言う事だけだ。死は同じだ。だから生も同じだ。疊の上で生きるかザンゴウの中で生きるかの違いだけだ。そして俺たちはザンゴウの中で生きただけである。俺たち青年はそこでしか生きられなかつた。ほかで生きることは許されなかつた。いずれにせよ、そこが俺たちの唯一の生きる場所だつた。悲しかろうと苦しかろうと、戰爭は、實は俺にとつて、青春の「生」そのものだつた。してみれば、それは俺の生活の中絶なんかでは無かつた。貴島勉という人間の少年時代からの生活の續きであり、それから現在こうしている貴島勉へ續いている生活の一部分だつたのだ。戰爭中の生活が自我の歴史の上の中絶だと思つたり、虚無であると思つたりするのは、弱虫の言いわけに過ぎない。「戰爭に驅り出されたために、自分の人間性はメチャメチャに叩きこわされたのだ。戰爭が俺をこんなふうにしてしまつたのだ」などと言つて、ゴロツキになつたり強盜になつたりモルヒネ患者になつたりしている自分たちは、責任を他へおつつけようとする虫の良い卑劣漢に過ぎない。戰爭中に、權力から強制されてした事であろうと何であろうと、俺たちは自分のした事としてハッキリ認むべきである。……その事が、今ごろになつて、わかるなんて!
 お父さん。どうか僕をゆるしてください。お父さんは、責任をとつて自決されました。もしかすると、僕のぶんの責任まで背負つてくださつたのではないのかと思います。それが今僕にわかりました。そうです、お父さんを殺したのは、半分は、この僕です。僕がお父さんを殺したのです。實に僕は今まで人間として出來そこないの、恥知らずの大馬鹿でした。
 その事がヤットわかりました。遲過ぎたとも思いますが、でもやつと、わかつたのです。お父さんのおかげです。これから、少しは眞人間の方へ近づく事が出來るかも知れません。お父さん! 僕はこれから、ホンの少しでも、お父さんの子として恥かしくないような人間になつて行くように一所懸命にやつて見ようと思います。
 僕がこうしてあの女を搜し出そうと、あちらこちらをウロウロしているのは、實はただ、なんとなく、あの女にもう一度逢つて見たい、逢つて見れば、なにか、今迄のいろんな自分の問題や氣分が、腑に落ちて來て、おさまりが附くような氣がする。それに、正直言つて、もう一度ハッキリと意識してあの女と寢て見て、それが全體どんことなのか知りたい――つまり性慾みたいなものも有ります。ウソは言いません。しかし同時に、あんな、出征前夜のドサクサの中に、あんな事をした相手に對して、とるべき責任があれば、なんとかして責任をとりたい。――そう言う氣持も少しばかりですが無い事は無いのです。
 いえ、初めの間は、主として前の氣持の方で搜しはじめました。しかし實際に一人二人三人と次ぎ次ぎにいろんな女たちに會つているうちに、人間というもの、女というもの、人間の生活と言うようなものが、僕に今までよりも少しわかつて來ました。そして、いつの間にか、後の氣持――責任がとれれば取りたいという氣持が生れて來たのです。いや、もしかすると、こんな當てのない搜しものをしている自分の行爲そのものが、既に何かのツグナイになるかも知れないと言う氣もします。
 お父さん! どうか僕を守つて下さい。
 …………

        33

 それにしても、なんと言うオカシナ事を僕は始めたものであろう。
 あの時の女を搜し出せる可能性はほとんど無いという事は、最初から僕自身が覺悟しながら始めたのだから、それはそれでよい。しかし、Mさんの知り合いだつた女の人たちのリストなど、なんの手がりになるだろうか? ことに、このリストは三好さんに作つてもらつたものだ。だから、ここに書いてある人たちの大部分は、Mさんと三好さんの共通の知り合いの人たちだろう。いかにMさんという人が普通人とはちがつていたとしても、そのような、言わば公式な知人の中から、僕の相手を選み出す道理は無い。案の條、リストを追つて一人二人三人と搜し出し訪ねて行つて見ているうちに、その事が鼻の先に突きつけられるようにハッキリして來た。この事は、すこし考えれば、はじめからわかつていた事なのだ。だのに、ツイもしやと言う希望を持つた。もつとも、僕には、あの女を搜して行く手がかりや據りどころは、これ以外に全く無かつた。今でも無い。すると、探索を打ち切つてしまうか? いや、そんな氣は起きない。現在の僕には、これ以外に、したいと思う事は無い。それに、こうして歩くことが、あの女を搜し出すという目的のためには遂には無駄であつても、何かしら自分のためになるのではないかという氣がして來ている。現に、まだ僅か二三人會つたばかりでも、僕の目は多少今までとはちがつた方向へ開いて來たような氣がする。それに、九十九パァセントは徒勞であるかも知れないにしても、殘り一パァセントだけの微かな希望は抱いておれる。もしかすると、萬々が一――そう思つていられるのだ。僕は、探索をやめない。…………だとすると、やつぱり、差し當りはこのリストを頼りにして歩いて見るほかに手段は無い。………又又、ドウドウめぐりだ。しかたが無い、俺という人間はそういう人間なのだ。
 ところで、それにしても、こうして搜し※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて、萬々が一、あの夜の女に行き逢つたとする。その時、どうしてそれがあの時の女だつた事がわかるんだ? 顏はおぼえていない。聲もほとんど聞いていない。體臭だけは憶えているような氣がするが、しかしハッキリとした自信は無い。もう一度あの匂いをかげば、かなり正確に思い出せるような氣はするが――假りにそうであつたとしても、一人一人訪ねて行つた女の人の匂いを、そばへ寄つてかいで※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)れるものでは無い。その事が、既にこれまで一人二人三人と歴訪して見て、だんだんわかつて來た。それに男とちがつて女の人は、化粧品を使う。化粧品には似た匂いが多い。その中から、その女特有の體臭をかぎわけるのは、かんたんには行かない。特に、ただ一度か二度訪問して行つて會つただけでは、そんな事はほとんど望めない。
 では、どうすればよいか? どうにもしようは無い。不可能に近いことを知りながら、これをつづけて行く以外に無いのだ。搜し出せるか出せないか、それとわかるかわからないか……一切合切が出たとこ勝負の運まかせだ。なんと言う阿呆だろう僕は。それを知りながら、それをやつて行くのだ僕は。

 ………………
 三好さん――
 僕が一番最初に會つたのは立川景子さんです。
 あなたの書いてくださつたリストの三番目の人です。
 一番目の人は所書きがありましたが(大森)、そこへ行つて見ましたら、その番地の附近一面が燒野原になつていて、そこらの人にたずねても交番で聞いても、以前の住人のことなど、まるきりわかりませんでした。二番目は名前だけで所書きはありません。で三番目の立川さんを訪ねて澁谷へ行きましたが、これも燒け跡で、たずねようがありません。しかし、これには(Tー女優)とありましたので、T會社に行きました。そこの人事課の人にたずねましたが、そんな人は會社には居ないとだけで取りつく島がありません。係りの人たち自身がこの一二年の間にスッカリ入れ變つてしまつていて、戰爭中までの人事などのくわしい事をおぼえている人が、ほとんど居なくなつているようでした。
 そのうちに、課員の中でも古參らしい男が「そうだ、撮影所の方に以前、たしか立川とか瀧川とか、なんでも、そんな名前の女優が大部屋に居たような氣がする。もしかすると違うかもわかりませんがね。なんなら、撮影所の方へたずねて行つて見たらどうですか?」と言つてくれました。
 それで僕はT映畫撮影所に行きました。そこの係りの人は忙しいせいもあるでしようが冷淡で、なかなか相手になつてくれませんでしたが、僕がテイネイにしつこく頼んだら、古いカードなどを調べてくれ、立川景子というのが戰爭中一年間ばかりそこで働らいていた事だけはわかりました。ごく下つぱの女優らしい。しかし、かんじんの住所を見ると、あなたの書いてくださつたリストにあるのと同じで、それなら既に僕が調査ずみで、そこには立川さんはおろか家もありはしないのです。ガッカリしていますと、わきで、すこし前から係りの人と僕の押問答を聞いていた五十がらみの男(後で知りましたが、これは、もと映畫俳優をしていて現在は事務の方をやつている人だそうでした)が「ああ、立川景子なら、たしか某々のハダカ・レヴュに出ていると誰かが言つてたなあ」と言葉をはさんだのです。
 それでその人に聞き、僕はその某々劇場に行き、それから又、別の劇場へ行き、その二つともムダで、次ぎの丸々劇場で、やつと立川さんに會うことができました。こんな某々だとか丸々などと書くのは變ですが、立川さんは、
「私がこんな所で働いているなんて人に言わないでね。とくに三好さんと言うのには、一二度會つたこともあるし、今の私の居所なぞ、絶對に言つちやいけない」と言うのです。名も全然變えて働いているのですし、しかもスタアなどでは無いのですから、そんな心配はする必要は無いのですが、現在の自分を立川景子として知られるのが、しんからイヤらしい――と言うよりも怖いらしいのです。
 立川さんに僕が會つたのは、その、もと映畫館だつたのをチョット改造してレヴュ小屋にした某々の、舞臺の横の地下室の樂屋の奧です。地下室と書いても樂屋と書いても、實はピッタリしないような、極端にきたない、狹い穴倉みたいな所です。幅も、高さも一間ぐらいしか無く、奧行きだけ五六間もあります。どこかの石垣の奧の蛇の穴と言つた感じがしました。天井から一列に五つ六つの電燈がぶらさがつていて、その下に三十人近い男女優や踊り子たちが、半裸體になつたり扮裝のまま、居ぎたなく坐つたり寢そべつたりしているのです。奧の方へ行くには、人の身體をまたいで行かなくてはなりません。ムッと暖かく、タバコの煙がもうもうと立ちこめています。……その一番奧の壁に向いて坐り、タバコを横ぐわえにしたまま、小さい鏡に向つて化粧をしていたのが、それでした。僕を案内してくれた樂屋番の人が、
「この人ですがね……」彼女に向つて言い、僕を顧みてくれましたが、彼女は鏡の中から僕をジロリと見上げたまま、なんにも言いません。樂屋番が去つても、坐れとも言つてくれないので僕は立つたまま彼女を見ていました。横顏と鏡の中の顏、肩の形や身體つきなど、よく見ていると、かなり整つていて、カッコウだけなら美しいとさえ言えるのですが、眼の下や鼻の兩がわに不愉快なシワがあつて、それに眼つきが冷酷で、全體が實に醜いのです。第一、化粧途中のせいか、年が四十過ぎ、いや、ヘタをすると五十近いぐらいに見えます。僕は、一目見たばかりで「ああ、この人では無い」と思いました。景子は、そのまま僕の方へは目もくれないで、ゴシゴシとじやけんにオシロイのハケを動かしていましたが、急に
「困るなあ、立川なんて言つて、やつて來られたんじや!」と怒つた語調で言いました。「なんの用、あんた?」
「ええ、チョット、おたずねしたい事があつて――」
「……まあ、お坐んなさい。あたしの名は此處ではちがうんだからねえ。立川だなんて知つている人は、極く僅かなんだから。……ぜんたい、どこで私が立川だつて事聞いて來たの?」
「T映畫會社へ行つて、しかしそこでもハッキリした事がわからないもんですから、方々たずね※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて、ヤッと――」
「困るよ、そんな、映畫會社なんかへ行くの! チェッ、しようが無いなあ。全體、あんた、何さ? 學生? ……にしちや、立派すぎるわねナリが? あたしに聞きたいと言うのは、どんな事? ……ことわつとくけど、ズーッと以前の事は聞いたつて駄目よ。忘れちやつてるんだから。なんなの?」
「實は、僕は、兵隊に行く前に、しばらくMさんの――廣島で死んだMさんです、あの人の弟子みたいにしてもらつた者で、貴島と言つて――」
「え? Mさん? Mさんだつて!」彼女はビクンとしたように高い聲を出し、はじめて振返つて、僕の顏をじかに見ました。「あんた、お弟子さんだつて? そう……そいじや、役者?」
「いえ……シナリオだとか芝居の演出方面の勉強をしようと思つて、……でも、まだホンのやりかけたばかりで出征してしまつたもんですから……でもMさんからは、たいへん可愛がつてもらつて―」
「M――か」と景子は、Mさんの姓名全部を呼び捨てに言つて、しばらく何か思い出すような眼つきをしていたが「フン……そうなの? そんなら、それをなぜ早く言わないのよ。あたしは又、どつかのヨタが、タカリに來た位に思つていた。ごめんなさいね」
 はじめて微笑した。笑うと鼻のわきのシワがいつそう目立つて、まるでキズのようになり、更に婆さんヅラになるが、意外な位に人の良さそうな表情になつている。
「そうMさんのお弟子さんね。そんなら、あたしともマンザラ縁が無い事も無い。フフ。いえ、別に私はあの人の弟子じやなかつた。向うは大スタアでこちらは名も無いワンサ女優だつたんだから。だけど、私、尊敬してたからね。良い人だつたわねMさんて? でしよう? 良い人だつたなあ!」
 言つている間に、ボロボロ泣きはじめたのです。びつくりしました。シワだらけのミジメな、しかも、ドギツイ化粧を半分やりかけたままの頬にタラタラと涙が流れて、悲しいよりもコッケイになります。しかし、僕は思いました。こんな場所で、こんな女がMさんを思い出して泣いている。これはMさんが死んでから流された、いろんな人々の涙の中で一番純粹なものかも知れない。Mさんは自分が死んだ後に妻も子供も、財産も著書も、その他何一つ殘されなかつた。しかし、こんな人の中に、心の底に何かを殘していられる。Mさんは、やつぱり、えらかつたんだなあ。そしてあの人のえらさは、こんなようなえらさだつたんだ。……そんなふうに思いながら僕は坐つていました。「バカね、あたし……」景子は、しばらく泣いていてから、テレてニヤニヤしながら言いました。「變に見えるでしよう? 告別式にも行かないどいて、今ごろ泣くなんて。フフ! まるで、あの人の色女だつたかと思われかねないわね? そうさ、Mさんて人は浮氣な人だつたからね。でも私なんて、こんな、昔つから芝居でも映畫でもホントのワンサでね。Mさんが今まで生きていたつて今ごろはキット忘れていられたと思うわ。あの人が主演した映畫に二度ばかり、通り拔けみたいな役で出してもらつた事があるきりだもの。その二度目の映畫の時にね、私が何かしくじつて――たしか私のためNGが出ちやつて――當時フィルムが足りないのでNGがやかましかつた時代でしよう、助監督から頭ごなしにダイコン! などと言われて、セットの隅つこでショゲてね、死んじまおうかなどと考えて……これで當時、まだ若くつて純情だつたからね、ハハハ、ほんとさ! そしたら、Mさんが食事の歸りかなんかで通りかかつてね、どうしたと聞かれるのでこれこれと話したら、よしよし、それは君の過失だ、過失は惡い、しかし誰だつて過失はするよ、僕があやまつといてやるから泣くな、そう言つてね、あたしを慰めるつもりなんでしようね、そう言いながらもモグモグと食べていたトースト・パンの、食いかけのままのヤツを、自分の口をつけたコバグチの所をチョイチョイとむしり取つて、いきなり私にくれるの。食べろと言うんだわ。自分の食べかけのパンよ。無理に私の手に持たせて、オット仕事だあ! と言つてセットの方へ驅け出して行つた。…………あたしは、うれしかつた。永いことそのパンを見ていた。死んでもいいと思つたなあ。その時の、コバグチをむしり取つたMさんの女のようにコマゴマとした手つきが今でも目に見えるの。…………そう言うことがあつたの。それを思い出したら、たまらなくなつた。……良い人だつたわねえ。良い人は早く死ぬ。あたしなんぞ、あんな人の代りに死ねるもんなら、身代りに死んでりやよかつた。ホントーオに、そう思うの。生きていたつて、このザマだもん! 以前から私なんぞ花の咲いた事は無かつたけど、しかし昔は、氣持だけはチャンとしてた。純粹だつたもの。だから、苦しいのなんかヘイチャラだつた。今は、もう、腹ん中がダメんなつてしまつてる。量見がまちがつて來ちやつてる。だから、こんな仕事なんかフッツリとよせばいいのよ。しかし、よせないの。こいで、十年前によしておけば、よせた。今となつては、もう、やめようと思つてもダメ。ひでえもんさ。……やめられないとあれば、仕事の選り好みを言つてはおれない。ダラクもするさ。でないと、こんな所に一日でも、いつときでも、がまん出來やしないの。がまんして、こんな所に居るためには、自分がダラクすることが必要なのよ。わかる、あんた? ごらんなさい、此處に居るこの連中!」
 しまいの方を段々小さい聲になり、最後の文句はほとんどささやくように言つて、樂屋の中の女たちをアゴでさし、「ね! こんだけ若い女たちがいるわね。たいがいみんな、割に氣だての良い子ばかりなのよ。そいで、この中の半分ぐらいが、どんな事をして暮していると思う? え? こうしてハダカやなんかになつて一日三囘も舞臺に立つてだな、座からもらう給金は、人にも言えない位のポッチリ。そうね、一人前の生活をやつて行ける程度の金をもらつている人は、先ず二三人しきや居ない。で、あとは、アルバイト。フフフ、お座敷に出たり、パーティに呼ばれたり。その方の稼ぎが大きいのね。中には、それだけの事でキレイに稼いでいる子も居るけど、人によつちや、相當タッシャな事をしているのも居るわね。もつとも、自分では女優やダンサアだという誇りを持つているから、よしんば男をなんにん相手にしても、好意を持つたからとか戀愛したとかパトロンだとか、いろいろにモットモな理由はくつついている。無意識の口實だわね。そして、實際にしている事は、商賣人以上のことをやるのが居る。だから、ここで踊つたりしているのは、そんな子に取つちや、張り店みたいな役に立つているわけで、よしんば給料がタダであつても舞臺はよせないわけよ。そうなの。中には、舞臺衣しようをソックリ着たまま外國人のワイルド・パアティなぞへ行つて踊つたりする。……しかし私には、そいつを惡くは言えない。だつて、そうしないと、やつて行けないんだもの。キレイなニュウ・ルックも着たいわね、あの年頃には。それさ。私には惡く言えない。そうじやなくつて? 誰がヒナンできると言うの、男優連だつて似たり寄つたりだわ。しかたが無いんだもの。マゴマゴしていると食いつぱぐれるし、落伍してしまう。そういう世界よ。私なんぞ、そういう所に落ちて來ているの。フフ! もつとも、私はもう自分でしたいと思つても、こうなつちや、荒い稼ぎなぞ出來ないの。しかたが無いからシワやブクブク太りを、オシロイやドウランでごまかして、ハダカになつたり、腰を振つたりしてね、フフフ! 家も燒けたし、今ズーッとこの樂屋で寢泊りしてんのよ。鼠といつしよにね」

        34

 立川景子は、僕の搜している女では無い。
 匂いをかいで見る必要なぞありません。
 しかし彼女は、いつたんそうして氣を許して語りはじめると、僕を離そうとしません。ふだん、そこの仲間たちには話せない、いろんな事が、ウンと溜つているらしいのです。それらを次ぎから次ぎと、順序も無く話すのでした。シワだらけのオバケのような顏は、ほとんど無表情のままで、時々樂屋のあちこちを眺める眼の底に、冷たい憎惡のようなものをこめて、低い聲でボソボソ、ボソボソとつづけるのです。そこには、零落してしまつた藝人の、自分の周圍や世間一般に對する呪い――と言うほどドギツイものではなくても、そうです、今はもう失われてしまつた自分自身の藝人としての若さに對する怨みとでも言えるものがありました。そのくせ、その事に就ては、中年の女らしくサッパリと諦めてしまつた所もあります。もう再び自分の上に藝術の世界のホントの光が差して來ることは無い。そう思いこんで、完全に思い捨てて、その事についてイライラしたりするような所は無いのです。つまり、レイラクした人間のヤケは、ほとんど有りません。それだけに、既に失つてしまつたものについての怨みのようなものも深いのだろうと思われました。
 聞いていて、僕はだんだん悲しくなつて來ました。そして、この人は寂しいのだと思いました。そう思うと、これは俺の搜している女では無いから、もう用は無いのだと思つても、そのままサッサと歸れなくなつてしまつたのです。
「男なんてダメ。あたしみたいな女は、結局は男なんかでは滿足しておれないのね。こいで、今まで三人も四人も亭主みたいな者を持つたことがあるのよ。だけど、みんな永續きがしない。そう、男運が惡いことも惡いんだわね」
 いつの間にか、景子はそんな事を言つています。「だけどね、そんな事よりも人間がいつたん藝術に惚れこんでしまうと……」と言いかけて、フフフ! と自嘲して「いえさ、こんなふうになつてしまつたハダカ女優が藝術なんて言うと口はばつたいけどさ、そんでも、こんな世界に飛びこんだモトモトを言えば、まあ、藝だわね? その藝さ。藝に惚れこんでしまつたら、おしまいなのよ。男なんて言うもんより惡性なのよ藝と言うものは。血まですすられちまう。それだけに、つらいとも樂しいとも一言では言えない味があるのよ。それが有るから、こんなドブドロん中でもオヨオヨしておれるのよ。今どきのチンピラさんたちは知らない。あたしは、そうなの。わかる? わからないでしようね、あんたなぞには。Mさんが生きていてくれたら、チャーンとわかつてくれるんだがな。つまり、そんだから、男なんかつまらないの。いいえ、つまらないなんて言い過ぎだけど、藝の前に連れて行けばだな、シバイというものの前に連れて行けば、男の魅力なんか、負け。シバイには飽きないけど、男には飽きるもの。いえ、そうで無い女も居るには居るでしよ。大部分がそうで無いかもしれない。しかしあたしは、そうなの。だから男運が惡いと言うよりも、あたしのセイで、あたりまえなの。だつてあたしには、男なんかの前に、チャンとシバイと言う御亭主が居るんだもの。そうなのよ、シヨウねえや!」
 話がどこへ流れて行くか見當がつきません。僕はだまつて聞いている以外にありませんでした。そのうちに、樂屋の入口の方から男の聲で
「――さん!」と景子の現在の藝名を呼んで
「すぐに出ですようー」
「オッケエ!」景子は、どなり返すや、急いで鏡の方へ向いて、顏を作りにかかりました。鼻の下をグイと伸してオシロイのパフを叩きつけたり、思いきり目をむいて横を見たり、實にコッケイなことをします。しかし當人は眞劍です。
「そうそう、そうだつけ。あんた、キジマさんとか言つたつけ、あたしに聞きたいとか言つてたね? なあに、それ? どんな事? ごめんなさいね、自分ばかりしやべつてしまつて。いえさ、急にMさんの事思い出したもんだから、ツイねえ!」言いながらもメイクアップの手は休めないで、「どんな事?」
「いや、今日はお忙しいようですから、又來ます」
「そうね、これから、夜の部までズーッと引つぱられているから……じや、すまないけど、八時半になれば三囘目がトレるから、その頃來てくんない? 此處で待つているから」
「じや、そうします」
「すまなかつたわね。タアちやん!」と、これは、斜め後ろに坐つていた若い踊り子に呼びかけて、
「眉ズミ、ちよいと貸して」
「はい!」
「おやおや、まだ、これかあ! チエッ!」
 見ると、それは、眉ズミなんかでは無い、普通の四角な棒状の、するスミです。その頭を、舌を出してペロリと舐めてから、眉毛の上にゴシゴシとなすりつけています。そうしながら彼女は、テレかくしに片目をつぶつて見せて、
「ハナ、ハト、タコ、コマ……讀み方や書き方を思い出すわね? なんしろ、こいつで眉を描いていりや、樂屋中で使つても、五六十年はもつね。ウフフ!」

 そこで僕は、いつたんそこを辭し去り、その夜九時ごろ再び訪ねて行きました。
 たぶん飮める口だろうと想像してブランデイを一本さげて行くと、案の條、立川さんはよろこんで、ワーイと叫び聲をあげ、いきなりそこにあつた茶わんで二三ばい、立てつづけにあおりつけました。
 樂屋じゆうガランとして立川さんと僕以外には誰もいません。此處に寢泊りしている者が他に二三人あるそうですが、舞臺がハネルのと同時に外に出かけて、夜おそくでなけれは戻つて來ないそうです。「フン、遊びだか、商賣だかね。どうせ、あたしなんか、そんな元氣無いや」と景子さんは言つていました。その誰も居ない夜の樂屋のガランとした一種異樣な寂しさには、おどろきました。僕はいろんなインサンな場所もずいぶん見て來たのですが、あんな感じの所はほかにありません。坐つていると、どこまで氣がめいるか、わからないのです。きたない事もきたない。晝間の時は、男女優がいつぱい居るし、脱ぎつぱなしの衣しようが散らかつているし、壁にはいろんなものがぶらさがつている――まるでゴミ箱の中のようなきたなさだつたが、まだあの方がよかつた。今は、ゆかの上なども一應掃き出されてそこらに散らかつている物も片づけられているだけに、そのきたなさがムキ出しになつて、救われようが無い。電燈も大部分消されて、二つ位しかともつていない。その隅の壁にもたれた景子が横坐りに太つた素足を投げ出して、顏中のシワを深めてブランデイをグイ飮みしている姿が、まるでどす黒く、ゆがんだ繪のようです。その足の先きを、話しているうちに、チョロチョロと鼠が走り過ぎて行きました。
 晝間でコリていたので、僕はいきなり本題に入りました。リストの名の中から立川さん自身だけを拔かして十四人を讀み上げ、その中に知つている人が居たらその消息を聞かしてくれと言いました。
「そうね、三四人なら知つてるわ。だけど、たいがい、もう大分以前の話だから、かなり變つちやつた人もいるんじやないかなあ」
「いいんです。それは僕が調べますから」
「そん中で、徳富さんと、本田の久ちやんの事なら、かなりよく知つてるわ。徳富さんは今たしか葛飾にいる。久ちやんは山梨縣の田舍よ。……だけど。あんた、そんなふうに女の人ばかり訪ね歩いて、どうしようと言うの?」
 それから、その理由を根掘り葉掘り聞きはじめるんです。僕の返事がアイマイなものですから段々に興味をそそられたらしいのです。Mさんに關係のある事らしいので、本氣で知りたい氣持もあるようです。そのうちに、ブランデイの醉いが出て來て、聞き方がシツコく、からんで來ます。しまいに、「わけを話さなきや、教えてあげない」と言うのです。僕は、かなり永いことガンバッていましたが、遂にしかた無く話す氣になりました。一つには、このままだと、もしかすると死んだMさんにルイを及ぼすかも知れないと氣が附いたためもあります。それに、十が十、この立川さんが當のあの女では無いという確信があるのと、色や戀も相當にしつくして來て、僕から見るとスガレきつたような相手であるために、話しやすい事もありました。それで話しました。話すと言つても、もちろん、あの晩のことをくわしく――僕があなたへの手紙に書いたように細かく具體的に話したのではありません。ただ「出征する前にMさんの引き合わせで逢つた女の人」と言つたふうに、なるべくボカして言いました。
「名がわからないと言うと、そん時、聞かなかつたの?」
「ええ」
「ふうん。……顏はおぼえているんでしよう?」
「よくおぼえて[#「「よくおぼえて」は底本では「よくおぼえて」]いないんです」
「だつて、あんた、その人と逢つたと言うんでしよう?」
「ええ。……でも、空襲中で暗かつたもんですから――」
 すると彼女は變な目をして默つて僕の顏を見つめていましたが、するうち、急にニタニタして
「ああそうか! 逢つたと言うのは、そういう意味なの? へえ! つまり、なんでしよう、この、仲良くなつたと言う――? でしよ?」
 僕は眞つ赤になりました。すると立川さんは目を輝かして嬉しがつてワーッ! と叫ぶのです。
「フッ! いいなあ! そうなのう! Mさんがその人を世話したのね? やるやる、Mさんなら、本氣でそれ位のことやるとも。……なんじやない、もしかするとあんた、そん時まで女を知らなかつたんじやない? それをMさんが、そんな事で出征はさせられないと言うんで、そんなふうにしてやつたんじやないの?」
 まるで何もかも筒拔けみたいなんです。立川さんは、深い附き合いではなかつたと言いながら、Mさんの性質を實に良く知つているようなのです。それとも、同じ芝居や映畫の世界の空氣を吸つて同じ年代を送つた人たち同士の間には、そんな細かい所まで通じ合うものが有るのだろうかとも思いました。とにかく圖星を指されて僕が眼のやり場に困つていると、立川さんは益々よろこんでしまつて、僕に茶わんをつきつけてブランデイをついでくれるんです。
「いいなあ! 乾杯! 飮みなさいよ。Mさんと言う人は、そういう人なのよ! それがジョウダン半分じや無かつたんだから! 眞劍にそんな事が出來たんだから! いいじやないのう! あんたも良いボーイだ! ビアン! 好きんなつちやつた! 良いギャルソンだあ! よしよし、そんな事なら、あたいも加勢をしてその人を搜してあげる! 何が何でも搜しなさい! ブラボオ! んだけどチョット燒けるね! チッ! あたしがその人だつたら、よかつたなあ。ウーン! どう、あんた? あたしじや、まずい? あたしだつたとしたらさ? だつて、どうせ顏はおぼえていないんでしよう? 同じ事じやないの! どう、私じや、まずいの? こんでも、ツラはこんなだけど、まだまだ捨てたもんじやなくつてよ! 見せてやろか? ホラ……」
 スッカリ醉いが出て來たセイもあるでしようが、フラッと立ちあがると着ている樂屋着とでも言いますか、タオル地のガウンみたいなものの前をスパッと開いて、――その下には、シュミーズとズロースだけしか着けていないんです――腰をゆすつてフラ・ダンスみたいな事をはじめたのには弱りました。
「ね! こら、ギャルソン! 見なさい、こつちを! どう、まだチョットいけるでしよ、あたしの肌!」
 もうサンザンで、僕は拷問にかけられているようなものでした。チラッと見た彼女の胸や脚が、なるほど意外な位に白く脂が乘つてキレイだつたのです。……しかし、そんなふうな姿をしながらも、立川さんには、ワイセツなものやイヤラシイ感じは全くありませんでした。ただ美しく、そして、ほんとに幸福そうで、彼女の感じている感激と言うか――嬉しさが、ただヒシヒシと僕に迫つて來たのです。あのインウツな、まるで地の底みたいな穴倉の中なんです。花が開いて搖れてるみたいなんです。花は歪んで、しぼんで、くずれかかつた花です。落ちぶれ切つた中年の女優。……女優と言うのもはばかられるような醜い人の中に、どう言うわけで、こんなに美しいものが殘つているのだろう?……もしかすると、この人は非常にすぐれた人間かも知れない。……そんなふうに僕は思いました。ですから、僕は立川さんから禁じられたのにもかかわらず、あの人の事をこうしてあなたに向つて書けるんです。とにかく、僕は立川さんを見ていて實に強い印象を受けました。そして、その印象は決して暗いものでは無かつた。明るい、肯定的なものだつたんです。
 僕は醉いました。そして、しまいに立川さんと二人でヨロヨロしながら、そこでタンゴを踊つたりしました。非常に良い氣持だつたのです。しかし、そんなふうになつては、前に聞いた三四人の女の人たちの事を聞き出すことも出來ないので、その晩は、夜更けて、醉いつぶれた立川さんを殘して僕は歸り、その次ぎの日に又行つたのです。彼女は前の晩言つた通り、非常に熱心にそしてマジメに僕の相談に乘つてくれ、僕の問わない事まで話してくれたのです。今後も、そのつど、探索の相談相手になつてくれると言います。僕はうれしかつた。前途がすこし明るくなつたような氣がした。ただし、立川さんは自分の事を――自分が今ここに居てこんな事をしている事を、三好さんはもちろん、昔の知人や友人などの誰にも話さない約束をしろと言います。僕はそれを約束しました。
 そして、差し當り、二人の人の住所を教えてくれました。僕は、その二人をすぐ訪ねて行つたのです。
 その一人は、東京の葛飾區に居る人で、徳富と言う共産黨の女の人で、もう一人は、山梨の田舍で百姓をしている久子という人です。

        35

(その次ぎの手紙)――

 徳富稻子。
(立川景子いわく)進歩的思想を持つた、すぐれたインテリ女性で、女子大學卒業以來、いろいろの知識的職業につき、常に新時代の尖端に立ち、自由戀愛主義者なり。戰前、女子大時代より左翼的な團體に關係し、終戰後すぐ共産黨に加入し、現在或る民主主義團體の書記局員として活動、一方暇々に自宅近くの幼稚園内に勞働者託兒所を開設し、自ら主宰している由。「ホントにえらい人だわ。それに強い性格だわね。女でもあそこまで、やれると思うと、たのもしいような氣がする。あたしなど足元へも寄れないわね」と、心からの畏敬をこめて景子は語る。
 夫の徳富伸一郎は稻子より八歳の年した。美貌の洋畫家にして、これも共産黨員の由。子供は無し。以前から思想的に稻子の方が進んでおり、性格的にもシッかりしていて、伸一郎は常に稻子から教育され引きずられて左翼になつた形ありと言う。
「人の噂さでは、しばらく前から、別居しているんだつて。いえね、伸一郎氏に、女給さんあがりの若いキレイな戀人が出來てね、それとほかで同棲してしまつたもんだから、稻子さんとは別れるんだとかでゴタゴタしてるそうだけど、どうなつたかしら。なんしろ稻子さん自身が理窟の上でも實生活の上でも、とても猛烈な自由戀愛主義だしね、伸一郎氏といつしよになる時だつて稻子さんと言う人は、その前の御亭主の、たしか物理學の教授だつた、その人を蹴とばして強引に伸一郎氏といつしよになつた位だから、今度伸一郎氏に新らしい戀人が出來ても、反對するわけには行かないんじやないかしら。痛い所だわね。もとの御亭主に呑ませた煮え湯を今度は御自分が呑む番になつたわけよ。自分が良いと思つてやつて來た主義を、人には、そうしちやいけないとは言えないんでしよう? 自繩自縛という所ね。でもあたしは女だから、稻子さんに同情するな。伸一郎氏のためには稻子さん、實に今迄至れりつくせり、かゆい所に手がとどくように良くしてやつて來たのよ。ひと頃など朝起きると、伸一郎氏の帶までむすんでやるのよ。經濟的にも稻子さんの收入の方が多いんだから、伸一郎氏がズーッとノンキに繪が描いておれたのも稻子さんのおかげよ。稻子さんて人は、ひどく新しがつて、自分でも新らしいと思つているんだけど、シンはまるで封建的な人じやないかしら。すくなくとも伸一郎氏に對しては全然世話女房だつた。自分の方が年上だと言うヒケメもあるかしら? とにかく、見ていても腹が立つほど盡して來たのよ。それを、若い美しい女が居たからつて、ハイ・サヨウナラはひどいわよ! とにかく、そういうような人だわ、稻子さんて。まさか、あの人があなたの搜している人では無いと思うけど、何かの手がかりにはなるかも知れない。もしかすると、案外、そんなような自由な戀愛觀を持つた人だから、Mさんから頼まれて、それ位のことはやりかねないかも知れない。よしんば自分はしないにしても、間に立つて口をきいてやる位の事はする人よ。とにかく會つてごらんなさい」――以上、立川景子の話。

 それで、會いに行つた。
 徳富稻子の年齡は自分には見當つかず、既に相當の年配にちがい無きも、身體非常に小ガラにして、顏も少年の如く小さく丸く、ボオイッシュ・ボッブ? 髮をザンギリに刈りあげ、ハデな化粧のためひどく若く見ゆ。葛飾區の、川のそばのきたないアパートの二階に住んでいる。
 自分が最初に訪ねて行つた時は、正午近くだつたが、アパートには不在のため、隣室の人にたずねると、託兒所だろうという事で、そちらへ行くと、なるほど幼稚園のカンバンはかかつているが、古板や燒けトタンを寄せ集めて立てたヨロヨロのバラックなり。表で自分がウロウロしていると、バラックの内から、甲高い女の聲と三四人の幼い子供たちの聲で、インターナショナルを歌う聲が不意に起る。しかし、チャンと歌になつているのは、ただ一人の女の聲だけで、あとの子供たちは、ただウォーウォーと犬がほえるように、節もメチャメチャに叫ぶだけ。
 案内を乞うていると、窓のような所から、オトナやら子供やらわからぬ女の顏がヌッと突き出て、「どなた?」と言う。それが徳富稻子であつた。内に入ると、二間四方ぐらいのきたない板の間で、家具は無く、壁に小さい黒板を一つぶらさげただけ。黒板に多分熊だろう――動物の繪がチョウクで描いてある。四歳から七歳ぐらいまでの、みすぼらしいナリと顏をした子供が、たつた四人いるだけ。それに稻子はインターナショナルを教えていたらしい。自分は託兒所というものを、はじめて見たが、こんな貧弱な託兒所が有るのか? 兒童が四人というのも、あまり少なすぎるのではあるまいか。しかしそんな事は自分に直接の關係無き事ゆえ、すぐに自分がMさんの知人であることを言う。椅子も無く、坐る所も無いので、突つ立つたままなり。
「そう、Mさんね?……もう久しく會わないでいて、あの方あんなことになつたけど――お氣の毒なことをしましたねえ」
 カチッとした物の言い方で、テイネイなれど、冷たい。人をよせつけないような所がある。ひどくイライラしているような眼の色。そのイライラしている自分を他人からかくそうとして壓えつけている。冷たい感じはそのために生れるのか。――
「で、どんな御用でしよう?」
 言われて自分困る。はじめの三四分間、この人があの女で無いとわかつたので、さて「用」と言われるとマゴつくのだ。それで、しかた無く、訪問の口實として立川景子から授かつた「Mさんの事を書きとめて置きたいと思つて、知人の方たちを歴訪しているんです」と言うと、稻子はしばらく考えていたが、やがて腕時計をのぞき「では、私の住居の方へ行きましよう。いえ、どうせ、お午になれば、この子たちは家の方から連れに來ることになつているし、もう十一時半過ぎですから、早目に歸らせましよう」
 それで、連れ立つて元のアパートへ行く。途中、「あれんぱつちの子供を集めて託兒所なんて言うと、コッケイに見えるでしようね?」と言う。自分が何とも答え得ないでいると、ハッハハ! と男のように笑い「でも、はじめたばかりで、しかたが無いし、それにあれだけでも親達は助かつているのよ。このへんの勞働者なんか、ちかごろ暮しがとても苦しくなつて來ていて、子供なんか見てやつてる暇は無いんですからね」と言う。何か恥かしい事をしている所を、出しぬけに覗かれて、ムッと怒り、同時に辯解しないではおられない氣持になつているようだ。
 アパートではお茶を入れてくれる。「一時間だけ時間があるから、知つている事はお答えしましよう。ただ、私はMさんとそれほど親しくなかつたし、お目にかかつていたのも、戰爭前の赤色救援會の活動の中で、金を寄附してもらう用事などが主で、だから、もう六七年も前のことで深い事は知らないのよ」
 自分の現住所を誰に聞いたと問うので立川さんの名を言つたが、
「立川さん、お元氣?」と言つたきりで、何か考えていたが、それ以上追求せず。それで、しかた無く自分はMさんの事を二三たずね、ソロソロ歸ろうと思つている所へ、ヌッと室に入つて來た男あり。男は、自分をジロジロと見ていたが、やがて無視し、稻子に對していそがわしく言葉をかけ、兩方で二言三言交す間に調子が荒くなり、たちまち口論になる。自分は歸るに歸られず、室の隅で二人の言い合いを見ていた。男は稻子の夫の徳富伸一郎だつた。
 口論の内容は、はじめ自分にわからず。しかし次第に口論が激しくなつて、第三者の自分の存在を顧慮している余裕が双方に無くなつて來て、アケスケな言い方をしはじめて來ると、立川景子より聞いた事と照し合せて次第にわかつて來た。
 この夫婦とその若い女との間の三角關係は緊張しきつており、若い女はニンシンしている。そして伸一郎が稻子と正式に離婚しなければ、毒を呑んで胎兒もろとも死ぬと言つている由。おどかしでは無く、かねて、それをやりかねないヒステリックと言うか、戰後的な女らしい。だから伸一郎は稻子に向つて正式の離婚手續きを取ることを承諾するよう要求しつづけて來たが、稻子の方で承知しない。ああの、こうのと言つて拒んで來たが、現在では、手切れ金として三十萬圓拂わなければイヤだと言つている。伸一郎の方は出せないと言う。事實金は無いらしい。それで話はどこまで行つても解決せず。
 しかし自分がわきから觀察したところに依れば、徳富稻子は、實は必らずしも手切れ金が欲しいのでは無い。男に對してミレンがある。しかし自尊心が強いためにそれを言えない。それに、そのような事を言うと、「男女の戀愛はいつでも自由であつて、法律上の夫婦關係にこだわつたり、それに依つて相手をしばつたりする事は、封建的なまちがいだと言うのは、あなたの持論じやないか! あんたが、いつもそれを云つてたんじやないか!」と言つて男から、やつつけられる。つまり、稻子自身の理論を伸一郎が逆手にとつて詰め寄る。したがつて稻子はそれに對抗し得ない。しかし別れたくはない。だから金の事を言い出している。
 尚、伸一郎の方は「僕は畫家で藝術家だ。藝術が命だ。それが、あんたと言う人といつしよに居ると自分の藝術は涸渇してしまう。いや、それはイデオロギイの問題じやない。イデオロギイの點では君は正しいと思うし、僕も黨員として恥かしくない活動はやつて行つているし、これからもやつて行くつもりだ。問題は藝術の事だし、藝術家が藝術を生んで行くための地盤になる生活のウルオイだとか、愛情の事なんだ。君はわかつてくれる筈だ。だつて、それも君がこれまで、いつも言つて來た事なんだから、それを今さら認めてくれないのは、君のイジワルか、君の理論の虚僞じやないか!」と言う。
 この點では、彼は稻子の武器を逆手に取つているため、稻子には一言も抗辯できない。
 兩方とも、一所懸命なり。伸一郎はズルイ。稻子の方はバカゲている。
 聞いていて自分は男を憎み、女を輕べつした。
 共産主義というものは、こんなものなのか? いや共産主義とは限らない、主義や理論が、こんなふうに、個人の人間的な愛情の間題などに對して、これほど無力なもの、又はウソのつき合いの道具になるものならば、全體なんのタシになるのであろうか? こんな人たちにとつては主義やイデオロギイも、みんなウソではないのだろうか? すくなくとも裝飾に過ぎないのではないのか? 託兒所なども結局は本心からのものでは無いのではあるまいか?
 とにかく稻子は、まだ伸一郎を愛しているんじやないか。それなら、なぜに正直にそれを言わないのだ? 言えないのだ? 言つても三角關係は、どうにもならぬかも知れん。しかし、こんなバカらしいウソツキゴッコをしているよりは、まだマシだ。「若い女から夫を寢取られた」と、なぜ稻子は思えないのか。そして、なぜ泣かないのか。それこそホントの人間じやないのか。そして主義も主張も、先ずホントの人間になつてからの話ではないのか。つまらない小理窟にひつかかつて、自分で自分になぜウソをついているのか。……

 そのうちに、稻子は、あまり昂奮したセイか、不意にひどい鼻血を出しはじめた。それにビックリして伸一郎は議論をやめて、オロオロしながら、ハンカチなどを出し、カイホウをしはじめた。
 そのスキに自分は、室を逃げ出した。
 あとで二人は、もしかすると、又口論をはじめ、なぐり合いなどまでやつたかも知れず。又は、アベコベに、一所に寢たかも知れないとも思う。この方が當つているような氣がする。二人の口論の調子の中に、そんな所があつた。男女ともに氣持は離れ離れになりながら、永い間の習慣で、口論の果ては、いつでも性交になるのではないのか?
 ベッ! 自分には關係の無い世界なり。外に出て自分は伸一郎を憎み、稻子を、あわれだと感じ、そして二人ひつくるめて、ケイベツせり。お前さんたちは、兩方でウソつき合つて、臭い寢床で眠れ。

        36

 …………
 ごぶさたいたしました。
 お變り無いことと思います。
 この前手紙をさしあげてから、たしか二カ月あまりたちます。その間、短い手紙かハガキでもと何度も考えましたけれど、次ぎ次ぎといろんな事がありまして、居る所も轉々としていましたし、それにかんじんの僕の心が搖れ動いているものですから、手紙など書く氣がしませんでした。チョット書く氣が起きても、さてペンを取りあげるとどう書いてよいかわからなくなり、それで紙を前にして自分の考えをまとめようとしていろいろにしているうちに、書く氣が無くなつているのです。そんな事を何度か繰返しているうちに、――ちよつと妙な言い方ですけど、小説や戯曲などの作家の苦しみと言いますか、作家の仕事のむずかしさと言つたような事が僕に少しわかつたような氣がしました。
 と言いますのは、僕は「自分の考えをまとめようとして」と書きましたが、實は「考え」ではありません。自分の見たり聞いたりした事なんです。それをありのままに書こうとしただけなんです。それが書けないのです。イザ書こうとすると、書けない。目で見、耳で聞いたことだから、ありのままに書けない筈は無いのに、實はそれが非常にむずかしい事だと言うことが、わかつて來たのです。「あの人は善い人だ」と言つても、果してそう言い切れるか? 「善い」と言う事が全體どんな事なのか? あの松は濃い緑色だと書いて見ても、一體、その松はホントに緑色なのか? 紫色に見えると言つても、黒く見えると言つてもウソでは無いのでないか? 一つの事件にしても、それを見る見方には、ほとんど無數の見方がある。その中で、どれを選べば「眞實」なのだろう? つまり、事物に對する僕の認識と言いますか、それがハッキリせず、自信が持てないのです。
 こんな事は、以前には無かつた事です。ズット前、シナリオや小説みたいなものを書いている時分は、そんな事は全く氣になりませんでしたし、復員して來て黒田組で働いている間も、そんな事はありませんでした。こんなふうになつて來たのは、黒田組を出て、方々を歩きまわり、いろんな人に會つて、それらの人々を細かに觀察するようになつてからなんです。認識の目がグラグラと猫の眼のように變りやすく、それについてキッパリした一定の表現が採れないのです。苦しくてならない時があります。たしかに、僕という人間自體が半年前ごろから非常に變りつつあるようです。それが良い事か惡い事か僕にはわからない。しかし實に變テコな妙な氣がします。しかし、それでいて、これまでよりも――すくなくとも黒田組に居た頃までよりも、世の中や人間のホントの姿が深くわかつて來たような氣もします。わかつたと言つても、前にも言いましたように、認識そのものがグラグラしていて疑わしいのですから、「理解した」のではありません。理解なんか出來はしません。「味わつた」と言うのがホントかも知れません。理解は出來ないけれど味は少しわかるんです、この人生の。いくらかホントの味がわかつて來たような氣がするんです。うまく言えませんけれど、あなたには、わかつていただけるでしようか? とにかく、僕と言う男の根本の所が、何か變りかけている事は事實のようです。ひどく不安です。それでいて、惡い氣持ではありません。それは、ちようど、醉つぱらつたような氣持です。「人生」に醉うなんていう事があるのだろうか?
 ――そんなわけですから、今の僕には、ツジツマの合つた手紙は書けません。僕の認識そのものが飛行機に乘つているようにグラグラしているのですから、その後僕が出會つた女の人たちの事を語ると言つても、チャンとツジツマの合つた、自信のある語り方は出來ない。だけど、僕はあなたに語らないではいられない。したがつて、あなたは僕の書くことをあまり信用なさつてはいけません。つまり、僕があの女の人は良い人で立派なことをしていますと言つても、あの女の人は惡くつてパンパンみたいな事をしていると書いても、どちらも、直ぐに信用なさらないように。僕ごとき「幽靈」――フラフラ、グラグラの人間に、パンパンが惡いのか、良妻賢母が善いのか、又はそのアベコベなのか、わかるもんですか。そして、こんな事を言う理由の一つは、リストの中の女の人たちは、かつてのMさんとあなたの共通の知人の人だろうと思うので、そんな人たちをいくぶんでも、僕の見方でケガすことは、その人たちに對してもあなたに對してもすまないと思うからです。
 もう直ぐ夏です。
 僕は今、山梨縣の田舍の貧しい農家に泊つていて、その家の農事の手傳いをしています。ここに來てから、すでに一カ月ぐらいになります。今、麥の取り入れを手傳つています。取り入れはほとんどすんで、一兩日後から、「コナ」しに――調製のことらしいです――かかるそうです。そんなわけで今日はすこし暇です。
 この家は僕は二度目です。前に一度たずねて來て、それから東京へ歸り、あちこちと東京近くで三四人の女の人と會つて、それから又、一月前に此處へ來ました。百姓青年のカッコウをして、畑や麥などの世話――と言つても、僕は百姓の事はなんにも知らないので、久子さんから命令されるままに手傳つて働らくのです。ビックリなさつたですか? あのゴロツキの、フラフラ男が、默つて百姓仕事をしているんですよ。自分でもビックリします。そしてコッケイになります。現に、これを書きながら僕はさつきから笑つているんです。
「貴島さんのオッさんは、なにを、さつきからゲタゲタ笑つているずらなあ、坊や?」
 向うの土間で坊やを相手に豆をむいている久子さんが、さつき、言いました。

 話は、二三カ月前にさかのぼるわけです。

 僕は徳富稻子に會つて、彼女と夫との關係や、彼等の進歩的思想の内容を覗くと、そのあと實に變な氣持になつてしまつて、いろいろ考えました。しかし、僕などには、それをどう思つてよいか、わからない。あの人たちの生活も戀愛も思想も、一切合切實に愚劣だ。踏みつぶしてしまえと思う。しかし、そう感ずるだけで、なぜに愚劣なのか、なぜに踏みつぶしたくなるのか、そのへんの解釋は僕の力では出來ない。――それで、僕は自分でもイヤになつた。そんな連中に會つて歩くことが、すつかりイヤになつた。第一、東京という所がイヤになつてしまつた。
 それで田舍に行つて見ようと言う氣になつたのです。幸い、リストの中に、地方に住んでいる人が二三人おります。その中に、山梨縣にいる久子と言う人があり、その住所書きは、あなたから作つていただいたリストには書いてありませんけど、立川景子さんから聞いて書きとめてあります。地圖でしらべて見ると、Nという驛から大して遠くも無さそうです。それで、すぐに、そこへ行つて見ました。これが先ず輕率だつたのです。
 行く前に、もう一度景子さんに會つて、もうすこし詳しい事を聞けばよかつたのでした。そうすれば、その山内久子が、もう既に結婚している人で、しかも戰爭中に夫と共に滿洲にわたつていて、したがつて、僕が出征した時分は、彼女は滿洲に居た。だから、僕の搜している女などではあり得ないと言うことが、わかつたわけです。もつとも、そんな事情は立川景子は知らないのかもわかりません。「山梨縣で百姓をしている久ちやん」などと言つていましたが、それがいつ頃の知識なのか、――或いは終戰後の現在のことかも知れないが、――ただ人づてに聞いた噂話だつたのか。いずれにしても、多少は何か聞けた筈なのに、景子に會わずに僕は出かけてしまつたのです。しかし、僕はこの自分の輕率さを今となつては、後悔していません。なぜと言うと、あの女で無いと言うことは、久子という人に會つて二つ三つ話をしたら直ぐにわかつた位で……つまり、あの女を搜すという目的から言えば全くムダな失敗を演じたわけなんですが、そんな事よりも、もつと大きな――どう言えばよいか、得るところが有つた……いや、こんな言い方では、うまく僕の氣持は言い現わせません。何か、とにかく、何かを見た。そうです、何かとしか言えない。なぜなら、それが何であるか、その中にどんな意味があるのか、僕にもまだわからないからです。とにかく、その結果――いや、結果と言うと變ですけれど、そういう事のために、僕は又現在こうして久子さんの家に居るわけなんです。
 それを、カンタンに書いて見ます。

        37

 中央線のN驛で汽車を降りて、その村の名を言つて道筋をたずねると、一里とチョットだと言うし、そこを通るバスも有るには有るが、それが出るまで二時間近く待たなければならぬと言うので、ブラブラ歩いて行くことにしました。町を出はずれると、田や畑の中を行きます。土地は丘陵型の起伏に富み、水田もあるにはあるが、畑が多い。それもたいがいスロープになつている。その間を縫つて行く道も、たいがい、ゆるやかな登り坂か降り坂になつていて、水平な所を歩くことは、ほとんど無し。その丘陵型が次第に疊みこまれて行く先きは山脈に盛りあがつている。
 歩きながら、自分が戰地から歸つて以來、今まで、こんなような農村に踏み入つた事が一度も無かつたことに氣づく。かくべつの感慨は起きなかつたが、でも山や森や田畑や、その間にポツポツと立つている農家などを見ると、急に眼がさめて、はじめて自然を見るような新らしい氣持がして、セイセイする。同時に、身體のどこかがポーッとかすんで來て、氣が遠くなるような感じもした。
 教えてもらつた通りに歩いて行つたが、一里とチョットと言うのが、遠いのに驚く。實際は二里ぐらいはあるか。やつと、その部落に着き、方々で「山内久子」とたずねたが、なかなかわからぬ。部落はずれの、その家に近くなつて、四五人の農夫やおかみさんにたずねても、テキパキと答えてくれる人は無い。中には、「山内」と言つただけでフン! と言つて向うを向いてしまう者がある。子供だけが割にスラスラと答えてくれる。おそろしく人氣の惡い村だと思つた。……しかし、それは自分の思いちがいで、實は山内久子の一家が、多くの村の人たちから反感を持たれているためである事が、後になつてわかつた。
 ようやく、その家が見つかつた時は、すでに夕ぐれに近く、戸外は夕陽の光でまだ明るいが、屋内は暗くなつている。家と言つたが、普通の農家の構えでは無く、物置にすこし手を入れたような狹い、ペチャンコの小屋で、おそろしくきたない。小屋の前に穀物を乾したりする庭場の空地が取つてあるので、百姓家だとわかる程度。表戸口は開け放してあるので、案内を乞うたが、誰も出て來ず、答えも無い。一家中で畑にでも出ていて留守かと思つたので待つ氣になつていると、屋内で人の氣配がして、幼兒の聲らしいものがした。すかして見たが暗くてよく見えない。その内に、モゾリと動き出した物があるので、よく見ると、一間きりの部屋の、火の無いイロリのそばに、小さい子供を抱いた老婆が坐つている。それに向つて言葉をかけたが、いつまでたつても返事が無い。
「山内さんはこちらでしようか?」
「はい……?」
「久子さんは、おいででしようか?」
「うん?」
 そうだとも、そうで無いとも言わないで、暗い中から、いつまでも此方を見ている。しかたが無いので「東京から久子さんをたずねて來てこれこれと言うもので」と言う。しかし老婆はマジリマジリとして、眠りこけているらしい幼兒を膝の上で時々ゆするだけ。耳が遠いか、事によると氣が變なのではないか。……困つていると、しばらくしてから、ブツブツと寢ぼけたような言い方で、
「そいで、お前さま、なにかね……久子になにか用かや?……どんな用だ?……うむ。久子は今居ねえが、お前さま、久子にどんな用があんなさるかや?」
 どんな用かと言われてもチョット答えようが無いので、言いしぶつていると、
「……お前さま、杉雄の朋輩かね?」と言う。
 ――後でわかつたが、杉雄と言うのが、この老婆の一人息子で、そして久子の夫であつた。だからこの老婆は久子のシウトメで、その膝の上の幼兒は山内杉雄と久子の間の子供であり、老婆にとつては孫。杉雄は、終戰と共にシベリヤにつれて行かれ、久子だけが(――當時、姙娠中)引き上げて來た。杉雄はいまだに歸還せず、久子、老婆、幼兒の三人でこうして暮している。
 ――それはしかし、久子がもどつて來てズット後になつて聞いてわかつた事で、その時は、どうにも取りつく島が無く、目が馴れてだんだんにハッキリ見えて來た屋内の、極端にみすぼらしい樣子や、老婆の病みつかれて、よごれきつたフクロウのような姿と顏を見ながら、僕は何かとんでもない所に來てしまつたような後悔の氣もちでいた。老婆は、それからブツブツブツブツと非常に不機嫌そうな、所々意味のわからない方言で、根ほり葉ほり僕のことをたずねる。それが實に、しつこい。僕が答えないでいると、同じ事を何度でも繰返して來る。「お前さま、おかみさん、有りやすかい?」などと言う。不愉快になつて來た。そのうちにヒョッと、これはもしかすると、久子を不意に訪ねて來た若い男の僕を、久子と何か變な關係でもあるか、有つたかしたのではないかと思つているのではないかと、氣がついた。そうで無ければ、いくらモウロクした百姓の老婆でも、初めて逢つた人間に、こんなに意地の惡い態度を示す筈は無い。(――この想像は當つていました。いや、實は、僕の想像以上で、老婆は、まだ歸還しない杉雄のためにカングリの嫉妬をしたと同時に、現在この家の柱になつて百姓をして働らいているのは久子一人であるため、久子がどこかへ行つてしまいでもすれば、すぐに自分たちは生きて行かれなくなる、それを怖れて、本能的に僕を警戒していたのです。後になつて、僕という人間がそんな者ではない事がハッキリわかると、このお婆さんは、ひどく人の良い正體を現わしたのです。實に人間がその時々に示す姿というものは、變なものなんですねえ。)……その時には、そんな事はわからないものだから、僕はスッカリ不快になり、口をつぐんでしまつて土間の隅に突つ立つていました。
 そこへ、庭場の方から、人の足音がして、二人の人間が入口に立つた。一人は久子で(これも後でわかつた事で、そしてビックリしたが)、モモヒキにハンテンを着て、手ぬぐいで髮をつつんで鍬をさげた、ただの百姓女です。それを追いかけるようにして後からつづいて來たのは中年の、これもノラ着姿の農夫で、二人とも何かブリブリしている樣子。久子はジロリと僕の方へ目をくれたが、何も言わず、いきなり凄い顏で中年の百姓を振り返ると、
「うるせえよつ! おらんとこのヨウスイロを、おらが直すのに、なんの文句が、有るけ!」と、どなりつけた。
 それに對し、中年の百姓がノドを鳴らすようにして食つてかかり、たちまち二人の間で猛烈な口喧嘩が始まつたには驚いた。さあそれから兩方でガアガア、ガアガアと、相手の言う事などほとんど耳に入れようとせず、今にもなぐり合いが始まらんばかり。言つている事は、僕には、よくわからない。兩方とも方言で、それに恐ろしい早口だし、たとえ意味がわかつたとしても、とても書けるものでは無い。野卑で、聞いていられない。特に久子が「あにを、言やがんだつ!」と叫んだりしている口のハタに、ツバキのアワをくつつけたりしている顏と言つたら、女であるために、かえつて、あさましくて、見ていられない。女が男を相手に、こんなに猛烈にやり合う姿を僕は初めて見た。
 兩方の罵聲の中から切れ切れの言葉を拾つて總合して見ると、畑か水田への灌漑用の水路の事らしい。久子の家の水路と相手のオヤジのタンボへの水路が一部共同になつているらしく、それが、もともと、久子の家で開いた水口で、この水の使用については、まあ久子の家に優先權が有る。それを相手のオヤジの方で、いつの間にか段々に自分の田の方へ利用する程度を多くして行つたようで、それに反抗して久子が鍬を持ち出して水路を作りなおしてしまつたらしい。今度がはじめての事では無く、かなり以前から同じような紛爭をつづけている樣子。このへんのような山がかりの田畑では、農家にとつて水の事が如何に重大なことであるかと言う事は、僕にもわかる。しかし二人の喧嘩の調子は、ただそれだけにしては、あまりに激しいし、双方の根にあるものがドギツすぎるように思つた。その事情は、後になつて、わかつた。
 久子が山内杉雄と結婚したのは、戰爭中、東京に於てで、當時、久子は或る映畫俳優養成所に入所したばかりの研究生で(Mさんは、そこの講師の一人で、數多くの研究生の中で、久子の素質に注目し、特に目をかけてくれた由、後になり久子さんから聞きました)山内杉雄と戀愛に落ち、養成所をやめて結婚するや、いつたん二人は山梨縣に歸り、間も無く滿洲の開拓團に入團するため(山内杉雄は電氣の技術家で、直接農耕よりも農村電化の仕事に抱負を持つており、それの實現のため滿洲の開拓地を望んだ)一人の母親と、すこしばかりの田畑を親類の家に託して、滿洲に渡つた。その際、この附近の農家から同行を希望した青年たちが七八人あり、いきおい杉雄が團長格にされて、渡滿。それまではよかつたが、終戰になつて今までに歸つて來た者は、その中の二人と久子だけで、杉雄はもちろん、五六人の者が歸つて來ず、中の數人は死んだと言うし、他の者も消息無く、いまだに生死不明のため、その家族たちの間で、山内杉雄や久子を怨むようになつた。特に團長格で行つた(一同からたつてと頼まれて、しかた無く一同の世話を燒いただけの由)杉雄の妻が無事で歸つて來たこと、しかも、他の者は消息さえもわからないのに、杉雄はシベリヤの收容所で、とにかく無事に働らいていると言う便りまで有つた事などが、それら家族たちの怨みに油を注ぎ、村民の大部分もこれといつしよになつて、久子一家を憎むようになつた。それには、終戰以後の一般の風潮もある。つまり、復員服を着た青年を見ただけで反感を抱き、中には「おめえたちが戰爭したりしたから、おれたちはこんなヒドい目に會うんだ」と言い放つ者がいたりする――つまり、あれ。「うちの子供をそそのかして滿洲なんかに連れて行つてしまつて殺してしまつたじやないか。だのに、その御本人夫婦はノメノメと生きている」と言うわけなり。久子が歸つて來るや、親類の家にあずけて置いた田畑を返してもらい、老母と幼兒をかかえて百姓仕事をはじめ、最初の間は馴れない事で、ずいぶんつらい思いをしたり失敗もしたが、それから一年あまり、とにかく曲りなりにも農事がやれるようになり、三人の家族が細々ながら暮して行けるようになつた事なども、村民にとつては反感の種らしい。村の交際からは一切絶たれ、事ごとに迫害されて來た。心ある村民の中には、こんな不當な迫害に反對する者も少數ながら居るには居るが、その種の人は、すべての事に積極的に表立つことを避けるため、居ないのと同じ。迫害はしつこい。しかも、これを表沙汰にして警察などに訴え出られるような形を取つて來るのでは無く、もつとインビな方法で來る。役場や民生委員などは、これを知つていても知らぬ顏をしている由。右にあげた用水路についての紛爭のような事は、始終起る。
「はあもう、馴れちまつたですよ。また、馴れでもしなきや、とても、やつて行けませんからねえ。ハハ、今じや、村の衆からいじめられないと、なんだか物たりねえような氣がする位だ。……はじめは、つらかつた。イッソの事と思つたことが、何度あつたずら。しかし、がまんして來ました。それは、杉雄が歸つてくるまでは、私がシャンとしていないでは、母や坊はどうなると思う氣もありましたがね、それよりも、實は、村の人が私ら一家を憎むのも無理ない所があると氣がついたんですよ。杉雄や私の方に惡氣はチットも無かつたけど、村の人の立場になつて見りや、私たちを怨む氣になるのも、あたりまえ。あたりまえとは言えないかも知れんけど、滿洲に行つたきりになつた息子や弟のことを考えると、腹が煮えて、怨みの持つて行きどころが無い。だから目の前の私たち一家に、それをみんな持つて來る。やむを得んことだと思うんですよ。私があの人たちになつて見れば、やつぱりそうするだろうと思うの。そう氣が附いたんです。そしたら、いくらいじめられても、がまん出來るようになりました。それに私が女手一つで、親類に泣きついても行かないで、とにかく百姓をやり通しているのを見ると小づら憎くなるのね。それも、もつともだと思うの。自分ながら、その點では、よくやれるもんだと思う。東京に生れた女がね。これで滿洲に行つてから、あちらの開拓村で働らいた經驗が有つたから、まあ、やれるんですよ。とにかく、村の人に憎まれるワケが、こつちにもあるんですよ。私は、これで、ゴーツク張りですからね」
 久子はその晩、イロリのそばで、僕にそう話して、カラカラと笑つた。
 しかし、その夕方、中年百姓を相手に口ぎたなく罵り合つている彼女の形相は、ただ淺ましく動物的なだけで、右の彼女の内心など微塵も現わしているものではなかつた。この女は、いつでもそうなのだ。心の中には、それだけ廣やかな反省やフックリした感情を持ちながら、いつたん他の人と爭つたり――いや、他の人と爭つたりする時とは限らない、生活のあらゆる部面で現實的に行動する時は常に――たとえば畑で働らいている働きぶりから、家で食事をする時のメシの食い方まで、動物的でガツガツして、なにかしら野卑だ。――僕には、感覺的に附いて行けない。何か、動物のメスを見ているようで、本能的にイヤな氣持になる。……それが、こうして又此處に舞いもどつて來て、この女のそばで百姓の手傳いをしているんだから皮肉だけれど、しかし、現在でも、彼女のそういう點は好きになれない。――
 口喧嘩は三十分ぐらい續き、一時は叩き合いになるかと見えたが、相手の百姓が僕に目をつけ、僕のことを何と思つたか、急に語調を低めたが、やがて捨ゼリフのような罵言を吐きちらしながら、立ち去つて行つた。あと、久子は氣が立つままにブツブツ何か言いながら鍬を片づけたり、手足を洗つたりして、僕のことなど無視していたが、やがて、老婆が「この衆がお前の所へ來てな――」と言うと、やつとこつちを向いてくれた。でもムッとしてどなたとも言わない。僕は、困つたが、しかた無く、Mさんの名を言う。するとヤットいくらか打ちとけてくれ、上にあげてくれる。既にトップリと日が暮れて、屋内は眞暗になつているが、電燈は無し、ランプもつけない。久子は、眼をさまして、まつわり附いて來る幼兒を叱り叱り、バタバタと夕食の仕度をするし、僕は、ボンヤリと暗い中に坐つているきり。やがて夕飯になり、「ホート」と言うスイトンのような汁を僕にもくれた。それがすんで、「どんな用です?」と問われたが、この女が僕の搜している女で無い事は、それまでにわかり過ぎる程わかつているのだし、返事に困つたが、又例のMの事を書くためウンヌンを言い、立川景子さんに聞いて訪ねて來たことを述べる。疑われるかと不安だつたが、案外に直ぐに信じてくれ、それに意外なことに、僕がMさんの事を話しているうちに、それまで何も言わなかつた老婆が急にあたたかい聲で、「ああ、廣島でなくなられたと言う人の、お弟子さんでやしたかい!」と言つてくれた事だ。僕が變な顏をしていると、イロリの火の光の中で、はじめてニッコリした久子が、默つて、火のついた枝を鍋の下から取り、壁のそばへ僕をつれて行き、よごれた佛壇を見せてくれた。
 そこに並んだイハイの間に、Mさんの寫眞――それも映畫雜誌からでも切り拔いたらしい小さな寫眞が、かざつてある。
「……あたしの昔の先生だと言つたら、あれからズーッとおつ母さんも朝晩に水をそなえてくれたり、花をあげてくれているんですよ」
 僕は一種なんとも言えない清冽なものを感じ、しばらくそのMさんの寫眞を見つめていた。
 それから後は非常に調子が良くなつた。と言つても、かくべつの話は無い。Mさんの事を話したり、立川景子について話したり(想像の通り、久子は景子には戰爭以來逢つていないと言う)この山内家の事情を聞かされたりした。かくべつ僕を歡迎すると言う風は無し、その方法も無いような貧しい家で、久子の氣質は前記の通り、ほとんどバサバサしたようなもので、それだけに、すこし馴れると氣が置けない。
 その晩は泊めてもらい、翌日になつて僕は東京へもどつて來たのです。それから、東京であちこちと二カ月ばかり過して、又思い立つて、ここへ來たわけです。その間の、搜索の件は、實は僕自身あまり興味が無いので、ザッとしか書きません。

        38

 二カ月の間にリスト中の女で、自分のたずね當てた人は四人。――と言うべきか、三人と言うべきか。なぜなら、その中の一人は既に死亡していた。終戰まぎわの空襲で燒死。野々宮キミ、二十六歳。その事を自分に語つてくれたのは、四人中の一人の椎名安子。
 その椎名さんの事から書きます。
 東京の近くのT市の場末の、アパートとも旅館ともつかぬ、室數ばかりムヤミと多いだけで、おそろしく汚いバラックの一室(三疊ぐらい)に一人で住み、目下、病氣で寢こんでいる。病氣は肺結核。その他にも病氣があるらしい。病氣は、かなり以前からのようで、相當の重態らしいが、自分で自分の病氣を、ほとんど氣にかけず、積極的に養生しようという氣は無いらしい。生きていたいという氣が無いようである。そうかと言つて、早く死のうとも思わぬらしく、そのへん、自分にはわからぬ。當人もそんな事に關する事は一言も言わない。大體、病状のために呼吸が苦しいか、あまり口をきかぬ。低い聲で靜かに二言か三言かを言つて默り、又、しばらくたつて、ポツンと一言か二言か言うといつた調子。あらゆる事がらに、興味を示さず。Mさんの事を自分が言い出しても、
「そう、お氣の毒だつたわね……」と言つて、天井を向いて寢ている顏の筋一つ動かさない。それでいて、冷酷と言うのでは無い。ただ、そういう事に氣持を動かすような心境から、はるかに遠い所に行つてしまつているとでも言うか。だから、自分がこうして彼女を訪ねて來た理由なども聞こうとはしないし、又、自分が彼女をたずね當てた徑路をクドクドと説明しても、興味が無いか、ほとんど聞いていない。野々宮キミが燒死した現場に居たらしいが、それを語るにも淡々として、短い言葉で、「……顏の皮が、アゴの所まで綺麗にむけてしまつていたわ。ベロッと」そんなふうに言うが、感情はこもらない。それで顏は、すき通つたような、案外に痩せては居ず、やさしい、美しい表情だ。見ていて、なんだか恐ろしいような氣がして來る。
 室には、病氣特有のスッパイような匂いと、クレゾール液の匂いの入れまじつた空氣が重くよどんでいる。室に入つて來るや、自分の搜す女では無いと思つたが、それきり、安子と相對している間中、あの女のことなど思い出しもしなかつた。それほど、この室の空氣の匂いと、椎名安子の人柄は、もうどうしようも無い、決定的なものであつた。自分などが何か言つても、そんなことは全部はじき飛ばされてしまうだろう。……この人は、どうして暮しているのだろう? 家族は居ないのだろうか? 親戚は無いのだろうか? 看病する人は? 醫者にはかかつているのか?――そんな事考えたが、口に出しては言い出せなかつた。言い出しても仕方が無い氣がした。そんな事を言う自分がセンエツなような輕薄なように思われる。第一、安子がチャンと答えてはくれまいと言う氣がした。しかたが無いので歸る氣になつて、カンタンに失禮を詫び、「お大事に」と言い、金を千圓ばかり、安子には氣づかれないように枕元の盆の下にはさんで立ちかけた。そこへ、案内も乞わずに室に入つて來た男がある。自分よりも少し年の行つた、ハデな洋服を着た男で、その身なりやからだのコナシ、それからアゴの所の刀キズらしいものの有る下品な、ソソケ立つたような顏などで、一目見て、バクチ打ちかゴロツキのような事をしている男だと自分にはわかつた。それも、大した格の男では無い。グレン隊あがりの自分免許の兄き分と言つた所か。永らく黒田組に居たせいで、自分のそういう目は鋭くなつている。……そして室に入つて來た態度から、默つてジロリと自分を見上げた目つき、それから安子の方へ
「どうした――?」
 と言つた言葉の調子などから、これが現在の安子の男であることが、わかる。
 ああそうか。……自分は男に默禮して室を出て行きながら、それならば、さしあたり、別に心配することは無いと、妙な安心みたいなものを感じた。同時に、おそろしくミジメな氣持になつている自分に氣附く。
 外に出て、Tの場末のゴミゴミした通りを驛の方へ歩いて行きながら、どうしたのか急に悲しくなり、胸がせきあげて來て、涙がとまらない。こんな事は自分にはメッタに無い事だ。通る人が見るので、涙がとまるまで電柱のかげに立つていた。そして、椎名安子を、又しばらくしたら見舞いに來ようと思つた。

 志村小夜子。
 東京の郊外のSに住んでいる。
 椎名安子からこの女の現住所を聞いて訪ねて行つたが、その番地へ行つても、家がしばらくわからなかつたが、そのうち氣が附くと、なんの事だ、自分が何度もその家の前を通り過ぎた。今どきでは豪壯と言つてもよいような立派な邸宅が、それだつた。志村某々と、小夜子の夫のだろう表札が出ていて、明らかに終戰後に新築したものである。なんのわけも無いのに自分はそんな立派な家に住んでいる人だとは思つていなかつた。なにか意外なような氣がしてしかたが無かつた。どうもこれは、今迄自分が訪ねて行つた女たちが全部と言つてよい位に貧しくつつましい生活をしていたのが、いつの間にか、あとも全部似たような人たちだろうと思うようになつていたためか。
 訪れると小夜子は内にいて、快く會つてくれた。家の内部も豪華なもので、小夜子も金のかかつたナリをしている。家の樣子を見たばかりで、どうせ今どきこんな立派な邸宅に住んでいるのは、新興成金かなにかだろうと自分は思つていたが、それにしては、そこいらの好みがアカぬけしていて下卑たケバケバしい所が無い。これも少し意外だつた。もつとも、後で聞いたところによると、小夜子の夫は、やつぱり土建業の新興事業家だつた。ただ他の成金とちがうのは、戰爭以前から――財閥に深い關係を持つていた實業家、言わば名家の次男であつて、戰後財閥解體のアホリを食つて、ほとんど無一物になつたが、――財閥關係の人的關係のつながりは依然として殘つていて、金融方面ではそれがなかなか物を言う。そのような關係をうまく利用して土建會社を起して成功し、今ではその會社の會長で、他にも二三の會社に關係している。戰爭中、まだ小夜子が女優をやつていた時に、そのパトロンだつたが、終戰直後、妻を失い、間も無く、正式に小夜子を後妻として迎えた。先妻の子が二人いるが、二人とも既に大きく、別棟の家に別居の形。小夜子には、まだ子供無し。生活は豐かで、小型の自家用車を乘りまわし、月に二三度は外國人などを招いてダンス・パーティを開く由。立派なブルジョアの生活。しかし、すべてに夫妻の趣味の良さが行き渡つていて、成金式のゲスな所は無く、小夜子は非常に滿足しており、幸福に見える。顏も姿もサエザエと美しい。
 ――一時間ばかり會つて話している間に、自分が總合したのは以上のような事であつた。Mさんの事を言うと、「ホントにねえ、なんと申したらいいんですか……どうして又、いくら芝居をするためとは言いながら、原子爆彈の落ちる十日ばかり前なんかに、選りに選つて廣島なぞにいらしつたんですかねえ。あの方の事を思うと、今でも泣けて來るんですの」と言いながらサメザメと涙を流す。
 その言葉つきや涙の顏などが實に綺麗で、まるで芝居でも見ているよう。全體がどうも美しすぎる。言葉も動作も。自分はそれを見ながら、これまでに訪ねて行つた數人の女たちがMさんの事を語る語り方が、それぞれに違つていたのを思い出していた。特に前の椎名安子のそれと、山内久子のイハイの事、それから立川景子の悲しみ方などを、この志村小夜子の涙と心の中で較べていた。椎名安子は、自分には少し怖い。近よりにくい。立川景子は、なにか誇張して、別に惡い意味では無く行き過ぎているような氣がする。山内久子はイハイを見ていても、泣いたりはしなかつた。ただ默つて、深い強い目色をしていただけ。……そんなふうに思つていたら、どういうわけか急に、もう一度、山梨縣の久子の家に行つて見たいような氣がした。……ところで、この志村小夜子のこの美しい涙は、すると、どう言えばよいのだろう? たしかにそれは悲しみの涙で、そこに嘘は無い。正直にMさんのために泣いている。それはそうだ。しかし、もしかすると、今こうして幸福な生活の中で、自己に全く滿足している人間が、かつて知つていた故人のために涙を流すことに依つて、彼女自身が良い氣持になつているだけではないだろうか? いくら泣いても彼女は何も失わない、それを彼女自身知つている、そこに惡意は無い。しかし彼女には彼女自身だけしか存在しないのではないのか? 彼女の涙の中にMさんは居ないのではないのか?
 自分の思い過ごしかも知れぬ。しかしそんな氣がした。すると、急にそこに居たくなくなつた。
 もちろん、この女は自分のあの夜の女では無い。萬一、この女がそうだつたとするならば、僕はごめんだ。僕は引きさがる。……そう思う。いずれにしろ、志村小夜子など、俺には縁の無い存在である。

 古賀春子。
 志村小夜子に所を聞いて訪ねて行つたが、これは又、アッケ無いほどガラガラと明けつぴろげた暮しをしている人で、年は三十過ぎ。一眼見たばかりで、あの女では無い。
 Sの裏で「春子の家」という小料理屋を營業している。表面はそこのマダムだが、實は金主は他にある、つまり雇われマダム。春子の前身のため、藝能關係の客が附いていて、店は相當繁盛している。それよりもビックリしたのは、以前、黒田組に居た頃、組の若い者につれられて、この家には自分は一二度來たことがあるのだ。記憶は無いが、その時春子をも見た筈。その時は、たしか組の若い者が「禁制品であろうと何であろうと、どんな料理でも酒でも、スシなんかも食わせる家が有るから案内しようじやありませんか」と言つて連れて行き、言葉の通り、當時としては珍らしい物を飮み食いさせてくれた。現在でも、そういう點は同じらしい。
 訪ねて行くと、夕方だつたが、もう店は開けていて、客はまだ立てこんでいず、Mさんの名を言うと、たちまち、なつかしそうな顏で、まあまあこちらでと言つて、隅の小さなテーブルの所へ連れて行き、他の客にするのと同じようにビールを出してくれる。ガラガラとした調子だが、見るからに人が良さそうで、美しいと言うよりも色つぽい。氣取らず、オシャベリで、こちらが默つていても、あれこれと氣輕に話してくれる。はじめはMさんの思い出話が主だつたが、次ぎ次ぎと話題が流れて、この間に身の上話なども混る。それによると、夫も子供も有るようで、ただ夫が病身のため近縣で飜譯などをして暮しているが、それでは到底生活が立たぬため、こうして働きはじめたが、働らいて見ると、この方が結局氣樂なため、近ごろでは自分一人東京に出つきりになり、此の家に住み込んでやつていて、夫や子供の所へは月に一二囘もどるだけと言う。
「時々これでも又芝居がやりたくなる事があるの。妙じやありませんか、夜寢ていてね、舞臺に出る前になつてセリフを胴忘れちまつた夢などを見て、うなされて、汗びつしよりになつたりする事が、いまだにあるんだから。ホホ、芝居と言うものは、まるで麻藥みたいなもんね。いつたん、取つつかれると、まるで骨がらみになつてしまうの。だけど、もうダメね私なんか。世間がこんなふうになつて來ると、もう良い芝居なんか第一經濟的に成り立たないと言うしね、こうなれば、なんでもいいから食いつないで、食い拔けて行くだけで精一杯だわね。それに、何てつたつて、人間が生きて、――チャンと生きて行つた上での藝術じや無くつて? 自分が食えなくたつて、妻子が飢えたつて演劇のためなら、なんて熱は無くなつちやつた。また、そんな熱は、今こんな有樣の最中では、まちがつていると思うのよ」
 そんな事を言う。すこしも暗い所は無い。サバサバとして、健康だ。立川景子との違い。……どちらが良いとも自分には言えない。ただ、この方が、見ていて氣樂である。それにガラガラと吐き捨てるように語りながら、春子がその病弱の夫と子供を心から愛していることが、こちらにわかる。それが單純で力強い感じだ。こんな女も居る。立川景子みたいな女も居る。徳富稻子みたいな女も居る。志村小夜子みたいなのも居る。山内久子も居る。……人間も實にいろいろだと思つた。このリストの中だけでも、一人として他と同じような人は居ないのだ。――
 そのうちに、客が立てこんで來て、春子もチョイチョイ席を立つて忙しそうだし、自分の方からは別に話は無いので、いいのよ、いいのよとシキリと春子が言うのを押して、飮んだビールの金を拂い又來ますからと言つて、店を出る。

        39

 探索は、ついに望みは無い。
 リストにのつている女たちの大部分は既に訪ね歩いてしまつた。殘つているのは、居所も、いや、生死の程も知れない三四人の名前にすぎない。その三四人を無理に搜して會つて見ても、その中にも、あの女は居ないような氣がする。いや、大體、このリストの女たちの中に、あの夜の女が居るかも知れないなどと思つた自分が、最初からどうにかしていたのだ。夢だ。それに、大體、あの晩のこと自體が夢ではないのか。あんな事はホントは無かつたのかも知れない。それは全部自分の幻想だつたかも知れない。復員直後、自分の頭の調子がおかしく、黒田組の中で酒びたしになつたり、阿片をやつた事もある――そういう状態でいた自分の頭の中にフッと浮びあがつた幻想を、いつの間にかホントにあつた事のように思いこんでいたのではあるまいか。……とにかく、こんな當ての無い搜しものなど、いいかげんに、やめた方がよい――
 その晩、行きあたりバッタリに泊つた旅館の寢床の上にあおむけに寢て、僕はツクヅクそう思つたのです。搜し歩くことに疲れたとも言えます。たしかに、よいかげん疲れました。夢みたいな事だとは最初からわかつていたが、とにかく初めのころは、その夢に一所懸命になれましたが、今はそれほど夢中になれなくなつています。その上に、實は、身をかくす時に黒田策太郎から渡された金も、ほとんど使い果してしまつて、もう僅かしか殘つていないのです。なんとかしなければ、探索して歩くことは愚か、間も無く食つて行くことさえ出來なくなることが目に見えています。
 イッソの事、強盜にでもなつて、早いとこ、パッパッと我が身の勝負をつけてしまうか。何が善い事で、何が惡いか、どうせ今の世の中で、そんな事がわかるもんか。よしんばそれが惡い事であつたにしろ、自分のカラダを張つて、つかまれば自分も縛られるか殺されるのを承知でやるんだから、それでいいじやないか。――そう言う氣がまだ僕に殘つているんです。
 しかし、そんな事をしても、つまらん。やつて見たところで同じ事の繰返しで、つまらない。メンドくさい。よせよせ、つまらん。……すると、俺はこれから、どうしたらいいんだ? 何をすればよいのだろう?
 しかたが無いから、又、黒田組へ舞いもどるか? そうしようと思えば、出來るのです。
 あなたへの手紙には書きませんでしたが、しばらく前に僕は、女を搜して、東京近在をあちこちしている最中に、偶然に品川驛のプラットフォームで、黒田組の杉田――あなたも御存じの一本杉です――にバッタリ逢つたのです。その時は僕は急いでいましたし、今さらあんな世界の話を聞いても、しかたが無いとも思つたし、一本杉の方でも、シンからなつかしそうにして、その後の話をユックリしたいらしかつたのですが、とにかく身をかくしている事になつている私をつかまえて人目の多い場所で、あまり長話しをしてはならない事は、さすがにその世界の常識で承知していますので、ホンの四五分間の立ち話で別れたんですが、その短かい話から推測すると、あの後、私が消えたので黒田組と國友たちの連中との間の紛爭は割に平穩になつていたが、それとは別に當局の暴力團體取りしまりが嚴しくなつて、現に黒田策太郎は檢擧されて今裁判中、國友大助は危險を感じたか、あの世界から全く姿をくらまして行方わからず。黒田組は、組の名を解消して、子分の連中は目下おとなしく土建屋になつたり荷役の仕事をしているが、しかし裏では相變らず昔と同じ。「あたしも、まあ、その方で働らいています。兄きも、もうホトボリはさめちまつたんだから、又戻つて來ちや、どうですかねえ。親父さんにや、あたしから言つときます」と杉田は言いました。僕は、ただウンウンと話を聞くだけで別れたのです。……そんなわけで、組へ戻ろうと思えば、なんの苦もなく戻れる。戻ろうか?……考えたんですが、どうしてもそんな氣にはなれないのです。
 そうすると、僕はどうすればいいのだ?
 フッと、一本杉が、その時の別れぎわに言つた「いつか、兄きを追つかけていた、ルリさんとか言つた綺麗な女ね、あれが、その後、二度も三度も、兄きのことをたずねに組の方へ來ましたぜ。一度は、例のホラ、丸まつちい身體の久保さんねえ、あの人と一緒だつたつけ」と言つたのです。その時は唯聞き流していたんですが、今こうして、前途の目標を失つてしまつて、ボンヤリ寢ころがりながら、それを思い出すと、不意にクラクラッとする位に、逢いたくなつたのです。久保とルリ。あの丸い、土佐犬のように默々とした久保。それから白く匂うルリ。なつかしい。逢いたい。……僕は無意識に寢どこの上に起き直りました。
 ……しかし逢つてどうしようと言うのだろう? 久保は僕とは違う。僕は久保と同じようには歩いて行けない。そしてルリは――ルリの事は、まだ何かしら僕には怖いのです。それに、今度ルリに逢うと、トタンに、ルリと僕との間に、何か非常によくない事が起きそうに思われるんです。いけない! 逢つてはいけない!
 そうして僕は再び寢ころがつたのです。その瞬間に山梨の山内久子のことをフッと思い浮べました。そして急に、もう一度そこへ行つて見たくなつたのです。ワケはありません。なんとなく、久子の所へ行けば、イキがつけそうな氣がしたのです。久子の生活は、なにかしら下卑ていて、言わば動物的ですが、とにかく、ホントに根の生えた生活のような氣がしたのです。ホントの人間のような氣がするのです。徳富稻子などの生活や思想に較べれば、まるで下等なものかも知れないが、あの方がホントだ。そんな氣がしました。山内久子は、自分の生活を踏んまえてガッシリと立つています。老母と幼兒を守り、亭主の歸國を待ちながら、誰から何と言われてもスラリと立つて、百姓をしています。だから僕が行つても、僕の中へ踏み込んで來たりはしません。僕なぞには、かけかまい無く、やつて行くでしよう。その點が今の僕には良いのです。ホッと息がつけそうな氣がするんです。よし、あそこへ行こう!

 その次ぎの日に又此處へ來たのです。
 そんなワケです今僕がこんな所に居るのは。そして、來てよかつたと思つています。
 久子一家は僕が又現われても、大して意外そうな顏はしませんでした。もちろん、歡迎するようなこともありません。ちようど犬たちの群が、他から來た犬を迎えたようなものでした。「ホート汁」を又食べさせて、なにしに來たとも、いつ歸るかとも言わないのです。僕も自分のいろんな氣持や心理など説明なんかしません。ただ、「百姓の手傳いをするから、しばらく居させてください」と言うと、久子は「そうかね」と答えただけです。よろこんだのは、かえつて老婆のようでした。夏のタンボ仕事が、久子の女手一つでは、いくらか手に餘ることを、このお婆さんは知つていて、そこへ男手が來てくれたので、よろこんだらしいのです。それに、このお婆さんは、最初、自分の息子の嫁に僕という若い男が近附くのを、あれほど嫉妬したくせに、どういう理由からか、今は、そんな事をまるで考えもしないらしいのです。働き手がふえたから、それを忍んで外に出さないでいると言つたふうの功利的なものではありません。まるきり僕を信用しているらしいのです。それは僕に理由があるのかも知れません。僕には久子さんが女のような氣がしないのです。女だと知つていながら、そういう氣がしない。もし女として眺めるのだつたら、イヤな、ヤリきれない所のある女だと思います。つまり、久子さんの中には、僕の嫌いな所が有るのです。現在でもそうなんです。それがお婆さんの心の眼に見えるために、變な不安が生れる餘地が無いのかも知れません。
 とにかく僕は、その翌日から、割に落ちついて、久子さんに言い附けられるままに、いろんな百姓仕事をしました。はじめは、身體が痛くて、かなりつらかつたのですが、次第に馴れて來て、今ではたいがいの事は半人前ぐらいは、やれます。
 僕は重農主義者でも無ければ、農民や農村を愛したりしている人間ではありません。ですから、百姓の生活や仕事を理想化したり美化して考えたりはしません。ただの仕事だと思つています。それをやるのだつて、別に惡い氣持でも無いが、特に良い氣持でもありません。ただ、働くという事は惡くないな――そんなふうに思つてやつています。
「貴島さん、あんた、金、ある?」と、或る時久子が聞くので「無い」と言いますと、
「金、かせぎたくない? かせぎたければ、どうだね、カツギ屋やつて見ないかね? 實はね、あたしんちでも、こうして、まあまあ食うだけは食つて行けるけど、現金はまるで無いからね。これから冬になつて、お婆さんや坊に着せるもの一つ買えない。そいで、豆だとか何かを、すこしカツイで行つて町で賣ろうと思うが、今まで私一人で、出來なかつた。あんた、やる氣があつたら、やつて見ない? もうけは半分あんたにあげるわ」
「やつてもいいけど、下手をすると、つかまるんだろう?」
「そりや、そうさ。それは仕方が無い。法律をくぐつてやるんだから。そんな時はスナオに、取り上げてもらうなり、罰は受けるさ。それが法律だもの。しかし、別に人の物をぬすむと言うんじやなし、大金もうけをしようと言うんじや無しさ、ただそうしないじや、わしら、生きて行けないんだから、まあ、大目に見てもらうんですよ。引つかかつたから、惡いなあ此方だから、スナオに罰してもらうさ、しかたが無いもの」
 いかにも久子さんらしい考え方で、聞いていて僕は笑い出しましたが、笑いながら、急に目が開いたような氣がしたのです。
 それで僕は今、農事の手傳いの暇々にカツギ屋を始めました。品物は久子さんの内で出來たものです。三日に一囘位の割で東京まで通います。あまり大してもうかりはしません。たまには、つかまります。つかまれば久子の言う通り、スナオに取りあげられます。そして又、かついで來るんです。
 知らない間に、半年前のゴロツキが、カツギ屋になつているんです。コッケイだと思います。しかし僕は不滿は感じていません。

        40

 貴島勉の手紙(――この前のものから、この手紙に至る間の五通省略)
          ○
 ――
 三好さん
 またまた、永くごぶさたしました。
 いろんな事がありまして、あちこち走りまわつていましたので、やつと、すこし落ちつきました。いや、もしかすると、これでホントに落ちつくことになるかも知れません。いやいや、僕みたいな[#「僕みたいな」は底本では「僕みたい」]者は、又、いつ、どんなキッカケでウロウロと迷い出すかわからない。そうは思つています。その時はその時で、しかたが無い。そうは思つています。しかし、それにしても、現在は、なんだか、ブカブカと流れただようていた舟の上から、ドブンと水の中にイカリを投げおろした――そんな氣持なんです。知らぬ間に舟は一箇所に浮ぶようになるかもしれない……
 舟と言えば、僕は今これを、妙な所で書いています。千葉縣の海ぞいの宿屋です。猛烈な波の音で家がブルブルふるえます。べつに暴風では無いのです。ここの海岸に打ち寄せる波は、今頃(土用波と言うそうですが)の季節では、いつもこうだそうです。普通の概念での「波の音」なんて言うものではありません。ガーッと地の底からゆりうごかして來るのです。耳で聞くことの出來るようなものでは無い。聞こうとしようものなら、トタンに頭が變になつてしまいます。ただ、その音と震動の中に身をまかせているより仕方の無いものです。
 その中で、人は眠るのです。土地の人はもちろんですが、よそから來た人でも、しばらくすると、その中でグッスリと眠るのです。現に、僕等三人も、ここへ來てから二日にしかならないのに、實によく眠れます。

 三好さん
 僕は、あの女を搜し出したのです。
 あの女――すくなくとも、僕には、あの女としか思えない女を、やつと見つけ出しました。そうです。考えて見ると、これが果してあの女であるかどうか、あやしくなります。證據はなんにもありません。あの女も、なんにも言わないのです。では、僕に、これがあの女であることが、なんでわかつたのだろう? 身體の匂い?
 そうです、そうだとも言えます。しかし、待てよ、ホントに匂いで、それがわかつたのか?
 いや、そうでは無い。だつて、あの女を上野で見つけて、最初にあの女のそばに近寄つた時に、俺の鼻を襲つた匂いは、しめつてスッパイような、鯨のゾウモツが腐つて醗酵したような惡臭だつた。それが、あの女が身じろぎするたびに、身體の隅の方からあおられて來てムーッと俺を包んで、俺は吐きそうになつた。生きながら腐つて行きつつある人間のカラダから立ち昇るガスのような臭い。その中には、思い出のなつかしさや、まして情慾そそるようなものは、まるで無い。……いやいや、しかし、もしかすると、人間の情慾だとか、思い出なんかも、實は匂いにすれば、そんなものなのか? すると、やつぱり、この惡臭が、あの晩の女の匂いだつたのか?……いやいや、ちがう! 俺の鋭どい嗅覺が、いくらなんでも、そんなに大きなまちがいを犯すことは無い。あの肌の匂いは、良かつた。美しかつた。この女の體臭は、ムカムカする。腐りかけている。……そうなんです。
 それでいて、「この女だ」と僕は思つたのです。確信に近いものが僕に生れたのです。それが、どういう事なのだか、僕には全くわかりませんでした。そして、今となつては、そんな事など、どうでもよいと思つています。……
 そうです、僕は、あの女をヤッと見つけました。そしたら、それと同時に、僕はルリをそこに見つけ出したのです。ルリがそこに居たのです。綿貫ルリです。その女と同時に、見つけたのです。びつくりしました。うまく言えません。しかし、そうなんです。
 いえいえ、僕は、神秘主義者になつたのでは無いのです。これは事實ありのままの話です。僕は哲學をしようとは思つていません。現に、今僕がこれを書いている隣りの室では、あの女とルリの二人がほとんど抱き合うようにして眠つているんです。
 あの女の方は、あれから毎日、無理やりにつかまえてフロに入れて洗つてやつているので、最初のような、ひどい惡臭は立てません。しかし、やつぱり、どうにかすると、腐つた臭いがします。ルリは、良い匂いを出します。シットリとしたスモモの花のような匂いです。その二人が、抱き合つて寢ているのです。實に妙な氣がします。
 ――こんな事いくら書いていても、しかたが無いので、僕があの女を見つけ出すまでの事を、かいつまんで書きます。

 あれからズッと僕は山梨の久子さんの家に厄介になつていました。いろんな百姓仕事にも馴れて來ていました。久子さんの、變に動物的な荒々しい性質は好きにはなれませんでしたけれど、前ほど氣にならなくなりました。それは此の女のイヤな所だけど、しかしそういう手きびしい所が有るからこそ、亭主の歸國を待つて、村人たちの迫害に耐えながら女手一つで一家を守つて行くことが出來るのではないか。つまり、それが彼女をシャンと支えている柱になつているのではないか。それが僕にわかつて來たのです。それに、この人は正直です。人間、だれしもホントに自分自身に正直である場合は、多かれ少かれ、他人が見たら粗野にならないではいられないのではないか。それでいいのではないだろうか。久子さんを見ていると、そんな氣がしました。「人間は、半分は動物だ」と言う感じが久子さんを見ている時ほどピッタリすることはありません。僕は、ほかに、こんな感じのする女を、あまり知りません。いや、同じ感じがルリに有ります。これにはビックリしました。後になつて、ルリが現われて、久子さんと並んで僕の前に立つた時に、ルリもそう言う感じを持つており、ですから久子さんとルリがその點でひどく似通つている事を知つた時に、僕は非常におどろきました。――とにかく、それは時によつて英語でディスガスティングと言う言葉が有るようですが、あれです、つまりゲスで、やりきれない感じなのです。それでいて、氣が附いて見ると、客觀的に言つて、ほかのどんなお上品な女よりも久子さんのしている事は倫理的にも上等なのです。ホンの一例ですけれど、男に對する貞潔さ。僕は終戰後の世間で、夫や許婚が歸つて來ないうちに、他に男をこしらえたりして、そのために後になつてゴタゴタが起きている例をたくさん知つていますが、そんなのを見るたびに「夫や許婚が歸るまで、とにかく待てばいいじやないか。それからの事にすればいいじやないか。男はみんなひどい目に逢つて歸つて來るんだ。それさえも待てないか!」と思い、それを通して、そう言つた日本の若い女たちに對してヘドの出るようなケイベツを感じ通して來ているのですが、その點で、久子さんを見ていると、なにか男としてホッと安心できるような氣がします。人の事ですけど、たのもしいような、お禮が言いたいような氣持がするんです。そのほか、生きることの一切を通じて、責任感が強く、獨立していて、堂々と確信をもつて正しい事をやつているのです。
 僕は久子さんからガミガミ叱られながら百姓仕事をしたり、カツギ屋をしたりする生活が、氣もちよくなつて來ました。そうしていれば、僕の働らきが、久子さん一家のためにも、かなりの役に立つことが僕にわかります。久子さんも時々「貴島さんが來てくれてから、とんだ助からあ」と言つて笑うことがあるのです。僕は愉快でした。とにかく、主人がまだ歸らない留守家族の一つを、こんな俺の力でも、すこしは支えるタシになつているのだ、と思つたのです。それに、久子さんは僕にとつては、まるで女のような氣がしないので、夫の留守の家に、その若い妻といつしよに暮している、と言つたような氣持の負擔がほとんど僕に無いことも、ありがたいのでした。その點ではおもしろい事に、他から見てもそう見えるのか、最初のうち、多少は妙な眼で見ていた村の人たちも、いつの間にか、僕のことを久子さんの實の弟か又は親類の青年でも手傳いに來て働らいていると見るようになつたらしいのです。お婆さんも、それから敏雄という幼兒も僕になじんで、僕を好いてくれました。
 農事の暇を見ては、豆やイモや米や麥などをかついで上京します。途中でその筋の手につかまつた事や、列車から飛びおりて逃げたりした事が數囘あります。しかし、それも久子さんの言う通り「法律をぐぐつてしているのだから、しかたが無い」とあきらめてスナオにしているので、大した苦にはなりません。當局でもあの頃は、或る程度まで「やむを得ない事」と見ていたようで、一見して惡質の者以外は、それほどキビシい取扱いはしなかつたようです。僕の運ぶ物は、それほど量が多く無いし、ほとんどS裏の「春子の家」で買つてもらいました。はじめの頃、夕飯を食いかたがた、そこに寄り、春子さんにいろいろ聞かれるままに、これこれだと話すと、それなら、どうせ内でも買わなければならんから、よかつたら、ほかへ行かないで此處へ來てくれと言うので、それ以來、ほかよりも、いくらかずつ安く買つてもらうことにしたのです。どうせ、今どきの小料理のことで材料は闇で買い入れなければ立ち行かない状態なので、春子さんの方でも、よろこんでくれました。僕が行くと、まるでお客のように酒をつけて御馳走をしてくれ、おそくなると奧の小部屋に泊らせてくれます。上京のたびに、僕はあちこちと歩きます。そして疲れ切つて山梨へ戻つて行くのです。あの女の事を除いては、僕の生活は、ほとんど何の不滿も無く、復員以來、はじめて落着いたらしく見えました。氣が附いて見ると、ゴロツキの兄きかぶでいた僕が、みすぼらしい姿で百姓兼カツギ屋になつているのです。笑いたくなりました。しかしミジメな氣持はまるでしません。ただあの女の事だけは、まだサッパリしません。上京のたびに方々搜しまわり、リストの中の東京と東京近くの人たちは一つ殘らず當つて見ましたが、それらしい人にもぶつかりませんでした。立川景子さんの所へはその間にも二三度行つて見ましたが、手がかり無し。仙臺と、靜岡と、それから福岡へも一度行つて見ましたが、皆ちがいます。やつぱり、はじめから無理な搜し物だつたのだ。もう諦らめよう。……そう思うようになり、でも既に以前のようにイライラはしなくなつた。それでいいんだと思い、忘れかけていたのです。
 そこへ、ヒョッコリ、綿貫ルリが現われました。久子さんの山畑には、麥が生えている頃から、そのウネの間にイモが植えつけてあつて、麥のトリイレをすませると、畑はたちまちイモ畑に早變りするのですが、傾斜の強い山畑なので乾燥がひどいため、時々下からオケで汲みあげて水をやらなくてはなりません。ちようどそれを僕はやつていました。肩にかついだオケから、水をムダにしないように、一株一株の根元へ順々に注ぎながら無心に歩いていると、下の方から登つて來た路の、畑の角の所に人聲がするので、ヒョイと見ると、胸から上だけの女が二人立つて僕の方を見ている。何か言つているのは久子さんで、並んで立つているのが、――はじめチョット誰だかわからなかつたが、ルリでした。白いカンタンなワンピースを着て、こちらを睨みつけるように見ています。後で聞くと、いきなり訪ねて來たのを、僕が今畑に出ていると言うので、ちようど家にいた久子さんが案内して來たのだそうですが、なにしろ、あまり出しぬけなので、僕はアッケにとられました。僕はポカンと口を開けていたかも知れません。……久子さんがゲラゲラ笑い出しました。すると釣られてルリも笑い出しました。この方は、青い顏色のままの、引きつるような笑い方でした。
 フト氣がつくと、僕のかついだオケから水が、ダアダア流れつぱなしになつていました。

        41

 ルリは以前よりも又美しくなつていました。
 會わないでいた半年ばかりの間に、全體に痩せてしまい、顏など、ほとんどヤツレたと言える位になつているのですが、それでいて、女として完全になつた――變な言い方ですけれど、そんなふうに美しくなつているのです。身體つきなども、以前の子供くさい所が無くなり、落ちるだけのゼイ肉がきれいに落ちてしまつたかわりに、胸や腰などはガッシリと豐かになつた。人がらも以前よりも、すこし沈んだような感じになつている。……しかし僕にはやつぱりルリは、ギラギラしすぎて、眼を開いて正面から見ておれない。やつぱり、何か壓迫されるような氣がして、自分からはなんにも話しかけられない。
 ルリも、口ではほとんど何も言わぬ。ただ、そのまま、すまして久子さんの家に腰をすえてしまつたのには、困つた。二日たつても三日たつても、立ち去らぬ。このまま住みついてしまいそうに、落ちついている。それを又、おどろいた事に、久子さんが平氣で居させる事だ。ルリは久子さんに自分の事をくわしく話したらしいが、どんな事を言つたのか、僕にはサッパリわからない。從つて久子さんが僕とルリの關係を何だと思つているのかハッキリした事はわからない。
 第一、ルリがどうして僕が此處に居ることを知つたのか、その時は見當がつかなかつた。後になつてわかつて見れば、なんでも無い事だつたのだが、何かおびやかされたような氣がした。――ルリは僕のありかを「春子の家」の春子さんに聞いて來たのだ。それは野口と言う男――あなたも御存じだと言う、中年の寫眞師で、裸體寫眞を撮影するのを商賣にしていて、ルリが一時そのモデルになつた事のある男――あれが、たいへん酒好きで、僕などが行くズッと前からの「春子の家」の常連の一人だつたのです。酒に醉うと、ふところから自分の寫した裸體寫眞を取り出して、店の女給や客の醉つぱらい達を相手にひどいワイ談をして聞かせるのが癖で、果ては、相客にその寫眞を賣りつけたり、時によつて、變な所へ案内したりもするらしい。實は、僕が「春子の家」に行くようになつてから、僕自身も、この野口に五度も六度も會つて、ワイ談を聞かされていたんです。もちろん、これがルリを使つて裸體寫眞を撮つている男だなど、僕は知ろう道理がありません。野口の方も、ルリと僕との間の事など知りはしません。ただ、いつだつたか、野口から、一枚の裸體寫眞を見さされて、僕は妙な氣持になつた事があります。女が一人、向う向きになつて、兩脚をひろげ手を上にあげて妙なカッコウをした全裸の寫眞で、まあ、そんな寫眞としては割に趣味の良い寫眞と言うだけで、別に變つたところは無いのですが、見ている内に、なにかしらドキッと僕はしたのです。どつかしら、その女の身體つきに見おぼえがあるような氣がしたのです。見おぼえと言つても、ハッキリこの眼で見た記憶とも言えないが、向うを向いた顏の襟足のへんだとか、肩から背中の凹み、それから全體のポーズなど、目で見たとも、手でさわつたとも言えないが、どこかでおぼえが有る。……もちろん、いくら考えても、ハッキリした事は思い出せない。その頃まで僕は、あの夜の女のことばかり考えていたものですから、僕の頭にはその事が來ていたのです。しかし、もちろん、ハッキリとそうと思うだけの根據はありませんし、又、いくら僕の頭が狂つていても野口のワイ寫眞の中の女があの女だろうなどと思つたりは出來ません。ただ、その寫眞を見て、何か妙な氣持になりながら、あの女のことを考えていたのです。
 實は、後になつてわかつた事ですが、その寫眞の女はルリだつたのです。ルリをモデルにして野口が寫したのだつた。どこかしら、僕に見おぼえが有るような氣がした筈なんです。……しかし、その時にはルリの事なぞ思い出しもしないで、あの女の事ばかり考えながら、寫眞を見ていたわけです。實にキタイな話ではありませんか。僕は全くバカです。
 その寫眞をあまり熱心に僕が見いるので、野口は何と思つたか、
「どうです、いい身體だろう? どう君も一つ僕のモデルになつてくれんかな? 金もチャンと拂うが、それよりも、この女と組になつて寫させてくれんかなあ? 君のカラダなら、いいがなあ、好一對だと思うがなあ」と言うのです。その時はバカな事を言うと思つて笑つて相手にもなりませんでしたが、後になつてそれがルリだと知つて、この事を思い出し、實に變な氣がしました。變な氣ですが、イヤな氣ではありません。特に現在では、何か、僕とルリのために非常に貴重なヒントを與えられたような――極端な言い方をすれば一つの啓示を與えられたような氣がするのです。啓示を與えてくれたのが、此の世の屑のようなワイ漢の野口だつたと言うこともコッケイですが、しかし、僕はそれを笑い飛ばすような氣持にはなれません。むしろ嚴肅なような氣もちになります。
 とにかく、そんなような事で野口は僕の名を知つており、それに春子さんからも僕の事をいろいろ聞き出したらしいのです。そして、それを何かの時にルリに話したらしいのです。
 ルリは、その後も僕のありかを懸命に搜していたそうです。野口の所に居ると國友の子分たちに附きまとわれるので、あれ以來、野口の所を出てしまつて、うぐいす谷の方のアパートに住み、生活の方はデパートのマネキンになつたり、時によつて畫家のモデルになつたり――そのほか、上野や淺草かいわいで、例の案内ガール、つまりカフエーの客引きのオトリをしたり、それから、もつとひどい事もしたかも知れない、僕には現在でもそこの所はハッキリわかりません――そして、時によつて、いよいよ困るとフラリと野口のアトリエに現われて現金引きかえに寫眞のモデルになると言つたような生活をしていたらしいのです。で、野口から、僕の事を聞くと、トタンに「春子の家」に飛んで行き、春子さんに僕の所在をたすね、こうして山梨へやつて來たのです。
 そんなわけで、ルリは、一緒に久子さんの家に暮すようになつたのですが、前にも書いたように、ただすまして暮しているだけで、僕にはなんにも言わないです。むやみと落ちつき拂つてしまつたように見えます。それを又、久子さんが平氣で受入れて、僕が一人いる時など、
「ルリさんて子は、いい娘さんだなあ。キレイだ。いいえ、心もちだけじや無い、カラダもよ。ありや、まだ處女ずら」と言つてニヤニヤ笑うのです。「處女ずら」と言うんです。そういう言い方をする人なんです久子さんという人は。僕が困つて
「迷惑をかけますねえ。どんな氣で、こんな所までやつて來るんだか……」と言うと
「そりや、あんたのオヨメさんになりたいからさ。貴島さん、あの人もらつちまいなさい。いいんだろ? あんただつて、あの人、好きなんだろ?」
 と、一人でのみこんだような事を言うのです。
 そうです、好きだと言われれば、好きかもわからない。しかし、具合が惡くつてしかたが無いのです。それにルリにそばに居られると、なにかしら僕は押しつけられるようで、變に息苦しくなるのです。やりきれなくなるのです。それが段々こうじて來ると、しまいにルリが憎らしくなつて來て、逃げ出したくなるのです。そして、あの女――あの晩の女のそばへ行きたくなる。あの女が戀しくなる。だのに、あの女は、どこにも居ない。どこを搜しても、もう見つけ出すアテは無い。どうすればいいんだ? 俺は、どうすれば――頭がボンヤリして來ます。ボンヤリしたまま、ルリの事が益々息苦しくなり、怖い。變に怖いのです。
 ――遂に僕は我慢が出來なくなりました。そして山梨を逃げ出したのです。ルリにはもちろん、久子さんにも默つて、僕は東京へ來てしまいました。
 ルリがその後どうしたのか、その次ぎに上野で逢うまで、僕は知りませんでした。

        42

 そんなわけで、僕が東京に出て間も無く立川景子さんの所を訪ねて行つたのも、かくべつの目的が有つたからではありませんでした。あの女を搜す氣持は、もうほとんど失つてしまつていたのですから。ただ久しぶりに何となく景子さんに會つて見たくなつただけです。ですから、そこでいきなり、ムヤミと昂奮している景子さんを見出し、それから景子さんからせき立てられて、キツネにつままれているよう氣持で古賀幸尾と言う男のような名前の――いえ、名前だけで無く性質もまるで男のような女醫さんに會うことになつて、そしてその結果、實にアッケ無い位にカンタンに、あの女を見つけ出すことが出來たのにも、ただグルグルと眼がまわるような氣しただけで、今から思つて、その前後のことがハッキリ思い出せないような氣がするのです。

 僕の顏を見ると景子さんが、いきなり
「なぜ、もつと早く來なかつた!」と言うのです。例の樂屋での話です。僕がめんくらつていると、彼女は急に聲を落して
「あんたの、その人が居たわよ!」
 僕は何の事だか、しばらくのみこめませんでした。
「いえ、果して、そうだかどうだか、あんたが逢つて見ないじや、わからないけどさ、古賀さんは、たしかにそうだと言うの。だつて、その人はMさんの手紙を持つていて、その中に、あんたの名前が書いてあると言うんだもの。とにかく、何でもいいから、今すぐ古賀さんとこへ行つてごらんなさい。ホントは私も一緒に行きたいけど、舞臺があるから今日は行けない。いえ、古賀さんには私からよく話してあるから、行けば、わかるから。ガラガラした人だけど、根はとても善い人だから。そいで、その人と逢つた結果はすぐに私にも知らせるのよ。よくつて?」
 何か聞き返している暇も無く、押し出されるようにして、僕は日暮里へ行きました。燒跡の小さいバラックに、醫院のカンバンが出ているので、すぐわかりました。古賀さんは、四十かつこうの獨身の女醫。しかし人柄は女醫と言うよりもアネゴと言つた感じの、亂暴な位に率直な、白い上衣にズボンをはいて出て來て、僕が「貴島と言いまして、立川景子さんから――」と言いはじめると、
「ああ、あなたなの!」と、ジロジロと僕を見ていましたが、不意にニタニタ笑い出し「そうか。そいで……タミさんに、直ぐに逢つて見る?」
「……タミさんと言いますと?」
「あ、そうか。名前も知らないんだつけ。フフフ」
 どうも樣子が、景子さんが何もかも、しやべつてしまつたらしいのです。僕は眞つ赤になりました。
「いいさ、いいさ。所も知らず、名も知らず、か。いいさ。いいじやないのよ。ハッハハ。直ぐに行つて見る?」
 僕がモジモジしていると、一人でのみこんであがれとも言わず、そのままクツを突つかけて下へおり、ガラガラピシャンと表戸をしめて、先きに立つてドンドン歩き出すのです。
「タミさんと言うのよ。ホントの名は私も知らない。自分でそう言うんで、みんなそう言つてる。いえね、あなたの話を景子君から聞いてね、なんだかトテモ感心しちやつてね。いえ、感心と言うと變だけどさ、フフ、だつて、いまどき、そんな時のナニを搜して歩くなんて、なんだかトテモうれしくなつちやつてね。ハッハハ、これ、オールドミスのセンチメンタリズムだね。まあ、なんでもいいや」古賀さんは歩きながら、大きな聲でガラガラとしやべる。「趣味でね、あたしの。あすこいらの界隈の女たちの、めんどうを時々見てあげる。醫者だからね、こいでも。タミさんの手當てを一二度してあげたことがあるんだ。そんでね、たしかに、そうじやないかと、そんな氣がしたもんだから。景子さんから話を聞いて、聞いているうちは思い出さなかつたけど、後でヒョッとそうじやないかと思つたんだ。妙な手紙持つているんでね、その子がさ」
 路はだんだん上野公園の裏の方へ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りこんで行く。そのうちに、言葉を止めてヒョイと立ち停つて僕をジロリと見てから、
「チョット聞いておくけどね、貴島さん!」と改たまつた調子なので、「はあ」と僕が言うと、今度はしばらく默つていてから
「ずいぶん、ひどい事になつていますよ」
「その人がよ。かまわない? ……こんな時代。弱い女一人が生きて行くにや、いろんな事がある。わかるわね?」
「……ええ」
「一番惡いことを、考えて置いてほしい。……私たちに、今、こんな中で、どんな人でも批難できやしないだろ? みんな、人間だ。……人間は、みんな弱いんだよ。わかるわね?」
「わかります」
 古賀さんは、深い鋭どい眼でジッと僕の眼の奧を覗きこむようにした。……僕は不意に身の引きしまるような氣持におそわれ、そして、どう言うわけか古賀さんを急に好きになり、尊敬しはじめていた。古賀さんは僕の眼の中に何を認めたのか、急にホッとしたような、前と同じ明るい調子にもどつて、
「オー・ケイ! と、まあ、おどかしといてさ。ハハハ、とにかく、そのタミさんが、いつだつたか、お腹が大きくなつちまつてね、そいつを私が處置してあげた事があるんだ。フッフフ、なあに、あんな商賣していたつて、お腹が大きくなる事だつてあるのよ」
 輕く言うのです。僕にはズキリとこたえました。いつぺんに、何もかもわかつた氣がする。
 古賀さんは、逆に今度は僕の方を見ないようにしてズンズン坂道を登つて行きながら、
「それに、タミさん、今、病氣でね」
 と、はねとばすように言う。僕はビシビシと、何か、ムチでなぐられるような氣がして、自分が今どこを歩いているのか、なんにも目にはいらない。そのうちに「ここだわよ!」と古賀さんに言われて見ると、そこは小さな崖の下の凹地にゴタゴタと立ち並んだバラックの、簡易旅館ともアパートとも附かない、ガタガタの平屋の建物の横で。外からイキナリ、はき物のままで入つて行ける廊下を入つて、四五間歩いた左側の、それでもドア式になつた戸を開けると、三疊――いや二疊位の部屋――あれが部屋と言えるか。なにか動物の巣。動物と言つても大きな、物恐ろしいやつでは無く、たより無く小さい。そうだ、蜜蜂か何かの巣穴。そんな感じです。二尺四方位の窓が一つ、疊のかわりにウスベリが敷いてあつて、片隅に粗末な小机が一つ。あと何も無い。こんな室が、この建物の中に二十ぐらい有るらしい。後でわかつたのですが、ルリの住んでいるアパートと言うのが、やつぱり此の式のもので、しかも、此の家から、いくらも離れていないうぐいす谷に有つたのには驚ろきました。
「タミさん、居る?」と言つて古賀さんが戸を開けた時には、病氣だと聞かされていたのだし、いきなりその人が、そこに寢ているのを鼻の先きに見さされるのかと想像して、僕はオビエたような氣持になつたが、想像ははずれて、部屋は空つぽで誰も居ない。「なんだ、又行つてる」と言つて古賀さんはズカズカあがつて、小机の引き出しから、手アカでよごれた一枚の原稿紙(半ペラ)を取り出して、サッと目を通して、默つて僕に渡してくれる。見ると、いきなり

キジマツトムハ、キミヲシリマセン、
エイエンニ、キミヲキミダト、シラナイ
ソシテ、カレハ、ジンセイヲシリ
カミトナツテ、ショウテンスル、
キミニ、シュクフクアレ、
ココロカラ、アリガトウ

「そのGと言うのが、Mさんと言う人じやない?」古賀さんがポツンと言います。
 言われるまでも無く、それはMさんの字でした。Gと言うはMさんの名を音で讀んだ頭文字です。カタカナの文句の書き方にも特色があります。Mさんには時々、親しい人々に、こんなふうな文句を書いて、速達でくれたり、又は電報でくれたりする癖が有りました。僕のうちで何かが音を立ててパラリとめくれて、そして、氣が遠くなるような氣がしたのです。あの晩の一切のことが――その時のこまかい部分部分が全部、あの女の肌の手ざわりまでが僕の上によみがえつて來たのです。すると、僕は不意に、その部屋の空氣の中に、あの時のあの女の肌の匂いをハッキリとかぎつけたような氣がしました。
「タミさんは、その紙を、とても大事にしているのよ。何も言わないので、細かい事は私にもわからない。ただ妙な事が書いてあると思つてね、いいえ、ズッと先に私は見さされたの。そん時は何の事やらわからなかつたけど、あんたの話を立川さんに聞いてから――いえ、その後でも、まさか、これとそれとを結びつけて考えはしなかつたけど、こないだ、又此處へ見舞いに來て、それを見てね、キジマとあつたので、ハッとしたのよ。……タミさんは戰爭中、銀座へんでバアかなんかの女給さんしていたそうだね、Mさんとも何か懇意だつたんじやない? そいでまあ、どういう氣持からか、わからんけれど、Mさんに頼まれて、あんたとそういう事があつた。そいで、その後で、Mさんが、そんな物を書いてよこした。……ウッフフ、私の想像さ。大したもんだろう? まるで小説家か探偵みたいだけどさ、しかしそう思えば、思えない事は無いんじやない?」
 僕は古賀さんの言うことなどロクに耳に入れていませんでした。
「――だけど、病氣だと言うじやありませんか?」
「うん、病氣だ」
「……だのに、どこへ行つたんです?」
「すぐそこよ。……言つて見る?」
 二人は外へ出る。古賀さんは先きに立つて公園の方へスタスタ歩いて行くので、僕は公園を突つ切つて、どこかの病院にでも連れて行かれるのだろうと思つた。
「ちかごろ、變な映畫を」と古賀さんは歩きながら言う「會員制かなんかで見せるのが方々に有るそうね?……あんた、見たことある?」
「ええ、一二度」
 古賀さんはニヤリとして僕を振り返つて、
「あれだとかね……そいから、トロイカ。……ハルピンから來たんだつて言うわね、見せ物。フフ! そいつた映畫に寫されちやつたり、そのトロイカ式に使われちやつたり、いろんな目に會つたらしいんだ。ハッキリした事はわからんけどさ。もともと以前から、どうも話の樣子が、戀愛問題でひどい目に會つた結果、ヤケクソになつてしまつたとかで、まるでもう無軌道な事をやりちらして來たらしい。あんたとの事にしたつてそうだろう? いくらなんでも、バアの女給さんと言つたつて、普通の人が、そんな事をオイソレとしやしない。メチャメチャだつたね。それが終戰後、尚ひどくなつて、今度は商賣。そして今言つたような、……いえ、頭がハッキリしていれば、まさかそんな事にもなるまいけど、ボーッとなつちやつてるもんだから、惡い奴等の好き自由になつたんだな。それとも、そんな事するようになつたから、ボンヤリしちやつたか……とにかく――も有るには有るから、いずれは、なんだけどね」
 と、その最後の文句の中で、ペラペラとドイツ語で醫學の言葉をはさんで言う。性病の名らしい。
「すると――?」と言う僕に、うなづいて見せてから、古賀さんは、左手の人差指で、自分のコメカミの所でグルリと丸を描いて「……まだホンモノにはなつていない。でも、話は出來ないから、默つていてね。……失語症とでも言うかな」
 一歩々々、僕は地獄におりて行く氣持。頭から血が引いて、足がガタガタして、どこを歩いているかわからず。
「それとも、會うの、よして、このまま歸る?」僕の顏が死人のようになつているのだろう、古賀さんは氣の毒そうに言う。「だから、あたしが最初言つたろ?……歸る、このまま?」
「……いえ、會います」
 齒を食いしばつているのが自分でもわかる。それをジッと見定めてから、古賀さんは、今度は口をつぐんで、サッサと歩き出した。それきり、その横穴に着くまで一言も言わず。
 前にも書いた、僕はどこかの病院に連れて行かれると思つていたので、古賀さんが、間も無く、公園の――あれはどのへんと言えばよいか、とにかく驛からあまり遠く無い、あちこち樹立ちのある所をグルリ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)ると、土地がいつたんグッとさがつて、その片側が、急な傾斜の、まあ小さな崖になつている――その崖に、正面からは下生えやカン木が邪魔してよく見えないが、そばへ行くと、小さい入口が二つ並んでいる。その一つに、古賀さんが身をこごめて入りこんだのには、ビックリした。しかた無く自分も入つて行くと、戰爭中の仕事だろう、内部は割に廣い横穴。と言つても、もともと大急ぎで一時しのぎに掘られたもので、その後くづれ、こわれて、高さ五尺たらず、横はばは四尺ぐらい、奧行も二間そこそこ。暗い。と言つても、奧が淺いので眼が馴れると、奧まで一眼で見えるし、地面にはワラやボロボロになつたムシロなど、ちらかつて、紙クズやあきカンなど捨ててあり、陰慘な感じはあまり無く、どこかのゴミ捨ての穴と言つたところ。
 そこに、和服を着た小柄な女がションボリ、向う向きに立つていたのが、僕等二人が入つて來たのに氣づき、フラリと此方へ振り向く。
 その顏を見ると、僕はウッと息をのんだ。いや、その女の顏が異樣であつたとか言うためでは無い。永く風呂に入らぬらしく、よごれて生ま白い皮膚の、むしろ平凡すぎるような中高かの顏。髮も普通の洋髮にまとめている。もちろん、僕には見おぼえは無かつた。……それでいて「ああ、この人だ」と思つたのだ。どう言うわけだろう? 古賀さんの話や、Mさんの書き物から受けた暗示が僕に作用したのか? それとも、匂い?……いやいや、匂いと言えば、その穴の中のゴミ捨て場のような臭いだけで、それ以外には無い。わきに立つている古賀さんからは、中年女のヒナタくさいみたいな匂いと、徴かなクレゾールの匂いがするだけ。だから匂いのためなんかでは無い。だのに、なぜその瞬間に、あんな強い確信みたいなものが僕の中に生れたのか? わからぬ。そして今となつては、その確信もあやしくなつて來ている。
「またこんな所に來てんのね?……どう言うの? さ、歸ろう歸ろう」
 言われて、その女は逆光のために眼をすこししわめて此方を見ていたが、直ぐに古賀さんを認め
「ああ、古賀先生……」と言つて、すこし恥かしそうにニッと笑つて、頭をさげた。その動作がグナリとして、身體全體がひどく軟かい――と言うより、骨が無いような感じ。あるいは、衰弱しているセイかとも思う。それ以外に別に異状は無い。ただ、それ以上口をきく氣は無いようで、ションボリ立つているだけ。その拍子拔けしたような所が變と言えば變と言える。
「さあ、歸ろうよ」と古賀さんは女に向つてチョッと片手を差し出すようにし、「いえね、どう言うわけだか、時々此處に來るのよ」と、僕を見おろして笑う。
 僕は女を見た瞬間に、兩足から力が拔けて、立つておれなくなり、そこにシャガンでしまつていたのです。
「フフ、もしかすると、こんなふうな所で男を相手に商賣してたかも知れんね、おおきに。ひところ、こんな場所がずいぶん有つたからなあ。……それを、なんとなくヒョッと思い出すんだろうか? 頭がクシャクシャすると一人手に此處へ來る」
 平然としてそう言つている古賀さんの言葉が、なにか遠くの方に聞える。
 僕は、そうしてシャガンで、その立つている女を見上げたまま、實に長いこと口もきけず、何も考えられず、立ちあがれないでいたのです。……

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 ………………
 それから僕は、ほとんど毎日のようにタミ子のアパートへ行つて見ました。タミ子は、きげんよく僕を迎えてくれますが、ほとんど話はしません。人が目の前にいる間だけは、カンタンな言葉で受け答えはしますが、僕が居なくなれば僕の事などは直ぐに忘れてしまうようで、小机の前にポカンとして何時間でも坐つているらしいのです。そして、時々フラッと外に出て、例の横穴の所へ行つて立つているんです。白痴の子供みたいに無心な樣子でした。別に暗い、陰慘な感じはありません。むしろ、明るすぎる。生活のことなど何も考えていないのです。僕が持つて行つてやる食べ物などをうまそうに靜かに食べて、落ちついているのです。Mさんの事を聞いても、戰爭中のことを聞いても、その時々で言うことが違つていて、トリトメがありません。
 出征前夜のあの女が此のタミ子であつたかどうか、それをホントに確かめる手段は遂にありませんでした。あの晩のことを、いろんな言い方でタミ子に問いかけて見るのですが、ケロリとして手ごたえ無し。いろんな點から推して、どうもこれは唯の普通の淫賣らしいと言う氣がする。だのに、横穴の中で最初に見た瞬間に、どうして「これだ」と思つたのか――今となつては、あやしいものだつたような氣がします。それに、三度四度五度とタミ子の所に通つて來ているうちに、そんな事はどうでもよくなつて來た事も事實なんです。僕には、そのポカンとして無邪氣なタミ子の姿が、あわれでやりきれない。いや、あわれだなどと言うのでは無く、何と言えばよいか、とにかく人ごとでは無いような、こちらの胸がしめつけられるような、それでいて、なつかしいような――そしてヒョッと氣が附くと、なにかトテツも無く美しい姿に見えたりするんです。僕は我れながら、全體この女をどうする氣なのか、自分で自分の量見がわからなくなつて來ました。この女と一緒に、心中みたいに死んでしまおうかと思つたり、かと思うと、この女の何か腐つたような體臭が鼻先にプンと來ると、ムカムカと吐きたくなる。
 古賀幸尾さんの所へ寄ると、
「あのままで置いとけば、半年もすれば完全にダメになるね。何か處置をするにしても、なんしろ、病氣が深いようだから、どの程度まで治るかだ。まあ、むずかしいわね。それに、治療するにや、相當金がかかるだろう。かわいそうだが、しようが無いね。結核と性病――こりや、社會病で社會に責任がある。社會をもうチットどうにか作り變えないじや、個人の力ではどうにもならんね」
 と噛んで捨てるように言います。そのくせ、古賀さんは、一週に一囘ぐらい、タミ子のアパートへ行つて、無料で注射をしてくれているんでした。
 立川景子さんの所へも報告かたがた行きました。景子さんは非常に喜こんでくれ、その場から僕と一緒にタミ子のアパートに來たんですが、タミ子の樣子を見ると、言うに言えない暗い顏をして默つてしまいました。
「春子の家」には、その後も一二度寄つて、春子さんに向つてタミ子の事を話し、どうしたらよいか相談して見たのですが、春子さんは涙ぐんだ眼をするだけで、ハッキリどうしろとは言つてくれません。なんとも言えないらしいのです。
 山梨の久子さんの事も考えましたけれど、あそこにはルリが居ます。行く氣にはなれないのでした。
 又、僕はあなたの事も考えたのですけれど、しかし、又々こんな話を持ちこんで御迷惑をかけるのは、あまりにすまない氣がして、どうしても足が向きませんでした。それに、こんな話を持ちこんで、しかもそれについての自分の腹が決らないでいるのをあなたに見せると、今度こそ、あなたからホントに嫌われ、輕蔑されると思つたのです。
 僕は迷いました。それに金も全く無くなりかけています。ええい、しかたが無い、又、横濱の黒田の所へでもたよつて行つてゴロツキに舞いもどつて金を掴み、とにかく、このタミ子を食わせ養つて行くだけでもしようかとも思いました。
 その時久保正三の事を思い出したのです。久保とはその後會つていないのですが、前に偶然に一本杉に會つた時に、久保が荻窪の防空壕を引きはらつて、赤羽にあるイモノ工場の工員寮に住んでいる事を聞かされていたのです。(佐々兼武は、トックの昔、久保とは別れて、やつぱり共産黨關係で働いているらしい事も一本杉は話しました)思い切つて僕は久保に會つて見る氣になり、訪ねて行くと直ぐに會えました。例の通りボコンとしたような久保で、久しぶりで會つたのに、昨日別れたばかりのような顏でニコニコ笑つています。僕はタミ子の事を話し、「どうしたらいいか、わからない。養つてやつて、出來たら病氣も治してやりたいけど、よけいな事のようにも思うし――」と、僕の現在の状態や氣持のあらましを説明した。すると久保は、それについて質問もなにもしないで、
「そらあ、治してやつたが、いいなあ」と言います。
「しかし金がかかる。僕にや金は無い。第一、僕自身今後どうして食つて行くか、まだ見當も附かないんだから――」
「働らきや、いい」
「働くと言つたつて、口が無い」
「なに、その氣になりや、いくらでも有るぜ。どんな仕事でもよければだよ」
 そして、自分のイモノ工場なら、庶務の方に頼んでやろうと言うのです。ただし、仕事の選り好みはできない。「と言つても、君にやイモノの仕事は、出來んだろうから、事務の方か設計だとか、どうせ、月給は安いぞ」と言つてニヤニヤしているのです。三千そこそこで食つて行くのがヤッとらしい。バカバカしいような氣がしました。僕の腹は決らず、又來ると言つて久保の室を出ました。

 それから四五日間、僕は迷いました。迷うと言つても、ほかにどうしようも無し、時計を賣つたりして、その間も、毎日のようにその頃泊つていた上野のテント旅館を出ては、タミ子の所に通つていたのです。僕が行かないとタミ子はなんにも食わないでいるのです。それに、そんなふうになつた彼女に、すこしばかり金をやつて好き勝手にオモチャにする男たちも居るらしいのです。イヤでも僕は毎日行かないわけに行きません。
 僕が行くとタミ子は喜びます。そして時によると、なさけ無い事に、僕に向つてその衰弱して痩せたカラダを開いて見せたり、ワイセツな恰好をすることがあるのです。商賣で癖になつた媚態らしいですが、しかし、そういう商賣をして來た女の、變な慾望――カラダだけの感ずる慾望もあるのではないかと思います。僕はそれを見て二度ばかり泣き出してしまいました。ホントにナサケ無かつたのです。
 Mさんの手紙の事をたずねても、なんにも憶えていないようです。いつ誰からもらつたのと聞いても思い出せないらしい。書いてある意味もわからない。ただその紙だけを非常に大切にしているのです。戰爭中、特に終戰近くの事など完全に忘れていて、どこで何をしていたと聞いても、その時々で言うことが違います。
 その日は、僕が買つて行つたイモやコッペパンなどを、うまそうに食べてしまうと、タミ子が外に出ようと言うので、しかたなく僕も一緒に出かけました。たいがい、そういう時には公園の中をアチコチうろついたり、時によつて驛の構内へ行つて立つていたりするんですが、ウッカリすると例の横穴の方へ行くんです。アサマしい氣がして、一人で出すわけには行きません。僕はナサケ無い氣持で、スタスタ歩いて行く女の四五歩あとから、公園の坂道を登つて行きました。良い天氣で、カッと日の光です。動物園にでも行くのか、子供づれの夫婦者の姿などもチラホラ見かけました。
 不意に僕は泣きたくなりました。そして、口の中で「お父さん、僕はどうしたらいいんです?」と繰返し繰返し言つていました。そういう癖が最近に僕に出來たのです。ナサケ無く、やりきれなくなると、ひとりでにそれが出て來るのです。その時もそれを言いながら、僕はチョッと下を向いて歩いていたらしい。タミ子がフッと立ち停つたので、なんの氣も無く、前の方へ眼をやると、タミ子から三四歩、僕から六七歩の坂の上に、こちらを向いてルリが立つていたのです。例の山梨での身なりと同じで、顏色は、附近の樹の葉の色の反射のせいだけで無く、まつさおで、眼は射るようです。大型の袋のようになつたハンドバッグを握りしめた右手がブルブルとふるえているのが眼につきました。

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 僕はドキッとしましたが、しかし不思議な事に、ルリの出現そのものは、それほど意外な感じはしませんでした。動てんしてしまつたために、そんな事を考えている餘裕も無かつたとも言えるかもしれません。ルリが、僕の後を追つて東京へ出て來て、(僕が女を搜している事は、久子さんがスッカリ話してしまつたそうです)、あちこちした末に、久保正三の所へ行つて、僕の現在のありかと、タミ子との事を聞いて、その足で此處にやつて來たと言う事は、後になつてルリ自身から聞いたことです。その時はただ、ドキッとし、まるで、射すくめられたように動けなくなつただけです。ルリは、ほとんど毒々しい位の憎惡のこもつた眼で、僕とタミ子を見つめているだけで、なんにも言いません。その眼の中には、今までの彼女には無かつたすくなくとも、それほど明瞭に現われた事の無かつた嫉妬……なんと言いますか、初めて一人前の女としての嫉妬の色がギラギラと光つています。それが、僕とタミ子の前に立ちはだかるようにしているのです。互いの位置も惡かつたのです。そこは狹い坂道で、ルリは、上の方からのしかかるように突つ立つて、睨みおろしているんです。互いに身のかわしようが無いのです。
 タミ子は、これをどんなふうに受取つているか、僕にはわかりません。ただ、ボンヤリと立つて、ルリの方を見上げています。そのうしろ姿と、それに半分ダブッてこちらを向いたルリの姿が、僕の眼には、一つの畫面になつて、燒きついて來ました。地球の運行が不意に停止してしまつたような感じ。……時間と言うものが無くなつてしまつた。一種の絶滅感。……どう言えばいいか、そうです、映つていたトーキーの映畫が、何かの故障のためにピタッと停つてしまつて、その畫面だけを殘して動かなくなり、音も停止してしまつた――ちようど、そう言つた感じでした。どれ位の時間が經つたのか、おぼえがありません。僕は、なんにも考えないでボンヤリと女二人を見ていただけです。もしかすると、時間なんか一分間も經たなかつたのかも知れません。
 そのうちに、ルリが二歩ばかり此方へおりて來ました。タミ子の方へ輕蔑をこめた流し目をくれながら、僕へ近づいて來るのです。その眼つきと、身のこなしが、ギリリと音を立てるように、僕に迫つて來て、何かもう、絶對絶命の所に追いつめられた氣が僕はしたのです。叫び出しそうになりました。トコトンまで、いじめ拔かれて、いじめ殺されかけているような感じ。カエルが蛇にねらわれて、呑みこまれる瞬間に、あんなふうになるのではあるまいか?……とにかく、あの時、一時僕は氣が變になつていたと思います。ワッと叫び出しそうになり――いや、その聲が事實すこしは外に出たかも知れません――同時に、實に妙な事が起きました。いや、僕の中でです。ブリッ! と何かが破けたのです。たしかに音を聞いた氣がします。同時に、カーッと血が頭に驅けのぼつて來て、一度に猛烈に腹が立つて來たのです。ルリに對してです。いや、それはルリに對してではありません。もつと別の――そう、なんだかハッキリわからないものへ對してです。しかし、やつぱりルリに對してだと言えない事は無い。なぜなら、そうして近づいて來たルリに、いきなり、おどりかかつて、なぐりつけはじめていたのです。狂つたようになつていた。いや、ホントに狂つていたにちがい無い。猛烈な勢いでルリの顏と言わず肩先と言わず、なぐりつけた。ルリのツルリとキメの細かい青味がかつた頬が、僕の平手打ちの下でビシッ、ビシッと濡れたような音を立てたのを、僕はおぼえています。あとはどれだけ、なぐつたのか。「ちきしよう! ちきしよう!」と口の中で唸るようにして、しまいには、ルリの襟髮を左手で掴んで、右手でなぐりつけていました。ルリは、はじめチョット抵抗しましたが、直ぐにグタッとなつてしまい、なぐられるままにしています。そのまつ青な、死んだような、眼がつりあがつてしまつたような表情を、僕はおぼえています。僕はあの表情を忘れない。………氣が附くと、立つているのに耐えきれなくなつたか、ルリは坂道の端にしやがんでしまつている。それを、僕はまだ叩きつけていました。タミ子は、びつくりしてしまつて、口をポカンと開けて立つたまま見ていました。
 そして、そうして、ルリをなぐりつけている最中に、僕は、自分がルリを愛していることを知つたのです。愛していると言うよりも、惚れていると言うのがピッタリする。自分が惚れているのは、ホントはルリである。それはズット前からそうだつたのだ。それが、今まで自分にもわからなかつた。
 俺が愛しているのはルリであつて、タミ子なんかでは無いのだ。バカ! バカ! バカ!
 ……僕は手が痛くなり、なぐるのをやめました。ルリは、氣が拔けてしまつたようにグタリとしやがんで、僕の足元を見ています。タミ子は、ちぎれ飛んだルリの服のボタンを地面から拾つているのです。僕はなんにも考えられませんでした。ただ、そのタミ子と、ルリの顏に眼をさらしているきり。ルリの顏は、僕からなぐられた頬あたりは見る見るうちにクッキリと手の平の形に紅く血がさし、僕の手の當らなかつたアゴや額などは雪のように白い。それがクッキリと對照をなして、目もさめるようにアザヤカに見える、痛そうな顏はしていない。なにかボーッとして、氣拔がして、そして上氣したような虚ろな表情。……人が變つてしまつたように、おだやかな、とても、とても、やさしい眼つきになつている。……何が起きたのか? わからない。わからないクセに、僕はそれをすこしも不思議に思つていない。ぼくはボンヤリとルリを見おろしていた。何か、出しぬけにルリは女になつている。僕の女に。……なんだつたのだろう、あれは? わからない。なにか、男と女の營み――つまり性交みたいな事が、ルリと僕との間に起きた。妙な話だが、たしかに、それ以外のものでは無い。やさしい、ウットリしたようなルリの顏も、そういう顏だつたように思う。
 言つてしまいます。その時僕は、エキスタシイに入つていたのです。……どういうのでしよう? これは、僕がゲスなためでしようか。又は、變態なんでしようか? ほかの人にはこんな事は無いのでしようか?
 そうかもわからないと思います。僕は、たしかにゲスで變態なのかもわかりません。そうだとすると、恥かしいのですけど、でも、あの時は、まるで恥かしい氣持などおきませんでした。滿足――異性に接しての、生れてはじめて滿足を味わつたような、はじめて、一人前の男になつたような――シッカリと腹ごたえの有るような、それでいて、何かトテツも無く自由に解放されたような感じがしたのです。僕はゲスだと輕蔑されても變態だと笑われても、かまいません。
 ルリも、もしかすると、あの時、僕と同じような感覺を味わつたのかも知れないと思います。
 僕はタミ子に眼をやり、フッと出征前夜の闇の中での感覺が、よみがえつて來ました。あれは、この女だつたのか? この女では無かつたのか? わからない。どうでもよい、そんな事は。いいよ、いいよ。……そんな氣がした。
 その時、強い匂いが來ました。ムッとする木の葉や草いきれに混つて、しびれるように、僕は不意に、あの晩の女の肌の匂いをクッキリと思い出したような氣がしました。頭がボンヤリして來たのです。……しかし、實は、その匂いは、ルリの身體の匂いだつたのです。そこにウットリとしやがみこんでいるルリの身體からたちのぼつて來る匂いでした。

        45

 ……………
 それから、僕ら三人は、この千葉縣の海岸に來たのです。
 あれから二三日して、タミ子が、どういうわけからか、「海へ行く、海へ行く」と言つてきかないのです。理由も原因も全くわかりません。たずねても答えないのです。
「どこの海へ行くの?」と聞くと、
「九十九里」と言います。以前に來た事があるか何かで、その時の記憶で言つているのらしい。しかたが無いので、三人で出かけました。必要な金はルリが出してくれました。
 しかし、こうして此處に來てみると、來てよかつたと言う氣がしました。土地はただ何のヘンテツも無い、一直線の濱邊に、土用波が、むやみと大きな音を立てて打ち寄せ打ち寄せしているだけ。小さなさびれ果てた村の汚い宿屋に泊つて今日で二日ですが、あたりのすべての思い切つた單調さと、一分間も休みなくゴーゴーと濱邊をゆすつて鳴りわたる波の姿などが、變なふうに、僕ら三人にピッタリするんです。この波の力強い音と動搖から、のがれる事は絶對にできない。一瞬だつて、そこから逃げ出すことはできない。しかも、何か細かい事を小さい聲で言つたりしても、波の音にかき消されてしまつて、聞こえはしない。人が叫んでも波の音は、それごと呑みこんでしまう。人間の心理の細かいヒダなど、まるで無用なもののように叩きつぶされてしまう。……最初は息がつまりそうになりました。逃げ出しようが無いのです。しかし、いつたん逃げられないと思つてしまうと、これでいいんだと言う氣になつて、妙に落ち着けるのです。細々したことを考えたり、感じたり、言つたりする必要が無くなり、どうでもいいやと言う氣になるのです。
 おもしろい事に、此處に來たらタミ子が、上野にいる頃よりも非常に落ち着き、頭も良くなつたようで、夜もよく眠るし、ほとんど普通の人と變らなくなつた事です。タミ子とルリは、たいへん氣が合うようで、まるで姉妹のようにむつみ合つています。年はタミ子の方がズット上なのですが、姉さんらしいのはルリの方で、すべてタミ子のめんどうを見るし、又、タミ子の方ではルリの言う事だと何でも機嫌よく聞きます。見ていると、それは、ほとんどイジらしい位です。

 今後どうするか、まだ僕の氣持はハッキリきまつていません。しかし、東京へ戻つたら、一度ルリと二人で山梨の久子さんの所へ行き、それから高圓寺のルリの家へ行つて親や兄弟たちに話した上で、ルリと僕は結婚して家を持とうと思つています。タミ子は、治るか治らないかわかりませんが、古賀さんに頼んで、どこかの病院にでも入れて、手當てをしてやりたいと思うのです。とにかく、僕の手でめんどうを見る氣です。ルリもその氣でいます。
 生活の方はどうするか? それが一番重大な問題です。タミ子のめんどうを見て行くとなれば、相當金もかかるでしよう。久保の工場に入つて働いてもよいとも思いますが、それではいくらの金も取れないので迷います。或る程度のまとまつた金を掴むまで、横濱の黒田の所へ行くか、又はそう言つたような筋でもたよつて、すこし手荒い仕事をしてもよいとも思いますが、しかし、どういうのか、いくらそう思つても、そんな事をもう一度やつて見る氣にはなれないのです。惡いと思つたりするからではありません。善い惡いはまるで考えません。ただ、そんな事をして金を掴んで見ても、つまらない氣がするのです。それだけです。ですから、結局は久保の工場に入れてもらう事になるかも知れません。ルリも、結婚してからも、何か働らくんだと言つています。
 ルリは美しく、そして完全に一人前の女になりました。第一、とてもやさしい女になりました。僕はルリを見ていて、僕の知らない母親のことを思い出したりします。
 いや、こんな事を書くと笑われるでしようが、しかし事實そうなんですから、ほかに書きようが無いのです。
 ルリとタミ子は今、隣りの室で抱き合うようにして眠つています。波の音は、地の底からのように、ゴゴーッ、ゴゴーッと突きあげ、ゆすぶつて、僕ら三人を包んでいるのです。僕はホントにルリを愛します。

 實に變な氣がします。
 僕はウロウロ、ウロウロと二年近くを、なにをしていたのでしよう? それから、あの女を搜しはじめ、あちこちして、そしてタミ子を見つけました。タミ子があの女であるか無いか、わからず、そして今となつては、わからなくともよくなつている。僕がホントに見つけ出したのは、ルリでした。そして、氣が附いて見たら、あのゴロツキだつた自分が、いつの間にか一人の平凡な男に變つて來ており、ルリと結婚して、タミ子を養い、そして何かして働こうという氣になつているんです。どう言うのでしよう? あるいは、僕という人間が、ヤット立ち直つたのだと言えるかも知れませんが、しかし僕には改まつて、そんなような氣はチットもしません。ただズルズルとこんなふうになつて來てしまつたのです。
 ただ、死んだ父のことは考えます。
 なつかしいのです。そして、スナオに、父の前に出ても、なんだか以前ほど、うしろめたい氣はしないように感じます。父は、僕を、どこからか眺めて、靜かに笑つてくれているような感じがするのです。
 僕はアヤフヤな人間ですから、今後も動搖したりヘンテコになつてしまつたり、いろいろになるだろうと思います。それは、しかたが無いと思うんです。しかし、たとえどんなふうになつても、今後は、自分のカンジンの心持だけは、ゴロツキだつた時分のようにはならないだろうと言う氣がします。
 結婚をすませ、タミ子の入院などの事を一應かたづけましたら、久しぶりにルリと一緒にお訪ねしたいと思つています。





底本:「肌の匂い」早川書房
   1950(昭和25)年11月10日初版発行
   1951(昭和26)年11月10日4版発行
初出:「婦人公論」
   1949(昭和24)年8月〜1950(昭和25)年7月号
入力:伊藤時也
校正:伊藤時也・及川 雅
2009年5月23日作成
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●表記について