鏑木さん雑感

木村荘八




        一

 ぼくは鏑木さんに面と向ふと「先生」と呼ぶ。かげで人との噂や取沙汰に呼ぶ時は、「鏑木さん」または「矢来町」である。かういふ相手方のひとのいつとなく互ひの中で出来る呼び名は、その音や言葉にいひ知れぬ実感のこもつた面白いものであるが、鏑木さんはぼくを「木村サン」といつて下さる。またぼくには鏑木さんを目の前では鏑木さんとは決して呼べないのである。
 それは一々どういふわけでといふ、わけは一向感じない。たゞぼくにとつて鏑木さんは常に余人ならぬ「鏑木さん」で、そして「先生」だといふことを述べる。
 この鏑木さんは又ぼくにとつて古いお方である。親しく御知り合ひになつてからは二十年経つてゐないにしても、ぼくは今年五十歳であるが――と書きながら、ぼくのやうなものも、早や五十歳になつたかと今更ながら時の経過を思ふ。鏑木さんは明治十一年生れ、寅どしの、六十五歳になられた筈である。
 そのぼくが鏑木さんを少くも感知してゐる年月は、とうに四十年に近づこうとする長きに及んだ。ぼくはものごころがつく抑々初めから、絵好きで、よく人と笑談にいふ「生れてこの方ずつと文弱に流れてゐた」経験の、これに加ふるに家庭の環境関係や上長の影響などもあつたところから、子供の頃から、雑誌、新聞の類、小説本等々と親しかつた。今では見かけないやうだけれども、明治末の年頃はまだ盛んに東京の下町界隈にあつた、「移動図書館」風な貸本屋といふもの、学校でほんの五六冊読む教科書以外は目に触れる本といへば、いつも際限なく後続部隊の用意されてゐるその貸本屋の棚や風呂敷包から提供されるもので、それも始めは呉服のたたう紙で表紙を作つた講談本に始まつたのが、段々と月々の雑誌や新刊本にうつり、中学時分には更にこれが貸本屋から普通の本屋へと手が延びて、本屋から月々の通ひで目ぼしい新刊をとることゝなつた。
 しかもその選取する本といへば、軟文学に限つたから、当時、岡鹿之助のお父上の鬼太郎さんの書きものなどは、殆んど雑誌の毎号を欠かさず通読してゐたものだし、新小説や文芸倶楽部――今でいへば、中央公論・改造――はその編輯振りの匂ひも身近く毎号聞きわける親しさで接してゐた。そしていふまでもなくそれ等の「匂ひ」の中には、わが鏑木さんは珍しからず墨絵なり色絵を介して、ある芝居の座附俳優が常にこの座の定連の見物人にとつて顔なじみであるやうに、親しくいつも登場された。「清方ゑがく」はそんなわけで、年少以来ずつとぼくになじんで来たのである。
 ぼくは勿論後に「上野」へ登場された場合の鏑木さんを知つてゐる。これは時経つにつれてぼくも亦上野の人間となつた関係から、ある時は口幅つたく批評なども申しつゝ時と共にいよいよよく知るに至つたけれども、「親しさ」と従つてその無垢の愛情から「なじんだ」鏑木さんの度合ひは、もしかすると、上野以前の方が濃やかなものがあつたかもしれない。
 当時ぼくは生家の土蔵の中二階を自分の室として当てがはれてゐたけれども、そこは日当りのいい竪六畳程の小室で、開け閉ての度びに特殊な重い音のする太い棧で出来た頑丈な金網の戸を持ち、畳はつるつる滑る板敷きの間にそこだけ凹んだやうになつて何枚か敷き込んであつた。これに立てこもりながら、長々と室一杯の日なたにねそべつて、鏡花本の風流線であるとか同じく三枚続、通夜物語等々、新装された諸本を、飽かず楽しんだ「夢」は、忘れ難いものがある。
 殆んどその何れの「夢」の中の本にも随伴してゐる――否随伴しなければならなかつた――「清方ゑがく」が、同様、忘れ難いものであることは、すでに云ふまでもない。
 ――しかし、かういふ回想風に渉る鏑木さんについての書きものは、一度何かに記したことがあるので、今それがつい手許に無いからどういふ工合に書いたか細かいことは忘れてゐても、要するに書く一筋は同じところへ出よう。どつちみち一度書いたことのある材料は筆興も続きにくいし、第一、当の鏑木さんその方に対して同じ回想記を再び綴つて御覧に入れることが気が引ける。「清方ゑがく」回想記に渉つてはこゝには省略するつもりである。
 回想記は省略しても、「回想」の値打ちだけは一言しておかう。それは「清方ゑがく」明治中期から後期へかけての、鏑木さんのぼくなんかに与へた記憶なり回想が、偶々ぼくならぼくの「私感」一個に止どまらない、貴重な客観性のある明治時代史の一節だといふことで、これはかうぼくが述べることによつて、無言ながら、これに賛成する方は、立ちどころに相当の数を困難でなく見出すことが出来ると信じられる。少なくもぼくなどは当時触目する新聞雑誌のさしゑや、口絵に「清方ゑがく」を見て、例外なくその印刷紙面に、愛情をつなぎつゞけたものだつた。
 これをいひ替へれば「清方ゑがく」鏑木さんがわれ等の一つの「時代」の渝らざる愛情をしつかりつなぎ止めて誤まらなかつた程に、仕事の精進を一刻もゆるがせになさらなかつた証跡を示す、絵画執筆担当の責任を果された思ひ出となるものである。
 ――そしてそこに、つい口幅つたいいひ草で気になるけれども、いへば他ならぬ「鏑木清方」の時と共なる向上進歩が手堅く裏付いて、「清方ゑがく」回想は強固のものとなる。
 鏑木さん一個の「回想」ではなく、我々時代共通の一つの資産となるのである。
 元々はそれがぼくといふ相手なりぼくに先づ印刷紙面の愛情を通じて浮かび上つた「鏑木清方」の蜃気楼は、やがて時と共に鮮明確実となり、通夜物語の丁山の五寸に充たない木版立姿が樋口一葉の全身像にまで盛り上る、「清方」の歴史。その後はこれが口を利くのであるが、「鏑木さん御自身」がまた、その「蜃気楼」のいきさつについて、明徹無類に如何によく回想し、その認識をちやんと胸にはつきり折りたゝんで居られることだらう。
 私事に渉るかも知れないけれども実はぼくは最近――ぼくの主観に関する限り――鏑木さんに入門してゐるのである。しかしお忙しいところを妨げてはいけないのでさうさうは伺はないけれど、――それのみならず、先生に教はつたところを先づ一課目にしてもぼくがその後モノにするのに、却々の修練なり時間がかゝつて、さう子供のやうにはあとからあとからと新課目を御教へ願ふ気易さに行くわけがないから、実はぼくは時々申出でて、女の髪の毛の生えぎはについて(それも特に余人ならぬ鏑木さんのかゝれる女人の)御教示を乞ひ、それを一課目先づ御教へ受けたのであつた。その後愚品ながらぼくのかくこと有るべき女人の日本画ものゝひたひつき、襟足などに、芸が無いとすれば、ぼくは先生に対して申訳ないことゝならうのみ。先生は特に長時間ぼくを画室に参入許して、剰さへ自ら筆を執つて、ぼくの乞ふところを絹の上にかいて見せて下さつた。
 その御教示を願ふ前に、ぼくが一応手紙で、ぶしつけな御願ひを先生に申し入れるといふと、快く承知して下さつた御返事の文中に――自分はさしゑの出で、別段鬼一法眼に六韜三略をさづかつたといふ訳のものではないから、自分免許の画法である。それでよければ――といふ一節があつた。
 先生はこれをすらすらと何のくつたくもない心のまゝに記された感懐だらう。
 が、この感懐を率直に投げ与へられたぼくとしては、鬼一法眼が六韜三略をさづけるからといつても却つて動じない。それ程、鏑木さんの平素こゝろの素直な、透き徹つたありやうに対し、今更ながら親愛を新たにすると同時に、敬服したのである。
 鏑木さんはその意識的な好みからいつても、万事に気取りやもつたい振る感じを喜ばない方であるが、といつていくら意識を以つて撓めたからといつても、この「気取り」や「もつたい振る」感じなどゝいふ、いひかへれば、大なり小なりひとの己れに許すところある息吹きは、生得虚心の仁に非ざる限り、好んでいぶさうにも、附焼刃にいぶし切れるものではない。――然るに鏑木さんは、全然それのいぶしつくされてゐる方である。
 どうかすると御自分を全く何とも思つて居られない方かもしれないのである。たゞ美術にいそしむ御自分をいとほしむ以外には。
 平素座談の折ふしにも、鏑木さんは目を細くされて回想しながら、昔よく屏風などをかきながら、そのわたりの板の上で、その日の急がれものゝ新聞さしゑを描いたものだ、と懐しみながら、私はさしゑの出のせゐでせう、どうも上野の出品ものといつたやうな仕事よりは、さしゑ風のものがかきたくて仕方ない、と笑つて話される。
 ぼくがこれを特にこゝに云ふのは、鏑木さん御自身は知るや知らずや、世間には、常に絵画世界の一隅に「さしゑ」対「ホン絵」といふものゝ対立・相剋があつて、「さしゑ」は堕しめられつゝ「ホン絵」が良いものとなつてゐる。本来絵画である限りその本質に於てこの二つは相分るべきものではなく、殊に「ホン絵」などといふをかしな名の画式はそれが特別に存立すべきものでないに拘らず、事実上では、その存立ありと見なければならない状態である。
 といふのが、一方に「さしゑ」といふ、所詮堕しめられるがまゝの画式がまた堕しめられる相貌のまゝに、現行し存立するから――この対照が自然と双方の兄弟墻に鬩ぐ風の現象を招致するものとなるのである。
 石井鶴三の大菩薩峠が斯界の近い歴史の上に一線を劃したのも、一つには勿論鶴三のその作に対する構へなり作効果が正しかつたに依ることはいふ迄もない。しかしそれでは鶴三の構へなり効果が副業としてあの場合正しい中にも異常特別に正しかつたのかといふと、さうではなく、あの当時のさしゑが一般にひどく低かつた。鶴三として見れば何も別段あの場合、特に歴史の一線を引かうとして登場したものではなく、画人鶴三の平素のまゝ、その画道の正しきを以て虚心平気に、只上野の山の絵ではない新聞のさしゑを描いたゞけの、平淡な事実であつたに拘らず、結果としてそれは、斯界に火のやうに一線を劃することゝなつた。さしゑ界一般の低下した有様がさうさせたと見る見方が成り立つのだ。
 それは鏑木さんがすでにさしゑの現役線には居られなくなつてからのこと、同時に注意しておくのは、「石井鶴三」は元々の上野出立ちからこゝに新規にさしゑの現役線へ従事した、大正度のことをいつてゐるのである。
 然るにさしゑ乃至さしゑ界なるものは元々低いものだつたかといふに、決してさうではなく、これは文献に明らかな通り、明治も小林永濯、小林清親の以後、出版ものの一部の名でいへば雑誌小国民あたりのものから、博文館上版のもの、春陽堂上版のもの……等々にかけて、日本の印刷絵画の上には、明治も到底化政度あたりの同じ業績に勝るとも劣らぬ華期を展き、月耕、年方、半古、近くは桂舟と云つたやうな名家が跡を次いでゐる。竹内桂舟さんの如き一貫してさしゑだけの仕事に精進された方もあつて、広業、鞆音などの、その後「上野の仕事」に転じて大名を走せた作家が、その一つの時期には、少しも画格を堕すことなくさしゑで心ゆく迄の仕事を残してゐる。――といふ工合に、さしゑ即ホン絵の、正しい盛観があつたのである。ぼくに考へさせれば、尾竹竹坡は後の文展の二等賞で残らうよりも、前の少年雑誌の謹厳な歴史さしゑを以つて、充分記憶されるに足る事績がある。
 何れもさしゑに直ちに正しい骨法の絵を描いたわけで、思へば一向不思議のことではなく、それぞれこの正道に研鑽した時代があつた。絵画史風にいへば、まだ上野の山が却つて盛観を兆さなかつた、胎動時代からかけて、やがて文展を機会として、「上野」といふ一つの格式、卑近にいへばその「ホン絵」のありやうが瞭然となる頃まで。明治の中期から後期へかけてゞある。
 そして、その中の、鏑木さんは丁度「さしゑ」時代から「上野時代」へとバトンの渡るさなかの、さしゑ界から最後のバトンを受け継いでまつすぐ上野へ駈け込んだ選手――といつて良い立場の方に当るのである。
 それもなにも別段殊更に上野の駈け方を俄かに稽古された、いはゆる「駈け出し」なんぞではなく、十分それ迄のさしゑ時代に、さしゑ・ホン絵にかゝはらぬ正しい絵画を、同時代の大選手達の中で、共々、研鑽された方であつた。その中でいへば、若い最前線の花形であつたわけである。
 をかしないひ方をすれば「さしゑ」スクールから「上野」へ派遣された、代表選手だつたわけである。やがて時が変ると、石井鶴三が「上野」から「さしゑ」スクールへ派遣された代表選手となつたやうに。
 鏑木さんの先生水野年方さんが始めて上野へ作を問はれるために仕事を精進された模様を鏑木さんに聞くと――それを鏑木さんは文に記して居られたが――その頃ほひの先人の画室の神聖さなり画壇の緊張が偲ばれて、頭が下がるばかりだ。その後のたうたうたる、上野へ只ポスター・ヴァリューだけに絵を出品する下賤の風などは、鏑木さん始め画壇の先輩は、誰も経験せず、考へてもゐなかつた。
 たしか日本風俗画大成の解説の中であつたと思ふが、鏑木さんは、明治の版行絵画の中にさしゑと口絵の別があつてさしゑは単色版、口絵が極彩色木版の、書籍の巻頭にのこるものである。が自分達はこの口絵をかゝされる事を如何に待望しただらう、如何にこれに力をつくしただらうといふ意味のことを、述べて居られる文章があつた。また、次のやうな文献がある。それは談話筆記であらうが、明治四十四年に春陽堂から出てゐる「現代画集」に鏑木さんの署名で載つてゐる文章の一節である。
「……私自身としては将来は插画画家としてよりは寧ろ展覧会制作に全力を尽す積りでありますが、然し插画の研究も全く之を棄てず、傍ら大いに研究を続けて行つて插画の上に多少の貢献を致したいと思つて居ります。」
 そしてその後、鏑木さんがこの明治四十四年の言葉通りに着々善処されたことは、衆目の見る通りである。しかも昭和最近年に至つて鏑木さんが「私は本当は展覧ものよりさしゑ風なものがかきたい」としみじみ云はれるのは、推し計るに、これが三十二年以前の明治四十四年だつたならば、「……寧ろ展覧会制作に全力を尽すつもりであります」といはれたのと、等しく美術する虚心においては全く同じ心操に、発するものと考へられる。それでなければぼくのやうな後進をつかまへて「自分はさしゑの出であるから」と同じく淡々として心懐を述べられるわけがない。
 いふ迄もなく鏑木さんがさしゑ風のものをかきたいといはれ、自分はさしゑ出身であるといはれる場合も、そこに微塵も自ら卑うする悪趣味など介在せず、本当のことをそのまゝいつて居られるので――たゞこゝに、一つだけ鏑木さんにもし「間違ひ」がありとすれば、鏑木さんは「插画家」として大時代の、殆んどその今は唯一の面影の方であるのに、御自身(余りそれが身に付き過ぎて居られるために)その大時代といふについて御存知無く、さしてこれに関心なさらない。さういふ鏑木さんの一つの「間違ひ」は発見出来ると思ふ。が、これが今ではタイヘンなことだといふことである。
 例へば名は同じ随筆といつても、大多数の近頃の随筆ものと幸田露伴さんの随筆とでは、その重さや、構へや、格に、大した開きがある。これと同じことで、さしゑも大時代の「清方ゑがく」は、今日いふ「ホン絵」よりも「展覧会制作」よりもずつと純真無垢の、一途に美術的なる、絵らしい絵といつて、然るべきものである。
 鏑木さんはこれを指して平々淡々と「さしゑ」といひ、自分はその出だといつて居られるのである。御自分の実感はそのほかに「さしゑ」を御存知ないから。
(註)、鏑木さんの心理を推し計ると、曩きに帝展へ出された鰯なども「さしゑ」風な一作として居られるやうだし、にごり江の画帳はいふ迄もなく、七絃会あたりへかゝれる横物の秀品も、それ等を一列に「さしゑ風な仕事」と考へ懐しまれて居られるやうである。

 この画人が、自分などは自分免許の画法で、鬼一法眼から六韜三略をさづかつたわけではない、といはれるのは――推すらく、鏑木さんの思慕する美術品の高さ、その高度を余程よく忖度計量するに非ざれば、我々は不用意に鏑木さんの感懐を言葉だけで額面通りに受取ることは出来ない。再びいふ、鏑木さんは生得もつたい振らず、気取らない、といつて余計なへり下りなどの悪趣味は持たない、この辺は最も洗練された江戸人の遺風(さういふものも殆んど少くなつた)を持たれる方である。ぼくはざつくばらんにいはう。有りやうは、鏑木さんはなかなか御自身の仕事に対して御自身気に入つて居られないのである。されば些のテングやうのものは先生の心に兆す片影だに無く、鏑木さんは「大家」であるに拘らず御自分でさつぱり大家などゝそんなことは思つて居られない。ただ御自分の不満足と御自分の希望を胸に身近く秘めて、ぼくに上村松園さんの美点を細かく話して下すつた。また勝川春章の至れるをまるで我々が時々欧羅巴の画人を羨望さへ籠めた子供つぽい感嘆を交へて話すと同じやうに、その春章の女姿のかけものをそここゝと指されながら、居ずまひさへかまはずに乗り出して、話して下すつた。
 さういふ鏑木さんは「大家」でもなければ「先生」でもない、ひとへに、絵の仕事を専心したいとなさる。ぴちぴちした熱つぽい志望溢れる画学生のやうな姿の――それがやがて談終つて、対座すれば、実に静かな極めて練れた、ぼくなんかとは一廻りの上も年歯異なる、すでに立派な画人伝中の名家なのであつた。ぼくは無遠慮に率直なことをいふ。鏑木さんは到底たゞものではない。傑物だと思ふのである。

        二

 ぼくは鏑木さんの傑作は円朝像だと思つてゐる。円朝像は日本の美術作品として不滅だといふ意味で、同時に作者にとつての傑作だといふ段取であるが、ぼくの一つの論法からいへば、実は夙に「鏑木清方」といふ作家は紙絹に向ふや必ず常に愚作をかゝない人であるから、「清方ゑがく」傑作は枚挙に遑が無い。――といふのは、いつも必ず、筆さへ持てば、此の人はこの人の絵をかく人である。美術の的からそつぽを向いたやうなへんな絵は予めかくことを欲しない人である。鏑木さんならば常に大丈夫安心成る人である。技術が手堅いの、何が安心成るのと論ずるよりも先きに、その「人」が手堅く、従つて見識が手堅く、趣味神経が手堅い。そしてそこから出て来る技術様式であるからこれも亦手堅いわけ。鏑木さんは大丈夫の人である。
 しかしその大丈夫な、常に安心成る人の多くの作品の中でも、円朝像はまた格段のピッチに上つてゐたと思ふ。どうしてだらうか。
 ぼくは思ふに、円朝像の場合の鏑木さんが、一番、鏑木さんその人の個性よりもより以上逼迫し、突進して、美術の殿堂そのものゝ中へぢかにはひつて居られたからだと思ふ。それは一つにはさういふ百尺竿頭の業のこの人は成る作家だといふ論証になる一方、ぼくなんかはそれだからこそ、慾でなく、鏑木さんに「鏑木さん以上」を求めたい一人となる。鏑木さんは常に個性鏑木清方の軌道は寸角の作にも決して曲げない作家であるから、一応も二応も美術として、先づそれで良いのであるが、円朝像の不可思議はこの人の作として我々に作の個性を暫く忘れさせるものがある。少くもぼくは清長や、春章や、歌麿の仕事を見て、その何れにも焼き付いたやうなそれぞれの作の個性を常に汲む、一方に、すでに到底その仕事のスケールなり深さは「清長」でも「春章」でも「歌麿」でもない、もつと凄い、壮大なるもの。絵筆を持つた場合の日本人といへば、簡単であるが、意味はそれが一番わかりよくないか――さういふものに接して撃たれることがある。
 同じやうに、清方ゑがく円朝の像も、この絵にくまれる個性の「清方」は便宜上それを通してこの絵が組立てられてゐるまでの、実はこの絵はより大きく日本人の描いた一枚の不滅な肖像画となつてゐる。さういふ決定的な功績を、あの絵は我々の絵画史の上に示した、当代の金字塔の一つだつたと思ふのである。従つて、それを描いた鏑木清方だと思ふのである。
 踏絵等々に始まる鏑木さんの個性はいつも清々しく美しいもので、築地明石町の絶唱を始めとして、近年の慶喜公もよければ、哥妓図も一葉も良い。(ぼくは今残念なことにはまだ近作の藤懸さんの肖像を見てゐない。)イヤなものは一枚もないのである。美術として個性の厳密端正なる吟味を通過してゐる仕事に、親疎は別として、イヤなものなどありよう道理は無いからである。
 ――ところで、逆説ではないけれどもぼくをしていはしめよ。鏑木さんに有り能ふ欠点を若し指摘せよといふならば、他ならず、ぼくはその「イヤなものをかゝない」鏑木さんの端正厳密こそ、それが鏑木さんの常に特点であると同時に、どうかすると欠点でもあるのではないかと考へる。先生許させたまへ。ぼくは腹中に一つ思つてゐることをいつて了ふと、鏑木さんのかゝれる、――常に趣味透徹して美しく、個性満々たる――人物には、最高の情緒もあれば最麗の姿もあり最緻最微の神経に事欠かぬ影に、たつた一つだけ鑑賞のうれひとも云へるものゝあることは、その人物や手足、服飾などに(服飾の点からいへば近作の一葉は円朝像に殆んど肉迫せんとする、立派な作品であつたと思ふ)余りといへば画品の清々しく透みわたるまゝに、埃や、汗や、あぶらや、ゴミ……これの無いことが物足りないが――
 人は如何に端麗の秀人と雖も埃や、汗や、あぶらや、ゴミの無いものはない。
 といつて埃だらけ、あぶらだらけ、汗だらけ……の手足人頭は元より美術に禁物のことはいふまでもないが。――
 鏑木さんのものにはそんな「汚ない」ものは一つも無い。明石町の秀人の如き、如何に綺麗な澄み渡つたものだらう。その人には手にさはつても少しもあぶらめいたことがなく、かいつくろつた両腕のわき、乳や、胸のあたりにも、恐らく明石町の人は、汗をかいてゐない程だらう。
 それは確かに「美しい」一つの欠くべからざる要素である。
 たゞ円朝像には、両手に持つた湯のみにもそのこつくりとした重さと同時に手の皮膚が感じる湯呑の温度、互ひのつや、或る埃、或る汗までも感じられて「美しい」以上に「本当」だつたし、ぼくは一葉像で最も感服したのはその服飾の、胸から両手、胴体へかけての、作者の「眼」といへるものであつたが、あの絵を見てゐると、そこになんどりとした女人の体温を感触して、到底この作は、たゞ事でないと思はしめる。
 そして円朝像にはその「只事ならぬ」感銘が更に画面くまなく充ちてゐたと思ふのである。円朝の頭部の重さ、その丸さ、その肉付けには、昔の彼の伎楽面がカンカンの木材でゐながら猶千古乾くことなくしつとりと人肌の「汗」をたゝへてゐるやうな、それと同じ肌合ひがある。
 あの作品は鏑木さんの画いたに違ひないものである。
 しかし「鏑木さん」以上の、否、以上も以下もない「鏑木さん」といふ個々性に関しない、それよりもぢかの、ニンゲンの不死像だといふ、右の意味である。
 そこで恐れ気もなくいへば、先生の再び三度びこの円朝像の「汗」を画いて頂きたいことを。先生はどうかすると余り先生の美しい神経をいたはり、完全無欠の趣味性に澄み渡るあまり、その写されるニンゲンを清掃なさり過ぎはしまいかと思ふ。
 鏑木先生に向つてこそ「汚ない」絵をかいて下さいと非常を懇望出来る、日本画壇――日本画洋画をこめて――の、「綺麗」さは百尺竿頭を極め尽した画人だと思ふ。――暴言罪多。ぼくは切にこの感じを先生に対して抱いてゐるものである。

        三

 次の一節はこの書きものをなすに当つて一番最初にぶつつけに誌した未定稿であるが――ぼくは鏑木さんのどこに牽かれるのだらう? それは勿論鏑木さんの絵と、同時に、その人柄に牽かれるのだと思ふのである。
 されば鏑木さんの「人柄」とはどんなものだらうか。
 人には喜怒哀楽がある。ぼくは鏑木さんの喜を知つてゐるし楽を知らないことはないと思ふ。鏑木さんは土田麦僊を失つた時にその報を受くるや、二階の仕事場へ行かれようとして、その階段の曲り角のところで堪へやらず佇立して泣かれたといふことだ。
 これはさう鏑木さん御自身が書かれたのを読んだのか、あるひはぼくの耳食かははつきりしないにせよ、いかにも鏑木さんらしい。鏑木さんはさういふ悲しみをなさる方であらうと思ふ。
 またこれも鏑木さんが書かれた文章で読んだのかと思ふが、――いつかこれは又ぼくもうつして及ばずながら自分の訓戒としてゐることには――自分はひとと相対する場合に、その相手の心持なり立場となることを心がける。さうして人と話をする、といふ意味のことを鏑木さんが述べられたことがあつた。ぼくはこれは鏑木さんのいつたことに間違ひないと(それが何にあつたかは忘れたけれど)かたく思ふのだ。何故ならこゝにも最もそれらしい鏑木さんの「人柄」が読めるからである。
 それかあらぬか、鏑木さんの展覧会画評を見る度にぼくは思ふ。鏑木さんの画評を執筆される影の一つの心操には、出来るだけ若い人の仕事を探さう、多少でもそれがあつたら特筆しよう、として居られる心持が読めて、日本画壇は良い先輩を持つて居ると思ふのが常である。ぼくの記憶にして間違ひでなければ、太田聴雨氏の仕事を初めて特筆是評されたのも鏑木さんだつたらうし、その他、多くあるだらう。自分のことを云つてをかしいけれども、例へば己れを凧に譬へれば、それがどうやら順風に揚がつてゐる時、思ひ切り糸のダマを出して凧々揚がれ揚がれと地上から鼓舞激励された――これを批評の本質とす――ぼく自身のおぼえは、他ならぬ鏑木先生から受けたものであつた。そしてその頃は猶未見の鏑木清方氏だつた。
 これはぼくとしては所詮生涯の記憶になるものである。が先生は何も人にそんな重つたるいものを殊更に与へようとて、なすつたことではない。――有るか無いかの学生をいとしむ先輩の心、さういふ心を先生が常に(然り不用意の中にも)御持ちだつたといふことである。

 ぼくはしかし先生の「怒」については知らないのである。といふのが、人にして怒り無きものあらんや、ぼくがもつと鏑木さんに平素近づいてゐれば、「怒」もまた知らうものを、その意味ではぼくは、平素決して先生と親近といふわけではないのだ。
 従つてそれだけ何と云つても先生について知らないところが多いかもしれぬ。――それにも拘らずその人の「人柄」を述べようなどとは、いけないかも知れなかつた……
 たゞ人と人との間のカン、或ひはウマといふものは、これは有るものである。ヘンな事をいひ出せば、そのカン故に初めて相逢つた異性同士が存外そのまゝ偕老同穴の契りを結ぶこともある世の中だ。少々我田引水めくけれども、ぼくは逢つてゐることではちよくちよく鏑木さんに逢つてゐる。そして常にカンが働き、ウマが弾み弾みしながら、この人はかういふ人だと思ふ。その第一には、この人の持つてゐる言葉はぼくには字引無しでも読めさうだ、と、ウマが恐れ気もなく鏑木さんの胸中に飛び込んで、はしやぐのである。
 ――そしてこれは、弓矢八幡、人の世に外れつこないと信ずるものである。
 曾て鏑木さんは盗賊にはひられた時に、その翌日の新聞談話で、何でもお宅の忍び返しのところか何かを仰向いて見て居られる写真が出てゐたやうに思ふのだが(そしてその頃はまだぼくは先生のお宅を知らなかつた)、
白浪の退くあと凄し秋の月
秋の月だつけか、冬の月だつけかはつきりしないが、此のたしか九代目団十郎の矢張り盗賊に逢つた時の所懐を新聞の人に示しながら、「たいした事ではありません」と却つて恐縮らしくいつて居られる「賊鏑木清方画伯邸に入る」三面記事を見たことがある。
 ぼくはこの記事を見た時に、何だかこれ程気に入つて愉快だつたニュースはなかつた。寔にをかしな少しトボけたイキな泥棒であるし先生である。が、盗難事件には相違ないと思ふまゝに、先生へ御見舞の手紙を出すと――ところがそのぼくの手紙は却つて御祝ひのやうな文調だつたかも知れなかつた――程経た頃に鏑木さんからハガキが来て、それにはちやんと印刷文で盗賊見舞に対する叮重な礼状が認められてゐた。そして一隅に先生の字で「今頃こんなものを出してすみません」といふことが添記してあつた。
 ――万々これが鏑木さんの人柄の一面だと思ふのであるが、賊に見舞はれてどつちみち異常でゐながらも、団十郎の句へ連想の動くを止め敢へず、これを新聞の人に淡々と話したまゝさて方々から見舞状が来ると結局それに対して律義に礼状の印刷を御こしらへになるところなど――この盗賊奇聞は小さいことでそして突発事であつたが、それだけにこれに応変臨機のこたへをなすつた鏑木さんは、恐らく予め用意深く対処なすつた事々の場合よりも一層よく、鏑木さんの「持味」を発露されたことだらう。そしてそれは所詮身についた五分もすかさぬ先生の江戸前といふことだつた。
 ぼくはその「江戸前」といふことについてカンシンしてゐるのではなく、また江戸前あたりを殊更にものゝ基尺として振り廻すものでもないが、たゞ、事実として、鏑木さんこそは江戸前のおひとだといふことである。もうさういふ江戸前の身についた人も、鏑木さん等々一二の方々のほかは、絶無だらうといふこと云々。





底本:「東京の風俗」冨山房百科文庫、冨山房
   1978(昭和53)年3月29日第1刷発行
   1989(平成元)年8月12日第2刷発行
底本の親本:「東京の風俗」毎日新聞社
   1949(昭和24)年2月20日発行
入力:門田裕志
校正:伊藤時也
2009年1月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について