岸田劉生の日本画

木村荘八




 これが森田恒友さんについての書きものならば、日本画とはいはずに水墨とするところであるが、岸田は「水墨」が似合ひでない。のみならず、岸田当人も絹紙に墨の仕事を特別の名で呼んだことがなく、たゞ日本画々々々といふ。森田さん風にこれを水墨といへば、これはまた言外に文人画の意味をこめてゐるやうである。その文人画の意味も岸田の場合には特別の匂ひにならない。
 八大山人風のモティフや石濤の仕事あたりを志して――仕事あたりを志して、といふのが、岸田は常に古人の何かしらの仕事を目ざし、その風を志して、仕事を進めたものだつた。それが岸田の作風の一つであつた。これについては後に述べるだらう――墨画の山水などを岸田も描いたことがあつた。その場合には筆を行る心意気もまた文人画風であつたらうが、総じていふに、岸田は文人画境地の画家ではなかつた。
 故人もこれは破顔してゐたエピソードであるが、岸田は殆んど例外なくその作品の上に文字を題して、少々怪しい漢文なども誌し入れる好みがあつた。犬養毅氏が一度これについて、岸田君の画もいゝが、文字が題してないといゝといつた話が伝はつたことがあつた。とに角岸田は一度も題賛文字の為に特に心を砕いた経験といつては無かつたといつて、間違ひでないだらう。――ぼくはこれ等の意味で、岸田を文人画家の範ちうには考へない。
 どこまでも岸田は画人岸田劉生である。屡々工人でもあつた画人岸田劉生である。このことは故人も抱懐してゐた、さういふ一つの見識でさへあつたから、ぼくが今からいつたからとて、故人を貶するものにはならない。
 岸田はいつ頃からその「日本画」を始めたであらう。
 それはさうと、ぼくは恐らく岸田の日本画を一番沢山に見るだらうと思ふけれども、最近に見たのは、気まゝに切つた形の、紙本の、九画連作のもので、乙丑九月三日仲秋明月の夜於天下茶屋瓢々亭劉生酔筆と題する「ばけものづくし」であつた。
料理のない時出る化けもの
窓からのぞく化けもの
ことづての化けもの
おほだんの化けもの
酒を酢くする化けもの
つきぢ河岸の河太郎
てんが茶屋のわらひ地蔵
土佐ぼりの油なめ小僧
破れ三味線の化けもの
 この九つの怪物が淡墨淡彩で描かれてゐるものだつたが、九つに限つたのは推定すらく、番町皿屋敷のお菊の皿の数に因んだものだらう。
 これがぼくの最々近に見た岸田の日本画であるが、これが短命だつた岸田にとつては早くも晩年に属する作品の一つで、乙丑九月とあるから大正十四年に当り、岸田は三十五歳、京都に偶居した頃の逸作である。(岸田は三十九歳、昭和四年十二月二十日に旅で死んだ。)それと、今ぼくがこの書きものするには丁度よいことには、その「ばけものづくし」を見た、その一つ前に見た岸田の日本画が、これはまた、初期に属する作品の、猫を描いた白描で、辛酉晩春劉生写と署名がある。辛酉は大正十年である。
 大正十年には歳三十一。鵠沼に住んでゐた時代の、日本画ではその頃ほひまだ初期だつたけれども、岸田全体の仕事から見れば、これが一番張り切つた、あぶらの乗つた頃に当るのである。
 何かのしをりにならうし、勘定してはわかりにくいことだから、左に関係部分だけの年号の干支を摘記しておくこととしよう。
大正五年草土社成   丙辰   岸田二十六歳
同 六年       丁巳
同 七年       戊午
同 八年       己未
同 九年       庚申   三十歳
同 十年       辛酉
同十一年       壬戌
同十二年春陽会成震災 癸亥   秋以後京都移住
同十三年       甲子
同十四年春陽会退会  乙丑   三十五歳
昭和元年       丙寅
同 二年       丁卯
同 三年       戊辰
同 四年       己巳   十二月歿す 行年三十九
 そしてこの年号を書きながらも「大正五年草土社成」以前を挙げないのは、岸田の日本画に関する限り、それ以前の年号は呼び上げる必要は無いからだ。況や干支に至つてはまるで関係がない。草土社成立彼之れの年代の岸田の絵には、素描であると彩描であるとを問はず、――和風、洋風を問はず――その署名日付は悉く西暦の数字で入れてある。いひ替へれば岸田は抑々年少の頃から毛筆がきの画式は好みであつたから、その墨絵は古くから少なからず有つたとしても、形式、内容共に洋風の仕事であつて、日本画ものは、恐らく大正九年以前に遡つては発見しにくいだらう。正確なことははかりにくいまでも「辛酉晩春」署名の猫を和紙半折に描いた白描あたり、大体これ等を、故人の日本画式の筆始めと見て良いと思ふ。
 この絵には署名こそ「劉生」とあれ、落款の印章はまだ作られてゐなかつたと見えて、墨書した劉生の下に朱書きで劉の字の左書きが文様風に添へてあるのである。
 ぼくはその時分にたしか日本橋仲通りの骨董店あたりで、岸田が沈南蘋の猫を描いた画幅を求めた事をおぼえてゐる。しかしこれは偽物であつて、岸田はやがてこれを出して了つたけれども、一時、この沈南蘋には彼は傾倒してゐたものだ。岸田の支那画に対する開眼もこれから来たと云つて良いだらう。そしてその「手習ひ」をしきりとやつてゐた一頃がある。
 岸田は後年に及ぶにつれて漁画癖につのり、遂には劃期的な初期肉筆浮世絵ものゝ珠玉を骨董店の塵の中から発見する。漁画の本格に味到したけれども、そもそも始めは、右にいふ南蘋の偽物を掴んだあたりが初穂であつた。この時掴んだものは偽物であつたとは雖も、岸田のその「偽物」を通じても鑑賞し且憧れた東洋画の一筋は、これぞ命をかけた真摯のもので、南蘋から明清の文人画に入り――※(「りっしんべん+軍」、第4水準2-12-56)南田の、これもたちの良くない一作を入れて、忽ち放したこともあつた――元明の花鳥に入り、殆んど同時に一方浮世絵版画に入り、進んでその肉筆ものに驀進し、これ等の過程をその都度親しく見てゐたぼくからいへば、彼は古人の画幅をあさり出すや、恰も滝が落ち口を見付けてどつと迸り下るやうな、その勢すさまじいものがあつた。彼は古人の遺業を通じてそこに展開される一幅々々づつの美の舞台面にわれを忘れて眺め入り、陶酔したのである。
 そして酔ふては、祥瑞の陶器を手に入れゝば、たちどころに祥瑞文様の絵が彼に生れたし、丹絵は彼に丹絵風の表現をさせ、それから元明画風の花卉静物を好んで作り、初期浮世絵風の画境を出現した。最後に初期浮世絵の屏風の人物達は、岸田劉生その人を遂に屏風の山へ引入れて了つて、彼に絵を描かせるよりも、酒を飲ませる生活が始まつた。
 ――ぼくはこれも亦岸田の非凡な美術魂が敢てさせるところと、故人に敬意を表するに吝でない。美術の行くところとあればどんな細道へも彼は水のやうにしのび込んで、憑かれた心を持つた男であつた。
 宋画の寒山拾得を見れば彼は寒山拾得を描いた。ぼくが版の極く悪い十竹斎画譜を求めて来たことがあつたが、一眼それを見るや、彼はぼくに懇望し、殆んど強要せんまでにしてその九冊本を急ぎ鵠沼へ持返り、やがて彼の画室へ行つて見ると、沢山に半折の十竹斎風なる試作(日本画)が描けてゐたことがある。
 そしてモティフの角度こそそれは十竹斎風なれ、その角度を通して表現された美術は、所詮「岸田劉生風」のもので、何よりも新鮮で、求道に競ひ立ち、筆端に愛情と発見のこもる、面白い生きた仕事振りだつた。
 同じやうにして、彼は明画風の籠中果実を描いたし、銭舜挙風の花を描いたし、元画風の瓜を描いたし……美術を追求し追求して飽くを知らなかつた、心豊かな男である。常に岸田劉生といふ画人は。
 彼は一度笑談半分に豪語してぼくにいつたことがある。「オレは日本画を描いては皆売つちまつたよ。稽古の絵も何も彼も日本画は残らず売つちまつた」と。恐らく事実その通りだつたらうし、また「稽古の日本画」と雖も彼のものは、とうに美術の風を備へてゐたゞらう。
 何故ならば岸田が日本画式を手がけたのが前記の如く既に鵠沼の後期からで、彼の鵠沼後期といへば、その前に元気旺盛な代々木時代――郊外風景や肖像、静物の、草土社創始時代――があり、次いで沈痛な新町時代――壺の静物等――がある。その後の、最盛期岸田であるから、この美術の人に描かれる画式に、たとへ初めは多少技術的不備はあらうとも「絵にならない作品」などあらう筈はなかつた。理の当然である。
 ぼくの――今見ると汚ない悪い版のものである――十竹斎本に基づいて試作に描いた岸田の古い日本画も、そのまゝ「売つちまつた」ものかも知れなかつたが、それを今所蔵してゐる人は、ぼく思ふにそこに絵のウマイ、マヅイよりも、美術を所詮感じて、いゝものを持つてゐる喜びにきつと満足してゐることだらう。
 さういふわけで、彼は日本画式へいはゆるエスプリから直接法に悟入したので、技術は瞬くうちに征伏され統御されて、進歩の驚くべきものがあつた。殊に南画風ツケタテの作品は、彼元来達腕の画人であつたから、十枚描けば十枚だけに忽ち手に入つた面白い出来があつたし、結局岩絵具こそ使駆するに至らなかつたが。
(後記)彼の後期に属する慎重な静物ものは、仕事の格として、充分、見るものに襟を正さしめる筆の貫禄を備へてゐる。しかも前後十年とはかゝらぬ間のあれだけの仕事である。ぼくは前記の前がきの沈南蘋風な猫を見た前には、また岸田が晩年の酒席で一気呵成に描いたに相違ない六枚連作の大津絵を見たけれど――それが屏風に仕立てられてゐた――これ等は筆興の凜々たる良い作品だつた。
 それと一番近頃見た「化けものづくし」のこれも酔筆がなかなか良いものである。若し批評風にいふことを許して貰ふとすれば、却つて筆路をつゝしんで描いた唐画風の静物などには、少々気魄の小づんだ、固い仕事があると思ふ。半折の上から下へと果物を一気に描下ろしたものだとか、児童喜戯の独特なモティフを自在に扱つた小点もの、あるひは興のまにまに描いたと思はれる色紙などには、渾然として美しいものがある。筆路を慎重に運んだ唐画風のモティフの猫などにも、その良く行つた作には、明清の仕事ではとても及ばぬ、古格を湛へた善品が少くない。概して岸田は材料には凝らなかつた。凝る迄にはまだ画式を整備しない間に早くも逝つたとしてもよいのかも知れないが、かなりそこに有りあはせの紙に画き、絵具などさう喧しくは選まなかつた跡がある。――岩絵具に手を染めなかつたことは前にいつた。色墨も使つてゐない――墨はぼくの知る限り、却つてぼくや中川一政などが小杉放庵老の東道で硯墨に凝り始めた頃よりも岸田は遅く入つて、たしか硯の善品には出逢はぬ間に逝つて了つたと思ふ。墨は色絵人物の刻されてゐる丸い明墨を手に入れてから匂ひが高くなつたが、存外これは京都から鎌倉へ移つた、最晩年のことだつたかも知れない。(その後この墨の行方は知らないが、石井鶴三が割合に近く、これと同質の明墨を珍しく手に入れた)――後記。

 余事ながら、近頃岸田劉生の偽物の多いには、弱つたものである。ぼくなんかはどうかすると此節、月に十幅は欠かさず岸田を見るだらう。ところが十の中の七迄は偽である――殊に油絵に至つては。油絵こそはさうさうフラフラした真品があらう筈もないのだから。
 ――最も滑稽なのはまさか偽作者がかう迄ぼくのところへ一手に岸田が集まらうとも思はなかつたので、それでしたことだらうが、何れを見ても必ず署名が 1916 April R・Kishida だ。枯草の絵でも雪降りの絵でも、されば一九一六年四月署名の岸田の油絵は、先づ当分眉唾と考へていゝやうである。
 又日本画は何処で誰に製造されるものやら、これに二系統あるやうで、一つは比較的古く、上質の唐紙へ粗く描き流した南画風のものが多く、きまつて二重丸の中へ岸田と刻した俗な印章が捺してある。(かういふ印章は故人は使つてゐない)
 それからもう一手は、これは近頃出来の――あるひは現に今も作られつゝあるだらうところの――悪質の偽作で、相当岸田ものを習つて作る仕事らしく、現に印章が二つ(写真に依つて?)偽造されてゐるから注意を要する。劉生之印とある稍大形の角印及び劉生とある小形の角印がいけない。双方ともほんものと比べて見ればわかることには、印の角々のきまりが堅い。劉生之印のほんものは角形の底の一線が心持半円に外へふくらみを持つてゐるのに、偽印はペタンとして薄情に一直線である。さういふペタンとした印を見たら眉唾と考へていゝ。
 殊にこれは丹念に劉生好みの陶器や果物など図した手頃の描ものや色紙が多いので、けんのんなことである。(用紙、墨、共に、これは真作よりも上質なのは、バカバカしい限りである。)
 岸田の作品は高値を呼んでゐるさうである。世の中のことはわからないもので、岸田を岸田銀行の頭取のせがれだなどといひ、先々金満紳士だつたと思つてゐる人もあるやうだけれど、実はその反対で、徹頭徹尾腕一本で叩き上げた彼は男だ。絵一つで叩き上げた。――絵はよく売れた男である。しかし今日の遺作が売買されてゐる程、それ程の値ではなかつた。
 値のことは我々、かゝりが違ふので、まあ岸田程のものとなればいくら高く問はれやうと、それが当り前見たやうなものゝ、たゞさうなると得たりや応とばかりヘンな岸田劉生が相当世の中に行はれてゐるらしいのは、難渋なものである。


     附

 岸田は初めフューザン会の頃には日本画式を全然軽視して、殊に浮世絵は、歌麿など蛇蝎のやうに厭んでゐた。そして日本画式といふよりも広く東洋画式に対して、草土社の後期の頃、壺や林檎の静物や風景を一区切り描き上げて、麗子像の始まる頃から、頓に開眼関心するに至り、いはゞ大道から真向に入つたが、そこで仕事が燃焼して来るとスケールは見る見る絞るやうに狭く、深くなつて、初期浮世絵肉筆の鑑賞に至つて、止んだ。

 ぼくの最近に見た「化けものづくし」の岸田について少々余事を述べておかう。故人を再検討する声の高い折柄、文献だけで調べては到底わからないことがこの辺にありさうで、存外またこんなことが「生きた評伝」には匂ひとなるものだらうから。
 この天下茶屋の瓢々亭といふ家は今も在るさうである。ぼくはその家は知らないのだが、岸田といふ男は一体相許した相手に対して常に人なつこい、寂しがりといへる、童心満々の男で、晩年は殊にさういふ瓢々亭といつたやうな飲み屋で小会することを好んだ。そして興が乗ると、即席の五題話など始めるかまたはいたづら描きを始めるのである。始めたが最後、徹底するまで筆をやめない。恐らく今何万円とかいはれてゐるといふ某家の屏風なども、酔余、一気に描かれたタダの作品だらう。「化けものづくし」も亦あとからあとから興が乗つて、にこにこ笑ひ通しながら、片つぱしからこの奇画を描き上げたものと思ふ。――ぼくはこのモティフについて岸田ならでは求められぬ岸田その人から出た「独創」のあることを指摘したいのだ。尤もこの作は所詮戯画であるから意味は小さいにしても、質として全く同じこの独創味が、岸田といふものをあの美術人に仕立て上げた、根源は同じものが、こゝによく出てゐると思ふのである。
 そしてそれは岸田の経過した文化的教養といつてもいゝものかも知れないと思ふ――切ればそこから岸田の血の出る程、彼の身についた教養の意味で、学んで容易く得られるものでなく、突差に化けものを九つまで描いて、十はかかずに、番町皿屋敷を利かせる(これはぼくの推定であるが、さうに相違ない)なども、岸田の一つの血である、この化けもの九体のうち、窓からのぞく化けもの、つきぢ河岸の河太郎、てんが茶屋の笑ひ地蔵、破れ三味線の化けもの、この四つ以外のものは、悉く今そこへ初めて生れたばかりの独創満々たる、生きた化けものである。――岸田のその時の頭具合でなしには絶対に世の中へ化けて出る手だてのない、新鮮な化けもの達である。――この「化けもの達」といふ字を「美」と替へても、質の同じ意義では、岸田の張り切つた仕事の場合を説明せんに、丁度これが良い手がかりだといふ意味で、ぼくはいふ。
 恐らくその瓢々亭の席にそろそろ料理が乏しくなつた頃ほひ、このいたづら描きが始まつたのだらう。そこで第一の誰も今迄に夢想だにしたことの無い奇抜な怪物が現はれる。同じ天下茶屋の住人だつた高見沢遠治はおほだんだつたか、それともそんな話でもその席であつたか、これがまた高見沢遠治の口をとんがらかした似顔で現はれてゐるのは、この酒はすつぺえとでもいつたのが、岸田にたちまち霊感したのだらう。土佐堀の油なめ小僧といふのは画商森川喜助である。森川君の酒席におけるおとなしやかの面貌、生けるが如し。
 岸田は蚕が糸を吐くやうに喜々として之らの絵を作りつゝ、面白くて面白くて仕方がなかつたに相違ないと思ふ。この絵の紙背からその岸田の喜々たる笑ひ声を如実に聞くやうに感じ、ぼくはこの化けものづくしを見てゐるうちに、昔懐しく、あとで大変寂しい心持となつた。
 後記
 この文章は、雑誌に掲載された頃から故人の日本画についての手引になるといふので、画商の専門家の間などに特に読まれると聞くので、責任も一しほ深いから、わざと一通り原文のまゝここに再録して、後記、即、「訂正」を添へるものである。
一、岸田が岩絵の具を使はなかつたと読める工合にかいた個所は、「使ひ馴れるには至らなかつた」と改めたい。岸田は岩絵の具を使つてゐる。(勿論、岩絵の具の使つてある真作があるのである。)只この彩料世界はまだ自由自在といふまでマスターするに至らない中に倒れたのと、元々をして岩絵の具を要求する画境は行つてゐないのとで、膠など完全でなく、表装の為に水をくぐると、そのまゝ落ちた岩が大分有る。――画面にさういふ跡があれば、右に基づくものである。作品にとつては殆んど画品の障りとならない。
二、この墨は曾て一度河出書房から出た岸田の「美の本体」といふ本の表紙に、その絵模様の載つたことのある「永楽初造」明墨であるが、極上質のもので、恐らく元のまゝ岸田家に襲蔵されるものだらう。といふのが、石井鶴三の求めたものといふのは、それが矢張り岸田と同じ時分で、品は違ふ、同形式、同質のものだつた。石井鶴三の話には(墨商も双方同一人であつたが)、墨商が岸田方へ行くと、岸田は当時猶墨には殆んど手を出さなかつた「初心」なるに拘らず、いきなり品物の最上品を取つたので、その買いつぷりに、墨商は感服して、石井鶴三に岸田のことを話したと云ふのである。鶴三はすでにその時墨の道は古かつた。
三、岸田を銀行のむすこと思つたといふのは正に一口噺にもならぬ滑稽譚であるが、周知のやうに、岸田の父君は、明治時代の先覚の一人として著聞する吟香先生である。岸田劉生の「劉」字は――元より吟香先生の撰――「まさかり」又は「ころす」の意で、「生」字と併せて、「活殺」の意味であつたこと、間違ひない。





底本:「東京の風俗」冨山房百科文庫、冨山房
   1978(昭和53)年3月29日第1刷発行
   1989(平成元)年8月12日第2刷発行
底本の親本:「東京の風俗」毎日新聞社
   1949(昭和24)年2月20日発行
入力:門田裕志
校正:伊藤時也
2009年1月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について