ハイカラ考

木村荘八




「ハイカラ」という言葉があるが、今の若い人達には既にこの言葉はピンと来ないようで、今の人達にはこれよりも「モダン」であるとか「シック」という言葉がよく通じるようだ。

「モダン」なり「シック」についてはここには触れず、それは又別にいずれ考えて見たいと思っているが、「モダン」「シック」「ハイカラ」。元をただせば、これはいずれも同意語で、僕の考えでは、遡れば幕政の頃の「イキ」というに連なる、年代譲りの言葉――言葉であると同時にその世相風俗――と思っている。速断の誤解さえ警戒すれば「同じもの」と云っておいてもよいだろう。ただその「年代譲り」というところに、変化もあれば、それぞれの特質もあって、四者到底「同じもの」ではない。
 ここには、その中から「ハイカラ」を取り出して、その特質を一応検査してみたいと思うのである。

 ついては、これは、さきの「美人変遷史」に対する、「美男変遷史」…ではあるけれども、「美人」うつくしいひとと「人」にかけて大きく云っても、その「人」は「女の人」のことである。「男」の世界に対しては、「美男診断」と云ったところで、個々の「好男子」を数え立ててもイミはない。
 明治の新派俳優の伊井蓉峰は、その名の「いい容貌」とあった通り、一世の美男を謳われたものだったが、もし伊井が「美男」・つつころばしかぎりのもので、晩年の阿久津(二筋道)の芸はなく、若い頃真砂座の近松ものを掘り返した頃とか、中頃さかんに白く塗って「不如帰」の川島武雄で泣かせた頃、これをもつて終った人だったとすれば? さしたる芸者ではなかったろうと思うのである。
 晩年の阿久津は、その時すでに伊井は必ずしも「いい容貌」ではなく、その顔に皺もふえ、のどは筋張って、もはや「老い」にむしばまれた、云おうなら「醜男」になりかかったものだったにかかわらず、むしろその人態(形而上)をもって、老伊井の演じた「阿久津」は至芸となり、二筋道はあたって、その頃ぺちゃぺちゃだった新派はこれによって盛り返した。
「美人」と「人」全体にかけて一般に云っても、その中に「男」は含まれないが、逆に男子は、年とって、醜くくなってから、かえって「美人」となり得る。――こう云ったら綺語に陥ちるだろうか。大きにそれは「男」の「曳かれものの小唄」と一蹴されれば、それまでのこと。
 幕政の頃――それは明治も初年時代まではつづいた――今から概括して「イキ」と名づけるのが便宜の美感の方法があって、男女共にこのイキの坩堝の中から、「美人」が生れ、或いは「美男」のでき上ったことがあった。又ひところ、「イキで、こうとで、ひとがら」と云われた「いいおとこ」「いいおんな」に関する明治の合言葉があったけれども、この「こうと」は「高等」で、こんなところに高等と当時はやりの「漢語」を持ち出したところに、「年代」を見るべく、この「こうと」には同時にまた「コート」にかかったかけ言葉の意味があった。
 明治初年には、その頃ぼつぼつ「洋物」が売れた、と云っても、一番よく出たものは、服装の上ッ張りに着られる廻し合羽、やがてトンビと云われたもの、あれだったそうで、両羽も上背丈うわぜいも短かかった。主として英国式裁断のインバネスである。――これから改良変形されて、内国製和服用のコートが出て来たが、明治も中頃の三十年代へかかると、女ものの外出着に総ラシャ、緋裏のいわゆる「あずまコート」は、なくてならない、全盛のものとなった。

 その前後のことである、「イキで、こうとで、ひとがら」と美男美女をそやす合言葉の行われたのは。
 ひとがらの「がら」にコートの「がら合い」がかかっていたことも、万事イキな連中の云い出しそうな、そつのない言葉と見るべきである。
 この東コートを羽織ったなりに、着ものの衣紋をぐっとぬいて、大一番の丸髷を大々と結び上げた女姿が、「イキ」と呼ばれるにいたり、旧美感のイキ、或いは粋、或いは「江戸前」と云われたものはすたれ、しかしすたれたと云っても、「美感」そのものがすたったわけではなく、むしろそれはより活溌な新しい美感の方向へと進路を転じたので、やがて交代に現れた美感の方法が、「ハイカラ」と呼ばれる新時代のものだった順序である。

「ハイカラ」は明治の後年期十年間ばかりのところに指摘される、新規な「美男の坩堝」、その製造方法であるが、およそ「明治」のことと云えば何でも「明治天皇」にもとづかないものはないように、「ハイカラ」といえども、もし明治天皇が明治五年に洋装なさらなかったならば、日本になかったものだろう。御一新にあたって断然陛下が散髪なさり洋装なさったことは、「日本」全体がそこから変貌して髪を切り・服を改めたことだったので、その天皇の御意見、「夫唱婦随」もあったことだろう。それよりも更に能動的・直接には、侍従の島団右衛門あたりの御すすめによって、率先して、おすべらかしお美しかった皇后が、お馴れにならないローブ・デコルテの洋装に身なりをお改めなすったのは、――辱けなや、開国文明のためである。
 明治天皇は十八歳のお年(明治二年)までに、東海道を往復数度なさったが、その時のお姿が、白羽二重のお召物に、緋の袴を召されて、お馬だった。
 明治天皇のお馬の道中には、片脇に侍臣が付き添うて、馬上の陛下に紺蛇の目に銀の蒔絵をしたお傘をさしかけたということである。
 今から九十年前に陛下が江戸――この東京へ先ずおいでになった時には、そういう「お国振り」とも云おうか、われわれ、今にして思えば、千年も前のようなお姿で、東下りなさったのであったが、明治四年になると散髪令一下されて、参議連の木戸、大隈、伊藤等の頭上から一瞬にしてちょん髷がなくなり、つづいて日本中で切り下されたちょん髷の数々は、日に日に無数だったことだろう。横浜ではその頃から、「仏蘭西五十三番」にヂバンという商人があって、洋服、靴、帽子、手袋等、アチラの装身具一切をあきなったという。
 時は少し下るが、数奇者の――そしてモードに対して常にカンの鋭かった――音羽屋五代目菊五郎は、好んで横浜(ハマ)まで洋品の買いあさりに出かけ、或る時は長靴を求めて、意気揚々とそれを履いて「小屋」入りしたことがあったという。
 二十一歳におなりになると、それからは明治天皇は、公式服装の場合は一切、出るにも入るにも洋装となさった。千年の緋袴白袍は深々と蔵に埋められて、歴史の彼方に去ったのだ。

 ハイカラという言葉は、英語の high collar の訛りであることはいうまでもなく、発音が「ハイカラ」とつまって、日本語になった。元は「ハイ・カラー」と原語なみにカラーを引張って云ったものである。
 ハイカラにかぎらず、これは何によらず外来語が「日本語」に生れ代る場合には、発音のつまることは言葉の経験するところで、modern にしても、モダーンと引張るうちはまだ半洋半和である。「モダン」とつまるに及んで、日本語となり、同時にその世相風俗も日本の板につく。ticket という言葉などこれが「ティッケット」と、よく云われるように舌を噛みそうな発音で云われる間は、まだまだ日本のものではない。これが日本語となり、同時にそれが日本の生活へ融け込もうためには、思い切って「テケツ」にならなければならない。
 世相の変遷はこう云った言葉の移り変りをキャッチすることによって、先ず端的にその「急所」を掴まえられるように思うけれども、「ハイカラ」についてこれを調べてみると、東京日日新聞の九千号記念紙に次のような新刊書の広告文が掲載されていて、この日附は「明治三十四年十月四日」である。

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   滑稽なる日本

全一冊  彩色表紙
定価郵税共金二十銭
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著者は「滑稽」の二字、我社会の総べてを形容し得可しとなし、而して其標本はハイカラーなりとし、漫罵冷嘲、縦横翻弄して滔々たる高襟者流をして顔色無からしむ。真に痛絶稀に看る快心の著。
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  一手発売所
   東京神田錦町二丁目六
新声社
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 何も自分がたまたま持っている古新聞を文献めかしく振り廻す所存はないのだが、これを一つの重要な「鍵」とは考えるので、少くも「ハイカラ」なる明治以来の一つの言葉、従ってこれに裏づけとなる一つの世相史上のテーマは、その胎動から誕生にかけての年代を「明治三十年」見当と見てよいことは、間違いでないと同時に、そのハイ・カラーが「ハイカラ」と転じていよいよ「日本的活動」とも云えるものを活溌にしはじめた年頃は、新聞紙上に右のような広告文字の出る時分から、と云ってよいと思われる。
「広告文」には、余り一般にわからない字や言葉は使わないものである。――昭和二年に、大槻如電編輯の『新撰洋学年表』の改版広告が新聞へ出た時、割註を入れて、「御存知の方は御存知なるべし」とあったことがある。そういうことはあるにしても――現在で云って例えば、ロード・ショウ、アベック、ニュウ・ルック等の言葉(及びその世相)は、これぞ又「御存じの方は御存じ」で、前々から云われはした言葉ながら、新聞広告の一般にこれを発見するようになったのは、遠くないことである。この節では一行広告に「アベック旅館云々」は珍らしからず、「靴のニュウ・ルック」とあって、その絵入りの広告なども見かけることがある。これらの言葉や世相もまた、かくて日本化するものと見てよい。
『滑稽なる日本』という本の明治三十四年に新聞へ出た広告文字の中には、「高襟者流」という字、これをハイカラーとよむよみかたと、やがてそれが「ハイカラ」につまろうとする暗示と、この新語に対する二通りのよみがそのままなまで誌されているのは、当時まだ high collar が充分日本式にこなれた「ハイカラ」でもなければ、と云って西洋譲りの「ハイ・カラー」ばかりでもない、この間の過渡を示すもので、巧まずしてよく時代を語っている。――広告文の現役性がなす面白さがここに見られる。
 翻ってこの言葉がそもそも使われ始めたのはいつ頃からだったろうというに、それについては、石井研堂氏の明瞭な考証が『明治事物起原』の人事のくだりに出ているのである。
「ハイカラの始」と題して、「明治三十一、二年の比、毎日新聞の記者石川半山、ハイカラーといふ語を紙上に掲げ、金子堅太郎のごとき、洋行帰りの人々を冷評すること度々なりし。泰西流行の襟の特に高きを用ゐて済まし顔なる様、何となく新帰朝をほのめかすに似て、気障の限りなりければなり。――然るに三十三年八月、築地のメトロポールホテルに於て、竹越与三郎の洋行の送別会を開きたる時、来客代る/\起ちて演説を試みたりしが、其の際に、小松緑起ちて、ハイカラーといふに就て一場の演説を試み、世間多くは、ハイカラーを嘲笑の意味に用ゆれども、決して左には非ず。ハイカラーは文明的にして、其人物の清く高きを顕はすものなり。現に、平生はハイカラーを攻撃する石川氏の如きも、今夕は非常のハイカラーを着け居るに非ずや云々と滑稽演説を試みて、満場の哄笑を博したり、其の記事、各新聞紙上に現はれて以来、ハイカラーといふ語の流行を来すに至れり。」
「ハイカラ」ははじめ多分に揶揄難評の言葉ではあっても、賞讃の意味は少しも含まない、生意気な、軽佻浮薄なものの代名詞として、明らかに悪意のあるワルクチに出発したものである。これがいつか一転して「洒落もの」の意味となり、これに対して追従憧憬の気分も徐々に加味されると共に、三転して、あまねく「新しいもの」を目指して云う言葉となり、その風俗となりながら「……社会上下を通じて、一般の流行語となれり。特に可笑しきは、小学の児童まで、何某はミットを持ちたればハイカラなり、外套を着たればハイカラなりなど言ふこと珍しからず。罪のなき奇語の、広く行はれしものかな。」――と、石井研堂氏は書いておられる。
 今これを読むと、又々、この研堂氏の考証そのものが生きた文献となるのは、研堂氏の『明治事物起原』は明治四十年の上梓であるから、以上の文章は前数年のところで、誌されたとして、刻々に移り動く世相をそこに見ながら、「罪のなき奇語の、広くも行はれしものかな」と現在調に嘆じて、結ばれた。即ち明治三十年早々から明治四十年にかけて、この言葉が、盛んに転動しながら、澎湃とうごめくありようを、文献の陰に、目に見るようである。
 やがてこの言葉は「ハイカる」と云った工合に語尾の活用を起して動詞となって働き出し、江戸弁に「ヘエカラ」と訛っても通用するようになり、「貧乏ハイカラ」「田舎ハイカラ」等の派出語も従えつつ、――僕の考えでは、結局日露戦争末期に、女の飾髪の廂髪、――その高大に突き出した有様をぬからず当時の記憶に生々しかった旅順の戦跡になぞらえて、「二百三高地」と呼ばれた。この二百三高地・廂髪が一口に「ハイカラ」と呼ばれるに至って、一昔前に男ぞろいの、その伊達者達の、卓上一夕の奇語から起った言葉が、思いきや、女人の髪の結いぶりへ転化し、そしてそこに見事な「結晶」を作ったと思う。世相史の上の、面白い特殊な一例だったと思う。
 今日から見れば、「ハイカラ」も既に――女の髪の結いぶりの「ハイカラ」もすべてを籠めて――言葉としてとうに「死語」の一つである。(その実体も死滅したこと、勿論。)今日ではハイ・ネック high neck というより伊達な、そして洋語そのものとしても意味の幅の広い通語は、人が(主として若い女性)使っても、ハイカラ、或いはハイ・カラーは、もはや云わない。ただわれわれ年輩の旧人が、シックなハイ・ネックをも「ハイカラ」と呼んで、笑われることがあるだけである。
 われわれ年輩の旧人は、少年の頃に、
※(歌記号、1-3-28)いやだいやだよ、
 ハイカラさんはいやだ、
 頭の真中にさざえの壺焼
 なんてマがいんでしょ
 という歌を、好んでうたった。
「ハイカラ」は欧化風俗のことであるから、この「欧化」という筋骨を度外視しては考えられず、欧化そのものについて考える段になると、こんどは又、たちまち明治世相史の全体がこれへのしかかって来る。その細末の小さなこと、例えば、洋服のカラーは、そもそもはじめには Collar これを「コラル」と発音して、「首巻」或いは「つけえり」と訳された。こういうことも、到底軽視できなければ、その頃おい、世相あまねき欧化の一つ一つの事項のいずれも看過できないこと、申すまでもなく、福沢諭吉先生は、明治早々にしてすでに国音の「ウ」へいきなり濁点を打って、「ヴ」とよませる、文字通り弘法大師以来の新字をこしらえて、外音の「V」を写すことに成功した。等々。
 一々こういうことがすべて「響き」を持つこととなる。
 ハイカラ風俗のそこから下って来た山の高嶺――欧化の絶頂――が「鹿鳴館」にあることは衆知のところだが、そこに有名な仮装舞踏会のあったのが明治二十年四月で、それから二年経つと、明治二十二年二月十一日を期して憲法が発布された。
 その朝のことだった。雪が降っていたが――この雪はやがて晴れて、道は冷たく、数万の人出に、往来は夜になると至るところコチコチに踏みかためられたという――文部大臣の森有礼がまだ降りやまない雪の中を、参賀に出ようとすると、あっという間に刺客の手にかかって、やられてしまった。
 森は欧化論の急進であったが、かねがねそれから来る言動が刺客を招くことになったので、とうに明治八年の古きに、斬新無類の結婚式をやってのけて、世人の意表に出ている人。それは結婚式と云おうより結婚宣誓式ともいうべきもので、「紀元二千五百三十五年二月六日、即今東京府知事職ニ在ル大久保一翁ノ面前ニ於テ」という誓文の書出しで、別に「証人」として福沢諭吉を立て、当日は自宅の門前に「俗ニ西洋飾リノ門松ト詠フル如ク緑葉ヲ以テ柱ヲ飾リ」、つまりアーチをこしらえて、国旗を立て、提灯を列ね、「……今晩ノいるみねえしよんノ支度ト見エタリ」
 ここに引用している「」の中の文章は、明治八年二月七日の日日新聞の記事であるが、明治八年にして新聞紙上にイルミネーションと綴らせたのも桁外れならば、いわんやそれを「自宅」に点じたに至って、――ハイカラの張本人ここにありと云わなければならない。
 面白いのはこの日の「月下氷人」格の府知事大久保一翁で、この人はかねて大の刀剣通の、その蒐集する刀の蔵い場に頭を悩めたあげく、束にして四斗樽に刀身を何本も差して、そのぎっしり日本刀のささった樽が、又、橡の下に家中一杯だったという人である。「ハイカラ」とは一応対蹠的な、江戸藩の名士である。――その古武士然たる人が、スコッチの猟銃服いかめしく身をかためて、森の結婚宣誓式へ乗り込み、中央に座を構えた。
 その時の模様を新聞は云う、「……此ノ盛式ハ東京知事ノ面前ニテ行フト有ル故ニ、大久保公ハ何処ニ御座ルカト見レドモ我輩ハ其顔ヲ知ラネバ何分ニモ見当ラズ、唯怪シムベキハ此正座ニ髭ガ生エタ猟師ヲ見タルノミ。」いずれも礼服揃いの満座の中にこの髭翁だけが「短カキ胴〆ノ附タル服ヲ着シ」とあって「早ク申サバ日本の股引半天ノ拵ヘユヱ、連座ノ西洋人ハ勿論、日本人モ扨々失礼ヲ知ラヌぢぢい哉ト横目ニテじろりと睨メタリ。」ところがそれが知事様だと隣席のものに教えられて「我輩ガ考ヘニハ此失敬老人ガヨモヤ大久保公デハ有ルマイ。」公はやはり今席にはいないのであろう。もし万一にもこの猟服の髭翁が公なりとすれば、公は公儀お目附大目附の役も勤めた人であるから、これには余程の深い所存あっての服装だろう、――と大いにヒヤかしてある。
 思うに一翁は「洋服」ならば洋風儀式には何でもよかろうというわけで、半ズボンか何かで乗り込んだものだったろうが、一方、この翁・刀剣翁をして、出鱈目であろうと何であろうとも「洋装」させたものが、また時勢であったろう。
 さきに誌したように、横浜から「洋物」は来るとは云っても、いずれもデキの、向うの品ものがそのままこっちへ渡るというだけの、帽子、服の類のことであるから、少し手が短かいとか、足が長いとかいう位の寸法違いは、洋服を着ようともある新人にとって当時あたり前の、辛抱しなければならないことで、渋沢さんは或る時、或る外国使臣の宴会へ行ったそうだが、他のものはそれぞれ招じられて席へつくのに、いつまで経っても自分を案内してくれないという。その時渋沢さんの一着していた洋服が、急いで買いこしらえた、コックや給仕の着る服装だったということである。
 はるばるこの辺の「欧化」からたどりついた明治三十年―四十年の間の、「ハイカラ」モード風俗は、今から見れば相当おかしな「好男子ぶり」とは云っても、兎に角よくもそこまで短期間に進歩したものではあった。
〔昭和二十三年〕





底本:「日本の名随筆 別巻95 明治」作品社
   1999(平成11)年1月25日第1刷発行
底本の親本:「木村荘八全集 第五巻」講談社
   1982(昭和57)年9月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2008年12月12日作成
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