大正東京錦絵

正岡容




「カチューシャ」前後


 木下杢太郎氏が名詩集『食後の唄』の中の「薄荷酒」と云ふ詩の序の一節を、ちよつと読んで見て呉れないか。
「その頃聴いたのは松声会でなくて、哥沢温習会の方であつた。芝とし、芝みねなどと云ふ美声の老女もまだ微かに覚えてゐる。(中略)かかる会には美しい聴衆も多くて、飛白の羽織に小倉の袴を穿つた身の風情を恥かしいと思ふこころもあつた。やや年とつた男の人々のうちには川柳の回覧雑誌のことを話しあうてゐるのもあつた。」(下略)ヽヽは勿論私が施したものであるが、この杢太郎氏の随筆は大正五年一月に執筆されたもので、尚この文章をおしまひまで読んでゆくと、同氏が哥沢温習会へゆき、「川柳の回覧雑誌のことを話しあうてゐる」を見たのは大正元年あたりのことらしい。
 爾来数年、川柳はいよ/\市井文学として一杯に開花し、結実し、「回覧雑誌」は同人雑誌と、やがてある種のものは一般雑誌の一歩手前位まで発展していつたと見ていい。
 いまその大正時代の川柳句集を翻いて見ると、流石にや活動写真の連続物、オペラ・カフエー・バー・労働問題等等、さうした大正ならではの風趣風景が、じつに続々と面白可笑しく擡頭して来る。
 大正期の川柳殊に久良伎翁、剣花坊翁の作品は、大正期に入つて最頂点を劃してゐると云つてよく、就中伎翁には本格の時代味感溢るる佳吟が少くない。
桃山の方へ人魂二つ飛び
久良伎
 云ふ迄もなく大正改元、御大葬当夜、乃木将軍夫妻の殉死である。翁が、将軍夫妻殉死の報を耳にされるや、直ちに「人魂二つ」を聯想されたところに、いかにも江戸つ子詩人ならではの詩情がある。「人魂」と云ふもの、江戸浮世絵や草双紙の挿絵への教養深からざる限り、決して親近を感じるものではないからである。
カチューシャの合唱神楽坂を行く
久良伎
人形の家で 媒人 度々弱り
 佐藤義亮氏の『新潮社四十年』を読むと、島村抱月が松井須磨子と芸術座を創立して、帝劇に初公演したのは大正三年だとある。そのときの費用千円は佐藤氏から提供され、戯曲「復活」は新潮社から出版された。
「帝劇の「復活」は破れるやうな喝采であつた。抱月氏も嬉しかつたらうが、私としてもこの上ない喜びであつた。やがて「芸術座」は「復活」を持つて上野の万国博覧会にも出演したり浅草で特別興行したりして、須磨子の歌つた「カチューシャの唄」カチューシャ可愛や別れのつらさ――は、一世を風靡して、我が国流行歌史上に一大エポックを劃するに至つた」
と佐藤氏は手記されてゐる。
 イプセンの「人形の家」のノラが、我が国の舞台に華やかな脚光を浴びて登場したのも、此に前後してだつたとおもふ。(いま手許に適当の新劇史がないので適確の年代が云へないが)さうして新しくノラによつて目醒めさせられた日本の若い夫人たちが、幾百人か幾千人かその「人形の家」を振り棄てようとした。
浮世絵と「三田文学」で通を振り
久良伎
 永井荷風先生が「三田文学」を創立されたのは『現代日本文学全集――永井荷風集』年譜によると、明治四十三年四月であり、この句の生れた大正四年には先生は往昔の清元社中の秘恋を材とした戯曲「三柏樹頭夜嵐みつがしわこずゑのよあらし」を同誌上に発表してゐられる。その前年一月の「三田文学」には吉井勇先生の、弥太つ平馬楽を描いた「狂芸人」が発表されてゐる。新都会趣味の、新耽美派の文学満天下に謳歌されてゐた佳き時代である。
 以而、句意が分らう。
軽井沢馬へ乗つたは江木夫人
久良伎
マダムカハカミの頬から秋が立ち
 共に、明治大正麗人伝中の登場者である。江木衷博士夫人欣々女史は老後、大本教に帰依して自殺し、晩年はなはだ不幸であつたが、新派劇の総帥川上音二郎夫人貞奴は戦中も尚中熱海面に安穏に晩年を養つてゐたはずである。私は十六七歳の新年であつたから大正八、九年ころとおもふ、伎翁に連れられてそのころ神田淡路町にあつた旗本屋敷のやうな古風な黒塀を巡らした江木邸へ年始にゆき、冷酒冷肉などを饗応されて何か寄席仕込の落語を一席喋つた記憶がある。今日、寄席芸人の小説を専らに書いてゐる私はそのころから狂熱的な落語好きで、小学校の同窓会には必らずや三代目小さんの「花色木綿」、故人小勝の「廿四孝」「米屋の切腹」、故人小せんの「ハイカラ」「白銅」などをうかがつてゐた。
 さてそのとき私は江木邸で何を一席演つたかおぼえてゐないが、ただ明治風の紫被布を着た欣々夫人の白粉の濃い笑顔はハツキリと眼底にのこつてゐる。私のやうな少年の目には可成かなりのお婆さん(大へん美し過ぎるお婆さんではあつたが)に見えたけれど、やつと四十位だつたのではなからうか。或はもつと若かつたのかもしれない。マダムカハカミ――貞奴については、伊藤痴遊の「痴遊随筆(それからそれ)」の「書生芝居の回顧」に、

「川上が、世間の人気を繋ぐ事に腐心したのは実に容易ならぬものがあつて、他人の真似得ざる事まで行つて退けた。妻の貞奴と、短艇ボート航海を敢行した一条の如きは、何の必要があつて、そんな馬鹿らしい事をやつたのか、殆んど其理由は発見し得ぬが、これも人気引留めの一策として視れば(中略)

とあり、本郷座あたり彼女は花道の出に本物の馬に打ち乗つて颯爽と舞台へ突進したこともあつたと聞いてゐる。以而、ありし日の溌溂たる活躍振りが想像できよう。
居酒屋も一刷毛ぬつてバアになり
久良伎
 此は、現今の三遊亭金馬君が「居酒屋ずっこけ」のまくらに振り、俄然、人口に膾炙した。
 同じ時代空気を漂はせたものには、
花電車菊のないのは安く見え
久良伎
花の日の菊に弐銭も出し憎い
 花の日のの句は大正六年の作品。大正年間の祝慶日には宴会などで幹事が胸へ差すやうな造花の菊花を、よく上流婦人が街上で売り、その売上金を以て貧困者を救ふの資とした。一個二銭何程なりとも思召に応ずると云ふのであるが、そこでこの句が生れたのである。さう云へばあの掌の上に手触り重たい二銭銅貨を見なくなつて、もう何年になるだらう。
暴動が今に来るよと眼つぱりこ
久良伎
暴動に石塊と云ふ天の武器
勘定を踏む気暴徒が来ればよい
なるものぢやないと糠をばはたいてる
 大正七年夏の米騒動に付いては、永井荷風先生の随筆「花火」に詳しい。

「大正七年八月半、節は立秋を過ぎて四五日たつた。年中炎暑の最も烈しい時である。井上唖々君と其頃発行してゐた雑誌花月の編輯を終り同君の帰りを送りながら神楽坂まで涼みに出た。(中略)再び表通りへ出てビーヤホールに休むと書生風の男が銀座の商店や新橋辺の芸者家の打壊された話をしてゐた。わたしは始めて米価騰貴の騒動を知つたのである。然し次の日新聞の記事は差止めになつた。後になつて話を聞くと騒動はいつも夕方涼しくなつてから始まる。其の頃は毎夜月がよかつた。わたしは暴徒が夕方涼しくなつて月が出てから富豪の家を脅かすと聞いた時何となく其処に或余裕があるやうな気がしてならなかつた。騒動は五六日つづいて平定した」(下略)

 第一句の「眼ッぱりこ」と云ふ江戸弁、今に分らなくなるだらう。否、已に今日も分らなくなりかけてゐるかもしれない。甲乙丙丁、異口同眼に、目と目で肯き合ふの意味。そこに多少語調的にも内容的にも諧謔の意を含んでゐる。しかもこの場合も亦かうした洒脱な江戸弁を下五に据えて、はじめてこの騒擾の巷を描いた句はいのちを得てゐる。
宝塚百人一首から生れ
久良伎
 そのころの宝塚少女歌劇は「雲井浪子」「篠原浅茅」「高浜喜久子」「秋田露子」「笹原いな子」「高砂松子」「高峰妙子」「有明月子」「天津乙女」と云つた風に、ことごとく芸名が百人一首によつて命名けられてゐた。大正三年四月創始と聞くが、そのころ「新演芸」「新家庭」を発行してゐた玄文社の結城礼一郎氏らが肝煎で、始めて帝劇へ上京来演し、満都の人気を煽つたのは同七年初夏とおぼえてゐる。いつぞやも古川緑波君の結婚式席上、当日の媒灼人たる小林一三大人は来客を待つ間の東京会館休憩室で緑波君を省みて私のことを「この人は文学少年時代なか/\宝塚うちのフアンでね」と破顔一笑されたが全く私の遠い少年の日の夢には宝塚歌劇場の白堊の建物と、土耳古風呂の湯沸りと、武庫河のせゝらぎはのこつて消えない。あのころのことをおもふと、私は佐藤春夫の『殉情詩集』に諷はれてゐる「若人のごとく」青春的なものをおぼえずにはゐられない。
 久良伎翁そのころの川柳随筆の宝塚を叙された中にも、中学生としての私の姿が面羞く描かれてあつたとおもふ。
喜歌劇に取つて付けたる笑ひやう
久良伎
民衆化して歌劇部は飯に付き
ソプラノへ娘はそつと付けて見る
 帝劇歌劇部解散、赤坂ローヤル館公演、ローシー帰国、かうしたオペラの歴史が、どれほどの「時間」を隔てて行はれたものか、私はしらない。
 が、やがて彼らは浅草日本館へ、金龍館へ、駒形劇場へ、そこに馥郁とオペラの花々はひらいた。
 清水金太郎、田谷力三、高田雅夫、沢田柳吉、伊庭孝、杉寛、戸山英二郎(藤原義江)、黒田達人(黒田謙)、木村時子、原信子、神山仙子、岩間百合子、沢モリノ、安藤文子、一条久子、相良愛子、堺千代子、河合澄子――さうした男女優たちが、華やかにその人気を諷はれだした。今日それらの男優の大半は世を去り、女優の大半はいいおばあさんになつてしまつた。「恋はやさしい野辺の花よ」の「ボッカチオ」や「岩にもたれた物凄い人は」の「ディアボロ」を高唱しつつカーボーイの帽子を冠つて、セントラルカフエーにブラジル系の珈琲を飲んで拠りどころなき情熱を燃やした私たちそのかみの「ペラゴロ」(さう呼ばれてゐた)もこんな昔噺をかけるやうになつてしまつた。
 おもへば三十年の昔。私は未だそのときやつと十五歳だつた。
 それにしてもこの第一句、「とつて付けたる笑ひやう」がいかにも巧緻だ。※(歌記号、1-3-28)アッハハッハアッハハッハこりや可笑し」と云ふオペレット特有のあのコーラスを揶揄したものなのである。そのころ――原信子をスケッチしたのに、
立唄の頬のこけたが玉に疵
久良伎

プロテアは鴉猫から思ひ付き
久良伎
遠くなり近くトリツク腕を見せ
大写し睫毛は筆で描いたやう
活動は戸締りのない家に住み
ダグラスは軽業までの芸も見せ
ダグラスの乗地は柵を飛び越える
岡惚れもピックフォードは罪がなし
 さうして活動写真の白熱化して来たそもそもの時代だつた。「名金」「マスターキー」「拳骨」「ハートの3」「護る影」等、等、連続探偵大活劇が競映され、例の「天国と地獄」の音楽が、必らず追駈のとき演奏された。探偵映画の主役たる美男美女ではフランシスフォード、グレースキューナードの名を一ばん華やかに記憶してゐる。必らずやこの二人が戦慄す可き大犯罪の渦心として、汎ゆる運命の手に奔弄され、グレースキューナード嬢のごとき、屡々悪漢のためがんぢがらめに縛められ危機一髪と云ふところへ、苦味走つた長身の青年フランシスフォード君颯爽と現れては愛人たるキューナード嬢を救ひだし、私たちから万雷の拍手を浴びせられたからである。第四句「戸締りのない家に」云々は、かくも驚天動地の大犯罪映画許り逐次上映されたるがための江戸つ子らしい揶揄である。「プロテア」の上映も恐らく同じころだつたらう、黒い海水着のやうなものを着た明眸の女探偵(だつたらう)が、屋根から屋根を這ひ廻つた。即ち「鴉猫」云々とある所以。第二句「遠くなり近く」は今日の移動撮影の謂だらう。ダグラス、ピックフォード物の上映は、ややそれから遅れてのことだつたとおもふ。ピックフォードへ岡惚れの青少年は、そのころ日本全国に充満してゐたことだらう。彼らは活動雑誌(映画とは未だ云はなかつた、映画の二字は本山荻舟の命名だと聞く)でピックフォードの住所を査べては怪し気な英文でラヴレターを書送り誰のサインやら分つたもんぢやないスティールをおくつてもらつては家宝とした。第六句ダグラスの「乗地のりぢ」とは江戸弁で「クラヰマックス」の意味。ほんたうに彼ダグラスはあらはれいづるや直ちに大いなる竹を二、三どしごき、エイヤッと許りそれへ乗つて傍への洋館の三階の窓あたり、なんの苦もなく飛び移つていつてしまつた。ほんたうにあの離れ技は、余りにも技巧のあとがかんじられなくて溜飲三斗だつた。うちの女房など、女学生時代、ダグラスの「ドンQ」のとき、ラムネや餡パンをたべては昼飯晩飯の代りにして終日活動小屋へ入つたまま繰返し/\同一映画を見物したと云ふ。
 いかにそのころダグラスフェアバンクスが全日本に持て囃されたか、以而分らう。
恋人と緑の朝の土になり
久良伎
 松井須磨子の自殺が大正八年一月五日であり、「抱月・須磨子、芸術比翼塚」が須磨子の菩提所である牛込多聞院へ伎翁の計らひで建てられたのが同年四月三日であると聞く。そのとき久良伎翁夫人は「恋に活き芸術に活き石に活き素梅女」の一句を献じられた。翁の比翼塚建設の真情は『川柳久良伎閑談』の芸術比翼塚に於る祭文に尽きてゐるから適宜抜萃して見よう。

「悲しい哉現代はの勢力ある時代にして、の甚感化力に乏しき時代なり。「如何にして食ふ可き乎」「如何にして自己の虚栄心を満足すべき乎」の時代に当り、人情爰に亡び、趣味の道蕩焉として日に其光を失ふ。此故に善に執する者は二氏の行動を追及して社会の風紀を紊乱する者なりと云ふ。美に囚はるる者は芸術の力の偉大なる事を説き、善の社会組織を顧みず、二者共に誤れりと云ふべし、今此芸術比翼塚は一片架空の供養塔に過ぎず、実と見れば仮なり、仮と見れば実なる趣味の片影に異ならざれ共、中に万斛の涙あり、人情の暖き血を盛りたる活物也」

 要は家庭を破壊した「抱月須磨子は共葬の望」は果せぬとしても、「社会の規定」は「父の厳粛」であり「趣味文芸宗教」は「母の慈愛」であらねばならぬ。「かるが故に情海の事は情を以て解決し」度いと云ふのが、翁が建立の動機だつたのである。「緑の朝」はその前年秋、抱月死後須磨子が明治座に於て上演したダヌンツィオの戯曲だつた。
 同じく須磨子当り狂言の「生ける屍」の主題歌を詠んだものに、
さすらひの唄にネンネの節があり
久良伎
さすらひと追分一つ畠なり
 ※(歌記号、1-3-28)ゆこか戻ろかオーロラの下に」の哀調には、いかさま子守唄のまた、追分節の儚いメロデイがかんじられる。
いちやつくを大村兵部睨め付け
久良伎
忙中閑あり魚河岸の道具店
魚河岸を出ると電車も珍しい
 すべて是れ大正年代の東京。第一句は九段大村益次郎の銅像下に於る歓会風景である。この句の中からあの辺りの青葉若葉濃やかに匂ふ闇の夜に聳り立つ巨像の姿を、目に描き得た人たちは幸福とおもふ。第二句第三句は、未だ日本橋にあつたころの魚河岸である。服部伸演ずる一心太助の喧嘩場に見られるやうな大鮪引摺つて歩く久利加羅紋々の兄イたちも歩いてゐたらう。さうして丸花の料理には未だ/\なか/\に生一本の風味がのこつてゐたらう、少くとも魚河岸を出ると電車の行くのが珍しかつたほど、河岸の中は広重ゑがく河岸の景色をそのままのこしてゐたのだ。もっともそれは蒲原有明の「朝なり」と云ふ詩を見ても肯かれるが。芥川龍之介氏の「魚河岸」と云ふごく短い小説にはあの日本橋時代の魚河岸の景色に「腥い月明りの吹かれる通りを」と鋭い描写の冴えを示してゐるが、ここでも作者自ら「現代の日本橋は、到底鏡花の小説のやうに、動きつこはないとも思つてゐた」のが、俄然、最終末に至つて「鏡花の小説は死んではゐない。少くとも東京の魚河岸には、未だにあの通りの事件も起るのである」と嘆ぜしめたほど、未だ何と云つてもあの時代の日本橋には江戸伝統の「生活」ありし日本橋が呼吸いきづいてゐたのだ。この日本橋が非衛生だとて現今の築地へ移転されたとき、故人小勝は左のやうな警句を吐いてニヤニヤ笑つたつけ。
「日本橋の人の衛生に悪くて、築地の人の衛生にやいいンでがせうか。ちよいと皮肉に訊いて見度い」云々。
阿久沢は貧乏鬮の元祖也
久良伎
 たしか阿久沢邸は九段一口坂辺りにあつた。当主が一代で財をなしたは、嘗て異人館のコックをしてゐてそこの主人を殺害し、獲たものであるとか、何とかそのころいろ/\の悪評がかまびすしく立つた。阿久沢が悪沢と聞えたほど、およそ東京中で不徳の名の高い邸宅だつた。未だ子供の私の耳にさへさう印象づけられてゐたのである以上、大正東京文化史の上には逸していけない大悪伝的存在のやう考へられる。尚、永井先生が御旧作「地獄の花」の黒淵は、青春をこの界隈に起居されたる先生の、この阿久沢にヒントをば得られたものではなからうか。
サボタージュどうでも江戸のものでなし
久良伎
 又しても永井先生の「花火」を引く。

「日比谷の公園外を通る時一隊の職工が浅葱の仕事着をつけ組合の旗を先に立てて隊伍整然と練り歩くのを見た。その日は欧洲休戦記念の祝日であつたのだ。病来久しく世間を見なかつたわたしは、此の日突然東京の街頭に曾て仏蘭西で見馴れたやうな浅葱の労働服をつけた職工の行列を目にして世の中はかくまで変つたのかと云ふやうな気がした。目のさめたやうな気がした。(中略)洋装した職工の団体の静に練り歩く姿には動かしがたい時代の力と生活の悲哀が現れてゐたやうに思はれた」

「改造」と云ひ、「解放」と云ひ労働問題をさま/″\に論評する大雑誌の次々と創刊されたもこの前後であつたらう。労資一丸となつて「生」を愉しむ江戸民族の主張を現世に実践されむと多年泣血砕心してゐられる久良伎翁にサボタージュ呪咀のこの句が生れたは当然だらう。この「江戸でなし」を単なる四畳半趣味半可通趣味から罵つてゐるものとのみ解する人々よ、堕ちて地獄の薪となれ。
綾部からかへると髪が長くなり
久良伎
丹波では頼光以後の騒ぎなり
 第一次大本教が流行氾濫を極め、小山内薫氏までが帰依して世論いよ/\沸騰したは、大正十年ころではなかつたらうか。丹波綾部大本教本部へ参じた人たちは、多く雲右衛門系の浪花節のごとく長髪となるもの多かつた。即ちこの句ある所以である。
未来派は安鏡から思ひ付き
久良伎
 赤、青、自、紫、茶、黒、金、銀、藍、鶯、その他いろ/\さま/″\の色で描かれた輪、輪、輪、輪、輪の一大乱舞、或は直線が、或は曲線が、円形が、楕円形が、長方形が、三角形が、物狂ほしく入り乱れ、飛びちがつてゐる会体のしれない構図の油絵が、そのころ二科会に数多出品されて私たちの目を驚かせた、是れ即ち未来派である。構成派の出現は震災後、超現実派の出現はさらにそれ以後の昭和へ入つてからではないかとおもふ。未来派渡来期、夭折した天才漫画家小川治平は、雑誌「女の世界」の表紙に、世にも痛快なる未来派諷刺の構図をなして私たちをして喝采せしめた。それにも劣らぬ、いやそれ以上の諷刺こそこの句とおもふ。「安鏡から」とはなんと痛快ではないか。
エルマンの手は木蓮が風にゆれ
久良伎
 シウマンハインク 二句
世界的呂昇三十有余貫
伴奏は小結といふ姿なり
ロシヤバレー汝元来角兵衛獅子
 そのころミッシャエルマンが、最初に来朝公演した。やがてシウマンハインクが来た。ロシヤンバレーの初渡来もこのごろであつたらしい。いづれも帝劇あたり十円廿円と云ふそのころとしては莫大の入場料で公開されたものである。伎翁はその都度それらを見学しては大正川柳史の上へ、海外の第一流芸能人の姿を一つ一つ刻み遺された。努力尊しとせずばなるまい。
牡丹に唐獅子篠懸すずかけに巡査也
久良伎
 はじめて街路樹に篠懸すずかけ(プラタナス)が採り上げられたころ。宛かも新潮社版の翻訳小説に接したときのやう、そこに私たちは近代都市の「呼吸いぶき」を感じた。
花月園へ行かうと親治酔つてゐる
久良伎
ブラックを一つと息子通になり
外国の物置らしい文化村
 谷崎潤一郎氏の「東京をおもふ」には、

「私の記憶に誤まりがなければ、鶴見の花月園に横浜の外人を当て込んだダンスホールが許されたのは、たしかに大正十一年頃で、彼処へはぽつぽつ西洋婦人に見紛ふやうな服装をした日本の女が来るやうになつたが、それも大概は横浜に住んで西洋人と附き合つてゐる人々であつた」

 第一句はこの時代の風俗であり、第二句もやはりそのころそろ/\流行の中心となつて来た喫茶店である。ブラック珈琲の美味さなど私たちが知りそめたのは、中戸川吉二氏の「アップルパイワン」に登場するかのカフエパゥリスタのブラジル珈琲時代が一とわたりすんだ此も震災前年ころであらうとおもふ。目白文化村の建設もそのころ彼是であつたかもしれない。鹿鳴館時代にもいや増してこの時代の日本は急速に西洋文化を移入せんと大童になつてゐたのだつた、以来つひこの事変ちかくまで。
 又しても小勝を引合にだすが只管達者な雑文家だつた彼のまくらの毒舌中には可成天晴れなものがあり、就中、文化村の警句などは今にしてなか/\愉快なことを云つてゐたとおもふ。即ち曰く、

「目白から先へ行くと文化村とか云つて、南京鼠の入りさうな家がある。かう云ふ家はみんな庇がないから雨宿りができない。不人情な家をこしらへたもんだ」

 襟足の白きは昔
足許へ懐へ付く世となりにけり
久良伎
無益委記むだいきの断髪とまで気が付かず
「襟足の白きは昔」の前書がうれしいではないか。ほんたうに近代女性の脚線美が云々されだしたのはこの時代からだらう。
 断髪の風習も亦このころ、大橋房氏(現ささきふさ女史)によつて将来された。
 無益委記は恋川春町が黄表紙「楠無益委記くすのきむだいき」で、凡そそのころの流行風習と正反対のことばかし列挙して今にかう云ふ時代が来ると洒落のめしたユーモア未来記なのであるが、その未来を語ること嶄新奇抜な「楠無益委記」にして尚且、婦女子の断髪とまでは気が付かなかつたらうと云ふ詠嘆。
 さう云へば断髪流行のころ、木村荘八画伯もその風俗を評した何かの随筆に、「この次は坊主か」と揶揄してゐられたをおもひだす。
安来節鰌とうとう天上し
久良伎
安来節兄ィすつかり悦に入り
 アラエッササの安来節は、近時また浅草木馬館楼上に再興され、なか/\の人気を煽つてゐるが、震災直前は凡そその白熱化したときだつた。さてこの安来節と云ひ、博多節と云ひ、次いで鴨緑江節、ストトン節、白頭山節と云ひ、暫しこのころの花柳界は、地方民謡を以て圧倒された。即ち翁の憤慨は左の一句となつてほとばしつたのである。
出雲から博多米山酒が冷え
久良伎
 さらにそのころ僅にのこつてゐた旧江戸風景の、日に/\心無しに破壊されて行くものに対しては、それ心からなる慨嘆を寄せられた。
 殊に、終句の江戸の昔は瓦焼く煙りに風情一ときはなりし橋場辺りへは、翁の痛嘆がかかる諧謔の様式を探つて哀しく可笑しく表現されてゐる。
 冬木弁天
水溜りらしく深川江戸があり
久良伎
 隅田川架橋問題
橋杭にされぬ鳥居が見付もの
 水神
蓮池の哀れ工場に囲まれる
駒形も堀も肥田子桶になり
橋一つあつて千住は江戸の儘
朝煙りそれは今戸の瓦斯会社
 剣花坊翁へ移らう。
咳一つ聞えぬ中を天皇旗
剣花坊
 大正天皇御大典
将門に指もさゝせぬ紫宸殿
南洋に面して据える高御座
 第一の句は殊に名高い。高番たかばんとは川柳の中での王宮や神秘の世界を主題としたものの謂であるが、剣花坊高番句中の優なるものと云つてよからう。
老獣のやうに汐留駅眠る
剣花坊
 ※(歌記号、1-3-28)汽笛一声新橋を」のその新橋駅は、今日の新橋駅の筋向ふで、いま汐留駅と名乗つてゐる。明治五年創設された大正初年の東京駅(中央ステーション)開始と共に貨物専門の駅と振り替へられてしまつた。嘗て文明開化の象徴だつたこの新橋ステーションの汐留駅は、今やまことに「老獣のやう」な眠りをつづけてゐることだらう。東京駅工事真ツ最中。益田太郎冠者作詞し、佐々紅華(だつたらうとおもふ)作曲し、日本橋の朝居丸子(此はのちの市丸勝太郎――殊に市丸の先駆をなす、しかも比較にならないほど江戸前の、美貌多才の名妓だつた!)うたふところの「サアサことだよ」と云ふ諷刺小唄をおもひだしたから、書き付けて置かう。そのころ富士山印東京レコードへ吹込まれ、ちよつと愉い曲調だつたが、いまは人余り知らないだらう。
 ※(歌記号、1-3-28)サアサ事だよことだよ、東京のまん中に立派な停車場が、何百何十万円もかかつてできた、入口出口は電車に遠い。荷物を背負つてエッサッサ/\ ヤッコラサと着いたら汽車がでた……
字の読める芸者と云ふが少女界
剣花坊
さくら鍋向ひの寄席は浪花節
チンタオで儲けたらしく油ぎり
何女史を訪へば大きな腹で逢ひ
 みな大正初年の市井雰囲気である。
「少女界」と云ふ雑誌、そのころ多くに読まれてゐたものとおもはれる。どうも私の記憶にはない。馬肉屋の向ふにかかつてゐる浪花節の寄席では未だ浪曲師が椅子にテーブルと云ふ演出でなく、釈台を前にお尻をクルリと捲つて坐り、曲師しゃみせんひきの姐さんと並んで、※(歌記号、1-3-28)御入来ごにゅうらいなる皆さまへ……」しがない哀調を張上げてゐたらう。でもほんたうの関東節のいのちは、あのころの方のに多分にあつたこと、拙著『雲右衛門以後』に屡々説いた。チンタオは青島。第一次欧洲戦争に於る青島陥落ときの私は未だ小学校二、三年だつた。偶偶秋の運動会の日で(十月七日とおぼえてゐるが)旧彰義隊士だつた校長先生が会果ててのち、手拭を二つ折りにした慰問袋を壇上から我々に示され、かうした慰問袋をあなた方に作らせようとおもつたが、もはやその必要がない、いま青島陥落の号外が入つたからだと云はれ、暮色蒼然たる中に一同万歳を高唱したことをおぼえてゐる。おしまひの句は後述する近藤飴ン坊の青鞜派を材とした句境と似てゐる。それにしても「何々女史」と云ふ言葉も、大正初年に漸く一般語となつたものだらう。
気分劇東儀季治に魅かされる
剣花坊
遠くから娘に見える歌右衛門
 東儀季治は、新劇壇の闘将鉄笛。このころ気分劇と云ふもの、はじめて日本の舞台へ移し植えられたのである。芝翫から歌右衛門になつた許りのありし日の成駒屋が、未だ/\身体が自由に動け、かう云はれながらもうそにも娘役の勤まつてゐた時代。みんな遠い/\過去のゆめとはなつてしまつた。
殺される晩 縁日で菊を買ひ
剣花坊
 おこの殺しや池田亀太郎事件や相馬事件の血腥い明治風景、「生首正太郎」や「閻魔の彦」や「山田実玄」や徒らに血糊沢山の書生芝居、さうしたものをへんに実感的におもはせて心魅かれる作品である。嘗て故人は、この句を有名だつた芝二本榎五人殺しを材としたものと語つてゐられたが、その五人殺しは『明治編年史』によると明治四十二年十一月の出来事である。翁はそのころ同じ二本榎に住んでゐられたので、大正年代に入つてから回想され、此を詠まれたものらしい。私はこの事件のあつたとき未だ漸く六歳だつたのであるが、のちの三菱ヶ原のお艶殺し、大正初年の小石川七人殺し、柳島四人殺し、鈴ヶ森お春殺し等と共にいまもハツキリ当時の戦慄を身内に喚び起すことができるから、余程、満都を震撼させたものと見える。『編年史』は左のごとく報道してゐる。十一月廿三日の「東京朝日新聞」であるが、
「芝区二本榎町一ノ七八郵船会社上川丸船長工藤嘉三郎方の留守宅に於て、昨暁三時頃同人の妻を始めとして二男一女と外に下女を合はせて一家五人、何者にか惨殺されたる惨事あり」云々。
 此はさん/″\に迷宮入りののち大正年代に入りて真犯人逮捕された。たしか単なる物盗りであつたと記憶してゐる。尚同紙によると被害者たる妻女たかは当時三十三。即ち殺されるとしらず縁日で菊の鉢植を求めたはこの薄倖の妻女であつた。
孝行もしたが不孝ももつとした
剣花坊
阿母といふ言葉が要らなくなり
母のきんちやくから黒い銀貨が出た
 剣花坊翁は大正七年、その母堂の死に際会してゐる。そのときの詠である。嘗て翁は「久良伎君は川柳のを主張し自分は川柳のを唱へる」と云はれたさうであるが、まことにかうした真そのものの主観句には何がなし大きく胸打つ作品が少くない。そののちの作品たる、
われ昔母と貧しく四畳半
剣花坊
 母追憶
叱つても泣いても呉れぬ石になり
にしても亦然りである。近ごろの俳句擬ひの、文学青年訛しの、小主観的川柳と比べみるとき、流石にこの人のは人間全体心全体身体全体でぶつかつてつくつてゐる。そこに大いなる差違があるとおもふ。
 昭和九年九月十三日、翁は鎌倉建長寺内で逝去されたが、そのとき読まれた久良伎翁の弔詞の一節には、

君無産者の為に大いに気を吐き、余は貧富協調川柳を説く」

とあるが、まことに「真」の川柳を強調された結果、翁の川柳は社会悪を呪咀するものに多く愛誦す可き作品が見出される。
山に居る時代は来ない檻の虎
剣花坊
死ぬ人で儲けて桶屋ウヌも死に
大馬鹿と大人物と同じ顔
慈善家に雀の餌など救けられ
窮鳥を入れず大きな門をしめ
猿曳が死んでも猿は殉死せず
殺さずに置けば百まで安田生き
無理やりに安田閻魔へ渡される
殺す程殺される程欲しい金
どのつらも下げす息子のつらで来る
我子へは一つもやらぬ風船屋
此世をば我世とぞ思ふ大だわけ
いにしへの奈良の都の破戒会
人格はいいが賄賂は取りました
狂犬に病院も無くうちころし
毒へびも死に黒ねこも死んでゐる
自働車を咀へど追へど自働車は
自働車を見てだん/\に赤化する
泥よけと名づけてひとに泥をかけ
 どの句にも何か止み難い強者への反抗がある、弱者への涙がある、偽善の炬火へぶツつける力一杯の怒号である、雄叫びである。長州人であり、川柳真の主唱者たる翁は、決して久良伎翁や古川柳に於るがごとき江戸前さも、美を阻害するものにたいしてのみふりそそがれる江戸つ子の啖呵もないけれども、それ丈けにこの荒削りな憤りの声は津々浦々の誰にでもよく合点され、迎へられたことであつたと云へる。此を要するに翁の川柳は、「柳樽」と云ふ江戸正調の郷土文学からは百里も二百里も隔つた地点で、フツ/\と燃え、沸つてゐたのだ。そこにこの作家の強味と弱味とがあつたのだとも亦ハッキリ云へよう。大正末年の新興東京風景を写したものには、
住宅がによき/\生える高円寺
剣花坊
富士山の見えるまともに又も建ち
があり、かの大震災直後には、
火の燃える表紙が目立つ雑誌店
剣花坊
焼跡の銀座通ればゆであづき
東京の火宅を出でて田端道
従容としてからかみを背負つてゐる
玄米のむすび思へば豚雑煮
がある。

李彩・伯山・綾之助


 次いでカフエーの句から抜く。
そんな噂もある地下室のバー
峰月
いろは癈つて流行はやるカフエー
プランタン又始まつた須磨子論
也奈貴
天墨絨びろうど[#「天墨絨の」はママ]服をエプロン間夫に持ち
よか楼で飲んだぞと云ふ村二才むらにさい
古蝶
前祝ひバーでするのは多寡が知れ
卯木
その中でさそくの女給マツチをすり
外套を着せる女給に腕を出し
迷亭
鉛筆を女給胸から貸して呉れ
小阿弥
ウエトレス両手へ握手して笑ひ
迷作
 増田龍雨翁に「バー・サル地下室」と前書して「なにがしの伯爵おはす灯取虫」の俳句があるが、もちろんそれは大正末のこと、大正四年代にもう地下室のバーはできてゐたとみえる。第二句のいろははそのころ東京全市を席捲した牛肉店で、鼻の円遊晩年の速記を見ると、今にいろは四十八組もでき、東京中がいろはで取捲かれはしないかなどとある。以てその繁昌振りが分るだらう。浅草橋公園の向ふにあつたいろはは木村荘八画伯の生家であるが大正震災まで存続し、私の廿の日上梓した拙劣至極の長編小説「影絵は踊る」の一節には、

「広小路まで出ると、暗い色硝子のはまつた角の牛肉屋が取残された昔の物のやうに悲しくそこに建つてゐた」

とある。即ち、それがありし日のいろはである。広小路は云ふ迄もなからうが両国の広小路。プランタンについては、

「銀座裏日吉町の傍、日勝亭と云ふ撞球屋の隣りにカフエ・プランタンが出来たのは、たしか明治四十三四年頃のことだつたと思ふが、その時分この銀座界隈には、まだカフエと云ふものが一軒もなくそれらしいものとしては、台湾喫茶店とパウリスタとがあるだけだつた。主人が洋画家の松山省三君だつたし、プランタンと云ふ命名者が小山内薫氏だつたので、客は多く文士、画家、俳優その他新聞雑誌関係の人か、或ひはさう云つた方面に趣味を持つた人達ばかりで(下略)

とある吉井勇先生の近著『相聞居随筆』の「わが回想録」によつて分らう。須磨子論はもちろん、松井須磨子のこと。「天墨絨の服」も秋田雨雀氏など率先して着てゐられたらうそのころの青春的な芸術家の象徴で、エプロンの女給たちにはいか許りか憧憬の的であつたらう。この句の場合は新世紀的存在の二人へ配するに「間夫」と云ふ江戸語を以てしたところに手際が見られる。よか楼は浅草雷門のいまのカフエみやま(?)の辺りにあつた西洋料理店だが宇野浩二氏の「文学的散歩」に、

「大正初年の何年かのあひだ、殆ど毎日の新聞に、「よか楼」といふ小さな広告を出し、その広告の下に、その広告ぐらゐの大きさの女給仕の写真が出てゐた。(中略)毎日の新聞に出る女給仕は一人づつ変つてゐた。(中略)よか楼万龍といふ仇名を附けられてゐる女給仕が殊に有名であつた。しかし、北原白秋や高村光太郎に詩にまで歌はれたのは梅といふ女給仕であつた。」

とあり、さらにそこにゐた園と云ふ女給については、「死んだ老名優、沢村源之助の妻になつた」と記されてゐる。華やかさ宛かも昭和初頭の銀座タイガーの如きであつたことが分らう。但宇野氏も書いてゐるが「家も、二階屋であつたけれど、小さな家であつたから、女給仕もせいぜい五六人しかゐなかつた」。「マツチをする女給」以下はよほど大正も末年ちかく、もはやウエトレスと云ふ言葉さへ、日本語化されて来てゐるのである。即ちあなた方は句々の中にあらはれた女給の姿に、余程立居振舞いたに付き過ぎたものあるを見てとられるだらう。
 大正の映画、オペラについては久良伎翁の川柳に於て可成語つたが、さらにここに補遺して見よう。
町内に福宝館がある誇り
蔦雄
忍術をつかひ大勝館でまき
十九樽
愁嘆場弁士美文もちつとまぜ
雀郎
男優は眼玉女優は瞳なり
停電のつなぎに弁士洒落を云ふ
夜刃郎
大晦日テケツ島田に結つてゐる
鉄次郎
 福宝館は浅草にこそなかつたが、宛かも牛肉屋のいろはのごとく、第一、第二と市内各所に点存してゐた。さうしてそれは各町内へどんなに安手な近代の曙光を投げかけたことだつたらう。大勝館の忍術映画は帝キネの沢村四郎五郎市川莚十郎主演で、花井秀雄が前説明に名弁舌を揮つてゐた。他の多くは尾上松之助、目玉の松ちやんが、印を結んでどろん/\と白煙の中へ消えてゐた。「男優は眼玉」とある所以である。この松之助の人気と云ふものがまた――ま、それは何か他の機会に語らう。「愁嘆場」で「美文」をまぜる弁士(映画解説者)の口吻は、全トーキーの今日では偲ぶよすがもなくなつてゐるが、そのころの弁士の存在たるや、下町にも山の手にも、云ひ換へると庶民階級にもインテリ階級にも、若い男女にとつて凡そかがやかしくハイカラな存在だつた。映画説明での美文中の美文と云はれる林天風の「南方の判事」の結びの文句は、古川緑波君の『映画説明今昔譚」に仔細に記録されてゐる。

「灰になれ、灰になれとドース少年は手紙を焼いた。かうした時に、恋こそ真なれと相擁する二人に、しづ心なく花は散る。おぼろ/\の宵闇に、千村万落春たけて、紫紺の空には星の乱れ、緑の地には花吹雪、春や春、春南方のローマンス」

云々と歌ふのである。此を朗々と誦ぶとき、いかに多くの若人たち眸を耀かし、頬を熱し、胸をときめかせたか、ちよつとこの感激、今日ではそこらに見出すことができない。おしまひのテケツの句は、活動館の切符売場の歳晩風景である。案内嬢は今日でもゐるけれど、大晦日にはやつぱり島田に結ふだらうか。
連鎖劇とは曲もない夫婦仲
古蝶
 映画のクラヰマックスでスッと映写幕が上げられると同じポーズをした実演場面があらはれる技巧的なのと、物語の殆んど全部を映画で演り最終の場丈け実演でやる常識的のと、連鎖劇には二た通りあつた。井上正夫演り、中野信近、五味国太郎演り、いまの訥子の伝次郎時代も宮戸座で「法界坊」の連鎖劇など見たやうにおぼえてゐる。いづれにもせよ、飴チョコ、大正琴、大正芸者と云つた風な、あはつけな、いい加減な面の大正文化を見せられた感じのものであつた。
どうしても青くならない歌劇の目
三太郎
琵琶芸者田谷力三を追駈ける
桂雨
腰に手を当てて歌劇の嬉しさう
雲雀
浮浪罪歌劇のプロを持つたまゝ
天涯子
 オペラについては已に詳しく語り過ぎた。ただ/\此らの句に接してゐると、私はありし日の大正風景が懐しく眼底に蘇つて来る。しみ/″\さしぐまれるやうな思ひで、私は私の胸の底のおもひでの数々をキューッと抱きしめ度くならずにはゐられない。

 大正文化の豪華な「面」には帝劇がある。ああした茶屋全廃の、椅子席の、食堂制度の、近代調の演劇殿堂は、いかばかりそのころの都人士に花やいだ光りを強く投げたことだらう。そのころの帝劇には森律子、村田嘉久子、初瀬浪子らの女優劇があり、益田太郎冠者の「ドッチャダンネ」「唖の旅行」系列のボードビルめいた喜劇があり、若い女優の中では小原小春、原光代の明眸が歌はれたが、何れも終りはよくなかつた。それらの風景は左を見て貰はう。
四合瓶ベルに半分残す顔
峰月
 此は未だ開幕をしらすベルの音の、どんなにかお客たちの耳驚かせたころの食堂スケッチである。
ベルであく幕に松助靴を履き
夜刃郎
 蝙蝠安が、宅悦が、髪結新三の家主が十八番の、江戸末年的名優尾上松助も、嘗て帝劇に属するころには、しば/\翻訳劇の老役を勤めさせられた。また太郎冠者作の喜劇に洋服姿を余儀なくされた。その余りにも異り過ぎる皮肉な光景に、作者は微苦笑のレンズを向けた。
帝劇の四階へ並び群玉舎
也奈貴
「群玉舎」はお上りさん専門の下谷の大旅館。よく「群玉舎」と太文字でしたためた番傘さして、宿屋のどてら着た赤毛布おのぼりさんたちが上野駅附近をうろ/\してゐた。その人々の故郷への土産の丸の内見物なのである。
 少しくそのころの寄席を語らう。昔恋しい三遊柳は大正中年に、小さん円右円蔵橘之助小せん馬生貞山らの会社派と痴遊左楽しん生シヤモ華柳今輔らの睦派の二つに別れたが、なか/\華やかなものだつた。さうしてこれらの寄席は大正十四年以後頓に寂れ、今度の事変以後、俄然復興して来たのである。
宮松へ行くと駱駝の尾まで聞け
飴ン坊
「小柳」に昼寝のならぬ橋を架け
東魚
伯山が上つて空気稍動き
遊月
暁紅の笑ふコミック愁嘆場
伊勢之守
綾之助二度の目見得に瘠が見え
尺一
教はつたやうに李彩は笑ふなり
古蝶
低脳児らしい円右の頭つき
甘納豆小勝の洒落が分り兼ね
ぎん蝶に調子付かれて怖くなり
雀郎
猫八と小勝のわかる半可通
青風
こほろぎの声いろ江戸が呆れるの
久良伎
中売の深い/\と云つた型
きん坊
逃げられて以来隠居は寄席と定め
遊月
おしまひの下足隠居と孫娘
夜刃郎
講座より高座に次男趣味を持ち
古蝶
 第一の宮松の句など、後世、難解至極の句となつてのこらうから、いまのうち、解説して置く。いま貸席となつてしまつた日本橋茅場町薬師境内の宮松亭は嘗て義太夫の定席だつたが、明治卅八年同じ日本橋の貸席常盤木倶楽部に岡鬼太郎、今村次郎、石谷華堤氏を盟主とし、先代小さん、同円右、同小円朝、同円左、先々代円朝、円喬らを会員として誕生した第一次落語研究会はやがてこの宮松へ会場を移し、毎月第三日曜に極めて真摯に首尾一貫した落語を演ずることをモットーに、大震災まで恙なく続演した。「駱駝」は先代小さんが大阪から将来した得意中の得意の一席で、裕に一時間近くかかる。従つてこの落語、宮松の研究会ならねば所詮おしまひの落まで聴かれないので、駱駝丈けに尾までとかう洒落れて云つたのである、近ごろこんなアク抜けのした句、薬にし度くも見当らない。第二句の小柳は神田にあつた正徳以来江戸伝統の講釈場。事変後、惜しくも廃席した。晩年は広瀬中佐銅像横にあつたが、震災前後まで電車通りの向側の省線ガード下で営業してゐた。はじめて省線(院線と云つたらうそのころは)が小柳の上に架設されたとき、木枕の夢深きここの定連たちは忽ちその夢を破られたことだらうと云ふ、今は昔の大正寄席風物詩。私の大好きな句の一つである。次郎長伝に一世を鳴らした神田伯山は、浅草の金車亭出演のときなど客席の後から細い渡り板を通つて高座へ上がりピタリと坐るまでつひに喝采がやまなかつたと此はいまの伯龍から聴かされた。つまりそれ程の人気、魚河岸へ鮪が着いたやうゴロ/\寝そべつてゐたお客たちも、今度は伯山と見てとるや、一人起き二人起き、漸く場内の空気動きそめたと、此が第三句の句意である。コミック源氏節の流行は、女義太夫ドースル連の直後と見ていい。やがて中央を追はれたが、私の子供の時分には名古屋上りの岡本美根なにがし一座とて、未だそこここに残骸を曝してゐた。一座は妙齢の婦女子許りで随分いかがはしい演技も見せたらしい。故人森暁紅氏はそのころ「文芸倶楽部」へかうしたいかもの見物記を逐号執筆されて声名頗る高かつたので、この第四句が生れたのである。明眸竹本綾之助は昭和十七年一月卅一日歿したが、嘗て一とたび隠退したことあり、此はその再出演の姥桜時代を詠んだものと見える。
 長谷川伸先生は、

「芸界の女性の中に、淑徳の高い麗しさに感動させられる例がいくつかある。其中で其最なるものは初代さんだ。「近世美人伝」の人物だつた」

と追憶文に哀惜してゐられる。
 次の李彩は、昭和廿年三月九日の戦災で歿した中華人の先代李彩で、木村錦花氏の『明治座物語』に拠ると、彼このときはじめて日本へ来朝したのだらう明治卅五年十一月九日から七日間、「清国人李彩一行の曲芸」を興行したと記されてゐる。以来の、おもへば長い久しい馴染深い李彩である。「このごろの寄席で李彩ほどの芸人はない。「業」のうへで、また、「人間」のうへで。――「業」と「人間」とが同時に出来上つてゐるうへで」と久保田万太郎氏も嘗て「断章」の中で激賞してゐられる。次の句々の芸人たちについて一括して述べるなら、先づ亡き円右の頭については、詩人宮島貞丈おでこの光ると「夏の夜の若竹亭」の詩の中で、うたつたことがある。小勝、ぎん蝶、先代猫八は、みんな二た昔前のいかもの的存在で、小勝はあくどい駄洒落の連発、ぎん蝶は「目が開き度くなつた」と前へ乗り出しては悪達者に三味線を引つ掻き廻し、猫八は一人で江戸を背負つて来たやうなノタこといて寒がらせた。伎翁に「江戸が呆れるの」句ある所以である。「中売」以下は、それ/″\の寄席、寄席フアン百態として趣深い。とりわけ若い美しい妾に逃げられた隠居の、寄席に人生最終の安息を見出してゐる姿よ。作者はこの悲喜劇を表にクスリと笑ひながらも、内にホロホロといたはつてやつてゐるのである。宇野信夫君の戯曲「山谷時雨」安蔵と云ふ女狂ひをする爺さんがおもはれてならない。
八九分と見て長講の勝太郎
聖人
 先代玉川勝太郎である。毫末も嫌味のない江戸前の哀調で、故伯山は「浪花節では勝太郎で……」と始終高座で賞めてゐたと云はれる。それにしてもこのころの川柳、殆んど浪花節をほめてゐるものはこの句以外に見当らない。尤も私などでも昭和初年始めて先代木村重松の哀調に接する迄は殆んど食はず嫌ひだつたし、徳川夢声君の「浪曲譚」にも、

「浪花節が好きだ、といふだけでその頃は、紳士扱ひにされなかつた。旦那扱ひにされなかつたものだ。浪花節が好きと聞いて、惚れた女も、俄然、興ざめして寝返りをうつたものだ」

とあるのを見れば、事実※(歌記号、1-3-28)ブラリ/\といそがれる」式の支離滅裂な文句を並べ立ててゐた連中が多かつた当時だから、ごく一部の愛好者を除いては車夫馬丁以上のものの聴くものでないとされたのも当然だつたかもしれない。
 即ち、
武士道もつひに彼らに鼓吹され
剣花坊
浪花節でもと二才を辱しめ
古蝶
浪花節つまらぬことを奉り
宗基
 どれもこれもろくなことはうたつてゐない。

「米久の晩餐」


 さらに又東京風景では、
デカンシヨがはずみ江知勝灯を落し
東魚
向陵へ放歌乱舞の春が来る
 江知勝は戦災まで本郷にあつた牛肉店。そのころ一高生を多く顧客とした。また三月一日は一高の記念日で、向陵は全校を挙げて嬉しく狂ほしく一日を興じ騒いだ。「寮雨」とか「ストーム」とか、さうした一高語の、本郷から世田谷へ引移つてしまつた今日でも、やつぱりつかはれてゐることだらうか。
上根岸簑と笠とで名が高し
夜刃郎
船橋へ唐までとゞく棒を立て
余丁町がちやり/\と二人降り
 第一句は子規庵小景。第二句はそのころ建ちそめた無線電信局。さうして第三句は牛込の陸軍士官学校附近を描いた写生画である。
コツソリと抱付いて見る雑司ヶ谷
空蝉
つゝましく田端で降りる主婦の友
雨吉
大久保の青葉へ帰る小官吏
四谷駅公設へ来る妻と逢ひ
どうもよく焼けると高架線の窓
也奈貴
 なんとそのころ山の手の郊外のしづかすぎるほどしづかだつたことよ。そこにもここにも若葉が燃え、草いきれがし、さうしてその中を武蔵野の名残りの水が音立てて夕焼空を映してゐたのだ。
首尾の松あたりで本屋また殖やし
雀郎
 此は大川の一銭蒸汽内へ絵本売りに来る襟巻古き四十男の背ろ姿である。そのころいまの華道会館うらに首尾の松は辛うじて未だ枯れ/″\の姿を横へてゐたのだつた。さうして、寒い水尾をのこしてうねりゆく蒸汽の白ペンキの屋根の上には、このとき音もなく夕時雨が降りそめてゐたことだらう。北原白秋の桐の花には、こんな短歌が収められてゐた。
横網に一銭蒸汽ちかづくと廻るうねりも君おもはする
深川の秋は若しやの床を吊り
春雨
やや有つて女優琴平町へ越し
夜刃郎
 前の句の出水地区は云はでも分らう。あとの句の琴平町は芝。あの辺り俗に落武者横丁と呼ばる囲ひ者の多いところ故、「やや有つて」パトロンの出来た女優生活の変動を諷刺したものではなからうか。「尚、森律子女史が当時琴平町に住居せられし事故、小輩女優がそこへ越したとの意味にもとれ申候」とこの句について坂下也奈貴君は私信を寄せられて来た。
哀れにも猿の生きてるももんじ屋
古蝶
 いまも東両国の角にある、豊田屋の景色である。よく猪や熊や鹿や狐や狸が吊下つてゐたが、さうしてそれらをうたつた斎藤茂吉の悲哀な短歌が『赤光』だか『あらたま』だかには入つてゐたけれど――手許の二冊とも散逸してしまつていま俄におもひだせない――、あの店、このごろのこの時世でも尚同じやうなただずまひをしてゐるだらうか。今年は何十年か振りで国技館へ菊人形を見物に行かうとおもつてゐるので、かへりにはぜひあすこの前をとほつて見度い。豊田屋、坊主しやも、緑町の鶏肉を味噌煮にしてたべさせるかどや――あのへんのたべものやはみんな懐しいおもひで許りだけれど。
 それにしてもこの川柳、「哀れにも」がよく活きてゐる。これほど適処へつかはれてゐる「哀れにも」も、全川柳中、さうしば/\はあるまい。
 流石に古蝶であるとおもふ。
待乳山多町で卸す程に積み
空蝉
 この間、岡本綺堂先生の「白魚物語」を読んだら、

「けれども近来彼の川筋も巡航船または川蒸汽の為に暴されて、百本杭に鯉寄らず、隅田川にも白魚稀なりといふ始末」

とある。恐らく先生が明治四十年代御執筆のものとおもふが、今日にして此を読み、いか許りか感慨無量たらざるを得なかつた。「稀なり」にもせよ、白魚が未だそのころの隅田川には泳いでゐたとは、とんだ熊谷蓮生坊だが、「夢だ/\」と叫び度い。それに比すれば待乳山下、多町の青物市場へ卸すほどの白と青との色美しき大根積上げた船が見られなくなつたとて、もはやその殺風景さは格別慨くには当らない。寧ろ私はその大根船の往来ゆききを殺風景なりとした江戸末年の俗謡※(歌記号、1-3-28)時世時節とあきらめしやんせ屋形船さへ大根積む」をおもつて、時世の変転余りにも激甚過ぐるを、ひとり目を閉ぢて考へて見度い。
 そのころの浅草風物詩には、
十二階上の窓から朝になり
小尺一
十二階目からどん底見下ろされ
十九樽
日曜のチン屋で夫婦かけ向ひ
夜刃郎
連も連なり米久で無事
秀耳
 十二階のガラス窓の一つ一つへさし当てられる朝日の光りの美しさを、絢しくかんじてもらへたら、もうそれでいい。十二階の創建は「明治廿三年十一月。英人バルトンの設建に基き(中略)高さ三十六間余」と『明治事物起原』は誌してゐる。チン屋、米久、みないまも旺の大衆的牛肉料理店である、一は雷門に、一は千束町に。チン屋の名の起りは嘗て江戸大奥へ献ずる狆その他小動物をひさいだ故と伊藤晴雨画伯から聞かされたことがある。米久は、高村光太郎氏に「米久の晩餐」と題する詩がある。
 特異な店内風景を偲ぶに足りるから、一節を掲げてこの川柳と併せ味はう。

「まあおとうさんお久しぶり、そつちは駄目よ、ここへお坐んなさい……
おきんさん、時計下とけいしたのお会計よ……
そこでね、をぢさん、僕の小隊がその鉄橋を……
おいこら酒はまだか、酒、酒……
米久へ来てそんなに威張つても駄目よ……
まだ、づぶ、わかいの……
ほらあすこへ来てゐるのが何とかいふ社会主義の女、随分おとなしいのよ……
ところで棟梁、あつしの方の野郎のことも……
それやおれも知つてる、おれも知つてるがまあ待て……
かんばんは何時……
十一時半よ、まあごゆつくりなさい、米久はいそぐところぢやありません……
きびきびと暑いね、汗びつしより……
あなた何、お愛想、お一人前の玉にビールの、一円三十五銭……
おつと大違ひ、一本こんな処にかくれてゐましたね、一円と八十銭……
まあすみません……はあい、およびはどちら……

八月の夜は今米久にもうもうと煮え立つ。」(下略)

電車で帰れた時分だと「やつこ」でじれてゐる
十九樽
 浅草田原町角の鰻屋「やつこ」これも今もある。註文をしてから一時間も二時間も待たせたころの鰻屋の鰻は、みんな本場物で美味しかつた。デパートの食堂でちよくに鰻をたべさせるやうになつて専門の鰻屋の多くまでが堕落してしまつた。
 私は浅草の鰻屋では宮戸川を前にした前川の景色と味ひとを忘れない。
軍神の背中を拝む卓に着き
東魚
 大正中年、万世橋駅楼上のレストランであり、社交倶楽部であつたミカドのこと。夕日舂く玻璃窓ちかく卓に着けば、広瀬中佐の青銅いろの後姿が、厳しく迫つてゐた。芥川龍之介氏の日記を読むと、屡々文壇的会合も催されてゐたらしい。一品料理でなく定食と云ふものを、はじめて少年時の私が食べさせられたのもここだつたともおもふ。闘球台のでてゐる部屋の白壁には落花ふり切る淫祠の前の大銀杏のほとり何をか額き祈つてゐる雛妓の極彩色の日本画が掲げられてあつた。あの絵も震災で焼け落ちてしまつたらう。
 演芸方面のでは、
喜多村と河合と惚れて伊井悶え
万柳
 そのころの新派三頭目舞台絵巻が、如実に目に泛んで来る。殊更にその扮する役々を云はず、男性たる喜多村河合の名を並べそれが同じ男性たる伊井をして悶へさすと云ふ表現法を採つたところにこの川柳の妙味がある。
大薩摩眼鏡の欲しい形なり
夜刃郎
 大薩摩の歌ひ手は、かう本を遠くへ離しては読む。即ち「眼鏡の欲しい」である。
錦心の弟子で交換局へ行き
夜刃郎
錦心の孫弟子二階まで出張り
古蝶
薩摩琵琶一軒家ではあるまいし
 私は少年の日、永田錦心が「石童丸」の※(歌記号、1-3-28)ほろ/\となく山鳥の……」のあの一齣、「毒饅頭」の※(歌記号、1-3-28)仰せをうけて清正は……」のあの一齣、沈痛な節廻しのレコードを聴く毎に、ヂーンと瞼を熱くした。錦心の名、いかに諷はれてゐたか、こんなにいくつも川柳にまでのこつてゐようとはゆめにもおもはなかつた。もう一つ此は作者名を忘れたが「薩摩琵琶すてつぺんから目をつむり」
独唱に人を喰つたる高島田
古蝶
女優もうアートペーパーかなと思ひ
 アートペーパーと云ふものの、あの紙質のあの光沢の、さらにそこへ印刷された女優姿の、いかに近代の魅惑たりしかよ、こはこれ、そのころのわかい女優が宿願の声と聴け。
町人の刀が好きな鴈次郎
五葉
してやつた顔で天勝キスを投げ
東魚
 治兵衛、半七、半兵衛、久兵衛と、ありし日の鴈次郎が扮した上方の生世話物の舞台をしづかにおもひ返さう。妖艶初代天勝が愛嬌こぼるる許りだつたあのころの燦爛たる舞台姿を回想しよう。
新内をよべば喪章をつけてゐる
蔦雄
 大正元年九月――御大葬ちかくのころ街頭スナップとして尊い。
 水島爾保布画伯の『愚談』の中の「十年前の愚日記」の一節には、そのころの東京市内がよく描かれてゐるから引いて見よう。

「ある茶屋の軒先で烏帽子に白の水干を着た男が胸に大きな喪章をつけて長い金火箸で篝火を焚きつけてゐた。その篝火へさして印絆纏をきたのや洋服を着たのや、いろ/\な人が後から後から煙草を吸ひつけて行つた。辻々には高々と柱を建て、黒い幕を張り黒い総でしぼつた大きな弔旗が掲げてあつた。その下をうようよと半ば泳ぐやうな浮れた、そして昂奮した群衆が踵をついで行く」(下略)

 狭斜方面の句にわたらう。いまにして此らの世界を材とした川柳をしみじみ読み返してみると、やはり返らぬ日の東京文化が悲しく美しく刻まれてゐて、得がたい尊い「詩」の世界であるとおもふ。
鉄棒も三味線も引く美しさ
古蝶
真打も聴いてやつたとお茶を挽き
豚は未だ見ませんなどと雛妓云ひ
 第一句は黒骨牡丹の扇かざした手古舞てこまい姿、第三句の豚を見ない雛妓に、私は「大正」をかんじる。牛は別として豚肉と云ふものの、ハッキリ一般の食料となりだして来た大正年代のことだからである。
灰神楽つねられまいとした手から
蔦雄
重役がゆく待合に借が出来
八と熊強い書生に土手で逢ひ
 おしまひの句は、人口に膾炙されてゐるが、作品としてもすぐれてゐる。この「土手」は勿論日本堤、土手八丁の意味、古川柳に「土手で逢ひどこへ/\と手をひろげ」「土手で逢ひ今は何をか包む可き」その「土手で逢ひ」である。さうした古調を、「強い書生」などと云ふ当時の現代風景の中へ殊更に据えたためこの句の調しらべは一そうおもしろいものとなつたのである。
騒々しい次郎左衛門に土手で逢ひ
雀郎
甘台の客代筆をたのまれる
新香もりやう台の物となり
 此も亦、「土手で逢ひ」である。「騒々しい」佐野次郎左衛門の「そりやおいらんつれなからうぜ」は故左団次か先代訥子だらう。この二人の声いろは例へばこの間うちの高瀬実乗の「ワシやかなはんよ」のごとく猫も杓子も口真似したものだつた。あとの二つは盲目の小せんの「白銅」「とんちき」「お茶汲み」などと云ふ落語の安遊びの景色を目に描かせておもしろい。「甘台あまだい」は瓦煎餅などをコンモリ積み上げた台の物であるし、またいろ/\さま/″\の漬物を積み上げて巧みに御馳走らしく見せかける台の物もある。いづれも高い御散財ではない。もう一つ同じ作者に「台屋から虎の出さうな鮨が来る」があつた。即ち笹ツ葉沢山の鮨である。
孤児院のゼムを旦那にそつと買ひ
峰月
 らち口もないものを売りに来る孤児院の子も少くなつたが、ゼムと云ふ口中香錠もハタと絶えた、仁丹は今も旺なのに。そのころ東京の屋根々々には菱形の中に西洋風の麗人の大首絵を覗かせたゼムの広告が、美髯将軍の仁丹の広告と相並んで君臨し、前述小せんをして左のごとき句を詠ましめた。
 ゼム君の申され候
仁丹と隣り合せの寒さかな
坐敷着で炬燵へ入る流行妓
卯木
流行妓すらりと立つて惜しがられ
三太郎
美しくそして悲しく披露目する
モウ一つお酌しませうと仲貰ひ
小阿弥
あんな好いべべで売られた姉が来る
美津木
朝詣り清方の絵が抜けたやう
東魚
 あとは世相をうたつたものを目につくままに書き付けていつて見る。ワキの○○は私が記した。そこに大正と云ふ世代を留意して味つてほしい。
梳櫛を片手に髪結馭者のやう
古蝶
馬鹿の骨頂は夫人が鳥を撃ち
飛乗の首尾よく下駄の先を見る
心待ちオートバイかと振返り
赤坂にやがて停職される客
女優髷あまり美人の結はぬもの
洋楽で夜は悩ませる学校出
香取屋がどうのと鼻緒付を買ひ
お仕度を留場は海老の腰で聞き
稽古所で跡見の服が安く見え
 第八句の「香取屋は」浅草橋附近にあつた高級の下駄屋で、殊にその道の粋人たちには喜ばれた。終りの句の跡見は跡見女学校。その句の前の留場とめばは、未だ桝で飲食しながら芝居見物のできたころの芝居情景である。案内嬢以前の留場の男は、キチンとしたたつつけ袴を履き、細く仕切られた桝の上をわたつて来ては、ほんとに腰を海老に曲げ、たべものの注文を聞いて歩いた。一番目の終つた中幕の開かうとする時分、冬はもう早い電気が明るく場内に濡れてゐた。大道具の槌の音が切りに聞えて来て、そのころは幕間も長かつた。
通がつて我慢して食ふハムサラダ
峰月
梅見とはハイカラの行く所でなし
浅峰
アーク燈味も素つ気もなく光り
花氷すきやの袖を風なぶる
也奈貴
余つ程の覚悟で女店員になり
蛍石
 ハムサラダが「我慢して食ふ」ものであつたり、女店員になるのに「余つ程の覚悟」が要つた時代であつたことをおもへ。「ハイカラ」と云ふ言葉も舶来と云ふ語と共にそのころ切りにつかはれたもの。
丸髷に結ひ青鞜へ退社の辞
飴ン坊
反れる丈け反つて駅売かけて行き
蔦雄
中程は透いてゐますと伸上り
六橘
焼売屋憶病窓へヘイと出し
春雨
葬列の電車を止める晴なこと
小間使こは/″\ピアノ一つ打ち
さて瓦斯は調法と知る不意の客
出兵が株に響いて狆も痩せ
暇な奴ニッポノホンへ立止り
雀郎
 五色の酒を飲む所謂「新しい女」の結社だつた青鞜社よ、満員鈴鳴りの殺人的市電許り疾駆してゐた大震災前までの東京よ、未だ葬列のなが/\と徒歩でつづいて市電を立往生させてゐた街頭よ、さうしてこのときの出兵は日独戦争だつたのだらうか、それともシベリア問題だつたのだらうか。ニッポノホンはいまのコロムビアレコードの前身で、レーベルは赤鷲印、他にこの会社には大仏さまが音楽に耳傾けてゐる姿の商標もあり、鷲と大仏さまとは町々の蓄音機店時計店を風靡してゐた。小さん、呂昇、錦心、吉原〆治、小円、奈良丸等等を擁して、凡そ素晴らしい大勢力だつた。ところで冒頭の青鞜社の起因について述べるなら、一千八百五十年にロンドンで開かれた美術家の会合へ或る女流文士が Blue-Stocking(青色の靴下)を穿いてでかけたところからの名称で、宇野浩二氏の『文学の三十年』によると、平塚雷鳥、岡本かの子、三ヶ島葭子、原阿佐緒、伊藤野枝、荒木郁子、尾竹紅吉(今の富本一枝)、長沼智恵子後の高村光太郎夫人他数名を同人としてゐるが、

「青鞜社が、その第一条の、「女流の天才を生む」どころか、「女流文学の発達」にさへ成功しなかつたのは(中略)女性解放を叫んだ人たちが叫んだだけに終つて、結局、教育のある、ただの女に戻つたのか、厳しく云へば、元もとただの女であつた人が、高等以上の教育を受け、ある人は哲学をやつたが唯いくらか頭がよかつただけ、或る人は女性解放といふ理論の熱病にかかつただけ、もつとひどい人は新しい女と云ふ言葉に魅せられただけ」

のための失敗であつたらうと、宇野氏は鋭く論断してゐる。飴ン坊の句、かくていよ/\青鞜社の全貌を小気味好く描き尽してゐるではないか。
日本語を変に訛らすフエリス出
卯木
よりも芝居へ母は行きたがり
町内は法華通夜で寝そびれる
赤帽は火事場を落る程に背負ひ
東魚
通過駅そつけもあらず助役立ち
後朝きぬぎぬ釜山は船の笛を聞き
甚五郎以後を我輩落を取り
小頭に貸せば万年筆を甜め
塾長の都をけなすまいことか
汗臭いのが御殿場でドカと乗り
養鶏場もどきにテニスコート出来
勘当がゆりて日比谷の嬉し泣き
 冒頭のフエリスは横浜のフエリス女学校。
 新劇と云ふもの漸くこの時代から芝居の国へ新時代の風を吹き送つたが(第二句)、未だ下町の一角には団扇太鼓賑やかな法華の通夜が二番目物の合方めいていとなまれてゐた(第三句)
「甚五郎以後」は左甚五郎の日光の眠り猫に対して、明治末年から大正のそのころ凡そ全国的に喧伝された漱石の「我輩は猫である」の声名を諷つたもの(第七句)
 軍閥的精神の塾長がけなした花柳演芸報道紙「都新聞」も、惜しや此又軍閥の犠牲にて昭和十七年九月末日限り国民新聞と合併して、「東京新聞」と改称されてしまつたし、神前結婚を以て知られた日比谷大神宮(第十二句)もいまは飯田橋駅ちかく移転してしまった[#「移転してしまった」はママ]時世の動きを何としよう。
一高へ三度こじれて簿記ときめ
夜刃郎
馬鹿らしさ十六才の産婆出来
供部屋で字学と云へば運転士
豆腐屋の手を拭いて取る小紙幣
舶来の風邪をひいてと女将云ひ
メンバーによれば外野に兄が居り
冷性で女車掌をあきらめる
豆餅屋ガードの下へ巣を作り
 徳川夢声君は一高を二回受験して失敗した結果、先づ落語家を、次いで映画説明者を志した。往年の一高の魅力たるや、ほんたうに言語に絶したものがあつたのだ。運転手と云ふものの存在にも亦活弁(前文にすぐつづいてかう書くと何だかへんだが、徳川君よ許せ)と似た大正的な魅惑があつた。芳川鎌子夫人が運転手と情死未遂した所謂千葉心中も、このころの悲劇だつたとおもふ。
 戦時の小紙幣は昭和十三年ころできた緑いろ印刷の五十銭紙幣一手であるが、大正初年の好況時代のそれは五十銭が桃いろ、廿銭が緑いろ、十銭がオレンヂいろだつた。
 その次の句の「舶来の風邪」とはインフルエンザ。岡本綺堂先生の「お染風」と云ふ随筆に「日本で始めて此の病が流行り出したのは明治廿三年の冬で(中略)我々は其時初めてインフルエンザと云ふ病名を知つて(中略)併し普通はお染風と云つてゐた」とあるを見れば、インフルエンザの語の大衆化されたる、やはり大正年間であることが熟知されよう。
 最終の豆餅屋に付いては明治四十三年執筆にかかる大庭柯公氏の「江戸より東京」の一節を見てそのころガード下に生活した豆餅屋は、もはや明治の、いや、さらにその前の江戸の余喘ですらあつたこと知つてほしい。柯公氏の全文は左に。

「造兵前に附焼麺麭つけやきぱんを売るもの、年来の露店なりき、外遊数年後の今日既に在らず。電車の水道橋畔に四通して行人多忙、一片の附焼麺麭に歩を停むるのいとまなきに至れるが為なり。(中略)而も電鉄の労働者割引の便は、三十万の労働者をして亦路傍の露店に旧伴侶を訪ふのいとまなからしむ」

ルパシカの文化


岡持を肩に忍術本を読み
年方
壺焼屋埃及式に積み上げる
丹三郎
感電の烏へ宵の人群ひとだか
小阿弥
帰朝してもう小間使忘れられ
路郎
自殺幇助ここらで堕落ゆきどま
可運子
笑ふ日も無くルパシカのひねくれる
杜若
 立川文庫、武士道文庫、何々文庫と大阪の赤本屋が売出した豆本は、猿飛佐助とか霧隠才蔵とか十中九までが甲賀流伊賀流の忍術使ひをテイマとしてゐた。この流行が、目玉の松之助を売つたとも云へる。松之助の人気が、この本の売行を倍加せしめたとも云へる。所詮は相待つてジャーナリズムに乗つたのであらう。第一句はさうしたころの町の風景であらねばならない。
 帰朝して忘れられた小間使ひの悲劇をなんの苦もなくこんな小さな額椽の中へおさめて見せて呉れた手際もたしかに川柳と云ふ芸術以外に見られないところだらう。
 ルパシカの句は大正も大震災直前と見ていい。プロレタリア文学の流行と共に、赤大根と蔑称されたプロ文学青年氾濫し、競つて彼らはルパシカ姿にいでたつては大道狭しと闊歩した。が、大震災直後、かの甘粕大尉によつて大杉栄、伊藤野枝の殺害さるるや、出来星のルパシカ青年は忽ちにして影をひそめてしまつた。
飛行船物干竿で届きさう
紅太郎
昔でたよこねの辺へ金ぐさり
船成の宗旨ミリタリズムと云ひ
愛耳
 第二句について、嘗て私はあるところへかうしたためたことがある。抄して見よう。

「紅太郎といふ人の「よこね」の句なぞ、頗るいやしいかんじだが、先代楽遊や円車や三叟や重松や愛造が綱つ引の人力でかけもちしてゐたころの東京の体臭ではあるとおもふ」

 おしまひの船成は船成金の意味。第一次欧洲大戦時の好況日本の姿が、絢爛として目に見えて来る。

 大正年代の作品でありながら大正情調格別になく単に川柳詩として秀れてゐると云つた風な作品も少くない。左記はそれらの一斑である。
小角力は傘もさゝずに濡れて行き
蔦雄
男親まとゐのやうに遊ばせる
神楽堂飴屋の傘へ釣を垂れ
 第三句、分つてもらへるだらうか。あれは何と云ふお神楽の演技だつたかひよつとこの面冠つて釣糸垂れるお神楽師の糸の尖がお堂の下に店ひろげてゐる飴屋の大きな柿いろの日傘へとどいてゐると云ふスケッチなのである。その糸へ、日傘へ、うらうらとかがやく春日よ、日傘の下のぶつきり飴よ、おたさんと金太さんの絵のかいてある飴よ、さうしておほどかにきこえ来る笛と太鼓よ、この句を誦むたび、いつも私は少年時のお祭りの日の幸福感を身内に喚び起さないわけには行かない。
番を待つ藤間ふじまの座敷騒がしい
也奈貴
悟空ほど含んで屋根屋上るなり
春雨
亭主より三十下の華やかさ
抽だしをぬくと豆屋は煙が立ち
東魚
盤台に尾が出てしなういい威勢
象の耳バタリ/\と蠅を打ち
漂流の気味で火を焚く鮑取り
牛乳屋一函毎に夜が白らみ
夜刃郎
刀鍛冶烏帽子を取れば知つた顔
石版部蒲焼程に煽ぐなり
つんのめるやうに家鴨は池へ下り
鑵詰は開けると一つ嗅いで見る
居酒屋を出るのへ女身を縮め
蒲焼が万和青へ串の噌もの
小格子へ実は大賊天下り
友引に預金する気も女なり
大剣と見せて自然藷苞で来る
寒い事巡査張飛の様に咳き
先生々々で楽屋に邪魔がられ
定紋の丸から息子取り初め
人の世を役者の遺族寂しがり
朧気に桐生を語る茶屋女
留守番の窓に淋しい辻喧嘩
髪結の亭主に惜しい塩加減
小千両貯めて養子を替えも替え
看護婦にせめて五勺の手を合せ
通夜僧は袈裟を外して猪口を受け
肴飾つた娘樽天王を除け
也奈貴
二日酔柚餅子ゆべしで苦い茶をれる
飴ン坊
長命をした鈴虫の餌に困り
紅太郎
普請場を透して夜番一つ打ち
酔月
立ン坊今日きょう白丁を着て通り
好風
やがて牛力うしちからが入りでこぼこし
三太郎
上り坂恐縮してるやうに挽き
古蝶
馬市の今や陣鉦響きさう
気は心だと丑の日の鰌鍋
泣きさうな児に蒲焼屋関らず
あんまりな評に兄妹宿を替え
なんのその色文「だからもんだから」
食逃の女が若い賑やかさ
絵蝋燭一寸ちょっと毒婦の腕のやう
葬儀社の人夫何やら籤を引き
青風
 又しても喜音家古蝶の作品を一ばん紹介してしまつたやうである。
 永井先生の雑誌「文明」には籾山庭後(のちの梓月)氏が「喜音家古蝶先生」なる礼讃の一文を発表されてゐることも附記して置かう。只管繊弱な世界をのみうたひつづけた作者ではあるだらうが、さうした世界をのみ掘り下げつづけた情熱もなか/\できることではない。相当以上の敬意を払つていいとおもふ。さるにても古蝶と云ふ人、大震災のとき一家を挙げて行衛不明となつてしまつた由に聞く。さうした最後であつたことも妙に私の心の中に、古蝶と云ふ作家を消し兼ねてならないのである。
 古蝶一家をこの世から奪つた大震災は、明治以来、僅に残存してゐた下町方面の江戸的なものをも、根こそぎ業火に焙きつくしてしまつた。今次の太平洋戦争まで日本的な文化面が殆んど省られず、徒らなモダニズムの全面的跳梁をほしいままにしたことも、その一半には大震災の影響を加算しないわけにはゆくまい。
 大震災には、翌春、久良伎社から『から怒』と云ふ小冊子が上本された。さうして本格川柳をとほしての震災風景が発表された。石井竹馬の作品のごとき(この前後には絶対採る可き作品の見当らなかつた不思議な作家である)が秀抜、目を瞠らされるものがある。
 此を紹介することによつて、この一文を完るとしよう。
震災後水のうまさをしりはじめ
久良伎
焼土の底から芽む江戸の春
張柾の下駄で新橋芸者来る
配給にバケツをさげて小半丁
祭礼の軒提灯で飯につき
バラックに住めば住まれる月がさし
我家を自警バカ/\しく廻り
観音はのこり信者はみんな焼け
夜刃郎
幽霊ぢやねえと東京から避難
雀郎
扨て喰へば喰へるものだと避難民
被服廠かかる処へつむじ風
米国のハヤシライスに日が永し
小栗栖の長兵衛と云ふ自警団
余震にも馴れて定食どうのこの
何所どこぞでは五割つたと茶を冷まし
塗立てて来て施米所で断られ
的面子
待合へ巻ゲートルのお客来る
迷亭
惜しかつた箪笥今でも鍵を持ち
美水
復興の一つ夕餉に猪口が出る
西郷は千社札ほど貼られてる
鞍馬
芸者の自覚はおでんを売つてゐる
一番に逃出す男美濃生れ
竹芝
玄米が不味くなるころ塗りはじめ
バラックに夫婦仲いい日が続き
生残り金魚を喰つたことも云ひ
龍巻の話聞き手も上を向き
杜若
巻脚絆ずる/\にして旦那来る
「配給」と云ふ言葉の已に震災のときにもつかはれてゐたことを、諸君はこの句の中から知られればいい。さうして西郷隆盛の銅像の、夫を探し妻を探し親を探し子を探す哀れな人たちの貼札によつて、千社札ほど貼りこくられた未曾有の景色を、おもひ返して呉れればいい。
自警団沢正らしくやつてのけ
竹馬
妾宅へ遂に夫婦で逃のびる
バラックへ士族と書いて生残り
一物も出さぬ小指に光るなり
一枚絵から抜出して五色揚
紹介所お次も灰を担がせる
バラックに髯の生えたは易者也
月のさす壁の割目が揺れてゐる
蝋燭の心切る頃に又も揺れ
吉原へ廻る熊手は酔がさめ
吉原の池に馴染の噂が出
雨洩りのバラックいつそ酒になり
焼跡に立てば社長も哀れ也
ゲートルの社長四割は首切る気
銘仙の対で芸者は席につき
柳原大工に背広着せて見せ
女湯の前に憲兵剣を付け
半玉はマスクの中で節を付け
姑は位牌を出さぬ嫁をねめ
白骨の山へなまいだなんまいだ
高砂社骨箱背負つた女が出
生残り今ぢや大工の女房なり
嘆願に芸者のまじる賑やかさ
焼止り書割らしい月が出る
自警団按摩と知つて怪まず
ふだん着の親子呼込む千歳飴
繃帯を苦にして千歳飴を下げ
 一つ一つ註釈を施し度くないほど、巧い。巧まざる名吟とはかかるものをこそ云ふものだらう。襖の風をもいとつてゐた婉やかなお嬢さまの五色揚売るすがたに哭け。骨箱の女がでる高砂社の玄関先の悽愴な人生に戦け。繃帯の手で千歳飴下げるは親か子か、七五三のお祝ひに、神田明神境内から仰ぐ災後東京の秋空は弥が上にも青かつたらう。亭々と天を摩してゐた大銀杏焼けて裸木となり、高鳴かう百舌の塒をもことごとく失はしめてゐたにちがひない。
(昭和十七年十月稿、昭和廿一年三月改補)





底本:「東京恋慕帖」ちくま学芸文庫、筑摩書房
   2004(平成16)年10月10日第1刷発行
底本の親本:「東京恋慕帖」好江書房
   1948(昭和23)年12月20日
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、以下の箇所を除いて大振りにつくっています。
 コツソリと抱付いて見る雑司ヶ谷
入力:門田裕志
校正:酒井和郎
2015年12月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード