随筆 寄席囃子

正岡容




   寄席囃子



    当代志ん生の味

 当代の噺家はなしかの中では、私は文楽と志ん生とを躊躇ちゅうちょなく最高位におきたい。文楽は菊五郎、志ん生は吉右衛門、まさしくそういえると思う。ただし、芸質の融通無礙むげなところでは志ん生の方が菊五郎らしく、双方の芸を色彩にたとえていえば文楽の方がハッキリと明色で六代目らしい。そのくせ一字一劃をおろそかにしない文楽の小心さ几帳面さは吉右衛門を思わせ、志ん生のいい気な図太さは六代目に似かよっているのだからなかなかおもしろい。
 最近鴨下晃湖かもしたこうこ画伯も「落語三人男」と題してほぼ私と同様の意見で文楽、志ん生、可楽について論評されたが、その中の志ん生に関するくだりだけを引用してみよう。
 曰く、
志ん生の飄々として「テニヲハ」の合わぬ話し振りの中に奇想天外な警句と愉快な諧謔の連続にいつしか聴き手を不可思議な八ッあん熊さんの世界に引き込んでゆく可笑おかしさ、とめどもないような中に本格の修業を失わないところ、彼独特な「マクラ」の奇抜な面白さ、また現在の彼の地位も不当ではない。

 ほんとうに志ん生は早くからこの社会へ身を投じていながら、若い時分をずぼらにでたらめに暮らしすぎたため転落し、そのため一時はずいぶんひどい貧乏暮らしをしていた。本所業平なりひら陋巷ろうこう、なめくじばかりやたらにいる茅屋ぼうおくにいて、その大きい大きいなめくじはなんと塩をかけると溶けるどころかピョイと首を振ってその塩を振り落としてしまうというのである。志ん生(その頃は甚語楼といったり、隅田川馬石といったり、また古今亭志ん馬になったりしていた)のお神さんに至ってはこのなめくじにかかとまで食いつかれた。
「あんな腹の立つものはありませんね、ナイフで斬ったって血は出やがらねえし
 よくその時分、志ん生はこう言っていたが、「血はでやがらねえし」は巧いではないか。今日、彼のギャグのおもしろさがもうこの時に立派な萌芽を示していると思う。しかしその骨の髄までみ透るような貧困のどん底生活は、いろいろと彼にめげないたくましさを与えた。持ち味のおかしさにも、もっともっと本物の底力ある磨きをかけてくれた。恐らくこの「生活」なくして今日の古今亭志ん生は得られなかったろう。でも、どうしてその時分この生活こそのちの最大幸福の原動力なりと本人はもちろん、我々にしても知り得たろう。すべては神のみぞしろしめす、である。
 何より私はそうした彼の数奇な半生に、私自身の姿を見出さずにはいられないのだ。私自身もまた年少にして文筆の生活に入り、時流に耐える底力なく自棄やけの生活を送っているうちにすッてんころりんと落伍してしまい、ひどいひどい貧乏暮らしのありッたけをしてから、やっとこの頃多少でも自分の好きなものだけを書いて世間に問うことができてきたのである。世の中へ出たことは志ん生の方が私より三、四年早かったけれども、志ん馬から馬生と彼の売り出し時代、ほんとうに私は他人事ならずその出世を喜び深く眺めていたことだった。そうして彼も近来恐らく同様の感慨を、私の上に抱いているのではないのだろうか。すなわち何か身近なものを私の上に見出しているのではないだろうか。新作嫌いのこの男が、最近「寄席」「圓朝」と二つも私の長篇小説を自由に脚色し、構成して、高座いたにかけ、内的にも奏効していることを思えば――。
「寄席」は昭和十七年十一月、十二月の二回にわたる発表(神田花月、昼席)だったが、あの噺の中で志ん生はおえんちゃんのほの白い顔をチラッと美しく描いてくれた。熱海でザブリ温泉へ飛び込んで「芸」の修業の難しさを語る時の今松の独白には、ジーンとこちらの胸まで熱くさせるものがあった。横浜でペスト劇を訪ねて失望落胆するくだりに至っては、ひそかに作者の期待していたのと寸分違わぬ馬鹿馬鹿しさがそこここに満ち溢れて、すこぶる私は満足だった。
「……私は少し今松に似ているのかもしれない」
 その時地のところでこう言って志ん生は笑わせたけれど、まさしくそれはそうだろう、私が彼の過ぎ来し半生の上に自分の姿を見出しているよう彼もまた今松という私の変形のあの主人公の上に若き日の自分の姿を見出しているのにちがいない。それには原作にはない先代の志ん生が空気草履を履いたため、盲小せんから江戸っ子の面汚しだと言って絶交され、岡村柿紅氏を頼んで大真面目で詫びに行く挿話もよかった。同じく昔、新石町の立花が貞山ばかりひいきにするので、その頃の若武者小勝が、
「貞山(瓢箪)ばかりが売り物(浮き物)か、小勝(あたし)もそろそろ(この頃)売れて(浮いて)きた」
 と地口じぐる挿話もおもしろかった。さらにまた名人春錦亭柳桜が穴のあいた釈場の高座へ飛び入りで客席から出演し、世にも水際立った人情噺を一席ったので、楽屋で聴いていて感に堪えた一前座はにわかに講釈がいやになってピシーリと張扇を折り、柳桜門下にはせ参じた。だのにこの男一向に売れなかったという挿話に至っては、層一層とおもしろかった(この男が久保田万太郎氏の『末枯』の扇朝、すなわち春風亭梅朝爺さんの前身であるとのちに志ん生は私に語った)。ようするに『寄席』という私の小説を主に、これら明治大正の噺家世界の愉しいエピソードを従に、まさしく志ん生の話術は時として講談であり時として落語であり時として人情噺であり、同時にそれらのいずれでもないひとつの新世界を開拓してみせてくれたのだった。骨折り甲斐のあった仕事だったといっていい。
「御難をして熱海の贔屓ひいきを頼っていく一節などいかにも実感があって志ん生の自叙伝を聴く思いがあった」
 と安藤鶴夫君はその日の批評に書かれたが、ほんとうにそのとおりだった。
「もはや一流人である同君がこうした野心作品を示し、しかも相当の効果をあげたことに脱帽したい」
 私自身も、同じ頃あるところへこう書いた。

 今夏彼が発表した「圓朝」についてはそのうちあらためて書くつもりなので、ここでは言わない。ただ原作にないいい物語が時々用意されていて、それがそれぞれ私をして書きたい欲望を起こさしめるに足るほどの話だったことなど、特筆しておいてよかろうと思う。

 鴨下画伯の言われる「奇想天外」の味は、「町内の若い衆」にある、「寝床」にある、「強情灸」にある、「らくだ」にある、「火焔太鼓」にある、「佐平次」「白銅」もわけもなくおかしい。「寝床」「らくだ」の彼の独自なギャグや扱い方についてはすでに他に書いたが、「町内の若い衆」の下層街のおかみさんの活写とその警句百出に至っては、ちょっと他に類をみない。あのようなささいな噺を、あのようなおかしい愉しいものにした功績は、永らくこの道に記録されてよかろう。
「強情灸」で灸の熱さを説く男が、
「熱いのなんのってこの間なんか、あまり熱いンでバーッと飛び上がって天井を蹴破ってそのままどこかへ行っちゃった男がある」
 なども、彼のギャグのすばらしさの最たるものだろう。だって考えてもみてくれたまえ、化け猫じゃあるまいし、そんな君、天井を蹴破るなんて……。
 もしそれ「お直し」に至っては最後近くあの特異な生活の夫婦の愛情に高潮するあたり、劣等感は微塵も起こらず、まさしくモーパッサンあたりの名小説を読むの思いがある。これは不朽の逸品といえよう。大切に綿にくるんでとっておきたい気さえ、私はした。「今戸の狐」ではしがない落語家の生活も千住こつのおいらんのなれの果ての姿も今戸八幡辺りの寒々とした景色とともに、よく志ん生は描き出してみせてくれる。

 先代小圓朝門下で圓喬えんきょうに傾倒し、先代志ん生の門を叩いた彼は、早く江戸前の噺の修業はいっぱしに終えていた、圓朝系の人情噺もひととおりは身につけていた。ひと頃先代蘆洲門下に走って張扇を手にしていた時代のあったことも、続きものの読める今日の彼に役立っていないとはいえない。
 ただ、いかにも昔は陰気でひねこびていたのが(私は馬きん時代のこの人の高座をハッキリと覚えているが)、事変三、四年前、初めて三語楼という陽花植物を己れの芸の花園へ移し植えるに及んで、めきめきとこの人の本然の持ち味は開花した。さらに先代圓右の軽さが巧い具合に流れ込み、溶けて入ったことによって、ついに志ん生芸術の開花は結実にまで躍進した。
『寄席』や『圓朝』を一時間も二時間も読んで、時に笑わせ、時にホロリと、自在な腕をふるえるのも、思えばこうした永い年月の粒々辛苦の芸術行路のゆえである。けだし自然であるといえよう。

 文楽と志ん生とが当代の二大高峰であると冒頭に言ったが、幸福にも私は全落語界きってこの両者とは特別の親近の交わりがある。喜びとしないわけにはゆかない。
 志ん生の噺にたいする一家言はなかなか鋭角的で、半歩も他に譲らないきびしいものをもっている。権門にくだらず、ひたすらほんとうの噺家らしい市井風流にのみ活きぬきたいあの心構えも、文楽とともにいい。
 それにはなかなかの勉強家で、よくうちの本箱からいろいろの本をあさっては持っていく。そのくせその本から得た知識がへんにインテリがかったものとなって噺のニュアンスを壊すなんてこともなく、きわめて彼の場合にはいい肥料こやしとなっているらしい。便乗落語しかやれない時がきたらただちに噺家を廃業してしまっていいとつねに語っているこの人の心構えの上に私は、岡本綺堂先生描く「相馬の金さん」を感じずにはいられない。同じく「権十郎の芝居」の、討死しても懐中から芝居の番付を放さなかった芝居好きの江戸侍藤崎を思わずにはいられない。後者はつとに本人も読んで知っていて私たちは絶対あの心構えでありたいとも、ある時の酒間では私に語ったことだった。
 この人の今後の年一年は特異な話術世界への開拓があり、進軍があり、結果はいよいよ芸能界の好収穫となるだろう。現に九月には私の志ん生、文楽両君と主宰している寄席文化向上会で鯉丈りじょうの『和合人』発表の企画がある。くれぐれも加餐かさんを祈ってやまない。
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    橘之助懐古

「この頃になってしみじみ橘之助きつのすけを思い返す。もう東京では人気もあるまいが、しかしあれだけの芸人はいない。――ことに、阿蘭陀オランダ甚句の得わかぬ文句、テリガラフや築地の居留地や川蒸気などそんな時代の大津絵や。
 それから子供がいやいや三味線を引っかかえてお稽古をする、あれなんぞは、どう考えても至上である。――仄かな瓦斯ガス灯からぬけだしてきたような、あの明治一代の女芸人。だが惜しいとまこと思う頃にはこれまた東京の人でない」
 かつて私にこの小品があり、昨秋[#「昨秋」は底本では「咋秋」]、上梓した『随筆、寄席風俗』の中へ収めた。でも、これで見るともうその頃橘之助は先代まどかといっしょになり、名古屋へ去っていたのだろうか。否、私の記憶によるとどうもそうではなく、この時の橘之助はまだまだ圓とはいっしょにならず、どこか別の地方へ稽古かたがた一人で行ってしまっていたのだという気がしてならない。それにしてももう今では「東京の人でない」どころか、この世の人ではなくなってしまった。
「立花家橘之助は、今も六十近くを、あの絶妙な浮世ぶしのばちさばきに、薬指の指輪をさびしく、かがやかせているであろうか※(感嘆符疑問符、1-8-78) その頃(震災の二年ほど前)橘之助は、小綺麗な女中をつかって四谷の左門町に二階を借りていた。
 あたしはそのからす鳴く四谷の秋たそがれ、橘之助自身からそのかみの伊藤博文と彼女にまつわる、あやしい挿話を聞かせてもらったことがある。
 橘之助は、博文公と、かなり、前から深い知り合いだったものらしい。で、公がハルピンへゆかれる時も、その送別の席上、
『こんど、俺が帰ってきたら、有楽座のようなボードビルを建ててやるから、自重して、そこへ年二回くらい出るようにしろ』
 と、橘之助に言った。
『御前、それはほんとうですか』
 夢かとよろこんで橘之助は、公をハルピンへ発たせたが、それから数カ月、ある夜、人形町の末広がふりだしで橘之助、高座へ上がると三味線が鳴らない。べんとも、つんとも、まるで鳴らない。とうとうそのまま高座を下りたが、悪寒はする、からだは汗ばむ。橘之助、何十年三味線を弾いていて、こんな例は一度もない。――昔、何とかいう三味線の名人が品川で遊んで(原武太夫のことだろう、何とかいう三味線の名人とその時の橘之助は言ったっけ)、絃の音色で大海嘯だいかいしょうを予覚したという話さえ思い出して、遠からずこれは何か異変があるのじゃないかとさえ、心ふるえた。
 そうしていやいやながら顔だけ出そうと、ほかの席はすっかりぬいて、トリの恵智十へ入るとたちまち、こんどは、スッと胸が晴れた。そういっても、いつもより、かえって、ほのぼのと、すがすがと、弾いた、歌った、いつもの五倍もはしゃぎにはしゃいで、さて、そのあくる日、湯島の家で昼風呂につかっていると、
『号外ーッ』というけたたましい声々。
 はて――と小首をかしげる間もなくその号外は、
『伊藤公ハルピンにて暗殺さる』
 さてこそなゆうべの鳴らざりし三味線と初めて橘之助、心にいたましく肯いたとは言うのだったが……。
 これを聞き終えた一瞬、妙にあたしは橘之助の、あの大狸のような顔がものすごいありったけに思えて、ぞっと水でも浴びた心地に、四谷の通りへ駆けて出ると、秋の夕の小寒い灯が、ここでも、何がなし、あたしの瞳にいぶかしく、映ったことを記憶おぼえている」
 さらにそれから三、四年してまた私は、あるところへこのように橘之助について、書いたこともある。
 そうしてまだまだこのほかにも橘之助自身から数奇な自伝の一節を、いろいろさまざまに私は聞かされている。たとえば彰義隊のいくさの時の話や、神戸へ行く蒸気船のなかで水銀を呑まされた話や、同じくその船の中で幼少から男装していたため異人の少女にひとかたならず恋された話や、それらはすべて三遊派の宗家藤浦富太郎氏の参与していられた雑誌「鈴の音」へ、立花家橘之助その人の名で、年少の日の私が稚拙の筆を駆り立てて多分一、二回連載で書かせてもらっている。元よりその雑誌、もう私自身も持っているよしもないのであるが――。
 それにしても橘之助、あれほどの一種の女傑でありながら色ざんげらしいことは毛ほども喋ろうとしなかった。まだこっちがてんで子供だったせいもあろうが、前掲した博文公との話でもかつて石谷華堤さんに話したら公との情話らしく扱われてまことに困ったなどと大真面目で語っていたことを思う時、別な橘之助の一面をそこに見せられた気がしてならない。ところで橘之助はこの左門町へ移る前は、やはり薬研堀やげんぼりの路地の清元きよもとの女師匠の二階を借りて住んでいた。そうしてそこの二階のある日の景色もまたそっくりそのまま、私は震災の春、世に問うた「影絵は踊る」という未熟な長篇小説の中へ写し出している。
 このようにして考えてみると立花家橘之助と私とのえにしの絲はなかなかに深く、そういえばその「影絵は踊る」の女主人公も橘之助門下の某女だったし、橘之助と艶名をうたわれた三遊亭圓馬(その頃のむらく)が私の師父にあたっているし、さらに私と多年の交わりがあり、それゆえに昨春[#「昨春」は底本では「咋春」]、七世橘家圓太郎を襲名させた新鋭はたまたま橘之助最後の夫たる先代圓の門人。すなわち今なお私の、橘之助夫妻のため、毎朝念仏唱名している所以ゆえんである。
 さて、そうした縁あればこそだろうか、この頃になってさるところから私は、橘之助の絵葉書三葉をもらった。それは彼女自身の蔵版とみえ、袋に「うきよぶし家元、石田美代事 初代 橘之助」と紫色のスタンプインクが押してあり、内容な年少断髪の高座姿(圓朝賛、圓橘画)とやや老けている時代と、そうして晩年に近いあの姿とである。なつかしい東京の忘れ形見として、いつまでも私は大切にとっておきたいと思っている。
 たった一枚、わが愛蔵の音盤はとっちりとんの「あひるの卵」。何よりパチンと卵の殻の破れるそのばちさばきが至宝である。
 同じとっちりんとんで朝顔の琴の音はあまりにも如実に、三番叟さんばそうへの鈴音は迫真のなかにさんさんとふりそそぐ春の日、またその日の中に光りかがやく金鈴の色を手にとるように見せてくれた。
 ※(歌記号、1-3-28)水戸様は丸に水……という大津絵の「水づくし」も古風で軽妙至極のものだったし、十八番の「狸」には芳藤描く江戸手遊絵おもちゃえの夢があった。
 自ら浮世節家元を唱えていたが、そもそも浮世節とは市井巷間しせいこうかん時花はやり唄の中に長唄清元、常磐津、新内、時に説教節、源氏節までをアンコに採り入れ、しかもそれらがことごとく本筋に聴かし得て、初めてその名を許されるのではなかろうか。それにはまた、曲弾きとはいえ、橘之助の場合、決してただ単に三味線をオモチャにして奇をてらっているのではなく、あくまで姿態や情景をそこにほうふつと見せてくれていたところに立派な不世出な芸境があったとはいえよう。
「狸」といえば、一番おしまいにこの人を聴いたのが、昭和九年秋、東宝名人会第一回公演のしかも初日、死んだ新内の春太夫などといっしょに出演して、いとしみじみと力演したのが「狸」だった。
 そのあくる年の夏、橘之助は京都の大洪水おおみずで、夫の圓と死んでしまった。
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    圓太郎の代々

 私に
南瓜咲くや圓太郎いまだ病みしまま
 の句がある。去年昭和十七年の春、七代目橘家圓太郎を私たちが襲名させ、たった二へん高座から喇叭ラッパを吹かせたままでいまだに患いついてしまっている壮年の落語家の上を思っての詠である。もうそろそろそれから一年目になるこの浅春、だいぶ快方に赴いたらしい手紙を本人からもらい、いかばかりか私はもちろん、平常ふだんからひと方ならず目をかけてやっていた女房も喜んだものであるが、いまだに八王子からやってこないところを見ると、まだほんとうにはくならないらしい。早く治してやりたいものである。病んでも片手にしっかりと真鍮しんちゅうの喇叭を握りしめたままでいるという話を聞くにつけても(この校正中、本人、まったく回復、元気来宅した)。
 私の手もとに襲名の時調べた橘家圓太郎の代々があるから、詳しい一人一人の月旦はまた他日として、この際ほんのメモ代わりに書きつけておいてみよう。
初代圓太郎――江戸湯島住。二世圓生門人音曲をよくす。圓朝の父。
二代圓太郎――圓朝門下、三世圓生。
三代圓太郎――大声の文楽門人金楽。のち圓朝門に入り、圓寿改め圓太郎。
四代圓太郎――圓朝門下、はじめ万朝。かの乗合馬車の御車の口真似して喇叭吹き鳴らし、俗に喇叭ラッパの圓太郎。滑稽音曲噺の達人。
五代圓太郎――四世圓生門下の音曲師、早くより上方にあり、京阪にて終始せり。はじめ二代目圓三、のち先代圓馬門に投じ、小雀、伯馬、小圓太を経て、明治三十四年三月襲名。
六代圓太郎――よかちょろの遊三門下小遊三、公園より六代目を襲う、ひと頃は鳴らせる音曲師なり。
七代圓太郎――先代橘のまどか門下。百圓より七代目圓太郎たり。
 これを要するに二代三代は知らず、他はことごとく音曲師だったわけである。
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   続寄席囃子



    鼻の圓遊・木更津

 昔の芸人には、ずいぶん愉しい心意気の人がいた。
 中でもすててこをはやらせた鼻の圓遊は、
「俺は、まだ、いっぺんも駆け落ちをしたことがない。死ぬまでにいっぺんでいいから、駆け落ちの味を知っておきたいものだ」
 と言って、晩年、とうとうさる商売女を頼んで、木更津まで逃げてもらったそうである。
 頼んで逃げてもらったのでは、まるで京伝の黄表紙にある「艶気蒲焼うわきのかばやき」の浮気屋艶次郎みたいなもので、
※(歌記号、1-3-28)こんなえにしが唐紙の
 鴛鴦おしどりのつがいの楽しみに
 泊まり/\の旅籠はたご屋で
 ほんの旅寝の仮まくら
 うれしい仲じゃないかいな
 と「落人」にあるような味な雰囲気なぞ滲み出そうわけもなくどこまでも艶次郎で、すなわち道行興鮫肌であったろうと想像されるが、本人はどうして、なかなかの御機嫌で、「これでやっと終生ののぞみがかなった」と言ってノメノメと帰って来たそうだから、世話はない。
 いかにも、時世のよかった頃の芸人の横顔をまざまざと見せられる感じではないか。
 お通夜の晩に、お経の代わりに二十五座の馬鹿囃子をやってくれと頼んで死んだのも、この圓遊だった。――その遺言はさっそくに実行されたと聞いているが当時の圓遊はたしか、浅草の三筋町に住んでいたはずだ。
 今のように、落語家がお大名のお下邸みたいな邸宅を構えない時代だから、おそらく一世をときめいた圓遊の住居も、いかにも、旧東京らしい、下町らしい、慎みぶかい人情をもった小意気な世帯だったにちがいない。
 そうした家から、夜をひと夜笑いさざめく声とともに(断っておくが、世に、落語家のお通夜ほどバカバカしく、おもしろいものはない。これだけは今日といえども変わっていない)、テケテン、テンドンと流れてきたろう馬鹿囃子の音色を考えると、明治の末年らしいしめやかな「東京の呼吸」をなつかしく感じないわけにはゆかない。

 ところで、圓遊の逃げた先が上総かずさの木更津だったとのことだが、かの切られ与三郎を待つまでもなく、江戸末年から明治へかけての木更津は、ひと頃の横浜ぐらいに、繁華な文明な、うれしい港であったにちがいない。
 すでに「初天神」という落語の、職人夫婦の物語にも、
「俺とお前が木更津へ逃げた時分のことを考えりゃア……」
 というセリフがあるし、先々代圓蔵が得意とした「派手彦」で白鼠の番頭さんが阪東なにがしという踊りのお師匠さんを病気になるほど思いつめ、とど夫婦になる。
 この、美しいお師匠さんが、お祭りによばれてゆく先もやっぱりかの木更津である。
「義士伝」の倉橋伝助が、まだ長谷川金次郎といって飲む打つ買うの三道楽であった時分、江戸を食いつめて、落ちゆく先も御多分に洩れず、木更津だったと覚えている。
 私は、今から二十年以上――といえば、まだ、十二、三の時であるが――いっぺん、行っただけであるが、夏は町はずれの蓮田へひらく紅白の花の美しさを今も身うちの涼しくなる風情に思い返すことができる。
「木更津甚句」という、明治中世のはやり唄には
※(歌記号、1-3-28)木更津曇るともお江戸は晴れろ
 すいたお方が日にやける
 というのがあった。
 水死した橘之助がよく歌ったが、こんな唄にも、江戸っ子と木更津っ子との、かりそめでない交遊のほどが感じられる。
 いや、圓遊の話が飛んだところへ外れてしまった。

 まだまだ、圓遊には、愉快な逸話がいろいろあるけれど、それらは、あまり、書いてしまうと小説の方の材料にさしつかえるので、勝手ながら芸惜しみをさせてもらう。
 圓遊の速記を見ると、異人館、ヒンヘット、馬駆(競馬)、奈良の水害、自転車競争、権妻二等親、甘泉、リキュール、フラン毛布、西洋料理と、明治開化の種々相が、皮相ではあるが、南京玉をちりばめたように、惜しげもなく、随所に満ちあふれ、ふりこぼれている、あたかも黙阿弥のざんぎりものの、仕出しのセリフを見るように――。今にして圓遊は、清親描くの貼り交ぜ屏風であったのだと考えられる。
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    先代市馬

 庭の無花果いちじくの葉を、朝に晩に採っては、煎じて、飲んでいる。
 宿痾しゅくあの痔疾には無花果の葉が、何よりよいとて、先代柳亭市馬が、かねがねこれを採り用いていたと、噺家たちから聞かされていたからだ。
 そのためだろう、薄黄色い、この煎薬の一番無気味な――ともいえぬことのないほろにがさを噛みしめるたび自分は、きっとあの「のざらし」の巧かった市馬を思う。
 顎を突き出して、いつもブツブツ高座で愚痴を言っていたような調子の市馬を思う。
 大向のない、世をねた、しわがれ声で「あら推量!」をよくうたった市馬を思う。牡丹餅の市馬といわれた先々代は三遊亭だったと聞く。それがたまたまこの老いのわが贔屓ひいき役者の代になって市馬の名前は柳派へと移籍したのだ。
「ざんぎり地蔵」「へっつい幽霊」「のざらし」「石返し」、さては「猫の災難」と、奇妙に、ひねくれていて巧緻こうちなりし市馬。
「バケツの底を拳骨で叩いて、底がすっかり奥の方へめりこんじゃったら、ひっくり返して用いねえな」と、憎いほどおつなことを何の苦もなく言ったりした市馬。
 市馬は木村荘八画伯もずいぶんほめていられたが、「石返し」の二度めにそばやの行燈に書き換えたのをうっかり忘れた与太郎が泣き声で「お汁粉ゥ」と言い、「しるこじゃねえや」と伯父貴に剣の峰を食わされるあたりなど――そう言ってもいい味だった。
 市馬。今は亡き市馬。
 無花果の葉を、煎じて飲むと、自分はひとり市馬を思う。
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    柳桜のまくら

 その歳晩、私の住んでいた小田原の家の南の窓からは足柄、二子が遠く見え、庭先には、冬をも青々とした竜胆りんどうがあり、千日菊があり、千日菊にはまん丸い白い花が咲いていた……。
 さてその時の日記の一節には左のようなことがしたためられている。
「金柑の実も、移り住んだ時には真っ青だったのが、しばらく、仄かな黄色に熟れてきた。
 ここのうちには、だが、ふつうの竹ばかりで孟宗がないのがうらみだから、早く、植えたいと思う。
 南天も、今あるような短いのばかりでなく、たわわのがほしい。
 山茶花さざんかや椿も好きなひとつだ。
 名人春錦亭柳桜の速記によれば、『千利休』のおしえとして、
『樫づんど 若木のつげもちの森 雪隠椿、門に柚の木』
 また、
『客主人ひかえのあとに集め石 ゴロタ履ぬぎ 鞍馬 つくばい』
 とあるそうだが、石の方まではとても私くらいの年齢ではわからないし、事実今はまだ識りたくもないとして、なるほど「門に柚の木」ぐらいはこの上植えておいてもいいような気がする。
 つい、このあいだまでは華やかな暮春の果樹園のみをこよなく愛した自分だが、この頃は、いっそ、夜降る雪に美しい樹々が、心から慕われる。
 それほど、人並みの苦患くげんを少しでも経てきた自分でではあるためだろうか。
 とまれ、小田原の春を待つ日はしずかである」
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    馬楽地蔵

「伊藤痴遊大人『講談落語界』編集のみぎりといわば、大正四、五年頃なるらんか。
 姫野里人といえる人、先々代蝶花楼馬楽が、谷中浄名院なる馬楽地蔵に詣ずるの記を書きしにさそわれ、まだ十二、三の少年たりし己れも、初めて浄名院に詣でたりけり。
 里人が戯文にありし「地蔵尊顔へ烏が糞をひり」の柳句、いかさま当時は鉛筆にて地蔵尊の尊体に記されてはありぬ。
 近時、ふと思うことありて、欠かさず月詣ではじめしも、地蔵尊には
『大正三年一月十六日 釈浄證信士』
 とあり、左楽(現)、燕枝、志ん生、柳枝、つばめ、馬生、小勝、今輔、小せん、文楽(いずれも先代、先々代)の名を線香立て、花立てに刻し、別に三代目小さん、建之云々とありけり。
 さるにても姫野里人とは誰が戯名にや? 春秋二十歳、ついに吾人が記憶より去らねどもわからず」
 この小文をしたためて、もう八年の歳月が経つ。今春だったろうか、たまたま得たそのかみの暴露雑誌「うきよ」(大正三年四月号)には、折がら馬楽の死について葭水四幸という人のこんな記事が載せられているから引いてみよう。
「死ねば深切な人ができると緑雨は言った、死なぬ中に深切な人をたくさん持った馬楽はホンマに幸福な男だ、極楽往生だと言える」
 たったこれだけなのであるが、いかに生前、馬楽の礼讃者の多かったかがわかるではないか。岡鬼太郎氏は早くに馬楽の才に傾倒していたよしであるが、もうこの時代には吉井勇先生が、久保田万太郎、岡村柿紅しこう両氏が馬楽礼讃の、短歌を、随筆を、それぞれ発表しておられ、蝶花楼馬楽の名声はよほど社会的のものだったことがうなずかれる。
 なるほどなるほど、狂馬楽の最後は、必ずしも不幸だったとばかりは言えないかもしれない。
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    小文枝の「三十石」

 今は空しき桂小文枝、「ひやかし」と「三十石」のみ得意として、関西落語の中堅なりしも、その芸風は淡々と手堅く、あてこみのなき高座なりけり。

 小文枝没して数年の今日この頃、その得意とせる「三十石」レコードを聞けば、冒頭、船頭のぼやきわめける一節に曰く、
「この頃は岡蒸気にばかり、我も我もと乗りゃあがってこつとらは風呂屋の煙突を見たかてむかつくのや。ケムの出たるもの見たら、ムカムカムカムカしてかなわんがな」云々。

 ――これ小文枝の独創なるや、前代名人の創作なるや、元より知らねど、明治初年の三十石風景、まざまざ見えて歴史の匂いいと愉しからずや。
 亡小文枝を、何かにつけてこの頃せつに回想する所以のものかくのごとし。
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    「らくだ」

 かつて私は「らくだ」について、左の一文をしたためたことがある。
「三代目小さんが『らくだ』は、京師の名人桂文吾写しのきわめつけなりしが、実体なる紙屑屋のしだいに杯一杯と酔い募りゆくあたり、思い出すだに至宝なりけり。
『うちへ帰れば餓鬼が四人もありやして、ヘイ……毎朝、めしン時なんぞは飯粒だらけの中でおまんまを食べるんで』
 と、いまだ酔わざる以前の紙屑屋が述懐には市井落魄の生活苦滲みていみじく、後段、落合の火葬場へらくだの死骸を運ぶくだりにては、
『田圃だと思えば畑、畑だと思うと田圃という、いやな道だ。すると、そこに土橋がある……』
 に、江戸末年の高田、落合風景うかびて、まことにこの描写、凡手ならずと今に嘆称するのところなり。たまたま花袋がこのあたりの描写にもほぼ同様の一文ありけれ。
 耳癈みみしいて狂死せる朝寝房むらくも、酔いどれの噺は一種いいがたきおかし味あり、ことにはかの折々『ふあーッ』と絶叫せる奇声妙音、また大正末年の寄席風物詩に一異彩たりしが、このむらくも『らくだ』は得意の演題にて、この人のはむしろ後段におもしろき箇所、数多あまたありたり。
 まず、らくだの死骸を背負いし紙屑屋、高田辺りの質屋を叩き起こして、この死骸を質入れさせよ、しからずんばなにがしかよこせよといたぶるの一齣ひとこまあり。
 また、らくだの死骸を街上へ振り落とすに、三代目小さんの手口は、彼ら両名大トラのため、いつとはなしに落としてしまうものなりしかどむらくはしからず。
 首尾よく質屋で小銭を借りたる両名、打ち喜びてまたもやパイ一傾け、いっそ吉原へでもくりこむ気で景気をつけようぜと、ちゃちゃちゃんちゃんら、ちゃらちゃらちゃんなぞ、三下りさわぎの口三味線もおかしく、とど、両名大はしゃぎにはしゃぎだして、焼場の板戸へ突きあたるまでめったやたらに駆け出すため、ここに当然の結果として、らくだの屍骸を振り落とすなり。
 さればらくだと思いて拾いたる願人がんにん坊主が、やがて、かつがれながら後棒のらくだの兄弟分と何やら話すを聞きとがめ、先棒の紙屑屋、振り返りて、
『喧嘩するなイ』
 とたしなめるなぞ、三代目にはなき型にて、むらく創案にや、前人の踏襲にや、とまれ、自然なる錯覚ぶりが、げにや無類の諧謔かいぎゃくなりけり。
火屋ひやでもいいからもう一杯』のサゲの前、炎々たる火焔にのた打ち廻る願人坊主を、それ、物の怪が憑きにけるぞとて、棒押っ取りて打ち叩く火夫の姿は、いと物凄きかぎりにて、やや、もって廻れるの非難はあらんも、これまたむらく独特の場面なりしと今にして思ほゆ。
 ――先代桂春團治が『らくだ』は、一度、紅梅亭の客薄き夏の夜に聴きたるのみなりしが、あの人独自の、おかしくもたあいなき口吻こうふん、天下の珍にて、
『へへ、へえ、ほ、ほたら、やら、やらさせて、もらいま……』
 と、あわてふためいてはいでてゆく屑買いの物腰に、我ら、噴飯爆笑を重ねぬ。
 ――他に上方にては桂圓枝、この噺を十八番となす。紙屑屋の次第次第に酒の廻りて、果てはならずものにくってかかる時、顔面蒼白に見えし「芸」の力、今に忘れず。当代松鶴のはいまだ聴かざれど重量感ありて佳ならんと思う。
 東都にては三笑亭可楽、三遊亭圓生、もっぱら、これをしゃべれど、可楽の「らくだ」はかのならずものなる兄弟分、あまりに調子を張らざるため、全体の噺の感じ、か弱く平板にすぐるをいかんせん。
 圓生のは、いつも折あしく、聴く機なし』

 こんなことを書いてから早いもので、もう八年の月日がそこに経ってしまった。世の中も私も変わったが、噺家の世界もまた変わってしまった。デブの圓生なんか、とうとういっぺんも「らくだ」を聴かないうちに死んでしまった。なぜ贔屓だったこの人の「らくだ」を聴かなかったかといえば、それはこの人の「らくだ」というもの、晩年に手がけだした噺だからである。そうしてその頃私はほとんど釈場へばかり入り浸りで、しばらく噺家の方へは御無沙汰をしていたからである。事変が三年四年と経ち、それが今日のような戦争になり、噺家の世界が急にいろめきだしてきて、私自身もまた文楽の会、志ん生の会、寄席文化向上会と親身に関わりをもつ落語団体がそこへでき、昔日以上のぬきさしならないものが落語界と私との間にできてしまった時、もう圓生はポックリ死んでいて、再びとはあの巨体に接するよしもなかったからである。今にして遺憾のことに思っている(後註――可楽もついこの間、急逝してしまった)。
 さて、もはや、今日の東京の落語界では、当代の「らくだ」役者は志ん生だろう。ついこの間――八月のお朔日ついたち――神田花月の昼席の独演会で、親しく聴いた。蒸し暑い蒸し暑い日なのにわれッ返るような大入りで、人混みの中に汗を拭き拭き私はちぢこまって聴いていた(志ん生、文楽を特別に贔屓の梅島昇もすぐ私のうしろのところに来ていた。そうして間もなく梅島は死んだ)。
 志ん生の「らくだ」はだんだん屑屋の酔っ払っていくあの経路も本筋で、その酔っていく段どり、呼吸、その間の時間の経過、いちいちツボにはまっていて申し分なかったが、何より近所合壁どこへ行ってもらくだの死を喜ぶ人ばかり多いこと、いかにもらくだという男の常日頃の性行のほどが如実に見せられて結構だった。さらにそのらくだの死を喜ぶ具合が月番、家主、八百屋とそれぞれの身分に応じての差違あるにおいて、まことに「芸」とはかかるところにこそあると思われ、ことごとく私は満足だった。そういっても名花名木に親しく接したあとのような爽やかな満足感にいっぱい包まれて、上々の機嫌で私は大入りの花月を立ちいでたのだった。

 昨日近所の眼鏡屋まで来たと言ってフラリと私の書斎へ現れた志ん生は、談たまたま「らくだ」のことに立ち至った時、先代むらくのそれを説いて、むらくには酔っ払った紙屑屋が湯灌の時らくだの髪の毛を剃刀が切れないとて手で引っこ抜く、そのあと、茶碗酒を引っかけるところで、
「ア、髪の毛がありゃアがら」
 と言って茶碗の中のその数本の長い毛を片手で押さえたままグーッとひと息に煽りつけてしまうくだりがあり、このことあって初めて完全にらくだの兄弟分はこの屑屋に圧倒されつくしてしまうのだったと語っていた。私の聴いたむらくの「らくだ」に残念ながらこの記憶はないのであるが、いかにもあのむらくのやりそうな表現で、凄惨である。そういえば早桶を質屋へ担ぎ込んだり、火中に立ち上がる願人坊主の姿を見せたり、死人にかんかんのうを踊らせる以外に、さらにさらにむらくのはなんと棄てばちな人間生活の切れはしをチラリチラリと見せていたものかなと思う(後註――こののち当代小柳枝はわが主宰する寄席文化向上会(大塚鈴本)にて、この演出で驚くべき冴えをみせた。髪の毛のくだりもよく、黒鬼のごとき隠亡の登場も身の毛をよだたしめ、この仁の前途多幸を思わしめた)。

 岡鬼太郎氏が吉右衛門一座に与えた「らくだ」の劇化「眠駱駝ねむるがらくだ物語」は、おしまいに近所で殺人のあるのが薬が強すぎて後味が悪い。岡さんのいやな辛辣な一面が、不用意に表れているように思われる。陰惨の情景は、あくまでむらくのそれのごとく、終始、らくだの兄弟分と屑屋の言動との滑稽の中で発展さすべきである。それでなくても思えば「小猿七之助」以上に陰惨どん底のこの噺の世界は、わずかに彼ら二人の酔態に伴う位置の転倒という滑稽においてのみ尊く救われているのであるから。ということはそっくりそのままおなまにこの噺を頂戴して、不熟な左傾思想をでッち込み、その頃、雑誌『解放』へ何とかいう戯曲に仕立てた島田清次郎あることによっても立証できるだろうと思う。
 それにしても巧い噺家で「らくだ」をやらない人は少なくない。しかしながら「らくだ」のできる人で空ッ下手の噺家ってものは、古来、なかったと考えている。
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    「道灌」と「佐平次」と「火事息子」と
      ――亡き可楽を聴きし頃の手記――

 昨夜の三席は愉しいことでした。三遊亭は、いわゆる寄席でもこの人の持ち味は出ず、研究会(現在の)では会場の関係ではしゃぐ噺以外後方へ聞こえず、結局この「会」以外、めったに全部の「味」の出きらない、およそ特殊な芸風の人とつくづく昨夜は思いました。昔は定員五十人などと愛すべき寄席が街裏にあったと聞きますが、いしくもその頃の噺家の持ち味をたまたま身につけて生まれてきた唯一の人なのでしょう、そういうこともまた涙ぐましく考えさせられました。同時にいつも十枚二十枚ではダメで、七十枚八十枚と書かなければ味の出ない作家ともいえる。
「道灌」は冬を待つ障子の真っ白な色が見え、おつな隠居所らしくうれしかった。久保田万太郎氏が『さんうてい夜話』で書いていられる野村の村雨むらさめのくすぐりも聴かれ、すべて古風でなつかしいものでした。いろいろ孔明その他の本格な故事のいい立ても、まくらの「道灌」ばかりやっていたため※(歌記号、1-3-28)道灌(瓢箪)ばかりが売り物(浮きもの)か――なる地口じぐちができたという故人某の思い出とともに結構でした。ただ三枚目ピンを叱る時の目が少しこわすぎること、それとこの人は時々せっかくの三枚目ピンのギャグをムダに(表現で)してしまうことに新しく気づきました。じつはこの春の「長屋の花見」の時うすうす気づいていたことがさらに今度具象的となってきたのでした。が、まだ、ここをこうしてくれと注文が出せるまで、その難点が的確に私の心の中で構成されていません。もう一、二回、可楽の会へ参じてのちの宿題としましょう。「道灌」や「長屋の花見」のような笑いの多い噺の時、ことに感じさせられる(つまり気になる)点なのです。
「居残り」は私には狂馬楽・盲小せん・先代正蔵の時代を懐かしむ意味で何ともいえないものばかりでなく、この人のは先年もなかなか「品川」が描けていてよかった。今回はまたあの時といろいろちがう演出もありましたし、ことに佐平次が「俺は変わったことをして死んでしまいたいんだ」というような変質的な性格であることはたいへん結構と思いました。変質でいておかしい。つまり今の小半治に肚ができたようなへんな奴だったのだと思います、佐平次って奴は。お客をとりまくくだりの泉岳寺の土産の猪口のくすぐりよく、若い衆がいつも言いかぶされてしまうあたりまたじつに愉しく、これはこの噺そのものも傑されているし、可楽もいい演出をしてくれたのだと思いました。この前は翌朝、戸をあけてフーッと深呼吸をし、磯臭いものを感じさせたが、今度はお台場のことを言って雰囲気を出した。どちらもいい。この次には深呼吸をしてからお台場云々へかかってくれたらいよいよいいと思います。決して両方やってもくどくはありますまい。若い衆をまず芝居がかりで脅かし、また、旦那とかみあう時に同様の手口であるのはどういうものでしょう。芝居口調はやっぱりあとの場合だけ小せん流の「忠信利平」で願いたかった。それにしてもその旦那のヌッと顔をみせるところ水際立ったできだったと思います。若い衆とのやりとりでいっぺん表へ出て行ってしまい、またかえってくるのは狂馬楽あたりにある「型」でしょうか。もちろん、こうやっても差し支えないと思いますが本人の工夫かどうか、三笑亭に訊いてみてください。それから相変わらずさしみだの蛤鍋だの鰻だの(鰻の匂ってくる午下りの女郎屋の景色も巧かった)品川らしい食べ物ばかり並べられ、結構でしたがこの前の時言ったあら煮が抜けた。あれはぜひ加えさせたい、品川という道具立てのために。お引けになった佐平次のところへ友だちが訊ねてゆくところはこの前同様、まことに迫真です。佐平次の長広舌(何回か繰り返す)で「当家へ福の神が」云々は何回も繰り返したが「日の暮れになると坂の上から綱っ引きの車が四台」(故正蔵は自動車でしたが)は一回しか言わなかった。あれは情景の点でもおかし味の点でも、必ず繰り返し繰り返ししてほしかったと思います。が、要するにこののち何回も何回も聴きたい「佐平次」ではあることを申しておきます。
「火事息子」は私たちの心のふるさとだったはるかなる日の下町生活を、郷土の声を蘇らせてくれました。火事のまくらが、「道灌」のギャグと同じちょっと呼吸に損な点があるが(必ず次回にこちらの註文の出し方を掴んでみます!)他はことごとく「大真打」としての芸格あるものでした。先代志ん生にこの演出の速記あれど火消しになった若旦那が夢に母に会って泣いているのを仲間に起こされ堅気に戻れと意見される冒頭など充分にさしぐまれました。人物情景もよく出ていた。たまたま昼間から長田幹彦氏の「蕩児」を読んでいたことも一奇ですが、何にしても私は幼い日の下町を美しく思い出していたのです。古い暖簾、黒塀の質屋、初午の太鼓、いろいろの風物詩がホロホロとうかんできたのです。それだけでたいへん幸福でありました。帰りはみぞれのような黒い雨が降っていました。その中を帰って来て、女房と一杯飲んで寝ました。
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   拾遺寄席囃子



    先代鶴枝

 百面相ではかつて先代鶴枝と死んだ福円遊とについて書いたが、まったくもうあの鶴枝ほどの蛸入道は見られない。すててこの合方早目に桃色の手拭い深く面体包んだ鶴枝の蛸は、それこそほんとうの「蛸」そのものになりきっていた。かなしや泥棒になってしまった今の鶴枝も小まんという人も、やはり一番おしまいに蛸はやるけれど、ははあいまの鶴枝が、小まんが今ああして蛸の真似をやっているなと感じられるばかりである。ところがそこへゆくと先代鶴枝の場合は、演じている人自身の存在なんかたちまち芋畑の芋の葉かげへスッポリコと隠れてしまい、ただもうそこには大きな蛸の跳躍ばかりが、乱舞ばかりが、いと華やかに、いとおおどかに展開されているのだった。今にして特技といわずにはいられない所以である。
 この頃神戸にいる知人から先代鶴枝についてはこんな手紙を寄せてきた。ただし、私は永らく大阪にいながら文中の「部屋見舞」とかいう菓子細工はついに知らないのであるが、たしかに先代鶴枝の技巧的な美しさとは一脈相通ずるもののあるような心もちがしてならない。
 曰く
「鶴枝の百面相は猫八の孤憤、日本太郎の咆哮以上なつかしいもの。お嫁をもらうゆえ、箪笥たんすをゆずってくれと言われ箪笥の奥から姉が嫁してきた時の『部屋見舞』(関西では色や形とりどりの大きい饅頭を作る)松竹梅や高砂のじょううば、日の出、鶴亀、鯛等で今でも布袋ほていが白餡で、鯛が黒餡であったことを覚えている。僕は子供の時、間食は焼き芋と果物だけであとは皆キライで食わなかった。鶴枝はちょっとあの感じである」云々。
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    狸の小勝

 死んだ小勝がしばらく名声隆々としだしてきた頃、「今戸焼」などのまくらで、羽子板には人気役者の二人立ちてのがよくあるが、役者ばかしやらないでたまには小さん、小勝の二人立ちでもこしらえるといい、もっともこの間、あったけれど、それは渋団扇だった、よくこうしたくすぐりを振っていた。
 あの男の独創かと思っていたら、明治三十二年十二月号「文芸倶楽部」には先々代小勝(この間の人のように三升家みますやではなく、三升亭さんしょうていを名のっていた。さらに初代の小勝は江戸時代であるが、声色こわいろに長じ、尾上小勝であったと聞く)の「山号寺号」が載っていてそのまくらに、これははじめから団扇のことにして、
「花鳥を描いた団扇でも、たいていなら三銭五厘か四銭ぐらいで買えますが、これが俳優やくしゃの似顔でも描いてあツて御覧ごろうじろう、六銭や七銭はいたします(中略)我々落語社会の顔なんぞ描いたものなんざアありゃアしません。もっともないことはない、いつぞや小勝わたくしが牛込の夜見世を素見ひやかしたら、あッたから見ると、団扇は団扇だが渋団扇でげす、落語家がすててこを踊ッている絵が描いてあるから、いくらだと聴きましたら、値段ねだんがわずかに八厘、その傍にまた何にも描いてない団扇がありましたから聴きますとこの団扇も八厘、してみると絵の描いてあるのも、描いてないのも同じことで、誠にどうも落語家ほどつまらんものはございません(下略)」
 まさしくこの間の小勝のは、このまくらの単刀直入な換骨奪胎だったのである。それにしてもあのヌケヌケとした小勝にして、己れに「小勝」をなのった以上はよしやまくらはしにしてもこうして先代の何かを継承しようと腐心していたことを思えば、伊藤痴遊氏もかつて憤っていられたごとくこの頃の人たちのただ何でも襲名さえすればいいというのとちがって、さすがに昔の芸人の心持ちといったようなものをゆかしく感じないわけにはゆかない。かくてこそまた芸人の襲名ということにも、伝統の花の香ほろほろと滲みあふれてもこようというものではないか。
 ちなみに、狸の小勝。大柄の、でっぷりとした男で、噺はそうたいして上手ではなかったそうな。風貌、狸に似たりとて、この仇名があった。
 今の伊志井寛君、舞踊家の石井美代さんの厳父である。
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    日本太郎

 さっきの知人の手紙にもあった日本太郎はどうしたろう。恐らくもう死んでしまったろう。日本太郎には、わが青春の明暗二つの思い出が絡まっている。少しおもはゆいが今日はそれを書いてみよう。
 太郎は矮小ないと貧弱な壮士風な男で、お釜帽子をかぶり、懐中から紙の雪を取り出してちらし、ピストルを射ち、捕縄を振り廻し、刑事と怪盗の大捕物よろしくの独劇をやった。また風音で慌しくことあり気に現れて来てあたりを見廻し、
「高い山から谷底見れば、瓜や茄子なすびの……」
 ここまで棒読みのように言って、さて五本の指の尖を上向けて丸く集め、花ひらく恰好を二度(すなわちそれが瓜と茄子との花なのだろう!)やると同時にすててこの時のようなスポッスポッという音を同じく口で二度させて、
「花盛り……花盛り……」
 とまた同じ調子で言い棄ててそのまま下りて行くこともあった。新内流しを合方に皺枯れた先代團蔵の声色は、まだ耳許に残っている。
 また太郎は客席へ針金を張りめぐらしてそこを自在にわたったそうだが、これは私は見ていない。始終蛇を懐中ふところに入れていて、大蛇運転法というのも見せたそうだが、これも私は見なかった。ただその愛用の蛇を振り回しては楽屋のものを脅かすので、連中が音を上げているというような話はしばしばいろいろの人たちから聞かされた。
 それにしても日本太郎、いったい、どういう素性の人だったのだろう。自由党の壮士くずれで、北海道のなにがし監獄を脱監したとか聞いているが、どうもそれはどの程度までほんとうにしていいのか知れたものではない気がする。「一心如鏡」とかいう刺青があり、それを高座でまくって見せたりしたこともあったという話は、かつて金語楼から聞かされた。
 いずれにもせよ、ちょっとすばらしい大げてものだったとはいえよう。やってみせることの全部が全部皆くだらなすぎて、げてもここまできてしまえば、これはこれでまた充分に結構じゃなかったのかと今にしてつくづく思う。
「昔は日本太郎などというゲテものは岡鬼さんの当座帳などでうんとやられたものだったと思うが、今ではその日本太郎味が時に少々ナツカシクなるなどは、星移り時変わるですね」
 と木村荘八画伯が「寄席冊記」(大正十四年)の中で言っていられるのももっともで、大正十四年にしてすでにしかり、昭和十九年の今日、初老の私が昔なつかしくこれを書いているなど、ことわりすぎて道理なりと言いたいくらいのものだろう。
 さてその日本太郎が松葉とかいう色の黒い馬面の女とつるみ高座でそののち睦の寄席へ現れ出したと思ったら間もなく消えて、震災の翌年の九月には、牛込肴町の柳水亭という端席へ、独演会の看板を上げた。ひどい晩夏の土砂降りの晩だったが、私はいそいそ聴きに出かけた。白状してしまうが、この、いそいそは単に日本太郎聴きたさのためばかりじゃなかった。
 じつはその頃婚約していた宝塚のある女優さん(レビューガールの語はまだ日本にはなかった!)がやっと数日の休暇をみつけて(私の方からはしじゅう上方まで逢いに行っていたが)明日は上京してくるという、すなわちその前夜だった喜びもなかなかに手伝っていたにちがいない。その興奮の対象にされた日本太郎こそまことにいい面の皮だったともいえようし、ためにお客一人増えたのだとすればまんざらでもなかったのだともまたいえよう。柳水亭はその後、勝岡演芸場となって晩年の若水美登里などの安芝居の定席となり、のち東宝系の映画小屋となってしまったが、電車道に沿って二階いっぱいに客席のある寂しい小屋だった。かてて加えてひどい大雨の晩だったので、お客はせいぜい二十何人くらいしか来ていなかった。定刻の六時になると文字どおりの独演会で、奴さん、前座もつかわず、ノコノコ高座へと上がってきた。そうして、近所の牛込亭や神楽坂演芸場かみはくの落語家たち(ついこの間まで彼自身もその仲間だった)の独演会のやり口を口を極めて罵り、自分のような、この、こうしたやり方こそがほんとうの独演会なのだとまず気焔を上げた。今の奴らは一人っきりでひと晩演るだけの芸がないのだというようなこともしかしながら言ったように覚えている。聴いていてへんに私はうれしくなった、恋ある身ゆえ、なにを聴いてもしかくうれしかったのかもしれない。
 続いてまず最初は音曲噺を、と、「箱根の関所」を一席、演った。ただ単に演ったというだけのもので、決して巧いものではなかった。むしろハツキリと拙かったといえる。でも、それもうれしかった、やはり恋ある身ゆえに、だったのだろう。
 それから雲節で「大正震災記」の浪花節を唸った。被服廠ひふくしょうのところでお婆さんがどうしたとかいう奇妙なくすぐりがあったように覚えているが、もちろんこれも塩辛声で、てんで法返しのつかない代物だった。そのあとで今の音曲師は本筋の都々逸の歌えるやつがかいくれいない、そもそも都々逸には芝派と江戸派の二つの歌い方があるのだ、今夜の俺はすなわちその芝派のほうを聞かせてやろうとさんざん能書いたのち、やおら歌い出した都々逸二つ三つ、しかもまたこれが思いきり拙かった。危うく私はふき出してしまうところでさえあった。でも、やっぱりそれもこれもただやみくもにうれしかった、同じく恋ある身ゆえに、だったのだろう。
 続いて場内を真っ暗に、辮髪べんぱつの支那人姿となって現れ、その辮髪の先へ湯呑み茶碗の中へ蝋燭ろうそくを立てて灯を点したのを結びつけると、四丁目の合方おもしろく、縦横自在に振り回した。幻燈の花輪車かりんしゃのよう辮髪の先の灯は、百千ももちに、千々ちぢに、躍って、おどって、果てしなかった。まさにまさしくこれだけは逸品だった。二十人あまりのお客たちが言いあわせたように拍手をおくった。いよいよ私はうれしくなった、くどいようだが恋ある身ゆえに。
 でも、いつまで恋ある身ゆえにいつまで恋ある身ゆえにと喜んでばかりはいられないことが、たちまちそこへやってきた。はじめて浴びた満場(といっても二十人あまりだが)の拍手に気をよくした日本太郎はにっこりとすると、
「ではこれで仲入りとするが、あとは客席へ下りていって諸君の腕をへし折り、たちまち元のごとくに直してごらんに入れる」
 こう言ってサッサと下りていってしまったのだった。いや、おどろいたね、これにはどうも。だって二十人あまりこの客ではいつこの私がポキンと腕を折られまいものでもない、さてその折られた腕が再び元どおりにならなかったとてそれこそとんだ「太鼓針」で、相手が日本太郎では喧嘩にもならない。かく思い、かく考えてみてほんとうにその時私は心の底の底のまた底まで青くなって、そこそこに柳水亭の階子段を駆け下りて下足をもらうとまだ土砂降りの往来へと飛び出してしまった、それこそそれこそ恋ある身ゆえに。
 かくて二年の歳月相経ち申候。
 くわしい経緯は書く必要がないから言わない、意地っ張りの私は意地を張ってその頃人気の頂点にあったその宝塚の女優さんとの婚約を解消し、上方三界を自棄にほっつき歩いていた。宝塚の人と別れたのにわざわざ上方へ漂泊しにいく手はまったくなかったのだが、なぜかその頃私の作品は「苦楽」はじめ「週刊朝日」「サンデー毎日」と上方の雑誌ばかりが歓迎してくれていたので、飛んで火に入る夏の虫みたいだったが、けだしヤムを得なかったのだった。ひどい深酒ばかりしては囃子哀しい法善寺横丁の花月や紅梅亭へ、連夜のようにかよいつめて、せめてもの憂さを、亡き枝雀や枝太郎や春團治の高座高座に晴らしていた。その頃反対派の大八会といういたってしがない寄席の方に、たまたまこの日本太郎が出演していた。相変わらずの柔道着で「瓜や茄子」や独劇などを演っていた(同じ頃この派に雌伏期のアチャコがいた)。でもその時例の松葉とかいう馬面の女はもういっしょに出てはいなかった。しかも同じ頃誰かから聞いたところによると、松葉は十二階下あたりの魔性の女で、すっかりはまり込んでしまった日本太郎がこの女ゆえに仲間とも別れ、妻子をも棄て、大阪三界のそれも端席へと落ち込んでしまった、しかも太郎に棄てられたことを苦に病んで死んでしまった女房をさすがに哀れと思ったのだろう、一日、松葉と二人天王寺へ亡妻の骨を納めに行く途、通りがかりの自動車にかれて松葉は即死し、さしもの日本太郎は、今はいと味気ない日々夜々おくっているわけなのである、と。
 そう聴かされて私はさすがに他人事と思えない哀れを覚えた。覚えずにはいられなかった。神祗釈教恋無常と人の世の味気なさをさえずっているものは、すなわち私一人でなかったのだった。でもそののち上方に、小田原に、東京に、その女優さんと別れてからの私の生活は、ことごとくいけなかった。かくて私の「青春」はすべて暗黒だったと今にしてハッキリと言いきれる。
 かくてまた五年の歳月経ち申候――昭和五年。
 その、初夏のある朝、これももう亡くなった小奇術こづまの巧かった弄珠子ビリケンと、私は名古屋の大須観音境内を、中っ腹の朝酒でブラブラしていた。いよいよ自棄に身を持ち崩していたその時の私は、もう噺家の真似事をしていて、新守座の特選会へ出ていたのだったが、その時ぼくしていた世帯が少しもおもしろいことはなく、しかも未見のうちから密かに会見を楽んでやってきた今度私と新守座へ割看板の、その頃新橋教坊の出身で、新舞踊をよくする人とは会談どころか出演料のことで二日目から正面衝突をしてしまい、よりどころなき憤満を、折がらの朝酒に紛らわせてはいたのだった。
 たまたまそこへ皮肉にももうその頃新国劇へ転じていたかつての婚約者たりし宝塚の女優さんの名の入った近日びらの、市中至るところ、薫風にひるがえっていたことも、いよいよ私にはいけなかった。日夜の乱酔へ、そういっても拍車をかけずにはおかなかった。しかもその時ハッと我が酔眼に映じたものは、かの日本太郎その人が、路上、短冊色紙の類いを数多く並べてうっていた世にも佗びしい姿だった。都々逸ひとつ歌っては「ひとつやることが学問のある仁はちがう」とうそぶいていたくせに、じつは新聞一枚満足に読めなかったそうな太郎は、その代わり高座でもよく稚拙な絵の曲描きはやっていた、下座に「夕ぐれ」などを弾かせて。今まさにその稚拙画を色紙に短冊にぬったくって往年の日本太郎は、道ゆく人々にわずかにそれを沾ってはいたのだった。
いささかの未練はのこれ 野悟となる 身のはての何を思はむ
 かつてわが師、吉井勇はこの詠あったが、その時の私も殷鑑いんかん遠からず、今目先まなさきにある日本太郎の姿こそ、やがてくるべき日の自分自身であるかのごとくしきりに考えられてならなかった。そういううちも出演料のことでもめている割看板女史のことを考えるとまた新しい憤りさえみ上げてきて、すぐまた私はビリケンをさそい、傍らの飲み屋へ入っていった。一時間、酒が切れると、すぐ手がふるえ、舌が痺れる、よるべないその頃のアル中の私、重ねて言うが、明日の知れない、人生いとも暗澹あんたんのその頃の「私」だったのだった。

 でも、人生のことはわからない。
 それからまた十一年の歳月が相経ち申候の時、なんと私はその新守座へ割看板で出演し、即日、確執を生じてしまった人と結ばれて夫婦になった。すなわち今の女房である。
 私と同じくのざらしとなるかと危まれた日本太郎も、花街にあった娘に良縁があり、どうやらいっぱしの楽隠居になって老後安楽でいるとか、あるいはもうめでたく一生をおわったとか聞いている。わが身に引きくらべてもこの畸人きじんの晩年だけは、安らかなれと祈りたい心持ちでいっぱいである。
 それにしても再び言うが日本太郎、何が動機でああいう大べら棒な芸を演るようになり、また数奇な一生を経たのだろう。そのうち左楽老人にでも、とっくりと聴いて見たいと思っている。よほど、小説的な前半生があるのかもしれない。
 さて宝塚から新国劇へと転じたかつての婚約者には十日ほど前、街上、ゆくりなくもめぐりあった。私より二つ年上だったから四十三歳になるのだろうその人は、近頃あまりいい精神生活ではないのだろう、小肥りなくせにへんに佗びしくなってしまっていて、自ら勢い立っていたあの頃のおもかげは見るよしもなく、春曇りの午後、佗びしく私は、四谷、さる街の十字路で右左に別れてはきたことである。





底本:「寄席囃子 正岡容寄席随筆集」河出文庫、河出書房新社
   2007(平成19)年9月20日初版発行
底本の親本:「随筆 寄席囃子」古賀書店
   1967(昭和42)年5月刊
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年1月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について