異版 浅草燈籠

正岡容




花川戸の家


 人生辛酸を幾多経た今日でも私の記憶から喪失することのできないのは、三歳から十四歳までの春秋をおくつた浅草花川戸の家である。祖父、祖母、大叔母、小婢と私の一家五人が、世の中も亦平穏多倖なりし明治末年から大正中世までを何苦労もなく起臥してゐた。五渡亭国貞の絵がいかに婉やかに美しいか、それを教へたのはあの大そう腰の曲つた祖母であつた、児雷也豪傑譚や白縫譚さては万亭応賀の釈迦八相記がいかに怪奇で悲哀であるか、それを知らせて呉れたのはあの切髪にしたいろの黒い背の高い大叔母であつた、『江戸砂子』の作者菊岡沾涼の息と己とはありし日の茶飲友だちであつたわと私に屡々語つて呉れたは、顔一めんの痘痕のあとの子供心にも怖しかつた祖父であつた。それかあらぬか祖父は月並の発句もやつたし、川柳点の狂句もやつた、『柳多留』の原本と手摺れて光沢のでた古碁盤とは、いつも祖父を偲ぶとき、なつかしくわが目の前にあらはれて来ずにはおかない。
 祖父はつひに死ぬまで「東京」を「い」と発音し、また「日々新聞」を「ひびしんぶん」、「台湾島」を「だいわんたう」などと云つてゐた。祖母は「ステイション」と云ふ言葉が「すてんしよ」としか云へなかつた。私がそのころ「郵便局」と云ふより「駅逓」と云つた方が合点が早かつたのも大叔母の感化に他ならなかつたのであらう。即ち私はかゝる旧弊至極なる徳川文明の灯かげ一と時代前の生活の中に育まれては来たのである、と云つたら、人、今日のわが作品のあり方に付いても微笑んで肯つて貰へるであらう。

 花川戸と云つても私の家は、講談「安政三組盃」中の与力鈴木藤吉郎の妾宅や落語「清正公酒屋」の虎屋饅頭お仲が清七との仲を割かれて隔離されてゐたごときすみだ川沿ひではなく馬道の通りの中程から東へ折れた新道にあつた。従つて私の家のおもて二階からは観音堂や仁王門五重塔さては弁天山の鐘撞堂などが、大銀杏の木かげ東錦絵のやうに美しく見えてゐた。この鐘楼では近火のたびに早鐘を撞き鳴らして一種、もの/\しい不安の念を、私たち少年の耳に響かせた。
 私の家は五十坪に足らなかつたが、それでも町内では筋向ふにあつた鼻緒商の隠宅の六十坪に次ぐ広さであつたため、よく「坊つちやんのお家はお広いから」と近所の人々が私に云つた。その鼻緒商の家には大きな蒼々とした桐の木があり私のところの小庭にはそれ丈けが少し不釣合ひな位小高い松ヶ枝が一ともと忍返しの上へもの/\しく聳え立つてゐた。さゝやかなる築山には皐月さつきが群生してゐて早夏真紅の花を燃やし、松の根方の八重山吹はまた暮春黄色い花を朽井戸の底深くへと散込ませた。沈丁花、山椒、野木瓜むべもちそれに泉水ちかく老梅の古木が、蜿々として奇なる枝振りを、見事に撓り、屈らせてゐた。私は大雪の夜など祖母とたゞ二人お湯へ入つては庭に面した小窓の障子を、湯槽の中から手を伸ばしてはそつと開け、子供ごころにも白一といろの世界の中におもしろい枝振りを見せてゐるこの墨絵のやうな老木を、眺め愉しむことが屡々であつた。さうした雪になる直前の、つまりいまにも白いものゝちら付いて来さうな冬の夜の記憶も亦忘れられない。路次いくつか隔てた遠方の町行く法印の法螺貝の音は炬燵にひとり魯文の『花ごろも狐の草紙』、京山の『朧月猫の草紙』などの挿絵に興じてゐる私に何とも云へないこの人の世の寂寥をつたへて来た。『狐の草紙』は狐を善玉、狸を悪玉いづれも遊侠の徒に見立てた「粋菩提悟道侠客」と云つた式の擬人化仕立の草双紙であつて、花吹雪切りなる某の社の大石段に五人男の勢揃ひにさすやうな太文字名入りの傘さした狸の親分が八畳敷を伸ばしに伸ばし、それに無惨に押敷かれてゐるわかい美しい雄狐の姿などどこまでも歌舞伎仕立で幼い私の目を喜ばせた。『猫の草紙』の方には懐紙咬へた猫の花魁が、妓楼の大屋根、暮春の月ゆらぐ天水桶に媚しいその面写して慨いてゐる国芳腐心の構図もあつた。此にはとら猫ぶち猫雉猫の善悪それ/″\が入り乱れてゐて、じつは当時幕政の一端を猫に擬らへて揶揄したもので、幾何もなくしてお咎めを蒙り板木を取壊されたものであると成年ののち私は知つた。後年、猫々道人を名乗つた前掲の仮名垣魯文も、『狐の草紙』と前後して、「※(「金+英」、第3水準1-93-25)こがね花猫の目鬘」なる猫の擬人化小説をば世に問ふてゐる。恐らくや後学魯文は大先輩京山が猫の草紙の後塵を拝したものなのであらう。
 私が今日、小動物、殊に猫を太だ愛して熄まないのは、この幼年時の京山や魯文、と云ふよりも国芳や芳虎の少からざる影響であらうと考へられる。寒詣りの「さんげ/\六根清浄」と叫びながら走つて行く腰の鈴の音が切りに聞えだして来るころになると、私の家の前には甘酒屋が朱塗りの台の上へ金いろの釜を仕込んだ荷を下ろした。「甘いイイ甘酒」の声がすると、大叔母が窓から、茶碗を突きだしては、「甘酒屋さん」と呼んだ。私は、床の中で飲む一杯の甘酒に、そのじぶん寒い/\夜の来るのが楽しみであつた。頭へ古い手拭を乗せた婆さんが破れ三味線かき鳴らして軒に立つのも同じやうな冬の夜が多かつた。大叔母は必らず大きな二銭銅貨をやり、稀には白銅貨を与へることもあつた。従つてこの路次の中で私のところは、婆さんにとつては有数のいいお得意に数へられてゐるらしかつた。「我がもの」だの「柳橋から」だの「御所車」だの「とつちりとん」だのを精一杯にやつた。だが婆さんの腕前は余り結構のものではなかつたらしく、とき/″\三味線の手をまちがへたりすると、祖母と大叔母とが火鉢を挟んでゐる顔と顔とを見合はせて、軽蔑したやうにくすりと笑ひ合つた。婆さんはそれでも何でもやる丈けのことをやつてしまふと「左様なら、有難うございます」とがさ/\したやうな声で云つて、路次の溝板踏鳴らし/\かへつていつた。私はたうとうこの婆さんの顔を見ずじまひであつたが、いづれは中流以下の妓籍にあつたものか場末廻りの女芸人が数奇な生涯のその果ての門附稼業であつたのであらう、二た冬余りでぱつたり婆さんは来なくなつた、陋巷にさびしく死んでいつたのかも知れない。
 そろ/\夏ちかくなつて来ると、私は庭の泉水の水を換えてやるのが、何よりもの楽しみであつた。泉水と云ふと体裁がいいが、ほんの小さなセメントの池で、緋鯉や鮒や鯰や金魚や独逸鯉などが私の玩具に泳いでゐた。しかし私は中学校に入る年になる前後から何か桜か桃か杏か李か、春の旺りに一杯に美しく花の咲く樹をこの池のほとりへ植ゑて見度いと考へだした。幼少から親がなくこの年寄たちとも間もなく一、二年後にはことごとく死別しなければならない運命にあつた私は、そのころからそろ/\寄辺なき身を怨み佗びる性情が、心の片隅に巣を喰ひはじめてゐたのかもしれない。姉と妹のないことをおもつて死ぬやうに寂しくなつたのもそのころである。いまゝではたゞ美しいとのみおもつて見てゐた国貞の絵の面長のお姫さまや返り討になる若人の顔容が云ひしれぬもどかしさと悩ましさとを、少年の胸に縫込むやうになつて来たのもそのころである。私は公園の小屋で見た松旭斎小天勝の美貌に恍惚とし、小天勝と綽名された年上の女学生に恋文をおくつたりした。小天勝は行状の定まらぬ女で、愛慾流転、数年後、師の天勝から破門され、天華と名乗つて旅先に狂死した。トーダンスの高木徳子が此又旅興行中狂死したのも、小天勝の死と相前後するころであつた、とおもふ。私の家は細い路次の奥の井戸(間もなく共同水道となつた)の隣りにあつて、古びた腰障子やうの格子がはまつてをり、開けると薄暗い一めんの土間であつたが、されば公園などへ遊びにいつてゐてはかへつて来て、この格子を開けるたび誰か親戚のわかい女のひとでもやつて来てゐて赤い鼻緒や黒塗りの東下駄でも脱いであると分るたび、忽ち私は全身に救はれたやうなぱつと明るいものを感じておもはず上り框へと飛上がつては夢中で座敷の方へ駈出して行つてしまはずにはゐられなかつた。
 わかい女と云へば、筋向ふの桐の木のある鼻緒商にも揃ひも揃つて美しい背の高い姉妹が三人ゐたが、何かの手ちがひから急にその家が潰れて四散してしまつた。私は文学者志望の念に駆られだしてのち、島崎藤村が序文をかき竹久夢二が美しい下町娘とその背景をなすところの昔なつかしい並蔵と堀割とを表紙に描いてゐる北川浅二と云ふ作者の『下町物語』の一冊をば翻いて、文中偶々この鼻緒商の娘と全く同じ哀切の運命にある下町旧来の評判娘の追懐録に遭遇し、往時を想つて懐旧の情に耐へなかつた。尤もそのころ最早私の家も亦祖父が不正無尽の会社に関与して家財を蕩尽し、筋向ふの鼻緒屋同様の落魄裡に次々と老人たちは死んでしまつてゐたので、一そうかうした感傷の念に駆られたものかもしれない。『下町物語』の作者は京橋大根河岸の住、のちにこの仁も亦狂死したとか聞いてゐる。
 さるにても私は、間もなく浅草と別れ、花川戸の家と別れ、慕はしい年寄たちには死別、山の手の偽善づくめの官員屋敷許り立並んでゐる邸町の生活の中へ引取られていつたのであるが、境遇の激変は一そう私をして浅草を、花川戸界隈を、年寄たちへの哀慕の念と共に恋々と追想させないわけには行かなかつた。
 花川戸の私の家の裏通りは、俗にかしらの横丁と呼ばれ、土蔵造りの仕事師の家があり、その頭の家の前の横丁には助六稲荷と呼ぶ淫祠があつて、御神体は助六が江戸紫の手拭であるとつたへられてゐたが、その祠を取巻いてベイ独楽ごまに興じてゐる子供たちの姿も、絶えず山の手の一角に佗び住んでゐる私の目先にいとほしく蘇つて来た。そのくせ私はお祖母さん子の内弁慶で、浅草にゐるじぶんにはおもてで近所の子供たちと遊ぶなどおもひも寄らない意気地なしなのであつたが、蓋しそのときの私は余りにも烈しい望郷の念にと駆られ過ぎてはゐたためであらう。
 山雀やまがらの曲芸やダークのあやつりが客を呼んでゐた奥山花屋敷の古風な木づくりのもん
 しつとりとさびしいいろを見せてゐたあの常盤座の海鼠壁。
 三友館には電気応用キネオラマの見世物があつて、花の巴里か倫敦か、月がないたかほとゝぎす、古風な西洋館の窓々の灯へはすさまじく大夕立が降りしきつてゐた。同時にそれらの景色も亦そのとき遠い佗びしい山の手から歴々と万花鏡のごとく哀しく美しくわが目前に泛んで来ずにはゐなかつたのである。
(大正十三年六月「文章倶楽部」、昭和十七年一月、同廿二年七月改稿)

黄楊垣


 浅草の三筋町から腰屋橋へ抜ける、とある裏通りに、称念寺と称へる可成巨きな寺院があつた。本堂の裏手にお定まりの墓地があり、黄楊の生垣が墓場の周囲を黒々と丈高く囲んで繁茂してゐた。
 私は幼少の砌り三筋町に医を業とする近親があつて、屡々その邸に於て日没過まで遊んでしまふと、かへりはそのころ漸く流行の兆を見せそめて来てゐたゴム輪の人力車に乗せられ、お土産のお菓子の包みをしつかりと手に持たされて、亡き大叔母と共にさして遠くない花川戸の家までおくられてかへつて来るのが習ひであつた。三筋町の医家は当時のいかにもさうした稼業の家にふさはしい、旗本屋敷の後でゞもありさうな、大玄関の構へを持つた、いかめしいお屋敷で、門内には巨大な橙の一樹が植ゑられてゐて、年々歳晩にはたわわに黄色い実を熟らせた。庭も広く紅白梅の林を前にした大きな池には年古る緋鯉が無数に住んでゐて、春は梅花が落ちて来る度毎に忽ち水面に浮びでて来てパクリ大きな口を開いてはその花片をば啖べた。そのころ未だ珍しかつた西洋館も霙いろのペンキもて塗られたものが離れ家として建てられてゐた。同じく池や築山があると云つても市井塵埃の境にある私の家の箱庭同様とは問題にならないほど本格のものなので、さうした環境に遊ぶことが珍しくて嬉しくて、つい/\いつも遊び過しては日が暮れてしまひ、俥の厄介になつてはかへるやうな旨義とはなつてしまふのであつた。
 さても私を乗せた人力車は、いつもこの三筋町の医家をでると、すぐさま前述の称念寺に沿ふ暗い通りへと曳込んで行くのが例であつた。震災ちかくまでも稀にしか燈火の洩れない随分佗びしい場末のやうな屋並で彼処から堀田原を抜け、田原町の蝋燭屋のところへとでるまで殆んど灯らしい灯のいろをみいだすことはできなかつたと云つてよかつたが、そのころはさらに/\それが烈しく、殆んどあの大寺の裏あたり、明りと云へば頭上の夜空に微かな星明りを仰ぎ見るのみであつた。
 私はいつも大叔母の膝の上にゐて、幌の間からそつと覗いて見ると、正面には寺の大屋根が悪魔のごとくそゝり立つて聳えてをり、一円の闇の中には黒々と黄楊の生垣が繁り茂つてゐる。垣の合間から人魂のごとく散見されるは、大方卵塔場の新仏の提灯でゞもあらう。加ふるにこの闇夜行路の合方には、折柄、どこやら切りに梟の声が聞えて来、その声にまじつてしづかに私を乗せた人力車のゴム輪の響きが空怖しく衍して戻つて来る許り。そのころ私は三筋町の家へ行くことがじつに/\楽しみであつたが、かへりに称念寺のこの横をとほることは云ひやうなく怖しかつたので、成可けふこそは、明るいうちにかへらうとはおもひながらも、つい日のあるうちには遊びに夢中で且つ彼処をとほつてかへると云ふことも、さまでの苦患くげんではないやうにおもはれては日の暮れつくすまで遊んでしまひ、人力車へと乗せられたのち、はじめて取返しの付かないことでも仕出来しでかしたかのやうに悔恨するのが常であつた。で、成可俥の中にゐる間は目をつむつたまゝ行くのであつたが、しかしながら目をつむつてとほり過ぎてしまふことも亦却つて一としほ不安のやうにおもはれては、またしてもおもひ切つてそつとおもての方を覗いて見るならばいまも云つたやうなまるで死神の顔とでも真正面に相対したかのやうな空怖しい四隣の光景。おもはずぞーつと私は見まじきものでも見たかのごとく慄へ戦いてはしまふのであつた。即ち当時の私にとつて怖しいものは全く貧でもなく、死でもなくたゞこの烏羽玉の夜であつた。夜が生むかずかずの謎と恐怖の物語への聯想であつた。その中でもとりわけこの称念寺の黄楊垣ほど、少年の日の、私の心をば、極度に恐れ、戦かしたものはあるまい。
 成長ののち私は永井先生の「下谷の家」一篇を読むに及んで、明治廿年前後の小石川富坂辺の物凄かりし光景の叙べられてあるのを見て、先生にも遠い幼年の日には私の感じたと同じやうな怖しさを味はれたことのあるのを知つて何がなし微笑まれずにはゐられなかつた。

 称念寺
黄楊の真垣まがきの青むころ
再び君を見じと誓ひぬ

 再び私が称念寺裏を頻繁に往来しだすやうになつたのは、それから幾年ののちであつたらう。最早三筋町の近親の家も遠い昔に人手に渡され、見事であつた庭の紅白梅も容赦なく伐り倒され、かの大緋鯉も生きながら埋められてしまひ、あとには市区改正後の俗悪極まる安普請の長屋がところ構はず建て列ねられてゐる哀しいそのころの春であつた。私はこの称念寺から程遠からぬ陋巷に住む寄席芸人のわかい女を埒もなく恋しつゞけて、伝へ聞く女義太夫の堂摺連やそのころ浅草六区に大人気だつたオペラ女優に於るペラゴロのごとく、日夜、この女芸人の後許りを根気好く追廻してはゐたのであつた。
 だがそのとき称念寺の黄楊垣も亦、最早昔日のごとくに丈高い物凄い繁茂のさまを見せてはゐなくなつてゐた。何しろかの親戚の家の見事な緋鯉さへも生埋めにされてしまふ怖しい世の中。切られて焚付けにされてゐなかつた丈けがめつけもので、羽抜鳥のそれのごとく疎らに貧しい生垣許りが断続してゐて、そのところ/″\には野犬の闖入を防ぐためのペンキ塗の木柵さへ、至つて殺風景に建てられてをり、此では深夜通行したとて、さのみの凄味をさそはれようともおもはれなかつた。私は只管現在の愛恋の失意を哀しみ、それに引代へて幸福なりし幼年の日のことをおもひ泛べてのみ、この寺の見るかげもなく貧しくなり果ててしまつた黄楊垣に人知れぬ愛情をば注いでゐた。

 その寄席芸人とのカタストロフは、拙作小説「下町育ち」中に言及したから贅さない。虚子が「俳諧師」の小光の場合に相似してゐる。永井先生が「雨瀟々」の趣味ある家業家ヨウさんの幻滅振りにも亦頗る相似てゐると云つておかう。傷春のいやはて、荒涼暗澹と私がしてしまつたとき、早や浅草の空には春がおとづれて、十二階のガラス窓の一つ一つに薔薇いろの春日がかゞやき、孕み女のそゝ毛髪のごとくなり果てゝしまつてゐる称念寺の黄楊垣にも流石に一とすぢ仄青く芽むものがあつた。
(大正十三年三月初稿、昭和十七年一月、同廿二年盛夏改稿)

十二階懐古


 これやこのピサの斜塔にあらねども凌雲閣はなつかしきかな。師、吉井勇に嘗てこの詠があつた。私の記憶にして誤りなくんば大正癸亥大震の前年あたり、第二次「明星」誌上へ発表されたものである。竹久夢二が大正中世上木した歌集『山へ寄する』中にも、何ゆゑの涙と聞くや汝も見よ上州の山甲州の山――が収められてゐて、一誦するたび十二階頂上の大観が手に取るやうに目前に蘇り、太だ懐旧の念に耐えない。夢二にはもう一首、東京百美人の写真もいまはなしの上の句を持つた作品があつたはずであるが、今日、ひとり口中に誦して見て私はどうしてもその後半の詞をおもひだすことができない。
 少年時代を浅草におくつた私の胸底には、いつも凌雲閣十二階高塔の赤煉瓦が存してゐる。屡々私が昇降したころ最早この塔内に洗ひ髪お妻の艶名を洛陽に高からしめた東京百美人の写真は飾られてゐなかつたが、二銭銅貨を投じると極彩色東京名所写真十二葉が音匣の音いろも哀しく展開される覗眼鏡は各階毎に設置されてゐて私共少年の見物人を愉しませて呉れた。また、風の吹く日は大そう無気味に揺れ動く暗い狭い廻り楷子が頂上まで通じてゐた。大正初世には十階目までエレベーターが開通するやうになつたが、その十階目で昇降機の利用者に限り甘酒の接待があつたことから考へるとこのエレベーターは、入場料以外の料金を徴つてゐたものゝやう、今日にして考へられる。十二階頂上の四方には厳重の金網が貼り巡されてゐた。一ところ流行した遊覧客の飛降自殺防止のためである。奇矯瓢逸の講釈師、当代の神田松鯉は先年、十二階飛降り自殺者が塔下の魔窟の屋根へと落下したと云ふ実話を、何かの講談の挿話に引用して聞かせて呉れたことがあつた。
 東北線車窓から眺めた十二階、上野西郷銅像畔また向島堤から見渡した十二階、さては六区瓢箪池へ真逆様にその塔影を映した十二階、いづれも開明東京の美観ならぬはなく、この二百幾十尺を数へる尖塔の姿こそ、ほんたうに文明開化東京の象徴だつた。黄昏ちかく深紅の夏日が反映すると塔の玻璃窓のことごとくが燦然たる赤光を放つことも亦美しい奇観であつた。やがて宵闇の中に包まれつくしたこの塔の姿は宛かも涙香文学中の怪塔のやうで、かゝる折の窓々の灯のいろは一としほロマンティックに濡れかゞやいてゐた。あゝ、松崎天民はそのころかの黒眼鏡の巨躯をば運んで、この塔下なる淪落の女たちに感傷の涙を濺いでゐたことであらう。
 十二階下の演芸場には小芝居の施設があつて、都桜水、有田松太郎、井田寒三、藤井弥之助、坂田半五郎、中村鶴若、市川かほる、高山吉雄、嵐璃昇などと呼ぶ所謂緞帳役者が出演してゐた。もちろん、私は此らの人々の来歴を詳にしてゐないが恐らくや小芝居の俳優中の大半の経歴と同じく彼らとても一とたびは檜舞台を踏むの機会を有しながら、自らの性情その他が原因して失敗衰残の後半生を六区高塔下の舞台の上に曝してゐた悲惨の人々なのであらう。従つて彼らの中の中年以上の人々は、今日私が回想して見るとことごとく達者な腕前を示してゐたやうに考へられる。都桜水は当時五代目張りの演技とされ、やゝ皺枯れた音声で「め組の喧嘩」の辰五郎などを得意としてゐた。彼は一応の文才もあり、新作戯曲などに対しても抜目なく関心を払つてゐたものらしく、綺堂先生の「信長記」などは左団次上演以前、早くも此を上場した。勿論、無断上演であつたこと云ふまでもない。この桜水の娘がたしか鴨緑江節を劇中に応用して後年の女剣劇の祖をなした梶原華嬢であつて、晩年の彼は古金望阿弥の筆名で専ら娘のための台本許り起草してゐたところを見れば、いよ/\一種の才人であつたこと疑ひない。有田松太郎は、晩年マキノ映画会社へ加入して市川幡谷はたやを名乗つた。先代の関三十郎を瘠せさせたやうな顔の細長い背の高い男であつて、「土蜘蛛」を演じた折には全身へ五色の豆電気を切りに明滅させたりした。巷問評判の高かつた桂小南が電気踊の趣向を応用したものであつたらう。市川幡谷を名乗る丈けあつて嘗て市川一門の末流位にはたしかに籍を置いてゐたらしく、間もなく十二階の舞台では大胆千万にも「勧進帳」を上演した。「有田松太郎さん江」と大書し、その幕の裾を黒衣が持上げてゐる図の中緞帳が下ろされ、その前のところを花道に見立てゝ、彼は勇ましく六法を踏んだ。井田寒三は隣接一仙亭と云ふ料理屋の息で、半途舞台を廃めて己の店の帳場格子の奥へと坐つてしまつた由であるからこの優許りは他の人々のごとき不平失意の存在ではなくて、云はゞ一個のいい道楽者であつたのであらう。宗十郎張りの娘形で、下膨れのした美男であつた。高山吉雄は吉田の松若などを得意にする、今日の浪花節の広沢虎造の顔をやゝ小さくしたやうな若衆型の美しい顔立ちであつたが、そのゝち鶴若と共に大歌舞伎へ復帰したと聞く。元より檜舞台へ立戻つたと云つたところで、門閥儼しい歌舞伎の世界では到底花やかな声名を諷はれるほどの役の付くわけもなく。所詮は仕出しにやゝ優る役を振られるくらゐのことであつたらうが、しかも彼らはそれを以て満足し、幸福に一生をおくつたであらうか。それともむざ/\振棄てゝ来た浅草の舞台の役と人気とに未練と悔恨との入れ乱れた感情を、日夜大歌舞伎の大部屋から私かに寄せてゐたであらうか。後者でなくんば私は大いに彼らのため慶祝し度い。私はまたその中村鶴若が「宇都宮釣天井」に於る大工与四郎に扮して、片鬚剥取られた額に血の滲む凄惨の舞台面を、ありし日の十二階で記憶してゐる。市川かほるは横浜仕立の役者と聞いたが、顔も姿も大柄で美しく、時鳥ほととぎすかたなどが艶であつた。藤井弥之助は後述するはげ亀小亀の太神楽の太夫で、はじめ一つ鞠の曲などを弄してゐたのが、いつしか俳優に転じてしまつた。尤もここの劇中には小亀はげ亀梅坊主たちが好んで三枚目又は仕出し役を買つてでて愛嬌を振蒔くことが寡くなかつたから、全くその愉しさは落語家芝居などと共通のものがあつた。しかしながら三十年後の今日でも尚且私の作家的感興を刺戟して熄まないのはかの嵐璃昇の存在であらう。目の鋭い水々とした顔立ちで「鼠小僧」などに扮すると、常に大向は「女殺し」と呼びかけることを忘れなかつた。しかも間もなく彼は殆んど「女殺し」に相似た一事件を誤ち犯して、囹圄の人とはなつてしまつた。璃昇は数年後勢州蟹江村に於て農家へ侵入その家の女を姦したが、璃昇犯行当夜の装束が黒衣くろごであつたことが発覚の端緒となつて直ちに捕縛、小菅監獄へとおくられてしまつたのである。
 私は、彼、璃昇がいかなる理由の下に強盗強姦犯人とまで堕してしまつたのか、今日その経路をば知る由もないが、うそにも浅草六区の人気役者たる彼が食指を動かしたその村娘は、定めし十人並以上の所謂鄙には稀なる器量好しであつたのであらう。嵐璃昇の刑期満ちての行動も亦その犯罪経路と共に私は全くに此を聞知してゐないが、爾来幾春秋、勢州蟹江駅附近を関西線で通過するたび私は車窓にひとり大正中世落花狼藉の不幸にと遭遇した佳人が後半生にさま/″\なる小説家的空想を走らせては、その清福を祈念してやるのが常なのである。
 十二階歌舞伎の幕間余興は、衰残の緞帳役者たちと異つて太神楽、活惚のベテランのみが出演してゐた。アトラクションの語は、未だ当時の日本には、海越えて渡来してゐなかつたが、茹蛸のごとき禿頭をそのまゝ己の芸名とするこの江戸生粋の老芸人はげ亀は、ビール瓶の曲技に長じ、また先代岩てこバンカラ辰三郎に比肩する洗練軽快の都々逸をよくした。晩年は港家小亀と袂を分つて、先代バンカラ新坊と共演してゐたが、昭和初頭、浦安在の興行中、流行の感冒に冒されて両名相次いでその地に病歿したとか聞いてゐる。港家小亀は関東節及び新内くどきを得意として、駅売の函のやうな小型卓子掛を首から吊して、五目浪花節のなんせんすに十二階随一の人気者としてよく全浅草を圧倒してゐた。少うし舌を丸めて甘へるがごとく喋る調子と微笑するたびに妖しく金歯の光るところとに小亀特有の魅力があつた。現下、花柳風俗スケッチの漫謡に都鄙妙齢の浮気女を普ねく魅了し去つてゐる、かの柳家三亀松はこの小亀一門の出と聞くが、しかしながら三亀松の色気と気障とは、小亀が芸風の上には少しも見られず、むしろ私をして云はせれば彼こそは大正年代の川田義雄であつたとし度い。一人舞台の力演に終始する点も両者は太だ共通してゐるし、川田が昭和戦前人気高潮の虎造節を自家薬籠中のものとしたことゝ、小亀が当時の大御所たりし先代楽遊の節調を好んで口にしたところも亦太だ相似てゐる。梅坊主が枯淡軽妙の舞技と滑稽とは、今日茲に改めて説くにも及ぶまい。小杉放庵画伯はその随想中深川節の※(歌記号、1-3-28)下りる衣紋坂云々の件りで梅坊主の指が下方を指すやその指された部分の畳が見る/\傾斜危ふき衣紋坂の景情と化すをおぼえたと瞠目してゐられる。同じ深川節中に於て、絞るやうに固くキリ/\と巻いた豆絞りの手拭を天井高く投上げるや、やゝ暫くして落ちて来るその手拭は、依然キリ/\巻絞られたまゝである神技と共に梅坊主双絶となす可きであらう。一座には金丸国丸など江戸市井の芸人ならでは見られぬところの一種風格ある容貌と技芸を有した老練がゐた。滝松は常に拍子木を打鳴らしては深川活惚伊勢音頭などを鉄火に諷ふ、ギス/\した感じの男であつた。後継の梅子は大兵肥満の大坊主で、瓢逸滑稽の技を示した。この梅子と云ひ海老一分派の巴家寅子と云ひ、また浪花節でも先代重正の前名重子一心亭辰雄(現今の新講談服部伸)の前名駒子など、昔、兎角女芸人ならずして「子」を名乗るものゝ多かつたのは、近世まで女で何子と称へるのは上流貴紳の令嬢のみで市井庶民の娘の名には何子と呼ぶ風習はなく、たゞ単に花、てる、ふみなど常に子の字を附せざるものが多かつたからで、即ちこの梅子重子駒子の場合、梅子はその師梅坊主の、重子はその師重勝の、駒子はその師駒吉の子供即ちいづれも悴分である、と云ふ意味であらう。巴家寅子の場合も亦、彼は寅なにがしと云ふ先人の門下であつたにちがひない。閑話休題、梅坊主一座の漫舞には他に桃太郎、住吉踊、雀踊りの顎合はせ、大津絵などがあり、舞踊と舞踊との間には、常に即妙の滑稽を混へてよく見物のおとがいを解いた。桃太郎の滑稽の中には、刀の鞘で誰彼の坊主頭を激しく打叩くギヤグがあつて当時私の傍らに見物してゐた上方訛りのお客は、その友人を省みて、激しく脳天を殴打する蛮風は江戸独自のものであらうと非難してゐたが、いづくんぞ知らん、爾来廿年、関西各地に於て隆昌を来した高級万歳と称するものの中には常に妙齢の女が鉄扇、長靴、竹筒などを用ゐて相手の男の脳天を乱打、下層人の爆笑を買ふやうないとあさましい演芸さへ出現して来た。飛鳥河の淵瀬只ならぬはひとり都市街巷の変遷許りではあるまい。梅坊主一座の掛合咄茶番には「鎌倉化地蔵」「曾我八幡宮社参」「同手水鉢」「年始」「おかめ」「冠付け」「二人羽織」その他があつたが、就中、秀作は「鎌倉化地蔵」で最後に化地蔵の正体を具現した、三度飛脚が荒獅子男之助となり、地蔵は飛脚の弁当から窃取した海苔巻鮨をそのまゝ巻物の一巻に擬して口に咬へ仁木よろしくの引込となるなど、江戸八笑人和合人の文明をそつくり再現したやうなリファインされたものであつた。他に浪花節では戸川盛水。また赤被布を着て珍々節と称するものを語る盲目の大入道も出演した。珍々節も亦浪花節類似の声曲で、風貌音曲師の亡三升家紋十郎に酷似してゐた。大正十二年九月東家楽右衛門を名乗る楽燕門人の浪曲師がこの小屋へ出演してゐた時、偶々関東大震災、十二階倒壊の犠牲となつたと聞いてゐるが、その楽右衛門は全く私の記憶にはない。なぜなら小亀はげ亀梅坊主など私の終生尊敬脱帽してゐる名流諸芸人たちは、最早そのころ十二階演芸場の出演者ではなくなつてゐて、私はこの高塔下の娯楽場へ杖曳くことがなくなつてゐたからである。終りに私には左の拙吟がある。
二の酉や十二階き空の青
(昭和十七春稿、昭和廿三夏改稿)

旧宮戸座の記憶から


 私が大正十四年冬起草して、雑誌「演劇映画」へ寄せた「旧宮戸座の記憶から」の大要を、左に抄して見よう。「演劇映画」は摂陽プラトン社から月刊された小山内薫監修の冊誌で、川口松太郎君その編輯に参与してゐた。即ち以下がその大意である。
 行燈。時の鐘。二朱銀。悪婆。無頼児。殺し場。十手。義理。人のなさけ。宮戸座で上場する歌舞伎狂言は、すべてが絢爛たる都心の大劇場では最早一顧だにされなくなつてしまつた旧弊古風のもの許りで、俳優も亦訥子、源之助、勘五郎、芳三郎、芝鶴、菊四郎、工左衛門、寿朝等、いづれも練達巧緻の技量を有しながら兎角に志を得ない轗軻不遇の人々許り。従つて「慶安太平記」の上演にも彼らは金井半兵衛鳥目、有馬入湯、向島秋葉の原忠弥正雪出会と殊更にひねつた三場を上演することを忘れなかつた。「名末世千代田刃傷」松平外記の全通しをば上演したのも、この小屋にして始めてなし得たところであつたらう。外記は訥子、安斎伊賀は菊四郎、駒場御猟での伊賀の侮辱に耐へた外記の耳許へ、折柄ひゞき来る蜩笛の寂しい音色は卅年を経た今日と雖も私は歴々と此を耳朶に蘇らすことができる。菊四郎は師吉井勇がその土左衛門の伝吉を激賞、久保田万太郎氏また「船打込橋間白浪」と前書して「ゆく雁や屑屋くづ菊四郎」の一句があつた江戸前面長の老優で晩年は専ら帝劇に出演してゐた。外記を演じた先代訥子は、猛優と呼ばれた立廻りの達人で忠弥の捕物五右衛門召捕、安兵衛十八番斬りなどに常に溜飲三斗の立廻りを演じた。花道を二股半で飛去ると評判された快漢である。田沼実記を冒頭の鶴争ひから紅白饅頭を刀の尖に突刺して田沼某源左衛門を揶揄するかの焼香場を経て本懐後の水門の別れるまでをいと懇切に主演したは、後年伝九郎を襲名した先代中村芝鶴(現芝鶴の父)であつた。田沼は同じく菊四郎、この小屋に於る菊四郎の存在は多く仇役のみであつたかのやう記憶してゐる。中村仲蔵となつて歌舞伎座の「助六」にかんぺら門兵衛を演じて死んだ勘五郎もこの宮戸座へ出演してゐたが、幼少なりし私は松助とはまた趣を異にした江戸市井破戸漢らしいその顔容をば纔に目に泛べ得るのみであつて、皮肉巧緻であつたと聞くその演技の記憶は殆んどない。大阪上りの嵐芳三郎は大柄の顔容、昼の部の歌舞伎劇を演じたあとさらに夜間の五味国太郎、柴田善太郎、木下吉之助らが壮士芝居へも加入して、「変化島田」「飛騨の怪」などへ出演してゐたから、今日考へると頗る異色多才の人であつたにちがひない。私は大叔母に連れられて「有馬の猫」の小野川喜三郎一と役を立見から見たのみで、間もなく彼は病歿してしまつた。その折の怪猫は今日の多賀之丞の父浅尾工左衛門であつたやう記憶してゐる。多賀之丞が鬼丸で、故菊右衛門が楽之助で仇に美しかつた国太郎や此も豊頬美男だつた故高麗三郎と共に若手として出演してゐた。鬼丸と国太郎は女形、楽之助と高麗三郎は二枚目だつた。また市川寿朝と云ふ役者の、現三津五郎に悪を利かせたやうな皮肉の面輪をも、生涯私は忘れ得ないであらう。彼は勘五郎、菊四郎のさらに下位を行く端仇専門の役どころであつて、「お祭佐七」の箱丁のやうな瑣細の役に妙技を見せた。明治初年夙に渡仏の閲歴を有してゐたとも後日に及んで聞き知つた。訥子の「実録仙台萩」の浅岡、工左衛門の「茶屋場」のおかる、源之助の伊豆守などは私がこの宮戸座で見物した中でのお景物であつたと云へよう。私が田圃の太夫沢村源之助の婉姿に魅せられたのは、「蟒お由」と円朝種の「またかのお関」とであつた。今日お由の鈴ヶ森題目塚に於る刺青美しき凄艶の姿が源之助去つて悠久にその上演を見られなくなつてしまつたやうお由の夫長次が返り討に遭ふまががね薄暮の場の嘗て都下の劇場で上演されたことを識つてゐる人々も亦追々とこの東京からなくなつて行くであらう。否、否、その曲り金とは今日の京成電車高砂駅近傍であつたことを知る人も亦果して現下どれほどにあるであらうか。現在の高砂駅は開通当時は明らかに「まがりがね」の駅名を使用してはゐたのである。ところで先代訥子はその後十年以上も遺憾なく猛優振りを発揮して各劇場に嘖々の好評を博してゐたが、源之助の方は僅々数年ののち公園みくに座で上演した「仮名屋小梅」が最早余りにも老来の姿に、年少ながら私はおもはず目を外けた記憶がある。木村富子少史が「落花流水」と題した源之助芸談を近年一読して蟒お由の役のむづかしいのはお由が夫長次にはあくまで殉情の貞女として、主人先には普通尋常の女人としてまた大方の悪に対しては宛かも中性のごとき存在として、三態三様に演出す可きところにある云々と記されてゐるを見て、到底題目塚の画面以外の味到はでき得可くもなかつた当時余りにも年少の私であつたことを今更のごとくに口惜しくおもつた。しかしながらしづかに再びおもひ直して見ると私は宮戸座に於て最佳最後の源之助が妖姿を何回か見物してゐる。たゞそのことのみを以て満足すればいい。
 いと古風な櫓を掲げてゐた宮戸座のおもて構へを、悠久に美しく記録するものは、吉井師が「三月も廿日余りとなりにけり夕日宮戸座の看板にさし」の一首であらう。桟敷の毛氈のいろ褪せた朱や昼芝居の舞台を走る鼠を追つて黒衣が竹の棒で追歩く宮戸座内部の光景を、永遠になつかしく後世にと伝へるものは永井先生が「すみだ川」であらう。久保田万太郎氏にも亦この小屋に材した「立見」と云ふ小品がある。
 今日にして浅草宮戸座は、黙阿弥、三世如皐、其水、新七らが特定狂言の研究室であつた、図書館であつた、宝庫であつたとも亦云へよう。さりながら宮戸座でさびしくその名技をば見せてゐた源之助、菊四郎、芝鶴、勘五郎が、よしや老後なりとてもそれ/″\が歌舞伎或は帝劇の舞台を踏んで長逝したことはせめてもの倖であつたと私は云ひ度い。訥子またその息先代宗之助の縁故に拠つて帝国劇場へ一再ならず出演してゐる。
 宮戸座の終焉は、大正中世、かの活動写真連鎖劇の一大流行にある。このとき宮戸座はその古風にも哀しく美しかつた旧観を失ひつくして、見るも無惨な土足芝居と変貌してしまつた。同時に宮戸座と宮戸座の役者たちとが抱含してゐた詩と夢とも亦ことごとく壊滅しつくしてはしまつたのである。
(昭和廿二年晩夏改稿)

吉原大火前後


 私が漸く五歳か六歳のころであつたらう、下婢の背に負はれて大叔母と共に唯一ど吉原の夜桜並びに花魁帳見世の見物に赴いたことがある。夜桜がゆめのやうに白く咲き、往来の人々が影絵のやう格子先へ群り、格子の中の小白い遊女の顔と絢やかなる裲襠うちかけの姿とが、煌々たる燈火の下に世にも美しく浮きだしてゐた。私はその夜下婢に負はれてわが家をでかけるとき、花魁を籠に入れて買つて来るのだと云つて大そう家人を笑はせた由であるから、恐らくは祖母か大叔母かが花魁は籠の鳥さ云々とでも洩らした言葉を小耳に挟んで、このやうなことを云ひだしたものであつたにちがひない。
 吉原の大火は明治四十四年四月九日と記憶してゐるが、木村富子女史が「浅草富士」はその折の大火災の顛末を「半襟火事」と題して、具さに記録されてゐる。江戸町二丁目某楼の遊女が揮発油で拭ふてゐた半襟へ、火鉢の火の燃移つたのが原因ゆゑ、半襟火事とは呼ばれるさうな。私は今日、張見世の景色よりもやゝ明瞭にその日のことの方を記憶してゐるが、大南風おおみなみの吹荒ぶ午前十一時ごろ、花川戸の私の家の近所では、只今吉原が火事であると云つて俄に騒ぎだした。家人と共に直ちに表二階へ上がつて北向の窓を開けて見ると、正面の浅草学校の校舎の裏手に一とすぢ焦茶いろの煙りが横にながれてゐた。この火事の煙りは午後になるに従つて次第に大きく太く燃えひろがり、燈刻ちかくなるにつれ次第に町内一帯までが物情騒然としだして来た。夜に入つて再び二階へ上がつて見ると怖しい火勢は最早浅草学校の長い黒い建物の背後を一めん唐紅に塗潰してしまつてゐて、その火影を浴びて瓦屋根に生えてゐるぺん/\草の二、三本の赤く黒く揺いでゐるのが、はつきりと見えた。もうそのころには本郷からも根岸からも神田からも、遠方の親威の人々が続々と見舞に詰めかけて来てゐた。さうしてその夜遅くまで私の家の天井で大そう鼠の騒ぐ物音を聞いて、見舞客の中のひとりは、
「みんな火事場の鼠が逃げて来るのです、ですからこゝまで燃えて来る気づかひは決してございません」
 かう云つて逃仕度をするがことはないことを切りに力説した。
 私がはじめて吉原の遊里に遊んだのは、十九歳の晩秋であつたらう。このときのことは、先年「抱一俳句鑑賞」を某誌へ連載したとき、些か言及しておいた。
けなしながらも吉原の宵
吉原に見返り柳丈けの江戸
 阪井久良伎翁の大正中世の製作にこの川柳二句があるごとくに、未だ/\大震災までの吉原には多少の陰影と情緒とがのこつてゐた。私が屡々遊んだ中見世ちゅうみせは角町のきん中米と云ふ妓楼であつたが、中庭に面した洗面所で敵娼に付添はれて、遊客が金物かなものの嗽茶碗で口を滌いでゐる景色などは宛然柳浪が「今戸心中」もしくは盲小せんが「とんちき」中の情景であつた。お茶を引いた花魁が私刑として終夜廊下に坐らされたことや、両側の店の牛太郎は互ひに道の中央以上に進みいでて遊客を拉することができないやうに掟されてあつたことや、さうしたいまは亡びつくした明治年代の廓の習ひを私に談つて聞かせて呉れたのは、羅生門河岸に等しい小見世の、しかしその割合には人相の悪くない遣手婆さんであつた。彼女も亦往時お茶を引いて一夜を廊下に涼まされた妓女のひとりの成れの果てであつたかもしれない。さるにても前述の小せんが「とんちき」と「白銅」とは、秀抜なその廓噺の中でも就中大正の吉原情調遺憾なく横溢した名篇であると云へよう。
 近世吉原の真景を描破してゐる小説として、私は師、吉井勇が「雀大尽」(「墨水十二夜」中)、田村西男氏が「電話」(「芸者」中)、村松梢風氏が「北里夜話三題」(「梢風情話集」中)の三作を挙げ度い。いづれも明治末年の吉原風俗であるが、「たけくらべ」「今戸心中」「註文帖」以後の年代を写した北里文学の秀粋としていい。「雀大尽」は初秋の午前の廓内及び宵の口、中引け、大引けと刻々の仲之丁の情景を活写して余さず、「電話」は婉麗な吉原芸者が禍を転じて福とする好短篇で師走の吉原の点景が妙、「北里夜話三題」中の医者の代診とのみ信じてその客を頼りとしてゐた遊女が、一夜、廓を抜けてその下宿先へ逃げて行くと、いづくんぞ図らん、男は千金丹売の行商人に過ぎなかつたと云ふ話に至つては、同氏が数多い作品中の秀粋とし度い。吉原の年中行事や推移を叙した随筆には、富子女史のほかには、久保田万太郎、増田龍雨、高篤三の三家が数へられよう。高篤三が北廓に材した随筆中、午の日の縁日に植木市を素見して歩く花魁が偶々鉢植の梨の木に梨の実の熟れてゐるのを見て朋輩を省み、「おやありのみの木だねえ」と云ふ小篇は殊に可憐である。昭和戦前の吉原街上を写しては永井先生の「おもかげ」であるが、先生の御作中に「※(「さんずい+(壥−土へん−厂)」、第3水準1-87-25)東綺譚」のごとく現代吉原の遊女の生活を記録される一作なきは今日太だ遺憾である。しかし先生には別に明治往年を懐旧された「里の今昔」、昭和戦前の深夜オペラ館の踊子を拉して廓内の小料理屋に一酌、老幇間と邂逅された顛末を叙された「草紅葉」の二随筆があつて、共に掬す可き殊玉篇である。吉原大火の火災が遠く巣鴨の辺僻から望見されたと云ふ小説も野上臼川氏の旧作中にあつたが、同じころの吉原大洪水の風景は北原白秋が『雪と花火』に「CHONKINAチョンキナ」と題した絶誦があるからその一半を紹介して見よう。

(前略)
「華魁、ちよいと、御覧なさいな、
久し振で裏門が開いたと思つたら、
大変ですわねえ、あれ、あんなに水が、
随分しどい音だこと、
どてをもう越したんですとさ。
龍泉寺、山谷、今戸のわたし、
そりやもう大変な騒よ、
おやおや、まあ、素つ裸で、
揚屋町の通を伝馬担いで奔るなんて
銀ちやん、威勢がいいことねえ。」

“Chon-aiko ! Chon-aiko ! ………”

(中略)
格子戸越しに、赤い日が
高い屋並の不思議なひさしにてりかへし、
洪水の音がきこえる。
欄干では何時いつまでも何時までも
気まぐれな狐拳。(下略)

 戦後吉原花街の変貌は、どうやら牛太郎が廃され、一夜千金の花魁が横行してゐるらしいが、東京に生育した小説家の責務として私はせめてその外観丈けでも一見しておかうとおもひながら、多忙未だに果してゐない。でも現代末世の吉原図絵は最早慌しい生活裡にある作家諸君の感興を特別に誘引するやうなものはないのであらうか。「性を超越した美」のあつた既往吉原、浮世絵歌舞伎声曲等徳川文化一切の発祥地たりし過去吉原の最大讃美者であつた亡き久良伎翁にも、吁昭和改元以降の吉原情緒称揚の川柳はなくて曰く、
 東京名墓顕彰会席上講演即興
吉原も序に墓の部に入れる
(昭和丁亥文月改稿)





底本:「東京恋慕帖」ちくま学芸文庫、筑摩書房
   2004(平成16)年10月10日第1刷発行
底本の親本:「東京恋慕帖」好江書房
   1948(昭和23)年12月20日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:門田裕志
校正:酒井和郎
2015年11月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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