下町歳事記

正岡容




時雨・雪・三味線堀


 亡くなられた泉鏡花先生のお作の中でも、「註文帳」は当然代表作の一つに数へていいものだらう。殊に雪もやひの日の鏡研ぎ五助の家のただずまひ、雪明りの夜の吉原の撥橋はねばし、おなじ雪の夜更けの紅梅屋敷――情が、姿が、廓の景色が、マザマザ手に取るやうに浮かんで来てたゞたゞ敬服のほかはない。
 が、あの五助の家のくだりであぐねてゐた空から白いものがチラつきだし、軈て「唯一白」の大雪となる。あの大雪の有様を、

「折から颯と渡つた風は、はじめ最も低く地上をすつて、雪の上面を撫でて恰も篩をかけたやう、一様に平にならして、人の歩行あるいた路ともなく、夜の色さへ埋み消したが、見る/\垣をだわり軒を吹き廂を掠め、梢を鳴らし、一陣忽ち虚蒼あおぞらに拡がつて、ざつと云ふ音烈しく、丸雪は小雅を誘つて、八方十面降り乱れて、静々と落ちて来た」

とえがいてゐられるが、此は断じて東京の大雪でない。勿論、先生も「紅梅の咲く頃なれば、斯くまでの雪の状」は「都の然も如月の末にあるべき現象とも覚え」ないと特に断つてはゐられるが、
二天門仁王門大雪となりにけり
茶泉
と云つた句に見られるやうな、あくまでサラリとした旧東京の大雪でない。江戸このかたの大雪の景色でない。つまり広重でない。清親でない。これは先生の御郷里たる加賀金沢の古びた城下にしん/\とふる雪である。犀川べりに浅野川の磧の石にふり積む雪の姿である。も一つ云はせて貰ふなら魚眠洞随筆のゴリ料理をたべさせる家の軒端をドサリツと滑つて落ちる夜の深雪の音であらう。
 所で、この方は雪ではないが、岡本綺堂先生の『半七捕物帳』の「鷹のゆくへ」の中の雑司ヶ谷の落葉枯葉にふる時雨は、

「村はづれまで来かかると、時雨がたうとうざつと降つて来たので、半七は手拭をかぶりながら早足に急いで来ると……」

とあり、そこで雨宿りに飛込んだ蕎麦屋で半七がいろいろの手がかりを掴んで表へ出ると、

「時雨雲はもう通り過ぎてしまつたらしく、初冬の弱い日のひかりが路傍の藁屋根をうす明るく照して来た」

とこんな風に、サラツと降つてカラツとあがる、いかにも思ひきりのいい江戸のしぐれのふらせ方をしてゐられる。此が北国のしぐれだつたらとてもこんな安直な塩梅式にはゆかないだらう。雪としぐれとはちがふけれど、くどくも云ふとほり所詮が東京の大雪は、どんな大雪でもこのしぐれとおなじ宵越の銭を持たない大雪である。
 とは云ふものの、同じ泉先生の「三味線堀」には明治末年から大正初年へかけての佐竹一帯の幽暗な街の姿が実によくえがき出されてゐる。馬場孤蝶翁もかいてゐられたがほんとに私たちの子供のじぶんの佐竹には石垣があり、石蕗が咲き、蟇がなき、ああしたさびしい景色の家がザラに見られた。
 同じことが竹久夢二画伯の版画の上にも云へる。日本橋堀留の水の青さ、一石橋の甃石の日の光りは岡山生れでありながら東京錦絵風景を好んで愛された画伯の筆によくよく写されてゐるけれど、近ごろ再版されてゐる三味線堀の図は掘割の水の群青の一刷毛でえがき出されてゐるため前記のかんじが全くでてゐない。どうしてもあすこの水のいろは薄墨色でベトツとなすつてもらはなければほんとでないのだ、高篤三所蔵「風俗画報」の「浅草名所図絵」の挿絵家山本松谷は流石に心得たもので三味線堀の図に配するに捕鼠器にかかつた鼠をこの堀に棄てに行く町娘並びにその背後から興がり噺し立てて行く町の悪童どもを描いてゐる。捕鼠器の中の鼠は未だ生きて跳ねてゐる。それがいか許りこの三味線堀の薄濁つた感じにピタリと来てゐることか。この点私たち東京育ちのものは巧拙に関らず、東京中の大ていの昔の町、昔の風情ならえがけるつもりだけれど、地方からでて来られた芸術家は、あの年代の人たちでも、尚且かうしたことがあるものと見える。同様に我々が他の一都市をえがいても当然かうした失敗は繰返すことにちがひあるまい。
(昭和十四年春)

広重の家


首尾の松

 首尾の松のすがたをおぼえてゐる。私はほんの子供ごころに。
 いま、どこかへ退けてしまつた蔵前高工の真後で、大川とすれ/\のところに生えてゐる一ともとの松だつた。ひよろ/\と細い枝ぶりだつたやうな記憶があるが、それは私の間違ひだらうか。
大汐に松をかすめて猪牙ちょきとほり
 一世に諷はれた天明の狂歌師で、川柳家としては牛込蓬莱連の盟主だつた朱楽菅江にはこの川柳があり、近世では伊藤松宇に、
しぐるゝや嬉しの森に首尾の松
がある。ほんとうに四季をとほして、しぐれ、粉雪、さゞめ雪、さうしたはつ冬の、鈍い、どんよりとあぐねつくしたしゞまの中に置いてみて、一ばん趣深い「松」だつたやう、おもはれてならない。
 ところで、私は首めに「ほんの子供ごころに」とうつかりかいてしまつたけれど、よく/\考へてみると、首尾の松は震災の少し前まで枯れ/″\ながら尚且その余齢を喘いでゐたのではなかつたらうか。
 大正十年ころの前田雀郎の川柳に、
首尾の松あたりで本屋また殖やし
と一銭蒸汽の中の物売をスケッチしたよき句あるを、ふつといまおもひだしたからである。
 雀郎には、今日のやうな俳句擬ひの句でなく、まつたうな、折目正しい、本筋の川柳作品がそのころいくつかあつた。

渡し

 なんの渡しと云ふのだらう、その首尾の松の少し先、明治病院の横にほんのさゝやかな渡し場があつた。(富士見の渡しがそれだとのちにをしへられた)
 大川のながれから奥深く小さい長方形に屈り入つてゐる一角で、どす青いペンキ塗りの病舎の横をギイと舟が岸へ着くと、もうそこが代地河岸で、しよつちゆう艶かしい往来があつた。
 ある晩春の真昼、横綱の方からこの渡しへ乗つて来たら、病舎の下の石垣に一ぱい蒲公英が叢つてゐた。もう花はなく、稽綿許りが切りに有耶無耶の風に吹かれて病院で捨てたらしい汚物と一しよにフワフワ夕日の水面に飛び散つてゐた。
 それが大へん晩春らしくて悲しかつた。

鞍掛橋

 鞍掛橋の下をながれる水は、神田川のわかれだらうか、鴨南蛮の黒い細い煙突や大和田のあの店構へを尻目に昔願人坊主が住んでゐたと云はれる橋本町の方へつづいてゐる。ちよつと長崎をおもはせる小さな石造りのめがね橋が、佇むと反対の側の東の方には眺められる。
 それにしてもあの壕割の眺めは、よく晴れた六月の真昼が美しい。淀み、濁つた水ことごとくを、桔梗いろの大空がなんとそつくりそのいろに染めつくしてしまふので。
 かくて私には私ひとり丈け通用する句がある――。
はつ夏や鞍掛橋の下の水

広重の家

 大震災まで今川橋の壕割沿ひの石垣には、可成の柘榴が植えられてゐた。それが、はつ夏、燃えるやうな花々を眩しく咲かせた。
 きのふとほつてみたら、もう柘榴の木なんか跡形もなく晩夏の夾竹桃が、夕風にしやな/\した枝を真紅な花ぐるみ揺られてゐた。鉄道草が横に一の字を描いたやうに無気味に伸びて、これ丈けは震災前から少しも変らない泥々の水面に、寂しくその影を落してゐた。
 昔、柘榴のよく咲いた時分、たしかその木の脇に広重の家があつた、と亡き竹久夢二さんは嘗て私に教へて呉れた。明治開化の、チヤチな東京版画(それ故にこそなつかしい!)を沢山描いた、三代広重の末孫だらうか。それとも間男広重と呼ばれた人の身寄りなのだらうか。間男広重の所縁などいまのうち、伊藤晴雨氏にでも質しておかうとおもひながら、未だ果してゐない。
 きのふも私はあの橋の上に立ちどまつて、暫し、ありし日の夢二さんが上をしみ/″\と偲んだ。私は夢二さんにこよなき装幀をかいてもらひながら、その市井随筆集はつひに上梓の運びに至らなかつた。しかも、その私の装幀がきつかけとなつて夢二さんの方は、間もなく女流作家と同棲したりしたのに、かんじんの装幀は、惜しや我が流寓のうちに失はれてしまつた。画伯逝いてもう何年になることだらう。
広重の家のうしろの堀割は流れもあへずいまもあるらむ
小夜曲セレナーデ」にある夢二さんの歌は、たしかかうだとおぼえてゐる。
(昭和十七年夏)

風船あられ


 飯蛸、鯖、魴※(「魚+弗」、第3水準1-94-37)、白魚、さより、蛤、赤貝、栄螺、分葱、京葱、鶯餅、草餅、茶飯、木の芽――と、かたへのものゝ記には三月のあぢがこんな具合に列ねてある。なんだか、字づらをみつめてゐると、わかい日読んだ鏡花つくるの一齣のやうだ。
 遠い明治の春のお彼岸――谷中の果ての菩提寺へ年寄に手をひかれていつたら、庫裏からつゞく茶畑にそつて、芝居にありさうな籔畳のかげには、風船あられの工場があつた。――スペンサーが東京開化の碧い空を飛んで以来、お成街道にでき上つた風船あられ屋の工場だと云ふ。
 袋一ぱい購つてもらつた風船あられは、淡雪のやうに甘かつた。
 ――彼岸の陽ざしを追ふころになると、ぼくは「風船あられ」のあはれをおもふ……。
(昭和十一年春)

梅若忌


 梅若忌、三月十五日。
 その季節のことを書けと云はれて、俄におもひ泛べられて来るかずかずをばメモのやうに書き付けて見る、ほんのなんの、取り止めもなく。
 梅若丸の塚のあるお寺は、梅柳山木母寺。誰が命名なづけけん、梅柳山とは。
 哀れに美しきこの呼名かな。
 川柳点には、
三囲みめぐりのあたりからもうぶちのめし
 また、
梅若は旅陰間たびかげまにはいやと云ふ
 さらにさらに、
梅若は十六日があはれなり
 よしや涙雨しげくふるとも、大念仏に群衆賑はふ忌日の十五日よりは、ハタと人影絶えつくしたその翌る日の景色こそ、と。思へばこの句意、殊に哀れ。
 黙阿弥つくる「隈田川廓白浪」(すみだがはながれのしらなみ)。
「廓」を「ながれ」と訓ませたは、なんとしみじみと懐しき市井の詩人ではあつたことよ。
 その芝居で見た桜餅屋の暖簾のいろ。
 御飯をたべながらのあの立廻り
 さてもさて、吉田の松若
 竹屋の渡
 だら/\と渡し場へ下りて行くなぞへな阪のとつつきに、曲つて折れさうに立つてゐた瓦斯燈ひとつ。
 流れ灌頂の周りを泳ぐ都鳥
 泉鏡花小史「義血侠血」。林伯猿が関東節にいで来る滝の白糸は、このあたり土手下の家で、恋ゆゑ人をころしたか。そのとき山谷堀の方にあたつて大きな火の手があがつてゐたつけ。
 浪六の「当世五人男」。
 汐入村の名のなつかしさよ。

「直ぐと中の郷へ曲つて業平橋へ出ると、この辺はもう春と云つても汚い鱗葺の屋根の上に唯だ明るく日があたつてゐると云ふばかりで、沈滞した堀割の水が麗な青空の色を其のままに映してゐる曳舟通り。」

 永井先生が「すみだ川」の一節――。
 宗十郎が云つた、昔、今戸に住んでゐた沢村宗十郎が。

「お猪口一つ持つて行きさへすれば、墨堤十里、あつちでさゝれ、こつちでさゝれ、随分いい心持ちによつぱらつてお花見ができたものですよ、あなた」

 さてこそな、落語の「花見酒」。
佃育ちの白魚さへも
  花に浮かれてすみだ川
 この唄、たゞ美辞をつらねたものとばつかりおもつてゐたら、ほんたうについ明治の中ごろまでは花見舟で白魚を手掬てずくひにする芸当もできたさうなとこれはこのあひだラジオでの伯鶴のはなし。
 おしまひに昨夜、いい清元のはなしを聞いて来た、「清心」と「三千歳」との清元の談を。

「清心が十六夜にパッタリであふ、そのときすぐ十六夜ぢやないかとさう云つてしまつてはいけない。闇の夜の哀しさ、十六夜……とここで一と呼吸。
 暫く闇に、相手を見据ゑて、ぢやないかと云ふ可きだらう。だが、ハッキリいとしいひとの声音にふれた十六夜の方は、言下に、いやその言葉の終るをさへ待たで、清心さまとすがり付く可し」

 また、

「入谷の寮のかの新造二人、一人はなか/\おちついてゐるをんなにて、いまの鳴子の音は雪のやうではないと云ふところしづかに喋れど、もう一人の方はただ気のいい許りのをんなとてではもしや直はんが……と思はず甲高声で云ひ、忽ち朋輩よりたしなめられる。ほんの端役のこの二人も、斯の如くちやんと性格はあるものぞかし」

 もうひとつまた、

「その直侍が、新造の名を呼ぶ。千代春さんか、と。たしかに稽古本にはさう書いてあれど、千代春さんかと発音しては堅気になる。さんのさは「ら」と発音せよ。「千代春らんか」即ちこれにて随分鉄火なやくざものには聞ゆる可し」
(昭和十七年二、一五、大雪の日)

金魚売


 浅草橋
棚の藤咲きゐたりけりあるじ留守
 この間、橋場へ宇野信夫君を訪れたときの句である。偶々、不在だつたので、程ちかい永伝寺に久々で増田龍雨さんの墓を掃ひ、一つこれから白昼の吉原でも抜けて見ようと、山谷の電車通りの方へボンヤリ歩みをはこんでゐたときだつた。だしぬけに横丁から荷を担いだ金魚売がでて来た。いくつも/\のギヤマンの鉢の中には、大きい小さいあかい白い薄紅いいろいろの金魚が揺れて泳いでゐたが、とりわけ私の目を魅いたは、一ばん立派な鉢の中の無気味に大きな支那金魚二尾黒蝶のやうないろのと、香橙いろへ一めんの黒斑のあるのと、ポコンと飛びだした目玉をそのまゝ、ヂツと眠つたやうに浮いてゐるそのすがただつた。芳虎あたりの横浜紅毛館洋妾の図の点景には、さしづめこんなギヤマンへこんな支那金魚があしらはれてゐるにちがひない。
 それにしても、未だ藤の花の句を詠んでゐる四月半にもうめぐりあふとは蓋し私にとつては今年はじめての、街上相見えた金魚売である。
 人蔘いろに群れてゐる目高。王者のやうに鰭垂れてゐる蘭鋳、緋鯉。緋鮒。むらさきの花ひらくぽてれん草。モヤ/\と薄緑の金魚藻。小豆いろしたあの糸蚯蚓まで金魚売の持つて来るものは、みんな市井の路次々々の人たちのやう、親しみ易い。「目高アア、金魚イ」売声のまくらで落語家がよくやるハタと人足絶えた旧東京の日盛りの街々をおもはせてなつかしい。
 子供の時分、本郷の菊阪にはギイと木戸を開け、石段を下りて行くと、「天野八郎」の召捕りへでさうな金魚屋があつた。いくつにも仕切つた四角い池へは、じつにいろ/\さま/″\の金魚が眉目みめ美しく放たれてゐた。さうしてそのとき真夏の午後の白銀しろがねの日は、怖しいほど、たゞしんしんと池全体へふりそゝいでゐるのだつた。
(昭和十七年夏)

東京の声


 同じ題で木村荘八画伯が、たしか大正十四年秋、都新聞へ書かれたことがある。
 それは「太神楽だいかぐら」を「タイカグラ」だの「寄席」を「ヨセセキ」などと発音する当時のアナウンサー諸君を叱正し、希くは東京の声で正確にアナウンスしてもらひたいと書かれたものだつた。
 いま、私の書かうとすることも、全くそれと同じことだ。
 でも、あの時分は放送事業草創時代のことだから、南蛮鴃舌げきぜつのアナウンサーが多少まじつてゐたのかとおもつてゐたら、この傾向はだんだん年と共にひどくなつてゆく。
 そのくせ、アナウンサーの試験と云ふのは中々厳選のやうだけれど、一体、どんな人が試験官になるのだらう。鈴を振るやうな美声もいいし、「特許局許可局」が淀みなく云へるお方も勿論必要だけれど、訛りのない人を選ぶつてこともテストの重要なポイントの一つにぜひ加へて貰ひたいものだ。局には高橋邦太郎君、松島通夫君、坂本朝一君のごとき、チヤキ/\の江戸ツ子もゐることだから、その点の詮衡なら極めて容易であらうものを。
 アナウンスされて一ばん困るのは芸人の名前――取り分け講釈師の名前である。
 山陽・貞鏡・南龍・南玉などは、仮に類音を求めるならば東京放送天然行進と云ふやうな言葉の場合の発音でやつて頂きたいのを、陰陽孝行風流九州と云ふやうな発音で紹介される。聞いてゐて何だか全く別人のやうなかんじがされて、じつに可笑しい。
 第一、地方の聴取者なんか、さう云ふ発音でおぼえ込んでしまひ、かくて訛りはいよ/\猫の子のその子の猫の猫の子の……と云つた具合に氾濫拡大されてゆくだらう
 取り戻す可し東京の声。
(昭和十四年秋)

年の市


 先づ十二月の十四日、深川の八幡さまを皮切りとするこの東京の年の市は、次いで十七十八日が浅草の観音さまで、廿日廿一日が神田の明神さま、そのあと芝神明(廿二日)芝愛宕権現(廿四日)平河天神(廿五日)、さうして納めが二十八日の薬研堀だつたが、明治末からか大正からか俄に銀座の繁昌が一ときはとなつて、大晦日あすこの西側にも年の市が立つやうになつた。
 浅草の市、神田の市のそのころは、ともするととろんとあぐねて曇りがちの、夕かたまけて小雪のちら付いて来ることも屡々だつた。この浅草の年の市の夜の賑はひは、いま此を小林清親が旧東京版画の上に偲ぶ可し。さらに大正年代の富士山印東京レコードなる故柳家枝太郎が大津絵の「両国」の一節に聴くもよからう。
 曰く※(歌記号、1-3-28)浅草市の売物は、雑器に塵とり貝杓子、とろろ昆布に伊勢海老か、桶ァ負けた、市ァ負けた、笹に付いたるこの面は、お福のお面と申します。焙籠鉄灸あぶりこてっきゅうに金火箸、さわらの手桶は軽かつた、山椒の擂粉木すりこぎこいつァ重い、張子の松茸おお軽い(下略)」もちろんここは大津絵の節ではなく、俗にアンコ入りと称えられる大津絵と大津絵との間で、囃子賑やかに可笑味の三味線いと早口にいと面白く捲くし立てられては行くところなのである。
 鳥料理の金田の前へ、お客の買つて来た大羽子板が次々と花やかに飾り立てられ、その側らところどころに明るく景気好く揺れかがやいてゐる弓張提燈の灯よ。羽子板は云ふまでもなく、当時大人気の役者の似顔。明治大正の昔は、今日のやうに毎月芝居が開かなかつたから、たまさか団蔵がかへつて来て仁木を演つたり、大阪から斎入や多見之助や鴈次郎が上京したりすると、それが永く永く話題にのこり、親しく庶民の生活の中へも溶け入つて、早速その年の暮には羽子板や双六の好画材となり、再びそのときの芝居の景色を愉しくなつかしく想ひ起させたもの。さしづめ今日で云へば、六代目と花柳の初顔合はせとか、ロッパとエノケンの合同などが、それである。
 廿八日の薬研堀の市のころは、もう数え日で、却つてお天気はしづかに暖かい小春のやうな日和となつてゐた、小さいじぶん私は大叔母に連れられたつた一ぺんだけ、明るい午後の日ざしの中を歩き廻つたことがある。三枚目で売つた新派俳優藤井六輔をこの辺に住まはせて、久保田万太郎氏の「春泥」はこの町のしゞまを如実に描破してゐる。
 さてまた浅草の話へ戻つて、いまも焼けずにのこつてゐる二天門あたり注連しめか飾りか橙か、観音堂ちかい市の売声が、どよめきが真黒い人影が、仄明るい灯かげの中に聞え、うかがはれて来る風情は、亡師父三遊亭円馬が「姫がたり」と云ふ落語。浅草市の晩妖艶の悪婆がお姫さまに化けて、虚病をつかひ二天門のほとりに住む強慾非道のお医者を懲らしむるの一席である。以来、絶えて演り手がない。
 事変がはじまつてから三年、でも未だ未だ世並は割合によくて年の市の晩に、伝法院界隈の古代裂れなどひさぐ小体に気の利いた店の二階、同好寄りつどつて運座を催したことがある。その店先には「乗合船」の舞台をおもはせる見事な柿いろの革羽織が一つ吊下げられてゐたが、句筵半にして階下から上がつて来て我々の仲間入りしたその家の主は、たつたいまあの革羽織が二百円で売れました、世間は景気が好いのですねえとさも感嘆するやうに云つたりした。今日からおもへば、全く嘘のやうな話である。その晩私は運座に先立つて親しく見て来たお堂の裏、噴水の辺に威勢好く軒を列ねて勝手道具の数々を売つてゐる枝太郎の「両国」宛らの有様をば目に描いて、
灯の中や杵活き/\と年の市
とつたない一句をものしたが、折柄おもてにはしみ/″\と仇な新内流しが高音の三味線。いまに私は、その夜の景色を忘れることができないのである。

ただ※(「米+參」、第3水準1-89-88)しんこ


 きのふ、十八になる娘分の春美がただ※(「米+參」、第3水準1-89-88)粉を牛込の方でみつけたとて購つて来た。そのお※(「米+參」、第3水準1-89-88)ただ※(「米+參」、第3水準1-89-88)粉とは云ふものゝ決して昔のやうな正面へドデンと白い山脈のやうなものが据えられ、その前へ赤、青、緑、黄、黒、時として金、銀までの小さな色※(「米+參」、第3水準1-89-88)粉の舎人とねりのごとくとあしらはれてゐるものではなく、一めんの黙々と白い、巨いなる固まりの、さうしてまことに一も二もなくたゞそれつきりのものだつた。
 しきりに妹はそれで土瓶や兎などこしらへてゐたが、土台が白一といろなのだからどうにも佗びしく、およそ法返しのつかないものだつた。
 かね/″\私は一ど自著の表紙にはありし日の下町生活の象徴として、ただ※(「米+參」、第3水準1-89-88)粉を木村荘八画伯に描いていたゞき度いとおもつてゐるものであるが、この分では表紙にして見ても若い読者たちからは此は一体何だ色見本かとでも云ふことになりさうである。
 いつそはかなく情なかつた。
 ……今し方、横丁の文房具屋まで便箋を買ひにでて、そこに春待つ羽根のたぐひの山ほど積まれてあるのをみいだしてはじめて私は、ホツと安心したやうなものを感じた。
 白と朱のや、黒と牡丹と緑のや、さては五しきもいろとり/″\のや、なべての羽根はみなことごとく世にも美しく花々しく彩られてはゐたからである。

 以上を発表してすぐ同じ浅草育ちの高篤三からは左の葉書をもらひ、さらに昭和十八年十月はしなくも仲見世で紅一といろではあつたが、紅白二たいろの※(「米+參」、第3水準1-89-88)粉細工屋を見た。玻璃窓には紅い首輪の猫などしつらへてゐた。心和むおもひであつた。高の葉書は左の如くである。

「ただ※(「米+參」、第3水準1-89-88)粉」はうれしいな、こんな文章をよまされると泣きたくなるよ。
  徳兵衛の※(「米+參」、第3水準1-89-88)粉細工も春のいろ
 こんな出来そくないの句があるよ。観音さまのまへの大銀杏の下に出てゐた※(「米+參」、第3水準1-89-88)粉屋、上手できれいな、知つてるね。あの爺さんの指の動きに出来る鳩やうさぎにも四季それぞれの景色が空の色がおのずと僕たちにはわかるんだよ。「ただ※(「米+參」、第3水準1-89-88)粉」のほかはやかましくつて買へなかつた僕、女中がうしろにゐてね、かなしかつたものですよ。先日美和子がお母ちやんにめづらしくキレイな※(「米+參」、第3水準1-89-88)粉ざいくの鳩、お砂糖の入つたのを買つてもらつて大よろこび、たべるのを大切に、いたはつて尾の方からたべたつけ……。

 この文中の花園春美がはやいまは廿三歳になつた。戦火は熄み、親しく葉書して呉れたその人は爆火に仆れ、此に描かれた街々の、景情のことごとく氓びつくしてしまつたこと、繰返し説くにも当るまい。
 平和が再来してはじめて羽後の村落から立戻つて来たその年のくれ、私は偶々招かれて某君邸の運座に「火桶」の題を得たとき左の拙詠を吐いた。
数々の生死いきしにおもふ火桶かな
 蓋しわがすべての感懐感慨はこの一句に尽きてゐる。
(昭和十七年十二月初稿、同廿二年七月補筆)





底本:「東京恋慕帖」ちくま学芸文庫、筑摩書房
   2004(平成16)年10月10日第1刷発行
底本の親本:「東京恋慕帖」好江書房
   1948(昭和23)年12月20日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年10月15日作成
2012年5月3日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード