わが寄席随筆
大正末年の寄席
百面相
かの寺門静軒が『江戸繁昌記』の「寄席」の章をひもとくと、そこに「百まなこ」という言葉がある。「百まなこ」とは柳丸がよく
それが春信や栄之の淡い浮世絵は、ついに時代とともに朱の卑しき五渡亭が錦絵となったがごとく、後年眉を彩り、衣装をまとい、惜しみなく顔と五体を粉飾しつくして、やれ由良之助だ! 舌切雀だ! そうしてステッセル将軍だ! と、ずいぶん、お子供衆のおなぐさみにまで、推移していったものらしい。
しかし、考えると、かえって当初のものの方が、よほどほんとうの嘘のない文明精神の発露であったような気もされる。そうして、世の常の文明なるものも、みんな、このたぐいの、実は進歩だか、退歩だか、まったくもってわからない、いや、進歩でもあり、退歩でもあるもののような気もせずにはいられない……。
――ところで、近世の百面相では、なんといっても、先代の
鶴輔からなった今の鶴枝も、しかし、けっして
だが総じて百面相は下座で、旧時代な楽隊の合方なんぞを思いもかけず、ひきだしてくれたりする時が明治情調で一番私は愉悦をおぼえる。
ただ一つ、ここに特記しておきたいのは福圓遊だ。あの男の百面相ほど、まずい、智恵のない、しかし好感のものはない。瓜生岩子の銅像や、
桝踊り
もう、何年になることか?
桝踊りというものが寄席に出ていた。
春風亭柳仙という小づくりな年よりの男で、かなり、大きな桝を七つ、高座の真ん中へつみあげては、多彩な着つけで現れて、ひょいと身がるにてっぺんへ飛び上がると、

それから、もう一度、どろどろで姿をかくして、今度は写し絵の口上にあるような、大きなでこでこの福助になる。そして牡丹の花の開くように、あやしくいぶかしく踊りぬいた。
なんのただ、それだけの、いわれさえなきいろものではあったけれど、「五変化」「七変化」などという、江戸の所作事を見るように、何か、我ら、少年の日の胸ときめかせたものであった。
それにしてもあの柳仙。
この世を去ってしまってから、もう何年になることか?
いや、それよりも残されていった七つの桝は、今頃どこで、昔の主人を憶っているか?
桝踊りは、美しいいろものだった。
橘之助
この頃になってしみじみ橘之助を思い返す。もう東京では人気もあるまいが、しかしあれだけの芸人はいない。――ことに、
それからこどもがいやいや三味線を引っかかえてお稽古をする、あれなんぞは、どう考えても至上である。――仄かな瓦斯灯からぬけだしてきたような、あの明治一代の女芸人。だが惜しいとまこと思う頃にはこれまた東京の人でない。
都家歌六
私の好きな音曲師に都家
まったく今の寄席へ行って、一番ひしひし感じることは、明日の時代に待たるべき音曲師の皆無!なことだ。やなぎ改め江戸家はじめなどという、大道で猿股くらいしか売れそうにない、くだらない手合から決して寄席音曲のよき発達のみられよう訳がない、あんな普通のいい声(ということはたびたび繰り返すところだが、寄席音曲、第一の最大条件としてよき悪声でなければならぬから)で、そのくせべら棒に名人がっていかにも巧かろうといりもしないところでそっくり返ったりしてみせて、余徳はせいぜいチクオンキの製造所を儲けさせるくらいの功績で、なんの高座の音曲師なる名称が投げてやれようか。
初代三好の卑しくも美しき高座、
都家歌六もそういうなかのわずかに残った、ほんとうの寄席の音曲師だ! 春風亭楓枝のみぎりには、「宇治中納言」なる噺をしばしば私は聞かされた。中納言が落語の鼻祖で、日々、家臣をあつめて聞かせる。「あるところに山があったと思え、そこから川があったと思え、そこで白酒を売っていたと思え、これで山川白酒とはどうじゃ。おかしいか」というと一同「げにおかしき次第と存じ上げます」殿様「しからば次へ下がって、苦しゅうない一同笑え」――そこで次の間で声を揃えて、「あははのはあ」と





それにしても、いつも白い真夏が、しずかにあやしく東京の街へ訪れてくると、いっそう私は歌六の上を思うようになる。歌六のあの姿にはどうしてもぷんと紺の香の漂う手甲姿でやってくる、青い
きょうのこの日の蝮捕り――
渡りあるきの生業 の昨日 の疲れ
明日 の首尾
と白秋が去りにし日の「蝮捕り」を渡りあるきの

昼席
――昼席ほど、しみじみ市井にいる心もちを、なつかしく身にしみ渡らせるものはない。
そういっても、震災前の旧東京には、まだ昼席にふさわしい、
両国の立花家は、昼席に川蒸気の笛が烈しく聞こえた。永井荷風の著作を手にした、黒襟の美しい女たちが、どうかすると桟敷に来ていた。――はばかりへ立つ通りみちに、禿げちょろけた鏡が懸かって、「一奴、紋弥、小南」などと、当時でさえもすでに古びた、金字で芸名が書かれてあった。一奴は、今、大阪にいる立花家
薬師の宮松には落語研究会が、しょっちゅうあった。そこの盆の十六日に、ぎっちり詰まった二階から、仰いだ広重の空の色も、私は今に忘れられない。――宮松の庭には、拓榴があった、そうして、その頃、花が開いた。――大阪から笑福亭松鶴(四代目)がきて「植木屋の娘」というのをやった。小さんが「猫久」を「お前の魂を拝んでるんだ」より、あとを続けて、しかし一向につまらなかった。いやそれよりも、圓蔵が昔噺は「夏の医者」で、麦わら大蛇の可笑しさよ!
――ほんとうに、昼席の、やるせない薄ら明かりほど、夏といわず、秋といわず、冬といわず、しみじみと都会の哀しみを知らせてくれるものはない。
震後絶えて久しき昼席を、それでも、今年辺りからまたぽつぽつと始めたらしい。つい、この間も人形町の末広で、
しかし、くれぐれも昼席は、四季を通してほのかに曇った午後でありたい。あんまりギラギラとしたお天気の時ではことに夏など、寄席を出てからやるせなさすぎる! 昼席は、そこでお天気がよかったら、
「今日あまり、晴天につき、残念ながら、休席!」
ということにしたら、どうだ※[#感嘆符三つ、76-5] 呵々。
むらく
朝寝房むらくは柳昇である。毛筆で描いた、明治の文学冊子における、小川未明氏が肖像の如き、坊主頭の今のむらくは、つい、先の日の柳昇である。――私は、この人を、今の東京の噺家の中で、それも老人大家たちの中で、かなり、高きに買っている。得がたき人だと思っている。
今の世の、さても客べら棒は、むらくが出ると「酔っぱらい」とのみ注文するし、当人も、近頃人気のなくなったせいか、たいてい「酔っぱらい」ばかりでごまかしては下りてゆくが、その「酔っぱらい」にしても! だ。あの調子っ外れで、いやにはにかみ屋で、妙にきちんと両手を膝にのせて、
「
紅い夕日の照る阪で
我れと泣くよな喇叭 ぶし――
と白秋の陶酔したかつての日の東京さえが、深紅にまざまざと映像する?我れと泣くよな
が、何といっても、むらくの一番ありがたいのは、あの「ふ、ふ、ふ、ふあーっ」と、会話のなかで与太郎や生酔が随所に突拍子もなく叫ぶあの味である。「ふ、ふ、ふ、ふ、ふあーっ」と声を張り上げていって、あげくに、「ぎゅっ」といったような、まるで、卵を踏みつぶしたような音響をさせるあの味である。――爆破した軽気球か? と私はいつも疑いさえする。――まったくあれがしんしょうである――。「ずっこけ」で彼が諷うよしこのには、

遠けりゃ戸をしめて――
お寝よ、ふわっ、ふわっ!
と言うのすらある。最もむらくに風格的な歌だといってよかろう。しかし、どこから、何から、いったいはじめにああいう「ふ、ふあ、ふあ、ふあーーっ」といったようなことを言い始める了見になったのだろう? この私がいっぺんむらくにとっくりと膝を抱いて聞いてみたいところのものである――(作者註――このむらくのち発狂して死す)。
君見ずや「かっきょの釜掘り」


しかし世の中にあんな痛快で得体がしれず、意味が
圓好のと小圓太のとは、全然、もってゆき方がちがって、もちろん、圓好の開化な味に比すべくもないが、ムードは両方ともおもしろい。
――私は、まず、あの文句が好きだ、ちっとも意味のなさすぎる文句が!
まず蒲団を畳んで子供のようにしっかとかかえる。鉢巻きをして、扇子を頭へさしかける(小圓太は支那人の意でさらに羽織を裏返しに着る。そしてあとのすててこのところでぬぐ)。そうして、はじまり、はじまり――だ。
まず唐茶屋の台詞みたいな、








と、ここで調子が、にわかに早まる。さっと一脈の明るみが流れる。



いずれにもせよ、だがこのくらい、悲哀を大きな
――私は、この踊りに見とれている時ほど、こよなき人の
されば、声を極めてかくは私も叫ぶのである。
君見ずや、かっきょの釜掘り!ああ君見ずや、かっきょの釜掘り※[#感嘆符三つ、81-8]と。
才賀の死
やまとが死んだ。東京へつばくろが訪れ出したら、才賀となってとうとうやまとは死んでしまった。
巧かった。
せんの桂文楽(五代目)だ。
惜しいものをこじきにした。
そう思うと、圓右(初代)より、今輔(古今亭・三代目)より、やまとの
私が、やまとを聞いては感心していたのは、されば、まだ、文楽の時分だった。――勝栗のように頭が
だが、それならば、私はそんなにしげしげ彼を聞いたかといえば、そうじゃない。うちに隠れては昼席入りをしていた、少年の日のどんたくに、あるいは、庭のかなしくなつかしかった暮春の若竹で、あるいは、瓦斯の灯のよるべなく青い、どこか、もう忘れてしまった町の夜席で、――そんなところで数えるほど、それも決まって「三人旅」の「とろろん」だった。同じ話を数えるほど。ただ、その「数えるほど」でありながら、なぜかそれが死ぬほど、私には愛好された。文楽は、ぼくの大好きだった品川の圓蔵(橘家・四代目)以上に、めずらしい、軽い、日傘のような、噺家ぶりであるよ! とさえ想われたのである。
こういうことは、すこし、寄席入りに浮身をやつしている人ならかつて訪れた城下町の記憶を見るように、たいていがもっている心持ちだろう。現に、昔読んだ孤蝶さんの随筆では、禽語楼小さん(二代目)のことだか、圓喬のことだか、もう、今の私には記憶がうすいが、とにかくある名人の追憶に「しかし自分はこの男をわずか五、六度、しかも同じ仇討の話を、とびとびに聞いた限りだ」という風のことが書いてあった。それだけの記憶で、しかも馬場さんは、その男を、りっぱな芸だと、世にもはっきり
やまとは「富士詣」などという、やはり、江戸人の軽い旅情を扱かった噺も巧かったというが、前、言う通り「とろろん」だけの私には、なんともいい得ようはずがない。
「とろろん」のまくらで誰もがやるが、火の見櫓へよびかけて訊くところがある。「火事は、どこだーい」と訊いて「吉原」というとすぐに駆け出し、「葛西砂むら」と返事があると「寝ちまえー」と怒鳴る。あすこがいかにもめもけに高い夜の櫓を想わせた。あの火事のまくらは圓右より私には巧かったように考えられる。
話へ入ってからは、例の鶴屋善兵衛を探すくだりだ。あすこを、やまと(当時、文楽)は、どどいつでやる。


この「二人で学校へ」も、なんともいえず、おかしくもあり嬉しくもあった。もちろん「とろろん」は圓右もやった。箱根山は山師がこしれえたかときく弥太っ平の馬楽。湯へさかさまに入ると下げる故人小せん。先の品川の圓蔵のも聴いたし、

だが、つまるところ、いくたびか聴かされたこの文楽の「とろろん」が一番よかった。一番、近代味が無是候。そうして一番旅だった。江戸人の旅のこころだった。まこと、「三人旅」の情懐を一番よく知っていたのは、この文楽のやまとではなかったろうかと思っている。
そのやまとが、ついに高座に影をしまったのだ。私としていかんともいっぺんの感懐なき能わず。泣いてやってもよかろうと思う。
今夜あたり、高座でも沸る鉄瓶の白い煙が、人知れず嗚咽しているこったろう。南無桂才賀頓生菩薩!
百面相異聞
湊家小亀といえば、暮春の空に凌雲閣の赤煉瓦、
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寄席の都々逸
この頃は寄席にもいい音曲師がいなくなって、従って、いい都々逸も聴かれません。
震災前では、先代の

歌六だの圓太郎だの

ちょっとさした柳に芽が吹いた
あの仁は風貌とこしらえが江戸末期的の感じで、それが都々逸とあいまっていい「
絶品は何といっても
噺家では三代目小さんが結構でしたが、志ん生になって死んだ馬生(金原亭・六代目)もよかった。のども富本のやれる人で渋かったが、あの歌い調子で「三人旅」など、

心変わりがもしやまた
たまたま会うのに東が白む
日の出に日延べがしてみたい
――あの頃の人では最近まで残っていた音曲師は
大阪では、先代の千橘(立花家)が懐かしまれました。例の下五に入れ

惚れたんじゃもんの好きなんじゃ
……もんの……
と結ぶのです。同じ節廻しのを、隠退した圓太郎(橘家・五代目)がやり、さらに、その弟子の小圓太がやり、ある場合、小圓太節とさえいわれていますが、それぞれにおかしい。――圓太郎はあの鉄火な美音だし、さりとて小音ですがれたところに哀感のある小圓太のもまた捨てがたいと感じます。
大阪の噺家では、林家染丸(二代目)が

わしが部屋着のこの小袖
尺八の扇遊(立花家)が
おしまいに、寄席の、噺家の都々逸は、あまり美声でなく、どこかとぼけていて、やはり昔ながらに「和合人」式の手合いがのんでとろとろ言いながら歌い廻す、その空気のまざまざとでているのを至上とし、また、とこしえにそうあるべきだと信じます。
そのイミで、春風柳のような、よほど高踏な小唄を一つずつ聞かせでもするかのように、ただ、都々逸ばかり立てつづけに歌って、
「さあ、そちらの大将いかがです」
「よッ、心得た。では……」
てな、あの華やかな味の会話の全然オミットされている都々逸などは、音曲師としては下の下です。
そこでやはり、前記の小半治、訛れどもおかしく――と、今は、この両名だけになるのでしょう。
それからはげ亀、〔バンカラ〕辰三郎、〔バンカラ〕新坊、小亀、先代岩てこ、太神楽の人々の都々逸によろしいのが大分当時はありましたが、これはまた別の機会に申し上げます。
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名人文楽
一字一画を楷書でいくいわゆる本格の落語家には、気の詰まるほど陰性の芸風の人が多い。反対に、華やかないわゆる「人気者」と称せられる落語家手合いは、描写がなく、心理の運びも拙劣で、どうかすると、雌雄の区別さえつかない人が少なくない。
これを人生にたとえるなら、前者は
夫に仕えて貞節専一、しかも紅白粉の身だしなみよろしく、愛嬌こぼるるばかりの世話女房なんてのが、もしあったならば、およそこの人生は
しかるに、だ。現下東西落語界を通じて我が桂文楽は、まさしくそうした何十年にいっぺんという、尊いまたとない存在である。巨匠圓馬病みて以来ほんとうにもう彼以外の何人に、これを求めることができよう。
この人の「鰻の
それらの人たちはことごとく、前述のこの人への私の言葉の
しかも、この文楽、今に永遠の青年としての不断の情熱を、研究心を、もち続けている。
現に「富久」「馬のす」「花瓶」など、ついこの間、研究初演したばかりだし、引き続き「芝浜」「九州吹戻し」と一つ一つ年月をかけて、己のレパートリィを増やしていこうと精進している。それがまったく当たり前のこととはいいながら、これだけの芸境に達していてなおかつ、この努力、この勉強――。
あえて――あえて言う。他に何人あるか(恐らく志ん生以外にあるまい、大看板では)。
私はそこに傾倒するのだ。
今、圓馬系の噺は、次々と文楽によって伝統正しく伝えられているが、しかも圓馬丸写しにしてはならないと、いしくも悟っているところに、さらに文楽の「非凡」がある。「明日」があるともいえるだろう。
ご承知の圓馬の豪快味に比べる時、文楽の芸質はおよそ軽快にして繊細である。顔も、容姿も、持ち味全体も。
その点、己を知ること厚き文楽は、ひととおり圓馬写しに腐心した噺をも個々の登場人物を地の文のメリハリを、さらに文楽流に養い育てていくべく、それぞれ第二の腐心をあえてしている。すでにそれが成功してしまったものもあり、今だ研究中のものもある。
ゆえに我が文楽の「芸」の冴えは、今後においてこそいよいよ鋭く光芒を放つ楽しみがあるといえよう。同時に「芸は一生の修業」この言葉をこんなにも身をもってマザマザと見せつけてくれる人もまたない。
ひと頃、文楽は巧いけれど噺の数が少ないと、よく言われた。そうしてこの私自身もまた、そう信じていた。少なくとも五、六年前までは。
が、そののち私はこの人の修業法を親しく相見るに及んで、ようやくそうした非難の認識不足もはなはだしいことを悟るに至った。
くどくも言うとおり、文楽の「芸」の歩みは、歩一歩。あくまでナンドリと、ネットリと、永い永い星霜の下、一つの噺を掘り下げ、磨き、艶出しをして、そうしてこれならばいいと得心のいったところで、はじめて次の「噺」へと第二の鍬を掘り入れていくのである。
従って空に、他所目で見ている時、わずかまどろっこしい感じがされるけれど、この人、六十歳、七十歳にまでなった時、その上演種目の、意外におびただしき数にのぼっているに、人、驚きの目を
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大東亜戦大勝利の夜の寄席
プリンス・オブ・ウェールズが沈み、香港が陥ち、そこかしこの海戦にはめざましい
たまたま年代その他のことで服部伸君の示教を得なければならないことが起こったので、近くの大塚鈴本の楽屋を訪れた。服部君の高座から下りてくるまで、楽屋で私は待っていた。左楽老人がいる。紙切りの正楽がいる、故柳枝(春風亭・七代目)門下の目の悪い若い前座がいる。
「何しろ日本の爆撃機が戦闘機を追い駆けていくってじゃありませんか、あなた」
火鉢へ手をかざしながら正楽は、
「ソそんなあなた、それじゃ鼠が猫を追い駆けているようなもんでさ、ねえ」
「……強い……何にしても強い……」
嘆ずるように左楽老人が口を開いた。昔、乃木将軍の幕僚として日露の役に
「年の暮れでこの寒さで、この戦争で、だのにこんなにお客様がやって来てくださる。みんな皇軍大勝利のおかげですよ」
子供が大好きなお菓子を貰ったよりもまだ嬉しそうに、目の悪い若い前座は顔全体を
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この二、三日のこと
安住さん。
晦日の晩の富士市へおいでになったそうですね。昨夜、高篤三のところへいって、お
……今日は朝から薄曇りして蒸し暑い。その中で、書下ろし長篇小説『寄席』の校正を、今までしていました。おかげでもう二百二十頁できました。もうひと呼吸で峠を越します。この本の出版記念演芸会をやる計画が本屋さんに今あって、じつは昨夜は女房のばかりでなく、私の方のその相談にも出かけたのでした。
話が二、三日前へ遡りますが、二月から三月へこの『寄席』を仕上げたあと、また中篇短篇とりまぜて一冊分仕上げ、続いて、先月からこれも書下ろしの長篇小説『圓朝』にかかって、百余枚ほど書いてきたところで、すっかり、頭をやってしまいました。たいてい月にいっぺん、書けなくなってしまう時はあるのですが、今度のはちとひどすぎて、この間の晩、高が訪ねて来てくれた時なんてとんと態はありませんでした。声をつかう商売の人たちには調子をやるといって時々パタンと声の出なくなってしまう時があるのですが、私の頭もそれらしい。で、潔く『圓朝』当分放棄することにして、枕許に堆積している原稿紙を風呂敷へ包み、戸棚へしまってしまいました。そうしてただぼんやりと、空に、
幸いに二十九日。しとしとと霧雨が煙っていましたが、橘の百圓に頼まれて、八王子へ女房と妹とが防空監視隊の慰問に踊りにゆくことになっていたので、さっそくそれにくっついて行きました。小屋は舞台開きには六代目(尾上菊五郎)がきたといわれる昔の関谷座で、今東宝劇場とかいっています。そこへ駅からまっすぐに乗り込みました。小さい狭い楽屋の窓から裏の空地の梅の木に梅の実が一つ、赤黄色く熟れているのが寂しく見られました。雪の下がいっぱい無風味なほど大きく青黒い葉を繁らせていました。昔、女房と行った鳥取のある小屋の楽屋の景色をふっと私は思い出しました。正午にからだが空きましたので、百圓のやっている撞球店へ帰って来て中食。みんなで高尾山へ出かけました。バスを棄て、ケーブルを棄てるとしきりに霧が
晦日はおかげでだいぶ、頭が治りました。ハガキを書くと少し手が
カラリと晴れたお朔日の朝は、巣鴨駅の方へ散歩に行ってはしなくも吉井先生の『相聞居随筆』を見つけました。発行所へたびたびお百度まで踏んだふた月がかりで待っていた新刊ですから、買って帰るが早いが、貪るように読みはじめました。生田葵山氏の若い時の話、永井先生の「矢筈草」の発端、フリツルンプや凡骨や都川という木下杢太郎氏の詩へ出てくる鳥屋の話など、ことに心を惹かれました。もう読んでいてもクラクラすることもなく、おかげで夕方まで退屈しないで過ごすことができました(ばかりか、たいへん愉しかった)。そうして、ひと風呂浴びて富士市の雑踏の中を、高のところへ訪ねていったという段取りになるのです。
……以上をおしまい近く書き続けていた時、文楽を味わう会の幹事さんたちが三人、お酒持参で見えました。すぐお酒がはじまって文楽君の話やその他の落語家たちの話で他愛なく半日を過ごしました。夜は夜で、大陸へ発つ松平晃君が訪ねて来てくれたりしました。どうやら私の頭もだんだん治っていきそうです。でも、このさい、わざとうんと休むことにして、せいぜい他日を期したいと思っています。いっぺん高とおあそびに。
もう私どもの町々も、新内流しやアコーディオンの流しが毎晩、めっきりと増えて来ました。これが来はじめると、ハッキリ「夏」が感じられるのです。では。
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馬楽供養
菜種河豚のころに延ばして弥太郎忌 容
薄暗い本堂の中まで、かっと明るい春の光がさしこんできていた、三月二十三日午前、下谷桜木町浄妙院。貞山・山陽・蘆洲・小さん・文楽・可楽・志ん生・圓生・圓遊・左楽といったような講談師落語家がぐるりと居流れて合掌していた。野村無名庵君、斎藤豊吉君がいた。今村信雄君夫妻がいた。うちの女房は岡本文弥、宮之助二君と並んで座っていた。私と馬楽とは施主だからとて一番まん中に座らせられた。お経のすんだあと、
いやさらに寂しかるらむ馬道の
馬楽の家の春の暮るれば
と吉井勇先生の狂馬楽の短歌を、文弥君が宮之助君の絃で朗詠しだした。短歌はみんなで五つあった。その五つの歌と歌との間へ、新内流しが、騒ぎ唄が、下座囃子が、雪の合方が、心憎いまで巧緻に採り入れられて弾かれた。吉井先生の「俳諧亭句楽」「狂芸人」以下一連の市井戯曲を読んだことのある人たちは記憶しているだろう、あの狂死せる三代目蝶花楼馬楽(本名を本間弥太郎といったので、人呼んで弥太ッ平馬楽)の二十八回忌。一月十六日の祥月命日をお彼岸の今日に延ばして、私は師、吉井勇先生の代参に今年で七年、月詣りをしているところから馬楽はその五代目の名跡を襲っているところから、ともにこの法会を営んだのだった。馬道に、また富士横町に住んでいた狂馬楽は「註文帖」や「今戸心中」時代の吉原で、寄席へゆかない日夜の大半を生活していた。「夜の雪せめて馬楽の家の春の暮るれば
明治末から大正初年の、のどかにも、ものしずかだった日の、芸人暮らし。あの日あの頃の、馬道界隈。浅草花川戸で幼時を送った私には、それらがまるで消えかけた祖父母の写真でも見るように、ボーッと瞼にちらついてきたからだった。それにはこの私自身とて、下町から山の手へ、上方へ、小田原へ、また東京へと、いかばかり幾変転の流寓の来し方ではあったことよ。初めて吉井先生の片瀬のお住居を叩いてのことにしてからが、そも幾年月になることだろう。故あって永いことおたよりもしないでいた先生からは、阪地に病みて久しい三遊亭圓馬(三代目)慰むる会を催したことをよすがに、ゆくりなくもこのほど音信に接することができた。それはつい十日と経たない前の出来事で、古川
お墓へ行った。お墓といってもほんとうのお墓は築地の門跡様の寺中にあったのだから、もう無縁で恐らく跡形もなくなっているだろう、三代目小さん・今輔・馬生・文楽・左楽・つばめ・志ん生・燕枝の柳派の人たちで建立した座像のお地蔵様ばかりがここに残っている。その建立した人たちも今ではみな死んでしまって、今日も来てくれている柳亭左楽がわずかに達者でいるばかりである。

そのあと、近くの明月園で心ばかりの午餐を食べてもらった。寄せ書きをして、吉井先生、久保田さんへ送った。
席上、貞山がこんな話をした。
年の暮れ、この頃山の宿にいた馬楽のところへ行ったら「加藤清正蔚山に籠る」と書いてくれと言う。よしよしとそう書いてやったら、その次へ「谷干城熊本城へ籠る」と書いてくれと言う。また書いてやったら、今度はそのあとへ「本間弥太郎当家の二階へ籠る」と自分で書き、堂々と玄関へ貼り出した。そうしてそれを大家に見せて談じ込み(いったいどんな談じ方をしたのだろう!)とうとう家賃を負けさせてしまった、と。いかにも「古袷秋刀魚にあわす顔もなし」と詠んだこの男らしくておもしろい。
左楽はまたこんな話をした。
初音屋と呼ばれた人情噺の柳朝(春風亭・三代目)と馬楽と自分と三人でひと晩遊びに行ったが、その頃のお歯黒溝に沿った家々にはみな
「ヘイお早ようござい、恐れ入りますが、ちょいとあの裏の跳橋を――」
といちいち下ろさせ、平気な顔をして渡って行った。馬楽はまたその帰りひとッ風呂、朝湯へ飛び込むとそこに預けてある知らない人の石鹸をまるでその人の友だちのようなことを言ってはひとつひとつクンクン嗅ぎまわり、中で一番匂いのよさそうなのを選んではヌケヌケとつかった。
「そういう私も、あの時分は日掛けの金が払えなくって家へ帰れず、本間さんの二階へ転がり込んでいたんですが、ね」
もう七十幾つになるだろう、思えば元気な左楽老人、つるつるの赤茶けた頭を撫でまわしながら、思い出深げにこう語った。
ささやかな庭先、春の日がだいぶ傾きかけていた。
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歳晩日記抄
十二月二十六日。
大寒の入りのような厳しい寒さ、風も烈しい。その中を岡本文弥君宅へ行く。先月の女房の発表会以来絶えて久しく会はなかったし、いろいろ来年度の打ち合わせあるためなり。来客中、少し耳の遠くなった宮染さんと話して待っている。お客が帰りだいたい打ち合わせを終えた時青い眼鏡をかけた玄人らしい赤ばんだ顔の中年の女の人が入って来て、心易げにそこの炬燵の中へ手をいれてきた。間もなく私の帰ろうとした時、もうその女の人は隣の部屋でしきりに宮染さんから稽古をしてもらっていた。ハッキリ聞きとれなかったが、「
ワザと省線巣鴨駅下車。沿線の細い崖っぷちから見番の横のだらだら坂の方を遠廻りして帰ってくる。何となくこの道が愉しめて好きなのなり。「陸橋や師走の山の見えにけり」の句を得た。
帰ると見馴れない男女の草履それに子供の靴、稽古場の電気蓄音器からは志ん生君の「氏子中」のレコードがせわしなく聞こえてきている。この間、馬楽君と南支へ皇軍慰問に行っていた橘の百圓君夫妻とその坊やの来訪なのだった。来年、橘家圓太郎を襲名するについて高座で吹き鳴らしたいと言っていた真鍮の
文楽君帰り、やがて百圓君たちも帰る。
早い夕食を終えて女房と、近くの大塚鈴本へ。今夜は太神楽大会。去年見損っていたものなり。入って行くとすっかり
若い海老蔵が「



十二月二十八日。
ボンヤリ日の暮れ、炬燵へ入っていた。すでに書き上げた長篇『圓朝』のテニヲハ直しが手につかず、あぐねてポカンとしていたからだった。古今亭志ん太君が入って来た。志ん生君が今夜私と忘年宴を張りたいからというその使者だった。すぐ仕度していっしょに出かけた。東宝名人会まで行って打ち合わせ、志ん太君の案内でひと足先へ新宿の廓の裏にあるささやかな料亭へ連れて行かれる。座敷に胡瓜と空豆の其角堂の夏の色紙がかかっていた。間もなく志ん生君、駆け付けて来て飲みはじめる。まず
十二月三十日。
やはり今年中もう何も手につきそうになし。うちのものたち、朝から
『横浜市史稿――風俗篇』を寝床で読みながら、うつらうつら眠ってしまう。
夕方、女房と輪飾り、門松などとげぬき地蔵の方へ買いに行く。生の鰻の頭をみつけ、買って帰る。
あら玉の 春目の前に 根笹かな
夜、緑波君の「船長さん」の放送を聴くべく、今この炬燵へ。まだだいぶ時間があるのでこの日記を書く。誂えて松と梅と万両を壺へ活けさせたのを、そこへ花屋から届けてきた。すぐラジオセットの上へ飾る。我が家にもう