東京万花鏡

正岡容




わが川柳素描


 省線浅草橋駅歩廊の外側には、このほど穴だらけの焼トタン一めんに貼りめぐらされてゐるが、その南側の方の、なるほどすぐ目の前にはハッキリと両国橋の見られさうな小さな焼穴の上へ、幼稚な白墨の字で、
「ココカラ両国見エル」
と落書してある。微笑ましいおもひで私は、ふつとその少うし隣りの穴の上を見たら、なんとそこにはまた、明らかに別人の手で、
「ココカラハ両国見エナイ」
 盲落語家小せんの「五人廻し」中には、妓楼の廻し部屋の壁へ「東京駅カラ下ノ関迄ノ急行列車ノ上リ高ヲミンナ貰ヒ度イ」と云ふ落書のあるすぐそのあとへ「僕も同感」とかいた奴がある云々のギヤグがあつたが、私はその諧謔の単なる一落語家の空想ならず、坊間、稀には実見さるるところの滑稽であることを感じると同時に険しい敗戦後の今日に於ても、未だ未だ東京市井の住民の中には八笑人和合人の精神を身に付けてゐるもののあることを思考して頗るたのもしくおもはないわけには行かなかつた。
 嘗て小石川の豊阪とて、早稲田を目白台へ上る急坂の半の石垣には、
「ペンキヤ休ム」
と先づペンキ屋商売物のペンキでかうかきのこしてあるその隣りへ今度はブリキ屋がコールタで、
「ブリキヤ休ム」
とかかれてゐたが、此又、前記の浅草橋駅や小せん落語中の落書詩人たちと殆んどその軌を一にするものと云へよう。
 斎藤緑雨が「ひかへ帳」には「唆かされしときけば、罪も浅し謙倉なる桶屋の房といへるが戸口にF・OKE」、また「日用帳」には「ここらの人の万葉仮名を得読まぬにつけ入つて、罪深き悪戯を誰が為せるものか。武州は高尾道なる或神社の奉納額に、抒自等抒自奈良努家宇良太(どぢとどぢならぬけうらだ)」も亦、同系列の微笑ましい実話たること、論を俟たない。
 さはさりながら、かかるユーモラスな郷土東京の市井風景を活写するには、其角抱一万太郎龍雨を宗とする江戸座俳諧を以てするよりも、さらにいま一歩をすすめて『柳多留』正系の川柳点こそ好適とかう考へたその日から、私は多年研鑽愛着の俳句の吟詠を全くに廃棄して、廿有余年振りで川柳の製作に精進するやうになつた。もちろん、昨春、私の江戸文学の恩師川柳久良伎翁を喪つて、直系本格川柳の廃滅を痛惜、その復興継承をおもひ立つに至つたことも亦決して原因でないとはいへまい。私の拙ない川柳詩は、到底宝暦明和の市井歓楽詩人の脚下へも及ぶまいが、近什の東京風俗詩とでも命名す可き左の拙吟を、笑覧に供して見よう。
 浅草 二句浅草 二句
天藤とかいてあん蜜売つてゐる
刺青のある復員で蟹を売り
交番のあとへ戦災一と世帯
焼出された鐘撞堂に住んでをり
 不忍池、田甫となる 二句
田植唄台湾館のあつたとこ
弁天を苗代水の手で拝み
 さらに出合茶屋の昔おもひて
不忍の昔は色気いま 喰気くいけ
敗戦のおかげ燈籠流しの灯
 盆おどり諸所にあり 二句
いくさなけりやこそ佃から盆をどり
伊勢丹へ音頭のひゞくおもしろさ
 他に、今春、偶々「これやこの天高くしてみんな瘠せ」の一句を得て、この能因法師ならぬ今秋を期して発表読者の一粲を博さんものと秘してゐたら、今年は上々と豊年であると云ふ。万民鼓腹撃攘の秋ぞ来るなら、欣んで私はこの一句位投棄しよう。

釈場


 このごろ佃島に講釈場ができ、昔をいまの畳敷に、客は寝転んで、存分に連日の続きものを愉しんでゐると聞き、私はそぞろ十年以前、屡々見学にかよひつづけてゐたころの深川の永花亭、八丁堀の聞楽、さては神田の小柳などの暗いしめやかな昼席のしじまを、おもひ浮べてなつかしかつた。この中では正徳元年創業、と自称してゐた小柳亭先づ廃業やがて近隣の立花へ昼席丈けが引移されたが、戦災まで営業をつづけてゐたものは纔に永花聞楽の二軒のみだつたといふ。聞楽の方の消息は詳にしない。永花は妻女と娘とが、昨春の兵火に空しく斃れた。小柳亭の至つて道楽者だつた亭主も、廃業後は佐柄木町へ小料理見世をだし、私は某々君と共に我々の名を染めだした暖簾を寄進したりしたものだつたが、事変後の酒不足に先立つて貸倒れ多くして閉店、軍需工場へかよつたりしてゐて、つい近頃歿したと聞いた。
 私が此らの釈場へかよひつづけて見聞感動した今昔講談師が至芸のかずかずについては近著『随筆寄席回顧』の中の「講談集記」へ殆んど書きつくしてしまつてゐるから茲では云はない。むしろ私は当時微笑失笑をさそはれた講談師諸君の失敗談その他を紹介して愉しくおもしろく当時を偲ばう。
 さらぬだに寄席大不況なりしそのころの、とりわけ講釈場は寥々の客足で、真夏の夕まぐれの小柳など、うつかり美しい木戸前の打水に惹かれて飛込まうものなら、なんと聴客は私ひとり、ために故人となつた松林円盛、俗に煙ヂウと呼ばれる老前座が空板を叩いてゐるのとてれ臭くも差向ひで一席聴かされたことも一再ならずだつた。煙ヂウは「清水定吉」や「神風連」など、明治物をよく読んだ。「一席、事実無根の講談を申上げます」と一日、大真面目で冒頭して、定連を一驚せしめたのも、この煙ヂウの円盛である。
 伯鶴は「仁礼半九郎」に於て、じつに屡々「殷々たる砲声」と云ふ可きところをダン/\たると云つた。私は「殷」と「段」との読みちがへであらうと察知してゐたら、このほど久保田万太郎氏から、ダンダンは伯鶴一見識あつての読み方なので、先年彼は一新聞記者からも注意されたところ、言下に傲然としてかう云ひ放つた。曰く、だつてオイ大砲の音はダンダンと云ふぢやねえか――この久保田氏のお話には一席おもはず笑ひ崩れた。音から割出しての砲声ダンダンなどは、いかにも伯鶴の全面目躍如としてゐて余りにも愉快だつたからだつた。
 松鯉は深夜、巡廻の邏卒の光景をガチヤリポカリと先づ形容し、そのあと自ら註して曰く、このガチヤリといふのは靴の音、ポカリといふのは剣の音でと全く反対のことをすまして云つた。貞吉はまた源三位頼政の鵺退治で空に一と声、子規(ほととぎす)がホーホケキヨーと堂々云つた。いづれも本人が全く無意識で、或はすまして、或は堂々と云つてしまつたもので、客はただただ大人しく聴入つてゐて誰一人この大誤謬には気が付かなかつた。
 反対に満場大爆笑の渦を捲起したのは、只今の芦洲が「長門鍔」の切り場に於て「そなたは相手の……」と云ひさして、その相手の名をば忽ちに失念、絶句立往生して了つたところ、忽ち高座下に陣取つてゐた一聴客が連日かよひつづけてゐる定連と見えて、早速に「そいつア進藤甲吾てんだよ」と教へてやり、芦洲また素直に「ヘイあの方の仰せのとほりでございます」頭掻きつつ下りていつたあの一瞬時だつた。大笑また大笑、暫しは鳴りも止まなかつた。大看板の伯鶴と繊細の端物読なりし伯治万年前座の円盛は死んだが他の諸君はいよいよ健在、のこれる老芸人たちの芸福を祈らう。

荻窪・高円寺その他


 私は江戸伝統市井の情調、または徳川末年の行楽の地たりし由緒ののこつてゐない土地に対しては卜居の欣びを有し得ない性癖であることを、改めてこのほど発見した。従つて江戸時代の演劇文学音楽舞踊演芸と関りのある滝野川、巣鴨、葛飾の生活はそれぞれ私にとつてなかなかに好もしかつたのに引代へて、高円寺、荻窪、三軒茶屋辺りでの生活の印象を回想すると、そもそもあの町々の文化といふものが、大武蔵野から「現代」へ直結してしまつた感じなので、いかんとも親しみにくかつたと云ふのが実感だらう。浜町や代地、駒形河岸の生活なども私のことにしたら生涯に一ぺんはぜひぜひ試み度いとおもつてゐるうち、それらの町々は灰燼に帰し、私自身も亦南北や春水の文学をおもはせる下総市川の里へ永住の居を建造してしまつたので先づ先づそれらの野望は最早一生遂げられまいし、また今日ではもはや格別に遂げ度くもない。
 でも私のやうな作風の作家にさうした江戸伝統の地がふさはしいやうに、反対に近代文化一点張りの新市内に居住してゐないと居心地のよくないと云ふ作家諸君も少くなからう。否、否、当然この方がもつともつと無数にあることだらう。さしあたり親近の例で云ふなら、わが徳川夢声君なども正しくそのひとり、茲に於てか私は夢声君と私とは廿年来莫逆の友でありながら、余りにもその趣味性の相反してゐると云ふことを、今更につくづくと考へて見ないわけには行かない。
 嘗て赤坂の一角に政治家の息として生育した徳川君は山の手生活新市内生活が一ばんピッタリと身に付いてゐると同時に、長火鉢、黒襟、絆纏、御神燈、さうした好んで私の愛用するところのものがみな嫌ひである。また、彼は枯淡の仏像を愛し、私は絢爛の浮世絵を好む、彼は淡彩の鮮菜を好んで喫し、私は豪華なる肉食を専らとする。その他このやうな南北両極端の趣味性の差違は殆んど枚挙に暇ない。
 しかも一方、双方のその性癖に於ては弱気極まりて却つて強気になるところ、好んで酒をよく喚ぶところ、旅行嫌ひのところ、宿酔幻聴に悩むところ、さては滑稽瓢逸を熱愛するところ、みなことごとく両者はおもしろいほど類似してゐる。此に加ふるに私が世に所謂封建骨董の江戸渇仰の徒でなく、一面、ロテイ・レニエ・ドオデエが抒情、ポー・ホフマンが幻妖の文学を並々ならず溺愛してゐる文学書生であると云ふことも亦、この二分子の交遊を年と共にいよいよ深からしめてゐるものかもしれない。従つて夢声君と私との間に於てかの落語「祇園会」に於ける江戸つ子と上方者の闘はしたる東西文化優劣論のごとき争論の記憶は幸ひにして未だ嘗て一回もない。両者は常に争論を交へずして、両者それぞれの異れる在り方を、夙に諒解し合つてはゐるからである。
 ところでその私が、生れて始めて二旬以前、徳川夢声と、酒間、空前の大喧嘩をした。席上、強かに酔の廻つたころ、徳川君は、
「いまのその君の言辞は僕に対して無礼である」
と突如云ひだした、暗がりならぬ酒間廿年ヤイ正岡、ヤイ夢声と酔余しばしば呼び合つてゐたことも珍しからぬ彼が、はて時ならぬ言葉咎めにいぶかしくもおもつたものの、何しろ相手は一応年長の老友、それはそれはまことに失礼と如才なく謝罪しておいたものの献酬また献酬、またしてもまた、夢声は最前の非礼のほどを詰問して来る。たうとう了ひに我慢し兼ねたる私は、ヤイ夢声ヤイ夢声、管も大ていまあいいかげんにしろ、誰がこんなとこにいつまでもと席を蹴つてそのまま立去つて来たものの、もうそのときはこちらもいいかげん大酔の、瓢踉々とやつとのことに自宅まで立戻つて来て後日、当日の次第を詳しく問ひ質してやつたところ、折返し飛来した彼、夢声の一文がまたいい。頗るいい。曰く、
「過日は失礼、あれは両虎相忘却でした、両方で「君は酒癖が悪い」とたしなめ合つてゐたさうです」云々。

吉原の話


 去歳五月、未だ外崎恵美子君が新宿の赤風車座(ムーランルージュ)に出勤してゐたころ、私は已に巣鴨花街の僑居を焼かれ、偶々外崎君の代々木の家のすぐちかくの伊藤嘉奈子刀自のところへ避難してゐたので、ある朝訪れると、彼女は何かの話の末に偶々この春の戦火に壊滅した吉原の復興一部いまや成れりと前置して、
「いえ、じつはムーランのわかい道具方が、この間、さも嬉しさうな顔をして、私をつかまへて、外崎さん外崎さんやつと吉原が始まりましたよ、とかういふんですよ」
といふ、この話はそのときの外崎君の話法もじつに大道具青年の嬉々たる口吻をよくつたへてゐて巧緻だつたが、何より戦時下、惨めにも痛め付け、虐め付けられ過ぎて来てゐた当時の芝居者の若人の、如何に一と月一回か二回の吉原遊行を、唯一の魂の安息所にしてあはれ楽しみにしてゐたかが分つて、妙に私はいぢらしく忘れられないのである。
 でも、この話を聞いてかへつたその晩、外崎君の家は焼け、私の避難先たりし伊藤嘉奈子刀自の家も亦焼かれた。ムーランで吉原がよひを楽しんでゐたそのわかものも、恐らくや界隈の山の手暮らしだつたらうから、同じ晩の爆火に焼かれてしまつたことだらう。それにしても終戦後の吉原は、登楼費そも何ほど位のものなのだらう。嘗ての吉原、もちろん小見世だらう、Kと云ふ奇人を以而鳴る落語家は、一円半の遊興費もて登楼、直ちに花魁の肩を揉み、戸棚の揮発油探しいだして同じくその敵娼の長襦袢の襟を拭ひ勤労是れ務めた揚句が、花魁すまないがそれをお呉れと所持の紙数帖を貰ひ、さらに五十銭の小づかひまで貰つて、
「又来るよ花魁」
とかへりしなに云つたら、
「もういいよお前さんは来ないでも」
と言下に花魁から断られた由、成程このやうな客に二ど三どとやつて来られたら、高尾が薄雲ならぬその花魁の、忽ちにして所持金、烏有になつてしまふだらうから「もういいよお前さんは来ないでも」もまことにまことに尤である。
 さてその夜、私と共に罹災された嘉奈子刀自は、青春を明治三十年代の吉原に起臥された、一中節の名手で、ために近時、静岡の疎開先から寄せられた往時追憶の一文には、

「中引けの金棒が揚屋町の角にチヤリン/\と聞えてくる時分になると大門迄お客を送つた妓たちが、仲の町のお茶屋の縁に二人三人と集つてくる。おもひおもひの明石のうす物のえり元もしどけなく、博多や白の翁格子の帯もしなやか(中略)今夜は月がさえて居るので青柳と書いた表の掛行燈も少しねむさう――」

 一読、宛然、月美しき明治吉原の夏の夜が描きだされてゐて、「ゆめ」ではないか。
 私は、それより尚廿有余年を経た大正震災前の吉原の朝暮纔に大学校の月謝などを未納にしては耽溺してゐた一個、年少早熟の偽悪家に過ぎなかつたのであるが、ある夏の未明金中米と云ふ中見世の三階から、薄霧晴れやらぬ廓内を、紅白青紫、目の醒めるやうな鉢植の花並べた朝顔売りの姿瞰下ろして柳浪が「今戸心中」の昔の名残りのいまもどこやらにのこれる風情をいとど感嘆してゐる時しもあれや、
「さあ殺せ、殺して呉れ」
 いきなり、けたたましくかう筋向うの三階から湧上がつて来た男の怒声。とたんに割床の屏風倒れて、キヤッと逃出す男女の仇姿。さては次郎左衛門籠釣瓶の祟りもかくやと、近所合壁の三階惣出目を皿にして眺めてゐるとき、報せに忽ちサーベルの音厳しく乗込んで来た査公の前、倶利伽羅紋々見るからに江戸前のその五十男は己が暴行の理由を率直に述べ立てて曰く、
「ヘイ余り隣りの友達が持てやがるんでそれでつい私ア肚ア立ちやして――」何もたつたそれ丈けのことで、さあ殺せ、殺して呉れもないものだらうと許り、俄に三階惣出はドツと大笑ひ、さるにても落語「五人廻し」中の芋書生、妓の冷遇を激怒して、当家へダイナマイトを云々の実地を、そのとき宛らに私は見た――。





底本:「東京恋慕帖」ちくま学芸文庫、筑摩書房
   2004(平成16)年10月10日第1刷発行
底本の親本:「東京恋慕帖」好江書房
   1948(昭和23)年12月20日
入力:門田裕志
校正:酒井和郎
2015年12月13日作成
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